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カテゴリー「映画観賞関連」の検索結果は以下のとおりです。

映画「アナザー/Another」感想

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映画「アナザー/Another」観に行ってきました。
ベストセラー作家・綾辻行人の同名小説を実写映画化した学園ホラー作品。
映画「麒麟の翼 ~劇場版・新参者~」で真犯人役を演じた山崎賢人と、映画「HOME 愛しの座敷わらし」「スープ ~生まれ変わりの物語~」にも出演した橋本愛の2人が、今作の主演を担っています。
なお今作は、人間の首がワイヤーロープで切断される映像や、スプーンが眼球に突き刺さり頭を貫通するシーンなどといった「残虐な死」の描写が作中で展開されるため、PG-12指定されています。
ちなみに、私が映画館でホラー映画を観賞するのは、実は今作が初めてだったりします(^^;;)。
今週はこれといった映画観賞候補作が、今作以外何もなかったものでしてねぇ(-_-;;)。

物語の舞台は1998年。
父親の一時的な海外出張という期間限定で、地方都市である夜見山市の夜見山北中学校へ転校してきた今作の主人公・榊原恒一(さかきばらこういち)。
しかし4月26日、彼はクラスへの編入直前になって、自然気胸という病を患ってしまい、地元の病院への入院を余儀なくされてしまうのでした。
意識が朦朧とする中、彼は全く見覚えのない「左目に眼帯をつけている美少女」に導かれ、幼い頃に死んだ母親と出会う夢を見ることになります。
やがて夢から覚め、病院で1週間以上にわたる病院生活を送ることになった榊原恒一でしたが、病院の中を散歩している中、夢の中に出てきた「左目に眼帯をつけている美少女」を見かけることになります。
夢のこともあり、彼女を追った榊原恒一は、霊安室へと入っていく姿を目撃することになるのでした。

5月6日。
病院から退院し、元々転校予定だった夜見山北中学校3年3組のクラスへ編入することになった榊原恒一は、そこでまたしても「左目に眼帯をつけている美少女」と再会することになります。
しかし3年3組のクラスメイト達は、確実に存在するはずの彼女を、あたかも最初から存在しないものとして扱うという不可解な対応に終始していました。
それでも「左目に眼帯をつけている美少女」のことが気になる榊原恒一は、何とか彼女に接触しようと行動するのですが、何故かそれを止めにかかるクラスメイト達。
それでも何とか見崎鳴(みさきめい)という名前を突き止めることに成功した榊原恒一は、なおも接触を図ろうとするのですが、その光景を発見したひとりの女子生徒が悲鳴を上げます。
そしてその直後、彼女は偶発的な事故に巻き込まれ、首に致命傷を受けて死んでしまうのでした。
しゃがれた声で「あなたのせい」というメッセージを残して。
その現場に集まったクラスメイト達は、「ルールを破ったからだ」などという謎めいた言葉を呟き、死者となった女子生徒と同じように榊原恒一と見崎鳴を責め、さらには榊原恒一同様に「最初からいなかった」かのごとく扱われるようになるのでした。
榊原恒一は見崎鳴を問い質し、3年3組に纏わる謎の「現象」を知ることになるのですが……。

映画「アナザー/Another」では、次々と人が死んでいく「現象」が何故発生したのか、具体的な真相とその抜本的な解決策については全く何も語られていません。
作中で語られているのは、26年前の1972年に夜見山岬(よみやまみさき)というひとりの女子生徒の死後、当時の3年3組のクラスメイト達が彼女の死を受け入れず「生きている人」であるかのごとく振る舞った翌年から「現象」が始まった、という解説なのですが、本当にそれが原因なのかは全く不明です。
実際には全く別の理由があるにもかかわらず、当時者達が夜見山岬の件を「現象の原因」であると思い込んでいる可能性も否定できないところですし。
また作中では、榊原恒一と見崎鳴の旧校舎探索で、1983年当時の3年3組卒業生によるテープが発見されるのですが、それには「3年3組には死者がひとり紛れ込んでいる」「その死者を殺せばその死体は消滅し、それ以降は『現象』は収まる」という内容のメッセージが録音されていました。
これが、映画のキャッチフレーズにもなっている「死者は誰?」の本当の意味でもあるわけですね。
しかし「現象」が発動している最中は、当時者達の記憶どころか、過去の死者の記録なども全て改竄されてしまうため、新聞記事などの過去の記録を元に死者を探すことは全く不可能。
しかもその死者自身、「自分が死んでいる」という自覚は全くなく、見た目も記憶も普通の人間と何も違わないため、その特定どころか、実際に殺してみるまでは真偽を判定することすらもできないのです。
それどころか、下手にこのことが露見しようものならば、クラス全体が「死者探し」に狂奔した挙句、クラス内における凄惨な殺し合いが勃発する危険性すらあります。
実際、物語終盤では、部分的ながらもクラスメイト達が互いに猜疑し合い、殺し合いに狂奔する場面も見られたわけですし。
これでは真相が分かっても、普通であれば「バトルロワイヤル」のごとき虐殺が始まってしまい、却って事態を悪化させるだけでしかないですね。
ただ今回の場合、「人の死の色が見える」という特殊能力を左目に秘めている見崎鳴の活躍で、死者の存在が判明することになるわけですが。

ただこの「現象」、実は記憶&記録操作に抵触することのない形で意外と簡単に解消できてしまえるのではないか、とは思わなくもなかったですね。
非常に簡単な方法で、夜見山北中学校3年3組を名目だけの存在にしてしまい、誰もそのクラスに所属しないようにしてしまえば良いのです。
作中で発生している「現象」は、あくまでも夜見山北中学校3年3組に所属する(&していた?)生徒・教師およびその血縁者に対してのみ発動するものなのですから、その3年3組に所属する人間が誰もいなくなってしまえば、当然「現象」を止めることも簡単に行えるわけです。
作中の描写を見る限りでは、いくら人間の記憶や過去の記録を改竄するといっても「現象」の存在そのものまではさすがに隠蔽できていないようですから、学校関係者が「現象」の元を断つことは充分に可能でしょう。
何なら、3年3組として使われている教室そのものをも完全に閉鎖し、立ち入り自体を禁止してしまっても良いでしょうし。
第一、毎年毎年3年3組という特定のクラスで大量の死者が出るというのであれば、いくら表面的には偶発的なものに見えるにせよ、保護者も学校側も当然不安を覚えるようになるでしょうし、特に生徒の管理指導の責任が問われるであろう学校側がその手の対策を検討しても何ら不思議なことではないと思うのですが。
3年3組に死者が紛れ込むといっても、肝心の3年3組に誰もいなければ、その時点で死者の正体は簡単に露見するわけですし、当然「現象」も発動の停止を余儀なくされてしまうでしょう。
まあひょっとすると、「現象」が纏わる記憶&記録改竄の中には、この手の「3年3組そのものを根絶する」という発想をも封じ込める機能も備わっているのかもしれないのですが、「『現象』の存在を誰もが知っている時点で対策も打たれてしまうのではないか?」とは正直思えてならないのですけどね。
この手の「災いの元を根元から根絶する」的な対策を打たれないようにするためには、「現象」の存在そのものが3年3組の当事者達以外誰も知らない&他者に知らせることもできない、しかも卒業すると同時に全ての人間の記憶と記録媒体から「現象」および死者&死亡事故等の存在そのものが完全に抹消されてしまう、というところまでいかないと無理なわけですが、作中ではそこまで徹底されていませんでしたし。
「バトルロワイヤル」のごとき凄惨な殺し合いや、見崎鳴の特殊能力に依存するよりも、3年3組の存在そのものを有名無実化する方が非常に簡単な解決方法に見えてならない、と思うのは私だけなのでしょうか?
この辺り、原作ではきちんとした説明があるのでしょうかね?

映画自体は、学園ホラー要素以外にも、犯人探しのミステリーやサスペンス要素もあり、意外に見応えのあるものにはなっていると思います。

映画「エイトレンジャー」感想

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映画「エイトレンジャー」観に行ってきました。
アイドルグループの「関ジャニ∞(エイト)」が上演してきた、同名のスーパー戦隊シリーズのパロディ物を映画化したコメディ作品。
なお、私は「エイトレンジャー」の元ネタについては全くタッチすることなく今作に臨んでいます。

物語の舞台は、民主党が20年以上も政権を担っていたらこうなるのではないかというレベルまで荒廃している2035年の日本。
少子化が今よりもさらに進んで人口は7500万人にまで減少し、円の価値が下落して経済は衰退。
日本政府は「小さすぎる政府」への転換を目指し、警察や消防などの公共サービスの類を大きく削減。
その結果、日本有数の人口を誇る東京や大阪などの大都会にのみ、充実した公共サービスによる秩序が存在する状態と化していました。
人口の希薄な地方の小さな市町村の類は完全に見捨てられ、地方都市でさえヤクザが跳梁跋扈し犯罪やテロが横行する始末。
特に少子化の影響から、子供の誘拐および人身売買が横行し、それがヤクザやテロリスト達の資金源になるという、極めて不安定な社会が現出していました。
警察は警察で、「事件に対処して欲しければまず多額の入金をしろ!」などと民衆に向かって堂々とのたまえるほどの腐敗ぶりを披露する惨状を呈していたりします。
そのため一般的な日本国民は、明日をも知れない苦しい生活の中、自分の身は自分で守ることを余儀なくされていたのでした。
誰もが先行きに不安を抱き、未来に希望が抱けない、まるで「北斗の拳」の無秩序な世界や、お隣の中国のモラルハザードな一般社会を再現しているかのごとき未来の日本。
そして、作中の物語の主要舞台となる八萬市(エイトシティ)もまた、犯罪組織の凶悪犯罪に悩まされていました……。

