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映画「任侠ヘルパー」感想

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映画「任侠ヘルパー」観に行ってきました。
諸々の事情からヤクザが介護ヘルパーとして働くという奇抜な設定が話題となった、2009年にフジテレビ系列で放映された草彅剛主演の同名テレビドラマの映画化作品。
テレビドラマ版については、映画館での宣伝からその存在自体を知ったくらいなので当然のことながら全く未視聴。
ただ、設定自体はテレビドラマ版と一応の繋がりはあるものの、ストーリー自体はテレビドラマ版とは別個になっているので、作品単独でも充分に観賞可能な映画ではありますね。

かつては指定暴力団「隼会」に所属していた、草彅剛が扮する今作の主人公・翼彦一は、映画の冒頭では組織を抜けて堅気となり、とあるコンビニで働きながら細々と生活していました。
客商売にはおよそ向かないレベルの愛想のなさっぷりを披露していたため、客からも同じバイト仲間?からも見下されバカにされる日々ではあったのですが。
しかしその日常は、コンビニにヘルメットをかぶった強盗が押し入り、バイト仲間にナイフを突きつけてカネを要求されたことから終わりを告げることになります。
ヤクザ時代に培ってきた修羅場での経験を生かし、いともあっさりと強盗を返り討ちにしてヘルメットを奪い取る翼彦一。
しかし、そこにあったのは老人の顔で、明らかに食い詰めて犯行に及んだことが丸分かりな風体でした。
そんな老人に翼彦一は何か同情するものでも見出したのか、自分から老人のバックをかすめ取ってコンビニのカネを入れ、老人に手渡してこの場を去るよう促すのでした。
しかし、そんな一連の出来事は全てコンビニに設置されていた監視カメラに録画されており、翼彦一はコンビニをクビになった上で警察に逮捕されることとなります。
一度は警察に従順に従うそぶりを見せていた翼彦一は、警官達の一瞬の隙を突いて逃亡し、警察に追われながらトンネルを走る描写が展開されます。
まあ、その直後には刑務所の中で囚人として過ごす翼彦一が映し出されていたので、直後にまた捕まったであろうことは想像に難くないのですが(苦笑)。

刑期を過ごしていた刑務所の中で、翼彦一は冒頭のコンビニで強盗に押し入っていた老人と再会することになります。
その老人の名は蔦井雄三といい、刺青もしっかり彫り込んでいる元極道者。
彼は翼彦一からもらったカネを競馬で全部スッてしまった挙句、別件で逮捕され刑務所へ収監されたのだとか。
蔦井雄三は自分と同じ「元極道」という境遇に共感でもしたのか、翼彦一に将棋の駒を渡し、自分が元いた大海市を牛耳っている「極鵬会」という組を訪ねるよう促します。
そして後日、蔦井雄三は老齢に加えて病を患っていたことから死去。
翼彦一が出所するその日、彼の遺体は棺に入れられ火葬場なり墓場なりへ運ばれていったのでした。

刑期を終えて出所した翼彦一は、しかしその直後、冒頭のコンビニで自分と共に仕事をしていた山際成次という若者と出くわし、「男気に惚れたから舎弟にしてくれ」と懇願されることになります。
最初は拒絶していた翼彦一でしたが、あまりにもしつこい上に、その直後に蔦井雄三の娘にして遺族でもある蔦井葉子から形式的な挨拶を受けたこともあり、なし崩し的に舎弟として扱っていくことに。
そして、自身と蔦井雄三の事例から、元極道として堅気で生きていくが困難であると思い知らされた翼彦一は、今は亡き蔦井雄三の勧めに従い、大海市へと向かうことになるのですが……。

映画「任侠ヘルパー」では、まさにゴミ溜めのごとき施設に老人達を隔離し、生活保護のカネだけをふんたくって私腹を肥やす暴力団が登場します。
それどころか、一応は法的に何の問題もない高級老人介護施設でさえも、老人達を半ば機械的に扱い、薬を使って黙らせたりする傾向があることが普通に描かれていたりします。
人をモノとしてしか見ていない凄まじく非人道的な話ではあるのですが、しかし実際問題として、こういったことは現実の介護施設の現場で本当に行われていることのように思えてならないですね。
実際、生活保護の支給は暴力団や悪質なNPO法人の資金源になっているとされ問題にもなっており、作中で展開された「介護や借金を餌にした貧困ビジネス」も普通に横行しているのだとか。
介護ヘルパーによる老人イジメなども一時期話題となりましたが、それも老人を人間ではなく「金のなる木」と見做す風潮が原因でしょうし、根は同じところにあるような感が多々あります。
日本のみならず世界各国の主要国全てで、高齢化社会は誰にとっても避けて通れない深刻な問題となりつつありますし、今後似たようなケースはいくらでも出てくるでしょう。
もちろん、作中における翼彦一のごとく、老人のことを親身に考え老人のためになる介護を真剣に行っている良識的な施設もあることはあるでしょうけど。
出演者の顔ぶれに加え、どう見ても軽いノリの舎弟っぷりを披露している山際成次や正真正銘軽い頭な持ち主の仙道茜などのキャラクターがいることから、一見するとギャグ調な作品っぽく見えるのですが、作品のテーマには意外に重いものがあり、良い意味で予想を裏切る内容ではありましたね。

ただ、個人的に少々疑問に思ったのは、物語終盤における「極鵬会」の面々達の行動ですね。
貧困ビジネスの一環として自分に与えられた「うみねこの家」を焼かれたことから、翼彦一は介護施設建設の入札?会場で「極鵬会」に対して大々的に喧嘩を打ってビジネスを壊してしまった翼彦一は、「極鵬会」の総力を挙げて追われる存在となってしまいます。
そして、放火された「うみねこの家」で老人達が戻ってきた光景を目の当たりにした翼彦一は、老人達が「極鵬会」の目に留められ襲撃されることのないよう、自分の身を「極鵬会」に晒しその身を犠牲にすることを決断します。
果たして彼は「極鵬会」の組員達によって集団リンチに遭い、今まさにどこかへ連れ去られ殺されようとしていたのですが、そこへ異変を察知した八代照夫と蔦井葉子の2人が駆けつけ、八代照夫が「極鵬会」に向かって啖呵を切ることになります。
そしてそれに恐れを抱いたのか、「極鵬会」の面々達はそれ以上の危害を誰にも加えることなく、捨て台詞を吐きながら退散することになるのですが……。
しかし「極鵬会」の面々にしてみれば、たかだか八代照夫の啖呵程度のことで撤退する必要など、実はどこにもなかったりします。
その時の八代照夫は既に大海市の議員を辞職していることを宣言していましたし、その理由が彼自身の女性問題であることも、彼自身の口から既に公のものとなっていました。
となれば、あの場における八代照夫はただの一介の弁護士であるに過ぎず、「極鵬会」にしてみればその場で殺してしまっても何ら問題のない存在でしかない、ということになります。
むしろ「極鵬会」としては、翼彦一に集団リンチを加えていた現場を八代照夫と蔦井葉子に目撃されていることになるわけですから、2人を見逃すと後々厄介な問題にも発展しかねない局面でさえあるわけです。
既に「極鵬会」は、翼彦一を殺すためにどこかへ連れて行く段階に入っていたのですし、あの場には2人以外に目撃者もいなかったのですから、殺すべき対象をひとりから3人に増やしたところで何の支障もなかったはずでしょう。
口封じを目的にした殺人行為なんて、仮にもヤクザや暴力団を名乗っている面々ともあろう者達であれば常日頃から行っているビジネスでしかないのですし。
もちろん、2人を殺す際にはそれなりに合理的な理由で自分達の犯行がバレないような細工をする必要もあるでしょうが、そんなものは後からいくらでもでっち上げることも容易なことでしかないでしょう。
さし当たっては、八代照夫と蔦井葉子の関係を利用して心中に見せかけて殺すとか、何ならコンクリ詰めなり死体を処分するなりして「行方不明」にしても良かったでしょうし。
映画「悪の教典」の蓮実聖司辺りならば簡単に実行してのけそうなものなのですが、仮にも非合法行為を生業とする暴力団の面々が、その程度のことすらも実行どころか思いつきさえしないとは驚きです。
あの場は弁護士である八代照夫が得意とする法律など何も機能しておらず、完全無欠な「極鵬会」のテリトリー下にあったのですから、既にひとりの人間の殺害を実行しようとしていた「極鵬会」が2人を追加で抹殺するなど、赤子の手をひねるよりもはるかに容易なことだったようにしか思えないのですが。
あれでは「極鵬会」は、極道にあるまじき「アマちゃん&事なかれ主義の集団」でしかないではありませんか。
あの場で3人が助かるシナリオにするならするで、もう少し「極鵬会」側がそうせざるをえないような「物理的な力の明示(八代照夫の背後から警察が大挙して出現しようとしていたとか)」の類の演出が必要だったのではないかと。

テレビドラマ版か草彅剛のファンであればもちろん、介護問題について考えたい方であれば必見の映画ではないかと思います。

映画「悪の教典」感想

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映画「悪の教典」観に行ってきました。
「海猿」シリーズその他でヒーローや善人的な役柄を主に担ってきた伊藤英明が一転してサイコキラーな悪役を演じることで話題となった、貴志祐介の同名ベストセラー小説を実写化したサスペンス作品。
教師がありとあらゆる犯罪に手を染めた挙句、最後には生徒を大量に殺害していくなどという、非常にショッキングな内容です。
そのため当然のことながら、今作はR-15指定を受けています。

今作のプロローグは、とある両親が寝室で顔を合わせ、息子の異常行為について話し合っているところに、サバイバルナイフ?を持った当の息子で今作の主人公・蓮実聖司が部屋の中に入ってくるシーンから始まります。
後の展開でこの事件は、「蓮実聖司の両親は強盗に殺され、蓮実聖司自身も重傷を負った」と公式には処理されていることが描写されていました。
もちろん、全ては蓮実聖司自身の自作自演であったこともきっちりと強調されていましたが。

それから時が経過し、蓮実聖司は東京都町田市にある私立晨光学院町田高校で英語の教師の職に就いており、そのルックスと面倒見の良さから、生徒達から「ハスミン」の愛称で呼ばれ人気を博していました。
その年の町田高校では、携帯電話を使った生徒による集団カンニングが疑われる問題が浮上しており、学校の職員会議ではその対策について論議が交わされていました。
その席上で蓮実聖司は、携帯での連絡を不可能にする妨害電波を試験時間限定で発信することにより、携帯を使ったカンニングを完全にシャットアウトできると提言します。
ただ、この方法は電波法に抵触するという問題もあり、職員会議では提案を却下、結局は「試験時間中は各教師の権限で生徒達から携帯電話を一時的に没収する」という案に落ち着いたようです。
しかし後で蓮実聖司は、独自に妨害電波を流すことで生徒達のカンニングを抑止するという行為に及んでいたりします。
また一方、蓮実聖司および学校は、クラスで「自分の娘がイジメを受けていた」として学校に乗り込んできた父親の対応にしばしば追われる羽目になっていました。
学校側は余計な面倒事を起こしたくないという事なかれ主義もあり何とか説得しようと努めるのですが、モンスターペアレントの気がある父親は、ここぞとばかりに連日学校にやってきては居丈高にヒステリックな糾弾を続けており、学校側もいいかげんウンザリしていました。
蓮実聖司にとってもそれは同じことで、ついに彼は件の父親を排除すべく動き出すことになります。
父親の家には猫除けのためなのか、水が入ったペットボトルが家の壁に沿って設置されていたのですが、彼はこの中身を灯油にすり替えて父親を事故に見せかけて殺害してしまいます。

