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カテゴリー「映画観賞関連」の検索結果は以下のとおりです。

映画「ライフ -いのちをつなぐ物語-」感想

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映画「ライフ -いのちをつなぐ物語-」観に行ってきました。
イギリスのBBCが製作したドキュメンタリー映画作品。

この映画は、世界各国で生息している様々な動物の変わった生態を、案内人によるナレーションでひたすら紹介していく形式で進んでいきます。
ストーリー性は皆無と言って良く、代わりに「生命の強さ」というものが作品の根幹を支えるテーマとなっています。
紹介される動物は以下の通り↓

南極       ウェッデルアザラシ
日本       ニホンザル
ケニア      アフリカゾウ
コスタリカ    イチゴヤドクガエル
コンゴ      ニシローランドゴリラ
アルゼンチン   ハキリアリ
ブラジル     フサオマキザル
ケニア      ハネジネズミ
イスラエル    アイベックス
エチオピア    ヒゲワシ
ベリーズ     バシリスク
ベネズエラ    オリオフリネラ
アメリカ     ハエジゴク
マダガスカル   カメレオン
インドネシア   コモドオオトカゲ
ケニア      チーター
アメリカ     バンドウイルカ
メキシコ沖    トビウオ
メキシコ沖    バショウカジキ
リトル・ドバゴ島 アカハシネッタイチョウ
アメリカ     カイツブリ
チリ       チリクワガタ
カナダ      ミズダコ
トンガ      ザトウクジラ

紹介内容は動物によって様々。
天敵はいないが苛酷な環境で動物を産み育てる動物。
独特のやり方で獲物を捕らえたり餌を調達したりする動物。
逆に天敵から身を守るために特殊な技能を発揮する動物。
いずれも方法は千差万別ですが、「生きる」ために様々な進化を経ていった動物達が観察できます。
個人的には、高度な農耕社会モドキな社会システムを構築していたハキリアリと、断崖絶壁を巧みに駆け上がったり下りたりしていたアイベックスが印象的でした。
それ以外の動物達も「一体これどうやって撮ったの?」と言いたくなるほど、まさに「動物目線」な映像でしたね。

世界18ヶ国24箇所で70人以上ものカメラマンが3000日以上かけて撮影を行ったというだけあって、映像はなかなか綺麗で、ドキュメンタリーとしては充分に見応えのある出来です。
動物もののドキュメンタリーが好きという方には必見でしょうか。

映画「日輪の遺産」感想

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映画「日輪の遺産」観に行ってきました。
浅田次郎原作の同名小説を映画化した作品。
この映画、私の地元熊本では熊本市中心部にある熊本シネプレックスでしか上映されていなかったため、そこまで出向いての映画観賞になりました。

この映画のメイン舞台は1945年8月なのですが、物語冒頭は2011年3月から始まります。
まずはアメリカの別荘らしき家でインタビューを受ける日系アメリカ人がクローズアップされますが、彼はその後の物語に繋がるいくつかのキーワードを並べただけでその場ではすぐに出番が終了します。
次に舞台は、同時期の森脇女子学園中等部で行われようとしている卒業式に移ります。
森脇女子学園には、戦前に空襲の犠牲となり死亡したとされる当時の女学生19人と教師1人の名が刻まれた追悼のための石碑がありました。
そこへ、車椅子に乗った老人と年の離れた奥さん、そして彼らの義理の息子(婿養子だったらしい)で構成されている3人がやってきます。
彼らは森脇女子学園に毎年多額の寄付を行うことと引き換えに中等部の卒業式に出席しており、また森脇女子学園で教師職に就いている孫娘と、その孫娘と結婚を前提として付き合っているらしい彼氏に会うことも兼ねて、今回森脇女子学園に足を踏み入れていたようでした。
しかし中等部の卒業式が厳かに執り行なわれていた最中、老人が突然発作を訴えて倒れてしまい、高齢ということもあってかそのまま帰らぬ人となってしまいます。
そして、故人の遺言で密葬が執り行なわれる中、未亡人となった奥さんは、一家の人間と孫娘の彼氏を呼び集め、森脇女子学園の石碑について「あれには本来私の名前も入るはずだった」と前置きした上で、物語の本編となる戦前の話について語り始めるのです。

1945年8月。
日本にとっては敗戦間際の絶望的な状況の中、語り部の奥さんこと金原久枝は、森脇女子学園の前身である森脇女学校の女生徒20名のひとりとして、教師・野口孝吉の指導の下、当時行われていた学徒勤労動員に従事していました。
そんな中、憲兵達が野口孝吉を治安維持法違反で逮捕・連行するという事件が発生します。
1週間後に野口孝吉は無事釈放され女生徒達のところへ戻ってくるのですが、これが伏線となって彼女達の運命が決定づけられます。
一方、日本の帝国陸軍近衛第一師団に所属している真柴司郎少佐は、東部軍経理部所属の小泉重雄主計中尉と共に軍首脳から直々に呼び出され、ある重大な密命を帯びることとなります。
その密命の内容とは、山下奉文によってもたらされたらしい、当時の金額で900億円(現在の金額換算で200兆円)にも及ぶマッカーサーの隠し財産を隠蔽するというもの。
そして、その財産を隠蔽するための勤労要員として、あの森脇女学校の女生徒20名と教師・野口孝吉に白羽の矢が立つことになるわけです。
隠し財産であることは彼女達にも秘密なので、表面的には本土決戦の際の秘密兵器を隠蔽するという口実で作業は進行されていきました。
しかし、4日間におよぶ作業の末、ようやく極秘任務完了の目処が立ってきた頃、軍上層部は真柴司郎少佐に対し、森脇女学校の女生徒と教師に対する内容の命令が送られてきます。
それは、任務の内容が外部に漏れないようにするため、隠蔽作業に従事した森脇女学校の女生徒と教師に死を与えよ、というものだったのです。

映画「日輪の遺産」は、そもそも話の前提条件自体に大きな疑問があります。
一番致命的なのは、そもそも日本側がマッカーサーの隠し財産を隠蔽する必要など、実のところ全くなかったという点です。
マッカーサーの隠し財産を接収した日本政府にしてみれば、その隠し財産をそっくりそのまま戦利品として「公式に」接収し日本の国家予算の一部に組み込み、使い切ってしまえば、何もあんな手の込んだことをしなくてもマッカーサーからの追跡の手を逃れることは簡単に行えてしまいます。
カネはいくらあってもあり過ぎということはないわけですし、戦争にせよ戦後復興にせよ、使用すべき用途はいくらでもあったはずでしょう。
むしろ、死蔵しているも同然の財産を下手に隠蔽し続けることの方が「いつ奪い取られるのか」という不安が常に付き纏う上、隠蔽している間は何の用途にも使えないという点で非合理もいいところです。
一方、マッカーサー側にしてみれば、もしマッカーサーに「自分の命令=国家の意向」レベルの無尽蔵な権力が存在する場合は、奪われた財産の額に相当する賠償金を日本政府に要求してカネを作るという手法を使ってしまえば、わざわざ自分で財産を探す必要それ自体がなくなってしまいます。
マッカーサーは労せずして自分が失った財産をいとも簡単に取り戻すことができるのですし、賠償金を要求された日本政府は、要求されたカネが払えなければ結局自分達の手で隠蔽した隠し財産を自ら掘り起こし、マッカーサーに献上せざるをえなくなるのですから。

