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映画「フライト」感想

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映画「フライト」観に行ってきました。
「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズの製作を手掛けたロバート・ゼメキス監督と、「ザ・ウォーカー」「アンストッパブル」「デンジャラス・ラン」のデンゼル・ワシントンがタッグを組み、飛行機墜落事件の当事者である機長を巡って繰り広げられる人間ドラマ作品です。
今作では、冒頭で情事後の朝を迎えた女性がスッポンポンで部屋を動き回るシーンの他、酒やドラッグをキメる描写などがあったりするため、PG-12指定されています。

今作の主人公ウィップ・ウィトカーは、長年旅客機の機長を務めるベテランパイロット。
しかしその一方で、彼は離婚した妻と子供の問題から重度のアルコール依存症を患っており、さらにドラッグにも手を出すほどの素行の悪さを密かに抱え込んでいました。
その日もウィップは、愛人らしいカテリーナ・トリーナ・マルケス(映画の中では「トリーナ」と表記)と徹夜でパーティに老け込んだ挙句に情事後の朝を迎えており、酒とドラッグをかっくらった後で、フロリダ州オーランド発ジョージア州アトランタ行のサウスジェット航空227便の飛行機に機長として乗り込むのでした。
飛行機出発時のオーランドは悪天候に見舞われており、強風と大雨が降りしきる中、飛行機は空へ飛び立っていきました。
当然、乗客も副操縦士ケン・エヴァンスも不安に駆られるのですが、ウィップは常識破りの操縦で雲の間をすり抜け、安定飛行に移ることに成功します。
ウィップは自らマイクで安全圏に入ったとスピーチを行い、乗客達を安心させる中、ひそかにオレンジジュースにウォッカを入れて飲酒行為をやらかします。
そしてウィップは、ケン・エヴァンスに操縦を任せ、自分はうたた寝を始めてしまうのでした。
ところが、飛行を初めて26分が経過し、アトランタへの着陸準備に入り始めた頃、突然機体が制御不能に陥り、急激に高度を落とし始めるという緊急事態が発生します。
ウィップは何とか機体を制御しようとするのですが、機体は全くコントロールを受け付けようとしません。
そして、真っ逆さまに落ちていく機体の向かう先には、人口が密集しているとおぼしき住宅地が広がっており、そのまま墜落すれば乗客はむろんのこと、地上でも大惨事が発生するのは必至の情勢でした。
機体そのものに問題が発生したと判断したウィップは、操縦を手動に切り替えると、機体を180度回転させ、上下逆になった背面飛行状態を作り出すことで機体の水平飛行を維持するという究極の荒業を披露することになります。
住宅地を抜け、広大な広場を見出したウィップは、機体を元に戻し、グライダーのような滑空状態で胴体着陸を敢行。
そして、胴体着陸時の衝撃で、ウィップは意識を失ってしまうのでした。

次にウィップが目を覚ましたのは、アトランタの病院の一室でした。
そこには、ちょうどウィップを見舞いに来ていたサウスジェット航空の幹部で旧友でもあるチャーリー・アンダーソンがおり、彼はウィップの奇跡的な操縦で乗員乗客102名中96名が生還できたと賞賛します。
死亡した6名の内訳は、乗員2名に乗客4名。
しかしその乗客2名の中には、ウィップが物語冒頭で情事にしけこみ、将来の妻と考えてさえいたトリーナが含まれていたのでした。
事故を調査する国家運輸安全委員会の形式的な質問を経て、ひとりになったウィップは、トリーナの死にすすり泣くのでした。
一方、ウィップの様態は脳震盪以外は大したことがなく、3日もあれば問題なく退院できるとのこと。
しかし、マスコミが飛行機事故の真相について騒ぎ立て、事故の調査が進んでいく中で、ウィップに対する飲酒問題が浮上してくることになるのです。

映画「フライト」の主人公は、明らかに人格が破綻している上、特に物語後半では自滅願望の類でもあるのではないかとしか思えない言動に終始していて、あまり好感の抱きようがなかったですね。
ウィップの周囲の人間は、どちらかと言えばウィップに好意的で、明らかにウィップにとって有利な証言に終始し、チャーリー・アンダーソンや黒人弁護士のヒュー・ラングもウィップの無罪獲得にアレだけ奔走していたというのに、ウィップはほとんど自分から進んで破滅への道を邁進する始末だったのですから。
確かにウィップには元々アルコール依存症の気はあったのでしょうが、物語終盤のアレはどう見ても自滅することを理解していた上でそれを自分から積極的に望んでいたようにすら見えましたし。
ウィップにしてみれば、自分が懇意にしていた女性達に死なれたり愛想を尽かされて逃げられたりで自暴自棄になっていた側面もあったのかもしれませんし、何よりも「死んだ人間に飲酒の冤罪を擦り付けることになる」という構図に耐え難いものがあったという事情も働いていたのでしょう。
せっかく国家運輸安全委員会の事故調査でも、機体のメンテナンス不良が事故の原因だったという結論で固まろうとしていたというのに、傍目から見た分には何ともバツが悪い自滅以外の何物でもなかったですね。

しかし、物語終盤におけるウィップの告白は、ウィップの精神的な満足が得られた以外は、むしろ社会的には害悪しか与えていないのではないでしょうか?
特に、ウィップの自滅願望に付き合わされた挙句、巨額の賠償責任までひっかぶる羽目になったであろうサウスジェット航空の面々にとっては。
彼らは、ウィップが飲酒の問題を認めた時点で、最低でもアルコール依存症の人間をパイロットとして雇っていたという「会社としての任命・監督責任」を免れることができなくなってしまったのですし。
しかもあの場におけるあの告白の仕方では、下手をすればさらに機体のメンテナンスの責任までもがウィップとサウスジェット航空に擦り付けられ、場合によっては死亡した乗客4人への賠償責任までもが会社に覆いかぶさってくる事態すらも充分にありえます。
そうなれば、サウスジェット航空は会社として損失を被るばかりか信用までも失い、賠償問題も重なって経営は破綻、従業員・幹部一同は会社ごと職を失うレベルの危機に直面することになるわけです。
そして、そういう事態を回避したいからこそ、サウスジェット航空の面々はウィップの無罪獲得に必死になっていたはずなのです。
何しろ、死亡した乗客4人へ賠償金を支払うことになれば航空会社が維持できなくなると、作中でもはっきりと明示されていたわけですし。
自分のあの告白からそういう事態が発生した際の責任まで、ウィップは自分で背負う覚悟が果たしてあったのでしょうか?
あのラストの展開では、ウィップの行為によって職を失ったり損害を被ったりした人間が確実に出てくることになるのですし、刑務所に収監されたウィップの描写を見る限り、とてもそこまでの責任をウィップが自覚し、背負っていたようには全く見えなかったのですが……。

さらに言えば、あの場におけるウィップの飲酒容認発言は、飛行機を製造・メンテナンスを担う会社側に一定の免罪符を与える事態をも招くことにもなりかねません。
彼らにしてみれば、ウィップの発言は自分達の責任を擦り付ける格好の口実として間違いなく使えるのですから、「機体のメンテナンスは大した問題ではなく、事故は機長のアルコール飲酒が主原因で起こったものだ」くらいのことは当然主張してくるでしょう。
当の本人が自分から積極的に認めたという事実も相まって、最悪、肝心要の機体の問題が完全無視されてしまった挙句、機長のアルコール依存症のみが、世間・マスコミ・国家運輸安全委員会などで大々的に取り上げられる、などという事態にすらもなりかねません。
「堕ちた英雄」なんてネタは、さぞかし世間一般の受けも良いでしょうからねぇ(苦笑)。
そして、批判の矛先が摩り替えられたことによって、欠陥飛行機を製造した会社は結果的に世間から大々的に取り上げられることがなくなってしまい、結果として本来あるべき事故の真相や責任の追及が歪められてしまう可能性も否定できないのです。
他ならぬウィップ自身、事故の責任は機体の故障にあって自分の操縦には問題ない、それどころか自分の操縦こそが多くの乗員乗客の生命を救ったのだと自認していましたし、周囲もそれは声を大にして認めていたではありませんか。
その責任の追及が歪められたり曖昧な決着で終わったり、最悪はその責任をもウィップ自身が背負わされる羽目になったりするケースも、あの告白の後では充分に想定されるべき事態であると言えるのですが、そんなことにウィップは耐えられるとでもいうのでしょうか?
日本でさえそういう事態は普通にありえそうですし、ましてや訴訟大国たるアメリカであればなおのこと、安易な責任認定は無用な冤罪や真犯人の免罪を招きかねないのではないのかと。
作中におけるウィップの飲酒責任の告白は、単に自分個人の問題だけで終わるものでは全くないはずなのですけどねぇ。

