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カテゴリー「映画観賞関連」の検索結果は以下のとおりです。

「踊る大捜査線」シリーズが劇場版映画4作目で完結

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1997年からテレビドラマとしてスタートした「踊る大捜査線」シリーズが、2012年9月公開予定の劇場版映画4作目で完結するのだそうです。

http://megalodon.jp/2011-1230-2231-03/www.cinematoday.jp/page/N0038179
>  [シネマトゥデイ映画ニュース] 1997年、テレビドラマでスタートした「踊る大捜査線」シリーズが、劇場版第4弾で15年の歴史に終止符を打つことが発表された。第4弾のタイトルは、その名も『踊る大捜査線 THE FINAL(仮題)』。昨年、『踊る大捜査線 THE MOVIE 3 ヤツらを解放せよ!』で7年ぶりにスクリーンに回帰し、ファンを歓喜させた同シリーズだが、フジテレビの映画事業局長・亀山千広は「第3弾のときから、第4弾でファイナルをと考えていた」。スクリーン回帰は、ファイナルのための序章だった。
>
>  劇場版第2弾『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』では、173億5,000万円動員1,260万人の驚異的な記録を残したシリーズが、ついに終焉を迎える。15年間、主人公の青島俊作を演じてきた織田裕二は、「最後と聞いて寂しい思いもありますが……青島15年の集大成を魅(み)せられるようにがんばります。お楽しみに!」とコメントを寄せた。

「踊る大捜査線」シリーズを巡っては、主演のひとりであるいかりや長介が亡くなったり、織田裕二と柳葉敏郎の不仲説が囁かれたりと、色々とゴタゴタがありましたねぇ。
私の場合、「踊る大捜査線」シリーズを観るようになったのは意外と遅くて、2003年公開の劇場版映画2作目「踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!」からだったりします。
テレビドラマ版と劇場版映画1作目はリアルタイムでは観ていなくて、そちらは再放送で観たクチです。
劇場版映画2作目は、当時邦画を毛嫌いしていたこともあり、数少ない邦画観賞作品のひとつとして結構印象に残っていましたね。

「官僚機構としての警察」および「現実の警察の実態」をギャグも交えて描写することで、それまでの刑事物というジャンルのあり方そのものをも完全に変えた「踊る大捜査線」シリーズ。
シリーズ完結にふさわしいストーリーと演出に期待したいものですね。

映画「聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実-」感想

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映画「聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実-」観に行ってきました。
日独伊三国同盟の締結および大東亜戦争(アメリカ命名:太平洋戦争)の開戦に反対しながら、開戦の発端となる真珠湾攻撃を決断せざるをえなかった山本五十六の足跡を描いた、役所広司主演の作品。
なお、今作が2011年における私の最後の新作映画観賞となります。

山本五十六の足跡を辿る物語は1939年の夏から始まります。
当時、日本は2年前に勃発した支那事変が泥沼化する中、ナチス・ドイツからイタリアを含めた日独伊三国同盟の締結を求められていました。
ドイツの実力に心酔していた陸軍、およびマスコミに煽られた国民世論は日独伊三国同盟の締結をすべきだと主張しますが、海軍大臣の米内光政、軍務局長の井上成美、そして今作の主人公にして海軍次官の山本五十六が断固とした反対の声を上げます。
彼らは反対派から暗殺やクーデターまで示唆されますが、それでも自らの信念を曲げることなく同盟の締結に反対し続けました。
ところがそんな折、ドイツが日本の宿敵だったソ連と突如不可侵条約を締結してしまい、当時の平沼内閣が「欧州情勢は複雑怪奇」という有名な言葉を残して総辞職。
さらに9月1日にはドイツがポーランドに侵攻を開始、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告することで第二次世界大戦が勃発します。
内閣が総辞職したことと国際情勢が激変したことで、日独伊三国同盟締結のための一次交渉は頓挫し、山本五十六らの懸念はひとまず収まりを見せました。
山本五十六は「根本的には何も解決していない」として引き続き同盟締結への動きを牽制すべく海軍次官として働きたいとの意向を示しましたが、米内光政海軍大臣は山本五十六が暗殺される可能性を懸念し、彼を安全な場所である軍艦長門の中に避難させるべく、連合艦隊司令長官に任命します。
連合艦隊司令長官に就任した山本五十六は、持ち前の持論からいずれ航空機の時代が来るとの考えから、航空戦力の充足を図るようになります。

翌年1940年5月になると、ポーランド侵攻以来軍事行動の動きを止めていたドイツが今度は西部へ侵攻。
ベネルクス三国(ベルギー・オランダ・ルクセンブルク)とフランス北部が瞬く間に制圧された上、フランス本国も6月には首都パリを占領され、ナチス・ドイツに降伏を強いられるのでした。
この報を受け、日本では再び日独伊三国同盟締結の動きが活発化。
今度も山本五十六は同盟締結に反対の意向を示すのですが、しかし今度は同じ海軍内の上層部も締結に賛成する側に回ってしまい、山本五十六に対しても海軍の方針に従うよう要求してきたため、同盟締結を止める術を断たれてしまいます。
日独伊三国同盟締結から1年の間に、アメリカとの関係は大きく悪化。
日本とアメリカの国力差を誰よりも熟知する山本五十六は、やがて「初撃で大ダメージを与えアメリカの戦意を喪失させ早期講和に持ち込む」ことを目標に、真珠湾攻撃作戦を構想し始めるのですが……。

映画「聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実-」では、ストーリーの基本的な流れは、日独伊三国同盟締結前~敗戦までの歴史を忠実になぞっており、また登場人物達の名前も当時実在していた人物の実名を使用しています。
また、陸軍省や海軍省といった当時の組織名や、大和・長門などの艦船名などもについても、史実のものをそのまま採用しています。
映画のタイトルからして「太平洋戦争70年目の真実」と銘打っているわけですし、この作品は完全なフィクションではなく、実話と実際の歴史を元に実在した人物のエピソードを語るというスタンスを最初から明らかにしているわけです。
ところが、そんなスタンスであるにもかかわらず、この作品には何故か「史実に反した架空の存在」が入りこんでいます。
それは、作中で山本五十六にしばしばインタビューを行い、作中でも「国民世論を煽っている」と評されていた「東京日報」という名の新聞社です。
作中でこの新聞社の名前が初めて出てきた時、私は「そんな新聞社が当時あったのか?」と疑問を抱かずにはいられませんでした。
しかも、いくらgoogleやwikipediaなどで調べてみても、そんな名前の全国系新聞社の痕跡は当時にも現代にも全く見当たらないんですよね。
一応googleだと「有限会社東京日報」という会社名と連絡先が書かれているページが出ては来たのですが↓

有限会社東京日報社
http://www.mapion.co.jp/phonebook/M10016/13207/21331652293/

しかしこの会社は公式サイトが全く見つからず、上記ページ内容以外の詳細は一切不明。
wikipediaにすら情報が載っていないことから鑑みても、この名前の企業が作中に登場する「東京日報」と同一の存在であるとは到底考えられません。
仮にも日本の国民世論を左右できるだけの影響力を持つ、あるいは過去に持っていた新聞社の詳細情報がWeb上に全く記載されていないなどという事態が、今の世の中で考えられるのでしょうか?
となると必然的に、作中における「東京日報」という名の新聞社は全く架空の存在である、と断じるしかないわけです。
しかしそれにしても、「太平洋戦争70年目の真実」などと銘打ち、しかも歴史的経緯や実在の人物名および組織名もそのまま採用している作品で、新聞社だけが架空の存在として登場する、というのは少々どころではなくおかしいと言わざるをえないでしょう。
しかも、この「東京日報」が作中で果たしている役割は決して小さなものではなく、史実に実在している(いた)のであれば実名を載せて然るべき存在であるはずです。
では、この「東京日報」というのは一体何物なのでしょうか?

今回の映画を製作したスタッフ達も、まさか「東京日報」という名前の全国系新聞社が当時実在していたと本気で信じていたわけではないでしょう。
作中の細々とした史実と異なり、そんなことは下手すれば小学生ですら知っている程度の知識でしかないのですから。
となると、作中の「東京日報」には元ネタがあり、何らかの理由で架空の名称を使わざるをえなかった、と考えるのが妥当なところです。
ではその元ネタとは何なのか?という話になるのですが、実のところ、「東京日報」の元ネタなんて簡単に絞り込むことが可能だったりします。
それは当時の「東京日日新聞」および「東京朝日新聞」。
前者は1943年に名称を変更した現在の毎日新聞、後者は1940年に当時の「大阪朝日新聞」と題号を統一した現在の朝日新聞です。
この2つの新聞は、当時の名称が「東京日報」と似通っているだけでなく、国民を戦争に煽りたてる記事を書きまくって部数を伸ばしたという点においても作中の「東京日報」と合致します。
作中でも繰り広げられた真珠湾攻撃とミッドウェー海戦では、朝日新聞がこんな報道をやらかしていたわけですし↓

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特にミッドウェー海戦の「戦勝報道」なんて、敵艦船撃沈の写真がないという作中の描写と全く一緒ですしね(苦笑)。
他にもこんな精神論じみたタワゴトをぶち上げていたり↓

