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カテゴリー「映画観賞関連」の検索結果は以下のとおりです。

映画「キラー・エリート」感想

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映画「キラー・エリート」観に行ってきました。
元SAS(Special Air Service、イギリス陸軍特殊部隊)のラヌルフ・ファインズの実話を元にした冒険小説「The Fether Men」を原作とするアクション・サスペンス作品。
「トランスポーター」シリーズのジェイソン・ステイサムやロバート・デ・ニーロなど、豪華俳優が多数出演しています。
今作は熊本では熊本シネプレックス1箇所だけでしか上映されておらず、そこまで足を運んでの観賞となりました。
作中では水着を脱がされてスッポンポンになる女性やセックスを匂わせる描写・流血シーンなどがあるため、PG-12指定されています。

最初の舞台は1980年のメキシコ。
今作の主人公で傭兵兼暗殺者稼業を営むダニー・ブライスは、長年の相棒であるハンターと共に、要人を暗殺する機会を伺っていました。
彼らが考えた作戦は、2台のリムジンが通るルートを割り出して待ち伏せ、奇襲を仕掛けて一挙にことを成し遂げるというものでした。
果たして作戦は見事に成功し、2台のリムジンのうち1台は爆破され、残り1台もダニーに道を塞がれた挙句銃撃を浴びせられていきます。
護衛と運転手はダニーの手によって片付けられ、リムジンの中にいたターゲットも車の中で銃弾を浴び殺されてしまいます。
ところが、その要人が乗っていたリムジンには、たまたま10歳の少年も一緒に乗り合わせており、ダニーはその少年を見て凍りついてしまいます。
プロの暗殺者としては、目撃者となるであろうその10歳の少年も当然撃ち殺すべきだったのですが、ダニーは銃の引き金を引くことがどうしてもできずにいました。
時間にして1分もなかったでしょうが、ダニーはその隙を突かれて現地の警官に撃たれ負傷してしまい、仲間の援護を受けつつその場を後にすることとなります。
少年を前に冷徹になれない自分に限界を感じ、また少年を殺すことを要求される暗殺稼業に嫌気も差したダニーは、暗殺現場から離脱していく車の中で、今の仕事から足を洗うことを決意するのでした。

それから1年後。
オーストラリアの農場で静かに暮らしていたダニーの元に、1年前の暗殺でコンビを組んでいた相棒ハンターのポラロイド写真が届けられます。
彼はオマーン族の元族長で現在は亡命生活を強いられているシーク・ハルムから仕事の依頼を受けていたものの、途中で任務を放棄して囚われの身になってしまったとのこと。
ポラロイド写真の送り主で、ハンターに仕事を斡旋したエージェントの案内で、ダニーはシーク・ハルムと対面し、ハンターを釈放することと引き換えに、ハンターが途中放棄した仕事を遂行するよう命じられます。
その仕事の内容は、シーク・ハルムの3人の息子を殺したSASの隊員達を、殺害を自白する様子をビデオテープに録画した上で事故死に見せかけ殺してしまうこと。
しかも、シーク・ハルムは既に死病を患い余命半年と宣告されており、それまでに決着をつけなければならないとのこと。
成功報酬は600万ドルとのことでしたが、世界最強の特殊部隊とすら言われているSASを相手にするのはあまりにも無謀極まりない仕事と言えました。
ちなみにハンターは、成功報酬に目が眩んで依頼内容も聞かずに仕事を請け負っていたとのこと。
仕事の達成が困難極まりないと判断したダニーは、まずはハンターとの面会を求めた後、彼と共に脱走する道を選びますが、シーク・ハルムの四男であるバクハイトによってその意図を頓挫させられてしまいます。
イヤでも仕事を引き受けざるをえなくなったダニーは、成功報酬600万ドルを山分けすることを条件にしてかつての仕事仲間達を集め、シーク・ハルムの息子達を殺したSAS隊員の割り出しと殺害方法について検討することとなるのですが……。

映画「キラー・エリート」は、とにかく最初から最後までひたすら暗殺の話をメインに進行していきます。
冒頭のシーンからそうでしたし、SASのメンバーを事故死に見せかけて殺していく過程も暗殺で、さらにはラストでもやっぱり暗殺が発生しています。
3人の息子を殺したとされるSASメンバーは、だいたい以下のような手順で殺されていきます。

1人目:ハリス
ハリスの自宅にある風呂のタイルと同じ素材のハンマーを用意し、風呂で足を滑らせ転んだショックで首の骨を折るか後頭部を強打したかのように見せかけて殺害。

2人目:クレッグ
事前に低体温の薬を飲ませ、SASの雪山での訓練中に遭難したかのように見せかけて殺害。

3人目:マッケラン
タンクローリーを遠隔操作できるよう細工し、外出していたマッケランの車の前で暴走させ正面衝突事故を演出して殺害。

こういう手法をよく考えつくよなぁ、と感心しながら見ていましたが、当然SAS側もただ指をくわえて事態を傍観していたわけではありません。
ダニー達の仕事は、比較的初期の情報収集が行われていた段階で、映画の原作小説の名でもある「フェザーメン」という名の組織にある程度の情報がもたらされていました。
「フェザーメン」とは、退役した元SAS隊員を中心に構成される、現SAS隊員を過去に関わった組織や人間の報復やテロなどから守ることを目的に作られた秘密結社です。
この「フェザーメン」を構成するメンバーのひとりであるスパイク・ローガンが、ダニー達の仕事の前に立ちはだかることになります。
「現」ではなく「元」ではあってもSAS隊員としての技能を持っていることは間違いないわけで、だからこそ「世界最強の特殊部隊 VS 世界最高の暗殺者」という映画のキャッチフレーズが生きてくるわけですね。
作中で繰り広げられるアクションシーンは、さすがハリウッド映画のアクションスターであるジェイソン・ステイサムならではのものがありました。

作中のダニーの言動を見ていると、彼は殺しを遂行するに際しても、一定の美学なり矜持なりを律儀に守っている感が多々ありましたね。
冒頭の少年を見て殺害を躊躇したこともそうですし、また1人目のハリスを暗殺するに際しては、「ハリスの愛人は既婚者なのだから2人共殺して旦那に罪を着せよう」という仲間の意見を「関係のない人間を巻き込むな」と却下しています。
そんな美学や矜持を持つダニーにとって、暗殺者という稼業は技術的にはともかく、心情的には必ずしも向いたものではなかったでしょうね。
暗殺稼業において殺しを躊躇するなど論外もいいところでしょうし、利用できるものは何でも利用しなければ逆に自分達の方がやられかねないのですから。
ダニーが暗殺者としての自分に限界を感じたのも、その点では当然のことだったといえるのではないでしょうか。

暗殺話がメインということもあり、全体的に話がやや暗い感がありますが、ジェイソン・ステイサムのアクションシーンが観たいという方にはオススメの映画と言えるでしょう。

映画「幸せの教室」感想

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映画「幸せの教室」観に行ってきました。
トム・ハンクスが監督・脚本・主演を務め、ジュリア・ロバーツと共演している、アメリカのコメディドラマ作品。

トム・ハンクスが演じる今作の主人公ラリー・クラウンは、かつて軍艦でコックの仕事をしていた元軍人で離婚歴があり、コックを辞めてからはUマートというスーパーマーケットで働く40代半ば~50代前半?頃の中年男性。
そんな彼が、ある日突然上層部から呼び出され、会社のリストラの一環としてクビを言い渡されてしまうところから物語は始まります。
ラリーがクビにされるに至った決定的な理由は、彼の学歴が大卒ではなく、出世が見込めないからというもの。
彼は過去に何度も会社から表彰されている優秀な社員だったにもかかわらずです。
しかし事情はどうであれ、Uマートを叩き出され失業してしまったラリーは、当然再就職のためにあちこちの会社や事業所などを渡り歩くのですが、この不況時に年齢・学歴の事情もあり、再就職は難航します。
さらに収入がなくなったために住宅ローンの支払いも滞ってしまい、住宅差し押さえの危機にまで直面してしまうありさま。
そこで、まずは自宅にあるいらない物を売り払ってしまうべく、庭先に物を並べ始めるのですが、ご近所でジャンク屋を営んでいる黒人のラマーに「俺の商売の邪魔をするな!」と勘違いされ怒鳴りこまれてしまいます。
ラマーに対してラリーが事情を説明すると、ラマーは2年制のイーストバレー短期大学(コミュニティ・カレッジ)の冊子を見せ、そこで学歴を身につけることをラリーに勧めます。
リストラの直接的な原因が学歴であったこともあり、ラリーは就職活動を継続しつつ、イーストバレー短期大学に足を運ぶことを決意するのでした。

最終学歴が大卒ではないラリーにとって、大学は全く未知の場所。
そこでラリーは、大学の入り口近くにいた教職の人?に、どんなカリキュラムを受ければ良いか訪ねるのですが、そこで提示されたのは「スピーチ217」というもの。
ラリーはその「スピーチ217」と経済学をメインに受講することを決め、まずは「スピーチ217」の講義が行われている教室を探し始めるのでした。
その「スピーチ217」の講義を行っているのは、ニートな夫と不仲な関係にあり、自身の仕事にも全くやる気が見出せないでいる女性メルセデス・テイノー。
彼女は、自分の講義を受講する人間が10人に達していないと「採算が取れないから」という理由で講義を平然とキャンセルしてしまう女性だったりします。
アレって学則とかではなくて、彼女がサボりの口実として勝手に決めたマイルールの類でしかないようにしか見えないのが何とも言えないところですね(苦笑)。
その日も、自分が受け持つ教室には9人しかおらず、これ幸いにと講義中止を宣言しその場から去ろうとするメルセデス。
しかしそこに、「スピーチ217」が行われる教室を探していたラリーが入ってきて、メルセデスはやむなく講義を遂行せざるをえなくなってしまうのでした。
ラリーが年齢も立場も異なる学友達と新しい生活を営んでいく中、メルセデスの生活環境もその影響を受けることとなるのですが……。

