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テレビドラマ「大奥 ~誕生~ 有功・家光篇」 第1話感想

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2012年10月12日より始まった、TBS系列の金曜ドラマ「大奥 ~誕生~ 有功・家光篇」。
今回よりテレビドラマ版の終了まで、その流れと原作からの改変要素について追っていきたいと思います。
今回は10月12日放映分の記念すべき第1話の感想です。
なお、当ブログでは前作映画および原作版の「大奥」についても色々と書いております↓

前作映画「大奥」について
映画「大奥」感想&疑問
実写映画版とコミック版1巻の「大奥」比較検証&感想

原作版「大奥」の問題点
コミック版「大奥」検証考察1 【史実に反する「赤面疱瘡」の人口激減】
コミック版「大奥」検証考察2 【徳川分家の存在を黙殺する春日局の専横】
コミック版「大奥」検証考察3 【国内情報が流出する「鎖国」体制の大穴】
コミック版「大奥」検証考察4 【支離滅裂な慣習が満載の男性版「大奥」】
コミック版「大奥」検証考察5 【歴史考証すら蹂躙する一夫多妻制否定論】
コミック版「大奥」検証考察6 【「生類憐みの令」をも凌駕する綱吉の暴政】
コミック版「大奥」検証考察7 【不当に抑圧されている男性の社会的地位】
コミック版「大奥」検証考察8 【国家的な破滅をもたらす婚姻制度の崩壊】
コミック版「大奥」検証考察9 【大奥システム的にありえない江島生島事件】

第1話のストーリーは、コミック版「大奥」2巻の最初からP107までの話をなぞったものとなっています。
後に「お万の方」となる有功が、本物の家光の代わりとして擁立された女版家光と出会うまでの物語です。
最初は前作映画「大奥」の続きで、徳川8代将軍吉宗が没日録を読み始めるところから始まるのではないかと予想していたのですが、それはなかったですね。
前作映画では「暴れん坊将軍」的な演出もあったわけですし、吉宗にも友情出演程度くらいの出番はあるかと考えていたのですが(^_^;;)。
内容を見る限りでは、これでもかと言わんばかりに原作のストーリーどころか描写までも忠実に再現している感がありましたね。
コミックを片手に作中の描写を比較してみても、登場人物がしゃべっているセリフも、その場その場におけるシーンでの姿勢などもほぼ同じでしたし。
原作と違うシーンと言えば、江戸城の屋敷に閉じ込められた有功と玉栄と明慧の3人が屋敷から一時的に脱走したことと、原作にはあったレイプやセックスの描写が軒並み省略されていたことくらいでしょうか。
まあ後者については、PG-12やR-15指定も可能な映画と異なり、テレビドラマではその手の描写を描きたくても描けない状態にあるのですから、当然と言えば当然の措置ではあるのでしょうけど。

配役を見てみると、個人的には春日局が原作よりも若く、かつ何か違う印象を受けましたね。
原作の春日局は髪が白髪なのですが、テレビドラマ版の春日局は黒髪で、それだけでかなり若いイメージが付きまといましたし。
一応春日局は、史実でも寛永20年9月14日(1643年10月26日)に死去しており、第1話終了時点(寛永17年(1640年)夏)で既に老齢かつ余命3年程度しかないのですから、ここは白髪でも良かったのではないかと思えてならなかったのですが。
登場人物の姿形はもちろんのこと、明慧が澤村伝右衛門に斬られる描写までそっくりそのまま再現しているほどだったのに、春日局だけ何故黒髪に変えてしまったのか、少々疑問なところではありますね。
ひょっとすると、後の話で白髪にして「老い」を表現するという演出でもするのかもしれませんが、それにしても「3年程度でそこまで変わるのか?」という違和感が伴わざるを得ないでしょうし。

ところで春日局と言えば、ラスト付近で原作には全くなかった面白い設定をのたまっていましたね。
曰く「御三家に男子がいない」と。
こんなことは原作の春日局は全く述べてなどいませんでしたし、テレビドラマ版同様に春日局に相談を持ちかけられた松平伊豆守信綱も、これまた春日局の「徳川の血を絶やさぬために……」云々のスローガンに対して「春日局が残したいのは徳川家の血というより、彼女が溺愛した家光公の血筋なのではないか?」という疑問を抱いています。
松平伊豆守信綱がこんな疑問を抱くのも、家光の血筋以外に徳川御三家やその他の傍流の「徳川家の血を引く存在」がいるからに他ならないからでしょう。
だからこそ私も、コミック版「大奥」検証考察2【徳川分家の存在を黙殺する春日局の専横】で、件の春日局の対応の問題点を指摘していたわけですし。
では今回、改めて追加された「徳川御三家に男子はいない」は果たして正しいのか?
徳川御三家というのは、江戸幕府の開祖たる徳川家康の9男・10男・11男を始祖とする徳川分家のことを指します。
その始祖の生没年を調べるだけで、この春日局の発言が全くの大嘘であることがすぐに分かってしまうのです。
徳川御三家の始祖の生没年は以下の通り↓

尾張藩の尾張徳川家 始祖・徳川義直
 生誕 慶長5年11月28日(1601年1月2日)
 死没 慶安3年5月7日(1650年6月5日)
紀州藩の紀州徳川家 始祖・徳川頼宣
 生誕 慶長7年3月7日(1602年4月28日)
 死没 寛文11年1月10日(1671年2月19日)
水戸藩の水戸徳川家 始祖・徳川頼房
 生誕 慶長8年8月10日(1603年9月15日)
 死没 寛文元年7月29日(1661年8月23日)

1634年に家光が赤面疱瘡で死んだ時点では当然3者全てが生存しており、かつ彼らは全員家光よりも年上なので、彼らが赤面疱瘡を患う可能性は家光のそれよりもさらに低いと言わざるをえないでしょう。
特に水戸徳川家に至っては、その成立自体が1636年なので、それ以前の時点で始祖たる徳川頼房が死んでしまうと、下手すれば家の存在自体が歴史から消滅してしまうことにもなりかねません。
そして、徳川御三家が創設されたそもそもの目的が「宗家存続」にある以上、将軍位に何かがあった場合は自家の存続や相続よりもそちらが何よりも優先されなければならないのも自明の理というものです。
徳川御三家の始祖が生存している以上、最悪の場合は彼らの中の誰かが徳川将軍になりさえすれば良く、「徳川御三家に男子はいない」云々の発言は何ら成立することがないのです。
何故春日局は、こんなすぐに誰にでも分かるウソなんてついてしまったのですかねぇ。
徳川御三家のお家事情なんて、江戸城に参内する武士であれば誰でもすぐに分かる程度の情報でしかないでしょうに。
この辺りの設定、後日のエピソードでフォローされることがあったりするのでしょうかねぇ。
コミック版「大奥」でさえ、徳川御三家は家光の時代には全く言及すらされていないというのに。

設定面では1話目の段階で早くもミソがついてしまった感がありますが、「原作の忠実度」という点ではなかなかのものがあるのではないかと。
次回予告では有功が素振りをやっているシーン・白猫の若紫、それに玉栄が大奥の男衆に対して「殺してやる」と呟くシーンが出てきますが、ストーリー自体はどこまで進むことになるのやら。

コミック版「大奥」検証考察9 【大奥システム的にありえない江島生島事件】

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コミック版「大奥」検証考察の9回目。
前回の検証考察から既に1年以上も経過してしまいましたが、「大奥」のコミック版も7巻と8巻が刊行され、さらにはテレビドラマ版も放映され続編映画も公開されるとのことで、この度久々に再開の運びとなりました。
なお当ブログでは、2012年10月12日から始まるテレビドラマ版「大奥 有功・家光篇」、および2012年末公開の映画版「大奥 右衛門佐・綱吉篇」も追跡していく予定です。
今回のテーマは【大奥システム的にありえない江島生島事件】
過去の「大奥」に関する記事はこちらとなります↓

映画「大奥」感想&疑問
実写映画版とコミック版1巻の「大奥」比較検証&感想
コミック版「大奥」検証考察1 【史実に反する「赤面疱瘡」の人口激減】
コミック版「大奥」検証考察2 【徳川分家の存在を黙殺する春日局の専横】
コミック版「大奥」検証考察3 【国内情報が流出する「鎖国」体制の大穴】
コミック版「大奥」検証考察4 【支離滅裂な慣習が満載の男性版「大奥」】
コミック版「大奥」検証考察5 【歴史考証すら蹂躙する一夫多妻制否定論】
コミック版「大奥」検証考察6 【「生類憐みの令」をも凌駕する綱吉の暴政】
コミック版「大奥」検証考察7 【不当に抑圧されている男性の社会的地位】
コミック版「大奥」検証考察8 【国家的な破滅をもたらす婚姻制度の崩壊】

