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カテゴリー「洋画感想」の検索結果は以下のとおりです。

映画「復讐捜査線」感想(DVD観賞)

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映画「復讐捜査線」をレンタルDVDで観賞しました。
日本では2011年に公開されたアメリカ映画で、メル・ギブソンが8年ぶりに俳優として主演を果たしたことで話題となった、イギリスBBCのテレビドラマ「刑事ロニー・クレイブン」を原作とするアクション・サスペンス作品。
この映画は一応熊本では(県内1箇所だけとは言え)映画館で上映されていたのですが、諸般の都合で結局観賞し損ねていた作品でした。
「娘が目の前で殺される」というコンセプトがある上、流血シーンもそこそこにあることから、映画館ではPG-12指定されていました。

映画の冒頭では、まず「Edge of Darkness」という英語版の原題タイトルと共に、湖?と思しき場所に水死体が3体浮かび上がってくるというシーンが映し出されます。
このシーンの意味は物語後半で明らかとなるのですが、そのシーンの後、幼い少女が海で戯れている様子を撮影しているビデオシーンが登場します。
そしてまた舞台は切り替わり、いよいよ物語本編が本格的に始まることになります。
マサチューセッツ州ボストンで刑事の職にある今作の主人公トーマス・クレイブンは、地元ボストンの駅で、久々に再会することになった娘のエマ・クレイブンを待っていました。
普通に予定通り再会して喜びを分かち合う2人。
しかし、エマを一度車に待機させ、近くのスーパーで買い物をして戻ってきたトーマスは、娘が激しく咳き込んでいる様を目撃することになります。
自宅へと帰る途中の道程で、2人はどこの家庭でも普通にありそうな普通の会話を交わします。
自宅へと帰り、あまり得意ではないらしい料理に奔走しつつ、先ほどの娘の様子が気になり、「医者へは行ったのか?」と尋ねるトーマス。
エマは「疲れているだけよ」と返答を返すのですが、エマの様子はさらに奇異な様相を呈し始めます。
鼻血を流し始めた上、嘔吐までし始め、さらに駆けつけたトーマスに対して突然ヒステリックに「医者へ行かなきゃ」と叫び始めるエマ。
娘のただならぬ様子に戸惑いつつも、トーマスはとりあえず娘の言う通り医者へ連れて行こうと外出の準備を始めます。
そしてトーマスがエマと一緒に玄関に出た、まさにその時、突如「クレイブン!」という叫びと共にショットガンが発砲されます。
ショットガンから発砲された弾丸はエマを直撃し、エマは血飛沫と共に自宅の中まで吹き飛ばされてしまいます。
トーマスは銃を取り出し応戦しようとしますが、発砲者はすぐさま車で逃走。
発砲者よりもエマのことが気になったトーマスは自宅へ取って返し、エマの元へと駆け寄るのですが、エマは既に虫の息状態。
「お前は宝だ!」と叫ぶトーマスに対して「分かっている」と応えただけで、エマはあの世へと旅立ってしまったのでした。

その後。
警察による現場検証が始まり、同僚達がトーマスを気遣って声をかけるのですが、トーマスはすっかり尖ってしまっていました。
身の危険があると忠告する同僚をトーマスは退け、その他の警官達も必要最低限の現場検証を行わせただけで退去するよう怒鳴りつけてしまいます。
ひとりとなった自宅で、娘のことを回想したり、娘の幻聴を聞いたり、大きな物音に過剰反応したりと、精神的にかなり参っている様子を見せるトーマス。
翌日、全く普通通りに警察へ出勤したトーマスは、事件について全く手がかりがないこと、警察がトーマスをターゲットにした犯行であるとして捜査を進めていることを知ります。
しかし、自分が狙われる覚えが全くないトーマスは、休職すべきではないかという警察上層部の提案も拒絶し、独自に調査を開始するのでした。
身辺整理も兼ねているのか、娘の遺品や連絡先などを洗っていたトーマスは、やがてそこから、娘が勤めていた企業に対する疑念を芽生えさせていくのですが……。

映画「復讐捜査線」を観賞していて考えずにいられなかったのは、「暗殺者の手際があまりにも悪すぎる」ということですね。
そもそも最初の暗殺からして、暗殺者は何故トーマスという目撃者が目の前にいる中でエマ「だけ」を殺した挙句そのまま逃走したのか、という疑問があります。
あの場でトーマスを生かしていたら、自分の情報が警察側に手がかりとしてもたらさせてしまうことにもなりかねない上、あの状況だとトーマスがエマから何らかの情報提供を受けている可能性も当然存在しえます。
エマだけでなくあの場にいたトーマスも一緒に殺し、さらには家捜しも徹底的に行い証拠を発見すれば回収し、去り際には家に火を放って未発見かもしれない証拠も完全に消滅させる。
そこまでやらないと、暗殺者および依頼者の目的が達成されたとは到底言い難いでしょう。
しかも、暗殺に使用した銃には、至近距離からの狙撃で周囲の住人に銃声を聞かれ自分の姿を目撃される危険性すら存在するのに「サイレンサーを装備して銃声を小さくする」といった類の工夫すら施されていませんでしたし。
まあ、あの限られた時間と状況で家捜しはさすがに難しかったにしても、トーマスも一緒に殺すという選択肢は充分に実行可能でしたし、またしなければならなかったと思うのですけどねぇ。

これだけでも暗殺者は致命的なミスを犯しているというのに、その後も暗殺者達は、素人でもやらなさそうなミスを次から次にやらかしていきます。
車で情報交換をしていたトーマスおよびエマについての情報をトーマスに提供していた人物を襲撃するのは良いとして、情報提供者【だけ】を御丁寧に区別して跳ね飛ばした挙句、トーマスに反撃のチャンスと時間的余裕を与えてしまい、案の定返り討ちにされてしまう暗殺者。
ダンプカーでも借りて車ごと潰してしまうとか、マシンガンを何丁か用意して車に大量の銃弾を奇襲的に叩きつけるなどといった手法でも使えば、トーマスも情報提供者もほとんど無傷でまとめて始末できたというのに。
襲撃するための車からしてマトモな防弾対策すら施されておらず、トーマスが所持している程度の銃で簡単に致命傷を被ってしまうありさまでしたし。
それでも物語後半では、トーマスの同僚を買収して自宅に侵入し、トーマスの隙を突いて気絶させることに成功するのですが、彼らは後始末の手間でも考えたのか、トーマスをその場で殺さなかったんですよね。
で、軍需企業ノースモアの廃屋?に閉じ込めたまで良かったのですが、何と暗殺者達はトーマスの自由を奪うに当たって手錠で両手を拘束し(あまり頑丈でもない)ベッドに括り付けただけで常時の見張り番もつけず、それどころか監視カメラすらも設置せず放置していたんですよね。
結果、トーマスは自力で拘束を破ってしまい、逃走に成功してしまう始末。
さらには、全ての真相を知ったトーマスが捨て身で襲撃してくるであろうことを予測することもできず、それどころか屋敷の警備を強化することすらもせず、何の芸もない正面攻撃をみすみす許してしまうという形でトーマスの復讐を完遂させられてしまったのでした。
この中の何かひとつでも彼らがやるべきことをきちんと適正に行っていれば、初回のミスも充分に挽回することができたというのに。
トーマスが結果として娘の復讐を遂げることができたのは、トーマスの執念などよりも遥かに高い比率で「暗殺者達の無為無能」という要素があったとしか思えないのですけどねぇ(苦笑)。

復讐劇としてはサスペンスも絡めていて上手い構成ではありますし、メル・ギブソンの演技も往年のカッコ良さを感じさせるものではありましたが、暗殺者達の手腕をもう少し「プロの仕事」にふさわしい洗練されたものにして欲しかったところです。
まあ、その手のプロフェッショナルでもない一介の刑事が超人的なアクションで敵を次々となぎ倒していく、というのも違和感だらけの設定ではあるのでしょうが、やはり敵側の守りも攻めも常識では考えられないほどに脆すぎるよなぁ、と。

映画「シャーロック・ホームズ シャドウゲーム」感想

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映画「シャーロック・ホームズ シャドウゲーム」観に行ってきました。
アーサー・コナン・ドイル原作の同名小説を原作とする、ロバート・ダウニー・Jrとジュード・ロウの2人が主演のミステリー・アクションコメディ映画「シャーロック・ホームズ」の続編作品。
その前作「シャーロック・ホームズ」は、2012年3月18日にテレビ朝日系列の日曜洋画劇場で放映される予定なのだとか。
私は公開初日の今作観賞にこだわったのでレンタルDVDで前作を観ることにしたのですが、今作を観に行かれる予定だけど前作をまだ観ていないという方は、そちらを観賞してから映画館へ行くのも一手なのではないかと。

今作のラスボスは、前作でも一応は登場していたものの、配役が公開されず全体像すら描写されることのなかったジェームズ・モリアーティ教授。
前作から1年後が舞台となる今作では、そのモリアーティの暗躍による、無政府主義者の犯行に見せかけた連続爆破事件がヨーロッパの各地で相次いでいました。
そして、これまた前作同様にモリアーティのパシリ的な役割を担わされ、誰かに何かを渡そうとしているアイリーン・アドラーに、主人公シャーロック・ホームズが接近するところから今作の物語は開始されます。
アイリーンに対し、怪しい男が3人ほどアイリーンを尾行していると忠告するホームズ。
2人は狭い路地に入って尾行を撒いたかに思われたのですが、前方から出てきたひとりの男に道を塞がれることに。
実は怪しい男の数は総計4人で、かつ男達はアイリーンを尾行ではなく護衛するべく距離を置いて付随していたのでした。
護衛4人にホームズの相手をするよう命じ、その場を離れてしまうアイリーン。
結果、ホームズは大の男4人を相手に格闘戦を繰り広げる羽目に。
しかし、前作でも見せていた脳内シミュレーションを駆使したアクションで、ホームズは4人の男を撃退することに成功します。
一方、ホームズと別れたアイリーンは、とあるオークション会場でホフマンスタールという高名な医師に出会い、彼から手紙を受け取るのと引き換えに小包を渡します。
しかしそこへ、4人の男を撃退したホームズが登場、アイリーンから手紙を奪い取ると共に、その場で小包を開け中身が爆弾であることを暴きます。
ホームズはただちにホフマンスタールとアイリーンを含めたオークション会場の人間を逃がすと共に、オークション会場で売られていた巨大な棺?に爆弾を放り込んでフタをすることで爆弾を処理することに成功するのでした。
ところが、その後ホフマンスタールは暗殺されてしまい、アイリーンもまた、モリアーティとの打ち合わせの際に毒を盛られ殺されてしまうのでした。

