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映画「ひみつのアッコちゃん」感想

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映画「ひみつのアッコちゃん」観に行ってきました。
赤塚不二夫原作の国民的人気を誇る同名コミック生誕50周年を記念して制作された、綾瀬はるか・吉田里琴が主演を担う実写映画化ハートフルコメディ作品。
ストーリーは完全オリジナルで、原作や既存アニメとは何の関連性もありません。
今作は元来観賞する予定はなかったのですが、現在がちょうど1ヶ月フリーパスポート発動期間中ということで、急遽観賞予定リストに加えられることになった経緯があったりします(^_^;;)。
しかし、こんなある意味「古典的作品」までとうとう実写映画化されるようにまでなったのですねぇ。
洋画・邦画を問わず、昨今の映画では原作マンガの実写化が顕著なのですが、この傾向、果たしていつまで続くことになるのやら。

映画のタイトル名や原作から考えても当然のごとく今作の主人公である「アッコちゃん」こと加賀美あつ子は、母親の化粧箱を無断で失敬して見様見真似の化粧をするような、小学5年生のちょっと活動的な女の子。
ある日、加賀美あつ子が5年2組の教室で化粧をしていたところ、今時珍しいガキ大将含む3人の男子児童にイチャモンをつけられた挙句、ガキ大将から物を投げつけられた衝撃で父親からもらったコンパクトを壊されてしまいます。
そのことを嘆き悲しんだ加賀美あつ子は、自宅の庭にコンパクトの墓を作り、壊れたコンパクトを丁重に葬ります。
しかしその夜、加賀美あつ子は突如、誰かに名前を呼ばれると共に白い光が自宅の外で放たれているのを目撃するのでした。
謎の声に導かれるままに彼女が自宅の外に出ると、そこには光に包まれたひとりの男が佇んでいました。
彼は自分のことを「鏡の精」と名乗り、壊れたコンパクトを長年にわたって大事にしてくれたお礼として、新しいコンパクトを加賀美あつ子にプレゼントするのでした。
そして彼はこう付け加えるのです。
そのコンパクトは魔法のコンパクトであり、「テクマクマヤコンテクマクマヤコン」と唱えて変身したいものの名前を言えば、その名前のものに変身することができること。
元に戻りたい時は「ラミパスラミパスルルルンパ」「ラミパスラミパスルルルルルー」と唱えれば良いこと。
そして、コンパクトの魔法は誰にも知られてはならず、もし知られたら魔法が使えなくなってしまうこと。
「鏡の精」が去った後、加賀美あつ子はコンパクトの魔法を何度か発動させ、「鏡の精」が言っていたことが事実であることを確認します。
元々「大人になること」に憧れを抱いていた加賀美あつ子は、自分が好きな時にすぐさま大人に変身することができるコンパクトをすっかり気に入り、大人の女性警察官に変身してガキ大将に説教をしたりするのでした。
そんな折、小学校の同級生と一緒に遊びに行った遊園地で、加賀美あつ子は御年27歳になるひとりの男性と「子供の姿で」出会うことになります。
色々あって遊園地の観覧車に、その男性と一緒に同乗することになった加賀美あつ子は、妙に寂しそうなその横顔が気になるのでした。
その男性とは本来、一度きりの出会いとなるはずでした。
しかしその後、コンパクトの魔法でまた大人に変身した加賀美あつ子は、かねてから興味があった化粧品の売り場で店員から化粧をしてもらっている際、何の因果か再びその男性と遭遇することになります。
彼は化粧品の開発・販売を担っている大企業「赤塚」の開発室長待遇の地位にある早瀬尚人という名前の人物であり、この出会いが加賀美あつ子と早瀬尚人、さらには「赤塚」の運命をも変えていくことになるのですが……。

初の実写版映画(テレビドラマでは既に前例あり)となる今作の「ひみつのアッコちゃん」は、そのメルヘンチックなお子様向け作品をイメージしやすい名前と実績に反して、企業乗っ取りだの株主総会だのといったドロドロな一面が前面に出てきます。
ストーリーの大部分が、化粧品会社「赤塚」および「赤塚」に勤務している早瀬尚人との関係に終始しているため、ストーリー的にはそうなるのも当然ではあるのですが、そのこともあってか、「子供としての加賀美あつ子および彼女周辺の人間関係」についてはかなり小さな比重でしか扱われていないんですよね。
ガキ大将とか加賀美あつ子の友人であるモコなどは、序盤と終盤以外ではほとんど「お情け」レベルの出番しかありません。
そこから考えると、今作はあくまでも「魔法の力で大人になった加賀美あつ子の物語」であり、同時に「大人に憧れる子供の現実遊離な物語」でもある、ということになるでしょうか。
物語終盤では、魔法が使えなくなった加賀美あつ子が、元いた「子供としての自分の居場所」に戻っていくという描写もしっかり描かれていますしねぇ。

ただ、物語全体で見ると、明らかに「魔法のコンパクト」以外の要素があるとしか思えない言動が、加賀美あつ子には目立ち過ぎますね。
たとえば序盤で加賀美あつ子は、冬休み中に通わなければならない塾をサボるために大人に変身して「加賀美あつ子の親戚」と称し、塾に直接乗り込んで「加賀美あつ子は外国へ行ったから当面塾は休むことになる」と塾講師?に告げることで休みを確保します。
しかし、こんなのは塾側が加賀美あつ子の母親に直接電話をかけて確認を取ればすぐにでも露呈するウソでしかありませんし、そもそも一度も面識もない「加賀美あつ子の親戚」なる人物の身分詐称を、塾側が頭から信じなければならない理由もありません。
むしろ塾側としては、加賀美あつ子が何らかの犯罪に巻き込まれた可能性をも考慮して、目の前の女性の身元や親への確認を、自分から率先して行わなければならないところでしょう。
今の時代、この手の対処を誤ればマスコミが総出で叩きにかかりますし、下手すれば塾の経営や信用にも多大な悪影響が出かねないのですから。
あんな稚拙なやり方で、よくもまあ親にもバレないサボりができたよなぁ、とつくづく考えずにはいられませんでした。
そして早瀬尚人が勤務する化粧品会社「赤塚」へバイト待遇で入社した後も、社会人としてのマナーなど欠片たりとも持ち合わせていない言動を披露するのは、その出自から考えてやむをえないにしても、それに対して実行力のある制裁が全く発動しないというのは奇妙な話です。
加賀美あつ子の「非礼」な言動を見て周囲の他者が取った行動って、せいぜい「口先だけの抗議」くらいなものでしかなかったですからねぇ。
特に酷いのは、「赤塚」の株主総会で披露されたマイクパフォーマンスですね。
作中では誰もが彼女に注目し筆頭株主を動かすほどの名演説的な演出として扱われていましたが、元々彼女は「赤塚」の株主ではなく、あの場における発言権限など皆無なはずなのですから。
それどころか、あんなマイクパフォーマンスは企業の株主総会に対する明確な妨害行為とすら見做され、最悪は法的に罰せられる危険性すら否定できないところでしょう。
というか、加賀美あつ子が通う小学校でさえ、ああいう「悪目立ち」する行為を抑制するための社会的なマナー程度のことは普通に教えられそうなものなのですけどねぇ。
ましてや、小学校でも5年生レベルであればなおのこと。
この辺りは「小学生ならではなの世間知らずと無邪気さ」を逆手に取って大人達を圧倒する美談的に扱ってはいるのでしょうが、展開に無理があり過ぎて、正直ここにすら「魔法の力」が介在していたのではないかと考えざるをえなかったですね。

あと、ラストの爆弾騒ぎで加賀美あつ子は、ネコに変身して爆弾の所在を確認した後に人員の誘導を行っているわけですが、何故あそこでネコから元の大人の姿に戻って他者に爆弾の存在を知らせようと考えなかったのでしょうか?
ネコに変身して爆弾の現場まで他人を誘導するなんて手段自体がまどろっこしすぎますし、実際、作中でも一度失敗しかけてすらいますよね、アレって。
そんなことをするよりも、一度大人に変身して素直に「工場に爆弾が仕掛けられています」と他者に知らせていた方がはるかに効率も良く、かつ自身の秘密を知られることなく魔法を失うこともなかったのではないのかと。
というか、もっと効率の良い方法を考えれば、魔法のコンパクトを使って爆弾解体業者に変身して自分で起爆装置を解除するとか、オリンピック級の長距離走&槍投げ選手に変身して爆弾を安全な場所まで持っていって空高く遠くに投げるとか、自分ひとりで解決できる手段はもっと色々あったはずなのですが。
作中でも、魔法のコンパクトでバイクレーサーに変身した際にオートバイまで一緒に出していた上、免許もなく一度も動かした経験すらないはずなのに問題なく普通に乗り回していたのですから、魔法のコンパクトの力を使えば決してできないことではないでしょう。
外見上の変身のみならず一流の技能まで備わる魔法のコンパクトなんて、無敵のチート能力もいいところなのではないかと思うのですけどねぇ(苦笑)。

あと個人的には、物語中盤で子供の加賀美あつ子が、唐○俊○ばりのネットからのコピー&ペーストで「冬休みの課題」をさっさと終わらせたところを佐藤先生に見つかって咎められていたシーンも笑えるものがありましたね。
映画における●沢●一レベルのP&Gな盗作行為自体は、ジャック・ブラック主演の映画「ガリバー旅行記」でも見られたものではありましたが、これって知識さえあれば子供でもできることでもないのだなぁ、と。

原作やアニメにおける「ひみつのアッコちゃん」は、全体的に子供がメインの作品であるのに対し、今作はストーリー的にも出演キャスト的に見ても「大人向けの大人のための作品」ではあるでしょうね。
企業乗っ取りや株主総会の話なんて、とても子供向けに作られたものとは思えないですし(苦笑)。
大人だけで観るのならともかく、すくなくとも親子連れで観賞しえる映画であるようにはあまり見えないですね、今作は。

映画「闇金ウシジマくん」感想

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映画「闇金ウシジマくん」観に行ってきました。
小学館発行の青年マンガ雑誌「ビッグコミックスピリッツ」で不定期連載されている、真鍋昌平原作の同名マンガを実写化した作品。
2010年に実写化されたテレビドラマシリーズの続編で、キャストもテレビドラマ版をそのまま踏襲しています。
作中には女性の裸やレイプシーンなどが描写されていることもあり、PG-12指定されていますね。
なお、私は原作未読・テレビドラマ版未視聴で今作に臨んでいます。