病弱のために極めて短期間の治世で終わった徳川7代将軍家継の時代、江戸城の大奥を舞台に「江島生島事件」というスキャンダルが発生しています。
この事件は、家継の「生母」である月光院に仕え、地位的にも御年寄という高い身分にあった江島が、主君の名代として前将軍家宣の墓参りをした帰途に、芝居小屋・山村座の芝居を観覧し、その宴会に夢中になるあまりに大奥の門限に遅れてしまい、江戸城の城門で押し問答になってしまったことに端を発したものです。
事件の背景には、純粋に大奥の規律の緩みの他、江戸城内における将軍世継ぎを巡る後継者問題や権力闘争なども絡んでいたとの説がありますが、この事件を通じて当の江島は流罪、および密通を疑われた山村座の生島が遠島処分となった他、山村座や大奥の関係者50名近くが罰せられることになりました。
またこの事件の影響で、家継の「生母」として権勢を誇っていた月光院の勢力が弱まり、前将軍家宣の正室・天英院の勢力が力を盛り返して、その後の次代将軍選定にも少なからぬ影響を与えることとなります。

コミック版「大奥」の世界でも、まるで当然の流れであるかのごとく江島生島事件が発生しており、かつ多少の脚色はあれど史実と同様の結末に至っています。
しかし、史実はまだしも、男女逆転した「大奥」世界においては、実のところ江島生島事件の発生する余地自体が全くないに等しいんですよね。
史実の江島生島事件で問題になったのは、大奥を管理する立場にあるものが密会した、とすくなくともそう解釈される事態になったことにあります。
ところが「大奥」世界においては、そもそも婚姻制度が崩壊してしまっているため、「不倫」「姦通」「重婚」「寝取り」その他ありとあらゆる不道徳な行為が大手を振ってまかり通っているのです。
カネで男を買って種付けセックスをすることが普通に認められている世界で、現代的な価値観に基づいた男女の倫理観が常識となっていることの方が、そもそもおかしなことなのではないのでしょうか?

「大奥」のシステム的な面から見てさえも、江島生島事件が成立しなければならない理由などどこにもありはしません。
そもそも、史実における「大奥」というシステムが成立しえた最大の理由は、将軍の子供を孕める女性を大量に提供することで、世継ぎを可能な限り確保しえることにあります。
そして、「大奥」における規則の大部分は、機械的な言い方をすれば、将軍以外の他の男性の精子が「大奥」の構成員たる女性の卵子に入ってくる問題を事前に防止・抑止することに、その最大の存在意義が認められるわけです。
しかし、男女が逆転した「大奥」世界においては、将軍自身が世継ぎを生むという構造上、いくら「大奥」の男性が不義を働こうが、将軍家の血筋以外の者が生まれてくる余地など最初からどこにもないのですから、男性が品行方正に振る舞わなければならない理由自体がありません。
むしろ、作中でも「金喰い虫」扱いされている大奥は、男達自ら外に出て女性相手に「性の奉仕」でもしてカネを稼いでもらった方が経済的にも恩恵がある上、日本の人口増加の一助にもなって一石二鳥というものでしょう。
しかも過去の「大奥」世界では、実際にそのような政策を行った前例も既に存在しています。
コミック版「大奥」4巻、時の徳川3代将軍家光(女版)の時代に、大奥の男性を解雇させた上で吉原へと送り込み、貧しい女性達を相手に安価で「性の奉仕」をさせた事例があるのです。
この制度がその後どうなったのかについてはコミック版「大奥」にも全く記述がありませんが、吉原への大奥男性の供給が滞ると、その瞬間から女版家光が懸念する「売春費用」が高騰する危険性がある上、そもそも赤面疱瘡が無くならない限りは男性不足の問題が解消することもないわけですから、この制度は後年も存続し続けている可能性が濃厚です。
将軍、ひいては江戸の中央行政自らがこういった政策を積極的に推進している前例が既に存在する以上、江戸時代に跳梁跋扈していた祖法至上主義的な前例踏襲の観点から言ってさえも、大奥の男性が外に出て自らの「性」を売り、カネを稼ぐことを推奨してはならない理由など、世界の果てまで探しても存在しえないのです。
「大奥」世界における大奥は、女版家光の個人的な癇癪と逆恨みの類から生まれた以外の何物でもない「ご内証の方は死ななければならない」などという愚劣な決まり事すらバカ正直に継承してきたくらいに、硬直しきった官僚機構的組織でしかないのですよ?
同じ女版家光が「大奥を活用した男性売春業」を推進している作中事実があるのに、「大奥の男性は清廉潔白でなければならない」などという「祖法を変革する」法体系を、女版家光以外の一体誰が決めたというのでしょうか?
せめて、江戸城の門限破りがメインテーマで、融通が利かないコチコチの法体系で江島達が裁かれるというのであれば、まだ「江島生島事件」が発生しえる理由としては成立しなくもなかったのですが、作中では門限破り自体が単なる難癖の類で「密会」の方こそがメインとして扱われている始末ですからねぇ。
婚姻制度が崩壊した「大奥」世界では悪行ですらない「密会」程度のことで、何故あそこまで大がかりなスキャンダルにならなければならないのか、全くもって理解に苦しむ珍現象と言わざるをえません。

それでもあえて無理にでも「江島生島事件」が発生しえる理由を「大奥」世界に求めるとすれば、それは現代におけるかつての野党時代の民主党にヒントが求められるのではないでしょうか?
野党時代の民主党は、とにかく自民党政権のアラとなれば何でも探しまくり、どんな細かいこと・どうでも良いことであっても声高に非難の声を上げ、大臣の辞任を要求し、それを受け入れなければ審議拒否、受け入れればやはり新たな難癖をつけてやはり審議拒否といった行為を繰り返してきました。
極めつけは、「カップラーメンの値段を間違えた」だの「漢字の読みを間違えた」だの「ボールペンのキャップを口にくわえた」だのといった類の、通常ならばゴシップ記事にもならなさそうな出来事に至るまで、非難の口実として自民党政権を罵り倒し続けました。
そして、そうした難癖の数々を、マスコミの偏向報道によって国民も熱狂的に支持した挙句、ついに2009年の政権交代にまで至ったわけです。
これと全く同じ構図が、「大奥」世界における江島生島事件にも当てはまるのではないでしょうか?
すなわち、誰もがそれは常識の類であると分かってはいるものの、非難の大合唱とそれに伴って発生した「空気」によって、誰も異論が差し挟めない状態となってしまい、それどころか「空気に乗り遅れまい」とむしろ熱狂的なまでに江島生島事件を大事化させていった、というわけです。
もちろん、民主党絡みの騒動自体もそうであるように、天英院や加納久通などといった事件の黒幕達は、全てを承知の上での確信犯でことを進めていったのでしょうけど。
そう考えると、あの事件で右往左往している「大奥」の登場人物達は、実に滑稽かつ哀れな様相を呈しているとしか言いようがないでしょうね。
誰もがごく普通にやっていることについて声高に非難の雄叫びを上げ、常に自分に跳ね返ってくるブーメランを投げまくっていることになるのですから(苦笑)。
まあ、「大奥」世界における日本人達の全般的な思考水準がこの程度でしかないというのであれば、あんなありえない男女逆転な「大奥」世界が生まれるのもある意味納得せざるをえないのですが(爆)。
かくのごとく、婚姻制度が崩壊している「大奥」世界においては、江島生島事件など民主党の「カップラーメン値段当てクイズ」と同レベル以下のシロモノでしかありえないわけですよ。
いくら権力闘争の一環とはいえ、よくもまあこんな事件を引き起こして政敵を蹴落とそうと、天英院や加納久通らは考えられたものですね。
あまりにもバカらしいから逆に成功する可能性が高い、という勝算でも立てていたのかもしれませんが、本当に成功してしまって彼らもさぞかしバカ笑いが止まらなかったことでしょうね。
ひょっとすると、「こんな頭の悪いバカな事件で盛大に右往左往する日本の将来は本当に大丈夫なのだろうか?」と逆に危機感を抱いたかもしれませんが(爆)。

史実における江島生島事件は、現代に比べれば緩い性規範が支配的だったであろう江戸時代とはいえ、それでもまだ「不義密通は悪いこと」という常識や倫理観があったことは確実ですから、ましてや舞台が江戸城大奥ともなれば一大スキャンダルとして成立するのも当然のことでしょう。
しかし、婚姻制度が崩壊し、不義密通が当たり前になってしまっている「大奥」世界においては、江島生島事件における不義密通の疑惑など「日常生活の一部」を構成するごく普通の出来事でしかありえません。
「大奥」世界における社会的文化から考えても、江戸城大奥のシステム的な観点から見ても、江島生島事件は「事件として成立する方が奇妙奇天烈な事案」でしかないのです。
作品的には、男女逆転した大奥を描きつつ史実の江戸時代の歴史をそのままなぞるというコンセプト上、江島生島事件を避けて通ることはできなかったのでしょうが、自分の作り出した世界と江島生島事件が完全に相反するものになってしまっているという事実を、作者氏は気づくことができなかったのでしょうかねぇ。