それから暫く経った頃、ホームズが居住しているベイカー街のアパート?に、ホームズの相棒であるジョン・ワトソン医師が訪ねてきます。
前作でも自室で奇矯な実験を繰り広げまくっていたホームズでしたが、今回はさらに自室の入り口付近をジャングルに変えてしまった上、部屋内の壁と同化してワトソンにオモチャの矢を射掛けるという奇行を見せつけています(笑)。
実はこのホームズの行動はラストの伏線にもなるのですが、そのホームズの奇行にすっかり慣れ切っているワトソンは、アパートの管理人?であるハドソン夫人をなだめすかしつつ、ホームズの話を聞くのでした。
そして、前作で恋人となっていたメアリーとの結婚式を翌日に控えているワトソンは、独身最後の夜を楽しむべく、ホームズと共にとあるクラブへと向かうことになるのですが……。

映画「シャーロック・ホームズ シャドウゲーム」を観賞していて少し驚いたのは、前作でヒロインを演じたアイリーン・アドラーの、序盤という早い段階でのあっさりとした退場ですね。
前作におけるアイリーンは、ルパン三世でいうところの峰不二子的ポジションなキャラクターでしたから、もう少ししぶとく生き残るのではないかと考えていたのですが。
アイリーンに代わって今作のヒロインとなったマダム・シム・ヘロンは、アイリーンで見られたようなホームズとの人間関係的な絡みがほとんどなかったこともあり、いかにも「ぽっと出」なイメージが拭えませんでしたし。
演出的には、今作でも引き続きアイリーンを活躍させておいた方が良かったのではないかなぁ、とは正直思わなくもなかったですね。
逆に、前作では顔見せ程度の出番しかなかったワトソンの恋人(序盤で結婚してワトソン夫人となる)メアリーは、前作よりもそこそこに多い出番と活躍の場が提供されていました。
まあ彼女も、新婚旅行へ向かう列車で生命を狙われたり、ホームズによって川に突き落とされたり(ホームズの計らいですぐに助けは来ましたが)と散々な目に遭ってはいるのですが(苦笑)。

さて、原作でも「シャーロック・ホームズ最大の敵」として描かれているジェームズ・モリアーティ教授との対決ですが、全体的にホームズの方がモリアーティ教授に押されている感が否めなかったですね。
推理や頭脳戦では確かにホームズの方がモリアーティ教授を上回ってはいるのですが、今回のシリーズでメインとなっているアクション面では明らかに遅れを取っている感がありありでした。
特にドイツの軍需工場に潜入した際のホームズは、モリアーティ教授に一度囚われの身となってしまう上、逃げる際にも銃弾を受けて呼吸停止という事態にまで至っていますし。
ワトソンの機転と治療がなかったらホームズが死んでいたことは確実で、いかにホームズでも単独ではモリアーティ教授に勝てないことが明示されていました。
ラストの対決でも、この時肩を負傷していたことが仇となって、半ば心中同然の選択肢しかホームズは取れなかったわけです。
前作でもそうでしたけど、どうにも今回の「シャーロック・ホームズ」シリーズでは「短気で考え無しの無茶な行動に出るワトソンの活躍あってこそのホームズ」という構図がかなり強く出ていますね。
ホームズが如何にその優れた推理力を発揮しようと、死んでしまっては全く意味がないわけで、その辺りでホームズを過度に超人扱いせずバランスを取ってはいるのでしょうけど。
ホームズとモリアーティ教授の最終決戦も、脳内シミュレーション以外はずいぶんとあっさりとした決着でしたし、いくらメインに持ってきていても所詮「シャーロック・ホームズ」シリーズはアクション映画ではありえないのだなぁ、と。
まああの2人がスパイアクション映画クラスの派手なアクションを延々と繰り広げていたりしたら、むしろその方が変ではあるのですが(笑)。

ラストの「THE END」の最後に「?」を付ける終わり方は如何にもロバート・ダウニー・Jr演じるホームズらしい悪戯ではありましたね。
あの終わり方だとまた続編が製作されることになりそうではあるのですが、もし続編が製作されるとしたら、今度の敵は果たして一体誰になるのやら。
前作のラストは明確にモリアーティ教授が次回のラスボスになるという引きでしたが。
ホームズと同じく死体が見つかっていないということでモリアーティ教授の復活&再登場となるのか、それとも「ルパン対ホームズ」辺りのエピソードでも流用してルパン(もちろん三世ではなく一世の方)を出してくるのか、はたまた原作にも全く登場していない未知の敵になるのか……。
作品自体は結構面白く見応えのあるシリーズではあるので、さらなる続編の構想があるのなら是非とも作ってもらいたいところではあるのですけどね。

映画「シャーロック・ホームズ」感想(DVD観賞)

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映画「シャーロック・ホームズ」をレンタルDVDで観賞しました。
日本では2010年に公開されたアメリカ映画で、アーサー・コナン・ドイル原作の同名小説を原作とする、ロバート・ダウニー・Jrとジュード・ロウの2人が主演のミステリー・アクションコメディ作品。
劇場公開当時は諸般の事情により未観賞。
2012年3月10日には、今作の続編となる「シャーロック・ホームズ シャドウゲーム」が日本公開される予定です。

「シャーロック・ホームズ」と言えば、言わずと知れた世界的に有名なミステリー小説の探偵の名でもありますが、ロバート・ダウニー・Jrが演じる今作の主人公シャーロック・ホームズは、巷で知られているそれとはまた一味違った性格や特徴を持っています。
奇矯な性格で奇矯な言動ばかり披露し、自身が居住しているベーカー街の下宿アパート?内で銃をぶっ放したりするなど、他の住民達にも恐怖と奇異の目で見られているホームズ。
一方では武術家としての面も併せ持っていて、徒手空拳の状態でスローモーション解説を交えながら相手をボコボコにしていく描写が2回ほど披露されています。
また、ジュード・ロウが演じるジョン・ワトソン医師も、ホームズのボケに対してツッコミを入れまくるという役柄が新たに付加され、やたらと短気な言動を披露したり、時にはホームズを殴りつけたりするという言動を見せつけていたりします。
傍目に見ている分には、ワトソンの方がホームズよりも立場が上なのではないかとすら思えてくるほどです(苦笑)。
この2人と、オカルティックな黒魔術&超常現象っぽい演出を駆使してイギリスの頂点に君臨しようとするヘンリー・ブラックウッド卿による知略戦&アクションを繰り広げるのが、今作のメインストーリーとなります。

物語の本編は、そのブラックウッド卿が女性を横たえて怪しげな儀式を進行している地下神殿?にホームズが乗り込み、紆余曲折の末に儀式を阻止して女性を助け出し、ブラックウッド卿を逮捕させたところから始まります。
その女性の殺人未遂と、それ以前に行われた複数の女性の連続殺害容疑で、ブラックウッド卿には絞首刑による死刑が宣告されます。
ところがブラックウッド卿の周囲では奇々怪々な現象が頻発した上、卿は「処刑されても生き返る」と不気味な宣言すら行います。
果たして、彼は絞首刑で普通に処刑され、検死の役を担ったワトソンが絞首されたブラックウッド卿に脈がなく死亡したことを確認したにもかかわらず、彼が埋葬された墓は内側から破られ、棺には全く別の死体が入れ替わっていたのでした。
一連の事件でロンドン中がパニックに陥る中、レストレード警部の依頼で、ホームズとワトソンはブラックウッド卿の行方を追い始めるのですが……。

映画「シャーロック・ホームズ」は、原作のミステリー要素も色濃く反映する一方、新機軸であるアクションやコメディにもかなりの力を入れています。
ホームズとワトソンは、ブラックウッド卿の刺客によって幾度も危機に晒され、その都度アクションと機転で危機を脱していますし、また一方ではホームズとワトソンの間で漫才のごときボケツッコミな会話が何度も行われています。
ロバート・ダウニー・Jrは、今作でゴールデングローブ賞におけるミュージカル・コメディ部門主演男優賞を受賞したとのことですが、確かに受賞にふさわしいレベルのコメディタッチなホームズを見事に演じていましたね。
映画「アイアンマン」シリーズ「デュー・デート ~出産まであと5日!史上最悪のアメリカ横断~」でも、シリアスながらもどこかコメディ的なお笑い要素を併せ持つキャラを演じきっていましたし。
外見はガタイが良くアクション映画向きの俳優に見えるのに、実はコメディの方が本領発揮できるというのは何とも奇妙な話ではあるのですが。
ロバート・ダウニー・Jr本人的にはアクションとコメディのどちらが自分の望む姿であるのか、少しばかり興味をそそられるところですね。

また、作中で展開されている黒魔術や超常現象の類は、その全てがホームズによって種明かしが披露され、科学的な理論に基づいた説明が行われています。
終盤で作中における全てのトリックを矢継ぎ早に説明しまくるため、理解が追いつくのに苦労する部分もあるのですが、やはりこれこそがミステリーならではの醍醐味ではありますね。
19世紀後半のイギリスだと、まだ科学の知識なども現在ほどには普及していなかったでしょうし、オカルトを演出する道具としての科学には相応の利用価値があったのも頷けます。
実際、作中でも黒魔術や呪いに本気で恐れおののくロンドン市民の姿が映し出されていましたし。