そしてここが重要なのですが、実はGHQ時代におけるマッカーサーはそこまでの権力など持ってはいませんでしたし、そもそもあの隠し財産には「アメリカが公式に保有する公のものではない」という大きな弱みがあるのです。
マッカーサーの隠し財産はあくまでも「マッカーサー個人」のものでしかなく、しかも作中におけるマッカーサーの言動を見る限り、マッカーサーはその存在を公にすることすらなく秘密裏に探索を進めています。
アメリカ本国にしてみれば、たかだかマッカーサー個人の隠し財産を補填するだけのために日本政府にカネの要求をするなどという不毛な行為などやりたくもなかったでしょうし、またマッカーサー側からしても、下手にアメリカ本国の公的な意向を背景にしてしまうと、個人的な隠し財産をそっくりそのままアメリカ本国に接収されてしまう危険性があります。
それどころか、隠し財産の半端じゃない金額から考えると何らかの不正が行われている可能性もあるため、下手をすればアメリカ本国から脱税や公金横領等の罪に問われ、財産没収どころか政治生命すら終焉を迎えてしまうリスクもあったりしますよね。
マッカーサーが赴任していた当時のフィリピンは完全な独立国ではなく、マッカーサー本人もアメリカの軍人なのですから。
国家的な背景のない個人的な隠し財産、そこにマッカーサーの致命的な弱みがあるわけです。

また、マッカーサーは物語終盤で偶然にも日本側が隠匿した自身の隠し財産を見つけることに成功します。
ところが、その隠し財産に寄り添うように並んで転がっていた女学生19人の白骨死体と「七生報国」の鉢巻を見てヒステリックに叫びまくった挙句、隠し財産を全く回収することなく「ここは永遠に閉鎖しろ」と部下達に命じてその場を立ち去ってしまうんですよね。
私は何故マッカーサーがそんなことをしなければならないのが、疑問に思えて仕方がありませんでした。
マッカーサー的には、日本人が「簡単に自決する」ことに恐怖を感じてもいたのでしょうが、そういった事例自体を目にするのは別にその時が初めてだったというわけではないでしょう。
作中でも、隠し財産の場所を教えることと引き換えに経済政策についての提言書を受け入れるようマッカーサーに迫った小泉重雄元主計中尉が、拒否の返答を聞くやマッカーサーの眼前でピストル自殺していますし、それ以前にマッカーサーの立場であれば、日本軍の強さや特攻の実態などについて何度も目の当たりにしていたはずです。
それらのことに比べれば、たかだか女学生19人が集団自殺していた程度のことなど「路傍の石ころ」「既に周知の事実」程度の事象に過ぎないわけで、ああまでヒステリックになった挙句、900億円相当の隠し財産を放棄すらしなければならないようなことだったのかと言わざるをえないんですよね。
むしろマッカーサー的には、白骨死体を踏みつけて「バカなジャップ共が意味不明な理由で勝手に死んでくれてせいせいした」とでもふんぞり返り、隠し財産が見つけられたことに素直に欣喜雀躍しても良かったところだったでしょうに。
当時の欧米諸国が当然のように抱いていた人種差別的思想から考えても、マッカーサー個人もかなりの人種差別主義者だったことから言っても、そのように反応する方がはるかに自然だったのではないかと。
たかがあの程度のことであそこまでヒステリックになってしまう(作中の)マッカーサーって、実は軍人や政治家としての適性が著しく欠落しているのではないか、という疑念すら抱いてしまったくらいなのですけどね、私は。

とまあ、政治的な視点で見れば結構色々なツッコミどころがありますが、普通に悲劇物として観賞する分には何の問題もない作品です。
戦時下の絶望的な状況下でアレだけ明るく振る舞い&助け合い、戦争自体に批判的な声すらも上げていた女学生達が、自分達に対する軍からの命令を知った後に自ら率先して集団自決という道を選ぶ結末には驚くべきものがありましたが。
自分達に死を命じる軍の理不尽な命令なんて聞く必要はないし、何も自殺することはなかろうに……とはやはり現代人の考えなのであって、当時の風潮と、何よりも彼女達自身の「純粋さ」からは、あのような結末が導き出されてしまう必然性もあったのでしょうね。
賛否いずれにせよ、色々と考えさせてくれる作品であろうと思います。

映画「神様のカルテ」感想

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映画「神様のカルテ」観に行ってきました。
医師でもある夏川草介原作の同名小説をベースとした、地方医療における現実と患者の心の問題を描いたヒューマンドラマ系の作品。

物語の舞台は長野県松本市。
ここにあるそこそこ大きな総合病院である本庄病院で多くの患者を診る勤続5年の若き医師・栗原一止が主人公となります。
序盤の栗原一止は、表情というものがほとんどなく、目は虚ろで勤務中にしばしば独り言を呟き、さらには患者に対して淡々と事務的に対応しているかのような人物として描かれています。
重度のガン患者のひとりが危篤状態に陥った際も、その対応は事務的かつ淡々としたもので、その態度を新人の女性看護師・水無陽子に罵られていたりしています。
また、女性看護師が昼食に誘ったりする際も、「私には妻がいるから女性からの誘いには乗らないようにしているんだ」などという理由で断ったりするような「現実離れした堅物」的な一面も持ち合わせています。
その妻である栗原榛名は、作中でも長野の山々を撮影しているボランティア?の山岳写真家。
非常に良く出来た奥さんで、医師稼業で多忙を極めている夫を陰に日向に支える妻として描かれています。
趣味的には全く噛み合いそうにない上にお互い積極的でもなく、しかも恐ろしく堅物そうなあの2人が一体どうやって出会い、結婚にまで至ったのか、正直興味をそそられるところではありましたねぇ。
作中ではそのあたりの事情については全く語られませんでしたし。
まあWikipediaによれば、2人は結婚前も現在も居住している御嶽荘の住人同士という共通項があったそうなので、その縁から始まった夫婦関係ではあるのでしょうけど。