とある一部上場企業の社長・二宮が主催するセレブパーティ。
持ち前のネットワークとコネクションを駆使して二宮を口説くことで、そのセレブパーティに出席した、イベントサークル「BUMPS」の代表である小川純は、セレブパーティに参加している金持ち達に取り入り、自分が主催するイベントで多額の資金を提供してくれるスポンサーを集めることを画策していました。
小川純は、FX長者として成り上がった猪俣なる人物を二宮から紹介されます。
「シャンパンを10分以内に一気飲みして見せたら1000万円出す」という猪俣の挑戦に応じ、見事勝利を勝ち取ってみせる小川純。
シャンパンに2・3滴残されていたことを理由に100万円に値切られはしましたが、それでも小川純は猪俣の名刺を渡され、何とか資金調達のための新たなコネクションを獲得したかに見えました。
ところが、セレブパーティが盛り上がりを見せ始めた中、突如3人の男が会場に現れます。
彼らは会場の雰囲気を無視してズカズカとパーティ会場へ押し入り、猪俣に対し、過去に借金していたことを理由に750万円もの現金を、今すぐこの場で全額支払うよう命じるのでした。
猪俣はFX長者であり億単位のカネを動かせると豪語していましたが、さすがにセレブパーティに参加している席上でそんな大金を、しかも現金で持ち歩いているわけもありません。
猪俣は後日の返済を約束するのですが、男達のリーダー格にしてカウカウファイナンスの社長である丑嶋馨は「借金まみれの奴に明日がくるかどうかなんて分からない、今日返せ」と聞く耳を持とうとしません。
そして丑嶋馨は、猪俣を問答無用の暴力で脅した挙句、「今この場で500万のカネを貸す人間がいたらお前を信用してやる」と宣言するのでした。
猪俣は周囲のパーティ参加者にすがるかのようにカネの催促を行うのですが、丑嶋馨の暴力と雰囲気に圧倒されていた上、求められる金額が金額ということもあり、誰もその要求に応えようとはしませんでした。
結果、猪俣は問答無用で3人の男達に強制連行され、セレブパーティの会場を後にする羽目となったのでした。
しかし、せっかく得られた金ヅルを突然潰されてしまう形になった小川純は、納得できないままに彼らの後を追います。
それに対して丑嶋馨は、「金は奪うか奪われるかだ、お前のように媚びて恵んでもらうものじゃない」と突き離し、猪俣を連行し去っていくのでした。

3つの携帯電話に3000以上ものアドレスを持つ小川純は、その広範なネットワークを駆使して「BUMPS」主催のコンサートを開催し、それを土台にして成り上がるという野望を抱いていました。
ルックスが良く人気が高い「ゴレンジャイ」というダンスユニットを結成させ、女性ファンを中心に集客活動を行っていた彼は、コンサートを行うための会場を借りる交渉を行っている真っ最中でした。
ところがある日、会場主のオーナーが突如、以前からの支払スケジュールを反故にして今日中に会場の賃貸料300万円を全額納めろと小川純に命令してきます。
突然の命令な上、300万円もの大金をイキナリ用意できるわけもなく、また過去に多くの借金を踏み倒してきた前科の数々を抱え込んでいることから、小川純は頭を抱えて悩むことになります。
冒頭のパーティで100万円の資金提供を約束してくれた猪俣も、丑嶋馨に連れ去られて以降は音信不通となってしまい、名刺に書かれていた連絡先も応答がなくなってしまうありさま。
そこへ、小川純の幼馴染である通称ネッシーこと根岸裕太に、違法な闇金業者にカネを借りることを進言されるのでした。
その忠告に従って小川純がカネを借りに行った先は、何と冒頭で猪俣を連行していった丑嶋馨が社長を務めるカウカウファイナンス。
「10日で5割、賭け事の場合は1日3割」などという違法以外の何物でもない超高率な利息でカネを貸すことを説明され、小川純はその条件でカネを借りることになるのですが……。

映画「闇金ウシジマくん」を観賞していて思ったのは、「この主人公、本当に闇金の借金取りを生業にしているのか?」「この作品構成で『闇金』というテーマにこだわる必要があるのか?」というものでしたね。
明らかに「闇金の回収」が目的とは思えない行動が目立ち過ぎです。
特に、FX長者である猪俣を丑嶋馨達が問答無用で脅したてるシーンなどはその典型で、彼らはわざと「自分達に借金の返済が行えない状況」を作り出して借金回収に臨んでいたとしか思えないんですよね。
かつてはその日暮らしにも困窮する生活を送っていたにしても、猪俣はFXで多額の資金を稼ぎ出し、億単位のカネが動かせる生活ができるようにまでなった身分だったはずです。
冒頭のセレブパーティーでも、彼は小川純相手に1000万円もの資金提供を即興で申し出たりしているわけですし。
丑嶋馨が通告してきた750万円の借金返済にしても、あのような場ではなく自宅を強襲したり、カネを銀行等から引き落としたタイミングなどを狙ったりするだけで、彼らはより確実な借金返済を行うことが可能だったはずでしょう。
猪俣の言動自体が全て虚言で、あのセレブパーティーにもわざわざ借金まみれで参加していたなどという事実でもない限り、彼の手元にはFXで稼いだ返済可能な資金が確実にあるはずなのですから。
にもかかわらず、丑嶋馨達があのような「借金取りのセオリー」に反した強硬手段を、それも衆人環視の場でやってのけたということは、つまるところ彼らの本当の目的は「借金取り」ではない、ということにもなりかねないでしょう。
作中の描写を見る限りでは、借金返済を怠った人間に対して制裁を科し、全財産を没収した上で身元不明の状態にして人知れず殺害する、というのが彼らの本当の目的だったとしか思えないところなんですよね。
750万円というのは確かに大金ではあるでしょうが、億単位のカネを持つ人間相手に暴力を振るって強制連行してまで回収すべき金額であるとは到底考えられないのですし。

また、彼らは一部上場企業の社長が主催するセレブパーティー、という衆人環視の目がある中で猪俣を脅しつけ強制連行まで行っているわけですが、その行為によって、セレブパーティーを主催したあの社長は、結果的に自分の顔を潰される羽目になったわけですよね。
作中では丑嶋馨達の暴力の前に事なかれ主義な対応を決めざるをえなかったにしても、あのまま黙って大人しく泣き寝入りを決め込むなんて、あの社長的には到底ありえない対応であるはずなのですが。
猪俣という上客を連れ去られた上、自分が主催するセレブパーティーの眼前で繰り広げられた犯罪行為を黙認したとなれば、自分自身どころか、下手すれば会社の信用問題にまで直結する事態にも発展しかねないのですから。
あの場には猪俣や小川純以外にも多くのパーティー参加者がいて、状況証拠や目撃情報にも事欠かないわけですし。
物語中盤で、借金取り行為で被害届を出され、前科がつくどころか起訴されることにすら危機感を持って対処していた丑嶋馨が、あの公衆の面前でやらかした犯罪行為の数々に無頓着だったというのはおかしいでしょう。
不法侵入と器物破損だけでも、丑嶋馨達が訴えられるのに充分な訴追事由となりえるわけですし、そこから闇金問題にガサ入れされてしまう可能性は濃厚にあるのですから。
後から示談金を支払って解決する問題とは思えませんし、仮にそんな解決法に頼ったとしても、その示談金の金額は猪俣の借金請求額よりも多いものとなりかねないでしょう。
闇金の借金取りが本職であるはずの彼らのあの場での行動は、しかし借金取りとしては完全無欠の失格以外の何物でもありません。
だから私は、「そもそも彼らは本当に借金取りを生業にしていたのか?」という疑問すら抱かざるをえなかったんですよね。
彼らの行動は、むしろ一昔前の時代劇で散々披露されていた悪代官や悪徳商人を成敗する勧善懲悪主人公のそれを連想させるものすらありますし。
作中における彼らの行動を見る限り、「闇金ウシジマくん」というよりも「制裁ウシジマくん」の方が、彼らの実情に正しく沿っている作品タイトルなのではないかと思えてならないのですけどね、私は。

あと、物語中盤で小川純がカウカウファイナンスに対する被害届攻勢をかけていた際、被害届を取り下げるのと引き換えに250万円ものカネをカウカウファイナンス関係者から引き出させることに成功しているのですが、何故その後小川純はバカ正直に被害届を取り下げてしまったのでしょうか?
丑嶋馨をはじめとするカウカウファイナンスの手口を、小川純は物語冒頭から実地で目の当たりにさせられていたはずですし、彼らを警察から自由にすれば、いずれ自分に対して借金回収と報復の手が及ぶことくらい、冒頭の手口からいくらでも察することが可能なはずでしょう。
また、小川純が被害届を取り下げることなく、カウカウファイナンスが警察の手によって壊滅させられれば、小川純はカウカウファイナンスからせしめた250万円をそのまま自分のものにしてしまうことも可能なのです。
となれば小川純は、250万円をせしめた後に約束を反故にし、警察の手でカウカウファイナンスを壊滅に追いやることこそが、あの場における唯一の選択肢であるべきだったのではないのかと。
司令塔である丑嶋馨がいない状態では、さしものカウカウファイナンスといえども十全の実力を発揮することはできないでしょうし。
元々被害届を出して喧嘩を売った時点で、カウカウファイナンス側の怒りと憎悪は確実に買っている上、当の小川純自身、冒頭の猪俣の件もあってカウカウファイナンスを「あんな悪党は滅びて当然」とまで考えていたくらいなのですから、被害届を取り下げるべき理由などどこにもないといっても過言ではないのですが。
というか、カウカウファイナンスを壊滅に追い込むことで目先の250万円を自分のものにする、というだけでも、カウカウファイナンスに被害届を出した小川純の目的は充分に達成できていたはずでしょうに。
出さなくても良い変な温情を出して被害届を取り下げてしまったばっかりに、彼は見事に身の破滅を招くことになったわけなのですから、妙なところで甘いよなぁとつくづく思わずにはいられなかったですね(-_-;;)。

小川純の幼馴染として登場する鈴木美來がラストで若干明るい展望だった以外は、軒並み暗いストーリーのオンパレードでしたね、今作は。
その鈴木美來にしても、母親の性格が最悪な上、丑嶋馨には母親の借金の取り立てを情け容赦なく求められ、小川純からは「ウリ(売春)をやって金を稼いでくれ」などと迫られたりと、不幸な目に遭いまくっているわけですが。
人間の負の部分を描くダークな展開を売りにしているという点では、映画「スマグラー おまえの未来を運べ」にも通じるものがあります。
内容が内容だけに、観る人を選別しそうな映画と言えるでしょうね。

映画「あなたへ」感想

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映画「あなたへ」観に行ってきました。
2012年で御年81歳になる高倉健が、2006年日本公開の日中合作映画「単騎、千里を走る。」以来、実に6年ぶりに映画出演を果たした人間ドラマ作品。
作品の内容が内容ということもあってか、スクリーンの観客は年配者がほとんどでしたね。

富山の刑務所で囚人達の指導技官を長年にわたって務めている今作の主人公・倉橋英二。
彼は高齢になってから結婚して15年になる妻・倉橋洋子に先立たれ、目的がないままに仕事に従事する日々を送っていました。
そんなある日、亡くなった妻の手紙を届けに来たというNPO法人の女性が、 倉橋英二が勤めている刑務所を訪ねてきます。
彼女は、倉橋洋子から依頼されていた2通の手紙を提示し、そのうちのひとつをその場で倉橋英二に直接渡します。
その手紙には、灯台らしき絵と共に以下のような文章が綴られていました。

あなたへ
私の遺骨は
故郷の海へ
撒いて下さい

そして、もうひとつの手紙は、「故人の意思」ということから、倉橋洋子の生まれ故郷である長崎県平戸市の郵便局で「局留め郵便」として10日以内に受け取るように、とのことでした。
何故妻はそんなことをするのか?
疑問に駆られながらも、倉橋英二は妻の生まれ故郷である長崎県平戸市へ行くことを決意します。

