映画「幸せの教室」感想
映画「幸せの教室」観に行ってきました。
トム・ハンクスが監督・脚本・主演を務め、ジュリア・ロバーツと共演している、アメリカのコメディドラマ作品。
トム・ハンクスが演じる今作の主人公ラリー・クラウンは、かつて軍艦でコックの仕事をしていた元軍人で離婚歴があり、コックを辞めてからはUマートというスーパーマーケットで働く40代半ば~50代前半?頃の中年男性。
そんな彼が、ある日突然上層部から呼び出され、会社のリストラの一環としてクビを言い渡されてしまうところから物語は始まります。
ラリーがクビにされるに至った決定的な理由は、彼の学歴が大卒ではなく、出世が見込めないからというもの。
彼は過去に何度も会社から表彰されている優秀な社員だったにもかかわらずです。
しかし事情はどうであれ、Uマートを叩き出され失業してしまったラリーは、当然再就職のためにあちこちの会社や事業所などを渡り歩くのですが、この不況時に年齢・学歴の事情もあり、再就職は難航します。
さらに収入がなくなったために住宅ローンの支払いも滞ってしまい、住宅差し押さえの危機にまで直面してしまうありさま。
そこで、まずは自宅にあるいらない物を売り払ってしまうべく、庭先に物を並べ始めるのですが、ご近所でジャンク屋を営んでいる黒人のラマーに「俺の商売の邪魔をするな!」と勘違いされ怒鳴りこまれてしまいます。
ラマーに対してラリーが事情を説明すると、ラマーは2年制のイーストバレー短期大学(コミュニティ・カレッジ)の冊子を見せ、そこで学歴を身につけることをラリーに勧めます。
リストラの直接的な原因が学歴であったこともあり、ラリーは就職活動を継続しつつ、イーストバレー短期大学に足を運ぶことを決意するのでした。
最終学歴が大卒ではないラリーにとって、大学は全く未知の場所。
そこでラリーは、大学の入り口近くにいた教職の人?に、どんなカリキュラムを受ければ良いか訪ねるのですが、そこで提示されたのは「スピーチ217」というもの。
ラリーはその「スピーチ217」と経済学をメインに受講することを決め、まずは「スピーチ217」の講義が行われている教室を探し始めるのでした。
その「スピーチ217」の講義を行っているのは、ニートな夫と不仲な関係にあり、自身の仕事にも全くやる気が見出せないでいる女性メルセデス・テイノー。
彼女は、自分の講義を受講する人間が10人に達していないと「採算が取れないから」という理由で講義を平然とキャンセルしてしまう女性だったりします。
アレって学則とかではなくて、彼女がサボりの口実として勝手に決めたマイルールの類でしかないようにしか見えないのが何とも言えないところですね(苦笑)。
その日も、自分が受け持つ教室には9人しかおらず、これ幸いにと講義中止を宣言しその場から去ろうとするメルセデス。
しかしそこに、「スピーチ217」が行われる教室を探していたラリーが入ってきて、メルセデスはやむなく講義を遂行せざるをえなくなってしまうのでした。
ラリーが年齢も立場も異なる学友達と新しい生活を営んでいく中、メルセデスの生活環境もその影響を受けることとなるのですが……。
映画「幸せの教室」を観賞していてまず驚いたのは、アメリカにも学歴差別が存在するという事実ですね。
科挙を行ってきた歴史を持つ中国や韓国の学歴差別が熾烈を極めるというエピソードは私もしばしば耳にしていましたが、アメリカもそうであるという話はほとんど聞かないものでしたし。
学歴差別自体は日本にもありますが、日本ではそれに対する批判が行われる際に「アメリカの自由主義的な教育制度」がしばしば引き合いに出されていたことが少なからずあったため、てっきりアメリカには学歴差別なんてないものとばかり思っていたのですが。
気になって調べてみたら、何とアメリカの方こそが日本以上の学歴至上主義的な社会であるのだそうで、何故こんな国の教育制度が日本の学歴差別批判の題材として使われていたのか、はなはだ理解に苦しむものがあります。
そうでなくてもアメリカには、映画「ヘルプ ~心がつなぐストーリー~」の時代に比べれば幾分マシになったとはいえ、今なお人種差別の類が跳梁跋扈している現実もあるというのに。