そんなある日、栗原一止にひとつの転機が訪れます。
本庄病院の消化器内科部長で栗原一止の上司でもある医師・貫田誠太郎が、信濃医科大学の研修に参加するよう栗原一止に勧めてきたのです。
勧められるがままに信濃医科大学の研修に参加した栗原一止は、大学の教授でその道の権威として知られる高山秀一郎にその医療技術を見込まれ、大学病院で勤務してみないかと誘われることになります。
より高度な最先端の医療技術を研究することが可能となる、万全の医療体制でより多くの患者を救うことも出来、もちろん自身の立身出世の道も開かれると、まさに良いことずくめの誘いであり、同僚で栗原一止の先輩である砂山次郎もまた誘いに乗るよう強く勧めてきます。
しかし、研修の最中に診断したひとりの女性の存在が、栗原一止のその後の動向に大きな影響を与えることになります。
安曇雪乃というその女性は、大学の研修では既に手の施しようがない末期ガン患者という方向で話がまとまっていきます。
そして、大学での研修を終え、再び本庄病院での勤務に勤しむ栗原一止の元に、如何なる理由でか栗原一止を探していた安曇雪乃が訪れるのです。
信濃医科大学病院で余命半年の末期ガンであると宣告された上に「その間に自分がやりたいことをやりなさい」と見捨てられたことを語る彼女に、栗原一止は「次の外来はいつにしましょうか?」と優しく語りかけるのでした。
それ以降、栗原一止は治癒の見込みがない安曇雪乃を本庄病院に受け入れるのですが……。

映画「神様のカルテ」では、患者の心の問題に医者がどのように接していくべきかについて、主人公が思い悩む姿が描かれます。
高度な技術力と的確かつ冷徹な判断力・決断力のみならず、患者の心の問題についても向き合っていくためのスキルを要求される上、医療関係者が最善の限りを尽くしても手の施しようがなく死んでしまう患者だって当然いるわけですから、医師という職種はなかなか難しいものがあります。
それだけでなく、診療しなければならない患者の許容量がオーバーしてしまい、重症患者を「たらい回し」しなければならない事態が発生することもありますし、そんな状況で患者が死んだ場合でさえ、遺族から罵倒どころか訴訟を持ち込まれることすらあるのです。
作中でも急患が受け入れられないと栗原一止が決断したり電話で話したりする場面がありましたし、「35時間連続労働」などという労働基準法を盛大に違反しているような問題を、現場の医師達がごく普通のことであるかのように話している場面があったりします。
主人公が医療現場の現実に悩み苦しむのも当然といえば当然ですね。

ただ、本当に医療問題の救いようがないところは、そういった多大な問題を抱え込んでいる日本の医療事情でさえ、世界的に見れば実は世界最高水準を誇っているという点なのですけどね。
大金持ちしかマトモな診療が受けられないアメリカ(1日の入院費用が数千ドル単位、個人破産の理由第一位が医療費等)や、診療までに恐ろしく時間がかかるイギリス(救急病院の待ち時間でさえ数時間以上はザラ、重症患者の入院・手術などは半年以上待ちが当たり前等)などの医療崩壊の実態は日本の比ではありませんし。
アメリカやイギリスにしてみれば、「神様のカルテ」で描かれている医療現場など「大多数の患者にとってありえない非現実的な理想郷」でしかないでしょうね。
日本以外の他国の人間がこの映画を観たらどんな感想を抱くのか、是非とも知りたいところではあります。

作中の描写の問題点としては、栗原夫妻が居住している御嶽荘の面々が突然のように現れるため、彼らの人間関係を理解するのに最初は苦労することが挙げられるでしょうか。
話が進むにしたがい、栗原夫妻と彼らが長年の親しい関係にあるらしいことは分かってくるのですが、原作を知らない私としては「この人達って誰?」「何故同じ屋根の下で一緒に暮らしているの?」と疑問符ばかり出ていました。
御嶽荘という住居自体、最初は「奥さんが経営している旅館か?」とすら考えていたくらいでしたし。
ただでさえ医療現場の描写に重点が置かれている中でこれらの事情をも一緒に説明するのは難しかったのでしょうし、それが学士との別れのシーンの感動を薄めるものではないのですが、その辺についてのフォローがもう少しあれば世界観の理解もしやすかったのではないかと。

ストーリーの路線としては、映画「星守る犬」のような「悲劇を伴うが未来に希望が抱ける感動ドラマ」に近いものがありますね。
作中に犬は全く出てきませんが(^^;;)。
そういう作品が好きという方であればオススメです。

映画「シャンハイ」感想

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映画「シャンハイ」観に行ってきました。
1941年10月~12月の大東亜戦争(太平洋戦争)勃発前夜の上海(シャンハイ)を舞台に繰り広げられる、アメリカ・中国合作のサスペンス作品。
ハリウッド映画でしばしば登場する日本人俳優・渡辺謙が主演している映画でもあります。
渡辺謙が出演している映画を私が観るのは、映画「インセプション」以来になりますね。

物語の冒頭は、何故か拷問を受けている主人公の描写から始まります。
拷問を受けた主人公が部屋に呼び出され、女の所在を尋ねる日本軍情報部の軍人であるタナカ大佐の描写が、観客には何のことか分からぬまま映し出されます。
そしてその直後に物語は2ヶ月前の始まりのシーンまで巻き戻されることになります。
この辺りの構成は、実は冒頭の描写が終盤のそれと繋がることになる映画「インセプション」と全く同じ構図だったりするんですよね。
やはり同じ渡辺謙出演作品ということで意識されでもしたのでしょうか?

冒頭の描写に繋がる事件の発端は、1941年10月頃に、主人公ポール・ソームズが上海のアメリカ諜報員として赴任してきたことから始まります。
ポールは、同じ諜報員にして親友でもあるコナーと、カジノで落ち合う約束をしていました。
ところが肝心のコナーは、スミコという女性を逃がすための車に乗り込もうとした際に何者かによって殺害されてしまい、当然のごとくカジノに来ることはできなかったのです。
代わりにポールの元に現れたのは、ひとりの中国人女性。
ポールはその女性とポーカー勝負を行うことになるのですが、ポールの掛け金がコイン50枚だったのに対し、女性は10倍の500枚を提示します。
それを挑発と受け取り、持ち金全部を掛け金にしたポールはスリーカードの9で勝負をするのですが、女性の持ち札はスリーカードのクィーン、結局見事に惨敗してしまいます。
しかし女性はその1勝負をしただけであっさりと席を立ち、その場を去っていくのでした。
その後、アメリカ領事館からの迎えでポールは海軍諜報部へと向かうことになるのですが、そこで待っていたのは殺された友人コナーの変わり果てた姿でした。
上司であるリチャード・アスター大佐から、コナーは上海の日本租界で殺害されたこと、そしてコナーが上海三合会のボスであるアンソニー・ランティンの調査をしていたこと、そしてアンソニー・ランティンが日本軍と深い関係にあることを知らされるポール。
上海ヘラルドという新聞の記者としての偽りの身分を得、ポールはアンソニー・ランティンが出席するドイツ領事館のパーティに潜入することになります。
そして首尾良くアンソニー・ランティンと直接会話する機会を得ることに成功したポールは、アンソニー・ランティンから2人の人物を紹介されます。
ひとりはアンソニー・ランティンの友人である日本軍情報部のタナカ大佐。
そしてもうひとりはアンソニー・ランティンの妻で、何よりもカジノでポールとポーカー勝負を行い敗北させたアンナ。
この4人を中心に、以後の物語は動いていくことになります。