作中では、今作におけるラスボスとも言えるブラックウッド卿の他に、原作でホームズ最強の敵として立ちはだかることになるモリアーティ教授も登場しています。
ただし、モリアーティ教授は実質声だけの出演に等しく、全身像すらマトモに映し出されない有様でしたが。
モリアーティ教授は、今作の続編である「シャーロック・ホームズ シャドウゲーム」で本格的に登場するようなので、彼とホームズとの戦いが今から楽しみですね。

映画「ラスト・ターゲット」感想(DVD観賞)

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映画「ラスト・ターゲット」をレンタルDVDで観賞しました。
日本では2011年に公開されたアメリカ映画で、マーティン・ブースのミステリー小説「暗闇の蝶」を原作とするクライムアクション・ドラマ作品。
劇場公開当時、この映画は熊本では例によって全く上映されておらず、観賞を見送った経緯がありました。
作中には複数の濡れ場シーンや女性が裸になる描写があることから、映画館ではPG-12指定されていました。

物語は、雪に覆われたスウェーデンのダラルナの針葉樹林地帯にひっそりと建っている小さな一軒家が映し出されるところから始まります。
一軒家の中では、やることでもヤッていた後なのか、裸になっている女と服を着ている髭面の男の2人がじゃれあっていました。
やがて夜が明け、2人は外に出て会話を交わしながら散歩を始めます。
2人がしばらく歩いていると、見渡す限りの雪原に人間のものとおぼしき足跡が見つかります。
それを見た男は顔色を変え、女を岩陰まで引っ張り走り始めます。
そして岩陰に隠れた途端に響く銃声。
男は直ちに銃を発砲した人間の所在を確認すると、隠し持っていた拳銃で反撃し、発砲者を始末することに成功します。
発砲者を始末した後、男は女に「警察を呼びに行け!」と命令し、何が何だか分からない状態で女はその命令に従い、男に背を向けて歩き始めます。
すると男は、女の背後から銃を発砲し、女を殺してしまったのでした。
さらに男は、少し離れたところで待機していたらしいもうひとりの襲撃者をも奇襲的に始末します。
男は襲撃者の車を奪いその場を後にし、付け髭を取って一路イタリアのローマへと向かうのでした。

ローマに到着すると、その男ジャックは、組織の連絡役であるパヴェルと接触します。
ジャックから事のあらましを聞いた後、パヴェルは事態の全容が把握されるまでしばらくローマから遠く離れたカステルヴェッキオという町に身を隠すよう指示を下します。
誰とも話さず、ましてや友人も作るな、と忠告した上で。
指示の通りにカステルヴェッキオの町に到着したジャックなのですが、しかし何か気に入らないことでもあったのか、カステルヴェッキオの町を出てそこからさらに先にあるカステル・デル・モンテへと向かうことになります。
しかもその途中で、連絡用にと渡されていたはずの携帯電話をも投げ捨てて。
そしてジャックは、カステル・デル・モンテで小さな部屋を借り、アメリカ人カメラマンのエドワードという仮の身分と偽名を使い、その地で身を落ち着けることになるのですが……。

この映画は、メインストーリーの元となるプロローグに上映時間の大部分を使ってしまっているように思えてなりませんでしたね。
ストーリー前半は「カステル・デル・モンテでの日常生活」というひたすら退屈な描写が延々と続きますし、アクションシーンもほとんどありません。
一般人の日常と違うところと言えば、せいぜい組織から依頼された銃を製造するエピソードくらいですね。
ストーリーが本格的に動き始めるのは、物語開始から何と80分以上も経過した頃で、売春宿で知り合った女と一緒になるために組織から足を洗うと決意することから、ようやく本当の物語が始まるんですよね。
物語後半で若干展開されるアクションシーンも派手さはなく、むしろ静かに淡々と進行していく感じです。
よって、ハリウッド映画的な派手な描写を期待してこの作品を見ても、得られるものはまずありません。
どちらかと言えば、静かな雰囲気とイタリアの田舎町の風景を楽しむための作品、といったところではないかと。

ただ、こういう映画を見ると、全国上映されない映画というのにはそれ相応の理由があるのだなぁ、とは思わずにいられないところですね。
映画の内容がこれでは、仮に全国上映されたとしても興行的に失敗するのは目に見えています。
映画館や配給会社にしてみれば、スクリーン数も限られているわけですし、上映しても売上が見込めない映画よりも、成功する公算が高い映画を導入した方が利益になるのですから、そちらを優先的に注力したいというのが本音でしょう。
東京などのような大都会であれば、それでも客入りはそこそこあるでしょうからまだ利益も出せるかもしれませんが、熊本のような地方ではそれも無理なわけで。
この構図を何とかしないと、映画の地域格差というのはそう簡単になくなることはないでしょうね。
地方在住の人間としては何とも残念なことではあるのですが(T_T)。

映画「戦火の馬」感想

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映画「戦火の馬」観に行ってきました。
イギリスのマイケル・モーパーゴ原作の児童小説を、スティーブン・スピルバーグが実写映画化した作品。

物語最初の舞台は、第一次世界大戦前夜のイギリス・デヴォン州。
この地にある牧場?で、一匹のサラブレッドの子馬が生まれるところから物語が始まります。
子馬が生まれるまでの一部始終を遠巻きに見物していたアルバート・ナラコットは、子馬が母馬離れするまでの間、子馬と仲良くなろうとしますが、子馬はアルバートから逃げ母馬の後ろに隠れるばかりで上手くいきません。
やがて子馬は、地元の市場で競売にかけられることになったのですが、そこへアルバートの父親であるテッド・ナラコットが居合わせます。
元々は農耕馬を買うために市場へとやってきていたテッドでしたが、競売にかけられていた子馬に何か惹かれるものでもあったのか、テッドは貧しい家の家計事情も顧みず、大金をはたいて子馬を購入してしまいます。
農耕馬を買うと思っていた妻のローズ・ナラコットは、家計を傾けるレベルの大金を投じて農耕に向かないサラブレッドなどを買ってきたテッドに当然のごとく激怒し、土下座してでも馬を返品してカネを取り戻して来いとテッドに詰め寄ります。
しかし、元々子馬を持つことに憧れていた息子のアルバートが割って入り、「自分が農耕できるように調教する」と説得し、何とか子馬を手放すことは避けられたのでした。
アルバートは子馬にジョーイという名前を付け、その日からアルバートによるジョーイの調教の日々が始まるのでした。
ジョーイは最初、冒頭と全く同じようにアルバートを警戒し近づこうとすらしないのですが、やがてアルバートが差し出した餌をちゃんと食べるようになります。
また、フクロウの鳴き声を真似た口笛を吹くことで自分の所へやってくる芸を仕込み、これも最初は無反応だったのを、最終的にはマスターさせることに成功。
そして最後には、石ころだらけの荒地を鋤で耕す訓練を始めるようになり、「そんなことできるわけないだろ」と周囲からの嘲笑を買いながら悪戦苦闘を続けた末、ジョーイは遂に農耕馬として自分が使える存在であることを証明してみせたのでした。
そして、これらの調教は、ジョーイの今後の運命に大きな影響を与えることになるのです。

ジョーイの調教は充分以上の成果を上げることができたアルバートでしたが、彼の能力とは関係なくナラコット一家には破局の危機が迫っていました。
元々ジョーイを買うために大金を投じたことが響いた上、せっかくジョーイを使って荒地を開墾して作ったカブ畑も暴風雨で全滅するという不運に見舞われてしまい、地主であるライオンズに支払う地代が調達できなくなってしまったのです。
そんな折、世界ではオーストリア皇太子がセルビアのガヴリロ・プリンツィプによって暗殺されたことが発端となって第一次世界大戦(欧州大戦)が勃発、イギリスもまたドイツに宣戦布告し連合国側に立って参戦することになったのです。
これを好機と見たテッドは、息子にも内緒でジョーイをひそかに運び出し、軍に売り飛ばすことを画策するのでした。
事態に気づいたアルバートがただちに駆けつけるも時既に遅く、ジョーイは軍馬として取引されてしまった後でした。
悲嘆に暮れるアルバートでしたが、ジョーイを買い取ったイギリス騎兵隊所属のニコルズ大尉はアルバートに同情し、ジョーイの世話をきちんと行うことと、戦争が終わったら必ずジョーイをアルバートへ返すことを約束します。
それでもジョーイと一緒にいたいアルバートは軍に志願しようとしますが、年齢制限を理由に拒絶されてしまいます。
しかたなくアルバートは、かつて父親が戦争に参加した際に所持していたという小さな軍旗?をジョーイの手綱に結びつけ、ジョーイと袂を分かつこととなるのでした。

ニコルズ大尉と共にフランスの戦場へと向かうことになったジョーイは、その初陣とも言える戦いで、ドイツ軍歩兵600に対し300の騎兵隊で突撃奇襲をかける作戦に従軍することになります。
しかし、この作戦は最初効果を上げたかと思われたのですが、森に避難したドイツ軍が隠していた大量の機関銃による一斉射撃であっさり形勢逆転、逆にイギリス軍の方が壊滅してしまい、ニコルズ大尉も戦死してしまうのでした。
ジョーイは他の馬達と共にドイツ軍によって捕らえられ、以後、自分と同じ境遇のトップソーンという黒馬と共にドイツ軍の負傷者輸送用の馬として使われることになるのですが……。

