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映画「図書館戦争」感想&疑問

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映画「図書館戦争」観に行ってきました。
有川浩の同名小説を原作とする、岡田准一・榮倉奈々主演のSFアクション大作。
「図書館戦争」は、元々アニメ化された後に「図書館戦争 革命のつばさ」というタイトルで映画化もされていたのですが、そちらは全国わずか30スクリーンでの上映ということもあり、熊本では全く観賞することもできないまま終わってしまっていました(T_T)。
それだけに今回の実写映画版は、公開が決定したことを知ってすぐに観賞リストに追加したほど、期待の高い作品でもありました。
しかも今作では、「SP」シリーズで奇抜なアクションシーンを見せてくれた岡田准一が主演、という大きなプラス要素もあったわけですし。
個人的に、映画観賞前の期待度という点では、今年前半期に上映される映画の中では一番だったと思いますね、今作は。

物語の舞台は並行世界?の架空の日本。
この世界の日本では、1988年に当時の国会で「メディア良化法」が成立するまでは、現実世界と全く同じ歴史を歩んでいます。
「メディア良化法」とは、公序良俗を乱し人権を侵害するとされる表現を規制するために制定された法律で、その対象は新聞・週刊誌等の紙媒体マスメディアはもちろんのこと、個人の著書やWebサイトなども含まれています。
「メディア良化法」の施行に伴い、その法の執行を行う機関「メディア良化委員会」が設置され、「メディア良化法」の名の下で苛烈な言論弾圧が開始されることになりました。
翌1989年1月、この世界でも昭和天皇が崩御され、新たな元号が制定されました。
この世界の日本で新たに採用された元号は「平成」ではなく「正化」。
「正化」は実際に「平成」と並ぶ新元号の有力候補のひとつだったのだそうですが、これ以降、日本国内における言論弾圧はますます激しさを増していきます。
「メディア良化委員会」は、検閲に抵抗する者に対する武器の使用まで認められ、自衛隊と並ぶ国内最大の武装集団へと躍進していくのでした。
そんな中、図書館だけは唯一、メディア良化委員会からの言論弾圧から免れ、かろうじて表現の自由を守り抜いていました。
しかし正化11年(西暦で言えば1999年)、公共図書館のひとつである日野市立図書館が、メディア良化委員会に同調する武装化された政治結社集団に襲撃されるという「日野の悪夢」と呼ばれる事件が発生します。
この事件では貴重な図書が1冊を除き全て損壊した上に総計12名の死者を出し、しかも警察の対応が大幅に遅れたことから被害が拡大。
結果、図書館側は「警察は自分達を守ってはくれない」と、独自に武装化する道を歩み始めます。
さらに正化16年(2004年)には図書館法が改正され、図書館の武装化を規定した条文が追加されたことにより武装化が合法化され、図書館の私設軍隊と言える「図書隊」が設立されるに至ったのでした。
以来、「図書隊」と「メディア良化委員会」は何かにつけて対立を続け、市街戦すら演じるほどの犬猿な関係となっていくのでした。
そして正化31年(2019年)、物語の本編が開始されることになります。

この年、図書隊に笠原郁(かさはらいく)という女性が入隊してきました。
一応は今作の主人公である彼女は、高校時代に所持していた本をメディア良化委員会の検閲で没収されそうになった際、図書隊の隊員によって窮地を救われた過去があり、以来、名前どころか顔すらもマトモに見ていないその隊員に憧れ、また再会を期して図書隊へ入隊したのでした。
その笠原郁の最初の上官となったのは、コチコチの規律至上主義的な言動を繰り広げ、鬼教官として恐れられている堂上篤(どうじょうあつし)。
彼は笠原郁に対し、しばしば手を挙げたり怒鳴りつけたりするなどして厳しく指導したことから、笠原郁から反発と陰口を叩かれるようになってしまいます。
堂上篤が笠原郁に厳しく当たるのには、実は彼個人の全く私的な理由があったのですが。
やがて笠原郁は、元々の素質と堂上篤の厳しい指導の賜物なのか、図書隊初の図書特殊部隊(ライブラリータスクフォース)の隊員として配属されることになります。
そして彼女は、図書隊が置かれている現実の厳しさを目の当たりにすることとなるのですが……。

映画「図書館戦争」における図書隊やメディア良化委員会、および両陣営の戦いについては、正直いくつものツッコミどころがあると言わざるをえないですね。
それを一番痛感せずにいられなかったのは、植物人間状態の館長が死去したのに伴い閉鎖されることになった小田原の情報歴史図書館の資料を巡って発生した、図書隊とメディア良化委員会との戦いですね。
この戦いでは、図書館にバリケードを張り巡らせて籠城しつつ、ヘリ輸送による空輸で資料を運ぶ時間を稼ぐ図書隊と、それを攻撃するメディア良化委員会という図式で進行することになったのですが、その実態は、第一次世界大戦当時の塹壕戦レベルなシロモノでしかないんですよね。
両陣営共に自動小銃を装備し、互いに撃ち合いながらの戦いは一見派手ではあるのですが、自動小銃程度では図書隊が築いたバリケードを突破することも、盾を並べて進軍するメディア良化委員会の進軍を阻むことも難しく、戦いは長期戦(と言っても数時間程度ではあったでしょうけど)の様相を呈してきます。
しかし、もしどちらかの陣営がロケットランチャー等の重火器や戦車・航空機などを駆使した軍事作戦を展開していれば、あの戦いは数時間どころか数分程度であっさりとケリがついてしまったことでしょう。
どちらの陣営も、自動小銃が標準装備という、日本の警察など及びもつかないレベルの武装化を既に達成しているにもかかわらず、更なる重武装を志向しないのはあまりにも不自然です。
「法律で重武装が規制されていた」というのであれば、では何故自動小銃による武装は許したのか?という疑問が逆に生じてしまいます。
特に図書隊なんて、法的・治安維持の観点から見れば、地方政権による軍閥ないしは私設軍隊と見做されても何の違和感もないようなシロモノなのですし、日本国内における銃撃戦や市街戦が想定されるような法体系の成立自体、他国はいざ知らず、治安の良さが売りの日本では論外もいいところではありませんか。
特に図書館の武装化を認める法律の成立なんて、日本国内で内紛が発生するのが最初から誰の目にも明らかだったのではないのかと。
一方では「武器の所持を特定の組織・個人相手に認める」などという、日本の治安を揺るがしかねない大変革を行いながら、他方では中途半端に武器の種類を制限・選別する。
これって「メディア良化法」など比べ物にならないくらいの大失政なのではないかと思えてならないのですけどね。

また、メディア良化委員会については、警察や自衛隊でさえそうそう簡単に行使しえない先制攻撃の自由が事実上与えられているに等しい(検閲に逆らう相手には武器の使用が認められ、かつその判断はメディア良化委員会の裁量に委ねられる)のですから、その利点を最大限に有効活用するという観点から言ってもなおのこと、重武装を志向してはいけない理由が全くありません。
また、専守防衛思想を旨とする図書隊の基本スタンスから考えても、メディア良化委員会は重武装すべきなのです。
作中でも図書隊の面々が主張していることなのですが、専守防衛思想というのは「まず相手に撃たせてから反撃する」というのがベースの考え方です。
ならばメディア良化委員会としては、その思想を逆手に取り、最初の一撃で敵を壊滅状態に追い込めるだけの火力を充実させる必要性が確実にあるわけです。
極端なことを言えば、敵が死守する図書館に核ミサイルを撃ち込むような体制を構築しえれば、メディア良化委員会にとって図書隊など敵でも何でもなくなってしまうのです。
さすがに核ミサイルは不可能であるにしても、先制攻撃の一撃で圧倒的火力による超飽和同時多方面攻撃を仕掛け、敵に壊滅的打撃を与える程度のことくらい、考えない方がむしろ変というものでしょう。
何しろ、最初の一撃だけは相手からの妨害を全く考慮する必要がないのですから。
専守防衛などという軍事的にはマイナス以外の何物でもない弱みを自ら進んで抱え込むような図書隊に対し、何故メディア良化委員会が同水準の武装でもってバカ正直に付き合ってやらなければならないのでしょうか?

さらに奇怪なのは、図書隊がヘリを使った空輸で図書館の資料を運び出す際、メディア良化委員会側がヘリを撃ち落とそうとすらせず、ただ黙って飛び去っていくがままに放置していたことです。
ヘリについては、一部の兵士?達がヘリに向かって銃撃している描写が一応ありはしたものの、ヘリに対する具体的な行動と言えばそれくらいなものでしかありませんでした。
しかしこれにしても、自動小銃よりもさらに強い火力を持つ武器を用いてヘリを撃墜すれば、メディア良化委員会は簡単にその目的を達成することができたはずなのです。
元々メディア良化委員会が小田原の情報歴史図書館を襲撃したのは、そこに眠っている「自分達に都合の悪いことが書かれている資料」を我が物とすること、もしくはその資料を亡き物にしてしまうことが目的だったはずです。
ならば空輸を妨害するという行為は、その目的を達成する最も簡単かつ確実な方法となりえるわけで、ここでメディア良化委員会側がヘリ撃墜を志向してはいけない理由が全くありません。
ヘリが銃撃されていたシーンがあったことから考えても、「ヘリを攻撃・撃墜してはいけない」というルールがあったわけでもないようですし。
また、単なる軍事的な理由に限定しても、ヘリから地上へ向けて銃撃等の支援があるというだけでも、攻撃される側にとっては充分過ぎるほどの脅威となりえるのですし、自己防衛という観点から言ってさえも、ヘリ撃墜は大いに正当性を主張しえるでしょう。
というか、私は戦いの最中に呑気にやってきたヘリを見た瞬間に「ああ、このヘリは撃墜されるな」と考えたくらいだったのですが。
にもかかわらず、ヘリがあっさり資料が満載されたコンテナ?を機体に接続して空輸して去っていったのを見た時は目が点になりましたよ(苦笑)。
ヘリを1機撃墜しただけでも、目的達成に向けて大きく前進したはずのメディア良化委員会は、わざわざ小田原くんだりまで集団でやってきて一体何がしたかったというのでしょうか?
まさか、図書隊の面々と戦争ごっこや陣取りゲームがやりたかった、というわけではないでしょうに。

