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カテゴリー「映画観賞関連」の検索結果は以下のとおりです。

東日本大震災の影響で映画「ヒアアフター」が上映中止

東日本大震災の影響により、映画「ヒアアフター」の上映中止が決定されました。
また、3月26日に公開予定だった映画「唐山大地震 想い続けた32年」も上映が延期になるとのこと。

http://megalodon.jp/2011-0314-1750-50/sankei.jp.msn.com/entertainments/news/110314/ent11031417060013-n1.htm

「ヒアアフター」が上映中止になる理由は、作中に津波の描写があり、東日本大震災のことを鑑みると「内容が適当ではない」と判断したからだそうです。
確かに「ヒアアフター」には、スマトラ沖地震をモデルにした大津波の描写が存在します。
しかし、「ヒアアフター」における津波関係のシーンは10分程度のものでしかありませんし、そもそも「ヒアアフター」は別に津波をメインテーマに据えた映画作品というわけでもないのです。
しかも作品の主人公のひとりであるマリー・ルノは、大津波に飲み込まれ臨死体験はするものの、結果としては無事生還して帰国しています。
見方によっては「大津波に飲み込まれても生還する人間の強さ」を表現している、とも解釈できなくはないと思うのですけどね。
これも一種の「表現の自由の自主規制」というものですし、作品の本質とはあまり関係のない部分を指して公開の自粛を求める、という手法はあまり良いものとは言えないのではないでしょうか。

まあこの手の大事件で、それと若干でも関連性が疑われる映画作品が公開自粛を求められる、というあり方自体は別に日本に限った話でもないのですけどね。
アメリカでも、2001年の同時多発テロ事件後に公開が予定されていた、テロ事件を扱ったアーノルド・シュワルツェネッガー主演の映画「コラテラル・ダメージ」が、事件の煽りを受けて無期限延期になったという事例があったりします。
「コラテラル・ダメージ」は結局半年の期間を置いて公開されましたが、政治的な理由から映画公開が自粛されるというのは、映画ファンとしてはあまり気分が良いものではありませんでしたね。
ましてや「被災地&被災者への配慮」などという概念は、たとえそれが見当違いなものだったとしても、言論・表現の自由のみならずありとあらゆる活動を理屈抜きで抑制しえる「葵の印籠」「錦の御旗」のごとき絶対的な強さを持ちえます。

被災地&被災者に対する「救済」「援助」「復旧」は確かに必要なものでしょう。
しかし、本当に当事者達が望んでいるかどうかも分からない「配慮」などを、しかも全くの第三者が勝手に忖度して表現規制の道具として利用する、という事態は、すくなくとも無条件に許して良いもののようには思えないのですが……。

映画「SP THE MOTION PICTURE 革命篇」感想

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映画「SP 革命篇」観に行ってきました。
フジテレビ系列で放送されたテレビドラマ「SP 警視庁警備部警護課第四係」の映画版「SP THE MOTION PICTURE」2部作の後編に当たります。
全く予備知識がなかった前作の観賞時とは異なり、今回はテレビドラマ版のエピソード0~4、映画版前編の「SP 野望篇」、そして「SP 革命前日」を全て網羅し、準備万端整えた上で映画観賞に臨むことと相成りました。
過去作を観賞した際の私の感想については以下を参照のこと↓

映画「SP THE MOTION PICTURE 野望篇」感想
テレビドラマ版「SP 警視庁警備部警護課第四係」エピソード1&2感想
テレビドラマ版「SP 警視庁警備部警護課第四係」エピソード3&4感想
テレビドラマ「SP 革命前日」感想

私が観に行った映画館では、初日で期待作ということもあり、スクリーンはほぼ満席状態でしたね。
ただ全国的に見れば、やはりこの作品も東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の影響は避けられなかったところだったでしょうけど。

物語は、「SP 革命前日」でも登場していた、妙にがらんどうな印象があるワンルームから、尾形総一郎が出勤していくところから始まります。
机には、これまた「SP 革命前日」で執筆していた井上薫宛に書かれた封筒が置かれています。
尾形総一郎はそれを胸ポケットにしまい、自らの職場である警視庁警備部警護課第四係へと向かうことになります。
一方、警視庁警備部警護課第四係では、サブリーダー格の石田光男と山本隆文が「SP 革命前日」で過ごした休暇の内容について語り合っています。
そこへ笹本絵里が登場し、山本隆文と2人でドツキ漫才を展開している最中に、我らが主人公である井上薫が入ってくるという展開になります。
しかしそこで突然、井上薫の例の危機感知能力が発動し、本人に「何かが起こる」と予感させます。
そんな中、トリで警視庁警備部警護課第四係に姿を現し、部下の4人組に、内閣総理大臣・麻田雄三の不信任案が提出される国会へ赴く4人の議員達を護衛する任務を伝える尾形総一郎。
エピソード4の最後と「SP 野望篇」以降、尾形総一郎に不信感を抱くようになっている井上薫もまた、議員のひとりの護衛任務に従事しつつ、国会議事堂へと向かうことになります。

国会議事堂の衆議院棟で本会議が始まる中、外で待機するSP4人組に別室を「検索」するよう命じて自分達と切り離しつつ、残ったSPメンバーと偽装した工作員達で国会議事堂の制圧に乗り出す尾形総一郎。
事前に周到な準備を整えていた襲撃側に対し、襲撃自体全く想定していない上に武器の携帯すら許されていないためにほとんど無防備と言っても過言ではない警備員達。
当然、マトモな勝負になどなるはずもなく、瞬く間に警備員達は倒され、衆議院棟へ続く通路は次々と封鎖されていきます。
そして全ての封鎖が完了し、不信任決議案で揉めに揉めている衆議院棟の扉を開き、拳銃を携えて侵入する襲撃者達。
国会議員達を銃で脅しつつ、壇上に上がった尾形総一郎は銃声一発と共に高らかに宣言します。
「国民の諸君に告ぐ。 現在をもって国会議事堂、衆議院棟は我々の支配下にはいった」と。
これが「革命」の始まりになります。

