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カテゴリー「映画観賞関連」の検索結果は以下のとおりです。

映画「ジャンゴ 繋がれざる者」感想

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映画「ジャンゴ 繋がれざる者」観に行ってきました。
レオナルド・ディカプリオが悪役として登場することで話題となった、クエンティン・タランティーノ監督製作のアクション映画です。
今作の日本公開は2013年3月1日のはずだったのですが、以前にも言及していたように熊本では4月6日からしか解禁されておらず、結果として1ヶ月遅れの観賞となりました。
まあ、たとえ遅れていてもきちんと地方で公開されているだけ、今作はまだマシな部類には入るのでしょうが、この映画の地域間格差は、地方在住の人間にとっては本当に泣けてくる話でしかないですね(T_T)。
なお今作は、作中に様々な拷問描写や流血シーンが満載のため、R-15指定されています。

映画「ジャンゴ 繋がれざる者」の最初の舞台は、アメリカ南北戦争勃発から2年前となる1858年のテキサス州の荒野。
当時はまだアメリカにも奴隷制度が存在していた時代であり、映画の冒頭でもスペック兄弟という2人の奴隷商人が、奴隷市場から購入した5人の黒人奴隷を鎖に繋いで連行しつつ、テキサスの荒野を移動していました。
そんなある日の夜、野宿をしていた一行の前に、荷台の上に巨大な歯のような飾りを乗せた1台の荷馬車がやってきます。
その荷馬車の持ち主で、自分のことを歯医者と名乗ったキング・シュルツは、スペック兄弟に対し「ブリトル三兄弟のことを知っている奴隷が欲しい」と申し出ます。
「ブリトル三兄弟のことを知っているか?」というキング・シュルツの奴隷への呼びかけに対し、ひとりの黒人奴隷が名乗りを上げます。
その黒人奴隷の名はジャンゴ。
目的の奴隷が見つかったことで、その場でジャンゴを買い取ろうとするキング・シュルツでしたが、突然来訪して好き勝手言いまくるキング・シュルツにも、それに応えるジャンゴにも不快感を覚えたらしいスペック兄弟はこの申し出を拒否。
のみならず、2人に銃を向け、殺害を示唆する脅迫まで行ってきたのでした。
するとキング・シュルツは、予め隠し持っていた短銃でスペック兄弟を銃撃。
ひとりをその場で殺し、もうひとりを馬の下敷きにして動きを封じこめてしまうのでした。
相手を完全に無力化させたキング・シュルツは、奴隷を売買する契約書を適当にでっち上げると、その場でジャンゴの鎖を解き自由の身にします。
そして、残った4人の奴隷に対しては、スペックを60㎞ほど離れた街へ連れて帰るか、この場で殺して自由の身になるかの選択肢を提示し、ジャンゴひとりを連れてその場を後にするのでした。
もちろん、馬の下敷きになっていたスペックはその直後、解放された残り4人の奴隷達によって殺されてしまうことになるのですが(苦笑)。

ジャンゴを引き連れたキング・シュルツは、テキサス州西部にあるエル・パソの街に辿り着き、とある酒場へと入っていきます。
この街では、黒人が酒場へ入ることが法律で禁止されているらしく、ジャンゴの姿を見た酒場の店主は悲鳴を上げて郡保安官を呼びに店を飛び出して行ってしまいます。
そしてやってきた郡保安官を、不意を突いて突然射殺してしまうキング・シュルツ。
街はたちまちのうちにパニックに陥り、今度は郡保安官よりも上位の連邦保安官が、それも集団で酒場を包囲する形でやってくることになります。
しかし、包囲されたはずのキング・シュルツはそんな様子にも全く動じることなく、自分が殺した郡保安官が実は指名手配されていた賞金首であり、連邦判事が発行したという手配書も交えて自分達の正当性を堂々と訴え、さらには賞金の200ドルを払えとまで要求する豪胆ぶりを披露していました。
そしてキング・シュルツとジャンゴは、いよいよ本命の賞金首であるブリトル三兄弟を抹殺へと向かうことになるのですが……。

映画「ジャンゴ 繋がれざる者」では、奴隷制度や黒人差別が大手を振ってまかり通っていた時代を扱っていることもあってか、白人達が黒人を「ニガー」という差別用語で呼んでいたり、大富豪が奴隷を酷虐に扱ったりするシーンなどが満載です。
特に「ニガー」については、日本であれば真っ先に言葉狩りに引っ掛かって自主規制を余儀なくされていたのではないかと思えるほどに、作中のあちこちで徹底して呼ばれまくっていました。
さすがにアメリカでも批判自体はあるようなのですが、それでも愚劣な言葉狩りの類に見舞われることのない辺りは、アメリカの良いところと言えるのではないかと。
当時のアメリカで「ニガー」という蔑称が普通に蔓延していたという歴史的事実は、差別意識の有無を問わず否定のしようがないわけですからねぇ。
まあ、アメリカにはアメリカで、日本とは全く異なる言論のタブーもあるでしょうし(特にポルノやアニメ・コミック関係の表現の問題とか)、一概にどちらが良いとは言えたものではないのでしょうけど。

予想外な展開としては、レオナルド・ディカプリオが演じるカルビン・キャンディが意外なくらいあっさり退場していたことが挙げられますね。
映画の前宣伝でも当然のごとくメインキャストな扱いでしたし、カルビン・キャンディは最後の最後で倒れるラスボス的な役どころとばかり考えていたので、あのあまりにもあっけない最後は少々拍子抜けな感がありました。
逆に、ある意味本当のラスボス的な位置付けにあるスティーブンなんて、前宣伝ではえらい小さな扱いだった上に登場も遅いですし、カルビン・キャンディと比較しても小物過ぎる感がどうにも否めないところで。
観察眼はあるにせよ、単なる偏執狂的な執事以外の何物でもなかったですし、死に様も見苦しいシロモノ以外の何物でもなかったですからねぇ。
エンタメ作品的な視点から見ると、何でこんなのがラスボスだったのか実に理解に苦しむところがあります。
素直に三下的な役回りと退場を担わせておいた方が、作品的にも映えたのではないかと思えてならないのですが。

あと、今作の主人公であるジャンゴは、キング・シュルツに奴隷から解放されて以降、彼の手ほどきで正確無比な早撃ちガンマンへと変貌しています。
キング・シュルツがどちらかと言えば「敵の隙を狙い、不意を突いて奇襲する」タイプなのに対し、ジャンゴはそれにさらに早撃ち要素を追加した形です。
元々素質自体はあったのでしょうけど、キング・シュルツと一緒に修羅場を掻い潜ることでアレだけの実力を手にしたのでしょうね。
特に終盤は、敵が気づいた時にはもう撃たれている状態の早撃ちを披露していましたし、この辺りは単純なアクション映画としても充分な見応えがありました。
個人的には、2人がタッグを組んで賞金稼ぎとして敵をなぎ倒していく光景をもう少し見てみたかったところですね。
ジャンゴも、冬の間はキング・シュルツの手伝いとして少なからぬ指名手配犯と殺り合っていたようでしたし、こちらのシーンがもう少しあっても良かったのではないかと。

ところで、カルビン・キャンディが最期を迎える寸前、彼はキング・シュルツに握手を執拗に求め、それが生命取りになってしまったのですが、アレは結局何を意図して行ったものだったのでしょうか?
まさか、純粋に表層的な礼儀作法にあそこまでこだわったわけではないでしょうし、詐欺なやり取りを交わしたジャンゴとキング・シュルツとの間に本当の信頼関係が築けるなどというお花畑な思考が働いたわけでもないでしょう。
となると、カルビン・キャンディ的には何らかの意趣返しな意図があったと考えるのが自然なのではないかと思うのですが、それにしてはああいう行為をカルビン・キャンディがしなければならない理由がないんですよね。
カルビン・キャンディが殺害された後、外で待機していたであろう用心棒が大挙して屋敷を囲ったところを見ると、カルビン・キャンディは元々自分に恥をかかせたあの2人&ジャンゴの妻ブルームヒルダを五体満足に逃がすつもりなど最初からさらさらなく、遮蔽物も何もない屋敷の外で完全包囲してなぶり殺しにするつもりだったのではないかと私は疑っていたくらいだったのですし。
むしろ、作中で自身が殺害されてしまったように、わざわざ敵に隙を見せるような危険な行為を、何故カルビン・キャンディが自ら率先して行わなければならないのかと。
不愉快な人間に屈辱を与えることで精神的な満足が得たかった、的なしょうもない動機からくるものだったりするのでしょうかね、アレって。

アメリカ西部劇系やスピーディなアクション映画が好みな方には、文句なしにオススメできる一品です。

映画「相棒シリーズ X DAY」感想

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映画「相棒シリーズ X DAY」観に行ってきました。
人気テレビドラマ「相棒」シリーズのスピンオフ作品で、同シリーズの脇役である警視庁刑事部捜査一課の伊丹憲一と、警視庁サイバー犯罪対策課の岩月彬をコンビが主人公の物語となります。
今作では休暇でイギリスにいるらしい杉下右京や、杉下右京の元相棒である神戸尊もチョイ役で出演していますが、本当にちょこっとだけしか登場していないですね(苦笑)。
私の「相棒」シリーズの映画観賞歴は、2010年末に公開された「相棒-劇場版Ⅱ- 警視庁占拠!特命係の一番長い夜」に続き今作で2作目。
あの頃と同じく、TVシリーズの「相棒」は相変わらずほとんど観賞していなかったりするのですけどね(^^;;)。