物語の冒頭、今作の主人公である横峯誠は、闇金からの借金取りに追われていました。
海辺の公園でついに借金取りに追い詰められ、カネを返すか海に投げ込まれるかの二者択一を迫られる横峯誠。
そこへ突然現れ、杖1本?で借金取りをあっさりと蹴散らしていった謎の老人。
老人は自らをヒーロー協会の理事長と名乗り、横峯誠をヒーロー協会へスカウトします。
ヒーロー協会での活躍次第では、お前の借金を肩代わりしても良いという条件付で。
危機的条件を助けられたということもあり、渡された電子ホログラム名刺?の案内に従い、ヒーロー協会の本部を訪れる横峯誠。
到着早々、彼は理事長によってヒーロー協会お抱えの戦隊「エイトレンジャー」のブラック&リーダーを任され、その他6名の隊員のまとめ役を任されることになります。
突然の抜擢に戸惑う横峯誠ですが、紹介された他の6名の「エイトレンジャー」達は、揃いも揃ってやる気がなく、訓練どころかひたすらダラけているありさま。
一応、横峯誠も含めた7人の「エイトレンジャー」達には、一定の条件が揃うと超人的な力を発揮できるスーツを支給されてはいたのですが、その発動条件は7人の中の誰にも分からず、現時点では宝の持ち腐れ同然の状態。
この状況を打破すべく、彼らはヒーロー協会の切り札で「伝説のヒーロー」としてその名を轟かせるキャプテン・シルバーに教えを請おうと動き始めるのですが……。

映画「エイトレンジャー」は、スーパー戦隊のパロディというだけでなく、物語の随所に「お遊び」的なギャグ要素が盛り込まれています。
たとえば、主人公の横峯誠がヒーロー協会を訪れた際、理事長からヒーロー協会のCM映像を見せられるシーンがあるのですが、そのCMの内容は、頑丈そうな物置にヒーロー協会の構成員が100人乗っていて自分達をアピールするというシロモノでした。
これは、物置の上に100人の人間が乗って頑丈さをアピールしていたイナバ物置のCMをいじったパロディです。
作中のヒーロー協会のそれは、最初物置の上に乗っていた100人がだんだんと数を減らしていき、しまいには10人を切ってしまう衰退ぶりを披露するという、何とも哀愁漂う仕上がりになっていましたが(苦笑)。
横峯誠も「何故物置?」というツッコミを小声で呟いていましたが、何故こんなネタをわざわざ仕込んでいたのか、観客としても是非知りたいところではありました(^_^;;)。
また、舘ひろしが演じるキャプテン・シルバーが居住するアパートの部屋の中には、何故か1980年代にテレビ放映されていた往年の刑事ドラマ「あぶない刑事」のポスターが貼られていて、「俺、そっくりだとよく言われるんだよね」と当の本人が弁明するシーンが披露されていたりします。
そっくりも何も、アンタは「あぶない刑事」で普通に主演のひとりを担っていたじゃないか舘ひろし、と往年の「あぶない刑事」ファンとしては思わずツッコミを入れてしまったものでした(^^;;)。
この辺りの所謂「お遊びネタ」は、今作の監督である堤幸彦の持ち味ではあるのでしょうね。
彼が同じく監督を担っていた映画「SPEC~天~」でも、この手の「お遊びネタ」が随所にちりばめられていましたし。
この「お遊びネタ」に代表されるように、今作の内容はギャグコメディをメインかつ前面に展開しつつ、要所要所でシリアスな要素を挿入するという構成になっています。
キャプテン・シルバーと横峯誠の関係や、今作のラスボスとのやり取りなどは、結構シリアスな展開になっていたりしますし。
この辺りの構成は、人によって好みが分かれそうなところではありますね。

それにしても、この世界における日本政府って、一体どこまで無能な統治をやっていたのだろうかと、正直その部分については色々と疑問を抱かずにはいられませんでしたね。
そもそも、今でさえ供給が需要よりも膨らんでいる「デフレギャップ」が叫ばれている中で、一種の需要減・供給増の効果をもたらす構造改革的な「インフレ対策」を打ち出すなど、狂気の沙汰もいいところなのですが。
作中における日本政府が実行した政策というのは、公共事業や公共サービスの削減という「小さすぎる政府」の実現であり、それは必然的にそれらのサービスに携る人達の給与を削り、需要を減らしてしまうことになります。
それは一方では「製造コストの減少」による供給増をもたらすことにも繋がるのですが、給与が減れば当然一般国民の購買力は低下せざるをえないので、そんな中で供給量が増えても経済は豊かにはなりません。
まさに「供給が需要を上回るが故のデフレギャップ」に苦しんでいる日本で、さらにそれを促進するような政策を行うのは自殺行為も良いところでしょう。
ならば外国に輸出して外貨を稼げば良いではないか、とは誰もが考えるところでしょうし、作中では「円の価値が下がった」と言われているのですから対外貿易にはむしろ適しているはずなのですが、その割には作中の日本は対外貿易で潤っているような形跡すらもありません。
昨今の日本経済で問題になっている事案のひとつに「円の価値が異様なまでに高くなっている」ことが上げられるのですから、「円の価値が下がる」円安は、むしろ日本経済にとって恩恵になりえるものではないかと思えてならないのですが。
あの世界の日本って、円の価値云々以前の問題として、諸外国から何らかの経済制裁ないしは海上封鎖でも行われているのではないか、とすら考えてしまったくらいなのですけどね。
第一、あそこまで経済状態がボロボロで大都会以外の治安も悪化し、かつ内部統制もままならない状態では、他国のスパイや特殊工作員なども今以上に入りたい放題になるでしょうし、場合によっては地方自治体のいくつかが諸外国のカネによって買収され、無血で他国領土化する可能性すら起こりえるのですけど。
そうでなくても、日本の周辺には中韓朝やロシアなどといった、日本侵攻の意思を明確に示している国々が蠢いているのですし。
むしろ、危機的状況に乗じられて日本が他国に攻め入られ分割占領された状態という、映画「ファイナル・ジャッジメント」的な状況の方が、日本の未来図としては「より」ありえそうな気がしなくもないのですけどね。
まあ、消費税増税やTPPなどという「デフレ下のインフレ対策」を堂々と推進し、その他の面々でも愚劣な政策や失政に邁進している民主党政権のようなシロモノが長く続けば、こんな荒唐無稽な暗い世界も夢物語ではなく実際に起こりえるのではないか、という「恐怖の可能性」もゼロとは言えないのが、いささかウンザリするところではあるのですが。
こんなアホな世界を現出させないためにも、国民のための政治をきちんと行ってくれる政治家や政権をきちんと選ばなければならない、という教訓を教える映画としても、今作はそれなりに機能するものと言えるのではないかなぁ、と。

ちなみに、作中における「エイトレンジャー」というのは「8人で構成される戦隊」ではなく、物語の主要舞台となっている八萬市(エイトシティ)の戦隊という意味を持つのだとか。
だから「エイトレンジャー」と銘打っているにもかかわらず、実際の戦隊の構成員は7人しかいないわけですね。
映画ではなく元ネタの方の「エイトレンジャー」は、「関ジャニ∞(エイト)」の結成当初が8人のメンバーだった頃の名残なのだそうですが。
映画のタイトルと予告編を初めて見た時は、キャプテン・シルバーか、ヒロイン(兼ラスボス)の鬼頭桃子のどちらかを含めて8人になるのではないかと考えていたものでした(^^;;)。
同じような構成だった映画「ワイルド7」は、当初は部外者だったヒロインがラストでメンバーに加わるというパターンになっていましたし。
ラストを見る限り、人気が出れば続編を作る気ではあるようなのですが、果たして興行的に成功するのでしょうかね、この映画は。

上でも述べていますが、今作は基本的にギャグコメディがメインで構成されていますので、その手の作品が嫌いという人にはあまりオススメできるものではないですね。
ただ、舘ひろしが本来お笑い物の戦隊スーツを違和感なく着こなしてシリアスな役柄を演じている様は結構面白いものがあったりするので、舘ひろしファンな方々は意外と必見かもしれません。

映画「ダークナイト ライジング」感想

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映画「ダークナイト ライジング」観に行ってきました。
映画「インセプション」のクリストファー・ノーラン監督が製作を手掛ける「バットマン」シリーズ3作目にして完結編のアクション大作。
今作のストーリーは、これまでのシリーズの集大成ということもあり、前2作「バットマン ビギンズ」「ダークナイト」の設定を踏まえた上で展開されています。
前2作を知らないと分からない設定やエピソードも多数含まれていますので、前2作を知らない方は、今作を観賞する前に予め前2作を先に観賞することをオススメしておきます。

