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カテゴリー「洋画感想」の検索結果は以下のとおりです。

映画「幸せの教室」感想

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映画「幸せの教室」観に行ってきました。
トム・ハンクスが監督・脚本・主演を務め、ジュリア・ロバーツと共演している、アメリカのコメディドラマ作品。

トム・ハンクスが演じる今作の主人公ラリー・クラウンは、かつて軍艦でコックの仕事をしていた元軍人で離婚歴があり、コックを辞めてからはUマートというスーパーマーケットで働く40代半ば~50代前半?頃の中年男性。
そんな彼が、ある日突然上層部から呼び出され、会社のリストラの一環としてクビを言い渡されてしまうところから物語は始まります。
ラリーがクビにされるに至った決定的な理由は、彼の学歴が大卒ではなく、出世が見込めないからというもの。
彼は過去に何度も会社から表彰されている優秀な社員だったにもかかわらずです。
しかし事情はどうであれ、Uマートを叩き出され失業してしまったラリーは、当然再就職のためにあちこちの会社や事業所などを渡り歩くのですが、この不況時に年齢・学歴の事情もあり、再就職は難航します。
さらに収入がなくなったために住宅ローンの支払いも滞ってしまい、住宅差し押さえの危機にまで直面してしまうありさま。
そこで、まずは自宅にあるいらない物を売り払ってしまうべく、庭先に物を並べ始めるのですが、ご近所でジャンク屋を営んでいる黒人のラマーに「俺の商売の邪魔をするな!」と勘違いされ怒鳴りこまれてしまいます。
ラマーに対してラリーが事情を説明すると、ラマーは2年制のイーストバレー短期大学(コミュニティ・カレッジ)の冊子を見せ、そこで学歴を身につけることをラリーに勧めます。
リストラの直接的な原因が学歴であったこともあり、ラリーは就職活動を継続しつつ、イーストバレー短期大学に足を運ぶことを決意するのでした。

最終学歴が大卒ではないラリーにとって、大学は全く未知の場所。
そこでラリーは、大学の入り口近くにいた教職の人?に、どんなカリキュラムを受ければ良いか訪ねるのですが、そこで提示されたのは「スピーチ217」というもの。
ラリーはその「スピーチ217」と経済学をメインに受講することを決め、まずは「スピーチ217」の講義が行われている教室を探し始めるのでした。
その「スピーチ217」の講義を行っているのは、ニートな夫と不仲な関係にあり、自身の仕事にも全くやる気が見出せないでいる女性メルセデス・テイノー。
彼女は、自分の講義を受講する人間が10人に達していないと「採算が取れないから」という理由で講義を平然とキャンセルしてしまう女性だったりします。
アレって学則とかではなくて、彼女がサボりの口実として勝手に決めたマイルールの類でしかないようにしか見えないのが何とも言えないところですね(苦笑)。
その日も、自分が受け持つ教室には9人しかおらず、これ幸いにと講義中止を宣言しその場から去ろうとするメルセデス。
しかしそこに、「スピーチ217」が行われる教室を探していたラリーが入ってきて、メルセデスはやむなく講義を遂行せざるをえなくなってしまうのでした。
ラリーが年齢も立場も異なる学友達と新しい生活を営んでいく中、メルセデスの生活環境もその影響を受けることとなるのですが……。

映画「幸せの教室」を観賞していてまず驚いたのは、アメリカにも学歴差別が存在するという事実ですね。
科挙を行ってきた歴史を持つ中国や韓国の学歴差別が熾烈を極めるというエピソードは私もしばしば耳にしていましたが、アメリカもそうであるという話はほとんど聞かないものでしたし。
学歴差別自体は日本にもありますが、日本ではそれに対する批判が行われる際に「アメリカの自由主義的な教育制度」がしばしば引き合いに出されていたことが少なからずあったため、てっきりアメリカには学歴差別なんてないものとばかり思っていたのですが。
気になって調べてみたら、何とアメリカの方こそが日本以上の学歴至上主義的な社会であるのだそうで、何故こんな国の教育制度が日本の学歴差別批判の題材として使われていたのか、はなはだ理解に苦しむものがあります。
そうでなくてもアメリカには、映画「ヘルプ ~心がつなぐストーリー~」の時代に比べれば幾分マシになったとはいえ、今なお人種差別の類が跳梁跋扈している現実もあるというのに。
ただ、よくよく考えてみれば、日本の教育水準を低下させた元凶と言われている「ゆとり教育」なども元々はアメリカからの直輸入だったわけなのですから、アメリカの教育システムに重大な欠陥があること自体は何ら不思議な話ではなかったのですが。
今ではアメリカの方こそが、かつての日本の「詰め込み教育」を積極的に導入していたりもするのだそうで、こと教育分野に関してアメリカの制度を礼賛するのは危険極まりないことなのではないのかと、今作を観ていて改めて考えざるをえなかったですね。
作中でメルセデスがサボりの口実として使っていた「受講者が10人に達しない場合は講義中止」のルールも、「それだと採算が取れないから」などという、受講者を置き去りにした理由付けがなされていましたし。
教育現場に採算効率的な市場原理を持ち込んで良いのかとか、そもそも学費は年単位の一括払いではないのかとか、色々とツッコミどころが多いのですが。
アメリカの学費は日本に比べて安いなどとよく言われますが、なるほど、そのカラクリと代償はこんなところにあったのかと、その点でも納得してしまったものでした。
安ければ安いほど良い、というあり方も考えものではありますね、特に教育については。

また作中では、主人公ラリー・クラウンが「自動車よりも燃費が良いから」と購入したスクーターが大活躍しています。
通学はもちろんのこと、スクーター絡みの縁で交友関係も出来ていましたし、バス亭?でひとり佇んでいたメルセデスをラリーが家まで送っていった際もスクーターが使われていました。
日本だとスクーター(50㏄以下の原動機付自転車こと原付バイク)の2人乗りは道交法で原則禁止とされているのですが、アメリカだとOKなのですね。
作中で交通取締を行っている警官達の目の前を2人乗りスクーターが堂々と通っていても、何ら咎められることすらありませんでしたし。
また、スクーターがまるで暴走族のごとく集団で、しかも真っ昼間に堂々と走行している光景も、日本ではまず見られないものですね。
スクーターに限らず、自転車やオートバイも含めた二輪車全体が、マスコミによる「走行者のマナーがなっていない」「事故が増えている」的なバッシングを次々に浴びせられまくって冷遇の一途を辿っていますし。
作中でも描写されていたように燃費は良いのですし小回りも効くのですから、もう少し普及しても良さそうな気はするのですけどね。

これら教育システムの実態やスクーター絡みの件などは、日本ではまず見られないものばかりで、その点では良くも悪くも「現在のアメリカ社会の実態」や「他国とのカルチャーショック」を表現しているものではありますね、今作は。
製作者であるトム・ハンクスも、そんなものを描写するつもりは全くなかったのでしょうけど。

ただ一方で、ラリーが作中で置かれていた境遇や「教育を受ける中高年者」という図式については、逆に日本でも充分にありえるストーリーではあります。
「リストラでクビ」なんて話は日本では10年以上も昔から盛んに言われていてもはや珍しくもない風景ですし、ハローワークなどでは資格を得るための諸々の訓練などが紹介されていたりもするわけですからね。
大学入学なども、ことさら一流大学を選ぶのでなければ比較的簡単に入学することも出来るようになっていますし、短大や専門学校などであればさらに容易です。
失業の憂き目に遭ってラリーのような選択をした人も少なからずいたでしょうし、そこから再起できた人も決してゼロではないのではないかと。
失業をきっかけに新しい世界に踏み出し、新しい知識と友人に恵まれたラリーは、確かに充実した学習をすることができたと言えるのではないでしょうか。
……まあ、あの年齢で「人生の伴侶」まで再び得られた、というのはさすがに稀ではないかとは思うのですが(苦笑)。

アクションシーンなどは皆無で、そればかりか「悪役」的な登場人物も出てこないので、すくなくとも不快になることはない作品ですね。
恋愛描写が全体的に淡白な感がありますし、時間の経過具合がイマイチ分かりにくい部分もあるのですが、人間ドラマ作品として観る分には「可もなく不可もなく」といったところなのではないかと思います。

映画「Black & White/ブラック&ホワイト」感想

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映画「Black & White/ブラック&ホワイト」観に行ってきました。
仲の良いCIAエージェントの2人が、ひとりの女性を巡ってスパイ能力とハイテク兵器の限りを駆使して恋の争いを演じるアクションコメディ作品。

物語はまず、今作の主人公となるCIAエージェントの2人、FDR(フランクリン・デラノ・ルーズベルト)・フォスターとタック・ヘンソンの仕事ぶりが披露されていきます。
2人は、カール・ハインリッヒという国際指名手配が大量破壊兵器を入手するのを阻止すると共に、彼を隠密裏に捕獲または殺害するという任務に従事していました。
大量破壊兵器の取引が行われる予定となっている香港の高層ビルに先回りして潜入し、その最上階で開催されていたパーティーの会場で女性を口説きつつ様子を伺う2人。
やがて予定通り、部下兼護衛および弟を引き連れてハインリッヒはやってくるのですが、ハインリッヒは取引相手を射殺しその場から逃走を図ります。
ここでFDRとタックは、ハインリッヒを逃がしてはならじと衆人環視の中でハインリッヒ一派に発砲を開始。
結果、ハインリッヒの部下と弟を殺すことには成功するものの、肝心のハインリッヒにはビルから飛び降りられパラシュートで逃げられてしまい、結局任務は失敗に終わってしまいます。
彼らの上司に当たる黒人女性CIA長官のコリンズは、任務に失敗したばかりか衆人環視で目立つアクションに走りマスコミの注目の的となった事実に激怒し、2人に対し謹慎処分を下すこととなります。

CIAエージェントとしての仕事が一時的にできなくなってしまった2人は、しかし良い機会だからとプライベートな生活を満喫することに。
タックは職業柄、CIAエージェントとしての自分の正体を隠し「旅行代理店の会社員」と身分を偽っているのですが、それが祟って子供も作ったはずの奥さんと離婚する羽目になった経歴を持っています。
今回の謹慎処分で時間を得た彼は、良い機会だからと、日本の柔道?を学んでいる子供の様子を観に行っていました。
しかし、父親の目の前で、相手の子供にボコボコにやられてしまうタックの息子。
タックが息子に話しかけても、息子は父親に隔意あり気な反応しか返すことがなく、そこへ息子を迎えに来た元奥さんと鉢合わせることに。
タックの元奥さんは、「これから別の男性とデートなの」とタックに言うと、息子を連れてその場から去ってしまうのでした。
自分の居場所がないことを思い知らされたタックは、FDRと相談した末、新しい恋に生きるべく、たまたまTVで宣伝されていた出会い系サイトに自分の名前を登録するのでした。

