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カテゴリー「邦画感想」の検索結果は以下のとおりです。

映画「臨場 劇場版」感想

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映画「臨場 劇場版」観に行ってきました。
横山秀夫のミステリー小説を原作とし、テレビ朝日系列で放映された人気ドラマシリーズの劇場映画版。
今作はテレビドラマシリーズの続編という位置付けではありますが、ストーリー自体は映画単独で成り立っており、テレビドラマ版から引き続き出演している主人公含めた登場人物達の人間関係以外は、これまでのシリーズを知らなくても問題なく観賞可能です。
かく言う私も、テレビドラマ版はただの1話も観賞することなく今作に臨んでいましたし(^^;;)。

映画の冒頭は、大雨が降り注ぐ無人の街中で、今作の主人公にして「終身検視官」の異名を持つ倉石義男が倒れ込むシーンから始まります。
このシーンの意味するところが何なのかについては物語後半である程度明らかになりますが、序盤は思わせぶりに明示するだけで次のシーンへと移行します。
次に映し出されるシーンは2010年冬の吉祥寺の繁華街?における、如何にも平和的な広場を普通に行きかう人々の姿。
そんな一般的な光景は、しかし突如突っ込んできたバスの中から慌てて下車して悲鳴を上げて逃げ惑う人々と、血塗れになってナイフを握りながら狂笑を浮かべるひとりの男によって、唐突に終わりを告げることになります。
ナイフを持った男は、広場にいた通行人達に無差別に切りつけていき、さらにその場にいた2人の女性を刺殺までしてしまいます。
ナイフの男こと波多野進は、バスの中でも2人の人間を殺害、さらに15名もの重軽傷者を自らの手で作り上げており、彼は複数の警察官によってその場で現行犯逮捕されます。
ここで倉石義男は、事件の現場検証で部下達と共に遺体の検視を行うと共に、遺体と遺族の対面にも立ち会うことになります。
ところが波多野進はその後、警察の事情聴取の場で精神喪失状態の様相を呈したことで刑法39条の1「心神薄弱者ノ行為ハコレヲ罰セズ」の規定が適用され、一審・二審共に裁判で無罪判決が下されることになってしまうのでした。
当然のごとく、遺族は波多野進に対する理不尽な無罪判決に怒りを抱くことになるのですが……。

それから2年後。
東京都港区で弁護士事務所を営んでいる高村則夫が、事務所内で何者かに殺害されるという事件が発生します。
検視官である倉石義男も当然のごとく遺体の検視を命じられることとなり、彼は最初、部下である小坂留美に検視の実務を委ね、自身は遺体の着衣や遺品などを調べ始めます。
そこで倉石義男は、ズボンに濡れている痕跡があることを発見することになります。
それを不審に思った倉石義男は、ある程度進んでいた小坂留美の検視を制止し、自分で直接遺体をつぶさに調べていくのでした。
倉石義男が小坂留美に検視を任せる際は常に最後までやらせるのに、と同じく倉石義男の部下である永嶋武文は呟いています。
その後の司法解剖では、直腸温の測定に基づいた遺体の死亡推定時刻が割り出されるのですが、倉石義男は肝臓の温度測定による死亡推定時刻が直腸温測定のそれと比べて数時間のズレがあることを発見、遺体に何らかの細工が行われているのではないかという疑問を抱きます。
さらにその後、今度は神奈川県警の管轄で病院を営む精神科医・加古川有三が殺害されるという事件が発生します。
遺体の傷跡に高村則夫との共通点が浮かび上がったことから、警察はこの2つの事件が同一犯の犯行によるものと断定、警視庁と神奈川県警との間に合同捜査本部が立ち上がることになります。
高村則夫と加古川有三が、2年前の無差別通り魔事件の際に波多野進の弁護と精神鑑定をそれぞれ担っていたことから、神奈川県警の捜査一課の管理官・仲根達郎は、裁判での判決に不満を抱いた遺族の犯行によるものと断定し、遺族について調べるよう捜査官達に指示を出します。
しかし、遺族に医学的知識を持つ者がいないことを理由に「俺のとは違うなぁ」と仲根に異を唱える倉石義男。
2人が対立する中、さらに捜査線上には全く別の線から出てきた容疑者の存在も浮上し始め……。