映画「戦火の馬」を観ていて疑問に思ったのは、アルバートの父親テッドについてですね。
テッドは作中で、過去に戦争に参加して味方を助けて足に障害を負い、そのことが讃えられて勲章と所属連隊の小さな軍旗を貰いながらも、「戦場で人を殺してしまったから」とそのことを誇りに思わず勲章を捨ててしまった(ただしテッドの妻のローズがこっそり保管していた)というエピソードが、ローズからアルバートに語るシーンが存在します。
このシーンが影響しているのか、アルバートは母親から貰った小さな軍旗を大事にしており、ジョーイとの別れの際にはそれをお守り代わりにジョーイの手綱に結びつけ、さらに物語のラストでは父親と抱き合い、人から人へと渡ってきた小さな軍旗を父親に返す、というシーンが展開されています。
しかし、作中におけるテッドは、農耕馬として役に立つかも分からないジョーイに大金を投じて家計を危機に陥れたり、ジョーイに銃を向けて殺そうとしたり、息子に無断でジョーイを軍馬として売り飛ばしたりと、全く良いところが見出せません。
アルバートの視点から見た父親テッドは、母親ローズの擁護が空しく思えてすらくるほどに「障害持ち&酒飲み&生活無能者&家庭内暴君」とダメ人間要素が満載の人物でしかないのです。
父親の過去に何があろうと、それは今現在における父親の言動を正当化するものではありえないのですから。
そんな父親が持っていた小さな軍旗を、何故アルバートが後生大事にしなければならないのか、実に理解に苦しむところがあります。
特に、ジョーイを軍に売り飛ばした件などは、たとえ家計が苦しいという事情を理解していてさえも反発を抱かざるをえないところですし、ましてや、あの時の父親の行動は息子に対する裏切り行為も同然です。
何しろ父親は、息子に対して「こういう事情があるから(ジョーイを売ることを)理解してくれ」といった類の説得すらも行っていないのですから。
もちろん、説得したところで、ジョーイに愛着がある息子が激烈に反発&反対するのは必至だったでしょうが、家の苦しい事情はアルバートだってきちんと理解しているのですから、最終的には納得という方向に行かざるをえなかったでしょう。
しかし、渋々ながらも納得してジョーイを売りに出されるのと、自分に無断でコソコソと売りに出されるのとでは、アルバートが受ける精神的ショックは桁違いなものになります。
ただでさえテッドには、農耕馬として役に立たないと見做したジョーイを息子の目の前で撃ち殺そうとした前科を持っているのに、そこへ来てさらにこの裏切り行為が重なるのです。
アルバートのジョーイに対する愛情を考えれば、アルバートは父親に対して憎悪どころか殺意すら抱いてもおかしくありません。
実際、件の場面でもアルバートは父親に対して「酷い」となじっていましたし。
にもかかわらず、ラストシーンではジョーイに乗って帰ってきたアルバートがテッドと抱き合うシーンが普通に展開されているのですから、大いに違和感を覚えざるをえませんでした。
あの場面ではむしろ、アルバートが父親に対して「ジョーイに近づくな!」と怒鳴りつけ、例の小さな軍旗を父親に叩きつける、といった光景でも繰り広げられる方がはるかに自然なくらいです。
まあ、父親のジョーイ売り飛ばし所業からあのラストシーンまでは最大4年近い時間が経過しているわけですから、その間に父親と息子が和解していた可能性もなくはないのですが、それならそれで、2人が和解するに至ったエピソードが作中に挿入されていないと、あのラストシーンには繋がらないのではないかと。
この父親テッド絡みの描写は、これまでのスピルバーグ作品には全く見られなかったもので、それも「あってはならない」的な最悪の部類に属するシロモノです。
細かいところではツッコミどころもあるにせよ、登場人物の設定そのものに重大な問題があってストーリーに多大な違和感を覚えたスピルバーグ作品というのは、今回が初めてでしたねぇ(-_-;;)。

あと、馬のジョーイが途中で出会うことになるドイツ軍脱走兵の2人、兄ギュンターと弟ミヒャエルのうち、特に弟の方が実に哀れに思えてなりませんでした。
ミヒャエルは別にドイツ軍から積極的に脱走したかったわけではなく、むしろ戦って軍功を上げたいとすら考えていたくらいなのに、母親との約束に固執したギュンターに無理矢理引き摺られる形で軍を脱走する羽目になった挙句、兄共々脱走罪で銃殺されるという最悪の末路を辿ることになったのですから。
これではミヒャエルは「兄のせいで殺された」も同然ではありませんか(T_T)。
兄は兄で、何故そんな危険極まりない「賭け」で助かると考えていたのか理解不能です。
大戦末期ならともかく、大戦がまだ始まって間もなくドイツ軍が優勢だった時期に、仮に脱走に成功して母親の元に返ったところで、ドイツ軍なり当局なりから後日改めて実家に連絡が行って脱走罪の容疑で逮捕されることなんて普通に目に見えていたはずなのですが。
母親と合流後、さらに当時中立国だったスイス辺りにでも逃げる計画があったのでしょうかね?

映画「戦火の馬」は、アカデミー賞6部門にノミネートされていた(賞そのものはひとつも受賞できていませんが(T_T))だけあってか、風景や戦争描写や馬の描き方などについてはさすが秀逸な出来ではあります。
アルバートとジョーイの再会も感動的ではありましたし、これで父親絡みの描写がないか、ラストは父親が既に他界でもしていたことにするか、あるいは映画「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」のごとき大逆転劇でもあれば言うことはなかったのですが(T_T)。

映画「顔のないスパイ」感想

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映画「顔のないスパイ」観に行ってきました。
旧ソ連時代の凄腕スパイ「カシウス」の行方を巡って繰り広げられる、リチャード・ギア主演のスパイ・アクション作品。
「顔のないスパイ」は邦題タイトルで、映画の原題は「The Double」。
元々今回は、3月1日が映画「ヒューゴの不思議な発明」の公開初日&ファーストディ(映画の日)ということもあり、当初はそちらを観賞する予定でした。
ところが「ヒューゴの不思議な発明」は、全く思いもよらなかった試写会当選のおかげで予定よりも早く、しかも無料での観賞が可能となったことから、結果的に3月1日の予定が空いてしまったんですよね。
しかし、せっかくのファーストディなのだからこの日に映画を観ないと損だということで、本来は2月26日の日曜日に観賞する予定だった今作をこちらに持ってきた、というわけです。
映画を安く観賞できるという特典がある日を、逃がすわけにはいかないですからねぇ(^_^;;)。

物語は、ロシアと密接な関係を持っていた上院議員が暗殺される事件が勃発するところから始まります。
上院議員が殺される光景は監視カメラにも捕らえられていたのですが、犯人の顔は識別不可。
しかし、殺しの手口が細いワイヤーを使って首を切り裂くという手法で、かつ切り裂きの手法が、旧ソ連時代に活躍したと言われる往年の凄腕スパイ「カシウス」が多用していたものと同一であったことから、「カシウス」が復活したのではないかと囁かれました。
事態を重く見たCIAは、かつて「カシウス」を半生にわたって追い続け、今では引退している元CIAエージェントのポール・ジェファーソン(今作の主人公)を呼び戻し、FBIの若手捜査官ベン・ギアリーと共に「カシウス」の捜査に当たらせます。
ベンは「カシウス」を題材にした修士論文を書いたほどに「カシウス」に精通している人物で、今回の事件が「カシウス」の仕業だと最初に主張したのも彼でした。
これに対し、ポールは「カシウスは既に死んでおり、今回の事件は模倣犯の仕業である」と主張、2人の意見は対立します。
それでも2人は、「カシウス」がリーダーを務めていたとされる暗殺組織「カシウス7」の生き残りメンバーで現在は獄中にいる人物から、情報を引き出すべく面会に臨みます。
そこで2人は、獄中の男にラジオ?を渡すのと引き換えに、「カシウス」が暗殺者の掟を破ったことで罰を受けたという新事実を知ることになります。
その後、獄中の男はラジオ?の中にあった電池を飲み込み、体調不良を訴えて自身を病院に運ばせると共に、医療スタッフ達の隙を突いて脱走することに成功します。
しかし、脱走した男が逃げた先で待ちかまえていたのは、何と先ほど男と面会していた2人のうちのひとり、ポールだったのです。
脱走男との対峙の中で、自分が「カシウス」であることを告白し、愛用の武器である腕時計仕込みのワイヤーで脱走男を惨殺してしまうポール。
ポールはその直後に、「カシウス」こと自分自身にいずれ辿り着くかもしれないベンを今のうちに殺そうと、彼の家でその機会を伺うのですが、庭にひとり出ていたベンを奥さんが家から出てきて話しかける光景を見て思い直したのか、結局何もすることなくその場を後にするのでした。

その後、ポールが惨殺した脱走男が発見され、現場検証が行われるのですが、全ての真相を知っているポールも知らぬ顔で現場検証に参加しています。
そればかりか、相棒のベンに野次馬のひとりを指し「あいつが来ている服はロシア製だ」などと指摘して追跡劇を演じ、捜査を悪戯にかき回したりする始末。
ただ、これがひとつのきっかけになって互いに打ち解けたのか、ベンはポールを自宅に招いて食事を共にしたりもするようにもなったのですが。
一方、捜査が進んでいく過程で、「カシウス」と同じ時期に姿を消した、元KGB特殊部隊(スペツナズ)所属のボズロスキーという男が浮上してきます。
CIAは、ポールの正体について何ら疑問を抱かぬまま、ボズロスキーを「カシウス」と見て追跡調査を進めていくことになるのですが……。