かくのごとく、蓮実聖司は学校および自分の周囲で発生した問題の解決には熱心だったのですが、その解決のためには手段を問わず、脅迫や自殺や事故に見せかけた殺人なども躊躇なくやってのけるサイコパスな精神の持ち主でした。
助けてもらったことがきっかけで愛の告白をしてきた女生徒と肉体関係に及んだり、盗聴器を使って生徒と同性愛の関係に及んでいた教師の弱みを握って脅したり、さらには自分の過去の履歴を調査していた人間を死に追いやったりと、これでもかと言わんばかりに犯行を重ねていく蓮実聖司。
しかし彼は、来るべき文化祭の準備で夜にも準備作業が進められている学校内で、愛人関係にあった女生徒・安原美彌を投身自殺に偽装して殺害しようとした際、その現場に居合わせていたことを他の女生徒に見られてしまうことになります。
すぐさまその女生徒を後ろから襲撃し、素手で首を捻って殺害するのですが、あまりにも偶発的な行為だった上に死ぬ理由もない彼女をそのままを捨て置いていては、普通に殺人事件として扱われてしまい、自分に嫌疑の目が向けられる事態にもなりかねません。
当然、その窮余の事態を打開すべく、彼は死にもの狂いで策を考え始めます。
そして、彼の頭にひらめいた究極の打開策、それは何と「学校内にいる生徒達全てを自分の手で殺害し、その犯行の全責任を別の人間に擦り付ける」というものだったのです。
かくして、猟銃を片手に、前代未聞の大量殺人が始まることになるのですが……。

映画「悪の教典」は、とにかく最初から最後までまるで救いのない作品ですね。
サイコパスな主人公の蓮実聖司は、殺人その他の犯罪行為を行うことに全く躊躇がありません。
過去の経緯を見る限り、中学時代には中学の担任教師と実の両親を殺害していますし、アメリカのハーバード大学へ留学した際には、猟銃?の扱い絡みで親しくなった外国人を焼き殺すといった所業をやらかしていたりします。
そして、私立晨光学院町田高校へ転任してくる前の高校では、生徒4人が謎の自殺を遂げるという事件が発生していたりします。
どう少なく見積もっても、蓮実聖司は50人近い人達をその手にかけ偽装工作紛いのことを繰り返してきたことになりますね。
さらにこれに脅迫行為なども追加すれば、その犯罪履歴はとてつもない規模のものとならざるをえないでしょう。
よくもまあこれだけの犯罪を重ねてきた人間が、少数の例外を除けば今まで疑われることもなく、一定の社会的地位を維持できたものだなぁと、つくづく感心せざるをえなかったですね。
まあだからこそ、彼も同じところに長居をすることなく、わずか数年から数ヶ月程度であちこちを転々としているのでしょうけど。
同じところにずっと留まり続け、人付き合いも長くなってくれば、彼の周辺で自殺や事故の話が著しく多く、当の本人もしばしば巻き込まれている割には何故か再起可能なケガだけで済んでいるという状況に、さすがの周囲も気づいて不審感を抱いてくるリスクが増大せざるをえないわけですし。
今回の事件も、もし自分の意図通りに事が運び、目的を達成することができたならば、彼はまた別の高校に転任して一からやり直すつもりだったのでしょうね。

作中における蓮実聖司は、殺人や脅迫を行う際も怒りや憎悪などの表情を浮かべることがありません。
彼は常に笑顔か、せいぜい無表情を浮かべた顔で、淡々と殺人や脅迫等の犯罪を犯したり犯行の後始末をしたりしています。
蓮実聖司の凄まじいところは、たとえ自分の計画が失敗し、その犯行が世間の明るみに出るかもしれない、または出てしまったという局面においてさえも、すくなくとも表情面には全く動揺や負の感情が出てこなかったことです。
ラストの顛末なんて、彼の視点的には、生き残った2人に対して後ろ暗い表情を浮かべたり、「何故お前ら生きていやがった!」的な感情を叩きつけたりしても良さそうなものだったのに、それでもなおあれだけの演技ができるというのは凄いを通り越して怖いですね。
犯行の疑いを自分に向けさせないために、自分の身体に「重傷に見える傷」をつけることにも全く躊躇がありませんし、自分の計画が露見してもなお、狂気な精神異常者を装い責任能力喪失の路線で自身の罪を免れようとするのですから。
まさに「悪の教典」と呼ぶにふさわしい、同情の欠片も救いの余地もまるで見い出せない絶対悪ぶりでしたね。
そして、「海猿」シリーズや「252 生存者あり」などで人助けに全力を挙げる善人ぶりを演じてきた伊藤英明の好演にも必見です。
蓮実聖司のキャラクター像というのは、これまで伊藤英明が演じてきた人間とは全くの対極に位置するものなのですし。
今作で伊藤英明は、これまで築き上げてきた自分の俳優としてのイメージ像をあえて壊すことに注力していたのではないでしょうか?
あまりに同じ役柄を演じ続けると、そのキャラクターのイメージ像が固定されてしまい、却って仕事が来なくなってしまったりすることもあるわけですし。
「海猿」シリーズの大ヒットで、「伊藤英明=仙崎大輔」的なイメージもすっかり定着していますからねぇ。
ただ一方では、これまでのイメージ像が壊れることで、却って人気が落ちて短期的に仕事が来なくなるというリスクもあったりするので、俳優にとっても一種の賭けではあったりするのですが。
今作における伊藤英明の演技は、果たして彼にとって吉凶いずれの結果をもたらすことになるのでしょうか?

ただこの作品、エンドロールの直前に思わせぶりな描写が映し出された挙句に「TO BE CONTINUED」の文字が出てきていたのですが、あの顛末で一体どうやって続編が製作できるというのでしょうか?
すくなくとも蓮実聖司は、作中の事件で自身の犯行である証拠と証人が揃ってしまっていますから無罪放免は難しいでしょうし、仮に万が一「責任能力喪失による無罪」になったとしても、今後の彼には「一生精神病院に収容される」という末路が待っているだけでしかないでしょう。
彼に唯一可能性があるとすれば、作中でも披露されていたスパイアクション映画の主人公並に桁外れな格闘戦闘能力を駆使して監視者達を倒して逃亡を果たし姿を暗ました後、別人になりすまして全く新しい人生を歩むシナリオが展開される、といったパターン辺りにでもならざるをえないのではないかと。
あるいは、ラストで自殺を装って学校の屋上から落とされていた安原美彌が奇跡的に意識を取り戻したことから、蓮実聖司のサイコパスぶりが彼女に伝染でもして安原美彌が新たな犯罪者になるというストーリーが展開されることになったりするのでしょうか?
それともいっそ、続編というのは題名だけで、実際には今作とはストーリーや設定面では何の関連性もない、全くの別人を題材にした全く別の物語が作られるという意味なのでしょうか?
すくなくとも、蓮実聖司がまた主人公として悪逆非道の限りを尽くす、というシナリオは成立しえないのではないかと思えてならないのですけどねぇ。

内容が内容なので、観れる人を確実に選びそうな作品ではありますね。
すくなくとも、「海猿」シリーズにおける「伊藤英明=仙崎大輔」的なイメージを当て込んで今作を観賞するのは止めた方が無難です。
そのイメージがどのように壊されるのかを観賞する、というのであれば必見かもしれませんが。

映画「北のカナリアたち」感想

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映画「北のカナリアたち」観に行ってきました。
湊かなえの短編集「往復書簡」に収録されている短編小説のひとつ「二十年後の宿題」を原作とする、吉永小百合主演のヒューマン・サスペンス作品。

今作の冒頭では、雪が降り注ぐ離島でキャリーバッグを引き摺りながら移動している女性の姿が映し出されます。
彼女の名前は北島はるといい、離島にある小学校で教師をしていました。
しかし、島でとある事件が起こったことをきっかけに悪い噂が流れたことから、彼女は島民から避けられるようになってしまい、結果的に島を離れなくてはならなくなってしまいました。
ただひとり港へと向かう北島はるの前方に、彼女の教え子のひとりだった鈴木信人が姿を現します。
自分を見送りに来てくれたのかと思ったのであろう北島はるは、「のぶちゃん!」と鈴木信人へ歩み寄ろうとするのですが、当の鈴木信人はそばにあった石を拾い、北島はるに目がけて投げつけます。
石は狙い違わず北島はるの頭に命中。
額から血を流し、半ば呆然とする北島はるを尻目に、鈴木信人は謝罪の言葉もなくその場から足早に去っていくのでした。

それから20年後。
島を離れて以来、東京の国会図書館で勤続していた北島はるは、定年退職の時を迎えていました。
職場の人に「今までお疲れ様でした」と見送られ、自宅へと戻ってきた北島はるでしたが、そこへ警察の人間2人が彼女を訪ねてきます。
警察が彼女の元を訪ねてきた理由は、彼女のかつての教え子で、冒頭のシーンで石を投げつけてきた鈴木信人に絡むものでした。
鈴木信人は殺人事件を起こして行方を眩ましており、しかも彼の家には北島はるの現住所と連絡先が書かれていた紙が貼られていたというのです。
当然警察は「鈴木信人から何か連絡がありましたか?」と質問してくるのですが、北島はるは「20年前に島を離れて以来、連絡は取っていない」と返答。
関わりがあったのが20年も前ということもあってか、警察もそれ以上北島はるを疑うこともなく、部屋に置かれていた草津温泉のパンフレットを見て「旅行へ行くんですかぁ」などと雑談に興じたりしていました。
一応、去り際には「もし鈴木信人から連絡があったら、私の元へご連絡を」と連絡先の名刺を渡してはいましたが。
しかし、これをきっかけとして北島はるは、かつての教え子達6人の元をひとりひとり訪ねるべく、単身北海道へと向かうことになります。
まずは6人の中で唯一結婚し姓を変えている、戸田(旧姓:酒井)真奈美の元を訪ねることになるのですが……。

映画「北のカナリアたち」は、主演である吉永小百合をはじめとする豪華キャストもさることながら、3100人のオーディションから選抜されたという子役のチョイスもなかなかのものがありますね。
公式サイトのINTRODUCTIONページによると、この子役達は「天使の歌声を持っているか否か」で選定されたようなのですが、成人後の役を担う俳優さん達と比較しても、幼少時の面影や背格好などの構図がそのまま被せられるようなチョイスになっています。
おかげで物語のラストにおける旧小学校で全員が一堂に会した際も、幼少時と成人後の組み合わせが分からなくなるということは全くなかったですね。
この辺りの作りこみはなかなかに上手いのではないかと思いました。
また、ストーリーが進行するにつれて、20年前の事件の全貌や、当時における登場人物達の心情が少しずつ明らかになっていく構成になっており、その過程も丁寧に描かれているため、人間ドラマとしてのみならずミステリー的な視点でも楽しむことができます。
ラストで6人全員が一堂に会するシーンは、ややご都合主義的な展開であってもやはり感動的なものではありますし。
さらには、実はその演出自体が北島はるが最初から画策していたものだった、などというオマケまでつきますし。
物語序盤における警察とのやり取りで出てきた「鈴木信人とは連絡を取っていない」云々自体が実は全くのウソだった、という展開は、あの冒頭の石投げシーンも相まって最初の時点で気づけるものではなかったですからねぇ(苦笑)。
この辺り、本当に展開の仕方が上手く、私も見事に騙されてしまいました(T_T)。

今作における主人公である北島はるという人物は、良くも悪くも「自分よりも他人のことを優先に考える」人間ですね。
病で余命半年の夫・北島行夫のために北海道の離島へとやってきたり、自殺しようとしていた警官・阿部英輔を不倫の噂を流されてまで無理にでも引き留めようとしたり。
彼女にしてみれば、相手が自ら死の道を歩もうとしていることが我慢ならなかったのでしょうし、そんな道を選ぶことなく幸せになって欲しかったというのが本音であったのでしょう。
ただ彼女の場合、特に20年前はそれが完全に空回りしていて、結果的に周囲の人間を却って不幸にしていた感が多々ありますね。
彼女が6人の生徒達に歌を教えていた件などはまさにその典型で、アレのために6人の生徒達は内部分裂を引き起こした上、それを改善するために主催したバーベキューで北島行夫が死んでしまった上、北島はるの不倫話が村中に広がってしまったことで、生徒達の心の傷が修復不能までに悪化してしまったのですから。
自分のやることなすことがことごとく最悪の方向へと転がっていく様を見て、当時の彼女はさぞかし絶望せざるをえなかったのではないかなぁ、とつくづく思わずにはいられなかったですね。
下手すれば、それこそ彼女自身が自殺してもおかしくはなかったでしょうし。
しかし、それでも6人の生徒達にとっての北島はるは、やはりなくてはならない存在であったし、彼女と別れる羽目になった後もそれは変わらなかったのでしょう。
彼らは全員、自分達の家族に少なからぬ問題を抱え込んでおり、自分のことを真剣に見てくれる者は北島はるを除き誰もいなかったわけなのですから。
作中のごとき不幸な事件があってもなお北島はるが6人の生徒達から慕われていた理由は、彼女が初めて自分達と真剣に向き合ってくれる「本当の母親」のごとき存在だったからでしょう。
ただ、それでも北島はると出会ったことが6人の生徒達にとって本当に良かったことなのか否かは、物語の全体像を見ると結構疑問に思わざるをえない部分も多々あったりするのですが。
幼少時の心の傷を20年間も抱え込んで生きていかなくてはならなかった、という事実は、その後の人生に間違いなく多大な負の影響を与えるものとなりえるのですからねぇ。
もしあの6人の生徒達が、北島はると出会うことのない幼少期を過ごしていたら一体どのような人生を歩むことになっていたのか、というIF話は少々興味をそそられるところです。