ただ、よくよく考えてみれば、日本の教育水準を低下させた元凶と言われている「ゆとり教育」なども元々はアメリカからの直輸入だったわけなのですから、アメリカの教育システムに重大な欠陥があること自体は何ら不思議な話ではなかったのですが。
今ではアメリカの方こそが、かつての日本の「詰め込み教育」を積極的に導入していたりもするのだそうで、こと教育分野に関してアメリカの制度を礼賛するのは危険極まりないことなのではないのかと、今作を観ていて改めて考えざるをえなかったですね。
作中でメルセデスがサボりの口実として使っていた「受講者が10人に達しない場合は講義中止」のルールも、「それだと採算が取れないから」などという、受講者を置き去りにした理由付けがなされていましたし。
教育現場に採算効率的な市場原理を持ち込んで良いのかとか、そもそも学費は年単位の一括払いではないのかとか、色々とツッコミどころが多いのですが。
アメリカの学費は日本に比べて安いなどとよく言われますが、なるほど、そのカラクリと代償はこんなところにあったのかと、その点でも納得してしまったものでした。
安ければ安いほど良い、というあり方も考えものではありますね、特に教育については。
また作中では、主人公ラリー・クラウンが「自動車よりも燃費が良いから」と購入したスクーターが大活躍しています。
通学はもちろんのこと、スクーター絡みの縁で交友関係も出来ていましたし、バス亭?でひとり佇んでいたメルセデスをラリーが家まで送っていった際もスクーターが使われていました。
日本だとスクーター(50㏄以下の原動機付自転車こと原付バイク)の2人乗りは道交法で原則禁止とされているのですが、アメリカだとOKなのですね。
作中で交通取締を行っている警官達の目の前を2人乗りスクーターが堂々と通っていても、何ら咎められることすらありませんでしたし。
また、スクーターがまるで暴走族のごとく集団で、しかも真っ昼間に堂々と走行している光景も、日本ではまず見られないものですね。
スクーターに限らず、自転車やオートバイも含めた二輪車全体が、マスコミによる「走行者のマナーがなっていない」「事故が増えている」的なバッシングを次々に浴びせられまくって冷遇の一途を辿っていますし。
作中でも描写されていたように燃費は良いのですし小回りも効くのですから、もう少し普及しても良さそうな気はするのですけどね。
これら教育システムの実態やスクーター絡みの件などは、日本ではまず見られないものばかりで、その点では良くも悪くも「現在のアメリカ社会の実態」や「他国とのカルチャーショック」を表現しているものではありますね、今作は。
製作者であるトム・ハンクスも、そんなものを描写するつもりは全くなかったのでしょうけど。
ただ一方で、ラリーが作中で置かれていた境遇や「教育を受ける中高年者」という図式については、逆に日本でも充分にありえるストーリーではあります。
「リストラでクビ」なんて話は日本では10年以上も昔から盛んに言われていてもはや珍しくもない風景ですし、ハローワークなどでは資格を得るための諸々の訓練などが紹介されていたりもするわけですからね。
大学入学なども、ことさら一流大学を選ぶのでなければ比較的簡単に入学することも出来るようになっていますし、短大や専門学校などであればさらに容易です。
失業の憂き目に遭ってラリーのような選択をした人も少なからずいたでしょうし、そこから再起できた人も決してゼロではないのではないかと。
失業をきっかけに新しい世界に踏み出し、新しい知識と友人に恵まれたラリーは、確かに充実した学習をすることができたと言えるのではないでしょうか。
……まあ、あの年齢で「人生の伴侶」まで再び得られた、というのはさすがに稀ではないかとは思うのですが(苦笑)。
アクションシーンなどは皆無で、そればかりか「悪役」的な登場人物も出てこないので、すくなくとも不快になることはない作品ですね。
恋愛描写が全体的に淡白な感がありますし、時間の経過具合がイマイチ分かりにくい部分もあるのですが、人間ドラマ作品として観る分には「可もなく不可もなく」といったところなのではないかと思います。