いよいよ10回目となる次回は、コミック1巻で没日録を読み始めてからようやく現実に戻ってきた、徳川8代将軍吉宗の問題について取り上げていきたいと思います。

映画「ロラックスおじさんの秘密の種」感想

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映画「ロラックスおじさんの秘密の種」観に行ってきました。
児童文学作家ドクター・スースが著した1971年の児童書「The Lorax」を原作とする、イルミネーション・エンターテイメント社制作の3DCGアニメ作品。
今作は3D版も同時上映されていますが、私が観賞したのは2Dの日本語吹替版になります。
今作の日本語吹替版は、ロラックスおじさんを「あの」志村けんが演じているということで話題になっていたりします。
というより、今作最大の売りは、この「志村けんが声優をやっている」という一事に尽きるのではないのかと(苦笑)。

物語の舞台は、全ての建造物はもちろんのこと、元来は自然のものであるはずの植物に至るまで全てが人工物でできている街。
その街は、オヘアという名の資産家が営む同名の大企業によって整備され、空気もきれいで環境も清潔に保たれていたものの、一歩街の外に出れば、よどんだ空気に不毛な大地がひたすら世界が広がっています。
オヘアは街を取り囲む巨大な外壁を作り、街の外に人が出ていくことのないよう、常に監視の目を光らせていました。
その街に住む今作の主人公である少年テッドは、オードリーというやや年上?の女の子が好きで、彼女の家に足しげく通う日々を送っていました。
ある日、ラジコン飛行機が家の中に落ちたという口実でオードリーの家を訪ねたテッドは、オードリーに自然の木が林立している絵を見せられます。
そしてオードリーは、「本物の木が見たい、それを見せてくれたらキスしてあげる」とまで言い切るのでした。
このオードリーの言葉に心を動かされたテッドは、テッド以上に変わり者の家族に本物の木のことについて尋ねます。
すると、テッドのおばあちゃんがそれに応え、街の外に住んでいるワンスラーという名の人物が本物の木のことについて知っていると教えてくれます。
翌日、テッドは街の外壁を越え、不毛の荒野と化している外の世界へバイク?を飛ばし、ワンスラーの元へと向かうのでした。
ワンスラーは前衛芸術のごとき建物に住んでいて、最初はテッドのことを邪険に追い払おうとします。
しかし、テッドの熱意に半ば負ける形で、やがて彼はかつて緑豊かだった昔の話を始めるのでした……。

映画「ロラックスおじさんの秘密の種」は、上映時間が86分と短い上、主人公のテッドがほとんど関わることのない、ワンスラーの昔話のエピソードが前半から中盤頃までのストーリーのほとんどを占めています。
ワンスラーの昔話から、何故今の完全人工物な街が出来上がったのかが分かるようになっているわけです。
しかしその代償は決して小さなものではなく、肝心のテッドが作中で活躍するのが物語も後半に入ってからのことになってしまっており、普通の映画と比較してもかなり薄味なストーリー感が否めないところなんですよね。
実質的なプロローグ部分が映画全体の半分近くも占めている、というのは正直どうなのかと。
また、今作のタイトルにもなっているロラックスおじさんは、ラストでワンスラーの元でちょっとだけ登場した以外は、全てワンスラーの昔話の中にしか存在しておらず、今作の主人公であるはずのテッドとは何の接触も関わりもなかったりします。
登場頻度もテッドが表に出てくるようになってからはラスト以外出番なしでしたし、もう少し主役級の活躍をするとばかり思っていたのですけどねぇ、ロラックスおじさんは。

ところで作中の物語は、街を牛耳る大企業のボスであるオヘアを諸悪の根源のごとく見立てて、それを打倒するという単純明快な勧善懲悪の形を取ってストーリーを進行させているのですが、ワンスラーの昔話を見る限り、そもそもこの構成自体に疑問を抱かざるをえないところですね。
そもそも、例の完全人工物の街ができ、かつその外の世界が不毛の大地と化してしまった最大の原因は、スニードという商品を売るために見境なく木を切り倒させまくったワンスラー自身が全ての元凶です。
彼はロラックスおじさんの警告を無視してまで森林伐採を続けていたのですし。
しかも、スニードの原料となる木が根こそぎなくなってしまったらスニードが製造できなくなってしまうことくらい、木を伐りつくす前に簡単に予測できそうなものなのですが。
ワンスラーは目先の利益にこだわるあまり、継続的に利益を上げ続けるという企業経営者としての視点が皆無と言って良く、その点では無能のそしりを免れないでしょう。
むしろ、森林が復活したら自社の空気販売ビジネスが成り立たなくなってしまうという危機感を抱いていたオヘアの方が、企業経営者としてははるかにマトモです。
せめて、スニード製造用の木がなくなる前に植林をするとか、木を切り倒さずにスニードの原料を効率良く集められる技術を開発するとか、そういったことを考えることすらできなかったのですかね、ワンスラーは。
そうすれば、ロラックスおじさんの要求とスニードの製造の双方を満たすことも可能だったというのに。
ラストのワンスラーとロラックスおじさんとの再度の(作品的には)感動的に描いているはずの邂逅も、不毛の大地を生み出し自然の動植物に多大なダメージを与えたワンスラーの責任を不問にしていますし、到底納得のいくものではなかったですね。
ロラックスおじさんはワンスラーに対して「よくやった」などと声をかけていますが、当のワンスラーはテッドに種をやっただけであり、街の真ん中に種を植えるという偉業を成し遂げたのはテッドではありませんか。
「ロラックスおじさんの秘密の種」はあくまでもテッドが主人公かつ彼の物語なのであり、間違ってもワンスラーの物語などではありえないのですが。
物語構成における主人公の配分を間違っているのではないかとすら、考えずにはいられなかったですね。

あと、ワンスラーの昔話に登場していたワンスラーの家族、特に母親はワンスラーのことをひたすらバカにしていたのですが、ワンスラーはその家族に対して終始全く頭が上がらない態度を取っているんですよね。
あの家族はワンスラーのことを寸毫たりとも愛してなどおらず、のみならずワンスラーのことを利用するだけ利用して最後は投げ捨てるかのごとく夜逃げをしていったのですが、ワンスラーもこんな家族のことなんて気にかけなければ良かったのに、とはついつい考えずにいられなかったですね。
むしろ、ある程度財を築いた時点で、財力に物を言わせて追い詰めるなり、暗殺者を雇うなりして、あの家族をこの世から社会的・物理的に抹殺すらしても良かったくらいだったのではないのかと。
人手不足だからって別に家族など呼ばなくても、スニード製造がカネになることは最初から分かり切っているのですから、現地住民をカネで雇うなり、あるいは最初はロラックスおじさんと森の動物達に手伝ってもらうところから始めるなりした方が、却って森林を保全したまま事業を拡大するというやり方も可能だったのではないのかと。
視野が狭く自分のことしか考えない利己主義な家族を切り捨てることができなかったことも、ワンスラーの致命的な誤りのひとつだったと断定しえるでしょう。

映画「ロラックスおじさんの秘密の種」は、上映時間が短いこと、特に後半の展開が単純明快な図式であることから、完全に低年齢層を対象とした映画ですね。
子供だけで行くか、あるいは親子連れで楽しむための作品と言えそうです。

映画「ツナグ」感想

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映画「ツナグ」観に行ってきました。
辻村深月の同名小説を原作とする、人の死と死後の再会をテーマとするファンタジー要素を含有した人間ドラマ作品。

その街には、ひとつの都市伝説が存在しました。
生涯でたった一度かつひとりだけ、死んだ人と再会させてくれる仲介人「ツナグ」という名の存在。
多くの人が一種のヨタ話として信じない中で、「ツナグ」は実在し仲介活動を行い続けていました。
その噂話や存在の話を知る人が、その存在を信じ、さらに「ツナグ」と何らかの形で連絡が取ることができ、そして何よりも「死者が生者と会うことを承諾する」ことによって初めて実現する、ツナグを介した死者と生者との邂逅。
そこには、死者と生者、そして「ツナグ」の3者を取り巻く複数のルールが存在します。

1.死者が「生者に会いたい」と「ツナグ」に依頼をすることはできない。
2.死者・生者共に「死」の壁を越えて会えるのはひとり1回だけ(ひとりの生者が「ツナグ」に複数回依頼することができないのはもちろんのこと、複数の生者がひとりの死者相手にそれぞれ1回ずつ会うこともできない)。
3.死者と生者が会えるのは月が出る夜、日没から夜明けまでの限られた時間のみ。それが過ぎると死者は消滅する。
4.「ツナグ」自身は1回たりとも死者に会うことを望むことはできない(ただし、「ツナグ」を引退したり「ツナグ」になる前であれば別)。
5.「ツナグ」になるためにはとある鏡の所有者になることが必須条件。その鏡を使うと、特定の死者と会話をすることができる。
6.「ツナグ」以外の者が鏡の鏡面部分を直接見た場合、その鏡を見た者と「ツナグ」の双方が死ぬ。

なお、作中で「ツナグ」の仕事に従事していた渋谷一家は、「ツナグ」の仲介で依頼者からカネを取るといった行為は一切行っていませんでした。
「ツナグ」の仕事でカネを取ってはいけない、というルールは特になかったようなのですが。
作中でも言われていたように、人生に立ち会うという重い仕事を担うことになる「ツナグ」が無報酬というのは、正直割に合わない感が否めないところではあるのですけどね。