倉橋英二は、死ぬ前の入院生活の中で、自家用車である日産製の大型ミニバン・エルグランドをキャンピングカー仕様に改造し、2人で旅に出ようという構想を妻に話していました。
それは既に叶わぬ願いとなってしまったわけですが、倉橋英二は妻の死で途中放棄されていたエルグランドの改造に乗り出し、エルグランドを簡易キャンピングカーとして生まれ変わらせます。
そして彼は、長旅の前に刑務所へ退職届を出し、長崎へ出発しようとするのでした。
しかし、突然退職届を出された刑務所側は、倉橋英二の長年の刑務所勤務の経験を買っており、退職届を受理せず休暇扱いとします。
同僚の刑務所職員が見送る中、倉橋英二は富山を出発。
かくして、妻の散骨のために、富山から長崎県平戸市まで実に1200㎞以上もある長い旅が始まったのです。

映画「あなたへ」は、旅先の風景を映し出すロードムービーとしての一面も兼ね備えており、富山から長崎県平戸市まで、いくつかの観光名所が描写されています。
作中で描写されていた主な中継地は以下の通り↓

富山(出発地点)

岐阜県飛騨高山(杉野輝夫との出会い/その1)

大阪(駅弁の販売/その1)

兵庫県和田山の竹田城跡(妻との思い出)

山口県下関市(杉野輝夫との出会い/その2)

北九州市門司(駅弁の販売/その2)

長崎県平戸市(妻の散骨)

北九州市門司港(駅弁の販売/その3、ラストシーン)

物語は、高倉健が演じる倉橋英二が、行く先々で多くの人と出会い交流しつつ、妻との思い出を回想していくという形で進行していきます。
倉橋英二と妻の倉橋洋子以外は「行きずりの他人」かつ「チョイ役」的な扱いで、浅野忠信が演じた山口県下関署の警官に至っては、名前すらもなく本当にちょっとしか登場しないありさま。
しかし、各登場人物を演じた俳優さん達は、その登場回数を問わず、皆渋い役どころを忠実に演じていました。

ビートたけしが演じた杉野輝夫は、本人の言によれば元国語教師で、倉橋英二と同じく妻に先立たれ、キャンピングカーで旅を続けているとのこと。
山口県下関市で、実は彼は各地で車上荒らしの犯行を重ね指名手配されていたことが判明するのですが、倉橋英二については特にそういったことをやらかすでもなく、むしろ良きアドバイザーとしての一面を披露していました。
コンビニなどで車を止めて宿泊するのは、防犯の観点から拒否される店も少なくないなどといった、意外な盲点を突いた忠告もしてくれていますし。
下関署の警官達は、杉野輝夫が話した生い立ちの数々を「作り話だろう」と切り捨てていましたが、すくなくとも彼が倉橋英二に話したことについては、少なからぬ真実も含まれていたのではないかなぁ、と思わせるものがありました。
倉橋英二も、杉野輝夫には特に悪い印象を抱いていた様子もなく、「むしろ良くしてくれた」などと話していたくらいでしたし。

車の故障が縁となって知り合うことになった、草彅剛が演じる田宮裕二は、およそ遠慮というものを知らないながらもどこか憎めない人間、という役柄でしたね。
何やかやで倉橋英二は、大阪までの輸送どころか、田宮裕二の仕事である駅弁販売まで手伝わされる羽目になっていましたし(苦笑)。
まあそんな田宮裕二も、実は生活面で暗い一面を抱え込んでいることが、北九州市門司のエピソードで判明するのですが。
ちなみに、田宮裕二の車が故障し、倉橋英二の車に荷物を載せて大阪へ向かった際、その場で置き去りにしていた故障車は一体どうなったんだ? という疑問を私は一瞬抱かざるをえませんでした。
しかし、あの車は「わ」ナンバーのレンタカーであり、レンタカー会社に連絡すれば社員が現地まで行って引き取ってくれるのだそうで、その辺の問題はないとのことです。
この辺は作中の登場人物達の会話でも全く言及されておらず、何も知らない人から見れば少々混乱させられる描写ではありますね。

物語後半に全く意外な形でキーマンになるのが、田宮裕二より年長でありながら、仕事の関係上は後輩であるという、佐藤浩一がキャストを担う南原慎一。
初登場時の彼は、お調子者の田宮裕二を諌める役割以外は存在感の薄いキャラクターでしかなかったのですが、長崎県平戸市へ着く直前頃から、彼には明確な伏線が出てくるようになります。
実は彼は長崎県平戸市の出身で、そこで登場することになる食堂店の母娘の関係者でもあるんですね。
南原慎一という名前自体、7年前に名乗るようになったものなのだとか。
しかし、彼が偽名を名乗り長崎県平戸市と縁があることは作中での会話から分かるにしても、南原慎一が実はあの一家の亡くなったとされる夫だったという事実を、倉橋英二が一体どうやって理解したのか、そこは少々疑問ではありましたね。
一応、作中では「散骨の際に一緒に海に沈めてくれ」とあの母娘に言われて渡された「娘と婿さんとの写真」を見て理解したみたいな描写ではありましたが、正直アレだけでは観客的に理解はできないというか……。
平戸市といっても人口は3万人以上いるわけですし、漁師に限定しても数百単位はいるでしょうに、ピンポイントで母娘と父親にぶち当たってしまうとは、倉橋英二も何という僥倖だったことかと。
まあこの辺は、フィクション作品ならではのご都合主義的な要素も多々あるのでしょうけどね。

作品の内容的には、高倉健のファンや年配者向けの映画であることはまず間違いないでしょうね、今作は。
目的地までの過程で各地を巡るロードムービーという点では、映画「星守る犬」に通じるものがありますが、あれが悲劇的結末が最初から確定していた映画だったに対して、今作はある意味安心して観賞することができますので、ロードムービー好きな方にもオススメな一品です。

映画「るろうに剣心」感想

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映画「るろうに剣心」観に行ってきました。
1994年から5年にわたって週刊少年ジャンプで連載され、その後も根強い人気を誇る和月伸宏の原作マンガ「るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-」を実写映画化した時代劇アクション作品。
連載当時は週刊少年ジャンプの愛読者だったこともあり、原作は当然既読。
ストーリーは原作における「東京編」の「斬左編」「黒笠編」「恵編」をベースとしつつ、原作とは全く別のオリジナル構成で展開されています。

1868年(慶応4年/明治元年)1月に行われた鳥羽・伏見の戦い。
朝廷を擁する新政府軍と、徳川将軍に見捨てられた旧幕府軍が衝突し、凄惨な殺し合いが繰り広げられていました。
数的には圧倒的優勢な旧幕府軍に対し、新政府軍は苦戦を強いられます。
そこへさらに、斎藤一が率いる新撰組三番隊が新たに参戦。
戦局が旧幕府軍に傾きかけたまさにその時、突如ひとりの剣客が単身で新撰組をはじめとする旧幕府軍へ向かっていき、目にも止まらぬ速さと斬撃で次々と旧幕府軍の武士達を屠っていきます。
これに新政府軍は再び勢いづき、戦局は一転して幕府軍有利に。
それでもしばらく殺し合いが続く中、戦場にひとりの伝令がかけつけ、戦いが新政府軍の勝利に終わったことを大声で触れ回るのでした。
戦闘が終了すると、それまで鬼神のごとき強さを振るっていたのとは対照的に、まるで魂が抜けてしまったかのごとく虚ろな様子を見せる剣客。
剣客はその場で剣を地面に突き刺すと、斎藤一が話しかけるのにも返答を返すことなく、その場を後にするのでした。
これが、後に伝説として謳われることになる「人斬り抜刀斎」が、幕末で活躍した最後の姿となるのでした。

一方、勝敗の帰趨が決して無人となった戦場跡では、ひとりの男が息を吹き返していました。
ヨタヨタと戦場を歩く彼は、やがて「人斬り抜刀斎」が地面に突き刺していって剣に触れ、その剣に込められていたと思しき残留思念を垣間見ることになります。
それをきっかけに、彼は「人斬り抜刀斎」にひとかたならぬ執着を抱いていくのでした。

時は流れて1878年(明治11年)。
明治維新から10年の歳月が流れた東京では、武田観柳という名の実業家が「蜘蛛の巣」と呼ばれる新型阿片の開発に成功していました。
武田観柳の弁によれば、「蜘蛛の巣」は従来の阿片よりも依存性が高いとのこと。
彼は「蜘蛛の巣」の製造技術を外に漏らさないようにするため、「蜘蛛の巣」の製造に関わった技術者達を、自身の愛人でもあった高荷恵を除き、手下を使って全て殺させてしまいます。
その際、ひとりの男が逃走に成功するのですが、武田観柳は「奴は人斬り抜刀斎に任せておけ」という謎めいた言葉を残すのでした。

一方、東京の街では、その「人斬り抜刀斎」を名乗る正体不明の人物が、手当たり次第に人を殺害する事件が頻発していました。
件の「人斬り抜刀斎」は、その剣の流派を「神谷活心流」と名乗っており、その情報と共に簡単な人相が描かれた手配書が回されていました。
「神谷活心流」は東京で剣術を教えている道場を営んでいたのですが、その煽りを食らう形で門下生が一斉に離反し、衰退の一途を辿るありさまでした。
その「神谷活心流」の師範代である神谷薫は、ある日、立札に貼られていたその手配書を眺めていたひとりの男を目撃します。
その男の外見が手配書の容貌と似ていたことから、男を「人斬り抜刀斎」と判断した神谷薫は、「神谷活心流」を衰退に追い込んだ元凶を見つけたと言わんばかりの勢いで、男に木刀を突きつけ問答無用に成敗しようとするのでした。
そこで一騒動あった末、彼が街で噂になっている「人斬り抜刀斎」ではないと判断せざるをえなかった神谷薫は、お詫びという形で彼を「神谷活心流」の道場へと案内することになります。
これが、映画の中における神谷薫と、本当の「人斬り抜刀斎」こと緋村剣心との最初の出会いであり、そしてここから全てが始まることになるわけです。

