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カテゴリー「洋画感想」の検索結果は以下のとおりです。

映画「エンド・オブ・ホワイトハウス」感想

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映画「エンド・オブ・ホワイトハウス」観に行ってきました。
タイトルが示す通り、アメリカのホワイトハウスを舞台に繰り広げられるアクション映画。作中では無差別銃撃などで人が血を撒き散らしながら大量に死んでいく描写が存在するため、PG-12指定されています。

今作の主人公マイク・バニングは、アメリカ大統領ベンジャミン・アッシャーおよびその一家を警護するシークレット・サービスの一員。
大統領のスパーリングの相手になったり、大統領の息子コナー・アッシャーと親しく会話していたりと、彼は護衛対象たる大統領一家からも大きな信頼を寄せられていました。
しかし、クリスマスが近いある年の12月、大統領専用の別荘地キャンプ・デービットから選挙資金調達の用事で外出する大統領一家を警護する任に当たっていたマイク・バニングは、そこで不測の事態に直面することになります。
雪が舞う林道を走っている最中、大統領の専用車を先導する警護のクルマに大枝が落下。
パニックに陥った先導車は、ちょうど橋がかかった川に差し掛かったこともあり、大統領専用車を巻き込む形で橋からダイブして川に転落してしまいます。
それに巻き込まれた大統領専用車もまた、橋の淵にかろうじて引っかかった状態で今にも川へ転落しようとしていました。
大統領を救出すべく急ぎ駆けつけたマイク・バニングは、一刻を争う事態ということもあり、妻を助けようとする大統領の身柄の確保を優先して大統領を車から引っ張り出します。
ところがその直後、橋に引っ掛かることで辛うじて保たれていたクルマのバランスが崩れ、大統領専用車はファーストレディを乗せたまま、川へと転落してしまったのでした。
当然のごとくファーストレディは死亡。
大統領と息子は大いに嘆き悲しみ、マイク・バニングもまた、任務を果たせなかったことに自責の念に駆られることになってしまうのでした。

それから約18ヶ月後の7月5日。
ファーストレディを救出できなかった責任を問われたマイク・バニングは、シークレット・サービスの任務から外され、閑職も同然の財務省の国庫課に異動となっていました。
件の事件以来、彼は妻との関係すらも上手く行かなくなってしまい、あの時のショックから未だ完全には立ち直れずにいるのでした。
この日、アメリカ大統領は、北朝鮮との緊張状態が続く韓国の大統領と、ホワイトハウスで会談を行う予定となっていました。
シークレット・サービスによる厳重な警戒体制が敷かれる中、韓国側の護衛と共にホワイトハウスに現地入りする韓国の大統領。
しかしそんな中、一機のC-130輸送機がワシントンD.C.の飛行禁止区域へと侵入。
当然、2機の戦闘機がスクランブル発進して輸送機に警告を与えるのですが、C-130は警告を無視したばかりか突如発砲を開始。
その場で戦闘機を撃墜した上、ワシントンD.C.の市街地に向けて無差別の銃撃を開始し一般人を虐殺し始めます。
危機を察知したアメリカ大統領およびその周囲は、韓国の大統領と共に、ホワイトハウスの地下にある危機管理センターへと避難することになります。
しかし、時を同じくしてホワイトハウス近辺で大規模な襲撃が開始され……。

映画「エンド・オブ・ホワイトハウス」は、久々に「古き良き正統派」なハリウッドアクション映画とでもいうべき内容ですね。
主人公が単身敵に挑む設定といい、主人公以外の味方が無為無力どころかむしろ足を引っ張ってすらいる点といい、どことなく「ダイ・ハード」シリーズや「沈黙」シリーズのノリに近いものがあります。
主人公は最初から最後まで孤立無援の状態を維持し続けていますし、数十人規模の少数精鋭集団をたったひとりのアクションで制圧していく光景は、ハリウッド映画では見慣れたものではあるにせよ、それ故に安定的な面白さを観客に提供してくれています。
主人公は物語冒頭の事件をトラウマ的に引き摺っているため、キャラクター的には少々暗い性格になってしまってはいるのですが、終盤では「事件を解決した英雄」として名誉が回復し、ハッピーエンドで終わるところもポイントですね。
良くも悪くも、往時のハリウッドアクション映画のあり方を踏襲した作品と言えるのではないかと。

公式サイトに掲載されているプロダクションノートによれば、作中におけるホワイトハウス襲撃は「実際にそんなことが可能なのか?」というシミュレーションを重ねた末に考え出されたものなのだそうです。
特に感心したのは、ホワイトハウス襲撃日を7月5日に設定した理由で、この日はアメリカ独立記念日の翌日で、前日の記念式典等で出たゴミを処理するための大型トラックが多数出動するので、それをテロリスト達が利用できるからというもの。
これらの大型トラックは、作中ではホワイトハウスに繋がる道路の封鎖や、警察や軍からの攻撃に対する防塞として大いに機能していました。
物語の設定や必然性としてどころか、リアルなテロ計画としても充分に通用しそうな設定で、「実際にこういった襲撃は可能なのではないか?」という思いを観客に抱かせるのに十分なものがありました。
そして、そのホワイトハウス襲撃でも、ホワイトハウスの地下深くにある危機管理センターの制圧はさすがに難しいのではと考えていたら、そちらは韓国大統領の側近達によって内部からあっけなく占領されてしまっていました。
自国の大統領周辺に北朝鮮に繋がる工作員を、しかも何の疑いを抱くことすらもなく置いているとは、作中の韓国ってどれだけ北朝鮮に甘いんだよとつくづく考えずにはいられませんでしたが(^^;;)。
ただ実際、韓国は特に金大中政権の太陽政策以降、北朝鮮に対し無用なまでに寛大なスタンスを取るようになってしまっていて、結果として北朝鮮の工作が社会的に浸透しまくっているという事情も実はあったりしますからねぇ。
日本ではありえない話なのですが、韓国では「親北朝鮮派」と呼ばれる勢力が少なからぬ力を持っていたりするそうですし。
こんなのを同盟国として抱え込んでいなければならないとは、いくら自業自得であるとは言え、アメリカも不幸な国ではありますね(T_T)。
作中のアメリカは間違いなく、「あの国のあの法則」の呪いにでも巻き込まれていた以外の何物でもありませんでしたし(苦笑)。

作中のようなホワイトハウス襲撃を見て個人的に連想したのは、やはり何と言っても同じように日本の国家中枢を一時的にせよ少人数で奇襲的に制圧してしまった話を描いた映画「SP 革命篇」ですね。
今作のそれに比べれば、あの奇襲は構成人数においても武装においても雲泥の差があるのですが、外国はいざ知らず、日本ではあの程度の奇襲であっても相当なリアリティを伴うものでありえてしまうんですよね。
日本ではあの手の国家中枢への攻撃・占拠などが実施された有事に関して想定したマニュアルや体制などは無きに等しいですし、そういったものを作ろうとすると、そのこと自体が「軍国主義」「右傾化」などの謂れなき非難を受けたりするお国柄です。
「SP 革命篇」で見られるような「拳銃を持った数人程度の武装集団」レベルでいともあっさりと制圧されてしまう光景がリアリティを持ってしまうような日本で、今作のごとき襲撃が行われたりでもしようものならば、襲撃者達はホワイトハウス制圧にかかった最初の13分間で、国家中枢どころか日本という国の機能すらも完全に停止させることが出来てしまうでしょう。
日本では内閣総理大臣が病気などで政務を遂行できなくなった際の明確な取り決めが、何と21世紀に入る直前まで存在せず、ほとんど慣習的に運用されていたくらいだったのですから。
第84代内閣総理大臣だった小渕恵三の緊急入院問題から、多少は改善されて事前の代行指名を最大5名まで行えるようになりはしたものの、法律で18位まで大統領継承順位が定められているアメリカに比べれば未だ不十分なレベルとも言われています。
内閣総理大臣と一緒に、事前に指名された5名全てが捕縛されてしまったら一巻の終わりなわけですし。
また実際問題として、作中で描写されていたような「大統領・副大統領が捕縛されてしまったので、下院議長が大統領代行として指揮を執る」的な権限移譲自体が、日本では果たしてスムーズに行い得るものなのか、という疑問も尽きないですからねぇ。
武器使用の制約が少なく、世界最強の軍隊を持つアメリカですら不意を突かれれば弱いのに、それ以上に制約も大きい日本で作中のホワイトハウス襲撃と同規模の攻撃が起ころうものならば、一挙に国家存亡の危機にまで直結するのではないか、という懸念は以前から消えることがないのですが……。

エンターテイメント作品としては、観客のツボを良く押さえた手堅い作りになっているのではないかと思います。

映画「G.I.ジョー バック2リベンジ(3D版)」感想

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映画「G.I.ジョー バック2リベンジ」観に行ってきました。
1980年代に放映されていたアメリカの同名人気アニメを実写化した、2009年公開のアクション映画「G.I.ジョー」の続編作品。
今作は3D対応のために、本来ならば2012年夏の予定だった劇場公開を1年近くも延期するという、およそ本末転倒な行為をやらかしています。
私に言わせれば、3D化などは映画料金を無駄に高くするための誰得な所業の産物でしかありえないのですが、今回は2D版の公開時間の都合が合わなかったこともあり、泣く泣く3D版で観賞する羽目となってしまいました(T_T)。
何でも、今作が公開延期をしてまで3D化にこだわったのは、序盤の展開に大きな要因があるらしいのですが……。
せっかく大御所のブルース・ウィリスも出演しているのですから、3D化なんて傍迷惑な所業などやらずにさっさと劇場公開しても良かったのではないかと、つくづく思えてならなかったのですけどねぇ(-_-;;)。