作中における「ツナグ」を担う人間は、今作の主人公・渋谷歩美(こんな名前なのに男性だったりします(^^;;))の父方の祖母である渋谷アイ子。
渋谷アイ子の生家は、先祖代々「ツナグ」の仕事を担い続けてきた秋山家という家で、現在は渋谷アイ子の兄である秋山定之がひとりで家を維持しているようです。
秋山定之もかつては「ツナグ」として死者と生者の仲介を行った過去があったものの、渋谷アイ子にその地位を譲ったのだとか。
渋谷歩美は、渋谷アイ子から「ツナグ」の話を聞かされ、半信半疑ながらもその見習いを自主的に引き受けていたのでした。
その彼が作中で直面することになる「ツナグ」見習いとしての仕事は、以下の3人の人物からの仲介依頼となります。

1.ガンで亡くなった母親がどこかにしまってそれっきりとなっている土地の権利書を聞き出すことを目的としている、個人経営の木材精製所?の社長・畠田靖彦。
2.演劇部の主役を巡り、自分を差し置いて主役に抜擢された親友・御園奈津に殺意を抱き、その直後に事故死してしまったことに罪悪感と恐怖心を抱いている嵐美沙。
3.7年前に突如失踪して行方どころか生死すら不明の恋人・日向キラリを想い続けるサラリーマンの土谷功一。

この3つの依頼に基づく「死者と生者の仲介」を通じて、渋谷歩美は「ツナグ」の仕事とその心得について実地で学んでいくことになります。
また渋谷歩美は両親が既に他界しているのですが、その両親の死には疑惑が付きまとっており、その疑惑についても彼は向き合っていくことになります。
その結末と真相は、一体どのようなものとなるのでしょうか?

映画「ツナグ」では、主人公である渋谷歩美役を松坂桃李が主演として担っています。
私が彼の存在を初めて知ったのは、2010年に銀英伝舞台版で彼がラインハルト役を担当することが公式サイドから発表された時だったのですが、その頃と比べても彼が映画界その他でメキメキと頭角を現しているのが分かりますね。
その後、私が観賞したことのある映画に限定しても「アントキノイノチ」「麒麟の翼 〜劇場版・新参者〜」などに出演暦がありますし、「ドットハック セカイの向こうに」でも登場人物のひとりの声優を担当していたりします。
Wikipediaを参照してみると、実際にはさらにそれ以外の映画やテレビドラマ、さらにその他色々な分野でも活躍しているみたいですし。
芸能・スポーツ分野には人並以上に疎く、初めて名前を知った頃に「誰だこいつは?」とすら考えていたほどの私がこれだけ名前を見かける覚えていることができるというのは、俳優としては結構成功している部類に入るのではないかなぁ、と(苦笑)。
また、今作で渋谷歩美の依頼者のひとりとなっていた嵐美沙役の橋本愛も、私が観賞している映画の中では「HOME 愛しの座敷わらし」「スープ ~生まれ変わりの物語~」「アナザー/Another」に続き今年4作目。
こちらも現在人気上昇中といったところのようですね。
ただ、今作では序盤から意味ありげに出演していたことから、ひょっとすると主人公と恋愛関係にでもなるのかと考えていたら、作中ではあくまでも依頼者のひとりという立場のみで終わっていたので、その辺は少々肩すかしを食らったところではあったのですが。

3人の依頼者による死者との対面は、そのいずれもが少なからず印象に残るものではあったのですが、個人的にも最も強烈だったのは、橋本愛が演じた2人目の依頼者である嵐美沙のものでした。
残り2者が動機や過程がどうであれ「死者に会いたい」という願いそのものは本物だったのに対して、彼女だけは親友の御園奈津に対して「自分が殺してしまった」という負い目と「そのことが他者にバレたら…」という恐怖心を抱いていて、どちらかと言えば「親友に会いたい」よりも「自分の負い目と恐怖心を払拭するため」という思惑の方が強かったわけなのですから。
御園奈津は御園奈津で、嵐美沙の思惑や自身への殺意を知っていたようでしたし、「ツナグ」見習いの渋谷歩美を介して、嵐美沙を試していたかのようなスタンスを最終的に披露したりしていました。
あそこまで嵐美沙のやっていたことを知っていたのならその心情を理解することもできたでしょうに、御園奈津も残酷なことをするよなぁ、とあの場面ではつくづく考えずにはいられなかったですね(T_T)。
あのやり取りのせいで、嵐美沙は間違いなく一生ものの後悔を背負うことになってしまったのではないかと思えてならないのですが。
御園奈津にしてみれば、長年親友関係をやっていた嵐美沙との友情を疑いたくなかった、という心情も働いてはいたのでしょうけど、どうせ今後の御園奈津と嵐美沙は、嵐美沙が死ぬまで二度と会うことはないわけですし、真相を自分の胸にしまったまま嵐美沙の負い目と罪悪感を当人の希望通りに払拭してやっても良かったのではなかったかと。
ただ、嵐美沙が懸念していたであろう「御園奈津を殺そうとしていたことが御園奈津の口から他者にバレたら……」という問題については、「ツナグ」を介して自分が御園奈津と出会った時点で雲散霧消してしまってはいたのですけどね。
「ツナグ」のルール上、今後の御園奈津が「ツナグ」を介して他者と出会うことはできなくなったわけですし、その点ではひとつの目的は達成していると言えるのではないでしょうか。

あと、映画「ツナグ」における「仲介者としてのツナグの存在とその小道具」は、もし実在するならば政府機関やマフィア、および彼らに派遣されるであろう暗殺者や刺客などに付け狙われる要素となりえるでしょうね。
何しろ「ツナグ」がいる限り、「口封じで暗殺」という手法は一切通用しなくなってしまうのですから。
「ツナグ」がいれば、口封じで殺されたしまった被害者から、事件の真相や加害者の正体などを聞き出すことも可能となるのです。
加害者側にしてみれば、「ツナグ」から口封じの被害者が生者と対面し真相を暴露するような事態は何としてでも防がなくてはなりませんし、逆に被害者側にとっての「ツナグ」の存在は、加害者に一矢報いるための必勝必殺の武器となりえます。
「ツナグ」を巡っての政争や争いが起こっても何ら不思議なことではありませんし、これがアメリカであれば、CIAやFBIに大統領直属のシークレットサービスなども絡んだ一大スパイアクション映画的な作品にでも変貌していたのではないかと(笑)。
そこまでスケールのデカい話でなくても、たとえば迷宮入りした殺人事件などで、死者に直接犯人を尋ねたり真相を語らせたりすることもできるでしょうし、個人的な用途以外にも使い道はかなりのものがありそうなのですけどねぇ。
実際、作中でも「母親から土地の権利書について聞きだす」だの「殺意の真相が他者にバレたらどうしよう」などといった、「ツナグ」依頼者達の事情が描写されていたりしているのですから。
「死者から直接情報を引き出せる」というのは、そこまで大きな価値が伴うことなのですが。

他にも、「ツナグ」になるために必須となる鏡の存在も、本来の用途とは全く異なるものでありながら極めて有効な使い方がありますね。
「ツナグ」のルールにもあるように、あの鏡は「ツナグ」以外の者が鏡面部分を見ると当人および「ツナグ」が死ぬようになっています。
ということは、あの鏡の鏡面部分を他者に見せることで、その他者を死に至らしめることも可能、ということになります。
つまりあの鏡は、メドゥーサの首のごとく「人を殺すための武器」としても活用することができる、ということになるわけですね。
渋谷歩美の両親の死の原因がまさにそれだった(当時「ツナグ」だった父親の鏡を母親が見てしまった)わけですが、当時の警察での調べでは「母親が父親に殺され、直後に父親も自殺した」とされていました。
これから分かるのは、鏡を使った殺害では、その凶器ばかりか死因の真相すらも満足に暴くことができない、という事実です。
あの鏡は、やり方次第では「完全犯罪」をも可能にする凶器となりえるわけですよ。
歴代の「ツナグ」がそんな鏡の使い方をしなかったのは、何と言っても「ツナグ」自身の生命に関わる事項である以上当然と言えば当然なのですが、逆に言えば自分が「ツナグ」にさえならなければ、他者「だけ」を殺すことも可能となるわけでしょう。
「ツナグ」の件を抜きにして考えても、あの鏡を欲しがる人は欲しがるのではないかと思えてならなかったですねぇ(^^;;)。
……「ツナグ」とは全くの対極をなすであろう、どこか「デスノート」を髣髴とさせる「ルールを逆用したゲーム」のごとき使用方法ではあるのですが(苦笑)。

ストーリー的には「死者と生者との対面」を巡る死者と生者それぞれの葛藤や本音のぶつかり合いが面白く、充分に楽しめる仕上がりになっています。
「映画はアクションシーンや迫力ある映像が全てだ!」という嗜好の人でなければ、多くの方にオススメの作品ではないかと思います。

