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映画「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」感想

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映画「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」観に行ってきました。
イギリス初の女性首相であるマーガレット・サッチャーの豪腕政治と知られざる素顔にスポットを当てた、メリル・ストリープ主演の人間ドラマ作品。

2008年に長女のキャロル・サッチャーにより認知症を患っている事実が公表された、イギリス元首相マーガレット・サッチャー女史。
今作では、自身を認知症だと自覚できず、介護の目をくぐり抜けて買い物に出かけたり、今は亡き夫デニス・サッチャーの幻影と会話したりして、周囲からは「厄介な患者」として扱われている、メリル・ストリープ演じるマーガレット・サッチャーが過去を回想するというパターンでストーリーが進行していきます。
一番古い回想は、第二次世界大戦当時におけるドイツ軍の空襲に備えるべく、地下倉庫?に一家で隠れているシーン。
マーガレット・サッチャーの旧姓はロバーツといい、彼女の生家であるロバーツ家はイギリスのリンカンシャー州グランサムで食料雑貨店を営んでいる家でした。
そして、マーガレットの父親アルフレッド・ロバーツは市長を務めた経験もある地元の名士。
アルフレッド・ロバーツは、ドイツの空襲下においてさえ庶民のために店を開こうとするような人物であり、マーガレットは父親を尊敬していました。
さて、そんなマーガレット・ロバーツは1950年の25歳の時、保守党から下院議員選挙に立候補するのですが、あえなく落選。
選挙結果は初めての、それも女性としての立候補としてはかなりの票数を獲得していたようだったのですが、それでも選挙の敗北はマーガレット・ロバーツにとってショックだったらしく、彼女は悲嘆にくれてしまいます。
そこで彼女を励まし、ことのついでにプロポーズまでしたのは、実業家のデニス・サッチャー。
マーガレット・ロバーツは、デニス・サッチャーに対し「私は家で皿洗いをするだけの一生は送りたくない、家庭を顧みないこともあるかもしれないが、それでも良いのか?」と迫りますが、デニス・サッチャーは「そんな君も含めて好きなんだ」と返答。
かくして二人は翌年に結婚、ここに今の我々が知る「マーガレット・サッチャー」が誕生することになったのです。

その後、マーガレットとデニスの間にはマークとキャロルという2人の男女の双子が生まれ、砂浜?で一家総出で戯れている光景が映し出されます。
作中では、「家族としての幸せはこの頃が一番の絶頂期」的な描かれ方をしています。
しかし、1958年にマーガレット・サッチャーが下院議員に初当選を果たし、政界に進出するようになると、マーガレット・サッチャーは政治に没頭するように、次第に家族を顧みないようになってしまいます。
未だ年端も行かない2人の子供が母親に「行かないで」と懇願する様は、見ていて痛々しいものがありましたね。
一方政界におけるマーガレット・サッチャーは、女性であるが故に風当たりが強く、自分を認めさせるために悪戦苦闘を強いられる日々が続くことになります。
彼女は自身の主張である「自助努力・自己責任」のスローガンの下、労働運動に明け暮れる労働組合を無力化し、効率的な企業運営ができるようにしたいと考えていました。
そんなマーガレット・サッチャーに転機が訪れたのは1970年代のこと。
あまりにも不甲斐なく弱腰な保守党に憤慨した彼女は、党首選に立候補することを考えついたのです。
この時マーガレット・サッチャーが意図していたのは、自身が党首選に立候補することによって安穏としている保守党に揺さぶりをかけることで党全体の活性化を図る、というもので、党首選で自分が当選するとは全く考えていませんでした。
しかし、周囲の政治家達は様々な思惑から、マーガレット・サッチャーを党首選に当選させるべく画策します。
最初は党首選に出るだけのつもりだったマーガレット・サッチャーも、周囲に説得され、次第に党首選に勝利する意気込みを見せ始めます。
発声練習やルックスなどについて指導を受け、党首選に当選、そしてついに1979年に女性初のイギリス首相となるマーガレット・サッチャー。
しかし、マーガレット・サッチャーが進む先には、既得権益にしがみつくイギリス国民と、フォークランド諸島を奪取せんとするアルゼンチンが立ちはだかるのでした……。

映画「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」は、物語構成にかなり大きな問題があると言わざるをえないですね。
今作の物語構成は、認知症を患っている近年のマーガレット・サッチャーが過去を回想するというスタイルで描かれているのですが、回想主である近年のマーガレット・サッチャーにかなりの時間が割かれているのです。
既に死んでいるらしい夫のデニスが、マーガレットにのみ見える幻影として何度も登場し、彼女に何度も話しかけたり、マーガレットが幻影を振り払おうとしたりする描写がとにかく頻出します。
作品全体における比率で見ても、認知症絡みの描写が5割近くを占めていたのではないでしょうか。
「認知症患者の幻覚症状の実態について描く」というのがこの作品の本当のテーマだったのではないかとすら考えてしまったくらいに認知症絡みの描写が頻出するのが、個人的には正直ウザくて仕方がありませんでした。
あんなシロモノを描きたかったのであれば、マーガレット・サッチャーを主題にもって来るべき理由自体が全くないではありませんか。
「認知症患者の幻覚症状」なんて、そこら辺の一般人を題材にしてさえ問題なく表現することが可能なのですから。
また、回想されているシーンでは序盤のプロポーズと党首選前くらいしか大きな出番がないデニスが、認知症のマーガレット・サッチャーにアレだけ絡むというのもいささかバランスを欠いています。
マーガレットがデニスについて少なからず想う部分があったにせよ、作中の少ない描写だけでその部分を表現するのには、正直あまりにも弱いと言わざるをえないところです。
現役の政治家として活躍しつつ、家族を顧みないことに一個人として葛藤するマーガレット・サッチャーの偉人伝的なものが見られると期待していたからこそ、私は今作を観に行っていたのに、認知症絡みの描写があまりにも多すぎて正直肩透かしを食らわざるをえませんでした。
マーガレット・サッチャーの素顔や葛藤を描きたかったのであれば根本的に描き方が間違っていますし、認知症患者の幻覚症状の実態をテーマにしたかったのであればミスリードな宣伝もいいところです。
認知症のマーガレット・サッチャーは物語の最初と最後に登場させるだけにして、それで空いた時間分を現役時代のマーガレット・サッチャー、特にマーガレットとデニスのやり取りに割いていた方が、もっと面白い偉人伝的なものに出来たのではないかと思えてならないのですけどね。

一方で、政治の世界にのめりこんでいくあまり、家族を顧みなくなるようになり家族の面々から避難轟々なマーガレット・サッチャーのありようは、男女平等のスローガンとしてよく謳われる「家庭と仕事の両立」の難しさを的確に表現していますね。
政治家としてのマーガレット・サッチャーは、確かに類稀な政治手腕によって功罪いずれにせよ大きな業績を残すことに成功しているわけですが、それは一方で、家族、特に幼少期時代の自身の子供達を顧みることがなかったという副作用をも生み出していたわけで。
結婚前に「家庭を顧みない」的な宣言をされていた夫のデニスは、そんなマーガレットのことなど充分承知の上だったかもしれませんが、そんなことは子供達にとっては全く預かり知らないことなのであって、子供達は自分達のことを顧みない母親をさぞかし怨んでいたのではないかと思えてなりませんでしたね。
実際、党首選前に、娘のキャロルが自分のことを見ようともしない母親に激怒して部屋から出て行く描写が作中にもありましたし。
かの偉大なるマーガレット・サッチャーをもってしてさえも「家庭と仕事の両立」という命題は極めて達成困難なシロモノだったわけで、その現実を無視して「女性の社会進出」とやらを煽って「家庭と仕事の両立」を無責任に言い立てる男女平等イデオロギーには改めて疑問を感じずにはいられないところです。
マーガレット・サッチャーのような「家庭を顧みない女性」によって一番被害を被るのは、実は夫ではなく子供なのですし、特に思春期前の子供にとって「母親が自分のことを顧みない」という事実は、その後の人生をも左右するほどに大きな影響を及ぼすものとなるのですから。
現実はともかく、すくなくとも映画内におけるマーガレット・サッチャーは、政治家としては偉大な存在であっても、私人・家庭人としてはかなり問題のある人物である、と評さざるをえないのではないでしょうか。

マーガレット・サッチャーを演じたメリル・ストリープの演技は、第84回アカデミー賞で主演女優賞を獲得するだけのことはあり、確かに特筆すべきものがあります。
しかし今作を「マーガレット・サッチャーの偉人伝」として見ると、その出来については正直かなり疑問符をつけざるをえないところなんですよね。
よって、マーガレット・サッチャーのエピソードよりも、映画に出演している俳優さんを目当てに観賞する、というのが今作の正しい楽しみ方であるのかもしれません。

映画「タイタニック(3D版)」感想

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映画「タイタニック(3D版)」観に行ってきました。
ジェームズ・キャメロン監督が製作し1997年に公開され、同監督製作映画「アバター」に抜かれるまで興行収益がギネスブックに登録されるほどの大ヒットを記録した、パニック・ラブロマンス映画の3D映像リメイク作品。
映画「タイタニック」については、私は以前にも作中の恋愛描写についてこんな感想を書いたことがあったりします↓