映画「顔のないスパイ」を観賞していく中で私がまず連想したのは、1997年(日本では1998年)公開の映画「ジャッカル」でしたね。
映画「ジャッカル」は、今作と同じくリチャード・ギアが主演で、かつブルース・ウィリスが悪役というタッグの実現で当時話題を呼び、これまた今作と同じくスパイ同士の駆け引きとアクションをメインとしたストーリーが展開されていた異色の作品です。
主演が全く同じということに加え、スパイ・アクションという映画のジャンルも同一、さらには作中の主人公の設定にも「身内を殺されたことから復讐に走る」という共通項があるとくれば、やはり「ジャッカル」を想起せずにはいられなかったところでして(^^;;)。
ただ、「ジャッカル」と今作では14年以上もの開きがあるためか、リチャード・ギアの外見がすっかり様変わりしていたのが結構印象に残ったものでした。
「ジャッカル」の時はブルース・ウィリスよりも若く見えていたリチャード・ギアでしたが、今作では役柄にふさわしい容貌になっていましたし。
物語の中盤頃までは主人公の復讐の設定が出てこなかったこともあり、「『ジャッカル』におけるブルース・ウィリスの役柄をリチャード・ギアが担っている」とまで考えていたくらいでした(^^;;)。

今作で少し疑問に思ったのは、「カシウス」が関わったとされる全ての事件の写真にポールが写っていたことから、ベンが「カシウス=ポール」の図式に気づくところですね。
ポールはCIA現役時代に「カシウス」を長年にわたって追いかけている、という設定が最初から明示されているのですから、「カシウス」絡みの事件全てでポールが映し出されていること自体は何ら不自然なことではありません。
ボズロスキーを単身追いかけていたポールの行き先で例の「カシウス」の犯行以外の何物でもない手法で殺されていた遺体をベンが目撃する描写がありましたから、この時点で「カシウス=ポール」の疑いが出てきたという事情もあった(この時点で「カシウス」候補は、未知の第三者を除外すればボズロスキーとポールの2人に絞られる)のでしょうが、それにしてもアレではまだ決定打とは言えないよなぁ、と。

また、物語終盤で「実はベンもまたポールと同じくロシアのスパイだった」という事実が明かされます。
何でも彼は、ロシアを裏切った「カシウス」ことポールを抹殺するために10歳の頃にロシアから派遣され潜伏していたスパイだったのだそうで、上院議員殺しも彼が「カシウス」を炙り出すために行った犯行なのだとか。
どことなく映画「ソルト」を髣髴とさせるようなエピソードではありますね。
ただ、作中には目に見えてそれと分かる伏線や説明が全くなく、いかにも唐突に出てきた感は否めませんでした。
後から物語全体を俯瞰して考えると、冒頭の上院議員殺しと「修士論文まで書くレベルのカシウスマニア」というベンの設定に関連性があったことが分かり「ああ、なるほど」と納得もできた(「カシウス」の手法を熟知しているからこそ「カシウスの犯行」をも再現できた)のですが、作中ではこれといった説明もないですし、普通はまず気づかないのではないですかね、これって。

それにしても「ソルト」といい今作といい、映画の世界におけるアメリカってとことんスパイに弱い体質をしていますね(苦笑)。
安全保障上の問題が浮上してもおかしくないほどに、スパイに浸透され放題ではありませんか。
まあ「アメリカの場合は」エンターテイメントならではお約束ではあるのでしょうし、また今作の場合は「The Double」という映画の原題にも関わってくる(二重スパイが2人)ので、落としどころは上手いとは思いましたが。
これがスパイ防止法すらも成立していない日本だと、現実自体が「映画の世界のアメリカ」よりもさらに悲惨な惨状を呈しているために、笑いすらも出てこないのが何とも言えないところで(T_T)。

アクションよりもスパイならではの葛藤や人間ドラマに重きをおいているストーリー構成ですが、リチャード・ギアのファンの方なら観て損はしない映画なのではないかと。

映画「デビルクエスト」感想(DVD観賞)

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映画「デビルクエスト」をレンタルDVDで観賞しました。
日本では2011年に公開されたアメリカ映画で、14世紀の十字軍時代を舞台に繰り広げられるニコラス・ケイジ主演のアクション・アドベンチャー作品。
去年、シネマトゥディで映画の存在を知り、出演者と内容から面白そうだと思ってチェックしてみたら、熊本では上映予定が全くなく、しかたなく観賞を諦めていた作品です。
都会と地方の格差というのは、こういうところにも現れるんですよねぇ(T_T)。

物語のプロローグでは、本編に先立つこと100年前の1235年、当時は神聖ローマ帝国領だったオーストリアのフィラッハの町で、魔女狩りが行われているシーンが展開されます。
捕らえられた3人の女性が一方的に魔女と断定された挙句、橋から縛り首にされた上、川に下され溺死までさせられてしまいます。
それだけならば当時の魔女狩りの一風景でしかなかったのですが、この映画ではここからが異なりました。
司祭が復活を阻止すべく、川に下した遺体を縛り首にしたロープで引き上げ、書物を片手に祈祷を始めると、死んだはずの遺体が突如震え出し、ただならぬうめき声を上げ始めます。
しかし祈祷が進むとそれもやがて収まり、司祭は次の遺体を最初の遺体と同様に川から引き上げようとします。
ところが今度は司祭が逆に引っ張られ川に転落してしまいます。
川に引きずり込もうとする何者かの手を必死になって逃れ、司祭は川に引っ張られた際に橋の上に落とした書物を取り上げ、再度祈祷を始めようとします。
しかし、死んだはずの遺体が川から跳躍し、司祭の目の前に立ちはだかります。
そして、遺体が手を振りかざすと、書物は燃え上がり、司祭もあっさり殺されてしまうのでした。

時は流れ1332年。
1096年から聖地奪回を目指し、ローマ教皇によって数次にわたって提唱された、後世で言われるところの十字軍は、1291年のアッコン陥落によって幕を閉じましたが、その後も個々の国や領主などによる小規模の十字軍遠征がしばしば展開されていました。
ニコラス・ケイジが扮する今作の主人公ベイメンと、彼の親友であるフェルソンは、14世紀に当時存在したキプロス王国によって主導されていた十字軍に従軍していました。
ベイメンとフェルソンは、その年に行われた現在のトルコ領エドレミット湾の戦いで十字軍騎士としての初陣を飾り、以後、1334年のトリポリ包囲戦、1337年のインブロスの戦い、1339年のアルタハの戦いと、実に10年近くにわたって十字軍の戦いで活躍していきます。
彼らの名前と武勇は、十字軍の中でも伝説的なものとして語られるようになっていきました。
しかし、1344年に行われたスミルナの戦いが、彼らの運命を一変させます。
スミルナとは現在のトルコ領イズミルで、昔から海の拠点のひとつとして栄えてきた都市です。
このスミルナを、キプロス王国主導の十字軍は力攻めの末陥落させることに成功します。
スミルナの城門を突破することに成功した十字軍と共に、ベイメンもまた城内に侵入し敵の殲滅に当たろうとするのですが、その最中、彼は逃げ惑うひとりの女性を刺し殺してしまいます。
それまで彼が戦ってきたのは武器を持った戦場の兵士達であり、非戦闘員を殺したのはこれが最初でした。
愕然としたベイメンが周囲を見渡してみると、そこでは味方の十字軍が情け容赦なく虐殺を繰り広げる光景と、彼らによって殺された女子供の死体の山。
ベイメンとフェルソンは、虐殺を主導した十字軍の総司令官に怒りをぶつけますが、十字軍の総司令官は「神の声」と教会の権威を盾に全く取り合おうとせず、逆にベイメンを「悪魔にでも取り憑かれたか」などと中傷までする始末。
これで完全にキレてしまったベイメンとフェルソンは、その場で十字軍からの離脱を宣言、脱走兵として追われる身となって旅をすることになります。

それから1ヵ月後。
ベイメンとフェルソンは、スティリア(現在のオーストリア領シュタイアーマルク州の英語読み)の沿岸部を歩いていました。
内陸国であるはずのオーストリアのスティリアに海岸線が存在するのかは非常に疑問ではあるのですが、それはさておき、彼らは、羊が放置されている1軒の民家を発見します。
食糧を求めていたベイメンとフェルソンが家屋に入ると、住人と思しき人間がベットの中で変わり果てた異形の姿で死んでいる姿が。
民家を燃やしてその場を後にした2人は、ようやくひとつの町に辿り着きます。
脱走兵として指名手配されているものの、一方では食糧の補給と馬の交換を行う必要もあり、正体を隠して町に入った2人が見たものは、黒死病(ペスト)の蔓延で苦しんでいる住人達でした。
馬を調達することには成功したベイメンでしたが、そこで十字軍に所属していた証である剣を見られてしまい、自分達の正体が露見してしまいます。
結果、彼らは官憲に捕まり、引っ立てられることとなってしまいます。
しかし彼らは、現地の教会から、脱走罪を免除してもらうことを条件に、ひとりの魔女をセヴラック修道院まで護送するよう依頼をされ、紆余曲折の末にこれを引き受けることになるのでした。
かくして彼らは、セヴラック修道院を目指し、600リーグもの距離を進むこととなるのですが……。

映画「デビルクエスト」の真骨頂は、脱走罪の免罪を条件にベイメンが護送することになった魔女を巡る駆け引きですね。
幼い面影すら残す少女を「魔女」として断罪し、魔女裁判にかけることに執念を燃やす司祭デベルザックに対し、ベイメンは「こんな少女が魔女であるとは思えない」と懐疑的であり、2人はしばしば対立します。
現代世界の常識であればベイメンに軍配が上がるところですが、作中の世界は冒頭のシーンでもあったように不可解な超常現象が実際に起こっている世界です。
また実際問題として、少女は大人をも遥かに凌駕する膂力を発揮したり、意味ありげな言動を披露したりしています。
その点ではミステリーのごとく、話の先が読めない世界でもあるわけです。
少女の正体は一体何なのか? またその目的は何で、言動にはどのような意味があるのか?
それらは全て物語終盤で明らかとなるのですが、謎が明らかになってスッキリする過程はまさにミステリー的な醍醐味がありました。