映画「最強のふたり」感想

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映画「最強のふたり」観に行ってきました。
頸髄損傷による首から下の全身麻痺のために不自由な生活を余儀なくされている大富豪が、スラム街の黒人青年を介護士として雇ったことから始まる、フランスのヒューマンコメディドラマ作品。
今作は本来、日本では2012年9月1日から全国公開されているのですが、熊本ではどういうわけか10月6日が解禁日となっており、実に1ヶ月以上遅れての映画観賞となりました。
2012年9月は、他ならぬ私自身が1ヶ月フリーパスポートを使ったほどに映画館での上映開始作品が特に集中していたので、上映のためのスクリーンが埋め尽くされていたことによる皺寄せでもきていたのでしょうが、こんなところにも地域間格差というものはあるのかと、改めて思い知らされた気分です(T_T)。
しかも、この映画はPG-12指定されているのですが、作中の最初から最後まで見ても、直截的なバイオレンス&セックス描写といったものがこれといって特に見られなかったんですよね。
おそらくは、「障害者の性生活の実態」という生々しい下ネタ話が作中に出ていたことから規制に引っ掛かった、といったところなのでしょうが、映画「Black & White/ブラック&ホワイト」などのように、作中に下ネタ話がいくら出てもPG-12指定されなかった作品も過去にはあったりしたのですけどねぇ。
この手の規制って、一体何を基準にしているのだろうなぁと。

物語は、黒い高級車を乗り回す2人の男が、スピード違反をやらかし警察に追われるところから始まります。
高級車は警察から逃げ続けますが、1台のパトカーに前方へ回り込まれ、前後から挟み撃ちの形であえなく御用に。
しかし、運転手に乗っていた黒人男性がとっさに機転をきかし、助手席に乗っていた男性が警官達に対し「障害者で一刻を争うから病院に向かっていた」と証言します。
高級車の後部に車椅子が乗っていること、そして何よりも助手席の男が発作を起こしている様相を見せることで、警官達もさすがに緊急を要すると判断せざるをえなくなります。
そして2人に対し、自分達が病院まで先導するとまで申し出てきたのでした。
実は助手席の男の発作は演技もいいところで、警察の車に先導されていた間、2人は音楽を車内で音楽をならして歌っていたりするのですが(笑)。
そして、警察の先導で病院に到着し、警察車両が去っていくのを見計らった上で、2人は病院のスタッフが駆け寄るのを尻目にさっさと車をどこかへ発進させてしまうのでした。

ここで場面は切り替わり、いよいよ2人の関係について描かれることになります。
物語冒頭で高級車を運転していた黒人男性の名はドリス。
彼は、同じ高級車の助手席に乗っていた、頸髄損傷で首から下の感覚が完全に麻痺してしまっている大富豪のフィリップの介護士となるための面接に臨んでいました。
給与も期待できるであろう大富豪の介護士ということもあり、フィリップの元にはドリスを含め多くの介護士志望者が面接に訪れていました。
彼らは口々に自分の介護の資格や実績・経験などを語り、表面的には文句のつけようもない美辞麗句の数々で自分をアピールしていました。
ところがドリスはというと、彼は別に介護士になるつもりなど最初からさらさらなく、不採用の証明書にサインをもらうことで失業手当をゲットすることが目的という、何とも下心丸出しの動機から面接を申し込んでいたのでした。
そして、面接の場で当のフィリップと面接官と相対した際も、そのことを隠しもせずに自分の目的を最初から堂々と開陳して「不採用証明書へのサイン」を迫るドリス。
かくのごとくふてぶてしい態度を披露するドリスに対し、面接官は当然のごとく呆れ顔でしたが、介護される立場のフィリップはしかし、ドリスに興味を持ったかのように自ら話しかけ始めます。
他の志望者達に対しては自ら発言することなく、終始面接官に対応を任せ切っていたフィリップが、です。
そして一方、ドリスが要求している「不採用証明書へのサイン」については「すぐには決められないので、明日の9時にもう一度来てくれ」と返答を返します。
言質を取ったことで、ドリスはさっさとフィリップの元を辞してしまいます。
しかしその夜、久しぶりに実家へ戻ったドリスを、家の主である(これは後で判明するのですが)伯母が勘当を言い渡し、彼は実家から追い出されてしまうのでした。
翌日、早朝から出てきたドリスに対し、フィリップは2週間の試用期間を設けて雇うことをドリスに告げるのでした。
実家を勘当されてしまったこともあり、ドリスはフィリップの屋敷で住み込みで働くことを承諾するのですが……。

映画「最強のふたり」では、大富豪のフィリップとスラム街出身のドリスが、互いに良きコンビとなっていく様子が描かれています。
ドリスは「雇い主かつ障害者」という、ある意味非常に逆らい難い無敵の組み合わせであるはずのフィリップに対して全く遠慮というものがなく、ズケズケと本音を語り情け容赦もない言動に終始しています。
しかし、それが他者から同情されることにウンザリしていたフィリップにとっては最高の対応でもあったわけなのですから、その点では何とも皮肉な話ではありますね。
物語後半でドリスは一度クビになり、後任の介護士が新たに雇い入れられるのですが、その人物は明らかにフィリップに遠慮があり、腫物でも触るかのような対応ばかりするありさまでしたし。
フィリップに雇われた介護士達は、ドリスが来るまでは1週間持たずに辞めているケースがほとんどだったそうですが、なるほど、アレではさもありなんと納得せざるをえないところです。
一方で、秘書のマガリや家政婦?のイヴォンヌなどといったフィリップの周囲の女性達がフィリップとそれなりに上手くやっていたらしいことを考えると、フィリップの介護にはドリス以外だと男性ではなく女性でも雇った方が却って良かったのではないか、これまたついつい考えずにはいられなかったですね。
自分に遠慮する介護士達に厳しく当たっていたフィリップも、女性が相手の場合だとさすがにそういう態度に出るのも難しくなるでしょうし。
まあ、着替えやシモの世話などに至るまで介護しなければならないという条件下では、素直に雇われてくれる女性は少ないかもしれませんが、病院の女性看護師とかであればそういう仕事も日常茶飯事でしょうし、高給で釣ればその点も何とかなったのではないかと思えてならなかったのですが。
フィリップも別に、ドリスが来るまでは「介護士と友人になりたい」という動機から男性介護士を雇っていたわけではなかったのでしょうから、男性にこだわらなければならない理由なんて特になかったのではないのかと。

この作品で意外に興味深かったのは、「障害者の性処理問題」についても言及されていたことですね。
フィリップは首から下の感覚が完全に麻痺してしまっていることから、健康体の男性が通常行っている性処理を行うことができません。
では彼は何を以て性処理を行っていたかというと、耳を性感帯にして「感じる」ことで代替手段としていたというんですよね。
ドリスの質問に対して、フィリップ本人がそのように回答していて、実際、2人でその手の施設に行ってフィリップが耳たぶを女性のマッサージ師?に触られている描写が作中で描かれていたりします。
「障害者の性処理問題」というのは意外に重要なテーマでありながら、巷ではほとんど言及されることがない事項だったりするので、それについて正面から向かい合っているこの作品は新鮮ではありましたね。
ドリスの性格もそうですが、この手の「全く飾り立てることのない本音の吐露」が今作最大の魅力である、と言えるでしょうか。

熊本のような上映開始が遅れている地方以外だと、もうとっくに上映終了しているであろう今作ではありますが、人間ドラマとして見る分には、さすが2011年度のフランスで最大の観客動員数を記録しただけの出来ではあります。
その手のドラマ好きな方にはオススメの映画と評価できるのではないかと。

映画「ボーン・レガシー」感想

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映画「ボーン・レガシー」観に行ってきました。
マッド・デイモンが演じるジェイソン・ボーンが活躍する「ボーン」シリーズ3部作の裏で同時進行していた、CIAの計画を巡る戦いを描いた作品。
今作ではジェイソン・ボーンは顔写真と名前のみの登場となっており、代わりにジェレミー・レナーが扮するアーロン・クロスが主人公を担っています。
なお、今作は映画「エージェント・マロリー」との2本立てで同日観賞しています。

物語の冒頭では、酷寒のアラスカの山岳地帯で過酷な訓練に従事しているアーロン・クロスの姿が映し出されています。
彼は定期的にブルーとグリーンの薬らしきものを服用しながら、川潜りや登山に精を出しています。
一方その頃、CIAは、組織の極秘プログラムである「トレッドストーン計画」および「ブラックブライアー計画」を暴露する記事をイギリスの新聞に掲載しようとしていたサイモン・ロスという記者の抹殺に動き出します。
そして、狙撃手の遠隔狙撃でサイモン・ロスを即死させてしまうCIA。
このサイモン・ロスの死は「ボーン」シリーズ3作目の「ボーン・アルティメイタム」でも描写されており、ここから「ボーン」シリーズと同時進行していることが判明するわけですね。
さらにCIAは、これ以上自分達の極秘プログラムの情報が外部へ流出するのを防ぐべく、暴露された2計画と並行して推進されていた「アウトカム計画」を抹消することを決定します。
「アウトカム計画」とは、薬を使って人間の肉体強化と人格改造を行う一方、相手を薬漬けにすることで裏切りを抑止する兵士だか暗殺者だかを作り出すという内容の極秘プログラムです。
CIA本部は、「アウトカム計画」に関わった全ての人間を抹殺することで、「アウトカム計画」の存在そのものを闇に葬り去ることを画策するのでした。
抹殺の対象は、「アウトカム計画」で肉体強化を施された数人の被験者と、「アウトカム計画」に必要なブルーとグリーンの薬を製造している薬品会社の研究員達。
そして、冒頭に登場していたアーロン・クロスもまた、「アウトカム計画」によって肉体強化が施された、コードナンバー5と呼ばれる存在なのでした……。

