エントリー

カテゴリー「映画観賞関連」の検索結果は以下のとおりです。

映画「顔のないスパイ」感想

ファイル 550-1.jpg

映画「顔のないスパイ」観に行ってきました。
旧ソ連時代の凄腕スパイ「カシウス」の行方を巡って繰り広げられる、リチャード・ギア主演のスパイ・アクション作品。
「顔のないスパイ」は邦題タイトルで、映画の原題は「The Double」。
元々今回は、3月1日が映画「ヒューゴの不思議な発明」の公開初日&ファーストディ(映画の日)ということもあり、当初はそちらを観賞する予定でした。
ところが「ヒューゴの不思議な発明」は、全く思いもよらなかった試写会当選のおかげで予定よりも早く、しかも無料での観賞が可能となったことから、結果的に3月1日の予定が空いてしまったんですよね。
しかし、せっかくのファーストディなのだからこの日に映画を観ないと損だということで、本来は2月26日の日曜日に観賞する予定だった今作をこちらに持ってきた、というわけです。
映画を安く観賞できるという特典がある日を、逃がすわけにはいかないですからねぇ(^_^;;)。

物語は、ロシアと密接な関係を持っていた上院議員が暗殺される事件が勃発するところから始まります。
上院議員が殺される光景は監視カメラにも捕らえられていたのですが、犯人の顔は識別不可。
しかし、殺しの手口が細いワイヤーを使って首を切り裂くという手法で、かつ切り裂きの手法が、旧ソ連時代に活躍したと言われる往年の凄腕スパイ「カシウス」が多用していたものと同一であったことから、「カシウス」が復活したのではないかと囁かれました。
事態を重く見たCIAは、かつて「カシウス」を半生にわたって追い続け、今では引退している元CIAエージェントのポール・ジェファーソン(今作の主人公)を呼び戻し、FBIの若手捜査官ベン・ギアリーと共に「カシウス」の捜査に当たらせます。
ベンは「カシウス」を題材にした修士論文を書いたほどに「カシウス」に精通している人物で、今回の事件が「カシウス」の仕業だと最初に主張したのも彼でした。
これに対し、ポールは「カシウスは既に死んでおり、今回の事件は模倣犯の仕業である」と主張、2人の意見は対立します。
それでも2人は、「カシウス」がリーダーを務めていたとされる暗殺組織「カシウス7」の生き残りメンバーで現在は獄中にいる人物から、情報を引き出すべく面会に臨みます。
そこで2人は、獄中の男にラジオ?を渡すのと引き換えに、「カシウス」が暗殺者の掟を破ったことで罰を受けたという新事実を知ることになります。
その後、獄中の男はラジオ?の中にあった電池を飲み込み、体調不良を訴えて自身を病院に運ばせると共に、医療スタッフ達の隙を突いて脱走することに成功します。
しかし、脱走した男が逃げた先で待ちかまえていたのは、何と先ほど男と面会していた2人のうちのひとり、ポールだったのです。
脱走男との対峙の中で、自分が「カシウス」であることを告白し、愛用の武器である腕時計仕込みのワイヤーで脱走男を惨殺してしまうポール。
ポールはその直後に、「カシウス」こと自分自身にいずれ辿り着くかもしれないベンを今のうちに殺そうと、彼の家でその機会を伺うのですが、庭にひとり出ていたベンを奥さんが家から出てきて話しかける光景を見て思い直したのか、結局何もすることなくその場を後にするのでした。

その後、ポールが惨殺した脱走男が発見され、現場検証が行われるのですが、全ての真相を知っているポールも知らぬ顔で現場検証に参加しています。
そればかりか、相棒のベンに野次馬のひとりを指し「あいつが来ている服はロシア製だ」などと指摘して追跡劇を演じ、捜査を悪戯にかき回したりする始末。
ただ、これがひとつのきっかけになって互いに打ち解けたのか、ベンはポールを自宅に招いて食事を共にしたりもするようにもなったのですが。
一方、捜査が進んでいく過程で、「カシウス」と同じ時期に姿を消した、元KGB特殊部隊(スペツナズ)所属のボズロスキーという男が浮上してきます。
CIAは、ポールの正体について何ら疑問を抱かぬまま、ボズロスキーを「カシウス」と見て追跡調査を進めていくことになるのですが……。

映画「顔のないスパイ」を観賞していく中で私がまず連想したのは、1997年(日本では1998年)公開の映画「ジャッカル」でしたね。
映画「ジャッカル」は、今作と同じくリチャード・ギアが主演で、かつブルース・ウィリスが悪役というタッグの実現で当時話題を呼び、これまた今作と同じくスパイ同士の駆け引きとアクションをメインとしたストーリーが展開されていた異色の作品です。
主演が全く同じということに加え、スパイ・アクションという映画のジャンルも同一、さらには作中の主人公の設定にも「身内を殺されたことから復讐に走る」という共通項があるとくれば、やはり「ジャッカル」を想起せずにはいられなかったところでして(^^;;)。
ただ、「ジャッカル」と今作では14年以上もの開きがあるためか、リチャード・ギアの外見がすっかり様変わりしていたのが結構印象に残ったものでした。
「ジャッカル」の時はブルース・ウィリスよりも若く見えていたリチャード・ギアでしたが、今作では役柄にふさわしい容貌になっていましたし。
物語の中盤頃までは主人公の復讐の設定が出てこなかったこともあり、「『ジャッカル』におけるブルース・ウィリスの役柄をリチャード・ギアが担っている」とまで考えていたくらいでした(^^;;)。

今作で少し疑問に思ったのは、「カシウス」が関わったとされる全ての事件の写真にポールが写っていたことから、ベンが「カシウス=ポール」の図式に気づくところですね。
ポールはCIA現役時代に「カシウス」を長年にわたって追いかけている、という設定が最初から明示されているのですから、「カシウス」絡みの事件全てでポールが映し出されていること自体は何ら不自然なことではありません。
ボズロスキーを単身追いかけていたポールの行き先で例の「カシウス」の犯行以外の何物でもない手法で殺されていた遺体をベンが目撃する描写がありましたから、この時点で「カシウス=ポール」の疑いが出てきたという事情もあった(この時点で「カシウス」候補は、未知の第三者を除外すればボズロスキーとポールの2人に絞られる)のでしょうが、それにしてもアレではまだ決定打とは言えないよなぁ、と。

また、物語終盤で「実はベンもまたポールと同じくロシアのスパイだった」という事実が明かされます。
何でも彼は、ロシアを裏切った「カシウス」ことポールを抹殺するために10歳の頃にロシアから派遣され潜伏していたスパイだったのだそうで、上院議員殺しも彼が「カシウス」を炙り出すために行った犯行なのだとか。
どことなく映画「ソルト」を髣髴とさせるようなエピソードではありますね。
ただ、作中には目に見えてそれと分かる伏線や説明が全くなく、いかにも唐突に出てきた感は否めませんでした。
後から物語全体を俯瞰して考えると、冒頭の上院議員殺しと「修士論文まで書くレベルのカシウスマニア」というベンの設定に関連性があったことが分かり「ああ、なるほど」と納得もできた(「カシウス」の手法を熟知しているからこそ「カシウスの犯行」をも再現できた)のですが、作中ではこれといった説明もないですし、普通はまず気づかないのではないですかね、これって。

それにしても「ソルト」といい今作といい、映画の世界におけるアメリカってとことんスパイに弱い体質をしていますね(苦笑)。
安全保障上の問題が浮上してもおかしくないほどに、スパイに浸透され放題ではありませんか。
まあ「アメリカの場合は」エンターテイメントならではお約束ではあるのでしょうし、また今作の場合は「The Double」という映画の原題にも関わってくる(二重スパイが2人)ので、落としどころは上手いとは思いましたが。
これがスパイ防止法すらも成立していない日本だと、現実自体が「映画の世界のアメリカ」よりもさらに悲惨な惨状を呈しているために、笑いすらも出てこないのが何とも言えないところで(T_T)。

アクションよりもスパイならではの葛藤や人間ドラマに重きをおいているストーリー構成ですが、リチャード・ギアのファンの方なら観て損はしない映画なのではないかと。

第84回アカデミー賞&第32回ラジー賞についての雑感

2011年にアメリカで公開された映画の中で最高の作品と俳優を決定する、第84回アカデミー賞の授賞式が、日本時間2月27日に行われました。
そのうち、作品賞の受賞とノミネート作品については以下の通り↓

作品賞授賞
 「アーティスト」(日本では2012年4月7日公開予定)
ノミネート作品一覧
 「ファミリー・ツリー」(日本では2012年5月18日公開予定)
 「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」
 「ヘルプ ~心がつなぐストーリー~」(日本では2012年3月31日公開予定)
 「ヒューゴの不思議な発明」(日本では2012年3月1日公開予定)
 「ミッドナイト・イン・パリ」(日本では2012年5月26日公開予定)
 「マネーボール」
 「ツリー・オブ・ライフ」
 「戦火の馬」(日本では2012年3月2日公開予定)

しかし、受賞作品および賞にノミネートされた作品リストを見ると、この手の賞というのは映画の「面白さ」ではなく「芸術性」を評価する作品なのだなぁ、とつくづく痛感せずにはいられないですね。
受賞作品である「アーティスト」なんて、その全編がサイレント&モノクロ映像で成り立っているという、まさに文字通りの「芸術作品」ですし、爽快感や迫力ある映像などといった「面白さ」を求めている観客層には、そのコンセプトだけで既に論外としか言いようのない映画です。
また、ストーリーの本筋と如何なる関係があるのかすらも不明な映像を長々と垂れ流し、映画の途中なのに席を立ってスクリーンから去っていく人が続出するなど、史上稀に見る駄作要素が満載の「ツリー・オブ・ライフ」なんて、「面白さ」で評価するならアカデミー賞どころか、むしろ正反対のゴールデンラズベリー賞(ラジー賞)にこそノミネートされるべき作品でしょう(苦笑)。
今回に限らず、アカデミー賞の選考評価基準というのは、一般的な大衆映画評とは大きく乖離しているのではないでしょうか?
日本では興行的に成功してなかったり知名度が低かったりする作品、さらに酷い場合は「ツリー・オブ・ライフ」のごとく駄作認定すらされている映画も少なくないのですから。
しかし、世間一般で映画が宣伝される際には、アカデミー賞やカンヌなどでノミネート&受賞されたという事実が、集客のネタとして大々的に喧伝されることが多かったりするんですよね(-_-;;)。
「芸術性を評価している」映画の賞は、必ずしも「映画の品質や面白さ」を保証するものではないのに、「賞を取った&ノミネートされた=面白い良い映画」という図式で映画の宣伝・集客が行われるのは、「面白さ」を求めている観客にとっては悪質なミスリード以外の何物でもないのですが。