映画「シャンハイ」は、舞台がちょうど大東亜戦争(太平洋戦争)勃発前夜ということもあり、「あの」真珠湾攻撃絡みのネタも出てきます。
作中では、殺害されたアメリカ諜報員であるコナーが、上海の港に停泊していた空母「加賀」についても調べており、またポールが上海沖にいる日本艦隊の様子を観察し、「加賀」をはじめとする9隻の船がいなくなっているという事実を確認するシーンもあります。
空母「加賀」は1941年12月の真珠湾攻撃に参加しており、この攻撃の準備のために上海沖から秘密裏に姿を消していた、という筋書きに作中ではなっているわけですね。
ただ、これにはひとつ問題があって、実はポールが「加賀」がいないことを確認した際、同時に空母「赤城」がいることも一緒に確認しているんですよね。
実は「赤城」も「加賀」と同じく真珠湾攻撃に参加しているので、真珠湾攻撃が目的だったのであれば、上海から「加賀」だけがいなくなって「赤城」は健在、ということは本来ありえないのです。
何故こんなチグハグなことが起こっているのか、という方がむしろ私的には疑問でしたね。
もっとも、ポールが上海沖の日本艦隊を確認した時、艦隊の周囲には濃い霧がかかっていましたし、遠目からの観察とならざるをえなかったことから艦種を間違っていた、また日本側も偽装工作として遠目からは艦隊に見えるような工作を施していた、という可能性もなくはないのですが……。

映画「シャンハイ」を観ていて思ったのは「作中の男性達は皆女性に恵まれてないなぁ」でしたね。
主人公ポールは奥さんと別れた経歴を持っていますし、タナカ大佐も上海赴任直前に奥さんが男を作った挙句に駆け落ちで逃げられたと告白するシーンがあります。
そして、妻帯者であるはずのアンソニー・ランティンは、妻アンナのことを(少々ストーカーじみたところはあったにせよ)熱烈に愛し、かつそのために何でもするような献身的な人物であったにもかかわらず、肝心の妻には全く愛されておらず、それどころかポールと抱擁するシーンが披露されたりする始末。
妻の安全を優先するあまり、それまで良好な関係を築いてきたはずの日本軍に牙を向いたりしていたのに、そこまでやってもアンナの愛はアンソニーに向けられることはなかったのですから、正直哀れみを誘うものがありましたねぇ。
アンナにとって、アンソニーは自分の安全と利害を守るための道具でしかなかったと言わんばかりでしたし。
アンソニーはアンナに愛されていないという自覚は当然あったでしょうし、だからこそ「(アンナに)近づく男は殺す」みたいなことをやっていたのでしょうね。
カネもあれば愛人だって囲っていたりしているのに、アンソニーはアンナのどこがそんなに気に入っていたのでしょうか?

サスペンスがメインストーリーということもあってか、アクションシーンは控えめの映画ですね。
内容はかなり複雑で政治的要素も濃いので、良くも悪くも大人向けの作品と言えるでしょうね。

映画「ランボー」シリーズ第5弾始動

シルヴェスター・スタローン主演の映画「ランボー」シリーズの5作目が始動したみたいですね。
正式タイトル名は「ランボー:ラスト・スタンド」だそうで↓

http://www.cinematoday.jp/page/N0034776

ストーリーは「ランボー」シリーズの1作目に近い内容になるとのこと。
「ランボー」シリーズの1作目は、「ベトナム戦争から帰還したものの、アメリカ社会から白眼視され社会的に孤立する兵士」という政治的なテーマが描かれており、当時はベトナム戦争に対する反発も手伝い、アクション映画ながらも大ヒットとまではいかなかったそうです。
そのため、2作目からはアクション色を強め、結果的に大成功を収めたのだとか(世界的に知られるようになったのも2作目からですし)。
4作目「ランボー/最後の戦場」のラストで、ランボーはアメリカの実家?とおぼしき場所に帰っているので、再びアメリカが舞台になっても問題ないんですよね。
まあ「アメリカで平和に暮らしていたランボーが誰かの依頼で再び他所の戦場へ……」というシナリオもないことはないでしょうが。

それにしても、4作目のタイトルが「ランボー/最後の戦場」などと銘打っていたので、てっきり4作目が最後の作品だとばかり思っていたのですが、次こそが最後となるのでしょうか?
スタローンも作中のランボーもかなり年食っているわけですし、シリーズを続けるにもいいかげん限界があるのではないかと。

観賞自体が困難な映画「クローバーフィールド/HAKAISHA」

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「ツリー・オブ・ライフ」などという近年稀に見る駄作を観賞した縁から、今回は未だ紹介していない他の駄作映画について少し。

実は私、映画については作中のストーリーや設定について疑問を呈することはあっても、映画そのものをクソミソに酷評するということは滅多にないんですよね。
「ツリー・オブ・ライフ」レベルまで酷評した作品というのは、私の長い映画観賞歴を振り返っても、これまでに2つしかありません。
ひとつは、1995年公開映画「きけ、わだつみの声 Last Friends」
そしてもうひとつが、今回紹介する2008年公開映画「クローバーフィールド/HAKAISHA」です。

映画「クローバーフィールド/HAKAISHA」のストーリーは、ニューヨークで突如謎の巨大怪獣が暴れる様子を、一市民の視点からリアルタイム的に描くというもの。
作中は全て撮影者が持つ「カムコーダ」というハンディタイプのビデオカメラから見た視点で描かれています。
疑問の余地なくそのせいなのですが、作中における映像は、撮影者が歩いたり走ったりするのに応じて上下左右に激しく揺れるというスバラシイ特徴があり、しかもそれがエンドロールを除く上映時間の全てにわたって展開されます。
人によっては「車酔い」のような症状に襲われることもあり、実際、海外の劇場では酔いに注意するよう観客に注意を促すところもあったのだとか。
私も酔いこそしませんでしたが、長時間にわたるブレブレの映像を見せられたこともあって最後の方では不快な気分にさせられましたね。
普通に映画を観賞することにすら多大な支障をきたす、という時点ですでにダメダメです。