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こんな「歴史的事実」が立派に存在する以上、作中の新聞社も「東京日報」などという架空の名称などを使うのではなく、素直に「朝日新聞」「毎日新聞」という実名を使った方が、史実にも「より」忠実になって良かったのではないかと思うのですけどねぇ(笑)。

もちろん、当の朝日新聞と毎日新聞にしてみれば、自分達の恥をばら撒く以外の何物でもないそんな行為は到底許せるものではなかったのでしょう。
特に朝日新聞には、1994年にリヨン社から発刊された「朝日新聞の戦争責任」という戦前報道を追及する本を、記事の著作権侵害などという意味不明な理由でもって廃刊に追い込んだ前科もありますし↓

朝日新聞の戦争責任
http://www.amazon.co.jp/dp/4872332369

今作における山本五十六は、「東京日報」の主幹である宗像景清が「国民の声」とやらを呼号して日独伊三国同盟に賛同するよう述べてきたことに対し、「その国民を煽っているのはあなた方ではないのですか」などと打ち返したりしていますから、新聞社の名前が実名だったら、現実的にも非常に愉快なエピソードになったであろうことは確実だったのですが(爆)。
やはりこの辺りは「自社の歴史の真実が表に出ることを非常に忌み嫌う新聞社様の意向に逆らうことができなかった」という大人の事情でも介在していたのでしょう。
朝日新聞と毎日新聞も、常日頃から「先の戦争について反省し、周辺諸国に対して謝罪しなければならない」「歴史の真実を捻じ曲げることはできない」などと述べているのですから、国民を戦争報道で煽ったという戦前における過去の事実を直視して素直に自社名を使わせてやれば良いものを(-_-)。
しかしまあ、「太平洋戦争70年目の真実」と銘打つ作品に登場する新聞社の名前がウソというのは、ブラックジョークにしてもなかなかに上手いセンスとしか言いようがないですね(苦笑)。

新聞社の名称以外のことに目を向けてみると、真珠湾攻撃の際に山本五十六が「攻撃に先立ち宣戦布告の文書を出させるよう本国に伝えてくれ」「日本人は奇襲を仕掛けるにもまずは枕を蹴ってから攻撃するものだ」などと述べていた辺りの描写は、いかにも「未来人的な視点に基づいた発言」としか思えなかったですね。
山本五十六が過去に参戦していた日清・日露戦争でも、日本は宣戦布告してから開戦なんて全くやっていませんでしたし、初撃の奇襲作戦後に宣戦布告というのは両戦争でも同じ流れを辿っています。
当時は「宣戦布告してから戦争をすべきだ」という国際ルールなど存在しませんでしたし、国際法で宣戦布告について定義されて以降も、そんなルールをバカ正直に守っている国なんて現代に至るまでほとんどないですね。
しかも当時の日本には、アメリカからハル・ノートという最後通牒を突きつけられて「開戦に追い込まれた」という一面もあったわけですし。
だから「当時の山本五十六がこんなことを言っているはずないだろ」というのが、この辺りのことについての率直な感想でしたね。
むしろ、圧倒的な国力差なのに相手に正々堂々を要求するなどというアメリカ側の宣伝に面食らっていたのではないかなぁ、とすら考えたくらいだったのですが。

内容的には史実をベースにした歴史物なので、先の見えない展開を楽しむというタイプの映画では間違ってもないですね。
当時の日本の「空気」について知りたい方と、役所広司をはじめとする俳優さんの演技が見たいという人向けの作品、と言えるでしょうか。

映画「ニューイヤーズ・イブ」感想

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映画「ニューイヤーズ・イブ」観に行ってきました。
大晦日(ニューイヤーズ・イブ)である2011年12月31日のアメリカ・ニューヨークを舞台に、複数の男女カップルの間で繰り広げられる様々な出会い・悩み・エピソードが繰り広げられ交叉する物語。
なお、この作品は映画「ワイルド7」と同日に2本連続で観賞しています。

毎年のニューイヤーズ・イブに、ニューヨークのタイムズスクエアで行われているカウントダウンセレモニーとして行われるポール・ドロップ。
このポール・ドロップの完遂をラストのメインイベントに据える形で、映画「ニューイヤーズ・イブ」の各エピソードは語られていきます。
各エピソードのコアとなる登場人物およびカップルは以下の通り。

1.タイムズスクエア協会の副会長として、ポール・ドロップのイベントを進行していく責任者であるクレア。
2.妹の結婚式に出席した後、去年のニューイヤーズ・イブで一緒に過ごした女性と約束した「1年後の再会」を果たすためにニューヨークへと向かうサム。
3.パーティーやイベントなどに出張し、客の要望に応じて料理を提供する「ケータリング」の仕事を担っているローラと、ニューイヤーズ・イブでライブを行う有名ロックスターのジェンセン。
4.25年以上勤めてきた会社に辞表を叩きつけたイングリッドと、パーティー券をネタに彼女の夢の達成を手伝うバイク便のポール。
5.新年を迎える際にファーストキスをしようと憧れの男子同級生と約束したものの、母親キムの強固な反対で外出を禁止されてしまう15歳のヘイリー。
6.新年最初に生まれた赤ちゃんには賞金が与えられると、互いに敵愾心を燃やして年明け早々の出産を狙うバーン夫妻とシュワブ夫妻。
7.その同じ病院で余命僅かと宣告されている老人スタンと、ニューイヤーズ・イブの真っ只中に彼を見守り続ける看護師エイミー。
8.大晦日を嫌い、アパートに飾られた新年祝いの飾りを片っ端から剥ぎ取るランディと、彼とたまたまエレベーターに乗り合わせたエリーズ。

また、「1」のクレアと「2」のサムにも相方となる男女がそれぞれ存在するのですが、それは終盤で明らかになります。

序盤は大量の登場人物が、それも短い時間の間に顔見せとばかりに一斉に出てくるため、結構混乱するところがありますね。
情報が出揃って何とか登場人物達の相関関係などが理解できたのは、物語中盤も半ばになってからのことでしたし。
ひとつの映画で複数の登場人物主導の複数ストーリーが展開されるというパターンは、過去に私が観賞した作品でも「ヒアアフター」と2008年公開映画「バンテージ・ポイント」がありますが、今作はこの2作品を融合した感じですね。
ひとつのイベントを個々8人の人間の視点から描く、という点は「バンテージ・ポイント」に近いのですが、ひとつのエピソードから別のエピソードにザッピングする手法は「ヒアアフター」のそれを採用しています。
最初はバラバラに見えるストーリーが揃うことで、作品の全体像が見えてくるというのは同じでしたし。
「4」のエピソードに登場するポールが、「5」のエピソードにおける母親キムと家族関係にあったり、「8」のランディと親友でしばしば電話をかけたりするのも、この手のザッピング作品ならではの光景ですね。

各エピソードは全体的にラブコメディ的な要素がかなり強いですね。
「2」のエピソードでは、音声認識カーナビの支離滅裂な反応に四苦八苦するサムの姿が描かれていますし、「4」と「6」では登場人物達による漫才的な掛け合いがしばしば行われます。
各エピソードの内容自体は、現実でも普通にありそうな悩みや思いを抱えた人々の物語ではありましたが。

逆に、日本では考えられないものの、アメリカではいかにも「らしい」話だなぁ、と考えてしまったのは「8」のエピソードですね。
このエピソードでは、全く面識がなかった2人の男女がたまたま乗り合わせたエレベーターが故障してしまい、2人が閉じ込められるところから語らいが始まるのですが、2人がエレベーター内に閉じ込められた時間が実に数時間にも及ぶんですよね。
しかもエレベーター内では外部と全く連絡が取れず、携帯も通じないというありさま。
にもかかわらず、数時間後にアパートの管理人がエレベーターを再起動させ2人を解放した際には、「言ったろ、8時間以内には直るって」などと言い放つ始末だったんですよね。
いや、エレベーターが停止&中に人が閉じ込められてから問題解決までそこまで時間がかかったら日本では全国ニュースレベルな上にアパートの管理人は住人から総スカンを食らうのが当たり前だろ、などとツッコミを入れずにはいられなかったのですが。
エレベーター事故自体は日本でもあるでしょうが、問題解決にそこまで時間がかかるケースは震災などの大規模災害時くらいなものでしょうし。
この辺りはむしろ、時間にあそこまでキチキチな日本の方が世界標準からすれば異常なのでしょうが、それでも日本人的視点から見たら「いかにもアメリカらしい適当さだよなぁ」とついつい考えてしまいますね(苦笑)。

内容的には、女性または男女カップルで観賞するには最適な映画、といったところでしょうか。

映画「ワイルド7」感想

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映画「ワイルド7」観に行ってきました。
1969年~1979年にかけて週刊少年キングで連載された同名の原作マンガを、現代に舞台を替え実写映画化したアクション物。