航空機事故およびそれに伴う責任問題を扱っている割には、どうにも主人公およびその周囲限定の葛藤や問題のみにスポットが当てられている感が否めなかった作品でしたね。
主人公自身も、最後の告白をも含めてひたすら「自分個人の都合と論理」だけで動いていましたし。
その辺りの行動原理をどのように解釈するのかで、今作の評価はかなり違ったものになりそうではありますね。

相変わらず深刻な地域間の映画格差事情

第85回アカデミー賞で脚本賞と助演男優賞の栄冠を手中にし、日本でも2013年3月1日から劇場公開されている映画「ジャンゴ 繋がれざる者」。
この映画は熊本の映画館でも宣伝が行われており、映画館での映画の宣伝は「その映画館でいずれ上映されることになる作品」を意味するものでもあることから、私も当然のごとく公開に合わせて観賞する計画を立てていました。

ところが何と、この映画は土壇場で熊本県内の劇場公開予定が全て消失してしまい、熊本では観賞することすら完全に不可能とされてしまったのです。
「熊本の映画館で宣伝されていたのだから」と熊本での劇場公開を確信し、3月1日のファーストデイの公開に合わせて観賞する予定だった私の計画は簡単に頓挫(T_T)。
これまでの慣習から考えればありえない事実に驚愕し、すぐさま公式サイトの上映劇場一覧を確認した私は、この映画が熊本どころか、日本の47都道府県中わずか20都道府県でしか上映されていないという事実を知ることに。
熊本で公開する気がないのなら、そもそも最初から熊本の映画館でCMなんか流すなよ、と私は腹いせも兼ねて大いに地団太を踏む羽目となってしまったのでした(T_T)。

映画「ジャンゴ 繋がれざる者」は、レオナルド・ディカプリオ等の大物スターが出演し、ジャンルもアクション映画、さらにはクエンティン・タランティーノ監督製作映画の中では最もヒットした部類に入るとされる作品です↓

http://www.cinematoday.jp/page/N0049501
>  [シネマトゥデイ映画ニュース] 映画『ジャンゴ 繋がれざる者』が、北米におけるクエンティン・タランティーノ監督最大のヒット作になったことが明らかになった。オープニング週末だけで3,000万ドル(約24億円)を超える興行収入を記録した同作は、18日までに1億3,012万ドル(約104億960万円)を稼ぎ出している。(数字はBox Office Mojo調べ・1ドル80円計算)
>
>  これまで最大のヒット作だったのは、2009年の映画『イングロリアス・バスターズ』。ブラッド・ピットとタランティーノ監督の初タッグ作となった同作は、北米で興行収入1億2,050万ドル(約96億4,000万円)を記録している。公開館数だけでいえば『ジャンゴ 繋がれざる者』は3,010館と、『イングロリアス・バスターズ』の3,165館には及ばなかったものの、
公開後1か月足らずでタランティーノ監督のキャリア史上最大のヒットとなった。
>
>  レオナルド・ディカプリオが残忍な悪役を演じていることでも話題の本作は、先日発表された第70回ゴールデン・グローブ賞を助演男優賞(クリストフ・ヴァルツ)と脚本賞(クエンティン・タランティーノ)の2部門で受賞。アカデミー賞でも作品賞を含む5部門でノミネートされており、脚本賞での受賞が有力視されている。(編集部・福田麗)

しかも日本での劇場公開は、ちょうど第85回アカデミー賞の発表直後ということもあり、タイミング的にもこれ以上ないほどのベストと言って良いポジションにもあったはずなのです。
ところが、そういった好条件が重なっていてさえ、前述のような公開状況でしかないということは、つまるところこの映画は、日本における映画配給会社の間では「ヒットしない」という評価が下されているということになるわけです。
事実がそうなのか、日本の映画配給会社の目が救いようのないレベルで明後日の方向を向いているのかは分かりませんが、こんなことが続くと、作品毎における「観賞機会の格差」、および都会と地方の映画格差は拡大する一方です。
カネをかけて大々的な宣伝がかけられる映画は全国公開されることでますます大ヒットする一方、知名度のない作品はたとえどんなに内容が優れていたとしても観賞する機会すら与えられずマイナーなままで終わる、という構図は、あまり良い環境とは言えないのではないのかと。
また、2012年の1年間で日本全国で公開された映画総本数が983本なのに対し、熊本県内で公開されたそれは150本にも満たない数値でしかないという事実が示すように、地方で公開されない映画の存在は地域格差を拡大させる元凶でしかありません。
製作サイドにとっても映画ファンにとっても害にしかならない、この金儲け至上主義な映画館事情とそれに伴う都会と地方の映画格差の拡大は、いいかげんどうにかならないものなのでしょうかねぇ(-_-;;)。

映画の原作マンガの原作使用料が安すぎる事実がもたらす弊害

総額58億円もの興行収益を稼ぎ、続編の製作も決定された映画「テルマエ・ロマエ」
ところが、その原作者が受け取った原作使用料が、わずか100万円程度でしかなかったという衝撃の事実が原作者本人の口から明かされ、話題となっています↓

http://megalodon.jp/2013-0227-0036-03/news.livedoor.com/article/detail/7442593/
> 23日、バラエティ番組「ジョブチューン ~アノ職業のヒミツぶっちゃけます!」(TBS系放送)で、映画「テルマエ・ロマエ」の原作者が登場して、衝撃の告白をした。
>
> 今回の放送では、阿部寛、上戸彩の出演で大ヒットした映画「テルマエ・ロマエ」の原作者・ヤマザキマリさんが登場。
ヤマザキさんは「映画の興行収入は58億円だったが、原作使用料は約100万円だった」「映画がいくらヒットしても私自身は全然儲からなかった」と衝撃の告白をしスタジオが騒然となった。
>
> 映画化の経緯としては、
ある日突然「原作使用料として100万円ぐらい入金されるからよろしくね」と出版社に言われ、金額も勝手に決められていたという。さらには原稿で忙しいなか、一日中映画の宣伝のため拘束されても全てノーギャラ。しかし周りからは「映画の大ヒットで儲かってるんですよね?」などと言われ困ったという。ヤマザキさんは自身の原稿料にも触れて「1ページ2万円弱の原稿を描いてたほうがまだ儲かる」と明かした。
>
> 過去には
漫画「海猿」の原作者・佐藤秀峰さんも、映画化で70億円のヒットとも言われたが、原作者としては250万円ほどしかもらえないと告白しており「漫画家はいい様に利用されていて、それでも映画化されると喜ばなきゃいけない。なめられてると思う」とツイートしている。佐藤さんはその後、映画の契約に関しては小学館(海猿は同社週刊ヤングサンデーで連載)に任せず、行政書士に協力してもらい自身で交渉。映画の3作目からは原作使用料が10倍以上にアップしたという。
>
> ヤマザキさんの告白に対して、ネット掲示板では「これは酷すぎるわ。原作者の意向なんてまるまる無視のひどい実写化が横行するわけだ…」「原作使用料が安いのは知ってたけど、具体的な金額はちょっとショッキングだった」と驚きの声が上がっている。2014年GWに公開が予定されている「テルマエ・ロマエ」の続編では、原作使用料はどうなっているのだろうか。