前作の「SP 野望篇」と同様、「SP 革命篇」のストーリーもまた、これまでの全エピソード、特に「SP 革命前日」を予め観ておかないと分からない設定が多いですね。
公安部所属の田中一郎が登場早々重傷を負って入院している光景や、本来国会警備の予定がなかったはずのSP4人組が国会警備に従事していることに気づいて愕然とする梶山光彦の姿などは、「SP 革命前日」を観ていないと意味不明な話でしかありませんし。
映画版「海猿」シリーズなどが単体でも話が成り立つ仕様であることを考えると、全ての話を踏襲しておかないとストーリーどころか人間関係や世界観すら理解できない、というのは、観客にとってはややハードルが高いかもしれません。
まあ、製作者側もその辺りのことを自覚していたからこそ、映画公開1週間前というタイミングで、スペシャルアンコール特別編や「SP 革命前日」をテレビ放送していたのでしょうけどね。

前作「SP 野望篇」で盛大に振舞われたアクションシーンは今作でも健在でした。
「革命」が始まり、SP4人組を始末に向かったSP四係新人チームとの戦いが勃発して以降はアクションシーンの連続。
エピソード2の戦いを髣髴とさせるような「そこら辺のありきたりな道具を使って撹乱・奇襲を仕掛ける」的な描写もあります。
ただ、それだけの卓越した戦いができるのに、衆議院棟の扉を守っていたSP所属の門番2人を倒す際に何故か丸腰同然で正面から説得に当たるという手に出ていたのは不可解もいいところでしたが。
国会制圧という挙に出ていたメンバー達は当然それなりの覚悟で事に当たっていたわけですし、井上達の説得に応じる方が変なのですし、それまでと同じように奇襲をかけて倒した方が安全確実だったのではないでしょうか。
相手が拳銃を一発ぶっ放すだけで衆議院棟や他の階にいる仲間達に自分達の所在が知られ、人質どころか自分達の身の安全すら確保しえなくなる、という現状でのあの作戦は無謀極まりない行為としか言いようがありませんし。

尾形総一郎が意図した「革命」の実態は、マスコミに国会を生中継させ、議事録にも発言内容を完全に記録させた状態で、特定政治家の過去の汚職や犯罪行為を暴露し、罪を認めさせるというもの。
何か一昔前の左翼グループの間でさかんに行われていた「総括」を想起させるものがあるのですが、本質的には「復讐」が目的だった尾形総一郎にとっては唯一絶対の必殺な策だったのでしょうね。
国民の審判を恐れる民主主義国家の政治家にとっては、確かにこれ以上ないほどに恐ろしい効果的な「罰」になりますし。

内閣を構成する閣僚達に対する追及から始まった「革命」は順調に推移し、最後に本命である麻田雄三が壇上に立たされることになります。
ここで麻田雄三は、自身を先輩として慕っていたとある議員の「自殺」についての「お前が殺したんだ!」と糾弾されることになるのですが、その際に描写された回想シーンから、実は尾形総一郎と伊達國雄が実の兄弟らしい、という事実が発覚します。
「SP 革命前日」で、伊達國雄が尾形総一郎を信頼しているかのような謎の発言を披露していたのはこれが原因だったわけですね。
しかし、尾形総一郎は確かに伊達國雄を裏切りませんでしたが、伊達國雄は尾形総一郎を見事なまでに裏切りました。
しかも伊達國雄は他の襲撃メンバー達も取り込み、尾形総一郎に銃口を向けさせるという念の入れよう。
さらにそこへ、門番達を説得し扉の向こうで待機していたSP4人組が乱入。
仲間の襲撃メンバーが次々と倒され、内と外の両面から尾形総一郎が意図した「革命」は失敗に終わってしまいます。

自分達の脅威が消失したことを知った議員達が扉に向かって殺到していく中、麻田雄三はよせば良いのに護衛もなしに単独で地下通路に逃げる道を選択してしまいます。
他の議員達をある意味「盾」にして一緒に安全圏まで逃げていれば、身の安全は普通に保証されていたのに、わざわざそんなことをするから尾形総一郎が追撃を開始してくるんですよね(苦笑)。
ここから始まる麻田雄三を巡る追跡劇は、アクションシーンがあることを除けばエピソード4のそれを想起させるものがありましたね。
これが最終的には、予告編や「SP 革命前日」にもあった屋上での対峙に繋がるわけです。

映画「SP 革命篇」は「運命の最終章」「The Final Episode」と謳われているのですが、終盤の展開を見る限りでは未だ解明されていない謎が残されており、また別の黒幕的な存在も暗示されています。
尾形総一郎が井上薫宛に出した封筒も、結局内容の公開どころか封を切られることすらなく終わってしまっていますし。
どう見ても「続きがある」ような終わり方をしているのですが、果たして続編が作られることはあるのでしょうか?

映画「わさお」感想

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映画「わさお」観に行ってきました。
青森県西津軽郡にある鰺ヶ沢町(あじがさわまち)を舞台に、ネットで有名になった秋田犬長毛種のブサかわ犬・わさおの半生を描いたハートフルドラマ。
薬師丸ひろ子が22年ぶりに主演を演じ、また主人公である「わさお」を、代替犬を使うことなく本物のブサかわ犬である「きくやわさお」が自ら演じたということでも話題になった作品です。

物語は、過去に行われた鯵ヶ沢町のトライアスロン大会の際、両親と姉弟の4人家族が映し出されるところから始まります。
その中の末っ子の少年アキラは片手にシロという白い子犬を、片手に赤いボールを持ち、選手達の応援をしていました。
しかしその時、ふとした拍子に赤いボールが道路に転げ落ち、それを取ろうとシロが道路に飛び出してしまいます。
そこへ、お約束のように登場し、シロを跳ね飛ばさんと迫ってくる車。
事態に気づいた母親が道路に飛び出してシロを庇い、結果、シロの代わりに母親が交通事故に遭い半身不随となってしまいます。
そのことにショックを受けたアキラは子犬を飼う気を無くしてしまい、シロに対して半泣きになりながら「おまえなんかどっかに行っちゃえ!」という罵倒を投げつけ、子犬は東京の親戚にもらわれていってしまいます。
しかし、アキラのことが忘れられないシロは、親戚のオバサンが玄関先で配達人?の相手をしている隙を突いて空いていた窓から脱走し、鯵ヶ沢町までの長い旅に出ることになります。