物語は、マシンガンを持った武装集団が銀行強盗をやらかした挙句、人質のために警察が手を出せない中、人質を一方的に虐殺して逃走するところから始まります。
凶悪犯達を取り逃した警察は、7人の(元?)犯罪者達で構成される超法規的警察組織に対し全権限を移譲、凶悪犯達の抹殺を命令します。
命令を受けると同時に、海上に架けられた高速道路の立橋?とおぼしきところを走っている大型トレーラーから7台のバイクが現れ、犯人が逃走している現場へと急行します。
一方、凶悪犯達は、襲撃と逃走の際に使用したクルマを爆破し、予め用意していた別のクルマに乗り換えると共に、逃走のための保険としてただひとり連れていた人質の女性を、自分達の安全が確認されたとしてまさに射殺せんとしていました。
そこへ突然、猛スピードで突っ込んできたトレーラーの直撃を受け、乗り換え用のクルマを大破されてしまう凶悪犯達。
かろうじてクルマから脱出した凶悪犯達は、各々が手に持っていたマシンガンをトレーラーに対してぶっ放し反撃を開始しますが、トレーラーは頑丈な上に運転席も蛻の空状態。
そこへ、先ほどトレーラーから出てきた7台のバイクが、これまた猛スピードで凶悪犯達へと向かってくるのでした。
もちろん、敵以外の何者でもない彼らに対しても、凶悪犯達は躊躇することなくマシンガンを乱射するのですが、7台のバイクは卓越したバイクテクニックを駆使して銃撃をかわしていきます。
そして逆に、7台のバイクからの発砲により、凶悪犯達は次々と致命傷を被り倒れていくのでした。
かろうじて生き残った数名の凶悪犯達を、7台のバイクは完全包囲し「お前達を【退治】する」と言い放ちます。
「退治? 逮捕の間違いだろ」と言い返しつつ、クルマの中に潜んでいた人間と共に反撃の機会を伺う凶悪犯達。
彼らには当然、日本の警察が発砲にとにかく慎重であり、ましてや犯人を射殺するなどよほどのことでもない限りはできないという事実を知っているからこそ、簡単に反撃できると考えていたのでしょう。
しかし彼らは凶悪犯達の抹殺を命じられた超法規的警察組織であり、そんな考えが通用するわけもありません。
かくして、凶悪犯達は反撃どころか、その場で躊躇なく超法規的警察組織の7人によってあっさりと全員「逮捕」ではなく「退治」されてしまうのでした。

一連の事件は、公的には「凶悪犯達が逃走の途中で事故を起こした」として処理され、超法規的警察組織の存在は一言半句も表に出てくることはありませんでした。
しかし、一連の事件を追っていた東都新聞社のジャーナリストにして重度のヘビースモーカーでもある藤堂正志は、事故として片付けられてしまった事件の結末に疑問を抱きます。
ここ1年ほど、凶悪犯達が突然事故で全員死亡するという事件が頻発しており、7人の元犯罪者達で構成される超法規的警察組織の存在も、通称「ワイルド7」と呼ばれる真偽の程が疑わしい都市伝説として密かに語られていました。
そして藤堂正志は、偶然撮影されたらしい「ワイルド7」が凶悪犯達を始末している現場が映っている動画を持っており、「ワイルド7」が実在しているとの確信を持つに至ったのです。
ところが東都新聞社の上層部は、警察から圧力を受けている影響もあるのでしょうが、藤堂正志の言うことをマトモに取り合おうとしません。
東都新聞社の新人記者である岩下こずえは「ワイルド7」の存在に懐疑的で、何かと暴走しがちな藤堂正志のサポートに回るのですが…。
ちなみに、この岩下こずえの出自が、物語後半の展開に大きく関わってくることになります。

一方、「ワイルド7」はその後も凶悪犯達を「退治」していく任務に従事していくのですが、その「退治」の最中に本来「ワイルド7」が始末すべき凶悪犯を遠距離から抹殺してしまう謎のスナイパーが出現します。
当然「ワイルド7」もスナイパーを追跡するのですが、「ワイルド7」と同じくバイク使いであるスナイパーはよほどに逃げ足が早いのか、それとも周囲の地理を知悉しているのか、「ワイルド7」の追跡力でも力及ばず、あえなく取り逃がしてしまいます。
「ワイルド7」には、過去にも同じスナイパーによって獲物を掻っ攫われた経緯があり、また射殺されている凶悪犯が全て「広域指定犯罪グループM108号」のメンバーであるという共通点を持つことから、「ワイルド7」内でも謎のスナイパーの掌握が優先事項となっていきました。
そんなある日、「ワイルド7」の一員にして物語の主人公である飛葉大陸(ひばだいろく)は、謎のスナイパーの手がかりを掴むため埠頭のクラブに立ち寄った際、ひとりの女性を目撃します。
その時はただすれ違っただけのその女性がどことなく気になった飛葉大陸は、後日街中をバイクで疾走している最中、偶然にもバスに乗り込んだその女性を再び目撃する機会に恵まれます。
バイクで強引にバスを止め、バスから降りてきた女性に「どこかで見たことがあるような…」と話しかける飛葉大陸。
会話を交わした末に「人違いだった」とその場を離れようとする飛葉大陸でしたが、その時女性の方から「あなたのせいでバイトに遅れそうだから送って行って」と主張してきます。
彼女の名前は本間ユキといい、とあるレストランでウェイトレスのバイトをしていたのでした。
彼女の要求通り、レストランまでバイクで送って行った飛葉大陸は、さらに「レストランの売上に貢献して」と言われ、これまた要求通りに色々なものを注文して飲み食いしていくことになります。
そして気がつくと、飛葉大陸は本間ユキが住んでいるとおぼしきアパートの一室で裸になって眠っていたのでした。
本間ユキの話を聞く限りでは、どうも描写されない部分で男女の濡れ場シーンでもあったようなのですが、その割に本間ユキはどことなく淡々としていますし、飛葉大陸もあっさり服を着てその場を後にします。
時を同じくして、制約会社が極秘裏に開発を進めてきた致死性90%以上を誇るウィルスが盗まれるという事件が発生します。
ウィルスを強奪した犯人達は、政府に対し2億ドルの指定口座振込みを要求し、要求に応じない場合は、ウィルスを積んで東京を飛行している飛行船を爆破してウィルスをばら撒くとの脅迫を行ってきたのです。
要求に応じても犯人側が飛行船爆破を止めるという保証はないと確信した警察側は、バイオテロを阻止すべく「ワイルド7」の出動を命じるのですが……。

映画「ワイルド7」では、現代日本が舞台とはとても思えないほどに敵味方問わず銃や重火器の類を乱射しまくるシーンが頻繁に登場します。
犯罪のためならば手段を問わない凶悪犯達や、その凶悪犯を抹殺するよう命じられる「ワイルド7」の面々が発砲に躊躇しない、というのはむしろ当然のことでしょう。
ところが作中では、SATや機動隊などといった警察所属の一般的な警察官ですら、発砲に全く躊躇している様子がないんですよね。
物語後半では、黒幕によって「7人の犯罪者集団」として指名手配された「ワイルド7」の面々に対し、SATや機動隊が公安調査庁内で派手に銃撃を浴びせまくるシーンが存在します。
しかし、そもそも日本の警察にそんな強硬手段を行うことができる権限が事実上無いに等しいからこそ、「ワイルド7」のような超法規的な存在が必要になったのではないのでしょうか?
「踊る大捜査線」シリーズや現実世界における警察絡みの報道に象徴されるように、日本の警察は銃の乱射どころか「1発発砲した」というだけでもマスコミや世間一般から多大な非難を浴び、正当な理由があってさえも警察官が始末書を書かされるというほどに、世界的に見ても銃の扱いについてとにかく異常なまでにうるさく言われる組織なのです。
「ワイルド7」が武装した凶悪犯であるという事実が周知されていてもなお、作中で見られたような銃撃戦を警察が行うためには、どれほどまでの法的な手続きと時間が必要となることか……。
現実どころか、フィクションの中でさえも、最近の警察はただの1発でも発砲することについてすら慎重な姿勢を示すのは当たり前、それどころか現場からの悲鳴のような要請があってさえも、官僚答弁的な対応で現実を無視した真逆の命令が下ったりするのがすっかりスタンダードと化している感すらあります。
「SP」シリーズ映画「DOG×POLICE 純白の絆」 などでも「自己保身に邁進する硬直しきった官僚機構としての側面を持つ警察機構」が作中人物によって問題視されていますし、それを破天荒な形で破る主人公の姿が爽快感として描かれていたりするわけです(まあ後者の場合は掟破りをしすぎて逆に問題になっていますが)。
それらの現実と過去の作品を見慣れてきた人間としては、「ワイルド7」における警察の過激としか評しようのない銃撃戦は、大いに違和感を覚えざるをえないところでして。
警察にあんなことができるのであれば、そもそも「ワイルド7」なんて必要ないのでは?などという根源的な疑問まで出てくるありさまでしたし(^^;;)。

もちろん、原作の「ワイルド7」の出自を考えれば、銃撃戦をも含めた問答無用とも言える派手なアクションシーンが頻発するのはむしろ当然のことではあるでしょう。
1970年代頃の警察を扱っている作品では、今から考えればとても信じられないレベルの荒唐無稽な派手なアクションや銃撃戦を、犯人どころか警察側も披露していたりするのがむしろ当たり前だったわけですし。
また、作中のような世界観だからこそ、ハリウッドばりのアクションシーンや銃撃戦が展開できるという利点も当然あるわけで、そこはまさに「フィクションならではの約束事」として割り切るべきではあるのでしょうけど。
ただそれにしても「思い切ったことをやっているなぁ」とはついつい考えざるをえないですねぇ、私としては。