そして作品を構成するストーリーもとにかく「暗い」の一言に尽きます。
PG-12指定ということもあってか、作中では無為無用に残虐描写が盛り込まれている上、最後は謎の巨大生物に主要な登場人物が全員殺されて終了というバッドエンドな展開で終わってしまいます。
作中で展開された様々な謎(たとえば「怪物が何故出てきたのか?」等)も作中のストーリーでは全く解明されていませんし、ラストが全員死亡という結末では一体何が言いたかったのかも理解不能としか言いようがありません。
ただでさえ上下左右ブレブレの見辛い映像を85分も観賞されられた挙句がこれではねぇ…。

何とか映画「クローバーフィールド/HAKAISHA」を観終わった際の感想は、
「最初から最後まで評価できるところは全くなし」
「時間とカネを無駄にした」
以外は出てきようもありませんでした。
当時「きけ、わだつみの声 Last Friends」しかなかった駄作認定作品のリストにこれを追加することにも何ら躊躇はなかったですね。
「ツリー・オブ・ライフ」もそうなのですが、駄作認定的な評価を叩きつけたくなるような映画には、できればあまり出会いたくないものではあるのですけどねぇ…。

映画「ツリー・オブ・ライフ」感想

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映画「ツリー・オブ・ライフ」観に行ってきました。
……しかしいきなりで何なのですが、この映画、製作者達が一体何をテーマにしたかったのかすらも意味不明な作品構成です。
一応公式サイト等の紹介によれば、1950年代のとある家族にスポットを当てた物語とのことなのですが、作中では何故か数十億年前の地球&生物の誕生、および進化の過程や恐竜などが描かれていたりします。
作中の登場人物がしゃべるセリフも非常に少なく、モノローグによる進行がメインだったりします。

この映画のストーリーはとにかく支離滅裂。
作中の冒頭は「(主人公の弟で)家族の次男が(不慮の事故か何かで)死んだ」という話から始まり、そこからしばらくは次男のものと思しき部屋や悲嘆に暮れる両親のシーンが描かれます。
そして、同じく悲報に接した壮年の男性ジャックが、高層ビルのエレベータに乗りながら昔を回想し始め、幼き日の思い出が映し出される……はずだったのですが、そこから始まったのは、この記事の冒頭で言及した数十億年前の地球&生物の誕生、および進化の過程や恐竜などだったりするわけです。
弟の死と地球創生に一体何の関係があるのかと目を皿のようにして注意深く映画を観賞していたのですが、その関連性は最後まで全く明らかになりませんでした。
もちろん、あれらの地球創生絡みの描写が、この後にメインで描写されることになる家族の話の伏線だったりキーワードだったりすることもありません。
この意味不明な描写の数々は物語終盤にも大量に盛り込まれていて、正直「何故こんな描写を入れなければならないのか?」と考えずにはいられませんでしたね。
作中では何度も聖書の文言がモノローグとして語られていましたし、おそらくはキリスト教絡みの神性を強調する意図でもあったのかとは思うのですが、それにしても抽象的かつ物語的な意味が無さ過ぎます。

しかも、その意味不明の描写を経てようやく始まった家族話自体、「次男の死」から始まっているにもかかわらず、肝心の次男についてのエピソードが圧倒的に少なく、メインの扱いには全然なっていないんですよね。
今では使用が禁止されている農薬・DDT(ジクロロジフェニルトリクロロエタン)の屋外散布が象徴している1950年代のテキサス州を舞台に繰り広げられる家族話は、長男である主人公が生まれてから、父親の都合で他所へ引っ越すまでのエピソードが描かれているのですが、メインとなっているのは「何かと子供達に厳しく当たる父親との確執」だったりします。
しかも最後を締めるエピソードも「父親が子供達に厳しく接した理由の告白」と「父親との和解」みたいなシロモノでしたし。
これでは次男の死から回想を始めなければならない必然性自体がないとすら言えます。
冒頭の描写は、次男ではなく父親が死んだということにしていた方が、回想エピソードとの整合性が取れたのではないでしょうか?
しかも、物語を構成する各エピソードがあまりにも飛び飛び過ぎて、物語の全体像というものが非常に把握しにくい構成になっています。
まあ製作者的には「子供に厳しい父親」「それに耐える子供達」という構図を表現することを至上命題としていたのでしょうが、起承転結というものがまるでなっていないというか……。
ブラッド・ピットをはじめとする俳優さん達の演技そのものは決して悪いものではなかったのですが、意味不明な演出の数々とストーリーの支離滅裂ぶりは評価のしようがありませんね。

映画「ツリー・オブ・ライフ」は、カンヌ国際映画祭で最高の賞となるパルム・ドール賞を受賞しているとのことです。
しかし、作品としてのストーリーが全く成り立っていない感すらあったあの作品構成の一体どこに賞に値するものがあったというのか、個人的にははなはだ疑問に思わざるをえませんでしたね。
国際的な映画の評価基準というのは一体何をベースにしているのか、そもそもそういう評価自体本当に信用に値するものなのか、とすら考えてしまいましたし。

久々に「盛大にハズレている」映画を観てしまった、というのが率直な感想ですね。
私的に他人にオススメできる映画とは到底言えたものではありません。
今年観賞する映画どころか、これまでの映画観賞歴の中でもワーストクラスに数えられるであろう駄作とすら言えますね。

映画「こちら葛飾区亀有公園前派出所 THE MOVIE ~勝どき橋を封鎖せよ!~」感想

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映画「こちら葛飾区亀有公園前派出所 THE MOVIE ~勝どき橋を封鎖せよ!~」(以下「こち亀THE MOVIE」)観に行ってきました。
週刊少年ジャンプで長寿連載されている同名の原作漫画を実写化した、2009年TBS放送ドラマ版をベースとする映画作品です。
原作については最近のものは読んでいないものの、以前はかなり面白く読んでいたクチだったので、基本的な設定などは把握した上での映画観賞となりました。
TBSで放送されていたという実写ドラマ版の方は全く観ていませんでしたが。
なお、今作で私の1ヶ月フリーパスポート使用による映画無料観賞は終了となります。

