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映画「ジャックと天空の巨人(3D版)」感想

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映画「ジャックと天空の巨人」観に行ってきました。
イギリスの有名な童話「ジャックと豆の木」および「Jack the Giant Killer」をベースに、天空に浮かぶ島に生息する巨人と人間の戦いを描いた冒険ファンタジー作品。
今作は2D・3Dの同時上映なのですが、観賞可能な時間帯には3D版しか公開されていなかったため、今回は泣く泣く3D日本語吹替版での観賞となりました(T_T)。
カネがかかるだけの3D版なんて、できることなら観賞したくなどないのですけどねぇ、私は。
相変わらず、3Dについては悪戯に目が疲れるだけのどうでも良い出来でしかなかったですし。

物語の冒頭は、母親を亡くして父子家庭で育っている幼いジャックが、父親にせがんで「天空の巨人の伝説」を読んでもらうところから始まります。
同じ頃、王城ではこれまた王妃にせがんで同じ伝説を呼んでもらっているジャックと同年輩のイザベラ王女の姿がありました。
父親と王妃が共に読んでいた「天空の巨人の伝説」の内容は、地上で闇の魔力?を持つ種から巨大なツタが天へ向かって伸びていき、そこから巨人がやってくるというもの。
人間達は巨人と凄惨な戦いを繰り広げたものの、図体に物を言わせた巨人達の膂力は圧倒的であり、人間側は一方的に蹂躙されていました。
しかし人間側は一計を案じ、ひとりの巨人を殺して手にした心臓を元に、ひとつの冠を作り上げます。
巨人達はその冠を持つ者の命令には絶対的な服従を余儀なくされ、結果、人間達は巨人達に「天へ帰れ」と命じて巨人達を撤退させることに成功。
そして、巨人達が昇っていったツタを切断して地上と天空を繋ぐルートを断ち切り、ようやく地上に平和が訪れたのでした。
当時の王様であるエリック王は英雄として崇められることになります。
そして後には、巨人を退避させた冠と、巨大なツタを生やす魔法の種数粒が残されたのでした。
この「天空の巨人の伝説」を聞かされたジャックとイザベラは満足し、それぞれ父親と王妃に見守られながら、眠りにつくことになるのでした。

それから10年後。
父親を亡くし、叔父に引き取られていたジャックは、馬と荷台を売り払って当座のカネを作るべく、王城がある城下町へとやってきていました。
長年親しんできた馬との別れを惜しみながら買い取り手を捜し歩く中、ジャックは幼い頃に両親に読んでもらっていた「天空の巨人の伝説」の舞台公演が行われている場所に辿り着きます。
そこでジャックは、ひそかに城を抜け出し、フードをかぶって顔を隠しながら舞台を観覧していた王女イザベラと初対面することとなるのでした。
王女を探していた騎士団と共に王女が去り、舞台観覧の間に荷台が紛失してしまったことに気付いたジャックは、とりあえず馬だけでもカネにしようと買い取り手探しを再開します。
そこへ、何やらワケありの修道僧がジャックに声をかけ、馬を譲ってもらいたいと申し出てきます。
ところがその修道僧には持ち合わせがなく、ジャックに対し数粒の豆を渡し、それを修道院に持っていけばカネに変えてくれるとジャックを諭します。
ただし、その豆は決して水に濡らしてはならない、とも。
ジャックが返答を渋って考え込んでいる間に、その修道僧はさっさと馬に飛び乗ってその場を立ち去ってしまい、ジャックはカネを手にするための手段を全て失ってしまうのでした。
ジャックはショックを受けながらも、修道僧からもらった豆を手に、叔父が待つ家に戻ることとなるのですが……。

映画「ジャックと天空の巨人」は、前半部分は童話「ジャックと豆の木」のストーリーをなぞりつつ、王国の陰謀劇なども織り交ぜ、巨人との戦いがメインとなる物語中盤以降は完全オリジナルな展開が繰り広げられます。
事前予測に反してアクションシーンも多く、特に物語後半は巨人を相手にした城塞の攻防戦をメインに扱っていることもあり、なかなかに見応えのある構成となっています
決して客受けしない映画ではなく、スタンダードに面白い作品なのではないかと思われます。
にもかかわらず今作は、アメリカで劇場公開されて以降、その製作費に比べて悲惨なまでの興行収益しか稼げていないという惨状を呈しているみたいなんですよね↓

http://www.cinematoday.jp/page/N0050847
>  [シネマトゥデイ芸能ニュース] 新作が不調だった今週末は、1,000万ドル(約9億円)以上の興収を記録した作品は、トップの映画『ジャックと天空の巨人』のみで、それも決して大ヒットとはいい難い2,720万ドル(約24億4,800万円)という結果となった。(1ドル90円計算)
>
>  世界の子どもたちから愛されている童話「ジャックと豆の木」をベースに、
製作費をおよそ2億ドル(約180億円)もかけ、映画『X-MEN』シリーズでおなじみのブライアン・シンガー監督がメガホンを取った本作は、高い興収を期待されていたのだが、主演ニコラス・ホルトの知名度の低さや、CGIの巨人たちがグロテスクなことなどが災いし、かなり不本意な結果に……。

http://www.cinematoday.jp/page/N0051062
>  代わって第2位は、映画『ジャックと天空の巨人』で984万ドル(約8億8,560万円)。去年の今ごろに公開され、散々な結果に終わった映画『ジョン・カーター』がよく引き合いに出されているが、『ジャックと天空の巨人』の2週目における下降率63.8パーセントは、『ジョン・カーター』の同時期55パーセント降下よりも大きく、このままいくとトータルの興収は『ジョン・カーター』を下回る6,000万ドル(約54億円)にも達しないのではと予想されている。

http://www.cinematoday.jp/page/N0051291
>  代わって第4位は、映画『ジャックと天空の巨人』で632万ドル(約5億6,880万円)。これまでの興収トータルは5,401万ドル(約48億6,090万円)となっている。

アメリカの映画公開から既に3週間の時間が経過してさえ、製作費のようやく4分の1強を回収した程度でしかないというのは、ほとんど壊滅的な成績であるとしか言いようがないですね。
上記記事でも引き合いに出されている映画「ジョン・カーター」も、2012年トップクラスと謳われる「悲惨なまでの赤字映画」として知られていますし。
日本を含めた世界各国ではまだまだこれからとは言え、本家アメリカでこのスタートは正直かなり厳しいものがあるでしょう。
しかし、これは「ジョン・カーター」もそうだったのですが、今作も内容的にも演出面でも決して客受けしない駄作というわけではなく、充分な集客力もありそうな作品だというのに、一体何がここまで興行収益を左右しているのでしょうかね?
仮にも2億ドルもの製作費をかけているのであれば、宣伝広報の類だってそれなりに展開はしているでしょうし、「ジャックと豆の木」という世界的にも知名度が高いであろう童話をベースにしているのであれば、無名というわけではないのですし一定の客もつきそうなものではあるのですが。
今作の公開とほぼ同時期に、映画「オズ はじまりの戦い」も劇場公開されていて、しかもこちらは大ヒットしているようなので、客足をそちらに取られでもしたのでしょうかねぇ(-_-;;)。
内容は悪くないのに興行収益的に駄作扱いされるというのは、何とももったいない話であるとしか言いようがないのですが……。

作品内容に目を向けてみると、個人的に惜しいと思われるのは、イザベラ王女の許嫁で王家簒奪の野心を胸に秘めているロデリック卿とその部下が、かなり早い段階でさっさと物語から退場してしまうことですね。
序盤から中盤にかけてアレほどまでに分かりやすい大物な黒幕ぶりを演出していながら、あんなしょうもない油断からエルモントとの一騎打ちに引きずり込まれた挙句にあっさり討ち取られてしまうというのは、正直「竜頭蛇尾」な感が否めないところですね。
私はてっきり、ロデリック卿は物語終盤近くまで生き残りつつ、ジャックやエルモントやイザベル王女と対峙しつつ、巨人や王国も交えた三つ巴な戦いを繰り広げるものとばかり考えていたので、あの早すぎる退場は期待外れもはなはだしかったです。
巨人達は、ラスボスである二対の頭を持つファロン将軍も含め、どいつもこいつも脳筋な頭しか持ち合わせていませんでしたし、頭脳派のロデリック卿がいなくなったのはその点でも手痛いダメージでした。
物語終盤の巨人達の王城攻撃は、膂力と体格に物を言わせた力任せなシロモノにしかなっていなかったですし。
王城の地理も政治も熟知しているロデリック卿が巨人達を率いていれば、終盤の王城攻防戦もあるいは巨人側の勝利に帰したかもしれなかったのですが。
映画の演出面でも、当然のごとく巨人を従える冠を持つロデリック卿を主人公達が倒すことで、巨人達との戦いにも終止符が打てるという流れに持っていけるわけですし、彼のあまりにあっさりし過ぎな退場は何とも惜しまれるところではありますね。
ただそれを除いても、ジャックが持っていた魔法の豆の使った巨人退治や、ラストの王冠のオチなど、小道具の使い方はなかなかに上手いものがあったのですけど。