映画「タイタニック」の現実逃避な恋愛劇
https://www.tanautsu.net/blog/archives/weblog-entry-61.html

こんな感想記事をアップしていることからも分かるように、個人的に映画「タイタニック」は1997年の劇場公開当時に既に観賞済みであり、そのこともあって当初は無視を決め込む方針でした。
3D映像しか売りがない、という時点で敬遠するのに充分なシロモノでしたし。
ところが、以前に映画「ヒューゴの不思議な発明」で試写会当選して無料で観賞できたことに味をしめ、無差別に試写会応募をしていたところ、その中からたまたま「タイタニック(3D版)」の試写会当選が転がり込んできたんですよね。
そうなると、「まあせっかくタダなのだし、ネタ収拾も兼ねてまた観に行ってみるか」ということになって、結果今回の観賞に繋がった、というわけです。
こんな形で、実に15年ぶりに同じ映画をしかも映画館で観賞する、というのもなかなかできない経験ではありましたね(苦笑)。
ちなみに、今作の正式な劇場公開日は2012年4月7日の予定となります。

映画「タイタニック(3D版)」のストーリーは、1997年当時に公開された映画と全く同じです。
というより今作は、当時の映画を単に3D映像で観賞できるようにしたというだけですので、エピソードの追加などといった要素すらも全くなかったりするんですよね。
過去に映画館やレンタルなど何らかの形で作品を観賞した人にとっては、単なる過去作の再確認にしかなりません。
では、今作におけるほとんど唯一のセールスポイントで、かつ大々的に喧伝されている3D映像はどうなのかというと、こちらはこちらで「注意して見ていれば若干浮き出ている箇所があるのが分かる」「2D版とはかろうじて区別がつくかどうか程度」のシロモノでしかなかったりします。
もちろん、3D映画の傑作とされる「アバター」や、この間観賞した「ヒューゴの不思議な発明」などとは比較のしようもなく、これ【だけ】のために映画を観賞する価値があるのかと問われると、はなはだ疑問と言わざるをえないところです。
「アバター」と「ヒューゴの不思議な発明」が、最初の段階から3D専用のカメラを使って映画の撮影が行われていたのに対し、大多数の3D映画は「2Dで撮影し終わった映画を後付の編集加工で3D化する」という手法が取られています。
しかし、最初から3Dを意図して製作された3D映像と、後付で編集加工されたそれとでは、その出来やクオリティにおいて雲泥の格差が存在します。
もちろん、前者の方が後者をはるかに突き放して秀逸な出来なわけですが。
そして「タイタニック(3D版)」もまた後者の部類に属するのです。
それから考えると、3D映像的には「タイタニック(3D版)」が「アバター」「ヒューゴの不思議な発明」に及ばないのも当然の結果ではあったのでしょうね。
元々2Dで撮影していた「タイタニック」を、後付で3Dに加工すること自体に無理があることなんて、製作陣からして最初から分かっていたのではないかと思えてならないのですが。
実際、「タイタニック」「アバター」双方の生みの親であるジェームズ・キャメロン監督からして、以下のような発言をしていた経緯もあるみたいですし↓

アメリカ映画産業の3Dブームに暗雲!? 最低水準の3D映画の乱発に危険信号
http://www.cinematoday.jp/page/N0025070
>  後処理で3Dにした映画を観ると、往々にして画像が暗く、鮮明な立体感にも欠けるという違いが表れます。ちなみに日本でも大ヒットしたティム・バートン監督の『アリス・イン・ワンダーランド』も後処理で3Dにしたものです。後処理決定を下したバートン監督に対して、『アバター』のキャメロン監督は、「2Dで撮影した映画を3Dで公開するなど、まったくの無意味」と公の場で厳しく批判し、話題になりました。
>
>  さらにキャメロン監督はこう付け加えました。
「最近、スタジオ側のプロデューサーが、撮影が終わった後に3Dにするという決定を下す場合がある。こういったクリエイティブな事はスタジオでなく監督が行うべきである」と。

……まさか後年、他ならぬ自分自身で製作した2D映画が「後付3D化でリメイク&劇場公開される」なんて夢にも思っていなかったでしょうねぇ、ジェームズ・キャメロン監督は(苦笑)。
今回の「タイタニック(3D版)」自体が、3D映画へのこだわりを持つジェームズ・キャメロン監督に対するあてつけでも意図しているようにすら思えてならないのは私だけなのでしょうか(爆)。

3D映像関連以外で私が抱いた感想としては、「この当時のレオナルド・ディカプリオってえらい若かった上に役柄も全く違っているなぁ」といったところですね。
私が「タイタニック」以外で観賞したレオナルド・ディカプリオ主演作品と言えば、2008年公開映画「ワールド・オブ・ライズ」と、2010年公開映画「シャッターアイランド」「インセプション」があるのですが、全体を通じて「闇の世界のプロ」「妻子を愛しているが、妻の奇行に常に悩まされている」的な役柄が際立っていました。
最新の主演作である2011年(日本では2012年1月)公開映画「J・エドガー」でも、アメリカFBIの豪腕実力者にして「アメリカの影の支配者」とまで評されていたジョン・エドガー・フーヴァーを演じていましたし。
それに対し、「タイタニック」でディカプリオが演じたジャック・ドーソンは、「貧乏だけど裏表のない若者」的な役柄だった上に外見も非常に若々しく、近作の傾向とは非常に大きなギャップがあるんですよね。
「15年もの歳月で、ディカプリオも恐ろしく変わってしまったよなぁ」と改めて感慨を覚えたものでした。
ただ、当のディカプリオ自身は、自身が主演を演じたはずの映画「タイタニック」に対して必ずしも好意的ではないようで↓

レオナルド・ディカプリオ、『タイタニック』出演を後悔?
http://www.cinematoday.jp/page/N0005624
>  [シネマトゥデイ映画ニュース] レオナルド・ディカプリオが、雑誌のインタビューで、世界的大ヒットとなった『タイタニック』への出演が観客に自分のイメージを植えつけてしまった、と語った。ディカプリオは『タイタニック』と同時期に、ポール・トーマス・アンダーソン監督作『ブギー・ナイツ』でマーク・ウォールバーグが演じたポルノスターの役をオファーされていたが、「そちらを選べばよかった」と告白。「自分のことを知られれば知られるほど、アーティストにとってミステリアスな部分は奪われてしまい、役を演じていても観客に真実味を与えられなくなってしまう」と、心の内を語った。

これから考えると、近年におけるディカプリオの役柄こそが「ディカプリオが本来望んでいたもの」ということになるのかもしれないですね。

3D映像に特にこだわりを持つ人でもなければ、今作の観賞はレンタルDVDでも充分なのではないかと思わなくもないですね。
特に今回の場合は「映画の方が早く観賞できる」という利点すらも皆無ですし。

映画「デイブレイカー」感想(DVD観賞)

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映画「デイブレイカー」をレンタルDVDで観賞しました。
日本では2010年に公開されたオーストラリアとアメリカの合作映画で、人類が絶滅寸前となりヴァンパイアが世界を支配する近未来を舞台に繰り広げられるSFアクション・スリラー。
劇場公開当時は熊本での上映が全くなく、涙を呑んで観賞を見送った経緯がありました(T_T)。
作中では流血シーンが何度も登場したり、ヴァンパイアが生きながらに焼き尽くされる描写があったりするため、映画館ではR-15指定されていました。

物語の年代は2019年。
1匹のコウモリから爆発的に伝播したウィルスにより、人類の95%は不老不死となる代わりに、紫外線に弱く、人の血を飲まなければならないヴァンパイアと化していました。
一方で、ウィルスの伝播と、ヴァンパイアの食糧としてターゲットにされてしまった人類はその数を著しく減らし、今や世界全人口のわずか5%を占めるのみの少数派にまで落ち込んでいました。
ヴァンパイアの人口が圧倒的なのに、彼らの食糧となる人類が激減しているわけですから、ヴァンパイアの社会では当然のごとく食糧不足の問題が発生することになります。
ヴァンパイアは不老不死ではあるのですが、長期にわたって人間の血液を採取しない状態が続くと、脳の前頭葉が破壊されて理性が失われ、ただひたすら血を求めて凶暴化する「サブサイダー」と呼ばれるモンスターに変容してしまうのです。
渇きを癒すためにヴァンパイア同士で血を吸い合ったり、自分自身の血を吸ったりすれば、さらに「サブサイダー」までの行程が加速するというオマケつきで、「サブサイダー」も年々増加傾向にあり社会問題化しつつありました。
この問題に対処すべく、世界では血液を採取することを目的とした「人間の家畜化」が推進される一方で、人間の血に変わる代用血液の研究開発が行われていました。
しかし、絶対数が少ない人間を家畜化するだけでは採取する血液の量に限界があり、また開発中の代用血液はヴァンパイアの身体が拒絶反応を起こすなど問題が多く、実用化までには至っていないのが実情。
ヴァンパイアも人類も、それぞれ形の異なる滅亡に向かって突き進みつつある、先の展望がまるで見えない時代でした。