ただ個人的には、せっかく十字軍を出して大軍同士の激突を描いているのですから、もう少しそちらを前面に出しても良かったのではないか、とは思いましたね。
十字軍の戦いは、主人公の戦闘能力を表現する道具に終始していただけで、別に十字軍でなく英仏百年戦争やドイツ三十年戦争、さらにその他の戦争や内乱などでも充分に代替ができるものでしかありませんでしたからねぇ。
まあ、製作者側の意図としては、あくまでもRPG的な冒険物がメインであり、軍隊同士の激突の類を描くつもりはあまりなかったのでしょうけど。
「魔女」の護送に当たっていた人物達は、思惑も出自も性格も能力も見事なまでにバラバラで、要所要所で少しずつ離脱を余儀なくされながらも、最後は一丸となってラスボスと戦うという、ある意味RPGの王道路線を地で行くものでしたし。

大作感はないものの、普通に楽しむことができる作品なのではないかと。

映画「アンダーワールド 覚醒」感想

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映画「アンダーワールド 覚醒」観に行ってきました。
吸血鬼(ヴァンパイア)と狼男(ライカン)との長きにわたる戦いを描いた、人気アクションホラー作品「アンダーワールド」シリーズの第4弾。
上映時間が88分とかなり短いためか、最初から最後までアクションシーンが目白押しですが、その過程でやたらと流血シーンが続くことからR-15指定されています。

今作のストーリーは、これまでのシリーズ作品の流れをそのまま受け継いだものであり、過去のシリーズ作品を予め観賞していることが前提となっています。
そのため、シリーズ作品について何も知らないまま今作を観賞しても、作品の世界観も登場人物達の相互関係や設定なども、理解するのにかなりの苦労を強いられることになるのではないでしょうか。
これまでのシリーズ作品におけるストーリーの流れとしては、以下のようなものとなっています。

ヴァンパイア VS ライカンの抗争の始まりを描いた
アンダーワールド ビギンズ(シリーズ3作目)

主人公セリーンの活躍によって両陣営の親玉が倒れた
アンダーワールド(シリーズ1作目)

セリーンの逃避行とヴァンパイア&ライカンの誕生秘話が語られる
アンダーワールド エボリューション(シリーズ2作目)

さらにヴァンパイア&ライカンの双方を殲滅せんとする人間が戦いに加わる
アンダーワールド 覚醒(シリーズ4作目にして今作)

そして今作は、人間達による魔女狩りのごときヴァンパイア&ライカンの殲滅作戦に巻き込まれた主人公セリーンが、共に逃げようとして彼女の恋人であるヴァンパイアとライカンの混血種であるマイケルと離れ離れになり、囚われの身となるところから始まることになります。

人間達の追撃から逃れるために、重症を負ったマイケルと共に海に飛び込んだものの、手榴弾?によってマイケルから強引に引き離され意識を失ってしまったセリーン。
そして次に彼女が意識を取り戻す直前、意味ありげな物音と騒ぎ声が聞こえてきます。
セリーンは間低温冷凍化されて「被検体2」としてアンティジェンという会社で実験台にされていたのですが、何者かの手によって覚醒させられることになるのでした。
アンティジェン社側も直ちに異変に気づき、セリーンを制圧しようとするのですが、覚醒したばかりのセリーンによってたちまちのうちに返り討ちにされてしまいます。
そしてセリーンがビルの窓を割って外へと逃走する寸前、「被検体1と合流するだろうから泳がせろ」と社員に指示する人間の声が聞こえてきます。
逃走後、セリーンは最初に襲撃された埠頭へと向かうのですが、そこにいた警備員?の人から、自分とマイケルが人間に襲撃されたあの日から実に12年もの歳月が経過していることが判明します。
セリーンは、脱出の際に聞こえた指示にあった「被検体1」がマイケルのことなのではないかと考え、件の人物を探し出して締め上げ「被検体1」についての情報を引き出そうとしますが、結局分かったのは「被検体1」がアンティジェン社から逃げたという事実だけ。
そんな中、セリーンの視界に突然、自分以外の何者かの視点による幻覚的な光景が映し出されるという現象が発生します。
その幻覚を自分に見せた者がマイケルなのではないかと考えたセリーンは、幻覚で見えていたのと同じ場所へと赴き、幻覚の情報に基づいて地下へと向かいます。
そこでセリーンは、ライカン族とおぼしき人狼から逃走していたヴァンパイアのデビッドと出会います。
そこでさらにセリーンは、先ほどと同じ幻覚現象に再び襲われ、幻覚の主がライカン族に追われている事実を知ることになります。
当然のごとく幻覚の情報に基づき、ライカン族を片っ端から殲滅にかかるセリーン。
そして、あらかたライカン族を片付けたところでセリーンが見つけ出したのは、しかしマイケルではなくひとりの少女なのでした……。

今作でちょっと残念だったのは、「ヴァンパイアとライカンの抗争に人間が加わった」というせっかくのコンセプトが充分に生かしきれていないという点ですね。
確かに序盤はアンティジェン社の人間がセリーンの敵として立ちはだかるのですが、実は物語の後半で、アンティジェン社の主要幹部達が「人間になりすましたライカン族」であることが判明するんですよね。
彼らは「ライカン族は殲滅された」という偽りの報告を政府機関などに対して行い、ライカン族の仲間達を陰から助けていた一方、自分達の弱点である銀を克服し、従来のライカンをはるかに強力にする薬品の研究開発を行っていたのでした。
ところがこの設定があるために、作中の人間達は「三つ巴の争いを繰り広げる三勢力の一翼」ではなく「ライカン族に利用されているだけの主体性なき勢力」でしかなくなってしまっており、結局これまでのシリーズ作品と同じ「ヴァンパイア VS ライカン」という構図が形を変えて繰り返されているだけでしかないんですよね。
映画「パイレーツ・オブ・カリビアン/生命(いのち)の泉」におけるイギリス軍・スペイン軍・海賊が繰り広げていたような「三つ巴の争い」を楽しみにしていた私としては、少々期待外れな感が否めなかったところです。
まあ今作は「マイケルの行方」などいくつかの謎を残したまま終わっていますし、続編があることを前提に「今後の戦いのプロローグ」的な位置付けで製作されていることが結末部分を見ると一目瞭然ですから、今後の続編で本当の「三つ巴の争い」が展開されることを期待したいところではあります。
主人公セリーンのアクションシーンはカッコ良く見所もあり、88分の上映作品としては比較的まとまってはいましたけどね。

ハリウッド映画定番のアクションシーンが好きな方には垂涎の作品ではありますが、過去作について知らない方は、予めそちらを先に観賞してから今作に臨むことを強くオススメしておきます。

映画「ヒューゴの不思議な発明(3D版)」感想

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映画「ヒューゴの不思議な発明」観に行ってきました。
ブライアン・ セルズニックの小説「ユゴーの不思議な発明」を原作とする、マーティン・スコセッシ監督の冒険ファンタジー作品。
「ヒューゴ」は「ユゴー」の英語読みで、今作の主人公ヒューゴ・カブレのフランス読みでの正式名はユゴー・キャブレなのだとか。

今作は本来、2012年3月1日に日本で封切られるはずの映画で、当初は映画料金1000円のファーストディ(映画の日)でもあるその日を狙って観賞する予定でした。
ところが今回、以前にたまたま気まぐれで応募していた試写会に当選するという幸運に恵まれ、予定よりも早い観賞となったのです。
正直、過去にTV局が主催していた試写会に何度か応募した際には全く音沙汰がなかったこともあり、今回まさか当選するとは思ってもいなかっただけに、全く望外の幸運でした(^^)。
今回は3D日本語吹替版での観賞となりましたが、試写会当選ということで3D料金も当然無料化されており、お得感はさらにひとしお(^^)。
しかも今作の3D版は、昨今の3D映画としては非常に珍しいことに、物語全般を通して立体感のある映像が展開されており、3D料金そのものの問題を除外すれば、ひとまず観ても損はしない程度の出来には仕上がっております。
3D映像の撮影では、2009年公開映画「アバター」と同じ3D-フュージョン・カメラ・システムを採用しているとのことで、それだけに3D映像的には、その「アバター」以来のヒットとすら言えるものなのではないかと。
……まあこんな評価をしなければならないこと自体、「詐欺同然のボッタクリ商売」とすら評しても言い過ぎではない昨今の3D映画の惨状を物語ってはいるのですけどね(-_-;;)。

物語の舞台は、1930年代のフランス。
首都パリのリヨン駅にある時計台でただひとり隠れて暮らしている主人公ヒューゴ・カブレは、駅の各所にある時計のネジを巻きながら、駅で売られている商品を盗むことで生活を成り立たせている少年。
ある日、ヒューゴは駅内にあるおもちゃ屋で、ネジを巻くと走行するネズミ型のオモチャに目をつけます。
店番の老人が眠っているのを確認し、隙を見計らってネズミ型オモチャを奪取……できるはずだったのですが、老人は眠っているフリをしていただけで、ネズミ型オモチャに手を伸ばしたヒューゴの腕をあっさり掴んでしまいます。
盗みの現行犯を捕らえた老人は、ここぞとばかりに他に余罪がないかを確認すべく、ヒューゴの所持品検査を始めます。
「鉄道公安官を呼ぶぞ」と脅しつつ、ヒューゴのポケットから次々に所持品を出させて確認していく老人でしたが、ヒューゴが所持していた手帳の中身を確認したところで顔色が変わります。
ヒューゴはヒューゴで、他の物品には大した関心も持たなかったのに、その手帳だけは執拗に「返してくれ」と老人に迫ります。
ところが老人は、「この手帳はもう私の物だから私がどうしようと勝手だ、家に帰って燃やす」とヒューゴを追い払い、そのまま自宅への帰途についてしまいます。
手帳を諦められないヒューゴは老人を自宅まで追跡し、老人の同行を監視するのですが、そこでヒューゴは老人の関係者とおぼしきひとりの少女と出会います。
老人のことを「パパ・ジョルジュ」と呼ぶその少女は、手帳に執着するヒューゴを見て「パパ・ジョルジュと正面から粘り強く交渉すれば手帳は返してくれるはず」と忠告し、その場は「手帳は燃やされないように私が見張っておくから」とヒューゴを退散させるのでした。