前作「ダークナイト」から8年が経過したゴッサム・シティ。
前作で恋人を殺され、復讐者トゥーフェイスとして犯罪を犯し死んだハービー・デントを記念して制定されたデント法により、ゴッサム・シティの犯罪は個人・組織を問わずことごとく封殺されていました。
そのハービー・デントが犯した罪を一身に背負い、街からその姿を消したバットマンの存在と汚名を代償にして。
しかし、ハービー・デントの死の真相を隠蔽することは、バットマンに扮するブルース・ウェインと、隠蔽の共謀者であるゴッサム・シティ警察の市警本部長ジェームズ・ゴードンに大きな傷を残していました。
その良心の呵責に耐えかねたのか、ジェームズ・ゴードンはデント法の祝典パーティーの場でその事実を公表しようとしますが、市民の衝撃や糾弾から、一度はスピーチ用に書き上げた真相告白のための原稿を引っ込めてしまいます。
同じ頃、ブルース・ウェインは、自宅に侵入し、真珠のネックレスを身に付けたキャットウーマンと対面していました。
キャットウーマンは、足が不自由になっているブルース・ウェインに一撃を浴びせると、窓から飛び降り姿を消します。
ウェイン邸に侵入した彼女の目的は真珠のネックレスではなく、金庫に貼り付いていたブルース・ウェインの指紋であることが判明します。
キャットウーマンはブルース・ウェインが会長を務めるウェイン財閥の乗っ取りを企むジョン・ダゲットという人物から、ブルース・ウェインの指紋を取るよう依頼されていたのでした。
この騒動がきっかけとなって、ブルース・ウェインことバットマンはキャットウーマンと知己を得ることになるのですが……。

一方、ゴッサム・シティ市警は、凶悪テロリストとして恐れられているベインの行方を追っていました。
熱血捜査官のジョン・ブレイクの聞き込みからもたらされた情報で、ベインはゴッサム・シティの地下に拠点を作っていることが判明。
自ら指揮を取ったジェームズ・ゴードンは、ゴッサム・シティのマンホールからアジトに潜入するものの、護衛を全部倒された挙句、逆にベインの手の者達に囚われの身となってしまいます。
何とか隙を突き、脱出することには成功するものの、ジェームズ・ゴードンは瀕死の重傷を負い入院を余儀なくされてしまいます。
ジェームズ・ゴードンは、巡査だったジョン・ブレイクを刑事に昇格させ、自分の右腕として事件を捜査させ自分に直接報告を行うよう指示します。
ジョン・ブレイクはブルース・ウェインの邸宅を訪れ、8年前の事件以来すっかり引き籠りな生活を送っているブルース・ウェインに対し、8年前の事件に関する捜査令状を発動すると脅して半ば強引に対面を強要。
明らかに彼の正体を知っていると言わんばかりの言辞を繰り出し、バットマンの再来を希望するのでした。
折りしも、市内にある証券取引所に対して、ベイン率いる集団が強襲をかけるという事件が発生。
ブルース・ウェインは、ウェイン家に長年仕えるアルフレッド・ペニーワースの制止も聞かず、バットマンとして復帰し事件に対処することを決意するのですが……。

映画「ダークナイト ライジング」では、総計164分の長い上映時間の中で、重厚な人間ドラマが敵味方を問わず繰り広げられています。
アクションシーンなどもそれなりにはあるのですが、どちらかと言えば人間ドラマがメインで描かれている感がありますね。
その中でも特に重点的に描かれているのは、前作で幼馴染の恋人を亡くし、生きる希望を失ってしまったバットマンことブルース・ウェインの懊悩と、彼が立ち直っていく過程でしょうか。
実はその前作で死んだ当の恋人は、死の直前にブルース・ウェインに対して決別の意思を示した手紙を出しており、その手紙は執事アルフレッド・ペニーワースの手によって隠匿されていたのですが、そうとは知らずに恋人のことを想い続けるブルース・ウェインの姿は、なかなかに滑稽なものがあります。
今作では、この隠蔽劇についての一定の決着を見ることになります。
ただ、バットマンの道へ戻ることに反対するアルフレッド・ペニーワースから、恋人の手紙の真相を知らされたはずのブルース・ウェインは、しかしその割にはあまり衝撃を受けたようには見えなかったですね。
恋人が死んでから8年も経過していて記憶も想いも薄れている、という事情もあったのでしょうが、ブルース・ウェイン的にも、前作の恋人の態度に何か予感を抱かせるものでもあったのではないかなぁ、とは思わずにいられなかったところです。
また、アルフレッド・ペニーワースにしてみれば、事の真相を暴露することでブルース・ウェインのやる気を喪失させるという狙いも多分にあったのではないかと思われるのですが、結局ブルース・ウェインを止めることは叶わなかったわけで「当てが外れた」的な部分はあったでしょうね。
何やかや言っても、彼は誰よりもブルース・ウェインのことを考えて行動していましたし。

今作のメインとなる敵陣営のボスキャラ(ただしラスボスではない)となるであろうベインは、物理的な力においてバットマンと互角以上に渡り合えた稀有な存在ですね。
序盤はバットマン側のコンディションが思わしくなかったとは言え、完全に力で圧倒し牢獄にぶち込むところまでいっていましたし。
彼の失敗は、「死にたがっているお前を殺しても罰にならない」などという、ある意味潔癖症じみたことを主張して、あそこでバットマンをさっさと殺しておかなかったことだったでしょう。
物語終盤近くで自身が復活したバットマンに逆に追い詰められた時、彼は間違いなく自身のその言動を後悔したことでしょう。
だからこそ、ラスボスがバットマンにナイフを突き立ててその場を立ち去った後、彼はそれまでの生温い対応を投げ捨てて、躊躇なくその場でバットマンを殺す選択に打って出ざるをえなかったのでしょう。
その余裕のなさっぷりは、圧倒的な存在感を示していた序盤とは著しく対象的と言えるものでした。
その直後に、キャットウーマンが乗車していたバイクの砲撃で吹っ飛ばされてあっさり絶命してしまった結末は少々意外ではありましたが。
ベインはバットマンとのタイマン勝負で死ぬのだろうと、予告編を見ていた頃からずっと考えていたくらいでしたし。
この辺り、ベインの「悪役としての凋落ぶり」を感じさせるものではありましたね。

バットマン・キャットウーマンとくれば、あとはバットマンの相棒であるロビンも出てくるものなのですが、彼は作中の最後にその存在が明らかとなります。
ジェームズ・ゴードンの部下として、またバットマンの協力者として作中でも活躍するジョン・ブレイクが、警察と法の理不尽なあり方に憤って警察を辞職した後、「ロビン」という偽名を名乗ると共に、無人となったバットマンの秘密基地へと侵入するシーンがあるんですよね。
クリストファー・ノーラン監督より以前の映画「バットマン」シリーズでは、バットマンと共に敵と戦っていたロビンでしたが、あの世界における「ロビン」は、バットマンの存在なしでひとりで戦っていくことにでもなるのでしょうか?
最後の最後で「ロビン」を出してくる辺りは、ファンサービスが上手いなぁと思わずにいられなかったところでしたが(^_^;;)。

アクション物というよりは人間ドラマ重視の作品であり、どちらの視点で見てもそれなりの出来と面白さを兼ね備えた映画とは言えますね。

映画版「大奥」2作目の追加キャスティング発表

2012年10月からのテレビドラマ放映を経て年末に劇場公開される、よしながふみ原作マンガ「大奥」の映画版2作目の追加キャスティングが発表されました↓

http://www.cinematoday.jp/page/N0044467
>  [シネマトゥデイ映画ニュース] 堺雅人と菅野美穂が初共演する、人気マンガの映画版第2作『大奥~永遠~[右衛門佐・綱吉篇]』の出演陣が追加発表され、尾野真千子、柄本佑、要潤、宮藤官九郎、西田敏行ら豪華キャストの参加が明らかとなった。また同時に劇中ビジュアルも公開された。
>
>  謎の疫病で男女の立場が逆転した大奥が舞台となる本作。続編では多部未華子が3代将軍・家光を演じるテレビドラマと菅野美穂が5代将軍・綱吉を演じる映画が製作され、両方で堺雅人が主演を務めることも話題となっている。堺はドラマと映画で、正反対の性格の一人二役に挑戦。映画では野望を胸に綱吉に巧みに取り入る右衛門佐(えもんのすけ)にふんしており、ビジュアルでも冷徹な眼差しのクールな表情を見せている。
>
>  その右衛門佐と愛憎渦巻く派閥争いを繰り広げる男衆には、豪華キャストが集結。これまで
大河ドラマなどで徳川将軍を演じてきた西田が、綱吉の父・桂昌院として大奥側の人物にふんするほか、原作者に「この人以外に浮かばない」といわしめたエピソードを持つ要が綱吉の側室・伝兵衛を演じる。また二人の対抗派閥である綱吉の正室信平役には宮藤。「木更津キャッツアイ」シリーズで、脚本家として組んできた金子文紀監督とのタッグも見ものだ。
>
>  さらに本作の語り部となり、観客を作品世界に引き込む重要な役・秋元を演じるのは柄本。また女性キャストとして「カーネーション」の好演も記憶に新しい尾野が出演。綱吉の御側用人で、綱吉に愛ともとれる感情を持つ柳沢吉保を演じるということで、菅野をめぐる堺とのバトルにも期待できそうだ。
>
>  そのほか、綱吉との夜伽を命じられる若手として桐山漣、竜星涼、永江祐貴、郭智博、満島真之介、三浦貴大らイケメン俳優たちも出演。プロデューサーである荒木美也子がファーストインプレッションを抱いた役者が勢ぞろいしたというキャスト陣。1作目に負けず劣らずの個性的な面々による、まさに豪華絢爛(けんらん)な共演に、10月オンエア予定のドラマ版ともども期待が高まる。(編集部・入倉功一)
>
> 映画『大奥~永遠~[右衛門佐・綱吉篇]』は12月22日より全国公開
> テレビドラマ「大奥~誕生~[有功・家光篇]」は10月クールにTBS系列にてオンエア