今作の主人公エドワード・ダルトンは、巨大製薬会社ブロムリー=マークス社で代用血液の研究に従事しているエリート研究者。
彼は元々、自分からヴァンパイアになりたかったわけではなく、人間の血を啜って生きながらえるヴァンパイアというあり方を嫌悪していました。
代用血液を研究開発していたのも、それができれば人間の血を飲まなくて済むから、という一心によるものでした。
しかし、代用血液の人体(?)実験では、血液を注射した被験体の体調が激変を来たした挙句に身体ごと爆散してしまうなど、ロクでもない成果しか上げられず、苛立つ日々が続いていました。
そんなある日の夜、エドワードは車で自宅へと帰る途中で、猛スピードで走ってきた対向車との事故に巻き込まれてしまいます。
エドワードは車の様子を見に行くのですが、車に乗っていたのは何と人間で、エドワードにクロスボウを突きつけてきます。
何故クロスボウなのかというと、クロスボウの矢が「心臓に杭を打ち込む」的な役割を果たすことでヴァンパイア殺傷の武器となるため。
しかしエドワードは、人間達を自分の車に避難させて隠し、事故を聞きつけ駆けつけた警察に嘘の情報を教えることで彼らを逃がしたのでした。
この行為に何か感じるものがあったのか、逃がしてもらった人間達のひとりであるオードリー・ベネットは、車の中にあった身分証から判明したエドワードの家を訪れ、「ひとりで来い」と言う条件付で、真昼間にとある草原へ来るようにとのメッセージを残します。
車の窓を全て遮蔽し、テレビで外の景色を確認しながら車を走行できる「日中運転モード」に切り替えて車を走らせ、メッセージの通りに草原へとやってきたエドワードは、そこでオードリーにひとりの男を紹介されます。
その男ライオネル・コーマックは、肌を紫外線に晒しても焼け爛れないことから確かに人間であるはずなのですが、首筋には紛れもないヴァンパイアの噛み跡が。
彼は、自分がかつてヴァンパイアであり、その上で人間に戻ったという過去を披露するのでした……。

映画「デイブレイカー」は、ヴァンパイアを扱った作品でありながら、既存のオーソドックスなヴァンパイア作品とは大きく一線を画する存在ではありますね。
ヴァンパイアと人間の立場が逆転していたり、それ故に食糧事情が切迫する様が描かれていたり、ファーストフード?の売店ではABO式血液型別に血が売られていたり。
日光(紫外線)に弱いヴァンパイアが日中に外で車を走らせても平気なように「日中運転モード」が搭載されている車などは、作中とは別の理由で現実にも登場しそうな実用性の高い車だったりしますし。
また、ヴァンパイアの成れの果てである「サブサイダー」を処刑する描写もなかなかユニークで、「サブサイダー」達を集団で鎖にかけ、装甲車で強制的に日向にまで引きこんで焼き殺すというもの。
日光でヴァンパイアを処刑する、という手法自体は、同じくヴァンパイアを扱っている映画「アンダーワールド ビギンズ」でも披露されていましたが、「デイブレイカー」のそれは現代ならではの光景ですね。
一方、ヴァンパイアの「永遠に生きる」という属性に希望や展望ではなく絶望を見出してヴァンパイアを忌避する人間がいたり自殺するヴァンパイアが出たりする光景は、どことなく映画「TIME/タイム」に通じるものがありました。
老いや病気を気にする必要がない(ヴァンパイアになることで癌が治った人間がいたりしますし)のに、それでもなお「永遠に生きる」ことに葛藤する、というのは一見すると理解に苦しむ話ではあるのですが、これはやはり文化的なものも絡んでいたりするのでしょうか?

作中では、ライオネル・コーマックによって、ヴァンパイアから人間に戻る方法が2つ提示されています。
ひとつは、日光を浴びて身体が燃え出した瞬間、ただちに火を消して焼死を回避すること。
二つ目は、ヴァンパイアから人間に戻った者の血液をヴァンパイアが採取すること。
原理は作中でも全く説明されていないのですが、身体が紫外線を受けて燃え上がることでヴァンパイアウィルスが死滅すると共に抗体も出来、抗体はそれを採取した者の中でヴァンパイアウィルスを安全確実に殺してしまう、といったところになるでしょうか。
この設定の面白いところは、ヴァンパイアから人間に戻った者が、血に飢えたヴァンパイア達の真っ只中に放り出された際に発生する光景にあります。
血に飢えたヴァンパイア達は、人間を見るや集団で襲いかかり、肉を食いちぎったり手足や首をもぎ取ったりしてその人間を殺して血を啜りまくります。
すると、その血を飲んだヴァンパイアは当然人間に戻ります。
ところが周囲はまだヴァンパイアで囲まれているため、今度は人間に戻った者達がさらに残存のヴァンパイア達に襲われ、最初のケースと同じやり方で殺され血を飲み干されます。
するとそのヴァンパイア達も人間に戻り、彼らもさらにその周囲のヴァンパイア達によって……という半ばネズミ講的なサイクルが、最終的にヴァンパイアがいなくなるまで延々と繰り返されるんですね。
これはヴァンパイアの一般的なイメージやあり方を逆手に取り、なおかつヴァンパイアの破滅的な欲望を表現するものとしては非常に秀逸な描写であると言えます。
描写自体はR-15指定されるほどに結構グロいのですが、ヴァンパイア好きな方にとってはこれだけでも一見の価値がある映像と言えますね。

「俺達の戦いはこれからだ!」的な終わり方をしていますが、続編あるのでしょうかね、これって。
設定自体は良く練られており、ストーリーもそれを上手く生かしているだけに、続編があったら是非観てみたいところです。

映画「復讐捜査線」感想(DVD観賞)

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映画「復讐捜査線」をレンタルDVDで観賞しました。
日本では2011年に公開されたアメリカ映画で、メル・ギブソンが8年ぶりに俳優として主演を果たしたことで話題となった、イギリスBBCのテレビドラマ「刑事ロニー・クレイブン」を原作とするアクション・サスペンス作品。
この映画は一応熊本では(県内1箇所だけとは言え)映画館で上映されていたのですが、諸般の都合で結局観賞し損ねていた作品でした。
「娘が目の前で殺される」というコンセプトがある上、流血シーンもそこそこにあることから、映画館ではPG-12指定されていました。

映画の冒頭では、まず「Edge of Darkness」という英語版の原題タイトルと共に、湖?と思しき場所に水死体が3体浮かび上がってくるというシーンが映し出されます。
このシーンの意味は物語後半で明らかとなるのですが、そのシーンの後、幼い少女が海で戯れている様子を撮影しているビデオシーンが登場します。
そしてまた舞台は切り替わり、いよいよ物語本編が本格的に始まることになります。
マサチューセッツ州ボストンで刑事の職にある今作の主人公トーマス・クレイブンは、地元ボストンの駅で、久々に再会することになった娘のエマ・クレイブンを待っていました。
普通に予定通り再会して喜びを分かち合う2人。
しかし、エマを一度車に待機させ、近くのスーパーで買い物をして戻ってきたトーマスは、娘が激しく咳き込んでいる様を目撃することになります。
自宅へと帰る途中の道程で、2人はどこの家庭でも普通にありそうな普通の会話を交わします。
自宅へと帰り、あまり得意ではないらしい料理に奔走しつつ、先ほどの娘の様子が気になり、「医者へは行ったのか?」と尋ねるトーマス。
エマは「疲れているだけよ」と返答を返すのですが、エマの様子はさらに奇異な様相を呈し始めます。
鼻血を流し始めた上、嘔吐までし始め、さらに駆けつけたトーマスに対して突然ヒステリックに「医者へ行かなきゃ」と叫び始めるエマ。
娘のただならぬ様子に戸惑いつつも、トーマスはとりあえず娘の言う通り医者へ連れて行こうと外出の準備を始めます。
そしてトーマスがエマと一緒に玄関に出た、まさにその時、突如「クレイブン!」という叫びと共にショットガンが発砲されます。
ショットガンから発砲された弾丸はエマを直撃し、エマは血飛沫と共に自宅の中まで吹き飛ばされてしまいます。
トーマスは銃を取り出し応戦しようとしますが、発砲者はすぐさま車で逃走。
発砲者よりもエマのことが気になったトーマスは自宅へ取って返し、エマの元へと駆け寄るのですが、エマは既に虫の息状態。
「お前は宝だ!」と叫ぶトーマスに対して「分かっている」と応えただけで、エマはあの世へと旅立ってしまったのでした。

その後。
警察による現場検証が始まり、同僚達がトーマスを気遣って声をかけるのですが、トーマスはすっかり尖ってしまっていました。
身の危険があると忠告する同僚をトーマスは退け、その他の警官達も必要最低限の現場検証を行わせただけで退去するよう怒鳴りつけてしまいます。
ひとりとなった自宅で、娘のことを回想したり、娘の幻聴を聞いたり、大きな物音に過剰反応したりと、精神的にかなり参っている様子を見せるトーマス。
翌日、全く普通通りに警察へ出勤したトーマスは、事件について全く手がかりがないこと、警察がトーマスをターゲットにした犯行であるとして捜査を進めていることを知ります。
しかし、自分が狙われる覚えが全くないトーマスは、休職すべきではないかという警察上層部の提案も拒絶し、独自に調査を開始するのでした。
身辺整理も兼ねているのか、娘の遺品や連絡先などを洗っていたトーマスは、やがてそこから、娘が勤めていた企業に対する疑念を芽生えさせていくのですが……。