映画「こち亀THE MOVIE」では、前半と後半で作品の雰囲気がガラリと変わります。
前半はSMAPの香取慎吾が演じる主人公・両津勘吉の初恋物語と、日常風景を中心とする一種のコメディタッチなストーリーが主に展開されます。
冒頭は、東京都中央区の隅田川に架けられている勝鬨橋を、自転車通勤をしている両津が眺めつつ、少年時代の回想に入るところから始まります。
勝鬨橋には、大型の船舶を通行させるために橋の中心部が跳開する機能があり、少年時代の両津は、当時片思いだった少女・沢村桃子にトリビアネタとして語りまくります。
しかし沢村桃子はその話を信じることなく、親の都合で転校する別れの際に「そのウソのこと絶対に忘れないから」というセリフを残し去ってしまうのでした。
昔の思い出を思い出しながら、自分の勤務地である葛飾区亀有公園前派出所へと向かう両津の前に、その日が給料日ということでたまりに溜まったツケの支払いを求める亀有商店街の店主達が包囲、狭い路地を駆使した逃走劇が始まります。
逃走劇は結局、川辺で再び包囲された両津が、唯一の活路とばかりに川に向かって疾走し自転車を半壊させてとっ捕まった挙句、せっかくの給与を残金45円まできっちり削られて終了となります。
さすがに意気消沈して壊れた自転車を持ち歩いて派出所へ向かう両津は、横断歩道で通学児童達の誘導を行っている顔見知りの横田泰三にメシ代をたかります。
バナナを買ってもらい、喜び勇んでほおばっている両津は、通学している児童の中にひとり見慣れない少女を発見します。
後の話で出てくるのですが、両津は小学生相手にアイスの当たり棒を精巧に偽造して1本30円で売るなどというセコい商売をやっていたりするため、その方面でもかなり顔が広いみたいなんですよね。
そして、その少女のことが気になった両津は、川辺でひとり縮こまっていた少女に声をかけます。
両津がしばらく少女と会話していると、やがてその少女の母親らしき人物が現れ、少女に声をかけるのですが、その姿に両津は驚きの声を上げます。
その母親こそ、少年時代の両津の初恋相手だった沢村桃子その人だったのです。

沢村桃子は親の代から続いているらしい旅芸人の一座の座長を勤めており、仕事の都合で期間限定ながら再び東京に戻ってきていたのでした。
2人にとっては小学校の頃以来の再会となったわけですが、沢村桃子も当然のように両津のことを覚えており意気投合します。
娘がいるということは当然父親もいるはずなのですが、そのことについて両津が問い質したところ、父親となるべき人物は元々一座の人間だったものの結婚はしておらず、また娘が生まれる前に沢村桃子の前から突如自分の意思で姿を消してしまったのだとか。
いわゆるシングルマザーという沢村桃子の立場に「自分が付け入る隙はある」と言わんばかりに心をときめかせた両津は、沢村桃子が運営している一座に入り浸るようになり、持ち前の機転とコミュニケーション能力でたちまち一座に溶け込んでしまいます。
また、転校の繰り返しで友達も作れず暗く沈みがちだった沢村桃子の娘であるユイともあっという間に仲良くなり、彼女に友達を作るように促すのでした。
ユイが通っていた小学校のクラスでも、ユイと友達になりたいと考えるアプローチをかける少女がいたこともあり、ユイは母親が興行をしている舞台に他の同級生達を誘うことに成功するのです。
全ては順調に進んでいるかのように見えました。
しかし、ユイと積極的に友達になろうとしていた少女が警察庁長官の孫娘であったことから、ユイは誘拐事件に巻き込まれてしまいます。
そして、この誘拐事件を境に、物語はそれまでのコメディタッチな路線からシリアスな刑事ドラマ的路線へと一挙に変貌するのです。

映画「こち亀THE MOVIE」は、作品のタイトル名を見ても分かるように、2003年公開映画「踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!」が相当なまでに意識されています。
捜査戦略上、勝鬨橋を封鎖しようと画策するにもかかわらず、都知事の許可が必要なのに都知事と連絡がつかないとの理由から「勝鬨橋封鎖できません!」という場面が登場したりしますし、他ならぬレインボーブリッジも移動場面でしっかりと映し出されていたりします。
また、実は警察庁長官の孫娘が誘拐されていなかったことが判明するや否や、いかにも官僚的に通常の捜査体制に戻ろうとする警察上層部に対し、両津と中川が半ば脅迫同然の手法で強引に非常体制を維持させる描写なども、「踊る大捜査線」本家の流れに近いものがありましたね。
今作後半の両津と「踊る大捜査線」の青島俊作は、行動も結構似ているところがありましたし、「踊る大捜査線」のパロディと割り切ってみるとそれなりに楽しめる部分があるのではないかと。

前半までの両津はとにかくオーバーアクションばかりが目立っていて、序盤は「原作の両津ってこんなんだったっけ?」という疑問ばかりが頭をよぎったものでした。
TBSの実写ドラマ版でも、両津ってあんなパターンばかり披露していたのでしょうかね?
小学生相手に当たり棒のセコい商売をしていたり、大原部長の禿頭をネタにしまくった劇を作ったりした辺りの描写は「確かに原作でもこういうことやりそうだよなぁ」と頷いていましたが。
少年時代の話については、原作の話もそこそこにシリアスな構成になるので、その辺は特に違和感は覚えていなかったですね。
あと、白黒がメインの原作マンガではあまり印象に残らなかった中川圭一と秋本・カトリーヌ・麗子の制服は、実写で見ると凄く目立つシロモノになっていましたね。
両津も含めた他の警察官の制服がごく普通の標準的なものだったのに対し、中川の制服は黄色ベース、麗子のそれは赤ベースで、一目で誰なのかがすぐに分かるのですから。
これは実写ドラマ版の頃から一貫してそうだったのでしょうけど、マンガの方ではあまりカラー版を見た記憶がないこともあって、これはかなり印象が強かったですね。
実写になったことで初めて分かる意外な特徴、といったところでしょうか。

大作が目白押しの夏の映画事情から考えると、宣伝やファーストインパクトという点では、正直他の大作映画と比較してかなり遅れを取りそうな作品ではあります。
ただ、予測に反して作りは意外にしっかりしていたというのが私の感想ですね。

映画「トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン」感想

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映画「トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン」観に行ってきました。
スティーブン・スピルバーグ製作総指揮、マイケル・ベイ監督のタッグで描く、シャイア・ラブーフ主演のSFアクション超大作「トランスフォーマー」シリーズ最終章。
この作品は3D版も公開されていますが、私が観てきたのは2D&日本語吹替版になります。
なお、私は「トランスフォーマー」シリーズの前作・前々作共に映画館で観賞済みです。

物語の発端は1961年。
この年、月面の裏側(ダークサイド・ムーン)に、1隻の宇宙船が墜落します。
月面を観測していた地球は直ちにこの事実をキャッチし、調査の必要性が極秘裏に検討されるのですが、人類が初の月面着陸を実現するまでにはそれから8年もの歳月がかかることになります。
そして1969年7月20日、アポロ11号による人類初の月面着陸が達成され、アメリカ国民が歓呼の声に沸き返る中、アポロ11号の乗員達は、地上側が意図的に公開通信を途絶させた中で、宇宙船が墜落したとされるダークサイド・ムーンへと向かいます。
そこではっきりと未知の宇宙船を目撃することになった乗員達。
このことは政府の中でもトップシークレット扱いとなり、公には全く公開されないまま月日は流れます。