国家的権力による検閲制度とそれを遂行する機関の存在、というコンセプト自体は、現実世界でも表現規制問題があったりするのでそれなりの説得力や現実感もあるのですが、警察や自衛隊以外の特定組織が、よりによって法律のバックアップを受けて武装化されるというのはあまりにも非現実的過ぎますね。
今の日本で個人の銃の所持が合法化されたり、暴力団等の武器所持が合法化されたりするとなったら、それに無関心でいられる人間がどれだけ存在するというのでしょうか?
表現の自由の侵害はただちに国民生活には直結しない(もしくは「直結しないように見える」)かもしれませんが、治安と安全の問題はすぐさま国民生活に関わってくるのですから。
「図書館戦争」の世界における日本では、南アフリカのヨハネスブルグ並の最悪水準で治安が悪化しているか、映画「エイトレンジャー」のごとく警察が完全に無為無力化しているという設定でもあったりするのでしょうか?
そのレベルで治安が悪化してでもいないと、特定組織や個人の武装化なんて、検閲の有無と関係なく法的に認められるものではありえないのですけどね。
図書隊も、図書館法などで合法とされるのではなく、全体主義に堕ちた国家と戦う非合法なレジスタンス組織として描かれていた方が、まだリアリティ的なものは出てきたのではないのかと。

映画の設定以外の面を見てみると、やはり今作では「SP」シリーズ以来となる岡田准一のアクションシーンが盛大に披露されていて充分な見応えがありますね。
彼が演じる堂上篤は、「SP」シリーズの井上薫が挫折な人生経験を経て規律至上主義になったような人物でしたし(苦笑)。
前回の主演作である映画「天地明察」では全くアクションがなかったですし、その点でも今作は満足な構成ではありました。
一方で、榮倉奈々扮する笠原郁は、軍隊的な雰囲気を持つ図書隊と盛大なミスマッチをやらかしているのではと思えるほどに軽いノリな調子が多々伺えます。
原作のキャラクター自体もそうなのでしょうが、軍人というよりは「世間知らずな女子高生」的な感じにしか見えなかったですね。
活躍度という点でも、終盤以外では味方の足を引っ張っているだけのようなイメージが強いですし。
女性から見れば感情移入しやすいキャラクターではあるのでしょうが、個人的には「主人公ではなく脇役だったら良かったのでは?」というのが感想ですね。

原作の「図書館戦争」は4巻まであるのだそうですが、実写映画の「図書館戦争」も4作までシリーズ化されるのでしょうかね?
岡田准一のアクションシーンが引き続き披露されるのであれば、是非ともそこまで作り込んで欲しいところではあるのですが。

映画「ラストスタンド」感想

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映画「ラストスタンド」観に行ってきました。
元カリフォルニア州知事のシュワちゃんことアーノルド・シュワルツェネッガーが、久々に主演を演じるアクション作品です。
脇役としては、カリフォルニア州知事就任以降でも映画「エクスペンダブルズ2」などで出演歴があるシュワルツェネッガーですが、主演作は2003年公開映画「ターミネーター3」以来、実に10年ぶりとなります。
そんなわけで今作は、「アーノルド・シュワルツェネッガー完全復帰作品」としても喧伝されているわけですね。
なお、今作は作中で流血シーンや人が死ぬ描写があるためなのか、R-15指定されています。
……ただ、作中の殺人シーン程度の描写であれば、全年齢指定の「藁の楯/わらのたて」にも普通にあったはずなのですが……。

物語はアメリカ・ネバダ州ラスベガスから15㎞離れたハイウェイで、スピード違反を検挙するために待機しているパトロールカーが映し出されるところから始まります。
平常業務の最中に夜食を食べていたそのパトロールカーの警官は、そのすぐ横をヘッドライトを消して猛スピードで疾走していく黒い車に全く気付きません。
スピード違反検挙用の速度計は正直に反応し違反速度を計測し、警官もさすがにそれには気付くものの、速度計に表示されているスピードは何と時速197マイル(317㎞)という、一般車では到底出すことのできないシロモノ。
そのため警官は、これはクルマではなく、無灯火の航空機か何かに違いないと、わざわざ近くの空港の管制塔に連絡をつけるという、後から見ればおよそ見当ハズレなことをやらかす始末なのでした。

その翌朝。
ラスベガスの南に位置し、隣国メキシコと国境を接するアリゾナ州の田舎町ソマートン・ジャンクションでは、町の人口の多くが地元ハイスクールのフットボールチームの応援へと向かい始めていました。
ソマートンの町長も例外ではなく、彼は片道5時間かかるフットボールの試合会場にクルマを出そうとしない町唯一の正保安官に不満を述べていました。
アーノルド・シュワルツェネッガー扮するその保安官レイ・オーウェンズは、「人口の多くが観戦でいなくなるこの町に残らなければならない」と町長の要求を一蹴。
そして、町長が消防車専用車線に赤いシボレーカマロZL1を違法駐車していることを見つけ、ただちに移動するよう通告するのでした。
フットボールの応援で頭がいっぱいの町長はそれに従わず、代わりに「火事が起こったら動かしておいてくれ」とレイ・オーウェンズにクルマのキーを預け、そのまま町を出て行ってしまいます。
フットボールの応援に向かう町長に「マヌケ」と小声で罵るレイ・オーウェンズは、その足で町のレストランへと向かいます。
するとそこでは、いつもと異なる2人の男が食事をしていたのでした。
2人に不審を抱いたレイ・オーウェンズは、男達にあれこれと話しかけ質問しまくり、結果、男達はレイ・オーウェンズを避けるように店を出て行ってしまいます。
男達が乗った大型トラックのナンバーを記録したレイ・オーウェンズは、その足で自分の部下である3人の副保安官のうち2人を捜しに向かうこととなるのですが……。

映画「ラストスタンド」は、「アーノルド・シュワルツェネッガー完全復帰作品」と銘打っているだけあって、完全にアーノルド・シュワルツェネッガーありきの作品となっていますね。
ストーリー内における美味しいところは全部ひとりで持っていっている感がありますし。
とはいえ、昔の作品と比較してみると、やはり動きにスピーディさがなくなっていて、「年を取ったなぁ」という感想が正直前面に出てきてしまいますね。
シュワちゃんは2013年4月現在で御年65歳とのことですし、それも当然のことではあるのでしょうけど。
当の本人も、劇中で「年かな」なんてのたまっている始末ですし、その辺はやはり自覚せざるをえないところでしょうね。
それでもまあ、往年の雄姿の再来とまではいかずとも、アクション俳優としてのアーノルド・シュワルツェネッガーはまだまだ健在で、銃撃戦や肉弾戦などを派手に演じてくれています。
惜しむらくは、物語の舞台がアメリカの片田舎で、チャチな武器を駆使しても倒せてしまう敵という、これまでの作品と比較しても相当なまでに世界観やスケールが小さいという点にあるでしょうか。
まあ、「完全復帰作品」というのであれば、このレベルがちょうど良かったのかもしれませんけど。

アーノルド・シュワルツェネッガー扮するレイ・オーウェンズの大活躍に対し、ただひたすら引き立て役に徹させられているFBIの無様ぶりは、別の意味で笑えるシロモノにしかなっていないですね。
周到な準備を整えていたとはいえ、3代目麻薬王カブリエル・コルテス奪還作戦の前に為す術もなく一方的にやられまくるFBIの面々。
道路を封鎖したり、ヘリで追跡したり、SWATを先回りさせたりと、FBIも決して無為に時を過ごしていたわけではないのですが、そのことごとくがあっさりと粉砕されてしまうありさま。
特に、圧倒的な武力で突破されてしまったバリケードはまだしも、カブリエル・コルテスのドライビングテクニックに翻弄されるだけで、ただの1発の銃弾を発射することすらなくクルマを横転させられ無力化されてしまったSWATの面々は、あまりにも情けなさ過ぎると言わざるをえません。
如何に移動中で、かつ後方から奇襲をかけたとはいえ、1台のクルマに2台のSWATのクルマが、それもドライビングテクニックだけで潰されるって、別の意味で奇想天外な展開としか言いようがなかったですね(苦笑)。
あの神がかりなドライビングテクニックを駆使すれば、物語終盤のカーチェイスでも、カブリエル・コルテスは案外すんなり生き残って国境を超えることもできたのではないのかと。
物語終盤におけるレイ・オーウェンズとのカーチェイスでは、カブリエル・コルテスはSWATを撃沈した時のような積極性がなく、妙に「逃げ」のスタンスに徹していた感がありましたが、クルマを使って相手を潰す戦法は取れなかったのでしょうかねぇ。

アーノルド・シュワルツェネッガーのファンな方々であれば、その雄姿を拝むという一点だけでも観賞の価値がある映画ではないでしょうか。

映画「藁の楯/わらのたて」感想

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映画「藁の楯/わらのたて」観に行ってきました。
木内一裕の同名小説を原作とする、大沢たかお・松嶋菜々子主演のサスペンス・アクション作品。
少女殺しの凶悪犯を、「DEATH NOTE」2部作および「カイジ」シリーズの藤原竜也が演じており、こちらの「人間のクズ」っぷりな迫真の演技にも要注目です。
今作は流血を伴う殺しのシーンが複数回登場しているのですが、しかしその割にはR-15どころかPG-12にすらも全く指定されていなかったりします。
同じような流血シーンがあるという理由でR-15指定された映画も、これまで観賞した過去作品には複数存在しているのですが……。
この手の規制というのは一体何のために存在するのかと、つくづく考えずにはいられない話ですね。