前作のラストで、アメリカ大統領そっくりの顔になって本物の大統領と入れ替わっていたザルタン。
彼は、前作で自分達の組織を壊滅状態に追い込んだG.I.ジョー達を殲滅すべく蠢動し始めます。
その頃、核保有国のパキスタンで大統領が何者かに暗殺されるというニュースが世界を駆け巡ります。
パキスタンの政情混乱に伴う核の拡散を憂えるアメリカの国防会議?の席上で、アメリカ大統領を演じるザルタンは、自身の権限を駆使してG.I.ジョーに核の奪取を行わせる作戦を行わせるよう指示するのでした。
元々高い戦闘能力と何世代も先行した感のある超兵器で武装しているG.I.ジョーの面々は、さしたる大きな犠牲を出すこともなく任務を達成することに成功します。
しかし、ザルタンが仕掛けた死の罠は、帰還のための輸送機を待ちながら、任務を達成した満足感と望郷の念で油断していたG.I.ジョー達に襲い掛かったのでした。
味方を装い、突如奇襲的に航空機による攻撃を仕掛けてきた敵により、G.I.ジョーは壊滅状態に。
しかもこの攻撃の際、現地のG.I.ジョーを束ねる司令官だった前作の主人公デュークもまた、身を呈して部下を逃がしたのが災いし、帰らぬ人となってしまうのでした。
ザルタンによる殲滅攻撃で生き残ったG.I.ジョーの面々はわずかに3人。
彼らは、自分達に攻撃を命じたのが大統領であることを察知し、復讐と報復の戦いに身を投じていくことになります。

一方、これまた前作のラストで捕縛され、冷凍睡眠状態?で特殊な牢獄に入れられていたコブラコマンダーが、同じく前作のラストで死んだと思われていたストームシャドーと、コブラコマンダーの部下であるファイアーフライの手引きで脱獄に成功します。
彼らは、天敵であるG.I.ジョーを壊滅させたザルタンと共に、世界を牛耳る計画へと邁進していくことになるのですが……。

今回の「G.I.ジョー バック2リベンジ」は、良くも悪くも意表を突く展開が目白押しですね。
前作の主人公デュークが今作も主人公思いきや、序盤で早々に部下をかばって死んでしまいますし、G.I.ジョーの初代司令官兼「最強の助っ人」として「あの」ブルース・ウィリスが登場したりするのですから。
ただ前者については、物語の展開的にもエンターテイメントの観点から見ても、明らかに失敗だったと言わざるをえないところですね。
この手の物語では、観客は主人公に感情移入して楽しむのが常なのに、その主人公が早々に死んでしまったわけですから、出鼻を挫かれること甚だしいわけで。
前作でアレだけ奮闘したのは一体何だったんだ、ということにもなってしまい、結果的には前作の価値すらも著しく損ねることにもなりかねない、極めて愚かな所業にしかなっていないですね。
物語のラストで殉死させその死を美化する、といった展開にするならまだしも、序盤でああまであっさりと死なせてしまっては、その後の展開に多大な支障を来しかねないことくらい、製作の段階で分かりそうなものなのですが。
実際、この展開は、映画製作者達が映画の完成直後に行ったテスト試写会でも散々な評価だったらしく、それが今作が3D編集に走った原因のひとつにもなっているとのこと。
3Dでより良い映像を見せる、というのではなく「ストーリーの失敗」を理由に3Dに走るなんて、観客からしたら傍迷惑も甚だしい行為でしかありえないのですけどね。
まあ、既に完成した映画を1から作成し直す時間的・経済的な余裕なんて無かったがための苦肉の策ではあったのでしょうが。

その一方で、かつてG.I.ジョーを束ねていた初代司令官として登場したブルース・ウィリスは、さすが大御所だけのことはあり、他の登場人物を圧倒する存在感を醸し出していました。
活躍は抑え目だったものの、要所要所の登場シーンでツボを押さえている感がありました。
ただ、映画の前宣伝でも盛んに喧伝されていた「最強の助っ人(ブルース・ウィリス) VS 最強の刺客(イ・ビョンホン)」の直接対決は、作中では全く見られず終いでしたが。
イ・ビョンホンが扮するストームシャドーは、序盤はコブラの手先としてコブラコマンダーの脱獄の手引きなどをしてはいたものの、初代ジョーと対面する頃には自身の過去の真相を知ってコブラを裏切っていましたし。
あの宣伝は一体何だったのか、とすら思えるほどに「ウソ・大袈裟・紛らわしい」の誇大広告もいいところでしたね。
あの宣伝を信じて、ブルース・ウィリスとイ・ビョンホンの直接対決を待ちわびていた観客も少なくなかったのではないかと思えてならないところだったのですが。

あと、前作の終盤で顔が銀色になり、コブラコマンダーから命名を受けたデストロは、今作ではコブラコマンダーの脱獄の際に早々に見捨てられた挙句、それ以降は最後まで全く登場すらしないという、そこらの三下にも劣る扱いもいいところでした。
前作では大企業の黒幕的な存在感があったのですが……。
ラストを見る限り、今作はまだ続編がありそうな状況ではあるのですが、今後の続編で彼の再登場は果たしてあるのでしょうか?

手堅いアクション映画ではありますので、その手のジャンルが好きな方は観に行く価値があるのではないでしょうか?

映画「オブリビオン」感想

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映画「オブリビオン」観に行ってきました。
「ミッション:インポッシブル」シリーズ「アウトロー」のトム・クルーズが主演のSFアクション大作。
先月の2013年5月は何故か公開映画が異様に少なく、実に3週間ぶりに映画館にやってきたにもかかわらず、公開映画のラインナップが3週間前とあまり変わっていなかったことに少々愕然とせざるをえなかったですね(苦笑)。
TOHOシネマズが6月から高校生1000円サービスを始めたことと、何か関係でもあったりでもしたのでしょうかねぇ……。

映画「オブリビオン」の舞台は、2077年の地球。
この世界の地球は、60年前の2017年に「スカブ」という名のエイリアン達による侵略を受け、月を破壊された世界的規模の災害の発生と「スカブ」の攻撃によって荒廃してしまっています。
核攻撃まで交えて何とか「スカブ」との戦いに勝利した人類達の多くは、土星の衛星のひとつ「タイタン」に居住地を作り移住。
残りもまた、地球の衛星軌道上?に浮遊している「テット」と呼ばれる宇宙ステーションで地球を監視する任務に当たっており、地球は人類がほとんど住むことのない星と化していたのです。
ただ、そんな地球にもひとつの例外がありました。
それは、地上からはるか数千メートルに拠点を構え、海上に浮かぶ巨大な採水プラントを警備・監視する「ドローン」と呼ばれる無人偵察兼攻撃機を管理する2人組の存在でした。
オペレーターの女性ヴィクトリアと、今作の主人公で現場パトロール兼修理屋のジャック・ハーバー。
2人は地球での任務に従事するに際し、生き残りの「スカブ」達に囚われても情報を与えないようにするため、任務に従事する前までの記憶を完全に消去されています。
地球での任務終了を2週間後に控えた2人は、一方はその日を待ちわび、他方は地球を離れたくないと考えながら、2人以外は誰もいない世界での任務をこなしていたのでした。

そんなある日、採水プラントを警護・巡回しているドローンのうち、2つほどが消息を絶つ事件が発生します。
テットからの報告とヴィクトリアのサポートに基づいてジャック・ハーバーが急行した最初の現場は、60年前にベースボールだかフットボールだかの試合が行われていたらしいスタジアム跡地。
そこに不時着していたドローンの動力部?を交換し、まずは1台目のドローンを再起動させることに成功するジャック・ハーバー。
そして、消息を絶ったもうひとつのドローンを探し求め、今度は地下深くに埋もれている図書館の跡地らしきところにジャック・ハーバーは潜り込みます。
しかし、そこで示されていたドローンの反応は、ドローンを修復する者を誘き出すための罠であり、まんまと引っかかったジャック・ハーバーは「スカブ」達の奇襲を受けることになってしまいます。
思わぬ事態に必死で応戦するジャック・ハーバーは、ドローンの突然の来援もあり、何とか危機を脱することに成功するのですが……。