また、「ワイルド7」の構成員である7人は、その全員がバイク使いで、作中でも高度なバイクテクニックを使って敵を翻弄しています。
何故全員がバイク使いなの? と原作を知らない私は当然疑問に思ったのですが、どうも「ワイルド7」メンバーのひとりであるセカイが他の仲間達にバイクテクニックを教え込んだ結果だったようですね。
今作におけるバイクに対する思い入れは相当なもので、物語後半では建物の中にまでバイクを持ち込み疾走するシーンまであったりします。
この作品、バイクに対して相当なまでの思い入れがあるのだなぁ、と観ていて思った次第です。
これもまた1970年代当時とは事情が異なるのでしょうが、現代は完全なクルマ社会であり、自転車や原付・オートバイなどの自動二輪車は軒並み冷遇される傾向にありますからねぇ。
「不安定で危ない」という宣伝効果による悪しきイメージも手伝って、バイクに乗る人は減少の一途をたどっていますし。
作中のようにバイクにこだわる人も、今では少数派なのではないかなぁ、と。

作中では、ハリウッドばりのアクションシーンや銃撃戦、それにバイクテクニックなどが大いに披露されていますので、そういう系統の作品が好みという方には文句なしにオススメできる映画ですね。
ラストを見る限りでは続編もありそうな雰囲気だったのですが、続編が作られることは果たしてあるのでしょうか?

映画「ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル」感想

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映画「ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル」観に行ってきました。
トム・クルーズ主演のイーサン・ハントが様々なミッションに挑む人気のスパイアクションシリーズ第4弾。

物語の冒頭はハンガリーのブダペストから。
とある建物の屋上に出てきた1人の男が、2人の追跡者に追われているところが画面に映し出されます。
追われていた男は屋上から飛び降りつつも反撃し、瞬間的に膨らんだクッションによってほとんど無傷で降り立ち追跡者から逃れることに成功しますが、その直後に通りがかりの女性に扮した暗殺者サビーヌ・モローによって殺されてしまいます。
そこから舞台は、ロシアの刑務所に囚われの身となっている主人公イーサン・ハントへと移ります。
何故彼がそんなところにいるのかについては物語後半および終盤で明らかになるのですが、この伏線の張り方もなかなかに上手いですね。
それはさておき、そんな彼を救うべく、イーサン・ハントが所属するアメリカの秘密組織IMF(Impossible Mission Force:不可能作戦班)によって派遣された2人のエージェントが、イーサン・ハントの脱出の手引きをし、彼を救出することに成功します。
2人のエージェントに対し、自分が救出されたということは何か重要な任務があってのことだろうと問い質すイーサン・ハント。
実は2人のエージェント、ジェーン・カーターとベンジー・ダンは、冒頭で殺されてしまったもうひとりのエージェントであるトレヴァー・ハナウェイと共に「コバルト」というコードネームを持つ人物と協力する密使を追っており、彼から核ミサイル発射コードを奪取するのですが、その直後にサビーヌ・モローによってコードを奪われてしまったのでした。
そしてIMFからは、「コバルト」についての情報が保管されているモスクワのクレムリンに侵入し、情報が消される前に手に入れるよう命じられるのでした。

ロシア軍の高官に変装し、幾分かのアクシデントがありつつも何とか保管庫への侵入に成功するイーサン・ハントとベンジー・ダンの2人。
しかし時既に遅く、肝心の「コバルト」に関する情報は消されてしまった後でした。
この時点でミッション失敗が確定してしまい愕然とするイーサン・ハントですが、そこへ追い討ちをかけるかのように、IMFの周波数を使ったクレムリンの爆破通信がどこからともなく流れてきます。
身の危険を感じ、ただちにクレムリンからの逃走を図る2人でしたが、クレムリンの爆破テロがあまりにも大規模すぎて結局巻き込まれてしまい、イーサン・ハントは意識を失ってしまいます。
次にイーサン・ハントが目覚めたのは、爆破テロに巻き込まれた人達でごった返しているロシアの病院。
そこにはロシア側の諜報員であるアナトリー・シディロフが、イーサン・ハントをクレムリン爆破事件の犯人として事情聴取する姿勢を見せつけていました。
何しろ、爆破前にIMF周波数による爆破通信が流れていたのですから、これ以上の有力な証拠はないわけです。
しかし、当然のことながら全く無実のイーサン・ハントは病院を脱出し、IMFと連絡を取り、たまたまロシアに滞在していたIMFの長官および分析官であるウィリアム・ブラントと合流します。
IMF長官はイーサン・ハントに対し、彼にクレムリンの爆破テロ事件の容疑がかかっていること、そしてロシアとの核戦争を避けるためにアメリカ政府が「ゴースト・プロトコル」を発動し、IMFが解散になった事実を伝えます。
その上でIMF長官は、イーサン・ハントに引き続き任務を続けさせ、IMFの汚名を返上させるために、彼を逃がそうとするのでした。
ところがそこへ、アナトリー・シディロフ率いる狙撃隊が襲撃。
乗っていた車は川に転落してしまい、IMF長官も殺されてしまったのでした。
運良く初撃を逃れたイーサン・ハントとウィリアム・ブラントは、何とかその場を脱出し、「コバルト」の行方を追うのですが……。

映画「ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル」では、ミッションを遂行する際にとにかくアクシデントが頻発します。
一番その手のアクシデントが頻発しているのは、ドバイの最高峰828メートルの高さを誇るビルであるブルジュ・ハリファでのミッション時。
変装に必要不可欠であるはずのマスク製造装置が故障してしまったり、エレベータなどの操作にビルの外側からサーバルームに侵入しなければならないことが現地で判明したりと、登場人物ならずとも「おいおい大丈夫か」と言いたくなるほどにトラブルが頻発し、その都度イーサン・ハントが無茶苦茶なアクションと決断で尻拭いをしなければなりませんでした。
映画の予告でよく喧伝された、トム・クルーズ本人がノースタントで演じたという「ブルジュ・ハリファ外壁のロッククライミングシーン」も、そういう過程を経てやる羽目になったシロモノだったりします。
突発的かつ準備不足なままに制限時間も厳しいギリギリの状態でミッションに挑むのですから、色々と不測の事態が起こってしまうのもある意味当然のことではあるのですが、子の辺りは見ている方も終始ひたすらハラハラさせられましたね。

また今作では、最新技術を駆使したであろう様々な小道具も見所のひとつです。
冒頭のシーンでも、ポケットに入る程度の大きさから起爆と共に巨大なクッションとなる小道具が登場していましたし、2回の瞬きと共に写真が取れるコンタクトレンズや、東京モーターショー2011にも出展されたというBMW-i8も出てきます。
本格的な実用化はまだ先のことではあるでしょうが、いずれは作中に登場していた小道具も一般的になる日が来るのでしょうねぇ。

作中の舞台は、ブダペスト(ハンガリー)・モスクワ(ロシア)・ドバイ(アラブ首長国連邦)・ムンバイ(インド)と、まさに世界のメジャーどころを転戦しています。
ストーリーも「自分達に着せられた冤罪を晴らす」と「核戦争の阻止」がセットになっている、久々にハリウッドらしい単純明快な勧善懲悪物になっています。
それでいて、一種の人間ドラマ的な要素もふんだんに盛り込み、特にウィリアム・ブラント絡みのエピソードはラストで大どんでん返しがあったりしますし。
ただ、この辺りのエピソードについては前作のストーリー設定なども絡んできますので、予め前作を復習しておいた方が良いかも知れません。

トム・クルーズのファンという方はもちろんのこと、アクション物&スケールのでかい作品が好みという方にも文句なしにオススメできる一品ですね。

映画「源氏物語 千年の謎」感想

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映画「源氏物語 千年の謎」観に行ってきました。
日本最古の長篇小説である「源氏物語」の誕生と、その作者・紫式部の謎に迫る歴史スペクタクル作品。
原作である「源氏物語」からして「光源氏が複数の女性と情を交わす」というイメージがあるためか、作中にはいわゆる「濡れ場」のシーンがかなり盛り込まれていますが、直裁的な性行為等の描写はないため、今作はR指定等の年齢制限なしに観賞できます。

物語冒頭はいきなりショッキングな描写から始まります。
何と、時の権力者である藤原道長が、夜中に逃げる紫式部を追跡し捕まえた挙句、その場で無理矢理手篭めにしてしまうのです。
その際の「私は何をしても許される身なのだ」的な道長の言い草がいかにも横暴な権力者のそれで、たったこれだけで良くも悪くも強烈なインパクトが残りましたね。