東京のとあるビルの下で、燃やされた数十枚の1万円札と共に屋上から落下したと思しき男性の遺体が見つかり、警察が捜査に入るところから物語は始まります。
今作限定ながらも晴れて脇役から主役へと出世することになった警視庁刑事部捜査一課の伊丹憲一は、現場検証の最中、ひとりの来訪者を迎えることとなります。
その人物、警視庁生活安全部サイバー犯罪対策課の岩月彬は、今回の事件で遺体となった中山雄吾が、実は岩月彬が一週間かけて追跡していた不正アクセス事件の容疑者であったことを告げます。
そこまで追跡していたのだからさぞかし遺体に関心があるのかと思いきや、岩月彬は「殺人事件は自分の管轄外だから」と、これで自分の仕事は終わったとばかりにその場を立ち去ろうとします。
その態度に腹を立てた伊丹憲一と、自分の職分にのみ忠実な岩月彬は、以後、顔を合わせる度に皮肉の応酬を交わすほどの犬猿の仲となってしまいます。
中山雄吾は、死亡する直前にあるデータをネット上にばら撒いており、そのデータは何者かによって削除依頼がプロバイダ管理者等によって頻繁に出されていました。
元々中山雄吾は東京明和銀行のシステムエンジニアであったことから、削除依頼は東京明和銀行の上司が出したのではないかと伊丹憲一は睨みます。
そして伊丹憲一は、東京明和銀行の上司・朽木貞義と面談する際、あくまでも不正アクセス事件のみを追う岩月彬と偶然鉢合わせすることになります。
2人は朽木貞義から、ネット上に流出したとされるデータを入手。
ところがここでも、どちらがデータ調査の主導権を握るかを巡り、2人は対立することになります。
結局、その場は岩月彬が伊丹憲一を完全無視してデータを持ち去るという形で決着するのですが。
さらに2人にとって災難は続き、その後、警視庁の捜査本部で二人一組のチームを編成することになった際、刑事部と生活安全部でそれぞれ1人ずつ余りが生じたことから、2人は全く異なる所轄でありながら上層部の意向によってコンビを組まされる事態となってしまうのでした。
考え方も行動原理もまるで正反対な2人は、互いに苦虫を噛み潰すような表情を浮かべながらも、捜査に乗り出していくことになるのですが……。

映画「相棒シリーズ X DAY」は、昨今の金融問題が大きなテーマとなっている作品です。
日本政府は数百兆~千兆円規模の借金を抱えているとか、少子高齢化で経済が衰退していくとか、今やすっかり決まり文句と化した感すらあるプロパガンダが展開されています。
作中でも、財務省関係者や政治家達が、「日本国債は暴落する」だの「日本経済は破綻する」だのといったスローガンを堂々とのたまい、しかもそれが具現化する日を「XDay」と呼んでいる始末です。
ところが現実には、当の財務省自身が、とにかく日本の格付けを下げる方向にばかり動く外国の格付け会社に対し、こんな意見書要旨を出している過去があったりするんですよね↓

http://www.mof.go.jp/about_mof/other/other/rating/p140430.htm
> 1.貴社による日本国債の格付けについては、当方としては日本経済の強固なファンダメンタルズを考えると既に低過ぎ、更なる格下げは根拠を欠くと考えている。貴社の格付け判定は、従来より定性的な説明が大宗である一方、客観的な基準を欠き、これは、格付けの信頼性にも関わる大きな問題と考えている。
>  従って、以下の諸点に関し、貴社の考え方を具体的・定量的に明らかにされたい。
>
> (1)日・米など先進国の
自国通貨建て国債のデフォルトは考えられない。デフォルトとして如何なる事態を想定しているのか。
>
> (2)格付けは財政状態のみならず、広い経済全体の文脈、特に経済のファンダメンタルズを考慮し、総合的に判断されるべきである。
>  例えば、以下の要素をどのように評価しているのか。
> ・ マクロ的に見れば、
日本は世界最大の貯蓄超過国
> ・ その結果、
国債はほとんど国内で極めて低金利で安定的に消化されている
> ・ 日本は世界最大の経常黒字国、債権国であり、外貨準備も世界最高
>
> (3)各国間の格付けの整合性に疑問。次のような例はどのように説明されるのか。
> ・ 一人当たりのGDPが日本の1/3でかつ大きな経常赤字国でも、日本より格付けが高い国がある。
> ・ 1976年のポンド危機とIMF借入れの僅か2年後(1978年)に発行された英国の外債や双子の赤字の持続性が疑問視された1980年代半ばの米国債はAAA格を維持した。
> ・ 日本国債がシングルAに格下げされれば、日本より経済のファンダメンタルズではるかに格差のある新興市場国と同格付けとなる。
>
> 2.以上の疑問の提示は、日本政府が改革について真剣ではないということでは全くない。政府は実際、財政構造改革をはじめとする各般の構造改革を真摯に遂行している。同時に、格付けについて、市場はより客観性・透明性の高い方法論や基準を必要としている。

この意見書要旨は2002年に出されたものなのですが、リーマン・ショック後でさえも日本の国債は買い手がつかないどころか、逆にますます買い手超過・金利低下が続くありさま。
日本経済の実態は、とても作中で言われているような「XDay」なるものが出現するような状況からは程遠いものがあるという事実を、他ならぬ財務省自身が主張しているわけです。
にもかかわらず、作中の警察幹部や財務省関係者達が「XDay」なるものの脅威を声高に説いた挙句、それに関連して「日本人は複雑な真実よりも分かりやすいウソを信じる」などとのたまうに至っては、一種のコメディとして大いに笑えるものがありますね。
まさか、上記引用の意見書要旨が「分かりやすいウソ」なわけがないのですし、そもそもそんなウソを、財務省が、しかも日本国内ではなく外国の格付け会社相手につかなければならない理由自体が全くありません。
日本国内向けのプロパガンダと違い、外国向けの意見書要旨というのは、下手すれば外交問題にまで発展するレベルのリスクがあるのですから当然のことです。
となると、作中で大いに謳われている「XDay」というもの自体が、実は財務省が考える壮大なまでのウソであり、作中の登場人物達はまんまとそれに騙されている、という全く逆の構図も実は立派に成立しえるわけですね。
財務省が「XDay」のような日本経済の破綻を訴えるのには大きな理由があります。
それは第一に「増税がしたい」からであり、第二に「天下り先が欲しい」からです。
「このままでは日本経済は破綻する、【だから】増税をしなければならない」というのは、増税反対の声をかき消すのには充分な説得力を持ちえます。
1998年の消費税増税や、民主党政権下で決定された三党合意の消費増税などは、まさにこの論法に基づいて決められたものですし、だからこそ彼らは「日本経済の破綻【という名の葵の印籠】」を、増税反対の声を抑えるために何かと振りかざすわけです。
そして一方、増税が決定されれば、財務省はその権限を大いに駆使することで、特定の組織に対して「お前のところの税率は低めにしておいてやるから天下りさせろ」と主張することも可能となるわけです。
消費税の増税問題では、日用品や出版物などに対する軽減税率の適用が何かと話題になっていますが、これもその一環だったりするわけで。
財務省にとっての「日本経済の破綻」というスローガンは、自分達の利益を通すのに非常に都合の良い「分かりやすいウソ」である、というわけです。
そういう観点から見ると、作中における「XDay」というのは、作品の意図とは全く異なるもうひとつの意味を持ってくることになりますね。
「日本経済は安泰だ」という「分かりやすいウソ」に騙される人間を嘲笑っている政財界の大物達が、「日本経済は破綻する」という「分かりやすいウソ」に騙されていることに気づかない、などという「複雑な真実」の構図が現出することになるわけで。
まあ、映画の製作者達がそこまでの意図やメッセージを込める形で今作を製作したのかと問われると、私も大いに疑問符をつけざるをえないところではあるのですけど。
作中の登場人物達は、杉下右京や岩月彬も含め、「XDayは実際に起こりえる」という前提を当然のものと考えた上で「XDay」について語っていたりするわけですからねぇ(-_-;;)。

「XDay」関連以外の作中の展開に目を向けてみると、今作の主人公である伊丹憲一と岩月彬が、顔を合わせる度に皮肉の応酬を交わしながらも、次第に分かりあっていく過程が、王道的な展開ながらも良かったですね。
当初はやたら淡々としていた岩月彬も、物語終盤では意外にも犯罪を追う熱血漢と化していましたし。
このコンビ、映画後も続くことになるのでしょうかねぇ。

刑事物や「相棒」シリーズのファンであれば、やはり今作はオススメの一品なのではないかと。

映画「だいじょうぶ3組」感想

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映画「だいじょうぶ3組」観に行ってきました。
「五体不満足」の著書で知られるベストセラー作家・乙武洋匡(おとたけひろただ)の同名小説を原作とし、さらに同作品に登場する「生まれつき手足のない新任教師」を、原作者自ら出演&熱演する人間ドラマ作品です。