どの年齢層を問わず、老若男女誰もが楽しめるスタンダードな映画に仕上がっているのではないかと思います。

映画「クラウド アトラス」感想

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映画「クラウド アトラス」観に行ってきました。
アメリカ・ドイツ・シンガポール・香港の4ヵ国共同合作で、トム・ハンクス等の有名俳優が多数出演している作品。
今作では、作中に様々なバイオレンス・セックス描写に加えてゲイ描写までもがあるためPG-12指定されています。
内容的にはR-15でも違和感がなかったシロモノでしたが(苦笑)。

映画「クラウド アトラス」の舞台となる時代は、1849年・1936年・1973年・2012年・2144年・2321年の6つであり、それぞれに事情が異なる6人の主人公とそれに付随するエピソードが存在します。
1849年の奴隷貿易が華やかりし時代、南大西洋でアメリカへ帰る途上にある弁護士アダム・ユーイングの話。
1936年のイギリス・スコットランドで、映画のタイトルにもなっている幻の交響曲「クラウドアトラス6重奏」を完成させる作曲家ロバート・フロビシャーの話。
1973年のアメリカ・サンフランシスコで、かつてのロバート・フロビシャーのゲイ友達だったシックススミスが出会う、芸能ジャーナリストのルイサ・レイの話。
2012年のイギリス・ロンドンで、殺人事件を起こした作家ダーモットの著書がヒットしたことから荒稼ぎをするも、そのために生命を狙われた上に老人施設に監禁されることになってしまう、編集者ティモシー・キャベンディッシュの話。
2144年の元韓国・ソウルの上に新たに築かれているネオ・ソウルで、クローンでありながら革命家への道へ進んでいくソンミ451の話。
そして2321年、文明が崩壊し汚染された地球で、人食いを生業とするプレシエント族の脅威に怯えながら質素な暮らしを営むヴァリーズマン・ザックリーの話。
これら6つの時代の6人の主人公が織り成す6つのエピソードが、6つ全て同時に進行していくという破天荒な形で、映画の物語は繰り広げられていくことになります。
ひとつの時代のエピソードが終わったら次の時代へ……という形ではないんですね。
また、今作に出演している俳優さん達は、6つの時代のそれぞれで全く異なる役柄を担当しており、「ウォーリーをさがせ!」的なノリで彼らを探していくのも楽しみのひとつに入るかもしれません。
何しろ、彼らが演じる役柄の中にはチョイ役・端役的な人物どころか、作中に登場する写真の中に顔が写っているだけなシロモノまであるのですから(^_^;;)。
エンドロールでキャストと共にその全容が紹介されているのですが、「正解」を知った時は心の中で思わず唸ってしまったものでした。
細かいところで非常によく作り込んでいる作品だなぁ、というのがアレを見た時の感想でしたね。

登場人物達の設定も時代背景も全く異なり、一見全く無関係かつバラバラに展開されているかに見える各時代のストーリーは、しかし色々なキーワードや後代の視点などを駆使することで相互に関連性を持たせていますね。
たとえば、1936年のロバート・フロビシャーは、作曲を行う際に1849年のアダム・ユーイングの手記を探しており、その内容が途中で切れているのに不満を漏らしたりしています。
そのロバート・フロビシャーが作曲した「クラウドアトラス6重奏」は、1973年の主人公であるルイサ・レイがレコード店で手に取っていたり、2144年におけるネオ・ソウルのクローン喫茶?で奏でられていたりします。
逆に後代の視点から前時代の筋書きが明かされたり、ある時代の登場人物の台詞を別の時代の登場人物がそのままなぞっていたりと、各時代のエピソードとの相互関連性を示す要素が作中にはふんだんに盛り込まれています。
また、全時代共通と特徴として、各時代のエピソードを担う主人公達には、身体のどこかに彗星の痣が刻み込まれています。
これが何を意味するのかは作中では具体的に語られることがないのですが、各時代のエピソードを比較する限りでは、「彗星の痣がある人物=共通の魂を持つ存在」というわけではなさそうな感じではありますね。
今作は「輪廻転生」や「時代が変わり、何度生まれ変わっても同じ過ちや行動を繰り返す人間」というのがテーマにあるようなのですが、「彗星の痣がある人物」は各時代毎に全く共通項のない人生を送っているみたいですし。
作中描写から見た限りの設定としては、各時代で同一俳優が演じている登場人物が「輪廻転生」の関係にある、と考えるのが妥当なのではないかと。
作中で成立している恋人関係なども、同一の俳優さん同士の組み合わせが時代を超えて成立していたりもしますし、逆に1936年における主人公のゲイ関係や自殺のエピソードなんて、他の時代のどこにも共通項が存在しないですからねぇ。
6つの時代の物語は、2つが主人公死亡というバッドエンド、4つが将来に希望を見出すトゥルーエンドという形で終わっているという違いもあるのですからなおのこと。
とはいえ、全時代の主要登場人物に刻まれている「彗星の痣」が全くの偶然で存在するということはいくら何でもないでしょうし、こちらはこちらで「輪廻転生」とは全く別の意味が何かありそうな感じではあるのですが……。

個人的に気になったのは、2144年から2321年のエピソードの間に、如何にして人類の文明が滅亡し、ソンミ451が女神として崇められるようになったのか、という点ですね。
作中における2321年は「地球崩壊後106回目の冬」なのだそうで、これから逆算すると、地球における人類の文明が滅びたのは2215年前後ということになります。
ソンミ451が活躍する時代から文明崩壊までは、まだ70年以上の歳月があることになりますし、作中の2144年当時は統一国家が成立していたようなので、国家間による全面核戦争で文明が崩壊したとは考えにくいところです。
2321年のエピソードでは、過去の歴史を知るメロニムについて「地球は毒されている」と評していることから、核戦争レベルの地球全体の汚染が伴うような大破局が発生したであろうことは確実です。
致死性ウィルスによる疫病の大量発生程度のことでは、人類の人口激減は発生しえても地球全体の汚染まではさすがに伴いようがないのですし。
となると、2144年時点でも旧ソウルが水没するほどに進んでいた「地球温暖化による海面上昇」がさらに進行し、それと共に世界的規模で原発事故のごとき地球を汚染する大破局が発生し文明が崩壊した、ということにでもなるのでしょうか?
2321年に現存している旧文明の「海を走る船」には核融合エンジンが搭載されているとのことですし、そんな環境で今更原発に頼るのか、という問題もありますが(苦笑)。
あるいは、ソンミ451やチャン・ヘチュが所属していたレジスタンス組織のような存在が他にも大量に勃興し、レジスタンス組織と政府軍による内戦状態から核の応酬のごとき戦争にでも発展したのでしょうか?
これだと、ソンミ451が「レジスタンスの象徴」として崇められる理由もできますし、それが後代に神格化されて宗教信仰にまで発展したという筋書きにもある程度は納得がいくのですが……。
しかしいずれにせよ、ザックリーに過去の歴史について問われたメロニムも、「人類の欲望が知恵が追いつかないほどに大きくなった」ことが滅亡の原因だと述べただけで、具体的な理由や真相については結局触れず終いでしたからねぇ。
人類の文明が崩壊し地球が汚染された真相とは一体何だったのか?と色々想像力を掻き立てられる話ではありますね。

作中には一応カーチェイスやアクションシーンなどもあり、その手の描写が好きな方の要求にも対応した構成になっています。
ただ、今作最大の特徴である「6つの時代の6つのエピソードの同時進行」という形態は、やはりその分かりにくさから「観客を選ぶ」という一面があるのはどうにも否めないところですね。
実際、アメリカ国内では1億ドルの映画製作費に対して、かろうじてその4分の1を超えた程度の興行収益しか稼げていないようですし。
世界総合の興行収益では何とか黒字を達成したようなのですが。
単純明快なストーリーではなく、複雑な構成の物語を楽しみたい、という方にはオススメの映画であると言えるかもしれません。

映画「オズ はじまりの戦い」感想

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映画「オズ はじまりの戦い」観に行ってきました。
ライマン・フランク・ボーム著の児童文学小説「オズの魔法使い」の前日譚で、オズ誕生の起源となる物語で構成されるディズニー作品です。
今作は3D版も公開されていますが、私が観賞したのは2D版となります。
今作の基本ベースとなっている「オズの魔法使い」については、これまで名前しか知る機会がなく、全くの前知識なしで今作に臨むこととなったのですが、前日譚ということもあり、それでも何の問題もなく観賞は可能です。

1905年のアメリカ。
各地を回る移動サーカスでしがない奇術師を営み、周囲から「オズ」の愛称で呼ばれている今作の主人公オスカー・ディグス(以下「オズ」に統一)は、カンザス州へとやってきていました。
オズは女性を口説くのが上手い人間のようで、その日も奇術師としてのショーで奇術を演出するための女性を、持ち前の口説き文句と祖母譲りのオルゴールの贈呈でもって確保していたのでした。
しかし、ショーそのものは成功したものの、足が不自由らしい少女から「自由に歩けるようになりたい」という素朴なお願いをされてしまい、しどろもどりに回答を回避せざるをえなかったオズは、観客から物を投げられまくってショーの会場からそそくさと立ち去ることを余儀なくされてしまいます。
惨憺たる結果で終わったショーの後、オズは自分にあてがわれた小屋で、元恋人の来訪を受けることになります。
再会を喜ぶ2人でしたが、しかしその元恋人は「(2人の知人らしい)ジョンという男から求婚された」と宣言し、オズは衝撃を受けながらも元恋人の求婚を歓迎するのでした。
しかし、傷心にあるオズには、その傷心にひたる時間すらも与えられはしませんでした。
オルゴールを贈呈した女性の関係者で大柄な男2人が、オズを半殺しにすべく動き出したことが確認され、オズは逃走を開始しなければならなかったのです。
逃走の最中、自分が所持している熱気球に乗って追手から逃れることを考えつくオズ。
目論見は成功し、何とか追手の手の届かないところに逃れて一息ついたオズでしたが、熱気球が向かう先には、何と巨大なトルネードが荒れ狂っているではありませんか。
オズは為す術もなく、乗っていた熱気球ごとトルネードに巻き込まれてしまうのでした。