また、アカデミー賞授与式に先立ち、2011年の駄作映画を決定するラジー賞こと第32回ゴールデンラズベリー賞のノミネート作品も発表されています(授賞式は2012年4月1日予定)。
その中の最低作品賞におけるノミネート作品は以下の通り↓

ノミネート作品一覧
 「Bucky Larson: Born to Be a Star」(日本公開未定)
 「ジャックとジル」
 「ニューイヤーズ・イブ」
 「トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン」
 「トワイライト・サーガ/ブレイキング・ドーン Part1」

で、ラジー賞はラジー賞で、やはりアカデミー賞と同様に一般的な映画評価からの著しく大きな乖離を感じずにいられないんですよね。
しかも、アカデミー賞の場合は選考評価基準がまだある程度明確なのに対し、ラジー賞は一体何をベースに作品を評価しているのかすらも意味不明です。
ラインナップされている作品群を見ても、「とりあえず大衆娯楽作品を適当に集めてバッシングしてみました」的な雰囲気が漂いまくっていますし、そのくせ正真正銘の駄作である「ツリー・オブ・ライフ」はノミネートすらもされていませんし。
特にラジー賞が信用ならない最たる理由は、映画に出演している有名俳優を基準に駄作認定を行っている部分も多々あることです。
「ラジー賞の常連」などと言われているシルヴェスター・スタローンなんてまさにその典型で、作品の内容がどうこうではなく「スタローンが関与している」というだけでラジー賞にノミネートされることすら珍しくないのですからねぇ(-_-;;)。
この恣意的としか評しようのない作品評価基準が、私がラジー賞を「アメリカ版『と学会』」などと酷評する最大の理由でもあったりします。
ラジー賞というのは元々ユーモアやジョークを意図しているものでもあるらしく、ラジー賞で駄作認定された作品が必ずしも本当の駄作というわけではない、とは賞の主催者側も承知の上ではあるようなのですが、ただ一般的には「ラジー賞授与=駄作認定」という評価が確立していることもまた事実ではありますからねぇ。
まあ、ラジー賞の受賞者自らがわざわざ授与式に登場し、ラジー賞のトロフィーを受け取った上にスピーチまで披露したという事例もありますし、その辺りの「懐の深さ」については、トンデモ認定した論者を罵倒しまくり一方的に遠ざけ、そのくせ身内には大甘な「と学会」とは比べるべくもないのですけどね(苦笑)。

映画についての評価や感想は人の数だけ千差万別で存在するでしょうし、それを承知の上で良作&駄作映画を選考する賞というのも必要ではあるでしょう。
アカデミー賞が「映画の面白さではなく芸術性を評価する賞」であっても、その「芸術性」もまた映画の良し悪しを評価するひとつの基準になりうることはまず間違いないわけですし。
ただ、それが一般的な映画評価から大きく乖離し、かつ映画の宣伝などで「面白さをアピールし集客するための道具」として多用されている現状は、映画ファンとしては正直歯痒く思うところではあります。
アカデミー賞やラジー賞に限らず、映画の賞というのは一般的にも少なからぬ知名度を誇っているにもかかわらず、大多数の一般人とは全く無縁な映画をただ紹介するだけの賞と化してしまっている一面が多々あったりしますからねぇ。
ただ「客寄せをするための道具」としてではなく、また一部の映画マニアだけが楽しむものでもなく、本当に作品の品質や面白さを評価し、大多数の一般人が納得も共感もできるような映画の賞ができれば、映画業界自体の活性化にも繋がるのではないかと思えてならないのですけどね。

映画「デビルクエスト」感想(DVD観賞)

ファイル 548-1.jpg

映画「デビルクエスト」をレンタルDVDで観賞しました。
日本では2011年に公開されたアメリカ映画で、14世紀の十字軍時代を舞台に繰り広げられるニコラス・ケイジ主演のアクション・アドベンチャー作品。
去年、シネマトゥディで映画の存在を知り、出演者と内容から面白そうだと思ってチェックしてみたら、熊本では上映予定が全くなく、しかたなく観賞を諦めていた作品です。
都会と地方の格差というのは、こういうところにも現れるんですよねぇ(T_T)。

物語のプロローグでは、本編に先立つこと100年前の1235年、当時は神聖ローマ帝国領だったオーストリアのフィラッハの町で、魔女狩りが行われているシーンが展開されます。
捕らえられた3人の女性が一方的に魔女と断定された挙句、橋から縛り首にされた上、川に下され溺死までさせられてしまいます。
それだけならば当時の魔女狩りの一風景でしかなかったのですが、この映画ではここからが異なりました。
司祭が復活を阻止すべく、川に下した遺体を縛り首にしたロープで引き上げ、書物を片手に祈祷を始めると、死んだはずの遺体が突如震え出し、ただならぬうめき声を上げ始めます。
しかし祈祷が進むとそれもやがて収まり、司祭は次の遺体を最初の遺体と同様に川から引き上げようとします。
ところが今度は司祭が逆に引っ張られ川に転落してしまいます。
川に引きずり込もうとする何者かの手を必死になって逃れ、司祭は川に引っ張られた際に橋の上に落とした書物を取り上げ、再度祈祷を始めようとします。
しかし、死んだはずの遺体が川から跳躍し、司祭の目の前に立ちはだかります。
そして、遺体が手を振りかざすと、書物は燃え上がり、司祭もあっさり殺されてしまうのでした。

時は流れ1332年。
1096年から聖地奪回を目指し、ローマ教皇によって数次にわたって提唱された、後世で言われるところの十字軍は、1291年のアッコン陥落によって幕を閉じましたが、その後も個々の国や領主などによる小規模の十字軍遠征がしばしば展開されていました。
ニコラス・ケイジが扮する今作の主人公ベイメンと、彼の親友であるフェルソンは、14世紀に当時存在したキプロス王国によって主導されていた十字軍に従軍していました。
ベイメンとフェルソンは、その年に行われた現在のトルコ領エドレミット湾の戦いで十字軍騎士としての初陣を飾り、以後、1334年のトリポリ包囲戦、1337年のインブロスの戦い、1339年のアルタハの戦いと、実に10年近くにわたって十字軍の戦いで活躍していきます。
彼らの名前と武勇は、十字軍の中でも伝説的なものとして語られるようになっていきました。
しかし、1344年に行われたスミルナの戦いが、彼らの運命を一変させます。
スミルナとは現在のトルコ領イズミルで、昔から海の拠点のひとつとして栄えてきた都市です。
このスミルナを、キプロス王国主導の十字軍は力攻めの末陥落させることに成功します。
スミルナの城門を突破することに成功した十字軍と共に、ベイメンもまた城内に侵入し敵の殲滅に当たろうとするのですが、その最中、彼は逃げ惑うひとりの女性を刺し殺してしまいます。
それまで彼が戦ってきたのは武器を持った戦場の兵士達であり、非戦闘員を殺したのはこれが最初でした。
愕然としたベイメンが周囲を見渡してみると、そこでは味方の十字軍が情け容赦なく虐殺を繰り広げる光景と、彼らによって殺された女子供の死体の山。
ベイメンとフェルソンは、虐殺を主導した十字軍の総司令官に怒りをぶつけますが、十字軍の総司令官は「神の声」と教会の権威を盾に全く取り合おうとせず、逆にベイメンを「悪魔にでも取り憑かれたか」などと中傷までする始末。
これで完全にキレてしまったベイメンとフェルソンは、その場で十字軍からの離脱を宣言、脱走兵として追われる身となって旅をすることになります。

それから1ヵ月後。
ベイメンとフェルソンは、スティリア(現在のオーストリア領シュタイアーマルク州の英語読み)の沿岸部を歩いていました。
内陸国であるはずのオーストリアのスティリアに海岸線が存在するのかは非常に疑問ではあるのですが、それはさておき、彼らは、羊が放置されている1軒の民家を発見します。
食糧を求めていたベイメンとフェルソンが家屋に入ると、住人と思しき人間がベットの中で変わり果てた異形の姿で死んでいる姿が。
民家を燃やしてその場を後にした2人は、ようやくひとつの町に辿り着きます。
脱走兵として指名手配されているものの、一方では食糧の補給と馬の交換を行う必要もあり、正体を隠して町に入った2人が見たものは、黒死病(ペスト)の蔓延で苦しんでいる住人達でした。
馬を調達することには成功したベイメンでしたが、そこで十字軍に所属していた証である剣を見られてしまい、自分達の正体が露見してしまいます。
結果、彼らは官憲に捕まり、引っ立てられることとなってしまいます。
しかし彼らは、現地の教会から、脱走罪を免除してもらうことを条件に、ひとりの魔女をセヴラック修道院まで護送するよう依頼をされ、紆余曲折の末にこれを引き受けることになるのでした。
かくして彼らは、セヴラック修道院を目指し、600リーグもの距離を進むこととなるのですが……。

映画「デビルクエスト」の真骨頂は、脱走罪の免罪を条件にベイメンが護送することになった魔女を巡る駆け引きですね。
幼い面影すら残す少女を「魔女」として断罪し、魔女裁判にかけることに執念を燃やす司祭デベルザックに対し、ベイメンは「こんな少女が魔女であるとは思えない」と懐疑的であり、2人はしばしば対立します。
現代世界の常識であればベイメンに軍配が上がるところですが、作中の世界は冒頭のシーンでもあったように不可解な超常現象が実際に起こっている世界です。
また実際問題として、少女は大人をも遥かに凌駕する膂力を発揮したり、意味ありげな言動を披露したりしています。
その点ではミステリーのごとく、話の先が読めない世界でもあるわけです。
少女の正体は一体何なのか? またその目的は何で、言動にはどのような意味があるのか?
それらは全て物語終盤で明らかとなるのですが、謎が明らかになってスッキリする過程はまさにミステリー的な醍醐味がありました。