アラスカの雪山で登山を続けていたアーロン・クロスは、「アウトカム計画」の要となるブルーとグリーンの薬を密かに隠蔽しつつ、自分の同じ雪山で小屋を構えていたアウトカム計画のコードナンバー3と接触し、薬を分けてもらおうとします。
ところが、既に2人はCIA本部によって抹殺の対象とされていたのでした。
雪山の小屋には無人航空機MQ-9リーパーが派遣され、そのミサイル攻撃によってコードナンバー3は小屋諸共に爆砕されてしまいます。
たまたま運良く難を逃れることができたアーロン・クロスは森の中へと逃れ、MQ-9リーパーを狙撃銃で撃墜。
さらに、自分の腹の中に埋められていたカプセル型の超小型発信機をナイフで取り出し、森の中に自分に襲い掛かってきたオオカミの口の中へ放り込みます。
最初の機体の撃墜を受けて新たに派遣されてきた2機面のMQ-9リーパーは、発信機を抱えているオオカミに照準を合わせてミサイルを発射し、CIA本部ではその発信音が途絶えたことでターゲット殺害に成功したと確信するのでした。
MQ-9リーパーの脅威から脱することに成功したアーロン・クロスは、薬を調達すべく、「アウトカム計画」に必要な薬を製造した薬品会社の関係者の元へと向かうことになるのですが……。

映画「ボーン・レガシー」は、これまでの「ボーン」シリーズ三部作を全て観賞していることを前提とした作品であり、作品単独では意味が分からない用語も少なからず登場します。
冒頭にも出ていた「トレッドストーン計画」および「ブラックブライアー計画」は、「ボーン」シリーズの2作目と3作目でその存在が明らかとなっており、その詳細もそちらで説明されているのですが、今作の中ではただ存在が明示されているだけで復習的な内容の解説もなし。
もちろん、「ボーン」シリーズで主役を張ってきたジェイソン・ボーンについても同様です。
これから考えると、今作は既存の「ボーン」シリーズ三作品「ボーン・アイデンティティー」「ボーン・スプレマシー」「ボーン・アルティメイタム」を全て観賞し、その内容を完全に把握していることが前提の作品であると言えます。
サイモン・ロスの件と併せて考えても、今作がまさに「ボーン」シリーズ本編と同時並行して進行していることが明示されていますし。
「ボーン・レガシー」を観賞するのであれば、過去作を復習してから臨むことをまずはオススメしておきます。

今作のストーリーは、どことなく「ボーン」シリーズ1作目「ボーン・アイデンティティー」に近いものが結構ありましたね。
主人公が逃避行の中で出会った、薬品会社の女性研究員マルタ・シェアリングがヒロインで、かつ2人一緒に戦いつつ恋仲になっていき、最後はアメリカ国外の町(フィリピンの漁村?)でひっそりと生活を始めるという流れは、「ボーン・アイデンティティー」のジェイソン・ボーンとヒロインであるマリー・クルーツの関係を髣髴とさせるものがあります。
また、アーロン・クロスは元々イラク戦争で戦死したことになっていたアメリカ軍兵士で、CIAによって新たな身分が与えられたという設定も、ジェイソン・ボーンのそれとカブるものがありました。
もっとも、こちらはCIAの計画自体が似たり寄ったりなシロモノばかりだったという事情も影響しているでしょうし、アーロン・クロスの場合はジェイソン・ボーンと違って「過去の記憶」まで失われてはいなかったのですが。
ちなみに「ボーン・アイデンティティー」のマリー・クルーツは、2作目の「ボーン・スプレマシー」の序盤であっさりと殺害されてしまうのですが、それから考えると、今作のヒロインであろうマルタ・シェアリングも、次回作早々に死んでしまうことになったりするのでしょうかねぇ。
「ボーン」シリーズはまだまだ続きがあるみたいですし、今後ジェイソン・ボーンが再登板する可能性もどうやらあるようですので。

今作のアクションシーンについては、さすが「ボーン」シリーズと言えるだけのものはあり、シリーズお馴染みの奇抜なアクションが作中の随所で繰り広げられています。
特にラストのオートバイを使ったアクションシーンは、これだけでも必見の価値があります。
アーロン・クロスとマルタ・シェアリングが、結果的に2人で共同戦線を張ってCIAの刺客を倒すという構図も良かったですし。
実際、今作におけるラスボスとなったCIAからの凄腕暗殺者を最終的に倒したのも、暗殺者からの銃撃を受けて負傷してしまったアーロン・クロスではなく、マルタ・シェアリングの蹴りだったりしますからねぇ。
この辺りは、昨今流行の「戦うヒロイン」の面目躍如ではなかったかと。

アクション映画好きと「ボーン」シリーズのファンの方にはオススメな映画と言えますね。

映画「エージェント・マロリー」感想

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映画「エージェント・マロリー」観に行ってきました。
アメリカ女子総合格闘技界の人気者で、スタントを一切使わずに本作に挑んだジーナ・カラーノが主演を担う、スティーヴン・ソダーバーグ監督のアクション作品。

民間のスパイ業界でも凄腕の実力を誇る、元海兵隊出身でフリーの女性スパイであるマロリー・ケイン。
物語の冒頭、彼女はアメリカ・ニューヨーク北部にある田舎町ダイナーのレストラン?で、誰かと会うために席に座っていました。
しかし、やがてレストランに姿を現した人物を見て、マロリーは舌打ちします。
それは彼女が待っていた人物ではなく、彼女の同業者のアーロンだったのです。
アーロンはマロリーと話し合うフリをして突如彼女に対し奇襲攻撃を仕掛け、両者は格闘戦を演じることになります。
この際、たまたまレストランで食事をしていたスコットという地元の若者が、先に攻撃されたマロリーを助けるべく、マロリーを羽交い絞めにしていたアーロンに後ろからのしかかります。
スコットの攻撃そのものは相手に全くダメージらしきものは与えられなかったものの、アーロンがスコットに対処した隙を突いてマロリーは窮地を脱し、アーロンを返り討ちにすることに成功。
マロリーはそのままスコットを促して車を出させ、その場を後にするのでした。
マロリーの運転で車でどこかへ向かう途上、当然スコットは、何故マロリーがあの場で襲われたのかについて説明を求めます。
それに対し、マロリーは回想を交えつつ、何故あの場面に至ったのかについての経緯を解説していくのでした……。

事の始まりは1週間前のスペイン・バルセロナ。
マロリーは、アメリカ政府とスペイン政府の関係者による共同依頼に基づき、3人の男性工作員と共に、とあるアパートに監禁&人質にされていた、ジャンという東洋系ジャーナリストの救出の任務に当たっていました。
紆余曲折あったものの、無事に任務を遂行することに成功してサンティエゴの自宅へ戻ってきたマロリーは、その直後に今度はかつての恋人で現在は民間軍事企業のトップとなっているケネスに「バカンスのような楽な仕事」としてアイルランドのダブリンへ飛び、男性同業者のポールと共に偽装夫婦を演じてほしいと依頼されます。
言われた通りに偽装夫婦の妻役を演じていたマロリーでしたが、ミッションの内容に不審を抱いたマロリーは、ポールの隙を突いてモバイル端末から情報を盗み出し、またポールと共に参加したパーティの会場を抜け出して周辺の建物を探索したりします。
その結果、彼女はつい数日前に自身がバルセロナで救出した東洋人ジャーナリストのジャンが、眉間を打ち抜かれて死んでいる姿を発見。
しかも殺されたジャンの手には、マロリーが身に着けていたブローチが握られていたのでした。
直後にマロリーは、偽装夫婦の夫役を演じていたポールに襲撃され、かろうじてこれを撃退。
しかし、ジャン殺しの罪を着せられ、追われる身となってしまったマロリーは、自身に追われる身となりながら逃避行を続けつつ、仕事を依頼してきたケネスとの接触を図り、冒頭の田舎町へと向かったのでした……。

映画「エージェント・マロリー」は、一応スパイアクション物というカテゴリーに属する作品なのですが、作中で展開されるアクションは、基本的に殴ったり蹴ったり羽交い絞めにしたりの格闘戦が大部分を占めていますね。
銃撃シーンやカーチェイスも全くないわけではないのですが、時間的にも短く作中における扱いもあっさりしすぎな感が否めないところで。
今作で主人公マロリー・ケインを演じたジーナ・カラーノは、アメリカ女子総合格闘技界の人気者で、スタントを一切使わず、作中のアクションシーンを全て自身で演じていたのだそうで、その辺りの事情が何か関係してはいるのでしょうけど。
銃を携行して散歩していたケネスを相手にしたラスト対決では、相手もマロリー自身も銃を用意できる立場にあったにもかかわらず、それでも銃を一切使うことなく格闘戦に終始していたので、さすがに苦笑するしかなかったのですが。
そこまで格闘戦にこだわるのか、と。