月日は流れ、鯵ヶ沢町では畑が何者かに荒らされる被害が出ていました。
被害状況から見てクマか大きな野犬ではないかという疑惑が駆け巡り、住民が対処に追われる中、白いライオンのような犬が町のあちこちで目撃されるようになります。
鯵ヶ沢町の海辺でイカ焼き屋を経営し、元捨て犬だった4匹の犬を飼っていた薬師丸ひろ子演じる菊谷セツ子の前にも、この白いライオンのような犬が現れます。
もちろん、この犬の正体は、東京から鯵ヶ沢町までの長い旅を経て成長したシロだったりするのですが。
菊谷セツ子が初めてシロを見た際の感想は「ギリギリな犬」「わさわさしてる」。
菊谷セツ子はこれまで拾ってきた犬達と同じように「ギリギリな犬」と接し、当初は餌をやろうとしても拒否されていた「ギリギリな犬」も、ナギサという老犬が普通に食べる様子を目撃したからなのか、やがて餌を食べるようになります。
菊谷セツ子はこの「ギリギリな犬」に「わさお」という名前をつけ、なにかと世話をしていくことになるのですが……。

内容を見る限り、映画「わさお」はわさおファンを意識して製作された作品、というイメージがありますね。
作中で展開されるわさお関連のエピソードは、明らかにわさお関連のブログで取り上げられたネタを元に作られています。
たとえば、菊谷セツ子がわさおと初めて出会うシーンなのですが、これはわさおがブサかわ犬として全国的に有名になる発端となったブログ記事をベースにしていたりするんですよね↓

イカの町で出会ったモジャモジャ犬「わさお」 ― メレンゲが腐るほど恋したい
http://d.hatena.ne.jp/mereco/20080526/p1

両者が出会った場所からして、上記のブログ記事に掲載されているこの画像の風景そのものでしたし↓

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また、わさおとの初対面の際における菊谷セツ子の第一声もまた、件のブログ記事を執筆したブログ主であるメレ子さんの第一声「なんか犬としてもギリギリな感じの犬がいるー!」とほぼ同じものだったりします。
「わさお」という名前自体もこの時メレ子さんが仮に名付けたものですし。
実際のわさおは国道沿いで捨てられていたのを拾われたらしく、最初は「レオ」と名付けられていたようなのですが、飼い主である菊谷節子さんが「わさお」という名前を一発で気に入り、正式名称も2009年初頭に「わさお」へ改名したのだとか。
その辺りの経緯はこちらに載っています↓

レオがわさおになった理由(わけ) ― わさお通信:今日のしっぽ
http://www.toonippo.co.jp/blog/wasao/2009/01/24213145.html

さらに作中では、菊谷セツ子が元々飼っていた4匹の犬のうち、ナギサという老齢の犬が天寿を全うすることになるのですが、こちらも実際に菊谷商店でわさおと一緒に飼われていたチビという老犬のエピソードをベースにしたものです。
元ネタはこちら↓

チビ永眠 ― わさお通信:今日のしっぽ
http://www.toonippo.co.jp/blog/wasao/2010/05/02194623.html

ここでは、ナギサの死期が近いことを悟った菊谷夫妻がつきっきりで見守りつつも、夜も遅いこともあってついうたた寝してしまった間にナギサが逝ってしまうのですが、夜中にどこからともなく出てきたわさおがナギサの死を看取り、菊谷夫妻も朝になって残された毛からそのことを知る、というストーリーが展開されます。
ちょっと目を離してしまった間に老犬が逝ってしまい最期を看取りそこなう、というパターンは、実は私の実家でも似たようなことが過去にあったので、この辺りの話は個人的に他のシーンよりも飼い主に感情移入して観ていましたね。
この話の元ネタとなった老犬のチビは、昼過ぎ頃に永眠したということもあってか、飼い主とわさおにきちんと看取られての最期だったようですが。

作中に登場した動物達は、本犬役を演じた「きくやわさお」のみならず、菊谷商店で飼われていた4匹の犬や、菊谷商店の周囲にたむろしていた猫達も含めて、皆自由にのびのびしている感がありましたね。
飼い主が海岸で犬達の放し飼いにして好きに走らせたりする描写がありますし、菊谷商店に居つくようになって以降のわさおも基本は放し飼いです。
製作者達も、犬達の自然な様子を撮りたいという意図から、あえて訓練を受けていない犬を選んだとのことで、その辺りはさすが上手く表現できているのではないかと思いました。
ただ、主演という割には、思ったよりもわさおの出番が少なかったような印象は否めませんね。
特に物語中盤付近における鯵ヶ沢トライアスロン大会などでは、わさおはほとんどストーリーに絡むことがありませんでしたし、それ以外にも小さなエピソードを大量に詰め込み過ぎているような感もあります。
この辺りに「訓練された犬」ではなく本犬自身が出演、ということで生じる問題や限界などがありそうですね。

動物映画でありながら悲劇的な結末で終わらない、という点において、映画「わさお」は愛犬家にとってはある意味「安心して観れる作品」だったりします。
忠犬ハチ公や今年の6月公開予定の映画「星守る犬」などのように「飼い主・飼い犬のどちらか、もしくは双方共に死をもって終わる」的な悲劇的結末だと、確かに感動的ではあるかもしれませんが同時に悲しくもなってくるので、個人的にはあまり好きにはなれないんですよね。
悲劇で終わらない動物映画って最近少ないので、そういう観点から見ると、映画「わさお」は動物映画としては希少な部類の作品と言えるのかもしれません。

コミック版「大奥」検証考察7 【不当に抑圧されている男性の社会的地位】

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コミック版「大奥」検証考察7回目。
今回の検証テーマは 【不当に抑圧されている男性の社会的地位】
過去の「大奥」に関する記事はこちら↓

映画「大奥」感想&疑問
実写映画版とコミック版1巻の「大奥」比較検証&感想
コミック版「大奥」検証考察1 【史実に反する「赤面疱瘡」の人口激減】
コミック版「大奥」検証考察2 【徳川分家の存在を黙殺する春日局の専横】
コミック版「大奥」検証考察3 【国内情報が流出する「鎖国」体制の大穴】
コミック版「大奥」検証考察4 【支離滅裂な慣習が満載の男性版「大奥」】
コミック版「大奥」検証考察5 【歴史考証すら蹂躙する一夫多妻制否定論】
コミック版「大奥」検証考察6 【「生類憐みの令」をも凌駕する綱吉の暴政】