映画「臨場 劇場版」では、理不尽な犯罪や冤罪で身内を失ってしまった遺族の悲哀と、さらにその立場から容疑者として疑われる理不尽な様子が描かれています。
元来娘がいるはずもない場所で突然娘を失ってしまった母親の関本直子や、神奈川県警の捜査ミスで冤罪を着せられた挙句に自殺してしまった息子の助けられなかったと自分を責め続ける父親&現職警察官の浦部謙作などは、本来ならば事件の被害者もいいところだったはずです。
しかし警察からは、まさにその立場故に犯行を行っても不思議ではないと逆に目をつけられ、それを前提とした事情聴取や監視を受けることにまでなってしまうんですよね。
特に浦部謙作などは、物語終盤で「アレだけ警察に奉仕してきたのに、息子を奪った次は自分なのか!」と怒りを露にし、当時の冤罪事件の捜査責任者だった仲根達郎を自身の手で殺害しようとした挙句、最終的には自身の拳銃で自殺してしまうのですからね。
実際に彼は連続殺人事件の犯人では全くなかったわけで、そんな気は全くなかったにせよ、結果として無実の人間にあらぬ疑いをかけ死に追いやることになってしまった警視庁管理官・立原真澄は、さぞかし甚大なショックを受けざるをえなかったことでしょうね。
結果的に彼は、浦部謙作の息子を自殺に追い込んだ仲根達郎と全く同じ過ちを犯してしまったことになるのですから。
物語中盤頃の立原真澄は、冤罪事件で仲根達郎を責めるかのごとき言動を繰り広げていたのですが、まさかそれが自分にも跳ね返ってくることになるとは夢にも思わなかったことでしょうね。
もちろん、仲根達郎にしても立原真澄にしても、別に明確な悪意を持ってあの親子を冤罪に陥れようとしたわけでも何でもなく、あくまでも事件解決を心から願い正義感を持って行動した末の悲劇ではあったのですが。
この辺りは、全知全能ならぬが故の、警察というよりも人間の限界ではあるのでしょうが、それだけに被害者はもちろんのこと、捜査官達の苦悩や後悔もやるせないものがありますね。

作中の展開で少し疑問に思ったのは、物語終盤における波多野進についてですね。
彼は事件の遺族の墓参りから措置入院している病院に戻ってきた際、浦部謙作から2発の銃弾を受け、さらに連続殺人事件の真犯人である安永泰三に注射までされてしまい、今まさに生命を奪われんとしていたのですが、それを止めに入った倉石義男と安永泰三が対峙している間に奇跡的な復活を遂げ、安永泰三を刺殺した上に倉石義男にまで襲い掛かっているんですよね。
2発の銃弾(しかもそのうち1発は左胸から左肩の間付近に命中している)+注射を受けてなお、そこまでの行動に打って出られること事態が凄まじく驚異的であると言わざるをえないところなのですが。
あの注射って、最初は筋弛緩剤のような類の致死性薬物で、注射された時点で波多野進はもう死んだものとすら考えていたくらいでしたし、アレだけ劇的な復活を遂げたとなると麻酔という線も確実にないでしょう。
状況的に見てあまりにもありえない劇的過ぎる復活だったために、安永泰三は興奮剤かエンジェルダスト(PCP)の類でも間違って注射してしまったのではないかとすら考えてしまったほどです(^_^;;)。
また波多野進は、措置入院における自分の更正が全くの偽りであることを倉石義男の前で自白したりしているのですが、倉石義男に凶器を取られてしまった途端に再び精神異常者の演技を繰り出しているんですよね。
その前の言動を見てそんなことをしても騙される奴はまずいないでしょうし、そもそもあの状況における波多野進であれば、倉石義男が投げ捨てた凶器を拾うなり、安永泰三が持っていたナイフを奪い取るなりして反撃する術も体力もまだ充分に余力を残していたのではないかと思うのですが。
それどころか、あの驚異的な復活ぶりから考えると、下手すれば素手でも倉石義男を殺すことが可能だったのではないかとすら思えるくらいですし(苦笑)。
ゲームのバイオハザードに出てくるゾンビクラスの生命力を、あの時の波多野進は持ち合わせているようにさえ見えたくらいですからねぇ(^^;;)。
どの道、波多野進にしてみれば、自身の精神異常者としての振る舞いが全くの演技であることの目撃者である倉石義男を殺さなければ、自身の弁明を周囲に信じ込ませることもできないわけですし、足掻ける限りの物理的な抵抗をしても不思議ではなかったくらいなのですが。
あの重傷からの復活も奇跡かつ驚異的ならば、あそこで抵抗を止めてしまうというのも多大な違和感を覚えざるをえないところでして。

あと、今作ではエンドロール後に重要な映像が出てきます。
もぬけの殻になった倉石義男の自室に置かれている携帯電話が鳴り響き、連絡主の小坂留美が倉石義男と連絡が取れないことに絶望的な表情を浮かべる、というものなのですが、これが実は土砂降りの雨の中で倒れこむ冒頭の倉石義男の描写と結びついていたりするのでしょうか?
いかにも続編が出そうな終わり方ではあるのですが、これって一体どうなるのでしょうかねぇ。
いずれにせよ、今作ではエンドロールが完全に終わるまで席を立たないことを是非ともオススメしておきます。