映画「幸せの教室」を観賞していてまず驚いたのは、アメリカにも学歴差別が存在するという事実ですね。
科挙を行ってきた歴史を持つ中国や韓国の学歴差別が熾烈を極めるというエピソードは私もしばしば耳にしていましたが、アメリカもそうであるという話はほとんど聞かないものでしたし。
学歴差別自体は日本にもありますが、日本ではそれに対する批判が行われる際に「アメリカの自由主義的な教育制度」がしばしば引き合いに出されていたことが少なからずあったため、てっきりアメリカには学歴差別なんてないものとばかり思っていたのですが。
気になって調べてみたら、何とアメリカの方こそが日本以上の学歴至上主義的な社会であるのだそうで、何故こんな国の教育制度が日本の学歴差別批判の題材として使われていたのか、はなはだ理解に苦しむものがあります。
そうでなくてもアメリカには、映画「ヘルプ ~心がつなぐストーリー~」の時代に比べれば幾分マシになったとはいえ、今なお人種差別の類が跳梁跋扈している現実もあるというのに。
ただ、よくよく考えてみれば、日本の教育水準を低下させた元凶と言われている「ゆとり教育」なども元々はアメリカからの直輸入だったわけなのですから、アメリカの教育システムに重大な欠陥があること自体は何ら不思議な話ではなかったのですが。
今ではアメリカの方こそが、かつての日本の「詰め込み教育」を積極的に導入していたりもするのだそうで、こと教育分野に関してアメリカの制度を礼賛するのは危険極まりないことなのではないのかと、今作を観ていて改めて考えざるをえなかったですね。
作中でメルセデスがサボりの口実として使っていた「受講者が10人に達しない場合は講義中止」のルールも、「それだと採算が取れないから」などという、受講者を置き去りにした理由付けがなされていましたし。
教育現場に採算効率的な市場原理を持ち込んで良いのかとか、そもそも学費は年単位の一括払いではないのかとか、色々とツッコミどころが多いのですが。
アメリカの学費は日本に比べて安いなどとよく言われますが、なるほど、そのカラクリと代償はこんなところにあったのかと、その点でも納得してしまったものでした。
安ければ安いほど良い、というあり方も考えものではありますね、特に教育については。

また作中では、主人公ラリー・クラウンが「自動車よりも燃費が良いから」と購入したスクーターが大活躍しています。
通学はもちろんのこと、スクーター絡みの縁で交友関係も出来ていましたし、バス亭?でひとり佇んでいたメルセデスをラリーが家まで送っていった際もスクーターが使われていました。
日本だとスクーター(50㏄以下の原動機付自転車こと原付バイク)の2人乗りは道交法で原則禁止とされているのですが、アメリカだとOKなのですね。
作中で交通取締を行っている警官達の目の前を2人乗りスクーターが堂々と通っていても、何ら咎められることすらありませんでしたし。
また、スクーターがまるで暴走族のごとく集団で、しかも真っ昼間に堂々と走行している光景も、日本ではまず見られないものですね。
スクーターに限らず、自転車やオートバイも含めた二輪車全体が、マスコミによる「走行者のマナーがなっていない」「事故が増えている」的なバッシングを次々に浴びせられまくって冷遇の一途を辿っていますし。
作中でも描写されていたように燃費は良いのですし小回りも効くのですから、もう少し普及しても良さそうな気はするのですけどね。

これら教育システムの実態やスクーター絡みの件などは、日本ではまず見られないものばかりで、その点では良くも悪くも「現在のアメリカ社会の実態」や「他国とのカルチャーショック」を表現しているものではありますね、今作は。
製作者であるトム・ハンクスも、そんなものを描写するつもりは全くなかったのでしょうけど。

ただ一方で、ラリーが作中で置かれていた境遇や「教育を受ける中高年者」という図式については、逆に日本でも充分にありえるストーリーではあります。
「リストラでクビ」なんて話は日本では10年以上も昔から盛んに言われていてもはや珍しくもない風景ですし、ハローワークなどでは資格を得るための諸々の訓練などが紹介されていたりもするわけですからね。
大学入学なども、ことさら一流大学を選ぶのでなければ比較的簡単に入学することも出来るようになっていますし、短大や専門学校などであればさらに容易です。
失業の憂き目に遭ってラリーのような選択をした人も少なからずいたでしょうし、そこから再起できた人も決してゼロではないのではないかと。
失業をきっかけに新しい世界に踏み出し、新しい知識と友人に恵まれたラリーは、確かに充実した学習をすることができたと言えるのではないでしょうか。
……まあ、あの年齢で「人生の伴侶」まで再び得られた、というのはさすがに稀ではないかとは思うのですが(苦笑)。

アクションシーンなどは皆無で、そればかりか「悪役」的な登場人物も出てこないので、すくなくとも不快になることはない作品ですね。
恋愛描写が全体的に淡白な感がありますし、時間の経過具合がイマイチ分かりにくい部分もあるのですが、人間ドラマ作品として観る分には「可もなく不可もなく」といったところなのではないかと思います。

映画「宇宙兄弟」感想

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映画「宇宙兄弟」観に行ってきました。
小山宙哉による週刊漫画雑誌「モーニング」で連載中の同名マンガを実写映画化した作品。

全ての発端となるのは2006年7月9日。
この日の夜、兄の六太(むった)と弟の日々人(ひびと)の南波兄弟は、録音機器を持ってカエルの生態の調査を行っていました。
カエルの鳴き声をナレーション混じりに録音している最中、2人は突如空を怪しげな機動を描いて飛ぶ謎の飛行物体を目撃します。
どう見ても地球上の飛行機やヘリなどではありえない機動で飛び回った謎の飛行物体は、ひとしきり南波兄弟の目の前で飛び回った後、空に浮かんでいた月に向かって消えていってしまいました。
半ば呆然とその様相を眺めていた2人でしたが、しばらくして弟である日々人が沈黙を破ります。
「俺、大人になったら宇宙飛行士になるんだ!」という言葉と共に。
さらに日々人は兄に対してもどうするのかと尋ね、兄がそれに答えようとしたところで舞台は暗転、時代は2025年へと移ることとなります。

UFOを目撃したあの日から19年後、南波兄弟はそれぞれ異なる道を歩んでいました。
弟の日々人は、あの日宣言した夢を見事に叶え、日本人初となる月面着陸者という栄誉と共にマスコミの注目を集める宇宙飛行士に。
そして、今作の主人公となる兄の六太は、自動車会社で車のデザイン設計を担う仕事に従事する日々を送っていました。
ところが六太は、マスコミで弟のことが話題に上がる中、その弟のことを腐しまくっていた会社の専務に激怒して頭突きをかましてしまい、その場でクビを言い渡されてしまうことに。
無職になってしまった六太は、再就職するべく何十件もの会社へ面接に挑むのですが、辞めた経緯と年齢の問題も相まってなかなか再就職が決まりません。
この辺りは、「2025年の日本も今と同じ不況の渦中にあるのか?」とついつい疑いたくなってしまうところですが、そんなある日、実家暮らしをしている六太の下に、自分が応募した覚えのない宇宙航空研究開発機構(JAXA)の書類選考を通過したとの知らせが届きます。
JAXAは弟である日々人の職場でもあることから、六太は当然のごとく弟の関与を疑います。
現在は月面着陸の宇宙航行のためにアメリカへ飛んでいる弟に電話してみると、やはり兄も自分と一緒に宇宙飛行士になって欲しいという弟の画策によるものでした。
日々人の進めに最初は渋る六太でしたが、日々人は「忘れたのかよ、あの約束」という言葉と共に、冒頭の2006年7月9日の録音テープを聞くよう兄に催促します。
家の中から録音テープを探し出して耳を傾けた六太が聞いたのは、他ならぬ自分自身が弟に対して宣言した「俺も宇宙飛行士になる」「2人で一緒に宇宙へ行こう!」という言葉だったのです。
今更ながらに昔のことを思い出した六太は、おりしも就職がなかなか決まらないことも手伝い、実に5年ぶりの募集となるらしいJAXAの採用試験を受けてみようと決意するのですが……。

映画「宇宙兄弟」のストーリー展開は結構「地味」なところがありますね。
アクションシーンなどの派手かつ奇抜な描写は一切なく、唯一見栄えのする描写と言えば、月面に向けて発射されるシャトル?のシーンくらい。
物語の核自体が「『兄弟2人で一緒に宇宙飛行士になる』という夢の実現」と「六太のJAXA試験行程」で構成されているので、派手なシーンなどそもそも登場させようもないのですが。
ただ、人間ドラマとしての出来はまずまずのものでしたし、また作中では、実際にアポロ11号の乗組員でニール・アームストロング船長と共に最初に月に降り立ったバズ・オルドリンが「本人役」として友情出演していたりします。
彼は、月に向かう日々人を見送りに来ていたものの、日々人が飼っていたペットであるブルドック犬のアポを追いかけているうちに道に迷った六太に対し、発射するシャトルを一望できる見晴らしの良い場を提供すると共に、宇宙飛行士になるか否かで迷っている六太の背を押す重要な役割を果たしています。
バズ・オルドリンはあくまでも元宇宙飛行士であり俳優ではなかったはずですが、その演技は他の出演者と比べても決して劣るものではなかったですね。
そのバズ・オルドリンと六太が出会った旧施設をはじめとするNASA関連の建造物なども、実在の施設にまで直接赴き撮影したものなのだとか。
この辺りは、映画製作者達のこだわりが伝わってくるところですね。