東京の郊外にある松浦西小学校。
新学期を迎えるとある年の4月、5年3組に二人一組の教師が赴任してきました。
ひとりは、生まれつき両手足がないという先天性四肢切断を持ち、松浦西小学校5年3組を担当することになった新任教師・赤尾慎之介。
もうひとりは、一応今作の主人公で、教育委員会から派遣した赤尾慎之介のサポート役の補助職員・白石優作。
2人は仕事仲間であると同時に幼馴染の関係にもあり、互いにタメ口で語り合う仲でもあります。
新学期初日から遅刻してきたらしい2人は、赤尾慎之介の手足のない身体に驚きの表情を浮かべる5年3組28名の生徒達に挨拶した後、職員室で早々に遅刻について叱られることになってしまいます。
さらに5年1組を受け持つ担任教師・青柳秀子には、「もっと教師としての自覚を持ってください」などとキツい調子で釘を指される始末。
しかし、赤尾慎之介はそれでもメゲることはなく、担任就任早々に今度は桜の大木の下にホワイトボードを持ち出し、5年3組の生徒一同を集めてホームルームの授業をおっぱじめたりするのでした。
当然、青柳秀子はカンカンに怒って補助職員の白石優作に詰め寄り、白石優作は言い訳と謝罪に四苦八苦することになるのですが(苦笑)。

それからしばらく経過したある日。
5年3組の生徒のひとりである「ブーちゃん」こと山部幸二の上履きが紛失するという事件が発生します。
報告を受けた赤尾慎之介と白石優作は、生徒全員に上履きを探させると共に自分も一緒に学校中を探し回るのですが、紛失した上履きは全く見つかりません。
そんな中、5年3組では、上履きを隠した人間がクラス内にいるのではないかという疑惑が持ち上がります。
5年3組はクラスメイト同士が掴み合いを始めるほどに騒然となりますが、赤尾慎之介の取りなしで何とかその場は沈静化し、事件はとりあえず棚上げにされます。
その後、運動会や遠足など、様々なイベントを迎えることになる5年3組の面々達。
そして赤尾慎之介は、その中でクラスメイト達の信奉を少しずつ獲得していくことになるのですが……。

映画「だいじょうぶ3組」では、原作者たる乙武洋匡が自ら演じる「生まれつき手足のない新任教師」こと赤尾慎之介を補助する、TOKIOの国分太一が扮する教育委員会の職員・白石優作が主人公ということになっています。
ところが実際には、作中における登場頻度や露出度は、どう見ても赤尾慎之介の方が圧倒的に多く、逆に白石優作のそれは、むしろ全体的に見てもかなり少ない部類に入るようにすら思われるくらいなんですよね。
かく言う私自身、エンドロールで国分太一の名前が一番最初に出てくるのを見るまでは、てっきり乙武洋匡の方が主演だとばかり考えていたくらいでしたし。
原作自体が乙武洋匡の自伝ということもあり、当然主演もそちらだろうと考えるのが自然だったのですから、これはちょっとした驚きでしたね。
まあ実質的には、国分太一と乙武洋匡の2人が主演ということではあったのでしょうけど。

その国分太一が演じる白石優作は、かつては作中の赤尾慎之介と同じく教師だったものの、昨今話題になっているモンスタークレーマーへの対応に忙殺された挙句、教師職から教育委員会へ異動となって挫折を味わったという過去を持っています。
赤尾慎之介の補助職員になったのも、幼馴染の要望を叶えると同時に、かつてのように子供達と再び向き合いたいからという理由もあったのだそうで。
そんな彼にとって、生徒達の信頼を次々と勝ち取っていく赤尾慎之介の存在は、さぞかし眩しいものに見えたことでしょうね。
特に物語後半では、登山遠足のために同行できない赤尾慎之介と一緒に遠足に行くべく、5年3組の生徒達が一丸となって校長に陳情するという光景まで現出しているわけですし。
並の教師どころか、それなりに慕われている教師でさえ、生徒をそこまで駆り立ているのは至難の業もいいところでしょう。
そりゃ白石優作も、赤尾慎之介相手にある種の尊敬と敗北感も覚えようというものです。
それが、登山遠足で生徒と昼食を兼ねた休憩をしていた際に現れたのでしょうね。
もちろん、当の赤尾慎之介は赤尾慎之介で、障害者としての悩みや葛藤もあれば、健常者に対して越えられない壁のようなコンプレックスを常に抱いていたりもするのですが。

今作の大きな特徴のひとつは、手足がない赤尾慎之介が、普段どのように日常生活を送っているのかがきっちり描かれている点ですね。
普段どうやって食事をしているのかとか、手紙に文字を書く様子とか、電動車椅子なしで階段を上る様とか、作中の赤尾慎之介というより原作者の乙武洋匡が普段やっていることが再現されているような感じでした。
物語序盤でも、生徒達が興味津々で赤尾慎之介が食事をする様に注目しているシーンがありましたが、観客にしてもそれは同じ心境だったことでしょう。
こういう描写が生々しく描かれている作品というのは、映画に限らず巷のエンターテイメント媒体でもそうそうあるものではないので、その点は結構新鮮な部分がありましたね。
この辺りは、さすが「五体不満足」の著者である乙武洋匡ならではの体当たりな演技が光っていると言えるでしょうか。
一方で、白石優作の恋人らしい坂本美由紀は、正直作中での存在意義が今ひとつ分かりにくい存在でした。
いくら白石優作が忙しそうにしているからって、変に遠慮して自己主張を控えた挙句、自分で勝手に不満を爆発させている様は、見ていてもどかしいものがあった上に「面倒な女だな」と考えるのに充分なものがありましたし。
彼女の言動から垣間見えるその心情は「もっと私のことを見て!」というものではあったのでしょうけど、別に白石優作だって坂本美由紀に全く構わなかったわけではなく、彼的にはむしろ誠実に向き合っていた部類に入るでしょうに。
相手が浮気をしているとか、なおざりな態度に終始しているとか言った事情でもあるのならともかく、そうではないのに不満を鬱積させるというのはどうにも理解に苦しむものがありますね。
映画ではラストで強引に上手く行きそうな雰囲気に収めようとしていましたが、あの後の2人の関係って果たしてどうなるのでしょうかね?

元々が自伝ということもあり、作中の物語は淡々とした調子で進行していくため、アクションシーンや手に汗握るスリリングな展開等の派手な描写は一切存在しない作品です。
しかし、教師・生徒それぞれが抱く葛藤や心の交流など、人間ドラマ的な要素はそれなりに「魅せる」ものがある映画でもあります。
そういったものが好きな方と、あとは作中の小学校の風景を見て昔を懐かしみたい方にはオススメの作品であると言えるでしょうか。

映画「ジャックと天空の巨人(3D版)」感想

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映画「ジャックと天空の巨人」観に行ってきました。
イギリスの有名な童話「ジャックと豆の木」および「Jack the Giant Killer」をベースに、天空に浮かぶ島に生息する巨人と人間の戦いを描いた冒険ファンタジー作品。
今作は2D・3Dの同時上映なのですが、観賞可能な時間帯には3D版しか公開されていなかったため、今回は泣く泣く3D日本語吹替版での観賞となりました(T_T)。
カネがかかるだけの3D版なんて、できることなら観賞したくなどないのですけどねぇ、私は。
相変わらず、3Dについては悪戯に目が疲れるだけのどうでも良い出来でしかなかったですし。

物語の冒頭は、母親を亡くして父子家庭で育っている幼いジャックが、父親にせがんで「天空の巨人の伝説」を読んでもらうところから始まります。
同じ頃、王城ではこれまた王妃にせがんで同じ伝説を呼んでもらっているジャックと同年輩のイザベラ王女の姿がありました。
父親と王妃が共に読んでいた「天空の巨人の伝説」の内容は、地上で闇の魔力?を持つ種から巨大なツタが天へ向かって伸びていき、そこから巨人がやってくるというもの。
人間達は巨人と凄惨な戦いを繰り広げたものの、図体に物を言わせた巨人達の膂力は圧倒的であり、人間側は一方的に蹂躙されていました。
しかし人間側は一計を案じ、ひとりの巨人を殺して手にした心臓を元に、ひとつの冠を作り上げます。
巨人達はその冠を持つ者の命令には絶対的な服従を余儀なくされ、結果、人間達は巨人達に「天へ帰れ」と命じて巨人達を撤退させることに成功。
そして、巨人達が昇っていったツタを切断して地上と天空を繋ぐルートを断ち切り、ようやく地上に平和が訪れたのでした。
当時の王様であるエリック王は英雄として崇められることになります。
そして後には、巨人を退避させた冠と、巨大なツタを生やす魔法の種数粒が残されたのでした。
この「天空の巨人の伝説」を聞かされたジャックとイザベラは満足し、それぞれ父親と王妃に見守られながら、眠りにつくことになるのでした。