ただ個人的には、せっかく十字軍を出して大軍同士の激突を描いているのですから、もう少しそちらを前面に出しても良かったのではないか、とは思いましたね。
十字軍の戦いは、主人公の戦闘能力を表現する道具に終始していただけで、別に十字軍でなく英仏百年戦争やドイツ三十年戦争、さらにその他の戦争や内乱などでも充分に代替ができるものでしかありませんでしたからねぇ。
まあ、製作者側の意図としては、あくまでもRPG的な冒険物がメインであり、軍隊同士の激突の類を描くつもりはあまりなかったのでしょうけど。
「魔女」の護送に当たっていた人物達は、思惑も出自も性格も能力も見事なまでにバラバラで、要所要所で少しずつ離脱を余儀なくされながらも、最後は一丸となってラスボスと戦うという、ある意味RPGの王道路線を地で行くものでしたし。

大作感はないものの、普通に楽しむことができる作品なのではないかと。

映画「アンダーワールド 覚醒」感想

ファイル 545-1.jpg

映画「アンダーワールド 覚醒」観に行ってきました。
吸血鬼(ヴァンパイア)と狼男(ライカン)との長きにわたる戦いを描いた、人気アクションホラー作品「アンダーワールド」シリーズの第4弾。
上映時間が88分とかなり短いためか、最初から最後までアクションシーンが目白押しですが、その過程でやたらと流血シーンが続くことからR-15指定されています。

今作のストーリーは、これまでのシリーズ作品の流れをそのまま受け継いだものであり、過去のシリーズ作品を予め観賞していることが前提となっています。
そのため、シリーズ作品について何も知らないまま今作を観賞しても、作品の世界観も登場人物達の相互関係や設定なども、理解するのにかなりの苦労を強いられることになるのではないでしょうか。
これまでのシリーズ作品におけるストーリーの流れとしては、以下のようなものとなっています。

ヴァンパイア VS ライカンの抗争の始まりを描いた
アンダーワールド ビギンズ(シリーズ3作目)

主人公セリーンの活躍によって両陣営の親玉が倒れた
アンダーワールド(シリーズ1作目)

セリーンの逃避行とヴァンパイア&ライカンの誕生秘話が語られる
アンダーワールド エボリューション(シリーズ2作目)

さらにヴァンパイア&ライカンの双方を殲滅せんとする人間が戦いに加わる
アンダーワールド 覚醒(シリーズ4作目にして今作)

そして今作は、人間達による魔女狩りのごときヴァンパイア&ライカンの殲滅作戦に巻き込まれた主人公セリーンが、共に逃げようとして彼女の恋人であるヴァンパイアとライカンの混血種であるマイケルと離れ離れになり、囚われの身となるところから始まることになります。

人間達の追撃から逃れるために、重症を負ったマイケルと共に海に飛び込んだものの、手榴弾?によってマイケルから強引に引き離され意識を失ってしまったセリーン。
そして次に彼女が意識を取り戻す直前、意味ありげな物音と騒ぎ声が聞こえてきます。
セリーンは間低温冷凍化されて「被検体2」としてアンティジェンという会社で実験台にされていたのですが、何者かの手によって覚醒させられることになるのでした。
アンティジェン社側も直ちに異変に気づき、セリーンを制圧しようとするのですが、覚醒したばかりのセリーンによってたちまちのうちに返り討ちにされてしまいます。
そしてセリーンがビルの窓を割って外へと逃走する寸前、「被検体1と合流するだろうから泳がせろ」と社員に指示する人間の声が聞こえてきます。
逃走後、セリーンは最初に襲撃された埠頭へと向かうのですが、そこにいた警備員?の人から、自分とマイケルが人間に襲撃されたあの日から実に12年もの歳月が経過していることが判明します。
セリーンは、脱出の際に聞こえた指示にあった「被検体1」がマイケルのことなのではないかと考え、件の人物を探し出して締め上げ「被検体1」についての情報を引き出そうとしますが、結局分かったのは「被検体1」がアンティジェン社から逃げたという事実だけ。
そんな中、セリーンの視界に突然、自分以外の何者かの視点による幻覚的な光景が映し出されるという現象が発生します。
その幻覚を自分に見せた者がマイケルなのではないかと考えたセリーンは、幻覚で見えていたのと同じ場所へと赴き、幻覚の情報に基づいて地下へと向かいます。
そこでセリーンは、ライカン族とおぼしき人狼から逃走していたヴァンパイアのデビッドと出会います。
そこでさらにセリーンは、先ほどと同じ幻覚現象に再び襲われ、幻覚の主がライカン族に追われている事実を知ることになります。
当然のごとく幻覚の情報に基づき、ライカン族を片っ端から殲滅にかかるセリーン。
そして、あらかたライカン族を片付けたところでセリーンが見つけ出したのは、しかしマイケルではなくひとりの少女なのでした……。

今作でちょっと残念だったのは、「ヴァンパイアとライカンの抗争に人間が加わった」というせっかくのコンセプトが充分に生かしきれていないという点ですね。
確かに序盤はアンティジェン社の人間がセリーンの敵として立ちはだかるのですが、実は物語の後半で、アンティジェン社の主要幹部達が「人間になりすましたライカン族」であることが判明するんですよね。
彼らは「ライカン族は殲滅された」という偽りの報告を政府機関などに対して行い、ライカン族の仲間達を陰から助けていた一方、自分達の弱点である銀を克服し、従来のライカンをはるかに強力にする薬品の研究開発を行っていたのでした。
ところがこの設定があるために、作中の人間達は「三つ巴の争いを繰り広げる三勢力の一翼」ではなく「ライカン族に利用されているだけの主体性なき勢力」でしかなくなってしまっており、結局これまでのシリーズ作品と同じ「ヴァンパイア VS ライカン」という構図が形を変えて繰り返されているだけでしかないんですよね。
映画「パイレーツ・オブ・カリビアン/生命(いのち)の泉」におけるイギリス軍・スペイン軍・海賊が繰り広げていたような「三つ巴の争い」を楽しみにしていた私としては、少々期待外れな感が否めなかったところです。
まあ今作は「マイケルの行方」などいくつかの謎を残したまま終わっていますし、続編があることを前提に「今後の戦いのプロローグ」的な位置付けで製作されていることが結末部分を見ると一目瞭然ですから、今後の続編で本当の「三つ巴の争い」が展開されることを期待したいところではあります。
主人公セリーンのアクションシーンはカッコ良く見所もあり、88分の上映作品としては比較的まとまってはいましたけどね。

ハリウッド映画定番のアクションシーンが好きな方には垂涎の作品ではありますが、過去作について知らない方は、予めそちらを先に観賞してから今作に臨むことを強くオススメしておきます。

映画「ヒューゴの不思議な発明(3D版)」感想

ファイル 544-1.jpg

映画「ヒューゴの不思議な発明」観に行ってきました。
ブライアン・ セルズニックの小説「ユゴーの不思議な発明」を原作とする、マーティン・スコセッシ監督の冒険ファンタジー作品。
「ヒューゴ」は「ユゴー」の英語読みで、今作の主人公ヒューゴ・カブレのフランス読みでの正式名はユゴー・キャブレなのだとか。

今作は本来、2012年3月1日に日本で封切られるはずの映画で、当初は映画料金1000円のファーストディ(映画の日)でもあるその日を狙って観賞する予定でした。
ところが今回、以前にたまたま気まぐれで応募していた試写会に当選するという幸運に恵まれ、予定よりも早い観賞となったのです。
正直、過去にTV局が主催していた試写会に何度か応募した際には全く音沙汰がなかったこともあり、今回まさか当選するとは思ってもいなかっただけに、全く望外の幸運でした(^^)。
今回は3D日本語吹替版での観賞となりましたが、試写会当選ということで3D料金も当然無料化されており、お得感はさらにひとしお(^^)。
しかも今作の3D版は、昨今の3D映画としては非常に珍しいことに、物語全般を通して立体感のある映像が展開されており、3D料金そのものの問題を除外すれば、ひとまず観ても損はしない程度の出来には仕上がっております。
3D映像の撮影では、2009年公開映画「アバター」と同じ3D-フュージョン・カメラ・システムを採用しているとのことで、それだけに3D映像的には、その「アバター」以来のヒットとすら言えるものなのではないかと。
……まあこんな評価をしなければならないこと自体、「詐欺同然のボッタクリ商売」とすら評しても言い過ぎではない昨今の3D映画の惨状を物語ってはいるのですけどね(-_-;;)。

物語の舞台は、1930年代のフランス。
首都パリのリヨン駅にある時計台でただひとり隠れて暮らしている主人公ヒューゴ・カブレは、駅の各所にある時計のネジを巻きながら、駅で売られている商品を盗むことで生活を成り立たせている少年。
ある日、ヒューゴは駅内にあるおもちゃ屋で、ネジを巻くと走行するネズミ型のオモチャに目をつけます。
店番の老人が眠っているのを確認し、隙を見計らってネズミ型オモチャを奪取……できるはずだったのですが、老人は眠っているフリをしていただけで、ネズミ型オモチャに手を伸ばしたヒューゴの腕をあっさり掴んでしまいます。
盗みの現行犯を捕らえた老人は、ここぞとばかりに他に余罪がないかを確認すべく、ヒューゴの所持品検査を始めます。
「鉄道公安官を呼ぶぞ」と脅しつつ、ヒューゴのポケットから次々に所持品を出させて確認していく老人でしたが、ヒューゴが所持していた手帳の中身を確認したところで顔色が変わります。
ヒューゴはヒューゴで、他の物品には大した関心も持たなかったのに、その手帳だけは執拗に「返してくれ」と老人に迫ります。
ところが老人は、「この手帳はもう私の物だから私がどうしようと勝手だ、家に帰って燃やす」とヒューゴを追い払い、そのまま自宅への帰途についてしまいます。
手帳を諦められないヒューゴは老人を自宅まで追跡し、老人の同行を監視するのですが、そこでヒューゴは老人の関係者とおぼしきひとりの少女と出会います。
老人のことを「パパ・ジョルジュ」と呼ぶその少女は、手帳に執着するヒューゴを見て「パパ・ジョルジュと正面から粘り強く交渉すれば手帳は返してくれるはず」と忠告し、その場は「手帳は燃やされないように私が見張っておくから」とヒューゴを退散させるのでした。