ヒューゴがパパ・ジョルジュに奪われた手帳に固執するのには理由がありました。
件の手帳は、かつて時計店を営んでいたヒューゴの亡き父親が、とある博物館から手に入れた機械人形と共にヒューゴに残した形見だったのです。
ヒューゴの父親は、仕事をしていた博物館で火事に巻き込まれ帰らぬ人となり、その後ヒューゴは、親戚に当たるクロードおじさんに、自分に代わってリヨン駅の時計を管理するよう命じられ、現在に至るのでした。
そのクロードおじさんも今では行方知れずとなり、今や身よりもなく天涯孤独の身となってしまったヒューゴ。
そんなヒューゴにとって、父親が残してくれた機械人形と手帳は、父親の形見であると同時に心の拠りどころでもあるのでした。
手帳には、ヒューゴの父親が残した機械人形のことについて記されており、それがなくては機械人形の修理や起動に支障をきたしてしまうのです。
とはいっても起動については、手帳とは別にハート型の鍵が必要であることが既に判明していたりするのですが。
ともあれ翌日、ヒューゴは再びパパ・ジョルジュの店に姿を現し、手帳を返すよう再度頼み込むことになります。
ところがそれに対してパパ・ジョルジュがヒューゴに提示したのは、ハンカチに包まれた一握りの灰でした。
手帳が燃やされたと考えたヒューゴは、絶望のあまりその場から走り出してしまいます。
しかし、曲がり角を曲がろうとしたところでヒューゴは、昨日出会った少女と再び遭遇することになります。
少女は手帳が燃やされていないことをヒューゴに告げると、彼を図書館へと連れて行きます。
以後、ヒューゴはパパ・ジョルジュの養女でイザベルと名乗るその少女と共に、機械人形の謎と、手帳の奪取に奔走することとなるのですが……。

映画「ヒューゴの不思議な発明」は、内容的には「大人よりも子供向けに製作された作品」というイメージが強いですね。
主人公が10代前半の少年少女ということもさることながら、ストーリー的にも残虐描写などが一切なく、常に子供視点で描かれ、かつ童話的な雰囲気に溢れた世界観が披露されていましたし。
作品そのものの方向性としては、去年観賞した映画「SUPER 8/スーパーエイト」をさらに低年齢向けにした感じ、といったところでしょうか。
もっとも、作中の設定や謎には特にSF的・オカルト的な要素が存在するわけではなく、作中で展開されるアクション的かつ派手な描写も、鉄道公安官とヒューゴの追いかけっこと、就寝しているヒューゴの脳裏で展開されている悪夢くらいなものなのですが。
親子連れなどで観賞するには最適の作品と言えるかもしれませんが、正直「大人だけで観に行く」という主旨にはあまり向いていない映画なのではないかと。

物語の序盤でヒューゴから手帳を奪い対立した「パパ・ジョルジュ」と呼ばれている老人には実は別に本名があったりします。
ヒューゴの父親が残した機械人形とイザベルの証言から分かるのですが、老人の本名はジョルジュ・メリエス。
実はこのジョルジュ・メリエスというのは架空の存在ではなく、かつて本当に実在していた人物で、映画の創世記に「世界最初の職業映画監督」として活躍した人物だったりするんですよね。
機械人形が作中で描いていた「月の右目に弾丸が直撃している絵」も、ジョルジュ・メリエスが製作した映画の代表作「月世界旅行」の有名な描写だったりしますし。
作中では、これらの事実からジョルジュ・メリエスの「挫折した過去の記憶」が披露され、そこから立ち直る過程が描かれることになります。
ただ、今作が予告編などで紹介されていた際、「世界を修理する」といった類の宣伝文句を何度も聞かされていたこともあって、「その謎の真相がこれなの?」と少々肩透かしを食らった気分にはさせられました。
あの宣伝内容を聞く限りでは、件の機械人形には文字通りの世界の趨勢に何らかの影響を与えるかのような巨大な秘密が隠されており、最終的にはとてつもなくスケールの大きな物語にまで発展していくのではないか、と期待させるものがありましたからねぇ(-_-;;)。
確かに、ジョルジュ・メリエスやヒューゴ、および彼ら2人の周囲の人間にとっては極めて重要な「世界」であり、かつ自分達の心の傷を「修復」していくものではあったのでしょうが、同時に映画を観賞している観客的には「だから何?」としか言いようのない「世界」でもあったりしてしまうわけで。
過去のショックや心の傷から立ち直っていく、という主旨ならば、この間観賞した映画「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」の方が、演出も構成もはるかに上手く共感もしやすかったですし。
正直、映画の宣伝があまりにも明後日の方向を向いた誇大広告に過ぎたのではないかとすら、ついつい考えざるをえなかったところです。

冒頭でも述べたように、3D映像は近来稀に見る秀逸な出来ですし、ストーリーも余計な先入観を抜きにして観賞するならば普通に見れるものではあるでしょう。
ただ、「映像が綺麗で良く出来ている」ことと「映画が面白い」というのは本質的に全く別のカテゴリーに属する話なのだなぁ、とは、この映画を観るとつくづく痛感せざるをえなかったところですね(T_T)。

映画「TIME/タイム」感想&疑問

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映画「TIME/タイム」観に行ってきました。
全ての人間の成長が25歳でストップし、時間が通貨として運用されている近未来の世界を舞台にしたアクション・サスペンス作品。

体内時間を通貨として運用することを可能にした「ボディ・クロック」という技術の確立により、人類社会全体が老化現象を克服することに成功した近未来。
「ボディ・クロック」は全ての人間の左腕に設置されており、自分の余命となる体内時間を常に確認することができると共に、それを通貨として他人に支払ったり、分け与えたり、奪ったりすることも可能となっています。
しかし、体内時計を通貨として運用するようになった結果、時間を持つ者と持たざる者とで経済的(?)な格差が増大することになりました。
裕福な者は数百年単位もの時間を所持し、事実上の永遠の若さと不死の状態を維持し続けられるのに対し、貧しい者の余命は平均23時間程度しか保証されず、たった数時間~1日程度の時間を得るために毎日働き続けなければなりません。
そして、時間の所持による格差は一種の身分制度的なものまで生み出し、時間を大量に所持する富裕層は「ニュー・グリニッジ(富裕ゾーン)」と呼ばれる居住区域で、貧しい者は「スラムゾーン」と言われる地区で生活するようになり、両者の間には複数の「タイムゾーン」という境界線が構築されるにまで至りました。
「タイムゾーン」を跨いだ「ニュー・グリニッジ」と「スラムゾーン」間の移動自体は禁じられていないのですが、タイムゾーンのいわゆる「通行税」は片道だけで実に1年以上という高額なものであり、その日暮らしだけで手一杯な「スラムゾーン」の人間が「ニュー・グリニッジ」へと移動するのは事実上不可能となっています。
そして今作の主人公であるウィル・サラスは、母親のレイチェル・サラスと共にその日暮らしの生活を細々と営む「スラムゾーン」の人間でした。

物語は、主人公ウィル・サラスと母親レイチェル・サラスの日常的な朝の風景から始まります。
ウィルとレイチェルは親子関係にあるのですから当然年の差は歴然たるものがあるはずなのですが、この世界の人類は全て25歳で老化が止まることから、レイチェルは実年齢に反して息子ウィルと同年齢かと見紛うかのごとき若々しさを保っています。
彼女は「ボディ・クロック」に刻一刻と刻まれ続けているウィルの体内時間を確認し、息子にランチを取らせるために自分の体内時間から30分をウィルに与えるのでした。
その後、日雇い作業員的な仕事をやっているらしいウィルが、1日の仕事を終えて日給を「通貨となる時間で」貰う場面が出てきます。
ここ最近、ウィルが在住している「スラムゾーン」では、コーヒー1杯の価格が3分から4分に値上がりするなどといった物価の上昇が発生していました。
それに伴い、ウィルが勤めていた会社も、1日当たりの作業ノルマレベルを引き上げてしまいます。
結果、それまでの1日のノルマをきちんとこなしていたにもかかわらず、満足のいかない時間しか貰うことができず不満タラタラなウィル。

それでも仕事の終わりに一杯と、ウィルは友人であるボレルと共に酒場へ立ち寄るのですが、そこで「スラムゾーン」に全く似つかわしくないひとりの男が、周囲の女性を口説いている姿を目撃することになります。
その男の「ボディ・クロック」には、何と116年以上もの時間が刻まれており、彼が「スラムゾーン」の人間でないことは誰の目にも明らかでした。
「スラムゾーン」では、たった数日~1週間程度の時間をめぐって強盗や殺し合いが発生したりすることも珍しくありません。
「ニュー・グリニッジ」からやって来たと思しきその富裕の男の身を案じたウィルは、彼に対して一刻も早く酒場から出て行くよう忠告します。
しかしその忠告の最中、富豪の噂を聞きつけた「スラムゾーン」のギャング一団を束ねるフォーティスが、富裕の男を確保するため、仲間を引き連れて酒場へと乗り込んできたのでした。
ウィルは「関わるな」というボレルの制止も振り切って富裕の男を助けにかかり、ギャング達の油断を突いて彼を逃がそうとします。
そのことに気づいたギャング達の追跡を何とか振り切り、とある廃工場の中に隠れたウィルと富裕の男。
一息ついたところで、富裕の男は自分のことについて話し始めます。
彼はヘンリー・ハミルトンという実年齢106歳の人間で、長寿を得たはずの自分の人生に絶望してしまい、半ば自殺願望的に「スラムゾーン」へやって来たということでした。
そしてウィルに対し、「100年の寿命があったら何をする?」と尋ねてきます。
それに対しウィルは「自分は決して時間を無駄にしない」と返答。
その後2人はそのまま眠ってしまうのですが、その後ウィルよりも一足早く起きたハミルトンは、ウィルに対して何か感じるものがあったのか、自分の「ボディ・クロック」に刻まれていた時間を5分だけ残し、残り全てをウィルに分け与えてしまいます。
しばらくして起きたウィルは、自身の「ボディ・クロック」に突然116年以上もの時間があることに気づいて当然のごとく驚愕。
そして窓には、まるで遺言であるかのように「俺の時間を無駄にするな」という文字が。
ハミルトンが橋に座っているのを発見したウィルはただちにハミルトンの元へと向かうのですが、時既に遅く、ハミルトンはタイムアウトで死に、そのまま橋から川へと落下してしまいます。
あとには、寿命116年以上という時間を手にしたウィルだけが残されたのでした。