映画の原作者ともなれば、普通なら利益の3~5%程度の配当を受けても何ら不思議な話ではないはずなのですが……。
映画の場合、出演俳優への出演料にセット・衣装にかかる費用、ロケ地への移動・輸送費など、様々な用途で少なからぬカネがかかるのは分かりきっていますし、興行的にコケた場合のリスクの問題などもあるのでしょうが、しかしいくら何でも原作者への原作使用料が100万円程度でしかないというのは正直どうなのかと。
制作サイドや出版社が、原作および作者をあまりにも軽んじ過ぎているとしか評しようがないではありませんか。
「カネのなる木」に下手にカネを与え過ぎると自分のところから離れていくから、とにかく薄給でこき使い、自分のところに依存せざるをえないようにする、などというブラック企業的な発想でもあったりするのでしょうか?
興行的にコケて利益が出せなかった、とでもいうのであればまだしも、数十億儲かっておいてそれではねぇ(-_-;;)。

昨今の邦画の隆盛は喜ばしいことではありますが、だからこそ原作者には一定の敬意を払い、それなりの権利と利益は保証されるべきでしょう。
ブラック企業の発想でクリエイター達を奴隷のようにこき使い、他人の作品を自分のものであるかのごとく扱う行為が当然のことであるはずがないのですから。
大ヒットした映画の原作使用料が安すぎると、後発の大ヒット作品があってもそれが基準となってしまい、「あの作品でさえこの金額だったのだから……」として少額に抑えられてしまうケースも出てくることになりかねません。
経済の論理から言っても、大ヒット映画には多額の、コケた映画では少額のといった「歩合制方式」で、原作使用料というのは決められて然るべきなのではないのでしょうか?

第33回ゴールデンラズベリー賞の結果発表

2012年にアメリカで公開された映画の中で最低の作品を決める第33回ゴールデンラズベリー賞、通称ラジー賞の授賞式が行われ、「トワイライト・サーガ/ブレイキング・ドーン Part2」がその栄冠(?)に輝くこととなりました↓

http://www.cinematoday.jp/page/N0050509
>  [シネマトゥデイ映画ニュース] その年に公開された中で最低の映画を決める第33回ラジー賞授賞式が現地時間23日に行われ、映画『トワイライト・サーガ/ブレイキング・ドーン Part 2』が最低映画賞・最低女優賞を含む最多7部門で受賞した。同シリーズはラジー賞の常連でありながらこれまで1度も受賞には至っておらず、シリーズ完結編で有終の美(?)を飾った。同作は全10部門・11ノミネートを記録していた。
>
>  前年の同賞を『ジャックとジル』で全部門制覇したアダム・サンドラーの新作コメディー映画『ザッツ・マイ・ボーイ(原題) / That’s My Boy』は最低男優賞・最低脚本賞の2冠。また浅野忠信が出演したことも話題になった『バトルシップ』からは、リアーナが最低助演女優賞を受賞している。
>
> 受賞結果は以下の通り。
>
> ■最低映画賞
> 『トワイライト・サーガ/ブレイキング・ドーン Part 2』
>
> ■最低監督賞
> ビル・コンドン 『トワイライト・サーガ/ブレイキング・ドーン Part 2』
>
> ■最低女優賞
> クリステン・スチュワート 『トワイライト・サーガ/ブレイキング・ドーン Part 2』『スノーホワイト』
>
> ■最低男優賞
> アダム・サンドラー 『ザッツ・マイ・ボーイ(原題) / That’s My Boy』
>
> ■最低助演女優賞
> リアーナ 『バトルシップ』
>
> ■最低助演男優賞
> テイラー・ロートナー 『トワイライト・サーガ/ブレイキング・ドーン Part 2』
>
> ■最低スクリーンアンサンブル賞
> 『トワイライト・サーガ/ブレイキング・ドーン Part 2』
>
> ■最低脚本賞
> 『ザッツ・マイ・ボーイ(原題) / That’s My Boy』
>
> ■最低リメイク、パクリ、続編映画賞
> 『トワイライト・サーガ/ブレイキング・ドーン Part 2』
>
> ■最低スクリーンカップル賞
> マッケンジー・フォイ&テイラー・ロートナー 『トワイライト・サーガ/ブレイキング・ドーン Part 2』

しかしまあ、事前予測が完全に覆る逆転劇があったアカデミー賞と比べると、今年のラジー賞はあまりにもミエミエな出来レース過ぎて面白くなかったですね。
正直「もうネタが尽きたのか?」とすら言いたくなるほどに、受賞作のラインナップが乏しすぎるきらいがあります。
何故「トワイライト・サーガ」シリーズをそこまで目の敵にするのかという理由すら、全く提示されることがないというのでは、誰も納得のしようがないでしょうに。
一方では、ラジー賞常連のシルヴェスター・スタローンが出ているにもかかわらず、「エクスペンダブルズ2」が全くノミネートすらされないという珍事すら発生しているのですし。
駄作認定の基準があまりにも意味不明かつ恣意的過ぎて、もはやシャレどころかエンターテイメントショーとしてすらも成り立っていないような感すら漂っているありさまなのですが。
「とりあえず売れている映画にスポットを当ててみよう」的なスタンスではなく、売れていようがそうでなかろうが、本当の意味で誰もが納得せざるをえないような駄作を理由も付属させて発掘・発表した方が、まだ「ラジー賞」という賞の主旨にも合致するラインナップができるのではないかと思えてならないのですけどね。

第85回アカデミー賞の結果発表

2012年にアメリカで公開された映画の中で最高の作品と俳優を決定する、第85回アカデミー賞の授賞式が行われ、ベン・アフレックが監督と主演を務めた「アルゴ」が作品賞を含む3部門で受賞となりました。
「アルゴ」も含めた各賞の内訳は以下の通り↓

http://www.cinematoday.jp/page/N0050523
>  [シネマトゥデイ映画ニュース] 第85回アカデミー賞授賞式が現地時間24日に行われ、ベン・アフレックが主演・監督を務めた映画『アルゴ』が作品賞を含む3部門で受賞した。監督賞にノミネートされていない作品が作品賞を受賞するのは第62回の『ドライビングMissデイジー』以来、23年ぶりの快挙。7部門でノミネートされていた同作はほかに、編集賞・脚色賞を受賞している。
>
>  受賞に際しては、監督賞にノミネートすらされなかったベン・アフレック監督もプロデューサーとして登壇。15年前に『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』で脚本賞を受賞して以来のオスカーとなったベンは涙をこらえるように「15年前は子どもでした。また戻ってくるとはそのとき思いませんでした。何の得にもならないときから、わたしを助けてくださった方々に感謝を言いたいと思います」とスピーチ。共同プロデューサーのジョージ・クルーニーらから「この素晴らしい作品を監督してくれてありがとう」との言葉を送られる一幕もあった。
>
>  一方、
最多4部門を獲得したのはアン・リー監督の映画『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』。リー監督自身も『ブロークバック・マウンテン』に続く2度目の監督賞を受賞した。アン・ハサウェイが助演女優賞を受賞した『レ・ミゼラブル』が3部門で続いている。
>
>  
最多12部門でノミネートされ、本命視されていた映画『リンカーン』はダニエル・デイ=ルイスの主演男優賞、美術賞の2冠にとどまった。ダニエルはこの受賞により、史上初となる3度目の主演男優賞獲得を達成した。
>
> 受賞結果は以下の通り。
>
> ■作品賞
> 『アルゴ』
>
> ■監督賞
> アン・リー 『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』
>
> ■主演男優賞
> ダニエル・デイ=ルイス 『リンカーン』
>
> ■主演女優賞
> ジェニファー・ローレンス 『世界にひとつのプレイブック』
>
> ■助演男優賞
> クリストフ・ヴァルツ 『ジャンゴ 繋がれざる者』
>
> ■助演女優賞
> アン・ハサウェイ 『レ・ミゼラブル』
>
> ■外国語映画賞
> 『愛、アムール』(オーストリア)
>
> ■脚本賞
> クエンティン・タランティーノ 『ジャンゴ 繋がれざる者』
>
> ■脚色賞
> クリス・テリオ 『アルゴ』
>
> ■ドキュメンタリー長編賞
> 『シュガーマン 奇跡に愛された男』
>
> ■ドキュメンタリー短編賞
> 『イノセンテ(原題) / Inocente』
>
> ■短編実写賞
> 『リッチーとの一日』
>
> ■長編アニメ賞
> 『メリダとおそろしの森』
>
> ■短編アニメ賞
> 『紙ひこうき』
>
> ■視覚効果賞
> 『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』
>
> ■撮影賞
> クラウディオ・ミランダ 『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』
>
> ■メイクアップ&ヘアスタイリング賞
> 『レ・ミゼラブル』
>
> ■歌曲賞
> 「スカイフォール」 『007 スカイフォール』
>
> ■作曲賞
> マイケル・ダナ 『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』
>
> ■編集賞
> 『アルゴ』
>
> ■音響編集賞
> 『007 スカイフォール』
> 『ゼロ・ダーク・サーティ』
>
> ■音響賞(調整)
> 『レ・ミゼラブル』
>
> ■衣装デザイン賞
> ジャクリーン・デュラン 『アンナ・カレーニナ』
>
> ■美術賞
> 『リンカーン』
>
> (編集部・福田麗)