テレビドラマ版からのファンはもちろんのこと、ミステリー好きな人達にも単品で満足できる作品であると言えますね。

映画「LOVE まさお君が行く!」感想

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映画「LOVE まさお君が行く!」観に行ってきました。
テレビ東京系列で2010年3月まで放映されていた番組「ペット大集合!ポチたま」に出演していたラブラドール・レトリバー犬の「まさお君」と、番組開始当時は売れないお笑い芸人だった松本秀樹に纏わる実話を元にした映画作品。
作中の松本秀樹役は香取慎吾が演じているのですが、松本秀樹本人も友情出演的な扱いながら登場していたりします。
また、「ペット大集合!ポチたま」と同じくテレビ東京系列の番組「ちゃたろうの旅」に出演しているエアデール・テリア犬「ちゃたろう」と篠山輝信も、同じくチョイ役ながら出演しています。
この辺りは、同一テレビ局ならではのシャレが効いたサプライズ企画と言えるところでしょうね。

東京タウンテレビ(TTV)では、新番組企画として浮上した「犬と人間が全国各地を旅する番組」の進行役を探していました。
製作費を極力抑えるという番組ディレクター・河原茂雄の意向により、犬は動物プロダクション「WAN NYAN」で貸し出しを行っている犬の中で最も安い価格がつけられていたラブラドール・レトリバーの「まさお君」が、人間はとある芸能事務所で仕事もなくクダを巻いていた売れない芸人・松本秀樹が抜擢されます。
この1匹とひとりの珍妙なコンビが、今作における実質的な主人公となります。
漫才コンビとしてデビューしたのは良いものの、芸人として大成できず、漫才コンビ解消の危機にまで直面していた松本秀樹は、番組進行役の抜擢を受けて当初は当然のごとく大喜びします。
しかし、肝心の相方が犬で、しかも犬が主役の番組であることを知らされたことで、松本秀樹は一転して不満を抱くことになります。
松本秀樹的には、自分の1日当たりのギャラが「まさお君」の貸し出し料金より低いことも不満の種であったようですが(苦笑)。
番組収録自体も最初はボロボロで、ボールを投げて犬がそれを追いかける定番のシーンで「まさお君」が寝そべっていたり、商店街の取材で果物屋?に商品を陳列している置き台に「まさお君」が突っ込んで果物類をバラバラに転がしてしまったりと、ひたすらトラブル続き。
しかもそれでいて番組の評判は全く芳しいものなどではなく、寄せられてくるFAXなどの手紙は苦情やクレームのような反応ばかりという惨状を呈する始末。
しかし、「まさお君」と松本秀樹が互いにじゃれあっているように見える光景を見て、スタッフ達は一縷の希望をそこに見出すのでした。

一方、松本秀樹は私生活面でも問題を抱え込んでいました。
「まさお君が行く!」の番組に出演している最中に、黒人だったらしい漫才コンビの相方がアメリカに帰国してしまい、漫才コンビが正式な解消を余儀なくされてしまいます。
しかも追い討ちをかけるように、長年同棲してきた須永里美には「実家でホテルの稼業を継ぐから」との理由で別れを告げられてしまいます。
松本秀樹は、芸人として大成する夢と伴侶の双方を一挙に失ってしまったも同然の事態に陥ってしまうのでした。
そんなある日、海岸で行われた「まさお君が行く!」番組収録の際、松本秀樹は崖下に落ちていったフリスビーを取ろうとして崖から落っこちてしまいます。
番組スタッフ達が慌てて現場へ向かおうとする中、誰よりも早く反応して松本秀樹の下へと駆けつけたのは、常日頃はなかなか言うことを聞かずに寝そべっている「まさお君」だったのです。
これがきっかけとなり、松本秀樹は「まさお君」に親愛と友情に近い感情を抱くようになり、コンビとして上手く機能するようになっていきます。
それに伴い、番組に寄せられる反応も、苦情やクレーマーじみたものから少しずつ好意的なものが混ざるようになっていき、番組開始から1年後には全国ネットでの放映が決定するにまで至りました。
そして、松本秀樹と「まさお君」の関係は、誰もが羨む理想のものとなっていくのですが……。