ところがトルネードは、オズが乗っていた熱気球を潰すことはなく、代わりに熱気球を魔法の世界「オズ」へと誘います。
そこでオズが見たのは、直前まで自分がいたカンザスとは全く異なる、見たこともない地形と不思議な生物が住まう光景でした。
気球に乗ったまま川を流されるなどのアクシデントはあったものの、オズは5体満足で無事に気球から降りることができました。
そこでオズは、西の魔女を名乗るセオドラという名の女性と出会い、自分がこの世界を救う予言の人間であることを知らされることとなるのですが……。

映画「オズ はじまりの戦い」は、原作者であるライマン・フランク・ボームが著した全14作に上る「オズ・シリーズ」の1作目「オズの魔法使い」のさらに前の時系列を扱う前日譚となっています。
今作に登場するオズは、原作1作目の題名である「オズの魔法使い」の名に反して、実は最初から最後まで一切魔法を使用することができません。
まあ、元々がアメリカのカンザス州から飛ばされてきた現実世界の人間なのですから、ある意味当然の話ではあるのかもしれませんが。
魔法が使えないオズが代わりに駆使できるのは、奇術師として培ってきた手品の類と、トーマス・エジソンに憧れて身に着けていたらしい1905年当時の科学知識。
現代人である我々の視点から見れば、とても「魔法」と呼称できるようなシロモノであるとは到底言えたものではありません。
しかし、科学を知らない「オズ」の世界の人間や亜人間達にとって、「オズ」の科学知識や手品の類は「魔法」と区別がつくものではないわけです。
実際、オズが最初に出会った西の魔女・セオドラも、オズの手品を魔法と勘違いし、オズという名前の偶然の一致も相まって、彼こそが予言にあった魔法使いだと盛大に誤解していくことになるわけで。
物語前半でただひたすら戸惑いつつ、とりあえずはエメラルド・シティの財宝を目当てにその場凌ぎの言動に終始していた主人公は、物語後半においては詐欺師としてのトリックと科学知識を駆使した頭脳戦で邪悪な魔女達と戦っていくことになります。
その点で今作におけるオズは、どちらかと言えば軍師的な存在ないしは煽動政治家に近い位置付けであると言えるかもしれませんね。
作中でもオズは、魔法が使えないばかりか肉弾戦向きですらなく、直接自分で戦っている描写というものがまるでありませんでしたし。

一方で、作中序盤でヒロインの座を獲得しようとしていたかに思われた西の魔女・セオドラは、結果的に見ればあまりにもピエロ過ぎる扱いで、正直泣けてくるものがありましたねぇ(T_T)。
オズの名前と手品を見て「オズこそが予言の人物だ!」と早合点し、オズと恋仲らしき関係になったかと思えば、オズの元恋人と瓜二つの容貌を持つ南の魔女・グリンダにあっさりとその座を奪われ、嫉妬に狂った挙句、東の魔女にして自身の姉でもあるエヴァノラにそそのかされて緑色の魔女に変貌する始末だったのですから。
作中でも姉から「世間知らず」と評価されていたことを差し引いても、セオドラについてはオズこそが邪悪に引きずり込んだ元凶であるとすら言えるのではないでしょうかね、あの展開では(苦笑)。
あまりにもピエロな悪役過ぎて、緑色の魔女として残虐性を見せつけるシーンでも滑稽さしか感じようがなかったのですが。
そのセオドラを陥れ、父親殺しの黒幕であったエヴァノラの方が、はるかにラスボスとしての風格もありましたからねぇ。
ちなみにこの2人は、観賞後にネットで調べたところによれば、「オズ・シリーズ」の1作目である「オズの魔法使い」で倒されることになるのだそうで、今作のラストでは堂々と逃げ切ってしまっています。
空飛ぶ箒に乗って悠々と逃亡した緑色の魔女セオドラはともかく、魔法の根源を失って老婆になってしまったエヴァノラの描写を見た時は、てっきりエヴァノラはここで死ぬものとばかり考えていたのですけどね。

映画「オズ はじまりの戦い」は、元々が前日譚という事情もあるのでしょうが、明らかに続編ありきな構成で物語が終わっていますね。
実際、製作元であるディズニーは既に続編製作に取り掛かっているという情報もありますし。
引き続きオズにスポットが当てられた今作の続きになるのか、それとも原作1作目「オズの魔法使い」のリメイク実写化(「オズの魔法使い」自体は過去にも実写化されている)になるのかは、未だ不明ではあるようなのですが↓

http://megalodon.jp/2013-0310-2051-34/www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2013/03/09/kiji/K20130309005355730.html
>  米映画製作会社ウォルト・ディズニー・ピクチャーズが新作映画「オズ はじまりの戦い」の続編を早くも計画していることが分かった。
>
>  1939年に公開されたオリジナル映画「オズの魔法使」のプロローグが描かれた「オズ はじまりの戦い」は、日本では8日に公開されたばかりのサム・ライミ監督(53)作品。
>
>  バラエティ誌はディズニーが早くも続編製作に取り掛かっていると報じた。
続編に関しての詳細は明らかにされていない。

今作の総合的な評価としては、「子供向けの作品だと思っていたら、意外に大人も入り込める万人向けの構成になっていて充分に楽しめた」といったものになるでしょうか。
今作の出来を見る限りでは、製作が進められているらしい続編についても、それなりに「魅せる」ものは充分に期待できそうですね。

映画「フライト」感想

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映画「フライト」観に行ってきました。
「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズの製作を手掛けたロバート・ゼメキス監督と、「ザ・ウォーカー」「アンストッパブル」「デンジャラス・ラン」のデンゼル・ワシントンがタッグを組み、飛行機墜落事件の当事者である機長を巡って繰り広げられる人間ドラマ作品です。
今作では、冒頭で情事後の朝を迎えた女性がスッポンポンで部屋を動き回るシーンの他、酒やドラッグをキメる描写などがあったりするため、PG-12指定されています。

今作の主人公ウィップ・ウィトカーは、長年旅客機の機長を務めるベテランパイロット。
しかしその一方で、彼は離婚した妻と子供の問題から重度のアルコール依存症を患っており、さらにドラッグにも手を出すほどの素行の悪さを密かに抱え込んでいました。
その日もウィップは、愛人らしいカテリーナ・トリーナ・マルケス(映画の中では「トリーナ」と表記)と徹夜でパーティに老け込んだ挙句に情事後の朝を迎えており、酒とドラッグをかっくらった後で、フロリダ州オーランド発ジョージア州アトランタ行のサウスジェット航空227便の飛行機に機長として乗り込むのでした。
飛行機出発時のオーランドは悪天候に見舞われており、強風と大雨が降りしきる中、飛行機は空へ飛び立っていきました。
当然、乗客も副操縦士ケン・エヴァンスも不安に駆られるのですが、ウィップは常識破りの操縦で雲の間をすり抜け、安定飛行に移ることに成功します。
ウィップは自らマイクで安全圏に入ったとスピーチを行い、乗客達を安心させる中、ひそかにオレンジジュースにウォッカを入れて飲酒行為をやらかします。
そしてウィップは、ケン・エヴァンスに操縦を任せ、自分はうたた寝を始めてしまうのでした。
ところが、飛行を初めて26分が経過し、アトランタへの着陸準備に入り始めた頃、突然機体が制御不能に陥り、急激に高度を落とし始めるという緊急事態が発生します。
ウィップは何とか機体を制御しようとするのですが、機体は全くコントロールを受け付けようとしません。
そして、真っ逆さまに落ちていく機体の向かう先には、人口が密集しているとおぼしき住宅地が広がっており、そのまま墜落すれば乗客はむろんのこと、地上でも大惨事が発生するのは必至の情勢でした。
機体そのものに問題が発生したと判断したウィップは、操縦を手動に切り替えると、機体を180度回転させ、上下逆になった背面飛行状態を作り出すことで機体の水平飛行を維持するという究極の荒業を披露することになります。
住宅地を抜け、広大な広場を見出したウィップは、機体を元に戻し、グライダーのような滑空状態で胴体着陸を敢行。
そして、胴体着陸時の衝撃で、ウィップは意識を失ってしまうのでした。