作品賞を受賞した「アルゴ」は、日本ではあまり知名度がなく、興行収益的にもヒットしているような感じでさえもありませんでしたが、なかなかの良作です。
アクションシーンなしでアレだけの緊迫感を生むというのは、そうそう簡単に出来ることではないのですし。
前回のアカデミー賞で作品賞を獲得した「アーティスト」や、その対抗馬とされた「ヒューゴの不思議な発明」などは、どちらかと言えば映像美に傾斜していたきらいがあったのですが、「アルゴ」はストーリーと演出が評価されたということになるのでしょうか?
「アルゴ」の対抗馬たる「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」の方は、完全に映像美が評価されての受賞だったのでしょうけど。
親友との約束を破って逃亡した「走れメロス」のごとき構成になってしまっている「レ・ミゼラブル」などは、しかしそのミュージカルな構成がヒットして未だにロングランな上映が続いていますし。
一方でスティーブン・スピルバーグは、去年の「戦火の馬」に引き続き、またしてもアカデミー賞から梯子を外される羽目になっていますね(T_T)。
ノミネートだけはされまくっていましたし、今年は「本命」とまで言われていたというのに、何とも運に恵まれない話で。

今回受賞が決定された映画の中で、私が観賞する予定のある作品は「ジャンゴ 繋がれざる者」「世界にひとつのプレイブック」「リンカーン」の3つですね。
「世界にひとつのプレイブック」は2013年2月22日から全国公開されているのですが、熊本では4月6日からしか解禁されないという、相変わらずな地方の映画格差の煽りを食らっている始末で、その時までお預けということになります。
アカデミー賞受賞作品ですらこういう弊害があるのですから、何とも泣けてくる話ですね(T_T)。
もちろん、アカデミー賞受賞作品だからといって、その映画が名作であることが保証されるわけではなく、また莫大な興行収益を叩き出せるというわけでもないのですから、それも止むを得ない一面があったりするのですが。
カンヌのパルムドール賞を受賞していながら「史上最悪のクソ映画」という栄冠に輝いた、「ツリー・オブ・ライフ」のごとき悪例もあるのですし。
現時点では未だ未観賞の3作品についても、アカデミー賞の権威に恥じないだけの出来であることを期待したいものです。

映画「草原の椅子」感想

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映画「草原の椅子」観に行ってきました。
芥川賞作家の宮本輝による同名作品を原作し、日本映画では初めてパキスタン・イスラム共和国の北西部に位置するフンザでの映画撮影を実現させた、佐藤浩市主演の人間ドラマ作品です。

物語の冒頭は、明らかに外国と思しき風景が映し出され、その中で4人の日本人が集まって和やかに談笑している場面から始まります。
4人の日本人の構成は、男性2人に女性1人、そして子供がひとり。
彼らは地元のものとおぼしきマイクロバスに乗り、どこかへと向かっていくのでした。

ここで時系列は過去に戻り、4人が冒頭のようになった経緯が、4人の中のひとりで今作の主人公でもある遠間憲太郎の視点から語られていきます。
彼は、とある大手企業の中間管理職的な地位にあるサラリーマンで離婚歴があり、現在は大学に通っている娘の遠間弥生との2人暮らしをしています。
会社ではそれなりに人望もあるらしい遠間憲太郎は、部下達の悩みや相談にもしばしば丁寧に応じる人格の持ち主でもありました。
そんなある日、遠間憲太郎は、勤めている会社の取引先企業「カメラのトガシ」の社長である富樫重蔵からの電話を受けることになります。
何でも富樫重蔵は、激昂した不倫相手から灯油をぶっかけられてしまい、その強烈な臭気のためにタクシーの乗車を完全に拒否されてしまっている状態にあるのだとか。
遠間憲太郎はすぐさま、自家用車で富樫重蔵を迎えに行き、風呂に入れて新しい服を与え、さらには不倫相手と示談させるべく弁護士の紹介まで取り計らってやったのでした。
これに恩義を感じた富樫重蔵は、遠間憲太郎に対して「敬語や肩書は一切なしで語り合う親友になって欲しい」と申し出、遠間憲太郎は戸惑いながらもこれを受け入れます。
その後2人は、年齢が同じということもあってか、しばしば飲み屋で互いに悩みを打ち明け、忌憚なき会話を交わすことができる関係に昇華していくことになります。

また遠間憲太郎は、会社の過重労働が原因で居眠り運転を行い事故を起こしてしまい、病院で入院生活を送っている部下を見舞いに訪れていました。
部下は過酷な労働環境に自分を置いた会社を訴えると遠間憲太郎に告げており、遠間憲太郎は部下を何とかなだめすかしてその場を収めることになります。
部下を見舞った病院からの帰り道、雨が降る中タクシーで移動していた遠間憲太郎は、その途上で雨宿りをしている、ひとりの着物姿の女性を目撃します。
その女性が雨の中を走って一軒の骨董屋へ入っていくのを確認すると、彼女のことが妙に気になったのか、遠間憲太郎はタクシーを停車させ、後を追うようにその骨董屋へと入っていくのでした。
その女性・篠原貴志子は骨董屋を営んでおり、遠間憲太郎は彼女のためにわざわざ10万円もする骨董の皿を購入したりするのでした。
その後、遠間憲太郎は、骨董について独学で学びつつ、篠原貴志子の骨董屋にしばしば足を運ぶようになっていきます。

そしてまた別の日。
バス停でバスに乗ろうとしていた遠間憲太郎は、すぐ近くで自分の娘である遠間弥生が見知らぬ中年男の車に乗り込む光景を目撃します。
タクシーでその後を尾けた遠間憲太郎は、その中年男が住んでいるとおぼしきアパートのベランダで、遠間弥生が洗濯物を干している様子を見出すことになるのでした。
娘がいかがわしい男と、それも下手すれば援助交際や不倫の疑いすらもある付き合いをしているのではないかという疑問に駆られた遠間憲太郎は、その日娘が家に帰って来るとすぐさま中年男の件について問い質します。
奇しくもその時、遠間弥生は問題の中年男とその子供を家まで連れてきており、あわや一触即発の事態になりかけました。
しかし遠間弥生は、別に中年男とその手の関係にあるわけではなかったのです。
彼女は、同じバイト先で働いていた中年男の子供に懐かれており、子供の面倒を見るために中年男の家に出入りしていたとのこと。
そして中年男こと喜多川秋春と遠間弥生は、子供の喜多川圭輔を一時的に遠間家で世話をすることはできないかと遠間憲太郎に持ちかけてくるのでした。
喜多川圭輔の母親は、2年にわたって育児放棄と虐待を繰り返した挙句に男を作って家を出て行ってしまっており、また父親も一時的に遠出をしなければならない仕事ができたため、子供の面倒を見ることができなくなったのだそうで。
中年男の得手勝手な態度に怒りを覚えながらも、遠間憲太郎はしぶしぶその申し出を承諾し、喜多川圭輔の面倒を見ることになります。
母親の育児放棄と虐待から、精神的に深刻な外傷を被っている気配すらある喜多川圭輔を相手に、遠間憲太郎は様々な試行錯誤を繰り返していくことになります。

