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カテゴリー「映画観賞関連」の検索結果は以下のとおりです。

映画「スマグラー おまえの未来を運べ」感想(DVD観賞)

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映画「スマグラー おまえの未来を運べ」をレンタルDVDで観賞しました。
2011年10月に劇場公開された邦画作品で、月刊アフタヌーンの2000年5月号~8月号まで連載されていた真鍋昌平原作の同名漫画の実写映画化作品。
作中では殺し合いや拷問描写などが延々と続くこともあり、映画館ではPG-12指定されていました。

今作の主人公……のはずの砧涼介は、かつてとある劇団に所属して役者を志していたものの、劇団を辞めて今では自堕落な生活を送っているフリーター。
その自堕落な生活が災いし、彼は多額の借金を背負わされた挙句、その返済のために「スマグラー」という名の運び屋の仕事を強制的にやらされることとなります。
「スマグラー」は、ヤクザ同士の組織抗争の際に発生した死体などを、人の目の届かない場所に運んで処理をしたり、指定された場所まで運送したりする「非合法的な裏稼業」を主な生業とするグループです。
「スマグラー」の構成員は、「スマグラー」のリーダー格で凄腕のプロ的な雰囲気を醸し出している花園丈(通称「ジョー」)と、そのジョーの下で働く塚田マサコ(通称「ジジイ」)に砧涼介を加えた総計3名。
この「スマグラー」に、同じく裏家業の便利屋を営んでいる山岡有紀が運び屋の依頼をするという形で物語は進行していきます。

砧涼介の「スマグラー」での初仕事となったその日も、「田沼組」と呼ばれるヤクザの組長を含めた集団を襲撃し皆殺しにした中国人の凄腕殺し屋2人組の後始末をするよう依頼が舞い込んできていました。
輸送する荷物の中身をこっそりと確認し、刺青がびっしり入った死体と対面する羽目になってショックを受ける砧涼介。
しかし、既に多額の借金を背負っている身としては今更引き返すこともできず、彼は嫌々ながらも「スマグラー」としての仕事に従事することに。
人気の無い場所で死体を処理すべく移動し、やがて目的地に到着するという段になって、「スマグラー」に試練が訪れます。
不法投棄がないかパトロールしていた警官達に、ふとしたことから職質を受ける羽目になってしまったのです。
荷物の確認を行うから中身を見せろと迫る警官達に対し、懐から密かに銃を取り出し始末しようとするジョー。
しかし、そこで砧涼介の役者としての経験を生かした機転が功を奏し、警官達は荷物の中身を確認することなく、その場を後にするのでした。

一方、組長を殺されてしまった田沼組では、組長の仇を取らんと組織子飼いの組員達が気勢を上げていました。
彼らは死体処理を「スマグラー」に依頼していた山岡有紀の事務所に殴りこみをかけ、3日以内に組長を殺した下手人を捕らえろ、さもなければ……と脅迫するのでした。
仕方なく山岡有紀は、下手人である中国人殺し屋の2人組である「背骨」と「内臓」を捕縛すべく作戦を展開。
2人が所属する中国系マフィア「死海幇」の構成員で、砧涼介を借金地獄に陥れた元凶でもある張福儀の協力を得、2人に毒を飲ませると共に仲間割れさせることに成功します。
結果、「内臓」は死亡し、「背骨」も捕縛されることに。
そして山岡有紀は、2人の護送を当然のごとく「スマグラー」に依頼するのでした。
護送する際に何故か一緒に乗り込んできた組長の妻・田沼ちはるも同乗する形で、「スマグラー」は運び屋としての仕事を始めることになるのですが……。

映画「スマグラー おまえの未来を運べ」は、とにかく最初から最後までバイオレンスな描写のオンパレードですね。
「背骨」と「内臓」の殺し屋2人組が田沼組を壊滅させるところから始まり、「背骨」と「内臓」の仲間割れ、田沼組組員の拷問描写と、バイオレンスな描写が満載です。
特に、自らの失態から「背骨」を逃がしてしまった砧涼介が「背骨」の身代わりとして田沼組に引き渡され、拷問されるシーンに至っては、物語後半のかなりの時間を割いて延々と描写されていました。
色々とカメラアングルを駆使して具体的な描写ははっきりと映し出していなかったとはいえ、よくもまあPG-12指定で済んだよなぁ、と逆に感心させられてしまったところでした。
また、作中では「伝説の殺し屋」と称されている「背骨」の強さがおよそ尋常なものではなかったですね。
いくら奇襲をかけたからとはいえ、田沼組と死海幇という2つの裏稼業組織を1人で壊滅させてしまっていますし(前者の際は「内臓」も一緒でしたが、「内臓」は「背骨」のサポートに徹していてあまり目立っていませんでした)、物語終盤でマシンガンを持ったジョーと対峙した際には、マシンガンの弾を微速度撮影のごとき驚異的な動作で全てかわしきっていました。
殺し屋なのですから、人間を一瞬で殺せる技能自体は持ち合わせているにしても、至近距離でぶっ放されるマシンガン相手にあの動きというのは、さすがに人間の領域を超越しているとしか評しようがないのではないかと(苦笑)。

人間ドラマ的に見ると、主人公であるはずの砧涼介を、言葉が荒く無愛想な花園丈ことジョーが食ってしまっているような感がありありでしたね。
カッコ良さから言えば、ラストくらいしか見せ場がない砧涼介よりも、山岡有紀や田沼ちはるとの駆け引きじみた会話を何度も展開している上に「背骨」との対決シーンもあるジョーの方に圧倒的な軍配が上がりますし。
また、物語後半に砧涼介を延々と拷問にかける田沼組の組員・河島精二も、拷問役としてはなかなかに良い味を出していました。
拷問を進める過程でわざわざ服装を変えてきたり、拷問行為自体にエクスタシーを感じたりする「壊れたキャラクター」ぶりを完璧に演じきっていましたし。
他にも、実は組長殺しの元凶でもあり常に冷徹な態度を崩さないながらも、誰も見ていないところで素の自分を見せる田沼ちはるや、悪人であるが故に逆に信用できるとジョーが評価する山岡有紀など、映画「スマグラー」の登場人物は「悪であるが故の魅力」というものを前面に出しているキャラクターばかりですね。
だからこそ、主人公である砧涼介がそれらに埋もれて目立たなかったりもするのですが。
彼にもラストには一応見せ場もあるのですが、どうにも今ひとつな感がねぇ……。

日本映画では結構珍しいバイオレンス作品なので、観る人が観たら結構楽しめるのではないかと思います。

映画「スノーホワイト」感想

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映画「スノーホワイト」観に行ってきました。
グリム童話の名作「白雪姫」をベースにしつつ、中世騎士道物語的な冒険ファンタジーとアクション要素を取り入れ大幅にアレンジされたアドベンチャー作品。
主人公のスノーホワイト(白雪姫)にクリステン・スチュワート、悪玉の女王役にシャーリーズ・セロンを迎え、その他の役にもそれなりに名の知れたハリウッド俳優を出演させています。
もっとも、個人的にはこれまでの観賞映画であまり見かけたことのない俳優さんばかりで、唯一記憶にあった俳優さんは映画「マイティ・ソー」で主演を担っていたクリス・ヘムズワースくらいしかいなかったのですが(^^;;)。
予告編では、結構その辺りのことが強調されていたのですけどね。

物語は、当然のごとく今作の主人公である白雪姫ことスノーホワイトが生まれた王家の事情が語られていきます。
とある王家に生を受けたスノーホワイトを産んだ実母のエレノア王妃は、スノーホワイトが幼い頃に国を襲った厳冬に耐えられず死去。
王妃が亡くなったことで悲嘆に暮れるマグナス王ですが、それから間もなく、王は領土内に異形の軍隊がどこからともなく出現したとの報を受け、それを討伐すべく兵を率いて出陣します。
異形の軍隊は、剣で斬りつけると何故かガラス細工のごとく砕け散る不可解な兵士達で構成されていましたが、戦いそのものはマグナス王が率いる王国軍の勝利に終わります。
しかし、その戦場で異形の軍隊の囚われの身?となっていたひとりの女性をマグナス王が助けたことが、その後の王国の運命を激変させてしまうことになります。
その女性ラヴェンナの美しさに一目惚れしたマグナス王は、王妃が亡くなっていたこともあって再婚を決意、程なく2人は盛大な結婚式を挙げ結ばれることになります。
ところがその夜、マグナス王と共に初夜におよんだラヴェンナは、魔術で王の自由を束縛した後、隠し持っていて短剣でマグナス王を殺害してしまったのです。
そして、外に待機していた軍隊を城内に招きいれ、城と城下町を完全に制圧してしまいます。
この事態に、マグナス王の側近のひとりだったハモンド公爵は、スノーホワイトの許婚で息子でもあるウィリアムと共に、王の忘れ形見であるスノーホワイトを連れ城から脱出しようとしますが、スノーホワイトは乗っていた馬の騎手を討たれてために逃げ遅れてしまい、ラヴェンナの弟フィンに捕らえられてしまうのでした。
以後、スノーホワイトは城にある塔の監獄に幽閉され、そこで何年も過ごすこととなります。