次にウィップが目を覚ましたのは、アトランタの病院の一室でした。
そこには、ちょうどウィップを見舞いに来ていたサウスジェット航空の幹部で旧友でもあるチャーリー・アンダーソンがおり、彼はウィップの奇跡的な操縦で乗員乗客102名中96名が生還できたと賞賛します。
死亡した6名の内訳は、乗員2名に乗客4名。
しかしその乗客2名の中には、ウィップが物語冒頭で情事にしけこみ、将来の妻と考えてさえいたトリーナが含まれていたのでした。
事故を調査する国家運輸安全委員会の形式的な質問を経て、ひとりになったウィップは、トリーナの死にすすり泣くのでした。
一方、ウィップの様態は脳震盪以外は大したことがなく、3日もあれば問題なく退院できるとのこと。
しかし、マスコミが飛行機事故の真相について騒ぎ立て、事故の調査が進んでいく中で、ウィップに対する飲酒問題が浮上してくることになるのです。

映画「フライト」の主人公は、明らかに人格が破綻している上、特に物語後半では自滅願望の類でもあるのではないかとしか思えない言動に終始していて、あまり好感の抱きようがなかったですね。
ウィップの周囲の人間は、どちらかと言えばウィップに好意的で、明らかにウィップにとって有利な証言に終始し、チャーリー・アンダーソンや黒人弁護士のヒュー・ラングもウィップの無罪獲得にアレだけ奔走していたというのに、ウィップはほとんど自分から進んで破滅への道を邁進する始末だったのですから。
確かにウィップには元々アルコール依存症の気はあったのでしょうが、物語終盤のアレはどう見ても自滅することを理解していた上でそれを自分から積極的に望んでいたようにすら見えましたし。
ウィップにしてみれば、自分が懇意にしていた女性達に死なれたり愛想を尽かされて逃げられたりで自暴自棄になっていた側面もあったのかもしれませんし、何よりも「死んだ人間に飲酒の冤罪を擦り付けることになる」という構図に耐え難いものがあったという事情も働いていたのでしょう。
せっかく国家運輸安全委員会の事故調査でも、機体のメンテナンス不良が事故の原因だったという結論で固まろうとしていたというのに、傍目から見た分には何ともバツが悪い自滅以外の何物でもなかったですね。

しかし、物語終盤におけるウィップの告白は、ウィップの精神的な満足が得られた以外は、むしろ社会的には害悪しか与えていないのではないでしょうか?
特に、ウィップの自滅願望に付き合わされた挙句、巨額の賠償責任までひっかぶる羽目になったであろうサウスジェット航空の面々にとっては。
彼らは、ウィップが飲酒の問題を認めた時点で、最低でもアルコール依存症の人間をパイロットとして雇っていたという「会社としての任命・監督責任」を免れることができなくなってしまったのですし。
しかもあの場におけるあの告白の仕方では、下手をすればさらに機体のメンテナンスの責任までもがウィップとサウスジェット航空に擦り付けられ、場合によっては死亡した乗客4人への賠償責任までもが会社に覆いかぶさってくる事態すらも充分にありえます。
そうなれば、サウスジェット航空は会社として損失を被るばかりか信用までも失い、賠償問題も重なって経営は破綻、従業員・幹部一同は会社ごと職を失うレベルの危機に直面することになるわけです。
そして、そういう事態を回避したいからこそ、サウスジェット航空の面々はウィップの無罪獲得に必死になっていたはずなのです。
何しろ、死亡した乗客4人へ賠償金を支払うことになれば航空会社が維持できなくなると、作中でもはっきりと明示されていたわけですし。
自分のあの告白からそういう事態が発生した際の責任まで、ウィップは自分で背負う覚悟が果たしてあったのでしょうか?
あのラストの展開では、ウィップの行為によって職を失ったり損害を被ったりした人間が確実に出てくることになるのですし、刑務所に収監されたウィップの描写を見る限り、とてもそこまでの責任をウィップが自覚し、背負っていたようには全く見えなかったのですが……。

さらに言えば、あの場におけるウィップの飲酒容認発言は、飛行機を製造・メンテナンスを担う会社側に一定の免罪符を与える事態をも招くことにもなりかねません。
彼らにしてみれば、ウィップの発言は自分達の責任を擦り付ける格好の口実として間違いなく使えるのですから、「機体のメンテナンスは大した問題ではなく、事故は機長のアルコール飲酒が主原因で起こったものだ」くらいのことは当然主張してくるでしょう。
当の本人が自分から積極的に認めたという事実も相まって、最悪、肝心要の機体の問題が完全無視されてしまった挙句、機長のアルコール依存症のみが、世間・マスコミ・国家運輸安全委員会などで大々的に取り上げられる、などという事態にすらもなりかねません。
「堕ちた英雄」なんてネタは、さぞかし世間一般の受けも良いでしょうからねぇ(苦笑)。
そして、批判の矛先が摩り替えられたことによって、欠陥飛行機を製造した会社は結果的に世間から大々的に取り上げられることがなくなってしまい、結果として本来あるべき事故の真相や責任の追及が歪められてしまう可能性も否定できないのです。
他ならぬウィップ自身、事故の責任は機体の故障にあって自分の操縦には問題ない、それどころか自分の操縦こそが多くの乗員乗客の生命を救ったのだと自認していましたし、周囲もそれは声を大にして認めていたではありませんか。
その責任の追及が歪められたり曖昧な決着で終わったり、最悪はその責任をもウィップ自身が背負わされる羽目になったりするケースも、あの告白の後では充分に想定されるべき事態であると言えるのですが、そんなことにウィップは耐えられるとでもいうのでしょうか?
日本でさえそういう事態は普通にありえそうですし、ましてや訴訟大国たるアメリカであればなおのこと、安易な責任認定は無用な冤罪や真犯人の免罪を招きかねないのではないのかと。
作中におけるウィップの飲酒責任の告白は、単に自分個人の問題だけで終わるものでは全くないはずなのですけどねぇ。

航空機事故およびそれに伴う責任問題を扱っている割には、どうにも主人公およびその周囲限定の葛藤や問題のみにスポットが当てられている感が否めなかった作品でしたね。
主人公自身も、最後の告白をも含めてひたすら「自分個人の都合と論理」だけで動いていましたし。
その辺りの行動原理をどのように解釈するのかで、今作の評価はかなり違ったものになりそうではありますね。

映画「ゼロ・ダーク・サーティ」感想

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映画「ゼロ・ダーク・サーティ」観に行ってきました。
2001年のアメリカ同時多発テロ事件の首謀者とされるオサマ・ビン・ラディンの所在を10年にわたって探し続け、ついに殺害するに至ったCIAの女性分析官にスポットを当てたサスペンス作品。
映画のタイトルは、2011年5月2日、パキスタンのアボッターバードに潜伏していたオサマ・ビン・ラディンの邸宅への攻撃を開始した時刻、午前0時30分を指す軍事用語です。
今作は、アルカイダの関係者に拷問を加える描写などの残虐シーンがてんこ盛りなため、PG-12指定されています。

2001年9月11日のアメリカ同時多発テロから2年が経過した2003年。
今作の主人公で当時高校を卒業したばかりのマヤは、すぐさまCIAにスカウトされ、パキスタンのアメリカ大使館でオサマ・ビン・ラディンを追跡するチームの一員としての任務に就くことを命じられます。
初仕事となる彼女が初めて目の当たりにしたのは、現地のオサマ・ビン・ラディン追跡チームのリーダーで彼女の上司となる人物でもあるダニエルが、アルカイダの関係者を吊るし上げ、水責めや箱詰めなど様々な拷問をかけて情報を引き出そうとしている場面でした。
その光景に最初は引きつつも、すぐさま順応して「早く情報を吐いた方が良い」と捕縛者に忠告すらしてみせるマヤ。
以降、マヤはCIAにもたらされる情報を分析しつつ、オサマ・ビン・ラディンの行方を知るとおぼしきアルカイダ関係者から情報を引き出す日々を送るようになっていくのでした。

2人は、アルカイダの関係者を(拷問その他の手管も交えて)取り調べていく中で、オサマ・ビン・ラディンの連絡役と思しきアブ・アフマドなる人物の存在をキャッチします。
しかし、その足取りや所在については全く手がかりが掴めないまま、5年の歳月が流れていきます。
その間、2005年7月7日にロンドンで同時爆破テロ事件が発生したり、2008年9月30日にはマヤ自身がイスラマバードのマリオット・ホテル爆破テロ事件に巻き込まれたりするなど、アルカイダが関与したとされるテロ事件が後を絶ちませんでした。
また、マヤの上司だったダニエルも現場を離れCIA本部の勤務になるなど、オサマ・ビン・ラディン追跡チームの構成員にも少なからぬ変化があったりもしました。
そんな中、マヤの同僚で親しい友人関係にもあったジェシカが、アルカイダの関係者から有力な情報を得られることになったとの報告がもたらされます。
マヤは素直に友人の功績を絶賛し、アフガニスタンにあるチャップマン基地で行われる予定のアルカイダ関係者との接触に期待を寄せるのでした。
ところがそれはアルカイダ側が仕組んだ罠であり、2009年12月30日の接触当日、ジェシカを含めたCIA職員7名は、アルカイダによる自爆テロによって帰らぬ人となってしまうのでした。
これがきっかけとなってマヤは、オサマ・ビン・ラディンの殺害を心から願うようになり、半ば狂信的な手法と態度でオサマ・ビン・ラディンの追跡を行っていくようになります。
その努力が実り、ついに彼女はアブ・アフマドの特定に成功し、パキスタンのアボッターバードにある邸宅の存在を掴むまでに至るのでした。
しかし、そこに何らかの重要人物がいるという点ではCIA内部でも見解の一致を見たものの、その組織がアルカイダの、ましてやオサマ・ビン・ラディンであるという確証など誰も持ち合わせていませんでした。
100%の確証があると断言して憚らないマヤに同意する者はCIA内部には誰もおらず、彼女は孤立無援も同然の状態でした。
しかしアメリカ政府上層部は、そんなマヤの可能性に着目し、攻撃の許可を与える決定を下したのです。
かくして2011年5月2日の「ゼロ・ダーク・サーティ」に、オサマ・ビン・ラディンの殺害作戦が、総勢15名で構成されるネイビー・シールズの部隊によって展開されることになるのですが……。