あと、物語とは全く関係ないのですが、今作で北島行夫を演じていた柴田恭兵って、映画「エイトレンジャー」に出演していた舘ひろし共々、すっかり人間が丸くなった役柄が似合うようになってしまったのだなぁ、と往年の「あぶない刑事」ファンとしては考えずにいられなかったですね。
個人的にはあちらのキャラクター像の方が好きなのですけど、今作や「エイトレンジャー」のような描写のされ方も似合っていた辺り、2人ともすっかり年を取ってしまったのだなぁ、と。
年月の経過や人の老いというのはこういうところにも表れるものなのか、とついつい考えてしまったものでした(T_T)。

感動的かつハッピーエンドな人間ドラマが見たいという方はオススメな作品ですね。
あと、ミステリー好きな人も意外にその面白さを感じられるところがあるかもしれません。

映画「黄金を抱いて翔べ」感想

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映画「黄金を抱いて翔べ」観に行ってきました。
大阪のメガバンクにある240億円相当の金塊の強奪を画策する男達の物語を、妻夫木聡を主演に、浅野忠信・西田敏行などの豪華キャストで彩る、高村薫の同名サスペンス小説を原作とするクライム・アクション作品。
今作は、内容的に見る限りではR-15指定されてもおかしくないレベルのバイオレンス&セックス絡みの描写がてんこ盛りなのですが、何故かR-15どころかPG-12指定すらも全く為されていませんね。
前回の「のぼうの城」といい今作といい、この手の規制って一体何を基準に決められているのか、何度考えても疑問が尽きないのですけど…。

物語は、 今作の主人公である幸田弘之の「俺は人のいない土地を探して……」云々のモノローグとビルの間を移動する風景が短時間披露された後、ハングルと思しき外国語を話す2人の男が出会い、喫茶店で会話をしているシーンから始まります。
2人は兄弟の関係にあったらしいのですが、喫茶店から場面が変わった後、弟が兄を銃で撃ち殺すという顛末に至っています。
これらの描写は当然のごとく後々のストーリーと絡んでくることになるのですが、ここで観客の視点はようやくストーリー本筋へと入ることになります。
諸事情あって離れていた生まれ故郷である大阪の街へ20数年ぶりに戻ってきた幸田弘之に、彼の大学時代からの親友で運送会社のトラック運転手をしている北川浩二が接触してきます。
北川浩二は幸田弘之に対し、仮の仕事場と住居を提供すると同時に、とある遠大な計画に参加するよう促します。
その計画とは、大阪にある巨大メガバンクの地下にあるとされる、総額240億円にも上ると言われる金塊を強奪するというもの。
北川浩二は幸田弘之との再会の前に、外車ショーで知り合ったらしい野田という人物を既に仲間に引き入れていました。
彼は件の銀行を担当するシステムエンジニアで、数千万単位の借金を抱え込んでいました。
3人は計画について活発にやり取りを続けていましたが、計画を練るに従い、計画に必要な専門家がまだ必要であるとの結論に達します。
具体的には、銀行内部の地図や内部事情に精通した人間と、陽動作戦や金庫の爆破等に使用する爆弾を製造するエキスパートが。
前者は野田がツテを当たり、かつて銀行のエレベーターの保守管理を担っており、現在は公園清掃員の仕事に従事している斉藤順三なる老人を担ぎ出します。
そして後者は、北川浩二に斡旋された住居の近くに住んでいた朝鮮人のチョウ・リョファンを、幸田弘之が見出すことで確保することになります。
さらに、北川浩二の弟でギャンブル依存症の北川春樹が金塊強奪計画を察知し、北川浩二と幸田弘之は、成り行き上しかたなく彼も仲間に組み入れることに。
かくして、6人の男による大胆不敵な犯行計画が準備されることなったわけなのですが……。

映画「黄金を抱いて翔べ」は、その名だたる顔ぶれが揃った豪華キャストの割には、宣伝も知名度も今ひとつな感のある映画ですね。
浅野忠信・西田敏行なんて、私でさえ名前を知っていて多くの映画やテレビで少なからず顔を見かけるクラスの俳優なのですが。
バイオレンス要素満載な作品であることが、映画の前評に陰を落としていたりでもするのでしょうか?
物語後半では、浅野忠信が演じる北川浩二が、奥さんの北川圭子とおもむろに着衣セックスをする描写までありましたし。
映画「終の信託」でも浅野忠信はそんな役どころを演じていましたが、「マイティ・ソー」「バトルシップ」などで好漢なキャラクターぶりを披露していた経緯を見てからそれらの描写を見ると、何とも多大な違和感が拭えないところで(^^;;)。
ただその割には、前述のように今作がR-15にもPG-12にも指定されていないのは何とも奇妙な話ではあるのですが……。

今作の大きな特徴は、金塊強奪計画の準備だけでストーリーの7割以上を占めており、かつその準備過程の中で計画とは全く関係のない組織が主人公達にちょっかいを出してきたり、その過程で計画の構成員達が死を余儀なくされたりしているところですね。
面白いのは、それらの組織は別に主人公達の金塊強奪計画を察知した上で計画の妨害を図っているのではなく、あくまでも自分達の利害から主人公達に関与したり襲撃したりしている、という点です。
特にチョウ・リョファン関連では、彼を抹殺すべく北朝鮮系の組織までもが動いており、彼を巡って斉藤順三が情報を売ったり、複数の組織が金目当てに襲撃を画策したりと、彼を味方に引き入れたことによるリスクの発生が半端なものではありませんでした。
北川浩二らにしてみれば、彼が持つ爆弾製造の知識は計画遂行に当たって何としても必要なものではあったのでしょうが、それで多大なリスクを抱え込んだ辺り、果たして彼を引き込んだのは正しいことだったのかと、観客から見てさえも疑問を抱かずにはいられなかったですね。
特に幸田弘之の場合は、そのために自ら重傷を負い、計画遂行に多大な支障をきたすことにまでなってしまったわけですし。
また、北川浩二の弟である北川春樹もまた、ギャンブル絡みで別の組織とトラブルを引き起こしており、そのトバッチリを食らう形で北川浩二の妻と子供が犠牲となっています。
結果、計画の準備が完了するまでに2人が死ぬ形で脱落、さらには幸田弘之が重傷を負うという、コンディションとしては最悪もいいところ、しかも日程の都合で計画の延期も不可能な状態で、彼らは計画の遂行を余儀なくされてしまうことになるわけです。
大規模な犯罪行為を行おうとしているのですから当然リスクはつきものではあるのでしょうが、金塊強奪計画とは元来全く関係ないはずの別件な抗争に巻き込まれる形で計画遂行に支障をきたす羽目になるというのでは、トラブルを持ち込んだ当人はともかく、トバッチリを受けた当事者達は正直たまったものではなかったでしょうね。
作品的に見ても、本筋とは全く関係のない話にあちこち飛び火しまくっていて、話が拡散しすぎている感がどうにも否めなかったところでしたし。
本件であるはずの金塊強奪計画の方が、その準備よりもはるかに「楽」な作業であったようにすら見えてしまったのは、果たして私の気のせいなのでしょうか(^^;;)。
そちらにしても、少なからぬ失敗や行き当たりばったり的なアクシデントが多々あったりしたのですが……。

R-15系的なバイオレンス要素が前面に出ている映画ではありますが、全体的には人間ドラマを重視した作品、ということになるでしょうか。

映画「のぼうの城」感想

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映画「のぼうの城」観に行ってきました。
戦国時代末期、豊臣秀吉の配下だった石田光成率いる2万の軍勢に攻められながら、たった500の兵力、避難してきた民百姓を含めても3000に達しない数で、本城たる小田原城が落城するまで抗戦を続けた、後北条氏の実在の武将・成田長親および忍城の戦いを描いた時代劇&戦争映画です。
しかしこの映画、戦場で首がもげるシーンとか水死体とか、残虐描写がそれなりにある作品だというのに、R-15どころかPG-12指定にすらなっていないというのは何とも不思議な話ではあります。
相変わらず、この手の規制は一体何を基準にしているのかよく分からないですね。

今作は、作中冒頭および後半部分に水攻めのシーンがあることから、東日本大震災後に蔓延した「震災自粛」の悪影響をモロに被った挙句、2011年9月から2012年11月への公開延期を余儀なくされた経緯があります。
これは、同じく「震災自粛」で公開延期を余儀なくされた映画の中でもトップクラスに入る規模の延期期間となります。
何しろ、10秒あるかどうかの「宇宙人の飛翔体落下に伴い発生した津波に飲まれる描写」だけのために自粛させられた映画「世界侵略:ロサンゼルス決戦」や、水死絡みの描写が満載の映画「サンクタム」などは、「のぼうの城」が当初劇場公開を予定していた2011年9月に日本で公開されているのですから。
他の映画が普通に劇場公開されている2011年9月に、何故「のぼうの城」だけは公開が自主規制されなければいけなかったのか、つくづく理解に苦しむと言わざるをえないですね。
そもそも、あの当時蔓延していた「震災自粛」自体、その実態は「被災者に同情している俺カッコイイ」的な自己満足の類でなければ、単なる営業上の都合やクレーマー対策などから発生していたシロモノでしかなかったのですし。
あの「震災自粛」は、そんな目先かつ愚劣なシロモノと引き換えに、長期的には日本経済を滞らせ更なる不景気を招きよせたことで、却って被災地の経済的な復興をも阻む要素にまでなっていたのですけどね。
その意味では、今回「のぼうの城」が無事劇場公開にこぎつけられたことで、映画業界における「震災自粛」の被害がとりあえずは終息したことになるわけで、とりあえずはめでたい限りと言えるでしょう。
もっとも、「震災自粛」と同じく震災後に日本に蔓延した「脱原発」という名の「空気」は、未だ収束の気配すらもなく日本中で猛威を振るい続けている状態なのですし、震災の爪痕は未だに色濃く残っているのが現状ではあるのですが。

さて、曰くつきな公開延期を余儀なくされた今作で問題になった水攻めシーンの最初のものは、物語冒頭にいきなり登場します。
1582年(天正10年)に、当時の羽柴秀吉が中国地方の毛利氏を攻める際に行われた、備中高松城の戦いにおける水攻めがそれに当たります。
作中では、当時は羽柴秀吉の小姓だった石田三成と大谷吉継が、羽柴秀吉と共にこの水攻めの光景を目の当たりにしており、特に石田三成がこの光景に「天下人の戦だ」と感動する様が描かれています。
そしてもうひとつが、8年後の1590年(天正18年)に羽柴改め豊臣秀吉による小田原征伐が行われた際に、石田三成が周囲の反対を押し切って断行した忍城水攻めとなるわけです。
この忍城水攻めにおける描写はさらに、忍城が水攻めで被害を被るシーンと、石田三成が急造させた水攻めのための堤が決壊して石田三成側に水が襲い掛かるシーンという2種類の異なる水の脅威が描かれることになります。
その水攻めの描写は確かに迫力かつリアリティのあるものであり、その秀逸な出来故に却って「震災自粛」の巻き添えを食う羽目になったというのは皮肉もいいところですね。
実は「のぼうの城」にはさらに、人間が水攻めに巻き込まれるシーンなども多く盛り込まれていたらしいのですが、そちらはさすがにカットされてしまっているのか、その手の描写はほとんどありませんでした。
この辺についても、「震災自粛」などのために余計なことを、と思わずにはいられませんでしたが。