映画「復讐捜査線」を観賞していて考えずにいられなかったのは、「暗殺者の手際があまりにも悪すぎる」ということですね。
そもそも最初の暗殺からして、暗殺者は何故トーマスという目撃者が目の前にいる中でエマ「だけ」を殺した挙句そのまま逃走したのか、という疑問があります。
あの場でトーマスを生かしていたら、自分の情報が警察側に手がかりとしてもたらさせてしまうことにもなりかねない上、あの状況だとトーマスがエマから何らかの情報提供を受けている可能性も当然存在しえます。
エマだけでなくあの場にいたトーマスも一緒に殺し、さらには家捜しも徹底的に行い証拠を発見すれば回収し、去り際には家に火を放って未発見かもしれない証拠も完全に消滅させる。
そこまでやらないと、暗殺者および依頼者の目的が達成されたとは到底言い難いでしょう。
しかも、暗殺に使用した銃には、至近距離からの狙撃で周囲の住人に銃声を聞かれ自分の姿を目撃される危険性すら存在するのに「サイレンサーを装備して銃声を小さくする」といった類の工夫すら施されていませんでしたし。
まあ、あの限られた時間と状況で家捜しはさすがに難しかったにしても、トーマスも一緒に殺すという選択肢は充分に実行可能でしたし、またしなければならなかったと思うのですけどねぇ。

これだけでも暗殺者は致命的なミスを犯しているというのに、その後も暗殺者達は、素人でもやらなさそうなミスを次から次にやらかしていきます。
車で情報交換をしていたトーマスおよびエマについての情報をトーマスに提供していた人物を襲撃するのは良いとして、情報提供者【だけ】を御丁寧に区別して跳ね飛ばした挙句、トーマスに反撃のチャンスと時間的余裕を与えてしまい、案の定返り討ちにされてしまう暗殺者。
ダンプカーでも借りて車ごと潰してしまうとか、マシンガンを何丁か用意して車に大量の銃弾を奇襲的に叩きつけるなどといった手法でも使えば、トーマスも情報提供者もほとんど無傷でまとめて始末できたというのに。
襲撃するための車からしてマトモな防弾対策すら施されておらず、トーマスが所持している程度の銃で簡単に致命傷を被ってしまうありさまでしたし。
それでも物語後半では、トーマスの同僚を買収して自宅に侵入し、トーマスの隙を突いて気絶させることに成功するのですが、彼らは後始末の手間でも考えたのか、トーマスをその場で殺さなかったんですよね。
で、軍需企業ノースモアの廃屋?に閉じ込めたまで良かったのですが、何と暗殺者達はトーマスの自由を奪うに当たって手錠で両手を拘束し(あまり頑丈でもない)ベッドに括り付けただけで常時の見張り番もつけず、それどころか監視カメラすらも設置せず放置していたんですよね。
結果、トーマスは自力で拘束を破ってしまい、逃走に成功してしまう始末。
さらには、全ての真相を知ったトーマスが捨て身で襲撃してくるであろうことを予測することもできず、それどころか屋敷の警備を強化することすらもせず、何の芸もない正面攻撃をみすみす許してしまうという形でトーマスの復讐を完遂させられてしまったのでした。
この中の何かひとつでも彼らがやるべきことをきちんと適正に行っていれば、初回のミスも充分に挽回することができたというのに。
トーマスが結果として娘の復讐を遂げることができたのは、トーマスの執念などよりも遥かに高い比率で「暗殺者達の無為無能」という要素があったとしか思えないのですけどねぇ(苦笑)。

復讐劇としてはサスペンスも絡めていて上手い構成ではありますし、メル・ギブソンの演技も往年のカッコ良さを感じさせるものではありましたが、暗殺者達の手腕をもう少し「プロの仕事」にふさわしい洗練されたものにして欲しかったところです。
まあ、その手のプロフェッショナルでもない一介の刑事が超人的なアクションで敵を次々となぎ倒していく、というのも違和感だらけの設定ではあるのでしょうが、やはり敵側の守りも攻めも常識では考えられないほどに脆すぎるよなぁ、と。

映画「シャーロック・ホームズ シャドウゲーム」感想

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映画「シャーロック・ホームズ シャドウゲーム」観に行ってきました。
アーサー・コナン・ドイル原作の同名小説を原作とする、ロバート・ダウニー・Jrとジュード・ロウの2人が主演のミステリー・アクションコメディ映画「シャーロック・ホームズ」の続編作品。
その前作「シャーロック・ホームズ」は、2012年3月18日にテレビ朝日系列の日曜洋画劇場で放映される予定なのだとか。
私は公開初日の今作観賞にこだわったのでレンタルDVDで前作を観ることにしたのですが、今作を観に行かれる予定だけど前作をまだ観ていないという方は、そちらを観賞してから映画館へ行くのも一手なのではないかと。

今作のラスボスは、前作でも一応は登場していたものの、配役が公開されず全体像すら描写されることのなかったジェームズ・モリアーティ教授。
前作から1年後が舞台となる今作では、そのモリアーティの暗躍による、無政府主義者の犯行に見せかけた連続爆破事件がヨーロッパの各地で相次いでいました。
そして、これまた前作同様にモリアーティのパシリ的な役割を担わされ、誰かに何かを渡そうとしているアイリーン・アドラーに、主人公シャーロック・ホームズが接近するところから今作の物語は開始されます。
アイリーンに対し、怪しい男が3人ほどアイリーンを尾行していると忠告するホームズ。
2人は狭い路地に入って尾行を撒いたかに思われたのですが、前方から出てきたひとりの男に道を塞がれることに。
実は怪しい男の数は総計4人で、かつ男達はアイリーンを尾行ではなく護衛するべく距離を置いて付随していたのでした。
護衛4人にホームズの相手をするよう命じ、その場を離れてしまうアイリーン。
結果、ホームズは大の男4人を相手に格闘戦を繰り広げる羽目に。
しかし、前作でも見せていた脳内シミュレーションを駆使したアクションで、ホームズは4人の男を撃退することに成功します。
一方、ホームズと別れたアイリーンは、とあるオークション会場でホフマンスタールという高名な医師に出会い、彼から手紙を受け取るのと引き換えに小包を渡します。
しかしそこへ、4人の男を撃退したホームズが登場、アイリーンから手紙を奪い取ると共に、その場で小包を開け中身が爆弾であることを暴きます。
ホームズはただちにホフマンスタールとアイリーンを含めたオークション会場の人間を逃がすと共に、オークション会場で売られていた巨大な棺?に爆弾を放り込んでフタをすることで爆弾を処理することに成功するのでした。
ところが、その後ホフマンスタールは暗殺されてしまい、アイリーンもまた、モリアーティとの打ち合わせの際に毒を盛られ殺されてしまうのでした。

それから暫く経った頃、ホームズが居住しているベイカー街のアパート?に、ホームズの相棒であるジョン・ワトソン医師が訪ねてきます。
前作でも自室で奇矯な実験を繰り広げまくっていたホームズでしたが、今回はさらに自室の入り口付近をジャングルに変えてしまった上、部屋内の壁と同化してワトソンにオモチャの矢を射掛けるという奇行を見せつけています(笑)。
実はこのホームズの行動はラストの伏線にもなるのですが、そのホームズの奇行にすっかり慣れ切っているワトソンは、アパートの管理人?であるハドソン夫人をなだめすかしつつ、ホームズの話を聞くのでした。
そして、前作で恋人となっていたメアリーとの結婚式を翌日に控えているワトソンは、独身最後の夜を楽しむべく、ホームズと共にとあるクラブへと向かうことになるのですが……。

映画「シャーロック・ホームズ シャドウゲーム」を観賞していて少し驚いたのは、前作でヒロインを演じたアイリーン・アドラーの、序盤という早い段階でのあっさりとした退場ですね。
前作におけるアイリーンは、ルパン三世でいうところの峰不二子的ポジションなキャラクターでしたから、もう少ししぶとく生き残るのではないかと考えていたのですが。
アイリーンに代わって今作のヒロインとなったマダム・シム・ヘロンは、アイリーンで見られたようなホームズとの人間関係的な絡みがほとんどなかったこともあり、いかにも「ぽっと出」なイメージが拭えませんでしたし。
演出的には、今作でも引き続きアイリーンを活躍させておいた方が良かったのではないかなぁ、とは正直思わなくもなかったですね。
逆に、前作では顔見せ程度の出番しかなかったワトソンの恋人(序盤で結婚してワトソン夫人となる)メアリーは、前作よりもそこそこに多い出番と活躍の場が提供されていました。
まあ彼女も、新婚旅行へ向かう列車で生命を狙われたり、ホームズによって川に突き落とされたり(ホームズの計らいですぐに助けは来ましたが)と散々な目に遭ってはいるのですが(苦笑)。