映画「オブリビオン」では、物語の前半と後半で主人公が置かれる立場と環境が180度変化します。
実はドローンを管理しているジャック・ハーバーとヴィクトリアは、元々「スカブ」の地球侵攻があった2017年に、侵略者の母艦的存在だった「テット」の調査に赴いていたのです。
その際、彼らは「テット」でおそらくは囚われの身となってしまい、自身のクローンを大量に作られ、侵略の尖兵とされてしまっていたのでした。
当然、地球でドローンの管理に当たっているジャック・ハーバーおよびヴィクトリアもまた、そのクローンの一員だったというわけです。
そして一方、彼らが「スカブ」と呼んでいる存在こそ、「テット」の侵攻によって壊滅的な被害を被った人類の生き残りだったのです。
作中のドローンは、「スカブ」どころか地球に不時着してきた宇宙船に搭乗していた冷凍状態の人間にすら平気で攻撃を仕掛けていましたが、その不可解な謎もそれで説明できるわけですね。
また物語後半では、主人公とは全く別の区画で主人公と同じくドローンの管理を行っているもうひとりのジャック・ハーバーと、そのサポートに当たっているヴィクトリアが登場していたりします。
終盤近くではドローンとの熱いバトルも繰り広げられていますし、SF的なツールを総動員して展開されるストーリーはなかなか見応えがありますね。
主人公が自分の正体と立場に気づいた瞬間に、ああまで世界が変わってしまうという事実をあそこまで表現できるというのは、ある意味凄いことなのではないかと。

一方、今作のストーリーで違和感があったのは、オリジナルのジャック・ハーバーの妻だったジェリアが、クローンのジャック・ハーバー相手に何の疑問も抱くことなく接していることですね。
作中で再会したばかりの頃はクローンの話なんて知らなかったわけですから必然であったにしても、後の方では2人のジャック・ハーバーと格闘しているシーンを彼女は直接目撃しているわけですし、終盤では自分が頼りにしているジャック・ハーバーがオリジナルではなくクローン、つまり「自分が愛したジャック・ハーバー本人」ではなかったことを理解しえなかったはずがないのですが。
確かにオリジナルのクローンなのですから、記憶自体はオリジナルと全く同じものを持ち得て当然でしょうが、しかしそれでも厳密に言えばクローンはあくまでもクローンであり、オリジナル本人ではありえないわけで。
いくらオリジナルの容姿と記憶を持っていると言っても、ジェリアにとって、クローンのジャック・ハーバーはあくまでも「他人」でしかないはずなのですが、その辺りのことを作中のジェリアは全く自覚している様子がないんですよね。
それどころか、ラストではテットと共に自爆した主人公のジャック・ハーバーの忘れ形見である娘と生活していたジェリアが、物語中盤で主人公と格闘していたもうひとりのジャック・ハーバーと再会し、2人して笑顔で見つめ合うという描写があったりします。
彼って、60年後の世界でジェリアを助けた主人公こと「技師49」のジャック・ハーバーとさえも全く異なる別人でしかないはずですし、あの時点のジェリアがそれを知らないはずもないでしょうに、何故ああまでオリジナルのジャック・ハーバーと全く同じように接することができるのか、大いに疑問を覚えざるをえないところです。
ジェリアにとって、相手がジャック・ハーバーでさえあれば、それがクローンなのかオリジナルなのかは全く問題ではなかったりするのでしょうかねぇ(@_@)。
クローンをオリジナルと混合しても良いのか?とか、結構哲学的な命題も多分に含んでいそうなエピソードではありますね、ジェリアの対応は。

トム・クルーズのファンであれば、まずは押さえておいて損はない作品ではないかと。

映画「L.A.ギャングストーリー」感想

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映画「L.A.ギャングストーリー」観に行ってきました。
かつて実在し、大都市を支配する大物ギャングとして悪名を轟かせたミッキー・コーエンと、ロス市警の警官達との壮絶な死闘を描いたクライム・アクション作品。
作中では暴力描写やセックスシーン等があるため、R-15指定されています。

物語の舞台は1949年のアメリカ・ロサンゼルス。
当時のロサンゼルスは、ニューヨーク生まれの元ボクサーで、現在は犯罪組織のボスとなっているミッキー・コーエンという男が裏で牛耳っていました。
彼は、ライバルのギャングを2台のクルマを使って引き裂き、死体をコヨーテに食わせるというほどの所業すら平然としてやってのけるほどの残忍な性格の持ち主。
また、彼の犯罪組織は警察の上層部や政治家達をも抱き込んでいるため、誰も手を出すことができずにいるのでした。
そんな中、ロス市警の巡査部長で今作の主人公でもあるジョン・オマラは、ある日、ミッキー・コーエンの部下がスカウトマン?を装って女性に声をかけ、ホテルに連れ込む光景を目撃します。
女性が連れ込まれた部屋では複数の男が待ち構えており、女性を集団レイプにかけるべく牙を研いでいたのでした。
そして女性がまさにベッドに投げ込まれて犯されようとするまさにその時、ジョン・オマラが部屋へ乱入し、男達を一方的に叩きのめします。
女性を助け出したジョン・オマラは、ボコボコにした男達を逮捕し署まで連行するのですが、直後に「令状なしの不当逮捕」という理由から、男達はあっさりと釈放されてしまうのでした。
しかし、相手がミッキー・コーエンの部下であることを承知の上で逮捕に踏み切ったジョン・オマラを、ロス市警本部長ビル・パーカーが目をつけます。
彼は、ミッキー・コーエンおよび彼の組織を壊滅に追いやるべく、ジョン・オマラをその責任者に抜擢し、人選や作戦の一切を任せるのでした。
突然思いもよらない任務を与えられたジョン・オマラは、現在妊娠中らしい愛妻のコニー・オマラに相談を持ちかけます。
彼女自身は夫が危険な任務に飛び込んでいくことに反対ではあったのですが、夫からの相談には積極的に応じ、ある意味夫以上に熱心に人選を考えていきます。
そして任務の遂行については、将来が約束されているが故にミッキー・コーエンの買収ターゲットにされているであろうエリート警官ではなく、出世が望めない「はぐれ者」を選出した方が良いとの助言を、コニー・オマラは夫に与えるのでした。
妻の助言に従ったジョン・オマラは、その流れに従い、数人の「はぐれ者」達に声をかけ、法律無視のギャング同然なチームを作り上げていくことになるのですが……。

映画「L.A.ギャングストーリー」は、現代では考えられないレベルでクルマの性能がチャチもいいところですね。
作中で繰り広げられていたカーチェイスは、現代もののそれと比べるとスピード感がイマイチ出ていませんでしたし、終盤ではエンジンスタートしたばかりのクルマに、主人公が歩いて追いつくなどという描写まであったりします。
1949年のアメリカが舞台の映画なのですから当然のことではあるでしょうが、当時のスタンダードなクルマの性能の実態というものがよく分かる描写ではありますね。
アレでも当時は「時代の最先端」をひた走っていたのではあるのかもしれませんが。
やたらと大がかりな割に感度&受信性が悪そうな盗聴器とか、全米ネットワークを構築するために大量の黒電話が用意されたりと、1949年らしさがあちこちに出ている映画です。
古き良きアメリカのノスタルジックな雰囲気を楽しみたい方は、これだけでもオススメの部類に入るのではないかと。

ストーリー的には、特に物語後半の展開があまりにも無理筋&ご都合主義過ぎるような感はありましたね。
物語前半でミッキー・コーガンの犯罪組織相手に好き勝手な襲撃を繰り広げていたジョン・オマラの一派は、しかしやがて「現場でカネが全く奪われていない」などの要素から次第に敵側に正体を喝破されていきます。
そしてついに正体が露見してしまったジョン・オマラ一派は、ミッキー・コーガンの手の者から逆襲されることになるのですが、しかしこれがまた笑えるレベルで手ぬるい措置もいいところなんですよね。
ミッキー・コーエンの一派は、ジョン・オマラがリーダーとなっているチームの構成員達を殺害しようとするのですが、その大半が失敗した挙句に相手に反撃の糸口まで与えてしまったことはまあ良いとしましょう。
しかし、ジョン・オマラの自宅を自動小銃で襲撃した際、ただ外から銃をぶっ放しただけで、中にいる人間を殺すどころか、所在の確認すらも行わなかったのは一体何なのでしょうか?
わざわざジョン・オマラの自宅をピンポイントで襲撃するくらいなのですから、あの家にジョン・オマラの家族がいることくらいは既に調べもついていたでしょう。
ならば、自宅に押し入ってジョン・オマラ本人もしくはその家族を殺さないと、彼らは目的を達成したことには全くならないはずでしょうに、外から銃撃を浴びせるだけで何もせず去っていくだけって……。
この期に及んで警告的な意味合いで襲撃する意味なんてまるでないでしょうし、報復が目的であれば当然ターゲットの死を確認する必要もあるでしょうに。
あそこで奥さんがバスルームで出産しているだけ、という顛末は普通にありえないシロモノでしかなかったですね。
またミッキー・コーガンとの最終決戦の際、当初ミッキー・コーガンは何重もの警備に囲まれた難攻不落のホテルで「この守りを突破できるものなら突破してみろ」と言わんばかりの態度を披露しました。
ところが、よりによってジョン・オマラ一派がホテルのギャング達と派手な銃撃戦を繰り広げている最中に、彼は自分からホテルの1階まで下りてきて逃走を図ろうとするんですよね。
せっかくの地の利を生かした必勝の体制でホテルでの籠城戦を選んだ自分の判断を台無しにするこの行動は、当然のごとくミッキー・コーガンにとって大いなる生命取りとなってしまいました。
スケジュールが差し迫っていたという事情もあったにせよ、何故よりによってあのタイミングでバカ正直な行動を、とはつくづく思わずにいられなかったですね。
あと数時間、ホテルの上層階で籠城を続けていれば、あるいはジョン・オマラ一派の方こそがホテルのギャング達によって制圧されていたかもしれないのに。
ひょっとしてミッキー・コーガンには自滅願望でもあったのではないか、とすら思えてしまうほどに、アレは自殺行為もいいところだったのではないのかと。