作中における忍城の戦いは、豊臣秀吉が配下の武将達に軽んじられている石田三成に箔をつけようと、当時後北条氏が領有していた関東地方に攻め入る小田原征伐を行う軍議の場で、石田三成に2万の兵を預け、進軍途上にある後北条氏の支城、館林城と忍城を陥落させるよう命じたことに端を発します。
ところが館林城は守兵2000、忍城に至ってはわずか1000と、どちらも兵力的には「勝って当然」と言わんばかりの弱小な関門でしかありません。
しかも、豊臣秀吉の小田原征伐に伴い、主である後北条氏からは各支城に対して「城主自ら兵を率い、小田原城の籠城戦に参加せよ」との通達が来ており、忍城は城主である成田氏長(なりたうじなが)自らが、城内半数の兵力500を率いて小田原城へ進発していました。
さらに成田氏長は、後北条氏に従うように見せかけて裏では豊臣方に内通と恭順の意を示しており、忍城は本来戦わずして開城する手筈となっていました。
豊臣方から見れば、石田三成は「ただ進軍するだけで勝利が転がり込んでくる」状態でした。
しかし、忍城の無血開城は豊臣秀吉だけが知る秘密であり、石田三成の軍の中でそれを知るのは、豊臣秀吉本人から秘密を知らされた大谷吉継のみ。
この戦いはあくまでも石田三成に武勲を立てさせるためのものであり、「抗戦の意思を示している城を【石田三成の実力】で開城させた」という構図を形だけでも演出しなければならなかったからです。
最初から無血開城では「石田三成の武威で城を降伏させた」にも「八百長かつ出来レース的な戦い」にもならず、石田三成の功績にはならないのですから。
しかし、誰にとっても不幸だったのは、ここまでお膳立てをされた当の石田三成自身が、本格的な攻城戦を自ら積極的に望んでいたこと。
彼は、忍城の前の進軍経路にあった館林城が戦わずしてあっさり降伏してしまった(彼我の戦力差と自分達が置かれた絶望的な状況から考えればこれはこれで当然の選択なのですが)ことに不満を抱いており、また前述の備中高松城の戦いで見た水攻めを自分で演出したいという思惑もあり、忍城と交戦に持ち込むべく策を練ることになります。
それが結果的に、忍城の獅子奮迅な戦いぶりと石田三成の稚拙な軍事手腕を後世の歴史に伝え残すこととなったわけなのですから、何とも笑える話ではありますね。
石田三成が余計なことを画策しなければ、忍城の戦いも発生せずに無為無用な犠牲が発生することもなく、他ならぬ石田三成自身も武功を挙げることができたはずなのですから。
戦が全然分かっていないどころの話ではないのですが、「戦わずして勝つ」よりも誇りや矜持のために戦うことに価値を見出しているのが、作中で描かれている石田三成という男の性といったところなのでしょうか。

そして一方、豊臣側に内通の意を伝えた忍城側も、これまた形の上だけでも「戦いの意思はあったが、やむなく降伏した」という体裁を取り繕う必要がありました。
戦うことはないのだからと戦の準備もせずに構えていたら、現時点では未だ主格である後北条氏に内通を疑われ、場合によっては豊臣方に内通する前に後ろから攻め込まれてしまう危険性があります。
また、世間体や武士の矜持的な観点から言っても「最初から降伏を決めていた」という事実があからさまに示されるのでは悪評を被ること必至ですし、その後自分達が冷遇されたりすることにもなりかねません。
だからこそ、内通を決断した城主の成田氏長は危険を承知で小田原城へ向かったわけですし、忍城も形の上での籠城戦の準備を進めていたわけです。
成田氏長が小田原城へ発った後の忍城は、成田氏長の叔父である成田泰季(なりたやすすえ)が代理の城代となるのですが、彼は成田氏長の小田原城進発直前に病に倒れてしまい、自分の息子である成田長親(なりたながちか)を新たな城代に任じることになります。
しかし成田長親は、武芸はてんでダメで馬にすらも乗れず、常日頃から百姓達と交わり農作業を手伝おうとして却って足手纏いになることから、「でくのぼう」を略して「のぼう様」という仇名で呼ばれているような人物。
家臣達も「のぼう様」の奇行ぶりには手を焼いており、幼馴染である正木丹波守利英(まさきたんばのかみとしひで)などは、常に百姓の村へ出かけていく成田長親を探し出しては説教をする毎日を送っている始末。
ただ、性格が気さくで常に下の身分の者達と和やかに笑いながら接していることから、百姓達からは大いに慕われていました。
成田長親とその家臣達は、事前の決定通りに豊臣方へ降伏する方針だったのですが、石田三成が降伏勧告の軍使として派遣した長束正家は、人を舐めきった高圧的な態度で忍城側の人間と相対し、さらに「降伏後の財産の安堵」が全く保証されない内容の降伏条件を提示してしまいます。
これこそが、忍城との開戦を望む石田三成による策略だったわけです。
長束正家のその態度を見た成田長親は、降伏方針から一転、独断で城を挙げて戦うことを全く唐突に宣言し、周囲を驚かせることになります。
すぐさま正木丹波守利英をはじめとする家臣達が成田長親を諌めようとするのですが、そもそも家臣達自身も本当は武士の名誉のために戦いたくてならなかった面々ばかり。
家臣達は成田長親の主張を聞くにおよび、説得どころかむしろ逆に「やろうぜ!」「戦おう!}などと成田長親に同意していくばかり。
最後まで慎重論を唱えていた正木丹波守利英も、やはり心情は同じだったこともあって最終的には彼らに唱和することとなり、かくして忍城は全会一致で長束正家に改めて抗戦の意を伝えることになるのでした。
かくして、普通ならば決して戦うことはなかったはずの両者が、圧倒的な戦力差で忍城を舞台に合戦の火花を散らすこととなったのです。

映画「のぼうの城」では、戦国時代の合戦を描いていることもあり、水攻めのシーンもさることながら、その手の戦争描写や当時の情勢などもなかなかに上手く描写されていましすね。
正木丹波守利英を筆頭とする成田長親配下の武将達にもそれぞれ見せ場があり、水攻め前の攻城戦で彼らは獅子奮迅の活躍を演じることになります。
城攻めの際の兵の動きなども、当時の戦国時代の合戦事情をそのまま再現しているかのごとくでした。
石田軍の鉄砲歩兵が火縄銃を一発斉射した後、再度の弾込めに手間取っている間に正木丹波守利英率いる鉄砲騎兵の一斉掃射で大ダメージを被ってしまう光景とかは、まさにその典型でしたし。
また、忍城側の兵達の士気が総じて高いのに対して、石田軍の兵達はそもそも戦意自体があまりないような感が多々ありました。
まあ、元々「勝ち戦に便乗して戦っている」的な側面が大きい軍でしたし、何よりも総大将が石田三成ということであまり信用がない、という事情もあったのでしょうけど。
館林城が無血開城した前事情もあって、石田軍の兵達にとっては忍城の戦い発生自体が意外もいいところだったかもしれないのですし。
ただでさえ戦意が低いところに、攻め辛い上に多大な犠牲を強いられることが判明した城に自身の身を剣と槍と弓矢の危険に晒さなければならないとなれば、兵の士気がさらに低くなるのも当然と言えば当然といったところでしょうか。
水攻め失敗後、再度忍城を攻略せんと石田軍が攻め込んだ際などは、水攻めでぬかるんだ足場を土塁で固めながら少しずつ前進していくという慎重&鈍重ぶりを披露していましたが、これも実際にそうする必要があったこともさることながら「そうしなければ前線の兵達が納得しない」という事情が少なからず働いてもいたでしょう。
また芸のない正面攻撃をやって撃退されるのでは、兵達にとってもたまったものではないのですし、最悪、反乱や逃亡までもが発生しかねないのですから。
他にも、「水攻めをすると他の武将達が武勲を立てる機会がなくなるから反対する」という大谷吉継の発言なども結構新鮮なものがあったりしましたし、戦国時代を扱った戦争映画としてはまずまずの出来であると言えるでしょうか。

ただ個人的に少々残念なのは、史実では忍城の戦いで城の守りを支援し敵を多数討ち取る活躍をしたとされるはずの甲斐姫が、活躍どころか全くと言って良いほど戦場に登場してすらもいなかったことですね。
作中における甲斐姫は、男勝りかつ武芸達者的な評価と実力を持っているように描かれていたのですから、彼女も男の武将達と同じく戦場に出て、ハリウッド映画のアクション女優のごとき獅子奮迅の活躍を演じるのだろうとばかり考えていたのですが。
甲斐姫最大の見せ場と言えば、忍城水攻め後に成田長親が城外で田楽踊りを演じて銃撃された後、一命を取り留めて寝込んでいた成田長親の体を起こして羽交い絞めにし、慌てて止めようとした忍城の名だたる武将達を片っ端から投げ飛ばしていたシーンくらいです。
無抵抗の人間を羽交い絞めにしたり、本気が出せない武将達をいくら相手取っていたりしても、それでは彼女が本当の意味で武芸達者であることの証明などにはならないでしょうに。
そして一方で、名だたる武将達を一方的にあしらえるだけの実力の持ち主であることが作品的に明示されているのであれば、甲斐姫も戦場に出て一緒に活躍させていた方が、ストーリー的にも映画の演出的にもより映えるものになっていたのではないかと思えてならないのですけどね。
結局、作中における甲斐姫は、忍城の戦いでは「ただ戦争の決着を待っていただけ」の立場に終始していて、いてもいなくても大した違いはない程度の役柄でしかなかったのですし。
わざわざあんなポジションを用意するのであれば、甲斐姫にも是非戦場で活躍してもらいたかったところなのですが、それがなかったのは正直肩すかしもいいところでした。
今作の中で唯一「惜しい」と思われる部分ですね、これは。

戦国時代の合戦ものや時代劇・戦争映画などが好きという方にはイチオシの作品です。

映画「終の信託」感想

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映画「終の信託」観に行ってきました。
朔立木原作の同名小説を、草刈民代と役所広司が「Shall we ダンス?」以来16年ぶりに共演し、終末医療のあり方をテーマとした、周防正行監督の制作によるラブストーリー作品。
作中には不倫関係の男女が絡み合うシーンと、末期患者が発作を起こして激しくもがき苦しむ描写が存在することから、今作はPG-12指定されています。

物語冒頭は2004年(平成16年)11月、今作の主人公である折井綾乃が、検察から呼び出しを受けて検察庁へと出頭するところから始まります。
予定では3時から検察官との面接が始まることになっていたのですが、面接を担当するはずの検察官・塚原透は、折井綾乃が予定よりも30分早く来ても面接しようとしないどころか、3時を過ぎてさえも面接を始めようとしません。
その間、ずっと待たされ続けていた折井綾乃は、今回自分が呼び出された発端となった事件を回想するのでした。

事件の発端は1997年(平成9年)の天音中央病院。
同病院の呼吸器内科に勤務していた折井綾乃は、エリート医師として患者や仕事仲間の看護師から慕われている一方で、同僚の医師で既婚者である高井則之と不倫関係にありました。
その日の夜も、無人の部屋で密かに出会い、不倫セックスを始めて夜を明かす2人。
翌日、10日ほどの出張に出かけるという高井則之に対し、折井綾乃は空港で見送ると主張するのですが、高井則之は「俺達の関係がバレたらどうするんだ」と拒否の姿勢を見せます。
しかし折井綾乃はどうしても高井則之を見送りたかったようで、ひとり密かに空港へと向かい、高井則之と接触しようとします。
ところがそこへ、高井則之へ駆け寄るひとりの女性の姿が。
その女性は高井則之の妻ですらなく、折井綾乃は彼が複数人の愛人を囲っていて自分もそのひとりに過ぎなかったという事実を知ることになります。
高井則之が出張から帰ってくると、折井綾乃はこの件について問い質し、一体いつまで待てば今の奥さんと離婚して自分と結婚してくれるのだと主張します。
しかし、それに対する高井則之の返答は「俺、結婚するなって言ったっけ?」という何とも酷薄なシロモノ。
高井則之の態度に絶望せざるをえなかった折井綾乃は、その後、病院の宿直室で睡眠薬を飲んで自殺未遂を図ろうとします。
場所が病院だったこともあり、苦しみながらも一命を取り留めることはできた折井綾乃でしたが、このことは当然のことながら高井則之の耳にも入り、彼はベッドで横たわっている折井綾乃に対してこう言い放つことになります。
「自殺未遂で俺をこの病院から追い出したかったのか? そんなことをしなくても、俺は間もなくこの病院を離れることになっていたのに」
と。