紫式部を手篭めにした藤原道長は、彼女を宮廷に招き入れると共にひとつの物語を書くよう命じます。
藤原道長の意図としては、時の最高権力者である一条天皇に紫式部の小説を紹介・提示することで一条天皇の歓心を買い、それによって彼に嫁いだ自分の娘である彰子(しょうし)に目を向けさせ、彼女に男児を産ませることで藤原一族の権力基盤を強化することが狙いでした。
当時は貴重品だったであろう紙も用意され、かくして紫式部は源氏物語を書き始めることとなるのです。
ここからしばらくは源氏物語の主人公である光源氏が生まれる前から元服する辺りまでの物語が展開されます。
低い身分の出自ながら帝の寵愛を一身に受け、光源氏を妊娠・出産するも、第一妃である弘黴殿女御(こきでんのにょうご)をはじめとする周囲の女性からの嫉視反感を受けて早逝してしまう桐壺更衣(きりつぼのこうい)。
その後、新たに帝が迎え入れた、桐壺更衣そっくりの女性・藤壺(ふじつぼ)。
生みの母親そっくりで義理の母親でもある藤壺に禁断の恋をしてしまい、その想いに苛やまされながらも、周囲の女性と関係を結んでいく光源氏。
そして、光源氏と関わっていくことになる女性達。
これらの登場人物で出揃った辺りまでの話を読んだ藤原道長は「我が意を得たり」とほくそ笑み、実際、紫式部から源氏物語の内容を拝聴していた一条天皇から「続きが気になる」という好意的な反応を得ることに成功します。
そして藤原道長の期待通りに彰子は妊娠し、見事男児(史実では敦成(あつひら)親王、後の後一条天皇)を出産するのでした。
これで紫式部の役目は終わったはずなのですが、紫式部は何故かその後も「源氏物語」を書き続けます。
そして、それを止めようとせず、むしろ純粋に続きを楽しみにしているかのような態度を示す藤原道長。
しかし、藤原道長の友人である陰陽師・安倍晴明は、そんな紫式部の様子に不穏な気配を感じ取るのでした……。

映画「源氏物語 千年の謎」の公式サイトによると、「源氏物語」は藤原道長の命令もさることながら、「天才女流作家・紫式部の叶わぬ愛が、その物語を綴らせた」と記載されています。

http://www.genji-nazo.jp/aboutthemovie/index.html

しかし、いくら作中の描写や演出・ストーリー展開などを総括してみても、紫式部が藤原道長に恋愛感情を抱いているような様子が全く垣間見られないんですよね。
そもそも、物語冒頭の手篭めシーンからして、紫式部が藤原道長に対して抱いているのは愛情ではなく憎悪の類だろう、と推察する材料として充分過ぎるシロモノでしたし。
また、物語前半における紫式部の藤原道長に対する態度も、嫌々な態度が前面に出ている極めてそっけないもので、ここからどうやって愛情が導き出せるのか理解に苦しむものがあります。
加えて、物語中盤になると、紫式部の様子に不穏な気配を感じ取り、かつ「源氏物語」の世界に入り込んで作中の生霊と戦いを演じた安倍晴明が、藤原道長に対して「このまま紫式部が『源氏物語』を執筆すると道長様に不幸が訪れる」と進言しており「それを回避したくば、式部の筆を止めるのです」とまで忠告しているのです。
それに対する藤原道長の返答もこれまた振るっていて、彼は「源氏物語を書くよう紫式部に命じたのは私だから、私にはそれを最後まで見届ける義務がある。だからそれ(式部の筆を止めるよう命じること)はできない」と述べているんですよね。
これって「自分は紫式部から憎悪されて、何らかの報復を受けてもおかしくない立場にある」と藤原道長が自覚しているとも取れる発言ですよね。
そして何より、今作における「源氏物語」の光源氏は、冒頭の手篭めシーンで藤原道長が口走った「私は何をしても許される身なのだ」という台詞をしゃべっていることからも分かる通り、藤原道長をモデルに作られた存在であるとされており、彼は作中で愛する女性達に先立たれたり出家されたりする不幸に何度も遭遇することになるのです。
光源氏の愛人のひとりで後に生霊となり、他の女性を呪い殺したり、安倍晴明とオカルト合戦を繰り広げたりする六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)などは、現実世界の紫式部と半ばシンクロしていたりします。
これらのことから総合すると、紫式部は藤原道長を憎悪しており、藤原道長を自分が描く物語の主人公に見立てた上で彼に次々と不幸な事件を叩きつけまくることで、最終的には現実世界の藤原道長を「呪殺」することを目的に「源氏物語」を執筆していたのではないか、と映画観賞が終わるまで私はずっと考えていたくらいだったんですよね。
日本には昔から「言葉には霊的な力が宿る」という言霊信仰がありますし、作中の紫式部も「物語で人を魅了する天才」的な評価を受けていましたから、一種の「言霊使い」として紫式部は自らの復讐を画策していた、というわけです。
これだと安倍晴明が藤原道長に対して述べていた「『源氏物語』が完成すると道長様に不幸が訪れる」とも合致するわけで、私も自分の解釈にそれなりの根拠と自信を持ってはいたのですけどねぇ(-_-;;)。
物語終盤に紫式部が「源氏物語」を宮中で完結させることなく田舎に帰ったのも、自分がシンクロしていた「源氏物語」作中における六条御息所が自らの業の深さに宮廷を離れたのと同じ理由だったのではないか、と考えていましたし。
手篭めにされて自由を奪われたことへの恨みと復讐から、藤原道長を殺すことを目的に作られた「源氏物語」、というのは確かに公にもできない壮大な真相ないしは斬新な解釈だよなぁ、などとひとり納得してもいたのですが……。

こういう映画制作側の意図から大きく外れた解釈が生まれてしまう最大の理由は、やはり何と言っても冒頭の手篭めシーンのインパクトと、その後の藤原道長と紫式部の関係があまりにもビジネスライク過ぎるところにあるんですよね。
あの2人の関係のどこに、僅かでも恋愛要素を匂わせるものがあったというのでしょうか?
双方共に、相手の文才や権勢などを褒めることはあっても、相手への想いを語る描写なんてどこにもありませんでしたし。
紫式部は「源氏物語」に藤原道長への愛情を込めた、というのが映画制作側の主張なのでしょうが、そもそも「源氏物語」の作者である紫式部の謎に満ちた心情部分を、既に周知であるはずの「源氏物語」だけで説明するのは無理があり過ぎます。
しかも、今作作中の藤原道長は、愛人どころか紫式部以外の女性と関係している描写すらも全く描かれていませんし、そんな状態では、光源氏と関わる女性達を呪殺していた六条御息所と紫式部が「恋愛絡みで」シンクロしなければならない理由も全く見出しようがありません。
せめて藤原道長も光源氏と同じように大量の女性を侍らせていた、みたいな描写でもあったならば、それと「源氏物語」をシンクロさせることで「紫式部の無言の主張」を展開させることも可能だったかもしれないのですが……。
紫式部の恋愛感情が作品の主要なテーマだったというのであれば、その意図は完全に失敗していると言わざるをえないのではないかと。

あと物語後半で、光源氏の正妻である葵の上を、生霊となった六条御息所が呪殺しようとして安倍晴明に阻止されるシーンが2回発生するのですが、2回目の安倍晴明は、六条御息所の主張を聞くと、今にも殺されようとしている葵の上を顧みることなく現実世界に帰ってしまうんですよね。
何故あそこで安倍晴明は六条御息所の生霊を滅殺してしまわなかったのか、そこは疑問でなりませんでした。
あの生霊に紫式部の想いだか怨念だかがシンクロしていることを安倍晴明は充分に理解していたようでしたし、あそこで生霊を完全に滅殺していれば、物語世界の葵の上を助けられたのみならず、自分の友人でもある現実世界の藤原道長の安全を確保することだってできたでしょうに。
アレが「源氏物語」から出てきたら自分の手には負えないとも安倍晴明は明言していましたし、それならなおさら事前に滅殺すべきだったのでは、と思わずにはいられなかったのですが。
実力的にも、終始生霊を圧倒していた安倍晴明であれば滅殺も不可能ではなかったでしょうに。

「源氏物語」の完結が自分に災いをもたらすと聞いてなお紫式部の筆を止めさせない藤原道長の政治哲学や、光源氏絡みの女性関係および出演者達の熱演など、見所自体は結構多い作品ではあります。
一番肝心要の「映画制作側の意図」が失敗しているのは正直残念なところではあるのですが。
「映画制作側の意図」なんて公開しない方が却って作品を色々な形で解釈できるようになって良かったのではないか、というのが私の偽らざる感想ですね。

映画「リアル・スティール」感想

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映画「リアル・スティール」観に行ってきました。
人間に変わり、ロボットがボクシングの試合を担うようになった近未来を舞台に、1体のロボットとの出会いから変わっていく父と子の絆を描く作品。
なお、今作で今年度における私の映画観賞本数はちょうど60本目となります。