それから7年後。
軍隊の力を背景に女王として即位したラヴェンナの美貌と魔力を保持するための代償から、王国は大地が不毛の地と化し、また若い女性が定期的に捕らえられ生気を吸い尽くされていくなど、衰退と荒廃の一途を辿っていました。
今や王国の民は、女王ラヴェンナの暴政によってその日暮らしにすら困窮を極めるありさまであり、女王に対する怨嗟の声は高まるばかりになっていました。
そんなある日、女王ラヴェンナはいつもの日課になっているらしい鏡に対する問いかけを行っていました。
「鏡よ鏡、この世で一番美しいのは誰?」
すると鏡はこう答えます。
「もちろん、女王様でございます」
ここまではいつものやり取りだったのですが、しかしその日の鏡は、そこから女王が全く予想だにしない言葉を続け始めたのです。
「しかし、それも今日まで。スノーホワイトが女王様よりも美しくなる上、その純粋な心は女王様をいずれ破滅へと追いやります。ただ、彼女は同時に女王様の救いにもなります。スノーホワイトの心臓を食べれば、女王様は永遠の美貌と若さを手に入れ、不死身となることでしょう」
と。
ラヴェンナはただちにスノーホワイトの心臓を食べるべく、弟のフィンを呼び出し、スノーホワイトをここに呼んでくるよう命じます。
ところがフィンは、ラヴェンナの下へ連れて行く前にスノーホワイトをレイプしようとした挙句、スノーホワイトの逆襲を食らって脱獄を許してしまうという失態を演じてしまいます。
さらにスノーホワイトは城内にある下水道から海に出、城からの脱出にも成功。
激怒したラヴェンナによってすぐさま追跡部隊が編成され、スノーホワイトの追撃が開始されました。
しかしスノーホワイトは、「入ったら生きて出られない」とまで言われ恐れられている「闇の森」へと入っていってしまい、それ以上の追跡が不可能となってしまいます。
ラヴェンナはスノーホワイトを捕まえるため、「闇の森」に入って生きながらえた経験を持つ猟師のエリックを探し出し、彼に「闇の森」の案内をするよう命令します。
最初は拒絶していたエリックでしたが、「死んだ妻を生き返らせてやる」というラヴェンナの報酬内容に心を動かされ、彼は追跡部隊と共に「闇の森」へと入っていくのでした。
そしてやがて、エリックと追跡部隊はスノーホワイトを見つけ出すことに成功するのですが……。

映画「スノーホワイト」では、上記のストーリー紹介にも出ている「世界で一番美しいのは誰?」という問いに回答する鏡の他、白雪姫を昏倒させてしまう毒リンゴや7人の小人などといった、原作「白雪姫」に登場する要素が少なからず登場しています。
作中に登場する小人は実は当初8人なのですが、1人がスノーホワイト目掛けて放たれた矢から身を呈してスノーホワイトを守って死ぬことで7人になるわけですね。
残りの7人はそのまま物語終盤の攻城戦でも活躍し、そのまま生き残ることになります。
原作では「物語の要」になっているであろう毒リンゴのエピソードは、弟のフィンが率いていた追跡部隊が壊滅し、スノーホワイトの一行が「闇の森」から出てきた後、城から魔法転移してきたラヴェンナが、許婚のウィリアムに化けてスノーホワイトに毒リンゴを食べさせるという形で展開しています。
スノーホワイトの元にラヴェンナ自ら魔法転移が出来るのならば最初からそうしておけば良かったのに、とは最初思わなくもなかったのですが、ただ「闇の森」の中ではラヴェンナの魔力も無力化すると作中で明言されていた上、魔力の発動自体にもかなりの消耗を強いられるらしいので(城に再転移した後のラヴェンナは著しく衰弱していた上、魔力を回復するために何人もの人間の生気を吸い出していました)、最初は魔力の出し惜しみをしていたのでしょうね。
それが、弟のフィンが死んだことにショックを受け、仇討ちも兼ねて半ば感情的に出張ってきた、といったところになるでしょうか。
そもそも、スノーホワイトが「闇の森」の中で死んでしまい、遺体すら回収不能になってしまう可能性も最初は濃厚だったわけですし。
また、ラヴェンナひとりしか転移できないのでは、スノーホワイトを奇襲しようにもかなりの制約と限界もあったでしょう。

一方で、スノーホワイトにラヴェンナが食べさせたあの毒リンゴには、実は致死性の毒的なものは最初から含まれていなかったのではないか、という疑問がありますね。
そもそもラヴェンナにしてみれば、スノーホワイトを生きたまま捕縛し心臓を取り出さなければ、自身の目的を達成することができないわけですから、原作と違ってあの場でスノーホワイトをわざわざ毒殺しなければならない理由自体がありません。
現にスノーホワイトが毒リンゴを食べて動けなくなった後、ラヴェンナはスノーホワイトの心臓を取り出そうとしていたわけですし。
あの毒リンゴの毒というのは、実は「死」ではなく「麻痺」「仮死状態」をもたらすものであり、スノーホワイトが生き返ったのも単にその毒の効果が切れたからであって、原作のごとき「王子様のキス」によるものではなかったのではないか?
作中における「王子様のキス」自体、許婚のウィリアムと猟師のエリック2人がそれぞれ別に行っていましたし、作中で構築されていた「スノーホワイトを巡る一種の【三角関係】」的なものがその後のストーリーでも全く解消されていないことを鑑みても、どうにもそんな感想を抱かざるをえなかったところです。
物語のラストはスノーホワイトの女王即位で幕を閉じていて、ウィリアムとエリックのどちらと結ばれたのかについても全く描かれていませんでしたし、その辺りの「恋物語」については消化不良の感は否めなかったかな、と。

ただ、映画制作者達の話によれば、今作は実は3部作の1作目という位置付けで製作されているとのことで、スノーホワイトを巡る三角関係も今後出してくる予定の続編で解消するつもりなのかもしれませんね。
まあ、映画の原題「Snow White & the Huntsman(白雪姫と狩人)」や「エリックのキスの直後にスノーホワイトが毒リンゴの呪いから目覚めた」という展開などから考えれば、今作におけるスノーホワイトの恋人はエリックで確定してしまうのですが(苦笑)。
個人的には「許婚」で「幼馴染」かつ「身分的にも釣り合いが取れている」という王道路線を地で行くウィリアムの方が、死んだ妻のことを未だ愛している上に放浪者のエリックよりもスノーホワイトの恋人役にふさわしいのではないかと思わなくもないのですが。
スノーホワイトの心がどちらを向いているのかも作中ではほとんど描かれていなかったので、今後のウィリアムの逆転に期待したいところではあります。
エリックがスノーホワイトの恋人役に確定してしまうと、続編のウィリアムは間違いなく悪役かピエロなやられ役かの二者択一を迫られることになるでしょうし(爆)。
人気が出なかったとか予算の都合とかいった「大人の事情」でも介在しない限りは、続編製作は確実に行われることになるでしょうから、この「三角関係」がどのような結末に至るのかは注目ですね。

原作の「白雪姫」と異なり、今作はキスシーンはあるものの、恋愛的な要素はほとんど介在しておりません。
「ロード・オブ・ザ・リング」のような冒険ファンタジーや中世時代の軍隊同士の戦いが好きな方にオススメの作品ですね。

映画「アントキノイノチ」感想(DVD観賞)

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映画「アントキノイノチ」をレンタルDVDで観賞しました。
2011年11月に劇場公開された邦画作品で、歌手として有名なさだまさし原作の同名小説を実写映画化した、岡田将生・榮倉奈々主演の人間ドラマ。
あの銀英伝舞台版第一章でラインハルトを演じた松坂桃李も、主人公の高校時代に重要な役として登場しています。
2012年6月9日および10日は、当初観賞を予定していた映画が既に試写会で視聴済みの「幸せへのキセキ」1作品しかなかったため、久々に映画を観賞しない週末を迎える羽目になってしまいました(T_T)。
そんなわけで、久々に手持ち無沙汰となってしまった私は、せっかくの機会だからということで、去年観賞し損なっていた映画をいくつかレンタルDVDで観賞することにしたわけです。
まあ、今年の私の映画観賞総本数は、過去最高を記録した2011年の65本をすら上回るのが既に確実な情勢となっていますし、たまにはこういう週があっても良いのでしょうけどね。

映画「アントキノイノチ」の冒頭は、裸で屋根に上っているひとりの青年の姿が映し出されるところから始まります。
高校の制服をズタズタに切り裂き、「僕は二度、親友を殺した」という意味深なモノローグが語られたかと思えば、舞台はそれから3年後にあっさり移ることになります。
その当時、この青年こと主人公の永島杏平に一体何があったのかは、その後の物語の進行と共に語られていくことになります。
3年後に舞台が移り、永島杏平は父親の勧めで遺品整理業を営む「クーパーズ」という職場を紹介され、そこで働くことになります。
遺品整理業とは、不慮の事故や突然死などで亡くなった人の部屋を片付け、貴重品や遺品などを保管する仕事のことを指します。
永島杏平が「クーパーズ」に入社して最初の仕事は、死後1ヶ月も経過して遺体が発見された孤独死の老人の部屋を片付けるというものでした。
孤独死から1ヶ月にわたって遺体が放置されていたこともあり、遺体があったと思しきベッドは遺体から流れ出た大量の体液で汚れており、また部屋の至るところに遺体を貪っていたであろう蛆虫の死骸が散乱しているような状態でした。
最初は誰もが怖気づき、最悪はその場で辞めていくと「クーパーズ」の先輩社員である佐相(さそう)は永島杏平に話しかけるのですが、しかし永島杏平は特に何も語ることなく淡々と仕事に従事していきます。
永島杏平の様子に感心した佐相は、比較的年齢の近い久保田ゆきという先輩社員から仕事を教わるよう、永島杏平に指示を出します。
初めての仕事で右も左も分からない永島杏平に、久保田ゆき淡々と、しかし丁寧に仕事のやり方を教えていくのでした。
しかし、過去の精神的外傷が原因なのか、話しかけられてもロクに返事すらも返すことが無い永島杏平。
そのことを心配した佐相は、久保田ゆきに金を渡して永島杏平と「飲みニケーション」をするよう伝えます。
そして久保田ゆきと「飲みニケーション」をすることになった永島杏平は、それがきっかけとなって久保田ゆきと気軽に話し合える仲になっていくのでした
久保田ゆきのことが気になりつつ、遺品整理業を続けていく過程で、永島杏平は自身と久保田ゆきのそれぞれの過去と向き合っていくことになるのですが……。