不倫相手にも捨てられ、いよいよすべてを失い失意のどん底にまで落ちてしまった折井綾乃。
そんな彼女を救ったのは、彼女が担当医をしていた江木泰三という重度の喘息患者と、彼が貸した1枚のCDに収録されていたジャコモ・プッチーニ作曲のオペラ「ジャンニ・スキッキ」のアリアでした。
この曲に感動した折井綾乃は、医師として江木泰三と接する傍らで、「ジャンニ・スキッキ」のアリアについて語り合い、2人の間には強い信頼関係が構築されることになります。
しかし、江木泰三が患っていた喘息は日を追うにつれて改善されるどころか重くなる一方であり、彼は病院を入退院する日々を繰り返すことになります。
そんなある日、折井綾乃は退院していた江木泰三と川の土手で再会し、江木泰三から、
「これ以上、妻に治療費のことなどで迷惑をかけたくない。もし、自分がいざという時には、早く楽にしてください」
と懇願されることになるのですが……。

映画「終の信託」は、終末医療のあり方がテーマということもあり、今の医療現場の実態および尊厳死の問題、さらには尊厳死を巡る検察の認識および尋問手法などについて鋭く描いています。
特に、検察官として尊厳死を断行した女医を「殺人罪」として糾弾する、大沢たかおが扮する検察官・塚原透は、なかなかにムカつく嗜虐的な悪役ぶりを作中で披露していました。
家族および折井綾乃の証言を元に、検察の都合が良いように口述作成させた調書を作成してみせたり、調書にサインすれば帰すと言わんばかりの口約束をしておきながら、折井綾乃が不満ながらもサインするや否や再度の尋問に入ったり、相手を人格的に罵倒したり挑発したりして「尊厳死させた」という言質を取るや否や、したり顔で「殺人罪として逮捕する」と通告したりと、その悪役としての怪演ぶりには目を見張るものがあります。
作品としてではない意味で全く救いようがないのは、作中で描かれているこの検察官の尋問手法の実態が、決して架空のありえない話などではなく、現実にも実際に行われている所業であるという点です。
ちょうどリアルでも、コンピュータウィルスによるパソコンの遠隔操作問題で、警察が全く無関係の人間を誤認逮捕した挙句に「犯行」を自供させていたなどという事件があったばかりでしたし↓

遠隔操作ウイルス事件
> IPアドレスによる捜査に対してパソコンによる遠隔操作という新しい手法に対処する必要性、パソコンを遠隔操作されて逮捕されて被疑者とされた2人に対する取り調べで無実の罪を認めてしまうなど捜査機関の取調べについても問題が提起された。

極めて皮肉なことに、今作は時節柄話題となっている検察や警察の尋問手法の問題についてまで鋭く問題提起することになってしまったわけです。
また、尊厳死ではないのですが、警察が医療過誤による患者死亡を理由に、現職の医師を業務上過失致死罪や医師法21条違反の容疑で逮捕し、起訴まで行った裁判というのも実際にあったりするんですよね↓

福島県立大野病院産科医逮捕事件

ちなみにこの裁判、検察は求刑からして禁固1年・罰金10万円などという茶番じみた軽いシロモノで医師の有罪を訴えようとした挙句、その主張すらことごとく通らずに無罪判決を迎えるなどという、検察的には「史上最悪の恥」「黒歴史」以外の何物でもない無様な結末に終わってしまう惨状を呈していました。
通常の医療過誤ですらこんな愚行を平然とやらかすような警察や検察であれば、尊厳死に関する作中のような定規杓子な判断をやらかしたとしても何の不思議もないでしょうね。
検察官・塚原透のあまりにも頭がコチコチすぎる醜悪な見解の披露の数々が、しかし「現実にありえない」と断じられずに一定のリアリティを伴っているという事実それ自体が、現実における尊厳死のあり方や検察・警察の歪みを象徴しているとも言えるのですが。

ただ、作中で少々疑問に思わざるをえなかったことが3つあります。
ひとつは「塚原透は何故折井綾乃に調書へサインさせた時点で逮捕を宣言しなかったのか?」という点です。
塚原透が口述で作成させた調書の中には、折井綾乃が江木泰三への尊厳死実行に際し、「致死量に達する薬を与えた」という表現があり、実はあの調書を折井綾乃に同意させた時点で彼は折井綾乃への「殺人罪」容疑での逮捕が充分に宣言できたはずなんですよね。
塚原透にとっての勝利条件は「折井綾乃に江木泰三への【殺意】を認めさせ殺人罪で逮捕すること」であったはずであり、その勝利条件を満たした状態で更なる「殺人罪」認定のための尋問をわざわざ進めなければならない理由自体がありません。
一度調書にサインさせた以上、彼の「勝利」は既に揺るぎないものになっていたはずであり、その時点でさっさと折井綾乃を逮捕勾留させても、検察側の視点的には何の問題もなかったはずでしょう。
実際、前述の遠隔操作ウイルス事件などは、自分達に都合良くでっち上げた調書を被疑者にサインさせる、というのが警察や検察にとっての最終的なゴールでもあったわけですし。
あれ以上の尋問は折井綾乃はもちろんのこと、塚原透自身にとってさえも全く意味のないシロモノでしかありません。
尋問自体は逮捕後も20日にわたって行われていたようですが、それはあくまでも「事実確認を行うため」のものであって「殺意を認めさせるため」の内容ではないのですから、全く意味合いも違ってくるでしょう。
これを合理的に説明できる理由があるとすれば、それは「塚原透個人のサディスティックな嗜虐性を満たすために職権を乱用していた」以外にはありえないのですが。

そして疑問に感じた2つ目は、塚原透が折井綾乃を「殺人罪」で逮捕させ連行させるラストシーンと、それ以降に語られるモノローグの内容があまりにも乖離しすぎていることです。
ラストのモノローグでは、逮捕されて以降の折井綾乃の動向が語られているのですが、そのモノローグの中では、彼女は「殺人罪」で起訴されたものの、江木泰三が残していた61冊もの喘息日記が遺族によって裁判所に提示され、その中の最後のページで「折井綾乃に全てをお任せします」という文言が書かれており、それが「リビング・ウィル」として裁判所から認められたと綴られているんですよね。
「リビング・ウィル」というのは、終末医療における患者の意思を表すもので、尊厳死を行う際の患者本人の意思を確認するための文書や遺言書などのことを指します。
この「リビング・ウィル」については、作中で行われた塚原透の尋問の中でも言及されていて、彼は江木泰三の「リビング・ウィル」がないのを良いことに折井綾乃の行為を「殺人罪」呼ばわりしていたわけです。
ところが、モノローグの中で「リビング・ウィル」の文書が見つかり裁判所に認められたということは、つまるところ塚原透の主張を構成する前提条件そのものが崩壊してしまっていることをも意味するのです。
この時点で、作中における塚原透の主張は、その大部分が意味を為さなくなってしまうことになるのですが、何故作中ではこれほどまでに重要な部分をモノローグだけで簡単に済ませてしまったのでしょうか?
むしろ、この部分をこそラスト部分でメインに据え、塚原透の主張が根底から瓦解して彼がヒステリックに慌てふためくなり論点逸らしに終始するなりといった様を描写し、それによって検察の横暴ぶりと、それでも有罪判決が下される理不尽さを表現していった方が、演出的にもより良いものとなりえたのではないのかと。
そもそも、あの検察室の密室では、尊厳死の正当性・妥当性を論じる場としてはあまりにも不適格であると言わざるをえないのですからなおのこと。
あの塚原透が「最初から有罪ありき」で折井綾乃に相対していたことなんて、誰の目にも最初から分かり切っていたことなのですしね。
今作がテーマのひとつにしているらしい「検察室での尋問の実態」も、前述のように「調書にサインをした時点で問答無用に逮捕勾留」で問題なく表現できるのですし、その後の舞台を裁判の場に移していた方が、却って双方痛み分け的な結末へ持っていくことも可能だったのではないかと。
あのラストでは、「話の分からない悪意ある横暴な検察は最強にして最高!」的なイメージがどうにも拭えませんし、ストーリー的にもすっきりしない部分が多々残ってしまったものなのですけど。

そして最後の3つ目は、「結局、折井綾乃が引き起こした尊厳死問題を警察にタレ込んだのは一体誰?」という点。
実は折井綾乃が江木泰三の尊厳死問題を引き起こしたのが2001年(平成13年)だったのに対して、それが検察の目に止まり塚原透が折井綾乃を呼び出したのが、それから3年も経過した2004年(平成16年)なんですよね。
何故3年も経過した後に問題になるのかも疑問なのですが、結局、折井綾乃を訴えた人間の存在は作中でも全く明示されることがなく、「エリート医師としてのし上がった折井綾乃に反感を抱く人間の仕業なのではないか?」という推測が登場人物の口から語られていただけでした。
遺族が61冊の喘息日記を裁判所に提出したために「リビング・ウィル」が認められたという経緯を鑑みても、遺族が賠償金欲しさに画策したというわけでもないみたいですし。
作中における遺族の様子を見る限り、意志薄弱で誰かに煽動され操られている風な印象ではあったのですが。
私はてっきり、不倫問題で折井綾乃と一悶着あった高井則之が、その後自分の不倫がバレて離婚された上に社会的地位を失った腹いせに執念深く調査を行い一連の所業を画策したのではないか、とすら考えてしまったくらいでした(^_^;;)。
ミステリー的な視点で見ると、彼以外に折井綾乃に恨みを抱くであろう人間が作中には全く登場していないのですし。
ただ、1997年頃に「間もなくこの病院を離れることになる」と明言していたはずの高井則之が、2001年にあの病院に在籍していた可能性は非常に低く、物理的にそんなことが可能なのかという問題があるので、彼への嫌疑は証拠不十分と言わざるをえないところなのですけど。
まさか、あの塚原透が、あの初対面時まで一切面識のなかった折井綾乃を最初から陥れることを目的として一連の逮捕劇シナリオの絵図面を描いていた、などという陰謀論もはなはだしい舞台裏はいくら何でもないでしょうし。
誰が、如何なる動機に基づいて、作中のごとく折井綾乃を陥れようとしていたのか、この辺もしっかり描いて欲しかったところなのですけどねぇ。
尊厳死にまつわる偏見や誤解などとも絡めていけば、この辺だけでも結構面白い人間ドラマが展開できたかもしれないのですし。

作品のテーマ自体は充分に見応えのあるものだったのですが、後半部分の折井綾乃と塚原透とのやり取りが結構重い上に鬱々な展開だったりするので、見る人によっては後半の展開にいささかウンザリすることもあるかもしれません。
一方ではそれだけリアリティがある、ということもでもあるのですが。
今作を観賞する際には、一定の心構えを持って臨むのが良いかもしれません。

映画「ツナグ」感想

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映画「ツナグ」観に行ってきました。
辻村深月の同名小説を原作とする、人の死と死後の再会をテーマとするファンタジー要素を含有した人間ドラマ作品。

その街には、ひとつの都市伝説が存在しました。
生涯でたった一度かつひとりだけ、死んだ人と再会させてくれる仲介人「ツナグ」という名の存在。
多くの人が一種のヨタ話として信じない中で、「ツナグ」は実在し仲介活動を行い続けていました。
その噂話や存在の話を知る人が、その存在を信じ、さらに「ツナグ」と何らかの形で連絡が取ることができ、そして何よりも「死者が生者と会うことを承諾する」ことによって初めて実現する、ツナグを介した死者と生者との邂逅。
そこには、死者と生者、そして「ツナグ」の3者を取り巻く複数のルールが存在します。