これら3つの出会いがやがてひとつの流れを生み、やがてそれは遠間憲太郎とその周囲の人間に少なからぬ転機をもたらすこととなっていくのですが……。

映画「草原の椅子」に登場する主要人物達は、全員が何らかの形で心に傷を抱え込んでいます。
バツイチかつ浮気の経歴を持つ主人公の遠間憲太郎。
会社経営で少なからぬトラブルを抱え、リストラした元社員に自殺されて落ち込んでしまう富樫重蔵。
何度も不妊治療をしながら子宝に恵まれず、それが災いして夫と離婚する羽目になった、主人公と同じく同じくバツイチの篠原貴志子。
遠間憲太郎の娘と元妻も、離婚絡みでそれぞれ少なからぬ傷を負っていた様子が描かれています。
しかし、作中で一番大きな精神的ショックと外傷を被っているのは、価値観が俺様至上主義かつ電波入りまくりであまりにもゴミ過ぎる両親の得手勝手な自己都合に振り回された挙句、わずか4歳でありながら実の両親から事実上捨てられることになった喜多川圭輔でしょうね。
自分のこと以外全く眼中にないあの2人の実の両親のクズっぷりは、傍目から見ている分にはなかなかに笑えるものがありました。
もちろん、当事者にとっては深刻な問題以外の何物でもありませんし、親が子供を捨てるという行為が許されるはずもないのですが。
ただ喜多川圭輔の場合、実の両親があまりにもあっさりと子供を捨てる態度を取っていたことは、むしろ逆に幸いな側面もあったでしょうね。
作中で遠間憲太郎も述懐していましたが、あのまま実の両親の下にいたら、両親による更なる育児放棄と虐待によって殺されていた可能性すら充分にありえたわけですし。
また、これは意外な話ではあるのですが、子供を虐待する親というのは、実際には作中の両親とは逆に、子供を自分の管理下から放したがらないという問題もあったりするんですよね。
もちろんその理由は決して子供の将来等を考えてのことなどではなく、単に世間体が悪く自分に非難の目が集中するからとか、子供に暴力を振るって自分の不満のはけ口にするためとか、およそ自己中心的な事情によるものでしかないのですが。
虐待の疑いのある親や、実際に子供を殺してしまった親が、行政の干渉をすら跳ね除けて子供を執拗に自分の管理下に置こうとする事例は、実際に数多く存在していたりします。
もし喜多川圭輔の両親がそんな態度に打って出ていたら、喜多川圭輔自身にとっても不幸なことはもちろんのこと、遠間憲太郎も余計な法廷闘争を強いられることになったのは確実だったことでしょうね。
まあ遠間憲太郎には知り合いに弁護士がいるみたいですし、状況証拠的に見ても遠間憲太郎側に有利に戦いを勧められはしたでしょうけど、それが子供に少なからぬ悪影響を与えるであろうことは避けられなかったでしょうし。
その点で、あのゴミな実の両親が喜多川圭輔をあっさりと捨て去ったことは、結果的に見れば、あの2人が子供にしてやった唯一の「善行」だったとすら言えるのかもしれません。
もちろん、そんなシロモノをそんな風に評価しなければならないこと自体、あの両親の救いようがないクズっぷりを充分に証明して余りあることでしかないのですけどね。

物語冒頭と終盤で舞台となるパキスタン・イスラム共和国のフンザは、さすが「世界最後の桃源郷」と言われるだけのことはあり、雄大かつ美しい光景をまざまざと見せつけていました。
ロードムービー的な構成としては、なかなかに良く出来ていたのではないでしょうか。
ただ、ああいうのってやはり映像や写真ではなく、実際に自分の目と耳で実地で確認してこそ、本当の意味で実感できるものなのでしょうね。
だからこそ作中の主人公達も、写真集で何度も風景を見ていながら、実物のフンザへ足を運ぶことを決断したわけで。
フンザは2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件以降、パキスタンがイスラム国家ということもあり観光客が減少傾向にあるとのことなのですが、今作の上映で客足に弾みがつくことになるかもしれませんね。

登場人物の設定に暗い要素はあるものの、全体的には安心して観賞できる構成ですし、個人的にも結構オススメできる作品ですね。

映画「遺体 明日への十日間」感想

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映画「遺体 明日への十日間」観に行ってきました。
2011年3月11日の東日本大震災発生直後に臨時に設置された岩手県釜石市の遺体安置所を舞台に、遺体を管理する人達と遺族の姿を描いたヒューマン・ドラマ作品。
内容的には非常に地味かつ起伏のないストーリーなのですが、西田敏行・佐藤浩市・柳葉敏郎などの豪華キャストが多数出演しています。

今作の物語は、東日本大震災が発生する約10分前の日常風景が展開されるところから始まります。
何故10分前と分かるのかというと、西田敏行が演じる今作の主人公・相葉常夫が地元の老人?達と卓球レクリエーション?をしていた場所に時計があり、その時刻が昼間の2時35分頃を指している描写があるためです。
その他、患者を診る医者、学校から帰宅する小中高の学生、買い物をする主婦、港で働く人達など、どこにでもある日常風景が続いていきます。
そして、ひとしきりその手の日常風景が展開された後、画面が暗転し、ナレーションのみで東日本大震災の発生および津波で海沿いの街が壊滅したことが掲示されます。
そして次の場面では、冒頭で相葉常夫が卓球レクリエーションをしていた場所の「震災で被害を受けた後」の光景が映し出されます。
震災で停電し、卓球のボールなどが散乱した部屋で相葉常夫が後片付けに精を出している中、震災直後に帰宅した(らしい)はずの老人達が戻ってきていました。
海沿いにある家に帰ろうとしていた彼らは、海沿い方面への道が通行止めになってしまっていて帰れなくなってしまったこと、海沿いが津波で壊滅状態となってしまったことなどを相葉常夫に教えるのでした。
一方、釜石市の役所では、震災で犠牲となった遺体を一時的に置いておくための安置所を設置することが決定され、3人の職員がその責任者として指名されていました。
遺体安置所は、数年前に廃校となった中学校が使用されることとなり、自衛隊や役所の職員によって発見された犠牲者の遺体が続々と運ばれていました。
その遺体安置所を訪ねた相葉常夫は、あまりの被害の大きさと、遺体安置所における遺体への扱いに愕然とします。
震災当時66歳だった相葉常夫は、定年まで葬儀会社の仕事に就いていたこともあり、運ばれてきた遺体が雑に扱われていることに口を出さずにはいられなかったのでした。
そして相葉常夫は、震災で混乱している市政の指揮に当たっていた、震災当時の釜石市市長・野田武則に直談判し、遺体安置所でボランティアとして働きたいと申し出ることになります。
ボランティアでありながらも、葬儀関係の経験が相葉常夫は、役所から派遣されてきた職員達の上に立ち、遺体安置所の管理運営を任されることになります。
次々と運ばれてくる遺体と、行方不明となっている親類縁者や知人を探してやってくる遺族達を相手に、相葉常夫は対処していくことになるのですが……。

映画「遺体 明日への十日間」では、東日本大震災をメインテーマに扱いながら、「被災者や犠牲者が震災の被害を【直接】受けている様子」というのが一切描かれていないのが、大きな特徴のひとつであると言えますね。
津波に襲われる市町村の様子とか、津波に巻き込まれ流されていく人々とか、そういった直截的なシーンが一切ないわけです。
あくまでも「震災後」が舞台であり、震災で死んだ人と向き合わなければならない「生き残った人達」にスポットを当てた作品なのです。
ただそうは言っても、震災の凄惨さを演出するという意図から、震災や津波等の光景自体はそれなりに描写するのではないかと個人的には予想していたので、これは少々意外な展開ではありましたね。
まあ、予算の都合や「作品のテーマが拡散する」等の理由で削られたのかもしれませんが。