それから10年後。
父親を亡くし、叔父に引き取られていたジャックは、馬と荷台を売り払って当座のカネを作るべく、王城がある城下町へとやってきていました。
長年親しんできた馬との別れを惜しみながら買い取り手を捜し歩く中、ジャックは幼い頃に両親に読んでもらっていた「天空の巨人の伝説」の舞台公演が行われている場所に辿り着きます。
そこでジャックは、ひそかに城を抜け出し、フードをかぶって顔を隠しながら舞台を観覧していた王女イザベラと初対面することとなるのでした。
王女を探していた騎士団と共に王女が去り、舞台観覧の間に荷台が紛失してしまったことに気付いたジャックは、とりあえず馬だけでもカネにしようと買い取り手探しを再開します。
そこへ、何やらワケありの修道僧がジャックに声をかけ、馬を譲ってもらいたいと申し出てきます。
ところがその修道僧には持ち合わせがなく、ジャックに対し数粒の豆を渡し、それを修道院に持っていけばカネに変えてくれるとジャックを諭します。
ただし、その豆は決して水に濡らしてはならない、とも。
ジャックが返答を渋って考え込んでいる間に、その修道僧はさっさと馬に飛び乗ってその場を立ち去ってしまい、ジャックはカネを手にするための手段を全て失ってしまうのでした。
ジャックはショックを受けながらも、修道僧からもらった豆を手に、叔父が待つ家に戻ることとなるのですが……。

映画「ジャックと天空の巨人」は、前半部分は童話「ジャックと豆の木」のストーリーをなぞりつつ、王国の陰謀劇なども織り交ぜ、巨人との戦いがメインとなる物語中盤以降は完全オリジナルな展開が繰り広げられます。
事前予測に反してアクションシーンも多く、特に物語後半は巨人を相手にした城塞の攻防戦をメインに扱っていることもあり、なかなかに見応えのある構成となっています
決して客受けしない映画ではなく、スタンダードに面白い作品なのではないかと思われます。
にもかかわらず今作は、アメリカで劇場公開されて以降、その製作費に比べて悲惨なまでの興行収益しか稼げていないという惨状を呈しているみたいなんですよね↓

http://www.cinematoday.jp/page/N0050847
>  [シネマトゥデイ芸能ニュース] 新作が不調だった今週末は、1,000万ドル(約9億円)以上の興収を記録した作品は、トップの映画『ジャックと天空の巨人』のみで、それも決して大ヒットとはいい難い2,720万ドル(約24億4,800万円)という結果となった。(1ドル90円計算)
>
>  世界の子どもたちから愛されている童話「ジャックと豆の木」をベースに、
製作費をおよそ2億ドル(約180億円)もかけ、映画『X-MEN』シリーズでおなじみのブライアン・シンガー監督がメガホンを取った本作は、高い興収を期待されていたのだが、主演ニコラス・ホルトの知名度の低さや、CGIの巨人たちがグロテスクなことなどが災いし、かなり不本意な結果に……。

http://www.cinematoday.jp/page/N0051062
>  代わって第2位は、映画『ジャックと天空の巨人』で984万ドル(約8億8,560万円)。去年の今ごろに公開され、散々な結果に終わった映画『ジョン・カーター』がよく引き合いに出されているが、『ジャックと天空の巨人』の2週目における下降率63.8パーセントは、『ジョン・カーター』の同時期55パーセント降下よりも大きく、このままいくとトータルの興収は『ジョン・カーター』を下回る6,000万ドル(約54億円)にも達しないのではと予想されている。

http://www.cinematoday.jp/page/N0051291
>  代わって第4位は、映画『ジャックと天空の巨人』で632万ドル(約5億6,880万円)。これまでの興収トータルは5,401万ドル(約48億6,090万円)となっている。

アメリカの映画公開から既に3週間の時間が経過してさえ、製作費のようやく4分の1強を回収した程度でしかないというのは、ほとんど壊滅的な成績であるとしか言いようがないですね。
上記記事でも引き合いに出されている映画「ジョン・カーター」も、2012年トップクラスと謳われる「悲惨なまでの赤字映画」として知られていますし。
日本を含めた世界各国ではまだまだこれからとは言え、本家アメリカでこのスタートは正直かなり厳しいものがあるでしょう。
しかし、これは「ジョン・カーター」もそうだったのですが、今作も内容的にも演出面でも決して客受けしない駄作というわけではなく、充分な集客力もありそうな作品だというのに、一体何がここまで興行収益を左右しているのでしょうかね?
仮にも2億ドルもの製作費をかけているのであれば、宣伝広報の類だってそれなりに展開はしているでしょうし、「ジャックと豆の木」という世界的にも知名度が高いであろう童話をベースにしているのであれば、無名というわけではないのですし一定の客もつきそうなものではあるのですが。
今作の公開とほぼ同時期に、映画「オズ はじまりの戦い」も劇場公開されていて、しかもこちらは大ヒットしているようなので、客足をそちらに取られでもしたのでしょうかねぇ(-_-;;)。
内容は悪くないのに興行収益的に駄作扱いされるというのは、何とももったいない話であるとしか言いようがないのですが……。

作品内容に目を向けてみると、個人的に惜しいと思われるのは、イザベラ王女の許嫁で王家簒奪の野心を胸に秘めているロデリック卿とその部下が、かなり早い段階でさっさと物語から退場してしまうことですね。
序盤から中盤にかけてアレほどまでに分かりやすい大物な黒幕ぶりを演出していながら、あんなしょうもない油断からエルモントとの一騎打ちに引きずり込まれた挙句にあっさり討ち取られてしまうというのは、正直「竜頭蛇尾」な感が否めないところですね。
私はてっきり、ロデリック卿は物語終盤近くまで生き残りつつ、ジャックやエルモントやイザベル王女と対峙しつつ、巨人や王国も交えた三つ巴な戦いを繰り広げるものとばかり考えていたので、あの早すぎる退場は期待外れもはなはだしかったです。
巨人達は、ラスボスである二対の頭を持つファロン将軍も含め、どいつもこいつも脳筋な頭しか持ち合わせていませんでしたし、頭脳派のロデリック卿がいなくなったのはその点でも手痛いダメージでした。
物語終盤の巨人達の王城攻撃は、膂力と体格に物を言わせた力任せなシロモノにしかなっていなかったですし。
王城の地理も政治も熟知しているロデリック卿が巨人達を率いていれば、終盤の王城攻防戦もあるいは巨人側の勝利に帰したかもしれなかったのですが。
映画の演出面でも、当然のごとく巨人を従える冠を持つロデリック卿を主人公達が倒すことで、巨人達との戦いにも終止符が打てるという流れに持っていけるわけですし、彼のあまりにあっさりし過ぎな退場は何とも惜しまれるところではありますね。
ただそれを除いても、ジャックが持っていた魔法の豆の使った巨人退治や、ラストの王冠のオチなど、小道具の使い方はなかなかに上手いものがあったのですけど。

どの年齢層を問わず、老若男女誰もが楽しめるスタンダードな映画に仕上がっているのではないかと思います。

最近のハリウッド映画ではセックスシーンが減っている?

ハリウッド映画からセックスシーンが激減したと、アメリカの雑誌で報じられているようです↓

http://eiga.com/news/20130320/14/
> [映画.com ニュース] ハリウッド映画からセックスシーンが激減していると、エンターテインメント・ウィークリー誌が報じた。
>
> 「氷の微笑」「ゴースト」「テルマ&ルイーズ」を例に挙げるまでもなく、
かつてハリウッド映画にセックスシーンがつきものだった。しかし現在、メジャー映画ではかなり減少しており、今年の第85回アカデミー賞作品賞にノミネートされた全9作品うち、セックスシーンが含まれているものはひとつもない。
>
> ジェニファー・ローレンスが、性に奔放なキャラクターを演じ主演女優賞を受賞した「世界にひとつのプレイブック」でも、濡れ場は皆無。ハリウッドのメジャースタジオの依頼で脚本分析をするメディア調査会社IPSOSの重役は、過去2年間で劇的にセックスシーンが減ったことを
「カットされることになると分かっているので、脚本家が最初から省くようになりました」と説明する。
>
> では、どのような理由でスタジオはセックスシーンをカットするようになったのか。それには、複数の理由が考えられる。まず、興行収入をアップさせるためには、若年層の動員が欠かせない。そのためには、
17歳以下の入場を禁止するR指定ではなく、R-13(13歳未満の子どもの鑑賞については保護者の注意が必要)に抑える必要がある。映画のレイティングを審査するMPAAは、暴力描写よりもヌードやセックス描写に厳しいことで知られていることもある。
>
> さらに、インターネットの普及によるヌードの価値低下が挙げられる。いまではオンライン上のアダルトサイトで容易にヌードを閲覧できるため、映画におけるヌードシーンが観客動員につながらなくなってしまったという。そして、VFXの躍進。VFXこそ観客動員の鍵となっているため、派手な映像に力を入れるようになったことも一因になっているようだ。もっとも、この傾向がみられるのはハリウッドのメジャー作品に限定されている。