物語後半になると、JAXAの二次選考を通過した6人が受けることとなる最終試験の描写がメインとなります。
この最終試験は、宇宙での実験場兼居住環境を模した閉鎖空間に、二次選考通過者全員を10日間押し込めた状態での適性を見るためのもの。
その間、様々な課題をこなしたり、その日の日誌を書かせたりして、ストレスの溜まり具合などを見ていくわけです。
驚いたのは、2チームに分かれて宇宙基地の模型作成を数日かけて行う課題を遂行していく途中で、アトランダムに選抜した人物に「グリーンカード」なるものを手渡し、自分のチームの模型を破壊するよう指示するミッションがあったこと。
「グリーンカード」を渡された人間がそのことを話すと即失格となるため、試験遂行中は「グリーンカード」およびその内容についてしゃべることができません。
「グリーンカード」を渡した人間には秘密を抱え込ませた状態に、それ以外の人達には6人の中で誰が悪いのか疑心暗鬼にする状態にそれぞれ陥れさせ、さらなる極限状態を現出させるわけです。
これは宇宙空間における事故などを想定して行うテストのようで、そういう状態でも冷静に判断したり場を収めるための能力を問うているわけです。
かかっているのは試験の成否なのですから、やられた方もやった方も確かに凄いストレスになるでしょうね。

ただ、これは今回だけのアクシデントだったのですが、月に行った日々人が月面で事故を起こし安否が不明になったからといって、最終試験の最中に試験官達が六太にそれを教えるという対応は正直どうかと思いました。
明らかに試験内容とは全く関係のないことでしたし、そもそもあの時点ではまだ安否が知れなかっただけで「日々人の死」まで確認されていたわけではなかったのですから、最終試験およびその後の最終面接が終わった後にそのことを伝えても決して遅くはなかったはずでしょう。
時期的に見ても最終試験のちょうど最終日で、しかも終わるまであと少しという段階だったのですからなおのこと。
仮に試験の一環としてアレを仕込んだとしても、「グリーンカード」の件と違って六太にだけ圧倒的なハンデが課せられることとなってしまうわけで、「試験の公正性」という観点から言っても問題があり過ぎるでしょう。
確かに物語的には、その逆境を乗り越えて主人公が魅せる、という盛り上がりがあるわけですが、試験官達の言動自体は、新人の採用を審査する試験官としては完全に失格であると言わざるをえません。
作中の描写を見る限りでは、試験官達も「試験の課題」とかではなく本当の善意から六太に凶報を伝えていたようなのですが(「この件で試験を途中で降りても合否には影響しない」とまで言っていたわけですし)、事件のことを伝えるにしてももう少し待てなかったのか、とツッコミを入れずにいられなかったところですね。

アクションやSFXを売りにしている映画ではありませんが、人間ドラマ作品としては比較的万人受けしやすい部類に入る、とは言えるのではないでしょうか。

映画「HOME 愛しの座敷わらし」感想

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映画「HOME 愛しの座敷わらし」観に行ってきました。
荻原浩の同名小説を原作とした、劇場版「相棒」シリーズの和泉聖治監督と水谷豊主演で送る、家族の再生物語。

物語のメイン舞台となるのは東北地方の岩手県。
その片田舎にある一軒の民家に、一組の家族が東京から引っ越してきました。
TOYOTAのミニバン「NOAH」に乗ってやってきたその家族・高橋家一同の前に姿を現した民家は、何と築200年を数えるという、「和製ログハウス」という名の今時珍しい藁葺き家でした。
トイレは水洗ではなくポットン便所ですし、風呂もガスではなく薪をくべて湯を沸かす五右衛門風呂というありさま。
あまりにも古めかし過ぎる家に、家を選んだ主人以外の家族は当然のごとく不満タラタラです。
しかし、一家5人が暮らすには充分なだけの広さがあり、また支払う家賃が3分の1で済むとの主人の説明で、その場は皆渋々ながらも納得せざるをえなかったのでした。

引っ越してきた高橋家は、両親に長女(姉)と長男(弟)、それに祖母の5人家族。
この5人は、それぞれ少なからぬ問題を抱え込んでいました。
勤め先の会社である「日栄フーズ」で、東京本社から岩手の盛岡支社への転勤を命じられた、一家の主人にして今作の主人公でもある、水谷豊演じる高橋晃一。
東京生まれの東京育ちなことから、主人の地方転勤に戸惑いを隠せず、一家を支えつつ慣れない近所付き合いに悪戦苦闘を強いられる、専業主婦の高橋史子。
中学3年生の長女で、父親に反感を抱き、前の学校で少なからぬ人間関係で苦しめられていた高橋梓美。
小学5年生の長男で、喘息の持病を持つために母親からスポーツを止められている高橋智也。
そして最近、認知症の症状が出始めつつある祖母の高橋澄代。
それぞれがそれぞれに問題を抱えているところに今回の引っ越しが重なったこともあり、新住居での新生活も最初は当然のことながら全く上手くいきません。
それに加えて、新生活を始めた直後から、誰もいないのに囲炉裏の自在鉤が勝手に動いたり物音が聞こえたりするポルターガイストや、掃除機のコンセントが勝手に抜けるなどの現象が確認されるようになりました。
さらには、後ろには誰もいないのに手鏡を見ると何故か映っている謎の幼女。
最初は気のせいだと思っていた個々の家族達も、主人を除く全員で同じ現象を確認し合ったことから、一家共通で取り組むべき問題であると認識するに至ります。
そして彼らは、近所の人達からの証言で、自分達が住んでいる藁葺き家に「座敷わらし」が住んでいるのではないかという結論に到達するのですが……。

映画「HOME 愛しの座敷わらし」は、ストーリー構成が全体的にほのぼの感で溢れていて安心して観賞することができますね。
「家族の絆」を扱っているという点では、同日に公開されている映画「わが母の記」も同じですが、今作はあちらに比べるとまだストーリーに起伏がありますし、起承転結の流れも比較的分かりやすい構成となっています。
あちらがシニア層・主婦層向けだとすると、今作は親子や一家揃っての観賞に適した作品、と言えるでしょうか。
少年からお年寄りまで、老若男女の層全てを取り入れていますし。
主演の水谷豊は、やはり「相棒」シリーズのイメージが強いのですが、今作では「普段は家族にあまり強く出れないが、いざという時には自己主張をしっかりやる父親像」を違和感なく演じていました。
物語前半では「どこか頼りない父親」だったものが、後半では見違えるかのごとく頼もしい存在になっていましたし、ラストで高橋晃一が再度東京に呼び戻されることになった際、高橋晃一だけ単身赴任で行くのではなく、全員一致で一緒に行くことを決定した過程と光景は、最初の頃からは想像もつかないものだったでしょう。
それと、地元の祭りを楽しんでいる最中に祖母が認知症を本格的に発症してしまったことが判明した際の高橋晃一こと水谷豊の男泣きぶりは、やはり「わが母の記」における役所広司のそれと比較せずにいられませんでした。
「わが母の記」と同じく、あの描写も今作のハイライトのひとつではあるでしょうね。

ただ、日栄フーズの本社で最初に東京勤務に戻れることを示唆された際に、反発した高橋晃一が行った「愛」云々の演説は、何の伏線もなく唐突に出てきたこともあり、観客的には今ひとつその思いが伝わり難いものがありました。
あれだと、突然意味不明な理由をでっち上げてワガママをこねている、とすら解釈されてしまいかねないですし。
高橋晃一がそう思うようになった背景などについてもある程度描写した方が、あの演説により説得力が与えられたのではないでしょうか?

あと、今回出てきた「和製ログハウス」こと藁葺き家は、高橋一家が居住する前にフォスターという名の外国人(一家?)が住んでいたらしいのですが、居住して1年程経った頃に突然引っ越ししてしまったとのこと。
藁葺き家の台所が現代風に改造されていたり、家のところどころに魔除けが貼ってあったりするのはその名残なのだそうです。
作中では「昔のエピソード」として登場人物の口で紹介されていただけでしたが、この個人だか一家だかのフォスターさんが一体どういう過程を経て引っ越しをすることとなったのか、そこは少しばかり興味が出てくるところです。
家に魔除けが貼ってあってしかもそのまま放置されていたところから考えると、彼(ら?)は「座敷わらし」のことが理解できず、最後まで「排除すべき化け物」とでも解釈していた可能性が高いように思えるんですよね。
あんな「和製ログハウス」にわざわざ住むくらいですから、日本文化について相当なまでの理解はあったのでしょうが、それでも「座敷わらし」のことまで理解できるのかというとかなり微妙なところですし。
あの手の妖怪を尊重し、共に共生する文化って、外国にはほとんどないものですからねぇ(-_-;;)。
「突然引っ越ししてしまった」という辺り、近所の人間にも何も告げずに出て行ったことは確実ですし、ノイローゼでも患って逃げるように藁葺き家から去ってしまったのではないかと、ついつい考えてしまったものでした。
高橋一家の面々でさえ、最初は「座敷わらし」の悪戯について「私って何か(精神的に)おかしいんじゃないの?」と疑っていたくらいなのですし。
もちろん、高橋一家と同じく幸福になった上で転勤を命じられた等の理由で再引っ越しした可能性もありますし、「座敷わらし」の動向とは全く何の関係もなく「郷里の親族に何か突然の不幸があって……」などの事情があった可能性もありえるわけではあるのですが。
作中では結局、具体的な理由や事情について何も言及されていないために色々な想像ができてしまうのですが、できれば個人だか一家だかのフォスターさんも幸せな人生なり家庭環境なりを構築していることを願いたいものです。