映画「るろうに剣心」では、原作の「恵編」で黒幕として登場した武田観柳が、原作同様にカネの亡者としての悪役ぶりを大いに披露しています。
しかしその一方で、原作で彼の用心棒として雇われていたはずの御庭番衆御頭・四乃森蒼紫は、今作では一切登場しておらず、序盤の鳥羽・伏見の戦いで生き永らえ「人斬り抜刀斎」の剣を取った鵜堂刃衛が、彼に代わってその役割を担っています。
四乃森蒼紫が劇中で登場しないことについて、映画の脚本制作にも関わったという原作者の和月伸宏は、シネマトゥデイのインタビューで以下のように回答しています↓

http://www.cinematoday.jp/page/N0043764
>  [シネマトゥデイ映画ニュース] 実写映画『るろうに剣心』の公開を控え、原作者の和月伸宏が実写化にあたってのエピソードを語るとともに、完成版を観たときの心境を明かした。一人のクリエイターとして「悔しいくらい良いシーンなんですよね」と口にしたのは、主人公・緋村剣心がおなじみの赤い衣装で初登場する映画オリジナルのシーン。「本当にもう『剣心だなあ』って染みこんでくるので、ぜひ観ていただきたいですね」と話す口調にも熱がこもっていた。
>
>  和月も脚本段階から関わったという本作は「人斬(き)り」というテーマが最初に出てくる鵜堂刃衛との戦い、原作でいう1巻と2巻がベース。そこにもう一人の敵である武田観柳のエピソードを交えた構成となっているが、
脚本の第1稿は完成したものとはかなり違い、原作の人気キャラクターで剣心の宿敵である四乃森蒼紫も登場していたという。「監督とも話していて、敵が刃衛だけでは寂しいということで、最初は蒼紫を含めた御庭番衆も考えていたんです。ただ、そうすると2時間では収まらなくなってしまって……」と泣く泣くカットしたことを告白すると、「それで、今回は剣心と仲間たちを描いていこうという形になりました」と現在の構成に落ち着いた経緯を明かした。

このインタビューの内容から考えると、四乃森蒼紫は次回作辺りで原作とは違った形で登場する、ということになるのでしょうか?
原作者のインタビューを見る限りでは、明らかに次回作の存在を視野に入れているフシが伺えますし。
まあ、原作からして単行本28巻・完全版22巻分ものエピソードが存在するのですし、今回の映画も原作の序盤付近のストーリーが展開されていただけですから、続編を制作する余地はまだいくらでも存在するわけですが。
とはいえ正直言って、四乃森蒼紫抜きで構成した今作でさえ、実のところ「詰め込み過ぎ」な感が否めなかったりするんですよね。
特にそれを痛感せざるをえなかったのは、原作では「斬左編」を経て剣心の仲間になっていった相楽左之助の扱いですね。
原作の相楽左之助は、かつては新政府側で戦った赤報隊に所属し、隊長である相楽総三を味方に殺されたことから、明治政府や維新志士を憎み、その関係から剣心と対峙した経緯があったのに、映画ではそれらのエピソードは作中で何も語られも生かされもすることなく、ただ彼は自分の強さを武田観柳に売り込むだけのために剣心に喧嘩を売ってくるというありさま。
しかも劇中での戦いでは、剣心は相楽左之助から終始逃げ回っていただけで斬馬刀がへし折られることすらなく、ただ「あんな男(武田観柳)のために尽くすことはない」という剣心の説得?だけであっさり剣を引いて去ってしまう始末。
しかもその後は、特にこれといった心情が描かれることもなく、いつのまにか剣心の仲間になっているという展開で、あまりにも色々なエピソードが省略され過ぎています。
ラストの鵜堂刃衛との戦いの際も、相楽左之助は原作と違って別に重傷を負っていたわけでもなく、剣心と共にラストバトルに臨むことができる状態にあったにもかかわらず、そこでは何故か相楽左之助が戦いに加勢することもなく、原作同様に剣心と鵜堂刃衛との一騎打ちになってしまう状況。
剣心と2人がかりで鵜堂刃衛に挑むなり、剣心が鵜堂刃衛を引きつけている間に人質となっている神谷薫を救出するなり、彼の使い道もそれなりにはあったはずなのですけどね。
この映画で一番ワリを食っていたのは相楽左之助だったのではないかとすら思えてしまうくらいに、原作のエピソードが全く語られずに原作通りの動きを強制されたキャラクターであったと言えます。
こんな扱いになってしまうくらいだったら、相楽左之助も四乃森蒼紫同様に今作で登場させず、その分を他のキャラクターのエピソードに盛り込んでおいた方が良かったのではないでしょうか?
まあ個人的には、「四乃森蒼紫のいない武田観柳」の方がミスマッチな感が拭えないので、彼ではなく原作通りに比留間兄弟でも出して、原作における相楽左之助のエピソードを忠実に踏襲した方が良かったのではないかと思うのですが。

予告編でも売りになっていたアクションシーンの方は、既存の時代劇の殺陣とはまた異なるスピーディな展開になっているものが多く、こちらは充分に見るべきものがありました。
アクションシーン自体で特に不満に思った箇所は、前述の剣心と相楽左之助の対決も含めて特になかったですね。
四乃森蒼紫と彼の部下の御庭番衆がいないために、武田観柳がガトリングガンを乱射しまくるシーンは原作から大幅に改変されていましたが、むしろこちらの方が原作よりも合理的な上に剣心一派の強さが上手く表現できていたくらいでしたし。
武田観柳の屋敷で剣心と相楽左之助を相手に戦っていた武田観柳の部下2人は、何故か「人誅編」に登場する戌亥番神と外印だったりするのですが、続編を想定している作品で、かなり先のストーリーで登場予定のはずの敵キャラを登場させてどうするのでしょうかね?
まあ2人共死んではいないわけですし、再び敵として再登場ということもありはするのでしょうけど。

原作ファンから見てもまずまずな出来ではありますし、アクションシーンを目当てに観賞してもまず損はしない映画ではあろうと思います。
この出来であれば、制作側の意図通りに続編が出てくることにも期待したいところですね。

映画「アナザー/Another」感想

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映画「アナザー/Another」観に行ってきました。
ベストセラー作家・綾辻行人の同名小説を実写映画化した学園ホラー作品。
映画「麒麟の翼 ~劇場版・新参者~」で真犯人役を演じた山崎賢人と、映画「HOME 愛しの座敷わらし」「スープ ~生まれ変わりの物語~」にも出演した橋本愛の2人が、今作の主演を担っています。
なお今作は、人間の首がワイヤーロープで切断される映像や、スプーンが眼球に突き刺さり頭を貫通するシーンなどといった「残虐な死」の描写が作中で展開されるため、PG-12指定されています。
ちなみに、私が映画館でホラー映画を観賞するのは、実は今作が初めてだったりします(^^;;)。
今週はこれといった映画観賞候補作が、今作以外何もなかったものでしてねぇ(-_-;;)。

物語の舞台は1998年。
父親の一時的な海外出張という期間限定で、地方都市である夜見山市の夜見山北中学校へ転校してきた今作の主人公・榊原恒一(さかきばらこういち)。
しかし4月26日、彼はクラスへの編入直前になって、自然気胸という病を患ってしまい、地元の病院への入院を余儀なくされてしまうのでした。
意識が朦朧とする中、彼は全く見覚えのない「左目に眼帯をつけている美少女」に導かれ、幼い頃に死んだ母親と出会う夢を見ることになります。
やがて夢から覚め、病院で1週間以上にわたる病院生活を送ることになった榊原恒一でしたが、病院の中を散歩している中、夢の中に出てきた「左目に眼帯をつけている美少女」を見かけることになります。
夢のこともあり、彼女を追った榊原恒一は、霊安室へと入っていく姿を目撃することになるのでした。

5月6日。
病院から退院し、元々転校予定だった夜見山北中学校3年3組のクラスへ編入することになった榊原恒一は、そこでまたしても「左目に眼帯をつけている美少女」と再会することになります。
しかし3年3組のクラスメイト達は、確実に存在するはずの彼女を、あたかも最初から存在しないものとして扱うという不可解な対応に終始していました。
それでも「左目に眼帯をつけている美少女」のことが気になる榊原恒一は、何とか彼女に接触しようと行動するのですが、何故かそれを止めにかかるクラスメイト達。
それでも何とか見崎鳴(みさきめい)という名前を突き止めることに成功した榊原恒一は、なおも接触を図ろうとするのですが、その光景を発見したひとりの女子生徒が悲鳴を上げます。
そしてその直後、彼女は偶発的な事故に巻き込まれ、首に致命傷を受けて死んでしまうのでした。
しゃがれた声で「あなたのせい」というメッセージを残して。
その現場に集まったクラスメイト達は、「ルールを破ったからだ」などという謎めいた言葉を呟き、死者となった女子生徒と同じように榊原恒一と見崎鳴を責め、さらには榊原恒一同様に「最初からいなかった」かのごとく扱われるようになるのでした。
榊原恒一は見崎鳴を問い質し、3年3組に纏わる謎の「現象」を知ることになるのですが……。

映画「アナザー/Another」では、次々と人が死んでいく「現象」が何故発生したのか、具体的な真相とその抜本的な解決策については全く何も語られていません。
作中で語られているのは、26年前の1972年に夜見山岬(よみやまみさき)というひとりの女子生徒の死後、当時の3年3組のクラスメイト達が彼女の死を受け入れず「生きている人」であるかのごとく振る舞った翌年から「現象」が始まった、という解説なのですが、本当にそれが原因なのかは全く不明です。
実際には全く別の理由があるにもかかわらず、当時者達が夜見山岬の件を「現象の原因」であると思い込んでいる可能性も否定できないところですし。
また作中では、榊原恒一と見崎鳴の旧校舎探索で、1983年当時の3年3組卒業生によるテープが発見されるのですが、それには「3年3組には死者がひとり紛れ込んでいる」「その死者を殺せばその死体は消滅し、それ以降は『現象』は収まる」という内容のメッセージが録音されていました。
これが、映画のキャッチフレーズにもなっている「死者は誰?」の本当の意味でもあるわけですね。
しかし「現象」が発動している最中は、当時者達の記憶どころか、過去の死者の記録なども全て改竄されてしまうため、新聞記事などの過去の記録を元に死者を探すことは全く不可能。
しかもその死者自身、「自分が死んでいる」という自覚は全くなく、見た目も記憶も普通の人間と何も違わないため、その特定どころか、実際に殺してみるまでは真偽を判定することすらもできないのです。
それどころか、下手にこのことが露見しようものならば、クラス全体が「死者探し」に狂奔した挙句、クラス内における凄惨な殺し合いが勃発する危険性すらあります。
実際、物語終盤では、部分的ながらもクラスメイト達が互いに猜疑し合い、殺し合いに狂奔する場面も見られたわけですし。
これでは真相が分かっても、普通であれば「バトルロワイヤル」のごとき虐殺が始まってしまい、却って事態を悪化させるだけでしかないですね。
ただ今回の場合、「人の死の色が見える」という特殊能力を左目に秘めている見崎鳴の活躍で、死者の存在が判明することになるわけですが。

ただこの「現象」、実は記憶&記録操作に抵触することのない形で意外と簡単に解消できてしまえるのではないか、とは思わなくもなかったですね。
非常に簡単な方法で、夜見山北中学校3年3組を名目だけの存在にしてしまい、誰もそのクラスに所属しないようにしてしまえば良いのです。
作中で発生している「現象」は、あくまでも夜見山北中学校3年3組に所属する(&していた?)生徒・教師およびその血縁者に対してのみ発動するものなのですから、その3年3組に所属する人間が誰もいなくなってしまえば、当然「現象」を止めることも簡単に行えるわけです。
作中の描写を見る限りでは、いくら人間の記憶や過去の記録を改竄するといっても「現象」の存在そのものまではさすがに隠蔽できていないようですから、学校関係者が「現象」の元を断つことは充分に可能でしょう。
何なら、3年3組として使われている教室そのものをも完全に閉鎖し、立ち入り自体を禁止してしまっても良いでしょうし。
第一、毎年毎年3年3組という特定のクラスで大量の死者が出るというのであれば、いくら表面的には偶発的なものに見えるにせよ、保護者も学校側も当然不安を覚えるようになるでしょうし、特に生徒の管理指導の責任が問われるであろう学校側がその手の対策を検討しても何ら不思議なことではないと思うのですが。
3年3組に死者が紛れ込むといっても、肝心の3年3組に誰もいなければ、その時点で死者の正体は簡単に露見するわけですし、当然「現象」も発動の停止を余儀なくされてしまうでしょう。
まあひょっとすると、「現象」が纏わる記憶&記録改竄の中には、この手の「3年3組そのものを根絶する」という発想をも封じ込める機能も備わっているのかもしれないのですが、「『現象』の存在を誰もが知っている時点で対策も打たれてしまうのではないか?」とは正直思えてならないのですけどね。
この手の「災いの元を根元から根絶する」的な対策を打たれないようにするためには、「現象」の存在そのものが3年3組の当事者達以外誰も知らない&他者に知らせることもできない、しかも卒業すると同時に全ての人間の記憶と記録媒体から「現象」および死者&死亡事故等の存在そのものが完全に抹消されてしまう、というところまでいかないと無理なわけですが、作中ではそこまで徹底されていませんでしたし。
「バトルロワイヤル」のごとき凄惨な殺し合いや、見崎鳴の特殊能力に依存するよりも、3年3組の存在そのものを有名無実化する方が非常に簡単な解決方法に見えてならない、と思うのは私だけなのでしょうか?
この辺り、原作ではきちんとした説明があるのでしょうかね?