そのタックの出会い系サイトの登録に反応したのは、キッチン用の調理器具や電化製品などを取り扱う会社の重役を担っているローレン・スコット。
正確には、ローレンの女友達であるトリッシュが、ローレンに無断でローレンの名前を出会い系サイトに登録していたのがたまたまヒットしてしまい、最初はトリッシュに激怒したローレンが、タックを見て「この人カッコいい」とあっさりやる気になっただけなのですが(苦笑)。
ローレンは、かつて何もかも捨ててまで付き合っていた元カレに振られた挙句、新しい彼女まで紹介されてしまったことにショックを受け、その傷を癒している最中でした。
そこへ来てのタックの登場は、ローレンにとってもまさに「渡りに船」だったのでしょう。
彼女はすぐさまタックとデートすることを決意するに至ります。

一方、めでたくローレンと会うことになったタックは、親友のよしみでそのことをFDRに報告。
FDRはタックを支援するためにデートの様子を見張っていようかと提案しますが、さすがに「プライベートの侵害だから」とタックの方が拒否します。
その代わり、デートの現場に程近い場所でひそかに待機しておくことFDRは考えつきます。
しかし、このFDRの余計な気の回しがその後の騒動の元凶になるとは、この時一体誰が考えたでしょうか(笑)。
タックとローレンの初めてとなる出会いデート(喫茶店での会話だけ)そのものは特にトラブルもなく、むしろ互いに好感触を得るというベストな形で終了します。
しかし、タックと分かれたローレンがレンタルビデオショップに立ち寄った際、たまたまそこで張っていたFDRにナンパされてしまうのです。
ローレンは「軽薄なナンパ男」としてしかFDRを評価せず、すげなくあしらってその場を去ってしまうのですが、逆に興味を惹かれたFDRは、彼女の個人情報を調べて職場にまで押し寄せることに。
あまりにもしつこいFDRにキレかかるローレンでしたが、間の悪いことにそこへ新彼女を連れたローレンの元カレと鉢合わせしてしまいます。
変に見栄を張ろうとした彼女は、何とその場でFDRと濃厚なキスを交わしてしまい、元カレに「自分の新しい彼氏」としてFDRを紹介してしまうのでした。
そして、それがきっかけとなって、ローレンとFDRの関係も一転して良好なものとなっていきます。
しかし、互いに親友の間柄名上に共に同じ女性と仲良くなっているタックとFDRが、意中の相手がカブっている事実に気づくのにさしたる時間がかかるわけもありません。
2人はたちまちのうちに自分こそが相手を獲得すべく、CIA所属の諜報員やハイテク兵器を駆使した全面戦争に突入してしまうのでした。

映画「Black & White/ブラック&ホワイト」は、どちらかと言えばアクションよりも、下ネタ満載の会話と掛け合い漫才によるコメディタッチな部分に重点を置いている映画であると言えます。
ローレンとトリッシュの会話では、「FDRは手が小さい」「タックは英国人だから」などという、セックス的な問題を表すらしい陰語が登場しますし、トリッシュは「2人と寝て男性器の大きさや快楽の度合いを比較しろ」などとローレンを煽り立てる始末。
ローレンはローレンで、トリッシュの恋愛相談モドキな言動をいちいち真に受けて実行していたりしますし(苦笑)。
ちなみに、「手が小さい」の意味は作中でも説明されていて、「男性器(ペニス)が小さい」ということを婉曲に表現した陰語なのだとか。
一方で「英国人だから」については具体的な説明がなかったのですが、少し調べてみたらこんな記事が引っかかりました↓

イギリス人は遅漏、セックス耐久時間調査で明らかに。最短は6秒
http://digimaga.net/2009/10/british-men-have-more-stamina-in-bed
>  オランダ、ホラント州の研究者たちの調査によると、イギリス人男性はほかの国の男性と比べてセックスの耐久時間が長いことが分かりました。
>
>  この調査は5ヶ国、500人の男性に対して行われたもので、イギリス人男性は平均して10分間保てることが分かり、これが第1位。第2位はアメリカ人男性で、コチラは8分。三番手にはオランダ人男性の6分30秒が続きます。
>
>  そして4番手はスペイン人男性の4分54秒。最後はトルコ人男性で4分24秒とこれが最短でした。なお、調査に協力したユトレヒト大学では最短で6秒という結果の男性もいました。残念ながらこの男性の国籍は分かっていません。最長は52分間頑張れたそうです。
>
>  スポークスマンは、イギリスの大衆紙ザ・サンに対して「研究ではイギリス人男性が最も長いことが分かりました。コンドームの有無やサイズの大小による違いはありませんが、アルコールを飲んだ男性は通常よりも長く頑張れる傾向にあるようです」と語っています。
>
>  性医学ジャーナルで発表されたこの研究は、早漏のことを調べていました。早漏は、医学的には1分以上持続できない状態のことと定義されています。
およそ40%のイギリス人男性が早漏に苦しんでいるそうですが、この結果を見るにほかの国の男性はもっと苦しんでいることでしょう。ぜひ日本人男性も調査して欲しいところです。

この場合における「英国人」が指している意味合いというのは、FDRの件との整合性を考えると大体こんなところに落ち着くのではないかと。
念願叶って(?)FDRとセックスした際も、ローレンはわざわざトリッシュに感想を報告したりしていますし、それを受けたトリッシュはさらに煽り立てるしで、この辺りは本当に女性ならでは赤裸々かつ生々しい会話のオンパレードでしたね。
こんな少年少女の教育に悪影響を与えそうな会話が延々と繰り広げられている今作が、よくもまあPG-12指定にすらされなかったよなぁと、笑いと同時に奇妙なところで感心すらしてしまったほどです(苦笑)。

そして、それ以上に笑えたのは、FDRとタックに率いられたCIA下っ端諜報員達の活躍ですね。
たとえば作中では、絵画が趣味のひとつであるローレンを相手に、FDRが絵画のウンチク話を始めるシーンがあるのですが、そのウンチク内容はFDRの下っ端諜報員達が読み上げている文章を、FDRが通信機を介して聞き取ってしゃべると言う形で進行していました。
ところがそこで、タックに属する諜報員達が通信を乗っ取ってしまい、絵画についてデタラメな話を並べ立て始めてしまいます。
その内容がまたぶっ飛んでいて、「筆を使わず手で直接絵を描く」とか「手が塞がっている時はペニスで絵を描く」とか、ほとんど笑いを取りに行っているとしか思えないことをFDRにしゃべらせようとするんですね。
ローレンとFDRがセックス行為に及んでいる際には、その光景を興味津々で眺めていた上に(これは仕事だからですが)その全容をしっかりDVDに収めていたみたいですし。
FDRとタックは、下っ端諜報員達にローレン獲得のための作戦に従事させる際、動機と目的については「最高機密」を盾に口を濁しているのですが、下っ端諜報員達は早々に2人の対立構図に気づいていたみたいですからねぇ。
作中における下っ端諜報員達の描写を見ても、何もかも分かっていた上での確信犯で楽しんでいた感がありありでしたし。
FDRとタックの「当事者達は至って真剣なお笑い喜劇」以上に、彼らのコメディチックな活動にも笑えるものがありましたね。

今作は、過去作で言えば、映画「Mr.&Mrs.スミス」「ナイト&デイ」「キス&キル」などに相当する「コメディ重視のアクション作品」であろうと観賞前から当然のように考えていたので、その結果も案の定といったところでしたね。
全部、タイトル名に「&」がついている点も共通していますし(笑)。
逆に、恋愛やアクションメインで見ようとすると、今作は少々厳しいものがあるのではないかと。
その点では、映画「ジョニー・イングリッシュ 気休めの報酬」の路線に近い作品であるとも言えるのかもしれません。
全体的な評価としては、コメディ作品が好きな人にオススメ、といったところになるでしょうか。

映画「タイタンの逆襲」感想

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映画「タイタンの逆襲」観に行ってきました。
前作「タイタンの戦い」の続編で、ギリシャ神話の主神ゼウス・ポセイドン・ハデス3兄弟の父親で残虐な神クロノスとの戦いを描いた作品。
今作は2D版と3D版で同時上映されていますが、私が観たのは2D版となります。
前作の続編であるため、作中では前作を観ていないと分からない部分も少なからず出てきますが、基本的にアクション重視&単純なストーリー構成なので、前作を観ていなくてもそれなりには楽しむことができます。

前作「タイタンの戦い」で海の大怪獣クラーケンが倒されてから10年。
前作から引き続き主人公として活躍する、人間と神の間に生まれた半神半人(デミゴッド)であるペルセウスは、妻となったイオには先立たれたものの、彼女との間に生まれたひとり息子であるヘレイオスと共に、人間としての生活を営む日々を送っていました。
そんな彼の元にある日、彼の父親であるゼウスがやってきます。
何でも、前作の一件より人間が神々に祈りを捧げなくなってしまったことから、神々の力が著しく衰えてしまい、その結果、かつて冥界の奥に封印したゼウスの父親にしてタイタン族の巨神クロノスが覚醒しつつあるとのこと。
ゼウスは、クロノスが完全に復活すれば地上は地獄と化し、神々も人間も全て滅び去ってしまうため、それを阻止すべく手を貸して欲しいとペルセウスに依頼します。
しかし、ゼウスとは前作の一件で怨恨があるのに加え、息子を溺愛するペルセウスは「息子の傍を離れたくない」とこれを拒否。
しかたなくゼウスは、海神ポセイドンと、自身のもうひとりの息子である軍神アレスと共に、冥界の主であるハデスに協力を依頼すべく、地底へと向かうのでした。
ところが、既にハデスはゼウスに対する恨みからクロノスと手を組んでしまっており、そればかりかアレスまでもがゼウスを裏切りクロノスに加担する始末。
ただでさえ力が弱っていた上に奇襲的に裏切られたゼウスがこれに対抗する術はなく、ポセイドンは重傷を負わされ、ゼウスはあえなく虜囚の身となってしまうのでした。