コミック版「大奥」の世界を見てみると、そこでは女性の男性に対する異常なまでの偏見や差別が横行していることが分かります。
たとえば、徳川3代将軍家光が死去してまもなく「慶安の変」という事件が勃発しています。
「慶安の変」というのは、家光時代に行われた多数の減封・改易によって浪人の身に追いやられ、再仕官の道も閉ざされた武士達の救済を目的に、当時の軍学者だった由井正雪をはじめとする一派が引き起こした討幕未遂事件のことを指します。
その内容は、風の強い日を選んで江戸の町に火を放ちつつ、小石川の幕府火薬庫を爆破して混乱を発生させ、それに乗じて老中や旗本を討ち取り江戸城を占拠、さらに駿府・大坂・京都でも反乱を起こし、最終的に幕府を転覆させるというものでした。
この計画は結局、決行直前に密告者によって幕府側に露見してしまい、決行前に由井正雪一派が幕府によって一網打尽にされるという形で未遂に終わります。
この事件の反省から、幕府は改易を減らすために末期養子の禁を緩和したり、浪人の採用を奨励したりするなど浪人対策に力を入れるようになり、それまでの減封・改易を乱発してきた武断政治から、法律や学問によって世を治める文治主義に移行していくことになります。

コミック版「大奥」の世界でも「慶安の変」は同じように発生しています。
しかもその構成員は「史実同様に」全員男性であり、さらに彼らは「自分達に仕官の口を与えない」と幕府に対する不満と怒りを抱いています。
……この時点ですでにおかしな話なのですが、何故男性が激減しているはずの「大奥」世界で、浪人の「男性」が仕官に苦しむなどという事態が発生しているのでしょうか?
「赤面疱瘡」の蔓延によって男性が激減しているこの世界では、男性は身分を問わず喉から手が出るほど欲しい存在であるはずですし、「慶安の変」当時はまだ女性相続が一時的な措置に過ぎないという認識が強かった時代です。
この当時であれば男性相続にこだわる武家も少なくはなかったでしょうし、お家相続に幕府の認可を必要とする大名家はともかく、それ以外の武家であれば「養子」を取るのにすくなくとも幕府の認可は必要としません(代わりに直接の主君である大名の許可が必要にはなりますが)。
職を失った浪人達と、家の存続のために男性を求める武家。
需要と供給は見事に一致しているわけですし、互いの利害から両者の間で普通に「取引」が成立しそうなものなのですけどね。
皮肉なことに、「赤面疱瘡」で男性人口が激減しているが故に、却って史実ではありえないはずのこういう抜け道が成立してしまったりもするわけです。

しかし現実には、「慶安の変」を画策していた男性達は「史実同様の」不満を並べて討幕を画策していますし、また「慶安の変」鎮定後の事後処理における幕閣達の会話でも、巷に浪人が溢れかえっていることが明示されています。
一体何故、経済の論理から考えても妥当な抜け道が「大奥」世界では成立しえないのか?
その答えは、「慶安の変」後の事後処理に当たっていた幕閣のひとりである酒井忠清(もちろん女性)の発言に表れているのではないでしょうか↓

(「慶安の変」の計画内容を聞いた後)
「ですから、浪人の男どもは皆、江戸から追い出すべきなのです!」
「大体ひとところに男どもがうじゃうじゃと集まって密談をしている図なぞ考えただけでもああおぞましや」
(コミック版「大奥」4巻P67)

……そりゃこんな男性に対する差別・偏見の類が女性社会で大手を振ってまかり通っていたら、武家が浪人達を養子に迎えようとしても、家の中で実質的な権力を握っている女性に反対されることは必至でしょうし、「男性の」浪人が社会に溢れて謀反を画策するのも必然というものでしょう。
この酒井忠清のような女性が決して少数派などでないことは、後の徳川5代将軍綱吉が「遠き戦国の血なまぐさい気風」として【男性そのもの】を断罪した挙句、武家の男性存続禁止令を出したことや、それに対する社会的な不満や悪評が全く出てこなかったこと、そして何よりもたった6年弱しか続かなかったはずの男性存続禁止令がその短期間で慣習化されてしまった作中事実からも窺い知ることができます。
特に元禄赤穂事件で仇として討ち取られる羽目になった吉良上野介義央などは、今際の際でさえ「浅野内匠頭や大石内蔵助が女であればこんなことにはならなかった」などと心の中で嘆いたりする始末でしたし。
コミック版「大奥」の世界は、家の存続や社会的安定などよりもはるかに重要と見做されるレベルの男性差別が存在する社会である、と言えるのではないでしょうか。

また、「赤面疱瘡」の大流行で男性が激減したからといって、男性が子作り以外の仕事を担わなくなった理由も理解に苦しむものがあります。
確かに「赤面疱瘡」は伝染性も致死性の高い病気ではありますが、病気を患う主な年齢層は12~17歳までと極めて限定的です。
もちろん、稀にそれ以上の年齢の男性でも「赤面疱瘡」にかかる場合があることは明示されていますが、それもほとんどの場合は軽い症状で済むということもまた、作中キャラクターによって示されています。
そしてこれが一番重要なことなのですが、「大奥」世界における人間は、このような「赤面疱瘡」の特性を身分の別を問わず誰もが知っているのです。
そこまで正確な知識が社会的に周知されているのであれば、「赤面疱瘡」を患う危険が高い時期だけ社会的に隔離した上で、その後は以前の時代と同じように社会で働かせる、という選択肢がない方がおかしいでしょう。
20歳以上の男性に対してまで、患う可能性が著しく低い「赤面疱瘡」で死なせることを恐れて子作りに専念させなければならない理由がありません。
しかも「大奥」世界においても、カネをもらって子作りを行う行為は「賤業」同然の扱いを受けているのです。
大部分の男性、それも「赤面疱瘡」の脅威が薄れている年配の男性までもが、何故「賤業」という仕事に唯々諾々と従事しなければならないのか?
そこにも私は、「大奥」世界における社会的な男性差別・偏見の意図を感じずにはいられないのですが。

「大奥」世界における男性の地位が低いのは、「赤面疱瘡」そのものが原因なのではなく、「赤面疱瘡」を口実に男性を押さえつけ、自身の権力および社会的地位を確保・維持しようとする女性側の意図と、それを後押しする社会的な政策があったからではないのか?
コミック版「大奥」を読む限り、そういう仮説でも立てないと作中世界の支離滅裂な慣習や作中キャラクターの意味不明な言動の説明などやりようがないのですが、果たして作者本人的にはどんな意図でもって作中世界を構築していたのやら。