物語は、7歳の少女が用水路で無残な惨殺体となって捨てられているのが発見されるところから始まります。
殺された少女は、日本の政財界を牛耳る大物・蜷川隆興の孫娘。
殺害した容疑者として、かつて8年前に西野めぐみという少女を殺害した罪で逮捕・収監され、その後仮出所していた清丸国秀という男が浮上、全国に指名手配されることになります。

それから数ヶ月後。
一向に見つからない清丸国秀について、日本の新聞や週刊誌などの全面広告に、驚くべき記事が掲載されました。
それは、清丸国秀を殺害した者に、報酬として10億円を支払うというもの。
またWebサイト上にも、蜷川隆興本人が全く同じことを述べている動画を流しているサイトがアップされ、このことは瞬く間に日本全土に知れ渡ることになりました。
蜷川隆興は、カネと権力にモノを言わせ、本来ならば全く不可能であるはずの殺人教唆宣伝を行うことに成功したわけです。
これによって、それまで潜伏していた清丸国秀も、当然のごとく炙り出されることになりました。
それまで清丸国秀を匿っていた男が、10億円もの懸賞金欲しさに清丸国秀を裏切り、清丸国秀の殺害を図ったのです。
清丸国秀はかろうじて男を返り討ちにしたものの、身近な味方にすら裏切られるという状況に危機感を抱いた彼は、それまで潜伏していた福岡県の警察署へ出頭。
事態を重く見た警察は、清丸国秀を福岡から東京へ護送すべく、以下の5人を選出し清丸国秀の警護に当たらせることになります。

警視庁警備部警護課SPから、今作の主人公となる警部補の銘苅一基と巡査部長の白岩篤子。
警視庁捜査一課から、警部補の奥村武と巡査部長の神箸正貴。
そして、護送元である福岡県警から、巡査部長の関谷賢示。

しかし、彼らが任務に当たる前から、既に事態は大きく動き出していました。
福岡県警の留置所?で収監されていた清丸国秀が、地元の警察官によって殺害されかけるという事件が、任務開始前の時点で早くも発生していたのです。
また、負傷した清丸国秀の治療に当たっていた病院では、女性看護師が致死性の薬を注入して清丸国秀を殺害すべく図り、その場で清丸国秀と対面していた銘苅一基によって阻止される事件が発生。
その上、福岡空港から羽田空港まで飛行機を使って護送するという当初の方針は、福岡空港の整備士が飛行機を墜落させるべく画策していたことが露見して逮捕されるという事件の発生で、いともあっさり中止を余儀なくされることになってしまいます。
さらには、そうやって清丸国秀の殺人未遂を行い逮捕された人間に対しても、蜷川隆興側はWebサイト上で1億円の契約を行うと表明し、「殺害に失敗しても1億円!」と日本国民をさらに煽りたてる始末。
警察、そして5人の警護者達は、日本国民全てが敵、身内ですら全く信用できないという異常な状況の中、48時間以内に清丸国秀を東京へ護送すべく、四苦八苦・七転八倒の苦しい任務を続けていくこととなるのですが……。

映画「藁の楯/わらのたて」で大々的に行われている殺人教唆は、非常によく考えられたユニークな内容ですね。
この殺人教唆および10億円の懸賞金のかけ方なのですが、これがまた何とも微妙な条件なんですよね。
懸賞金が与えられる条件は以下の2通りなのですが↓

1.清丸国秀に対する殺人罪、もしくは傷害致死で有罪判決を受けた者(複数可)。
2.国家の許可をもって清丸国秀を殺害した者。

これは、一般の国民を清丸国秀殺害に走らせるには確かに充分過ぎるほどに魅力的な条件なのですが、同時に「その道のプロ」達を遠ざけてしまう内容にもなっているのです。
たとえば、テレビドラマ&映画の「SP」シリーズで猛威を振るっていたリバプール・クリーニングのような「自殺や事故死を装ってターゲットを殺害する暗殺者」のごときタイプや、ゴルゴ13のような「暗殺のプロ」などは、この条件では清丸国秀の殺害に全く動くことができません。
彼らは立場的に、暗殺者としての自分達の正体が露見するような事態は何が何でも避けなければならないため、警察に出頭し裁判を受けることが前提のこの条件では、如何に報酬が高くても全く割に合わないのです。
それどころか、清丸国秀殺害で逮捕されたことを発端として、様々な余罪が追及されるリスクも多々あり、またそうなれば当然死刑判決は免れ得ないでしょう。
いや死刑判決どころか、場合によっては自分達の秘密が露見されることを恐れる個人や組織によって雇われた同業の暗殺者達によって生命を狙われる、などという事態にすらも至りかねません。
また暗殺者に限らず、警察のガサ入れによって余罪が追及されると、場合によっては破滅の危機に直面しかねない立場の個人や組織、たとえば指定暴力団やアルカーイダ等のテロ団体の類も同様ですね。
この手の組織では、末端の構成員達が独自に動く、あるいは独自に動いているように見せかけるということはあっても、組織としての関与については、すくなくとも表面的には全面的に否定する方向へ走ることになるでしょうね。
作中でも、明らかにヤクザの構成員とおぼしき人間達が、新幹線内で5人の警護者達と派手な銃撃戦を展開していましたが、彼らが所属する大元の組織としては、自分達にまで捜査の手が及んでは当然困ったことになるわけですから「奴らは独自の判断で勝手に暴走しただけであり、自分達は全く何の指示も命令も与えておらず関係もない」と知らぬ存ぜぬな反応を繰り返すしかないわけです。
コストパフォーマンスの観点から言えば、プロの殺し屋を高額で雇って人知れず清丸国秀を探索・殺害させた方が、口止め料を含めてさえもはるかに安上がりであるはずなのですが、蜷川隆興の殺人教唆は、皮肉にも彼らを遠ざけてしまう結果をもたらしてしまっているのです。
あくまでも一般人を使って清丸国秀を殺害させることに、蜷川隆興自身がこだわってでもいたのかもしれませんが、「目的の達成」という観点から考えれば何とも非効率極まりないことをやっているよなぁ、と。

一方で、10億円の懸賞金に突き動かされ、次々と清丸国秀殺害に動く人間と、彼を死守する人間達の極限状態な心理と葛藤を、今作は非常に上手く表現していますね。
前述のように、蜷川隆興の殺人教唆は「プロの殺し屋や闇の世界の人間達」を最初から排除しているが故に、清丸国秀を殺害せんとする人達も、元々は善良な性格の人間だったケースが多かったりするんですよね。
彼らはあくまでも「金に困って&追い詰められて」犯行に走ったというエピソードが作中でも語られており、カネが人を狂わせるという実例をまざまざと見せつけてくれます。
5人の警護者達も「実は誰かが裏切っているのではないか?」と互いに疑心暗鬼の目を向ける始末ですし、実際、5人の中に裏切り者は立派に存在していたのでした。
「誰も信用などできない」ということの怖さを、これほどまでに前面に出している作品というのも、そうそうあるものではないですね。
そして、それでも清丸国秀を護送するという任務の意義を致命的なレベルで揺るがしてくれるのが、当の清丸国秀本人だったりするのが何とも言えないところです。
彼は、初犯?で殺害した西野めぐみの父親を嘲弄する発言をやらかした上、銘苅一基と白岩篤子がちょっと目を離した隙を突いて逃亡し、たまたま目撃した少女を相手にまたしても惨殺行為に及ぼうとしています。
挙句の果てには、白岩篤子の不意を突いて(二度も不意を突かれる白岩篤子も正直どうかとは思いましたが)後方から襲撃し、拳銃を奪って射殺までしてしまう始末。
その理由がまた振るっていて、何と「彼女がオバサン臭いから」などというしょうもないシロモノでしかないんですよね。
物語のラストで死刑判決を受けた際も、「どうせ死刑になるのならば、もっと殺しておけば良かった」などとほざく始末ですし、清丸国秀の「人間のクズ」っぷりはなかなかに堂に入ったものがありましたね。
確かに、作中のごとき死にもの狂いな警護をしてまで守る価値が清丸国秀にはあるのか、という問いには大きな重みがあります。
その問いに何の疑問も抱くことなく正面切って「YES」と答えられる人間は、相当に人間が出来ているのでなければ、よほどのバカか詐欺師の類くらいなものでしょうし。
しかし、国家的な公務に従事する人間は、それでも建前上は「YES」と答えなければならない。
そこが、今作が問う命題の重さと社会的矛盾でもあるのですが。

映画「藁の楯/わらのたて」はその構成上、先の展開もなかなか読めず、最初から最後まで緊迫した状況が続きます。
アクションシーンもあり人間ドラマもあり、万人にオススメできる作品です。

映画「アイアンマン3」感想

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映画「アイアンマン3」観に行ってきました。
マーベル・コミックにおける同名作品の実写映画シリーズ第三弾にして(一応は)完結編。
今作は3D/2D同時公開ですが、幸いにして時間が合ったこともあり、私が観賞したのは2D版でした。
時系列的には前作「アイアンマン2」ではなく、去年公開された映画「アベンジャーズ」からの続きとなっています。
今作における主人公トニー・スタークの葛藤は、明らかに「アベンジャーズ」での出来事が発端になっていますし、逆に「アベンジャーズ」を観賞していないと、トニー・スタークの葛藤の要因が一体何なのかさえも理解できないのではないかと。
続編を積み重ねたシリーズ作品ならではの弊害と言えるのではないですかね、こういうのって。