一方、地上では、巨神クロノスが復活し始めた影響で、キメラがペルセウスのいる村を襲うという事件が発生。
息子を避難させつつ、何とかキメラを殺すことに成功したペルセウスは、そこで生命からがら地底から逃げてきたポセイドンから、地底で何が起こったのかを知らされることになります。
そしてポセイドンは、前作では王女として登場し、今では王位を継いで女王になっているらしいアンドロメダの下にいるという、ペルセウスと同じ半神半人であるポセイドンの息子と共に「堕ちた神」を探すよう告げ、自分の武器を授けた後に石化し崩れ落ちてしまうのでした。
彼は父親であるゼウスを助けるため、および人類、特に息子の破滅を回避するため、村の人達にヘレイオスのことを任せ、アンドロメダの元へと旅立つこととなるのですが……。

映画「タイタンの逆襲」は、上映時間が98分と前作106分より短めなためもあってか、ストーリー展開がとにかく早いですね。
序盤からすぐさま魔物との戦闘が始まりますし、アクションシーンも含めて目まぐるしく場面が変わります。
特に迷宮のシーンでは、迷宮自体が随時稼動し続けることも相まって、どこからどこへ移動しているのかも把握し難いものがあって、観客の視点では「気がついたら目的地に到達していた」というのが実態に近かったですし。

前作との違いで言えば、前作では煌びやかかつ力強さのあった神々の陣容が、今作では力の衰えを象徴するものなのか、全体的に弱々しい感じになっていた点が挙げられるでしょうか。
特に、聖闘士星矢の黄金聖衣を想起させる鎧を身に纏っていた前作のゼウスは、今作では終盤以外は鎧すらつけておらず、村の一般人よりはマシという程度の服装と風貌でしかありませんでしたし。
ポセイドンも序盤であっさり死んでしまいましたし、人間相手に圧倒的な強さを見せつけていたアレス以外はどうにもパッとしない感がありました。
こんなことになるのなら、前作で人間と対立なんかしなければ良かったのに、とついつい考えてしまいましたね(T_T)。

あと、今作のラスボスであるクロノスは、溶岩を纏った山よりも大きい巨大な巨人として描かれています。
しかし、一応はゼウス・ポセイドン・ハデスよりも格上の神であるにもかかわらず、作中ではただその巨大な図体にものを言わせて周囲に破壊を撒き散らすだけで、その点では前作のラスボスだったクラーケンと何ら変わるところがないんですよね。
戦場が海上&港町から荒地に変わっただけで、やっていることは全く同じでしたし。
一応は神、それも最上位に位置するであろう神なのですから、ただ溶岩を撒き散らすだけでなく、ゼウス達と同じような魔法攻撃や、神としての知性や威厳などを持ち合わせても良さそうなものなのですが。
台詞もあるにはあるのですが、その全てが「相手の名前をどことなく恨みがましく呼びかけるだけ」というシロモノでしかありませんでしたし。
作中の描写だけでは、単に図体と力がデカいだけのモンスターでしかなく、あれから何故ゼウス・ポセイドン・ハデスなどの神々が生まれたのかすらも理解に苦しむものがあります。
単なる魔物やクラーケンなどと一線を画する格別の存在であることを示すには、図体の大きさとは別の何がが、クロノスには必要だったのではないでしょうか?

ストーリー自体も単純明快ですし、あくまでも「アクションシーンを楽しむための作品」といったところでしょうか。
前作と同様に「可もなく不可もなく」な出来で、剣と魔法のファンタジー系なアクションが観たいという方であれば、とりあえず観ても損はない映画ですね。

映画「バトルシップ」感想

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映画「バトルシップ」観に行ってきました。
アメリカのハワイおよびその周辺海域を舞台に、地球外から総計5隻の宇宙船でやって来た侵略者達との戦いを描いた、ユニバーサル映画100周年記念作品。
通常、アメリカ映画は本家アメリカでの公開より数ヶ月遅れて日本では劇場公開されることが多いのですが、今作は逆にアメリカよりも1ヶ月早い日本公開となっています。
やはり今作では、内容自体が日米の共同軍事作戦をベースにしていることと、日本人俳優である浅野忠信が「マイティ・ソー」に次ぐ2作目のハリウッド映画出演ということで、興行収益が見込めると判断したアメリカ側がリップサービスをしてくれたという「大人の事情」でも背景にあるのでしょうけどね。
「マイティ・ソー」ではあまり目立たない脇役だった浅野忠信も、今作では準主役的なポジションにありますし。

物語の始まりは、地球外生命体が地球へやってくる2012年から遡ること7年前の2005年。
この年、アメリカでは、太陽系外にあるという地球型惑星と交信を試みる計画「ビーコン・プロジェクト」が立ち上げられ、衆人環視の中、ハワイのオアフ島に設置されたNASAの送信施設より目標の地球型惑星に向けて通信が発射されていました。
「ビーコン・プロジェクト」がTVニュースで流される中、とある酒場?では、一組の兄弟が今後のことについて何やら会話を交わしていました。
アメリカ海軍で現役エリート軍人として出世しつつある兄のストーン・ホッパーに対して、無職のトラブルメーカーで周囲からは鼻つまみ者扱いされている弟のアレックス・ホッパー。
2人の会話は、カウンター席に座ったひとりの女性を、今作の主人公であるアレックス・ホッパーが目に留めたところで中断します。
その女性サマンサ・シェーンに一目惚れしたアレックスは、早速サマンサに声をかけるのですが、最初は当然のごとく無視されます。
しかし、サマンサが店のマスターにチキン・ブリトーを注文したところ、売り切れで出せないという返答が返ってきたことにアレックスは食いつきます。
彼は「5分待ってくれればチキン・ブリトーを持ってくる」とサマンサに告げ、店を出て行くのでした。
彼はすぐさま近くのコンビニにまで足を運ぶのですが、そのコンビニは24時間営業ではないらしく、一足遅く営業時間を終えてシャッターを下したところでした。
「シャッターを開けてくれ」という懇願を無視されたアレックスは、何と裏口と天井裏?から店内に侵入してチキン・ブリトーを奪取。
しかし店内から脱出しようと入ってきた天井裏に戻ろうとして何度も失敗した挙句、店内をメチャクチャに破壊してしまい、警察当局に追われることに。
それでも警官に捕まる直前、アレックスは「何事か」と外に出ていたサマンサにチキン・ブリトーを渡すことに成功。
このことがきっかけとなり、サマンサとアレックスは付き合い始めるようになります。
しかし、一連のバカ騒ぎにアレックスの兄であるストーンは激怒、その精神を叩き直すべく、アレックスに対し問答無用で海軍に入ることを命令するのでした。

それから7年がたった2012年。
アメリカのハワイ・オアフ島では、記念艦となっている戦艦ミズーリの艦上で、リムパック(環太平洋合同軍事演習)を始めるにあたっての式典が行われていました。
演習が始まる前に、リムパック参加国の軍人同士によるサッカー杯が行われ、決勝はアメリカと日本で争われていました。
試合終盤、日本が1点のリードを守り続けている中、日本側の選手がボールではなくアレックスの顔面を蹴ってしまったことから、アメリカチームにペナルティキックのチャンスが舞い込んできます。
顔面を蹴られたことから脳震盪を起こした疑いがもたれたアレックスは、選手の交代を周囲から勧められますが、アレックスはこれを拒否して自分がシュートすることに固執します。
しかし、アレックスのシュートは高らかに舞い上がってゴールを飛び越え、この瞬間に日本の優勝が確定してしまいます。
試合の敗北にショックを受けるアレックスは、さらにその後、日本の海上自衛隊に所属している護衛艦「みょうこう」の艦長ユウジ・ナガタ一等海佐(アメリカでは大佐に相当)と殴り合い?の喧嘩沙汰を起こしてしまいます。
そのことが軍の上層部で問題になった結果、アレックスはリムパックが終了して帰港するのと同時に軍をクビにされることが決定してしまうのでした。

さすがに意気消沈し、無気力になってしまったアレックスでしたが、その頃、世界ではとんでもないことが発生していました。
何と、宇宙から正体不明の謎の飛行物体が5つ、編隊を組んで地球に接近してきたのです。
5つの飛行物体の中のひとつは、地球を周回している衛星に激突して空中分解して一部が中国の香港に落下、ビルが倒壊したりして大惨事となってしまいます。
そして残り4つは、今まさにリムパックが行われているハワイ沖に着水。
そのため、すぐ近くにいるリムパックの艦隊に謎の飛行物体を探索するよう、アメリカ本国から指示が来ることになります。
この指示を受け、飛行物体が着水した海域に3隻の艦艇が向かうことになりました。
そしてこれが、世界の命運を賭けることとなる戦いの始まりとなるのです。

映画「バトルシップ」では、実在する軍艦が作中で活躍しています。

リムパックの際の総旗艦となった空母ロナルド・レーガン
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飛行物体の調査に向かった3隻の中の1隻、USSサンプソン
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同じく3隻の中の1隻で、日本の海上自衛隊所属の護衛艦みょうこう
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そして主人公アレックス・ホッパーが搭乗している、USSジョン・ポール・ジョーンズ(以下「JPJ」)
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さらに序盤に記念艦として登場した戦艦ミズーリ
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当然、これ以外にも演習に参加していた軍艦はあるわけですが、実際には敵の宇宙船がハワイ沖を中心とした半径90㎞の海域に電磁バリアを張ってしまったために外部からの進入が一切不可能となったことから、たまたま飛行物体の調査でその海域内にいた3隻だけで宇宙船の相手をすることになってしまいます。
しかも3隻のうち、USSサンプソンと護衛艦みょうこうは敵の攻撃で早々に完全破壊されてしまったので、物語が終盤に近づく頃までは主人公が搭乗するJPJ「だけ」で敵の宇宙船と戦っていくこととなるのです。
世界各国の軍艦を集めたリムパックが舞台となっているのに、実質的にメインの戦いを繰り広げるのは駆逐艦1隻と敵宇宙船4隻だけという、何ともこじんまりとした展開なわけですね。
大規模な艦隊同士による大決戦的なものを考えていると、少々拍子抜けすることになるかもしれません。