さて、コミック版「大奥」検証考察シリーズも、次の回でとりあえず一区切りをつける予定です。
一区切り、というのは、一応次の回で既存6巻までに出てきた検証テーマが一巡するので、そこから先の検証考察は次の巻が出るまでやりようがない、というのが実情なものでして(^^;;)。
コミック版「大奥」検証考察シリーズ自体は、コミック版「大奥」が完結するまで続けたいと考えているのですけどね。
そんなわけで、一応の一区切りとなる次回8回目の検証考察は、「赤面疱瘡」以上に「大奥」世界を蝕む真の社会的病巣について論じてみたいと思います。

映画「ツーリスト」感想

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映画「ツーリスト」観に行ってきました。
ハリウッドのトップスターである、ジョニー・デップとアンジェリーナ・ジョリーが初共演するということで話題を集めた、2005年公開のフランス映画「アントニー・ジマー」のリメイク作品です。

この作品序盤の舞台はフランスのパリ。
アンジェリーナ・ジョリー扮する謎の美女エリーズ・クリフトン・ワードと、彼女の動向を密かに監視するイギリス警察との駆け引きから物語は始まります。
イギリス警察はとある組織から大量のカネを盗み、かつ7億4400万ポンドもの脱税行為を働いたアレクサンダー・ピアースという男の行方を追っていました。
エリーズはアレクサンダー・ピアースの恋人と目されており、彼女を通じてアレクサンダー・ピアースの行方を探る目的から、彼女が警察からマークされていたわけです。
そんなある日、彼女は朝食を取っていたレストランで、配達人からアレクサンダー・ピアースからの手紙を受け取ります。
そこには、8時22分のリヨン駅発イタリア・ヴェニス(ヴェネツィア)のサンタルチア駅行の列車に乗り、自分と良く似た体格の人間を探し自分の身代わりにしろとの指示が書かれていました。
手紙を燃やして監視の目を何とか撒いて問題の列車に乗ったエリーズは、そこでジョニー・デップが演じるアメリカ人教師でイタリア旅行の途上にあったフランク・トゥーペロと出会い、声をかけることになります。
エリーズとフランスは列車内の食堂室?の中で楽しく会話を交わしますが、その様子を、手紙の燃えカスを回収・分析し先回りしていた警察によって携帯画像に収められ、フランクは「アレクサンダー・ピアースではないか?」という疑いの目を向けられることになります。
列車から降りたところを取り押さえるべく、終点のサンタルチア駅ですぐさま非常線を張るイギリス警察。
しかしその後、警察本部が採取されたフランクの画像を照合していった結果、フランクの身元が確認されたため、2人が駅に着く直前になって非常線は解除されます。

しかし、この一時的な嫌疑を真に受けた警察内部のスパイが、「フランクはアレクサンダー・ピアースである」と外部に連絡したことが、物語をさらに進展させていくことになります。
スパイから連絡を受けたのは、アレクサンダー・ピアースによってカネを奪われた組織のボスであるレジナルド・ショー。
彼が率いる組織は、早速エリーズとフランクが宿泊するホテルの監視を始め、エリーズがフランクにキスした場面を目撃したことから、勘違いが事実であると確信するようになります。
そして翌日の朝、エリーズがいなくなったホテルの部屋で、フランクは組織からの襲撃を受けることになるのですが……。

映画「ツーリスト」は、主人公をも含めた登場人物達に謎があり、それを暴いていく過程を楽しむことをメインとしている点で、今作と同じくアンジェリーナ・ジョリーが主役を演じた映画「ソルト」を想起させるものがありますね。
ただ「ソルト」と異なり、「ツーリスト」ではアクションシーンが作中でほとんど展開されず、終始ミステリー的な頭脳戦や駆け引きをメインにストーリーは進行していきます。
フランクがホテルから逃げるシーンと、ヴェニスの街を舞台に繰り広げられた水上ボートの逃走劇が、作中で展開されたアクションシーンと言えるものではありましたが、時間が短い上にハリウッドお得意な迫力とスピード感はゼロに近いシロモノでしたし。
私がアンジェリーナ・ジョリー主演作品で観賞したことのある作品と言えば、「ソルト」以外にも「トゥームレイダー1&2」「Mr.&Mrs.スミス」「ウォンテッド」といったものがあるのですが、全部アクションシーンがバリバリに出てくる作品ですし、そういう作品をメインに活動している女優というイメージがあったので、かなり意外な感は禁じえなかったところですね。
一方で、ジョニー・デップ主演作品の方は今まで1作も観ていなかったので、こちらはそういう印象などそもそも抱きようがありませんでした(^^;;)。

ミステリーの醍醐味とも言える物語終盤には驚愕の真相が待ち構えています。
その真相が分かるための伏線は一応物語後半に用意されていたのですが、私の場合、映画観賞時はその伏線に注意を払っていなかったこともあって、突然の急展開に一瞬話についていけなかったクチだったりします(^^;;)。
映画観賞終了後に内容を思い返し、「ああ、あそこにああいう伏線があったなぁ」とようやく合点が行き、話の全体像が見えてくるというありさま。
アレクサンダー・ピアースを追っていたジョン・アチソン警部が、ことの真相を知って茫然自失しつつ空を眺めているシーンは、私もついつい共感せずにはいられませんでしたね(T_T)。

映画「ツーリスト」はアメリカ本国では興行的に失敗しているとのことで、また第68回ゴールデングローブ賞では何故かミュージカル・コメディ部門にノミネートされて批判を受けるなど、何かと醜聞が付き纏う映画だったようです。
作品を見る限り、確かにアメリカ人受けはしないような内容でしたが、果たして日本ではどのような評価を受けることになるでしょうか?

テレビドラマ「SP 革命前日」感想

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2011年3月4日に再放送されたテレビドラマ版「SP 警視庁警備部警護課第四係」シリーズのスペシャルアンコール特別編、および翌3月5日放送のテレビドラマ「SP 革命前日」を観賞しました。
3月12日公開予定の映画「SP THE MOTION PICTURE 革命篇」の事前復習&予習にはもってこいの番組だったので、久々のテレビ番組観賞になりましたね。
何しろ、前回観賞した映画「SP 野望篇」は、それまでのSPシリーズを全部観ていないと世界観すら理解できないストーリーになっていましたし。

スペシャルアンコール特別編は、テレビドラマ版SPシリーズのエピソード0~4までのストーリーおよびメインの場面をダイジェストにまとめたもの。
私の場合、事実上の開始点となるエピソード0だけは全く観賞できていなかったので、この点はありがたかったですね。
ちなみに、DVDを借りて観賞したエピソード1~4に関する私の感想はこちら↓