1.死者が「生者に会いたい」と「ツナグ」に依頼をすることはできない。
2.死者・生者共に「死」の壁を越えて会えるのはひとり1回だけ(ひとりの生者が「ツナグ」に複数回依頼することができないのはもちろんのこと、複数の生者がひとりの死者相手にそれぞれ1回ずつ会うこともできない)。
3.死者と生者が会えるのは月が出る夜、日没から夜明けまでの限られた時間のみ。それが過ぎると死者は消滅する。
4.「ツナグ」自身は1回たりとも死者に会うことを望むことはできない(ただし、「ツナグ」を引退したり「ツナグ」になる前であれば別)。
5.「ツナグ」になるためにはとある鏡の所有者になることが必須条件。その鏡を使うと、特定の死者と会話をすることができる。
6.「ツナグ」以外の者が鏡の鏡面部分を直接見た場合、その鏡を見た者と「ツナグ」の双方が死ぬ。

なお、作中で「ツナグ」の仕事に従事していた渋谷一家は、「ツナグ」の仲介で依頼者からカネを取るといった行為は一切行っていませんでした。
「ツナグ」の仕事でカネを取ってはいけない、というルールは特になかったようなのですが。
作中でも言われていたように、人生に立ち会うという重い仕事を担うことになる「ツナグ」が無報酬というのは、正直割に合わない感が否めないところではあるのですけどね。

作中における「ツナグ」を担う人間は、今作の主人公・渋谷歩美(こんな名前なのに男性だったりします(^^;;))の父方の祖母である渋谷アイ子。
渋谷アイ子の生家は、先祖代々「ツナグ」の仕事を担い続けてきた秋山家という家で、現在は渋谷アイ子の兄である秋山定之がひとりで家を維持しているようです。
秋山定之もかつては「ツナグ」として死者と生者の仲介を行った過去があったものの、渋谷アイ子にその地位を譲ったのだとか。
渋谷歩美は、渋谷アイ子から「ツナグ」の話を聞かされ、半信半疑ながらもその見習いを自主的に引き受けていたのでした。
その彼が作中で直面することになる「ツナグ」見習いとしての仕事は、以下の3人の人物からの仲介依頼となります。

1.ガンで亡くなった母親がどこかにしまってそれっきりとなっている土地の権利書を聞き出すことを目的としている、個人経営の木材精製所?の社長・畠田靖彦。
2.演劇部の主役を巡り、自分を差し置いて主役に抜擢された親友・御園奈津に殺意を抱き、その直後に事故死してしまったことに罪悪感と恐怖心を抱いている嵐美沙。
3.7年前に突如失踪して行方どころか生死すら不明の恋人・日向キラリを想い続けるサラリーマンの土谷功一。

この3つの依頼に基づく「死者と生者の仲介」を通じて、渋谷歩美は「ツナグ」の仕事とその心得について実地で学んでいくことになります。
また渋谷歩美は両親が既に他界しているのですが、その両親の死には疑惑が付きまとっており、その疑惑についても彼は向き合っていくことになります。
その結末と真相は、一体どのようなものとなるのでしょうか?

映画「ツナグ」では、主人公である渋谷歩美役を松坂桃李が主演として担っています。
私が彼の存在を初めて知ったのは、2010年に銀英伝舞台版で彼がラインハルト役を担当することが公式サイドから発表された時だったのですが、その頃と比べても彼が映画界その他でメキメキと頭角を現しているのが分かりますね。
その後、私が観賞したことのある映画に限定しても「アントキノイノチ」「麒麟の翼 〜劇場版・新参者〜」などに出演暦がありますし、「ドットハック セカイの向こうに」でも登場人物のひとりの声優を担当していたりします。
Wikipediaを参照してみると、実際にはさらにそれ以外の映画やテレビドラマ、さらにその他色々な分野でも活躍しているみたいですし。
芸能・スポーツ分野には人並以上に疎く、初めて名前を知った頃に「誰だこいつは?」とすら考えていたほどの私がこれだけ名前を見かける覚えていることができるというのは、俳優としては結構成功している部類に入るのではないかなぁ、と(苦笑)。
また、今作で渋谷歩美の依頼者のひとりとなっていた嵐美沙役の橋本愛も、私が観賞している映画の中では「HOME 愛しの座敷わらし」「スープ ~生まれ変わりの物語~」「アナザー/Another」に続き今年4作目。
こちらも現在人気上昇中といったところのようですね。
ただ、今作では序盤から意味ありげに出演していたことから、ひょっとすると主人公と恋愛関係にでもなるのかと考えていたら、作中ではあくまでも依頼者のひとりという立場のみで終わっていたので、その辺は少々肩すかしを食らったところではあったのですが。

3人の依頼者による死者との対面は、そのいずれもが少なからず印象に残るものではあったのですが、個人的にも最も強烈だったのは、橋本愛が演じた2人目の依頼者である嵐美沙のものでした。
残り2者が動機や過程がどうであれ「死者に会いたい」という願いそのものは本物だったのに対して、彼女だけは親友の御園奈津に対して「自分が殺してしまった」という負い目と「そのことが他者にバレたら…」という恐怖心を抱いていて、どちらかと言えば「親友に会いたい」よりも「自分の負い目と恐怖心を払拭するため」という思惑の方が強かったわけなのですから。
御園奈津は御園奈津で、嵐美沙の思惑や自身への殺意を知っていたようでしたし、「ツナグ」見習いの渋谷歩美を介して、嵐美沙を試していたかのようなスタンスを最終的に披露したりしていました。
あそこまで嵐美沙のやっていたことを知っていたのならその心情を理解することもできたでしょうに、御園奈津も残酷なことをするよなぁ、とあの場面ではつくづく考えずにはいられなかったですね(T_T)。
あのやり取りのせいで、嵐美沙は間違いなく一生ものの後悔を背負うことになってしまったのではないかと思えてならないのですが。
御園奈津にしてみれば、長年親友関係をやっていた嵐美沙との友情を疑いたくなかった、という心情も働いてはいたのでしょうけど、どうせ今後の御園奈津と嵐美沙は、嵐美沙が死ぬまで二度と会うことはないわけですし、真相を自分の胸にしまったまま嵐美沙の負い目と罪悪感を当人の希望通りに払拭してやっても良かったのではなかったかと。
ただ、嵐美沙が懸念していたであろう「御園奈津を殺そうとしていたことが御園奈津の口から他者にバレたら……」という問題については、「ツナグ」を介して自分が御園奈津と出会った時点で雲散霧消してしまってはいたのですけどね。
「ツナグ」のルール上、今後の御園奈津が「ツナグ」を介して他者と出会うことはできなくなったわけですし、その点ではひとつの目的は達成していると言えるのではないでしょうか。

あと、映画「ツナグ」における「仲介者としてのツナグの存在とその小道具」は、もし実在するならば政府機関やマフィア、および彼らに派遣されるであろう暗殺者や刺客などに付け狙われる要素となりえるでしょうね。
何しろ「ツナグ」がいる限り、「口封じで暗殺」という手法は一切通用しなくなってしまうのですから。
「ツナグ」がいれば、口封じで殺されたしまった被害者から、事件の真相や加害者の正体などを聞き出すことも可能となるのです。
加害者側にしてみれば、「ツナグ」から口封じの被害者が生者と対面し真相を暴露するような事態は何としてでも防がなくてはなりませんし、逆に被害者側にとっての「ツナグ」の存在は、加害者に一矢報いるための必勝必殺の武器となりえます。
「ツナグ」を巡っての政争や争いが起こっても何ら不思議なことではありませんし、これがアメリカであれば、CIAやFBIに大統領直属のシークレットサービスなども絡んだ一大スパイアクション映画的な作品にでも変貌していたのではないかと(笑)。
そこまでスケールのデカい話でなくても、たとえば迷宮入りした殺人事件などで、死者に直接犯人を尋ねたり真相を語らせたりすることもできるでしょうし、個人的な用途以外にも使い道はかなりのものがありそうなのですけどねぇ。
実際、作中でも「母親から土地の権利書について聞きだす」だの「殺意の真相が他者にバレたらどうしよう」などといった、「ツナグ」依頼者達の事情が描写されていたりしているのですから。
「死者から直接情報を引き出せる」というのは、そこまで大きな価値が伴うことなのですが。

他にも、「ツナグ」になるために必須となる鏡の存在も、本来の用途とは全く異なるものでありながら極めて有効な使い方がありますね。
「ツナグ」のルールにもあるように、あの鏡は「ツナグ」以外の者が鏡面部分を見ると当人および「ツナグ」が死ぬようになっています。
ということは、あの鏡の鏡面部分を他者に見せることで、その他者を死に至らしめることも可能、ということになります。
つまりあの鏡は、メドゥーサの首のごとく「人を殺すための武器」としても活用することができる、ということになるわけですね。
渋谷歩美の両親の死の原因がまさにそれだった(当時「ツナグ」だった父親の鏡を母親が見てしまった)わけですが、当時の警察での調べでは「母親が父親に殺され、直後に父親も自殺した」とされていました。
これから分かるのは、鏡を使った殺害では、その凶器ばかりか死因の真相すらも満足に暴くことができない、という事実です。
あの鏡は、やり方次第では「完全犯罪」をも可能にする凶器となりえるわけですよ。
歴代の「ツナグ」がそんな鏡の使い方をしなかったのは、何と言っても「ツナグ」自身の生命に関わる事項である以上当然と言えば当然なのですが、逆に言えば自分が「ツナグ」にさえならなければ、他者「だけ」を殺すことも可能となるわけでしょう。
「ツナグ」の件を抜きにして考えても、あの鏡を欲しがる人は欲しがるのではないかと思えてならなかったですねぇ(^^;;)。
……「ツナグ」とは全くの対極をなすであろう、どこか「デスノート」を髣髴とさせる「ルールを逆用したゲーム」のごとき使用方法ではあるのですが(苦笑)。

ストーリー的には「死者と生者との対面」を巡る死者と生者それぞれの葛藤や本音のぶつかり合いが面白く、充分に楽しめる仕上がりになっています。
「映画はアクションシーンや迫力ある映像が全てだ!」という嗜好の人でなければ、多くの方にオススメの作品ではないかと思います。

映画「天地明察」感想

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映画「天地明察」観に行ってきました。
冲方丁による日本の時代小説を原作とし、日本独自の暦を初めて作り上げた歴史上の人物・安井算哲(渋川春海)の生涯を描いた人間ドラマ&歴史伝記作品。
SPシリーズで主演を演じた岡田准一と、「神様のカルテ」「わが母の記」で好演した宮崎あおいが共演していることで話題となった映画でもあります。
もっとも、単に「有名俳優同士の共演」というだけでなく、両者の間で不倫疑惑が週刊誌などで騒がれたというスキャンダルネタでも話題になっていたりするのですが(-_-;;)。

江戸時代前期、「左様せい様」の異名で知られる徳川4代将軍家綱の御世。
囲碁の名家である京都の安井家に生まれ、自身も将軍の御前で碁の対局勝負「御城碁」が行えるだけの実力と地位を持つ安井算哲(やすいさんてつ)という人物が存在しました。
彼は、幼少の頃から寝食を忘れて没頭するほどに星の観測と数学が好きな人物で、物語冒頭でも、翌日には「御城碁」を行うために江戸城へ参内しなければならないにもかかわらず、自宅の屋根で星を観測している様が描かれています。
翌日、江戸城へ参内に向かった安井算哲は、その途上にある寺に立ち寄ります。
その寺では、難解な算術問題が描かれた絵馬が飾られているという一風変わった風習?があるらしく、安井算哲は場所も構わず道具を広げて算術問題を解くことに没頭するのでした。
そこで彼は、たまたま寺の清掃をしていた村瀬えんという女性と出会うことになります。
江戸城へ参内する際に献上しなければならない大事なものを寺に忘れるなどのハプニングを経て、予定より遅刻しながらも何とか江戸城へ参内した安井算哲。
幸い、「御城碁」の対局には支障をきたすことはなく、彼は徳川4代将軍家綱の御前で、対戦相手にして旧友でもある本因坊道策(ほんいんぼうどうさく)との対局に臨むこととなります。
この当時の「御城碁」は、予め決められた定石に従って双方が碁を打つという、囲碁勝負とは名ばかりの形式的かつ儀礼的な式典と化していました。
しかし安井算哲と本因坊道策は、いつも真剣勝負の場に身を置いていたという思いから、型破りを打ち方を披露して周囲を驚かせます。
周囲が非難の声を上げる中、将軍に平伏しつつも己の主張を貫き通し、その心意気にお得意の「左様せい」という承認を家綱からもらい、型破りで真剣勝負な「御城碁」を続ける2人。
ところが、その「御城碁」の内容に周囲も固唾を飲んで見守る中、突如日食が発生してしまい、
「不吉の前兆」ということで「御城碁」を含む全ての式典は一切中止ということになったのでした。
「御城碁」に集まった一同が解散する中、安井算哲は会津藩主で家綱の後見人である保科正之に呼ばれ、彼に刀を授けると共に、日本全国の北極星の高度を測りその土地の位置を図る「北極出地」の旅に同行することを命じます。
この旅が、安井算哲の人生をも一変させるきっかけとなるのですが……。