映画「アントキノイノチ」は、主人公・ヒロイン共に凄惨な過去を持ち、精神的な外傷を抱え込んでいるような状態にあります。
永島杏平は、高校時代にイジメに遭っていた親友・山木信夫の自殺に直面した上、イジメの元凶であった同級生の松井新太郎を二度にわたって殺そうとした過去に苦しめられ続けていました。
一方、久保田ゆきは、高校時代にレイプされた上に妊娠してしまい、レイプ犯からも親からも罵られた挙句に流産してしまったことから、重度の男性恐怖症と絶望感を抱え込むようになっていました。
序盤の2人は、遺品整理業に何かの意義を見出していたというよりも、とにかく何でも良いから作業に没頭することで、過去のトラウマから逃避したかっただけなのではないかと思える一面を覗かせていました。
ただ何となく生きていただけ、そんな感じが漂いまくっていたんですよね。
しかし、遺品整理業の仕事を進めていく中、故人の遺族に遺品を渡したことで感謝されたことから、まずは永島杏平に転機が訪れます。
これ以降、彼は明らかに遺品整理の仕事に積極的になっていきましたし、そればかりか遺族にわざわざお節介をかけるほどに精神的な回復が見られたのですから。
あの時初めて彼は、自身の生きる意義を見出すことができたのではないでしょうか。

むしろ物語中盤以降は、序盤はまだ普通に見えていた久保田ゆきの落ち込みぶりが半端ではなかったですね。
男性恐怖症を克服するために永島杏平とセックスに及ぼうとして果たせなかったり、死んだ子供の部屋の遺品整理をしている最中に過去のトラウマが蘇り「クーパーズ」を辞めてしまったり。
作中の描写を見る限り、久保田ゆきは自身がレイプされたことよりも、胎児が流産してしまったことの方を気にしていたようで、また、そのことでトラウマを抱え込んでいるにもかかわらず、そのことが忘れられずに苦しんでいる感じでした。
これに対し、永島杏平は「それでも君は生きている」「その胎児の生命が君の負担を背負って亡くなったからこそ、今の君がここにいる」という主張で励ますのです。
これが、映画のテーマにもなっている「あの時の命」の意味であり、それを早口で何度も言った際のなまりが、そのまま映画のタイトルにもなっているわけですね。
ただ、その際に何故か「アントニオ猪木」のネタが出てきたのは、ご愛嬌なのかギャグなのか判断に苦しむところがあるのですが(苦笑)。

しかし、これで主人公とヒロインが意気投合して結ばれる明るい未来が待っているのかと思いきや、物語は全く意外な方向へと向かいます。
「クーパーズ」を辞めた後に介護施設で働いていた久保田ゆきが、介護老人を見舞いに来たらしい子供を庇い、猛スピードで突っ込んできたトラックに跳ねられそのまま死んでしまうのです。
何の伏線もなく唐突だった上、久保田ゆきが永島杏平の説得で立ち直っていく過程が描かれていただけに、あまりにも意外過ぎる展開に驚かずにはいられませんでしたね。
庇われた子供は全くの無傷だったので、てっきり久保田ゆきも重症ながら生きているのでないかと最初は考えていたのですが、永島杏平と佐相の2人が「クーパーズ」の仕事として久保田ゆきの遺品整理を始めたことで、否応なく死の事実が明示されていましたし。
作者ないし映画製作者側の意図としては、生命のリレーによって人は生きている、という「アントキノイノチ」の摂理を、不条理な現実と共に観客に突きつける意図があったのでしょう。
ただ、「アントキノイノチ」の論理は既に久保田ゆきの過去話によって示されていたのですから、その上さらに追加でヒロインを死なせてしまう必要はすくなくともストーリー的な必然性の面ではなかったのではないか、とは思えてならなかったですね。
お腹の中の子が死んだことで久保田ゆきがここにいる、という「アントキノイノチ」の論理をまた再現したいのであれば、むしろ永島杏平と久保田ゆきを結婚させ、2人の間に子供を生ませるという結末に持っていくという形にしても「その子供は2人の親の存在があったからこの世に誕生しえた」という論法で充分に達成可能なわけですし。
全くの意外性と不条理な現実を突きつける、という点では効果のある演出だったと思うのですが、作品的には「ハッピーエンドになり損ねた」という点でややマイナスな部分が否めない、といったところでしょうか。

生命の絆的なテーマを盛り込んだ人間ドラマ作品を観たい、という方にオススメの作品となるでしょうか。

映画「外事警察 その男に騙されるな」感想

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映画「外事警察 その男に騙されるな」観に行ってきました。
麻生幾の同名小説を原作とする、あまり知られていない日本の警視庁公安部外事課(通称「外事警察」)にスポットを当てたサスペンス作品。
今作は2009年にNHKで放映された人気ドラマシリーズの続編となる作品ですが、作品自体は単独でも問題なく観賞できる仕様になっております。
ただ、主人公を取り巻く人間関係が少しばかり複雑なので、その辺りのことについてまで網羅したい方は、NHKドラマ版を事前に復習しておいた方が良いかもしれません。
ちなみに、私はドラマ版未視聴で今作に臨んでいます(^^;;)。

物語は、血まみれの白い服を纏い、右手に1枚の古びた写真を持つ女性が、クルマが1台も走っていない自動車道路?の大橋で倒れこみ、警察に保護されるところから始まります。
警察官が韓国語をしゃべり、女性が日本語で「韓国語は理解できない」と応対していることから、今いる国とそれぞれの立場が判明します。
この描写は実は物語終盤の展開に繋がるものであり、この場面自体はすぐに他の場面に切り替わることとなります。

次の場面は韓国の国境線。
韓国政府は北朝鮮を国家として承認していないため、韓国の公式見解による「韓国の国境線」というと実は中国と北朝鮮の国境線がそれに該当することになるのですが、今作の場合はどう見ても北朝鮮と接する38度線のことでしょうね。
作中では「北朝鮮」とは明示されず、「あの国」「朝鮮半島」という曖昧な表現に終始していますが。
その国境線にて、「あの国」から濃縮ウランを獲得してきた工作員らしき男の存在と、その男を待ちかまえつつ、取引をしようとする男を殺して濃縮ウランと共にその場を立ち去る大物らしき人物が描写されます。
同じ頃、東日本大震災で混乱する日本の東北地方にある陸奥大学で、核爆弾の小型化を可能とするレーザー起爆装置に関するハードディスクが盗まれるという事件が発生。
日本と「朝鮮半島」で起こった2つの事件に関連性があると判断した、「日本のCIA」と呼ばれる警視庁公安部外事課は、今作というよりドラマ版からの主人公であり「公安の魔物」と恐れられた住本健司に調査を命じることになります。
住本はまず、元在日二世で「朝鮮半島」に渡航して核開発に携り、現在は韓国に亡命していたらしい徐昌義を確保し、最高水準の医療と警備体制をつけて日本の施設に移送します。
次に彼は、震災に乗じて日本国内で蠢いている工作員の洗い出しに着手。
その結果、元韓国人で日本人女性と結婚し日本国籍を取得して「奥田交易」という企業を営んでいる金正秀(日本名:奥田正秀)という人物が浮上します。
そこで住本は、金正秀と結婚している日本人女性の奥田果織に目をつけ、彼女を「協力者」として利用することを考えるのでした。
部下である松沢陽菜を使って奥田果織に接触し、とあるアパート?の一室に誘い込んだ住本は、説得と脅しの話術を巧みに駆使することで、奥田果織に夫のことを探らせる「協力者」に仕立て上げることに成功するのですが……。

映画「外事警察 その男に騙されるな」では、主人公・住本健司の性格設定がなかなかに複雑な様相を呈していますね。
一見すると穏やかなイメージがあり、人の心の痛みが理解できる優しい人物像を思い描きがちなのですが、要所要所では脅しや騙しの手練手管を躊躇なく駆使して手段を選ばず目的を達成する一面も併せ持っています。
妙に誠実そうな対応をしたかと思えば、自分の命令を有無をも言わさず実行させるような一面も見せたりしていますし。
作中でも色々な「顔」をその時々に応じて使い分けている感があり、その正確な人物像を特定するのが非常に難しいですね。
その辺りが「公安の魔物」という異名を冠されている部分でもあるのでしょう。
この異名にふさわしい「魔物」ぶりが今作で最大限に発揮されたのは、物語の終盤で韓国に潜んでいるテロリストグループが殲滅された後、小型核爆弾を製造した徐昌義と対峙した場面ですね。
徐昌義には、かつて「朝鮮半島」へと渡った際、日本に妻子を残しており、妻は自殺、娘は消息を絶って「死亡判定」が出ている状態でした。
しかし住本は、娘が韓国人に誘拐されて娘を取り戻すべく必死になっている奥田果織に対し、奥田果織こそが徐昌義の娘であるとDNA判定による親子証明書で証明してのけ、さらには「金正秀も彼女の正体を知っていて、徐昌義に対する人質として偽装結婚をしていた」などという非常に説得力のある論法まで提示することで、徐昌義と奥田果織の「親子対決」を現出させていました。
ところが物語のラストでは、住本が提示していた親子証明書は全くの偽物であり、「否定」の判定が下っていた本物の証明書が焼き捨てられるシーンが描写されていたのです。
しかも、住本はその場にカネを置いていくのですが、それを受け取ったのが何と奥田果織の娘を誘拐した韓国人だったというオチ。
奥田果織が「あの人と私が親子って、実は嘘でしょ?」と発言してあのシーンが出てくるまで、観客の多くが「住本が言っていることは事実である」「住本は奥田果織とその娘のことを本気で案じている」と考えていたのではないでしょうか?
かくいう私自身、これにはすっかり騙されたクチでしたし(^^;;)。
この辺りは、キャラクターの演技でも演出面でも「見せ方」が本当に上手い、と感心せざるをえなかったですね。

ただ、奥田果織が住本の策謀に気づいていたことを考えると、もう一方の当事者である徐昌義もまた同じく「住本の騙し」であると直感していた可能性は極めて濃厚ですね。
あの老人、物語の中盤頃でも住本の「公安が人を騙す目」に気づいていましたし、「娘の所在が分かった」という嘘自体もあの時点で二度目でしたからねぇ。
それでもあえてあの老人が住本と奥田果織を相手にしていたのは、「核爆弾起爆を止めることはできない」という勝者の余裕もあったのでしょうが、死んだ妻と行方不明の娘に対する懺悔的なものでも告白する意図があったのではないでしょうか?
既に末期ガンなり核爆弾起爆なり、あるいは今現在の対面相手に殺されるなりで自分の死も確定していたわけですし、死ぬ前の余興としてあえて住本の策に乗って長々と会話を交わしていた、というのがあの老人の考えだったのではないかと。
そして、結局核爆弾起爆の解除パスワードを明かすことなく自殺することで、自身の最後の矜持だけは守り抜いてみせたのでしょう。
そう考えると、あの場に居合わせた三者全てが桁外れの傑物だったと言わざるをえないところですね。
まあ、徐昌義が実際にどんなことを考えていたのかは、当の本人にしか分からないことではあるのですが。