エピソード1&2
https://www.tanautsu.net/blog/archives/weblog-entry-181.html
エピソード3&4
https://www.tanautsu.net/blog/archives/weblog-entry-188.html

一方、「SP 革命前日」の方は、前半50分ほどが映画「SP 野望篇」のこれまたダイジェスト版で、後半が革命前日本編となります。
映画のダイジェスト版といっても、映画自体が1時間38分しかないこともあり、内容の把握には充分な分量がありましたが。
ただ、今回はエピソード1~4を予め観た上での復習となりましたので、以前映画を観賞した際にはよく分からなかった人物関係が今度は明確に理解できたのは収穫でした。

21時50分を過ぎた頃から革命前日本編が始まります。
こちらは、前回負傷した傷もある程度回復して束の間の休日を楽しむSP4人組と、来るべき「革命の日」に向けて着々と準備を進めていく黒幕達が描かれています。
高校時代から付き合っている彼女と久々に出会い、映画を観に行ったりラーメン屋?で外食したりしつつ、彼女からSPを辞めるよう言われる山本隆文。
久々に自分の妻子と再会しつつ、幼い娘と1日を共に過ごし、夕方また別れる際、子供のためにやはりSPの仕事を辞めるよう妻から催促されるSP第四係サブリーダー格の石田光男。
彼らはSPの仕事を続ける理由として、主人公である井上薫のことが心配だからしばらく見守りたいという主旨の主張を展開しますが、真剣味があった後者はともかく、前者は微妙に言い訳を探していたかのような雰囲気が否めませんでしたね。
まあどちらも言っていること自体は嘘ではないと思うのですが。

一方、主人公の井上薫は、エピソード2で検査してもらった病院で、脳内活性の状態が一段と悪化していることを告げられます。
症状改善のために女性医師から休養を進められますが、井上薫は「まだ現場を離れるわけにはいかない」とそれを拒否。
病院から引き上げる途中、井上薫は病院のロビーでSP第四係の紅一点である笹本絵里とばったり遭遇します。
井上薫と上司である尾形総一郎の関係がおかしいことを心配していた笹本絵里は、「息抜き」という名目で井上薫を強引に連れ回します。
バッティングセンターで球を打ちまくったり、大仏を眺めて心を和ませたりと、何とも奇妙な「デート」と言えるものでしたが(苦笑)。
それでも帰りの電車の中、井上薫に笹本絵里に説得されてその心情の一部を告白することになります。

作中で何やら画策しているらしい悪役達に目を向けてみると、尾形総一郎は自室?で
「革命」を決行する同志達の準備完了報告のメールをたびたび確認しつつ、何かの手紙を書いていたりします。
終盤の場面で、その手紙が井上薫宛に書かれていたものであることが判明。
尾形総一郎が井上薫に何を伝えたかったのかは、映画「SP 革命篇」のお楽しみといったところですね。
また尾形総一郎は、「革命当日」における国会議事堂の警備の配置について、当初決められていた配置を修正し、井上薫らSP4人組を警備に追加させるよう上層部に働きかけています。
作中における他の登場人物達の会話から察するに、これは「革命」の予定には全く含まれていないもののように思われるのですが、さて、これが一体どのような結果を招くことになるのやら。

また、今ひとりの黒幕と目される与党幹事長の伊達國雄もまた、奇妙な言動を披露しています。
尾形総一郎の行動に不審を抱き、監視をつけるべきだったのではないかと主張する側近に対し、伊達國雄は「これでいいんだ」という反応を返し、「あいつは絶対に裏切らない」と呟いたりしています。
「私を信用していますか?」と質問した側近に対して「信用なんかするわけないだろ、誰も彼も」みたいな主張をしていた言動を直前に披露していたこともあり、伊達國雄が尾形総一郎に何らかの信頼感を抱いていることは間違いないようです。
伊達國雄と尾形総一郎は一体どのような関係にあるのか?

さらに、警視庁公安部所属で尾形総一郎一派の調査を密かに行っていた田中一郎は、尾形総一郎の実家で何やら驚くべき情報を掴んだ模様。
ただ、彼自身も密かに監視されており、尾形総一郎の実家を出て帰途につく途中で襲撃を受けてしまいます。
突然の襲撃で彼は殺される直前まで行ったのですが、たまたま目撃者に見られたことからかろうじて一命を取りとめ、病院に収容されることになります。
秘密の真相はこちらもやはり「SP 革命篇」を待つことになりますね。

テレビドラマ版から続く登場人物達の謎と因縁、そして作中に張り巡らされた伏線が果たしてどのように収束・昇華されていくのか、楽しみなところではありますね。
私も映画「SP 革命篇」は映画館へ観に行く予定です。

第83回アカデミー賞の結果発表

2010年に公開された映画の中で最高の作品と俳優を決定する第83回アカデミー賞の授賞式が行われました。
作品賞は「英国王のスピーチ」が選ばれ、同作品は他にも監督賞・主演男優賞・脚本賞を受賞し4冠を達成。

http://megalodon.jp/2011-0228-2154-42/www.wowow.co.jp/extra/academy/news/index02.html?N0030720

事前予想ではあまり期待されていなかった「インセプション」も、撮影賞・音響賞・音響編集賞・視覚効果賞を獲得し、「英国王のスピーチ」と同じく4冠に輝く健闘を見せました。
一方、当初は「英国王のスピーチ」と並ぶ有力候補とされた「ソーシャル・ネットワーク」は予想に反してあまり奮わず、脚色賞・作曲賞・編集賞の3冠という結果に。
その他に私が映画館で観賞したことのある作品としては、「ウルフマン」がメイクアップ賞を獲得していますね。

しかし、アカデミー賞受賞作品のラインナップを見ていると、「ハリウッド映画はアメリカ万歳ばかり」などという俗説がいかに的外れなシロモノであるかが良く分かりますね。
上で私が挙げた4作品はいずれも「アメリカ万歳」的な要素は微塵も入っていませんし、他の作品についても「アメリカ万歳」的なものがあるようには到底思えませんし。
私が去年観賞した洋画一覧を見ても、アメリカ万歳どころか、むしろ逆にアメリカ政府を批判したりコケにしたりしているような作品の方が目立つくらいなのですが。
個人的には、ハリウッド映画はアメリカが作るものなのだからアメリカを肯定・称揚する内容があってもむしろ当然ではないかとすら思いますし、実際にはそういう作品の方が少数派でしかないのですからね。
「ハリウッド映画はアメリカ万歳ばかり」などという事実に基づかない偏見が何故幅を利かせているのか、ますます理解に苦しむばかりです。