しかし、そもそもハリウッド映画って、そこまでセックスシーンを大々的に売りにしていましたっけ?
昔からハリウッド映画に慣れ親しんでいた私でも、セックスシーンをそこまで売りにしている作品にはあまり心当たりがないのですが。
去年日本で公開され私が観賞した映画だけを見ても、セックスシーンそのものや婉曲な描写を持つ洋画作品は、ざっと思い浮かぶだけでもR-15指定の「ドラゴン・タトゥーの女」「ラム・ダイアリー」、名にも指定されていない作品でも「Black & White/ブラック&ホワイト」「スターシップ・トゥルーパーズ インベイジョン」「007 スカイフォール」とそれなりの数はあります。
ただ、これらの作品は別にセックスシーンが「売り」というわけではなく、物語の構成要素のひとつとしてたまたまセックスシーンが入っているだけという一面が強いでしょう。
そしてそれは、特にセックスや性の問題をテーマにした作品でもない限りは、ハリウッド映画のスタンダードなあり方でもあったわけで。
昔からアクションシーン等の派手な描写を売りにしてきたハリウッド映画に、セックスや性の問題を扱った作品が元からそこまで多かったわけでもないでしょうし、「激減」とまで言われるほどに数が減っているようにはあまり思えないところなのですけどね。

記事にもあるように、セックスシーンの有無はR-15&PG-12指定の問題とも絡み、ひいては興行収益にも多大な影響を及ぼすので、避ける傾向にあることは確かにそうでしょう。
ただ逆に、R-15&PG-12指定の作品だと、セックスやバイオレンスな描写が昔よりも過激になっている一面もありそうな感じなのですが。
言ってみれば、通常の作品とR-15&PG-12指定作品との「棲み分け」が進んだ結果、セックスシーンもしくはそれを匂わせる「通常の作品」が減ったのではないか、というのが実態に近いのではないかと。
実際、「テッド」のような下ネタ満載のR-15作品なども増えているわけですし。
先日観賞したPG-12指定映画「クラウド アトラス」でも、モロなセックスシーンが普通にあったりしましたからねぇ。
昨今の映画を見ても、セックスシーンを扱う作品は昔と比べてもそこまで減ってなどいないのではないか、という感触すら感じられるくらいなのですが、実際はどんなものなのでしょうか?

映画「クラウド アトラス」感想

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映画「クラウド アトラス」観に行ってきました。
アメリカ・ドイツ・シンガポール・香港の4ヵ国共同合作で、トム・ハンクス等の有名俳優が多数出演している作品。
今作では、作中に様々なバイオレンス・セックス描写に加えてゲイ描写までもがあるためPG-12指定されています。
内容的にはR-15でも違和感がなかったシロモノでしたが(苦笑)。

映画「クラウド アトラス」の舞台となる時代は、1849年・1936年・1973年・2012年・2144年・2321年の6つであり、それぞれに事情が異なる6人の主人公とそれに付随するエピソードが存在します。
1849年の奴隷貿易が華やかりし時代、南大西洋でアメリカへ帰る途上にある弁護士アダム・ユーイングの話。
1936年のイギリス・スコットランドで、映画のタイトルにもなっている幻の交響曲「クラウドアトラス6重奏」を完成させる作曲家ロバート・フロビシャーの話。
1973年のアメリカ・サンフランシスコで、かつてのロバート・フロビシャーのゲイ友達だったシックススミスが出会う、芸能ジャーナリストのルイサ・レイの話。
2012年のイギリス・ロンドンで、殺人事件を起こした作家ダーモットの著書がヒットしたことから荒稼ぎをするも、そのために生命を狙われた上に老人施設に監禁されることになってしまう、編集者ティモシー・キャベンディッシュの話。
2144年の元韓国・ソウルの上に新たに築かれているネオ・ソウルで、クローンでありながら革命家への道へ進んでいくソンミ451の話。
そして2321年、文明が崩壊し汚染された地球で、人食いを生業とするプレシエント族の脅威に怯えながら質素な暮らしを営むヴァリーズマン・ザックリーの話。
これら6つの時代の6人の主人公が織り成す6つのエピソードが、6つ全て同時に進行していくという破天荒な形で、映画の物語は繰り広げられていくことになります。
ひとつの時代のエピソードが終わったら次の時代へ……という形ではないんですね。
また、今作に出演している俳優さん達は、6つの時代のそれぞれで全く異なる役柄を担当しており、「ウォーリーをさがせ!」的なノリで彼らを探していくのも楽しみのひとつに入るかもしれません。
何しろ、彼らが演じる役柄の中にはチョイ役・端役的な人物どころか、作中に登場する写真の中に顔が写っているだけなシロモノまであるのですから(^_^;;)。
エンドロールでキャストと共にその全容が紹介されているのですが、「正解」を知った時は心の中で思わず唸ってしまったものでした。
細かいところで非常によく作り込んでいる作品だなぁ、というのがアレを見た時の感想でしたね。

登場人物達の設定も時代背景も全く異なり、一見全く無関係かつバラバラに展開されているかに見える各時代のストーリーは、しかし色々なキーワードや後代の視点などを駆使することで相互に関連性を持たせていますね。
たとえば、1936年のロバート・フロビシャーは、作曲を行う際に1849年のアダム・ユーイングの手記を探しており、その内容が途中で切れているのに不満を漏らしたりしています。
そのロバート・フロビシャーが作曲した「クラウドアトラス6重奏」は、1973年の主人公であるルイサ・レイがレコード店で手に取っていたり、2144年におけるネオ・ソウルのクローン喫茶?で奏でられていたりします。
逆に後代の視点から前時代の筋書きが明かされたり、ある時代の登場人物の台詞を別の時代の登場人物がそのままなぞっていたりと、各時代のエピソードとの相互関連性を示す要素が作中にはふんだんに盛り込まれています。
また、全時代共通と特徴として、各時代のエピソードを担う主人公達には、身体のどこかに彗星の痣が刻み込まれています。
これが何を意味するのかは作中では具体的に語られることがないのですが、各時代のエピソードを比較する限りでは、「彗星の痣がある人物=共通の魂を持つ存在」というわけではなさそうな感じではありますね。
今作は「輪廻転生」や「時代が変わり、何度生まれ変わっても同じ過ちや行動を繰り返す人間」というのがテーマにあるようなのですが、「彗星の痣がある人物」は各時代毎に全く共通項のない人生を送っているみたいですし。
作中描写から見た限りの設定としては、各時代で同一俳優が演じている登場人物が「輪廻転生」の関係にある、と考えるのが妥当なのではないかと。
作中で成立している恋人関係なども、同一の俳優さん同士の組み合わせが時代を超えて成立していたりもしますし、逆に1936年における主人公のゲイ関係や自殺のエピソードなんて、他の時代のどこにも共通項が存在しないですからねぇ。
6つの時代の物語は、2つが主人公死亡というバッドエンド、4つが将来に希望を見出すトゥルーエンドという形で終わっているという違いもあるのですからなおのこと。
とはいえ、全時代の主要登場人物に刻まれている「彗星の痣」が全くの偶然で存在するということはいくら何でもないでしょうし、こちらはこちらで「輪廻転生」とは全く別の意味が何かありそうな感じではあるのですが……。

個人的に気になったのは、2144年から2321年のエピソードの間に、如何にして人類の文明が滅亡し、ソンミ451が女神として崇められるようになったのか、という点ですね。
作中における2321年は「地球崩壊後106回目の冬」なのだそうで、これから逆算すると、地球における人類の文明が滅びたのは2215年前後ということになります。
ソンミ451が活躍する時代から文明崩壊までは、まだ70年以上の歳月があることになりますし、作中の2144年当時は統一国家が成立していたようなので、国家間による全面核戦争で文明が崩壊したとは考えにくいところです。
2321年のエピソードでは、過去の歴史を知るメロニムについて「地球は毒されている」と評していることから、核戦争レベルの地球全体の汚染が伴うような大破局が発生したであろうことは確実です。
致死性ウィルスによる疫病の大量発生程度のことでは、人類の人口激減は発生しえても地球全体の汚染まではさすがに伴いようがないのですし。
となると、2144年時点でも旧ソウルが水没するほどに進んでいた「地球温暖化による海面上昇」がさらに進行し、それと共に世界的規模で原発事故のごとき地球を汚染する大破局が発生し文明が崩壊した、ということにでもなるのでしょうか?
2321年に現存している旧文明の「海を走る船」には核融合エンジンが搭載されているとのことですし、そんな環境で今更原発に頼るのか、という問題もありますが(苦笑)。
あるいは、ソンミ451やチャン・ヘチュが所属していたレジスタンス組織のような存在が他にも大量に勃興し、レジスタンス組織と政府軍による内戦状態から核の応酬のごとき戦争にでも発展したのでしょうか?
これだと、ソンミ451が「レジスタンスの象徴」として崇められる理由もできますし、それが後代に神格化されて宗教信仰にまで発展したという筋書きにもある程度は納得がいくのですが……。
しかしいずれにせよ、ザックリーに過去の歴史について問われたメロニムも、「人類の欲望が知恵が追いつかないほどに大きくなった」ことが滅亡の原因だと述べただけで、具体的な理由や真相については結局触れず終いでしたからねぇ。
人類の文明が崩壊し地球が汚染された真相とは一体何だったのか?と色々想像力を掻き立てられる話ではありますね。