映画「アベンジャーズ」の戦いから1年。
謎の宇宙人達に自国の大都市ニューヨークを襲撃されたにもかかわらず、その対処を「アベンジャーズ」の面々に任せきりで、自分達は大都市もろとも敵を消滅させるべく核ミサイルを発射した以外は全く何もしていなかったアメリカの政府と軍は、その腹いせと言わんばかりにヒーロー達を危険視する風潮をせっせと醸成し続けていました。
その割には、今作の主人公トニー・スタークが開発したアイアンマンのパクリなパワードスーツを「アイアン・パトリオット」などと名付けて軍の作戦に充てるなどといった「個人の武力に依存する行為」を平気で行っているのが、アメリカ政府と軍のお茶目なところでもあるのですが(苦笑)。
「アイアン・パトリオット」のパイロットは、前作「アイアンマン2」でウォーマシンを操りトニー・スタークと共闘したジェームズ・ローディ中佐が担っていたりします。
さて、アメリカ政府と軍から危険視されているメインターゲットであるはずのトニー・スタークは、1年前の「アベンジャーズ」の戦いで精神的な外傷を被っていました。
彼は、「アベンジャーズ」で強大な敵を目の当たりにしたこと、および核ミサイルをニューヨークから異空間?の敵基地へ進路変更した際、エネルギー切れで落下したことなどから不眠症やパニック症候群を患ってしまい、アイアンマンの元となるパワードスーツの更なる開発に没頭する日々を送っていたのでした。
トニー・スタークの恋人で、前作「アイアンマン2」でスターク・インダストリーズのCEOに就任したペッパー・ポッツも、トニー・スタークのノイローゼ気味な様子を心配していました。

そんなある日、ペッパー・ポッツの元に、アルドリッチ・キリアンという科学者が姿を現します。
彼はAIMという組織に所属する科学者で、かつて1999年のスイスでトニー・スタークと面談の約束を取りつけていながら、彼に面談をすっぽかされた過去を持つ人物です。
彼は「エクストリミス」という人間の潜在能力を爆発的に増大させる技術の開発を一緒に行おうとペッパー・ポッツに提案するのですが、ペッパー・ポッツは「軍事利用に繋がりかねないから」とこれを拒否。
トニー・スタークの父親ハワード・スタークによって設立されたスターク・インダストリーズ社は、「アイアンマン」1作目の頃から、トニー・スタークの意向で「軍事兵器関連の開発はしない」という方針を明確に打ち出していますからねぇ。
このアルドリッチ・キリアンに不審を抱いた、スターク・インダストリーズ社の警護主任でトニー・スタークの友人でもあるハッピー・ホーガンは、アルドリッチ・キリアンとその同行者を追跡するのですが、謎の爆発に巻き込まれ意識不明の重体となってしまいます。
このことに怒りを覚えたトニー・スタークは、ハッピー・ホーガンに重傷を負わせた犯人への報復をマスコミの前で宣言し、自分の家の住所を公開し「攻撃してこい」と言わんばかりに煽り立てるのですが……。

映画「アイアンマン3」では、前作「アイアンマン2」で悪役側が活用していた「パワードスーツの遠隔操作」が重要なキーワードとなっています。
今作ではこれを使い、他人にアイアンマンのパワードスーツを装着させて安全地帯まで逃走させたり、逆に敵に装着させて動きを封じ自爆させたりといった、何ともユニークな使用方法が披露されていたりします。
特に終盤では、遠隔操作で自動操縦されているアイアンマンのパワードスーツがとにかく大量に参戦し、主人公トニー・スタークをサポートしています。
敵に次々とアイアンマンをパワードスーツを破壊される都度、新たなパワードスーツを召喚して装着し戦いを続けるという構図は、なかなかに斬新なものがありました。
単なるヒーローとしてではなく、明らかに「兵器」と割り切った上でのいわゆる「使い捨て」的な発想でもありますし、これだけでも一見の価値はあると言えるのではないかと。
ただその分、映画のタイトル名でもあるはずの「アイアンマン」があまり前面に出ていなかったきらいはあるのですが。
特に物語中盤などは、アイアンマンのパワードスーツの多くが破壊され、唯一の機体?も修復中という事情があったとはいえ、終始トニー・スタークとして戦っていたようなものでしたし。
あれらの戦いは、アイアンマンが所持する遠距離攻撃兵器「リパルサーレイ」を除けば、そこらのアクション映画でも普通に描かれる内容でしかなかったのですからねぇ。
まあその分、緊迫感に満ちた戦いを演出できてはいるのですが。

しかしまあ、作中で披露されているアイアンマンの大量生産&遠隔操作能力と、「エクストリミス」注入による遺伝子改造?技術を駆使すれば、トニー・スタークの葛藤も案外簡単に解決するのではないですかね?
これは全て、人類の技術によって増産も改良も可能な技術であり、それ故に個人の能力に依存するヒーローですらをも凌ぐ能力を、しかも集団で備えさせることをも可能とするのですから。
すくなくとも、「アベンジャーズ」の戦いレベル程度の侵略者達であれば、アイアンマン100体と「エクストリミス」の強化人間100人程度もいれば、簡単に撃退してしまうことも容易なことでしかないでしょう。
まあ、アレはあくまでも「尖兵」レベルでしかなかったでしょうし、黒幕達は未だ強大な力を秘めたモンスターなり兵器なりを温存してはいるでしょうが、すくなくとも人類側の戦力強化の一端には充分になりえるはずです。
何も敵との正面対決だけでなく、民間人の避難誘導や救援活動などでも、あの手の兵器や強化人間には大いに使用されることになるのですし。
「アベンジャーズ」の戦いで、未知の宇宙人達の脅威を痛感せずにいられなかったのは何もトニー・スタークだけでなく、直接の脅威に晒されたニューヨーク市民やアメリカ政府などもそうだったでしょうし、彼らもまた、その手の研究開発には積極的に乗り出さない方が変なのですが。
アルドリッチ・キリアンも、その手の見極めをきっちり行い、真っ当な手段で自分達の技術を(特にアメリカ政府辺りに)売り込んでいれば、あるいはトニー・スタークをも凌ぐ救国の英雄、もしくはVIPクラスの重要人物として扱われる日も来たかもしれないのに、何とももったいないことをやらかしたものです。

映画「アイアンマン3」では、エンドロール後に特典映像があります。
これは今作に限らず、今まで映画館で上映されてきたマーベル・ヒーロー映画全てに共通する特徴でもあるので、今作もそうだろうと予測するのは何ら難しいことではなかったですね(苦笑)。
そんなわけで今作は、映画の幕が下りてスクリーンが明るくなるまでは席は立たないことをオススメしておきます。

今作の特典映像は、今作のストーリーを誰かに語っているトニー・スタークと、映画「マイティ・ソー」の続編映画「マイティ・ソー/ダーク・ワールド」の紹介となっています。
「マイティ・ソー/ダーク・ワールド」では、「アベンジャーズ」で捕縛され収監されているらしいロキも映し出されていましたから、こちらも時系列的には「アベンジャーズ」の続きということになるのでしょうね。
今作もそうなのですが、前作からの流れと全く繋がっていないシリーズ作品のストーリー構成、というのは正直どうなのかと。
この分だと、映画「キャプテン・アメリカ ザ・ファースト・アベンジャー」の続編「キャプテン・アメリカ ザ・ウィンター・ソルジャー(原題)」も、当然「アベンジャーズ」からの続きということになるでしょうし。
マーベル・ヒーロー作品は、各ヒーロー毎に完結しているのではなく、全ての映画をひっくるめてひとつのシリーズ作品である、とでも考えるべきなのかもしれないのですけどね。

映画「舟を編む」感想

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映画「舟を編む」観に行ってきました。
2012年本屋大賞に輝いた三浦しをん原作の同名小説を、松田龍平・宮崎あおい主演で実写化した作品。

物語の始まりは1995年。
出版社の玄武書房・辞書編集部では、長年辞書製作の仕事に携わってきた荒木公平は、辞書編集部を統括している松本朋佑に退職の意思を表明していました。
彼は定年に近い年齢もさることながら、病床にある妻の容態が思わしくなく、妻を介護してやりたいという理由から退職を申し出ていたのでした。
しかし、荒木公平は辞書製作・編纂のベテランであり、かつ彼に代わる人材が現在の辞書編集部には存在しません。
強く留任を迫ってくる松本朋佑の主張を、荒木公平も無視することはできず、仕方なく荒木公平は、自分の後継者となる人材を探し出すことを約束することになるのでした。
しかし、辞書編集部は社内では閑職扱いどころか、人によっては存在すら知らないというほどのお寒い知名度しかなく、人材探しは難航します。
そんなある日、荒木公平と共に後継者探しをしていた西岡正志は、同じ会社の営業部に所属している恋人から「営業部に変人がいる」との話を持ちかけられます。
その変人の名は、馬締光也(まじめみつや)。
荒木公平と西岡正志は、大学では言語学を専攻していたという馬締光也を営業部から呼び出し、「【右】という言葉を説明できるか?」と問います。
これまで同じ問いをかけられた人達は、しどろもどろになって何も説明できないか、相手にするのも面倒と言わんばかりに立ち去っていくのが常でした。
しかし馬締光也は「西を向いた時、北に当たる方が右」と返したのです。
期待していた人材をついに見つけた、と確信した2人は、早速馬締光也を営業部から引き抜き、辞書編集部へ迎えることになります。
馬締光也を迎えた辞書編集部は、松本朋佑主導の下、新しい辞書「大渡海」の製作を打ち出します。
収録予定の見出し語は実に24万語以上、近年新しく生まれた流行語の類も積極的に取り入れるという全く新しい辞書の製作。
やがて馬締光也は、辞書の製作に一生を捧げる決意を固め、辞書作りにのめり込んでいくのでした。