映画「ゼロ・ダーク・サーティ」は、良くも悪くもオサマ・ビン・ラディンが殺害されるに至るまでの全行程を余すところなく再現していますね。
捕縛したアルカイダ関係者達を、CIAの面々があの手この手で拷問にかける様子まで普通に描写されていますし。
今作がアメリカで公開された際には、アメリカの一部議員達が「CIAは拷問なんか行っていない、そんな間違った印象を与えるこの映画はケシカラン」などと映画の製作元に抗議したこともあるのだそうで。
しかし、日本の警察でさえ自白強要や誘導尋問等の事例が普通にあるというのに、それ以上に強権を持つ上に外国人を相手とするCIAで、その手の拷問が全くなかったとは到底考えられるものではないでしょう。
ましてや、相手がアメリカ同時多発事件の首謀者であり、かつ大多数のアメリカ国民からも当然のごとく成果を求められる状況ではなおのこと。
一応アメリカ政府も、公式発表上では「人道的な取り調べを行っている」ことを強調してはいるでしょうが、実際には拷問その他の強権発動があったことは「公然の秘密」というものでしょう。
民主主義国家であることと、その警察機構が人道的であることは、必ずしも両立するわけではないということですね。
むしろ、相手が外国人の場合は人権適用の対象外になっても本来はおかしくないくらいなのですし、下手に穏便に扱うと、テロ組織側に「捕まっても大したことはない」などと舐められてしまうリスクもあるのではないかと思うのですが。
一方のテロ組織の方は、アメリカ兵を捕まえたら一切容赦しないであろうことは、映画「ブラックホーク・ダウン」のモデルとなった「モガディシュの戦闘」におけるアメリカ兵の死体の扱いを見ても一目瞭然なのですし。
アメリカにばかり人道的措置を求められるのに、テロ組織はやりたい放題が許される、というのはあまりにもアンフェア過ぎるのではないのかと。
まあアメリカの方も、国内への配慮以外にも対外的にイイ顔をしなければならない事情もあるわけですから、別に好き好んで単なる足枷にしかならない「人道」を前面に掲げているわけではないのでしょうけど。

作中のマヤは女友達をチャップマン基地の自爆テロで殺されてしまった後、まるでそれが生きがいであるかのごとくオサマ・ビン・ラディンの抹殺に奔走するようになってしまっていましたが、その目的が達成された後、彼女は何に生きがいを見出すことになるのでしょうかね?
高校卒業直後からあしかけ8年近くもオサマ・ビン・ラディンの追跡に従事し続け、それ以外の分野における実績も功績もこれといってないわけですから、マヤはある種の「つぶしがきかない」人間と評されるべき人物であるわけです。
しかも、アレほど熱望していたオサマ・ビン・ラディンの殺害が実現したとなると、マヤは今後の「生きる目的」を一時的にせよ失った状態にもあるわけでしょう。
下手すれば「生ける屍」のごとき生気の抜けた状態になってもおかしくなさそうに見えますし。
まあ、オサマ・ビン・ラディンの殺害に成功したという事実自体が巨大な功績たりえるのですから、CIA内部における彼女の地位は不動のものになったのかもしれませんが、彼女、今後もCIAでの仕事を生業にしていくのでしょうかね?
彼女の後日談がどうなったのか、是非とも知りたいところです。

映画「ゼロ・ダーク・サーティ」は上映時間が158分と非常に長く、しかもアクション映画にありがちな派手で観客受けする描写がまるでないため、観る人を選びそうな構成の作品ではありますね。
一応アカデミー賞有力候補作のひとつというのも売りな映画ではあるのですが、だからと言ってそれは必ずしも「名作」であることを保証するものでもないのですし。
アメリカほどにはオサマ・ビン・ラディンに執着がない日本ではなおのこと、その傾向がより強くなりそうです。
アメリカでは大ヒットを記録した映画だったそうですが、果たして日本ではどれくらい興行収益的な成功を収めることになるのでしょうかねぇ。

映画「レッド・ライト」感想

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映画「レッド・ライト」観に行ってきました。
超常現象を科学的に解明すべく奔走する主人公達が、稀代の超能力者として名を馳せるサイモン・シルバーと壮絶な心理戦を繰り広げる、異色のミステリー作品。

物語は、ポルターガイストとおぼしき超常現象に見舞われている家に、マーガレット・マシスンとトム・バックリーという2人の人物が訪れるところから始まります。
2人は、巷で評判の超常現象に懐疑的な立場から調査・検証を行うことを生業とする大学の物理学者で、マシスンが教授・バックリーが助手という関係にありました。
家主?の依頼で訪問した今回の家では、奇妙な物音が響き渡ったり、机が浮き上がるなどの現象が頻発しており、住人は引っ越しを検討すらしていました。
しかし、マシスンはポルターガイストの原因が家主のひとり娘にあり、かつ家の中で頻発していた超常現象も科学的なトリックによるものであることを喝破します。
ひとり娘にこれ以上イタズラをしないよう言いくるめ、2人はその家を後にするのでした。

その後、2人は大学の講義で、冒頭の家で発生した「机が浮き上がる」現象のトリックを解説しています。
サリー・オーウェンという若い女子学生がその講義の内容に興味を抱き、それが縁となってバックリーと恋仲になっていきます。
そして彼女は、バックリーとマシスンと共に、超常現象を調査するチームに入ることとなるのでした。
その頃、巷ではかつて「伝説の超能力者」と言われたサイモン・シルバーなる人物が、30年ぶりに復活を遂げるということで大きな話題となっていました。
バックリーは自分達の生業から言っても当然のごとくサイモン・シルバーを調査すべきと考え、上司たるマシスンに掛け合います。
しかしマシスンは、40年近く前にサイモン・シルバーと公開討論を行った際に彼のトリックを見破ることができずに撤退を余儀なくされた過去があり、「彼は危険だから近づくな」と全く取り合おうとしません。
しかし、サイモン・シルバーの弟子と称するレオナルド・パラディーノの超能力のタネも暴いたバックリーの、サイモン・シルバーの調査を行いたいという欲求は募るばかり。
ついに彼は、単独でサイモン・シルバーの調査を行うべく、サイモン・シルバーが公演を行っている劇場へと向かうのでした。
ところがそれ以降、バックリーの周囲では不可解な異常現象が次々と発生するようになり……。

映画「レッド・ライト」の大部分は、超常現象がどのようなトリックを駆使して展開されているのか、その種明かしを売りとしている感のある作品ですね。
机が浮き上がるトリックの解説とか、頻繁に変わる通信波を使用して観客のことを教える人間の存在とか、アレだけ超常現象の種明かしに終始している映画というのも珍しいのではないかと。
ただ、終盤近くまで続く科学考証至上主義的なストーリー進行自体が、ラストの大どんでん返しの伏線だったりもするのですが。
あの大どんでん返しは、確かに映画の予告編でもあったように「視点を変えてみる」にも合致しますし、ある意味作中の怪奇現象の謎を解くものでもあります。
あえてネタばらしをすると、サイモン・シルバーに関わって以降にトム・バックリーの周囲で発生していた超常現象は、全てトム・バックリー自身の超能力で引き起こしていたものだった、ということになるらしいのですが。
その結末を知った上でよくよく作中の描写を見てみると、トム・バックリーは最初から自分のことを「超能力者だ」と告白しているシーンもあって、「ああ、アレって社交辞令ではなく本当のことを言っていたのか」と納得することしきりではありました。
ただ、一応は「ミステリー」「超常現象への懐疑」を前面に打ち出しているはずの物語で、それを完全に否定する形での超能力を突然持ってくるという展開は正直どうなのでしょうか?
ミステリー作品の基本ルールと言われる「ノックスの十戒」にある「探偵方法に超自然能力を用いてはならない」「探偵自身が犯人であってはならない」にも、真っ向から反した結末となっていますし。
この辺りの構成は、やたらとミステリーな謎を予告編その他で協調しまくっていた映画「シャッターアイランド」と似たり寄ったりな雰囲気があって、どうにも微妙なイメージが否めなかったですね。