ただ、規模はこじんまりとしたものであっても、それは戦闘シーンの迫力や手に汗握る演出を何ら軽減するものではありません。
序盤で披露される敵宇宙船の圧倒的な強さ。
レーダーの類を全て無効にされた状態で、完全破壊された護衛艦みょうこうから救助され指揮権を譲られたナガタの指揮の下、津波ブイを使った敵の追跡・捕捉・攻撃を行い孤軍奮闘するJPJ。
そして敵の宇宙船を3船まで破壊するも敵に逆襲され潰されてしまったJPJに代わり、一際巨大で電磁バリアを張っている元凶でも最後の敵宇宙船に戦いを挑む戦艦ミズーリ。
今作のタイトルでもある「バトルシップ」は、「戦う船」という比喩的な概念を意味するだけでなく、文字通りの「戦艦」、つまりミズーリのことをも指しているものでもあったわけですね。
この名前の繋げ方はなかなかに上手い落としどころなのではないかと思いました。
まあ、長年記念艦であった戦艦ミズーリに、すぐさま戦闘行動を可能にするだけの燃料や弾薬が満載されているなど本来ありえることではなく、その非現実性にツッコミどころの大穴があったのは少々苦しいところではあるのですが。
記念艦として停泊させておくだけのミズーリに常時燃料を入れておかなければならない理由がありませんし、使わない弾薬をミズーリにそのまま搭載したままにしておくなど、火薬管理の面から言っても危険極まりないのですから。
戦艦ミズーリを操れる老練の退役軍人達がアレだけいたのは、合同軍事演習の際の式典に列席するためという名目があったので、それで何とか説明も可能なのでしょうけど。
ただし、動かす過程が非現実的ではあっても、ああいう展開自体は結構燃えるものがありますし、戦艦ミズーリの活躍も演出もJPJのそれに決して劣るものではなかったので、映画としては大成功の部類に入るエピソードなのでしょうね。

映画「バトルシップ」では、エンドロール後にも続編を匂わせるようなエピソード映像が披露されています。
序盤で5隻の宇宙船のひとつが空中分解した際の脱出艇?がスコットランドに墜落しており、地元住民が興味本位でそのドアをこじ開けてしまい、中から宇宙人の手が出てきたところで終了、というものです。
今作は「ユニバーサル映画100周年記念作品」ということで作品内で話は完結しているだろうと考えていたので、まさかそんな映像があるとは思ってもみなかったのですが。
これってやはり「人気が出るなら続編を作ろう」みたいな意図でもあって入れている映像なのでしょうねぇ。
ただそれにしても、今作もエンドロールの途中で退席してしまい、結果としてその後の映像を見逃していた人が意外に多かったので、「やはり映画は最後まで観ないといけないなぁ」と改めて痛感せざるを得なかった次第です。
かくいう私も、以前はエンドロールの途中で席を立ってスクリーンから去っていた人間でしたし、実は今作でも「続きはないだろう」という考えから少しばかりそういう誘惑に駆られていたりしたのですが(^^;;)。
こういうのって、いいかげん何らかの対策を行う必要があるのではないかとは思わずにいられませんね。
映画料金を払いながら、エンドロール後の特典映像を見逃すのって結構な損失だと思いますし、しかし一方では「エンドロールなんて観る必要などない」と考える人が厳然として存在するわけで。
しかしだからと言って、「エンドロール後に特典映像が……」というアナウンスを事前に流すというのもサプライズな演出効果が薄れしまうという問題がありますし、微妙に難しい対処を迫られる課題ではあるのでしょうけどね。

ハリウッド映画が持つ迫力ある映像や演出、および単純明快な分かりやすいストーリー展開がお好みの方には、文句なしにオススメできる一品です。

映画「ジョン・カーター(3D版)」感想

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映画「ジョン・カーター(3D版)」観に行ってきました。
ジョージ・ルーカス監督の「スターウォーズ」シリーズや、ジェームズ・キャメロン監督の「アバター」の原点になったとされる、エドガー・ライス・バローズの小説「火星」シリーズの最初の作品「火星のプリンセス」を映画化したファンタジー・アドベンチャー大作。
ウォルト・ディズニー生誕110周年を記念して製作された映画でもあります。
今作は3D版しか上映されていなかったので、しかたなく3D版での観賞となりましたが、例によって例のごとく「あるのかないのか注意して見ないと分からない申し訳程度の3D映像」が披露されていただけでした(T_T)。
わざわざ観客から余分にカネを取っておきながらそういう映像ばかり見せつけるから、3D映画は多くの観客から愛想を尽かされてしまうことになるのですけどねぇ(-_-;;)。

物語は、地球とは異なる惑星バルスームで、とある飛行船が襲撃されているシーンから始まります。
飛行船の持ち主は、惑星バルスームの国のひとつであるゾダンガ王国の皇帝サブ・サン。
襲撃に際して勇猛果敢に戦う彼でしたが、突如圧倒的な力によって配下の兵達が襲撃者もろとも壊滅。
呆然とするサブ・サンの前に、その圧倒的な力を見せつけたサーン族の教皇マタイ・シャンが、どこからかワープでもしてきたかのごとくその姿を現します。
マタイ・シャンはサブ・サンに対し、自分達が駆使した驚異的な力を誇る破壊兵器を提供し、サブ・サンに惑星バルスームの支配者となるよう促すのでした。

ところは変わって、1881年のアメリカ・ニューヨークでは、ジョン・カーターという名の大富豪が亡くなったとの報が駆け巡っていました。
ジョン・カーターは「死」の直前、自身の甥で原作小説の原作者と同名(本人?)でもあるエドガー・ライス・バローズを呼び出し、全財産を譲り渡すよう弁護士に依頼していました。
呼び出されたエドガー・ライス・バローズは、弁護士からジョン・カーターから「エドガー・ライス・バローズ以外の人間には誰にも読ませないように」と指示されて預かったという日記を提示されます。
その日記を読み始めたエドガー・ライス・バローズの前に、ジョン・カーターが体験したとされる想像を絶する冒険譚が開陳されていくことになります。

その発端となる最初のエピソードは、ジョン・カーターが死んだとされる今現在から13年前に遡ります。
今作の主人公であるジョン・カーターは、アメリカのヴァージニア州出身でかつては戦争で勇名を誇った元兵士でしたが、今ではただひとり孤独に生き、黄金の洞穴を探しているらしい一匹狼。
酒場兼質屋?で問題を起こした彼は、現地の騎兵隊にその名声を見込まれてスカウトされるのですが、ジョン・カーターは暴力を行使して拒絶し、彼は牢獄に繋がれることになります。
しかし、ジョン・カーターは自力で見張りを倒し、騎兵隊の隊長パウエルの馬を奪いその場を逃走。
騎兵隊はただちにジョン・カーターの追撃を開始しますが、追撃の最中、ジョン・カーターがアパッチ族と接触。
ジョン・カーターとアパッチ族との間で話し合いが行われましたが、交渉の最中に騎兵隊の1人がアパッチ族に向けて銃を発砲。
この事態に怒り狂ったアパッチ族と騎兵隊の間で戦闘が始まってしまい、パウエルはアパッチ族が撃ち放った銃弾で脇腹を負傷。
混戦に紛れてそのまま逃げても良さそうなものだったのですが、ジョン・カーターは何故か負傷したパウエルを見捨てることなく彼を抱え一緒に逃走を開始します。
逃走した2人は、追跡してきたアパッチ族から逃れるため、逃走途上で発見した洞穴へ身を隠すことになります。
何とかアパッチ族をやり過ごした2人でしたが、洞穴の奥から人の気配がしたため、ジョン・カーターが調べてみることに。
そこで待ち受けていたのは、法衣のようなものを纏ったひとりのスキンヘッド男でした。
スキンヘッド男は後ろから不意打ちを仕掛けてきました、ジョン・カーターは運良く難を逃れスキンヘッド男を返り討ちにします。
銃弾を受けて倒れたスキンヘッド男は、右手に光るメダルのようなものを持って何かを唱えていました。
ジョン・カーターがそれを奪い取ると、彼は光に包まれ、次に気づいた時には見たこともない砂漠のど真ん中に倒れこんでいたのでした。
体を起こして歩いてみた途端、ジョン・カーターの身体は自分の意図に反して大きく浮き上がってしまいました。
戸惑いを覚えつつ試しにジャンプしてみると、本来考えられないほどに大きく飛翔できてしまうではありませんか。
しばらく調子に乗ってジャンプを繰り返しつつ、ジョン・カーターは砂漠の只中にあるひとつの山に辿り着きます。
そこでは奇妙な卵から、これまで見たこともなかった生物が飛び出してくる光景が展開されていました。
驚いたジョン・カーターがしかしその余韻に浸っている暇もなく、彼にまるで狙いを定めるかのごとく、これまた見たこともない生物の集団が突如砂漠の向こうから急速に接近してきて……。

映画「ジョン・カーター(3D版)」は、ジェームズ・キャメロン監督製作の映画「アバター」の原点になったというだけあって、話の構成も「アバター」とよく似ていますね。
「アバター」に登場した異種族ナヴィと似て体格が大きな「サーク族」という種族が登場しますし、そのサーク族の支配権を獲得してラスボスに挑む構成が全く同じだったりします。
主人公が軍人出身で、かつ異世界の先でヒロインと出会い彼女のために戦う構図も同じですし。
まあ、元々は「アバター」の方が今作の原作小説をヒントに作られたとのことですから、構成が似ているのもある意味当然なのかもしれないのですが。
一方「スターウォーズ」は、作中に登場していた「光で動く飛行船」と「銃と剣が戦闘の中で入り混じった世界観」辺りをモチーフにしていたのではないかと。
ストーリー展開が「アバター」そっくりで、使用している小道具が「スターウォーズ」とカブるとなれば、作品独自のオリジナリティという点ではややパッとしない部分がありますね。
製作費だけで2億5000万ドルもかけているだけあって、迫力あるSFX映像や演出はさすがに良く出来ていますし、決して見劣りするわけではありません。
ただ今作は、そこまで製作費をかけたのが災いしたのか、超大作の割には興行収益がイマイチ伸びていないことから、最終的には2億ドルもの赤字を抱え込む可能性すら囁かれているのだそうで↓

http://megalodon.jp/2012-0414-2102-14/jp.reuters.com/article/entertainmentNews/idJPTYE82L02D20120322
> [ロサンゼルス 20日 ロイター] ウォルト・ディズニー生誕110周年記念の超大作「ジョン・カーター」が、映画史上最も興行赤字の大きい作品になる可能性が出てきた。
>
米ウォルト・ディズニー(DIS.N: 株価, 企業情報, レポート)は19日、同作品が約2億ドル(約166億円)の赤字になるとの見通しを示したが、それが現実になれば、ギネスブックに「最も興行赤字の大きい映画」として登録されている1995年の「カットスロート・アイランド」を超える赤字作となる。ウィキペディアによると、「カットスロート・アイランド」の赤字額は1億4700万ドル。
>
> 過去の不発作品としては、エディ・マーフィ主演の「プルート・ナッシュ」や、ペネロペ・クルスとマシュー・マコノヒーが出演した「サハラ 死の砂漠を脱出せよ」、ロバート・ゼメキス監督の「少年マイロの火星冒険記」などがあるが、ウィキペディアの情報を基にすると、いずれも赤字額は1億4000万ドルを超えている。
>
> ただ、ハリウッド映画の赤字額については、不明瞭な部分が多いのも事実。映画情報サイトIMDbの編集長キース・シマントン氏は「ハリウッドはあまり数字をオープンにしないので、これらの作品の本当の予算を知ることはできない」と述べた。
>
> 複数の業界筋は、「ジョン・カーター」には制作費と販促費で3億5000万ドル以上がつぎ込まれていると指摘。調査会社ハリウッド・ドット・コムのポール・ダーガラベディアン氏は、
同作品が収支を合わせるには、世界興行収入6億ドル以上が必要だとしている。