一方、プライベートにおける馬締光也は、「早雲荘」という名のボロアパートで、大家のタケと共に10年もの長きにわたって生活していました。
「早雲荘」には馬締光也と大家のタケ以外は誰も住んでおらず、馬締光也は本が乱雑に積み重ねられた一室を自分の部屋としていました。
しかし、辞書編集部に配属されてからしばらく経ったある日の夜、「早雲荘」で飼われている猫のトラの鳴き声がする2階の物干し場へ行くと、そこには全く見知らぬ女性がトラを抱きかかえ、馬締光也に挨拶を返してきたのです。
その女性は林香具矢(はやしかぐや)といい、大家のタケの孫娘で、タケの世話と板前修行のために「早雲荘」へやってきたのだとか。
彼女に一目惚れしてしまった馬締光也は、彼女のことで頭が一杯になり、仕事に手が付かない日々を過ごすことになります。
そして馬締光也は、自分の恋路を応援してくれる辞書編集部の面々から、恋文を書くことを勧められることになるのですが……。

映画「舟を編む」はとにかくひたすら地味な構成で、奇想天外な展開といったものがまるでありません。
辞書製作の過程で発生する様々なトラブルも、馬締光也絡みのプライベートな事象も、形は違えどどこでも普通に見かけられるものばかりですし。
主人公である馬締光也の人物造形自体、昨今のオタクやニートを髣髴とさせるものがありますからねぇ。
ただそれだけに、主人公およびその他の登場人物達に共感がしやすい構成になっているとは言えるのではないでしょうか?
かく言う私自身、物語後半で発生した辞書の収録単語漏れの騒動などは「ああ、私も似たような経験があるなぁ」とついつい感慨にふけってしまったものでしたし(^^;;)。
ああいうトラブルは、事務職系でも技術職系でもしばしば発生したりするものですからねぇ(T_T)。
それだけに、辞書「大渡海」が完成の日を迎えた時の喜びは、関係者一同、相当なものがあったことでしょう。
単純に見ても、馬締光也が辞書編集部に入ってから「大渡海」が完成するまで、実に15年もの歳月がかかっているのですからねぇ。

宮崎あおいが演じる林香具矢は、映画の前宣伝で大々的に強調されていたイメージと比較すると、出演頻度がかなり少ない印象を受けましたね。
彼女は要所要所では出番があってストーリーを進展させる役割を果たしてはいるのですが、映画全体で見ると、彼女は元々馬締光也と仕事上の接点が少ないのに加え、「専業主婦として家庭を守る」というタイプの女性でもないため、出番がかなり少ないんですよね。
むしろ、2008年?に突入した物語後半になってやっと登場した岸辺みどりなどの方が、出演頻度は逆に高かったのではないかとすら思えてくるくらいです。
馬締光也が林香具矢に惚れる過程とは逆に、林香具矢が馬締光也を好きになる過程というのも今ひとつ分かりにくいものがありますし。
どうにも「何故だか知らないけど、気が付いたら好きになっていた」的な感が拭えないところなんですよね、彼女の馬締光也に対する好意というのは。
物語がひたすら馬締光也の視点メインで進行していて、林香具矢から見た視点というものがほとんどないことも原因ではあるのでしょうけど。
また、「早雲荘」というボロアパートで主人公とヒロインが出会って結ばれるというエピソードは、今作と同じく宮崎あおいがヒロイン役を担当していた映画「神様のカルテ」を髣髴とさせるものがありました。
あちらは既に出会って結婚した後からストーリーが始まっていましたが。

日常生活を扱う人間ドラマが観たいという方にはオススメの作品と言えるでしょうか。

映画「リンカーン」感想

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映画「リンカーン」観に行ってきました。
スティーブン・スピルバーグ監督製作による、アメリカ第16代大統領エイブラハム・リンカーンの伝記作品。
リンカーンと言えば、去年も彼が実はヴァンパイアハンターだったという設定の映画「リンカーン/秘密の書」が日本で公開されているのですが、アメリカ南北戦争から150年の節目に当たるということで、アメリカではリンカーンがブームにでもなっているのでしょうか?
なお、今作で私の2013年映画観賞本数は30本目となります。

物語の舞台は1865年初頭のアメリカ。
アメリカ最大の内戦である南北戦争が、北軍の勝利という形で終結へと向かいつつあったこの当時、アメリカ第16代大統領エイブラハム・リンカーンは、とある法案の成立に邁進していました。
その法案とは、アメリカ合衆国憲法修正13条。
修正13条は、奴隷制の廃止および犯罪者に対する措置を除く隷属的な扱いを禁止する条文となっており、既に奴隷解放宣言を出していたリンカーンは、この条文を成立させることで恒久的な奴隷制度全廃を目指していたのでした。
件の法案はアメリカ議会の上院で既に可決されていたものの、下院では全議員の3分の2の賛成が必要であるのに加え、リンカーンが率いる与党の共和党だけでは20票の票数が足りません。
しかも、南北戦争が終結し南部諸州がアメリカ合衆国に復帰すれば、元々奴隷制度の維持を掲げて合衆国と袂を分かち内戦をおっぱじめた彼らが修正13条に反対するのは明白であり、そうなれば必要な3分の2の賛成確保など夢物語と化してしまいます。
そのような政治情勢から、修正13条を成立させるには、決着が見えているとはいえ未だ続いている南北戦争期間中しかありえなかったのです。
さらに一方でリンカーンには、一刻も早く南北戦争を終結させる責任も当然のごとくのしかかっており、戦争終結と法案成立を同時に成し遂げなければならないという命題を抱え込んでいるのでした。
そこで彼は、下院の選挙で落選し失職が確定していた民主党議員達を買収したり、共和党内の政治家達の要望を聞くのと引き換えに協力するよう根回しを行ったりするなど、手段を問わず様々な手段を駆使して必要な票数を確保すべく動き出すことになります。
多数派工作や南部からの和平交渉への対処など、どちらかと言えば公にはし難いダーティな政治を、リンカーンは次々とこなしていくことになるのですが……。

映画「リンカーン」は、正直言ってあまり万人受けするような作品ではないですね。
とにかく政治的な駆け引きや買収行為などといった要素が前面に出まくっている上、アクションシーン等の派手な描写などもまるでないときているのですから。
「リンカーン/秘密の書」がアクションメインだったのは対照的です。
あちらは逆に、政治要素が薄くてアクション・オカルトに傾倒し過ぎていたきらいはありましたが。
今作は第85回アカデミー賞で最多部門ノミネートされたことで話題となっていたのですが、いざフタを開けてみれば主演男優賞と美術賞の2部門のみの受賞にとどまるという、竜頭蛇尾な結果に終わっていたりします。
確かに映画の内容を見ると、その結果もさもありなんと言えるものではありますね。
個人的には、第84回アカデミー賞で主演女優賞を獲得した映画「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」に見られるような「男優ありき」な雰囲気に近いものがありましたし。
アレに比べれば、まだ「現役の」リンカーンのあり方にスポットが当たっているとは言えるのですが、それでもどちらかと言えば「偉大なる大統領リンカーン」としての光の部分よりも、「政治家ならではのダーティな要素」に重点を置いているような感じでしたし。
その点では確かに、良くも悪くも「アカデミー賞ノミネート最有力候補」と言われるだけの映画ではあると評価できます。
あくまでも「ノミネート最有力候補」であって、実際に多数の賞を獲得しえる対象とはなりえないという意味においても、ではあるのですが(苦笑)。
映画を製作したスティーブン・スピルバーグは、「現代にも通じるリーダーの資質」「リンカーンの人生には、今の日本を始めとする世界中の人に知ってほしいメッセージが詰まっている」などと語っているのですが、それから考えると、彼が言いたかったのは「政治を行う際には手段を問わず、どんな冷酷非情なことでもやり抜くことが必要である」というマキャベリズム的な政治手腕だったりでもするのでしょうかね?
確かにそれは、政治力学的には完全に正しいことではあるのでしょうけど、昨今の映画ではあまり見かけることのない珍しいメッセージだなぁ、とは思わずにいられないところですね。

今作で消化不良な感があったエピソードは、リンカーンの長男ロバートと親子喧嘩でやり合う話が描写されているにもかかわらず、ロバートが父親の意に反して軍に入ることを宣言して父親の元を去って以降、2人の間に全く何の進展もなかったことですね。
リンカーンは、息子が軍に入ることを認めざるをえなくなって以降は、息子を可能な限り安全な場所に配属することを指示しただけですし、その後はむしろ、息子を亡くすことに恐怖する妻メアリーとのヒステリックな言い争いに終始していただけでしかありませんでした。
それから3ヶ月後にリンカーンは暗殺されるわけですし、実際に父子で和解する機会がなかったのかもしれないのですが、リンカーン暗殺直後に際してもロバートの存在感はないも同然でしたし、この辺りのエピソードは正直「投げっぱなし」で終わっている感が否めなかったですね。
ロバートが暗殺された父親の遺体に対して、何か一言でも語るシーンを挿入するだけでも充分フォローになったのではないかと思えてならなかったのですが。
スティーブン・スピルバーグが今作の前に製作していた映画「戦火の馬」でも、馬の売却を巡って発生した父子対立がいつの間にかウヤムヤのままに終わっていたエピソードがありましたし、彼は「父子対立が解消へ向かっていく過程」をきっちり描くのを嫌っていたりでもするのでしょうかねぇ。
いくら史実や原作に忠実であるとしても、エンタメ作品としてそれをそのまま実行するというのも、正直どうかと考えてしまうところなのですが。
対立が解消に向かうなら向かうで、続けるなら続けるで、どちらにしてもそこに至るまでの過程と区切りはきっちりと描くべきではないのかと。

万人にオススメできる映画とはあまり評しえるものではなく、政治映画や「世間一般に知られているリンカーンの別の一面を見たい」という方向けの作品ということになるでしょうか。

映画「探偵はBARにいる」感想(DVD観賞)

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映画「探偵はBARにいる」をレンタルDVDで観賞しました。
2011年9月に劇場公開された日本映画で、北海道を舞台に繰り広げられるハードボイルド・ミステリー作品です。
今作は普通に熊本でも劇場公開されていたのですが、タイミングが合わずに見逃していたことに加え、2013年5月に続編映画「探偵はBARにいる2 ススキノ大交差点」が公開されるという事情もあり、今回のレンタル観賞と相成りました。
作中では闇世界ならではの殺し描写があったりするためか、劇場公開時に今作はPG-12指定されていました。