しかし、今作は「結果が出てからそこに至るまでの過程を説明する」という描写を二度にわたって繰り広げているのですが、正直そのためにストーリーの流れが今ひとつ掴みづらい構図になっている感が多々ありますね。
名探偵が事件の推理を披露した後で真相を明らかにするミステリーの手法でも採用していたのでしょうが、別に名探偵がいるわけでもなく、主人公による推理が繰り広げられるわけでもないストーリー展開で、格闘戦で相手を圧倒した後で真相を公開する、という形にする意味なんて果たしてあったのかと。
序盤で観客を惹きつけるためにそういう手法を取るのはまだしも、全ての真相が明らかになる終盤でも相変わらず同じようなことを繰り返すのも、二番煎じかつ話の流れを阻害しているようにしか思えませんでしたし。
元々映画の上映時間自体が93分しかないのですし、変に真相を凝ったものにするよりも単純にアクションを楽しむだけの展開にした方が、却って観客的に分かりやすい構成になったのではないでしょうか?

今作は、ストーリーを理解しようとするよりも、ジーナ・カラーノの格闘アクションを見せるための映画、と単純に割り切った方が素直に楽しめるかもしれないですね。

映画「ハンガー・ゲーム」感想

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映画「ハンガー・ゲーム」観に行ってきました。
アメリカで大ベストセラーとなった、スーザン・コリンズの同名小説を原作とするサバイバル・スリラー作品。
今作ではストーリー構成上、血みどろの殺し合いや死体の描写が少なくないことから、PG-12指定されいます。

現在のアメリカ合衆国?の崩壊後に誕生したらしい、近未来の独裁国家パネム。
パネムは首都であるキャピトル、および周囲を取り巻く複数の地区によって成立しており、キャピトルに居住する少数の富裕層が、周囲の地区の労働者達を奴隷同然に酷使するという支配体制を築き上げていました。
そんな不平等な支配体制を、支配される側であるキャピトル周囲の地区が不満に思わないわけもなく、彼らはキャピトルおよび中央政府に対してしばしば暴動や反乱が引き起こされていました。
中でも、75年以上前に勃発した13地区の一斉蜂起は、第13地区の完全崩壊および多数の犠牲者を出すという結果にまで至っていました。
この反乱の鎮圧後、パネムの中央政府は、壊滅した第13地区以外の12の地区に対する懲罰的な措置と、自分達自身の娯楽を満たすことを目的とする「ハンガー・ゲーム」という名のビッグイベントを開催することを思いつきます。
「ハンガー・ゲーム」とは、件の反乱に参加していた残り12の地区から、12~18歳までの若い男女2人ずつを選出させ、総計24名の男女を最後のひとりになるまで戦わせるという、一種のサバイバルゲームです。
生存確率は24分の1、ただし勝者には一生遊んで暮らせるだけの富貴と名誉が与えられる「ハンガー・ゲーム」は、以後、年1回のペースで実に73年にわたって開催され続けてきました。
そして映画の冒頭では、新たに開催される予定の第74回「ハンガー・ゲーム」に向けての男女選出が行われようとしている渦中にありました……。

炭鉱が盛んな第12地区で貧しい生活を営んでいる、今作の主人公カットニス・エバディーン。
炭鉱夫だった父親を亡くした過去を持つ彼女は、幼い妹のプリムローズ・エバディーンを何かと気にかけつつ、生計の足しにすべく弓矢を使って狩猟をする生活を送っていました。
しかし、第74回「ハンガー・ゲーム」は、そんなささやかな生活を送っていたカットニスの人生をも一変させてしまうことになります。
第12地区における第74回「ハンガー・ゲーム」のくじ引き選考で、彼女の妹であるプリムローズがゲームの女性出場者として選出されてしまったのです。
問答無用で連れ去られようとしたプリムローズを助けるべく、カットニスは無我夢中で自分が第74回「ハンガー・ゲーム」に出場すると宣言します。
何でも「ハンガー・ゲーム」への出場に自分から志願するケースは、すくなくとも第12地区では初めてだったらしく、カットニスの志願はあっさりと受け入れられます。
一方、第12地区における第74回「ハンガー・ゲーム」の男性出場者は、カットニスの級友で、かつてカットニスが生活苦で飢えていた際にパンを恵んでくれたピータ・メラークが選出されました。
母親および妹に「必ず帰ってくる」と告げ、カットニスは第74回「ハンガー・ゲーム」に参加すべく、ピータと共にパネムの取得キャピトルへと向かうことになるのですが……。

映画「ハンガー・ゲーム」の原作小説は、その設定の相似性から日本の小説「バトル・ロワイアル」との関連が以前から指摘されています。
何しろ両作品には、

1.舞台が近未来の独裁国家で、強権的な支配体制が構築されている。
2.ある程度まとまった数の10代男女の未成年者達が、最後のひとりになるまで殺し合いに狂奔するサバイバルゲームを主軸にしている。
3.ゲームフィールドは広大だが限定された空間で、かつゲーム主催者による監視が常にありとあらゆる手段を駆使して行われている。

などといった共通項があるのですから。
かくいう私自身、映画の予告編を見た際には「これってアメリカ版バトル・ロワイアル?」という感想を抱いたくらいですし(^^;;)。
もっとも、原作者であるスーザン・コリンズ自身は「原作のハンガー・ゲームを出版するまで、バトル・ロワイアルの存在自体知らなかった」と述べてはいるのですが。
ただこういうのって、実際には参考にしていたとしても「これは俺のオリジナルだ!」と言い張ることが珍しくもないですし、作中の設定やストーリー展開に少なからぬ共通点や類似性が多いことからも、やはり何らかの関連性は疑わざるをえないものがあります。
まあ真実は原作者のみ知るところではあるのですが、果たして真相は如何なるものなのやら。

かくのごとく「バトル・ロワイアル」が何かと引き合いに出される映画「ハンガー・ゲーム」なのですが、ただ実際に映画を観る限りでは「確かに設定面における共通項は少なくないが、ストーリー展開では明確な違いも存在する」というのが正直なところではありましたね。
たとえば、「バトル・ロワイアル」で生徒達に支給されていた武器には銃火器や爆弾の類も少なくなく、アクション映画ばりの銃撃戦が行われることすらあったのに対し、「ハンガー・ゲーム」のゲームフィールドで提供される武器はナイフや弓矢など原始的なものばかりです。
作中の「ハンガー・ゲーム」では地雷は登場していたのですが、銃火器はとうとう一度も出てくることはなく、各出場者達は最後までナイフや弓矢などの武器を使った戦いに終始していました。
また、「バトル・ロワイアル」と比べてゲームの開催期間が長く、単純な戦闘能力だけでなく原始的な生活能力までもが試される場となっており、出場者同士による戦いだけでなく、猛毒の木の実などを食べて出場者が死んだりするケースなども披露されていたりします。
「バトル・ロワイアル」では時間が経つにつれて、入ったら即首輪が爆発して死ぬ「侵入禁止エリア」が増えていき、行動範囲が狭められていくというルールがあったのですが、「ハンガー・ゲーム」にそのようなルールは特にありません。
ただその代わりとして、安全圏に居座ろうとする出場者を、ゲーム主催者側が仮想空間のゲームフィールドをいじって強引に叩き出すという行為を行ってはいましたが。
何よりも一番違うところは、「バトル・ロワイアル」の参加者達がある日突然、それも必要最小限の説明だけで問答無用でさっさと戦場に放り込まれるのに対し、「ハンガー・ゲーム」の出場者達は充分な準備期間を置いてゲームが始められる、という点ですね。
「バトル・ロワイアル」では「今自分達がどのような状況に置かれているのか」ということすら理解しえずに殺されていった参加者達が、特に序盤では少なくなかったですし、理解しても甘い認識のまま殺される参加者が後を絶たなかったものでしたが、「ハンガー・ゲーム」にはそのような出場者は最初からおらず、ゲーム開始直後から誰もが覚悟を決めて殺し合いなり逃亡なりを初めていましたから。

個人的には、「ハンガー・ゲーム」よりも「バトル・ロワイアル」の方が、生死を争うサバイバルゲームとしては合理的に出来ているように見えましたね。
「バトル・ロワイアル」はゲームシステム的に参加者同士による殺し合いが自動的に発生せざるをえないようになっているのに対し、「ハンガー・ゲーム」はゲーム主催者が事あるごとにいちいち介入しないと、参加者同士の遭遇および戦闘がなかなか発生しないルールになってしまっているのですから。
そもそも、原則非公開の「バトル・ロワイアル」と違い、「ハンガー・ゲーム」は全国民に生中継される一種の「国民的イベント」でもあるのですから、ゲーム主催者による介入が常に目に見える形で行われるというのは、エンターテイメント的な観点で見てさえもマイナスにしかならないのではないかと思うのですけどね。
作中では自分達の都合から、「勝者はひとりのみ」というルールそれ自体を勝手に変更したり、かと思えば撤回したりまた復活させたりと、二転三転なルール改竄が平気で横行していましたし。
あのシステムでは、「ゲーム主催者による八百長」が疑われても仕方のない要素が少なくありませんし、エンターテイメントや掛け試合としても成立し難い一面が否定できないのではないかと。