映画「LOVE まさお君が行く!」に登場する「まさお君」は、悪性リンパ腫により2006年12月9日に7歳で死去しています。
今作では、「まさお君が行く!」の番組スタートから「まさお君」が亡くなり次代の旅犬が「まさお君」の後継になるまでのエピソードが綴られており、作中ではギャグ要素も少なからず盛り込まれていたものの、基本的には感動物のストーリーとして描かれているわけです。
ただ正直、この映画でそれをやるのは、結果として少々間が悪かったのではないかと評さざるをえないところなんですよね。
現実世界で「まさお君」が亡くなった後にその後を継いで「ペット大集合!ポチたま」の顔となったのは、「まさお君」の末っ子の息子の「だいすけ君」で、彼もまた「まさお君」並の人気を博したのですが、その「だいすけ君」もまた、2011年11月29日に胃捻転による緊急手術後に容態が急変して死去してしまっています。
ところが、エンドロール後に出てくる映像では、須永里美がアパートの扉に「だいすけ君と旅をしています」という貼り紙を貼るシーンが映し出されているのです。
映画の収録時点では「だいすけ君」は生きていたでしょうから、このシーンも妥当なものではあったのでしょうが、映画が公開される時点では、「だいすけ君」が死んでいることは既に周知の事実であったはずでしょう。
「だいすけ君」の死の際にも、作中の「まさお君」の死の際と同様に多くの人達が献花のためにテレビ局を訪れ、その様子が特別番組としてテレビでも大々的に放映されていたのですから。
にもかかわらず、この映像をわざわざそのままにしておく、というのは正直理解に苦しまざるをえないところなのですが。
ちなみに、現在の旅犬は「まさお君」の母犬が産んだ「まさはる君」が3代目を襲名し、2012年6月6日にBSジャパンの番組「まさはる君が行く!ポチたまペットの旅」にてデビューを果たしています。
「だいすけ君」も亡くなってしまった今となっては、あのエンドロール後の映像は完全に削除するか、でなければラストの映像を差し替えて「まさお君とだいすけ君に哀悼の意を表します。現在はまさはる君と旅をしています」的なものにでも改めた方が良かったのではないかと思えてならないのですけどね。
それとも、実はこの後に今度は「だいすけ君」をモデルにした「LOVE だいすけ君が行く!」的な続編でも企画されていて、それにバトンタッチをする意味合いで、あの映像をあえてそのまま残していたりするのでしょうか?
続編構想が明確なものになっていない現状であの映像は、ファンにとってもかなりのミスマッチ感が否めないのではないかと。

それにしても、この手の犬やネコなどの動物(というかペット?)を扱う話では、必ずと言って良いほどに「動物の死とそれに直面する人間」というものが描かれますね。
去年観賞した映画「わさお」「星守る犬」「ロック ~わんこの島~」などでも、何らかの形で「犬の死」が描かれていましたし。
確かに現実問題として、人間よりも寿命が短い犬やネコは、人間側が不慮の事故等で早死にしない限りは人間よりも早く死ぬことが運命付けられているわけですから、そんな事態が起こること事態にはある種の必然性というものはあるでしょう。
犬猫好きが揃っている私の実家や親戚一家でも、飼い主に先立って様々な要因で他界していったペット達を少なからず看取ってきた歴史があるのですから。
しかし、映画作品でそういう要素を盛り込むのは、確かに涙なくしては語れない感動的な話にできるという側面もある一方で、爽快感を求める観客を遠ざけてしまうという諸刃の剣的な一面も多々あるのではないかと思うんですよね。
他ならぬ私自身、かつてはこの「動物の死」が必ず盛り込まれている構図がイヤだったことから、ペット物の映画作品を敬遠していたことがあるのですし、同じことを考える人は意外に少なくないのではないかなぁ、と。
「動物の死」を描くことなく動物を扱った作品を描くというのは決して不可能ではないと思うのですが、そういう作品がなかなか出ないのって一体何故なのでしょうかねぇ(-_-;;)。

ペット好きな人や番組および「まさお君」ら旅犬シリーズのファンの方々であれば、問題なく観賞できる作品だと思います。
実写版「こち亀」シリーズにおける香取慎吾のハイテンションなオーバーアクションぶりにドン引きしたという人でも、今作ならば問題なく観賞できそうな気がしなくもないのですが(^^;;)。

映画「スマグラー おまえの未来を運べ」感想(DVD観賞)

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映画「スマグラー おまえの未来を運べ」をレンタルDVDで観賞しました。
2011年10月に劇場公開された邦画作品で、月刊アフタヌーンの2000年5月号~8月号まで連載されていた真鍋昌平原作の同名漫画の実写映画化作品。
作中では殺し合いや拷問描写などが延々と続くこともあり、映画館ではPG-12指定されていました。

今作の主人公……のはずの砧涼介は、かつてとある劇団に所属して役者を志していたものの、劇団を辞めて今では自堕落な生活を送っているフリーター。
その自堕落な生活が災いし、彼は多額の借金を背負わされた挙句、その返済のために「スマグラー」という名の運び屋の仕事を強制的にやらされることとなります。
「スマグラー」は、ヤクザ同士の組織抗争の際に発生した死体などを、人の目の届かない場所に運んで処理をしたり、指定された場所まで運送したりする「非合法的な裏稼業」を主な生業とするグループです。
「スマグラー」の構成員は、「スマグラー」のリーダー格で凄腕のプロ的な雰囲気を醸し出している花園丈(通称「ジョー」)と、そのジョーの下で働く塚田マサコ(通称「ジジイ」)に砧涼介を加えた総計3名。
この「スマグラー」に、同じく裏家業の便利屋を営んでいる山岡有紀が運び屋の依頼をするという形で物語は進行していきます。