ヒューゴがパパ・ジョルジュに奪われた手帳に固執するのには理由がありました。
件の手帳は、かつて時計店を営んでいたヒューゴの亡き父親が、とある博物館から手に入れた機械人形と共にヒューゴに残した形見だったのです。
ヒューゴの父親は、仕事をしていた博物館で火事に巻き込まれ帰らぬ人となり、その後ヒューゴは、親戚に当たるクロードおじさんに、自分に代わってリヨン駅の時計を管理するよう命じられ、現在に至るのでした。
そのクロードおじさんも今では行方知れずとなり、今や身よりもなく天涯孤独の身となってしまったヒューゴ。
そんなヒューゴにとって、父親が残してくれた機械人形と手帳は、父親の形見であると同時に心の拠りどころでもあるのでした。
手帳には、ヒューゴの父親が残した機械人形のことについて記されており、それがなくては機械人形の修理や起動に支障をきたしてしまうのです。
とはいっても起動については、手帳とは別にハート型の鍵が必要であることが既に判明していたりするのですが。
ともあれ翌日、ヒューゴは再びパパ・ジョルジュの店に姿を現し、手帳を返すよう再度頼み込むことになります。
ところがそれに対してパパ・ジョルジュがヒューゴに提示したのは、ハンカチに包まれた一握りの灰でした。
手帳が燃やされたと考えたヒューゴは、絶望のあまりその場から走り出してしまいます。
しかし、曲がり角を曲がろうとしたところでヒューゴは、昨日出会った少女と再び遭遇することになります。
少女は手帳が燃やされていないことをヒューゴに告げると、彼を図書館へと連れて行きます。
以後、ヒューゴはパパ・ジョルジュの養女でイザベルと名乗るその少女と共に、機械人形の謎と、手帳の奪取に奔走することとなるのですが……。

映画「ヒューゴの不思議な発明」は、内容的には「大人よりも子供向けに製作された作品」というイメージが強いですね。
主人公が10代前半の少年少女ということもさることながら、ストーリー的にも残虐描写などが一切なく、常に子供視点で描かれ、かつ童話的な雰囲気に溢れた世界観が披露されていましたし。
作品そのものの方向性としては、去年観賞した映画「SUPER 8/スーパーエイト」をさらに低年齢向けにした感じ、といったところでしょうか。
もっとも、作中の設定や謎には特にSF的・オカルト的な要素が存在するわけではなく、作中で展開されるアクション的かつ派手な描写も、鉄道公安官とヒューゴの追いかけっこと、就寝しているヒューゴの脳裏で展開されている悪夢くらいなものなのですが。
親子連れなどで観賞するには最適の作品と言えるかもしれませんが、正直「大人だけで観に行く」という主旨にはあまり向いていない映画なのではないかと。

物語の序盤でヒューゴから手帳を奪い対立した「パパ・ジョルジュ」と呼ばれている老人には実は別に本名があったりします。
ヒューゴの父親が残した機械人形とイザベルの証言から分かるのですが、老人の本名はジョルジュ・メリエス。
実はこのジョルジュ・メリエスというのは架空の存在ではなく、かつて本当に実在していた人物で、映画の創世記に「世界最初の職業映画監督」として活躍した人物だったりするんですよね。
機械人形が作中で描いていた「月の右目に弾丸が直撃している絵」も、ジョルジュ・メリエスが製作した映画の代表作「月世界旅行」の有名な描写だったりしますし。
作中では、これらの事実からジョルジュ・メリエスの「挫折した過去の記憶」が披露され、そこから立ち直る過程が描かれることになります。
ただ、今作が予告編などで紹介されていた際、「世界を修理する」といった類の宣伝文句を何度も聞かされていたこともあって、「その謎の真相がこれなの?」と少々肩透かしを食らった気分にはさせられました。
あの宣伝内容を聞く限りでは、件の機械人形には文字通りの世界の趨勢に何らかの影響を与えるかのような巨大な秘密が隠されており、最終的にはとてつもなくスケールの大きな物語にまで発展していくのではないか、と期待させるものがありましたからねぇ(-_-;;)。
確かに、ジョルジュ・メリエスやヒューゴ、および彼ら2人の周囲の人間にとっては極めて重要な「世界」であり、かつ自分達の心の傷を「修復」していくものではあったのでしょうが、同時に映画を観賞している観客的には「だから何?」としか言いようのない「世界」でもあったりしてしまうわけで。
過去のショックや心の傷から立ち直っていく、という主旨ならば、この間観賞した映画「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」の方が、演出も構成もはるかに上手く共感もしやすかったですし。
正直、映画の宣伝があまりにも明後日の方向を向いた誇大広告に過ぎたのではないかとすら、ついつい考えざるをえなかったところです。

冒頭でも述べたように、3D映像は近来稀に見る秀逸な出来ですし、ストーリーも余計な先入観を抜きにして観賞するならば普通に見れるものではあるでしょう。
ただ、「映像が綺麗で良く出来ている」ことと「映画が面白い」というのは本質的に全く別のカテゴリーに属する話なのだなぁ、とは、この映画を観るとつくづく痛感せざるをえなかったところですね(T_T)。

映画「TIME/タイム」感想&疑問

ファイル 539-1.jpg

映画「TIME/タイム」観に行ってきました。
全ての人間の成長が25歳でストップし、時間が通貨として運用されている近未来の世界を舞台にしたアクション・サスペンス作品。

体内時間を通貨として運用することを可能にした「ボディ・クロック」という技術の確立により、人類社会全体が老化現象を克服することに成功した近未来。
「ボディ・クロック」は全ての人間の左腕に設置されており、自分の余命となる体内時間を常に確認することができると共に、それを通貨として他人に支払ったり、分け与えたり、奪ったりすることも可能となっています。
しかし、体内時計を通貨として運用するようになった結果、時間を持つ者と持たざる者とで経済的(?)な格差が増大することになりました。
裕福な者は数百年単位もの時間を所持し、事実上の永遠の若さと不死の状態を維持し続けられるのに対し、貧しい者の余命は平均23時間程度しか保証されず、たった数時間~1日程度の時間を得るために毎日働き続けなければなりません。
そして、時間の所持による格差は一種の身分制度的なものまで生み出し、時間を大量に所持する富裕層は「ニュー・グリニッジ(富裕ゾーン)」と呼ばれる居住区域で、貧しい者は「スラムゾーン」と言われる地区で生活するようになり、両者の間には複数の「タイムゾーン」という境界線が構築されるにまで至りました。
「タイムゾーン」を跨いだ「ニュー・グリニッジ」と「スラムゾーン」間の移動自体は禁じられていないのですが、タイムゾーンのいわゆる「通行税」は片道だけで実に1年以上という高額なものであり、その日暮らしだけで手一杯な「スラムゾーン」の人間が「ニュー・グリニッジ」へと移動するのは事実上不可能となっています。
そして今作の主人公であるウィル・サラスは、母親のレイチェル・サラスと共にその日暮らしの生活を細々と営む「スラムゾーン」の人間でした。

物語は、主人公ウィル・サラスと母親レイチェル・サラスの日常的な朝の風景から始まります。
ウィルとレイチェルは親子関係にあるのですから当然年の差は歴然たるものがあるはずなのですが、この世界の人類は全て25歳で老化が止まることから、レイチェルは実年齢に反して息子ウィルと同年齢かと見紛うかのごとき若々しさを保っています。
彼女は「ボディ・クロック」に刻一刻と刻まれ続けているウィルの体内時間を確認し、息子にランチを取らせるために自分の体内時間から30分をウィルに与えるのでした。
その後、日雇い作業員的な仕事をやっているらしいウィルが、1日の仕事を終えて日給を「通貨となる時間で」貰う場面が出てきます。
ここ最近、ウィルが在住している「スラムゾーン」では、コーヒー1杯の価格が3分から4分に値上がりするなどといった物価の上昇が発生していました。
それに伴い、ウィルが勤めていた会社も、1日当たりの作業ノルマレベルを引き上げてしまいます。
結果、それまでの1日のノルマをきちんとこなしていたにもかかわらず、満足のいかない時間しか貰うことができず不満タラタラなウィル。

それでも仕事の終わりに一杯と、ウィルは友人であるボレルと共に酒場へ立ち寄るのですが、そこで「スラムゾーン」に全く似つかわしくないひとりの男が、周囲の女性を口説いている姿を目撃することになります。
その男の「ボディ・クロック」には、何と116年以上もの時間が刻まれており、彼が「スラムゾーン」の人間でないことは誰の目にも明らかでした。
「スラムゾーン」では、たった数日~1週間程度の時間をめぐって強盗や殺し合いが発生したりすることも珍しくありません。
「ニュー・グリニッジ」からやって来たと思しきその富裕の男の身を案じたウィルは、彼に対して一刻も早く酒場から出て行くよう忠告します。
しかしその忠告の最中、富豪の噂を聞きつけた「スラムゾーン」のギャング一団を束ねるフォーティスが、富裕の男を確保するため、仲間を引き連れて酒場へと乗り込んできたのでした。
ウィルは「関わるな」というボレルの制止も振り切って富裕の男を助けにかかり、ギャング達の油断を突いて彼を逃がそうとします。
そのことに気づいたギャング達の追跡を何とか振り切り、とある廃工場の中に隠れたウィルと富裕の男。
一息ついたところで、富裕の男は自分のことについて話し始めます。
彼はヘンリー・ハミルトンという実年齢106歳の人間で、長寿を得たはずの自分の人生に絶望してしまい、半ば自殺願望的に「スラムゾーン」へやって来たということでした。
そしてウィルに対し、「100年の寿命があったら何をする?」と尋ねてきます。
それに対しウィルは「自分は決して時間を無駄にしない」と返答。
その後2人はそのまま眠ってしまうのですが、その後ウィルよりも一足早く起きたハミルトンは、ウィルに対して何か感じるものがあったのか、自分の「ボディ・クロック」に刻まれていた時間を5分だけ残し、残り全てをウィルに分け与えてしまいます。
しばらくして起きたウィルは、自身の「ボディ・クロック」に突然116年以上もの時間があることに気づいて当然のごとく驚愕。
そして窓には、まるで遺言であるかのように「俺の時間を無駄にするな」という文字が。
ハミルトンが橋に座っているのを発見したウィルはただちにハミルトンの元へと向かうのですが、時既に遅く、ハミルトンはタイムアウトで死に、そのまま橋から川へと落下してしまいます。
あとには、寿命116年以上という時間を手にしたウィルだけが残されたのでした。