また今作は、最初から最後までとにかく起伏のない淡々としたストーリーが延々と展開されていきます。
「遺体 明日への十日間」という題名といい、「東日本大震災の真実」という題材といい、事前予測でも明るい要素が欠片も見出せない上に事実暗いストーリー構成だったりもするので、
エンターテイメント的な爽快感などとはおよそ無縁な映画であると言えます。
ただその分、出演している俳優さん達の真に迫った名演技が光っていますね。
個人的に考えさせられたその手の描写は2つ。
ひとつは、自分と全く面識のない遺体に懇切丁寧に話しかけるという、傍から見たら奇異な対応をする主人公・相葉常夫の言動。
彼がそうする理由については、老人の孤独死を見続けてきたことから、死んだ老人が哀れになって話しかけてみたところ、遺体が変わったように見えたという過去の経緯が作中でも語られています。
そして相葉常夫は、次々と際限なく運ばれ続ける遺体管理の仕事に嫌気がさして不満を述べる職員に対し、「ここにあるのは死体ではない、御遺体なんです」と主張するのです。
相葉常夫的には、そうやって「遺体」と接することで故人を労わると共に、哀しみに押しつぶされそうな遺族の心情に若干ながらの安息を与えるという意図があるのでしょう。
ただ実際には、この手の遺体管理の仕事場では、相葉常夫とは逆に「遺体について感情移入するな、ただのモノとして考えろ」などという考え方も普通にあったりするんですよね。
故人の遺品整理を行う仕事を扱っている映画「アントキノイノチ」などでは、作中の人物が主人公に対してまさにそういう主旨のセリフを述べているシーンがあったりします。
下手に故人に感情移入してドツボに填ってしまったり、余計なお節介をやってしまって遺族からウザがられ、場合によっては無用な揉め事の種にまで発展するリスクもあったりするわけで、これはこれで間違った考え方というわけではないわけです。
特に、震災の現場で何百体もの死体を捜し出し遺体安置所へ運び続けなければならない職員や自衛隊の人間などは、そうでもしないと自分の心が押し潰されることにもなりかねないケースもあったりするのではないかと。
相葉常夫のような考え方は、自身のメンタル面が相当なまでに強くかつ柔軟性がないと、その実行は難しいものがあるでしょうね。

もうひとつ印象に残ったのは、津波の犠牲となった小学生の遺体が運ばれてきた際に、釜石市の女性職員・照井優子が壁を叩きながら「幼い生命が死んでいるのに私なんかが生きているのが申し訳なくて……」と泣き叫ぶシーンです。
その小学生が津波で犠牲になった件について、別に照井優子が直接手を下した等の責任があるわけでもないのに、何故照井優子が自分を卑下しなければならないのでしょうか?
照井優子が生きていることと、震災で小学生が死んだ件とは何の相関関係もないのですし、そもそもその小学生と照井優子とは一面識すらもなかったわけでしょう。
「自分より幼い人間が死んだこと」について嘆くのであれば、それは別に東日本大震災に限らず、毎日世界中のどこかで日常茶飯事に起こっていることであるはずなのですが。
第一、本当に故人に対して自分が生きていることに申し訳ないと考えているのであれば、自分がその場で自殺でもしてしまえば一瞬で解決する話ではないのかと。
こういう発想が、「英霊に申し訳が立たない」からと戦場での犠牲を悪戯に増やした戦前の一億総玉砕論や、「被災者に申し訳ない」という理由から始まったあの愚かしい自己満足の産物でしかない震災自粛の温床でもあることを考えると、とても賛同なんてできるようなシロモノではなかったですね。
自分の責任の範疇外で発生した「他人の死」に自責の念など抱いていては身が持ちませんし、そんなものでは死者も生者も、何よりも自分自身も救われることなどないのです。
自分を責めるよりも行動した方が、はるかに生者どころか死者さえも含めた他人のためになるのではないのでしょうか?

全体的には、豪華キャストな出演者の顔ぶれを見てさえも、やはり万人受けはしなさそうな構成の作品だよなぁ、というのが正直な感想ですね。
人間ドラマとしてはそれなりのものがありはするのですけど、映画は「派手な演出」こそが大きな売りのひとつでもあるわけですし。
原作が「遺体 震災、津波の果てに」というルポルタージュ本とのことなので、その手の要素は最初から望みようがなかったのでしょうけどね。

映画「ゼロ・ダーク・サーティ」感想

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映画「ゼロ・ダーク・サーティ」観に行ってきました。
2001年のアメリカ同時多発テロ事件の首謀者とされるオサマ・ビン・ラディンの所在を10年にわたって探し続け、ついに殺害するに至ったCIAの女性分析官にスポットを当てたサスペンス作品。
映画のタイトルは、2011年5月2日、パキスタンのアボッターバードに潜伏していたオサマ・ビン・ラディンの邸宅への攻撃を開始した時刻、午前0時30分を指す軍事用語です。
今作は、アルカイダの関係者に拷問を加える描写などの残虐シーンがてんこ盛りなため、PG-12指定されています。

2001年9月11日のアメリカ同時多発テロから2年が経過した2003年。
今作の主人公で当時高校を卒業したばかりのマヤは、すぐさまCIAにスカウトされ、パキスタンのアメリカ大使館でオサマ・ビン・ラディンを追跡するチームの一員としての任務に就くことを命じられます。
初仕事となる彼女が初めて目の当たりにしたのは、現地のオサマ・ビン・ラディン追跡チームのリーダーで彼女の上司となる人物でもあるダニエルが、アルカイダの関係者を吊るし上げ、水責めや箱詰めなど様々な拷問をかけて情報を引き出そうとしている場面でした。
その光景に最初は引きつつも、すぐさま順応して「早く情報を吐いた方が良い」と捕縛者に忠告すらしてみせるマヤ。
以降、マヤはCIAにもたらされる情報を分析しつつ、オサマ・ビン・ラディンの行方を知るとおぼしきアルカイダ関係者から情報を引き出す日々を送るようになっていくのでした。

2人は、アルカイダの関係者を(拷問その他の手管も交えて)取り調べていく中で、オサマ・ビン・ラディンの連絡役と思しきアブ・アフマドなる人物の存在をキャッチします。
しかし、その足取りや所在については全く手がかりが掴めないまま、5年の歳月が流れていきます。
その間、2005年7月7日にロンドンで同時爆破テロ事件が発生したり、2008年9月30日にはマヤ自身がイスラマバードのマリオット・ホテル爆破テロ事件に巻き込まれたりするなど、アルカイダが関与したとされるテロ事件が後を絶ちませんでした。
また、マヤの上司だったダニエルも現場を離れCIA本部の勤務になるなど、オサマ・ビン・ラディン追跡チームの構成員にも少なからぬ変化があったりもしました。
そんな中、マヤの同僚で親しい友人関係にもあったジェシカが、アルカイダの関係者から有力な情報を得られることになったとの報告がもたらされます。
マヤは素直に友人の功績を絶賛し、アフガニスタンにあるチャップマン基地で行われる予定のアルカイダ関係者との接触に期待を寄せるのでした。
ところがそれはアルカイダ側が仕組んだ罠であり、2009年12月30日の接触当日、ジェシカを含めたCIA職員7名は、アルカイダによる自爆テロによって帰らぬ人となってしまうのでした。
これがきっかけとなってマヤは、オサマ・ビン・ラディンの殺害を心から願うようになり、半ば狂信的な手法と態度でオサマ・ビン・ラディンの追跡を行っていくようになります。
その努力が実り、ついに彼女はアブ・アフマドの特定に成功し、パキスタンのアボッターバードにある邸宅の存在を掴むまでに至るのでした。
しかし、そこに何らかの重要人物がいるという点ではCIA内部でも見解の一致を見たものの、その組織がアルカイダの、ましてやオサマ・ビン・ラディンであるという確証など誰も持ち合わせていませんでした。
100%の確証があると断言して憚らないマヤに同意する者はCIA内部には誰もおらず、彼女は孤立無援も同然の状態でした。
しかしアメリカ政府上層部は、そんなマヤの可能性に着目し、攻撃の許可を与える決定を下したのです。
かくして2011年5月2日の「ゼロ・ダーク・サーティ」に、オサマ・ビン・ラディンの殺害作戦が、総勢15名で構成されるネイビー・シールズの部隊によって展開されることになるのですが……。