それと、アレのせいでサイモン・シルバー絡みの謎のひとつが、結果的に作中で明確に解明されることなく曖昧な形で残ったままになっていますね。
「サイモン・シルバーを非難する者は突然死をする」という謎は、結局作中ではどういう形での決着となったのでしょうか?
特に、1975年にサイモン・シルバーが引退するきっかけとなった、サイモン・シルバーに懐疑的な記者がショーの最中に死亡したという事件は、結局真相が如何なるものだったのかは何も分からずじまいです。
一応作中では、サイモン・シルバーの部下の男が、トイレで一緒に居合わせたトム・バックリーに襲い掛かり、半殺しにするという行為をやらかしているので、サイモン・シルバー
の一派が手を下していたという解釈は成り立たなくもないのですが、それにしても所詮は「疑惑」止まりでしかないのですし。
まさか、30年前の1975年の事件についてもトム・バックリーが関与していた、などというオチはいくら何でもないでしょう。
トム・バックリーは学生と恋仲になれる程度には「若い」という設定のようなのですし、マーガレット・マシスンと違ってサイモン・シルバーとは過去にこれといった面識もなかったようでしたからねぇ。
あそこまで科学にこだわるのであれば、せめてあの事件の真相についても「サイモン・シルバー関係者辺りの過去の回想」的な形で明確な答えを出して欲しかったところではあります。

基本的に超常現象に対する科学的なアプローチが延々と続く作品なので、全体的に派手な描写や手に汗握る展開といったものがなく、その点では万人向けの作品であるとは言い難いですね。
また、ミステリーの観点から言っても、ラストの展開は見る人によってかなり賛否が分かれそうな内容ですし。
超常現象懐疑論が好きな方にはオススメな作品と言えるかもしれませんが。
アメリカでも興行収益は製作費を下回ったほどに低調だったようですし、日本でも大ヒットは難しいかもしれませんね。

映画「ダイ・ハード/ラスト・デイ」感想

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映画「ダイ・ハード/ラスト・デイ」観に行ってきました。
大事件に巻き込まれる不運でタフな刑事ジョン・マクレーンをブルース・ウィリスが演じる、言わずと知れた超大ヒットシリーズ第5弾。
2013年に入って以降に観賞したブルース・ウィリス出演映画は、「LOOPER/ルーパー」「ムーンライズ・キングダム」に続きこれで3作目。
6月には、同じくブルース・ウィリスが出演する「G.I.ジョー バック2リベンジ」も日本公開される予定とのことですし、今年はブルース・ウィリス映画の当たり年ですね(苦笑)。
もちろん、一番の大本命は、アクション映画として不動の地位を確立している今作であるわけですが。
今作は2013年2月14日の木曜日に劇場公開の運びとなっているわけですが、これってどう考えても、TOHOシネマズ系列の映画館で毎月14日に1000円料金となる「TOHOシネマズディ」を意識していた以外の何物でもなかったでしょうね。
映画の劇場公開というのは、興行収益の観点から言っても金曜日が土曜日から始めるのが一般的かつ理に適っているのですし。
また今作は、作中でとにかく人が死にまくることもあってか、PG-12指定されています。

今作の舞台は、過去4作の主要舞台であるアメリカを離れ、シリーズ初の海外となるロシア。
物語は、ジョン・マクレーンの息子で父親と10年以上にわたって喧嘩別れしているジャック・マクレーンが、ロシアのバー?で人を撃ち、そのまま収監されてしまうところから始まります。
息子が収監されたとの情報を聞きつけたジョン・マクレーンは、ジャックの姉で自分の娘でもあるルーシー・マクレーンに見送られ、息子の身柄を引き取るべく、ロシアへと高飛びすることになります。
一方、ジャックの方は尋問する警官に取引を持ちかけ、現在ロシア中で話題となっているユーリ・コマノフの裁判で、彼の指示で自分が犯罪を犯したと証言するから同じ裁判に出廷させてほしいと提案しています。
そして、2人の裁判の場に、ジョン・マクレーンもまた居合わせることとなるのでした。
ところが、裁判所の外の路地に停車した3台の車が突如爆破。
爆発は裁判所の壁を吹き飛ばし、裁判の場およびそこに居合わせていた面々をも巻き込む大惨事を現出することに。
そこへ、ガスマスクを着用した謎の武装集団が、爆発で吹き飛ばされた壁跡から乱入し、中にいる人達を殺傷し始めるのでした。
しかし、裁判に出廷していたジャックは、ユーリ・コマノフを連れていち早く裁判所を離脱。して車を奪い、どこかへ逃走しようと図ります。
そして、ユーリ・コマノフの身柄確保を目的としていたらしい武装集団も、装甲車を使いただちに彼らの追跡を開始。
一方、謎の武装集団からの追撃から逃げるジャックは、自分を引き取りに来た父親ジョン・マクレーンとついに鉢合わせることとなります。
ジャックは父親の主張に全く聞く耳を持つことなく、自分の車に乗せることも拒否してその場から離脱。
そのジャックの後を追う装甲車を見て、ジョンはさらに近くに止めてあった車を奪い、2組の後を追い始めるのでした。
かくして、ジャックと謎の武装集団とジョン・マクレーンによる3つ巴のカーチェイスが繰り広げられることとなるのですが……。

映画「ダイ・ハード/ラスト・デイ」は、さすが人気アクション映画シリーズなだけのことはあり、アクションやカーチェイスがとにかく派手ですね。
序盤からロシアの大通りを舞台にド派手なカーチェイスが繰り広げられますし、終盤に至るまでアクションシーンが展開されるので、退屈だけはしないで済みます。
ただ、今作はこれまでのシリーズと比較してもかなり短い98分の上映時間しかない(1~4作目までの上映時間は全て120分以上)ため、ボリュームという点では今ひとつな感が正直否めなかったですね。
これまでのシリーズと比較しても、アクションシーンやカーチェイスなどに比重が置かれ過ぎていて、悪役達との駆け引きなどの描写が薄くかつ浅かった感がありましたし。
長すぎて問題ということはないでしょうし、これまでと同様に上映時間120分以上できっちり作って欲しかったところだったのですけどね。

一方で、 悪役絡みの設定や描写は、明らかにシリーズ1作目を意識しているような趣がありました。
たとえば、今作の真の黒幕がジャックに建物の屋上から投げ落とされるシーンは、「ダイ・ハード」1作目のラスボスであるハンス・グルーバーの最期とカブる「ゆっくりスローモーションに落下していくシーン」が繰り広げられていたりします。
また、その黒幕とマクレーン親子が、今作のラストバトルの舞台であるチェルノブイリで「再会」した際、黒幕はハンス・グルーバーと同じく「何も知らない被害者」の演技を披露して自分の窮地を脱しようと試みています。
ただ今作では、1作目のハンス・グルーバーとは異なり、マクレーン親子にあっさり正体を喝破されてしまったため、黒幕側もすぐさま反撃に移らざるをえなかったのですが(苦笑)。
まあ、ジョン・マクレーンには1作目でハンス・グルーバーにまんまと騙された経緯がありますし、ジャックもCIAの工作員としての経験を積んでいるわけですから、その両者を騙すのは至難の業ではあったのかもしれないのですけど。
そして、黒幕を殺された後に黒幕の右腕的な存在である悪役が復讐に走り、マクレーン達を殺そうとする展開も、1作目におけるハンス・グルーバーの腹心カールと全く同じですね。
1作目のカールは、過去のトラウマから発砲できなくなっていた警官によって射殺されるのですが、今作のそれは「弾薬が尽きたヘリで体当たり特攻を敢行する」という形でマクレーン親子に復讐しようとしています(当然、失敗するのですが)。
私が気づいただけでもこれだけあるのですから、ひょっとするとまだ他にも1作目との共通項があるかもしれないですね。
何故製作者達が、これほどまでに1作目を意識していた構成にしていたのかは不明なのですが。

あと、今作の邦題で付けられた「ラスト・デイ」なのですが、結果的に見れば「ラスト・デイ」を髣髴とさせる描写は作中には全くなかったですね。
一応意味としては、チェルノブイリの戦い直前にジョン・マクレーンが息子のジャックに対し、「お前と会えて良い一日だった」と述懐しているシーンが由来ではあるのでしょうけど、ラストでマクレーン親子は五体満足で普通にアメリカに帰ってきていましたし(苦笑)。
あのラストの終わり方を見ると、まだまだ続編はあるとみて良いのでしょうかねぇ。
今後続編が制作されるのであれば、上映時間をまた120分以上に戻して欲しいところではあるのですけど。

「ダイ・ハード」シリーズのファン、およびアクション映画愛好家であれば、まず観ておいて損はない作品です。

映画「ゴーストライダー2」感想

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映画「ゴーストライダー2」観に行ってきました。
マーベル・コミックの同名マンガを原作とする、ニコラス・ケイジ主演のホラー・アクション映画「ゴーストライダー」の続編作品となります。
ただ、続編とは言っても、前作を観賞せずとも楽しめるストーリー構成にはなっていたりします。
……あまり良くない意味において、ではあるのですが。

前作から8年後。
東ヨーロッパの断崖絶壁のような場所にある修道院に、バイクに乗ったひとりの男がやってきました。
モローと名乗るその黒人風の男は、その修道院が匿っているダニーという名の少年を、ただちに「聖域」と言われる場所へ移送するよう要求します。
その子は悪魔が狙っており、ここは今すぐにも悪魔の襲撃を受ける危険がある、と。
修道院側は圧倒的に有利な地の利と近代設備があるから大丈夫だろうと主張するのですが、その直後、修道院は本当に襲撃を受けてしまいます。
安全だったはずの修道院はあっさり壊滅してしまい、モローはダニーを死守すべく襲撃者と単独で一戦交える羽目に。
一方、襲撃者がターゲットしていたダニーは、母親のナディアと共に修道院を脱出。
襲撃者達はただちにダニーの追撃を開始しますが、その襲撃者をさらに追ってきたモローの必死の妨害により足止めをされてしまい、ダニーを逃がすこととなってしまうのでした。