思いがけず破格な時間を得たウィルは、その時間を利用して、母親レイチェルを連れて「ニュー・グリニッジ」へと向かうことを決意。
116年以上もの時間があればタイムゾーンを越えることも容易ですし、何よりこのまま「スラムゾーン」にいれば、死んだハミルトンのごとく自身の時間どころか生命まで狙われるのは必至です。
その決意を友人のボレルにのみ告げ、彼に10年の時間を分け与えた後、彼は母親がいつも仕事のために乗降しているバスの停留所で母親を待つことになります。
ところがその母親は、家のローンを支払っていざバスに乗ろうとしたところ、それまで1時間だったバスの乗車料金が2時間に跳ね上がったという事実に直面することになります。
彼女の「ボディ・クロック」に残された時間はわずか1時間30分程度しかなく、しかも仕事場から家までは歩いて2時間以上もかかる距離にあるのです。
全く思いもよらぬ形で突然死の危機に直面する羽目になった母親は、必死になって家へと向かって走り始めます。
そして一方、バス停で母親を待っていたウィルも、母親が乗車しているはずのバスに母親が乗っていないことに気づき、母親の仕事場へと一目散に走り始めます。
そして2人は互いの姿を確認することになり、互いの元へと更に全力で走り寄るのですが、僅か1秒の差で母親はタイムアウトを迎えてしまい、そのまま帰らぬ人となってしまうのでした。
母親の理不尽な死に怒りを覚えずにいられなかったウィルは、母親を殺した時間システムそのものを作った富裕層に復讐すべく、単身で「ニュー・グリニッジ」へと向かうのですが……。

映画「TIME/タイム」は、全人類の不老が常態化し、かつ時間を通貨とする斬新な設定を導入しているのですが、他ならぬ映画の製作者達自身がこの斬新な設定に不慣れなためなのか、作品設定および作中描写の各所でツッコミどころが頻発していますね。
たとえば作中では、コーヒー1杯が3分から4分に、バスの運賃が1時間から2時間に、それぞれ上昇しているという描写があります。
実はこういった作中で明示されている物価から、日本円に換算した作中世界の物価基準というのものが推測可能だったりするんですよね。
コーヒー1杯の値段を基準にして考えると、現代日本のドトールコーヒーやスターバックスで売られている一番安いコーヒーがだいたい200~300円で、マクドナルドのコーヒーになると100円で購入できたりもしますよね。
これから考えると、作中世界における時間1分は、日本円に換算するとだいたい25円~100円の間、といったところになります。
これをバスの運賃に適用すると、料金1時間の場合は1500~6000円、2時間の場合は3000~1万2000円の間となるのです。
コーヒー1杯とバスの運賃でこれほどまでの価格差が発生する、などということが果たしてありえるのでしょうか?
しかも、作中で提示されたバスの運賃はあくまでも「片道」だけのものでしかない上、母親がいつも乗降しているバス停の区間は人間の足で2時間程度の距離であることが明示されていることから、せいぜい8~10km程度しか離れていないことが分かります。
高速バスでもない普通一般のバス利用でこの料金設定って、あまりにもボッタクリ過ぎなのではないかと。
ちなみに、他に作中や公式サイトなどで明らかになっている「スラムゾーン」における料金設定としては、1ヶ月の家賃が36時間(5万4000~21万6000円)、1ヶ月の電気代が8時間(1万2000~4万8000円)、公衆電話の利用料が1分(25~100円)となっています。
作中では「物価が上がり続けている」という設定が幅を利かせていますから、その影響で全体的に費用や物価が割高になっている部分もあるのでしょうが、それを考慮してさえもバスの運賃はあまりにも突出し過ぎています。
第一、こんなにバスの利用料金が高いと、そもそも「バスを利用して移動時間を短縮する」という意味自体がなくなってしまいますし、「時間が通貨の代わりになる」という作品世界のルールを考えれば、それはなおのこと大きな問題とならざるをえないでしょう。
市内の移動レベル程度であれば、バスよりも自転車を使った方が却って時間(兼カネ)もかからない、ということにもなりかねないのですから。
母親を殺すだけのために作り出したバランスを欠いた料金設定、としか評しようがないですね、これは。

また、ハミルトンから116年以上の時間を貰ったウィルは、そのことで時間監視局(タイムキーパー)にハミルトン殺害容疑をかけられ逮捕されてしまいます。
これに対しウィルは、時間監視局員であるレオンに対し「これはハミルトンから貰ったもので、彼は自殺したがっていた」と事実に基づいた釈明をしているのですが、レオンは「そんなことあるわけないだろ」と全く信じることなく、彼から時間を奪い部下に連行するよう命じていました。
これから分かるのは、「ボディ・クロック」のタイムアウトで死んだ人間の「本当の死因」を調べる術が作中の世界では全く確立されていない、という事実です。
つまり、タイムアウトで死んだ人間は、自身の持ち時間がなくなり自然に死んだケースと、他人から時間を奪われ殺されたケースの2種類が考えられるのに、そのどちらであるのかを第三者が正確に判断するための方法がない、ということです。
これは非常に恐ろしいことで、たとえば「スラムゾーン」では、タイムアウトになって路上で死んでいる人間の描写がしばしば映し出されているのですが、作中における「スラムゾーン」の人達のそういった死は全て「自然死」扱いされていました。
しかしひょっとすると、実は彼らは自然に亡くなったのではなく「誰かに時間を奪われて殺されその辺に転がされていた」可能性だってありえるわけです。
作中でも、ギャングがひとりの人間の時間を全て奪って殺してしまった描写が展開されていましたし。
他人の時間を奪って人を殺したとしても、それが殺人事件として扱われることがない。
これでは「時間強盗&殺人やり放題」の世界が現出することにもなりかねません。
凶器を全く使うことなく殺人が可能、というだけでも一般人にとっては脅威そのものなのですし、犯罪捜査も難航を極めるのは必至というものです。
特に「スラムゾーン」なんて【平均余命23時間】が当たり前の世界な上、ギャングが大手を振ってのさばっているところや時間監視局員に対する住民の態度を見ても、一般的な警察機構すら満足に機能していないことが一目瞭然なのですから。
そして一方、116年以上もの時間を所持していたハミルトンは、真相は自殺だったにもかかわらず「殺害された」と一方的に決め付けられ、ウィルは不当逮捕される羽目になったわけです。
治安維持という観点から言えば、「ボディ・クロック」のシステムには【完全犯罪を誰でも可能にしてしまう】という致命的な欠陥があり、またタイムアウト問題に対する調査能力が皆無に等しく勝手な判断で捜査を行っている時間監視局は、役立たずどころか有害な存在ですらあると言っても過言ではありません。
この辺りの問題を改善しないと、いつタイムアウトを利用されて完全犯罪的に殺されるやら知れたものではない「ボディ・クロック」なんて、権力者や富裕層ですらも危なっかしくてとても使用できたものではないと思うのですが。

あと、「スラムゾーン」の人間と似たり寄ったりな水準の時間割り当てを、時間監視局の構成員にまで同じように適用するのは正直どうかと思わずにはいられませんでした。
一応作中では「時間を奪おうとする人間を失望させるため」と説明されていましたが、時間に余裕がない構成員達は、当然のごとく常に時間に追い立てられるような現場捜査や犯人追跡などといった苛酷な仕事を強要されることにもなりかねないのですが。
ただでさえ有害無益な上に「スラムゾーン」の住民から反感を買われている時間監視局の構成員達を、さらに崖っぷちに追いやるような待遇にして一体どうしようというのでしょうか?
いつどこでどんな事件やアクシデントに遭遇するかも分からない彼らには、むしろ常に余分に時間を持たせるようにしておかないと、作中のレオンのように「犯人を追い詰めている最中にタイムアウトで死亡」などという自爆的な結末を迎えてしまうことにもなりかねないでしょうに。
まあ同じことは主人公ウィルにも言えることで、銀行を何度も襲って時間を奪い義賊的に時間を民衆にバラ撒くのは良いとして、何故自分(とヒロインのシルビア)の残り時間にもう少し余裕を持たせないのか、とツッコミを入れずにいられなかったところです。
どんな不測の事態が起こるのか分からないのですし、「自分は1日しか時間を残しておかないんだ」などという変なプライドを固持していないで3日~1週間程度の時間を常に自分達の手元に残しておくだけでも、あれだけ切羽詰まった局面は回避できたというのに。

作品的にはアクションやSF的な描写を売りにしているのでしょうし、純粋にアクション映画として観るのであれば観客的にはそれなりに楽しめるのではないかと。
ただ、公式サイトを見た限りでは「斬新な設定」を売りにし「時間の価値」を観客に問いかけたいなどと語っているらしい映画制作者達としては、上記のような設定問題についてどう考えているのかなぁ、と。

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