今作は、「GWで一家揃って映画を観る」という需要に応えた映画と言えるのではないかなぁ、と。

映画「テルマエ・ロマエ」感想

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映画「テルマエ・ロマエ」観に行ってきました。
月刊雑誌「コミックビーム」で連載されているヤマザキマリの同名漫画を原作とした、古代ローマ帝国の公衆浴場「テルマエ」を設計する技師が現代の日本へタイムスリップすることから始まる、阿部寛・上戸彩が主演のコメディ作品。
一応古代ローマ帝国も舞台になっているのに、主要登場人物の俳優が全て日本人だけで構成されているという、なかなかに斬新な手法が用いられている映画です。
なお、今作で私の2012年映画観賞本数はちょうど30本目となります。

物語の始まりは西暦128年の古代ローマ帝国。
ローマ帝国のこの時代は、後に五賢帝の3人目に数えられることとなる第14代皇帝ハドリアヌスの御世であり、当時のローマ帝国は、異民族の度重なる侵入に手を焼きつつも、全体的には「パックス・ロマーナ」の恩恵を存分に享受していました。
ハドリアヌス帝は、即位当初に自身の政策に反対した4人の元老院を殺害するなどの強硬策から元老院の受けが悪く対立していたものの、「テルマエ」と呼ばれる公衆浴場を整備することで一般大衆の支持を得ていました。
阿部寛が演じる今作の主人公ルシウス・モデストゥスは、そんな「テルマエ」を設計する技師のひとり。
ところが彼は、革新的かつ豪華な建造物が次々と誕生していく世相の中、その生真面目過ぎる上に頑固な性格から時代に合わない古風な「テルマエ」を設計し続けたことが災いし、仕事を斡旋してくれていた依頼主と喧嘩別れをすることとなってしまいます。
自身の考え方が受け入れられないことに憮然とならざるをえなかった彼は、親友であるマルクス・ピエトラスに連れられ、ローマの「テルマエ」に一緒に入ることとなります。
しかし、あまりの喧騒と、自分の理想から著しくかけ離れた「テルマエ」の様相にさらに落胆したルシウスは、喧騒を避けるため浴槽の湯中にひとり潜りこむことに。
そこでルシウスは、浴槽の壁の一部に穴が開いており、そこから水が排水されている光景を発見します。
ルシウスが確かめてみようと近づくと、突如ルシウスは水流に足を取られ、壁の穴に吸い込まれてしまうのでした。

ルシウスは無我夢中で出口を求め、ようやく水から顔を出すことに成功します。
しかし、そこは自分がいたローマの「テルマエ」ではなく、何と現代日本の銭湯だったのです。
どう見てもローマ人の顔つきとは異なる日本人と、見たこともない浴場の様相に戸惑いを覚えるルシウス。
そんなことなど知る由も無い彼は、そこがあくまでもローマの属州であり、かつ入浴している日本人達もローマの奴隷であると思い込み、彼らを「平たい顔族」として下に見るのでした。
基本的に好奇心旺盛かつ学習意欲満々のルシウスは、浴場、ひいては現代日本の文明水準にいちいち大真面目なリアクションで驚愕することを繰り返しまくりつつも、それが自分が理想とする浴場のあり方と合致していることから、日本の浴場文化をローマの「テルマエ」に取り入れていくことを考えつきます。
素っ裸のまま浴場・脱衣所を経て一度外に出たルシウスは、今度は女湯の方へと足を踏み入れてしまい、悲鳴と共に体重計?を投げつけられ気絶してしまうのでした。
そんなルシウスを女湯から引き摺り戻し、フルーツ牛乳を渡す「平たい顔族」の老人達。
それを飲んだルシウスが味に感動していると、次第に視界が霞んでいき、次に気づいた時には元いたローマの「テルマエ」に戻ってきていたのでした。
ローマに戻ってきたルシウスは、現代日本で得た知識を元に、当時のローマにはなかった斬新な「テルマエ」を次々と作り出し、それまでとは一変して人気を博するようになっていくのですが……。

映画「テルマエ・ロマエ」は、阿部寛が演じる主人公ルシウスの驚愕なリアクションが序盤の見所のひとつですね。
洗面器やシャンプーハットなどについて、いちいち仰天の表情と詳細なモノローグを交えて、その驚きぶりを表現してくれます(苦笑)。
そのカルチャーショックは浴場だけにとどまらず、トイレのフタの自動オープン機能やお尻ウォッシャーなどにも及び、電気のことを知らないルシウスは「これは奴隷が隠れてやっているに違いない」と間違った解釈をしていたりします。
ただそれにしても、お尻ウォッシャーに感動して涙まで流すのはさすがにどうかとは思うのですが(爆)。
しかし一方で、そうやって見聞した現代日本の文化を自分なりに解釈し、その結果をローマの「テルマエ」に反映させてしまう辺り、ルシウスの仕事に対する情熱とやる気は並々ならぬものがあります。
ルシウスにとっての「テルマエ設計技師」という仕事は、生計の術であるのと同時に、現代日本の「オタク」「マニア」と似たようなものでもあるのでしょうね。
ただ、その仕事一筋な性格が災いして、奥さんに不倫された挙句に逃げられてしまったのは何とも気の毒な話ではありましたが(T_T)。
また、この手の作品では、異世界にジャンプする際に何故か自分と相手との言語の問題が自動的にクリアされていて普通に意思疎通が可能だったりするのが一般的なパターンなのですが、今作ではルシウスは当時のローマで使われていたラテン語で、日本人は普通の日本語をしゃべっているという設定となっていました。
日本に来た際のルシウスはラテン語をしゃべっていましたし、物語中盤までは「平たい顔族」との意志の疎通自体が困難を極めるありさまでした。
普通にありえる話なのに、巷のエンターテイメント作品では意外と見かけない設定であり、却って斬新な感がありましたねぇ。

ルシウスのタイムトラベルには、ルシウス本人が身に纏っている物や手に持っている物も一緒に移動させることが出来るという特性があります。
序盤でも牛乳瓶などを持ち帰っていたり、バナナの皮と種を入手して「テルマエ」の建造に利用したりしているのですが、何と人間まで持ち帰ることも可能という恐るべき仕様も。
さらには、ルシウスが現代日本からローマへとタイムリープする際、その場には一定時間の間、タイムホール?のようなものが出来るらしく、他の人間達もその穴を伝ってローマ時代にタイムトラベルすることも可能なようです。
結果、物語後半では、逆にルシウスのいるローマの時代に複数の現代日本人がタイムトラベルしてくるという事態に。
しかもその際、ルシウスに連れられる形でローマにやって来た山越真実は、自身がケイオニウス(後のルキウス・アエリウス・カエサル)の愛人にされかけるところをアントニウスに助けられることで、世界の歴史が変わりかねない事態を招くこととなってしまう始末。
何と、史実ではハドリアヌス帝の後を継いで第15代ローマ皇帝に即位するはずのアントニウスが、本来ケイオニウスが赴任しそこで死去するはずのパンノニア属州の総督に任命されることとなってしまうのですね。
歴史の流れを修正するため、山越真実はルシウスと共に奔走することとなるのですが、この辺りが今作の映画オリジナル要素と言えるところなのでしょうか?

ただ、その歴史を修正する過程で2人が提示した改善策だと、ケイオニウスとアントニウス絡みの歴史は修正されても、その他の部分で歴史が大幅に変わるような気はしなくもないのですけどね。
戦いの兵士達の傷を癒す「テルマエ」を作った結果、ローマ辺境蛮族との戦いに勝ってしまったら、それは充分に歴史を変える行為になってしまうのではないかと思うのですが(^^;;)。
あの蛮族との戦い、作中ではモロにローマ側の敗色濃厚な状態でしたし。
ハドリアヌス帝は、本来負けるはずの戦いに勝ってしまったのかもしれませんし、その戦いで死ぬはずだった人間が生き残り、またその逆も充分に発生しえる事態なのですから、歴史に与える影響が少なかろうはずもありません。
下手をすれば、遠い未来にどこかの国の王族を誕生させることになるはずの遠い祖先が、その戦いで死んでしまった、などという事態もないとは言い切れないわけですし。
これって本当に大丈夫なのだろうか、とは、正直野暮だろうと思いつつも考えずにはいられなかったですね(苦笑)。

ちなみに、今作のオリジナルキャラクターでもあるらしい山越真実は、明らかに原作者自身をモデルにしたキャラクターですね。
元々、名前からしてそっくりで「漫画家志望」という設定な上、物語の最後にどこかの出版社?で今回の事件をモデルに書いたらしい、そのものズバリ「テルマエ・ロマエ」の漫画原稿を提出していたのですから(笑)。
ここは繋げ方が上手いなぁ、と少し感心したところです。