物語の舞台は2020年。
かつてはボクシングのプロボクサーとしてそれなりの実力と名声を誇っていた主人公チャーリー・ケントンは、しかし2020年の世界では各地のイベント興行をドサ回りして小金を稼ぐ日々を送っていました。
ロボット技術の発達と実用化により、2020年におけるボクシングは人間ではなくロボットが担うようになり、プロボクサーだったチャーリーは夢を奪われ天職を失ってしまったのです。
チャーリーは過去の経験を生かして格闘用ロボットを遠隔操作するプロモーターになることで何とか生計を立ててはいるものの、資金不足から性能が劣る中古ロボットしか購入できない上、対戦相手にも運にも恵まれず片っ端からスクラップにされていくありさま。
その日も、とある遊園地のイベント興行で暴れ牛と戦う役を依頼されたのですが、チャーリーが操作していた「アンブッシュ」という名の中古ロボットは、先制攻撃でダメージを与えたものの、油断していたところで痛撃を食らいあえなくスクラップに(T_T)。
「アンブッシュ」が勝つか否かで興行主?と2万ドルの賭けをしていてチャーリーは、しかし金を払うことなくその場からの逃走を図ります。
そんな中、2人の男がチャーリーに近づき、彼の元妻が亡くなり、ひとり息子であるマックスの親権を巡る調停を裁判所で行うから来て欲しいとの要請を行ってきます。
しぶしぶ裁判所へと向かうチャーリーですが、赤子の頃以来会っていない息子の面倒を見る気などチャーリーには全くなく、それどころか、マックスの親権を引き取りたがっている母方の義妹夫妻から、自ら親権を手放すことをネタにカネをふんたくろうなどと画策する始末です。
義妹夫妻が外国旅行へ行って帰ってくるまでの間だけ息子を引き取ることと引き換えに、前金5万ドル・後金5万ドルを受け取る秘密交渉を夫との間で成立させるチャーリー。
しかし、当のマックスはチャーリーの金策を見透かしており、父親に対し深刻な不信感を抱いてしまうのでした。

義妹の夫から受け取った5万ドルを資金源に、チャーリーは新たな格闘用ロボット「ノイジー・ボーイ」を購入します。
この「ノイジー・ボーイ」というロボット、ボディに「超悪男子」という日本の漢字が書かれ、音声認識機能の命令言語も最初は日本語で登録されているという、日本人であれば思わずニヤリとしてしまうシロモノだったりします。
最初は「ポンコツをつかまされた」と落胆するチャーリーですが、息子であるマックスが問題を解消、「ノイジー・ボーイ」は何とか動くようになります。
その「ノイジー・ボーイ」と半ば強引についてきたマックスを伴い、チャーリーは闇のギャンブル格闘場へと赴き、一攫千金を狙っていきなりメインの格闘試合へと挑みます。
まずは前座で戦うべきだと息子からも興行主からも忠告されていたにもかかわらず。
かくして、物語最初のロボット同士の対戦となる格闘試合が行われることになるのですが、如何せん「ノイジー・ボーイ」は確かに高性能だったものの、操縦主のチャーリーが「ノイジー・ボーイ」のことをロクに知らないまま試合に臨んだこともあり、チャーリーの操作ミスとパニックで「ノイジー・ボーイ」は「アンブッシュ」に続きスクラップの末路を辿る羽目となってしまうのでした。
あまりにもあっさりと頼みのロボットが敗北してしまったこと、それ以上にロボットがスクラップにされたことに意気消沈してしまうチャーリー。
それでも何とか新しいロボットを調達するため、チャーリーは自分の手で新しいロボットを作るため、まだ使える部品を探し出すべくロボット廃処理場へとクルマを走らせます。
雨が降る夜中のロボット廃処理場へ不法侵入し、廃棄ロボットがいるという奥へと進むチャーリーとマックス。
しかし、興味津々のマックスが廃処理場にある大穴の縁に立った時、雨で地盤が緩んでいたことから地滑りが発生し、マックスは大穴へと滑り落ちてしまいます。
その時、地中から突き出ていたアームにたまたま引っかかったことでマックスは大穴の底に叩きつけられる惨事を免れることができたのですが、このアームの元を辿っていくと、そこにあったのは廃棄されたまるまる1体のロボット。
「そいつは旧式のスパーリング用ロボットだから使えない」と否定的なチャーリーを尻目に、マックスは「生命の恩人」であるそのロボット「アトム」をひとりで掘り出し、ロボット格闘試合に出そうとするのですが……。

映画「リアル・スティール」に登場する父子2人は、まさに「親は子に似る」という格言を体現した、似た者同士な性格と言えますね。
どちらも「より安全確実な選択肢を跳ね除け、一攫千金の賭けに強気で挑む」というスタンスを披露していますし。
最初のロボット格闘対戦では、父親であるチャーリーが息子マックスの制止を振り切って試合に臨んだ挙句、案の定な惨敗を喫していましたが、「アトム」を見つけ出して以降は逆にマックスがチャーリーの慎重論を無視し、興行主に啖呵を切ったり試合継続を宣言したりとひたすら強気一辺倒で相手を攻めまくっています。
物語後半でマックスは「僕のために戦って欲しかった」と父親のチャーリーに告白したりしていますし、意図的に父親の真似をしていたのかもしれないのですけどね。

作中では様々な格闘用ロボットが登場するのですが、前述の「ノイジー・ボーイ」のデザインに象徴されるがごとく、妙に日本のそれを意識している様子が伺えますね。
「アトム」という名前自体も、往年の日本アニメ「鉄腕アトム」からそのまま取ってきたとしか思えない設定ですし。
今作の製作総指揮には「あの」スティーブン・スピルバーグも参加しているのですが、彼は以前にも「母親と子供の愛情」をテーマに描いた映画「A.I.」を製作していますし、そこでも「鉄腕アトム」絡みのネタがありましたから、今作もやっぱり意識はされていたのだろうなぁと。

「アトム」を手に入れて以降、それまでの惨敗がウソであるかのように連戦連勝していくチャーリー&マックスの前に最後に立ちはだかるのは、プロのロボット格闘試合「リアル・スティール」でチャンピオンの座を維持している格闘用ロボット「ゼウス」。
ロボット開発では名を轟かせているらしいタク・マシドが開発し、大富豪のファラ・レンコヴァが所有する「ゼウス」は、ほとんどのロボット格闘対戦で1ラウンドKOを飾ってきた実績を持つ名実共に最強のロボット。
ファラ・レンコヴァは物語中盤でチャーリー&マックスに対し「アトム」を「ゼウス」のスパーリング用ロボットとして20万ドルで買い取りたいと打診しており、それに対して露骨な反発を見せていたマックスが、公衆の面前で「ゼウス」に宣戦布告するというマイクパフォーマンスを演じた経緯もあったりします。
そしてその後紆余曲折を経て始まる「ゼウス」との最終決戦ですが、ただその戦いを見ても、「ゼウス」のどこら辺が「強さ」の源泉となっているのかが今ひとつ分かり難かったですね。
一応、パワーと巨体では「アトム」を圧倒している「ゼウス」ですが、それは「アトム」の対戦相手のほぼ全てに当てはまるものでしかありませんし。
その前に「リアル・スティール」の前座として行われた、2つの頭を持つ格闘用ロボット「ツインシティーズ」との戦いでも、やはりパワーと巨体で圧倒する戦い方でしたから、両者との比較で見てもその戦い方には特に大差があるようには見えないというか……。
作中で強調されていた「ゼウスの強さ」としては、1ラウンド開始早々に「アトム」を一撃でダウンさせたところと、「ツインシティーズ」にはあった構造的な欠陥が「ゼウス」にはない点でしょうか。
ただ、「ゼウス」を開発したタク・マシドは、物語序盤に披露されていたインタビューで「ゼウスの強さは状況に応じてプログラムを自ら書き換え、戦いの中で進化するところにある」みたいなことを述べていたにもかかわらず、作中の戦いではそんな描写は全く垣間見られなかったので「?」と考えてしまったものでして。
むしろ、それを実際にやってラウンドが進む度に強くなっていたのは「アトム」の方ですし。
それまでのロボット格闘とは一線を画する、「ゼウス」がチャンピオンの地位を維持している源泉としての「オリジナルないしは特殊な強さ」というものが何かあっても良かったのではないか、というのが、あの最終決戦に対する私の率直な感想ですね。

派手なアクションを売りにするハリウッド映画としても、親子の絆をテーマにした物語としてもまずまずの出来で、観に行って損はしない作品ではありますね。

映画「RAILWAYS 愛を伝えられない大人たちへ」感想

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映画「RAILWAYS 愛を伝えられない大人たちへ」観に行ってきました。
富山県に実在する富山地方鉄道を舞台に、長きに渡って鉄道運転士を勤めた男とその家族を描いたヒューマンドラマ。
今作は「RAILWAYS」シリーズ2作目とのことですが、前作とは「地方の鉄道および鉄道運転士を扱っている」というコンセプトの共通点はあっても、ストーリーや登場人物等での関連性は一切ないので、前作を知らない人でも問題なく観賞できます。