今回のアカデミー賞は、去年観賞した映画本数が過去最多を記録したこともあり、個人的に名前も内容も把握できている映画が並びましたね。
今まではあまり知らない映画ばかりが軒を連ねるというパターンばかりだったこともあって、アカデミー賞はあまり楽しめませんでしたし。
今年は去年以上の観賞本数を記録しそうですし、来年のアカデミー賞がまた楽しみですね。

第31回ゴールデンラズベリー賞の結果発表

2010年に公開された映画の中で最低の作品と俳優を決定するラジー賞こと第31回ゴールデンラズベリー賞の結果が発表されました。
その「栄冠」を手にした作品は、最多となる9部門でノミネートされ、最低映画賞・最低監督賞・最低脚本賞・最低助演男優賞、そして今回新設された最低インチキ3D映画賞の5つを受賞した映画「エアベンダー」

http://megalodon.jp/2011-0227-2357-20/eiga.com/news/20110227/3/

今回は私もたまたまこの映画を観に行っていたので内容を知っているのですが、少林寺拳法だか太極拳だかの奇妙な踊りを駆使して気・水・土・火を操る何ともいえない描写は、確かに「ある意味」凄く印象に残っていましたね。
あまりにスローモーション過ぎてスピード感も迫力も欠けまくっていましたし、最初は「これ中国映画?」とまで考えてしまったくらいでしたからねぇ。
この映画が2010年7月に日本で公開された当時は、他に結構有力な映画が多数公開されていた上、3部作の1作目と聞いていたので、「興行的に大丈夫か? 続編はちゃんと作られるのだろうか?」と心配していたのですが……。

ただ、私は個人的に「ラジー賞」というのをあまり高く評価してはいないんですよね。
というのも、そもそも私の場合、この賞を知ることになったきっかけが、第二次アルマゲ論争の際に山本弘がアルマゲドンを罵倒する論拠としてラジー賞を持ち出していたことにあったりするんですよね(-_-;;)。
「あの」山本弘が得意気に持ち出すようなシロモノなのだから当然ロクなものではないだろう、という先入観もありましたし、その反論に際しては「シルヴェスター・スタローンが出ている映画というだけで駄作認定するような偏った賞」というとんでもない情報まで飛び交う始末。
実際、2010年10月に日本で公開されたシルヴェスター・スタローン主演の映画「エクスペンダブルズ」は、今回のラジー賞にも当然のようにノミネートされていましたし。
「アレってそこまで悪い映画なのか? 良作ではないにしても普通に楽しく観れる映画なのだけど」というのが「エクスペンダブルズ」に対する私の評価だったので、「ラジー賞は当てにならない」という印象をなおさら抱かざるをえなかったものでした。
「アメリカの映画界における『と学会』」という私の評価を聞けば、私がラジー賞に対して抱いているネガティブなイメージというものを理解頂けるのではないかと(苦笑)。

元々私はそんなに映画を酷評するようなタイプの人間ではありませんし、ラジー賞にノミネートされる作品自体、正真正銘の駄作という感じには見えないので、山本弘云々の件を抜きにして考えても「【本当の駄作】判定にはあまり使えない賞」というイメージはありますね。
まあラジー賞自体、「売れている有名な作品」を選ぶ傾向にあるようですから、一般人が考えるような駄作とは基準が少しズレているのかもしれないのですが。

映画「ナルニア国物語/第3章:アスラン王と魔法の島(3D版)」感想

ファイル 284-1.jpg

映画「ナルニア国物語/第3章:アスラン王と魔法の島(3D版)」観に行ってきました。
イギリス人作家のC・S・ルイス原作小説「ナルニア国ものがたり」の3作目「朝びらき丸 東の海へ」の実写映画版。

映画「ナルニア国物語/第3章:アスラン王と魔法の島」の前身となる「第1章:ライオンと魔女」「第2章:カスピアン王子の角笛」でナルニア国に召喚され、ナルニアの危機に立ち向かい活躍したイギリスのペペンシー4兄弟。
しかし今作では、そのうちの上2人・長男ピーターと長女スーザンがアメリカに行っているという設定になっているため、ナルニアには召喚されません。
代わりに、ペペンシー4兄弟の下2人である次男エドマンドと次女ルーシー、そして彼らが一時的に預けられていたスクラブ家のユースチスが主人公として活躍することになります。
今作初登場でペペンシー4兄弟の従兄弟に当たるユースチス・スクラブは、とにかく頭でっかちでワガママな「良家のお坊ちゃん」として描かれており、特に序盤における非協調かつ現実を認めない発言を乱発するサマは、周囲にも観客にも悪印象を植え付けるに充分な態度でした。
物語中盤では、金銀財宝に目が眩んだ強欲さによってドラゴンに変化する呪いをかけられてしまいますし。
しかしこのユースチスが、主にしゃべるネズミのリーピチープとの会話を通じて次第に周囲との理解が深まり、終盤では戦いの帰趨を決する役割を担うまでに至ります。

また、前作・前々作と長男ピーターに活躍の場を奪われていた感があったばかりか、特に1作目では白い魔女の誘惑に物語終盤直前まで囚われていた次男エドマンドが、今作ではようやく汚名返上できる活躍の場が与えられています。
エドマンドはやはり1作目の白い魔女のことをずっと気にしていたのか、作中で登場する「人を誘惑する緑の霧」にも白い魔女を形作られ何度も誘惑されることになります。
エドマンドも最終的には見事に誘惑を断ち切り、白い魔女(を形作った緑の霧)は断末魔の声を上げて消えることになります。
そして、次女のルーシーもまた、長女スーザンの美貌にコンプレックスを持っていることが作中で明らかになるのですが、この辺りの描写は幼女だった1作目辺りでは考えられなかったことで、彼女が思春期の少女に成長していることを示すものと言えます。
エドマンド、ルーシー、ユースチス、3者3様でそれぞれ描かれる成長物語が、今作の魅力のひとつと言えるのではないでしょうか。