砧涼介の「スマグラー」での初仕事となったその日も、「田沼組」と呼ばれるヤクザの組長を含めた集団を襲撃し皆殺しにした中国人の凄腕殺し屋2人組の後始末をするよう依頼が舞い込んできていました。
輸送する荷物の中身をこっそりと確認し、刺青がびっしり入った死体と対面する羽目になってショックを受ける砧涼介。
しかし、既に多額の借金を背負っている身としては今更引き返すこともできず、彼は嫌々ながらも「スマグラー」としての仕事に従事することに。
人気の無い場所で死体を処理すべく移動し、やがて目的地に到着するという段になって、「スマグラー」に試練が訪れます。
不法投棄がないかパトロールしていた警官達に、ふとしたことから職質を受ける羽目になってしまったのです。
荷物の確認を行うから中身を見せろと迫る警官達に対し、懐から密かに銃を取り出し始末しようとするジョー。
しかし、そこで砧涼介の役者としての経験を生かした機転が功を奏し、警官達は荷物の中身を確認することなく、その場を後にするのでした。

一方、組長を殺されてしまった田沼組では、組長の仇を取らんと組織子飼いの組員達が気勢を上げていました。
彼らは死体処理を「スマグラー」に依頼していた山岡有紀の事務所に殴りこみをかけ、3日以内に組長を殺した下手人を捕らえろ、さもなければ……と脅迫するのでした。
仕方なく山岡有紀は、下手人である中国人殺し屋の2人組である「背骨」と「内臓」を捕縛すべく作戦を展開。
2人が所属する中国系マフィア「死海幇」の構成員で、砧涼介を借金地獄に陥れた元凶でもある張福儀の協力を得、2人に毒を飲ませると共に仲間割れさせることに成功します。
結果、「内臓」は死亡し、「背骨」も捕縛されることに。
そして山岡有紀は、2人の護送を当然のごとく「スマグラー」に依頼するのでした。
護送する際に何故か一緒に乗り込んできた組長の妻・田沼ちはるも同乗する形で、「スマグラー」は運び屋としての仕事を始めることになるのですが……。

映画「スマグラー おまえの未来を運べ」は、とにかく最初から最後までバイオレンスな描写のオンパレードですね。
「背骨」と「内臓」の殺し屋2人組が田沼組を壊滅させるところから始まり、「背骨」と「内臓」の仲間割れ、田沼組組員の拷問描写と、バイオレンスな描写が満載です。
特に、自らの失態から「背骨」を逃がしてしまった砧涼介が「背骨」の身代わりとして田沼組に引き渡され、拷問されるシーンに至っては、物語後半のかなりの時間を割いて延々と描写されていました。
色々とカメラアングルを駆使して具体的な描写ははっきりと映し出していなかったとはいえ、よくもまあPG-12指定で済んだよなぁ、と逆に感心させられてしまったところでした。
また、作中では「伝説の殺し屋」と称されている「背骨」の強さがおよそ尋常なものではなかったですね。
いくら奇襲をかけたからとはいえ、田沼組と死海幇という2つの裏稼業組織を1人で壊滅させてしまっていますし(前者の際は「内臓」も一緒でしたが、「内臓」は「背骨」のサポートに徹していてあまり目立っていませんでした)、物語終盤でマシンガンを持ったジョーと対峙した際には、マシンガンの弾を微速度撮影のごとき驚異的な動作で全てかわしきっていました。
殺し屋なのですから、人間を一瞬で殺せる技能自体は持ち合わせているにしても、至近距離でぶっ放されるマシンガン相手にあの動きというのは、さすがに人間の領域を超越しているとしか評しようがないのではないかと(苦笑)。

人間ドラマ的に見ると、主人公であるはずの砧涼介を、言葉が荒く無愛想な花園丈ことジョーが食ってしまっているような感がありありでしたね。
カッコ良さから言えば、ラストくらいしか見せ場がない砧涼介よりも、山岡有紀や田沼ちはるとの駆け引きじみた会話を何度も展開している上に「背骨」との対決シーンもあるジョーの方に圧倒的な軍配が上がりますし。
また、物語後半に砧涼介を延々と拷問にかける田沼組の組員・河島精二も、拷問役としてはなかなかに良い味を出していました。
拷問を進める過程でわざわざ服装を変えてきたり、拷問行為自体にエクスタシーを感じたりする「壊れたキャラクター」ぶりを完璧に演じきっていましたし。
他にも、実は組長殺しの元凶でもあり常に冷徹な態度を崩さないながらも、誰も見ていないところで素の自分を見せる田沼ちはるや、悪人であるが故に逆に信用できるとジョーが評価する山岡有紀など、映画「スマグラー」の登場人物は「悪であるが故の魅力」というものを前面に出しているキャラクターばかりですね。
だからこそ、主人公である砧涼介がそれらに埋もれて目立たなかったりもするのですが。
彼にもラストには一応見せ場もあるのですが、どうにも今ひとつな感がねぇ……。