今作の主人公である滝島徹は、富山地方鉄道で実に42年も勤務し続け、かつ35年もの間無事故の実績を持つベテランの鉄道運転士。
その彼が定年退職を迎える1ヶ月前、55歳で長年専業主婦として滝島徹を支えてきた妻佐和子と、妊娠中の娘片山麻衣が、踏切の前で停まっている車の中で走行していく列車を眺めているところから物語は始まります。
滝島徹がいつものように鉄道運転士の仕事を終えて自宅に帰ると、妻が看護師の仕事をしたいと相談をもちかけてきました。
実は妻の佐和子は元々看護師の職に就いていたものの、ガンを患った母親の介護のために仕事を辞め、以後はずっと専業主婦として家事を担っていたという経緯がありました。
そして、夫の定年退職と、物語中盤で明かされるあることがきっかけで第二の人生を歩みたいと考え、再び看護師の仕事に就こうと考えたわけです。
しかし夫である徹は「お前が働く必要はない」と聞く耳を持たず、2人は激しい口論を繰り広げることとなってしまいます。
挙句、口論の最中に、「同僚が倒れたからすぐ来てくれ」という鉄道会社からの緊急連絡で、滝島徹は会社へとんぼ返りをしてしまうのでした。
トラブルを何とか処理し、滝島徹が再び家に帰ってみると、自宅から妻の自家用車がなくなっており、家の中も誰もいなくなっていました。
先ほどの件が原因で失踪した以外の何物でもない状況に直面した滝島徹は、朝になって娘夫婦に妻の所在を確認する電話をかけてみますが、当の娘夫婦は妻の失踪の事実すら知らない始末。
そうこうしているうちに仕事の時間が迫ってきたため、滝島徹は妻の所在が不明なままの状態で鉄道会社に出勤する羽目となります。
一方、鉄道会社では、滝島徹の同僚が倒れてしまったことで問題が発生していました。
倒れた同僚が新人の鉄道運転士見習いである小田に対して行っていた研修指導が継続できなくなってしまっていたのです。
小田の研修期間は残り1ヶ月もないということもあり、その研修指導員の穴埋めの話が滝島徹に持ち込まれてきます。
妻のことが気になりつつも、滝島徹は通常の鉄道業務と小田の研修指導を一緒にこなしていくことになるのですが……。

映画「RAILWAYS 愛を伝えられない大人たちへ」では、実在する富山地方鉄道が舞台の中心となることもあり、富山地方鉄道を実際に走行している、レッドアロー・かぼちゃ電車・だいこん電車等の愛称で知られる列車が登場します。
主人公・滝島徹が作中で主に運転しているのは、二両編成の「レッドアロー」ことモハ16010形。
地方でしか見られない列車が、田舎ならではのだだっ広い田園や山間をひた走るシーンが作中で何度も繰り広げられるのも、「RAILWAYS」シリーズの魅力のひとつでしょう。
実際、前作「RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語」でも、劇場公開された2010年5月以降、物語の舞台となった島根県の一畑電車は利用者が急増し前年同時期に比べて8.7%増益になったのだとか。
今作でも同じ効果がそれなりに期待できるのではないかと。

また今作では、主人公である鉄道運転士・滝島徹役を担っていた三浦友和の好演が光っていました。
三浦友和も作中の主人公とほぼ同年齢とのことですが、昔ながらの頑固オヤジとしての姿と、それ故に周囲と衝突し葛藤する様子を、カッコ良さと貫禄も交えて丁寧に演じていました。
彼が登場している映画で私が観賞した作品としては、「マイ・バック・ページ」「星守る犬」がありますが、どちらもチョイ役での登場だったにもかかわらず「妙にカッコ良いキャラクター」というのが印象に残っていたものでした。
特に「星守る犬」では「この人にも何か曰くありげな別の物語がありそう」とすら考えたくらいでしたし。
今作は、彼のファンであればまず必見と言える映画でしょうね。

作中のストーリーでは、主人公の鉄道運転士としての仕事と別居を始めた妻の訪問看護の仕事、そして、互いに無器用な形でしか相手に接することができず、結果的にスレ違ってしまう夫婦の関係が描かれています。
主人公は、妻に対してだけでなく娘夫婦、さらには、同僚が倒れたことで半ば押し付けられた新人の小田に対する研修指導などでのやり取りでも無器用な面を見せており、そのためにしなくても良い損をしているような印象が多々あります。
奥さんに対する態度も、別に相方のことを蛇蝎のごとく嫌っているわけではなく、むしろ(間違ったものであったにしても)自分なりに相手のことを考えていたが故の失敗だったわけですし。
一方の奥さんは奥さんで、看護師の仕事をすることについて「母親をなくしたことに対することに対する気の迷いだろう」と誤った分析をしながらも「好きにすれば良い」ととにもかくにも容認してくれた夫に対し、「何故分かってくれないの!」と激高した挙句に結婚指輪と離婚届を突きつけてくる始末ですし。
これまでの鬱屈がたまっていたという事情もあったのでしょうが、それを差し引いても「そこは怒るところなのか?」と若干は疑問を抱かずにいられませんでした。
いっそ本当に互いに憎しみ合うような関係であれば却って話は簡単になったのでしょうけど、そうではないからこそ複雑で解決しがたい問題なんですよね、ああいう夫婦関係のこじれは。
2人の関係に娘夫婦がやきもきしていたのは当然でしょうが、当の本人達でさえも「何とかしてくれ」と言いたい気分ではあったことは間違いなかったでしょうね。

アクション映画のような派手さは皆無ですし、また世代によって評価にかなりの差が出そうな作品ではありますが、個人的には充分に面白くオススメの作品だと思います。

映画「タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密」感想

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映画「タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密」観に行ってきました。
ベルギーの漫画家エルジェ原作の同名マンガを3Dアニメーションで映像化した、少年新聞記者タンタンとホワイト・フォックステリア犬のスノーウィ、そして伝説のユニコーン号の船長の子孫であるハドック船長がコミカルに活躍する、スティーブン・スピルバーグ監督製作の冒険ファンタジー作品です
この映画は3D版と2D版が公開されていますが、料金が高いだけの3D版は何とか回避に成功。
また今回は12月1日の「正式な映画の日」での観賞となったため、いつもより格安で映画を観賞することができました(^^)。

物語は、主人公タンタンがノミの市に掘り出し物として出されていた模型帆船を見つけ、出店の主人と交渉して購入するところから始まります。
タンタンが模型帆船を購入したのとほとんどタッチの差で、2人の男が同じ模型帆船を買い付けにやってきます。
最初の男はタンタンに対し「それを手放さないと危険な目に遭うから」と警告し、2人目の金持ち風な男は「言い値で買い取るから売ってくれ」とタンタンに譲渡を迫りますが、タンタンはどちらの申し出も無視して模型帆船を持ち帰ります。
タンタンが自宅であるアパートの一室で模型帆船を居間の机?の上に置いた直後、窓から侵入したネコと愛犬であるスノーウィが追いかけっこを始めてしまい、その騒動に巻き込まれる形で模型帆船はマストの部分が壊れ机の上から落下してしまいます。
その際偶然、マストの部分に隠されていた小さな筒が模型帆船から抜け落ち、机の裏側に紛れ込んでしまいます。
床に落ちて壊れてしまった模型帆船を、落胆しつつも再び机の上に戻したタンタンは、模型帆船のモデルとなった船について図書館で調べるため、タンタンは模型帆船を家に置いて外出。
しかし、図書館で模型帆船のモデルであるユニコーン号のことについて調べたタンタンが家に帰ってみると、机の上に設置したはずの模型帆船がなくなっていたのです。
留守中に空き巣に狙われたことは確実で、また模型帆船の際のゴタゴタもあって「警戒しておくべきだった!」と後悔するタンタンですが後の祭り。
タンタンは模型帆船を取り戻すべく、模型帆船購入の際に言い値で売るよう迫った2人目の男の住所を割り出し、模型帆船を奪取しようとします。
そこはかつてのユニコーン号の船長が住んでいたとされるムーランサール城で、2人目の男ことサッカリンによって買収された地でもあるのでした。

タンタンは愛犬スノーウィの助けもあって首尾よく城の中に不法侵入を果たし、模型帆船を発見することには成功します。
しかし直後に城の執事?と思しき人物によって昏倒させられた上、見つけた模型帆船も自分が盗まれたものとは別物であることを確認(ムーランサール城の模型帆船は壊れていなかった)して落胆する羽目に。
他人の住居に不法侵入したのに何故か警察に突き出されることもなく解放されたタンタン(まあ捕らえた側にしてみれば「あえて泳がせていた」のでしょうけど)は、城から追い出される際に城の執事から「模型帆船の部品を探せ」とアドバイスされたことから、冒頭の犬猫騒動で模型帆船から零れ落ちた部品があったことを思い出し、急ぎ自宅に戻ります。
そして、タンタンは無事に模型帆船の部品を見つけることができ、さらにその部品の中に隠されていた羊皮紙をも手に入れることができたのでした。
ところがその喜びを噛み締める間もなく、タンタンは模型帆船購入の際に出合った最初の男の訪問を受けます。
彼はしつこくタンタンに警告を続けるのですが、その最中に何者かによる銃撃を背後から受け、「カラブジャン」というダイイング・メッセージを残して死亡。
自身への襲撃や空き巣を警戒したタンタンは、件の羊皮紙を財布に入れて持ち歩くことにしたのですが、その財布もスリによって盗まれてしまう始末。
さらにタンタン自身も最後には拉致されてしまい、最初の男が残したダイイング・メッセージである「カラブジャン」という名の大型船の一室に収監されてしまったのでした。
またしても愛犬スノーウィの助けで自由を得たタンタンは、何とか脱出の道はないかと模索し始めるのですが……。

映画「タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密」は3Dアニメーションとのことですが、作中に出てくる街の風景や海・砂漠・建物などといった背景も、登場人物達の造形もほとんど実写そのもの。
パッと見たくらいでは実写なのか3Dアニメなのか区別がつかないほどです。
過去に私が観賞したことのある3Dアニメーション作品としては、DVDで観賞した「塔の上のラプンツェル」があるのですが、アレは「3Dアニメ造形」と明確に分かる造形でしたし、その比較でも今作における映像技術の凄さは折り紙付きですね。
むしろ逆に、異様に鼻のでかい登場人物が何人も出てくるなど、完全に実写に近づけないようあえてアニメ的な造形を作り出しているようなフシすらあるくらいです。
子供向け作品としてのアピール、という側面もあったのでしょうが、主人公タンタンなどは実写として紹介されても違和感が無いような顔立ちでしたし、完全に実写的な表現をしようと思えば出来ないこともなかったのではないかと。