過去のハリウッド映画では、アメリカでは不振であっても日本の興行収益だけで製作費を楽々回収した事例もありますから、今作が本当に史上最高額の赤字を抱えるのか否かは今後にかかっているのですが、状況的には結構厳しいものがありますね。
「ジョン・カーター」は今作も含めて3部作構成とのことなのですが、1作目時点で多額の赤字を抱えてしまうとなると、続編が本当に製作されるのか、はなはだ心許ない限りとしか評しようがないですし。
作中ではまだ第9光線や遺跡の機能、サーン族についてなど、まだ未解明の謎が少なからず残っているのですから、個人的には続編を作ってもらいたいところではあるのですけど……。

作中で意外に「なごむ」存在だったのは、物語後半で実は火星であることが判明した惑星バルスームの犬(キャロット)であるウーラですね。
このウーラ、外見上は「巨大なカエル」みたいな容貌をしているのに超高速で素早く動き回り、主人公達の危機の際には大きな助けにもなってくれる頼もしい動物です。
惑星バルスームでは「ジャスーム」と呼ばれている地球上の犬のごとく、「飼い主」に懐き甘えてすらくる愛嬌のある一面も見せていたりします。
一見不気味な外見なのに、物語が進むにつれて可愛らしくすら思えてくるのですから、何とも不思議なキャラクターです。
日本で言うところの「ゆるキャラ」的なものを意図して作ったのでしょうかね、これって。

ところで少し疑問だったのは、物語終盤、何故マタイ・シャンは自身の目論見を打ち砕いたジョン・カーターを、わざわざ地球に送り返すだけに留めてしまったのか、という点ですね。
あれだけの変装能力を持ち不意打ち同然に接近できるのであれば、地球に送り返すよりもジョン・カーターをその場で殺害してしまった方が、今後のことも考えると後腐れがなくて良かったのではないかと思えてならなかったのですが。
何しろジョン・カーターは、マタイ・シャンとサーン族のことを知る(あの世界では)数少ない人間のひとりだったわけですし、下手に生かしておけば今後の自分達にとって邪魔になるであろうことも最初から目に見えています。
地球に送り返して以降も、ジョン・カーターにはマタイ・シャンの手の者と思われる監視がついていたみたいですし、そんな手間暇などをかけるくらいなら最初から殺しておいた方が面倒もなくて良かったでしょうに。
あの変装能力や、序盤で見せつけていたテレポート能力があれば、たとえあの場でジョン・カーターを殺したとしても悠々と姿をくらますことだって簡単にできたでしょうし。
マタイ・シャンには何かジョン・カーターを殺せない理由でもあったのでしょうか?
地球にいた手下のひとりは、序盤で普通にジョン・カーターを殺そうとして返り討ちに遭っていましたから、そんな理由があるようにはとても思えなかったのですが……。
今後続編が製作されることがあれば、この辺の謎についても解答が与えられるかもしれないのですけどねぇ。

映画の内容だけを見れば普通に良作ではないかと思うのですが、それで赤字の危機に直面せざるをえないとは何とも不幸な作品ですね。
個人的には、もう少し評価が高くても良いのではないかと思えてならないのですが。

映画「センター・オブ・ジ・アース2 神秘の島(3D版)」感想

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映画「センター・オブ・ジ・アース2 神秘の島(3D版)」観に行ってきました。
2008年に公開され、日本初となる実写フル3D映画公開ということで話題となった前作「センター・オブ・ジ・アース」の続編で、ジュール・ヴェルヌの「地底旅行」をベースに繰り広げられる冒険アドベンチャー作品。
ちなみに前作「センター・オブ・ジ・アース」は、劇場公開当時に映画館で観賞しました(^^)。
今回はちょうど「映画の日」ことファーストディである1日が日曜日だったこともあり、安い映画料金で観賞することができたのですが、3D料金がその割引分をほとんど埋めてしまった感がありました(-_-;;)。
今作は熊本の映画館では「熊本シネプレックス」1箇所のみ、しかも3D日本語吹替版でしか上映されていなかったので、最初から選択の余地が全くなかったのですが(T_T)。
まあ3D映像については「意外に良く出来ている」と一応評価できる部類に入ってはいたので、それがせめてもの救いではありましたが。
3D映画はただでさえ余計に料金が徴収されますし、これまで散々なまでに裏切られ続けてきた経緯もありますから、たとえ3D映像の出来が良くても出来る限りは避けたい、というのが正直なところではあったりするのですけどね。

前作「センター・オブ・ジ・アース」での冒険から4年。
前作から成長したショーン・アンダーソンが、しかし何故か警察からオートバイを駆使して逃走中のところから物語は始まります。
警察の追っ手を掻い潜って逃走を続けるショーンでしたが、その最中にオートバイごと他人の家のプールに突っ込んでしまい、あえなく御用に。
そこへ、ショーンの義理の父親で建設会社の社長?であるハンク・パーソンズが警察に口添えし、そのおかげでショーンは警察のお世話になることなく無罪放免となります。
ハンクは当然のことながらショーンに理由を問い質すのですが、ショーンはハンクに反発を示して部屋に閉じこもってしまいます。
そしてショーンは、文字でびっしりと埋められたメモを取り出し、何やら作業を始めるのでした。
一方、義理の息子と何とか上手くやっていきたいハンクは、ショーンに直談判すべくショーンの部屋へと入ってきます。
そしてハンクは、ショーンが微弱な暗号電波をキャッチしたこと、その解読を行うために人口衛星研究センターに不法侵入し、その罪で警察に追われていた事実を知ることになります。
元軍人であり、暗号解読でもそれなりの実力があったらしいハンクは、ショーンが入手した暗号の解読に協力し、あっさりと暗号の全容を明らかにすることに成功します。
暗号の内容は、伝説とされている「神秘の島」の存在と座標を示しており、ショーンはここに自分の祖父がいるのではないかと確信し、すぐにでも「神秘の島」に向かおうとします。
そんな義理の息子に一度は反対したハンクでしたが、すぐに自分も保護者として同行しショーンとの関係を改善するきっかけに出来ればと考え直し、ハンクは自分も一緒に行くことを条件にショーンの旅を承諾するのでした。

暗号で指定された座標は海にあり、当然海を渡れる何らかの移動手段を調達する必要がありました。
ショーンとハンクは座標に程近い港町へと赴き、指定された座標へ船を出してくれるよう船頭に依頼するのですが、指定された座標の近辺では嵐が多い上に座礁しやすい地形であることもあり、けんもほろろに断られてしまう始末。
ところが「依頼を受けたら(アメリカドルで)1000ドル出す」という声に釣られ、声をかけてきた中年の男がひとり存在しました。
その人物ガバチョは、あまりにも年季が入りすぎている、マトモに飛ぶかどうかすらも保証の限りではないオンボロヘリを使って2人を目的地まで案内しようと申し出てきます。
あまりにもヘリがオンボロであることから、むしろ2人の方が難色を示してしまうのですが、そこで登場したガバチョの娘カイラニ。
カイラニに一目惚れしてしまったショーンはガバチョのヘリに乗り込むことを決断し、4人は一路目的の座標へと向かうことになります。
ところがそこでは竜巻が荒れ狂っており、ヘリはコントロールを失い竜巻に巻き込まれてしまうことに。
そして4人は、どことも知れない見知らぬ島で目を覚ますこととなるのですが……。

映画「センター・オブ・ジ・アース2 神秘の島」に登場する「神秘の島」には、以下のような特徴があります。

1.動物の一般的な大きさが全て逆になっている
2.火山が金でできている
3.一定の周期(70年~140年)で浮上したり沈没したりを繰り返している

「1」の実例としては、やたらと大きなトカゲや人間2人が乗れるスズメバチなどが出てくる一方、象が人間の手で抱えられたり、サメが小魚程度の大きさしかないほどに小さかったりします。
象やサメは一見普通の大きさであるかのような登場の仕方をするので、実際の大きさが分かると結構拍子抜けになったりします。
まあ、トカゲやスズメバチなどは人間が乗れたり追いかけられたりと一目で分かりますから、その対比としてのインパクトを与える必要があったのでしょうけど。
しかし、島が「3」の要素で浮いたり沈んだりを繰り返しているのに、海はまだしも、陸上の動物達は一体どうやって生き延び、かつ生態系をどのようにして維持しているのか、その辺は何とも不思議なところではありますね。
エンドロールで象が海の中を普通に歩き泳ぎしているシーンがあるので、彼ら(?)って実は水陸両用生物(??)だったりするのでしょうか?
両生類とはちょっと性質が異なるように思いますし、そもそも島が沈んでいる時期は陸地が全くないわけですからねぇ(苦笑)。

あと、この手の上映映画館数の少ない作品というのは、ストーリーが一般受けしなかったりR-15指定だったりするなど特殊な場合が多いのですが、今作を観た限りでは特に観客層を限定することのないオーソドックスな物語でしたね。
人が死ぬこともなければ、登場人物の設定もストーリーも子供が観て何の問題も起きないであろう要素だけで構成されていましたし。
一応2作目でもあるのですし、そんなに人気がない作品というわけでもなさそうなのに、何故ここまで上映映画館数が少ないのか、そこが少し疑問に思えてならなかったところです。
3D映像も、昨今の3D映画の中では上の方に数えても良い出来ではあったわけですし。
一体どんな「大人の事情」が介在しているのかは分かりませんが、もう少し評価されても良い映画なのではないですかねぇ。