ざっと見た限りでも、それなりの大物が出演していることが分かりますね。
芸能界については人並み以下に疎い私でさえ名前を知っている西田敏行が出るというだけでも、何となく察しはつきますし(苦笑)。
ただ、制作陣やキャスト面で気合が入っているのはわかるのですが、テレビドラマ版の視聴率および続編映画の興行収益的には果たしてどうなるのでしょうかねぇ。
原作の雰囲気や前作映画を見ても、ハリウッド映画ばりの派手なアクションシーンの類は当然全く存在しないでしょうし、前作映画のようなオリジナルな決闘シーンなどを入れるにしても、派手さよりも舞台演技的なものを演出する方向になるでしょうし。
TBSにしてみれば、久しく途絶えていた時代劇物を放映&劇場公開することになるわけですから、何としても成功させたいところではあるのでしょうけど、果たして一般受けするものになりえるのかは正直疑問がつきないですね。
まあ、昨今のテレビは若年層を切り捨てて高齢者&主婦層に迎合した番組作りに精を出しているようですし、地上波による久々の時代劇となれば、その手の層には受けるものになるかもしれませんが……。
年末公開予定の続編映画の方も、間違いなく「原作読了済みか、または1作目映画&テレビドラマ全て視聴済み」が前提の作品となるでしょうし、やはりテレビドラマの出来が趨勢を左右することになるのではないかと。
私も、1作目映画および原作コミック全て読了しているわけですし、テレビドラマ版&続編映画「大奥」の動向は最後まで注目していきたいところではありますね。

映画「スターシップ・トゥルーパーズ インベイジョン」感想

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映画「スターシップ・トゥルーパーズ インベイジョン」観に行ってきました。
1997年に実写映画化(日本では1998年公開)された「スターシップ・トゥルーパーズ」のシリーズ誕生15周年を記念して製作されたCGアニメーション。
今作は一応洋画に分類されるのですが、監督は何故か日本人の荒牧伸志が担当しています。
「スターシップ・トゥルーパーズ」自体はアメリカよりも日本の方が大ヒットしているので、それにあやかりでもしたのでしょうかねぇ。
ちなみに、実写映画版「スターシップ・トゥルーパーズ」はこれまで3作公開されているのですが、私が観賞したことのある作品は1作目だけですね。
というか、「スターシップ・トゥルーパーズ」の2作目と3作目って、製作費といい知名度といい、1作目の足元にも及ばないほどにマイナー過ぎるのですが(^^;;)。

今作では、実写版映画「スターシップ・トゥルーパーズ」の1作目から、最低でも数年~10数年の時間が経過した世界が舞台となります。
物語は、小惑星上に建造された地球連邦軍の要塞フォート・ケイシーが、連星クレンダスの惑星に住む昆虫型生物アラクニド・バグスの集団に占領されてしまったことから始まります。
地球連邦軍はただちにフォート・ケイシーを奪還すべく、複数の艦艇を派遣。
しかし、先行して要塞内へと突入した機動歩兵隊の報告により、フォート・ケイシーは既にバグの大群がひしめき合い、奪還は困難な情勢であることが判明します。
そこで現地軍は方針を転換し、要塞内の生き残りを救出しつつ、小惑星ごと要塞を爆破してバグ達を殲滅する作戦を展開することになります。
そんな中、フォート・ケイシーにいた超能力戦略担当大臣カール・ジェンキンスが、その権限を濫用し、要塞奪還のために来援していた戦艦ジョン・A・ウォーデン(以下「JAW」)号を自らの指揮下に置き、一足先に戦場を離脱し重要な物資を輸送することを宣言します。
これに怒ったのは、JAW号の艦長でカール・ジェンキンスの旧友でもあるカルメン・イバネス。
しかし、大臣という要職にあるカール・ジェンキンスに対し、所詮は一戦艦の艦長にすぎないカルメン・イバネスの抗議はあっさり一蹴され、彼女は同じく来援していた機動歩兵隊用の強襲艦アレジア号への移乗を余儀なくされるのでした。
一方、要塞内で生き残りを探していた機動歩兵隊は、フォート・ケイシーの守備を担っていたK-12機動歩兵隊の生き残り達と合流。
巨大な図体と数に任せて攻め込んでくるバグ達に犠牲を強いられながらも、彼らは要塞爆破の任務を見事遂行し、アレジア号でフォート・ケイシーを後にするのでした。

生き残ったK-12機動歩兵隊では、隊長として部隊を率い、「ヒーロー」の愛称で呼ばれているヘンリー・ヴァロ大佐が、反逆罪を犯したとして逮捕され、地球への帰還の途についたアレジア号の一室に監禁されていました。
何でも彼は、超能力戦略担当大臣カール・ジェンキンスの命令に背いたということから反逆者と見做されたとのこと。
ただ、彼の部下であるK-12機動歩兵隊の隊員達は今でもヘンリーを敬愛しており、彼の命令違反には何らかの理由があることが推察されました。
ヘンリーの件が引っかかるものの、直近の戦闘が終結したことと、地球へ帰還すれば休暇が与えられることから、それぞれ艦内で思い思いにリラックスする兵士達。
しかしそこへ、地球連邦軍の司令部から緊急通信が舞い込んできます。
通信用のスクリーンに出てきたのは、地球連邦軍の将官で、カール・ジェンキンスとカルメン・イバネスの旧友でもあるジョニー・リコ。
彼は、先のフォート・ケイシーでの戦いの際、一足先に戦場を離脱したカール・ジェンキンスとJAW号が行方不明になったことを告げ、その捜索と調査をアレジア号の全乗員に命じます。
しかし、カール・ジェンキンスのために自分達の隊長が汚名を被せられることになってしまったK-12機動歩兵隊の面々は、当然のごとく調査に乗り気ではありません。
しかし、だからと言って軍人として命令に逆らうわけにもいかない彼らは、任務を遂行するための条件として、元隊長のヘンリー・ヴァロを指揮官として復隊させて欲しいと嘆願。
元々自身も機動歩兵隊出身であるジョニー・リコは、兵士達の気持ちを理解しその嘆願を承諾、どんなに活躍しても裁判で情状の材料になることはないという条件付でヘンリー・ヴァロを復隊させます。
そしてアレジア号は、消息を絶ったJAW号の捜索へと乗り出すことになるのですが……。

映画「スターシップ・トゥルーパーズ インベイジョン」に登場する、ジョニー・リコ、カール・ジェンキンス、カルメン・イバネスの3名は、実写版映画「スターシップ・トゥルーパーズ」の主要登場人物でもあります。
ジョニー・リコが機動歩兵隊所属の主人公、カルメン・イバネスが彼のガールフレンド、カール・ジェンキンスがジョニー・リコの親友という間柄です。
当時はまだ軍に入ったばかりの一兵士や下士官でしかなかったあの面々が、今作ではそれぞれ要職に就いているのですから、その辺りにも時間の経過を感じさせるものがあるわけで。
この辺りは、往年の「スターシップ・トゥルーパーズ」ファンに対するサービス的な一面も多々あるのではないかと。
ただ、今作における彼らは、物語終盤におけるジョニー・リコ以外はこれと言った見せ場がなく、むしろ要人として守られる立場に終始しているのが実情ではあるのですが。
今作で活躍するのは、アレジア号に乗船している機動歩兵隊とK-12の面々ですね。
一応、元々アレジア号に乗船していた機動歩兵隊の指揮官とヘンリー・ヴァロが指揮官ということにはなっていますが、ただ、こちらは誰が主人公なのか分かりにくい構図がありますね。
作中の描写は、全ての登場人物を均等に扱っているような感があって、特定の誰かに集中的なスポットを当てる、という形は取られていないんですよね。
その中ではかなり活躍した部類には入るであろうヘンリー・ヴァロも、序盤はあまり出番がないですし、そもそも彼はジョニー・リコが来援したタイミングでバグ達を巻き添えに自爆して死んでしまうのですから。
「主人公が不在」というか「皆が主人公」的なスタンスで描かれていますね、この映画は。

また「スターシップ・トゥルーパーズ」と言えば、男女の混合集団によるシャワーシーンがごく自然な形で描写されるという、男女平等のグロテスクさを具現化するかのような衝撃的な映像で一世を風靡した1作目に象徴されるがごとく、男女の性の奔放っぷりが特に印象に残るシリーズでもあります。
今作でもそれは健在で、むさくるしい男達の真っ只中に、わざわざ「襲ってください」と言わんばかりの、上半身にタオルをかけただけのトップレスな姿で登場する女性軍人が描かれていたりします。
他にも、一応はまだ任務中の最中に、黒いボディスーツ?を身に纏った女性と一室でシケこんだりするカップルの様子が描写されていたりもしますし。
1作目もそうでしたけど、あの世界における男女の性の問題って一体どうなっているのかと、改めて疑問に思わずに入られなかったですね(苦笑)。
ただ、同じく1作目の物語の合間合間にしばしば挿入されていた、地球連邦のプロパガンダCMやニュースの類は今作では全く確認することができず、その点では少々「惜しい」部分もあったと言えるでしょうか。
まあ、アレは「スターシップ・トゥルーパーズ」というよりは、1作目を製作したポール・バーホーベン監督の持ち味ではあったのでしょうけど。