日本映画では結構珍しいバイオレンス作品なので、観る人が観たら結構楽しめるのではないかと思います。

映画「アントキノイノチ」感想(DVD観賞)

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映画「アントキノイノチ」をレンタルDVDで観賞しました。
2011年11月に劇場公開された邦画作品で、歌手として有名なさだまさし原作の同名小説を実写映画化した、岡田将生・榮倉奈々主演の人間ドラマ。
あの銀英伝舞台版第一章でラインハルトを演じた松坂桃李も、主人公の高校時代に重要な役として登場しています。
2012年6月9日および10日は、当初観賞を予定していた映画が既に試写会で視聴済みの「幸せへのキセキ」1作品しかなかったため、久々に映画を観賞しない週末を迎える羽目になってしまいました(T_T)。
そんなわけで、久々に手持ち無沙汰となってしまった私は、せっかくの機会だからということで、去年観賞し損なっていた映画をいくつかレンタルDVDで観賞することにしたわけです。
まあ、今年の私の映画観賞総本数は、過去最高を記録した2011年の65本をすら上回るのが既に確実な情勢となっていますし、たまにはこういう週があっても良いのでしょうけどね。

映画「アントキノイノチ」の冒頭は、裸で屋根に上っているひとりの青年の姿が映し出されるところから始まります。
高校の制服をズタズタに切り裂き、「僕は二度、親友を殺した」という意味深なモノローグが語られたかと思えば、舞台はそれから3年後にあっさり移ることになります。
その当時、この青年こと主人公の永島杏平に一体何があったのかは、その後の物語の進行と共に語られていくことになります。
3年後に舞台が移り、永島杏平は父親の勧めで遺品整理業を営む「クーパーズ」という職場を紹介され、そこで働くことになります。
遺品整理業とは、不慮の事故や突然死などで亡くなった人の部屋を片付け、貴重品や遺品などを保管する仕事のことを指します。
永島杏平が「クーパーズ」に入社して最初の仕事は、死後1ヶ月も経過して遺体が発見された孤独死の老人の部屋を片付けるというものでした。
孤独死から1ヶ月にわたって遺体が放置されていたこともあり、遺体があったと思しきベッドは遺体から流れ出た大量の体液で汚れており、また部屋の至るところに遺体を貪っていたであろう蛆虫の死骸が散乱しているような状態でした。
最初は誰もが怖気づき、最悪はその場で辞めていくと「クーパーズ」の先輩社員である佐相(さそう)は永島杏平に話しかけるのですが、しかし永島杏平は特に何も語ることなく淡々と仕事に従事していきます。
永島杏平の様子に感心した佐相は、比較的年齢の近い久保田ゆきという先輩社員から仕事を教わるよう、永島杏平に指示を出します。
初めての仕事で右も左も分からない永島杏平に、久保田ゆき淡々と、しかし丁寧に仕事のやり方を教えていくのでした。
しかし、過去の精神的外傷が原因なのか、話しかけられてもロクに返事すらも返すことが無い永島杏平。
そのことを心配した佐相は、久保田ゆきに金を渡して永島杏平と「飲みニケーション」をするよう伝えます。
そして久保田ゆきと「飲みニケーション」をすることになった永島杏平は、それがきっかけとなって久保田ゆきと気軽に話し合える仲になっていくのでした
久保田ゆきのことが気になりつつ、遺品整理業を続けていく過程で、永島杏平は自身と久保田ゆきのそれぞれの過去と向き合っていくことになるのですが……。

映画「アントキノイノチ」は、主人公・ヒロイン共に凄惨な過去を持ち、精神的な外傷を抱え込んでいるような状態にあります。
永島杏平は、高校時代にイジメに遭っていた親友・山木信夫の自殺に直面した上、イジメの元凶であった同級生の松井新太郎を二度にわたって殺そうとした過去に苦しめられ続けていました。
一方、久保田ゆきは、高校時代にレイプされた上に妊娠してしまい、レイプ犯からも親からも罵られた挙句に流産してしまったことから、重度の男性恐怖症と絶望感を抱え込むようになっていました。
序盤の2人は、遺品整理業に何かの意義を見出していたというよりも、とにかく何でも良いから作業に没頭することで、過去のトラウマから逃避したかっただけなのではないかと思える一面を覗かせていました。
ただ何となく生きていただけ、そんな感じが漂いまくっていたんですよね。
しかし、遺品整理業の仕事を進めていく中、故人の遺族に遺品を渡したことで感謝されたことから、まずは永島杏平に転機が訪れます。
これ以降、彼は明らかに遺品整理の仕事に積極的になっていきましたし、そればかりか遺族にわざわざお節介をかけるほどに精神的な回復が見られたのですから。
あの時初めて彼は、自身の生きる意義を見出すことができたのではないでしょうか。