「日本のCIA」こと警視庁公安部外事課というのは、これまでロクにスポットが当てられてこなかった部署ではありますが、こういう作品を観ると「公安というのも色々言われているけど、やはり【必要悪】ではあるよなぁ」とは思わずにいられませんね。
実際、彼らが水際で日本におけるテロ行為を阻止&抑止しているという側面は当然あるのですし。
もちろん、「毒をもって毒を制す」的な一面もありますし、その毒が悪い方向に作用しないよう注意・監視する必要も当然ありますが、単純に「絶対悪」として全否定するのもまた違うでしょう。
公安の仕事の実態にスポットを当てすぎるのもまた良くない副作用があるのでしょうが、たまにはこういう作品で公安の実態と素顔を「理解する」というのも必要なのではないかと。
公安に対する批判の中には、「何のためにあるのか分からないから不気味である、だから排除すべき」などという「無知から来る自己防衛」的な心理も間違いなく存在するのですから。

人間同士による謀略・駆け引き・騙し合いといったサスペンス物が好きという方には、今作はイチオシの映画なのではないかと思います。

映画「ファイナル・ジャッジメント」感想

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映画「ファイナル・ジャッジメント」観に行ってきました。
宗教団体である「幸福の科学」の大川隆法が製作総指揮を手掛ける、近未来の日本を舞台に繰り広げられる近未来予言?作品。
元々「幸福の科学」が主催しているということもあり、「宗教的な要素が色濃い映画なのだろう」とある程度構えて観賞してはいましたが、まさかこれほどのものとは……。

1996年。
どう見ても中国がモデルとしか思えないオウラン国によって併合された旧南アジア共和国(現在はオウラン国南アジア自治区)で、父親・母親・娘で構成される1組3人の家族が宗教的な挨拶と共に一家団欒の食事を始めようとしていました。
そこへ、お約束のようにドアを蹴り破って集団で押し入ってくるオウラン国の人民軍兵士達。
オウラン国では宗教活動が全面的に禁止されており、それに反した者は国家反逆罪として処刑されることになっていました。
家に押し入った人民軍の長らしき人物は、家にいた幼女に祈りの言葉をしゃべらせると、幼女を自分で連れて行き、父親と母親を部下に連行させるのでした。

時もところも変わった2009年の日本。
元商社マンとしてオウラン国に赴任した際、オウラン国の軍事力膨張と勢力伸張に危機感を覚えた今作の主人公である鷲尾正悟(わしおしょうご)は、友人の中岸憲三(なかぎしけんぞう)と共に未来維新党を結成し、当時行われた衆議院総選挙に立候補し日本の危機を訴えました。
ところが選挙では、選挙カーで演説する鷲尾正悟に耳を傾ける者はほとんどおらず、敗色濃厚な気配が漂います。
誰も聞いていない中で演説を続けることに空しさを覚えずにいられなかった鷲尾正悟がふと空を見上げた時、何故か空から金色の羽が舞い降りてきます。
しかし、その金色の羽は鷲尾正悟にしか見えないものだったらしく、呆然としていると勘違いされた中岸憲三の注意で我に返った鷲尾正悟は、再び誰も聞いていない選挙演説に戻っていくのでした。
しかし、そんな鷲尾正悟の選挙活動に感動したひとりの女性が、鷲尾正悟の選挙スタッフに協力を申し出てきました。
彼女の名はリンといい、鷲尾正悟が声を大にして脅威を主張するオウラン国の人間でした。
彼女はそのまま、鷲尾正悟の選挙スタッフの一員に加わることとなります。
しかし、そんな努力の甲斐もなく、その夜の選挙速報では鷲尾正悟の落選があっさりと確定してしまったのでした。
ちなみに選挙で勝利したのは、これまたあからさまに民主党がモデルであることが分かる民友党という名の政党です。
作中で放送されていたTVニュースのテロップにも、「政権交代」という文字がデカデカと書かれていましたし(苦笑)。
選挙後の民友党が、憲法9条を掲げて軍備撤廃・日米安保破棄を唱え聴衆から拍手喝采を受けていたり、オウラン国に沖縄の領土宣言をされて「遺憾の意」を表明しまくったりしている描写などは、もう現実に対する皮肉であるようにしか思えないところが何とも……。
一方、選挙で落選した鷲尾正悟は、選挙戦の際に出会ったリンと親しい関係となり、2人で新田神社の祭りでデートに興じたりするのでした。

それからさらに数年後。
いつもの平和な東京渋谷に、突如として大量の軍用機とヘリが現れ飛び交う光景が多くの人に目撃されます。
多くの人々が呆然とそれを見守る中、やがてTVにひとりの人物が映し出されます。
その人物はラオ・ポルトと名乗り、オウラン国が日本を占領し、オウラン国極東省としてオウラン国の支配下に入ったことを高らかに告げるのでした。
口ではオウラン国人民としての共存を主張しつつ、日本文化の完全破壊に勤しんだり、夜間外出禁止令を発動したりして圧政を布くオウラン国。
そんな中、鷲尾正悟は、オウラン国によって弾圧された各種の宗教団体の信者達を匿うレジスタンス地下組織「ROLE(Religious Organization for Liberty of the Earth、ロール)」という組織の存在を親友達から聞き、組織と合流することとなるのですが……。

映画「ファイナル・ジャッジメント」は、物語が進めば進むほどにツッコミどころがどんどん増えていく構成ですね。
特に物語後半などは、描写が切り替わる毎にいちいちツッコミを入れなければならないほどの超展開だらけでしたし。
一番大きなツッコミどころは、一般人に情け容赦なく殴る蹴るの暴行を働きまくる悪逆非道な集団として描かれているオウラン国人民軍が、作中では何故かロクに発砲する描写がないことにあるでしょうか。
オウラン国人民軍は必ずと言って良いほど銃を携帯しているのに、作中ではもっぱら殴打用の武器として使用される傾向の方が圧倒的に多く、銃を発砲すること自体がほとんどありませんでした。
映画全体で見ても、敵味方問わず銃から発射された銃弾の総数は50発にも到達していないのではないでしょうか?
主人公が乗車するクルマとの間で繰り広げられたカーチェイスの場面でも、別にオウラン国の要人が乗っているわけでもないクルマに対してすら、オウラン国人民軍はせいぜい2~3発発砲した程度でしかありませんでしたし。
さらには、物語のラストで主人公が選挙カーの上に立ってほとんど無防備の状態で演説を始めた際にも、オウラン国人民軍はただの1発も銃弾を発射することすらなく、バカ正直に主人公の演説に聞き入っているありさまでした。
銃の発砲自体が法的な制約からほとんど行えない状態にある日本の警察や自衛隊などではあるまいし、オウラン国人民軍が発砲を躊躇しなければならない理由などどこにもないはずなのですけどね。
占領国の住民が集まっている衆人環視の中で、無抵抗な人間に対しこれ見よがしに集団リンチを繰り広げて平然としているような軍隊が、一般人どころかレジスタンスの類に対してすら発砲を自重しているというのは大きな矛盾なのではないかと思うのですが。
ラストの演説シーンなんて、人民軍兵士の1人が、主人公にただ1発銃を発砲しただけで、反乱分子の要を完全に潰すことができたはずなのですけどねぇ。

また、物語中盤で主人公が瞑想し、悪魔との戦いを経て悟りを開く部分でも、多少どころではない違和感を覚えずにはいられませんでした。
瞑想の最中、悪魔は主人公の父親で故人となっている鷲尾哲山(わしおてつざん)に化け、主人公に宗教の無意味さと「争いを続ける人間のサガ」を説くのですが、主人公は「本当の父親ならば絶対に言わないであろう言動」から悪魔の正体を見破り反撃に転じています。
それは良いのですが、実はこの場面で主人公は、悪魔の主張について何ら反論を提示することすらなく、ただオカルティックな攻撃で悪魔を撃退しているだけでしかないのです。
悪魔の主張はこれこれこういう形で間違っている、宗教にはこれだけの偉大な可能性があるんだといった反論を展開して悪魔を追い詰める、という形では全くないんですよね。
作中のような展開では、悪魔の正論に正面切って反論できなかった主人公が、論点を逸らして悪魔を力づくかつ物理的に撃退しただけのようにしか見えません。
あの場面で本当に撃退すべきだったのは、「悪魔の存在」それ自体ではなく「悪魔の主張」の方だったはずなのに。
あんなやり方で「悟りを開いた」「神と一体化して奇跡が行使できるようになった」などと言われても、それって軍事力にものを言わせて周辺諸国への侵略を繰り広げるオウラン国のやり方と何も変わらないのでは、としか評しようがないところなのですけどね。

まあ作中では、その悪魔に対する反論部分に相当するものが全くないというわけではなく、作品的には物語のラストで繰り広げられる主人公の街頭演説こそがそれに当たると言いたいところなのでしょう。
しかしあの演説って、「人を憎むのは止め、自分の行いを反省しましょう」などという、あまりにも素朴過ぎるが故に政治的には現実離れした理想論を唱えているだけでしかなく、悪魔の現実に裏打ちされた主義主張には到底対抗しえるものなどではないんですよね。
あんな程度の理想論で世界が変わるのであれば、とっくの昔に世界から争いなど無くなっているでしょうに。
日本国内限定で通用するのか否かすらも怪しいレベルの個人的道徳観程度の演説を披露するだけで「世界が変わる」「オウラン国の独裁体制が崩壊する」などという世界的な変革が起こしえるなど、それこそ3流カルト宗教の妄言レベルなシロモノでしかないのですが。
オウラン国のあまりにも手緩い対応と併せ、露骨過ぎるまでの超御都合主義以外の何物にも見えはしませんでしたね、この部分は。