あと、あの世界における地球連邦軍の対バグ装備は、まだまだ改善の余地が大いにあるのではないでしょうか?
航空援護や戦車などの援護もなしに、ただひたすら軽火器で銃剣突撃をやっていただけな感が多々あった1作目に比べれば、今作の機動歩兵隊はパワードスーツを身に纏いつつ、やたらとゴツい重火器でバグ達と応戦しており、その点では兵装面で大きな進化が見られました。
ただ、物語終盤にジョニー・リコが搭乗していた、映画「アバター」辺りにも出てきていたような巨大なパワードスーツを標準装備化していれば、対バグ戦はもっと楽に戦うことが可能なのではないでしょうか?
何しろ、ジョニー・リコが操縦する1体の巨大パワードスーツだけで、今作のラスボスである女王バグを除いたバグの集団は一方的な殺戮の的にされていたのですから。
今までの機動歩兵隊の苦戦は一体何だったのかとすら思えるほどの圧倒ぶりで、「そんな便利な兵器があるのならば、何故前線の機動歩兵隊に大量に配備してやらないんだ?」という疑問すら浮かんできたくらいだったのですが(^^;;)。
まあ、その手の巨大パワードスーツは高価なものである、という事情はありそうなのですが、あの世界における前線の兵士達の戦死・損耗率が半端じゃないであろうことを考えれば、巨大パワードスーツを必須で配備する方がむしろ安上がりなのではないかとすら思えてならならないのですけどね。
アレを前線に大量配備すれば、各戦線でバグ達を圧倒し完全勝利することも難しくはなさそうにも見えますし。

作中のCG映像は、実写のそれと比較しても遜色がないくらいに良く出来たものではあります。
往年の「スターシップ・トゥルーパーズ」ファンはもちろんのこと、戦争映画やアクション物としても充分に見れる作品に仕上がっているのではないかと。

映画「メリダとおそろしの森」感想

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映画「メリダとおそろしの森」観に行ってきました。
数々の3Dアニメーション映画を手掛けてきた、ディズニー&ピクサーのタッグによる冒険ファンタジー。
この映画は3Dメガネが必要なバージョンも公開されていますが、私が観賞したのは2Dの日本語吹替版となります。
なお、今作は映画「おおかみこどもの雨と雪」との2本立てで同日観賞しています。

今作では、物語本編が始まる前に、ディズニー&ピクサー映画のキャラクターを使ったと思しき前座的な短編映画が2作品上映されます。
何の予告もなく突然始まったこともあって、本編と全く関係のない内容の短編映画が上映され始めた際には、「まさか、本来『メリダとおそろしの森』が上映されているスクリーンとは全く別の場所に間違って入ってしまったのか?」と、一瞬ながらもついつい考えてしまったものでした(^^;;)。
もちろんそんなことはなく、2作品が上映し終わった後に物語本編はきちんと開始されたのですが。

今作の舞台は10世紀頃のスコットランド。
そのスコットランドにある王国の第一王女にして今作の主人公のメリダは、幼少時に誕生日を迎えた際、父親にして国王でもあるファーガス王から弓をプレゼントしてもらいました。
得意気に弓を射る父親の真似をして、メリダは生まれて初めて弓を射ることになるのですが、初めて放った矢は的に当たるどころか、明後日の方向へと飛んでおそろしの森の奥深くに入り込んでしまいます。
メリダは森の奥の木に突き刺さっていた矢を見つけて戻ってくるのですが、その際に「モルデュ」と呼ばれる巨大な熊に目をつけられてしまいます。
メリダの後を追い、メリダを仕留めんとする巨大熊モルデュ。
そのメリダの前に、父王であるファーガスが武器を持って立ちはだかり、モルデュに単身挑みかかるのでした。

それから数年後。
父王ファーガスと王妃エリノアとの間には、長女メリダに加えて、さらにヒューバート・ヘイミッシュ・ハリス3つ子の兄弟が誕生していました。
ファーガスは数年前のモルデュ襲来と撃退、および際に失った左足を自らが誇る武勇伝として自慢の種にしていました。
そして、元来自由奔放かつお転婆な性格のメリダは、母親である王妃エリノアの伝統至上主義かつ花嫁修業的な教育方針に反発する日々を送っていたのでした。
元々親子としての仲は決して悪くなかった2人ではあったのですが、年を追うにつれてその擦れ違いはどんどん深まるばかり。
そんな中、エリノアは王国の有力貴族であるディングウォール・マクガフィン・マッキントッシュ3家の子息の中から、メリダの婚約相手を選抜すべく画策します。
当然メリダはこれに反発。
婚約相手を選ぶ儀式をメチャクチャにしてしまい、そのまま馬に乗って城から脱走し、冒頭にも登場したおそろしの森の奥深くへと入り込んでしまうのでした。
母親の束縛からなんとしても逃れたいと考えるメリダは、気が付くとストーンサークルが林立する場に出てきていました。
そこで、突如メリダの前に現れ、まるでメリダをどこかへ導こうとするかのようにひとつの道筋を作り出していく鬼火。
鬼火の光跡を辿っていったメリダは、その終着点でひとりの怪しげな老婆と出合うことになるのですが……。

映画「メリダとおそろしの森」は、出自が王家であることを除けば、世界中どこにでもありそうな母親と子供の関係が描かれています。
子供のことを考えるが故に自分の主張を子供にゴリ押しする母親と、それに反発する子供という図式です。
作中でも問題になっているこの図式は、実際に親子間で自己修復ないし解消できた事例は限りなく少ないものだったりします。
これはどちらかと言えば、子供以上に親の問題の方が大きいんですよね。
子供に対する躾と自分のエゴイズムとの区別が全くつかず、自分の考えを無条件に押しつけることが子供への躾であると勘違いする親は、はるか昔から後を絶つことがありません。
当の親自身も、それが間違っていることであるとは露にも思わず、それどころか「子供のためになる」と信じて疑っていないケースが一般的ですらあるのですし。
作中で何かと伝統云々を持ち出してメリダに礼儀作法やら何やらを強要しまくっていた王妃エレノアも、別にメリダに悪意を持って接していたわけではなく、むしろ逆に「それがメリダのためになる」と信じて疑っていなかったわけです。
こういう親って、最初から確信犯で子供を虐待している親と同じかそれ以上にタチが悪かったりするんですよね。
むしろ、なまじ親の善意が分かっているだけに、親を裏切るような後ろめたさや罪悪感を子供側が覚えずにはいられないという問題が発生する分、問題解決が却って厄介になったりするのですし。
また、子供を圧迫している親側は親側で「これは子供を育てるのに必要な愛のムチ」と心の底から信じ込んでいたりするため、話し合いで相互理解に到達する余地自体がほとんどなく、反省や自浄作用を求めることも限りなく不可能に近いときています。
それに加えて、人間が持つ母性本能には「子供をいつまでも自分の手元で保護したい」という欲求が組み込まれているため、その欲求に逆らおうとする子供の成長や自立心を、母親が自ら踏み潰そうとすることも決して珍しい話ではありません。
成長した子供が自分の元から離れていくことを嫌がり、「ひとりにすると不安だから」的な理屈をこねてとにかく自分の指図に従うよう強要する母親などは、まさにその典型ですし。
エレノアがメリダの自立心を拒絶し、あくまでも自分が敷いたレールの上を無理矢理歩かせようとしたのも、そういう本能的な欲求がどこかで働いていたからに他ならないのでしてね。
メリダとエレノアが物語のラストで結果的に和解できたのも、皮肉なことにエレノアが魔女の魔法にかかってしまい、2人が苦難を共にしたことが発端になっていたのであって、それがなかったら2人の仲は時間と共に悪化の一途を辿るだけだったでしょう。
その点では、作中では疑問の余地なく「悪い魔女」扱いされているであろうあの老婆も、結果的にはメリダの願いを最も理想的な形で叶えていた、と評価することもできるのではないかと。
まあ、当の老婆にそんなつもりは全くなかったのでしょうけど(^^;;)。

作中のストーリーはとにかくメリダとエレノアを中心に回っていて、その他の登場人物は軒並み脇役的な役柄に終始していますね。
父親であるファーガス王や3貴族達はひたすら「脳筋」としてのみ描かれていますし、メリダの弟の3つ子達は単なるマスコットキャラクターでしかありません。
特に、3つ子達がエレノアを熊に変えてしまったパンケーキ?をつまみ食いしてしまい、エレノア同様に熊に変化してしまった事象は、王家としては本来ならば王妃エレノアが熊に変わってしまったこと以上に問題となるべき事件であるはずです。
王妃エレノアには王位継承権がない可能性が濃厚なのに対し、3つ子達は王家の直系男子で王位継承権が間違いなく存在しているのであり、その3つ子が熊に変わってしまったということは、下手すれば王位継承の問題にも直結しかねない国の一大事となりえるのですから。
しかしその割には、作中における3つ子達の扱いは「王妃エレノアのついで」的なものでしかなく、メインの扱いには全然なっていないんですよね。
普通の流れで行けば、将来の王国の国王には3つ子達の誰かが即位することになるのですから、王妃エレノア以上に3つ子達の動向の方が本来重要事項であったはずなのですけどね。

ストーリー的には映画「おおかみこどもの雨と雪」と同じく「親子関係」をメインテーマに据えた作品ですが、中心となる視点が前半と後半で変化していった「おおかみこどもの雨と雪」に対し、今作は終始メリダの視点のみで描かれています。
その点では、こちらの方が子供向け作品であると言えるのではないかと。
なお、今作ではエンドロール後に特典映像が存在しますので、最後まで席を立たずに映画を観賞することをオススメしておきます。