そして現代。
「トランスフォーマー」全シリーズ通じて主人公であるサム・ウィトウィッキー(シャイア・ラブーフ)は、大学を卒業したものの就職が決まらず無色のプータロー状態。
前作までのヒロインとは別れており、これまでの対ディセプティコン戦絡みの活躍により、ワシントンでオバマ大統領から勲章をもらった際に知り合ったカーリー・スペンサーと同棲していたりします。
トランスフォーマー絡みの戦いで彼の活躍は一応知れ渡っているはずなのですが、それが就職活動に何らプラスになっていない辺りの描写は、昨今のアメリカ(だけではないですが)の経済不況を表してでもいたのでしょうか(苦笑)。
サムが面接に行った会社の中には「お前はオバマ大統領から勲章をもらったようだが、俺は共和党支持だ」などという理由で採用を断ったところもありましたし。
はかばかしい成果が上がらない就職活動でしたが、アキュレッタ・システムズ社のブルース・ブラゾスという面接官相手に面接したところ、あからさまに好意を抱かれていないやり取りが展開されたにもかかわらず、サムは何故かメール係として社員採用されることになります。
採用に喜ぶサムでしたが、カーリーにそのことを報告しに言った際、それがカーリーが勤めている会社の社長であるディラン・グールドの推薦によるものだったことが判明。
成金趣味を見せつける上にカーリーとも仲良さ気な様子を見せつけるディランに、サムは反発を抱くのですが……。

一方その頃、前作の戦いでその存在が公のものとなったオプティマス・プライム率いるオートボット、およびウィリアム・レノックスを指揮官とする対ディセプティコン特殊部隊であるNESTは、チェルノブイリでの捜索活動中、冒頭の宇宙船に搭載されていたエンジンを発見します。
そのことから冒頭の宇宙船のことについて初めて知ることになったオプティマス・プライムは、早速宇宙船の回収に乗り出します。
ダークサイド・ムーンで放置されている宇宙船の格納庫には、オートボットの前リーダーでオプティマス・プライムの師匠的な存在でもあるセンチネル・プライムが眠りについていました。
センチネル・プライムは、惑星サイバトロンにおけるオートボットとディセプティコンとの戦い末期、ある重要な装置を持ち出して惑星サイバトロンからの脱出を図るものの、撃墜されて月面に不時着していたのでした。
センチネル・プライムが持ち出したのは、あらゆる物体を瞬時に転送してくることを可能にするテレポート装置で、かつセンチネル・プライム以外には扱うことができません。
オプティマス・プライムによって復活したセンチネル・プライムとテレポート装置を守るべく、オートボット達は奮闘するのですが、そのセンチネル・プライム自身が突如暴走を開始。
アメリカ軍によって押収されていたテレポート装置を奪取し、ディセプティコンと合流してオートボットの地球外退去を迫ります。
実はセンチネル・プライムは、敵であるはずのディセプティコンと密かに手を組み、テレポート装置を使い惑星サイバトロンそのものを呼び寄せた上で、地球の「資源」を利用して復興すべく画策していたのでした。
センチネル・プライムとディセプティコンの脅迫にあっさり屈したアメリカ政府の意向により、地球外退去を余儀なくされるオートボット達。
そしてオートボット達が乗った宇宙船を撃墜し、脅威がなくなったと確信したセンチネル・プライムとディセプティコンは、アメリカのイリノイ州シカゴを占拠し、野望実現のためにテレポート装置を動かし始めるのでした。
かくして、高層ビルが立ち並ぶシカゴを舞台に、人類と地球外金属生命体との戦いが繰り広げられることになるわけです。

映画「トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン」は、上映時間が実に157分もあります。
普通の映画の標準的な上映時間がだいたい104~110分の間であることを考えると、映画としてはかなり長時間上映される部類に入る作品であると言えるでしょう。
そこまで長い時間があるにもかかわらず、特に物語前半に色々と詰め込みすぎて展開がとにかく早く、話についていくのに結構苦労したんですよね。
作品のメインイベントはシカゴの最終決戦ですから、できるだけ早くそこに持っていきたかったのでしょうが、もうちょっとスロー展開できなかったのかなぁと。

またこれまでの「トランスフォーマー」シリーズでは、基本的にはオートボットとディセプティコンの金属生命体同士の戦いがメインだったのですが、今作ではそれ以上に主人公含めた人間達の活躍にスポットが当てられています。
ディセプティコンの圧倒的な戦力にほとんど無力同然に翻弄されながらも、最初は囚われの身となっていたカーリーを助けるため、その後はテレポート装置を破壊するため、シカゴに乗り込む主人公サムとその仲間達。
最初はただただディセプティコン側の圧倒的な戦力に翻弄されていたものの、終盤では前作でも前々作でも五体満足で逃走していたディセプティコンNo.2のスタースクリームを仕留めたり、ディセプティコン側に奇襲を仕掛けたりするなど、なかなかの健闘ぶりを見せています。
「トランスフォーマー」シリーズはあくまでの人間達の物語である、ということを見せたかったのでしょうか。

あと、今作ではディセプティコンのリーダー格であるはずのメガトロンがかなり哀れな位置付けでしたね。
前作でも前々作でも最強の風格を見せつけていたのに、今作では前作で受けた傷がほとんど癒えておらず、終盤まで戦闘面ではほとんど戦力外同然で出番なし。
ラスボスの座もセンチネル・プライムに奪われていた上に、部下達も軒並みそちらの指揮下に入っていたかのような感までありました。
挙句の果てにはカーリーの安っぽい挑発にあっさり乗ってしまい、オプティマス・プライムとセンチネル・プライムの師弟対決の場面に介入して、結果的には宿敵であるはずのオプティマス・プライムを助ける形になってしまった上、仕切り直しでオプティマス・プライムとの決着をつける戦いが始まったかと思えば、手負いのオプティマス・プライムに一瞬でやられてしまう始末。
あと15~30秒くらい介入が遅かったら漁夫の利を得ることもできたでしょうに、そのほんのちょっとの差でメガトロン的にはまさに最悪の介入となってしまっていました。
悪役としても凋落の感が否めませんでしたねぇ、アレは。

スティーブン・スピルバーグにマイケル・ベイという有名どころ2人が製作に当たっているだけあって、アクションシーンやSFX的な描写はさすが良く出来ています。
ハリウッドのそれ系な映画が好きという方には文句なしにイチ押しの作品ですね。

映画「ロック ~わんこの島~」感想

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映画「ロック ~わんこの島~」観に行ってきました。
2000年に発生した三宅島大噴火の災害で、生まれ育った島を離れざるをえなかった小学生の主人公およびその家族と、飼い犬であるゴールデンレトリバーのロックの物語です。
なお、今作で私の2011年映画観賞本数は、記録的な大豊作となった去年1年間の映画観賞総本数である35本のラインに到達しました。
8月~10月にかけても観賞予定の映画が目白押しですし、今年の最終的な映画観賞総本数は60本近くまで行きそうな状況ですね(^^)。