思いがけず破格な時間を得たウィルは、その時間を利用して、母親レイチェルを連れて「ニュー・グリニッジ」へと向かうことを決意。
116年以上もの時間があればタイムゾーンを越えることも容易ですし、何よりこのまま「スラムゾーン」にいれば、死んだハミルトンのごとく自身の時間どころか生命まで狙われるのは必至です。
その決意を友人のボレルにのみ告げ、彼に10年の時間を分け与えた後、彼は母親がいつも仕事のために乗降しているバスの停留所で母親を待つことになります。
ところがその母親は、家のローンを支払っていざバスに乗ろうとしたところ、それまで1時間だったバスの乗車料金が2時間に跳ね上がったという事実に直面することになります。
彼女の「ボディ・クロック」に残された時間はわずか1時間30分程度しかなく、しかも仕事場から家までは歩いて2時間以上もかかる距離にあるのです。
全く思いもよらぬ形で突然死の危機に直面する羽目になった母親は、必死になって家へと向かって走り始めます。
そして一方、バス停で母親を待っていたウィルも、母親が乗車しているはずのバスに母親が乗っていないことに気づき、母親の仕事場へと一目散に走り始めます。
そして2人は互いの姿を確認することになり、互いの元へと更に全力で走り寄るのですが、僅か1秒の差で母親はタイムアウトを迎えてしまい、そのまま帰らぬ人となってしまうのでした。
母親の理不尽な死に怒りを覚えずにいられなかったウィルは、母親を殺した時間システムそのものを作った富裕層に復讐すべく、単身で「ニュー・グリニッジ」へと向かうのですが……。

映画「TIME/タイム」は、全人類の不老が常態化し、かつ時間を通貨とする斬新な設定を導入しているのですが、他ならぬ映画の製作者達自身がこの斬新な設定に不慣れなためなのか、作品設定および作中描写の各所でツッコミどころが頻発していますね。
たとえば作中では、コーヒー1杯が3分から4分に、バスの運賃が1時間から2時間に、それぞれ上昇しているという描写があります。
実はこういった作中で明示されている物価から、日本円に換算した作中世界の物価基準というのものが推測可能だったりするんですよね。
コーヒー1杯の値段を基準にして考えると、現代日本のドトールコーヒーやスターバックスで売られている一番安いコーヒーがだいたい200~300円で、マクドナルドのコーヒーになると100円で購入できたりもしますよね。
これから考えると、作中世界における時間1分は、日本円に換算するとだいたい25円~100円の間、といったところになります。
これをバスの運賃に適用すると、料金1時間の場合は1500~6000円、2時間の場合は3000~1万2000円の間となるのです。
コーヒー1杯とバスの運賃でこれほどまでの価格差が発生する、などということが果たしてありえるのでしょうか?
しかも、作中で提示されたバスの運賃はあくまでも「片道」だけのものでしかない上、母親がいつも乗降しているバス停の区間は人間の足で2時間程度の距離であることが明示されていることから、せいぜい8~10km程度しか離れていないことが分かります。
高速バスでもない普通一般のバス利用でこの料金設定って、あまりにもボッタクリ過ぎなのではないかと。
ちなみに、他に作中や公式サイトなどで明らかになっている「スラムゾーン」における料金設定としては、1ヶ月の家賃が36時間(5万4000~21万6000円)、1ヶ月の電気代が8時間(1万2000~4万8000円)、公衆電話の利用料が1分(25~100円)となっています。
作中では「物価が上がり続けている」という設定が幅を利かせていますから、その影響で全体的に費用や物価が割高になっている部分もあるのでしょうが、それを考慮してさえもバスの運賃はあまりにも突出し過ぎています。
第一、こんなにバスの利用料金が高いと、そもそも「バスを利用して移動時間を短縮する」という意味自体がなくなってしまいますし、「時間が通貨の代わりになる」という作品世界のルールを考えれば、それはなおのこと大きな問題とならざるをえないでしょう。
市内の移動レベル程度であれば、バスよりも自転車を使った方が却って時間(兼カネ)もかからない、ということにもなりかねないのですから。
母親を殺すだけのために作り出したバランスを欠いた料金設定、としか評しようがないですね、これは。

また、ハミルトンから116年以上の時間を貰ったウィルは、そのことで時間監視局(タイムキーパー)にハミルトン殺害容疑をかけられ逮捕されてしまいます。
これに対しウィルは、時間監視局員であるレオンに対し「これはハミルトンから貰ったもので、彼は自殺したがっていた」と事実に基づいた釈明をしているのですが、レオンは「そんなことあるわけないだろ」と全く信じることなく、彼から時間を奪い部下に連行するよう命じていました。
これから分かるのは、「ボディ・クロック」のタイムアウトで死んだ人間の「本当の死因」を調べる術が作中の世界では全く確立されていない、という事実です。
つまり、タイムアウトで死んだ人間は、自身の持ち時間がなくなり自然に死んだケースと、他人から時間を奪われ殺されたケースの2種類が考えられるのに、そのどちらであるのかを第三者が正確に判断するための方法がない、ということです。
これは非常に恐ろしいことで、たとえば「スラムゾーン」では、タイムアウトになって路上で死んでいる人間の描写がしばしば映し出されているのですが、作中における「スラムゾーン」の人達のそういった死は全て「自然死」扱いされていました。
しかしひょっとすると、実は彼らは自然に亡くなったのではなく「誰かに時間を奪われて殺されその辺に転がされていた」可能性だってありえるわけです。
作中でも、ギャングがひとりの人間の時間を全て奪って殺してしまった描写が展開されていましたし。
他人の時間を奪って人を殺したとしても、それが殺人事件として扱われることがない。
これでは「時間強盗&殺人やり放題」の世界が現出することにもなりかねません。
凶器を全く使うことなく殺人が可能、というだけでも一般人にとっては脅威そのものなのですし、犯罪捜査も難航を極めるのは必至というものです。
特に「スラムゾーン」なんて【平均余命23時間】が当たり前の世界な上、ギャングが大手を振ってのさばっているところや時間監視局員に対する住民の態度を見ても、一般的な警察機構すら満足に機能していないことが一目瞭然なのですから。
そして一方、116年以上もの時間を所持していたハミルトンは、真相は自殺だったにもかかわらず「殺害された」と一方的に決め付けられ、ウィルは不当逮捕される羽目になったわけです。
治安維持という観点から言えば、「ボディ・クロック」のシステムには【完全犯罪を誰でも可能にしてしまう】という致命的な欠陥があり、またタイムアウト問題に対する調査能力が皆無に等しく勝手な判断で捜査を行っている時間監視局は、役立たずどころか有害な存在ですらあると言っても過言ではありません。
この辺りの問題を改善しないと、いつタイムアウトを利用されて完全犯罪的に殺されるやら知れたものではない「ボディ・クロック」なんて、権力者や富裕層ですらも危なっかしくてとても使用できたものではないと思うのですが。

あと、「スラムゾーン」の人間と似たり寄ったりな水準の時間割り当てを、時間監視局の構成員にまで同じように適用するのは正直どうかと思わずにはいられませんでした。
一応作中では「時間を奪おうとする人間を失望させるため」と説明されていましたが、時間に余裕がない構成員達は、当然のごとく常に時間に追い立てられるような現場捜査や犯人追跡などといった苛酷な仕事を強要されることにもなりかねないのですが。
ただでさえ有害無益な上に「スラムゾーン」の住民から反感を買われている時間監視局の構成員達を、さらに崖っぷちに追いやるような待遇にして一体どうしようというのでしょうか?
いつどこでどんな事件やアクシデントに遭遇するかも分からない彼らには、むしろ常に余分に時間を持たせるようにしておかないと、作中のレオンのように「犯人を追い詰めている最中にタイムアウトで死亡」などという自爆的な結末を迎えてしまうことにもなりかねないでしょうに。
まあ同じことは主人公ウィルにも言えることで、銀行を何度も襲って時間を奪い義賊的に時間を民衆にバラ撒くのは良いとして、何故自分(とヒロインのシルビア)の残り時間にもう少し余裕を持たせないのか、とツッコミを入れずにいられなかったところです。
どんな不測の事態が起こるのか分からないのですし、「自分は1日しか時間を残しておかないんだ」などという変なプライドを固持していないで3日~1週間程度の時間を常に自分達の手元に残しておくだけでも、あれだけ切羽詰まった局面は回避できたというのに。

作品的にはアクションやSF的な描写を売りにしているのでしょうし、純粋にアクション映画として観るのであれば観客的にはそれなりに楽しめるのではないかと。
ただ、公式サイトを見た限りでは「斬新な設定」を売りにし「時間の価値」を観客に問いかけたいなどと語っているらしい映画制作者達としては、上記のような設定問題についてどう考えているのかなぁ、と。

映画「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」感想

ファイル 538-1.jpg

映画「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」観に行ってきました。
2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件で亡くなった父親が残した鍵の謎を追い、ニューヨーク中を駆け巡る息子オスカーと彼に関わる人々を描いた感動の物語。
原作は、2005年にアメリカ人作家ジョナサン・サフラン・フォアが出した小説「Extremely Loud and Incredibly Close(この日本語訳が今作のタイトル)」とのこと。

2001年9月11日に起こったアメリカ同時多発テロ事件。
物語は、同事件のワールド・トレード・センター(WTC)への飛行機特攻テロに巻き込まれ犠牲となった、今作の主人公オスカー・シェルの父親で宝石商だったトーマス・シェルの葬儀の場面から始まります。
WTCの倒壊により遺体の回収すらもできなかったトーマスの葬儀は、当然のことながら空の棺で行われることになったのですが、父親を尊敬し親子関係として以上に慕っていたオスカーは、そのような葬儀を行った母親リンダ・シェルに対し「そんなことをして何の意味があるんだ!」と怒りをぶつけまくります。
トーマスはオスカーの繊細で人見知りな性格を是正させることをひとつの目的に、「調査探検」と呼ばれるゲームを行わせていました。
それは、ニューヨークにかつて存在したという第6区がどこにあるのか探すというもの。
オスカーがこのゲームを遂行するためには、街の見知らぬ人達に聞き込みなどを行わなければならず、父親はそれで人見知りの性格が是正できると考えたわけです。
しかし、その「調査探検」の最中、父親は仕事の取引でたまたま居合わせていたWTCで同時多発テロ事件に巻き込まれ、帰らぬ人となってしまいます。
事件から月日が経ってもなお、父親の死を素直に受け入れられないオスカーは、ある日、テロ事件以来入ることが出来なかった父親の部屋へ入り、父親との思い出の品がないか探し始めます。
そしてクローゼットを調べていた際、クローゼットの上に置かれていた青い花瓶を落として割ってしまいます。
ところが、粉々に割れてしまった青い花瓶の中から古い封筒が出てきたのです。
封筒の中にはひとつの鍵が入っており、これは「調査探検」における父親からの何かのメッセージなのではないかとオスカーは考えます。
鍵屋で件の鍵について調べてもらったところ、鍵は貸金庫などで使われていた、20~30年近くも前のものであることが判明。
鍵の調査結果を知り、店から去ろうとするオスカーでしたが、店主はオスカーを呼び止め、封筒の左上に「black」の5文字があることを指摘します。
改めて店主に礼を述べ、今度こそ自宅へと帰ったオスカーは、「black」が人名であろうと考え、ニューヨーク市中のブラック姓の人をしらみ潰しに探し出すことを決意します。
ニューヨーク市内でブラック姓を持つ人は、総計実に472人。
オスカーはその全員と会い、父親と鍵のことについて尋ね回る計画を考え、実行に移すこととなるのですが……。