むしろ物語中盤以降は、序盤はまだ普通に見えていた久保田ゆきの落ち込みぶりが半端ではなかったですね。
男性恐怖症を克服するために永島杏平とセックスに及ぼうとして果たせなかったり、死んだ子供の部屋の遺品整理をしている最中に過去のトラウマが蘇り「クーパーズ」を辞めてしまったり。
作中の描写を見る限り、久保田ゆきは自身がレイプされたことよりも、胎児が流産してしまったことの方を気にしていたようで、また、そのことでトラウマを抱え込んでいるにもかかわらず、そのことが忘れられずに苦しんでいる感じでした。
これに対し、永島杏平は「それでも君は生きている」「その胎児の生命が君の負担を背負って亡くなったからこそ、今の君がここにいる」という主張で励ますのです。
これが、映画のテーマにもなっている「あの時の命」の意味であり、それを早口で何度も言った際のなまりが、そのまま映画のタイトルにもなっているわけですね。
ただ、その際に何故か「アントニオ猪木」のネタが出てきたのは、ご愛嬌なのかギャグなのか判断に苦しむところがあるのですが(苦笑)。

しかし、これで主人公とヒロインが意気投合して結ばれる明るい未来が待っているのかと思いきや、物語は全く意外な方向へと向かいます。
「クーパーズ」を辞めた後に介護施設で働いていた久保田ゆきが、介護老人を見舞いに来たらしい子供を庇い、猛スピードで突っ込んできたトラックに跳ねられそのまま死んでしまうのです。
何の伏線もなく唐突だった上、久保田ゆきが永島杏平の説得で立ち直っていく過程が描かれていただけに、あまりにも意外過ぎる展開に驚かずにはいられませんでしたね。
庇われた子供は全くの無傷だったので、てっきり久保田ゆきも重症ながら生きているのでないかと最初は考えていたのですが、永島杏平と佐相の2人が「クーパーズ」の仕事として久保田ゆきの遺品整理を始めたことで、否応なく死の事実が明示されていましたし。
作者ないし映画製作者側の意図としては、生命のリレーによって人は生きている、という「アントキノイノチ」の摂理を、不条理な現実と共に観客に突きつける意図があったのでしょう。
ただ、「アントキノイノチ」の論理は既に久保田ゆきの過去話によって示されていたのですから、その上さらに追加でヒロインを死なせてしまう必要はすくなくともストーリー的な必然性の面ではなかったのではないか、とは思えてならなかったですね。
お腹の中の子が死んだことで久保田ゆきがここにいる、という「アントキノイノチ」の論理をまた再現したいのであれば、むしろ永島杏平と久保田ゆきを結婚させ、2人の間に子供を生ませるという結末に持っていくという形にしても「その子供は2人の親の存在があったからこの世に誕生しえた」という論法で充分に達成可能なわけですし。
全くの意外性と不条理な現実を突きつける、という点では効果のある演出だったと思うのですが、作品的には「ハッピーエンドになり損ねた」という点でややマイナスな部分が否めない、といったところでしょうか。

生命の絆的なテーマを盛り込んだ人間ドラマ作品を観たい、という方にオススメの作品となるでしょうか。

映画「外事警察 その男に騙されるな」感想

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映画「外事警察 その男に騙されるな」観に行ってきました。
麻生幾の同名小説を原作とする、あまり知られていない日本の警視庁公安部外事課(通称「外事警察」)にスポットを当てたサスペンス作品。
今作は2009年にNHKで放映された人気ドラマシリーズの続編となる作品ですが、作品自体は単独でも問題なく観賞できる仕様になっております。
ただ、主人公を取り巻く人間関係が少しばかり複雑なので、その辺りのことについてまで網羅したい方は、NHKドラマ版を事前に復習しておいた方が良いかもしれません。
ちなみに、私はドラマ版未視聴で今作に臨んでいます(^^;;)。

物語は、血まみれの白い服を纏い、右手に1枚の古びた写真を持つ女性が、クルマが1台も走っていない自動車道路?の大橋で倒れこみ、警察に保護されるところから始まります。
警察官が韓国語をしゃべり、女性が日本語で「韓国語は理解できない」と応対していることから、今いる国とそれぞれの立場が判明します。
この描写は実は物語終盤の展開に繋がるものであり、この場面自体はすぐに他の場面に切り替わることとなります。