作品最初の舞台は1999年?~2000年当時の三宅島。
東京から船で6時間半かかるこの島の「6区」で、民宿「たいよう」を営んでいる野山一家を軸にストーリーは進行していきます。
その野山一家の長男で今作の主人公である野山芯は、ヤンキーのような風体なのにウソがつけない熱血漢の父親・松男と、「かかあ天下」という概念を具現化したような母親・貴子の下で育った小学生。
ある日、父方の祖母である房子の家で飼われていたメス犬の老犬・ハナに、1匹の犬が生まれます。
母親犬が老齢で無理な出産だったことと、出産直後は反応がなかったことから最初は死産ではないかと思われていたのですが、野山芯が仔犬の目が開いているのを発見し、喜びに湧く野山一家。
仔犬は「ロック」と名付けられ、以後、当時小学生だった野山芯が面倒を見ていくことになります。

しばしば部屋を荒らしたり母親相手に粗相をしたりして教育指導的に2度にわたり捨てられるという経験を受けながらも、野山芯と共に健やかに育っていくロック。
ところが2000年8月、突如三宅島の大噴火が発生し、島民全てが島か避難せざるをえない事態に発展します。
それに先立ち、三宅島の子供達を東京の全寮制の学校に受け入れるという方針が決定。
野山芯は当時まだ小学2年生でしかなかったにもかかわらず、ロックどころか家族とまで一時的にせよ引き離れることを余儀なくされます。
そして、東京へ移動する日に当たる2000年8月29日の朝、駄々をこねつつも両親の説得(というより母親の一喝)で東京へ向かうための車に乗り込んだ野山芯は、異変を察知して追いかけてくるロックに見送られながら三宅島から離れることになるのでした。
しかし島の状況はそれからさらに悪化し、わずか4日後の9月2日は全島民が三宅島からの離島を余儀なくされることになります。
当然、ロックも一緒に家族と一緒に三宅島から離島することになっていたのですが、ここで大きなミスが発生します。
大型犬を収納するカゴに入れられることを嫌がったロックが、あろうことかカゴから脱走し、行方をくらましてしまったのです。
ロックの生存が絶望視される状況の中で父親からそのことを告げられた野山芯は、それでも「ロックは生きている」と信じて待ち続けるのですが……。

映画「ロック ~わんこの島~」は、フジテレビ系列で放送されている朝の情報番組「めざましテレビ」の人気コーナー「きょうのわんこ」で話題となった実話を元に製作された作品です。
その紹介内容はネット上でも公開されています↓

http://www.fujitv.co.jp/meza/wanko/wsp0706.html

こちらのロックはゴールデンレトリバーではなく雑種だったようですね。
ただ、今作の元ネタとなった実在のロックは、映画クランクインの3ヶ月前に、14年11ヶ月という高齢のため亡くなったとのこと↓

http://www.cinematoday.jp/page/N0034029

実在のロックもまた、三宅島の噴火で数奇な人生を歩んでいたようですね。

映画「ロック ~わんこの島~」では、飼い犬であるロック絡みの話もさることながら、大規模災害で被災した家族が如何にして避難生活を乗り越えるかというテーマについても描かれています。
自分達の生活を維持していくため下働きに出る両親。
同じ避難民達の相談窓口担当になる祖母。
離島者達を励ます意図で開催された祭り。
野山芯の父親が母親に向かって述べていた「俺達に出来ることはひとつ、落ち込まないこと」「落ち込んだら、負けるぞ」という言葉。
そして、奇跡的にロックと再会することができたものの、避難生活を余儀なくされているが故に避難先の仮住まいでは飼うことができず、収容されていた三宅島噴火災害動物救護センターの生活でストレスが溜まり衰弱していくロックを見て、「ロックを手放す」という自身にとってもつらい決断を下す野山芯。
いずれも、三宅島からの離島で生活基盤を破壊され、いつ終わるとも知れない避難生活を余儀なくされた避難民ならではの日常風景と言えるものでしょう。
時勢柄、東日本大震災や福島第1原発の被害に遭い、まさに「いつ終わるとも知れない避難生活」を続けている被災者の人々の境遇とも重なります。
それ故に作中で描写されている避難生活は、今の日本人にとって感情移入しやすいものになっているのではないでしょうか?

あと、物語後半でロックを引き取っていった新しい里親さん達が、2005年2月に三宅島の避難命令が解除された際、どういう心境でロックを手放したのかも気になるところではありましたね。
ロックは野山芯の決断で新しい里親に引き取られていったのですが、その際、野山芯の父親が、新しい里親の人に「三宅島の避難命令が解除されたら、再びロックを自分達に返して欲しい」と土下座までして頼み込んでいました。
しかしその後1年以上経っても避難命令が解除されなかったため、「もう返すようなことにはならないだろう」と判断した新しい里親の人達は、「ロック」という名前も改名してすっかり「自分達の犬」として可愛がっており、ロックもまた新しい里親の人達に懐いていたのです。
それを避難命令が解除され、自分達のところにロックを返すよう改めて求められた新しい里親の人達は、さぞかしロックのことについて悩まざるをえなかったことでしょうね。
確かに土下座までして頼み込まれた約束を承知してしまった以上、理論的には返すのが筋ではあるのですが、彼らとてロックを引き取っていた間にロックに対する愛着も湧いてきたでしょうし、こちらも相当なまでの葛藤があったであろうことは想像に難くありません。
両者を仲裁していた女性の獣医の真希佐代子も、ロックを返してもらうよう押しかけてきた野山芯の父親相手に何度も思いとどまるように忠告すらしていたくらいでしたし。
野山一家と再会したロックは、野山芯のことをちゃんと覚えていて、嬉しそうに吠えながら野山芯に向かって駆け出してきましたが、ロックにとって果たしてどちらの飼い主が本当に大事だったのか、微妙なところではあります。
ロックの視点から見れば、「野山芯および野山一家は自分を捨てた」と解釈しても不思議ではないところですからね。
というか、両者の再会でロックが吠え出した時、笑みを浮かべる野山一家の面々を見て「アレは野山一家を拒絶している吠え声かもしれないじゃないか、その判断はまだ早過ぎる」とすら、私はついつい考えてしまったくらいだったのですが(^_^;;)。

ペットを扱った作品としての方向性は、過去に観賞した映画「わさお」に近いですね。
最初から悲劇的な結末が明示されている映画「星守る犬」は「泣くのが分かりきっているから観ない」と犬好きな人間から敬遠される傾向が多々ありましたが、その点この映画はある意味「安心して観れる作品」です。

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