その頃、前作から引き続き主人公のジョニー・グレイズは、アメリカから遠く離れ、東ヨーロッパの一角に身を潜めるような生活を送っていました。
そこへ、修道院で襲撃者達を妨害した際に断崖絶壁に落ちていったモローがやってきます。
警戒感を露わにするジョニーでしたが、モローはジョニーが「ゴーストライダー」であること、そして彼がゴーストライダーの暴走に悩まされていることを喝破した上で、ジョニーに対しダニーを守るように依頼を持ちかけるのでした。
そして、依頼が達成されれば、ジョニーにかけられた「ゴーストライダーの呪い」から解放してやる、とも。
一方、修道院から逃走していたダニーとナディアは、修道院を襲撃したのと同じキャリガン一派に見つかってしまい、今まさに囚われの身になろうとしていました。
そんな中、悩んだ末にジョニーはモローの依頼を受けることを決心し、ダニーを守るべくゴーストライダーに変身してダニーの元へと急行するのですが……。

映画「ゴーストライダー2」は当然のことながら前作「ゴーストライダー」の続編であるはずなのですが、前作とのストーリー的な整合性がなく、また設定も前作とは大きく異なっている部分が多々あります。
今作のために私は前作の「ゴーストライダー」も事前に観賞していたのですが、それと比較してみると「こんな設定あったっけ?」と首を傾げたくなるシーンがしばしば展開されていたりするんですよね。
序盤で早くも判明するその手の設定の齟齬の第一手は、前作でジョニー・グレイズがゴーストライダーの契約を悪魔メフィストと結んだ際の回想シーンです。
今作の回想シーンでは、悪魔メフィストとの契約の際、ジョニーが自分から契約書に血をバラまき、契約が成立した様が描かれています。
しかし前作におけるジョニーは、巻き物状になっていた契約書を広げる際、誤って自分の指を切って契約書に血をつけてしまったに過ぎないのです。
また、ジョニーが父親を助けたいがためにゴーストライダーの契約を交わしたのは前作と同じなのですが、作中では真の動機として「それは父親のためではなく、父親と一緒にいることを願った自分のためだった」と告白するシーンがあります。
しかし前作におけるジョニーは、元々父親とは仲が良くなかった上、病気のことを知る前には恋人と駆け落ちをする約束まで交わしており、父親の回復後には父親と決別する気満々だったのではないかというフシが多大なまでに伺えるのですが……。
回想シーンと前作における実際の契約の描写がまるで違っていて、「何故こんな変なことをやっているんだ?」と疑問に思わずにはいられませんでした。
その理由はどうやら、前作と今作で悪魔メフィストを演じている俳優さんが異なっていることにあるようなのですが。
前作で悪魔メフィストを演じたのはピーター・フォンダという俳優だったのですが、今作でその役を担っているのはキーラン・ハインズという全くの別人だったりします。
当然、その外見も姿形も全くの別物で、この2人が同一人物と断じるのはほぼ不可能なレベルなんですよね。
というか実際、前作と今作を立て続けに観賞した私自身、物語終盤までこの2人が同一人物とは全く考えておらず、終盤付近におけるジョニーとメフィストの会話でやっとその事実を把握したくらいでしたし。
前作と今作で同じ登場人物を出すのであれば、俳優もまた前作と同じ人にして欲しかったところだったのですけどね。

また、ジョニー・グレイズがゴーストライダーから解放されたがっているという作中の設定にも違和感があります。
そもそもジョニーは、前作のラストシーンで「契約は達成されたからお前の呪いを解いてやろう、君は自由だ」と申し出たメフィストに対し、「この呪いは俺が背負っていく、そしてこのゴーストライダーの力でお前を倒す」と啖呵を切って拒絶していたはずではありませんか。
このラストシーンから考えれば、今作でジョニーが「ゴーストライダーの力」を疎んじ、その呪いから解放されたいと願うこと自体がおかしな話であると言わざるをえないのです。
ジョニーの目的だった「ゴーストライダーの力を使ってのメフィストの打倒」は全く達成されていなかったのですし。
にもかかわらず、その目的も達成されないままに「ゴーストライダーの呪い」からの解放を切望し、それが達成されると喜びまくっていたジョニーの描写は、何とも支離滅裂なものがあるとしか評しようがありません。
メフィストを倒した後に「ゴーストライダーの呪い」からの解放を願う、というのであればまだ理解できなくもなかったのですが。
まあ最大限好意的に解釈すると、前作から8年もの歳月が経過したことで、ジョニーの精神も摩耗してしまっており、目的を見失い精神的な挫折状態にでもあったのかもしれないのですが、この期に及んでそんなことを考えるくらいならば、前作のラストでメフィストの申し出を素直に受けていれば良かったじゃないか、と当然のごとく私はツッコミを入れずにいられなかったですね。

さらに、ゴーストライダーの特性自体も大きな変更点が発生していたりします。
ゴーストライダー最大の武器である「贖罪の目(ペナンス・ステア)」の描写がなくなり、使用武器はほぼ「地獄の炎(ヘルファイア)」オンリーとなっています。
その代わり、巨大なクレーン車やトラックなどを炎で包み込んで敵を攻撃する描写が追加されてはいましたが。
そして何よりも大きな変化は、物語終盤でゴーストライダーが陽の光が出ている中でも堂々と活動できていたことにあります。
前作のゴーストライダーは、太陽の光に当たるとゴーストライダーの変身が解除されジョニー・グレイズに戻ってしまうという問題があり、彼の活動時間は夜がメインだったのですが、今作の終盤では太陽が出ている朝の時間帯に敵とカーチェイスを繰り広げていたりします。
一体いつの間に陽の光の弱点がなくなったんだ、と疑問に思わずにはいられなかったところですね。
こちらの場合は、一度「ゴーストライダーの呪い」から解放されたジョニーが再度ゴーストライダー化を望み、悪魔の力を覚醒させつつあったダニーによってそれが実現するという描写があったので、その際に陽の光の弱点も解消されていたのかもしれませんが。
この辺りも、作中では説明がまるでないので非常に困惑させられたものでした。
今作の映画製作者達は、今作を製作する際に映画版の前作の流れをきちんと踏まえていたのだろうか、という疑問符すらつけざるをえないですね。

確かに今作は、前作を観賞していなくても充分に楽しむことができる構成にはなっていると言えるでしょう。
何しろ、前作との繋がりや整合性がまるでないのですから、むしろ前作を観賞する方が混乱させられることにもなりかねないわけで(苦笑)。
作品単独としてはともかく、作品毎に相互の時系列や関連性のあるシリーズ物としては完全に失格な出来なのではないですかね、今作のシナリオ構成は。

映画「ムーンライズ・キングダム」感想

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映画「ムーンライズ・キングダム」観に行ってきました。
1960年代、アメリカ北東部に浮かぶ小さな島を舞台に、一組の少年少女の行動とそれに振り回される大人達の姿を描いたコメディドラマ。
「ダイ・ハード」シリーズのブルース・ウィリス、「ゴーストバスターズ」シリーズのビル・マーレイなどといった豪華俳優が出演しています。
ストーリー自体はほのぼのとした展開ではあるのですが、作中では犬が矢に射抜かれ殺されている光景や、微妙なエロネタがあったりするため、PG-12指定されています。

アメリカ北東部のニューイングランド沖に浮かぶ、全長26㎞程度の小さな島・ニューペンザンス。
その島の西部に位置するサマーズエンドという地区に建てられている赤い家に、スージー・ビショップという12歳の少女が住んでいました。
彼女は、本を読んだり双眼鏡で自宅の周囲を観察したりすることを趣味としていましたが、やたらと厳格な父親と口うるさい母親、そして一日中管弦楽の音楽を聴き続いている3人の弟の存在に日々閉口していました。
そんな彼女の生活は、同じ島にあるカーキ・スカウトのキャンプ場で、ひとりの隊員が「スカウトを抜ける」との書き置きを残して脱走したことから一変することになります。
脱走から遡ること1年前、彼ら2人は「ノアの方舟」の演劇が行われている楽屋で出会ったのをきっかけに意気投合し、1年間の文通を通してついに2人で駆け落ちを決行するに至ったのでした。
サムはカーキ・スカウトのキャンプ場からサマーズエンドまでひとりで歩き続け、スージーとの邂逅しそのまま2人で道なき道を進み始めるのでした。
事情を知ったカーキ・スカウト、およびビショップ家の面々は、島唯一の警官であるシャープ警部に事の次第を伝えると共に、2人を探し出すべく行動を起こします。
島を上げて2人を捜索する捜索隊と、人目を避けるように島を渡り歩く少年少女のサバイバルな探検がここに始まることとなるのですが……。