この映画、特にラスト30分はトンデモ描写のオンパレードで、いちいちツッコミを入れたり笑いを堪えたりしながら観る羽目になりましたよ、私は。
宗教映画であることを差し引いて考えてさえ、あまりにも御都合主義に満ち溢れ過ぎていて、普通に観賞して素直に楽しむなど不可能でしたし。
同じ宗教観を前面に出した映画でも、「ザ・ウォーカー」「ヒアアフター」などは普通に楽しめましたし、共感できる部分もあったのですけどねぇ。
まあ「ツリー・オブ・ライフ」などのように、前衛芸術ばかり前面に出しまくって何を主張したいのかすらも分からないような宗教映画よりはまだマシではあるのですが、最下級クラスの作品と比較しても不毛なだけですからねぇ(爆)。
よほどに宗教が大好きという人以外は、作中で展開されるトンデモ描写の数々を「笑いのネタ」として割り切って楽しめるという人くらいにしかオススメのしようがないですね、今作は。

映画「君への誓い」感想

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映画「君への誓い」観に行ってきました。
実在する1組の夫婦の実話を元にした恋愛ドラマ作品。
今作は劇場公開日がちょうど1日のファーストディだったこともあり、金曜日レイトショーでの観賞となりました。

物語の舞台はアメリカ・イリノイ州の大都市シカゴ。
そのシカゴで大雪が降ったある日、一組の仲睦ましい夫婦がクルマに乗り、帰宅の途につこうとしていました。
今作の主人公でもある夫は、録音スタジオを経営しているレオ・コリンズ。
その妻は、個人のアトリエを持つ彫刻家のペイジ・コリンズ。
とある交差点でストップしたクルマの中で、2人は「子供を授かりたい」という妻の要望からシートベルトを外しカーセックスに及ぼうとするのですが、そこへ、雪のためにブレーキが利かずほとんど全速力状態でスリップしてきたトラックが後方から追突してきます。
トラックによって押し出されたクルマは、そのまま前方にある電柱だか街灯だかに激突してしまい大破。
しかも運の悪いことに、一足先にシートベルトを外していた妻ペイジが、トラックと電柱OR街灯の衝突によるショックでフロントガラスを突き破って外に放り出されてしまい、頭を強打してしまうのでした。

2人はそのまま病院へと運ばれ、やがてペイジに比べればまだ軽傷だった夫レオが先に意識を取り戻します。
ここからペイジが意識を取り戻すまでは、レオの回想という形で、レオとペイジ2人の馴れ初めから結婚までのエピソードが語られることとなります。
それによれば、2人が最初に出会ったのは4年前とのこと。
その他、シカゴのミレニアム・パークで2人がキスをしたり、施設?の無断使用で親友達と結婚式モドキなことをして警備員?に追いかけられたりといった光景が走馬灯のごとく思い返されていきます。
ちなみに、ミレニアム・パークで主人公カップルがキスを交わすという描写は、映画「ミッション:8ミニッツ」のラストにも全く同じものがあったのですが、シカゴのミレニアム・パークってそういう名所として評判な場所だったりするのでしょうかね?
さて、そんな回想が進んでいくうちに、夫よりも重傷だった妻の方も意識を取り戻す時がやってきました。
ペイジの意識が戻ったことに喜ぶレオでしたが、その喜びはすぐに雲散霧消してしまいました。
何とペイジは、夫であるはずのレオのことを「自分の担当医」と認識しており、その存在自体を完全に忘れ去っていることが判明してしまったのです。
ペインの本当の担当医に「普段通りの夫婦生活を営むことが、記憶を取り戻す可能性が最も高い最善の方法」との対処療法を聞いたレオは、ペイジの記憶を取り戻すべく奔走することとなります。
しかし、ペイジが記憶を無くしたことを聞きつけたペイジの家族や元婚約者などが現れたことで、レオとペイジの関係はギクシャクすることとなってしまい……。

映画「君への誓い」の大きな特徴は、ある人物が記憶を無くしたことによって利益を得る者もいる、という事象が描かれている点ですね。
冒頭の交通事故でペイジは、事故から遡ること4~5年ほど前からの記憶が完全に欠落していました。
その中には夫であるレオとの出会いから始まる一連の記憶全てが含まれていたことはもちろんなのですが、彼女は過去に自分の家族や元婚約者との間でトラブルが発生していた過去があり、その記憶も完全に消えて無くなっていたのでした。
そのため、元々ペイジとヨリを戻したがっていた家族と婚約者は、ペイジの記憶喪失を逆に千載一遇の好機と見做し、ペイジに対し干渉を始めてきたのです。
またペイジにしてみれば、出会った記憶すらも消し飛んでしまった夫のレオは全く見知らぬ人間でしかなく、逆にトラブルの記憶が無くなっている家族や元婚約者は「気心も知れ頼れる人々」として映っています。
その家族や元婚約者にしてみれば、現行のペイジの夫であるレオの存在はむしろ邪魔な存在であり、とにかくレオからペイジを引き離そうとすら画策し始めるようになります。
レオ側の家族は既に死んでいることもあり、ペイジの記憶を取り戻そうとするレオは孤軍奮闘を余儀なくされてしまうわけですね。
特定の人物の記憶喪失が、別の人間にとっては僥倖だったりすることもあるのだなぁ、とこの辺の構図は結構興味深く見ていたところでもありました。
トラブルの記憶が片方の当事者から消えてしまえばやり直しが効く、というのは確かに一面の真実ではあるのですから。

物語後半で判明するのですが、ペイジが自分の家族と決別した最大の理由は、ペイジの父親であるビル・ソーントンの不倫でした。
しかも父親の不倫相手は、よりによってペイジのかつての親友であった女性だったのです。
そりゃペイジが激怒して家を飛び出すのも、当然と言えば当然の話でしょう。
そんな過去がありながら、ペイジの父親ビルは、物語中盤で行われたペイジの姉グウェン・ソーントンの結婚式の席上で、レオに対して「ペイジは自分達が引き取るから離婚しろ」などと話していたりするんですよね。
彼および家族のペイジに対する愛情が相当なものであったことを考えても、ペイジの記憶喪失に便乗したこの厚顔無恥ぶりはなかなかにスバラシイものがありました(苦笑)。
言われたレオの方も、記憶を失う前のペイジから事の顛末を聞いて全てを知っていたのですから、さすがに父親に対して殺意のひとつくらい沸いたのではないですかねぇ。
実際、あの場でもレオは父親のことを「卑怯者」「臆病者」と罵っていたりしますし。
一方、ペイジと家族の関係を充分に知っていたはずのレオがそのことをペイジに告げなかったのは、ペイジに家族を二度も捨てさせたくなかったからなのだそうで、なおのこと父親の身勝手な態度とは著しく対照的ですね。
自分から離れ家族の元に帰ろうとするペイジを何が何でもレオが繋ぎとめたかったのであれば、最初に家族の問題をペイジに告げれば良かっただけのことだったのですから。
しかもレオがペイジの家族の問題をあえて告げなかったせいで、レオは愛していたはずのペイジとの離婚届に署名する羽目にまでなっていたわけですし。
自分のことを犠牲にしてまでペイジの幸せについて考えるレオのペイジに対する愛情は、確かに本物であったことは疑いの余地がないでしょう。
こういうのって、なかなか出来ることではないですからね。

ペイジの父親の不倫に関しては、記憶を失う前のペイジやレオはもちろんのこと、ペイジの家族は全員がその事実を知っていました。
作中でも、父親の不倫の事実を知ったペイジが母親であるリタ・ソーントンを問い詰めるシーンがあり、母親も一度は離婚を真剣に考えていたことを告白しています。
しかし母親は、自分よりも子供達のことを考え、結果的に離婚を思い止まったのだそうで。
実際、離婚というのは夫婦それぞれにも多大なショックを与えるものですが、子供が受ける心の傷や悪影響はそれ以上のものがあるのですから。
この母親の「強さ」も結構印象に残るものではありましたね。

ただ、ペイジの元婚約者だったジェレミーについては、レオに直接「寝取る」宣言的なことをやらかしてレオに殴られた件を差し引いても、正直「ペイジに振り回されていただけ」なイメージが拭えないところですね。
彼自身は別にペイジに対して害意を働いたわけではなく、ストーリー全体を見ても、ペイジの気まぐれか父親の不倫のトバッチリを受けたことが、ペイジにこっぴどく振られた原因であるとしか読み取りようがありませんでしたし。
物語のラストでも、彼はそれまで付き合っていた恋人と別れてまでペイジとヨリを戻そうとしていたのに、それでもペイジは(レオとの関係が修復しつつあったからとは言え)情け容赦なく決別する始末でしたからねぇ。
ジェレミーも何とも間の悪い人間ではありますが、ペイジにそこまでされなければならない理由がジェレミー本人に何かあったというのでしょうか?
レオも一歩間違えればジェレミーと同じ役回りを演じる羽目になったのではないかと思うと、さすがに少しは同情もせざるをえないところでして(T_T)。

正直、映画としてはあまり一般受けしなさそうな内容の話ではありますが、「昼ドラみたいな人間模様を描いた話が好き」という方には、それなりに観れる作品とは言えるでしょうか。

映画「MIB3/メン・イン・ブラック3」感想

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映画「MIB3/メン・イン・ブラック3」観に行ってきました。
ウィル・スミスとトミー・リー・ジョーンズのコンビが主演を担うSFアクションコメディシリーズ第3弾。
1作目が1997年、2作目が2002年公開ですから、ずいぶんとまあ息の長いシリーズですね(^^;;)。
人気シリーズということもあり、私も1作目・2作目共に観賞済みです(^^)。
なお、今作はシリーズ初となる3D公開映画でもありますが、私が観賞したのは2D版となります。

物語は、月面に作られた宇宙人専用の刑務所から、ひとりのエイリアンが脱獄するところから始まります。
そのエイリアン・ボリスは、MIBシリーズの主役のひとりであるエージェントKにかつて左腕を奪われ捕縛されてしまった過去がありました。
またボリスは、地球侵略の尖兵的な役割をも担っていたのですが、エージェントKが設置したシステムによって永遠に侵略ができなくなってしまっていました。
そのためボリスは、自分が捕らえられた過去へと戻ってエージェントKを殺害することで、復讐と地球侵略を同時に達成することを考えつくのでした。
ちなみにボリスは、「アニマル・ボリス」と呼ばれることをやたらと毛嫌いする傾向を作中で露わにしていたりします。