出演俳優とコメディ映画の好きな方にはイチオシの作品、と言えるでしょうか。

映画「わが母の記」感想

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映画「わが母の記」観に行ってきました。
作家・井上靖の同名小説を原作に役所広司・樹木希林・宮崎あおいが主演を演じる、高度成長期の古き良き昭和の時代を舞台とした人間ドラマ作品。
今作は本来、2012年4月28日公開予定の映画なのですが、今回もたまたま試写会に当選することとなり、公開予定日に先行しての観賞となりました。
まあ、今回はほんの数日程度の違いでしかなかったですけどね(^^;;)。

土砂降りの雨が降る中、幼い妹2人と共に雨宿りをする母親を、少し離れたところでただひとり見つめる自分――。
1959年、役所広司が演じる今作の主人公にして小説家の伊上洪作は、老齢で身体の容態が思わしくない父親の隼人を見舞うべく他の家族と共に訪問していた、現在の静岡県伊豆市湯ヶ島にある郷里の実家で、昔見た母親の八重の光景について回想していました。
洪作は、5歳の頃に2人の妹を連れて当時は日本領だった台北へと行ってしまい、以後13歳になるまで自分のことを放置していた母親に対する恨みとわだかまりをずっと抱き続けていました。
母親は自分だけを捨てていった、と洪作は考えたわけですね。
八重がそうするに至った本当の理由については物語後半で明らかとなるのですが、今作はこの「母子関係の葛藤と心情」が大きなテーマのひとつとなっていきます。
さて、もう長くないであろうことが確実な父親と半ば「最後の別れ」的な対面をした洪作は、ついさっき自分に言った発言を二度も繰り返す母親に「困ったものだ」的な苦笑いを浮かべていました。
実はこの頃からすでに、八重の老人ボケは既に進行しつつあったのですが。
洪作は東京ではそれなりに売れている小説家で、その東京の家では、まもなく売り出す予定の洪作の新刊に、洪作の家族が一家総出で検印を押し続けていました。
……ただし、洪作の三女である琴子を除いて。
湯ヶ島から帰ってきて、家族に加えて編集者も共にした夕食会でも全く姿を見せようとしない琴子に怒りを覚えた洪作は、琴子の部屋へ直接怒鳴り込みに行く亭主関白ぶりを見せつけます。
琴子は琴子で、父親に対する反抗心丸出しな様子を隠そうともしませんし。
ところがその日の深夜、昼に見舞いに行った父親・隼人の容態が急変し、そのまま逝去したとの連絡が伊上家にもたらされます。
ささやかながらも一族総出の葬儀が行われる中、父親に対する反発も手伝ってか、琴子は八重に話しかけ、洪作絡みの話題にしばしの時を費やすのでした。

以後、1960年、1963年、1966年……と時間が過ぎていき、1973年に八重が亡くなるまで物語は続いていくことになります。
時が進むにしたがって八重の老人ボケの症状はますます酷さを増していきます。
1966年頃になると、もう現在の息子の顔すらも忘れ、ただひたすら昔の思い出を途切れ途切れかつ脈絡もなく思い出しながら、たちの悪い放浪癖で家族をハラハラさせるような状態にまで至ってしまいます。
洪作も琴子もその他の家族の面々も、それぞれの人生を歩みつつ、そんな八重の様子を時には気にかけ、時には激怒しつつ見守っていくのですが……。

映画「わが母の記」は、認知症の実態を描いているという点においては、映画「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」に近いものがあります。
ただ、あの作品が「マーガレット・サッチャーの現状と本人の視点」に重点を置きすぎて観客の期待からは大きく外れた形で終始していたのに対し、今回は最初から「母親の認知症」を前面に出し、かつ母親周辺の人々にスポットを当てている点が、違うと言えば違うところですが。
今作では「認知症を患っている母親本人の視点」というものは一切登場せず、あくまでも「認知症の母親を見る周囲の視点」だけでストーリーが進んでいきます。
認知症患者の物忘れや奇行ぶりに振り回され悩まされ続ける家族の様子もよく描かれており、その点では地に足のついた現実味のある物語に仕上がっています。
ただ、全体的に淡々と進みすぎた感があり、特に1973年に八重が死ぬことになるラストを飾る「八重とのお別れ」の描写は「あれ? これで終わり?」的なあっけなさがありましたね。
あまりにあっけなさ過ぎてエンドロール後に何かあるのかと期待していたら、結局そちらでも何もなかったですし。
まあ正直、あの段階だと洪作と八重絡みのしがらみも終わってしまっていますし、あれ以外に締めようもなかったというのが実情ではあったのでしょうが、あそこはもう少し何かを感じさせる終わり方でも良かったのではないかと。

物語のハイライトは、やはり何といっても1969年の2つのシーンですね。
ひとつは、「洪作が少年時代に自作したものの本人ですら忘れていた詩の内容を八重が全て諳んじて、洪作が号泣するシーン」。
琴子との会話で出てきた少年時代の詩のエピソードがああいう形で繋がる点も見事の一言に尽きましたし、また洪作の「男泣き」も役所広司ならではの安定した上手い演技でした。
ふたつ目は、予告編でもある程度明示されていた「海辺で洪作が八重をおんぶするシーン」。
こちらは、終盤で徘徊していた八重が、人の良いトラックの運ちゃんに乗せられて海に向かったという情報が出た時点で「ああ、あのシーンが来るな」と簡単に予想はついたのですが、琴子に連れられた八重が洪作に背負われ、2人で一緒に海を歩くシーンは確かに充分絵になる描写でした。
映画「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」ほどのサプライズ感はさすがになかったものの、家族愛を表現する描写としては邦画の中でもトップクラスに入るものなのではないでしょうか。

ただこの映画、アクションシーンのような派手な描写は全くないですし、人間ドラマとしても全体的に起伏が少な過ぎる感が否めないので、正直言って「観る人を選ぶ」作品ではありますね。
出演俳優は豪華ですし演技も上手いので、俳優のファンの方々には一見の価値があるでしょうけど、果たして一般向けなのかと言われると……。
内容から考えるとシニア層&主婦層向けの作品、ということになりますかねぇ、やっぱり。

アメリカでは本当に3D映画が受け入れられているのか?

アメリカでは映画ファンの70%以上が2Dよりも3Dの映画を好む、という調査結果が発表されました↓

http://www.cinematoday.jp/page/N0041556
>  [シネマトゥデイ映画ニュース] 大作・話題作が軒並み3D公開されている現在、アメリカでは映画ファンの70パーセント以上が2Dよりも3D映画を好むという調査結果が発表された。
>
>  
今や3D公開されているのは当たり前であり、今年夏に公開される映画『ダークナイト ライジング』に至っては3D上映を行わないことがニュースになるほどだった。それは裏を返せば、3D映画がいかに観客に浸透しているかという証だろう。
>
>  それをデータとして裏付けるのが、インターナショナル3Dソサエティーと市場調査会社ORCインターナショナルが合同で発表した調査結果。
調査は18歳以上のアメリカ人1,011名を対象に行われ、内52パーセントが過去3年間に3D映画を観たことがあると回答。さらに、その内の71パーセントが2Dよりも3D映画を好むと回答した。
>
>  もともとは2Dカメラで撮影された映像を変換したものも多いため、3D作品に対する不満もよく聞かれる。だが、『アバター』を筆頭に、『トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン』など、3Dカメラで撮影された作品はやはり3D作品でしか味わえない魅力がある。
一定数の観客が3D映画の方を好むと証明された以上、今後も3D映画は製作され続けるに違いない。(編集部・福田麗)

この調査結果は、一見すると確かに3D映画が大衆に受け入れられているかに見える内容ではあります。
しかしこれ、よく読んでみると「映画ファンに3D映画が受け入れられている」とはとても言えない内容が多分に含まれていることが見えてくるんですよね。
まず、この調査結果では、そもそも3D映画を観賞したことのある人自体が全調査対象者数の半分程度しかいないことが分かります。
そして、3D映画が2Dよりも好みであるという人は、その半分程度の観賞経験者のさらに7割程度しかいないという結果が出ているわけです。
つまり、調査対象者1011名の中で、実際に3D映画を2Dよりも好むという人の数は、

1011×0.52×0.71=373.2612

しかいないことになり、全体から見た割合は36.92%となるのです。
3分の1弱しか支持されていないのに、「3D映画が大衆に受け入れられつつある」などと言えるのでしょうか?

それに、3D映画の観賞経験だけをもって「映画ファン」と定義するのもいかがなものかと。
そもそも「2Dか3Dか」というのは必ずしも自分で選択できるものではなく、映画によっては3D以外の選択肢がないことも珍しくありません。
特に、普段は映画を観ない人がごく稀に映画を観るようなケースでは、選択の余地がない3D映画をほとんど自動的に観賞させられる事例も少なくないでしょう。
そうなると、映画は年に1本観に行くかどうかという人でも、件の調査の定義では「この人は映画ファンである」ということにされてしまうわけです。
また逆に、年に何回も映画を観ているものの、料金問題を嫌う等の理由から3D映画を避けている人は、何本映画を観ても「映画ファン」と換算されることがないのです。
これでは「映画ファン」の定義自体がおかしいと言わざるをえませんし、また映画館で映画をあまり観ない観客を多分に含んでいるであろう中で、確たる根拠と論理でもって「2Dよりも3Dの方が良い」と言える人が果たしてどれだけいるというのか、はなはだ疑問と評さざるをえないでしょう。
件の調査結果は、むしろ逆に3D映画があまり受け入れられていない事実を示すものである、とすら言えてしまうのではないでしょうか?