映画「天地明察」で活躍する主人公・安井算哲は、星の観察と算術問題にうつつを抜かす一種の「オタク」な人物として描かれています。
自分の好きなものに夢中になるあまり、後先考えずに行動したり、周囲の状況が見えずに日常的なことでは色々なポカをやらかしたりする辺りは、現代の「オタク」にも共通するところがありますね。
「北極出地」の旅で全国各地の経度を正確に言い当てるほどの実力を有し、また旅を通じて現行の暦である「宣明暦」に2日もの誤差が生じていることを突き止めた安井算哲は、「北極出地」の責任者だった建部伝内や伊藤重孝、さらには幼少時における天文学の師でもあった山崎闇斎の推薦を受け、新暦作成の総責任者として抜擢されます。
自分の得意分野を存分に生かすことができる「天職」とすら言って良い仕事を、しかも幕府の命令で得ることができたわけなのですから、その点において安井算哲は非常に恵まれた境遇にあったと言えるでしょう。
本業である碁打ちでも安井算哲はそれなりの実力を誇ってはいたのでしょうが、星の観察と算術に比べれば、やや一歩を引いていた感は否めないところでしたし。
世の中は「天職」に恵まれるどころか、意に沿わぬ奴隷同然の労働を強要されるケースの方が圧倒的に多いことを考えればなおのこと。
ただ、それが天職ではあったにしても、その事業が決して楽なものでなかったことは確実なのですし、それを成功に導いたのは紛れもなく安井算哲自身の才覚と努力の賜物であることに変わりはないのですけどね。

安井算哲の功績は、日本独自の暦を日本で初めて作り出したことにあります。
それまで日本で使用されていたのは、9世紀中頃に唐の時代の中国から輸入された「宣明暦」と呼ばれる暦でした。
しかしこの暦は、徳川4代将軍家綱の御世の時点で既に800年以上もの時間が経過していることもあり、日食や月食の予報が困難になったり、春分・夏至・秋分・冬至などの24節気が実際より2日もズレたりするなど、大きな不具合が頻出していました。
また暦は吉日や凶日なども刻まれていたことから、これがズレるというのは当時としては死活問題にも関わることでした。
科学知識がまだ一般的ではなかった時代に、縁起や吉凶日などの風習が重んじられるのはむしろ当然のことだったわけで。
安井算哲ら新暦作成チームは、唐代に作られた「宣明暦」に加え、元の時代に創出された「授時暦」、明代に用いられた「大統暦」とを比較した結果、「授時暦」こそが最も優れた暦であると結論付けます。
ところが、暦を司ることで莫大な利権に与っている朝廷は、「授時暦」の優秀性を認めず、改暦に全く応じようとしません。
しかも、その「授時暦」にも実は大きな誤謬が内包されており、安井算哲は「授時暦」の優秀性を立証するために行った「三暦勝負」のラストで、日食予報を外す羽目になってしまいます。
それでも、ハズレばかり連発していた「宣明暦」より優秀であることは証明できていたのですから、それだけでも安井算哲の正しさの証明と「授時暦」採用の根拠には十分になり得ていたはずなのですが、まあこの辺りは天文学よりも政治の問題に属する話ではあるのでしょうね。
幕府の面目を保ち朝廷を頷かせるためには、たとえ僅かな誤謬であっても許されない、という次元の話であるわけなのですから。
結果、幕府の面目は見事に丸潰れとなってしまったわけですが、安井算哲にとってもこの結果は屈辱以外の何物でもなかったでしょうね。
今のままでも、なまじ「宣明暦」より優秀さが証明されていたのですからなおのこと。
この手の不具合というのは、原因を見つけてしまえば「なあんだ」で簡単に終わってしまうものなのですが、現実にはその「見つけるまで」が大変なわけで、この「不具合の原因」を探すために七転八倒して苦悩する安井算哲のありさまは、見ていて共感せずにはいられなかったですね。
結局、安井算哲は水戸光圀や関孝和などの協力を得ることで、何とかこの苦境を乗り切ることに成功するのですが。

あと、安井算哲は冒頭の寺で出会った村瀬えんについて、当初は1年の予定だった「北極出地」の旅から帰還した後に結婚の申し込みをするようなことを、村瀬えん本人に明言しています。
ところが、当初の予定より半年以上も大幅に遅れて安井算哲が「北極出地」から帰還した時、村瀬えんは既に他家へ嫁いで行ってしまった後でした。
村瀬えんの兄である村瀬義益の発言によれば、彼女は予定の1年までは安井算哲の帰還を待っていたとのことだったのですが。
しかし、新暦作成の仕事が佳境に入ってきた頃、村瀬えんは嫁ぎ先から出戻ってきているんですよね。
これ幸いと安井算哲は、出戻ってきた村瀬えんに再度プロポーズを仕掛け、紆余曲折な反応を経て夫婦として結ばれることになるのですが……。
ただ、村瀬えんが嫁ぎ先から出戻ってきた理由については、作中でも「よんどころない事情」と言われているだけで、具体的な内容については何も語られていなかったりするんですよね。
どう見ても「夫との死別」が原因であるようには見えませんし、仮にあちらの家で世継ぎの子供でも作っていれば、たとえあちらの家の主人が死んだとしても「母親」として子供を育てることに専念せざるをえなかったはずでしょう。
表面的にはお淑やかな美人に見える村瀬えんの、しかし微妙に強気かつ頑固な性格を鑑みると、嫁ぎ先の家でその性格を嫌われ離縁させられたか、あるいは村瀬えんの方で嫁ぎ先の家の気風なり主人の性格なりが気に入らず、自分から飛び出していったかのいずれかのように思えてならないのですが(苦笑)。
元々彼女は、「普通の武家が嫌い」みたいな発言も行っていたわけですし。
ならば結婚なんてしなければ良かったのに…………というのは現代人の価値観なのであって、あの当時は「家のために結婚する」のが当たり前な時代だったのですから、村瀬えんも「世間体」や「家の事情」にせっつかれる形で【他家へ嫁がざるをえなかった】のでしょう。
そんな事情さえなければ、村瀬えんもひょっとすると、安井算哲が「北極出地」から帰還するまで待ち続けていたかもしれないですね。
まあこの辺りは、安井算哲側の「女性関係に対する不器用さ」にも原因がないとは言えないのですけど(^_^;;)。

ストーリーの主要なテーマが「日本初の新暦の作成」ということもあり、作中ではそれなりに難しい専門用語が飛び交っていたりします。
色々な解説を交えることで素人にも分かりやすく説明している努力の痕跡は伺えますし、決して理解できないものでもないのですが、それでも初心者にはやや「取っ付き難い」部分があるかもしれません。
SPシリーズの岡田准一が主演と言っても、今作は派手なアクションシーンなんて全くないわけですし。
岡田准一や宮崎あおいをはじめとする出演者が目当てというのでなければ、今作は時代劇などの歴史物が好きな人向けの映画、ということになるでしょうか。

映画「夢売るふたり」感想

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映画「夢売るふたり」観に行ってきました。
結婚詐欺をテーマに男女間の複雑な心情や葛藤などを描いた、阿部サダヲと松たか子の2人が夫婦として主演を担う人間ドラマ作品。
作中では「本番」さながらのセックスシーンが3回ほど出てくることもあり、今作は当然のことながらR-15指定されています。
作中で披露される本番さながらのセックスシーンは、同じR-15指定でかなり印象に残った映画「ドラゴン・タトゥーの女」にも匹敵するものがありますね。

東京の片隅で小さな飲み屋兼料理屋を営む一組の夫婦がいました。
板前としての確かな腕を持ち、仕事についてそれなりのこだわりを持つ夫の貫也と、店の従業員として夫を支える妻の里子。
2人は5年にわたって店を営んでおり、常連客も獲得してそれなりの繁盛を見せていました。
ところがある日の店の営業中、多忙な店内を回すために貫也がわずかに目を離した隙に、厨房にある焼き鳥を焼くための機器が突如火を噴き、店は客の阿鼻叫喚の地獄絵図と共に炎に包まれてしまいます。
突如、しかも一夜にして店を失ってしまい、やる気をなくしてしまった貫也は、「もう一度店を出せば良いじゃない」という里子の前向きな励ましにも耳を貸さず、毎日酒浸りの日々を送ることに。
里子はそれでも夫を支えるため、近所のラーメン屋で働きに出て生計の足しにしようと奮闘します。

ここまでは「ダメ夫を健気に支える良妻」という、美しくもある意味単純な構図だったのですが、そんな日々が続いたある日、貫也が店の常連客のひとりだった玲子と道端で偶然出会ったことから、全ての運命が狂い出します。
玲子はとある金持ちの資産家・俊作と不倫の関係にあったのですが、その資産家が突然の事故で危篤状態に陥り、俊作の弟で兄の不倫事情を知る明浩から見舞いを拒否された上で「手切れ金」として百万円の包みを受け取らされていました。
2人は意気投合して酒を飲み合い、互いの境遇を話し合うことになります。
その境遇があまりにもみじめだと嘆く玲子と、彼女を励ます貫也は、しかし酒の勢いもあってか、そのまま抱き合い、風呂場でセックス行為に興じてしまいます。
ことが終わった後、玲子は自分が受け取らされた手切れ金百万円の包みをそのまま貫也にわたし、店の開店資金に使ってほしいと申し出てきます。
最初は受け取りを拒否する貫也でしたが、玲子のゴリ押しと自身の金銭事情の問題もあり、「必ず返すから」との条件付きでカネを受け取ることになります。
しかし、とにもかくにも突然大金が転がり込んできたことは事実で、貫也はすぐさま妻の里子にその事実を報告すべく走り出すのでした。
家に帰って早々に妻を抱きしめ、浮気の事実は隠しつつ「知り合いが金を貸してくれた」と報告する貫也。
ところが里子はしばらく戸惑っていたものの、抱きしめられた夫の服に染みついていた「洗濯された匂い」から、貫也が他の女と寝ていたことをあっさりと見破ってしまいます。
さらに、件の百万円の包みの中には玲子宛ての手紙も同梱されており、浮気相手の正体や受け取り過程までもが露見してしまうことに。
動かぬ証拠を突きつけられ逆ギレした貫也は風呂場へ逃亡。
一方、百万円と共に放置された形の里子は、夫が受け取った百万円を火が付いたコンロに突っ込み燃やそうとします。
しかし、なかなか燃えない札束をしばらく見つめていた里子は、突然夫がいる風呂場へと向かい、夫へ向かって札束を投げつけ癇癪を爆発させるのでした。
しかし、自身の変貌に震える夫を見た里子は、夫に女性をたらし込む才覚があることを見抜き、これを利用することを思いつきます。
これがきっかけとなり、貫也と里子の2人は、女性相手に結婚をちらつかせカネを騙し取る結婚詐欺の道を歩み始めることになるのですが……。

映画「夢売るふたり」では、夫の浮気が発覚した後の妻の変貌ぶりが凄まじかったですね。それまでは「ダメ夫を支える良き妻」的な描写だった里子が、夫の浮気が発覚するや、札束は燃やそうとするわ、夫を足蹴にするわ、挙句の果てには結婚詐欺まで実行させるわ……。
それまでの良妻ぶりとは打って変わって冷酷な態度で夫に接する里子の姿は、「今までの善良キャラは一体何だったのか?」とすら考えてしまうほどに強烈なインパクトを残すものではありました(苦笑)。
それまでは里子に対して横柄に振る舞っていた貫也が、里子に怯えるようになってすらいましたし。
物語中盤では、女子ウェイトリフティングの女性選手のひとみを貫也が結婚詐欺のターゲットに選ぼうとした際に、相手を詐欺にかけることよりも「あの身体で【セックスの】相手をするのは、貫也には身体的な負担が重いのでは?」などという、ある意味「機械的」な心配をして貫也を呆れさせていたりもします。
人当たりが良かった序盤やパート関係の描写とは対極とすら言って良い態度で、正直「人はこんなにも変わってしまうものなのか」と思わずにはいられなかったですね。
ただ、その里子の「本性」は、当の里子自身も実はそれまで全く意識していないもので、夫の浮気をきっかけに一挙に表に出てきた、というのが実情だったのでしょうけど。
里子にとって「夫が浮気をした」という事実はそれほどまでに重いものだった、ということなのでしょう。