1949年が舞台ながら、どことなくアメリカ西部劇の無法な雰囲気を醸し出している作品ではありますね。
作中の警官達は、法律そっちのけで「どっちがギャングなんだ?」と言わんばかりの破壊活動に精を出しまくっていましたし。
良くも悪くも、アメリカンスタンダードな要素が色濃く出ている映画ではないかと思います。

映画「ラストスタンド」感想

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映画「ラストスタンド」観に行ってきました。
元カリフォルニア州知事のシュワちゃんことアーノルド・シュワルツェネッガーが、久々に主演を演じるアクション作品です。
脇役としては、カリフォルニア州知事就任以降でも映画「エクスペンダブルズ2」などで出演歴があるシュワルツェネッガーですが、主演作は2003年公開映画「ターミネーター3」以来、実に10年ぶりとなります。
そんなわけで今作は、「アーノルド・シュワルツェネッガー完全復帰作品」としても喧伝されているわけですね。
なお、今作は作中で流血シーンや人が死ぬ描写があるためなのか、R-15指定されています。
……ただ、作中の殺人シーン程度の描写であれば、全年齢指定の「藁の楯/わらのたて」にも普通にあったはずなのですが……。

物語はアメリカ・ネバダ州ラスベガスから15㎞離れたハイウェイで、スピード違反を検挙するために待機しているパトロールカーが映し出されるところから始まります。
平常業務の最中に夜食を食べていたそのパトロールカーの警官は、そのすぐ横をヘッドライトを消して猛スピードで疾走していく黒い車に全く気付きません。
スピード違反検挙用の速度計は正直に反応し違反速度を計測し、警官もさすがにそれには気付くものの、速度計に表示されているスピードは何と時速197マイル(317㎞)という、一般車では到底出すことのできないシロモノ。
そのため警官は、これはクルマではなく、無灯火の航空機か何かに違いないと、わざわざ近くの空港の管制塔に連絡をつけるという、後から見ればおよそ見当ハズレなことをやらかす始末なのでした。

その翌朝。
ラスベガスの南に位置し、隣国メキシコと国境を接するアリゾナ州の田舎町ソマートン・ジャンクションでは、町の人口の多くが地元ハイスクールのフットボールチームの応援へと向かい始めていました。
ソマートンの町長も例外ではなく、彼は片道5時間かかるフットボールの試合会場にクルマを出そうとしない町唯一の正保安官に不満を述べていました。
アーノルド・シュワルツェネッガー扮するその保安官レイ・オーウェンズは、「人口の多くが観戦でいなくなるこの町に残らなければならない」と町長の要求を一蹴。
そして、町長が消防車専用車線に赤いシボレーカマロZL1を違法駐車していることを見つけ、ただちに移動するよう通告するのでした。
フットボールの応援で頭がいっぱいの町長はそれに従わず、代わりに「火事が起こったら動かしておいてくれ」とレイ・オーウェンズにクルマのキーを預け、そのまま町を出て行ってしまいます。
フットボールの応援に向かう町長に「マヌケ」と小声で罵るレイ・オーウェンズは、その足で町のレストランへと向かいます。
するとそこでは、いつもと異なる2人の男が食事をしていたのでした。
2人に不審を抱いたレイ・オーウェンズは、男達にあれこれと話しかけ質問しまくり、結果、男達はレイ・オーウェンズを避けるように店を出て行ってしまいます。
男達が乗った大型トラックのナンバーを記録したレイ・オーウェンズは、その足で自分の部下である3人の副保安官のうち2人を捜しに向かうこととなるのですが……。

映画「ラストスタンド」は、「アーノルド・シュワルツェネッガー完全復帰作品」と銘打っているだけあって、完全にアーノルド・シュワルツェネッガーありきの作品となっていますね。
ストーリー内における美味しいところは全部ひとりで持っていっている感がありますし。
とはいえ、昔の作品と比較してみると、やはり動きにスピーディさがなくなっていて、「年を取ったなぁ」という感想が正直前面に出てきてしまいますね。
シュワちゃんは2013年4月現在で御年65歳とのことですし、それも当然のことではあるのでしょうけど。
当の本人も、劇中で「年かな」なんてのたまっている始末ですし、その辺はやはり自覚せざるをえないところでしょうね。
それでもまあ、往年の雄姿の再来とまではいかずとも、アクション俳優としてのアーノルド・シュワルツェネッガーはまだまだ健在で、銃撃戦や肉弾戦などを派手に演じてくれています。
惜しむらくは、物語の舞台がアメリカの片田舎で、チャチな武器を駆使しても倒せてしまう敵という、これまでの作品と比較しても相当なまでに世界観やスケールが小さいという点にあるでしょうか。
まあ、「完全復帰作品」というのであれば、このレベルがちょうど良かったのかもしれませんけど。

アーノルド・シュワルツェネッガー扮するレイ・オーウェンズの大活躍に対し、ただひたすら引き立て役に徹させられているFBIの無様ぶりは、別の意味で笑えるシロモノにしかなっていないですね。
周到な準備を整えていたとはいえ、3代目麻薬王カブリエル・コルテス奪還作戦の前に為す術もなく一方的にやられまくるFBIの面々。
道路を封鎖したり、ヘリで追跡したり、SWATを先回りさせたりと、FBIも決して無為に時を過ごしていたわけではないのですが、そのことごとくがあっさりと粉砕されてしまうありさま。
特に、圧倒的な武力で突破されてしまったバリケードはまだしも、カブリエル・コルテスのドライビングテクニックに翻弄されるだけで、ただの1発の銃弾を発射することすらなくクルマを横転させられ無力化されてしまったSWATの面々は、あまりにも情けなさ過ぎると言わざるをえません。
如何に移動中で、かつ後方から奇襲をかけたとはいえ、1台のクルマに2台のSWATのクルマが、それもドライビングテクニックだけで潰されるって、別の意味で奇想天外な展開としか言いようがなかったですね(苦笑)。
あの神がかりなドライビングテクニックを駆使すれば、物語終盤のカーチェイスでも、カブリエル・コルテスは案外すんなり生き残って国境を超えることもできたのではないのかと。
物語終盤におけるレイ・オーウェンズとのカーチェイスでは、カブリエル・コルテスはSWATを撃沈した時のような積極性がなく、妙に「逃げ」のスタンスに徹していた感がありましたが、クルマを使って相手を潰す戦法は取れなかったのでしょうかねぇ。

アーノルド・シュワルツェネッガーのファンな方々であれば、その雄姿を拝むという一点だけでも観賞の価値がある映画ではないでしょうか。

映画「アイアンマン3」感想

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映画「アイアンマン3」観に行ってきました。
マーベル・コミックにおける同名作品の実写映画シリーズ第三弾にして(一応は)完結編。
今作は3D/2D同時公開ですが、幸いにして時間が合ったこともあり、私が観賞したのは2D版でした。
時系列的には前作「アイアンマン2」ではなく、去年公開された映画「アベンジャーズ」からの続きとなっています。
今作における主人公トニー・スタークの葛藤は、明らかに「アベンジャーズ」での出来事が発端になっていますし、逆に「アベンジャーズ」を観賞していないと、トニー・スタークの葛藤の要因が一体何なのかさえも理解できないのではないかと。
続編を積み重ねたシリーズ作品ならではの弊害と言えるのではないですかね、こういうのって。

映画「アベンジャーズ」の戦いから1年。
謎の宇宙人達に自国の大都市ニューヨークを襲撃されたにもかかわらず、その対処を「アベンジャーズ」の面々に任せきりで、自分達は大都市もろとも敵を消滅させるべく核ミサイルを発射した以外は全く何もしていなかったアメリカの政府と軍は、その腹いせと言わんばかりにヒーロー達を危険視する風潮をせっせと醸成し続けていました。
その割には、今作の主人公トニー・スタークが開発したアイアンマンのパクリなパワードスーツを「アイアン・パトリオット」などと名付けて軍の作戦に充てるなどといった「個人の武力に依存する行為」を平気で行っているのが、アメリカ政府と軍のお茶目なところでもあるのですが(苦笑)。
「アイアン・パトリオット」のパイロットは、前作「アイアンマン2」でウォーマシンを操りトニー・スタークと共闘したジェームズ・ローディ中佐が担っていたりします。
さて、アメリカ政府と軍から危険視されているメインターゲットであるはずのトニー・スタークは、1年前の「アベンジャーズ」の戦いで精神的な外傷を被っていました。
彼は、「アベンジャーズ」で強大な敵を目の当たりにしたこと、および核ミサイルをニューヨークから異空間?の敵基地へ進路変更した際、エネルギー切れで落下したことなどから不眠症やパニック症候群を患ってしまい、アイアンマンの元となるパワードスーツの更なる開発に没頭する日々を送っていたのでした。
トニー・スタークの恋人で、前作「アイアンマン2」でスターク・インダストリーズのCEOに就任したペッパー・ポッツも、トニー・スタークのノイローゼ気味な様子を心配していました。