映画「おおかみこどもの雨と雪」感想

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映画「おおかみこどもの雨と雪」観に行ってきました。
「時をかける少女」「サマーウォーズ」などの作品を手掛けてきた細田守監督の新作アニメーション。
なお、今作は映画「メリダとおそろしの森」との2本立てで観賞しています。
1日2作品の映画同日観賞は久々ですね(^_^;;)。

映画の基本的な進行は、後日の成長したと思しき雪のモノローグをはさみながら、物語の前半は映画のタイトルにもなっている雨と雪の母親である花に、後半は雨と雪に、それぞれメインスポットを当てる形で進んでいきます。
そして物語は、大学生である花が、大学の講義でひとりの男性に興味を示したことから始まることになります。
作中でもエンドロールでも「彼」としか呼ばれていないその男性と、花はやがて親密な関係を結んでいくことに。
ある日、「彼」と一緒に街中を歩いていた際に、花は自分の名前の由来を「彼」に話し始めます。
何でも「花」という名前は、生まれた際に近くに咲いていた花を父親が見て、「いつでも花のように笑っている」ことを願い名付けられたものだったとか。
もっとも、父親が死んだ際の葬儀でまで彼女は笑顔を浮かべ続けていて、周囲に「不謹慎だ」と非難もされた過去もあるのだそうですが(^^;;)。
その花の過去話に感化されたのか、「彼」もまた、自身の重要な秘密を花に明かすことを決意。
その日の夜、誰もいない場所で、「彼」は花の眼前で自身の顔を狼のそれに変容させるのでした。
「彼」は、過去に絶滅したニホンオオカミと人間の最後の混血種で、同じく混血種だった父親から「おおかみおとこ」の歴史を学び育ったのでした。
ちなみに、「おおかみおとこ」の変身能力は別に「満月の夜」に限定されるものではなく、また人の血を好むというものでもないのだとか。
しかし、そんな「彼」の正体を見てもなお、花の「彼」に対する好意は何ら揺らぐことはなく、2人はついに逢瀬の時を迎えるのでした。

人間と混血種の2人の間には、2人の子供が誕生しました。
ひとりは冬の雪の日に生まれた女の子で、その日の天気から取って名前は「雪」。
もうひとりは春の雨の日に生まれた男の子で、名前は同じく天気から取って「雨」。
2人の子供は共に、人間から人狼へと変身する能力を生まれながらに身につけていました。
そのことが事前に予測できたことから、花は出産の際、わざわざ病院にかかることなく、自宅のアパートで2人の子供を産んでいたりします。
子供も生まれ、永遠に続くかと思われた花と「彼」の関係は、しかしある日突然終わりを告げることになります。
「雨」が生まれて間もないある日、花は雨が降り注ぐ天気の中、近くの川で死んでいる狼の姿を目撃するのです。
狼の死体は業者によってゴミ収集車でゴミ捨て場へと運ばれてしまい、花は「彼」の死を看取ることすらできなかったのでした。
当然のごとく打ちひしがれてしまう花でしたが、残された2人の子供を見て、彼女は涙を浮かべながらも持ち前の笑顔を刻み、自分ひとりで子供を育てていくことを決意するに至ります。
しかし、「おおかみこども」である2人を育てるのには様々な困難が伴いました。
身体的な問題がある故に子供を他の子供達と一緒に遊ばせることもできず、また子供が病気を患った際も医者にかかることができず、自分ひとりで見様見真似的に対処しようにも、小児科と動物病院のどちらに相談すれば良いのかという問題もありました。
しかも、幼稚園や保育園に子供を預けなかったことから、児童虐待の疑いを抱いた児童相談所の職員にアパートまで押しかけられてしまう始末。
児童相談所の対応自体は、それはそれで当然のものだったとは言え、事情を知る観客的には「何とも世知辛い世の中になったものだなぁ」と痛感せずにはいられないものがありましたね。
都会での生活が難しいことを痛感し、また「おおかみこども」である子供達の将来のことについても考えざるをえなかった花は、思い切って人里離れた田舎へ引っ越すことを決意するのですが……。

映画「おおかみこどもの雨と雪」は、花と「彼」が出会ってから、2人の子供が小学校を卒業する年代になるまでの13年間が描かれています。
父親が亡くなってから子供達が小学校へ入学するまでは、母親である花の奮闘記的な要素がメインで繰り広げられていますが、それ以降は子供の性格の変遷にスポットが当てられている感がありました。
たとえば長女の雪は、幼少時はネズミなどの小動物や蛇などと格闘して遊ぶような、とにかく明るく活発かつお転婆な幼女として描かれていますが、小学校へ入学した後、新しくできた友人達との交流を経て、彼女は次第に恥じらいや淑やかさを身につけるようになっていきます。
それに対して弟の雨は、幼少時はとにかく母親に甘え姉に引っ張られるような臆病な性格をしていたにもかかわらず、成長するにつれてこちらは「おおかみ」が持つ動物的な本能に目覚めていき、ついには山の「主」とされる老キツネに師事し、その後継となることを決断するにまで至ります。
また母親である花もまた、田舎へ引っ越してきた当初は、何でもかんでも自分ひとりだけでこなそうと無理をするのですが、やがて田舎の人達の支援を受けるようになり、ご近所付き合いもできるようになっていきます。
この三者三様の成長をよく描いているのが、今作の特徴と言えるでしょうか。
個人的には、母親である花の真骨頂は、それまで手塩にかけて育ててきた子供達が自立していく際、それをきちんと認めてあげたことに尽きるのではないかと思うんですよね。
花にしてみれば、アレだけ自分が苦労して育ててきた2人の子供が、自分の元を離れていくというのは悲しい部分もあれば不安な一面もあるでしょうし、「できれば【自分の保護下で】育って欲しい」という感情は母性本能の一側面として見てもごく自然なものです。
人間の母性本能には、長期にわたる子育ての必要性から「子供をいつまでも手放さない」という要素も備わっており、それが特に子供の思春期以降では「過保護」「過干渉」などの問題を引き起こすことも決して珍しいことではありません。
だから母親にとって「我が子の成長と自立を認める」というのは、実は「子供を大事に育て守り続ける」のと同じかそれ以上に難しいことであるわけです。
後者ができても前者はできないという母親は意外に多いものなのですから。
もちろん、作中でモンスターペアレント臭をこれでもかと言わんばかりに放出しまくっていた草平の母親のような輩は、全くもって論外ではあるのですが。

草平といえば、作中で彼が雪の通っている小学校へ転校してきた直後、いきなり雪に対して「お前から獣臭い臭いがする」的な放言を言い放つに至ったのは、正直どうなのかとは思わずにいられなかったですね。
「おおかみこども」である雪の場合は、自身にある程度の後ろめたさがあったにせよ、あんなことを正面切って言われれば、性別や事情を問わず普通に嫌悪されて然るべきではなかったのかと。
挙句の果てに、「獣臭い」発言から雪のことをひたすら追いかけまくっていた件に至っては、イジメやストーカーの類と見做されても文句は言えないでしょうに。
まあ、雪に対してはモンスターペアレントとして振る舞いながら、再婚が決まった途端に自分の息子に対し「お前はいらない」的な発言をやらかした「あの」母親に育てられたのでは、そうなるのも当然かと思わせるものがあるにはあったのですが……。
あの草平の母親って、絶対再婚後も問題を引き起こしそうな気がしてならないのですけどねぇ(苦笑)。

作品の全体的な構成としては「大人向けのアニメーション作品」といったところになるでしょうか。
あまり子供向けに作られているとは言い難いような気が(^^;;)。
大人向け映画としては、それなりに丁寧に作り込まれているので、イチオシの作品であるとは言えるのですけどね。

映画「スリーデイズ」感想(DVD観賞)

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映画「スリーデイズ」をレンタルDVDで観賞しました。
日本では2011年9月に劇場公開されたアメリカ映画で、2008年公開のフランス映画「すべて彼女のために」のハリウッド版リメイク作品です。

どこにでもいる、ごく普通の両親と息子の3人家族であるブレナン一家。
いつものように朝の食事をとっていたブレナン一家を、突如複数の警官達が包囲し、妻のララ・ブレナンが殺人容疑の罪で逮捕されてしまったことから物語は始まります。
ララの夫で今作の主人公であるジョン・ブレナンは、妻の無罪を信じ3年にもわたり法廷闘争を繰り広げるのですが、1審はむろんのこと2審の裁判でも、ララの無罪を勝ち取ることは叶いませんでした。
ララの弁護人は、日本の最高裁に当たるアメリカの連邦最高裁では30年以上にわたって殺人事件を扱っていないことを理由に、判決を受け入れるよう進言します。
しかし、妻の無実を信じているジョンは当然のごとくそれを受け入れません。
しかし、もう裁判で逆転の目が全くないことは、如何にジョンと言えども覆すことのできない事実でした。
法の正義というものをまるで信じられなくなったジョンは、ここに至ってついに妻を刑務所から脱獄させ、逃亡生活を送ることを決意します。