ただ、「夫の浮気」によって妻が夫に愛想を尽かした、という単純な構図にもならないのが今作の魅力のひとつですね。
確かに夫の浮気発覚直後は怒りを爆発させた里子ではありましたが、その後自身の発案で他の女性達を結婚詐欺にかける際には、2人揃って仲良く笑い合っていたりする描写も存在します。
前述のウェイトリフティング選手絡みにおける里子の「心配」も、夫である貫也を気遣ったものではあったわけですし。
浮気の事実が発覚した後もなお、彼女が夫を愛し、心から献身的に支えようとしていたのは疑いの余地がないでしょう。
ただ結婚詐欺絡みでは、その里子の「夫に対する愛」こそが、結果的に夫を破滅に追い込んでしまっていた感も多々あります。
彼女は夫に結婚詐欺を行うことを自分から命じてすらいるのに、その夫が結婚詐欺の一環として他の女性と親しくなったりセックスをしたりする関係になることを嫌悪していたりするんですよね。
物語終盤付近になると、彼女は夫が結婚詐欺で積極的にカネを得ようとする行為に賛同しなくなっていき、ついには包丁を持ち出して夫だか相手の女性だかを刺し殺そうと発作的に行動を起こしてすらいます。
それが結果的には、夫を全く別の形で破滅に追い込むこととなってしまうのですが……。
ただ、一番最初の「自分の関知しないところで夫が浮気していた」という事実に怒り狂うのは当然であるにしても、それ以降の夫の(里子以外との)女性関係は全て「自分が夫に結婚詐欺を命じた結果」によるものなのに、被害者はともかく、当の里子がそれに癇癪を起こすというのは、どうにも理屈的には理解し難いものがありますね。
夫の貫也だって、自分の夢と妻の里子のために結婚詐欺という危険な道を突き進んでいたわけで、それで命令権者の妻から怒りを買わなければならないというのも、何とも理不尽な話ではあります。
女性は理屈やカネだけを欲しているのでなければ、それだけで動いているわけでもない、という概念を表現する描写としてはなかなかに秀逸なものではありましたが。

里子は貫也に自分を見て欲しかった、自分を愛して欲しかっただけだったのかもしれませんね。
貫也は貫也で、妻に対しては反発もあったにせよ、愛情や思いやりもあったであろうことは疑いようもなかったのに、特に物語後半では結婚詐欺に慣れたこともあってか、妻に対してやたらとビジネスライク的な接し方に終始していたりしますし。
貫也の妻に対する観察眼もそれなりに鋭いものがあったものの、もう少し妻の心情や葛藤について敏感に察し配慮さえしていれば、あの破滅は免れ得たかもしれないのですけどねぇ(T_T)。

結婚詐欺の主犯である貫也と里子のやり取り以外にも、結婚詐欺の被害者達の心情や葛藤なども良く描かれており、メロドラマ系ストーリーとしてはそれなりの見応えがある映画と言えますね。
その手の作品が好きな方にはオススメの一品です。

映画「踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望」感想

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映画「踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望」観に行ってきました。
「踊る大捜査線」の映画版4作目にしてシリーズ完結編。
テレビドラマ版「踊る大捜査線 THE LAST TV サラリーマン刑事と最後の難事件」で展開されていた伏線の一部が今作で反映されています。
なお、今作で私の2012年映画観賞本数は、記録的な大豊作となった去年1年間の映画観賞総本数である65本のラインに到達しました。
今月中に70本を突破するのは確実な情勢ですし、今年は最終的に80~90本くらいは映画を観賞することになりますかねぇ。

映画の冒頭では、シリーズお馴染みの湾岸署の面々が、何故か東京の下町?で唐揚げ屋を営んでいる様子が描かれています。
主人公である青島俊作が唐揚げ屋の店主、恩田すみれが相方の奥さん?兼店員で、和久伸次郎が下っ端店員として、和気藹々で明るい店を営んでいるようでした。
すぐに判明するのですが、彼らは唐揚げ屋の近くに住んでいるらしい老人の息子?で指名手配されている人物を捕まえるべく、1ヶ月近くにわたって張り込みを続けていたのでした。
その張り込みの甲斐あってか、該当の被疑者は見事に現場に現れ、犯人ひとりに物量に物を言わせた大捕り物の末、湾岸署の面々は無事目的を達成することに成功するのでした。
結果、1ヶ月にわたって運営してきた唐揚げ屋は店仕舞いとなり、閉店セールと共に残りの唐揚げがほとんどタダ同然で下町の住民達に手渡されていくのでした。
ちなみに後で唐揚げ屋の経費を青島らが請求した際に判明するのですが、この唐揚げ屋の売り上げは黒字を達成していたのだとか(苦笑)。

被疑者を確保し、意気揚々と湾岸署へ久々に戻ってきた青島らの眼前に繰り広げられていたのは、湾岸署管内にある東京ビッグサイトで開催されていた国際環境エネルギーサミットの影響で多くの警官が駆り出され、いつもより人が少なくなっている湾岸所内の一風景でした。
青島らも湾岸署に到着早々、署長の真下正義に交通課など他部署へ手伝いに行くよう言い渡され、しぶしぶながらも手伝いへと向かうのでした。
ところがそんな中、国際環境エネルギーサミットの会場内で男性の誘拐事件が発生し、青島らは事件の聞き込み捜査を行うことに。
事件は人がごった返している広場で公然と起こっており、現場では多くの人達が事件を目撃していましたが、犯人が具体的にどこへ行ったのかまでは結局掴むことができませんでした。
そして数時間後、事件の際に誘拐された男性と同じ黄色いシャツを着た男が、拳銃で撃たれた痕跡を残した死体となって発見されてしまいます。
事件を受け、本店(警視庁)では、誘拐事件で被害者の殺害に使われた拳銃が、かつて警察が押収したものと合致するとの情報をいち早く掌握していました。
しかし、警察が押収した拳銃が犯行で使用されたということは、事件が警察内部の人間によっておこなわれたものであることをも意味することになります。
それが「警察の不祥事」としてマスコミに叩かれ、自分達の出処進退が問われる事態になることを恐れた警察の上層部達は、事件の捜査を指揮する立場となる鳥飼誠一に対し、犯行の隠蔽を行うよう命令を下すのですが……。

映画「踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望」は、相変わらずコメディ要素満載な展開が繰り広げられていますね。
テレビドラマ版「踊る大捜査線 THE LAST TV サラリーマン刑事と最後の難事件」でも披露された、署長の真下正義をリーダーとする3人組と、元署長を筆頭とするスリーアミーゴスの「猿山のボス猿争い」のごとき低次元な対立は今回も健在でしたし、それ以外にも作中の随所に笑いのネタが目白押しでした。
テレビドラマ版ではスリーアミーゴスの面々に事件の対策本部の玄関口に貼る戒名?を書こうとしたところを妨害された真下でしたが、今作ではその雪辱叶って、見事に自分で戒名を書くことに成功していました。
ただ、「これならスリーアミーゴスの面々の方がまだマシだったんじゃ……」と言いたくなるほどヘタクソな上に字の大きさまで不統一な戒名の仕上がりは、そこらの女性警官達にまで酷評される始末ではありましたが(笑)。
また、青島の部下である王明才がお茶&ミネラルウォーターと間違って注文(「みず」の発言がなまって「ビール」になっていた)してしまった大量のビールの件を巡る責任回避の構図も笑うところですね。
ビールを間違って購入した責任を問われて左遷されることを恐れた青島は、湾岸署内に設置された総計500缶ものビールの山をカモフラージュしてその場凌ぎで何度もごまかしまくった挙句、ついにその存在が露見してしまった際には真下を口先三寸で丸め込んで責任を擦り付けてしまいます。
物語後半の事件発生の際には、いくら緊急時とは言え「真下の息子が久瀬って男に誘拐された!」と青島から堂々と呼び捨てされているありさまでしたし、真下って本当に「人の上に立つ人間」には向いていない上に、部下からも上司として見られていないのだなぁ、とつくづく感じずにはいられなかったですね(^_^;;)。
一応はキャリア出身で出世も順風満帆、私生活面でも妻の柏木雪乃と二児の子供の父親で恵まれた環境にあるはずなのに、スリーアミーゴスと比較してさえも小悪党&小物過ぎる感が否めないところですし。
ただまあ、物語後半ではその手のお笑いネタも鳴りを潜め、陰惨な事件の当事者として悲壮感を露わにしてはいましたが。

ところで作中では、恩田すみれが実は身体の不調から辞職をしようとしていることが明らかになっています。
これはテレビドラマ版でも伏線として出てきていましたが、彼女は2作目映画「踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!」で撃たれた傷が原因で身体に痛みが走るようになっており、近年は警察としての職務にも耐えられないほどになってきているとのこと。
警察を辞めるという恩田すみれの決意は固く、彼女は青島ら湾岸署の親しい同僚達には何も告げず、九州行の夜行バスで故郷の大分へ帰るつもりだったようです。
恩田すみれは結局、青島に擦り付けられた冤罪の報道から青島の危機を知り、ラストで夜行バスを乗っ取り倉庫へ突っ込むという大立ち回りを演じてのけるのですが、ただ、恩田すみれがあの後どうなったのかについては作中でも全く描かれていないんですよね。
バスの横転後に青島に介抱されたシーンを最後に、作中から存在すら消えてしまった感すらありましたし。
普通に考えれば、あの夜行バスをハイジャックした上に横転大破させてしまった恩田すみれが罪に問われないはずもないので、作中のラスト時点では警察から長期の事情聴取を受け青島らから隔絶された状態にあると考えるのが妥当なところではあるのでしょうが……。
ただ、今作は一応シリーズの完結編・最終作と銘打っているのですから、後日談的なエピソードなり画像なりをエンドロールで流すという形で披露しても良かったのではないかとは思わなくもなかったですね。
また公約を破って性懲りもなく続編を作るというのでなければ、今作を最後に「踊る大捜査線シリーズ」のエピソードは一切語られなくなってしまうのですし。
青島と結ばれて結婚、というシナリオだけはどうにも考えられない話ではありますけど。

今作の事件は、全体像から見れば「警察への私怨と上層部の一掃の双方を達成することを目的とした、鳥飼誠一の謀略劇」という要素が非常に強いですね。
6年前の幼児誘拐事件で無念を味わった警官達を動かし、警察の信用に関わる事件を起こす。
その事件を上層部に隠蔽させると共に無関係な人間に罪をかぶせるなどして上層部に罪を負わせる。
その事件の一部始終および真相を自分の名で公開し、上層部を軒並み引責辞任させ首を挿げ替えると共に、自分は一切傷つくどころか名声すら獲得する。
青島や室井慎次が成し遂げようとしていた警察の改革を、彼は謀略でもって短期間で可能な状態にしてしまったわけです。
自分の私怨すらも利用して邪魔者を片付ける鳥飼の謀略手腕は、政治的には相当なものがあると言わざるをえないですね。
青島も室井も、鳥飼の手法にはある程度気づいている感がありましたが、踊らされていることを自覚しつつ、それでも彼らの立場的には踊り続けるしかないのでしょうね。
ある意味、一連の事件の真の黒幕である鳥飼こそが、今作における最終的な勝者となるのでしょうが、しかし彼の今後は一体どうなるのやら。
こちらも、今作がシリーズ完結編・最終作として語られている以上、普通に考えればまず語られることはないであろうと思われるのですが、彼の罪が何らかの裁かれるがないというのも、政治的にはともかく、物語的には何か不完全燃焼な感が否めないところですね。

シリーズ完結編・最終作というだけのことはあり、「踊る大捜査線」シリーズのファンであれば必見な映画と言えるのではないかと。

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