映画自体は、学園ホラー要素以外にも、犯人探しのミステリーやサスペンス要素もあり、意外に見応えのあるものにはなっていると思います。

映画「エイトレンジャー」感想

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映画「エイトレンジャー」観に行ってきました。
アイドルグループの「関ジャニ∞(エイト)」が上演してきた、同名のスーパー戦隊シリーズのパロディ物を映画化したコメディ作品。
なお、私は「エイトレンジャー」の元ネタについては全くタッチすることなく今作に臨んでいます。

物語の舞台は、民主党が20年以上も政権を担っていたらこうなるのではないかというレベルまで荒廃している2035年の日本。
少子化が今よりもさらに進んで人口は7500万人にまで減少し、円の価値が下落して経済は衰退。
日本政府は「小さすぎる政府」への転換を目指し、警察や消防などの公共サービスの類を大きく削減。
その結果、日本有数の人口を誇る東京や大阪などの大都会にのみ、充実した公共サービスによる秩序が存在する状態と化していました。
人口の希薄な地方の小さな市町村の類は完全に見捨てられ、地方都市でさえヤクザが跳梁跋扈し犯罪やテロが横行する始末。
特に少子化の影響から、子供の誘拐および人身売買が横行し、それがヤクザやテロリスト達の資金源になるという、極めて不安定な社会が現出していました。
警察は警察で、「事件に対処して欲しければまず多額の入金をしろ!」などと民衆に向かって堂々とのたまえるほどの腐敗ぶりを披露する惨状を呈していたりします。
そのため一般的な日本国民は、明日をも知れない苦しい生活の中、自分の身は自分で守ることを余儀なくされていたのでした。
誰もが先行きに不安を抱き、未来に希望が抱けない、まるで「北斗の拳」の無秩序な世界や、お隣の中国のモラルハザードな一般社会を再現しているかのごとき未来の日本。
そして、作中の物語の主要舞台となる八萬市(エイトシティ)もまた、犯罪組織の凶悪犯罪に悩まされていました……。

物語の冒頭、今作の主人公である横峯誠は、闇金からの借金取りに追われていました。
海辺の公園でついに借金取りに追い詰められ、カネを返すか海に投げ込まれるかの二者択一を迫られる横峯誠。
そこへ突然現れ、杖1本?で借金取りをあっさりと蹴散らしていった謎の老人。
老人は自らをヒーロー協会の理事長と名乗り、横峯誠をヒーロー協会へスカウトします。
ヒーロー協会での活躍次第では、お前の借金を肩代わりしても良いという条件付で。
危機的条件を助けられたということもあり、渡された電子ホログラム名刺?の案内に従い、ヒーロー協会の本部を訪れる横峯誠。
到着早々、彼は理事長によってヒーロー協会お抱えの戦隊「エイトレンジャー」のブラック&リーダーを任され、その他6名の隊員のまとめ役を任されることになります。
突然の抜擢に戸惑う横峯誠ですが、紹介された他の6名の「エイトレンジャー」達は、揃いも揃ってやる気がなく、訓練どころかひたすらダラけているありさま。
一応、横峯誠も含めた7人の「エイトレンジャー」達には、一定の条件が揃うと超人的な力を発揮できるスーツを支給されてはいたのですが、その発動条件は7人の中の誰にも分からず、現時点では宝の持ち腐れ同然の状態。
この状況を打破すべく、彼らはヒーロー協会の切り札で「伝説のヒーロー」としてその名を轟かせるキャプテン・シルバーに教えを請おうと動き始めるのですが……。

映画「エイトレンジャー」は、スーパー戦隊のパロディというだけでなく、物語の随所に「お遊び」的なギャグ要素が盛り込まれています。
たとえば、主人公の横峯誠がヒーロー協会を訪れた際、理事長からヒーロー協会のCM映像を見せられるシーンがあるのですが、そのCMの内容は、頑丈そうな物置にヒーロー協会の構成員が100人乗っていて自分達をアピールするというシロモノでした。
これは、物置の上に100人の人間が乗って頑丈さをアピールしていたイナバ物置のCMをいじったパロディです。
作中のヒーロー協会のそれは、最初物置の上に乗っていた100人がだんだんと数を減らしていき、しまいには10人を切ってしまう衰退ぶりを披露するという、何とも哀愁漂う仕上がりになっていましたが(苦笑)。
横峯誠も「何故物置?」というツッコミを小声で呟いていましたが、何故こんなネタをわざわざ仕込んでいたのか、観客としても是非知りたいところではありました(^_^;;)。
また、舘ひろしが演じるキャプテン・シルバーが居住するアパートの部屋の中には、何故か1980年代にテレビ放映されていた往年の刑事ドラマ「あぶない刑事」のポスターが貼られていて、「俺、そっくりだとよく言われるんだよね」と当の本人が弁明するシーンが披露されていたりします。
そっくりも何も、アンタは「あぶない刑事」で普通に主演のひとりを担っていたじゃないか舘ひろし、と往年の「あぶない刑事」ファンとしては思わずツッコミを入れてしまったものでした(^^;;)。
この辺りの所謂「お遊びネタ」は、今作の監督である堤幸彦の持ち味ではあるのでしょうね。
彼が同じく監督を担っていた映画「SPEC~天~」でも、この手の「お遊びネタ」が随所にちりばめられていましたし。
この「お遊びネタ」に代表されるように、今作の内容はギャグコメディをメインかつ前面に展開しつつ、要所要所でシリアスな要素を挿入するという構成になっています。
キャプテン・シルバーと横峯誠の関係や、今作のラスボスとのやり取りなどは、結構シリアスな展開になっていたりしますし。
この辺りの構成は、人によって好みが分かれそうなところではありますね。

それにしても、この世界における日本政府って、一体どこまで無能な統治をやっていたのだろうかと、正直その部分については色々と疑問を抱かずにはいられませんでしたね。
そもそも、今でさえ供給が需要よりも膨らんでいる「デフレギャップ」が叫ばれている中で、一種の需要減・供給増の効果をもたらす構造改革的な「インフレ対策」を打ち出すなど、狂気の沙汰もいいところなのですが。
作中における日本政府が実行した政策というのは、公共事業や公共サービスの削減という「小さすぎる政府」の実現であり、それは必然的にそれらのサービスに携る人達の給与を削り、需要を減らしてしまうことになります。
それは一方では「製造コストの減少」による供給増をもたらすことにも繋がるのですが、給与が減れば当然一般国民の購買力は低下せざるをえないので、そんな中で供給量が増えても経済は豊かにはなりません。
まさに「供給が需要を上回るが故のデフレギャップ」に苦しんでいる日本で、さらにそれを促進するような政策を行うのは自殺行為も良いところでしょう。
ならば外国に輸出して外貨を稼げば良いではないか、とは誰もが考えるところでしょうし、作中では「円の価値が下がった」と言われているのですから対外貿易にはむしろ適しているはずなのですが、その割には作中の日本は対外貿易で潤っているような形跡すらもありません。
昨今の日本経済で問題になっている事案のひとつに「円の価値が異様なまでに高くなっている」ことが上げられるのですから、「円の価値が下がる」円安は、むしろ日本経済にとって恩恵になりえるものではないかと思えてならないのですが。
あの世界の日本って、円の価値云々以前の問題として、諸外国から何らかの経済制裁ないしは海上封鎖でも行われているのではないか、とすら考えてしまったくらいなのですけどね。
第一、あそこまで経済状態がボロボロで大都会以外の治安も悪化し、かつ内部統制もままならない状態では、他国のスパイや特殊工作員なども今以上に入りたい放題になるでしょうし、場合によっては地方自治体のいくつかが諸外国のカネによって買収され、無血で他国領土化する可能性すら起こりえるのですけど。
そうでなくても、日本の周辺には中韓朝やロシアなどといった、日本侵攻の意思を明確に示している国々が蠢いているのですし。
むしろ、危機的状況に乗じられて日本が他国に攻め入られ分割占領された状態という、映画「ファイナル・ジャッジメント」的な状況の方が、日本の未来図としては「より」ありえそうな気がしなくもないのですけどね。
まあ、消費税増税やTPPなどという「デフレ下のインフレ対策」を堂々と推進し、その他の面々でも愚劣な政策や失政に邁進している民主党政権のようなシロモノが長く続けば、こんな荒唐無稽な暗い世界も夢物語ではなく実際に起こりえるのではないか、という「恐怖の可能性」もゼロとは言えないのが、いささかウンザリするところではあるのですが。
こんなアホな世界を現出させないためにも、国民のための政治をきちんと行ってくれる政治家や政権をきちんと選ばなければならない、という教訓を教える映画としても、今作はそれなりに機能するものと言えるのではないかなぁ、と。

ちなみに、作中における「エイトレンジャー」というのは「8人で構成される戦隊」ではなく、物語の主要舞台となっている八萬市(エイトシティ)の戦隊という意味を持つのだとか。
だから「エイトレンジャー」と銘打っているにもかかわらず、実際の戦隊の構成員は7人しかいないわけですね。
映画ではなく元ネタの方の「エイトレンジャー」は、「関ジャニ∞(エイト)」の結成当初が8人のメンバーだった頃の名残なのだそうですが。
映画のタイトルと予告編を初めて見た時は、キャプテン・シルバーか、ヒロイン(兼ラスボス)の鬼頭桃子のどちらかを含めて8人になるのではないかと考えていたものでした(^^;;)。
同じような構成だった映画「ワイルド7」は、当初は部外者だったヒロインがラストでメンバーに加わるというパターンになっていましたし。
ラストを見る限り、人気が出れば続編を作る気ではあるようなのですが、果たして興行的に成功するのでしょうかね、この映画は。