さて、原作でも「シャーロック・ホームズ最大の敵」として描かれているジェームズ・モリアーティ教授との対決ですが、全体的にホームズの方がモリアーティ教授に押されている感が否めなかったですね。
推理や頭脳戦では確かにホームズの方がモリアーティ教授を上回ってはいるのですが、今回のシリーズでメインとなっているアクション面では明らかに遅れを取っている感がありありでした。
特にドイツの軍需工場に潜入した際のホームズは、モリアーティ教授に一度囚われの身となってしまう上、逃げる際にも銃弾を受けて呼吸停止という事態にまで至っていますし。
ワトソンの機転と治療がなかったらホームズが死んでいたことは確実で、いかにホームズでも単独ではモリアーティ教授に勝てないことが明示されていました。
ラストの対決でも、この時肩を負傷していたことが仇となって、半ば心中同然の選択肢しかホームズは取れなかったわけです。
前作でもそうでしたけど、どうにも今回の「シャーロック・ホームズ」シリーズでは「短気で考え無しの無茶な行動に出るワトソンの活躍あってこそのホームズ」という構図がかなり強く出ていますね。
ホームズが如何にその優れた推理力を発揮しようと、死んでしまっては全く意味がないわけで、その辺りでホームズを過度に超人扱いせずバランスを取ってはいるのでしょうけど。
ホームズとモリアーティ教授の最終決戦も、脳内シミュレーション以外はずいぶんとあっさりとした決着でしたし、いくらメインに持ってきていても所詮「シャーロック・ホームズ」シリーズはアクション映画ではありえないのだなぁ、と。
まああの2人がスパイアクション映画クラスの派手なアクションを延々と繰り広げていたりしたら、むしろその方が変ではあるのですが(笑)。

ラストの「THE END」の最後に「?」を付ける終わり方は如何にもロバート・ダウニー・Jr演じるホームズらしい悪戯ではありましたね。
あの終わり方だとまた続編が製作されることになりそうではあるのですが、もし続編が製作されるとしたら、今度の敵は果たして一体誰になるのやら。
前作のラストは明確にモリアーティ教授が次回のラスボスになるという引きでしたが。
ホームズと同じく死体が見つかっていないということでモリアーティ教授の復活&再登場となるのか、それとも「ルパン対ホームズ」辺りのエピソードでも流用してルパン(もちろん三世ではなく一世の方)を出してくるのか、はたまた原作にも全く登場していない未知の敵になるのか……。
作品自体は結構面白く見応えのあるシリーズではあるので、さらなる続編の構想があるのなら是非とも作ってもらいたいところではあるのですけどね。

映画「シャーロック・ホームズ」感想(DVD観賞)

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映画「シャーロック・ホームズ」をレンタルDVDで観賞しました。
日本では2010年に公開されたアメリカ映画で、アーサー・コナン・ドイル原作の同名小説を原作とする、ロバート・ダウニー・Jrとジュード・ロウの2人が主演のミステリー・アクションコメディ作品。
劇場公開当時は諸般の事情により未観賞。
2012年3月10日には、今作の続編となる「シャーロック・ホームズ シャドウゲーム」が日本公開される予定です。

「シャーロック・ホームズ」と言えば、言わずと知れた世界的に有名なミステリー小説の探偵の名でもありますが、ロバート・ダウニー・Jrが演じる今作の主人公シャーロック・ホームズは、巷で知られているそれとはまた一味違った性格や特徴を持っています。
奇矯な性格で奇矯な言動ばかり披露し、自身が居住しているベーカー街の下宿アパート?内で銃をぶっ放したりするなど、他の住民達にも恐怖と奇異の目で見られているホームズ。
一方では武術家としての面も併せ持っていて、徒手空拳の状態でスローモーション解説を交えながら相手をボコボコにしていく描写が2回ほど披露されています。
また、ジュード・ロウが演じるジョン・ワトソン医師も、ホームズのボケに対してツッコミを入れまくるという役柄が新たに付加され、やたらと短気な言動を披露したり、時にはホームズを殴りつけたりするという言動を見せつけていたりします。
傍目に見ている分には、ワトソンの方がホームズよりも立場が上なのではないかとすら思えてくるほどです(苦笑)。
この2人と、オカルティックな黒魔術&超常現象っぽい演出を駆使してイギリスの頂点に君臨しようとするヘンリー・ブラックウッド卿による知略戦&アクションを繰り広げるのが、今作のメインストーリーとなります。

物語の本編は、そのブラックウッド卿が女性を横たえて怪しげな儀式を進行している地下神殿?にホームズが乗り込み、紆余曲折の末に儀式を阻止して女性を助け出し、ブラックウッド卿を逮捕させたところから始まります。
その女性の殺人未遂と、それ以前に行われた複数の女性の連続殺害容疑で、ブラックウッド卿には絞首刑による死刑が宣告されます。
ところがブラックウッド卿の周囲では奇々怪々な現象が頻発した上、卿は「処刑されても生き返る」と不気味な宣言すら行います。
果たして、彼は絞首刑で普通に処刑され、検死の役を担ったワトソンが絞首されたブラックウッド卿に脈がなく死亡したことを確認したにもかかわらず、彼が埋葬された墓は内側から破られ、棺には全く別の死体が入れ替わっていたのでした。
一連の事件でロンドン中がパニックに陥る中、レストレード警部の依頼で、ホームズとワトソンはブラックウッド卿の行方を追い始めるのですが……。

映画「シャーロック・ホームズ」は、原作のミステリー要素も色濃く反映する一方、新機軸であるアクションやコメディにもかなりの力を入れています。
ホームズとワトソンは、ブラックウッド卿の刺客によって幾度も危機に晒され、その都度アクションと機転で危機を脱していますし、また一方ではホームズとワトソンの間で漫才のごときボケツッコミな会話が何度も行われています。
ロバート・ダウニー・Jrは、今作でゴールデングローブ賞におけるミュージカル・コメディ部門主演男優賞を受賞したとのことですが、確かに受賞にふさわしいレベルのコメディタッチなホームズを見事に演じていましたね。
映画「アイアンマン」シリーズ「デュー・デート ~出産まであと5日!史上最悪のアメリカ横断~」でも、シリアスながらもどこかコメディ的なお笑い要素を併せ持つキャラを演じきっていましたし。
外見はガタイが良くアクション映画向きの俳優に見えるのに、実はコメディの方が本領発揮できるというのは何とも奇妙な話ではあるのですが。
ロバート・ダウニー・Jr本人的にはアクションとコメディのどちらが自分の望む姿であるのか、少しばかり興味をそそられるところですね。

また、作中で展開されている黒魔術や超常現象の類は、その全てがホームズによって種明かしが披露され、科学的な理論に基づいた説明が行われています。
終盤で作中における全てのトリックを矢継ぎ早に説明しまくるため、理解が追いつくのに苦労する部分もあるのですが、やはりこれこそがミステリーならではの醍醐味ではありますね。
19世紀後半のイギリスだと、まだ科学の知識なども現在ほどには普及していなかったでしょうし、オカルトを演出する道具としての科学には相応の利用価値があったのも頷けます。
実際、作中でも黒魔術や呪いに本気で恐れおののくロンドン市民の姿が映し出されていましたし。

作中では、今作におけるラスボスとも言えるブラックウッド卿の他に、原作でホームズ最強の敵として立ちはだかることになるモリアーティ教授も登場しています。
ただし、モリアーティ教授は実質声だけの出演に等しく、全身像すらマトモに映し出されない有様でしたが。
モリアーティ教授は、今作の続編である「シャーロック・ホームズ シャドウゲーム」で本格的に登場するようなので、彼とホームズとの戦いが今から楽しみですね。

映画「ラスト・ターゲット」感想(DVD観賞)

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映画「ラスト・ターゲット」をレンタルDVDで観賞しました。
日本では2011年に公開されたアメリカ映画で、マーティン・ブースのミステリー小説「暗闇の蝶」を原作とするクライムアクション・ドラマ作品。
劇場公開当時、この映画は熊本では例によって全く上映されておらず、観賞を見送った経緯がありました。
作中には複数の濡れ場シーンや女性が裸になる描写があることから、映画館ではPG-12指定されていました。

物語は、雪に覆われたスウェーデンのダラルナの針葉樹林地帯にひっそりと建っている小さな一軒家が映し出されるところから始まります。
一軒家の中では、やることでもヤッていた後なのか、裸になっている女と服を着ている髭面の男の2人がじゃれあっていました。
やがて夜が明け、2人は外に出て会話を交わしながら散歩を始めます。
2人がしばらく歩いていると、見渡す限りの雪原に人間のものとおぼしき足跡が見つかります。
それを見た男は顔色を変え、女を岩陰まで引っ張り走り始めます。
そして岩陰に隠れた途端に響く銃声。
男は直ちに銃を発砲した人間の所在を確認すると、隠し持っていた拳銃で反撃し、発砲者を始末することに成功します。
発砲者を始末した後、男は女に「警察を呼びに行け!」と命令し、何が何だか分からない状態で女はその命令に従い、男に背を向けて歩き始めます。
すると男は、女の背後から銃を発砲し、女を殺してしまったのでした。
さらに男は、少し離れたところで待機していたらしいもうひとりの襲撃者をも奇襲的に始末します。
男は襲撃者の車を奪いその場を後にし、付け髭を取って一路イタリアのローマへと向かうのでした。