以前から何度も述べていますが、3D映画は料金問題ひとつ取っても敬遠されるに充分なものがあるはずなんですよね。
3D映画を選択するだけで2Dよりも高い料金が取られるとなれば、ただそれだけでも敬遠されない方が変というものです。
ましてや、3D映画自体の粗製乱造の結果、「どこに2Dとの違いがあるのか理解に苦しむ」的な3D映像がしばしば提供される事実まであるのですからなおのこと。
カネを払うメリットが少ないのにリスクが大き過ぎる、それが今の3D映画の実情なんですよね。

また、これは最近になって私も知ったことなのですが、3D映像というと「=飛び出す」というイメージ【だけ】で語られることが多いのも問題です。
そのイメージが3D映像の良さを宣伝するのに一番インパクトがあり客に理解させやすい、という事情もあるのでしょうが、それが結果として3D映像について誤解をばら撒くことにも繋がっています。
かく言う私自身、つい最近まで「何故ほとんど飛び出すことのない映像などのために余計なカネを払ったり専用メガネをかけたりしなければならないんだ!」と憤っていたクチでしたし(^^;;)。
最近の3D映像は「奥行き感」や「立体感」を重視しているのだそうで、そりゃ「スクリーンから飛び出す」というイメージと実態がまるで違ってくるのも当然です。
しかし、「では奥行き感や立体感というのは、通常の2D映像と比べてどこがどのように異なるのか?」と問われると、その説明は至難を極めるというのが実情だったりするわけで(-_-;;)。
2Dと3Dのスクリーンを両方置いてリアルタイムで直接見比べてさえも、両者の違いは理解しにくいものがあるのではないでしょうか?
TVがアナログから地上波デジタルへ移行する際によく喧伝されていた「画像が綺麗になる」でさえ、その違いが一般的に理解しにくいものがあった上に「何故そんなことのために…」という声が少なくなかったくらいなのですから。
「3D映像=飛び出す」という安易な宣伝を止めると共に、それに代わる宣伝文句&マーケティング戦略を新たに作りだす。
3D映画を一過性の流行で終わらせないようにするためには、その課題を避けて通ることはできないのではないでしょうか?

おかしな調査結果を使って実体のない詐欺のような宣伝などを行うことよりも、料金体系と宣伝戦略の抜本的な見直しに着手する方が、3D映画にとっても有益になると思うのですけどね。

映画「Black & White/ブラック&ホワイト」感想

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映画「Black & White/ブラック&ホワイト」観に行ってきました。
仲の良いCIAエージェントの2人が、ひとりの女性を巡ってスパイ能力とハイテク兵器の限りを駆使して恋の争いを演じるアクションコメディ作品。

物語はまず、今作の主人公となるCIAエージェントの2人、FDR(フランクリン・デラノ・ルーズベルト)・フォスターとタック・ヘンソンの仕事ぶりが披露されていきます。
2人は、カール・ハインリッヒという国際指名手配が大量破壊兵器を入手するのを阻止すると共に、彼を隠密裏に捕獲または殺害するという任務に従事していました。
大量破壊兵器の取引が行われる予定となっている香港の高層ビルに先回りして潜入し、その最上階で開催されていたパーティーの会場で女性を口説きつつ様子を伺う2人。
やがて予定通り、部下兼護衛および弟を引き連れてハインリッヒはやってくるのですが、ハインリッヒは取引相手を射殺しその場から逃走を図ります。
ここでFDRとタックは、ハインリッヒを逃がしてはならじと衆人環視の中でハインリッヒ一派に発砲を開始。
結果、ハインリッヒの部下と弟を殺すことには成功するものの、肝心のハインリッヒにはビルから飛び降りられパラシュートで逃げられてしまい、結局任務は失敗に終わってしまいます。
彼らの上司に当たる黒人女性CIA長官のコリンズは、任務に失敗したばかりか衆人環視で目立つアクションに走りマスコミの注目の的となった事実に激怒し、2人に対し謹慎処分を下すこととなります。

CIAエージェントとしての仕事が一時的にできなくなってしまった2人は、しかし良い機会だからとプライベートな生活を満喫することに。
タックは職業柄、CIAエージェントとしての自分の正体を隠し「旅行代理店の会社員」と身分を偽っているのですが、それが祟って子供も作ったはずの奥さんと離婚する羽目になった経歴を持っています。
今回の謹慎処分で時間を得た彼は、良い機会だからと、日本の柔道?を学んでいる子供の様子を観に行っていました。
しかし、父親の目の前で、相手の子供にボコボコにやられてしまうタックの息子。
タックが息子に話しかけても、息子は父親に隔意あり気な反応しか返すことがなく、そこへ息子を迎えに来た元奥さんと鉢合わせることに。
タックの元奥さんは、「これから別の男性とデートなの」とタックに言うと、息子を連れてその場から去ってしまうのでした。
自分の居場所がないことを思い知らされたタックは、FDRと相談した末、新しい恋に生きるべく、たまたまTVで宣伝されていた出会い系サイトに自分の名前を登録するのでした。

そのタックの出会い系サイトの登録に反応したのは、キッチン用の調理器具や電化製品などを取り扱う会社の重役を担っているローレン・スコット。
正確には、ローレンの女友達であるトリッシュが、ローレンに無断でローレンの名前を出会い系サイトに登録していたのがたまたまヒットしてしまい、最初はトリッシュに激怒したローレンが、タックを見て「この人カッコいい」とあっさりやる気になっただけなのですが(苦笑)。
ローレンは、かつて何もかも捨ててまで付き合っていた元カレに振られた挙句、新しい彼女まで紹介されてしまったことにショックを受け、その傷を癒している最中でした。
そこへ来てのタックの登場は、ローレンにとってもまさに「渡りに船」だったのでしょう。
彼女はすぐさまタックとデートすることを決意するに至ります。

一方、めでたくローレンと会うことになったタックは、親友のよしみでそのことをFDRに報告。
FDRはタックを支援するためにデートの様子を見張っていようかと提案しますが、さすがに「プライベートの侵害だから」とタックの方が拒否します。
その代わり、デートの現場に程近い場所でひそかに待機しておくことFDRは考えつきます。
しかし、このFDRの余計な気の回しがその後の騒動の元凶になるとは、この時一体誰が考えたでしょうか(笑)。
タックとローレンの初めてとなる出会いデート(喫茶店での会話だけ)そのものは特にトラブルもなく、むしろ互いに好感触を得るというベストな形で終了します。
しかし、タックと分かれたローレンがレンタルビデオショップに立ち寄った際、たまたまそこで張っていたFDRにナンパされてしまうのです。
ローレンは「軽薄なナンパ男」としてしかFDRを評価せず、すげなくあしらってその場を去ってしまうのですが、逆に興味を惹かれたFDRは、彼女の個人情報を調べて職場にまで押し寄せることに。
あまりにもしつこいFDRにキレかかるローレンでしたが、間の悪いことにそこへ新彼女を連れたローレンの元カレと鉢合わせしてしまいます。
変に見栄を張ろうとした彼女は、何とその場でFDRと濃厚なキスを交わしてしまい、元カレに「自分の新しい彼氏」としてFDRを紹介してしまうのでした。
そして、それがきっかけとなって、ローレンとFDRの関係も一転して良好なものとなっていきます。
しかし、互いに親友の間柄名上に共に同じ女性と仲良くなっているタックとFDRが、意中の相手がカブっている事実に気づくのにさしたる時間がかかるわけもありません。
2人はたちまちのうちに自分こそが相手を獲得すべく、CIA所属の諜報員やハイテク兵器を駆使した全面戦争に突入してしまうのでした。

映画「Black & White/ブラック&ホワイト」は、どちらかと言えばアクションよりも、下ネタ満載の会話と掛け合い漫才によるコメディタッチな部分に重点を置いている映画であると言えます。
ローレンとトリッシュの会話では、「FDRは手が小さい」「タックは英国人だから」などという、セックス的な問題を表すらしい陰語が登場しますし、トリッシュは「2人と寝て男性器の大きさや快楽の度合いを比較しろ」などとローレンを煽り立てる始末。
ローレンはローレンで、トリッシュの恋愛相談モドキな言動をいちいち真に受けて実行していたりしますし(苦笑)。
ちなみに、「手が小さい」の意味は作中でも説明されていて、「男性器(ペニス)が小さい」ということを婉曲に表現した陰語なのだとか。
一方で「英国人だから」については具体的な説明がなかったのですが、少し調べてみたらこんな記事が引っかかりました↓

イギリス人は遅漏、セックス耐久時間調査で明らかに。最短は6秒
http://digimaga.net/2009/10/british-men-have-more-stamina-in-bed
>  オランダ、ホラント州の研究者たちの調査によると、イギリス人男性はほかの国の男性と比べてセックスの耐久時間が長いことが分かりました。
>
>  この調査は5ヶ国、500人の男性に対して行われたもので、イギリス人男性は平均して10分間保てることが分かり、これが第1位。第2位はアメリカ人男性で、コチラは8分。三番手にはオランダ人男性の6分30秒が続きます。
>
>  そして4番手はスペイン人男性の4分54秒。最後はトルコ人男性で4分24秒とこれが最短でした。なお、調査に協力したユトレヒト大学では最短で6秒という結果の男性もいました。残念ながらこの男性の国籍は分かっていません。最長は52分間頑張れたそうです。
>
>  スポークスマンは、イギリスの大衆紙ザ・サンに対して「研究ではイギリス人男性が最も長いことが分かりました。コンドームの有無やサイズの大小による違いはありませんが、アルコールを飲んだ男性は通常よりも長く頑張れる傾向にあるようです」と語っています。
>
>  性医学ジャーナルで発表されたこの研究は、早漏のことを調べていました。早漏は、医学的には1分以上持続できない状態のことと定義されています。
およそ40%のイギリス人男性が早漏に苦しんでいるそうですが、この結果を見るにほかの国の男性はもっと苦しんでいることでしょう。ぜひ日本人男性も調査して欲しいところです。