上でも述べていますが、今作は基本的にギャグコメディがメインで構成されていますので、その手の作品が嫌いという人にはあまりオススメできるものではないですね。
ただ、舘ひろしが本来お笑い物の戦隊スーツを違和感なく着こなしてシリアスな役柄を演じている様は結構面白いものがあったりするので、舘ひろしファンな方々は意外と必見かもしれません。

映画「おおかみこどもの雨と雪」感想

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映画「おおかみこどもの雨と雪」観に行ってきました。
「時をかける少女」「サマーウォーズ」などの作品を手掛けてきた細田守監督の新作アニメーション。
なお、今作は映画「メリダとおそろしの森」との2本立てで観賞しています。
1日2作品の映画同日観賞は久々ですね(^_^;;)。

映画の基本的な進行は、後日の成長したと思しき雪のモノローグをはさみながら、物語の前半は映画のタイトルにもなっている雨と雪の母親である花に、後半は雨と雪に、それぞれメインスポットを当てる形で進んでいきます。
そして物語は、大学生である花が、大学の講義でひとりの男性に興味を示したことから始まることになります。
作中でもエンドロールでも「彼」としか呼ばれていないその男性と、花はやがて親密な関係を結んでいくことに。
ある日、「彼」と一緒に街中を歩いていた際に、花は自分の名前の由来を「彼」に話し始めます。
何でも「花」という名前は、生まれた際に近くに咲いていた花を父親が見て、「いつでも花のように笑っている」ことを願い名付けられたものだったとか。
もっとも、父親が死んだ際の葬儀でまで彼女は笑顔を浮かべ続けていて、周囲に「不謹慎だ」と非難もされた過去もあるのだそうですが(^^;;)。
その花の過去話に感化されたのか、「彼」もまた、自身の重要な秘密を花に明かすことを決意。
その日の夜、誰もいない場所で、「彼」は花の眼前で自身の顔を狼のそれに変容させるのでした。
「彼」は、過去に絶滅したニホンオオカミと人間の最後の混血種で、同じく混血種だった父親から「おおかみおとこ」の歴史を学び育ったのでした。
ちなみに、「おおかみおとこ」の変身能力は別に「満月の夜」に限定されるものではなく、また人の血を好むというものでもないのだとか。
しかし、そんな「彼」の正体を見てもなお、花の「彼」に対する好意は何ら揺らぐことはなく、2人はついに逢瀬の時を迎えるのでした。

人間と混血種の2人の間には、2人の子供が誕生しました。
ひとりは冬の雪の日に生まれた女の子で、その日の天気から取って名前は「雪」。
もうひとりは春の雨の日に生まれた男の子で、名前は同じく天気から取って「雨」。
2人の子供は共に、人間から人狼へと変身する能力を生まれながらに身につけていました。
そのことが事前に予測できたことから、花は出産の際、わざわざ病院にかかることなく、自宅のアパートで2人の子供を産んでいたりします。
子供も生まれ、永遠に続くかと思われた花と「彼」の関係は、しかしある日突然終わりを告げることになります。
「雨」が生まれて間もないある日、花は雨が降り注ぐ天気の中、近くの川で死んでいる狼の姿を目撃するのです。
狼の死体は業者によってゴミ収集車でゴミ捨て場へと運ばれてしまい、花は「彼」の死を看取ることすらできなかったのでした。
当然のごとく打ちひしがれてしまう花でしたが、残された2人の子供を見て、彼女は涙を浮かべながらも持ち前の笑顔を刻み、自分ひとりで子供を育てていくことを決意するに至ります。
しかし、「おおかみこども」である2人を育てるのには様々な困難が伴いました。
身体的な問題がある故に子供を他の子供達と一緒に遊ばせることもできず、また子供が病気を患った際も医者にかかることができず、自分ひとりで見様見真似的に対処しようにも、小児科と動物病院のどちらに相談すれば良いのかという問題もありました。
しかも、幼稚園や保育園に子供を預けなかったことから、児童虐待の疑いを抱いた児童相談所の職員にアパートまで押しかけられてしまう始末。
児童相談所の対応自体は、それはそれで当然のものだったとは言え、事情を知る観客的には「何とも世知辛い世の中になったものだなぁ」と痛感せずにはいられないものがありましたね。
都会での生活が難しいことを痛感し、また「おおかみこども」である子供達の将来のことについても考えざるをえなかった花は、思い切って人里離れた田舎へ引っ越すことを決意するのですが……。

映画「おおかみこどもの雨と雪」は、花と「彼」が出会ってから、2人の子供が小学校を卒業する年代になるまでの13年間が描かれています。
父親が亡くなってから子供達が小学校へ入学するまでは、母親である花の奮闘記的な要素がメインで繰り広げられていますが、それ以降は子供の性格の変遷にスポットが当てられている感がありました。
たとえば長女の雪は、幼少時はネズミなどの小動物や蛇などと格闘して遊ぶような、とにかく明るく活発かつお転婆な幼女として描かれていますが、小学校へ入学した後、新しくできた友人達との交流を経て、彼女は次第に恥じらいや淑やかさを身につけるようになっていきます。
それに対して弟の雨は、幼少時はとにかく母親に甘え姉に引っ張られるような臆病な性格をしていたにもかかわらず、成長するにつれてこちらは「おおかみ」が持つ動物的な本能に目覚めていき、ついには山の「主」とされる老キツネに師事し、その後継となることを決断するにまで至ります。
また母親である花もまた、田舎へ引っ越してきた当初は、何でもかんでも自分ひとりだけでこなそうと無理をするのですが、やがて田舎の人達の支援を受けるようになり、ご近所付き合いもできるようになっていきます。
この三者三様の成長をよく描いているのが、今作の特徴と言えるでしょうか。
個人的には、母親である花の真骨頂は、それまで手塩にかけて育ててきた子供達が自立していく際、それをきちんと認めてあげたことに尽きるのではないかと思うんですよね。
花にしてみれば、アレだけ自分が苦労して育ててきた2人の子供が、自分の元を離れていくというのは悲しい部分もあれば不安な一面もあるでしょうし、「できれば【自分の保護下で】育って欲しい」という感情は母性本能の一側面として見てもごく自然なものです。
人間の母性本能には、長期にわたる子育ての必要性から「子供をいつまでも手放さない」という要素も備わっており、それが特に子供の思春期以降では「過保護」「過干渉」などの問題を引き起こすことも決して珍しいことではありません。
だから母親にとって「我が子の成長と自立を認める」というのは、実は「子供を大事に育て守り続ける」のと同じかそれ以上に難しいことであるわけです。
後者ができても前者はできないという母親は意外に多いものなのですから。
もちろん、作中でモンスターペアレント臭をこれでもかと言わんばかりに放出しまくっていた草平の母親のような輩は、全くもって論外ではあるのですが。

草平といえば、作中で彼が雪の通っている小学校へ転校してきた直後、いきなり雪に対して「お前から獣臭い臭いがする」的な放言を言い放つに至ったのは、正直どうなのかとは思わずにいられなかったですね。
「おおかみこども」である雪の場合は、自身にある程度の後ろめたさがあったにせよ、あんなことを正面切って言われれば、性別や事情を問わず普通に嫌悪されて然るべきではなかったのかと。
挙句の果てに、「獣臭い」発言から雪のことをひたすら追いかけまくっていた件に至っては、イジメやストーカーの類と見做されても文句は言えないでしょうに。
まあ、雪に対してはモンスターペアレントとして振る舞いながら、再婚が決まった途端に自分の息子に対し「お前はいらない」的な発言をやらかした「あの」母親に育てられたのでは、そうなるのも当然かと思わせるものがあるにはあったのですが……。
あの草平の母親って、絶対再婚後も問題を引き起こしそうな気がしてならないのですけどねぇ(苦笑)。

作品の全体的な構成としては「大人向けのアニメーション作品」といったところになるでしょうか。
あまり子供向けに作られているとは言い難いような気が(^^;;)。
大人向け映画としては、それなりに丁寧に作り込まれているので、イチオシの作品であるとは言えるのですけどね。

映画「苦役列車」感想

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映画「苦役列車」観に行ってきました。
第144回芥川賞を受賞した西村賢太の同名私小説を実写映画化した作品。
映画のタイトルに反して、作中に列車の類は一切出てきません(苦笑)。
作中には生々しい風俗関係の描写があるため、R-15指定されています。
なお今作は、熊本県では熊本シネプレックス1箇所限定での劇場公開となっていたため、そこまで足を運んでの観賞となりました。

物語の舞台は1986年。
父親が性犯罪行為で社会的に取り上げられ、一家離散を余儀なくされた挙句に中卒で働き始めた今作の主人公の北町貫多は、日雇い労働でその日暮らしの生計を立てつつも、風俗や酒に溺れる自堕落な生活を送っていました。
そんなある日のこと、いつも彼が日雇いで働いている職場に、その年から専門学校生として田舎から上京してきた日下部正二が新入り労働者としてやってきます。
北町貫多と日下部正二は仕事場で意気投合し、公私両面で行動を共にするようになります。
ちょっとしたことですぐにブチ切れる北町貫多に対し、処世術に長け世慣れた感のある日下部正二は、最初は良きコンビとして機能します。
もっとも、それは無理筋な要求ばかりする北町貫多に対し、日下部正二が困った顔をしながら受け入れていくというパターンに終始してはいたのですが……。
北町貫多には、行きつけの古本屋でバイトとして働くひとりの女性の存在が気になっていました。
自身も読書が趣味という北町貫多は、その容姿といつも読書をしているバイトの女性こと桜井康子にお近づきになりたいと願うようになっていたのでした。
北町貫多がそのことを日下部正二に話すと、彼は北町貫多を伴って古本屋へ直接乗り込み、桜井康子と直談判をすることで、2人の友人になってくれることを桜井康子に了承させることに成功するのでした。
しかし、「友達」の意味が全く分かっていない北町貫多は「友達になれる=(セックス的な意味合いで)ヤれる」と勘違いするありさま。
その様子に、日下部正二は一抹の不安を抱くのですが……。

映画「苦役列車」は、主人公の破綻だらけな性格と言動をどのように解釈するかによって、観る人次第で大きく賛否が分かれそうな作品ではありますね。
個人的には、正直「何を言いたいのか分からない」的な部分がとにかく多すぎる上、主人公の言動にはまるで共感も同情もできないというのが実情ではあったのですが。
ストーリー的に見ても、「生活破綻者が友人を得てから無くしていく過程」が延々と描かれているだけで、爽快感的なものもまるでなく、そこにどんなテーマがあるのかを見出すのにすら困難を極めるありさまでしたし。
同じ私小説でも、映画「わが母の記」などはテーマに普遍性があり感情移入もしやすかったのですが、この作品にそういう要素はまるで見出せない状態。
どちらかと言えば、映画「ラム・ダイアリー」を日本に移植してさらに劣化させた作品というのが、今作の実情に近い評価と言えるのではないかと。
作中で主人公が何の結果も出していないこととか、作中におけるヒロインの存在意義がないも同然とか、昔の特定地域の知られざる闇の雰囲気を堪能できるとか、そんな共通点が両作品共に存在するわけですし。
今年の観賞映画の中でもワーストクラスに入るであろう「ラム・ダイアリー」と作品の出来や評価までもが同じ、というのは正直どうかとは思うのですけどね(-_-;;)。