アメリカの同時多発テロ事件を扱った映画作品としては、2004年公開映画「華氏911」、2006年公開映画「ユナイテッド93」「ワールド・トレード・センター」などが挙げられます。
「華氏911」は事件における当時のブッシュ政権に対する批判的な内容で、「ユナイテッド93」はハイジャックされたユナイテッド航空93便を、「ワールド・トレード・センター」はWTCの現場における救助隊の視点で、それぞれ構成されている作品です。
この中で私が観賞した映画は「ワールド・トレード・センター」ですね。
物語序盤でWTC崩落に巻き込まれ、瓦礫の中に閉じ込められた主人公含めた救助隊員達が、一部は生命を落としつつも、終盤に助けられるまで互いに励ましあいながら苦難を乗り切るという話でしたが、ドラマ性よりもむしろそのあまりにも地味な構成で逆に印象に残った作品でした。
そして、同じ事件を扱った作品としてこれらの映画と肩を並べることになる今作「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」は、テロ事件で犠牲となった被害者の家族にスポットを当てているわけです。
過去の3作品が全て実話を元に製作されたノンフィクションであるのに対し、今作は実在の事件をベースにしつつも、物語そのものはあくまでもフィクション上のエピソードで構成されています。
実話を元にしているが故に実話に束縛されざるをえなかった過去作ではなかなか取り入れられなかった「フィクションならではの人間ドラマ性」を積極的に活用しているという点では、今作がダントツのトップではあるでしょうね。

映画「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」では、実の親として以上の尊敬の念を父親トーマスに対して抱いていた息子オスカーが、父親の残滓を追い、記憶に残すために奔走する様が描かれています。
オスカーがそのような方向へと突き進む理由としては、父親が自分に残してくれた謎なりメッセージなりを見たいという好奇心も当然あったでしょうが、それ以上に「好きだった父親のことを忘れてしまうことに対する恐怖心」があることが、オスカー自身のモノローグで語られています。
しかし物語が進んでくると、オスカー曰く「最悪の日」こと同時多発テロ勃発の日におけるオスカー自身の行動が「父親に対する原罪的な負い目」になっており、それが彼を「調査探検」にのめりこませていることが分かってきます。
あの日、オスカーの自宅には、WTCの106階にいたらしい父親から総計6回の電話がかかっており、自宅には誰もおらず5回までは自動的に留守電となってしまいます。
しかし最後の午前10時27分着信となる6回目は、テロ事件の影響で授業が全て中止となり学校から早退させられ帰宅していたオスカーが電話を取ることが充分に可能だったにもかかわらず、彼は恐怖心のためか、その電話を取ることができませんでした。
結果、父親は再び留守電に切り替わった電話に最後のメッセージを入れ、その直後にWTCが崩壊してしまったんですね。
つまり、オスカーは父親の最期の瞬間に電話越しで立ち会っていながら、父親と最期の会話を交わすチャンスを自分から永遠に捨て去ってしまったわけです。
これがただでさえ繊細な上に父親のことを誰よりも慕っていたであろう少年にとって、相当なまでの精神的ショックとなったであろうことは想像に難くありません。
オスカーが「調査探検」に必死になっていたのは、父親に対する彼なりの贖罪意識と後悔も多大にあったのではないかと。

そして一方、空の棺で父親の葬儀を行った母親リンダに対しては少なからぬ反感と隔意を抱いており、特に物語序盤では母親に当り散らしたり、母親を邪険にする態度がとにかく前面に出ていたりします。
リンダも母親として息子のことを案じてはいるのですが、オスカーはそのような母親の言動に不快感を覚え衝突するばかりで、挙句の果てには本人の目の前で「ママがあのビルの中にいれば良かったのに!」とまで言い放つ始末。
この辺りの描写は、息子がそう言いたくなった心情および言った後に後悔する心理も、そう言われた母親のショックも、どちらも目に見えて分かるようになっているだけに、どうにもやるせないものがありましたね。
しかも「間借り人」と呼ばれる謎の老人が登場して以降になると、ただでさえ無気力感に満ちている母親はますます影が薄い存在となってしまいますし。
しかし、序盤から中盤におけるこの手の母子のギスギスしたやり取りや演出は、実はラストに向けての大いなる伏線でもあったりします。
このラストにおける一種の大どんでん返しは、ただそれだけでこの作品を傑作たらしめると言っても過言ではないくらいの威力を誇っています。
現実にも充分に起こりえることで、それでいて間違いなく子供が親の愛情を感じ取ることが出来るエピソード。
これこそが、この作品が観客に声を大にして訴えたかったことなのであろう、とすらついつい考えてしまったものでした。

今作はテーマがテーマということもあり、アクション映画のような派手さや爽快感などは皆無ですが、人間ドラマとしては充分に見応えのある作品です。
主要登場人物全てに何らかの感情移入をすることが可能な構成にもなっていますし、特にラストの演出は多くの人が感動するであろう秀逸な出来に仕上がっています。
老若男女を問わず、多くの人に是非観てもらいたい映画ですね。

映画「ドラゴン・タトゥーの女」感想

ファイル 534-1.jpg

映画「ドラゴン・タトゥーの女」観に行ってきました。
スウェーデンの作家スティーグ・ラーソンによるベストセラー小説「ミレニアム」三部作のうち、同名タイトルの第一部を実写映画化したハリウッド版リメイク作品。
この映画、SM強姦やレイプにフェラチオ、アナルセックスなど、15禁どころか18禁指定すらされてもおかしくないレベルのセックス描写がしばしば登場する上、ネコの惨殺体などというグロ映像まで飛び出してくる念の入れようで、当然のことながらR-15に指定されています。
すくなくとも一般向けに公開されているはずの映画で、間接的に性行為を匂わせる濡れ場シーンならともかく、モザイクまでかけられるレベルの露骨なセックス描写なんて、私は今までお目にかかったことがなかったのですけどね。
もちろん、それらは作中のストーリーを構成する重要なパーツではあるのでしょうが、それにしても大胆な描写をしているなぁ、と(^_^;;)。
ちなみに私は、原作は全て未読で、またスウェーデンで先に実写化されたという映画も未視聴の状態で今作に臨んでいます (^^;;)。

物語は、謎の老人の元に、年1回必ず送られてくるという謎の郵送物?に対し、呪詛に満ちた呟きをこぼすところから始まります。
そこから物語は一旦中断し、今時の映画では珍しいオープニングテーマに入るのですが、予告編でも流れていたものでありながら、改めて聴いてもこの音楽はなかなか良いものでしたね。
オープニングテーマが終了した後、物語のスポットは、今作の主人公のひとりであるミカエル・ブルムクヴィストに当てられます。
彼は、月刊誌「ミレニアム」の敏腕ジャーナリスト兼発行責任者兼共同経営者で、スウェーデンの大物実業家のハンス=エリック・ヴェンネルストレムの不正を暴露する記事を書いたものの、そのことで逆に名誉毀損で訴えられた挙句、裁判で有罪判決を受けてしまい、それまでの貯蓄全てを失うレベルの賠償金の支払いまで課せられるという事態に陥っていました。
彼の敗訴と、不正を書かれたヴェンネルストレムによる報復的な圧力によって、月刊誌「
ミレニアム」は大きな危機に直面していました。
敗訴のショックもあり、また「ミレニアム」に負担をかけないようにする配慮も手伝って、雑誌の編集長であるエリカ・ベルジェに一線を引くことを告げるミカエル。
ここで2人は妙に親しげかつ肉体的な接触も含めたスキンシップ行為を行い、この2人がただならぬ関係にあることが観客に明示されます。
そんな彼の元に、冒頭に登場した老人、大財閥ヴァンゲル・グループの前会長ヘンリック・ヴァンゲルと、ヘンリックの顧問弁護士であるディルク・フルーデから、スウェーデンのヘーデスタまで来て欲しいとの連絡を受けます。
不審に思いながらもヘーデスタへとやって来たミカエルは、そこで表向きはヘンリックの評伝を書くという名分で、40年前に起こった親族のハリエット・ヴァンデルの失踪事件について調査して欲しいと依頼されることになります。
初めは嫌な顔をするミカエルですが、ヘンリックはミカエルに対し「ミレニアム」にいた当時の給与の2倍の金を毎月支給する、成功すれば4倍出すという金銭的な優遇条件を提示し、さらにミカエルを失墜させる元凶となったヴェンネルストレムの不正の証拠をも提供すると持ちかけます。
ここまで言われてはミカエルもさすがに承諾せざるを得ず、かくしてミカエルの事件捜査が始まるのでした。