そんなある日、ペッパー・ポッツの元に、アルドリッチ・キリアンという科学者が姿を現します。
彼はAIMという組織に所属する科学者で、かつて1999年のスイスでトニー・スタークと面談の約束を取りつけていながら、彼に面談をすっぽかされた過去を持つ人物です。
彼は「エクストリミス」という人間の潜在能力を爆発的に増大させる技術の開発を一緒に行おうとペッパー・ポッツに提案するのですが、ペッパー・ポッツは「軍事利用に繋がりかねないから」とこれを拒否。
トニー・スタークの父親ハワード・スタークによって設立されたスターク・インダストリーズ社は、「アイアンマン」1作目の頃から、トニー・スタークの意向で「軍事兵器関連の開発はしない」という方針を明確に打ち出していますからねぇ。
このアルドリッチ・キリアンに不審を抱いた、スターク・インダストリーズ社の警護主任でトニー・スタークの友人でもあるハッピー・ホーガンは、アルドリッチ・キリアンとその同行者を追跡するのですが、謎の爆発に巻き込まれ意識不明の重体となってしまいます。
このことに怒りを覚えたトニー・スタークは、ハッピー・ホーガンに重傷を負わせた犯人への報復をマスコミの前で宣言し、自分の家の住所を公開し「攻撃してこい」と言わんばかりに煽り立てるのですが……。

映画「アイアンマン3」では、前作「アイアンマン2」で悪役側が活用していた「パワードスーツの遠隔操作」が重要なキーワードとなっています。
今作ではこれを使い、他人にアイアンマンのパワードスーツを装着させて安全地帯まで逃走させたり、逆に敵に装着させて動きを封じ自爆させたりといった、何ともユニークな使用方法が披露されていたりします。
特に終盤では、遠隔操作で自動操縦されているアイアンマンのパワードスーツがとにかく大量に参戦し、主人公トニー・スタークをサポートしています。
敵に次々とアイアンマンをパワードスーツを破壊される都度、新たなパワードスーツを召喚して装着し戦いを続けるという構図は、なかなかに斬新なものがありました。
単なるヒーローとしてではなく、明らかに「兵器」と割り切った上でのいわゆる「使い捨て」的な発想でもありますし、これだけでも一見の価値はあると言えるのではないかと。
ただその分、映画のタイトル名でもあるはずの「アイアンマン」があまり前面に出ていなかったきらいはあるのですが。
特に物語中盤などは、アイアンマンのパワードスーツの多くが破壊され、唯一の機体?も修復中という事情があったとはいえ、終始トニー・スタークとして戦っていたようなものでしたし。
あれらの戦いは、アイアンマンが所持する遠距離攻撃兵器「リパルサーレイ」を除けば、そこらのアクション映画でも普通に描かれる内容でしかなかったのですからねぇ。
まあその分、緊迫感に満ちた戦いを演出できてはいるのですが。

しかしまあ、作中で披露されているアイアンマンの大量生産&遠隔操作能力と、「エクストリミス」注入による遺伝子改造?技術を駆使すれば、トニー・スタークの葛藤も案外簡単に解決するのではないですかね?
これは全て、人類の技術によって増産も改良も可能な技術であり、それ故に個人の能力に依存するヒーローですらをも凌ぐ能力を、しかも集団で備えさせることをも可能とするのですから。
すくなくとも、「アベンジャーズ」の戦いレベル程度の侵略者達であれば、アイアンマン100体と「エクストリミス」の強化人間100人程度もいれば、簡単に撃退してしまうことも容易なことでしかないでしょう。
まあ、アレはあくまでも「尖兵」レベルでしかなかったでしょうし、黒幕達は未だ強大な力を秘めたモンスターなり兵器なりを温存してはいるでしょうが、すくなくとも人類側の戦力強化の一端には充分になりえるはずです。
何も敵との正面対決だけでなく、民間人の避難誘導や救援活動などでも、あの手の兵器や強化人間には大いに使用されることになるのですし。
「アベンジャーズ」の戦いで、未知の宇宙人達の脅威を痛感せずにいられなかったのは何もトニー・スタークだけでなく、直接の脅威に晒されたニューヨーク市民やアメリカ政府などもそうだったでしょうし、彼らもまた、その手の研究開発には積極的に乗り出さない方が変なのですが。
アルドリッチ・キリアンも、その手の見極めをきっちり行い、真っ当な手段で自分達の技術を(特にアメリカ政府辺りに)売り込んでいれば、あるいはトニー・スタークをも凌ぐ救国の英雄、もしくはVIPクラスの重要人物として扱われる日も来たかもしれないのに、何とももったいないことをやらかしたものです。

映画「アイアンマン3」では、エンドロール後に特典映像があります。
これは今作に限らず、今まで映画館で上映されてきたマーベル・ヒーロー映画全てに共通する特徴でもあるので、今作もそうだろうと予測するのは何ら難しいことではなかったですね(苦笑)。
そんなわけで今作は、映画の幕が下りてスクリーンが明るくなるまでは席は立たないことをオススメしておきます。

今作の特典映像は、今作のストーリーを誰かに語っているトニー・スタークと、映画「マイティ・ソー」の続編映画「マイティ・ソー/ダーク・ワールド」の紹介となっています。
「マイティ・ソー/ダーク・ワールド」では、「アベンジャーズ」で捕縛され収監されているらしいロキも映し出されていましたから、こちらも時系列的には「アベンジャーズ」の続きということになるのでしょうね。
今作もそうなのですが、前作からの流れと全く繋がっていないシリーズ作品のストーリー構成、というのは正直どうなのかと。
この分だと、映画「キャプテン・アメリカ ザ・ファースト・アベンジャー」の続編「キャプテン・アメリカ ザ・ウィンター・ソルジャー(原題)」も、当然「アベンジャーズ」からの続きということになるでしょうし。
マーベル・ヒーロー作品は、各ヒーロー毎に完結しているのではなく、全ての映画をひっくるめてひとつのシリーズ作品である、とでも考えるべきなのかもしれないのですけどね。

映画「リンカーン」感想

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映画「リンカーン」観に行ってきました。
スティーブン・スピルバーグ監督製作による、アメリカ第16代大統領エイブラハム・リンカーンの伝記作品。
リンカーンと言えば、去年も彼が実はヴァンパイアハンターだったという設定の映画「リンカーン/秘密の書」が日本で公開されているのですが、アメリカ南北戦争から150年の節目に当たるということで、アメリカではリンカーンがブームにでもなっているのでしょうか?
なお、今作で私の2013年映画観賞本数は30本目となります。

物語の舞台は1865年初頭のアメリカ。
アメリカ最大の内戦である南北戦争が、北軍の勝利という形で終結へと向かいつつあったこの当時、アメリカ第16代大統領エイブラハム・リンカーンは、とある法案の成立に邁進していました。
その法案とは、アメリカ合衆国憲法修正13条。
修正13条は、奴隷制の廃止および犯罪者に対する措置を除く隷属的な扱いを禁止する条文となっており、既に奴隷解放宣言を出していたリンカーンは、この条文を成立させることで恒久的な奴隷制度全廃を目指していたのでした。
件の法案はアメリカ議会の上院で既に可決されていたものの、下院では全議員の3分の2の賛成が必要であるのに加え、リンカーンが率いる与党の共和党だけでは20票の票数が足りません。
しかも、南北戦争が終結し南部諸州がアメリカ合衆国に復帰すれば、元々奴隷制度の維持を掲げて合衆国と袂を分かち内戦をおっぱじめた彼らが修正13条に反対するのは明白であり、そうなれば必要な3分の2の賛成確保など夢物語と化してしまいます。
そのような政治情勢から、修正13条を成立させるには、決着が見えているとはいえ未だ続いている南北戦争期間中しかありえなかったのです。
さらに一方でリンカーンには、一刻も早く南北戦争を終結させる責任も当然のごとくのしかかっており、戦争終結と法案成立を同時に成し遂げなければならないという命題を抱え込んでいるのでした。
そこで彼は、下院の選挙で落選し失職が確定していた民主党議員達を買収したり、共和党内の政治家達の要望を聞くのと引き換えに協力するよう根回しを行ったりするなど、手段を問わず様々な手段を駆使して必要な票数を確保すべく動き出すことになります。
多数派工作や南部からの和平交渉への対処など、どちらかと言えば公にはし難いダーティな政治を、リンカーンは次々とこなしていくことになるのですが……。