この場合における「英国人」が指している意味合いというのは、FDRの件との整合性を考えると大体こんなところに落ち着くのではないかと。
念願叶って(?)FDRとセックスした際も、ローレンはわざわざトリッシュに感想を報告したりしていますし、それを受けたトリッシュはさらに煽り立てるしで、この辺りは本当に女性ならでは赤裸々かつ生々しい会話のオンパレードでしたね。
こんな少年少女の教育に悪影響を与えそうな会話が延々と繰り広げられている今作が、よくもまあPG-12指定にすらされなかったよなぁと、笑いと同時に奇妙なところで感心すらしてしまったほどです(苦笑)。

そして、それ以上に笑えたのは、FDRとタックに率いられたCIA下っ端諜報員達の活躍ですね。
たとえば作中では、絵画が趣味のひとつであるローレンを相手に、FDRが絵画のウンチク話を始めるシーンがあるのですが、そのウンチク内容はFDRの下っ端諜報員達が読み上げている文章を、FDRが通信機を介して聞き取ってしゃべると言う形で進行していました。
ところがそこで、タックに属する諜報員達が通信を乗っ取ってしまい、絵画についてデタラメな話を並べ立て始めてしまいます。
その内容がまたぶっ飛んでいて、「筆を使わず手で直接絵を描く」とか「手が塞がっている時はペニスで絵を描く」とか、ほとんど笑いを取りに行っているとしか思えないことをFDRにしゃべらせようとするんですね。
ローレンとFDRがセックス行為に及んでいる際には、その光景を興味津々で眺めていた上に(これは仕事だからですが)その全容をしっかりDVDに収めていたみたいですし。
FDRとタックは、下っ端諜報員達にローレン獲得のための作戦に従事させる際、動機と目的については「最高機密」を盾に口を濁しているのですが、下っ端諜報員達は早々に2人の対立構図に気づいていたみたいですからねぇ。
作中における下っ端諜報員達の描写を見ても、何もかも分かっていた上での確信犯で楽しんでいた感がありありでしたし。
FDRとタックの「当事者達は至って真剣なお笑い喜劇」以上に、彼らのコメディチックな活動にも笑えるものがありましたね。

今作は、過去作で言えば、映画「Mr.&Mrs.スミス」「ナイト&デイ」「キス&キル」などに相当する「コメディ重視のアクション作品」であろうと観賞前から当然のように考えていたので、その結果も案の定といったところでしたね。
全部、タイトル名に「&」がついている点も共通していますし(笑)。
逆に、恋愛やアクションメインで見ようとすると、今作は少々厳しいものがあるのではないかと。
その点では、映画「ジョニー・イングリッシュ 気休めの報酬」の路線に近い作品であるとも言えるのかもしれません。
全体的な評価としては、コメディ作品が好きな人にオススメ、といったところになるでしょうか。

映画「タイタンの逆襲」感想

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映画「タイタンの逆襲」観に行ってきました。
前作「タイタンの戦い」の続編で、ギリシャ神話の主神ゼウス・ポセイドン・ハデス3兄弟の父親で残虐な神クロノスとの戦いを描いた作品。
今作は2D版と3D版で同時上映されていますが、私が観たのは2D版となります。
前作の続編であるため、作中では前作を観ていないと分からない部分も少なからず出てきますが、基本的にアクション重視&単純なストーリー構成なので、前作を観ていなくてもそれなりには楽しむことができます。

前作「タイタンの戦い」で海の大怪獣クラーケンが倒されてから10年。
前作から引き続き主人公として活躍する、人間と神の間に生まれた半神半人(デミゴッド)であるペルセウスは、妻となったイオには先立たれたものの、彼女との間に生まれたひとり息子であるヘレイオスと共に、人間としての生活を営む日々を送っていました。
そんな彼の元にある日、彼の父親であるゼウスがやってきます。
何でも、前作の一件より人間が神々に祈りを捧げなくなってしまったことから、神々の力が著しく衰えてしまい、その結果、かつて冥界の奥に封印したゼウスの父親にしてタイタン族の巨神クロノスが覚醒しつつあるとのこと。
ゼウスは、クロノスが完全に復活すれば地上は地獄と化し、神々も人間も全て滅び去ってしまうため、それを阻止すべく手を貸して欲しいとペルセウスに依頼します。
しかし、ゼウスとは前作の一件で怨恨があるのに加え、息子を溺愛するペルセウスは「息子の傍を離れたくない」とこれを拒否。
しかたなくゼウスは、海神ポセイドンと、自身のもうひとりの息子である軍神アレスと共に、冥界の主であるハデスに協力を依頼すべく、地底へと向かうのでした。
ところが、既にハデスはゼウスに対する恨みからクロノスと手を組んでしまっており、そればかりかアレスまでもがゼウスを裏切りクロノスに加担する始末。
ただでさえ力が弱っていた上に奇襲的に裏切られたゼウスがこれに対抗する術はなく、ポセイドンは重傷を負わされ、ゼウスはあえなく虜囚の身となってしまうのでした。

一方、地上では、巨神クロノスが復活し始めた影響で、キメラがペルセウスのいる村を襲うという事件が発生。
息子を避難させつつ、何とかキメラを殺すことに成功したペルセウスは、そこで生命からがら地底から逃げてきたポセイドンから、地底で何が起こったのかを知らされることになります。
そしてポセイドンは、前作では王女として登場し、今では王位を継いで女王になっているらしいアンドロメダの下にいるという、ペルセウスと同じ半神半人であるポセイドンの息子と共に「堕ちた神」を探すよう告げ、自分の武器を授けた後に石化し崩れ落ちてしまうのでした。
彼は父親であるゼウスを助けるため、および人類、特に息子の破滅を回避するため、村の人達にヘレイオスのことを任せ、アンドロメダの元へと旅立つこととなるのですが……。

映画「タイタンの逆襲」は、上映時間が98分と前作106分より短めなためもあってか、ストーリー展開がとにかく早いですね。
序盤からすぐさま魔物との戦闘が始まりますし、アクションシーンも含めて目まぐるしく場面が変わります。
特に迷宮のシーンでは、迷宮自体が随時稼動し続けることも相まって、どこからどこへ移動しているのかも把握し難いものがあって、観客の視点では「気がついたら目的地に到達していた」というのが実態に近かったですし。

前作との違いで言えば、前作では煌びやかかつ力強さのあった神々の陣容が、今作では力の衰えを象徴するものなのか、全体的に弱々しい感じになっていた点が挙げられるでしょうか。
特に、聖闘士星矢の黄金聖衣を想起させる鎧を身に纏っていた前作のゼウスは、今作では終盤以外は鎧すらつけておらず、村の一般人よりはマシという程度の服装と風貌でしかありませんでしたし。
ポセイドンも序盤であっさり死んでしまいましたし、人間相手に圧倒的な強さを見せつけていたアレス以外はどうにもパッとしない感がありました。
こんなことになるのなら、前作で人間と対立なんかしなければ良かったのに、とついつい考えてしまいましたね(T_T)。

あと、今作のラスボスであるクロノスは、溶岩を纏った山よりも大きい巨大な巨人として描かれています。
しかし、一応はゼウス・ポセイドン・ハデスよりも格上の神であるにもかかわらず、作中ではただその巨大な図体にものを言わせて周囲に破壊を撒き散らすだけで、その点では前作のラスボスだったクラーケンと何ら変わるところがないんですよね。
戦場が海上&港町から荒地に変わっただけで、やっていることは全く同じでしたし。
一応は神、それも最上位に位置するであろう神なのですから、ただ溶岩を撒き散らすだけでなく、ゼウス達と同じような魔法攻撃や、神としての知性や威厳などを持ち合わせても良さそうなものなのですが。
台詞もあるにはあるのですが、その全てが「相手の名前をどことなく恨みがましく呼びかけるだけ」というシロモノでしかありませんでしたし。
作中の描写だけでは、単に図体と力がデカいだけのモンスターでしかなく、あれから何故ゼウス・ポセイドン・ハデスなどの神々が生まれたのかすらも理解に苦しむものがあります。
単なる魔物やクラーケンなどと一線を画する格別の存在であることを示すには、図体の大きさとは別の何がが、クロノスには必要だったのではないでしょうか?