ラストはさらにジュール・ヴェルヌの「月世界旅行」をベースにしたストーリーが展開されそうな引きで終わっているのですが、これの続編って実際に出てくるのでしょうかねぇ。
2作目までは製作されたのですから、3作目が出来ても不思議ではないのですが、まあこれは興行成績次第、といったところになるでしょうか。

映画「ヘルプ ~心がつなぐストーリー~」感想

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映画「ヘルプ ~心がつなぐストーリー~」観に行ってきました。
1960年代におけるアメリカの田舎町を舞台に、白人家庭で仕事をする黒人メイド達の実態を暴いた、実在する同名の本が出版されるまでの経緯を描いたヒューマン・ドラマ作品。
今作はアカデミー賞3部門にノミネートされ、オクタヴィア・スペンサーが助演女優賞を受賞しています。

物語の舞台は1960年代、アメリカ南部のミシシッピ州にあるジャクソンの町。
今作の主人公ユージニア・スキーター・フェラン(以下「スキーター」)は、黒人メイドであるエイビリーン・クラークを取材していました。
エイビリーンから黒人メイドの実態について聞き、それを「THE HELP」という著書にまとめるためです。
ここから物語中盤頃までは「エイビリーンの回想」という形で物語が進行していきます。

エイビリーンは、白人の家庭で家事や子育てをこなしつつ生計を立てる黒人メイド。
彼女によって育てられた子供は実に17人にも及び、その筋のプロであることは疑いの余地がありませんでした。
当時の彼女はヒリー・ホルブロックエリザベス・リーフルトという女性の家で仕事をしており、出産後に産後鬱を起こして事実上育児放棄をしてしまったヒリーエリザベスの娘の子育てを代わりに行う日々を送っていました。
そんなある日、ヒリーエリザベスは自宅で友人達を招いて開いたパーティで、彼女の友人であるスキーターと再会することになります。
既に結婚して子供がいる他の女性達と異なり、大学へ進学し、ニューヨークの出版社で作家としてデビューする夢を叶えるべく、地元の新聞社に就職して経験を積むべく奔走するスキーター。
新聞社で面接したスキーターは、女性だからという理由で家事コラムの代筆を任され、コラムの穴埋めをするために友人達に協力を依頼。
結果、スキーターはエイビリーンを紹介され、コラム欄を埋めるためのツテを手にすることとなるのでした。

エイビリーンと接触を続けていく中で、スキーターは友人達の黒人メイド達に対する仕打ちに不快感を抱くようになってきます。
特に友人のひとりであるヒリー・ホルブロックは、「黒人メイドが自分の家にあるトイレを使うと病気に罹ってしまう」などという迷信から、黒人メイド専用のトイレを別に作り、あまつさえそれを法案としてミシシッピの州知事?に採用させようと働きかけたりするありさま。
一方、スキーターの実家では、自分を親代わりに育ててくれたコンスタンツェンが何故か大学在学中にいなくなっており、スキーターはそのことについても不信感を覚えるようになります。
それらのことから、やがてスキーターは、黒人メイドの実態をまとめた本を出版することを考えるようになり、エイビリーンに情報提供を依頼します。
当時のアメリカ南部州には「人種分離法(ジム・クロウ法)」と呼ばれる人種差別を正当化する法律があり、スキーターの依頼内容がその法律に抵触しかねないものであったことから、最初はエイビリーンも協力に難色を示します。
しかし、ヒリーの人種差別と潔癖症のない混ざった狂気の反応と、自身が育てた白人の子供達が成長すると結局親と同じになってしまうという苦い経験から、やがてエイビリーンはスキーターに協力するようになるのでした。
さらにエイビリーンの友人&同業者で、ヒリーの自宅内のトイレを使ったためにヒリーからクビにされたミニー・ジャクソンも加わり、「THE HELP」を構成する黒人メイド達の赤裸々な実話が語られていくことになるのですが……。

映画「ヘルプ ~心がつなぐストーリー~」では、登場人物の大部分が女性のみで占められています。
男性も全く登場しないわけではないのですが、出番はほんのわずかであり、しかもほとんど「女性の引き立て役」的な役割しか与えられていません。
その上で今作は、1960年代におけるアメリカの女性差別と黒人差別、そして女性だけの世界ならではの人間模様が大きくクローズアップされています。
女性差別については当時のアメリカのみならず日本でも、いや世界各国全てで似たような光景が繰り広げられていたのでしょうが、黒人差別の実態についてはアメリカならではの「差別伝統」に基づいた偏見と悪意の産物ではありました。
当時のアメリカで公民権運動が盛んだったのも当然の帰結ではあったのでしょうね。
今作で面白いのは、その女性差別・黒人差別を、あくまでも女性の視点のみからスポットを当て、ともすれば暗い雰囲気に陥りがちなテーマを、可能な限り明るくコミカルに描写したところにあります。
この手の話って、これまでの作品で語られたにしても、男性オンリーか男性&女性の視点が半々ずつというのがほとんどでしたし、その点では結構斬新な視点であると言えるのではないでしょうか。

たた、個人的に一番印象に残ったのは女性差別でも黒人差別でもなく、女性同士で繰り広げられる陰湿なやり取りの数々でしたね。
外で嵐が荒れ狂い外に出られない中、自分達が使うのと同じトイレで用を足したという理由から黒人メイドのミニーにクビを宣告した挙句、再就職すらできないように他の白人家庭に手を回すヒリー。
そのヒリーに対し報復すべく、自分の糞便を混ぜ込んだチョコパイをヒリーに食べさせてしまうミニー。
さらに、まんまとウンコ入りチョコパイを食わされてしまった自分を嘲笑ったという理由で、母親ミセス・ウォルターズを老人ホームにぶち込んでしまうヒリー。
女性の報復手段は陰湿極まりないシロモノだという事例をこれでもかとばかりに披露していったこの描写は、女性に対するある種の幻想を木っ端微塵に破壊してくれるだけの要素はありましたね。
ヒリーは他にも、元恋人を取られたなどという個人的な理由で、シーリアという女性を村八分状態にしてしまうというイジメな行為にも及んでいたりしますし。
女性って怖いわ、と改めて感じさせてくれる一幕でした。

しかし、ヒリーやエリザベスはアレだけ黒人をほとんどバイ菌扱いしているにもかかわらず、その黒人メイドに自身の娘の子育てをほとんど一切合財委ねてしまうというのは一体どういう感覚をしているのか、その辺は少々疑問ではありましたね。
普通、ああまで黒人に対する差別意識を持ち、かつおかしな迷信まで信じてしまうような人間であれば、むしろ自分が差別している黒人を子供には近寄せまいとするのではないのでしょうか?
にもかかわらず、ヒリーやエリザベスは自分達の娘がアレだけ黒人メイドに触られたり抱き締めあったりしても何ら反応してすらいませんでしたし。
作中でもヒリーエリザベスは「産後鬱にかかって以降はほとんど子育てを放棄して気難しくなっている」という説明がありましたが、立派なネグレクトをやらかして平然としていた辺り、自分の子供を少しも愛してはいなかったのだろうなぁ、とは考えずにいられませんでしたね。
物語のラストでエイビリーンをクビにした際、娘が別れを嫌がって泣き叫んでいたのでさえも、ヒリーや母親であるはずのヒリーエリザベスは完全に無視していましたし。
黒人差別以上に悪質な犯罪も同然のことを、ヒリーやエリザベスはよりにもよって年端もいかない子供に対して行っているように思えてならなかったのですが。

アクションもサスペンスもSFX的な描写の類も一切ないため、一般受けは結構難しいものがある作品ですね。
アメリカでは安い制作費ながらも口コミで大ヒットを記録したとの話なのですが、さて日本ではどういう結果になるのでしょうか?

※取消線と青字部分は間違いとの指摘を受けましたので修正しております。

映画「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」感想

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映画「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」観に行ってきました。
イギリス初の女性首相であるマーガレット・サッチャーの豪腕政治と知られざる素顔にスポットを当てた、メリル・ストリープ主演の人間ドラマ作品。

2008年に長女のキャロル・サッチャーにより認知症を患っている事実が公表された、イギリス元首相マーガレット・サッチャー女史。
今作では、自身を認知症だと自覚できず、介護の目をくぐり抜けて買い物に出かけたり、今は亡き夫デニス・サッチャーの幻影と会話したりして、周囲からは「厄介な患者」として扱われている、メリル・ストリープ演じるマーガレット・サッチャーが過去を回想するというパターンでストーリーが進行していきます。
一番古い回想は、第二次世界大戦当時におけるドイツ軍の空襲に備えるべく、地下倉庫?に一家で隠れているシーン。
マーガレット・サッチャーの旧姓はロバーツといい、彼女の生家であるロバーツ家はイギリスのリンカンシャー州グランサムで食料雑貨店を営んでいる家でした。
そして、マーガレットの父親アルフレッド・ロバーツは市長を務めた経験もある地元の名士。
アルフレッド・ロバーツは、ドイツの空襲下においてさえ庶民のために店を開こうとするような人物であり、マーガレットは父親を尊敬していました。
さて、そんなマーガレット・ロバーツは1950年の25歳の時、保守党から下院議員選挙に立候補するのですが、あえなく落選。
選挙結果は初めての、それも女性としての立候補としてはかなりの票数を獲得していたようだったのですが、それでも選挙の敗北はマーガレット・ロバーツにとってショックだったらしく、彼女は悲嘆にくれてしまいます。
そこで彼女を励まし、ことのついでにプロポーズまでしたのは、実業家のデニス・サッチャー。
マーガレット・ロバーツは、デニス・サッチャーに対し「私は家で皿洗いをするだけの一生は送りたくない、家庭を顧みないこともあるかもしれないが、それでも良いのか?」と迫りますが、デニス・サッチャーは「そんな君も含めて好きなんだ」と返答。
かくして二人は翌年に結婚、ここに今の我々が知る「マーガレット・サッチャー」が誕生することになったのです。