映画「ムーンライズ・キングダム」のタイトル名の由来は、駆け落ちした2人が逃避行の末にたどり着いた、ニューペンザンス島の中央北部にある入り江の浜辺にあります。
そこは元々「3.25海里 潮流口」などという、およそ地名とも言い難い散文的な名前で呼ばれていた場所だったのですが、その名前が気に入らなかった2人が代わりに名付けたのが映画のタイトルだったというわけです。
その場所は一応、2人が初めてダンスを踊りキスを交わし、一夜を共に過ごした場所でもあったので、思い出の地ということで映画のタイトルにもなったのではないかと。
ただその割には、作中における扱いがどうにも小さかった感は否めなかったところなのですが。
作中におけるあの場所の扱いがそこまで重要なものだったことが理解できたのは、サムがスケッチであの場所を描いていたラストシーンからでしたし。
あの場所で大人達に見つかり連行された後もさらに物語は続き、第二の逃亡先となった隣の島では疑似結婚式まで上げていたので、浜辺のエピソードよりもそちらの方が重要度は高いのではないかとすら考えていたくらいでしたからねぇ。
12歳であそこまでの行動力があるというのは、ある意味羨望に値することではあるのかもしれませんが、作中の子供達は良くも悪くも「純真」なのだなぁ、とついつい考えてしまったものでした。

あと、今作は1960年代が舞台だからなのか、年端もいかない子供に対してロボトミー手術だの電気ショック療法だのを行うなどといった行為が、作中でも誰に憚ることなく登場人物達によって堂々と語られていたりします。
当時のアメリカって、現代から考えるととんでもない非常識がまかり通っていた時代なのですね。
同じような精神科関係の用語が語られている「シャッターアイランド」「エンジェルウォーズ」なども、今作と比較的近い時代が舞台となっていますし。
複数の作品で同じように語られる傾向にある1900年代半ばにおける精神科系の外科手術療法というのは、現代のアメリカにとってもやはりそれなりに印象に残るダーティな歴史だったりするのでしょうか?
今となっては倫理どころか科学的にも医学的にも完全に間違っているシロモノでしかないのですから、その手の外科手術療法が映画の中で肯定的に語られるわけもないのですが、当時としては一体どんな形で受け入れられていたのでしょうかね、これって。

今作ではブルース・ウィリスとビル・マーレイが出演していたということが観賞を決めた最大の要素となったのですが、個人的にはブルース・ウィリスよりもビル・マーレイの方が期待値は高かったんですよね。
アクションスターとしてではないブルース・ウィリスって、「サロゲート」や「LOOPER/ルーパー」のごとくイマイチな感が否めないところですし。
しかしいざ蓋を開けてみると、ビル・マーレイはイマイチ見せ場がなく、むしろブルース・ウィリスの方が「カッコイイ大人」を演じていましたね。
正直、全く期待していなかっただけに意外な感がありましたが。
それと、ブルース・ウィリス演じるシャープ警部が島を走り回っていた際に乗っていたパトカーが、かつての「ゴーストバスターズ」シリーズで使用されていたクルマと同じ形であるように見えたのは、オマージュを意図したものなのか単なる偶然なのか、ちょっと考えてしまったものでしたね(^^;;)。
同シリーズの主人公を演じたビル・マーレイが出演していることを考えても、まるきり偶然であるようにも見えなかったですし。

豪華俳優が出演してはいるものの、演出や構成などはかなり安っぽく作られている感がどうにも拭えない作品ですね。
出演している俳優さんのファンの獲得を意図して作られた映画である、ということになるのでしょうか。

映画「アウトロー」感想

ファイル 887-1.jpg

映画「アウトロー」観に行ってきました。
イギリスの作家リー・チャイルド原作のハードボイルド小説「ジャック・リーチャー」シリーズを映画化した、トム・クルーズ主演のハードボイルド・アクション大作。
英語の原題は、原作小説と同じ「JACK REACHER(ジャック・リーチャー)」だったのですが、何故これが「アウトロー」なんて邦題に変更されたのでしょうか?
そのままでも良いじゃないか、と思わなくもなかったのですが……。

物語の冒頭は、アメリカ・ペンシルバニア州のピッツバーグ近郊にある公園と川を挟んだ対岸にあるとある駐車場に車を停め、銃を構えて公園の通行人達に狙いを定めるひとりのスナイパーの存在が描かれています。
スナイパーは公園の通行人に向けて総計6発の銃弾を発射し、5人の生命を奪ってその場から車で逃走。
ただちに現場に駆けつけ、狙撃地点となった駐車場の実況検分を開始した地元の警察は、残された証拠品や指紋、監視カメラの映像などから、元アメリカ陸軍のスナイパーであるジェームズ・バーの存在が浮上。
家宅捜索した彼の家でも、監視カメラに映っていた車や、事件で使われていた銃弾など、犯行を裏付ける証拠が次々と出てきたため、警察は一連の事件の主犯をジェームズ・バーと断定し、彼の取り調べを始めます。
しかし、事情聴取を受けているジェームズ・バーは黙秘を続けた挙句、メモに「ジャック・リーチャーを呼べ」などという謎めいた文字を書き綴ります。
その直後、ジェームズ・バーは、収監されていた刑務所で他の囚人達から暴行を受け意識不明&記憶喪失状態に。
一方、警察はメモに書かれていたジャック・リーチャーという名の人物について調べ始めるのですが、経歴は判明したものの、現在も含めたここ2年における足取りがまるで掴めない状態が続いていました。
ジェームズ・バーが昏睡状態となり、捜査が止まってしまった警察が悩んでいる中、何とジャック・リーチャーを名乗る人物がジェームズ・バーに面会しに警察へやってきたというではありませんか。
すぐさま警察はジャック・リーチャーにジェームズ・バーのことを聞き出そうとするのですが、それを制止した人物がいました。
それは、警察のお偉方のひとりであるアレックス・ロディンの娘でジェームズ・バーの弁護人でもあるヘレン・ロディン。
彼女は、自分の許可なくジャック・リーチャーとジェームズ・バーを立ち合わせた父親と警察の非を問い詰めて退散させると、ジャック・リーチャーに対し、自分が担当することになったジェームズ・バーの弁護の手助けをしてほしいと持ちかけます。
しかし、当のジャック・リーチャーは、別にジェームズ・バーの無罪を信じているわけではなかったのです。
それどころか、連続狙撃事件の真犯人がジェームズ・バーであることを疑っておらず、自分の手でジェームズ・バーを殺そうとしていたとすら告白する始末。
ただ、ヘレン・ロディンを介してジェームズ・バーのことを調べることについてはジャック・リーチャーにも異存はなく、かくして彼はヘレン・ロディンの下でジェームズ・バーと連続狙撃事件について調べていくことになります。
しかし、そのことを快く思わない勢力が蠢き始めて……。

映画「アウトロー」では、無差別狙撃事件の犯人と目された人物の嫌疑を晴らすべく、主人公ジャック・リーチャーとヘレン・ロディンの2人が真相を暴くべく奔走するという構図がストーリーの基本ベースとなっています。
しかしそのためなのか、物語の序盤から中盤頃にかけては、事件の現場検証と聞き込みをひたすら行っていく地味な作業とミステリー的な推理描写がメインなんですよね。
トム・クルーズ主演作品にしては、なかなかアクションシーンが出てこない映画と言って良く、かろうじて繰り広げられるそれも、これまでの作品と比較すると何とも地味過ぎる感がどうにも否めなかったですね。
敵の数自体が少ない上に、明らかに無名かつ雑魚な敵の後方からの奇襲であっさりダウンさせられたり、カーチェイスで車がエンストを起こして再起動に必死になっていたりと、ある意味現実的ではあるがカッコ悪いシーンが描写されていたりもしましたし。
原作からしてそうなのかもしれないのですが、これまでのアクション映画で開陳されていたようなトム・クルーズの「圧倒的な強さ」を今作でも期待していただけに、個人的には少々肩透かしを食らわざるをえなかったですね。
まあこれについては、比較対象がどうして直近の作品である「ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル」にならざるをえなかったりするので、仕方ない一面もあるのですが。

一方で、作中におけるジャック・リーチャーの推理は、裏稼業に携わる人間ならではの発想ではあったにせよ、一見奇想天外ながらもミステリー的な王道に沿ったものとなっています。
これを見ると、今作はアクション要素ではなく「トム・クルーズがミステリーに挑戦!」的なキャッチフレーズで宣伝広報を繰り広げていた方が、映画の実態を的確に表現できていたのではないかと思えてならなかったですね。
トム・クルーズ的にも、今回の映画は一種の新境地開拓的なものがあったのでしょうし。
原作小説たる「ジャック・リーチャー」シリーズは現時点で17巻ほど刊行されているとのことで、それから考えても今作は、今後も続編があることを前提として作られた映画であることは一目瞭然でしょう。
しかしその1作目が、それもトム・クルーズ主演でありながらここまで地味というのは、先行き不安な要素を窺わせるに充分なものがあります。
今後も続編を製作するのであれば、もう少し派手なアクションシーンを挿入していかないと、映画の出来に影響するだけでなく、トム・クルーズの持ち味的なものも生かせないのではないかと思えてならないのですが、どんなものなのでしょうか?

トム・クルーズのアクションや活躍を期待してみると、期待外れに終わること間違いなしの作品ですね。
ミステリー的な推理物や「ジャック・リーチャー」シリーズとして観る分にはまた違った評価もあるかもしれませんが、全体的な評価としては「過大な期待は禁物」といったところになるでしょうか。

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