ローマに到着すると、その男ジャックは、組織の連絡役であるパヴェルと接触します。
ジャックから事のあらましを聞いた後、パヴェルは事態の全容が把握されるまでしばらくローマから遠く離れたカステルヴェッキオという町に身を隠すよう指示を下します。
誰とも話さず、ましてや友人も作るな、と忠告した上で。
指示の通りにカステルヴェッキオの町に到着したジャックなのですが、しかし何か気に入らないことでもあったのか、カステルヴェッキオの町を出てそこからさらに先にあるカステル・デル・モンテへと向かうことになります。
しかもその途中で、連絡用にと渡されていたはずの携帯電話をも投げ捨てて。
そしてジャックは、カステル・デル・モンテで小さな部屋を借り、アメリカ人カメラマンのエドワードという仮の身分と偽名を使い、その地で身を落ち着けることになるのですが……。

この映画は、メインストーリーの元となるプロローグに上映時間の大部分を使ってしまっているように思えてなりませんでしたね。
ストーリー前半は「カステル・デル・モンテでの日常生活」というひたすら退屈な描写が延々と続きますし、アクションシーンもほとんどありません。
一般人の日常と違うところと言えば、せいぜい組織から依頼された銃を製造するエピソードくらいですね。
ストーリーが本格的に動き始めるのは、物語開始から何と80分以上も経過した頃で、売春宿で知り合った女と一緒になるために組織から足を洗うと決意することから、ようやく本当の物語が始まるんですよね。
物語後半で若干展開されるアクションシーンも派手さはなく、むしろ静かに淡々と進行していく感じです。
よって、ハリウッド映画的な派手な描写を期待してこの作品を見ても、得られるものはまずありません。
どちらかと言えば、静かな雰囲気とイタリアの田舎町の風景を楽しむための作品、といったところではないかと。

ただ、こういう映画を見ると、全国上映されない映画というのにはそれ相応の理由があるのだなぁ、とは思わずにいられないところですね。
映画の内容がこれでは、仮に全国上映されたとしても興行的に失敗するのは目に見えています。
映画館や配給会社にしてみれば、スクリーン数も限られているわけですし、上映しても売上が見込めない映画よりも、成功する公算が高い映画を導入した方が利益になるのですから、そちらを優先的に注力したいというのが本音でしょう。
東京などのような大都会であれば、それでも客入りはそこそこあるでしょうからまだ利益も出せるかもしれませんが、熊本のような地方ではそれも無理なわけで。
この構図を何とかしないと、映画の地域格差というのはそう簡単になくなることはないでしょうね。
地方在住の人間としては何とも残念なことではあるのですが(T_T)。

映画「戦火の馬」感想

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映画「戦火の馬」観に行ってきました。
イギリスのマイケル・モーパーゴ原作の児童小説を、スティーブン・スピルバーグが実写映画化した作品。

物語最初の舞台は、第一次世界大戦前夜のイギリス・デヴォン州。
この地にある牧場?で、一匹のサラブレッドの子馬が生まれるところから物語が始まります。
子馬が生まれるまでの一部始終を遠巻きに見物していたアルバート・ナラコットは、子馬が母馬離れするまでの間、子馬と仲良くなろうとしますが、子馬はアルバートから逃げ母馬の後ろに隠れるばかりで上手くいきません。
やがて子馬は、地元の市場で競売にかけられることになったのですが、そこへアルバートの父親であるテッド・ナラコットが居合わせます。
元々は農耕馬を買うために市場へとやってきていたテッドでしたが、競売にかけられていた子馬に何か惹かれるものでもあったのか、テッドは貧しい家の家計事情も顧みず、大金をはたいて子馬を購入してしまいます。
農耕馬を買うと思っていた妻のローズ・ナラコットは、家計を傾けるレベルの大金を投じて農耕に向かないサラブレッドなどを買ってきたテッドに当然のごとく激怒し、土下座してでも馬を返品してカネを取り戻して来いとテッドに詰め寄ります。
しかし、元々子馬を持つことに憧れていた息子のアルバートが割って入り、「自分が農耕できるように調教する」と説得し、何とか子馬を手放すことは避けられたのでした。
アルバートは子馬にジョーイという名前を付け、その日からアルバートによるジョーイの調教の日々が始まるのでした。
ジョーイは最初、冒頭と全く同じようにアルバートを警戒し近づこうとすらしないのですが、やがてアルバートが差し出した餌をちゃんと食べるようになります。
また、フクロウの鳴き声を真似た口笛を吹くことで自分の所へやってくる芸を仕込み、これも最初は無反応だったのを、最終的にはマスターさせることに成功。
そして最後には、石ころだらけの荒地を鋤で耕す訓練を始めるようになり、「そんなことできるわけないだろ」と周囲からの嘲笑を買いながら悪戦苦闘を続けた末、ジョーイは遂に農耕馬として自分が使える存在であることを証明してみせたのでした。
そして、これらの調教は、ジョーイの今後の運命に大きな影響を与えることになるのです。

ジョーイの調教は充分以上の成果を上げることができたアルバートでしたが、彼の能力とは関係なくナラコット一家には破局の危機が迫っていました。
元々ジョーイを買うために大金を投じたことが響いた上、せっかくジョーイを使って荒地を開墾して作ったカブ畑も暴風雨で全滅するという不運に見舞われてしまい、地主であるライオンズに支払う地代が調達できなくなってしまったのです。
そんな折、世界ではオーストリア皇太子がセルビアのガヴリロ・プリンツィプによって暗殺されたことが発端となって第一次世界大戦(欧州大戦)が勃発、イギリスもまたドイツに宣戦布告し連合国側に立って参戦することになったのです。
これを好機と見たテッドは、息子にも内緒でジョーイをひそかに運び出し、軍に売り飛ばすことを画策するのでした。
事態に気づいたアルバートがただちに駆けつけるも時既に遅く、ジョーイは軍馬として取引されてしまった後でした。
悲嘆に暮れるアルバートでしたが、ジョーイを買い取ったイギリス騎兵隊所属のニコルズ大尉はアルバートに同情し、ジョーイの世話をきちんと行うことと、戦争が終わったら必ずジョーイをアルバートへ返すことを約束します。
それでもジョーイと一緒にいたいアルバートは軍に志願しようとしますが、年齢制限を理由に拒絶されてしまいます。
しかたなくアルバートは、かつて父親が戦争に参加した際に所持していたという小さな軍旗?をジョーイの手綱に結びつけ、ジョーイと袂を分かつこととなるのでした。

ニコルズ大尉と共にフランスの戦場へと向かうことになったジョーイは、その初陣とも言える戦いで、ドイツ軍歩兵600に対し300の騎兵隊で突撃奇襲をかける作戦に従軍することになります。
しかし、この作戦は最初効果を上げたかと思われたのですが、森に避難したドイツ軍が隠していた大量の機関銃による一斉射撃であっさり形勢逆転、逆にイギリス軍の方が壊滅してしまい、ニコルズ大尉も戦死してしまうのでした。
ジョーイは他の馬達と共にドイツ軍によって捕らえられ、以後、自分と同じ境遇のトップソーンという黒馬と共にドイツ軍の負傷者輸送用の馬として使われることになるのですが……。

映画「戦火の馬」を観ていて疑問に思ったのは、アルバートの父親テッドについてですね。
テッドは作中で、過去に戦争に参加して味方を助けて足に障害を負い、そのことが讃えられて勲章と所属連隊の小さな軍旗を貰いながらも、「戦場で人を殺してしまったから」とそのことを誇りに思わず勲章を捨ててしまった(ただしテッドの妻のローズがこっそり保管していた)というエピソードが、ローズからアルバートに語るシーンが存在します。
このシーンが影響しているのか、アルバートは母親から貰った小さな軍旗を大事にしており、ジョーイとの別れの際にはそれをお守り代わりにジョーイの手綱に結びつけ、さらに物語のラストでは父親と抱き合い、人から人へと渡ってきた小さな軍旗を父親に返す、というシーンが展開されています。
しかし、作中におけるテッドは、農耕馬として役に立つかも分からないジョーイに大金を投じて家計を危機に陥れたり、ジョーイに銃を向けて殺そうとしたり、息子に無断でジョーイを軍馬として売り飛ばしたりと、全く良いところが見出せません。
アルバートの視点から見た父親テッドは、母親ローズの擁護が空しく思えてすらくるほどに「障害持ち&酒飲み&生活無能者&家庭内暴君」とダメ人間要素が満載の人物でしかないのです。
父親の過去に何があろうと、それは今現在における父親の言動を正当化するものではありえないのですから。
そんな父親が持っていた小さな軍旗を、何故アルバートが後生大事にしなければならないのか、実に理解に苦しむところがあります。
特に、ジョーイを軍に売り飛ばした件などは、たとえ家計が苦しいという事情を理解していてさえも反発を抱かざるをえないところですし、ましてや、あの時の父親の行動は息子に対する裏切り行為も同然です。
何しろ父親は、息子に対して「こういう事情があるから(ジョーイを売ることを)理解してくれ」といった類の説得すらも行っていないのですから。
もちろん、説得したところで、ジョーイに愛着がある息子が激烈に反発&反対するのは必至だったでしょうが、家の苦しい事情はアルバートだってきちんと理解しているのですから、最終的には納得という方向に行かざるをえなかったでしょう。
しかし、渋々ながらも納得してジョーイを売りに出されるのと、自分に無断でコソコソと売りに出されるのとでは、アルバートが受ける精神的ショックは桁違いなものになります。
ただでさえテッドには、農耕馬として役に立たないと見做したジョーイを息子の目の前で撃ち殺そうとした前科を持っているのに、そこへ来てさらにこの裏切り行為が重なるのです。
アルバートのジョーイに対する愛情を考えれば、アルバートは父親に対して憎悪どころか殺意すら抱いてもおかしくありません。
実際、件の場面でもアルバートは父親に対して「酷い」となじっていましたし。
にもかかわらず、ラストシーンではジョーイに乗って帰ってきたアルバートがテッドと抱き合うシーンが普通に展開されているのですから、大いに違和感を覚えざるをえませんでした。
あの場面ではむしろ、アルバートが父親に対して「ジョーイに近づくな!」と怒鳴りつけ、例の小さな軍旗を父親に叩きつける、といった光景でも繰り広げられる方がはるかに自然なくらいです。
まあ、父親のジョーイ売り飛ばし所業からあのラストシーンまでは最大4年近い時間が経過しているわけですから、その間に父親と息子が和解していた可能性もなくはないのですが、それならそれで、2人が和解するに至ったエピソードが作中に挿入されていないと、あのラストシーンには繋がらないのではないかと。
この父親テッド絡みの描写は、これまでのスピルバーグ作品には全く見られなかったもので、それも「あってはならない」的な最悪の部類に属するシロモノです。
細かいところではツッコミどころもあるにせよ、登場人物の設定そのものに重大な問題があってストーリーに多大な違和感を覚えたスピルバーグ作品というのは、今回が初めてでしたねぇ(-_-;;)。