作中には一応カーチェイスやアクションシーンなどもあり、その手の描写が好きな方の要求にも対応した構成になっています。
ただ、今作最大の特徴である「6つの時代の6つのエピソードの同時進行」という形態は、やはりその分かりにくさから「観客を選ぶ」という一面があるのはどうにも否めないところですね。
実際、アメリカ国内では1億ドルの映画製作費に対して、かろうじてその4分の1を超えた程度の興行収益しか稼げていないようですし。
世界総合の興行収益では何とか黒字を達成したようなのですが。
単純明快なストーリーではなく、複雑な構成の物語を楽しみたい、という方にはオススメの映画であると言えるかもしれません。

映画「ひまわりと子犬の7日間」感想

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映画「ひまわりと子犬の7日間」観に行ってきました。
2007年に宮崎県中央保健所で実際にあった話をまとめた山下由美のノンフィクション小説「奇跡の母子犬」を基にした、保健所における殺処分がテーマとなる犬と人間の物語。
映画「ゴールデンスランバー」「日輪の遺産」、そして男女逆転「大奥」のテレビドラマ版2作目映画版で一人二役を演じた堺雅人が主演を担っています。

今作の冒頭では、物語の中で大きく取り上げられ、終盤近くで「ひまわり」と名付けられることになる一匹の雌犬の前半生が、登場人物の肉声が一言も発せられることなく語られていきます。
その雌犬は、とある老夫婦の家で3匹の子犬の中の1匹として生まれ、貰い手があった2匹と違ってそのまま家に残り、母親犬と共に幼少期を過ごしていました。
しかし、母親犬は黒い大きな犬から我が子を守るべく争いになり、体格の違いもあってそのまま他界してしまいます。
ただ一匹、老夫婦の家に残った雌犬は、老夫婦の愛情を一身に受け、健やかに成長していきます。
ところがある日、年老いた老婆が突然亡くなってしまい、一人残された老人もまた、親戚筋だか子供の家族だかによって老人ホームに入れられることになってしまいます。
残された雌犬は、飼い主恋しさに繋がれた鎖から強引に抜け出し、微かな匂いを頼りに老人ホームへと向かう飼い主の追跡を始めるのですが、おりしも降ってきた大雨によってその匂いすらもかき消され、追跡の手がかりを完全に失ってしまいます。
失意の中で数日かけてようやく家に戻ってきた雌犬が見たのは、飼い主に家を委ねられた近親者の意向?によって家の家財道具が次々と運ばれていく光景でした。
雌犬は引っ越し業者によってスコップなどを叩きつけられて追い払われてしまい、野良犬としての生活を余儀なくされてしまうのでした。

ここで舞台は変わり、今作の主人公である神崎彰司にスポットが当てられることになります。
彼は元々動物園の飼育員で、経営不振でそこが閉鎖された後は宮崎県東部保健所に勤務している中年男性。
同じ動物園の飼育員仲間という関係で知り合い結ばれた妻・神崎千夏を、5年前の交通事故で失った2児の父親でもあります。
宮崎県東部保健所では、3ヶ月毎に数人の職員の持ち回りで犬猫が「保護管理」されている保健所へ出向く決まりがあり、2007年2月は神崎彰司と彼の後輩である佐々木一也の持ち回り月となっていました。
しかし、保健所へ出向くに際し、神崎彰司は自分の上司である桜井から注意を受けます。
神崎彰司が保健所の保護管理を行っている間だけ、犬猫へのエサ代が急増していると。
これは、神崎彰司が独断で犬や猫の保護期間を延ばし、里親を探すべく尽力しているための副産物だったのですが、保健所の官僚的なルール上では立派な違反行為となるのです。
それだけでなく、保健所のエサ代も国民の税金から支出されているので、下手に犬猫を生かし続けると「税金の無駄」と保健所が世間から叩かれるという問題もあるわけなのでした。
結果、神崎彰司は犬猫の余計な延命はしないと約束させられることになります。
そんな中で保健所に出向する日々を続けていた最中の2月7日、神崎彰司と佐々木一也は、野良犬が畑を荒らしているという農家からの依頼で、同じ職員である安岡と3人で野良犬捕獲に乗り出すことになります。
そこで彼らは、生まれて1~2ヶ月程度とおぼしき3匹の子犬と、子犬を必死になって守ろうとする母親犬に出会うこととなるのですが……。

映画「ひまわりと子犬の7日間」は、タイトルに「7日間」と謳っているのに反して、実際には物語冒頭の雌犬&子犬と神崎彰司が出会った日時から換算しても3倍の21日間、物語全体で見ると2007年2月をほぼ丸々使用した期間が費やされています。
ではタイトルにもなっている「7日間」が何を意味するのかというと、これは作中の保健所がルールとして規定している「犬を預かってから殺処分するまでの保護期間」のことを指しているのです。
この7日間の間に保健所は里親を募集し、里親が見つかれば晴れてその犬は引き取られることになるのですが、もし見つからない場合は殺処分ということになるわけです。
ところが今作の主人公である神崎彰司は、保健所の真実を否応なく突きつけられることになった娘の神崎里美とのやり取りを経て、本来ならば捕獲から7日後の2月14日には殺処分をしなければならないところを、自分が保健所を管理できる1ヶ月間の期限一杯(2月28日)まで無断で延長し、何とか雌犬と子犬「全て」を助けようとするんですよね。
ちなみに、この一見短いように思われる「7日間」という期間は、しかし全国的に見るとまだ長い部類に入るのだそうで、地域によっては3~5日程度で殺処分が行われるところもあるのだとか。
かといって、それが可哀想だからと悪戯に保護期間を延ばしても、作中でも言われているようにエサ代をはじめとする費用がバカにならなくなりますし、世間からも「税金の無駄」と叩かれる問題があったりするわけです。
保健所における動物への殺処分がひとつの「必要悪」として存在する、という厳然たる事実を、今作の特に前半部では否応なく登場人物と観客に突きつける構図になっています。
単純に「可哀想だから」で終わる話でもなければ、それに代わる代替案も簡単には構築出来ないし、仮にたまたま代替案があったとしても、そのリスクと責任が当然のごとく問われる。
だからこそ、動物の殺処分問題は難しいのですし、作中の登場人物達も大いに頭を悩ませることになるわけです。

今作で大きな問題となっているのは、単に「犬を助けたい」ということではなく、「人間不信に陥り威嚇してばかりいる心を閉ざした母親犬」をも「子犬と一緒に」助けようとする点にあったりします。
生まれて間もない子犬だけならば引き取り手もたくさんいたでしょうが、神崎父子は「子犬だけでなく母親犬も一緒でなければならない」と考えるわけですね。
これはどちらかと言えば、母親犬よりも神崎父子側の家庭事情によるところが大きいでしょう。
神崎家は交通事故で母親が他界しているわけですし、特に娘の神崎里美は母親犬に自分の母親を重ねていたのでしょう。
作中における神崎里美の言動からも、その傾向は明らかに伺えましたし。
一方で、犬に限らず動物の母性本能というのは人間と異なり、自分の子供について結構割り切っているところがあったりしますからねぇ。
生まれた直後から一定期間は確かに子供を育て守るべく尽力するものの、中途で死んでしまったり自分の管理から離れた子供のことをいつまでも気にすることはないですし、ある程度子供が育ってくれば子育てを止めるばかりか、場合によっては自分から強引に引き離すべく邪険に扱ったりするようになることも珍しくなかったりします。
この辺りはむしろ、理性と記憶力というものを持ち、かつ長期間にわたる保護・育成のための時間を必要とする人間の方が、一般的な動物のグローバルスタンダード(苦笑)からすれば「不自然」かつ「異常」なのでしょうね。
そう考えると、神崎家の面々が子犬と一緒に母親犬をも助けようとする行動は、神崎家の面々が思い描く理想を母親犬に押し付けている、という一面も多分にあったのではないかと。
でなければ、一連の問題は「子犬だけ引き取って母親を殺処分する」という方向に安易な決着で落ち着いた可能性が高かったわけですし。
もちろん、彼らが母親犬を助けようとした行為自体は、それで他者に危害が加わるのでなければ何ら責められる筋合いのものではないのですけどね。
神崎彰司が結果的に保健所のルールを破ることになってしまった問題については、また別の評価もあるかもしれませんが。