一方、ヘンリックはミカエルに失踪事件の洗い直しを依頼するのに先立ち、ミカエルの身辺調査をミルトン・セキュリティーに依頼していました。
それに応じてミカエルの身辺調査を実地で行い、彼の秘密の何から何まで把握し尽した人物が、今作のもうひとりの主人公であるリスベット・サランデル。
彼女は、鼻と眉にピアスを付け、左の肩から腰にかけてドラゴンのタトゥーを彫りこんでいる非常に変わった女性で、過去の経歴が理由で責任能力が認められない精神的不適応という診断を受けた挙句に後見者をつけられていたりします。
ある日、彼女が自身につけられた後見人であるホルゲル・パルムグレンの元へ帰ってみると、彼が自宅の部屋で倒れているのを発見。
彼はすぐさま病院に収容されるのですが、脳出血で半ば廃人同然の状態となってしまい、リスベットの後見人から外されてしまいます。
そして、新しくリスベットの後見人となったニルス・エリック・ビュルマンは、リスベットを精神異常者だと決めつけ、自身の権限にものを言わせて彼女の財産を全て自分で管理すると宣言します。
これに反発するリスベットでしたが、後見人であるビュルマンに逆らうことはできません。
そしてビュルマンは、その地位とカネを餌にしてリスベットに性的な要求まで行うようになるのですが……。

映画「ドラゴン・タトゥーの女」は、ストーリーのジャンル的には一応推理系ミステリーに属するはずなのですが、原作はともかく、すくなくとも今回の実写映画版ではその部分があまりにも描かれていない感じがありますね。
物語の中核を構成しているハリエットの失踪事件には当然容疑者がおり、重要人物であるはずの彼らは序盤で一通り紹介されてはいくのですが、しかし彼らは物語全体を通じて、真犯人を除きほとんど主人公2人と接点がないんですよね。
名前だけ紹介されたものの、初登場するのがようやく物語中盤頃、という人物までいましたし。
40年前の事件を扱っていることもあり、また既に故人となっている人物もいることから、事件当時の資料漁りがメインになっているという事情もあるにせよ、ロクに描写がないために容疑者の名前をマトモに覚えることすら困難を極めるありさまでした。
物語後半で判明した真犯人ですら、正体が分かるまでほとんど印象に残っていなかったくらいでしたし。
しかも序盤から中盤にかけては、どちらかと言えば主人公2人の軌跡を追っていくストーリーがメインで展開されていた上、2人が邂逅を果たすまでかなりの時間がかかることもあって、さらに容疑者達の存在はストーリーの流れから置き去りにされてしまっています。
真犯人が判明する後半になるとさすがに事件の全体像はおぼろげながらも見えてくるのですが、あまりにも真犯人以外の容疑者達の存在感も印象もなさ過ぎるというか……。
何と言うか、原作小説を予め読んでいるのが最初から前提の上でストーリーが展開されているようにすら見えますね、この映画って。
同じ原作未読のミステリーでも、映画「白夜行」「麒麟の翼」などは、事件関係者達の存在感も相互関係も素直に理解できたものなのですけどねぇ……(-_-;;)。

一方で、主人公2人を取り巻く人間関係については、メインと言って良いくらい濃密に描かれていることもあって、かなり分かりやすい上にインパクトも多々ありますね。
中でも凶悪なまでに印象に残ったのは、リスベットに最初にカネを請求してきた際にはフェラチオを要求し、2度目はベットに縛り付けてアナルセックスまでやってのけ、当然のごとく逆襲されて惨めな敗残者にまで落ちぶれ果てたビュルマンですね。
彼は自業自得とはいえ、リスベットに強姦現場の動画をネタに脅迫された上、「私は強姦魔の豚野郎です」という刺青まで彫られてしまいましたし。
リスベットのみならず、映倫にまで挑戦状を叩きつけるかのごとき彼の「勇猛果敢な行為」は、ただそれだけで歴史に名を残せるものがあります(苦笑)。
まあリスベットの方も、ミカエル相手に騎乗位セックスを作中2度にわたって繰り広げ、しかもその内1回はモザイク付という、なかなかどうしてビュルマンと互角以上に渡り合えるだけの「戦歴」の持ち主ではあるのですが(爆)。
というかリスベットにヤられたミカエルも、エリカという別の女性と既に関係が深いのに、強引に押し倒された1回目以降も何故リスベットと肉体関係を持ち続けているのか、正直理解に苦しむところではあるのですが。
そのミカエルとエリカの関係も、世間一般では「不倫」と呼ばれる行為に該当する(エリカは既婚者で夫が生存している)わけで、この作品の登場人物は揃いも揃って、良くも悪くも倫理観という言葉とは全く無縁ですね。
今作は三部作の第一部とのことですから、当然人気と予算が許す範囲において第二部以降の続編も製作されることになるのでしょうが、この倫理観の崩壊っぷりもより強烈に反映され続けることになるのでしょうかねぇ。

R-15指定ですら裸足で逃げ出したくなるレベルのセックス&残虐描写が延々と続くので、その手の描写が嫌いな方にはとてもオススメできる作品ではないですね。
また前述のように、原作を何も知らない状態で今作を観賞する場合、特に失踪事件絡みの容疑者達の人間関係を理解するのにかなりの困難が伴います。
その点では「原作ファンのための作品」というのが妥当な評価ということになるでしょうか。

映画「逆転裁判」感想

ファイル 532-1.jpg

映画「逆転裁判」観に行ってきました。
2001年に発売されて以降シリーズを重ね、累計で400万本以上の売上を記録し、以後の法廷・弁護士ドラマにも影響を与えたと言われる、カプコンから発売された同名の法廷バトルゲームの実写化作品。
ちなみに原作ゲームは全て未プレイです(^^;;)。
Wikipediaで調べたところによると、映画のストーリーは原作ゲームの「1」をベースにしているみたいですね。

物語は何故か、霊媒師と思しき女性が、おどろおどろしく祈祷をしている場面から始まります。
自身に霊?を乗り移らせ、何かをしゃべらせようとするところで、舞台は急に切り替わり、主人公の新米弁護士・成歩堂龍一(なるほどうりゅういち)が弁護をしている法廷の場へと移ります。
成歩堂龍一は、とある殺人事件で自身の幼馴染である矢張政志(やはりまさし)にかけられた殺人容疑を晴らすべく、序審裁判で検事とのバトルを繰り広げていました。
序審裁判とは、起訴された被告が「有罪なのか無罪なのか」についてのみを、検事と弁護士による最長でも3日以内の直接対決で結審する序審と、有罪の場合のみ量刑などについての審議を行う本審に裁判過程を分ける制度を指し、原作ゲームおよび今作特有のオリジナルとなるシステムです。
何でも、増加する犯罪に対して迅速に対応できることを目的とした制度なのだとか。
その序審裁判で矢張政志の弁護を続ける成歩堂龍一は、しかし検事側の反撃で返答に窮してしまい、まさにギブアップ寸前にまで至ろうとしていました。
そこへ颯爽と登場し、被告の無罪を100%証明するだけの証拠を突きつけ、裁判の流れを逆転させたのは、成歩堂龍一の上司で良き理解者でもある綾里千尋(あやさとちひろ)でした。
結果、矢張政志は裁判官から見事に無罪を獲得することに成功します。

晴れて法廷から出てきた矢張政志は、無罪判決を獲得したお礼にと、綾里千尋に自作の「考える人」を模した時計型置物をプレゼントします。
この置物は頭の部分がスイッチになっており、スイッチを押すことで時刻を教えてくれるというシロモノでした。
困惑しながらも置物を受け取った綾里千尋はその後、どこかの資料室で資料を漁っている姿が映し出され、目的のブツらしきものを見つけて走り出しながら、「近いうちに大きな裁判をやることになるから明日の夜に来て欲しい」と成歩堂龍一に連絡します。
翌日、その呼び出しに応じて綾里千尋の事務所を訪ねた成歩堂龍一は、しかしそこで頭から血を流して死んでいる綾里千尋の撲殺体を発見することになってしまうのでした。
しばらく呆然としている中、まるでタイミングを図ったかのように事務所へやってきて成歩堂龍一に拳銃を向ける警官達。
成歩堂龍一はうろたえながらも「俺は犯人じゃない」と主張しますが、拳銃を突きつけている刑事は「お前が目的じゃない」と視線を別のところへと向けます。
そこで初めて成歩堂龍一は、遺体の近くでへたり込んでいた女性の存在に気づくのでした。
撲殺された綾里千尋は、手に持っていた紙に「マヨイ」という3文字のカタカナをダイイングメッセージとして残しており、かつへたり込んでいた女性の名前は綾里真宵(あやさとまよい)。
当然、彼女は事件の第一容疑者として警察に逮捕されてしまいます。
しかし成歩堂龍一は、無実を主張する綾里真宵の言を信じ、序審裁判での彼女の弁護を引き受けるのでした。
ところが、いざ法廷へと向かう成歩堂龍一は、自分と対決することになる検事を見て驚きの声を上げます。
それは矢張政志と同じ幼馴染で、かつては弁護士になるという将来の夢を語り合っていた御剣怜侍(みつるぎれいじ)だったのです。
御剣怜侍は、被告を有罪にするためならば手段を問わない、若いながらも敏腕検事としてその名を轟かせていました。
何故彼は、弁護士とは全くの正反対の検事になったのか?
疑問が尽きないまま、成歩堂龍一は綾里真宵の無罪を勝ち取るため、かつての幼馴染との直接対決の舞台に立つこととなるのですが……。

映画「逆転裁判」では、どう見てもギャグコメディを意図して製作されているとしか思えない演出が多々ありますね。
そもそも髪型と各主要登場人物の名前からしてギャグそのものですし(笑)。
主人公格である成歩堂(なるほどう)と矢張(やはり)以外にも、糸鋸(いとのこぎり)、大沢木(おおさわぎ)、狩魔(かるま)、生倉(なまくら)など、当て字以外の何物でもない苗字が続々と登場しますし。
髪型も静電気でも浴びているかのように横に突っ張っていたり、結い上げ過ぎて頭が伸びていたり、銀髪だったりと、とにかくあらゆる意味で特徴的なシロモノだったりします。
他にも、主人公が素っ頓狂な言動をカマしたり、それを受けて被告・検事・傍聴席の人間が一斉にズッこけるシーンがあったりと、コメディっぽい描写が満載です。
ただ、これらの描写は原作からの延長でもあるでしょうし、かつ原作では大いにウケたのでしょうけど、実写化されたものを観た限りでは、笑いよりもむしろ「寒い」と感じずにはいられなかったところですね。
笑いという点では、この間観賞した映画「ジョニー・イングリッシュ 気休めの報酬」の方がはるかに上手かったですし。
原作キャラクターの造形や描写を忠実に再現すること自体は悪いものではないでしょうが、映画「逆転裁判」の場合、それが実写化に合致したものだったのかはかなり微妙なところですね。