ストーリー自体も単純明快ですし、あくまでも「アクションシーンを楽しむための作品」といったところでしょうか。
前作と同様に「可もなく不可もなく」な出来で、剣と魔法のファンタジー系なアクションが観たいという方であれば、とりあえず観ても損はない映画ですね。

映画「バトルシップ」感想

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映画「バトルシップ」観に行ってきました。
アメリカのハワイおよびその周辺海域を舞台に、地球外から総計5隻の宇宙船でやって来た侵略者達との戦いを描いた、ユニバーサル映画100周年記念作品。
通常、アメリカ映画は本家アメリカでの公開より数ヶ月遅れて日本では劇場公開されることが多いのですが、今作は逆にアメリカよりも1ヶ月早い日本公開となっています。
やはり今作では、内容自体が日米の共同軍事作戦をベースにしていることと、日本人俳優である浅野忠信が「マイティ・ソー」に次ぐ2作目のハリウッド映画出演ということで、興行収益が見込めると判断したアメリカ側がリップサービスをしてくれたという「大人の事情」でも背景にあるのでしょうけどね。
「マイティ・ソー」ではあまり目立たない脇役だった浅野忠信も、今作では準主役的なポジションにありますし。

物語の始まりは、地球外生命体が地球へやってくる2012年から遡ること7年前の2005年。
この年、アメリカでは、太陽系外にあるという地球型惑星と交信を試みる計画「ビーコン・プロジェクト」が立ち上げられ、衆人環視の中、ハワイのオアフ島に設置されたNASAの送信施設より目標の地球型惑星に向けて通信が発射されていました。
「ビーコン・プロジェクト」がTVニュースで流される中、とある酒場?では、一組の兄弟が今後のことについて何やら会話を交わしていました。
アメリカ海軍で現役エリート軍人として出世しつつある兄のストーン・ホッパーに対して、無職のトラブルメーカーで周囲からは鼻つまみ者扱いされている弟のアレックス・ホッパー。
2人の会話は、カウンター席に座ったひとりの女性を、今作の主人公であるアレックス・ホッパーが目に留めたところで中断します。
その女性サマンサ・シェーンに一目惚れしたアレックスは、早速サマンサに声をかけるのですが、最初は当然のごとく無視されます。
しかし、サマンサが店のマスターにチキン・ブリトーを注文したところ、売り切れで出せないという返答が返ってきたことにアレックスは食いつきます。
彼は「5分待ってくれればチキン・ブリトーを持ってくる」とサマンサに告げ、店を出て行くのでした。
彼はすぐさま近くのコンビニにまで足を運ぶのですが、そのコンビニは24時間営業ではないらしく、一足遅く営業時間を終えてシャッターを下したところでした。
「シャッターを開けてくれ」という懇願を無視されたアレックスは、何と裏口と天井裏?から店内に侵入してチキン・ブリトーを奪取。
しかし店内から脱出しようと入ってきた天井裏に戻ろうとして何度も失敗した挙句、店内をメチャクチャに破壊してしまい、警察当局に追われることに。
それでも警官に捕まる直前、アレックスは「何事か」と外に出ていたサマンサにチキン・ブリトーを渡すことに成功。
このことがきっかけとなり、サマンサとアレックスは付き合い始めるようになります。
しかし、一連のバカ騒ぎにアレックスの兄であるストーンは激怒、その精神を叩き直すべく、アレックスに対し問答無用で海軍に入ることを命令するのでした。

それから7年がたった2012年。
アメリカのハワイ・オアフ島では、記念艦となっている戦艦ミズーリの艦上で、リムパック(環太平洋合同軍事演習)を始めるにあたっての式典が行われていました。
演習が始まる前に、リムパック参加国の軍人同士によるサッカー杯が行われ、決勝はアメリカと日本で争われていました。
試合終盤、日本が1点のリードを守り続けている中、日本側の選手がボールではなくアレックスの顔面を蹴ってしまったことから、アメリカチームにペナルティキックのチャンスが舞い込んできます。
顔面を蹴られたことから脳震盪を起こした疑いがもたれたアレックスは、選手の交代を周囲から勧められますが、アレックスはこれを拒否して自分がシュートすることに固執します。
しかし、アレックスのシュートは高らかに舞い上がってゴールを飛び越え、この瞬間に日本の優勝が確定してしまいます。
試合の敗北にショックを受けるアレックスは、さらにその後、日本の海上自衛隊に所属している護衛艦「みょうこう」の艦長ユウジ・ナガタ一等海佐(アメリカでは大佐に相当)と殴り合い?の喧嘩沙汰を起こしてしまいます。
そのことが軍の上層部で問題になった結果、アレックスはリムパックが終了して帰港するのと同時に軍をクビにされることが決定してしまうのでした。

さすがに意気消沈し、無気力になってしまったアレックスでしたが、その頃、世界ではとんでもないことが発生していました。
何と、宇宙から正体不明の謎の飛行物体が5つ、編隊を組んで地球に接近してきたのです。
5つの飛行物体の中のひとつは、地球を周回している衛星に激突して空中分解して一部が中国の香港に落下、ビルが倒壊したりして大惨事となってしまいます。
そして残り4つは、今まさにリムパックが行われているハワイ沖に着水。
そのため、すぐ近くにいるリムパックの艦隊に謎の飛行物体を探索するよう、アメリカ本国から指示が来ることになります。
この指示を受け、飛行物体が着水した海域に3隻の艦艇が向かうことになりました。
そしてこれが、世界の命運を賭けることとなる戦いの始まりとなるのです。

映画「バトルシップ」では、実在する軍艦が作中で活躍しています。

リムパックの際の総旗艦となった空母ロナルド・レーガン
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飛行物体の調査に向かった3隻の中の1隻、USSサンプソン
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同じく3隻の中の1隻で、日本の海上自衛隊所属の護衛艦みょうこう
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そして主人公アレックス・ホッパーが搭乗している、USSジョン・ポール・ジョーンズ(以下「JPJ」)
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さらに序盤に記念艦として登場した戦艦ミズーリ
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当然、これ以外にも演習に参加していた軍艦はあるわけですが、実際には敵の宇宙船がハワイ沖を中心とした半径90㎞の海域に電磁バリアを張ってしまったために外部からの進入が一切不可能となったことから、たまたま飛行物体の調査でその海域内にいた3隻だけで宇宙船の相手をすることになってしまいます。
しかも3隻のうち、USSサンプソンと護衛艦みょうこうは敵の攻撃で早々に完全破壊されてしまったので、物語が終盤に近づく頃までは主人公が搭乗するJPJ「だけ」で敵の宇宙船と戦っていくこととなるのです。
世界各国の軍艦を集めたリムパックが舞台となっているのに、実質的にメインの戦いを繰り広げるのは駆逐艦1隻と敵宇宙船4隻だけという、何ともこじんまりとした展開なわけですね。
大規模な艦隊同士による大決戦的なものを考えていると、少々拍子抜けすることになるかもしれません。

ただ、規模はこじんまりとしたものであっても、それは戦闘シーンの迫力や手に汗握る演出を何ら軽減するものではありません。
序盤で披露される敵宇宙船の圧倒的な強さ。
レーダーの類を全て無効にされた状態で、完全破壊された護衛艦みょうこうから救助され指揮権を譲られたナガタの指揮の下、津波ブイを使った敵の追跡・捕捉・攻撃を行い孤軍奮闘するJPJ。
そして敵の宇宙船を3船まで破壊するも敵に逆襲され潰されてしまったJPJに代わり、一際巨大で電磁バリアを張っている元凶でも最後の敵宇宙船に戦いを挑む戦艦ミズーリ。
今作のタイトルでもある「バトルシップ」は、「戦う船」という比喩的な概念を意味するだけでなく、文字通りの「戦艦」、つまりミズーリのことをも指しているものでもあったわけですね。
この名前の繋げ方はなかなかに上手い落としどころなのではないかと思いました。
まあ、長年記念艦であった戦艦ミズーリに、すぐさま戦闘行動を可能にするだけの燃料や弾薬が満載されているなど本来ありえることではなく、その非現実性にツッコミどころの大穴があったのは少々苦しいところではあるのですが。
記念艦として停泊させておくだけのミズーリに常時燃料を入れておかなければならない理由がありませんし、使わない弾薬をミズーリにそのまま搭載したままにしておくなど、火薬管理の面から言っても危険極まりないのですから。
戦艦ミズーリを操れる老練の退役軍人達がアレだけいたのは、合同軍事演習の際の式典に列席するためという名目があったので、それで何とか説明も可能なのでしょうけど。
ただし、動かす過程が非現実的ではあっても、ああいう展開自体は結構燃えるものがありますし、戦艦ミズーリの活躍も演出もJPJのそれに決して劣るものではなかったので、映画としては大成功の部類に入るエピソードなのでしょうね。

映画「バトルシップ」では、エンドロール後にも続編を匂わせるようなエピソード映像が披露されています。
序盤で5隻の宇宙船のひとつが空中分解した際の脱出艇?がスコットランドに墜落しており、地元住民が興味本位でそのドアをこじ開けてしまい、中から宇宙人の手が出てきたところで終了、というものです。
今作は「ユニバーサル映画100周年記念作品」ということで作品内で話は完結しているだろうと考えていたので、まさかそんな映像があるとは思ってもみなかったのですが。
これってやはり「人気が出るなら続編を作ろう」みたいな意図でもあって入れている映像なのでしょうねぇ。
ただそれにしても、今作もエンドロールの途中で退席してしまい、結果としてその後の映像を見逃していた人が意外に多かったので、「やはり映画は最後まで観ないといけないなぁ」と改めて痛感せざるを得なかった次第です。
かくいう私も、以前はエンドロールの途中で席を立ってスクリーンから去っていた人間でしたし、実は今作でも「続きはないだろう」という考えから少しばかりそういう誘惑に駆られていたりしたのですが(^^;;)。
こういうのって、いいかげん何らかの対策を行う必要があるのではないかとは思わずにいられませんね。
映画料金を払いながら、エンドロール後の特典映像を見逃すのって結構な損失だと思いますし、しかし一方では「エンドロールなんて観る必要などない」と考える人が厳然として存在するわけで。
しかしだからと言って、「エンドロール後に特典映像が……」というアナウンスを事前に流すというのもサプライズな演出効果が薄れしまうという問題がありますし、微妙に難しい対処を迫られる課題ではあるのでしょうけどね。

ハリウッド映画が持つ迫力ある映像や演出、および単純明快な分かりやすいストーリー展開がお好みの方には、文句なしにオススメできる一品です。

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