その後、マーガレットとデニスの間にはマークとキャロルという2人の男女の双子が生まれ、砂浜?で一家総出で戯れている光景が映し出されます。
作中では、「家族としての幸せはこの頃が一番の絶頂期」的な描かれ方をしています。
しかし、1958年にマーガレット・サッチャーが下院議員に初当選を果たし、政界に進出するようになると、マーガレット・サッチャーは政治に没頭するように、次第に家族を顧みないようになってしまいます。
未だ年端も行かない2人の子供が母親に「行かないで」と懇願する様は、見ていて痛々しいものがありましたね。
一方政界におけるマーガレット・サッチャーは、女性であるが故に風当たりが強く、自分を認めさせるために悪戦苦闘を強いられる日々が続くことになります。
彼女は自身の主張である「自助努力・自己責任」のスローガンの下、労働運動に明け暮れる労働組合を無力化し、効率的な企業運営ができるようにしたいと考えていました。
そんなマーガレット・サッチャーに転機が訪れたのは1970年代のこと。
あまりにも不甲斐なく弱腰な保守党に憤慨した彼女は、党首選に立候補することを考えついたのです。
この時マーガレット・サッチャーが意図していたのは、自身が党首選に立候補することによって安穏としている保守党に揺さぶりをかけることで党全体の活性化を図る、というもので、党首選で自分が当選するとは全く考えていませんでした。
しかし、周囲の政治家達は様々な思惑から、マーガレット・サッチャーを党首選に当選させるべく画策します。
最初は党首選に出るだけのつもりだったマーガレット・サッチャーも、周囲に説得され、次第に党首選に勝利する意気込みを見せ始めます。
発声練習やルックスなどについて指導を受け、党首選に当選、そしてついに1979年に女性初のイギリス首相となるマーガレット・サッチャー。
しかし、マーガレット・サッチャーが進む先には、既得権益にしがみつくイギリス国民と、フォークランド諸島を奪取せんとするアルゼンチンが立ちはだかるのでした……。

映画「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」は、物語構成にかなり大きな問題があると言わざるをえないですね。
今作の物語構成は、認知症を患っている近年のマーガレット・サッチャーが過去を回想するというスタイルで描かれているのですが、回想主である近年のマーガレット・サッチャーにかなりの時間が割かれているのです。
既に死んでいるらしい夫のデニスが、マーガレットにのみ見える幻影として何度も登場し、彼女に何度も話しかけたり、マーガレットが幻影を振り払おうとしたりする描写がとにかく頻出します。
作品全体における比率で見ても、認知症絡みの描写が5割近くを占めていたのではないでしょうか。
「認知症患者の幻覚症状の実態について描く」というのがこの作品の本当のテーマだったのではないかとすら考えてしまったくらいに認知症絡みの描写が頻出するのが、個人的には正直ウザくて仕方がありませんでした。
あんなシロモノを描きたかったのであれば、マーガレット・サッチャーを主題にもって来るべき理由自体が全くないではありませんか。
「認知症患者の幻覚症状」なんて、そこら辺の一般人を題材にしてさえ問題なく表現することが可能なのですから。
また、回想されているシーンでは序盤のプロポーズと党首選前くらいしか大きな出番がないデニスが、認知症のマーガレット・サッチャーにアレだけ絡むというのもいささかバランスを欠いています。
マーガレットがデニスについて少なからず想う部分があったにせよ、作中の少ない描写だけでその部分を表現するのには、正直あまりにも弱いと言わざるをえないところです。
現役の政治家として活躍しつつ、家族を顧みないことに一個人として葛藤するマーガレット・サッチャーの偉人伝的なものが見られると期待していたからこそ、私は今作を観に行っていたのに、認知症絡みの描写があまりにも多すぎて正直肩透かしを食らわざるをえませんでした。
マーガレット・サッチャーの素顔や葛藤を描きたかったのであれば根本的に描き方が間違っていますし、認知症患者の幻覚症状の実態をテーマにしたかったのであればミスリードな宣伝もいいところです。
認知症のマーガレット・サッチャーは物語の最初と最後に登場させるだけにして、それで空いた時間分を現役時代のマーガレット・サッチャー、特にマーガレットとデニスのやり取りに割いていた方が、もっと面白い偉人伝的なものに出来たのではないかと思えてならないのですけどね。

一方で、政治の世界にのめりこんでいくあまり、家族を顧みなくなるようになり家族の面々から避難轟々なマーガレット・サッチャーのありようは、男女平等のスローガンとしてよく謳われる「家庭と仕事の両立」の難しさを的確に表現していますね。
政治家としてのマーガレット・サッチャーは、確かに類稀な政治手腕によって功罪いずれにせよ大きな業績を残すことに成功しているわけですが、それは一方で、家族、特に幼少期時代の自身の子供達を顧みることがなかったという副作用をも生み出していたわけで。
結婚前に「家庭を顧みない」的な宣言をされていた夫のデニスは、そんなマーガレットのことなど充分承知の上だったかもしれませんが、そんなことは子供達にとっては全く預かり知らないことなのであって、子供達は自分達のことを顧みない母親をさぞかし怨んでいたのではないかと思えてなりませんでしたね。
実際、党首選前に、娘のキャロルが自分のことを見ようともしない母親に激怒して部屋から出て行く描写が作中にもありましたし。
かの偉大なるマーガレット・サッチャーをもってしてさえも「家庭と仕事の両立」という命題は極めて達成困難なシロモノだったわけで、その現実を無視して「女性の社会進出」とやらを煽って「家庭と仕事の両立」を無責任に言い立てる男女平等イデオロギーには改めて疑問を感じずにはいられないところです。
マーガレット・サッチャーのような「家庭を顧みない女性」によって一番被害を被るのは、実は夫ではなく子供なのですし、特に思春期前の子供にとって「母親が自分のことを顧みない」という事実は、その後の人生をも左右するほどに大きな影響を及ぼすものとなるのですから。
現実はともかく、すくなくとも映画内におけるマーガレット・サッチャーは、政治家としては偉大な存在であっても、私人・家庭人としてはかなり問題のある人物である、と評さざるをえないのではないでしょうか。

マーガレット・サッチャーを演じたメリル・ストリープの演技は、第84回アカデミー賞で主演女優賞を獲得するだけのことはあり、確かに特筆すべきものがあります。
しかし今作を「マーガレット・サッチャーの偉人伝」として見ると、その出来については正直かなり疑問符をつけざるをえないところなんですよね。
よって、マーガレット・サッチャーのエピソードよりも、映画に出演している俳優さんを目当てに観賞する、というのが今作の正しい楽しみ方であるのかもしれません。

映画「タイタニック(3D版)」感想

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映画「タイタニック(3D版)」観に行ってきました。
ジェームズ・キャメロン監督が製作し1997年に公開され、同監督製作映画「アバター」に抜かれるまで興行収益がギネスブックに登録されるほどの大ヒットを記録した、パニック・ラブロマンス映画の3D映像リメイク作品。
映画「タイタニック」については、私は以前にも作中の恋愛描写についてこんな感想を書いたことがあったりします↓

映画「タイタニック」の現実逃避な恋愛劇
https://www.tanautsu.net/blog/archives/weblog-entry-61.html

こんな感想記事をアップしていることからも分かるように、個人的に映画「タイタニック」は1997年の劇場公開当時に既に観賞済みであり、そのこともあって当初は無視を決め込む方針でした。
3D映像しか売りがない、という時点で敬遠するのに充分なシロモノでしたし。
ところが、以前に映画「ヒューゴの不思議な発明」で試写会当選して無料で観賞できたことに味をしめ、無差別に試写会応募をしていたところ、その中からたまたま「タイタニック(3D版)」の試写会当選が転がり込んできたんですよね。
そうなると、「まあせっかくタダなのだし、ネタ収拾も兼ねてまた観に行ってみるか」ということになって、結果今回の観賞に繋がった、というわけです。
こんな形で、実に15年ぶりに同じ映画をしかも映画館で観賞する、というのもなかなかできない経験ではありましたね(苦笑)。
ちなみに、今作の正式な劇場公開日は2012年4月7日の予定となります。

映画「タイタニック(3D版)」のストーリーは、1997年当時に公開された映画と全く同じです。
というより今作は、当時の映画を単に3D映像で観賞できるようにしたというだけですので、エピソードの追加などといった要素すらも全くなかったりするんですよね。
過去に映画館やレンタルなど何らかの形で作品を観賞した人にとっては、単なる過去作の再確認にしかなりません。
では、今作におけるほとんど唯一のセールスポイントで、かつ大々的に喧伝されている3D映像はどうなのかというと、こちらはこちらで「注意して見ていれば若干浮き出ている箇所があるのが分かる」「2D版とはかろうじて区別がつくかどうか程度」のシロモノでしかなかったりします。
もちろん、3D映画の傑作とされる「アバター」や、この間観賞した「ヒューゴの不思議な発明」などとは比較のしようもなく、これ【だけ】のために映画を観賞する価値があるのかと問われると、はなはだ疑問と言わざるをえないところです。
「アバター」と「ヒューゴの不思議な発明」が、最初の段階から3D専用のカメラを使って映画の撮影が行われていたのに対し、大多数の3D映画は「2Dで撮影し終わった映画を後付の編集加工で3D化する」という手法が取られています。
しかし、最初から3Dを意図して製作された3D映像と、後付で編集加工されたそれとでは、その出来やクオリティにおいて雲泥の格差が存在します。
もちろん、前者の方が後者をはるかに突き放して秀逸な出来なわけですが。
そして「タイタニック(3D版)」もまた後者の部類に属するのです。
それから考えると、3D映像的には「タイタニック(3D版)」が「アバター」「ヒューゴの不思議な発明」に及ばないのも当然の結果ではあったのでしょうね。
元々2Dで撮影していた「タイタニック」を、後付で3Dに加工すること自体に無理があることなんて、製作陣からして最初から分かっていたのではないかと思えてならないのですが。
実際、「タイタニック」「アバター」双方の生みの親であるジェームズ・キャメロン監督からして、以下のような発言をしていた経緯もあるみたいですし↓

アメリカ映画産業の3Dブームに暗雲!? 最低水準の3D映画の乱発に危険信号
http://www.cinematoday.jp/page/N0025070
>  後処理で3Dにした映画を観ると、往々にして画像が暗く、鮮明な立体感にも欠けるという違いが表れます。ちなみに日本でも大ヒットしたティム・バートン監督の『アリス・イン・ワンダーランド』も後処理で3Dにしたものです。後処理決定を下したバートン監督に対して、『アバター』のキャメロン監督は、「2Dで撮影した映画を3Dで公開するなど、まったくの無意味」と公の場で厳しく批判し、話題になりました。
>
>  さらにキャメロン監督はこう付け加えました。
「最近、スタジオ側のプロデューサーが、撮影が終わった後に3Dにするという決定を下す場合がある。こういったクリエイティブな事はスタジオでなく監督が行うべきである」と。