今作の物語は特に奇抜なものではなく、むしろ日本全国の保健所その他でいくらでも起こっていそうな「ごくありふれた話」です。
今作で「奇跡」と呼ばれる要素があるとすれば、それは「心を閉ざした母親犬が全くの他人に心を開いた」という事実のみにあるのであって、それ以上でも以外でもないのですから。
保健所で毎年10万単位で動物が殺処分されている事実も、それを回避すべく犬や猫を引き取る里親の存在も「ごくありふれた話」ですし、保健所の人間が犬猫を可哀想と引き取る光景も稀有とは言い難いものがあるでしょう。
ただまあ、こういった保健所の殺処分を巡る問題が「ごくありふれた話」でしかないという事実自体が、現実の構造的な歪みを象徴していると言えるのかもしれないのですが。
かく言う私の実家や親戚の家でも、複数匹の犬や猫を飼っていますし、ペットのことを最優先に考える傾向にあるのは作中の神崎家と同じだったりしますから、物語前半で披露された殺処分の現実と光景は、たとえ「必要悪」と分かっていても積極的には認め難い悲しい話ですね。
ましてや、自分の娘相手に「動物と心の交流がしたいから飼育員になった」とまで語るほどに動物好きな主人公が、職務として殺処分をしなければならないというのは、心身を切り刻まれるレベルの苦しみが伴ったであろうことは想像に難くありません。
私も見ていて「たまらんな、これは(T_T)」と考えざるをえなかったくらいでしたし。
「必要悪」であっても、いやむしろそうだからこそ、その「必要悪」たる殺処分が限りなく根絶されることを願わずにはいられないですね。

ストーリーの結末自体はそこまで暗い内容ではないものの、物語序盤では殺処分の描写や子犬が寒波で死んでしまうシーンなどがあったりするので、動物好きな方には涙なくして観賞できない作品ですね。
保健所の現実を否応なく突きつけられもしますし。
ただ今作は、むしろ本当にペットのことについて真剣に考えられる人こそが観賞すべきなのではないか、と私はそう考えますね。

映画「プラチナデータ」感想

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映画「プラチナデータ」観に行ってきました。
東野圭吾の同名小説を原作とし、男女逆転「大奥」1作目および「GANTZ」二部作で主演を担った二宮和也、および豊川悦司の2人を中心とするサスペンス・ストーリーが展開されます。

映画の冒頭は、児童連続殺人事件の現場に、警視庁捜査一課の浅間玲司が駆けつけるところから始まります。
一連の児童連続殺人事件は捜査が難航しており、警察は未だ容疑者を検挙することもできずにいました。
しかし、被害者の遺体に付着していた髪の毛を元に、警視庁特殊解析研究所(SARI)の主任解析官・神楽龍平が、自身で開発したDNA捜査システムを元に犯人像を割り出します。
そのDNA捜査システムは、登録されたDNAの持ち主を割り出し、DNAを元に真犯人個人の血液型・年齢等はもちろんのこと、詳細な容姿・体型に至るまで再現するという優れ物。
結果、あっという間に真犯人は割り出され、周到な準備と包囲によって、真犯人はいともたやすく逮捕されてしまったのでした。
これが端緒となり、1年後には全国民にDNAの提供が義務付けられるDNA法案が通過する運びとなったのでした。

児童連続殺人事件から3ヶ月後。
全国民のDNA登録が進んでいく中、警察はDNA登録を行わない犯罪者による連続殺人事件に手を焼いていました。
犯行現場等から検出されたDNAは、登録されているDNAに類似するものがなく、同一手口の殺人事件が13件発生していることから、この事件は「Not Found13」という通称で呼ばれていました。
そんな中、神楽龍平と共にDNA捜査システムの開発の創設者である蓼科耕作と、妹の蓼科早樹が何者かによって殺害されるという事件が発生します。
事件の手口が「Not Found13」と同一であったことから、この事件も「Not Found13」関連のものではないかと推察されたのですが、浅間玲司は被害者のパターンがこれまでの事件と異なることから犯人は別にいると考えます。
事件の現場となった新世紀大学病院には多数の防犯カメラが設置されていたことから、浅間玲司は防犯カメラの解析を元に容疑者の割り出しを進めていきます。
一方、同僚を殺された形となった神楽龍平もまた、DNA捜査システムを使って真犯人を割り出すべくシステムを起動させます。
ところが、その捜査の双方で、全く思いもよらぬ人物が重要参考人として浮上することになります。
それは何と、DNA捜査システムを開発した神楽龍平その人だったのでした……。

映画「プラチナデータ」では、「もしこんなシステムがあったらこういう捜査が可能になるのと同時にこういった問題が発生する」というテーマが描かれています。
DNAや指紋等を使用した犯罪捜査自体は、警察も20年以上も前から行っており、精度についても年々向上の一途を辿っています。
ただ、その精度については疑問符が上がることもしばしばで、DNA捜査が決めてとなって有罪判決が下された被疑者が後に逆転無罪を勝ち取るなどといった事例も過去には発生していたりします。
精度の問題だけでなく、DNAサンプルを採取する際に全く別人のDNAが付着したことに気付かないまま捜査が進められたり、サンプルの取り違えでこれまた全く別人が被疑者として挙げられたりといったヒューマンエラーの問題もあったりしますし、DNA「だけ」で犯罪捜査の全てが決まる、などという未来はまだまだ少なからぬ時間が必要ではあるでしょう。
しかし、作中のようなDNA捜査システム自体は、現時点ではともかく将来的には充分に出現が想定されるものではありますし、これを基にしたシステムというのも現実味のある話とは言えるのではないかと。
個人的に興味深かったのは、作中のDNA捜査システムと街中の防犯・防災カメラのシステムを融合する形で構築されている社会的な監視システムの存在ですね。
このシステムは、人が溢れ返っている街中においてもピンポイントで特定の人物を発見できるという優れ物で、物語前半における神楽龍平の逃亡劇においてその威力を存分に発揮しています。
人混みに紛れる形で逃走を始めたはずの神楽龍平をいともあっさりと発見してしまったこのシステムは、犯罪捜査や犯人追跡などにはかなり使い勝手が良いでしょうね。
監視システムの脅威というテーマを扱った映画自体は昔からそれなりの数はあって、私が知っている範囲でも、1999年公開映画「エネミー・オブ・アメリカ」や2008年公開映画「イーグル・アイ」などが印象に残っていますし、邦画でも「踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!」や映画版「ワイルド7」などの事例があります。
今作ではその脅威的な監視システムに、さらにDNA照合システムを組み合わせることでさらに特定の人物をピンポイントで割り出せるようにしているわけですね。
ただ一方では、防犯・防災カメラがロクに設置されていない街外れや無人地帯などではその実力を十全に発揮することができず、結果として追跡ができなくなってしまうなどの脆弱性をも抱え込んでしまっていたりもするのですが(-_-;;)。
携帯電話のGPS機能を利用した追跡システムとか、人工衛星を駆使した空からの監視システムとかいったものもあのシステムに組み合わせれば、作中で披露されたシステムの欠点を補って余りある強力無比なものができそうな感じではあるのですけどね。
DNA捜査システム以上に実現性の高い技術なのですし、これらの組み合わせはむしろない方が不思議な気はするのですが。

作中におけるDNA捜査システムの問題は、システム自体の技術的な欠陥ではなく、それを扱う人間の不完全さに焦点が当てられている感が多々ありましたね。
物語後半で大々的にクローズアップされた「真のプラチナデータ」問題などは、まさにその典型と言えるシロモノでしたし。
技術的には完璧であるはずのシステムが、それを運用する人間側の都合によって歪められる、というのは皮肉もいいところではあるのですが、同時に「確かにそういうことを考える人間は確実に出てくるだろうなぁ」という説得力は大いにありました。
ただ、「真のプラチナデータ」の対象者が本当に犯罪捜査から逃れたいと考えるのであれば、そもそも最初からDNA登録をしないか、それが無理というのであれば偽造のDNAを登録すればそれで済む問題でしかないのではないか、という疑問がないことはないですね。
彼らは世間的にもVIPや権力者なのですし、権力と財力と暴力を駆使して事実を歪めたり偽造したりすることも容易に行える立場にあるはずなのですから。
彼らの立場的には、バカ正直かつ素直にDNA登録などをやっていることの方がおかしな話なのではないかと思えてならなかったのですけどね、私は。

あと、ミステリー的な観点から見ると、真犯人が作中で展開していた殺人事件の動機が今ひとつ弱いのではないか、というのが少々気になりました。
真犯人の犯行動機というのが全て「自身の(殺人とは関係のない)犯行の隠蔽ないし口封じ」ばかりで、怨みとか金目当てとかいった「積極的な動機」がないんですよね。
告白の字面だけを追っていくと、その残虐性はかなりのものがあるはずなのに、どこか意志薄弱な雰囲気が漂いまくっていたことも、動機の弱さを強調する要素が多分に含まれていましたし。
ラストで披露された犯行告白の際も、自己主張が弱かった上にほとんど自滅の体で返り討ちに遭ったようなものがありましたからねぇ(苦笑)。
連続殺人事件の黒幕?にしては、どうにも「締まらない」印象が拭えないところなのですが。

物語前半および中盤の逃走劇は演出的にもそれなりに見応えがありますし、事件の真相や神楽龍平の正体など、上手い落としどころに落としている作品ではあります。
ミステリーや人間ドラマが好きな方は、観ても損はない映画と言えるのではないでしょうか。

映画「オズ はじまりの戦い」感想

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映画「オズ はじまりの戦い」観に行ってきました。
ライマン・フランク・ボーム著の児童文学小説「オズの魔法使い」の前日譚で、オズ誕生の起源となる物語で構成されるディズニー作品です。
今作は3D版も公開されていますが、私が観賞したのは2D版となります。
今作の基本ベースとなっている「オズの魔法使い」については、これまで名前しか知る機会がなく、全くの前知識なしで今作に臨むこととなったのですが、前日譚ということもあり、それでも何の問題もなく観賞は可能です。