一方、シリーズでお馴染みのエージェントJおよびエージェントKのコンビは、1作目と2作目で登場していたものの今作ではいつのまにか死んでいたらしいエージェントZの葬儀に参列していました。
とても追悼の言葉とは思えない死者に対する弔辞?を(一応その死を悲しんではいたようですが)淡々とのたまったエージェントKは、エージェントJを引き連れ中国料理店?のガサ入れを行います。
食材に宇宙生物を使っていたらしいその店を取り締まる中、2人は店内でエイリアン達の襲撃を受けることになります。
エイリアン達を撃退し、騒ぎを聞きつけ集まった周辺住民達にニューラライザーを「ピカッ」とかざして記憶を消去&上書きするという、シリーズお馴染みの光景が展開される中、エージェントKは中国料理店の屋上で月面から脱獄したボリスと対面することとなります。
2人の対決は、途中で割って入ったエージェントJによって、ボリスはエージェントKを殺害できず、エージェント達はボリスの捕縛に失敗するという痛み分けの結果に。
エージェントKの行動に不審を抱いたエージェントJはエージェントKを問い詰めるのですが、エージェントKは機密を盾に情報を教えようとしません。
しかたなくエージェントJは、MIB本部で情報を検索し、屋上で会ったボリスに関する情報を入手するのでした。
さらに情報を得ようとするエージェントJでしたが、やはりそこでも「機密」を理由に途中で情報が入手できなくなってしまい、さらにエージェントOからこれ以上踏み込むことなく帰宅するよう告げられます。
その夜、携帯ゲームに熱中していたエージェントJは、エージェントKから不可解な電話を受けることとなります。
そのことが気になったエージェントJは、エージェントKがひとりで住んでいるビルの「5K」という部屋を訪ねるのですが、何とそこにはエージェントKとは何の関係もない家族がいつのまにか住み着いていたのでした。
MIB本部に行けば何か分かると考えたエージェントJは、MIB本部でエージェントKを探しますが、そこでエージェントOから衝撃的な事実を聞かされることとなります。
何と、エージェントKは40年前にボリスを追跡中に死んだことになっており、さらにはボリスもその時捕縛されることなく逃げおおせていることになっていたのでした。
さらには、エージェントKが本来設置するはずだったシステムが設置されなかったことにより、地球はボリスと同じ異星人であるボグダイト星人達の侵略を受ける事態に発展してしまったのです。
エージェントJの言動を分析したエージェントOから、タイムトラベルによる歴史改変が行われたことを知ったエージェントJは、エージェントKが殺された1969年7月16日の1日前にタイムスリップし、改変させられた歴史を修正するべく奔走することとなるのですが……。

「MIB/メン・イン・ブラック」シリーズでお馴染みとなっている要素は、今作でも全て登場しています。
やたらと饒舌でマシンガントークを繰り出しまくるエージェントJと、逆に寡黙かつ無愛想で淡々と受け流しまくるエージェントKの掛け合い漫才は健在ですし、ニューラライザーに代表される超ハイテク機器やエイリアン達のユニークな造形も相変わらずだったりします。
また今作は1969年が物語中盤以降で舞台になるのですが、いかにも「発展途上」と言わんばかりの巨大なニューラライザーや携帯電話などが登場していたりします。
この辺りはまさに時代の流れを感じさせるものではありましたね。
また1969年7月16日は、奇しくもアポロ11号がNASAのケネディ宇宙センターから発射された当日でもあり、そのアポロ11号が発射される直前のロケット発射場を舞台に、エイリアン・ボリスとの最終決戦が行われることになります。
個人的には、ちょうど近作かつ同じ月面へ向かうロケット発射の描写があり、かつアポロ11号の搭乗者だったバズ・オルドリンが友情出演していた映画「宇宙兄弟」をついつい思い出していましたね。
まあ、今作と「宇宙兄弟」でロケット発射描写がカブったのは単なる偶然ではあったのでしょうけど。
そして、そのアポロ11号発射基地の警備責任者が、何とエージェントJの父親だったという設定は正直かなり驚きではありましたね。
彼が実はエージェントJの父親だったというオチはラストで判明するのですが、彼の死と、幼き日のエージェントJがエージェントKに父親の所在を尋ねるエピソードは、エージェントKのあの性格の起源としてはなかなかに上手い話の持っていき方でした。
いつものお笑いアクションコメディにこの人間ドラマの挿入は、かなり良い意味でも意外感があるのではないでしょうか?

ただ少し疑問だったのは、ボリスとの最終決戦でエージェントJが行ったようなタイムトラベルの手法が使えるのであれば、あそこで死んだエージェントJの父親も救うことができたのではないか、という点ですね。
エージェントJは、ロケット発射台で未来からやってきたボリスと渡り合った際、ボリスの攻撃パターンを記憶した上でボリス共々ロケット発射台から飛び降りを敢行し、ボリスが自分を攻撃する直前にタイムスリップを行いボリスの攻撃を凌ぐという荒業を披露していました。
しかし、あのような荒業が可能ということは、1969年と現代の往復以外でもタイムスリップが可能であるということを意味します。
となるとエージェントJは、父親が死ぬ直前まで再度タイムスリップを行い、死ぬはずだった父親を助けることも充分に可能だったわけです。
何なら、1969年から一旦現代に戻った直後に再度ビルから飛び降り、1969年のあの場所にまた戻ることだってできたでしょうし。
歴史の改変が実は可能であることは、他ならぬエージェントJ自身が追跡していたボリスが実地で証明してもいたわけですしね。
そもそも、本来の史実では月面の牢獄に閉じ込められる予定だったはずの(1969年当時の)ボリスが、父親が殺害された直後にあの場でエージェントKに殺害されていて、それだけでも完全に歴史が変わってしまっていましたし。
作中で登場していた「未来の可能性を観る能力」を持つグリフィンは、その死がまるで避けられない運命であるかのごとき発言を行っていましたが、タイムトラベラーによって歴史が変えられる現実が作中で明示されている中で、それはあまりに説得力がなかったのではないかと。
この辺りは、タイムトラベルをエンターテイメント作品で扱うことの難しさを示すものでもありますね。
タイムトラベルは、その万能性故に何でもできることで「色々な見せ方ができる」という利点があるのと同時に、「こういう使い方もできるのに何故そうしないの?」というツッコミどころも多々生まれるという欠点をも併せ持っているのですから。

「MIB」シリーズのファンという方ならば、まず観に行って損はしない映画ではないかと。

映画「ファミリー・ツリー」感想

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映画「ファミリー・ツリー」観に行ってきました。
ハワイ諸島を舞台に繰り広げられる、ジョージ・クルーニー主演の人間ドラマ作品。
今作で主演を演じていたジョージ・クルーニーは、第84回アカデミー賞で主演男優賞にノミネートされており(ただし受賞はならず)、今作自体も同賞で脚色賞をこちらは受賞しています。

物語の冒頭は、ハワイのオアフ島沖の海を疾走するモーターボートに楽しそうに乗っているひとりの女性が映し出されます。
この女性がその直後に事故に巻き込まれ、意識が戻らず容態も悪化していく植物状態と化してしまったことが、今作における物語の始まりとなります。
その女性エリザベス・キング、およびエリザベスの夫にして今作の主人公であるマット・キングとの間には、2人の娘がいました。
ひとりは17歳で現在はハワイ島にある全寮制の高校で離れて生活している長女のアレクサンドラ・キング(作中では「アレックス」と呼ばれている)。
もうひとりは地元の小学校に通っている10歳の次女スコッティ・キング。
ところがスコッティは、母親が事故を起こしたショックから外で問題を起こすようになってしまい、スコッティの友人の母親から苦情の電話がかかってきて対応に追われる始末。
マットは、それまで仕事一筋で家族をほとんど顧みてこなかった典型的な仕事人間であり、家の問題は全て妻であるエリザベスが見ていました。
そのため、エリザベスが事故で動かなくなって以降は、それまで妻が見ていた子供の面倒を自分が担わなくてはならなくなってしまい、何をすれば良いのか分からず途方に暮れる日々を過ごす羽目に。
さらにマットには、家庭の事情とは別にもうひとつの問題を抱え込んでいました。
先祖代々受け継いでいたカウアイ島のキプ・ランチにある広大な土地の信託期限があと7年で切れてしまうことから、土地の売却を迫られていたのでした。
妻のありがたみを今更のように理解したマットは、妻の容態が回復し退院したら、土地を売り払った金で妻と娘に裕福な生活をさせてやろうと、前向きな決意を新たにするのでした。
ところが、その決意に反して、エリザベスの容態は日を追う毎にむしろ悪化していくばかり。
ついには、「可能な限りの手は尽くしましたが、奥さんに回復の見込みはありません」とまで医者から告げられてしまい、本人が事前に表明していた意向により「尊厳死」の道を選択するよう言われるのでした。

かすかな希望すらも粉砕されてしまい、いよいよ絶望的な事態を否応なく直視せざるをえなくなったマットは、長女のアレックスを連れ戻すべくハワイ島へと向かいます。
自分ひとりでは次女の面倒を見きれないという事情もありましたし、何よりも家族の一員として母親の容態に関する情報を共有する必要があったためです。
寮から抜け出してボーイフレンドのシドと夜遊びをしていた中でマットとスコッティに対面する羽目となったアレックスは、当然のごとくバツが悪い上に不満タラタラ。
しかし、自宅のプールでエリザベスの容態について知らされたアレックスは激しく動揺せざるをえませんでした。
ただその動揺は、単に母親の死に直面したから、というだけではなかったのです。
動揺を続けるアレックスをマットが問い詰めると、何とアレックスはエリザベスが浮気をしていたという事実をマットに対して告白したのです。
あまりにも想像の斜め上を行っていた事態に驚愕したマットは、すぐさま自宅を飛び出して親友夫妻の自宅へと文字通り走っていき、エリザベスの浮気について問い質すのでした。
さらにマットは、浮気について問い詰めた親友夫妻から、妻が自分と離婚する気であったことまで知る羽目となってしまいます。
親友夫妻の夫から、「ブライアン・スピアー」という妻の浮気相手の名前を知ることができたマットは、妻とブライアン・スピアーに怒り狂いながらも、死期が近いエリザベスの最期を看取らせるために、ブライアン・スピアーの居場所を探し始めるのでした。