今作の主人公は、実は名前が一切作中で明示されることがありません。
一人称は俺、自ら名乗ることもなく、自己紹介は北海道の繁華街「すすきの」にある「KELLER OHATA(ケラーオオハタ)」というバーの名詞を差し出すという形で行います。
他の登場人物達も、主人公を呼ぶ際には名前も苗字も言うことがなく、「探偵」という職業名、もしくは「お前」「あなた」等の二人称代名詞しか使っていなかったりします。
映画のタイトルにもある「探偵」というのは、主人公の職業だけでなく、主人公そのものをも指す言葉だったりするわけですね。

さて、そんな主人公は物語冒頭、雪高く積もる北海道・札幌の街中で、複数人のガラの悪いチンピラに追われていたりします。
必死の逃走もむなしく、前後から挟撃され、逃げ場を失ったた主人公は絶体絶命の危機に晒されます。
その時、突如チンピラ達の後方から奇襲をかけ、アッというまにチンピラ達を倒してしまったのは、主人公の運転手兼相棒的な存在である高田でした。
再度起き上がったチンピラ達は再び2人に攻撃を仕掛けてきますが、既に2人の敵ではなく、2人はあっさりと蹴散らしてその場を後にします。
その後、主人公はとあるホテルの立食パーティの会場で、北海道日報の記者である松尾と出会い、最初に主人公を追っていたチンピラ達から騙し取ったらしいネガを見せつけます。
その写真には、松尾が同性の男とキスしたり、ベッドで同衾したりしている光景が写し出されていおり、主人公は松尾からネガを奪い取るよう依頼を受けていたのでした。
主人公は報酬として30万を受け取り、さらに何か依頼を頼む際にはここに電話してくれと、「KELLER OHATA」の名刺を渡すのでした。

ちょうど同じ頃、札幌のとある裏路地で、クルマから降りてきて女性を拉致しようとしていたチンピラ達に、女性を助けようとしていた北海道の大手企業社長の霧島敏夫が殺害されるという事件が発生します。
そして1年後、この事件を重要なキーワードとして、主人公は大いに振り回されることになるのですが……。

映画「探偵はBARにいる」のストーリーは、事前には全く予想もつかない展開が延々と続いています。
序盤は謎が謎を呼ぶ展開な上に、依頼主は電話の会話の中だけの存在でしかありません。
簡単な依頼と称して10万単位のカネを振り込み、しかもいざ依頼を実行してみれば生命の危機に直面するという惨状を呈するありさま。
しかしそれでも、主人公はあくまで律儀に依頼を受け続けます。
口ではやたらと文句を言いまくっている上に不平満々な態度を隠そうともしていないのに、それでも依頼を受けるのは、依頼主が女性だからなのか、自分の仕事に誇りを持っているからなのか、何とも判断に苦しむところではあるのですが(苦笑)。
主人公は一応格闘戦に関してはそれなりの心得を持ってはいるものの、別に超人というわけでもなく、不意打ちに遭ってあっさりやられてしまったりする脆弱さも持ち合わせています。
運転手兼相棒の高田と手を組むと、対集団戦でもかなりの強さを発揮するのですが、その高田も相当なまでに性格に難がある上、主人公の危機に駆けつけるのがやたらと遅いですし。
特に物語後半で主人公がまたしても不意打ちの拉致を食らった際には、主人公が姿を消したことにラーメン屋を出るまで気づかなかった上、ようやく主人公を見つけた時には既に主人公はスタボロにされた挙句に実行犯も姿を消しているありさま。
ただそんな高田も、彼なりに主人公のことを「唯一の親友」とは認めているようですし、不器用ながらも心配する様子も見せてはいるのですが。
この2人、一体どのような経緯を経て相棒関係になったのか、つくづく興味をそそられるところですね。

今作で披露されたミステリー要素の集大成であるラストの展開も、かなりの意外性があってなかなかによく出来たものではあります。
その手前の「一見真相に見せかけたフェイント」は、ラストの展開を見ると笑えるくらいに的を外した推理でしたし。
物語序盤は謎だらけの伏線や演出が施され、終盤に近づくにつれて真相が明らかになっていく、というのがミステリーの売りであり爽快感を伴うものでもあるのですが、今作のそれは充分に合格点に達していると言えるでしょう。
また、本場ハリウッドに比べればやや劣りはするものの、格闘戦メインのアクションシーンもそれなりにあります。
これまで私が観賞した映画で言えば、「アウトロー」にコメディとお笑いの明るい要素をふんだんに盛り込んだ作品という感が多々ありますね、今作は。
アレも何やかや言って、アクションよりもミステリー要素が強い作品ではありましたからねぇ。

2013年5月公開予定の続編映画も今から楽しみですね。
当然、私も観賞する予定です。

映画「アイアン・スカイ」感想(DVD観賞)

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映画「アイアン・スカイ」をレンタルDVDで観賞しました。
日本では2012年9月に公開された、フィンランド・ドイツ・オーストラリアの3国合作映画です。
出自からしてかなりマイナーな映画ながら、世界各国の映画ファンやSFマニアな方々には熱い支持を集めている作品のようで、出資を募るや否や、あっという間に1億ドルものカンパが集まった逸話があるのだとか。
今作は劇場公開当時、熊本で上映されている映画館が皆無だったため、仕方なくレンタル開始を待っての観賞となりました。
なお、今作は銃撃を受けて血まみれになる男のシーンがあるためか、PG-12指定されています。

2018年。
アメリカは実に50年ぶりとなる月への探査船派遣を行っていました。
その探査船リバティ号は、地球から見えることのない月面の裏側へ着陸。
着陸直後、着陸を記念してのものなのか、探査船から中年女性と「Yes She Can(イエス・シー・キャン)」という文字が書かれた垂れ幕?が下ろされます。
明らかにオバマ大統領の「Yes We Can(イエス・ウィー・キャン)」のパクリかパロディとしか思えないこの演出で、まずはこの映画の立ち位置がある程度観客に明示されることになります。
今作のアメリカ大統領は女性が担っているため、「We」の部分が「She」になっているわけですね(苦笑)。
それはさておき、この探査船の目的は、月面にあるとされる「ヘリウム3」と呼ばれる資源の調査と確保にありました。
ところが、着陸したリバティ号から「ヘリウム3」の探索を開始したサンダース船長は、そこで驚くべき光景を目撃します。
何とそこでは、どう見ても人工的に作られたものにしか見えない道路や建物が存在しており、装甲車と思しきクルマまで走っていたのでした。
目的のモノ以上の発見をしたサンダース船長は歓喜し、もうひとりの乗組員ジェームズ・ワシントンにこちらへ来るよう促すのですが、その直後、背後から迫ってきた黒ずくめの男に銃で頭を撃たれ、生命を落としてしまいます。
危険を察知したジェームズ・ワシントンは、すぐさまリバティ号へ戻ろうとするのですが、黒ずくめの男達はロケットランチャーのようなものをぶっ放し、リバティ号を完全破壊してしまいます。
その衝撃で吹き飛ばされたジェームズ・ワシントンは、黒ずくめの男の集団に包囲され、あえなく囚われの身となってしまうのでした。

黒ずくめの男達の正体は、かつてドイツを支配したナチス・ドイツの残党達の末裔。
彼らは1945年、第二次世界大戦の敗戦時に、自前のUFO?を使って月の裏側へと逃れていたのでした。
彼らに捕縛されたジェームズ・ワシントンは、地球からの侵略の尖兵ではないかと疑われ、月面総統と呼ばれているウォルフガング・コーツフライシュの元へ引っ立てられます。
ジェームズ・ワシントンが纏っていた宇宙服のマスクを取ったナチスの末裔達は、彼が黒人であることに驚愕するのでした。
しかし、あくまでもジェームズ・ワシントンを地球からの奇襲部隊の尖兵であると考えるナチスの末裔達は、彼をリヒター博士の元へと連れて行き尋問させます。
しかし、ジェームズ・ワシントンが所持していたスマートフォンに、彼らは注目の目を向けることになります。
ナチスの末裔達は、月面に居住することができるほどのテクノロジーを持つ一方で、コンピュータ技術に関しては1940年代の水準からほとんど進化しておらず、現代から見ればアンティーク同然の原始的なコンピュータしか知らなかったのでした。
スマートフォンに着目した彼らは、それを最終兵器「神々の黄昏」号の起動システムとして利用しようと考えるのですが……。

映画「アイアン・スカイ」は、作中のあちこちにコメディネタや政治風刺を意図したネタがちりばめられていますね。
冒頭の「Yes She Can(イエス・シー・キャン)」ネタもそうなのですが、 特にアメリカに対する風刺はかなり高レベルなものがあります。
アメリカ大統領を女性にして、かつ選挙参謀にやたらとヒステリックで色情魔(笑)なヴィヴィアン・ワグナーに据えた登場人物設定も、なかなかにクるものがありましたし。
物語後半に至ってはさらに強烈な政治風刺が披露されており、アメリカ所有の宇宙戦艦の名称が「ジョージ・W・ブッシュ」だったり、宇宙技術の軍事利用を禁じる宇宙平和条約に違反して宇宙戦艦を建造した他国に対し、自国のことを棚に上げて罵り倒していたり、「お前の国だって守ってなかったじゃないか!」という切り替えしに対して「アメリカはいつもそうだからいいの!」と開き直るなど、なかなかにやりたい放題を貫いています。
ちなみに、作中で宇宙平和条約をバカ正直に墨守していた国はフィンランド1国だけだったのだそうで、日本もしっかりと宇宙戦艦を保持しているんですね(爆)。
作中の日本はちゃんと憲法改正を行い軍事活動関連の法整備を整えることができたようで、その点ではなかなかにめでたい限りではあります(笑)。
さらにラストでナチスの脅威が去り、各国の首脳陣が拍手で祝った次の瞬間に、月面にある「ヘリウム3」を巡ってたちまちのうちに乱闘が生じ、そのまま全面核戦争に雪崩れ込む展開は、「国が一致団結するためには絶対悪な敵が必要」「戦争が終われば内紛が始まる」という政治のセオリーを忠実に再現していたりします。
……まあ、あの乱闘騒ぎからそのまま全面核戦争へ直行するというのも、正直考えものではあるのですが(-_-;;)。
あそこまでアメリカをコケにしまくる政治風刺をちりばめまくった映画というのも、なかなかお目にかかれないのではないかと。
あのアメリカ合衆国大統領やヴィヴィアン・ワグナーのヒステリックぶりに比べれば、ナチスの末裔達の方がはるかにマトモに見えてしまうくらいですからねぇ(苦笑)。