映画「ゼロ・ダーク・サーティ」は、良くも悪くもオサマ・ビン・ラディンが殺害されるに至るまでの全行程を余すところなく再現していますね。
捕縛したアルカイダ関係者達を、CIAの面々があの手この手で拷問にかける様子まで普通に描写されていますし。
今作がアメリカで公開された際には、アメリカの一部議員達が「CIAは拷問なんか行っていない、そんな間違った印象を与えるこの映画はケシカラン」などと映画の製作元に抗議したこともあるのだそうで。
しかし、日本の警察でさえ自白強要や誘導尋問等の事例が普通にあるというのに、それ以上に強権を持つ上に外国人を相手とするCIAで、その手の拷問が全くなかったとは到底考えられるものではないでしょう。
ましてや、相手がアメリカ同時多発事件の首謀者であり、かつ大多数のアメリカ国民からも当然のごとく成果を求められる状況ではなおのこと。
一応アメリカ政府も、公式発表上では「人道的な取り調べを行っている」ことを強調してはいるでしょうが、実際には拷問その他の強権発動があったことは「公然の秘密」というものでしょう。
民主主義国家であることと、その警察機構が人道的であることは、必ずしも両立するわけではないということですね。
むしろ、相手が外国人の場合は人権適用の対象外になっても本来はおかしくないくらいなのですし、下手に穏便に扱うと、テロ組織側に「捕まっても大したことはない」などと舐められてしまうリスクもあるのではないかと思うのですが。
一方のテロ組織の方は、アメリカ兵を捕まえたら一切容赦しないであろうことは、映画「ブラックホーク・ダウン」のモデルとなった「モガディシュの戦闘」におけるアメリカ兵の死体の扱いを見ても一目瞭然なのですし。
アメリカにばかり人道的措置を求められるのに、テロ組織はやりたい放題が許される、というのはあまりにもアンフェア過ぎるのではないのかと。
まあアメリカの方も、国内への配慮以外にも対外的にイイ顔をしなければならない事情もあるわけですから、別に好き好んで単なる足枷にしかならない「人道」を前面に掲げているわけではないのでしょうけど。

作中のマヤは女友達をチャップマン基地の自爆テロで殺されてしまった後、まるでそれが生きがいであるかのごとくオサマ・ビン・ラディンの抹殺に奔走するようになってしまっていましたが、その目的が達成された後、彼女は何に生きがいを見出すことになるのでしょうかね?
高校卒業直後からあしかけ8年近くもオサマ・ビン・ラディンの追跡に従事し続け、それ以外の分野における実績も功績もこれといってないわけですから、マヤはある種の「つぶしがきかない」人間と評されるべき人物であるわけです。
しかも、アレほど熱望していたオサマ・ビン・ラディンの殺害が実現したとなると、マヤは今後の「生きる目的」を一時的にせよ失った状態にもあるわけでしょう。
下手すれば「生ける屍」のごとき生気の抜けた状態になってもおかしくなさそうに見えますし。
まあ、オサマ・ビン・ラディンの殺害に成功したという事実自体が巨大な功績たりえるのですから、CIA内部における彼女の地位は不動のものになったのかもしれませんが、彼女、今後もCIAでの仕事を生業にしていくのでしょうかね?
彼女の後日談がどうなったのか、是非とも知りたいところです。

映画「ゼロ・ダーク・サーティ」は上映時間が158分と非常に長く、しかもアクション映画にありがちな派手で観客受けする描写がまるでないため、観る人を選びそうな構成の作品ではありますね。
一応アカデミー賞有力候補作のひとつというのも売りな映画ではあるのですが、だからと言ってそれは必ずしも「名作」であることを保証するものでもないのですし。
アメリカほどにはオサマ・ビン・ラディンに執着がない日本ではなおのこと、その傾向がより強くなりそうです。
アメリカでは大ヒットを記録した映画だったそうですが、果たして日本ではどれくらい興行収益的な成功を収めることになるのでしょうかねぇ。

映画「レッド・ライト」感想

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映画「レッド・ライト」観に行ってきました。
超常現象を科学的に解明すべく奔走する主人公達が、稀代の超能力者として名を馳せるサイモン・シルバーと壮絶な心理戦を繰り広げる、異色のミステリー作品。

物語は、ポルターガイストとおぼしき超常現象に見舞われている家に、マーガレット・マシスンとトム・バックリーという2人の人物が訪れるところから始まります。
2人は、巷で評判の超常現象に懐疑的な立場から調査・検証を行うことを生業とする大学の物理学者で、マシスンが教授・バックリーが助手という関係にありました。
家主?の依頼で訪問した今回の家では、奇妙な物音が響き渡ったり、机が浮き上がるなどの現象が頻発しており、住人は引っ越しを検討すらしていました。
しかし、マシスンはポルターガイストの原因が家主のひとり娘にあり、かつ家の中で頻発していた超常現象も科学的なトリックによるものであることを喝破します。
ひとり娘にこれ以上イタズラをしないよう言いくるめ、2人はその家を後にするのでした。

その後、2人は大学の講義で、冒頭の家で発生した「机が浮き上がる」現象のトリックを解説しています。
サリー・オーウェンという若い女子学生がその講義の内容に興味を抱き、それが縁となってバックリーと恋仲になっていきます。
そして彼女は、バックリーとマシスンと共に、超常現象を調査するチームに入ることとなるのでした。
その頃、巷ではかつて「伝説の超能力者」と言われたサイモン・シルバーなる人物が、30年ぶりに復活を遂げるということで大きな話題となっていました。
バックリーは自分達の生業から言っても当然のごとくサイモン・シルバーを調査すべきと考え、上司たるマシスンに掛け合います。
しかしマシスンは、40年近く前にサイモン・シルバーと公開討論を行った際に彼のトリックを見破ることができずに撤退を余儀なくされた過去があり、「彼は危険だから近づくな」と全く取り合おうとしません。
しかし、サイモン・シルバーの弟子と称するレオナルド・パラディーノの超能力のタネも暴いたバックリーの、サイモン・シルバーの調査を行いたいという欲求は募るばかり。
ついに彼は、単独でサイモン・シルバーの調査を行うべく、サイモン・シルバーが公演を行っている劇場へと向かうのでした。
ところがそれ以降、バックリーの周囲では不可解な異常現象が次々と発生するようになり……。

映画「レッド・ライト」の大部分は、超常現象がどのようなトリックを駆使して展開されているのか、その種明かしを売りとしている感のある作品ですね。
机が浮き上がるトリックの解説とか、頻繁に変わる通信波を使用して観客のことを教える人間の存在とか、アレだけ超常現象の種明かしに終始している映画というのも珍しいのではないかと。
ただ、終盤近くまで続く科学考証至上主義的なストーリー進行自体が、ラストの大どんでん返しの伏線だったりもするのですが。
あの大どんでん返しは、確かに映画の予告編でもあったように「視点を変えてみる」にも合致しますし、ある意味作中の怪奇現象の謎を解くものでもあります。
あえてネタばらしをすると、サイモン・シルバーに関わって以降にトム・バックリーの周囲で発生していた超常現象は、全てトム・バックリー自身の超能力で引き起こしていたものだった、ということになるらしいのですが。
その結末を知った上でよくよく作中の描写を見てみると、トム・バックリーは最初から自分のことを「超能力者だ」と告白しているシーンもあって、「ああ、アレって社交辞令ではなく本当のことを言っていたのか」と納得することしきりではありました。
ただ、一応は「ミステリー」「超常現象への懐疑」を前面に打ち出しているはずの物語で、それを完全に否定する形での超能力を突然持ってくるという展開は正直どうなのでしょうか?
ミステリー作品の基本ルールと言われる「ノックスの十戒」にある「探偵方法に超自然能力を用いてはならない」「探偵自身が犯人であってはならない」にも、真っ向から反した結末となっていますし。
この辺りの構成は、やたらとミステリーな謎を予告編その他で協調しまくっていた映画「シャッターアイランド」と似たり寄ったりな雰囲気があって、どうにも微妙なイメージが否めなかったですね。