それでも無理に今作のハイライトを見出すとしたら、一度険悪な雰囲気になってしまった北町貫多と桜井康子が日下部正二の仲介で和解した後、3人で海に入って仲良くじゃれあう光景でしょうか。
個人的には、ここで映画そのものを終了しておいた方が、却って作品の評価は上がったのではないかと思えてならないですね。
ここからストーリーをさらに展開していくとしたら、友情に目覚めた北町貫多が真人間になっていく過程を描くというパターンが理想的なわけなのですが、実際にはこれ以降の北町貫多の性格破綻ぶりはますます悪化の一途を辿り、全ての人間関係を破局へと追い込むことになってしまうのですから。
作中の北町貫多は、中卒であることや家庭問題などで少なからぬコンプレックスを抱え込んでいるのは良いにしても、破滅願望でも抱いているようにしか思えない言動に終始し過ぎていて、とても感情移入できるようなシロモノではありませんでしたし。
物語の終盤近くで、日下部正二と彼の恋人?に対し、東京と映画について何やら偉そうに御高説を垂れていた場面でも、主張内容の是非以前に「そんなことをしたらせっかくの友人関係が確実に破綻するだろ」としか評しようがありませんでしたし。
作中の北町貫多って、対人コミュニケーション面で何らかの障害でも抱え込んでいる狂人の類にしか見えなかったのですが、こんな人物のどこに人間的な普遍性や魅力といったものが存在するのかと。
まあ原作からしてそういうキャラだったのかもしれませんし、そういうキャラクター性を100%出し切っていたであろう俳優さんは、それはそれで評価に値するのかもしれないのですが……。

最初から最後まで「救い」とか「明るさ」とかいった要素がまるで期待できない作品なので、エンターテイメント的な面白さや感動的な人間ドラマのようなものが観たいという方にはあまりオススメできるものではないですね。

映画「BRAVE HEARTS/ブレイブハーツ 海猿」感想

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映画「BRAVE HEARTS/ブレイブハーツ 海猿」観に行ってきました。
海難事故の救助に奮闘する海上保安官達の姿を描く、同名漫画原作の人気シリーズ劇場版第4弾。
劇場版の「海猿」シリーズは、前作「THE LAST MESSAGE/ザ・ラストメッセージ 海猿」および前々作「LIMIT OF LOVE/リミット・オブ・ラブ 海猿」において「シリーズ完結編」を謳い文句にした宣伝が盛んに行われていましたが、その謳い文句を2度も裏切った形で劇場公開された今作では、さすがに同じキャッチフレーズを使う気にはなれなかったみたいですね(苦笑)。
製作側としては、今作の観客動員数と興行収益が成功レベルに到達すれば、また続編を作る気満々なのでしょうし、その判断自体は正しいと思うのですが、どことなく「大人の世界&事情」が垣間見られる光景ではあります(^_^;;)。
前作も前々作もそうでしたが、今作も映画単体だけで楽しめる仕様となっており、これまでの「海猿」シリーズを知らない方でも問題なく観賞することができます。

今作が現実世界で前作から2年後に劇場公開されているのに合わせたものなのか、作中時間においても前作の「レガリア」の事故より2年の時間が経過している今作の舞台。
「海猿」シリーズの主人公である仙崎大輔は、前作まで所属していた海上保安庁の第十管区から「第三管区海上保安本部羽田特殊救難基地」こと特殊救難隊、通称「特救隊」に自ら志願し配属されていました。
「特救隊」は、全国各地で発生する非常に特殊で危険な救助活動を行うことを目的とする、海難救助のスペシャリスト達で構成されている部隊を指します。
「特救隊」の誕生は、1974年11月に東京湾で発生した、LPG・石油混載タンカーの「第十雄洋丸」とリベリア船籍の貨物船「パシフィック・アレス」が衝突・爆発炎上して総計30名以上の乗組員が犠牲となった「第十雄洋丸事件」を発端としており、当初は5名で発足、現在は1隊につき6名で構成される、第一から第六までの6隊36名で構成されています。
形式上は海上保安庁の第三管区に所属していますが、出動地域に制限はなく、海上保安庁の各管区からの出動要請に基づいて全国各地で救助活動を行う部隊とされています。
第十管区の機動救難隊で隊長になる話も持ち上がっていた仙崎大輔は、しかしその話を断り、後輩の吉岡哲也と共に「特救隊」の第二隊へと異動してきたのでした。

作中で最初に展開される「特救隊」第二隊の任務は、台風が接近している中で発生した大阪湾で事故を起こし沈没しつつあるコンテナ船での救難活動。
暴風雨が吹き荒れる中、既に大きく斜めに傾斜し積載されたコンテナ群が今にも海に転げ落ちそうになっている船の救出作業は、当然のことながら至難を極めるものがありました。
それでも「特救隊」第二隊の面々は、ヘリを巧みに船に接近させ、船上にいた2人を救助することに成功します。
しかし2人をヘリまで引き上げた直後、仙崎大輔は未だ船上にいた人がいるのを発見。
既に船はいつ沈没してもおかしくない危険な状況になっていたのですが、周囲が止めるのも聞かずに仙崎大輔は船上の人を救助にかかります。
しかし彼は、傾いた船に叩きつけられる荒波に飲み込まれ、さらにその上からはコンテナが落下しまくり、救助は全く不可能な状態に。
結果、その船員1名が犠牲になるという形で、作中の「特救隊」第二隊の任務は終了となってしまうのでした。
現場となった大阪湾から、「特救隊」への出動要請が行われた第五管区の本部へ帰還後、第二隊の副隊長である嶋一彦から「判断が甘い」「特救隊に必要なのはスキルと技術だ」と責められることになります。
同時に前々作および前作の救難活動で、最終的に仙崎大輔自身が同僚達から救助された件について触れられ、「それによって結果的に仲間を危険に晒した」「助かったのは運が良かっただけだ」とまで言われてしまいます。
しかし仙崎大輔は、「海難救助の際には諦めない心が必要だ」と反論し、結局両者はこの場では物別れに終わってしまうのでした。
仙崎大輔は、前作でバディとして海難救助を共にし、今では第五管区に異動になった服部拓也と一時の邂逅を果たしつつ、第三管区へと戻ることになります。

前作から2年の歳月は、仙崎大輔の私生活にも一定の変化を与えていました。
妻である仙崎環菜は長男の仙崎大洋に続く2人目の子供を身篭っており、後輩の吉岡哲也には付き合ってそれなりの月日が経つCA(キャビンアテンダント)の恋人が出来ていました。
仙崎夫妻は、吉岡哲也と恋人の矢部美香の関係を応援しており、吉岡哲也は既に結婚の決意まで固め告白する気満々ですらいるのですが、矢部美香は何故か結婚に乗り気ではありません。
実際、吉岡哲也は矢部美香に何度も「結婚してくれ」と迫っており、その都度矢部美香は何度もはぐらかし、遂には明確に拒否の意思を示し別れまで告げる始末。
表向きには仕事や収入を口実に挙げていた矢部美香には、それとは別の結婚したくない本当の理由があるようではあったのですが……。
そんな折、矢部美香がCAとして登場していた、シドニー発羽田空港行きのG-WING206便にエンジントラブルが発生。
マスコミの生中継で日本中が注目し、吉岡哲也が矢部美香の安否に気を揉む中、G-WING206便の乗客乗員346名の救助作戦が開始されることになるのですが……。

映画「BRAVE HEARTS/ブレイブハーツ 海猿」では、予告編でも公開されている「ジャンボジェットの海上着水」に至るまでのストーリーがかなり長いですね。
むしろ、そちらの方がメインなのではないかと思えるほど、ジャンボジェットを巡る動向に多くの時間が割かれている感すらあります。
最初は他の飛行機の着陸を禁止した上で羽田空港の滑走路に着陸させようとしたのですが、飛行機の胴体右側の降着装置が故障して車輪が出てこなかったことで、この作戦は失敗に終わってしまいます。
そして今度は、下川嵓の提案で海上着水が提案されるも、懸案が多すぎて一旦はボツになってしまい、かといって代案も浮かばす皆が頭を抱えているところで、仙崎大輔が海上着水の修正案を提示し、それによって作戦決行になった、という過程が延々と描かれています。
まあ実際問題、「ジャンボジェットの海上着水」というのは「着水から沈没まで20分程度しかない」と作中でも言われているように実は最悪の手段もいいところなのですし、可能な限り安全確実な救出手段を行いたいと考えるのも、救助する側としては至極当然のことではあるのですが。
作中の救助活動の際にも、中央部で2つに割れてしまったジャンボジェットは、コックピットを含む前部は「機体が一旦コックピットを頭にして垂直に立った直後に水没」という映画「タイタニック」を髣髴とさせるようなパターンで、後部は乗員乗客の大部分が退去したのを見計らったように割れた部分から水が流入する形で、それぞれ短時間のうちに水深60mの海の底に沈んでいきましたし。
一歩間違えれば大勢の犠牲者が出ることは確実の救出劇であり、確かに危険と言われるだけのことはありました。

物語中盤のハイライトは、官民問わず全て一丸となって救助活動に邁進する光景ですね。
一連の救助作戦は当初、警察・消防・海上保安庁・空港関係者などの組織や国家機構だけで主導されていたのですが、海上着水が決定されると民間の漁船や病院などにも協力要請がもたらされ、彼らも救助活動に協力していくことになります。
海上に即席で設置された誘導灯をパイロットが見出してから、海上着水した飛行機に向けて多くの船が動き出す光景は、まさに圧巻かつ感動的なものでした。
この辺りは、東日本大震災における日本の団結力の強さを再現しているかのようにも見えましたね。
製作側も意図してこういう描写を作ってはいたのでしょうけど。

作品全体で見ると、今作では前作「THE LAST MESSAGE/ザ・ラストメッセージ 海猿」でほとんど活躍の場がなかった吉岡哲也が、その鬱憤を晴らすかのごとく、下手すれば仙崎大輔をも凌ぐ勢いで見せ場がありましたね。
特に物語終盤付近では、ほとんど彼の独壇場的な感すらありましたし。
そして、これまでの劇場版「海猿」シリーズでも顕著に出ていた「生きるか死ぬかの手に汗握るギリギリの状況を描く上手さ」は今作でも健在です。
特に今作は、序盤の大阪湾の救助活動で船員のひとりが救助に失敗して死んでいることもあり、「ひょっとすると……」という考えは前作よりも強いものがありましたし。
あの「どうせ助かるのだろうけど、でももしや……」という感触を観客に抱かせる演出の巧みさはなかなかのものがあります。
これを「御都合主義ないしはファン向けのリップサービス」と見るか「安心して楽しめる」と解釈するかは、意見の分かれるところではあるでしょうけど。