あと、馬のジョーイが途中で出会うことになるドイツ軍脱走兵の2人、兄ギュンターと弟ミヒャエルのうち、特に弟の方が実に哀れに思えてなりませんでした。
ミヒャエルは別にドイツ軍から積極的に脱走したかったわけではなく、むしろ戦って軍功を上げたいとすら考えていたくらいなのに、母親との約束に固執したギュンターに無理矢理引き摺られる形で軍を脱走する羽目になった挙句、兄共々脱走罪で銃殺されるという最悪の末路を辿ることになったのですから。
これではミヒャエルは「兄のせいで殺された」も同然ではありませんか(T_T)。
兄は兄で、何故そんな危険極まりない「賭け」で助かると考えていたのか理解不能です。
大戦末期ならともかく、大戦がまだ始まって間もなくドイツ軍が優勢だった時期に、仮に脱走に成功して母親の元に返ったところで、ドイツ軍なり当局なりから後日改めて実家に連絡が行って脱走罪の容疑で逮捕されることなんて普通に目に見えていたはずなのですが。
母親と合流後、さらに当時中立国だったスイス辺りにでも逃げる計画があったのでしょうかね?

映画「戦火の馬」は、アカデミー賞6部門にノミネートされていた(賞そのものはひとつも受賞できていませんが(T_T))だけあってか、風景や戦争描写や馬の描き方などについてはさすが秀逸な出来ではあります。
アルバートとジョーイの再会も感動的ではありましたし、これで父親絡みの描写がないか、ラストは父親が既に他界でもしていたことにするか、あるいは映画「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」のごとき大逆転劇でもあれば言うことはなかったのですが(T_T)。

映画「顔のないスパイ」感想

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映画「顔のないスパイ」観に行ってきました。
旧ソ連時代の凄腕スパイ「カシウス」の行方を巡って繰り広げられる、リチャード・ギア主演のスパイ・アクション作品。
「顔のないスパイ」は邦題タイトルで、映画の原題は「The Double」。
元々今回は、3月1日が映画「ヒューゴの不思議な発明」の公開初日&ファーストディ(映画の日)ということもあり、当初はそちらを観賞する予定でした。
ところが「ヒューゴの不思議な発明」は、全く思いもよらなかった試写会当選のおかげで予定よりも早く、しかも無料での観賞が可能となったことから、結果的に3月1日の予定が空いてしまったんですよね。
しかし、せっかくのファーストディなのだからこの日に映画を観ないと損だということで、本来は2月26日の日曜日に観賞する予定だった今作をこちらに持ってきた、というわけです。
映画を安く観賞できるという特典がある日を、逃がすわけにはいかないですからねぇ(^_^;;)。

物語は、ロシアと密接な関係を持っていた上院議員が暗殺される事件が勃発するところから始まります。
上院議員が殺される光景は監視カメラにも捕らえられていたのですが、犯人の顔は識別不可。
しかし、殺しの手口が細いワイヤーを使って首を切り裂くという手法で、かつ切り裂きの手法が、旧ソ連時代に活躍したと言われる往年の凄腕スパイ「カシウス」が多用していたものと同一であったことから、「カシウス」が復活したのではないかと囁かれました。
事態を重く見たCIAは、かつて「カシウス」を半生にわたって追い続け、今では引退している元CIAエージェントのポール・ジェファーソン(今作の主人公)を呼び戻し、FBIの若手捜査官ベン・ギアリーと共に「カシウス」の捜査に当たらせます。
ベンは「カシウス」を題材にした修士論文を書いたほどに「カシウス」に精通している人物で、今回の事件が「カシウス」の仕業だと最初に主張したのも彼でした。
これに対し、ポールは「カシウスは既に死んでおり、今回の事件は模倣犯の仕業である」と主張、2人の意見は対立します。
それでも2人は、「カシウス」がリーダーを務めていたとされる暗殺組織「カシウス7」の生き残りメンバーで現在は獄中にいる人物から、情報を引き出すべく面会に臨みます。
そこで2人は、獄中の男にラジオ?を渡すのと引き換えに、「カシウス」が暗殺者の掟を破ったことで罰を受けたという新事実を知ることになります。
その後、獄中の男はラジオ?の中にあった電池を飲み込み、体調不良を訴えて自身を病院に運ばせると共に、医療スタッフ達の隙を突いて脱走することに成功します。
しかし、脱走した男が逃げた先で待ちかまえていたのは、何と先ほど男と面会していた2人のうちのひとり、ポールだったのです。
脱走男との対峙の中で、自分が「カシウス」であることを告白し、愛用の武器である腕時計仕込みのワイヤーで脱走男を惨殺してしまうポール。
ポールはその直後に、「カシウス」こと自分自身にいずれ辿り着くかもしれないベンを今のうちに殺そうと、彼の家でその機会を伺うのですが、庭にひとり出ていたベンを奥さんが家から出てきて話しかける光景を見て思い直したのか、結局何もすることなくその場を後にするのでした。

その後、ポールが惨殺した脱走男が発見され、現場検証が行われるのですが、全ての真相を知っているポールも知らぬ顔で現場検証に参加しています。
そればかりか、相棒のベンに野次馬のひとりを指し「あいつが来ている服はロシア製だ」などと指摘して追跡劇を演じ、捜査を悪戯にかき回したりする始末。
ただ、これがひとつのきっかけになって互いに打ち解けたのか、ベンはポールを自宅に招いて食事を共にしたりもするようにもなったのですが。
一方、捜査が進んでいく過程で、「カシウス」と同じ時期に姿を消した、元KGB特殊部隊(スペツナズ)所属のボズロスキーという男が浮上してきます。
CIAは、ポールの正体について何ら疑問を抱かぬまま、ボズロスキーを「カシウス」と見て追跡調査を進めていくことになるのですが……。

映画「顔のないスパイ」を観賞していく中で私がまず連想したのは、1997年(日本では1998年)公開の映画「ジャッカル」でしたね。
映画「ジャッカル」は、今作と同じくリチャード・ギアが主演で、かつブルース・ウィリスが悪役というタッグの実現で当時話題を呼び、これまた今作と同じくスパイ同士の駆け引きとアクションをメインとしたストーリーが展開されていた異色の作品です。
主演が全く同じということに加え、スパイ・アクションという映画のジャンルも同一、さらには作中の主人公の設定にも「身内を殺されたことから復讐に走る」という共通項があるとくれば、やはり「ジャッカル」を想起せずにはいられなかったところでして(^^;;)。
ただ、「ジャッカル」と今作では14年以上もの開きがあるためか、リチャード・ギアの外見がすっかり様変わりしていたのが結構印象に残ったものでした。
「ジャッカル」の時はブルース・ウィリスよりも若く見えていたリチャード・ギアでしたが、今作では役柄にふさわしい容貌になっていましたし。
物語の中盤頃までは主人公の復讐の設定が出てこなかったこともあり、「『ジャッカル』におけるブルース・ウィリスの役柄をリチャード・ギアが担っている」とまで考えていたくらいでした(^^;;)。

今作で少し疑問に思ったのは、「カシウス」が関わったとされる全ての事件の写真にポールが写っていたことから、ベンが「カシウス=ポール」の図式に気づくところですね。
ポールはCIA現役時代に「カシウス」を長年にわたって追いかけている、という設定が最初から明示されているのですから、「カシウス」絡みの事件全てでポールが映し出されていること自体は何ら不自然なことではありません。
ボズロスキーを単身追いかけていたポールの行き先で例の「カシウス」の犯行以外の何物でもない手法で殺されていた遺体をベンが目撃する描写がありましたから、この時点で「カシウス=ポール」の疑いが出てきたという事情もあった(この時点で「カシウス」候補は、未知の第三者を除外すればボズロスキーとポールの2人に絞られる)のでしょうが、それにしてもアレではまだ決定打とは言えないよなぁ、と。