それと、アレのせいでサイモン・シルバー絡みの謎のひとつが、結果的に作中で明確に解明されることなく曖昧な形で残ったままになっていますね。
「サイモン・シルバーを非難する者は突然死をする」という謎は、結局作中ではどういう形での決着となったのでしょうか?
特に、1975年にサイモン・シルバーが引退するきっかけとなった、サイモン・シルバーに懐疑的な記者がショーの最中に死亡したという事件は、結局真相が如何なるものだったのかは何も分からずじまいです。
一応作中では、サイモン・シルバーの部下の男が、トイレで一緒に居合わせたトム・バックリーに襲い掛かり、半殺しにするという行為をやらかしているので、サイモン・シルバー
の一派が手を下していたという解釈は成り立たなくもないのですが、それにしても所詮は「疑惑」止まりでしかないのですし。
まさか、30年前の1975年の事件についてもトム・バックリーが関与していた、などというオチはいくら何でもないでしょう。
トム・バックリーは学生と恋仲になれる程度には「若い」という設定のようなのですし、マーガレット・マシスンと違ってサイモン・シルバーとは過去にこれといった面識もなかったようでしたからねぇ。
あそこまで科学にこだわるのであれば、せめてあの事件の真相についても「サイモン・シルバー関係者辺りの過去の回想」的な形で明確な答えを出して欲しかったところではあります。

基本的に超常現象に対する科学的なアプローチが延々と続く作品なので、全体的に派手な描写や手に汗握る展開といったものがなく、その点では万人向けの作品であるとは言い難いですね。
また、ミステリーの観点から言っても、ラストの展開は見る人によってかなり賛否が分かれそうな内容ですし。
超常現象懐疑論が好きな方にはオススメな作品と言えるかもしれませんが。
アメリカでも興行収益は製作費を下回ったほどに低調だったようですし、日本でも大ヒットは難しいかもしれませんね。

映画「ダイ・ハード/ラスト・デイ」感想

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映画「ダイ・ハード/ラスト・デイ」観に行ってきました。
大事件に巻き込まれる不運でタフな刑事ジョン・マクレーンをブルース・ウィリスが演じる、言わずと知れた超大ヒットシリーズ第5弾。
2013年に入って以降に観賞したブルース・ウィリス出演映画は、「LOOPER/ルーパー」「ムーンライズ・キングダム」に続きこれで3作目。
6月には、同じくブルース・ウィリスが出演する「G.I.ジョー バック2リベンジ」も日本公開される予定とのことですし、今年はブルース・ウィリス映画の当たり年ですね(苦笑)。
もちろん、一番の大本命は、アクション映画として不動の地位を確立している今作であるわけですが。
今作は2013年2月14日の木曜日に劇場公開の運びとなっているわけですが、これってどう考えても、TOHOシネマズ系列の映画館で毎月14日に1000円料金となる「TOHOシネマズディ」を意識していた以外の何物でもなかったでしょうね。
映画の劇場公開というのは、興行収益の観点から言っても金曜日が土曜日から始めるのが一般的かつ理に適っているのですし。
また今作は、作中でとにかく人が死にまくることもあってか、PG-12指定されています。

今作の舞台は、過去4作の主要舞台であるアメリカを離れ、シリーズ初の海外となるロシア。
物語は、ジョン・マクレーンの息子で父親と10年以上にわたって喧嘩別れしているジャック・マクレーンが、ロシアのバー?で人を撃ち、そのまま収監されてしまうところから始まります。
息子が収監されたとの情報を聞きつけたジョン・マクレーンは、ジャックの姉で自分の娘でもあるルーシー・マクレーンに見送られ、息子の身柄を引き取るべく、ロシアへと高飛びすることになります。
一方、ジャックの方は尋問する警官に取引を持ちかけ、現在ロシア中で話題となっているユーリ・コマノフの裁判で、彼の指示で自分が犯罪を犯したと証言するから同じ裁判に出廷させてほしいと提案しています。
そして、2人の裁判の場に、ジョン・マクレーンもまた居合わせることとなるのでした。
ところが、裁判所の外の路地に停車した3台の車が突如爆破。
爆発は裁判所の壁を吹き飛ばし、裁判の場およびそこに居合わせていた面々をも巻き込む大惨事を現出することに。
そこへ、ガスマスクを着用した謎の武装集団が、爆発で吹き飛ばされた壁跡から乱入し、中にいる人達を殺傷し始めるのでした。
しかし、裁判に出廷していたジャックは、ユーリ・コマノフを連れていち早く裁判所を離脱。して車を奪い、どこかへ逃走しようと図ります。
そして、ユーリ・コマノフの身柄確保を目的としていたらしい武装集団も、装甲車を使いただちに彼らの追跡を開始。
一方、謎の武装集団からの追撃から逃げるジャックは、自分を引き取りに来た父親ジョン・マクレーンとついに鉢合わせることとなります。
ジャックは父親の主張に全く聞く耳を持つことなく、自分の車に乗せることも拒否してその場から離脱。
そのジャックの後を追う装甲車を見て、ジョンはさらに近くに止めてあった車を奪い、2組の後を追い始めるのでした。
かくして、ジャックと謎の武装集団とジョン・マクレーンによる3つ巴のカーチェイスが繰り広げられることとなるのですが……。

映画「ダイ・ハード/ラスト・デイ」は、さすが人気アクション映画シリーズなだけのことはあり、アクションやカーチェイスがとにかく派手ですね。
序盤からロシアの大通りを舞台にド派手なカーチェイスが繰り広げられますし、終盤に至るまでアクションシーンが展開されるので、退屈だけはしないで済みます。
ただ、今作はこれまでのシリーズと比較してもかなり短い98分の上映時間しかない(1~4作目までの上映時間は全て120分以上)ため、ボリュームという点では今ひとつな感が正直否めなかったですね。
これまでのシリーズと比較しても、アクションシーンやカーチェイスなどに比重が置かれ過ぎていて、悪役達との駆け引きなどの描写が薄くかつ浅かった感がありましたし。
長すぎて問題ということはないでしょうし、これまでと同様に上映時間120分以上できっちり作って欲しかったところだったのですけどね。

一方で、 悪役絡みの設定や描写は、明らかにシリーズ1作目を意識しているような趣がありました。
たとえば、今作の真の黒幕がジャックに建物の屋上から投げ落とされるシーンは、「ダイ・ハード」1作目のラスボスであるハンス・グルーバーの最期とカブる「ゆっくりスローモーションに落下していくシーン」が繰り広げられていたりします。
また、その黒幕とマクレーン親子が、今作のラストバトルの舞台であるチェルノブイリで「再会」した際、黒幕はハンス・グルーバーと同じく「何も知らない被害者」の演技を披露して自分の窮地を脱しようと試みています。
ただ今作では、1作目のハンス・グルーバーとは異なり、マクレーン親子にあっさり正体を喝破されてしまったため、黒幕側もすぐさま反撃に移らざるをえなかったのですが(苦笑)。
まあ、ジョン・マクレーンには1作目でハンス・グルーバーにまんまと騙された経緯がありますし、ジャックもCIAの工作員としての経験を積んでいるわけですから、その両者を騙すのは至難の業ではあったのかもしれないのですけど。
そして、黒幕を殺された後に黒幕の右腕的な存在である悪役が復讐に走り、マクレーン達を殺そうとする展開も、1作目におけるハンス・グルーバーの腹心カールと全く同じですね。
1作目のカールは、過去のトラウマから発砲できなくなっていた警官によって射殺されるのですが、今作のそれは「弾薬が尽きたヘリで体当たり特攻を敢行する」という形でマクレーン親子に復讐しようとしています(当然、失敗するのですが)。
私が気づいただけでもこれだけあるのですから、ひょっとするとまだ他にも1作目との共通項があるかもしれないですね。
何故製作者達が、これほどまでに1作目を意識していた構成にしていたのかは不明なのですが。

あと、今作の邦題で付けられた「ラスト・デイ」なのですが、結果的に見れば「ラスト・デイ」を髣髴とさせる描写は作中には全くなかったですね。
一応意味としては、チェルノブイリの戦い直前にジョン・マクレーンが息子のジャックに対し、「お前と会えて良い一日だった」と述懐しているシーンが由来ではあるのでしょうけど、ラストでマクレーン親子は五体満足で普通にアメリカに帰ってきていましたし(苦笑)。
あのラストの終わり方を見ると、まだまだ続編はあるとみて良いのでしょうかねぇ。
今後続編が制作されるのであれば、上映時間をまた120分以上に戻して欲しいところではあるのですけど。

「ダイ・ハード」シリーズのファン、およびアクション映画愛好家であれば、まず観ておいて損はない作品です。

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