「海猿」シリーズのファンの方々はもちろんのこと、人間ドラマや映画ならではの迫力ある演出を楽しみたい方などにも、今作は間違いなく楽しめる作品ではないかと思います。

映画「スープ ~生まれ変わりの物語~」感想

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映画「スープ ~生まれ変わりの物語~」観に行ってきました。
森田健のノンフィクション「生まれ変わりの村」をモチーフにし、転生や死生観を前面に押し出しつつ、父と娘の心温まる家族のあり方にスポットを当てた人間ドラマ作品。
今作は、熊本県では熊本市中央区大江にある熊本シネプレックス1箇所のみでの上映だったため、そこまで足を運んでの観賞となりました。

冒頭のシーンでは、ウェデイングドレスに身を包んだひとりの女性が立っている教会?の扉を、花束を抱えたひとりの学生らしき人物が開ける光景が映し出されます。
このシーンは物語終盤の流れと繋がることになるのですが、この時点ではさっさと次の舞台に移ることになります。
次の舞台では、娘のことを気にかける父親と、父親に対し無愛想かつ邪険に振る舞う娘とのすれ違いが描かれます。
何でも、父親こと今作の主人公である渋谷健一は、2年前に妻と離婚して以降、すっかり無気力になってしまい、娘こと渋谷美加との関係も悪化の一途を辿っているのだとか。
その無気力ぶりは仕事にも多大な悪影響を及ぼしており、ついに彼は唯一自分に任されていた仕事を、自分より若い女性社員の綾瀬由美に奪われるという事態に直面してしまいます。
仕事の引き継ぎ?の打ち合わせでも、綾瀬由美に頭ごなしに注意される渋谷健一は、その日ちょうど15歳の誕生日を迎えることになっていた娘のことがとにかく気がかり。
しかし、当の渋谷美加は誕生日当日、友人に唆されて店で万引きを働くという所業をやらかし、店から父親に連絡が行くという事態に直面していたのでした。
娘のために花屋で花束を購入していたところを呼び出された渋谷健一は、店の女主人に対してひたすら平謝りを繰り返し、何とか許しを貰うことに成功します。
しかし、渋谷美加はそのことに感謝するどころか、父親の態度に不満を抱き、昔の離婚話を蒸し返して父親を論難する始末。
娘の無反省よりも離婚話についカッとなってしまった渋谷健一は、無意識の行動だったのか、娘の頬をひっぱたいてしまいます。
渋谷健一は部屋に閉じこもってしまった娘と和解しようとアプローチを行うのですが、娘は全く取り合うことなく、また渋谷健一自身も明日は綾瀬由美との出張が控えていることもあり、出張から帰った後に和解するつもりでその場はあっさりと引き下がるのでした。
まさか、これが父と娘の最期の別れになるとも知らずに……。

翌日。
綾瀬由美と共に出張先の仕事場で仕事の引き継ぎを行った渋谷健一は、一段落した後で別の場所へと向かうべく、信号が青に変わるのを待っていました。
昨日娘を叩いたことのショックが尾を引いていた渋谷健一の愚痴に対し、「そりゃマズいでしょう」と娘の肩を持ちまくる綾瀬由美。
しかし、そんな2人の頭上で天候が突如急変。
そして、突如空を覆った雷雲から発せられた一閃の落雷が、信号待ちをしていた2人を直撃してしまうのでした。
それによって当然意識を失った渋谷健一は、しかし綾瀬由美の声によって目を覚まします。
そこで渋谷健一が見たものは、暗くなった無人の街中で雪が舞う光景でした。
何故かペンギンが街中を歩いていたりしますし(苦笑)。
街の様子に不審を抱いた2人は、劇場らしき建物の中に入り、自分達と同じようにわけが分からないまま集まっている集団を見つけ出します。
何が起こったのか分からない者同士で言い合いが発生するのを見計らったように現れた、赤い服を着た訳知り顔の女性。
彼女は皆を劇場へ導き、そこで説明役の男と鉢合わせます。
そこでその男は、集まっている皆が既に死んでいること、ここが実はあの世であること、そしていずれは転生(生まれ変わり)が行われることを解説するのでした。
しかし渋谷健一は、娘と再会したい一身で、あの世から脱出する方法を模索することを決意するのでした。
自分の死を素直に受け入れた綾瀬由美と半ばなりゆきで一緒に行動しつつ、彼は現世に戻るべく動き回ることになるのですが……。

映画「スープ ~生まれ変わりの物語~」における「あの世」は、一般的にイメージされる「あの世」とはかなり様相が異なっています。
今作の「あの世」はあくまでも「前世の死から来世に生まれ変わるまでの待機所」的なものとなっており、かつ地獄のような阿鼻叫喚の拷問や天国のごとき王道楽土があるわけでもなく、酒場やディスコや焼肉屋があったり、人々が娯楽に興じていたりと、現世と何も変わるところがありません。
現世と違うところがあるのは、世界のあり方ではなく人間の方で、容姿が死んだ当時の頃から不変であることと死なないことくらいなものでしょうか。
この世界から脱出し、生まれ変わるためには、決められた配給所で配給される「スープ」を飲む必要があります。
ただし、この「スープ」を飲んだ者は、現世に生まれ変わることと引き換えに前世の全ての記憶を失うことになります。
現世の人間が前世の記憶を持っていないのはこのためであるというわけです。
また、「スープ」を飲みさえすればただちに転生が行われるというわけでもないようで、「あの世」の人達の中には、「スープ」を飲んでから何年経っても転生が行われないというケースも存在していたりします。
作中の描写を見る限り、この転生の可否というのは「前世での未練」の有無が関わっているのではないかと考えられます。
後述する石田努の母親などは、息子との再会がきっかけとなって消滅していったみたいでしたし。
しかし、今作の主人公である渋谷健一は、あくまでも「父親としての記憶を持った状態で娘と再会する」ということにとにかく拘りました。
そのため、「スープを飲むことなく、かつ現世に記憶を残したまま転生する方法」を、渋谷健一は模索することになるわけです。

また今作では、主人公の取引先の社長として登場する石田努がかなりイイ味を出していますね。
演じる俳優が「遠山の金さん」の松方弘樹ならば、性格設定も言動も遊び人バージョンの「遠山の金さん」そのものでしたし(笑)。
やたらとあの世の遊び場に精通していて、女を連れてディスコで踊り明かしたり、プールで泳ぎ回ったりと、どう見ても「あの世の人生」を謳歌しているようにしか思えないところが何とも言えないところで(苦笑)。
しかし、そんな彼にも「あの世」に留まっている一応の目的はあって、それは8歳の幼い頃に死に別れた母親を探しているというものでした。
そして、渋谷健一と綾瀬由美を連れて立ち寄った焼肉屋で、石田努は死んだ母親と偶然にも再会することになります。
石田努は半年前に65歳で糖尿病によって「あの世」にやってきたとのことだったため、若い母親に年老いた息子が抱きついて「おかあちゃん」と泣き縋るという、何ともシュールな光景が現出することになるわけですが(^_^;;)。
そして再会後に「前世の未練」がなくなったからなのか消滅していった母親を見送った後、彼は(原因不明の現象でスープを飲まず記憶を残したまま)現世に転生することになるのですが、転生後の彼は何と「美崎瞳」という【女】として生を受けることになるんですよね。
同じく「三上直行」として転生した主人公との会話で、「女の身体って大変なことがよく分かった」とか「(初体験は済ませたのかという質問に対して)女の身体の方が気持ち良いからな」とかいった生々しい発言まで披露していましたし。
主人公が転生した後も「共通の事情を知るが故の良き相談役」的な役割を担っていましたし、彼は今作の物語における重要な潤滑油的存在となっていますね。
実際、石田努がいない場面では、見ているだけで暗くなりそうなエピソードが延々と続いていたりしますし。
松方弘樹のファンであれば必見の映画と言えますね。

作中の話で少し疑問に思ったのは、「スープ」を飲んで転生後に記憶を無くした人間の性格がそのままである、という設定ですね。
渋谷健一は転生後に「スープ」を飲んで綾瀬由美の転生した存在「西村千秋」と出会うことになるのですが、彼は「綾瀬由美と性格や言動がよく似ている」という理由から、西村千秋が綾瀬由美の転生であると喝破しています。
しかし、性格と記憶というのは実は極めて密接した関係にあり、「記憶を元に性格が作られる」という要素が多分に含まれているので、記憶を無くした人間の性格が記憶を無くす前の人間と同じであることはまずありえません。
実際、記憶喪失前と後の人間の性格を比べるだけでも、かなり違うところが多々あったりするのですし。
「記憶が無くなる」というのは何も「知識や記録が無くなる」という表層的な事象だけを指すのではなく、それまでの人格・性格・思想、さらにはちょっとしたクセの類に至るまでの一切合財全てを無くすことをも意味しており、すなわちそれは「自分の存在そのものが消える」ことにも繋がるのです。
現実世界の記憶喪失などは、心因性な要因で発症していることが多く、まだ脳内にデータが残っている状態であることも少なくないので、何らかのきっかけで記憶が戻るケースも起こりえるわけですが、作中のような「スープを飲んでの転生」では当然そんなことが発生しえるわけもないのですし。
「スープ」を飲む前の綾瀬由美の言動を見ても、「記憶を無くす=知識や記録が無くなる」程度の認識しか垣間見られず、「自分の存在そのものが消える」とまでは全く考えてもいないところが少々気になるところではあるんですよね。
西村千秋の性格が綾瀬由美のそれと同じだというのであれば、それは西村千秋がこれまで歩んできた人生が綾瀬由美のそれと大同小異なものであったか、もしくは単なる偶然の産物によるものとしか解釈しようがないところなのですが。

一方、作中で「記憶を失う=自分の存在そのものが消える」という認識を正確に抱いているのは、「あの世」で渋谷健一に「記憶を持ったまま転生する裏技」を教えた近藤一ですね。
近藤一は「裏技」を駆使して3回も記憶を保ったまま転生しているのですが、彼は「親しい人間がいない世界に転生して一体何の意味があるんだ」と渋谷健一を止めようとするんですよね。
確かに、前世の記憶を持ったまま生まれ変わった場合、生まれ変わった際の両親を「世話になる&なった人」としてはともかく「実の親」として認めるのは非常に難しいものがありますし、それまでの親友に再会しても全くの赤の他人状態なわけですから、そんな辛酸を舐めてきた彼が転生を否定する心情も分からなくはありません。
いくら苦労して新しい人間関係を作っても、死および転生と同時に全てがリセットされ、しかもその記憶を持ったまま転生し続けるというのは、ある種の人間にとっては地獄よりも辛い人生なのかもしれません。
だからこそ彼は、次は「スープ」を飲んで記憶を消すことで自分の存在をも抹消し、全く新しい人生を生きることを決意したのでしょう。
前世の記憶や知識を保ったまま生まれ変わることができれば何でもできるじゃないか、とは誰もが考えるところですし、作中でもそういう考え方が披露されていたりもするのですが、この「転生の短所または問題点」をも上手く表現しているのが今作の特徴でもありますね。

如何にも地味な映画タイトルと予告編&映画紹介に反して、意外に面白く色々と考えさせられた作品でしたね。
若年層はともかく、中高年層以上には結構イチオシな映画であると言えそうです。

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