それにしても、月面と地球を自由に移動できるだけの技術力を持つはずのナチスの末裔達が、スマートフォンやiPadどころか、1980年代レベルの骨董品なパソコンすらも持ちえなかったというのはなかなかに凄い話ですね。
一応、アメリカが1960~70年代に推進していたアポロ計画で使用されたコンピュータも、現代から見ればそこらのスマートフォンにも劣るレベルの性能でしかなかったようなので、技術的にはそれでも不可能な話ではないのでしょうけど。
月面のナチスは70年以上もずっと戦時体制を敷いていたみたいですし、いわゆる「ハコモノ」絡みの技術が奇形的に発達していたのでしょうね。
ナチスの末裔達は、核ミサイルなどはるかに凌ぐ、月面の一部を欠けさせるほどの威力を誇るキャノン砲を実戦配備していたりしますし。
作中における戦い方を見ていると、ナチスの末裔達はひたすら地球に隕石を投げつけまくる遠距離攻撃に徹してさえいれば、それだけで楽勝できたのではないかと考えられなくもないのですけどね。
地上の戦闘機の類は完全に無力化できるのですし、いくら地球側が複数隻の宇宙戦艦を所持していると言っても、ナチス側がひたすら遠距離攻撃による地上攻撃を繰り出しまくれば、地球側も地上を守るための防戦一方にならざるをえないでしょう。
せっかくアレだけ圧倒的有利なアドバンテージを持っているのに、それを無視してわざわざバカ正直に地球側とドッグファイトを演じる必要もないでしょうに、つくづくナチスの面々は戦い方を知らないなぁ、と思わずにはいられなかったですね。
この辺りは、政治には明るくても軍事には暗く、ドイツ軍へのあまりの政治介入から「独ソ戦における【ソ連軍】最高の司令官」「スターリンの回し者」とまで呼ばれるに至ったアドルフ・ヒトラーの系譜を受け継ぐものだったりするのでしょうか?

SF的な演出もそれなりのものはありますが、どちらかと言えばやはりコメディやパロディを楽しみたい方向けの作品ですね。

映画「ライジング・ドラゴン」感想

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映画「ライジング・ドラゴン」観に行ってきました。
ジャッキー・チェンが主演・監督を担う、中国・香港のアクション映画。
今作では、主演であるジャッキー・チェン自身が「自ら身体を張った本格アクション映画はこれを最後に引退」と述べていることでも話題となっています。
ただまあ、ジャッキー・チェンは過去に何度も自らの引退をほのめかす発言を行っていながら、都度発言を反故にしているわけですし、今回もあまりアテになるものではないのではないかと。

香港映画であることから、冒頭のプロローグでも当然のごとく中国語のキャスティング情報が飛び交う今作の物語の発端は、1860年のアロー戦争(作中では「第二次アヘン戦争」と呼称)にまで遡ります。
当時は清王朝が支配していた中国大陸では、円明園と呼ばれる離宮が建造されていました。
円明園では、十二支を模した動物の銅像が、それぞれ決められた時間毎に水を噴射し、正午には12の銅像全てから水が噴射されるという仕掛けが施されていました。
ところがアロー戦争時、清へ侵攻した英仏連合軍は、円明園に対し略奪の限りを尽くした上に徹底的に破壊してしまいます。
その際、十二支の銅像もまた、略奪を担った英仏連合軍によって首を切り取られ、国外に持ち去られていたのでした。
ちなみに、この銅像の中のひとつである龍の首の銅像が、映画のタイトル名の由来にもなっています。

時は流れ、この十二支の銅像のうちのいくつかがオークションに出品され、数百万ユーロという高値で落札されていました。
このカネになるオークションビジネスに、高額な秘宝や盗品の文化財を扱うマックス・プロフィット(MP)社が目をつけます。
MP社は、既に中国へ返還または寄贈されている6体を除く残りの十二支の銅像を手に入れるべく、今作の主人公である伝説のトレジャーハンター・JC(当然ジャッキー・チェンの略称でしょうね(笑))に銅像の探索と奪取の依頼を行うことを考えます。
その頃、当のJCは、どこかの山岳地帯にある軍事施設?へ潜入し、何らかの目的を果たした後に見つかってしまい、逃走を図っていました。
何故か全身でローラースケートが可能なスーツを身に纏い、文字通り地べたを這う奇想天外なアクションで敵の追手と包囲網を次々とかわしていくJC。
最後は通気口?の中へ逃げ込み、仲間に拾われて無事逃走に成功するのでした。
無事を喜ぶJCは、仲間達からMP社の依頼を聞かされることになります。
MP社は、十二支の銅像ひとつにつき100万ユーロ、さらに龍の銅像を見つけたら報酬を10倍にするという条件での探索と奪取をJCと仲間達に対し申し出てきます。
JCはこの依頼を快諾し、まずは十二支の銅像があるとされるフランスのマルソー城へと向かうことになるのですが……。

映画「ライジング・ドラゴン」のストーリーにおける重要なキーワードとなっている十二支の銅像は、その正式名称を「円明園十二生肖獣首銅像」と言います。
作中では、この「円明園十二生肖獣首銅像」がアロー戦争時に英仏連合軍によって略奪されたと、中国人の登場人物達が盛んに主張しているのですが、実はこれは空虚なフィクションもいいところなんですよね。
確かに円明園は、アロー戦争時にフランス軍によって略奪の限りが尽くされ、清軍の捕虜殺害に対する報復としてイギリス軍によって焼き払われた歴史的事実があります。
しかし「円明園十二生肖獣首銅像」については、アロー戦争時には略奪を免れ、英仏連合軍の円明園での略奪後も同じところにそのまま鎮座し続けていました。
「円明園十二生肖獣首銅像」は、アロー戦争後に当時の清王朝自身の手によって移設され、すくなくとも1930年頃までは中国国内に存在していたのです。
したがって、現在「円明園十二生肖獣首銅像」が世界に分散しているのは、アロー戦争時の英仏連合軍の手によるものなどではなく、全くの別人もしくは別勢力によって行われたことになります。
となると、被害者意識丸出しでフランス人達に「略奪された中国の文化財は中国に返すべきだ!」などとがなり立てている作中の中国人達の主張は、その正当性が180度完全にひっくり返されることになります。
彼らは、全く無実のフランス人達に冤罪を押し付けていることになりますし、その一方で自分達の同胞達の罪を不問に付していることになるわけなのですから。
そもそも、当時の中国を支配していた清王朝は漢民族が作った王朝などではなく、元々は女真族こと満州族が建国したものなのですし、当時はその版図の一部に組み込まれていたに過ぎない漢民族が、我が物顔で清王朝の文化財の所有権を主張するというのは滑稽もいいところでしかないのですが。
清王朝の文化財の本来の所有権者である現在の満州族は、中国国内の少数民族として消滅の危機に晒されている状態にある上、満州族本来の領土である満州もまた、清王朝末期頃から漢民族の大量流入によって席巻されている始末です。
満州族をそのような境遇に追いやった中国人というよりも漢民族の人々は、アロー戦争時の英仏連合軍よりも、まずは自分達の「侵略行為」についてこそ素直に反省し、満州族に対して謝罪でもすべきなのではないですかねぇ(苦笑)。
作中でココという女性が、中華思想丸出しな言動でフランス人女性に迫っていった光景は、私から見れば実に笑止な限りでしかなかったのですが。

また他にも、「円明園十二生肖獣首銅像」には結構面白いエピソードがあったりします。
2009年4月に、「円明園十二生肖獣首銅像」の中の兎と鼠の銅像が、フランスのオークションで出品されるという出来事がありました。
フランス在住の中国人達がパリ地方裁判所に競売差し止め請求を行ったものの却下され、2つの銅像は出品されることになったのですが、それを落札したのが中国人の蔡銘超。
彼は3143万ユーロという大金を提示して2つの銅像を落札したのですが、何と彼はその後「カネを払うつもりはない、中国人としての責任を果たしただけだ」と支払いを拒否したんですね。
ということは、彼は最初からパフォーマンスを意図して虚偽の落札を行ったのでなければ、詐欺的な意図をもって銅像を手に入れようとしていたことになります。
これだけでも笑えるところなのですが、当然のごとく銅像の受け渡しを拒否した出品者ピエール・ベルジェの発言がまた振るっていて、彼は「中国が人権を守り、ダライラマ14世がチベットに帰還出来るなら中国政府に銅像を引き渡してもいい」などと述べていたりするんですよね。
当然、そんな切り返しをされた中国政府は、人権問題について反省するどころか鼻で嘲笑い、せっかくの引き渡しのチャンスを棒に振っています(苦笑)。
出品者は、中国の厚顔無恥かつ強欲な性格を大変よく理解していらっしゃるようで(爆)。
痛烈な皮肉で返された中国の態度も、いっそ清々しいほどに自分の面子と欲求に忠実なシロモノですし、中国人および中国政府の性格を理解するのにこれほどふさわしいサンプルも、そうそうあるものではないですね。