あと、ゲームの勝者として生き残れる者は一人しかいないにも関わらず、勝つために徒党を組む者達の間で心理的な駆け引きがないなど、やや不自然な設定が少なくないですね。
生き残る確率を上げるために、さし当たっては徒党を組んで多数で少数を圧倒する、という行為自体は、「バトル・ロワイアル」でも「ハンガー・ゲーム」でも共通して見られた現象です。
しかし、ゲームのルール上「勝者(生存できる者)はひとり」でしかない以上、徒党を組んだ者達の間では、「自分はいずれ裏切られるのではないか?」「ならば先手を打ってこちらから裏切るべきではないのか?」といった深刻な不信感が芽生えてもおかしくはないんですよね。
徒党を組んだメンバーで他の勢力を圧倒した後は、徒党を組んだメンバー同士で戦いが始まるのは誰の目にも最初から明らかなのですから。
「勝者(生存できる者)はひとり」というルールの中で徒党を組むという行為は、戦闘力で他者を圧倒しえる反面、自分がいつ寝首をかかれるか、逆に自分が仲間達を殺す機会を常に伺うなどという二律背反的な状況およびそれに伴う葛藤を招くことになるわけです。
しかし「ハンガー・ゲーム」では、その手の葛藤が全くと言って良いほど描かれていなかったりするんですよね。
「ハンガー・ゲーム」で徒党を組んでいた面々は、ただその戦闘力に物を言わせて殺戮を楽しんでいただけでしたし、仲間達を疑うようなピリピリした雰囲気すら全くないありさま。
それは主人公であるカットニスにも言えることで、成り行きで彼女が第11地区出身の少女ルーと手を組んだ際、彼女もルーも「2人が最終的に生き残ったら2人で殺し合いをしなければならない」という可能性を全く考慮していないとしか思えない言動に終始していました。
ルーと同じく第11地区出身の黒人男性などは、殺されたルーの仇を討ち、あまつさえ「ルーが世話になったから一度だけだ」とカットニスをわざわざ逃がす行動に走ってさえいましたし。
参加者全員が顔見知りである「バトル・ロワイアル」と違い、「ハンガー・ゲーム」で顔見知りと言えるのは、よほどの偶然でもない限りは同じ地区の出場者だけなのですから、もう少し感情を排した打算的な殺し合いが展開される方が、むしろストーリー展開としては却って自然なのではないかと思えてならなかったのですが。
この点においても、「バトル・ロワイアル」の方が「ハンガー・ゲーム」よりも構成が上手いのではないかと。
ただ、あまりにもエグい描写や設定が目白押しの「バトル・ロワイアル」をある意味【ぬるく】したような「ハンガー・ゲーム」は、それ故に一般受けしやすいものにはなっていると思います。
かくいう私も、途中からは結構「安心して観賞できた」クチでしたし(^^;;)。

映画「ハンガー・ゲーム」は、既に続編の製作と日本公開が決定しているとの情報が、映画のエンドロール直前にて披露されています。
その点から言えば、今作は「シリーズ1作目」として観賞するのも良いかもしれません。

映画「イノセンス・オブ・ムスリム」の製作者が当局に拘束

イスラム諸国で反米暴動の発端となった映画「イノセンス・オブ・ムスリム」を制作したコプト教徒のナクラ・バスリ・ナクラが、保護観察下の状態で動画投稿サイトへ動画を投稿したとして、アメリカの司法当局に拘束された模様です↓

http://sankei.jp.msn.com/world/news/120928/amr12092809550003-n1.htm
>  米司法当局は27日、イスラム諸国で激しい反米抗議デモを引き起こしたイスラム教預言者ムハンマドの侮辱映像の制作者とされるロサンゼルス近郊在住の男性を拘束した。米メディアが伝えた。
>
>  男性は米国で金融詐欺事件を起こし、現在は保護観察中。
保護観察の担当官の許可なくインターネットを使用しないことなどを義務付けられていたが、司法当局は男性がこの義務に違反したと判断した。
>
>  男性はキリスト教の一派、コプト教徒のナクラ・バスリ・ナクラ氏(55)。問題の映像を動画投稿サイトに掲載したと指摘され、義務違反の疑いがあるとして保護観察の担当官が15日に事情聴取。米メディアは再収監などあらためて厳しい処分が言い渡される可能性があると伝えていた。(共同)

件の映画製作者は、既に出演者からも、詐欺と「精神的苦痛を受けた」との理由から告訴されている状態にあります。
いよいよもって「年貢の納め時」な感が否めないところですね。
しかし、そういう事態になるであろうことは充分に予測できたはずなのに、それでもなおかつ「イノセンス・オブ・ムスリム」をあのような形で制作しなければならなかった理由とは如何なるものがあるのでしょうか?
今後の公判などでその辺りの理由も明かされていくのでしょうが、宗教的な理由以外の要素でもあったりするのでしょうかねぇ。
たとえば、イスラム諸国の敵意をアメリカに向けさせ、アメリカを窮地に陥れることが実は本当の目的とか。
そういうのがあれば、いよいよもって本当の「映画の世界」になってもくるのでしょうけどねぇ(苦笑)。

映画「47RONIN」の監督が制作費用の掛け過ぎで降板

キアヌ・リーブス主演の映画「47RONIN」で、製作費用の掛かり過ぎが原因から監督が降板させられてしまったそうです。
製作費は既に2億2500万ドルにも上っており、映画会社が危機感を持ったとのこと↓

http://www.cinematoday.jp/page/N0046168
>  [シネマトゥデイ映画ニュース] キアヌ・リーヴス主演で「忠臣蔵」をハリウッドリメイクした映画『47RONIN』の編集作業から、お金を掛けすぎたとしてカール・リンシュ監督が外されてしまったことがわかった。TheWrap.comが報じている。
>
>  関係者によると、3Dで製作されている
『47RONIN』の費用はすでに2億2,500万ドル(約180億円)まで膨れ上がっており、そのことに危機感を持った映画会社ユニバーサル・ピクチャーズが、本作が長編映画デビューとなるリンシュ監督を編集作業から外したとのこと。現在は編集作業のかじを、ユニバーサルの社長であるドナ・ラングリーが取っているようだ。
>
>  本作は1週間ほど前に、キアヌにクローズアップしたシーンの追加撮影をロンドンで終えたばかり。同関係者はプロダクションの進行具合を「悪夢のようだ」と語っているという。
>
>  
もともと全米公開は今年11月の予定だったが、4月にはVFXに思わぬ時間がかかったことを理由に公開日を2013年2月に延期。さらに8月には、再撮影とVFXの調整を理由に2013年12月に再び延期している。本作には主演のキアヌのほか、柴咲コウ、赤西仁、真田広之、浅野忠信、菊地凛子といった日本の俳優陣が多数出演している。(編集部・市川遥)

気合を入れて映画製作にかかるのは良いとしても、遅延が続いて費用もかさむのでは問題ですね。
2億ドル以上もの製作費用というのは、映画でもちょっとやそっとの大ヒットでは回収できないというレベルの巨額です。
2012年4月に日本で公開された映画「ジョン・カーター」などは、製作費2億5000万ドルに販促費が加わって総計3億5000万ドルものカネがつぎ込まれた影響もあってか、北米以外ではそれなりのヒットだったにもかかわらず「赤字映画」になると報じられる始末でしたし。
「47RONIN」の製作費用が現時点で2億2500億ドルに到達するということは、最終的には「ジョン・カーター」のそれをすら上回る可能性が充分にありえることをも意味するわけです。
映画の内容が内容だけに、日本以外で受けるかどうかも微妙なところですし、そりゃ映画製作会社が危機感をつのらせるのも理解できようというものです。
映画の公開が遅れたからと言って出来が良くなるとは限らないどころか、むしろ逆に悪くなる危険性すらあるわけですし。
ちなみに「47RONIN」は、日本では2011年の10月頃から映画館などで宣伝が行われているのですが、公開が延期に延期を重ねた挙句に、今ではいつのまにやら2013年12月に全米公開となっているようで。
日米同時公開とか日本先行上映とか言ったサプライズでもない限り、洋画の日本公開はアメリカよりも数ヶ月単位で遅れるのが常なのですから、実際には2013年内に日本公開が実現するのか否かすら微妙な情勢ですね。
公開スケジュールも映画の内容も本当に大丈夫なのかと、懸念のひとつも抱きたくなってくるところなのですが……。

映画館のCMで記者会見の映像が何度も流れていた当時は結構期待できるものがあっただけに、優秀な出来で無事に日本公開を果たしてもらいたいのですけどね。

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