映画「ファミリー・ツリー」では、家族を顧みることなく仕事一筋に集中しすぎた男の悲哀が描かれています。
妻であるエリザベスの不倫や遊び、それに子供の問題が発生していた原因を突き詰めると、結局全てがそこに行き着いてしまうわけで。
仕事人間であるマットにしてみれば、別に家族のことをないがしろにしていたわけではなく、むしろ「【家族のために】汗水流して働いていた」というのが偽らざる心情ではあったのでしょう。
しかし、それは結果として家族、特に妻との間が疎遠になることに繋がってしまい、それが結果的に妻の不倫や子供との意思疎通不足という事態に直結してしまったわけです。
こういうのってアメリカ以上に日本の方が大量に転がっていそうな話ではあるのですが、仕事人間側から見れば自分の努力が全く報われていないわけで、たまったものではなかったでしょうね。
もちろん、仕事人間の夫が家族を顧みないからといって、それは妻の浮気という背徳行為の責任を何ら軽減も免罪もするものではありえないのですが。

しかも、エリザベスの浮気相手であるブライアン・スピアーは、物語後半で判明するのですが妻と2人の子供がいる既婚者だったりするのですからねぇ。
マット達がブライアン・スピアーの所在を見つけ出した際は幸福な家庭だったはずのスピアー家が、夫の不倫発覚後にボロボロになってしまい、その怒りと恨みをブライアン・スピアーの奥さんが動かないエリザベスに激昂しながら叩きつける様は、観客として観ている側としても充分に共感できるものがありました。
夫の不倫に直面する羽目になった奥さんと子供達は100%の被害者であり何も悪くなどないのですから。
アレを見ていたら、キング一家には申し訳ないですが「ちょうど良いタイミングで奥さんが死ぬことになって良かったじゃないか」とすら思えてしまったほどです(-_-;;)。
もっとも、エリザベスの不倫の相方であるブライアン・スピアーにとっては、エリザベスの死は災厄以外の何物でもなかったでしょうけどね。
奥さんの分も含めて、自分とマットの家族双方に賠償等の問題が確実に降りかかってくることになるのですし、自分の境遇や心情を共有できる相手さえもいなくなってしまったわけなのですから。
まあ、これは自業自得として諦めてもらうしかないのですけど。

崩壊寸前の家族問題や不倫問題、それに土地売却の問題など、作品的にはなかなかに重いテーマが目白押しですが、全体的にのんびりとしたハワイアンな音楽や雰囲気がそれを和らげている感じですね。
ハワイ諸島の各所が映し出されていく中、のんびりと観光しながらストーリーが進んでいくような感すらありましたし。
ストーリー自体はお世辞にも明るいとは言い難いものがありますから、製作側としてはそういった「雰囲気作り」で暗さを払拭していく意図があったのでしょう。
実際、これで音楽や雰囲気までセカセカしていたら、それこそ何の面白みもない鬱々とした展開にしかならなかったでしょうし。
また、物語後半のブライアン・スピアー探しの際、何故か一緒になって付いてきた長女アレックスのボーイフレンドであるシドの存在も良い緩衝材となっていました。
最初の方では不謹慎発言を連発しまくって周囲から顰蹙を買っていたシドは、しかし物語が進むにつれてアレックスのみならずマットの良き理解者へと変わっていきました。
彼自身、つい最近に父親を事故で亡くしたという経緯もあったとのことで、キング家に共感もしやすかったのでしょう。
最初は「何故こんなのにアレックスは惚れたんだよ」と考えていたくらいでしたが、なるほど、これならば惚れる理由も理解はできるなと。
こういった「小道具」の使い方はかなり上手い部類に入るのではなかったかと。

ジョージ・クルーニーのファンな方々と族系の人間ドラマ好みな方にはイチオシの作品であると言えそうです。

映画「ダーク・シャドウ」感想

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映画「ダーク・シャドウ」観に行ってきました。
ジョニー・デップとティム・バートン監督が8度目のタッグを組んだ、一風変わったヴァンパイアホラー作品。
作中では下ネタな会話と血を吸うことによる流血シーン、さらには何とも微妙なセックス描写(?)が展開されていることもあってか、この映画はPG-12指定されています。

1760年に新天地を求めてイギリスのリバプールからアメリカへと渡ったコリンズ家。
当時はまだイギリスの植民地だったアメリカのメイン州で水産業を立ち上げ、たちまちのうちに財を成し地方の名士としての地位と立場を確立します。
コリンズ一家は自らの権勢の象徴として、自分達が住んでいる町に、家名を冠した「コリンズポート」という名を与え、さらに「コリンウッド」と呼ばれる巨大な屋敷を建造します。
今作の主人公でもあるバーナバス・コリンズは、そのコリンズ家のひとり息子で一家の跡取りでもあり、両親にも恵まれ町一番の大富豪として幸せな日々を送っていました。
ところが、彼がアンジェリーク・ブシャールという名の女性と一時的に付き合ってしまったことから、彼の不幸が始まってしまいます。
バーナバスはアンジェリークをフッてしまい、ジョゼット・デュプレという別の女性と恋仲になるのですが、どうしてもバーナバスのことが諦められないアンジェリークは、いかがわしい黒魔術に手を染め、バーナバスのみならずコリンズ一家を不幸に陥れることを決意します。
まずはバーナバスの両親達の頭上に建物に飾られている彫像を落下させて殺害。
さらには、バーナバスの恋人になっていたジョゼットに催眠術?のようなものをかけ、自殺の名所のような岬に導き身を投げさせて殺してしまうのでした。
ジョゼットの死に間に合わなかったバーナバスは、自身も後を追うように岬からフリーフォールして自殺しようとします。
果たしてバーナバスは崖下の地面に叩きつけられるのですが、何とバーナバスは全く無傷で起き上がってしまいます。
そしてバーナバスは、自分の身体がヴァンパイアのそれに変えられてしまったことに気づいて愕然とするのでした。
まんまとバーナバスを不幸のどん底に突き落とすことに成功したアンジェリークは、トドメとばかりに「あいつはヴァンパイアだ」と民衆を扇動し、バーナバスを生きたまま棺の中に閉じ込めてしまい、鎖をかけて地面の中に埋めてしまうのでした。

時は流れて1972年。
コリンズポートの町へと向かう列車の中に、冒頭で岬に身を投げて死んだジョゼットと瓜ふたつの女性が乗車していました。
彼女は、今ではすっかり没落してしまったコリンズ家で家庭教師の職に就くため、コリンズポートへと向かっていたのでした。
彼女は面接の練習の際、列車の中にあったウィンタースポーツ?のポスターを見て、自分のことを「ヴィクトリア・ウィンターズ」と名乗ります。
その直前に「マギー……」と言いかけていたことから、別に本名があることがどことなく伺えるのですが……。
ヒッチハイクを経て何とかコリンウッド邸に辿り着いたヴィクトリアは、当代のコリンズ一族の家長であるエリザベス・コリンズ・ストッダードと面接を行い、とりあえず住み込みで家庭教師をすることを許可されます。
さらにヴィクトリアは家の者達を紹介されるのですが、どいつもこいつも退嬰的だったり奇矯な人格をしていたりとロクなものではありませんでした。
そしてその夜、ヴィクトリアは冒頭で死んだはずのジョゼットの幽霊と出会い、「彼が戻ってくる」という謎のメッセージと、彼女が後ろ向きに落下していくイメージ像を見せられることとなります。

同時刻、森の中で工事を行っていたらしい一団が、工事の最中に鎖に縛り付けられた棺を発見します。
工事の一団は、作業の邪魔になることから棺を地中から掘り出し、棺の鎖を外してその蓋を開けてしまいます。
すると、たちまちのうちに中から現れた存在によって次々と殺されていく工事現場の作業員達。
その場にいた作業員11人全員の血を吸い尽くしたのが、冒頭で棺に閉じ込められていたバーナバス・コリンズその人だったのです。
長きにわたる眠りから目覚めたバーナバスは、その足でかつての自分の住居であるコリンウッド邸へと向かうこととなるのですが……。

映画「ダーク・シャドウ」の主人公バーナバス・コリンズは、当の本人も含めて「200年の時を経て目覚めた」と主張しているのですが、彼を捕縛させた魔女アンジェリークの発言によれば、実際に眠っていた期間は196年とのことなのだそうです。
バーナバスが目覚めた年は1972年で確定しているわけですから、バーナバスが魔女アンジェリークによって棺の中に閉じ込められたのは1776年ということになります。
1776年当時のアメリカと言えば、7月4日のアメリカ独立宣言に象徴されるようにイギリスを相手取った独立戦争の真っ只中にあり、当時のメイン州は独立した州ではなく、独立宣言に署名した13州のひとつマサチューセッツ州の飛び地という位置付けでした。
当時の情勢から考えると、コリンズ家のみならずメイン州全体が否応無くアメリカ独立戦争の渦中にある可能性が高かったはずで、そんな緊急事態の最中に、町の指導的立場にあったはずのバーナバスを魔女狩りで葬ったりしている余裕なんてありえなかったはずなのですけどねぇ(苦笑)。
またバーナバスは、1972年に目覚めた際、アメリカのことを当然のように「国」として認識しており、イギリスに対する帰属意識すらも全く見せておりません。
1776年当時のアメリカは、まだ他国によって承認された国ではなく、イギリスを支持する「王党派」という存在も少なくなかったにもかかわらずです。
コリンズ家はアメリカ独立を推進する「独立派」の立場にあったのかもしれませんが、それならばアメリカがイギリスから独立し大国となっていることに何らかの感慨くらいあっても良さそうなものですし、逆に「王党派」であってもそれはそれで嘆き悲しむ等の何らかの反応があって然るべきだったのではないのかと。
どちらにも属さない中立の立場というのは、どちらかに属する以上に至難を極める難しい選択を迫られることになるでしょうし。
こういうのって「歴史が浅い国」ならではの話ではあるのでしょうけど、「200年ぶりに蘇って時代の流れについていけていないバーナバス」という描写をしたかったのであれば、この「国」の問題は避けて通れなかったのではないかと思えてならないのですけどね。