映画「ナルニア国物語/第3章:アスラン王と魔法の島」のストーリーは、スクラブ家の一室にあった海の絵から突然溢れ出てきた大量の海水に巻き込まれ、エドマンド&ルーシー&ユースチスの3人がナルニアの海に放り出されるところから始まります。
放り出された目の前には、前作でも王子として登場しその後王位についたカスピアンが指揮する帆船「朝びらき丸」があり、3人は「朝びらき丸」に救助されることになります。
カスピアンは、亡き父親の友人だった7人の貴族(7卿)を探す旅の途中で、成り行きから3人はカスピアンの航海に同行することになります。
行く先々の島では、人売りに捕まったり、透明な化け物に襲われたり、黄金に魅入られたりと様々な事件に巻き込まれ、航海でも嵐の遭遇と糧食の問題に悩まされつつ、7卿を探す旅は進んでいくのですが……。

同じファンタジー作品系列になるであろう映画「ハリー・ポッター」シリーズが特にそうなのですけど、「ナルニア国物語/第3章:アスラン王と魔法の島」もまた、ストーリー展開がやたらと速すぎる感が否めませんね。
7卿(と彼らが持っている7つの剣)を探す旅では、3人が1箇所でまとめて見つかったりしていますし、本来のストーリーをかなり端折っている感があります。
やはり「ハリー・ポッター」と同じで、1冊のストーリーを2時間あるかどうかの映画にまとめるのは物理的に無理があるのでしょうけどね。
シリーズ作品の宿命的な欠陥なのでしょうが、シリーズを重ねれば重ねるほど内容の理解が難しくなっていくこの問題、どうにかならないものなのでしょうか?

ところで「ナルニア国物語」と言えば、我らが田中芳樹御大がかつてこんなことを述べていたことがあります↓

薬師寺シリーズ7巻「霧の訪問者」 講談社ノベルズ版P27上段~下段
<原理主義というと、すぐイスラム教の過激派を想いおこすが、キリスト教にだって排他的な原理主義者はいる。じつはアメリカという国は、その種の連中の巣窟だし、意外なところでそういったものに出くわすこともあるのだ。
『ナルニア国物語』というイギリスの有名なファンタジー小説があって、映画にもなった。この作品はかなり保守的なキリスト教的世界観にもとづいて書かれたもので、あきらかにイスラム教を敵視したり女性に対して偏見を持った記述がある。その点に対する批判が欧米社会にはあるのだが、日本ではまったく問題にされなかった。日本は宗教に対して、よくいえば鷹揚だし、悪くいえば鈍感なので、『ナルニア国物語』も単なる異世界ファンタジーとして受容されたのだ。『指輪物語』の作者トールキンが『ナルニア国物語』をきらっていたとか、アメリカのキリスト教右派がこの本を政治的に利用したとかいう事実は、日本人には関係ないことだった。まあ実際、物語としてはおもしろいから、単にそれだけですませておくほうがオトナな態度かもしれない。>

で、私は一応「ナルニア国物語」の実写映画版は全て観賞しているのですが、あいにくと今作も含めて「あきらかにイスラム教を敵視したり女性に対して偏見を持った」に該当する描写というものを一度も観たことがないんですよね。
田中芳樹は「【アメリカ】にはキリスト教の排他的な原理主義者がいる」という論の根拠として【イギリス】の有名なファンタジー小説である「ナルニア国物語」を持ち出しています。
しかし、作者の出自はイギリス、原作小説の舞台もイギリスと架空の国ナルニアであり、アメリカとの関連性は全くありません。
そんな状態で「ナルニア国物語」からアメリカ批判に繋げようとするのであれば、アメリカで作られた実写映画版の「ナルニア国物語」シリーズにそういう描写がないと話がおかしくなってくるのではないかと思うのですけどね(苦笑)。
アメリカのキリスト教右派とやらが「ナルニア国物語」を政治的に利用しようがどうしようが、そんなものは作品にも(原作者含む)製作者にも、ましてやイギリスにも全く何の関係もない話でしかないのですし。
もちろん、7作あるとされる原作小説には、田中芳樹が問題視する「あきらかにイスラム教を敵視したり女性に対して偏見を持った記述がある」のかもしれません。
しかしそれならば、実写映画化に際してそういう描写を取り除いたハリウッド(アメリカ)の映画制作スタンスは、田中芳樹的にはむしろ賞賛すらされて然るべきではないのかと(爆)。
全く何の関係もないのに田中芳樹のアメリカ批判の「ヤクザの言いがかり」的なダシにされてしまった「ナルニア国物語」、特に実写映画版には、私は心からの同情の念を禁じえませんね(T_T)。

宇宙戦艦ヤマトがハリウッドでも実写映画化?

往年のアニメ「宇宙戦艦ヤマト」の実写映画化プロジェクトが、2010年12月に「SPACE BATTLESHIP ヤマト」として劇場公開を果たした日本のみならず、映画の本場ハリウッドでも進められているのだそうです。
日本では2011年3月公開予定の映画「トゥルー・グリット」の製作会社であるスカイダンス・プロダクションズが映画化権獲得に向け交渉中とのこと。

http://megalodon.jp/2011-0224-1721-30/eiga.com/news/20110222/18/

正直、2010年12月までならばいざ知らず、すでに日本製作の実写映画が劇場公開されているというのに、今更ハリウッドが後追いすることに一体何の意味があるのか理解に苦しむところがありますね。
そうでなくてもハリウッド映画は、こと日本のアニメ・マンガ・特撮作品を実写映画化する限りにおいては、1990年代の邦画並に駄作率が半端じゃなく高いことで有名なのですし。
特に2009年公開映画「DRAGONBALL EVOLUTION」などは、その予告からして「ドラゴンボール」の名を冠すること自体が間違っているとしか言いようがないほどに原作から乖離しているのが丸分かりな始末でしたからねぇ。
ちなみにこれが、ハリウッド実写映画版「DRAGONBALL EVOLUTION」の予告編↓

こういう実例やハリウッド映画における日本の描かれ方などを見ても、原作の「宇宙戦艦ヤマト」の雰囲気そのものを根底から壊してしまうようなトンデモ設定が付加されかねない危うさが禁じえないところですからねぇ。
まあ、「SPACE BATTLESHIP ヤマト」も相当なまでに原作から設定を変更してはいましたけど、それでもアレはまだ原作の雰囲気や人間ドラマ的なものは残っていましたし。
しかも、今後ハリウッドが実写映画を作るとなれば、それは当然、邦画の「SPACE BATTLESHIP ヤマト」と比較されることになるのは最初から目に見えています。
ただでさえハリウッドが苦手とする分野で、さらに後発作品として出発するとなると、よほどに上手く製作しないと駄作扱いされるのは必至というものでしょう。
本当に大丈夫なのか、とはハリウッド映画ファンならば誰もが考えたくなるところですね。

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