1905年のアメリカ。
各地を回る移動サーカスでしがない奇術師を営み、周囲から「オズ」の愛称で呼ばれている今作の主人公オスカー・ディグス(以下「オズ」に統一)は、カンザス州へとやってきていました。
オズは女性を口説くのが上手い人間のようで、その日も奇術師としてのショーで奇術を演出するための女性を、持ち前の口説き文句と祖母譲りのオルゴールの贈呈でもって確保していたのでした。
しかし、ショーそのものは成功したものの、足が不自由らしい少女から「自由に歩けるようになりたい」という素朴なお願いをされてしまい、しどろもどりに回答を回避せざるをえなかったオズは、観客から物を投げられまくってショーの会場からそそくさと立ち去ることを余儀なくされてしまいます。
惨憺たる結果で終わったショーの後、オズは自分にあてがわれた小屋で、元恋人の来訪を受けることになります。
再会を喜ぶ2人でしたが、しかしその元恋人は「(2人の知人らしい)ジョンという男から求婚された」と宣言し、オズは衝撃を受けながらも元恋人の求婚を歓迎するのでした。
しかし、傷心にあるオズには、その傷心にひたる時間すらも与えられはしませんでした。
オルゴールを贈呈した女性の関係者で大柄な男2人が、オズを半殺しにすべく動き出したことが確認され、オズは逃走を開始しなければならなかったのです。
逃走の最中、自分が所持している熱気球に乗って追手から逃れることを考えつくオズ。
目論見は成功し、何とか追手の手の届かないところに逃れて一息ついたオズでしたが、熱気球が向かう先には、何と巨大なトルネードが荒れ狂っているではありませんか。
オズは為す術もなく、乗っていた熱気球ごとトルネードに巻き込まれてしまうのでした。

ところがトルネードは、オズが乗っていた熱気球を潰すことはなく、代わりに熱気球を魔法の世界「オズ」へと誘います。
そこでオズが見たのは、直前まで自分がいたカンザスとは全く異なる、見たこともない地形と不思議な生物が住まう光景でした。
気球に乗ったまま川を流されるなどのアクシデントはあったものの、オズは5体満足で無事に気球から降りることができました。
そこでオズは、西の魔女を名乗るセオドラという名の女性と出会い、自分がこの世界を救う予言の人間であることを知らされることとなるのですが……。

映画「オズ はじまりの戦い」は、原作者であるライマン・フランク・ボームが著した全14作に上る「オズ・シリーズ」の1作目「オズの魔法使い」のさらに前の時系列を扱う前日譚となっています。
今作に登場するオズは、原作1作目の題名である「オズの魔法使い」の名に反して、実は最初から最後まで一切魔法を使用することができません。
まあ、元々がアメリカのカンザス州から飛ばされてきた現実世界の人間なのですから、ある意味当然の話ではあるのかもしれませんが。
魔法が使えないオズが代わりに駆使できるのは、奇術師として培ってきた手品の類と、トーマス・エジソンに憧れて身に着けていたらしい1905年当時の科学知識。
現代人である我々の視点から見れば、とても「魔法」と呼称できるようなシロモノであるとは到底言えたものではありません。
しかし、科学を知らない「オズ」の世界の人間や亜人間達にとって、「オズ」の科学知識や手品の類は「魔法」と区別がつくものではないわけです。
実際、オズが最初に出会った西の魔女・セオドラも、オズの手品を魔法と勘違いし、オズという名前の偶然の一致も相まって、彼こそが予言にあった魔法使いだと盛大に誤解していくことになるわけで。
物語前半でただひたすら戸惑いつつ、とりあえずはエメラルド・シティの財宝を目当てにその場凌ぎの言動に終始していた主人公は、物語後半においては詐欺師としてのトリックと科学知識を駆使した頭脳戦で邪悪な魔女達と戦っていくことになります。
その点で今作におけるオズは、どちらかと言えば軍師的な存在ないしは煽動政治家に近い位置付けであると言えるかもしれませんね。
作中でもオズは、魔法が使えないばかりか肉弾戦向きですらなく、直接自分で戦っている描写というものがまるでありませんでしたし。

一方で、作中序盤でヒロインの座を獲得しようとしていたかに思われた西の魔女・セオドラは、結果的に見ればあまりにもピエロ過ぎる扱いで、正直泣けてくるものがありましたねぇ(T_T)。
オズの名前と手品を見て「オズこそが予言の人物だ!」と早合点し、オズと恋仲らしき関係になったかと思えば、オズの元恋人と瓜二つの容貌を持つ南の魔女・グリンダにあっさりとその座を奪われ、嫉妬に狂った挙句、東の魔女にして自身の姉でもあるエヴァノラにそそのかされて緑色の魔女に変貌する始末だったのですから。
作中でも姉から「世間知らず」と評価されていたことを差し引いても、セオドラについてはオズこそが邪悪に引きずり込んだ元凶であるとすら言えるのではないでしょうかね、あの展開では(苦笑)。
あまりにもピエロな悪役過ぎて、緑色の魔女として残虐性を見せつけるシーンでも滑稽さしか感じようがなかったのですが。
そのセオドラを陥れ、父親殺しの黒幕であったエヴァノラの方が、はるかにラスボスとしての風格もありましたからねぇ。
ちなみにこの2人は、観賞後にネットで調べたところによれば、「オズ・シリーズ」の1作目である「オズの魔法使い」で倒されることになるのだそうで、今作のラストでは堂々と逃げ切ってしまっています。
空飛ぶ箒に乗って悠々と逃亡した緑色の魔女セオドラはともかく、魔法の根源を失って老婆になってしまったエヴァノラの描写を見た時は、てっきりエヴァノラはここで死ぬものとばかり考えていたのですけどね。

映画「オズ はじまりの戦い」は、元々が前日譚という事情もあるのでしょうが、明らかに続編ありきな構成で物語が終わっていますね。
実際、製作元であるディズニーは既に続編製作に取り掛かっているという情報もありますし。
引き続きオズにスポットが当てられた今作の続きになるのか、それとも原作1作目「オズの魔法使い」のリメイク実写化(「オズの魔法使い」自体は過去にも実写化されている)になるのかは、未だ不明ではあるようなのですが↓

http://megalodon.jp/2013-0310-2051-34/www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2013/03/09/kiji/K20130309005355730.html
>  米映画製作会社ウォルト・ディズニー・ピクチャーズが新作映画「オズ はじまりの戦い」の続編を早くも計画していることが分かった。
>
>  1939年に公開されたオリジナル映画「オズの魔法使」のプロローグが描かれた「オズ はじまりの戦い」は、日本では8日に公開されたばかりのサム・ライミ監督(53)作品。
>
>  バラエティ誌はディズニーが早くも続編製作に取り掛かっていると報じた。
続編に関しての詳細は明らかにされていない。

今作の総合的な評価としては、「子供向けの作品だと思っていたら、意外に大人も入り込める万人向けの構成になっていて充分に楽しめた」といったものになるでしょうか。
今作の出来を見る限りでは、製作が進められているらしい続編についても、それなりに「魅せる」ものは充分に期待できそうですね。

日本公開から1ヶ月遅れて上映される地方の映画格差

第85回アカデミー賞で脚本賞と助演男優賞の栄冠を手中にしながら、2013年3月1日の日本公開時点では僅か20都道府県でしか上映されていなかった映画「ジャンゴ 繋がれざる者」
しかしどうやら、2013年4月6日に新たに24都道府県で追加公開されることが決定した模様です。

「ジャンゴ 繋がれざる者」上映映画館
http://www.django-movie.jp/theaters/
3月6日現在
http://megalodon.jp/2013-0308-2320-42/www.django-movie.jp/theaters/

24都道府県の中には熊本県も含まれており、一度は涙を飲んで映画観賞を断念せざるをえなかった私としては朗報ではあります。
ただ一方で、3月1日時点で既に公開されていた20都道府県と、4月6日に追加公開となる24都道府県との間には、明確な映画格差が存在することがはっきりと浮き彫りになってしまっていますね。
さらに言えば、追加公開されてもなお対象外とされてしまっている3都道府県に至っては、もはや「ハブられている」レベルで論外な惨状を呈していると言っても過言ではないのですし。
映画製作者達も全く意図しない形で、映画の地域格差を象徴する作品となってしまっていますね、映画「ジャンゴ 繋がれざる者」は。
まあ、この手の地域格差が発生している映画自体は、別に「ジャンゴ 繋がれざる者」に限った話ではないのですが。
去年日本で公開されたフランス映画「最強のふたり」なども、熊本では1ヶ月以上遅れて公開されていたわけですし。
映画の地域間格差は「機会の不平等」をもたらすものでもあるわけですし、いいかげんどうにかしてもらいたいところではあるのですが……。

映画「ジャンゴ 繋がれざる者」については、2013年4月6日以降に観賞する予定です。

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