さて、少々脱線したので映画の方に話を戻します。
今作では、ジャッキー・チェンが主演ということもあるのでしょうが、銃撃戦を活用したアクションシーンはあまりなく、どちらかと言えば身体を張った格闘戦がメインに展開されていますね。
銃器類が使用されるシーンもあるにはあるのですが、ほとんどコメディタッチなノリで登場しているだけでしかありません。
物語中盤の海賊と対峙するシーンなどはその典型例で、海賊がぶっ放したロケットランチャーや、フランス人女性キャサリンが銃を乱射しまくるシーンでその場にいた全員がビックリ仰天していたり、蔓に絡まっていたロケットランチャーの砲弾が空中をブラブラしていた際は全員が行方を追っていたりと、明らかに笑いを取る進行で物語が進んでいました。
終盤の戦いに至っては、銃をぶっ放せる局面がいくらでもあったにもかかわらず、敵味方含めてほとんど銃を使うことがありませんでしたし。
この辺りは同じアクション映画でも、欧米と中国系で大きな違いがあると言えるのではないでしょうか。
中国系の映画で銃器類がメインで大活躍するような作品というのは、まるで見たことがないですしねぇ。

ジャッキー・チェンのファンの方々にはオススメの映画ではあるのでしょうが、個人的には少々微妙な出来かなぁ、といった評価ですね。

映画「世界にひとつのプレイブック」感想

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映画「世界にひとつのプレイブック」観に行ってきました。
映画「ウィンターズ・ボーン」「ハンガー・ゲーム」で主演を担ったジェニファー・ローレンスが、第85回アカデミー賞その他で主演女優賞を獲得したことで話題となった、デヴィッド・O・ラッセル監督製作のコメディドラマ作品です。
映画のタイトルは邦題で、英語の原題は「SILVER LININGS PLAYBOOK」。
今作の日本公開は2013年2月22日だったのですが、熊本ではそれから1ヶ月以上も遅れた4月6日からの劇場公開となっており、しかもその週は時間が合わず観賞できなかったため、熊本の映画解禁日からさらに1週間遅れての観賞となりました。
……これでもまだ「公開されているだけマシ」と言えてしまうところが、熊本の映画事情の泣けるところではあるのですけどね(T_T)。
しかし今作は、セックス依存症とか浮気による精神障害とかいった「大人ならではの問題」を扱っている割には、直截的な描写がないこともあってか、R指定等が全くされていないですね。
どう見ても小中学生向けの映画でないことは確実なのですが(苦笑)。

物語は、今作の主人公パット・ソリータJrが、精神病院?に収監されて精神療法のリハビリを受けさせられている光景からスタートします。
この後のストーリーで解説されるのですが、彼は元学校の教師で、ある日いつもより早く家に帰ったところ、妻のニッキと同僚の歴史教師がシャワーセックスにシケこんでいる現場に直面してしまい、その場で浮気相手を半殺しにした結果、裁判所の命令で病院に収監された上に妻との150m以内の接近を禁止する措置命令を出される羽目となっていたのでした。
8ヶ月もの間病院での精神療養生活を続けていたパットは、母親ドロレスの手回しで、担当医が時期尚早と懸念を表明する中で退院の日を迎えます。
しかしパットは退院後、次から次に奇行に走りまくり、近所迷惑や警察沙汰レベルの問題を起こしまくることになります。
退院許可が下りていない患者仲間のダニーを連れ出してしまい、病院から戻すように指示される。
夜中まで本を読んでいたかと思えば、突然怒り出して本を家の外に窓を破って投げ捨て、さらに睡眠中の両親を叩き起こして本の内容に対する怒りをぶつけまくる。
当初は息子の退院に喜んでいた両親も、さすがに「これはマズイのでは?」「厄介な火種を抱え込んでしまったのでは?」という戸惑いを浮かべるようになってしまうのでした。
一方パットは、浮気されたにもかかわらず、妻のニッキとの仲を再構築しようと考え、そのことを周囲に漏らしたり、元勤務先だった学校に乗り込んで妻や浮気相手のことを尋ねて警察のお世話になったりしていました。
そんなある日、身体を鍛えるべく近所をランニングしていたところ、パットは親しい友人のロニーと偶然の再会を果たします。
ロニーは妻のヴェロニカの言もあってパットを夕食に招待します。
その夕食会では、ロニーの一家2人とパット以外に、ヴェロニカの妹ティファニーも呼ばれていました。
ティファニーは夫を早くに亡くした未亡人で、かつ夫の死後に勤務先の会社の社員全員(総勢11人、しかも女性も含む)とセックス行為に及んだことからクビにされてしまったという曰くつきの経歴を持つ女性だったりします。
この夕食会が初対面となるパットとティファニーは、奇妙な意気投合で新たな関係を構築していくことになるのですが……。

映画「世界にひとつのプレイブック」で男女の主演を担っているブラッドレイ・クーパーとジェニファー・ローレンスは、実年齢が何と16歳も離れています。
世間一般的に見ても、「似合いのカップル」として見られるような年齢差ではありえません。
この年齢差もあり、ジェニファー・ローレンスは当初ティファニー役の有力候補でも何でもなく、デヴィッド・O・ラッセル監督も全くの別人を配役する予定だったのだそうです。
ところが、形式的に開催されたオーディションでジェニファー・ローレンスの演技を見た監督は、「彼女は自然児で別格だ、圧倒された」と評価を一変させ、そのまま彼女をティファニー役に抜擢したとのこと。
そして、そのジェニファー・ローレンスがアカデミー賞等で主演女優賞を受賞することになったわけですから、監督の目は確かだったということになるのでしょうね。
実際、作中における彼女の強気な言動は、他の登場人物と比較しても強烈な存在感が伝わってきていましたし、懸念材料たる16歳の年齢差も、まるで観客側に感じさせることがなかったですからねぇ。
作中の彼女の外見は、元?セックス依存症の女性という設定もあってか、どこか退廃的な雰囲気を纏っていて、それが一定の加齢効果をもたらしているようにも見えましたし。
彼女は「ハンガー・ゲーム」でも、今作と同様に男勝りかつ過激でキツめな性格の女性を演じていましたが、すくなくとも今のところはそういう役柄が合っている女優さんということになるのでしょうか。

作中の設定で個人的に疑問だったのは、本来ならば妻のニッキに浮気をされてしまった被害者であるはずのパットが、作中では逆に加害者兼精神異常者的な扱いを受けている点ですね。
確かに彼は、浮気相手を半殺しにするという傷害事件を起こしているわけですが、その原因となる浮気行為を最初にやらかしたのは妻の側なのですし、状況から考えれば情状酌量の余地は十二分にあると考えられるべき話でしょう。
それどころか、不貞行為をやらかしている妻と浮気相手は、パットに土下座した上で慰謝料や賠償金を支払わされても、決して不当ではないくらいなのです。
日本では妻の浮気が原因で夫婦が離婚する場合、財産分与・親権等のあらゆる面で夫側が圧倒的に有利になるのですし。
ところが作中では、妻ニッキの浮気行為についてはほとんど何も問題視されることがなく、逆に浮気相手に対するパットの暴力行為のみが、さも大問題であると言わんばかりに大々的にクローズアップされています。
ニッキがパットに賠償金を支払うどころか、逆に裁判所を動かして接近禁止令を出させるなどという所業まで平然と行われていましたし、また物語終盤でパットがニッキと対面した際も、ニッキは何ら後ろ暗い表情を浮かべることすらなく、正面から堂々とパットと渡り合った上に笑顔まで見せるほどの豪胆ぶりを披露していました。
こんなことが普通にありえるのでしょうか?
浮気相手に対するパットの暴力行為が警察沙汰となり彼が逮捕されたにしても、それと同等以上に妻の浮気問題はさらに問題視されないと変ですし、妻と浮気相手も相応の社会的制裁は下されて然るべきでしょう。
仮にニッキが自身の浮気問題を隠蔽して「夫が同僚の教師に暴力を振るっている」と警察に通報していたにしても、警察もバカではないのですから、現場の状況や事情聴取などで、嫌でも事件の背景を理解せざるをえないはずなのですが。
暴力沙汰を起こしたパットが教職をクビになっているのに、不貞行為をやらかした浮気相手が同じ学校で相変わらず教職を続けているというのも驚きでしたし、ニッキと浮気相手は、パットと比較しても何ら社会的制裁を受けているようには見えません。
パットの暴力行為は暴力事件として裁かれるべき事案であるにしても、だからと言ってそれは妻の不貞行為や責任問題を何ら免罪するものではありえないはずなのですが。
それともアメリカでは、妻の浮気行為は法的どころか倫理的に見てさえも何ら問題となる所業ではなく、不倫や乱交が公然と認められている社会だったりするのでしょうか?
しかし、かつてのティファニーのセックス依存症的乱交行為が会社をクビになるほどの扱いを受けたりしているところを見ても、すくなくとも「不貞行為は悪いことである」という社会的常識自体は一応持ち合わせているようではあるのですが……。
作中におけるパットの犯罪者的な扱いと、ニッキ&浮気相手が何ら社会的制裁を受けていない様子が、何とも不当極まりないシロモノに見えてしかたがなかったのですけどね、私は。

今作はコメディドラマという触れ込みではあるのですが、作中のストーリーを見る限りでは、これといったコメディ要素はあまり見出すことができないですね。
序盤で見られたパットの奇行ぶりも、「笑いのネタ」というより「精神異常者ならではの狂った言動」的なイメージが強いですし。
それよりも、精神的な外傷を被った男女が心身的に立ち直っていく過程を描いた恋愛物というのが、今作の正しい評価と言えるのではないかと。
その手のベタな恋愛物が好みという方にはオススメの映画であると言えるでしょうか。

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