作中の描写を見ていくと、今作は全体的にジョニー・デップが演じるバーナバス・コリンズと、魔女アンジェリーク・ブシャールの2人を主軸に据えている感が多々ありましたね。
ヴィクトリアなどは、作品の位置付け的には「バーナバスの恋人役」というメインヒロイン的なものを担っているはずなのですが、それにしては出番が少なく存在感も今ひとつだったりします。
序盤から思わせぶりに出てきた割には、バーナバスが棺から覚醒して以降はしばらくの間作中に登場すらしなかったくらいでしたし。
むしろ、当代の家長だったエリザベスの方が、バーナバスとの駆け引きなどもあって出番が多かったくらいですからねぇ。
ラストの対アンジェリーク戦でさえロクに活躍することもなく、冒頭の自殺と全く同じシチュエーションでようやく出てくるありさまでした。
正規のメインヒロインのはずなのに何この扱いは、と思わず嘆かざるをえなかったところですね。
彼女はラストでバーナバスによってヴァンパイアにされていましたが、これって次回作で活躍する伏線だったりするのでしょうか?

作中において本当にヒロイン的な存在感があったのは、ヴィクトリアではなくエリザベスとアンジェリークの方でしたね。
エリザベスは家長という立場もあったのでしょうが、バーナバスと対等にわたり合っていましたし、最終決戦でも映画「ターミネーター2」のサラ・コナーを髣髴とさせるようなショットガン乱射を繰り広げていました。
今作における「戦うヒロイン」的な役柄は、間違いなく彼女に冠されるべきものだったでしょう。
またアンジェリークの方は、全体を通じてとにかく出番が多い上にバーナバスに次ぐ存在感があり、ヤンデレ的なストーカー悪役ぶりを如何なく発揮しておりました。
特に物語中盤で展開されたバーナバスとの「お互いを壁に叩きつけ部屋を破壊しまくりながら繰り広げられるセックス描写?」は、笑いを取りに行っているのかエロスを表現しているのか何とも判断に苦しむものがあって、それ故逆に強い印象が残ったものでした(苦笑)。
アンジェリークはネタキャラとして見る分にはなかなかに楽しめる人物ではありますが、男性的に見て確かに間違っても恋人にしてはならないキャラクターですね。

個人的に少し疑問に思ったのは、対アンジェリーク戦の最終局面で、デヴィッド・コリンズの母親の幽霊が発した音響攻撃?によってアンジェリークが致命傷を被るという描写ですね。
正直、私はあれでアンジェリークが死ぬとは全く思っていなかったので、「あれ?これで終わり?」と疑問を持ってしまったものでした。
何しろ、その少し前には、アンジェリークがバーナバスによって1階から2階の床を突き破って天井に叩きつけられるという描写が展開されていて、しかもそれでさえアンジェリークは平気で立ち上がっていたのですから。
バーナバスと幽霊の攻撃によるダメージって、どちらも同じか、むしろバーナバスの方が大きかったようにすら見えるのですが。
音響攻撃でシャンデリアにぶつかった際、シャンデリアの突起物で身体を貫かれていた、というのであればまだ理解もできたのですが、そういう風にも全く見えなかったですし。
それまでのダメージが蓄積していてアレがトドメになったという可能性もありますが、それにしてもアレで死ぬというのは見た目的にちょっと納得がいかなかったですね。

ラストは明らかに続編を匂わせるような終わり方をしているのですが、果たして続編は製作されるのでしょうかねぇ。

映画「幸せへのキセキ」感想

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映画「幸せへのキセキ」観に行ってきました。
イギリスの新聞コラムニストであるベンジャミン・ミーの回顧録を元に製作された、マット・デイモン主演の人間ドラマ作品。
回顧録という性格上、名前も改変されることなく原作者がそのまま今作の主人公となっています。
今作は2012年6月8日に日本で劇場公開される予定の映画なのですが、今年5本目となる試写会上映に当選し、今回も劇場公開に先行する形での観賞となりました。

スズメバチ?の大群の只中に飛び込んだり、ハリケーンの中に突っ込む飛行機内でのリポートを敢行したりといった実績で、それなりに名が知られている新聞記者のベンジャミン・ミー。
彼は半年前に最愛の妻を亡くし、そのショックから未だに立ち直れずにいました。
会計士の職にある兄のダンカン・ミーからもしきりに再婚を勧められますが、ベンジャミンは「この街にいるとどうしても亡き妻のことを思い出してしまう」とあまり乗り気になれないでいました。
また、自分と同じく傷心を抱え込んでいる、妻との間に出来た子供である14歳の息子ディランと7歳の娘ロージーにも、どのように接していけば良いのか悩む日々が続いていました。
特にディランは、母親が亡くなって以降は心が荒むばかりで、父親に反抗的で学校でもたびたび問題を起こすようになるありさま。
そんなある日、ベンジャミンは自分の企画をボツにし、お情けレベルの仕事を与えて飼い殺しにしようとする会社の方針と反発し、上司に「会社を辞める」と宣言して会社を飛び出してしまいます。
さらにそれと合わせるかのように、息子ディランもまた、校則違反を重ね続けたことが災いして退学処分に。
生活基盤がボロボロになってしまったベンジャミンは、これを機会に新しい家を購入してそこへ引っ越し、新しい生活を始めることを決意するに至るのでした。

これが初仕事という新米不動産業者の案内の下、ベンジャミンとロージーの2人は候補となる家を物色しにかかるのですが、2人の希望と合致した家はなかなか見つかりません。
とうとう紹介される最後の物件となった家に2人は到着するのですが、そこは敷地面積が他の物件と比べても恐ろしくデカい家でした。
家の状況も決して悪いものではなく、2人はここを気に入りベンジャミンも家を購入する気になったのですが、新米不動産業者はそこで何故か難色を示します。
新米不動産業者にベンジャミンが説明を求めた時、突如獣の咆哮が辺りにこだまします。
そして新米不動産業者は、ここが実は動物園の一部であることをベンジャミンに話すのでした。
ローズムーア動物公園と呼ばれるその動物園は、かつてのオーナーが死んで以降は閉鎖を余儀なくされており、今では元オーナーの遺言と遺産でかろうじて維持されている状況にあるとのこと。
そして、閉鎖された動物園を維持・管理し続けることが、家を購入する際の必須条件であるとされていたのでした。
それまでの人生で動物の管理などとは全く無縁だったこともあり、ベンジャミンも最初は当然のごとく家を買うべきか否か逡巡します。
しかし、ロージーが楽しそうに動物と戯れている光景を見て、子供達のために家を購入することをベンジャミンは決断するのでした。
そして数日後、前の家を引き払って引っ越してきたベンジャミン・ミーの一家は、ローズムーア動物公園で動物達の飼育に当たっていた飼育員達と共に、動物園の再建に乗り出すこととなります。
ベンジャミンの一家を物色していたのは2月であり、役所による動物園の審査が行われるのは6月30日。
この6月30日に審査をパスすれば、7月7日に動物園をオープンさせることができるのです。
しかし動物園の再建には、当然のごとく多くの問題が立ちはだかっていたのでした……。

映画「幸せへのキセキ」の作中で2人の子供の父親役を演じているマット・デイモンは、実生活でも4人の子供の父親であるのだとか。
そのためなのか、作中では母親を亡くして子供達への対応に悪戦苦闘を余儀なくされつつ、それでも子供達の幸せを願う無器用な父親像を存分に演じていました。
物語中盤頃までは「息子への当たりと娘贔屓が酷すぎないか?」という部分もありましたが、そういう態度を取っている理由や葛藤なども父親ならではのものはありましたし。
マット・デイモンは、映画「ヒアアフター」以降、アクションシーンが少ない、もしくは皆無な映画にばかり出演していますが、本人的にはそちらの方が本望だったりするのでしょうかね?

まあ息子にしてみれば、「暗い目が死んだ母親に似ていることがイライラするから」などという理由で自分に当たられてはたまったものではないのですが、まあ父親がああいう感情を持つこと自体は(良くはないにしても)ありえることではあるのではないかと。
ただ、そこから端を発する息子と父親の対立が、スパーという老齢のベンガルドラを看取るシーンを介してとは言え、やや唐突に終わってしまった感は否めなかったところですね。
ただでさえあの息子は、物語序盤から父親に対して反発ばかり見せていたのですからなおのこと。
まあ、息子の父親に対する反発自体は、あの年齢相応の「思春期」「反抗期」という部分も多分にあったのでしょうけど、あの父親の告白はそれでも結構大きな精神的ダメージにもなったでしょうし、普通に考えたら親子関係はむしろ悪化すらしてしまうものではなかったのかと。
息子が父親に対し激発するところから、どのような心情と過程を経てあの和解のシーンへと至っていたのかについて、もう少し詳細に描写しても良かったのではないかと思うのですが。

今作は映画「幸せの教室」と同じく、これと言った悪役が全くいない映画と言えますね。
一応、飼育員達が動物園の審査を行うウォルター・フェリスという役人を酷評したり悪態をついたりする描写はあるのですが、彼にしても別に不正な手段でわざと失格にするような審査を行ったり動物園に嫌がらせをしたりするわけでもありません。
審査自体は至って公正なもので、むしろ動物園側の方が、動物園の各所で発生するアクシデントや不具合を急場凌ぎで取り繕うべく奔走している感すら否めなかったところですし。
この審査の流れは、2006年公開映画「県庁の星」の終盤で行われたスーパーマーケットの営業差し止め検査の行程に近いものがありましたね。
国は違えど、どこでもああいうことはするのだなぁ、と妙に感心してしまったところでした(^^;;)。

どことなくほんわかできる映画を観たい、という方にはオススメの作品ですね。

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