また作中では、どう見ても人間並みの知能を持っているとしか思えないホワイト・フォックステリア犬のスノーウィが大活躍しています。
前述の「塔の上のラプンツェル」でも人間以上に動物達の活躍が顕著でしたが、3Dアニメだと実写の動物では到底できない様々な動きや演出も自由自在に描けるわけで、この辺は3Dアニメならではの強みと言えるでしょうね。
映画「わさお」などが典型ですが、実写で動物を扱うとなると、ごく普通の動きであっても現場ではかなりの手間と時間がかかったりするみたいですからねぇ(-_-)。

作中のストーリーは、アクションやシリアスシーンを交えつつも、全体的にはややコメディタッチなノリで進行していきます。
特に大型船カラブジャン号からの脱出の際に仲間になるハドック船長など、最初は酒にこだわりまくってタンタンの足を引っ張りまくる天然コメディアン以外の何物でもなかったですからねぇ(苦笑)。
一応はユニコーン号の財宝に至るキーパーソンだったとは言え、タンタンも何故こんな奴を救うのかと最初は疑問に思えてならなかったくらいでしたし。
これと個人的に印象に残ったコメディ系の演出としては、モロッコの君主が持っているという3つ目の模型帆船を守っている「ワレナーイ」社製の強化ガラスと、それを打ち破る「ミラノのナイチンゲール」ことオペラ歌手カスタフィオーレ夫人の「ジャイアンの歌」でも想起させるような甲高い歌声ですね。
カスタフィオーレ夫人は、3つ目の模型帆船を奪取せんとするサッカリンがわざわざ連れてきた人物で、彼の意図通りに模型帆船の守りは崩壊したわけですが、この辺りはまさにギャグそのものの展開でした。
もう少しマトモな方法で目的を達成するだろうと考えていただけに、アレには一瞬唖然とさせられたものでしたが。

ストーリーは分かりやすく単純そのものですし、3Dアニメも実写に近いので、その手の3Dアニメが嫌いという方でも違和感なく入れる作品と言えるのではないかと。
大人・子供を問わず、幅広い層で共通して楽しめる作品ですね。

映画「インモータルズ -神々の戦い-」感想

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映画「インモータルズ -神々の戦い-」観に行ってきました。
紀元前1200年頃のギリシャを舞台に、闇の神々タイタン族を復活させようとするイラクリオンの王ハイペリオンと、若き青年テセウスとの戦いを描いた作品。
作中では、首を掻き切られるシーンや振り回された武器で身体が炸裂するシーン他、流血&残虐描写が随所に盛り込まれており、当然のごとくR-15指定を受けています。

はるか昔、神々達の間で大きな戦いが起こりました。
戦いはゼウスを主神とする光の神々の勝利し、敗れた闇の神タイタン族はタルタロス山の地底深くに封印されました。
それから長い時が過ぎた、紀元前1200年頃の古代ギリシャの時代。
光の神々に敵意を抱き、その存在を滅ぼさんとするイラクリオンの王ハイペリオンが、領土の拡大と、タイタン族の封印を解くべく、軍勢を率いてギリシャ各地に侵攻を始めます。
タイタン族の封印を解くためには、はるか昔の神々の戦いで失われたとされる伝説の武器「エピロスの弓」が必要とされ、ハイペリオンはそれを探し出すためにギリシャ各地の神殿を襲撃していました。
その侵攻はやがて、半島の崖をくり貫いて作られている小さな村にも押し寄せ、村側は身分の高い者から順に安全な場所まで避難する決定を下します。

その小さな村に、神を信じず自分の武器のみを頼みに武芸に励むひとりの青年がいました。
彼の名はテセウス。
信心深い母親と共に生計を立てていたテセウスは、母親の身分が低くかつ村人のレイプによって産まれた子供という出生事情も相まって、他の村人達から蔑みの目で見られる日々を送っていました。
ハイペリオンの侵攻で村から避難することが決定された直後に、彼は自身の出生をバカにしてきた兵士のひとりと諍いを起こし、結果テセウスと母親はハイペリオンの軍勢が侵攻してくるであろう日に村からの避難を開始するよう命じられてしまいます。
そしてハイペリオンが村に侵攻してきたその日、テセウスは軍勢を相手に奮闘するものの、ハイペリオン自らの手によって母親を殺されてしまい、自身も多勢に無勢で囚われ奴隷の身とされてしまうのでした。
しかし、母親を失い無気力になって奴隷労働に従事していたテセウスの前に、4人組の巫女が連行されてきます。
彼女らは未来を予知する能力を持つ巫女で、その能力故にハイペリオンの軍勢に囚われの身となっていたのでした。
4人組の中で未来予知能力を持つ「本物」の巫女はただひとりで、あとの3人は「本物」を特定させないための一種の影武者という設定です。
「本物」の巫女であるパイドラは、テセウスの前を通りがかった際、彼が「エピロスの弓」を手に入れる未来を垣間見ます。
テセウスの未来に微かな希望を見出したパイドラは、テセウスと共に奴隷労働の現場から脱走を図ることを決断するのですが……。

映画「インモータルズ -神々の戦い-」で主人公となっているテセウスは、ギリシャ神話ではクレタ島の迷宮に幽閉されていた牛頭人身の怪物ミノタウロスを倒した英雄として有名を馳せている人物です。
その縁からなのか、今作の物語中盤でも当然のごとくミノタウロスと迷宮もどきが登場しており、ミノタウロス相手にテセウスが奮闘するアクションシーンが挿入されています。
今作におけるミノタウロスは、ハイペリオンの命令によってテセウスを殺しパイドラを拉致するために差し向けられた刺客、という役柄になっていました。
ただ作中のテセウスは、武芸に優れてはいるものの超人ではないので、1対1や1対数人程度の戦いならば奮闘もできるのですが、多勢に無勢という局面では数に押し切られるか、文字通りの「困った時の神頼み」で危機を脱出するかのどちらかに終始しています。
ただ、その「困った時の神頼み」の局面が実は意外に多かったりするのが、作品構成的には少々困り者ではあるのですが(-_-;;)。

また基本的なストーリー進行は、良くも悪くも単純明快で王道路線的な勧善懲悪物といったところですね。
ハイペリオンは問答無用で悪逆非道の王として描かれており、作中ではその残虐さを表現するために、母親の首を直接掻き切ったり、任務に失敗した部下を惨たらしく殺害したりするシーンなどが盛り込まれています。
個人的に印象に残ったのは、序盤でテセウスと諍いを起こし喧嘩両成敗で処分を受けたことに不満を持ち、ギリシャを裏切って自分の元に降ってきた兵士に対し、「裏切り者は信用できない」と言いながら、部下に命じて裏切り者の男性器をハンマーで潰させたシーンです。
映画の中で堂々と「去勢」の描写を展開するという事例はあまりお目にかけないものだったので、「いくらR-15とは言えそこまでやるか」というのが私の感想でしたね。

しかしこの王様、あれだけの大軍勢を率いていた割には、物語終盤で「エピロスの弓」を使いタイタン族の封印を解く際には、自分が指揮すべき軍と別行動を取り、しかもただのひとりの護衛を連れて行くことすらもなく、単身で現場に向かっていたりするんですよね。
タルタロス山の戦いにおけるイラクリオン軍は、タルタロス山の大壁で篭城するギリシャ軍を何十倍もの兵力で圧倒していたわけですし、ハイペリオンの立場であれば、その中から自分の護衛の百や二百くらい捻出することも充分に可能だったはずなのですが。
やたらと猜疑心の強い王のようでしたし、自分の護衛すらも信用していなかったのかもしれませんが、ちゃんと護衛を連れて行っていればテセウス一派の襲撃も簡単にあしらえたでしょうに。
ギリシャ軍だってどんな奇策を駆使してくるか分からないわけですし、神々の戦争介入や解放するはずのタイタン族が自分達に牙をむいて襲い掛かってくるケースも考えられるのですから、ハイペリオンは必要最低限どころか軍を二分するレベルの護衛を連れて行っても良かったのではないのかと。

ちなみに、ハイペリオンによって「去勢」されてしまった裏切り者の兵士は、ハイペリオンにテセウスに関する情報を提供する役割を担った以外は全くと言って良いほどに見せ場がなく、物語終盤のタルタロス山の戦いでも、「雑兵のひとり」同然の扱いでテセウスに瞬殺されてしまう始末。
一騎打ちに持ち込むことすらできなかったのですから哀れとしか言いようがありませんでしたね(T_T)。
序盤でテセウスと因縁もあったわけですから、最後くらい何か見せ場があるのではないかと期待していたのですが。

R-15系の残虐描写が嫌いという方にはあまりオススメできる映画ではなく、逆に血どころか肉片が飛び散るようなスプラッタ系アクションシーンが好みという方には必見の映画、と言えるでしょうか。

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