また、物語終盤で「実はベンもまたポールと同じくロシアのスパイだった」という事実が明かされます。
何でも彼は、ロシアを裏切った「カシウス」ことポールを抹殺するために10歳の頃にロシアから派遣され潜伏していたスパイだったのだそうで、上院議員殺しも彼が「カシウス」を炙り出すために行った犯行なのだとか。
どことなく映画「ソルト」を髣髴とさせるようなエピソードではありますね。
ただ、作中には目に見えてそれと分かる伏線や説明が全くなく、いかにも唐突に出てきた感は否めませんでした。
後から物語全体を俯瞰して考えると、冒頭の上院議員殺しと「修士論文まで書くレベルのカシウスマニア」というベンの設定に関連性があったことが分かり「ああ、なるほど」と納得もできた(「カシウス」の手法を熟知しているからこそ「カシウスの犯行」をも再現できた)のですが、作中ではこれといった説明もないですし、普通はまず気づかないのではないですかね、これって。

それにしても「ソルト」といい今作といい、映画の世界におけるアメリカってとことんスパイに弱い体質をしていますね(苦笑)。
安全保障上の問題が浮上してもおかしくないほどに、スパイに浸透され放題ではありませんか。
まあ「アメリカの場合は」エンターテイメントならではお約束ではあるのでしょうし、また今作の場合は「The Double」という映画の原題にも関わってくる(二重スパイが2人)ので、落としどころは上手いとは思いましたが。
これがスパイ防止法すらも成立していない日本だと、現実自体が「映画の世界のアメリカ」よりもさらに悲惨な惨状を呈しているために、笑いすらも出てこないのが何とも言えないところで(T_T)。

アクションよりもスパイならではの葛藤や人間ドラマに重きをおいているストーリー構成ですが、リチャード・ギアのファンの方なら観て損はしない映画なのではないかと。

映画「デビルクエスト」感想(DVD観賞)

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映画「デビルクエスト」をレンタルDVDで観賞しました。
日本では2011年に公開されたアメリカ映画で、14世紀の十字軍時代を舞台に繰り広げられるニコラス・ケイジ主演のアクション・アドベンチャー作品。
去年、シネマトゥディで映画の存在を知り、出演者と内容から面白そうだと思ってチェックしてみたら、熊本では上映予定が全くなく、しかたなく観賞を諦めていた作品です。
都会と地方の格差というのは、こういうところにも現れるんですよねぇ(T_T)。

物語のプロローグでは、本編に先立つこと100年前の1235年、当時は神聖ローマ帝国領だったオーストリアのフィラッハの町で、魔女狩りが行われているシーンが展開されます。
捕らえられた3人の女性が一方的に魔女と断定された挙句、橋から縛り首にされた上、川に下され溺死までさせられてしまいます。
それだけならば当時の魔女狩りの一風景でしかなかったのですが、この映画ではここからが異なりました。
司祭が復活を阻止すべく、川に下した遺体を縛り首にしたロープで引き上げ、書物を片手に祈祷を始めると、死んだはずの遺体が突如震え出し、ただならぬうめき声を上げ始めます。
しかし祈祷が進むとそれもやがて収まり、司祭は次の遺体を最初の遺体と同様に川から引き上げようとします。
ところが今度は司祭が逆に引っ張られ川に転落してしまいます。
川に引きずり込もうとする何者かの手を必死になって逃れ、司祭は川に引っ張られた際に橋の上に落とした書物を取り上げ、再度祈祷を始めようとします。
しかし、死んだはずの遺体が川から跳躍し、司祭の目の前に立ちはだかります。
そして、遺体が手を振りかざすと、書物は燃え上がり、司祭もあっさり殺されてしまうのでした。

時は流れ1332年。
1096年から聖地奪回を目指し、ローマ教皇によって数次にわたって提唱された、後世で言われるところの十字軍は、1291年のアッコン陥落によって幕を閉じましたが、その後も個々の国や領主などによる小規模の十字軍遠征がしばしば展開されていました。
ニコラス・ケイジが扮する今作の主人公ベイメンと、彼の親友であるフェルソンは、14世紀に当時存在したキプロス王国によって主導されていた十字軍に従軍していました。
ベイメンとフェルソンは、その年に行われた現在のトルコ領エドレミット湾の戦いで十字軍騎士としての初陣を飾り、以後、1334年のトリポリ包囲戦、1337年のインブロスの戦い、1339年のアルタハの戦いと、実に10年近くにわたって十字軍の戦いで活躍していきます。
彼らの名前と武勇は、十字軍の中でも伝説的なものとして語られるようになっていきました。
しかし、1344年に行われたスミルナの戦いが、彼らの運命を一変させます。
スミルナとは現在のトルコ領イズミルで、昔から海の拠点のひとつとして栄えてきた都市です。
このスミルナを、キプロス王国主導の十字軍は力攻めの末陥落させることに成功します。
スミルナの城門を突破することに成功した十字軍と共に、ベイメンもまた城内に侵入し敵の殲滅に当たろうとするのですが、その最中、彼は逃げ惑うひとりの女性を刺し殺してしまいます。
それまで彼が戦ってきたのは武器を持った戦場の兵士達であり、非戦闘員を殺したのはこれが最初でした。
愕然としたベイメンが周囲を見渡してみると、そこでは味方の十字軍が情け容赦なく虐殺を繰り広げる光景と、彼らによって殺された女子供の死体の山。
ベイメンとフェルソンは、虐殺を主導した十字軍の総司令官に怒りをぶつけますが、十字軍の総司令官は「神の声」と教会の権威を盾に全く取り合おうとせず、逆にベイメンを「悪魔にでも取り憑かれたか」などと中傷までする始末。
これで完全にキレてしまったベイメンとフェルソンは、その場で十字軍からの離脱を宣言、脱走兵として追われる身となって旅をすることになります。

それから1ヵ月後。
ベイメンとフェルソンは、スティリア(現在のオーストリア領シュタイアーマルク州の英語読み)の沿岸部を歩いていました。
内陸国であるはずのオーストリアのスティリアに海岸線が存在するのかは非常に疑問ではあるのですが、それはさておき、彼らは、羊が放置されている1軒の民家を発見します。
食糧を求めていたベイメンとフェルソンが家屋に入ると、住人と思しき人間がベットの中で変わり果てた異形の姿で死んでいる姿が。
民家を燃やしてその場を後にした2人は、ようやくひとつの町に辿り着きます。
脱走兵として指名手配されているものの、一方では食糧の補給と馬の交換を行う必要もあり、正体を隠して町に入った2人が見たものは、黒死病(ペスト)の蔓延で苦しんでいる住人達でした。
馬を調達することには成功したベイメンでしたが、そこで十字軍に所属していた証である剣を見られてしまい、自分達の正体が露見してしまいます。
結果、彼らは官憲に捕まり、引っ立てられることとなってしまいます。
しかし彼らは、現地の教会から、脱走罪を免除してもらうことを条件に、ひとりの魔女をセヴラック修道院まで護送するよう依頼をされ、紆余曲折の末にこれを引き受けることになるのでした。
かくして彼らは、セヴラック修道院を目指し、600リーグもの距離を進むこととなるのですが……。

映画「デビルクエスト」の真骨頂は、脱走罪の免罪を条件にベイメンが護送することになった魔女を巡る駆け引きですね。
幼い面影すら残す少女を「魔女」として断罪し、魔女裁判にかけることに執念を燃やす司祭デベルザックに対し、ベイメンは「こんな少女が魔女であるとは思えない」と懐疑的であり、2人はしばしば対立します。
現代世界の常識であればベイメンに軍配が上がるところですが、作中の世界は冒頭のシーンでもあったように不可解な超常現象が実際に起こっている世界です。
また実際問題として、少女は大人をも遥かに凌駕する膂力を発揮したり、意味ありげな言動を披露したりしています。
その点ではミステリーのごとく、話の先が読めない世界でもあるわけです。
少女の正体は一体何なのか? またその目的は何で、言動にはどのような意味があるのか?
それらは全て物語終盤で明らかとなるのですが、謎が明らかになってスッキリする過程はまさにミステリー的な醍醐味がありました。

ただ個人的には、せっかく十字軍を出して大軍同士の激突を描いているのですから、もう少しそちらを前面に出しても良かったのではないか、とは思いましたね。
十字軍の戦いは、主人公の戦闘能力を表現する道具に終始していただけで、別に十字軍でなく英仏百年戦争やドイツ三十年戦争、さらにその他の戦争や内乱などでも充分に代替ができるものでしかありませんでしたからねぇ。
まあ、製作者側の意図としては、あくまでもRPG的な冒険物がメインであり、軍隊同士の激突の類を描くつもりはあまりなかったのでしょうけど。
「魔女」の護送に当たっていた人物達は、思惑も出自も性格も能力も見事なまでにバラバラで、要所要所で少しずつ離脱を余儀なくされながらも、最後は一丸となってラスボスと戦うという、ある意味RPGの王道路線を地で行くものでしたし。

大作感はないものの、普通に楽しむことができる作品なのではないかと。

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