映画「リンカーン」は、正直言ってあまり万人受けするような作品ではないですね。
とにかく政治的な駆け引きや買収行為などといった要素が前面に出まくっている上、アクションシーン等の派手な描写などもまるでないときているのですから。
「リンカーン/秘密の書」がアクションメインだったのは対照的です。
あちらは逆に、政治要素が薄くてアクション・オカルトに傾倒し過ぎていたきらいはありましたが。
今作は第85回アカデミー賞で最多部門ノミネートされたことで話題となっていたのですが、いざフタを開けてみれば主演男優賞と美術賞の2部門のみの受賞にとどまるという、竜頭蛇尾な結果に終わっていたりします。
確かに映画の内容を見ると、その結果もさもありなんと言えるものではありますね。
個人的には、第84回アカデミー賞で主演女優賞を獲得した映画「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」に見られるような「男優ありき」な雰囲気に近いものがありましたし。
アレに比べれば、まだ「現役の」リンカーンのあり方にスポットが当たっているとは言えるのですが、それでもどちらかと言えば「偉大なる大統領リンカーン」としての光の部分よりも、「政治家ならではのダーティな要素」に重点を置いているような感じでしたし。
その点では確かに、良くも悪くも「アカデミー賞ノミネート最有力候補」と言われるだけの映画ではあると評価できます。
あくまでも「ノミネート最有力候補」であって、実際に多数の賞を獲得しえる対象とはなりえないという意味においても、ではあるのですが(苦笑)。
映画を製作したスティーブン・スピルバーグは、「現代にも通じるリーダーの資質」「リンカーンの人生には、今の日本を始めとする世界中の人に知ってほしいメッセージが詰まっている」などと語っているのですが、それから考えると、彼が言いたかったのは「政治を行う際には手段を問わず、どんな冷酷非情なことでもやり抜くことが必要である」というマキャベリズム的な政治手腕だったりでもするのでしょうかね?
確かにそれは、政治力学的には完全に正しいことではあるのでしょうけど、昨今の映画ではあまり見かけることのない珍しいメッセージだなぁ、とは思わずにいられないところですね。

今作で消化不良な感があったエピソードは、リンカーンの長男ロバートと親子喧嘩でやり合う話が描写されているにもかかわらず、ロバートが父親の意に反して軍に入ることを宣言して父親の元を去って以降、2人の間に全く何の進展もなかったことですね。
リンカーンは、息子が軍に入ることを認めざるをえなくなって以降は、息子を可能な限り安全な場所に配属することを指示しただけですし、その後はむしろ、息子を亡くすことに恐怖する妻メアリーとのヒステリックな言い争いに終始していただけでしかありませんでした。
それから3ヶ月後にリンカーンは暗殺されるわけですし、実際に父子で和解する機会がなかったのかもしれないのですが、リンカーン暗殺直後に際してもロバートの存在感はないも同然でしたし、この辺りのエピソードは正直「投げっぱなし」で終わっている感が否めなかったですね。
ロバートが暗殺された父親の遺体に対して、何か一言でも語るシーンを挿入するだけでも充分フォローになったのではないかと思えてならなかったのですが。
スティーブン・スピルバーグが今作の前に製作していた映画「戦火の馬」でも、馬の売却を巡って発生した父子対立がいつの間にかウヤムヤのままに終わっていたエピソードがありましたし、彼は「父子対立が解消へ向かっていく過程」をきっちり描くのを嫌っていたりでもするのでしょうかねぇ。
いくら史実や原作に忠実であるとしても、エンタメ作品としてそれをそのまま実行するというのも、正直どうかと考えてしまうところなのですが。
対立が解消に向かうなら向かうで、続けるなら続けるで、どちらにしてもそこに至るまでの過程と区切りはきっちりと描くべきではないのかと。

万人にオススメできる映画とはあまり評しえるものではなく、政治映画や「世間一般に知られているリンカーンの別の一面を見たい」という方向けの作品ということになるでしょうか。

映画「アイアン・スカイ」感想(DVD観賞)

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映画「アイアン・スカイ」をレンタルDVDで観賞しました。
日本では2012年9月に公開された、フィンランド・ドイツ・オーストラリアの3国合作映画です。
出自からしてかなりマイナーな映画ながら、世界各国の映画ファンやSFマニアな方々には熱い支持を集めている作品のようで、出資を募るや否や、あっという間に1億ドルものカンパが集まった逸話があるのだとか。
今作は劇場公開当時、熊本で上映されている映画館が皆無だったため、仕方なくレンタル開始を待っての観賞となりました。
なお、今作は銃撃を受けて血まみれになる男のシーンがあるためか、PG-12指定されています。

2018年。
アメリカは実に50年ぶりとなる月への探査船派遣を行っていました。
その探査船リバティ号は、地球から見えることのない月面の裏側へ着陸。
着陸直後、着陸を記念してのものなのか、探査船から中年女性と「Yes She Can(イエス・シー・キャン)」という文字が書かれた垂れ幕?が下ろされます。
明らかにオバマ大統領の「Yes We Can(イエス・ウィー・キャン)」のパクリかパロディとしか思えないこの演出で、まずはこの映画の立ち位置がある程度観客に明示されることになります。
今作のアメリカ大統領は女性が担っているため、「We」の部分が「She」になっているわけですね(苦笑)。
それはさておき、この探査船の目的は、月面にあるとされる「ヘリウム3」と呼ばれる資源の調査と確保にありました。
ところが、着陸したリバティ号から「ヘリウム3」の探索を開始したサンダース船長は、そこで驚くべき光景を目撃します。
何とそこでは、どう見ても人工的に作られたものにしか見えない道路や建物が存在しており、装甲車と思しきクルマまで走っていたのでした。
目的のモノ以上の発見をしたサンダース船長は歓喜し、もうひとりの乗組員ジェームズ・ワシントンにこちらへ来るよう促すのですが、その直後、背後から迫ってきた黒ずくめの男に銃で頭を撃たれ、生命を落としてしまいます。
危険を察知したジェームズ・ワシントンは、すぐさまリバティ号へ戻ろうとするのですが、黒ずくめの男達はロケットランチャーのようなものをぶっ放し、リバティ号を完全破壊してしまいます。
その衝撃で吹き飛ばされたジェームズ・ワシントンは、黒ずくめの男の集団に包囲され、あえなく囚われの身となってしまうのでした。

黒ずくめの男達の正体は、かつてドイツを支配したナチス・ドイツの残党達の末裔。
彼らは1945年、第二次世界大戦の敗戦時に、自前のUFO?を使って月の裏側へと逃れていたのでした。
彼らに捕縛されたジェームズ・ワシントンは、地球からの侵略の尖兵ではないかと疑われ、月面総統と呼ばれているウォルフガング・コーツフライシュの元へ引っ立てられます。
ジェームズ・ワシントンが纏っていた宇宙服のマスクを取ったナチスの末裔達は、彼が黒人であることに驚愕するのでした。
しかし、あくまでもジェームズ・ワシントンを地球からの奇襲部隊の尖兵であると考えるナチスの末裔達は、彼をリヒター博士の元へと連れて行き尋問させます。
しかし、ジェームズ・ワシントンが所持していたスマートフォンに、彼らは注目の目を向けることになります。
ナチスの末裔達は、月面に居住することができるほどのテクノロジーを持つ一方で、コンピュータ技術に関しては1940年代の水準からほとんど進化しておらず、現代から見ればアンティーク同然の原始的なコンピュータしか知らなかったのでした。
スマートフォンに着目した彼らは、それを最終兵器「神々の黄昏」号の起動システムとして利用しようと考えるのですが……。

映画「アイアン・スカイ」は、作中のあちこちにコメディネタや政治風刺を意図したネタがちりばめられていますね。
冒頭の「Yes She Can(イエス・シー・キャン)」ネタもそうなのですが、 特にアメリカに対する風刺はかなり高レベルなものがあります。
アメリカ大統領を女性にして、かつ選挙参謀にやたらとヒステリックで色情魔(笑)なヴィヴィアン・ワグナーに据えた登場人物設定も、なかなかにクるものがありましたし。
物語後半に至ってはさらに強烈な政治風刺が披露されており、アメリカ所有の宇宙戦艦の名称が「ジョージ・W・ブッシュ」だったり、宇宙技術の軍事利用を禁じる宇宙平和条約に違反して宇宙戦艦を建造した他国に対し、自国のことを棚に上げて罵り倒していたり、「お前の国だって守ってなかったじゃないか!」という切り替えしに対して「アメリカはいつもそうだからいいの!」と開き直るなど、なかなかにやりたい放題を貫いています。
ちなみに、作中で宇宙平和条約をバカ正直に墨守していた国はフィンランド1国だけだったのだそうで、日本もしっかりと宇宙戦艦を保持しているんですね(爆)。
作中の日本はちゃんと憲法改正を行い軍事活動関連の法整備を整えることができたようで、その点ではなかなかにめでたい限りではあります(笑)。
さらにラストでナチスの脅威が去り、各国の首脳陣が拍手で祝った次の瞬間に、月面にある「ヘリウム3」を巡ってたちまちのうちに乱闘が生じ、そのまま全面核戦争に雪崩れ込む展開は、「国が一致団結するためには絶対悪な敵が必要」「戦争が終われば内紛が始まる」という政治のセオリーを忠実に再現していたりします。
……まあ、あの乱闘騒ぎからそのまま全面核戦争へ直行するというのも、正直考えものではあるのですが(-_-;;)。
あそこまでアメリカをコケにしまくる政治風刺をちりばめまくった映画というのも、なかなかお目にかかれないのではないかと。
あのアメリカ合衆国大統領やヴィヴィアン・ワグナーのヒステリックぶりに比べれば、ナチスの末裔達の方がはるかにマトモに見えてしまうくらいですからねぇ(苦笑)。