……まさか後年、他ならぬ自分自身で製作した2D映画が「後付3D化でリメイク&劇場公開される」なんて夢にも思っていなかったでしょうねぇ、ジェームズ・キャメロン監督は(苦笑)。
今回の「タイタニック(3D版)」自体が、3D映画へのこだわりを持つジェームズ・キャメロン監督に対するあてつけでも意図しているようにすら思えてならないのは私だけなのでしょうか(爆)。

3D映像関連以外で私が抱いた感想としては、「この当時のレオナルド・ディカプリオってえらい若かった上に役柄も全く違っているなぁ」といったところですね。
私が「タイタニック」以外で観賞したレオナルド・ディカプリオ主演作品と言えば、2008年公開映画「ワールド・オブ・ライズ」と、2010年公開映画「シャッターアイランド」「インセプション」があるのですが、全体を通じて「闇の世界のプロ」「妻子を愛しているが、妻の奇行に常に悩まされている」的な役柄が際立っていました。
最新の主演作である2011年(日本では2012年1月)公開映画「J・エドガー」でも、アメリカFBIの豪腕実力者にして「アメリカの影の支配者」とまで評されていたジョン・エドガー・フーヴァーを演じていましたし。
それに対し、「タイタニック」でディカプリオが演じたジャック・ドーソンは、「貧乏だけど裏表のない若者」的な役柄だった上に外見も非常に若々しく、近作の傾向とは非常に大きなギャップがあるんですよね。
「15年もの歳月で、ディカプリオも恐ろしく変わってしまったよなぁ」と改めて感慨を覚えたものでした。
ただ、当のディカプリオ自身は、自身が主演を演じたはずの映画「タイタニック」に対して必ずしも好意的ではないようで↓

レオナルド・ディカプリオ、『タイタニック』出演を後悔?
http://www.cinematoday.jp/page/N0005624
>  [シネマトゥデイ映画ニュース] レオナルド・ディカプリオが、雑誌のインタビューで、世界的大ヒットとなった『タイタニック』への出演が観客に自分のイメージを植えつけてしまった、と語った。ディカプリオは『タイタニック』と同時期に、ポール・トーマス・アンダーソン監督作『ブギー・ナイツ』でマーク・ウォールバーグが演じたポルノスターの役をオファーされていたが、「そちらを選べばよかった」と告白。「自分のことを知られれば知られるほど、アーティストにとってミステリアスな部分は奪われてしまい、役を演じていても観客に真実味を与えられなくなってしまう」と、心の内を語った。

これから考えると、近年におけるディカプリオの役柄こそが「ディカプリオが本来望んでいたもの」ということになるのかもしれないですね。

3D映像に特にこだわりを持つ人でもなければ、今作の観賞はレンタルDVDでも充分なのではないかと思わなくもないですね。
特に今回の場合は「映画の方が早く観賞できる」という利点すらも皆無ですし。

映画「デイブレイカー」感想(DVD観賞)

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映画「デイブレイカー」をレンタルDVDで観賞しました。
日本では2010年に公開されたオーストラリアとアメリカの合作映画で、人類が絶滅寸前となりヴァンパイアが世界を支配する近未来を舞台に繰り広げられるSFアクション・スリラー。
劇場公開当時は熊本での上映が全くなく、涙を呑んで観賞を見送った経緯がありました(T_T)。
作中では流血シーンが何度も登場したり、ヴァンパイアが生きながらに焼き尽くされる描写があったりするため、映画館ではR-15指定されていました。

物語の年代は2019年。
1匹のコウモリから爆発的に伝播したウィルスにより、人類の95%は不老不死となる代わりに、紫外線に弱く、人の血を飲まなければならないヴァンパイアと化していました。
一方で、ウィルスの伝播と、ヴァンパイアの食糧としてターゲットにされてしまった人類はその数を著しく減らし、今や世界全人口のわずか5%を占めるのみの少数派にまで落ち込んでいました。
ヴァンパイアの人口が圧倒的なのに、彼らの食糧となる人類が激減しているわけですから、ヴァンパイアの社会では当然のごとく食糧不足の問題が発生することになります。
ヴァンパイアは不老不死ではあるのですが、長期にわたって人間の血液を採取しない状態が続くと、脳の前頭葉が破壊されて理性が失われ、ただひたすら血を求めて凶暴化する「サブサイダー」と呼ばれるモンスターに変容してしまうのです。
渇きを癒すためにヴァンパイア同士で血を吸い合ったり、自分自身の血を吸ったりすれば、さらに「サブサイダー」までの行程が加速するというオマケつきで、「サブサイダー」も年々増加傾向にあり社会問題化しつつありました。
この問題に対処すべく、世界では血液を採取することを目的とした「人間の家畜化」が推進される一方で、人間の血に変わる代用血液の研究開発が行われていました。
しかし、絶対数が少ない人間を家畜化するだけでは採取する血液の量に限界があり、また開発中の代用血液はヴァンパイアの身体が拒絶反応を起こすなど問題が多く、実用化までには至っていないのが実情。
ヴァンパイアも人類も、それぞれ形の異なる滅亡に向かって突き進みつつある、先の展望がまるで見えない時代でした。

今作の主人公エドワード・ダルトンは、巨大製薬会社ブロムリー=マークス社で代用血液の研究に従事しているエリート研究者。
彼は元々、自分からヴァンパイアになりたかったわけではなく、人間の血を啜って生きながらえるヴァンパイアというあり方を嫌悪していました。
代用血液を研究開発していたのも、それができれば人間の血を飲まなくて済むから、という一心によるものでした。
しかし、代用血液の人体(?)実験では、血液を注射した被験体の体調が激変を来たした挙句に身体ごと爆散してしまうなど、ロクでもない成果しか上げられず、苛立つ日々が続いていました。
そんなある日の夜、エドワードは車で自宅へと帰る途中で、猛スピードで走ってきた対向車との事故に巻き込まれてしまいます。
エドワードは車の様子を見に行くのですが、車に乗っていたのは何と人間で、エドワードにクロスボウを突きつけてきます。
何故クロスボウなのかというと、クロスボウの矢が「心臓に杭を打ち込む」的な役割を果たすことでヴァンパイア殺傷の武器となるため。
しかしエドワードは、人間達を自分の車に避難させて隠し、事故を聞きつけ駆けつけた警察に嘘の情報を教えることで彼らを逃がしたのでした。
この行為に何か感じるものがあったのか、逃がしてもらった人間達のひとりであるオードリー・ベネットは、車の中にあった身分証から判明したエドワードの家を訪れ、「ひとりで来い」と言う条件付で、真昼間にとある草原へ来るようにとのメッセージを残します。
車の窓を全て遮蔽し、テレビで外の景色を確認しながら車を走行できる「日中運転モード」に切り替えて車を走らせ、メッセージの通りに草原へとやってきたエドワードは、そこでオードリーにひとりの男を紹介されます。
その男ライオネル・コーマックは、肌を紫外線に晒しても焼け爛れないことから確かに人間であるはずなのですが、首筋には紛れもないヴァンパイアの噛み跡が。
彼は、自分がかつてヴァンパイアであり、その上で人間に戻ったという過去を披露するのでした……。

映画「デイブレイカー」は、ヴァンパイアを扱った作品でありながら、既存のオーソドックスなヴァンパイア作品とは大きく一線を画する存在ではありますね。
ヴァンパイアと人間の立場が逆転していたり、それ故に食糧事情が切迫する様が描かれていたり、ファーストフード?の売店ではABO式血液型別に血が売られていたり。
日光(紫外線)に弱いヴァンパイアが日中に外で車を走らせても平気なように「日中運転モード」が搭載されている車などは、作中とは別の理由で現実にも登場しそうな実用性の高い車だったりしますし。
また、ヴァンパイアの成れの果てである「サブサイダー」を処刑する描写もなかなかユニークで、「サブサイダー」達を集団で鎖にかけ、装甲車で強制的に日向にまで引きこんで焼き殺すというもの。
日光でヴァンパイアを処刑する、という手法自体は、同じくヴァンパイアを扱っている映画「アンダーワールド ビギンズ」でも披露されていましたが、「デイブレイカー」のそれは現代ならではの光景ですね。
一方、ヴァンパイアの「永遠に生きる」という属性に希望や展望ではなく絶望を見出してヴァンパイアを忌避する人間がいたり自殺するヴァンパイアが出たりする光景は、どことなく映画「TIME/タイム」に通じるものがありました。
老いや病気を気にする必要がない(ヴァンパイアになることで癌が治った人間がいたりしますし)のに、それでもなお「永遠に生きる」ことに葛藤する、というのは一見すると理解に苦しむ話ではあるのですが、これはやはり文化的なものも絡んでいたりするのでしょうか?

作中では、ライオネル・コーマックによって、ヴァンパイアから人間に戻る方法が2つ提示されています。
ひとつは、日光を浴びて身体が燃え出した瞬間、ただちに火を消して焼死を回避すること。
二つ目は、ヴァンパイアから人間に戻った者の血液をヴァンパイアが採取すること。
原理は作中でも全く説明されていないのですが、身体が紫外線を受けて燃え上がることでヴァンパイアウィルスが死滅すると共に抗体も出来、抗体はそれを採取した者の中でヴァンパイアウィルスを安全確実に殺してしまう、といったところになるでしょうか。
この設定の面白いところは、ヴァンパイアから人間に戻った者が、血に飢えたヴァンパイア達の真っ只中に放り出された際に発生する光景にあります。
血に飢えたヴァンパイア達は、人間を見るや集団で襲いかかり、肉を食いちぎったり手足や首をもぎ取ったりしてその人間を殺して血を啜りまくります。
すると、その血を飲んだヴァンパイアは当然人間に戻ります。
ところが周囲はまだヴァンパイアで囲まれているため、今度は人間に戻った者達がさらに残存のヴァンパイア達に襲われ、最初のケースと同じやり方で殺され血を飲み干されます。
するとそのヴァンパイア達も人間に戻り、彼らもさらにその周囲のヴァンパイア達によって……という半ばネズミ講的なサイクルが、最終的にヴァンパイアがいなくなるまで延々と繰り返されるんですね。
これはヴァンパイアの一般的なイメージやあり方を逆手に取り、なおかつヴァンパイアの破滅的な欲望を表現するものとしては非常に秀逸な描写であると言えます。
描写自体はR-15指定されるほどに結構グロいのですが、ヴァンパイア好きな方にとってはこれだけでも一見の価値がある映像と言えますね。

「俺達の戦いはこれからだ!」的な終わり方をしていますが、続編あるのでしょうかね、これって。
設定自体は良く練られており、ストーリーもそれを上手く生かしているだけに、続編があったら是非観てみたいところです。

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