また、主人公が被告の無罪を立証するのに際し、検事から反論されると言葉に詰まったり返答に窮したりする描写が結構あるんですよね。
主人公は「新人の弁護士」という設定ですから、まだ弁護慣れしていないという事情もあるのでしょうけど、あまりにも頼りないイメージが前面に出ていました。
逆に決定的な証拠を突きつけて無罪を立証する場面では、ほとんどノリノリで弁術を繰り広げており、素晴らしく頼りになる弁護士であるかのように見えるんですよね。
この2つのギャップがなかなかに面白かったです。
しかし物語後半、検事側の反撃に窮するあまり、オウムのサユリさんを証人?として証言台に立たせた(設置した?)シーンなどは、さすがに「正気か?」と疑わざるをえないところでした。
証人どころか、そもそも「人」ですらないですし(爆)。
検事側も「証人としての適性を欠いている、というか適当すぎるだろ!」と吠えていましたが、思わず頷いてしまったものでした (^^;;)。
というか、よくオウムを証人(証鳥?)にすることを裁判官が認めましたね。
結果的には、そのオウムの囀りから事件のカギとなる意外かつ重要な事実が出てきたのですが、「結果良ければ全て良し」で片付く問題じゃないだろう、と。

ストーリー構成的に気になったところでは、作中で弁護側が被告の無罪を立証する際、「現状では被告が有罪なのか無罪なのか分からない」「被告には無罪の余地がある」という段階になってもなお、必死になって無罪を立証しようとしていたことですね。
実は実際の刑事裁判では、そういった段階にまで到達できれば、それは100%の「被告&弁護士の勝利」となります。
何故なら、裁判というのは本来「被告が有罪か無罪かを判断する場」でなければ「被告を有罪にしたり量刑を考えたりする場」でもなく「被告の有罪を立証しようとしている検察を裁く場」だからです。
検察が挙げている証拠が合法的に採取されたものなのか、検察が被告を有罪とする論拠は確かなものなのか、検察が出してきた証人は果たして本当のことを述べているのか……。
裁判とは、検察側が掲げる様々な証拠や証人の数々について上記のように審議する場なのであり、検察が被告の有罪を立証するためには、自分達の主張が100%全て正しいものであることを証明しなければならないのです。
裁判では「疑わしきは被告人の利益に」という言葉もあり、すくなくとも理念上では「被告が無罪になる余地は全くない」という状況にならないと被告は有罪になりません。
たとえ、検察側の主張が99.999…%と「限りなく100%に近い確率で正しい」ものであったとしても、それは「100%そのもの」ではないので、検察の主張には0.000…1%の穴があるということになり、それでは「検察は被告が100%有罪であることを立証できない」ことになってしまうのです。
当然、被告は裁判では無罪になります。
裁判がそのようなシステムになっているのは、検事が行政に属しており、裁判官は司法の一員としてのチェックを担うことでその暴走を防ぐという三権分立の理念に基づいているためで、そのため裁判官は公正ではあるべきだが中立であってはならず、あくまでも「被告の味方」でなければならないとされています。
よって、「現状では被告が有罪なのか無罪なのか分からない」という状況では、検察の主張には(無罪の余地があるだけでもダメなのに)50%もの大穴があることになり、弁護側はこの時点で被告の無罪を獲得することが可能となるのです。
この状況では、必死にならなければならないのはむしろ検事側でなければならないはずなのですが、作中ではむしろ検事側の方が余裕な態度を見せ、弁護側が追い詰められているような表情を見せているんですよね。
それは話が逆だろ、とは思わずにいられなかったのですが。

裁判で扱っている事件そのものはシリアスなもので、事件の真相もミステリー的な手法で解明されていくのですが、原作に似せようとする努力が一種のコメディっぽくなっているため、シリアス要素とコメディ要素の一体どちらを重視して映画を製作したのか、いささか判断に迷うところですね。
原作ゲームは2012年2月時点で4作目+αまで製作されているようですし、映画の興行次第では続編もありそうなのですが、果たしてどうなることやら。

映画「はやぶさ 遥かなる帰還」感想

ファイル 531-1.jpg

映画「はやぶさ 遥かなる帰還(以下「遥かなる帰還」)」観に行ってきました。
2003年5月9日に打ち上げられ、2010年6月13日にサンプルを地球に投下して消滅した、小惑星探査機「はやぶさ」とその開発・運用に関わった人々の実話を元に製作されたドラマ作品。

小惑星探査機「はやぶさ」に関する行程やトラブル発生などは、同じ「はやぶさ」をテーマに製作され、去年劇場公開された映画「はやぶさ/HAYABUSA(以下「HAYABUSA」)」とほぼ同じです。
ただ登場人物については、モデルとなった実在の人物はいるものの、「HAYABUSA」も「遥かなる帰還」も全く異なる架空の名前が使われているため、名前で登場人物の役割を照合しようとすると混乱を来たすかもしれません(^^;;)。
私も最初、「HAYABUSA」の人物設定をそのまま「遥かなる帰還」にも当てはめようとしてしまい、「アレ? こんな名前の人いたっけ?」と一瞬戸惑う羽目に(-_-;;)。
幸い、役職名の方はどちらもほぼそのままだったので、「ああ、この人物はあの役職を務めているのか」という形で、登場人物達が担っている立場や役割はすぐに頭の中に入ってきましたが。
ちなみに「HAYABUSA」および「遥かなる帰還」に共通で登場する、モデル元とおぼしき実在の人物および配役を演じたキャストは、私が調べた限りではだいたい以下のようになっているようですね↓

実在のモデル:川口淳一郎(「はやぶさ」のプロジェクトマネージャー)
HAYABUSA:川渕幸一(キャスト:佐野史郎)
遥かなる帰還:山口駿一郎(キャスト:渡辺謙)物語の主人公

実在のモデル:西山和孝(「はやぶさ」のイオンエンジン担当&運用スーパーバイザー)
HAYABUSA:平山孝行(キャスト:甲本雅裕)
遥かなる帰還:藤中仁志(キャスト:江口洋介)

実在のモデル:國中均(「はやぶさ」のイオンエンジン担当)
HAYABUSA:喜多修(キャスト:鶴見辰吾)
遥かなる帰還:藤中仁志(キャスト:江口洋介)

実在のモデル:堀内康夫(「はやぶさ」のイオンエンジン担当NEC)
遥かなる帰還:森内安夫(キャスト:吉岡秀隆)

実在のモデル:山田哲哉(「はやぶさ」のカプセル担当)
HAYABUSA:福本哲也(キャスト:マギー)
遥かなる帰還:鎌田悦也(キャスト:小澤征悦)

実在のモデル:的川秦宣(「はやぶさ」の広報担当)
HAYABUSA:的場秦弘(キャスト:西田敏行)
遥かなる帰還:丸川靖信(キャスト:藤竜也)

※取消線と青字部分は間違いとの指摘を受けましたので修正しております。

そして人間ドラマに関しては、当然のことながら「HAYABUSA」と「遥かなる帰還」でその見せ方も大きく異なっていますね。
女性平スタッフの視点および「はやぶさ君の冒険日誌」を用いることで、「子供にも理解させること」に重点を置いたストーリー進行だった「HAYABUSA」。
それに対して「遥かなる帰還」は、どちらかと言えば「大人が楽しむこと」を目的としたストーリー構成となっています。
小さな町工場を運営し、「はやぶさ」の試作品を製作した実績を持ちつつも、不況による経営悪化のために従業員が自主的に辞めていった東出機械の社長絡みのエピソードなんて、どう見ても子供向けではありませんし。
一方、人間ドラマ絡みでどちらにも共通して存在したエピソードとしては、「はやぶさ」のプロジェクトマネージャーが神社で「はやぶさの帰還」を祈願し、「はやぶさ」の管制室にお守りだかお札だかを祭るシーンですね。
このエピソードにある神社のモデルは岡山県の中和神社なのだそうで、「はやぶさ」のプロジェクトマネージャーだった川口淳一郎が2009年11月にこの神社を参拝していたことが、地元の地方紙である山陽新聞で報じられていたのだとか。
2012年3月に公開予定の、これまた「はやぶさ」をテーマとして扱っている映画「おかえり、はやぶさ」にも、このエピソードは普通に入っていそうですね(苦笑)。

今作のハイライトとしては、やはり主人公である山口駿一郎を演じた渡辺謙の演技が挙げられますね。
登場する場面の数々でやたらと貫禄がある演技を披露していましたし、「はやぶさ」が行方不明であることを理由に協力を打ち切ろうとしたアメリカのNASAに対して、流暢な英語で「貴国がそのような態度に出るならば、我が国も(はやぶさが持ち帰るであろう)サンプルの提供を拒否する」と堂々と反撃していた様は見事の一言に尽きました。
この辺りはやはり、ハリウッドでも活躍してきた渡辺謙ならではの演技だったでしょうね。
渡辺謙のファンであれば、今作を観に行く価値はあるのではないかと。

ただ個人的には、既に観賞済みだった「HAYABUSA」と「はやぶさ」絡みの描写で重複している部分が多々あったこともあり、楽しめる部分が半減していたのは惜しい部分ではありました。
「遥かなる帰還」自体が問題なのではなく、あまり期間を置かないうちに同じ主旨の映画を立て続けに観に行った私個人の事情ではあるのでしょうけど。
来月にはさらに3本目の「おかえり、はやぶさ」が出てきますし、全く同じ主旨の作品を複数、しかも立て続けに制作・公開するのは興行的にもどうかとは思わずにいられないですね。
最初からネタとして楽しむか、あえて3つ全て観賞してその違いを楽しむといった類の嗜好でも持っているのでなければ、映画を観るのは3本のうちの1本だけで充分なのではないかと。

ページ移動

ユーティリティ

2024年11月

- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

検索

エントリー検索フォーム
キーワード

ページ

  • ページが登録されていません。

ユーザー

新着画像

新着トラックバック

Re:デスクトップパソコンの買い換え戦略 ハードウェア編
2024/11/19 from ヘッドレスト モニター 取り付け
Re:映画「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」感想
2014/11/27 from 黄昏のシネマハウス
Re:映画「プリンセストヨトミ」感想
2014/10/22 from とつぜんブログ
Re:映画「ひみつのアッコちゃん」感想
2014/10/19 from cinema-days 映画な日々
Re:映画「崖っぷちの男」感想
2014/10/13 from ピロEK脱オタ宣言!…ただし長期計画

Feed