それにしても、月面と地球を自由に移動できるだけの技術力を持つはずのナチスの末裔達が、スマートフォンやiPadどころか、1980年代レベルの骨董品なパソコンすらも持ちえなかったというのはなかなかに凄い話ですね。
一応、アメリカが1960~70年代に推進していたアポロ計画で使用されたコンピュータも、現代から見ればそこらのスマートフォンにも劣るレベルの性能でしかなかったようなので、技術的にはそれでも不可能な話ではないのでしょうけど。
月面のナチスは70年以上もずっと戦時体制を敷いていたみたいですし、いわゆる「ハコモノ」絡みの技術が奇形的に発達していたのでしょうね。
ナチスの末裔達は、核ミサイルなどはるかに凌ぐ、月面の一部を欠けさせるほどの威力を誇るキャノン砲を実戦配備していたりしますし。
作中における戦い方を見ていると、ナチスの末裔達はひたすら地球に隕石を投げつけまくる遠距離攻撃に徹してさえいれば、それだけで楽勝できたのではないかと考えられなくもないのですけどね。
地上の戦闘機の類は完全に無力化できるのですし、いくら地球側が複数隻の宇宙戦艦を所持していると言っても、ナチス側がひたすら遠距離攻撃による地上攻撃を繰り出しまくれば、地球側も地上を守るための防戦一方にならざるをえないでしょう。
せっかくアレだけ圧倒的有利なアドバンテージを持っているのに、それを無視してわざわざバカ正直に地球側とドッグファイトを演じる必要もないでしょうに、つくづくナチスの面々は戦い方を知らないなぁ、と思わずにはいられなかったですね。
この辺りは、政治には明るくても軍事には暗く、ドイツ軍へのあまりの政治介入から「独ソ戦における【ソ連軍】最高の司令官」「スターリンの回し者」とまで呼ばれるに至ったアドルフ・ヒトラーの系譜を受け継ぐものだったりするのでしょうか?

SF的な演出もそれなりのものはありますが、どちらかと言えばやはりコメディやパロディを楽しみたい方向けの作品ですね。

映画「世界にひとつのプレイブック」感想

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映画「世界にひとつのプレイブック」観に行ってきました。
映画「ウィンターズ・ボーン」「ハンガー・ゲーム」で主演を担ったジェニファー・ローレンスが、第85回アカデミー賞その他で主演女優賞を獲得したことで話題となった、デヴィッド・O・ラッセル監督製作のコメディドラマ作品です。
映画のタイトルは邦題で、英語の原題は「SILVER LININGS PLAYBOOK」。
今作の日本公開は2013年2月22日だったのですが、熊本ではそれから1ヶ月以上も遅れた4月6日からの劇場公開となっており、しかもその週は時間が合わず観賞できなかったため、熊本の映画解禁日からさらに1週間遅れての観賞となりました。
……これでもまだ「公開されているだけマシ」と言えてしまうところが、熊本の映画事情の泣けるところではあるのですけどね(T_T)。
しかし今作は、セックス依存症とか浮気による精神障害とかいった「大人ならではの問題」を扱っている割には、直截的な描写がないこともあってか、R指定等が全くされていないですね。
どう見ても小中学生向けの映画でないことは確実なのですが(苦笑)。

物語は、今作の主人公パット・ソリータJrが、精神病院?に収監されて精神療法のリハビリを受けさせられている光景からスタートします。
この後のストーリーで解説されるのですが、彼は元学校の教師で、ある日いつもより早く家に帰ったところ、妻のニッキと同僚の歴史教師がシャワーセックスにシケこんでいる現場に直面してしまい、その場で浮気相手を半殺しにした結果、裁判所の命令で病院に収監された上に妻との150m以内の接近を禁止する措置命令を出される羽目となっていたのでした。
8ヶ月もの間病院での精神療養生活を続けていたパットは、母親ドロレスの手回しで、担当医が時期尚早と懸念を表明する中で退院の日を迎えます。
しかしパットは退院後、次から次に奇行に走りまくり、近所迷惑や警察沙汰レベルの問題を起こしまくることになります。
退院許可が下りていない患者仲間のダニーを連れ出してしまい、病院から戻すように指示される。
夜中まで本を読んでいたかと思えば、突然怒り出して本を家の外に窓を破って投げ捨て、さらに睡眠中の両親を叩き起こして本の内容に対する怒りをぶつけまくる。
当初は息子の退院に喜んでいた両親も、さすがに「これはマズイのでは?」「厄介な火種を抱え込んでしまったのでは?」という戸惑いを浮かべるようになってしまうのでした。
一方パットは、浮気されたにもかかわらず、妻のニッキとの仲を再構築しようと考え、そのことを周囲に漏らしたり、元勤務先だった学校に乗り込んで妻や浮気相手のことを尋ねて警察のお世話になったりしていました。
そんなある日、身体を鍛えるべく近所をランニングしていたところ、パットは親しい友人のロニーと偶然の再会を果たします。
ロニーは妻のヴェロニカの言もあってパットを夕食に招待します。
その夕食会では、ロニーの一家2人とパット以外に、ヴェロニカの妹ティファニーも呼ばれていました。
ティファニーは夫を早くに亡くした未亡人で、かつ夫の死後に勤務先の会社の社員全員(総勢11人、しかも女性も含む)とセックス行為に及んだことからクビにされてしまったという曰くつきの経歴を持つ女性だったりします。
この夕食会が初対面となるパットとティファニーは、奇妙な意気投合で新たな関係を構築していくことになるのですが……。

映画「世界にひとつのプレイブック」で男女の主演を担っているブラッドレイ・クーパーとジェニファー・ローレンスは、実年齢が何と16歳も離れています。
世間一般的に見ても、「似合いのカップル」として見られるような年齢差ではありえません。
この年齢差もあり、ジェニファー・ローレンスは当初ティファニー役の有力候補でも何でもなく、デヴィッド・O・ラッセル監督も全くの別人を配役する予定だったのだそうです。
ところが、形式的に開催されたオーディションでジェニファー・ローレンスの演技を見た監督は、「彼女は自然児で別格だ、圧倒された」と評価を一変させ、そのまま彼女をティファニー役に抜擢したとのこと。
そして、そのジェニファー・ローレンスがアカデミー賞等で主演女優賞を受賞することになったわけですから、監督の目は確かだったということになるのでしょうね。
実際、作中における彼女の強気な言動は、他の登場人物と比較しても強烈な存在感が伝わってきていましたし、懸念材料たる16歳の年齢差も、まるで観客側に感じさせることがなかったですからねぇ。
作中の彼女の外見は、元?セックス依存症の女性という設定もあってか、どこか退廃的な雰囲気を纏っていて、それが一定の加齢効果をもたらしているようにも見えましたし。
彼女は「ハンガー・ゲーム」でも、今作と同様に男勝りかつ過激でキツめな性格の女性を演じていましたが、すくなくとも今のところはそういう役柄が合っている女優さんということになるのでしょうか。

作中の設定で個人的に疑問だったのは、本来ならば妻のニッキに浮気をされてしまった被害者であるはずのパットが、作中では逆に加害者兼精神異常者的な扱いを受けている点ですね。
確かに彼は、浮気相手を半殺しにするという傷害事件を起こしているわけですが、その原因となる浮気行為を最初にやらかしたのは妻の側なのですし、状況から考えれば情状酌量の余地は十二分にあると考えられるべき話でしょう。
それどころか、不貞行為をやらかしている妻と浮気相手は、パットに土下座した上で慰謝料や賠償金を支払わされても、決して不当ではないくらいなのです。
日本では妻の浮気が原因で夫婦が離婚する場合、財産分与・親権等のあらゆる面で夫側が圧倒的に有利になるのですし。
ところが作中では、妻ニッキの浮気行為についてはほとんど何も問題視されることがなく、逆に浮気相手に対するパットの暴力行為のみが、さも大問題であると言わんばかりに大々的にクローズアップされています。
ニッキがパットに賠償金を支払うどころか、逆に裁判所を動かして接近禁止令を出させるなどという所業まで平然と行われていましたし、また物語終盤でパットがニッキと対面した際も、ニッキは何ら後ろ暗い表情を浮かべることすらなく、正面から堂々とパットと渡り合った上に笑顔まで見せるほどの豪胆ぶりを披露していました。
こんなことが普通にありえるのでしょうか?
浮気相手に対するパットの暴力行為が警察沙汰となり彼が逮捕されたにしても、それと同等以上に妻の浮気問題はさらに問題視されないと変ですし、妻と浮気相手も相応の社会的制裁は下されて然るべきでしょう。
仮にニッキが自身の浮気問題を隠蔽して「夫が同僚の教師に暴力を振るっている」と警察に通報していたにしても、警察もバカではないのですから、現場の状況や事情聴取などで、嫌でも事件の背景を理解せざるをえないはずなのですが。
暴力沙汰を起こしたパットが教職をクビになっているのに、不貞行為をやらかした浮気相手が同じ学校で相変わらず教職を続けているというのも驚きでしたし、ニッキと浮気相手は、パットと比較しても何ら社会的制裁を受けているようには見えません。
パットの暴力行為は暴力事件として裁かれるべき事案であるにしても、だからと言ってそれは妻の不貞行為や責任問題を何ら免罪するものではありえないはずなのですが。
それともアメリカでは、妻の浮気行為は法的どころか倫理的に見てさえも何ら問題となる所業ではなく、不倫や乱交が公然と認められている社会だったりするのでしょうか?
しかし、かつてのティファニーのセックス依存症的乱交行為が会社をクビになるほどの扱いを受けたりしているところを見ても、すくなくとも「不貞行為は悪いことである」という社会的常識自体は一応持ち合わせているようではあるのですが……。
作中におけるパットの犯罪者的な扱いと、ニッキ&浮気相手が何ら社会的制裁を受けていない様子が、何とも不当極まりないシロモノに見えてしかたがなかったのですけどね、私は。