ジョンは脱獄計画を成功させるため、過去に7回にわたって刑務所からの脱獄に成功した実績を持つデイモン・ペニントンに接触します。
彼はジョンに対し、「逃亡生活を続けることに比べれば、刑務所を脱獄すること自体は容易なことだ」と述べ、刑務所を脱獄するための極意をいくつか教えるのでした。
税関を通過できる新しい社会保障番号と偽造パスポートを揃え、逃亡のための資金を用意すること。
刑務所の官吏達は日常の業務を惰性的に行っていることから、非常時の際には隙が生まれやすいので、刑務所の様子をよく観察した上でその隙を突くこと。
逃亡の際にはアメリカと仲の良くない国に高飛びしてしまうこと。
そして何よりも、手段を問わず脱獄を成し遂げるという覚悟を持つこと。
ジョンはそれらのアドバイスを全て実行に移すべく、まずは社会保障番号と偽造パスポートを得るべく内々の活動を始めます。
最初のうちは、その手の裏稼業の人間にいくら金を積んでも、ただ金を奪われた挙句に暴力を振るわれるだけの結果に終わるのみで、なかなか目的のブツを手に入れることができません。
しかしそれでも、相場の2倍近い金をかけた末に、何とか家族全員が逃亡するのに必要な3つの社会保障番号と偽造パスポートを揃えることに成功します。
ただ、そのための代償は決して少ないものではなく、なけなしの資金も底を尽きることになってしまいます。
さらには、有罪が確定したララが、3日以内にこれまでの刑務所とは全く別の遠い場所にある刑務所へ移送されるとの情報が、面会したララからもたらされるのでした。
窮地に追い込まれたジョンは、ついに強硬手段を取ることを決意するのですが……。

映画「スリーデイズ」の最も皮肉で面白いところは、無実の妻ララを救うために有罪確実の犯罪を重ねていかなければならないという夫ジョンの立場ですね。
彼は妻を助けるために脱獄の準備を進め実行するのはもちろんのこと、資金難から麻薬密売組織のアジトを襲撃し、その構成員を2人も殺害して札束を奪ってしまいます。
必要に迫られ、また相手が麻薬密売グループとはいえ、立派な強盗殺人ですし、無実の妻を助けるために自分が罪を重ねるというのは本末転倒ではないか、とは思わなくもなかったですね。
もちろん、ジョンにしてみれば、2審でも有罪判決な上に再審の道も断たれたことで妻を助ける方法が他になくなってしまったわけですし、アメリカの社会システムそのものに絶望を抱いていたというのが正直なところではあったのでしょうが、それでも自ら強盗殺人を犯すというのは、当人にとっても「ルビコン川を渡る」的な心境ではあったのではないかと。
ジョン自身、強盗殺人を犯したことで「もう引き返せない」「ここで手をこまねいていたら何もしなくても全てを失う」という覚悟を抱かざるをえなかったでしょうし。
妻を見捨てて息子と2人だけで人生をやり直す、という選択肢も、ジョンにとっては論外なシロモノだったでしょうからね。
この「覚悟の描き方」というのは結構上手い部類に入るのではないかと思います。

制限時間が課せられ、一刻の猶予もない脱獄作戦は、全体的に紙一重的に警察の包囲網を掻い潜りつつ、時間が経てば経つほどに敵を罠に嵌める余裕が出てくるというパターンで進行していきます。
ジョンやララにとっての一番の難所は、一番包囲網が厚く隙を見出しにくい監視下の病院だったということになるのでしょう。
ある程度距離を離しての心理戦であれば、ある程度頭を使えば何とかすることもできるわけですが、警察を直接相手取っての逃亡劇となると、「逃げ方をどうするか?」以外の智恵など活用のしようがないわけです。
ジョンもララも別に武芸の達人というわけではなかったのですから、警察に捕まったらその場で一巻の終わりだったのですし。
この辺り、主人公が超人やスパイアクション系の凄腕工作員でないのがよく出ていますね。

個人的に少し御都合主義的に思えたのは、片道20分以上もかかる動物園に息子が行ってしまった件で、迎えに行くかどうかであれだけド派手に揉めたにもかかわらず、そのことで他者から警察へ通報が行くでもなく、またいともあっさりと息子を迎えにいくことが出来てしまった点でしょうか。
高速道路?とおぼしき場所でアレだけ危険運転でスピンしまくっていたら、他の通行人に対して目立ちまくり&大迷惑かけまくりなわけですし、通報が行かないほうが変だと思うのですが。
また、警察も「2人は子供の場所へ向かうだろう」と目星をつけていた割には、時間をかけまくって揉めにもめていたジョンとララ相手に後れを取ってしまい、結局3人を逃がす羽目になっていましたし。
個人的には、あの揉めていた時間は充分に致命傷たりえましたし、警察が先回りする時間くらいのロスは普通にあったのではないかと思えてならないのですが。
デイモン・ペニントンの「脱獄の心得」を見事に無視した上での行動でしたし、アレで助かるというのは少々御都合主義的な感が否めないところですね。

アクションはやや地味ながらも、手に汗握るサスペンス的な面白さはなかなかのものではないかと思います。

映画「苦役列車」感想

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映画「苦役列車」観に行ってきました。
第144回芥川賞を受賞した西村賢太の同名私小説を実写映画化した作品。
映画のタイトルに反して、作中に列車の類は一切出てきません(苦笑)。
作中には生々しい風俗関係の描写があるため、R-15指定されています。
なお今作は、熊本県では熊本シネプレックス1箇所限定での劇場公開となっていたため、そこまで足を運んでの観賞となりました。

物語の舞台は1986年。
父親が性犯罪行為で社会的に取り上げられ、一家離散を余儀なくされた挙句に中卒で働き始めた今作の主人公の北町貫多は、日雇い労働でその日暮らしの生計を立てつつも、風俗や酒に溺れる自堕落な生活を送っていました。
そんなある日のこと、いつも彼が日雇いで働いている職場に、その年から専門学校生として田舎から上京してきた日下部正二が新入り労働者としてやってきます。
北町貫多と日下部正二は仕事場で意気投合し、公私両面で行動を共にするようになります。
ちょっとしたことですぐにブチ切れる北町貫多に対し、処世術に長け世慣れた感のある日下部正二は、最初は良きコンビとして機能します。
もっとも、それは無理筋な要求ばかりする北町貫多に対し、日下部正二が困った顔をしながら受け入れていくというパターンに終始してはいたのですが……。
北町貫多には、行きつけの古本屋でバイトとして働くひとりの女性の存在が気になっていました。
自身も読書が趣味という北町貫多は、その容姿といつも読書をしているバイトの女性こと桜井康子にお近づきになりたいと願うようになっていたのでした。
北町貫多がそのことを日下部正二に話すと、彼は北町貫多を伴って古本屋へ直接乗り込み、桜井康子と直談判をすることで、2人の友人になってくれることを桜井康子に了承させることに成功するのでした。
しかし、「友達」の意味が全く分かっていない北町貫多は「友達になれる=(セックス的な意味合いで)ヤれる」と勘違いするありさま。
その様子に、日下部正二は一抹の不安を抱くのですが……。

映画「苦役列車」は、主人公の破綻だらけな性格と言動をどのように解釈するかによって、観る人次第で大きく賛否が分かれそうな作品ではありますね。
個人的には、正直「何を言いたいのか分からない」的な部分がとにかく多すぎる上、主人公の言動にはまるで共感も同情もできないというのが実情ではあったのですが。
ストーリー的に見ても、「生活破綻者が友人を得てから無くしていく過程」が延々と描かれているだけで、爽快感的なものもまるでなく、そこにどんなテーマがあるのかを見出すのにすら困難を極めるありさまでしたし。
同じ私小説でも、映画「わが母の記」などはテーマに普遍性があり感情移入もしやすかったのですが、この作品にそういう要素はまるで見出せない状態。
どちらかと言えば、映画「ラム・ダイアリー」を日本に移植してさらに劣化させた作品というのが、今作の実情に近い評価と言えるのではないかと。
作中で主人公が何の結果も出していないこととか、作中におけるヒロインの存在意義がないも同然とか、昔の特定地域の知られざる闇の雰囲気を堪能できるとか、そんな共通点が両作品共に存在するわけですし。
今年の観賞映画の中でもワーストクラスに入るであろう「ラム・ダイアリー」と作品の出来や評価までもが同じ、というのは正直どうかとは思うのですけどね(-_-;;)。

それでも無理に今作のハイライトを見出すとしたら、一度険悪な雰囲気になってしまった北町貫多と桜井康子が日下部正二の仲介で和解した後、3人で海に入って仲良くじゃれあう光景でしょうか。
個人的には、ここで映画そのものを終了しておいた方が、却って作品の評価は上がったのではないかと思えてならないですね。
ここからストーリーをさらに展開していくとしたら、友情に目覚めた北町貫多が真人間になっていく過程を描くというパターンが理想的なわけなのですが、実際にはこれ以降の北町貫多の性格破綻ぶりはますます悪化の一途を辿り、全ての人間関係を破局へと追い込むことになってしまうのですから。
作中の北町貫多は、中卒であることや家庭問題などで少なからぬコンプレックスを抱え込んでいるのは良いにしても、破滅願望でも抱いているようにしか思えない言動に終始し過ぎていて、とても感情移入できるようなシロモノではありませんでしたし。
物語の終盤近くで、日下部正二と彼の恋人?に対し、東京と映画について何やら偉そうに御高説を垂れていた場面でも、主張内容の是非以前に「そんなことをしたらせっかくの友人関係が確実に破綻するだろ」としか評しようがありませんでしたし。
作中の北町貫多って、対人コミュニケーション面で何らかの障害でも抱え込んでいる狂人の類にしか見えなかったのですが、こんな人物のどこに人間的な普遍性や魅力といったものが存在するのかと。
まあ原作からしてそういうキャラだったのかもしれませんし、そういうキャラクター性を100%出し切っていたであろう俳優さんは、それはそれで評価に値するのかもしれないのですが……。

最初から最後まで「救い」とか「明るさ」とかいった要素がまるで期待できない作品なので、エンターテイメント的な面白さや感動的な人間ドラマのようなものが観たいという方にはあまりオススメできるものではないですね。

映画「BRAVE HEARTS/ブレイブハーツ 海猿」感想

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映画「BRAVE HEARTS/ブレイブハーツ 海猿」観に行ってきました。
海難事故の救助に奮闘する海上保安官達の姿を描く、同名漫画原作の人気シリーズ劇場版第4弾。
劇場版の「海猿」シリーズは、前作「THE LAST MESSAGE/ザ・ラストメッセージ 海猿」および前々作「LIMIT OF LOVE/リミット・オブ・ラブ 海猿」において「シリーズ完結編」を謳い文句にした宣伝が盛んに行われていましたが、その謳い文句を2度も裏切った形で劇場公開された今作では、さすがに同じキャッチフレーズを使う気にはなれなかったみたいですね(苦笑)。
製作側としては、今作の観客動員数と興行収益が成功レベルに到達すれば、また続編を作る気満々なのでしょうし、その判断自体は正しいと思うのですが、どことなく「大人の世界&事情」が垣間見られる光景ではあります(^_^;;)。
前作も前々作もそうでしたが、今作も映画単体だけで楽しめる仕様となっており、これまでの「海猿」シリーズを知らない方でも問題なく観賞することができます。

今作が現実世界で前作から2年後に劇場公開されているのに合わせたものなのか、作中時間においても前作の「レガリア」の事故より2年の時間が経過している今作の舞台。
「海猿」シリーズの主人公である仙崎大輔は、前作まで所属していた海上保安庁の第十管区から「第三管区海上保安本部羽田特殊救難基地」こと特殊救難隊、通称「特救隊」に自ら志願し配属されていました。
「特救隊」は、全国各地で発生する非常に特殊で危険な救助活動を行うことを目的とする、海難救助のスペシャリスト達で構成されている部隊を指します。
「特救隊」の誕生は、1974年11月に東京湾で発生した、LPG・石油混載タンカーの「第十雄洋丸」とリベリア船籍の貨物船「パシフィック・アレス」が衝突・爆発炎上して総計30名以上の乗組員が犠牲となった「第十雄洋丸事件」を発端としており、当初は5名で発足、現在は1隊につき6名で構成される、第一から第六までの6隊36名で構成されています。
形式上は海上保安庁の第三管区に所属していますが、出動地域に制限はなく、海上保安庁の各管区からの出動要請に基づいて全国各地で救助活動を行う部隊とされています。
第十管区の機動救難隊で隊長になる話も持ち上がっていた仙崎大輔は、しかしその話を断り、後輩の吉岡哲也と共に「特救隊」の第二隊へと異動してきたのでした。

作中で最初に展開される「特救隊」第二隊の任務は、台風が接近している中で発生した大阪湾で事故を起こし沈没しつつあるコンテナ船での救難活動。
暴風雨が吹き荒れる中、既に大きく斜めに傾斜し積載されたコンテナ群が今にも海に転げ落ちそうになっている船の救出作業は、当然のことながら至難を極めるものがありました。
それでも「特救隊」第二隊の面々は、ヘリを巧みに船に接近させ、船上にいた2人を救助することに成功します。
しかし2人をヘリまで引き上げた直後、仙崎大輔は未だ船上にいた人がいるのを発見。
既に船はいつ沈没してもおかしくない危険な状況になっていたのですが、周囲が止めるのも聞かずに仙崎大輔は船上の人を救助にかかります。
しかし彼は、傾いた船に叩きつけられる荒波に飲み込まれ、さらにその上からはコンテナが落下しまくり、救助は全く不可能な状態に。
結果、その船員1名が犠牲になるという形で、作中の「特救隊」第二隊の任務は終了となってしまうのでした。
現場となった大阪湾から、「特救隊」への出動要請が行われた第五管区の本部へ帰還後、第二隊の副隊長である嶋一彦から「判断が甘い」「特救隊に必要なのはスキルと技術だ」と責められることになります。
同時に前々作および前作の救難活動で、最終的に仙崎大輔自身が同僚達から救助された件について触れられ、「それによって結果的に仲間を危険に晒した」「助かったのは運が良かっただけだ」とまで言われてしまいます。
しかし仙崎大輔は、「海難救助の際には諦めない心が必要だ」と反論し、結局両者はこの場では物別れに終わってしまうのでした。
仙崎大輔は、前作でバディとして海難救助を共にし、今では第五管区に異動になった服部拓也と一時の邂逅を果たしつつ、第三管区へと戻ることになります。

前作から2年の歳月は、仙崎大輔の私生活にも一定の変化を与えていました。
妻である仙崎環菜は長男の仙崎大洋に続く2人目の子供を身篭っており、後輩の吉岡哲也には付き合ってそれなりの月日が経つCA(キャビンアテンダント)の恋人が出来ていました。
仙崎夫妻は、吉岡哲也と恋人の矢部美香の関係を応援しており、吉岡哲也は既に結婚の決意まで固め告白する気満々ですらいるのですが、矢部美香は何故か結婚に乗り気ではありません。
実際、吉岡哲也は矢部美香に何度も「結婚してくれ」と迫っており、その都度矢部美香は何度もはぐらかし、遂には明確に拒否の意思を示し別れまで告げる始末。
表向きには仕事や収入を口実に挙げていた矢部美香には、それとは別の結婚したくない本当の理由があるようではあったのですが……。
そんな折、矢部美香がCAとして登場していた、シドニー発羽田空港行きのG-WING206便にエンジントラブルが発生。
マスコミの生中継で日本中が注目し、吉岡哲也が矢部美香の安否に気を揉む中、G-WING206便の乗客乗員346名の救助作戦が開始されることになるのですが……。

映画「BRAVE HEARTS/ブレイブハーツ 海猿」では、予告編でも公開されている「ジャンボジェットの海上着水」に至るまでのストーリーがかなり長いですね。
むしろ、そちらの方がメインなのではないかと思えるほど、ジャンボジェットを巡る動向に多くの時間が割かれている感すらあります。
最初は他の飛行機の着陸を禁止した上で羽田空港の滑走路に着陸させようとしたのですが、飛行機の胴体右側の降着装置が故障して車輪が出てこなかったことで、この作戦は失敗に終わってしまいます。
そして今度は、下川嵓の提案で海上着水が提案されるも、懸案が多すぎて一旦はボツになってしまい、かといって代案も浮かばす皆が頭を抱えているところで、仙崎大輔が海上着水の修正案を提示し、それによって作戦決行になった、という過程が延々と描かれています。
まあ実際問題、「ジャンボジェットの海上着水」というのは「着水から沈没まで20分程度しかない」と作中でも言われているように実は最悪の手段もいいところなのですし、可能な限り安全確実な救出手段を行いたいと考えるのも、救助する側としては至極当然のことではあるのですが。
作中の救助活動の際にも、中央部で2つに割れてしまったジャンボジェットは、コックピットを含む前部は「機体が一旦コックピットを頭にして垂直に立った直後に水没」という映画「タイタニック」を髣髴とさせるようなパターンで、後部は乗員乗客の大部分が退去したのを見計らったように割れた部分から水が流入する形で、それぞれ短時間のうちに水深60mの海の底に沈んでいきましたし。
一歩間違えれば大勢の犠牲者が出ることは確実の救出劇であり、確かに危険と言われるだけのことはありました。

物語中盤のハイライトは、官民問わず全て一丸となって救助活動に邁進する光景ですね。
一連の救助作戦は当初、警察・消防・海上保安庁・空港関係者などの組織や国家機構だけで主導されていたのですが、海上着水が決定されると民間の漁船や病院などにも協力要請がもたらされ、彼らも救助活動に協力していくことになります。
海上に即席で設置された誘導灯をパイロットが見出してから、海上着水した飛行機に向けて多くの船が動き出す光景は、まさに圧巻かつ感動的なものでした。
この辺りは、東日本大震災における日本の団結力の強さを再現しているかのようにも見えましたね。
製作側も意図してこういう描写を作ってはいたのでしょうけど。

作品全体で見ると、今作では前作「THE LAST MESSAGE/ザ・ラストメッセージ 海猿」でほとんど活躍の場がなかった吉岡哲也が、その鬱憤を晴らすかのごとく、下手すれば仙崎大輔をも凌ぐ勢いで見せ場がありましたね。
特に物語終盤付近では、ほとんど彼の独壇場的な感すらありましたし。
そして、これまでの劇場版「海猿」シリーズでも顕著に出ていた「生きるか死ぬかの手に汗握るギリギリの状況を描く上手さ」は今作でも健在です。
特に今作は、序盤の大阪湾の救助活動で船員のひとりが救助に失敗して死んでいることもあり、「ひょっとすると……」という考えは前作よりも強いものがありましたし。
あの「どうせ助かるのだろうけど、でももしや……」という感触を観客に抱かせる演出の巧みさはなかなかのものがあります。
これを「御都合主義ないしはファン向けのリップサービス」と見るか「安心して楽しめる」と解釈するかは、意見の分かれるところではあるでしょうけど。

「海猿」シリーズのファンの方々はもちろんのこと、人間ドラマや映画ならではの迫力ある演出を楽しみたい方などにも、今作は間違いなく楽しめる作品ではないかと思います。

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