今作はコメディドラマという触れ込みではあるのですが、作中のストーリーを見る限りでは、これといったコメディ要素はあまり見出すことができないですね。
序盤で見られたパットの奇行ぶりも、「笑いのネタ」というより「精神異常者ならではの狂った言動」的なイメージが強いですし。
それよりも、精神的な外傷を被った男女が心身的に立ち直っていく過程を描いた恋愛物というのが、今作の正しい評価と言えるのではないかと。
その手のベタな恋愛物が好みという方にはオススメの映画であると言えるでしょうか。

映画「ジャンゴ 繋がれざる者」感想

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映画「ジャンゴ 繋がれざる者」観に行ってきました。
レオナルド・ディカプリオが悪役として登場することで話題となった、クエンティン・タランティーノ監督製作のアクション映画です。
今作の日本公開は2013年3月1日のはずだったのですが、以前にも言及していたように熊本では4月6日からしか解禁されておらず、結果として1ヶ月遅れの観賞となりました。
まあ、たとえ遅れていてもきちんと地方で公開されているだけ、今作はまだマシな部類には入るのでしょうが、この映画の地域間格差は、地方在住の人間にとっては本当に泣けてくる話でしかないですね(T_T)。
なお今作は、作中に様々な拷問描写や流血シーンが満載のため、R-15指定されています。

映画「ジャンゴ 繋がれざる者」の最初の舞台は、アメリカ南北戦争勃発から2年前となる1858年のテキサス州の荒野。
当時はまだアメリカにも奴隷制度が存在していた時代であり、映画の冒頭でもスペック兄弟という2人の奴隷商人が、奴隷市場から購入した5人の黒人奴隷を鎖に繋いで連行しつつ、テキサスの荒野を移動していました。
そんなある日の夜、野宿をしていた一行の前に、荷台の上に巨大な歯のような飾りを乗せた1台の荷馬車がやってきます。
その荷馬車の持ち主で、自分のことを歯医者と名乗ったキング・シュルツは、スペック兄弟に対し「ブリトル三兄弟のことを知っている奴隷が欲しい」と申し出ます。
「ブリトル三兄弟のことを知っているか?」というキング・シュルツの奴隷への呼びかけに対し、ひとりの黒人奴隷が名乗りを上げます。
その黒人奴隷の名はジャンゴ。
目的の奴隷が見つかったことで、その場でジャンゴを買い取ろうとするキング・シュルツでしたが、突然来訪して好き勝手言いまくるキング・シュルツにも、それに応えるジャンゴにも不快感を覚えたらしいスペック兄弟はこの申し出を拒否。
のみならず、2人に銃を向け、殺害を示唆する脅迫まで行ってきたのでした。
するとキング・シュルツは、予め隠し持っていた短銃でスペック兄弟を銃撃。
ひとりをその場で殺し、もうひとりを馬の下敷きにして動きを封じこめてしまうのでした。
相手を完全に無力化させたキング・シュルツは、奴隷を売買する契約書を適当にでっち上げると、その場でジャンゴの鎖を解き自由の身にします。
そして、残った4人の奴隷に対しては、スペックを60㎞ほど離れた街へ連れて帰るか、この場で殺して自由の身になるかの選択肢を提示し、ジャンゴひとりを連れてその場を後にするのでした。
もちろん、馬の下敷きになっていたスペックはその直後、解放された残り4人の奴隷達によって殺されてしまうことになるのですが(苦笑)。

ジャンゴを引き連れたキング・シュルツは、テキサス州西部にあるエル・パソの街に辿り着き、とある酒場へと入っていきます。
この街では、黒人が酒場へ入ることが法律で禁止されているらしく、ジャンゴの姿を見た酒場の店主は悲鳴を上げて郡保安官を呼びに店を飛び出して行ってしまいます。
そしてやってきた郡保安官を、不意を突いて突然射殺してしまうキング・シュルツ。
街はたちまちのうちにパニックに陥り、今度は郡保安官よりも上位の連邦保安官が、それも集団で酒場を包囲する形でやってくることになります。
しかし、包囲されたはずのキング・シュルツはそんな様子にも全く動じることなく、自分が殺した郡保安官が実は指名手配されていた賞金首であり、連邦判事が発行したという手配書も交えて自分達の正当性を堂々と訴え、さらには賞金の200ドルを払えとまで要求する豪胆ぶりを披露していました。
そしてキング・シュルツとジャンゴは、いよいよ本命の賞金首であるブリトル三兄弟を抹殺へと向かうことになるのですが……。

映画「ジャンゴ 繋がれざる者」では、奴隷制度や黒人差別が大手を振ってまかり通っていた時代を扱っていることもあってか、白人達が黒人を「ニガー」という差別用語で呼んでいたり、大富豪が奴隷を酷虐に扱ったりするシーンなどが満載です。
特に「ニガー」については、日本であれば真っ先に言葉狩りに引っ掛かって自主規制を余儀なくされていたのではないかと思えるほどに、作中のあちこちで徹底して呼ばれまくっていました。
さすがにアメリカでも批判自体はあるようなのですが、それでも愚劣な言葉狩りの類に見舞われることのない辺りは、アメリカの良いところと言えるのではないかと。
当時のアメリカで「ニガー」という蔑称が普通に蔓延していたという歴史的事実は、差別意識の有無を問わず否定のしようがないわけですからねぇ。
まあ、アメリカにはアメリカで、日本とは全く異なる言論のタブーもあるでしょうし(特にポルノやアニメ・コミック関係の表現の問題とか)、一概にどちらが良いとは言えたものではないのでしょうけど。

予想外な展開としては、レオナルド・ディカプリオが演じるカルビン・キャンディが意外なくらいあっさり退場していたことが挙げられますね。
映画の前宣伝でも当然のごとくメインキャストな扱いでしたし、カルビン・キャンディは最後の最後で倒れるラスボス的な役どころとばかり考えていたので、あのあまりにもあっけない最後は少々拍子抜けな感がありました。
逆に、ある意味本当のラスボス的な位置付けにあるスティーブンなんて、前宣伝ではえらい小さな扱いだった上に登場も遅いですし、カルビン・キャンディと比較しても小物過ぎる感がどうにも否めないところで。
観察眼はあるにせよ、単なる偏執狂的な執事以外の何物でもなかったですし、死に様も見苦しいシロモノ以外の何物でもなかったですからねぇ。
エンタメ作品的な視点から見ると、何でこんなのがラスボスだったのか実に理解に苦しむところがあります。
素直に三下的な役回りと退場を担わせておいた方が、作品的にも映えたのではないかと思えてならないのですが。

あと、今作の主人公であるジャンゴは、キング・シュルツに奴隷から解放されて以降、彼の手ほどきで正確無比な早撃ちガンマンへと変貌しています。
キング・シュルツがどちらかと言えば「敵の隙を狙い、不意を突いて奇襲する」タイプなのに対し、ジャンゴはそれにさらに早撃ち要素を追加した形です。
元々素質自体はあったのでしょうけど、キング・シュルツと一緒に修羅場を掻い潜ることでアレだけの実力を手にしたのでしょうね。
特に終盤は、敵が気づいた時にはもう撃たれている状態の早撃ちを披露していましたし、この辺りは単純なアクション映画としても充分な見応えがありました。
個人的には、2人がタッグを組んで賞金稼ぎとして敵をなぎ倒していく光景をもう少し見てみたかったところですね。
ジャンゴも、冬の間はキング・シュルツの手伝いとして少なからぬ指名手配犯と殺り合っていたようでしたし、こちらのシーンがもう少しあっても良かったのではないかと。

ところで、カルビン・キャンディが最期を迎える寸前、彼はキング・シュルツに握手を執拗に求め、それが生命取りになってしまったのですが、アレは結局何を意図して行ったものだったのでしょうか?
まさか、純粋に表層的な礼儀作法にあそこまでこだわったわけではないでしょうし、詐欺なやり取りを交わしたジャンゴとキング・シュルツとの間に本当の信頼関係が築けるなどというお花畑な思考が働いたわけでもないでしょう。
となると、カルビン・キャンディ的には何らかの意趣返しな意図があったと考えるのが自然なのではないかと思うのですが、それにしてはああいう行為をカルビン・キャンディがしなければならない理由がないんですよね。
カルビン・キャンディが殺害された後、外で待機していたであろう用心棒が大挙して屋敷を囲ったところを見ると、カルビン・キャンディは元々自分に恥をかかせたあの2人&ジャンゴの妻ブルームヒルダを五体満足に逃がすつもりなど最初からさらさらなく、遮蔽物も何もない屋敷の外で完全包囲してなぶり殺しにするつもりだったのではないかと私は疑っていたくらいだったのですし。
むしろ、作中で自身が殺害されてしまったように、わざわざ敵に隙を見せるような危険な行為を、何故カルビン・キャンディが自ら率先して行わなければならないのかと。
不愉快な人間に屈辱を与えることで精神的な満足が得たかった、的なしょうもない動機からくるものだったりするのでしょうかね、アレって。

アメリカ西部劇系やスピーディなアクション映画が好みな方には、文句なしにオススメできる一品です。

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