次の場面は韓国の国境線。
韓国政府は北朝鮮を国家として承認していないため、韓国の公式見解による「韓国の国境線」というと実は中国と北朝鮮の国境線がそれに該当することになるのですが、今作の場合はどう見ても北朝鮮と接する38度線のことでしょうね。
作中では「北朝鮮」とは明示されず、「あの国」「朝鮮半島」という曖昧な表現に終始していますが。
その国境線にて、「あの国」から濃縮ウランを獲得してきた工作員らしき男の存在と、その男を待ちかまえつつ、取引をしようとする男を殺して濃縮ウランと共にその場を立ち去る大物らしき人物が描写されます。
同じ頃、東日本大震災で混乱する日本の東北地方にある陸奥大学で、核爆弾の小型化を可能とするレーザー起爆装置に関するハードディスクが盗まれるという事件が発生。
日本と「朝鮮半島」で起こった2つの事件に関連性があると判断した、「日本のCIA」と呼ばれる警視庁公安部外事課は、今作というよりドラマ版からの主人公であり「公安の魔物」と恐れられた住本健司に調査を命じることになります。
住本はまず、元在日二世で「朝鮮半島」に渡航して核開発に携り、現在は韓国に亡命していたらしい徐昌義を確保し、最高水準の医療と警備体制をつけて日本の施設に移送します。
次に彼は、震災に乗じて日本国内で蠢いている工作員の洗い出しに着手。
その結果、元韓国人で日本人女性と結婚し日本国籍を取得して「奥田交易」という企業を営んでいる金正秀(日本名:奥田正秀)という人物が浮上します。
そこで住本は、金正秀と結婚している日本人女性の奥田果織に目をつけ、彼女を「協力者」として利用することを考えるのでした。
部下である松沢陽菜を使って奥田果織に接触し、とあるアパート?の一室に誘い込んだ住本は、説得と脅しの話術を巧みに駆使することで、奥田果織に夫のことを探らせる「協力者」に仕立て上げることに成功するのですが……。

映画「外事警察 その男に騙されるな」では、主人公・住本健司の性格設定がなかなかに複雑な様相を呈していますね。
一見すると穏やかなイメージがあり、人の心の痛みが理解できる優しい人物像を思い描きがちなのですが、要所要所では脅しや騙しの手練手管を躊躇なく駆使して手段を選ばず目的を達成する一面も併せ持っています。
妙に誠実そうな対応をしたかと思えば、自分の命令を有無をも言わさず実行させるような一面も見せたりしていますし。
作中でも色々な「顔」をその時々に応じて使い分けている感があり、その正確な人物像を特定するのが非常に難しいですね。
その辺りが「公安の魔物」という異名を冠されている部分でもあるのでしょう。
この異名にふさわしい「魔物」ぶりが今作で最大限に発揮されたのは、物語の終盤で韓国に潜んでいるテロリストグループが殲滅された後、小型核爆弾を製造した徐昌義と対峙した場面ですね。
徐昌義には、かつて「朝鮮半島」へと渡った際、日本に妻子を残しており、妻は自殺、娘は消息を絶って「死亡判定」が出ている状態でした。
しかし住本は、娘が韓国人に誘拐されて娘を取り戻すべく必死になっている奥田果織に対し、奥田果織こそが徐昌義の娘であるとDNA判定による親子証明書で証明してのけ、さらには「金正秀も彼女の正体を知っていて、徐昌義に対する人質として偽装結婚をしていた」などという非常に説得力のある論法まで提示することで、徐昌義と奥田果織の「親子対決」を現出させていました。
ところが物語のラストでは、住本が提示していた親子証明書は全くの偽物であり、「否定」の判定が下っていた本物の証明書が焼き捨てられるシーンが描写されていたのです。
しかも、住本はその場にカネを置いていくのですが、それを受け取ったのが何と奥田果織の娘を誘拐した韓国人だったというオチ。
奥田果織が「あの人と私が親子って、実は嘘でしょ?」と発言してあのシーンが出てくるまで、観客の多くが「住本が言っていることは事実である」「住本は奥田果織とその娘のことを本気で案じている」と考えていたのではないでしょうか?
かくいう私自身、これにはすっかり騙されたクチでしたし(^^;;)。
この辺りは、キャラクターの演技でも演出面でも「見せ方」が本当に上手い、と感心せざるをえなかったですね。

ただ、奥田果織が住本の策謀に気づいていたことを考えると、もう一方の当事者である徐昌義もまた同じく「住本の騙し」であると直感していた可能性は極めて濃厚ですね。
あの老人、物語の中盤頃でも住本の「公安が人を騙す目」に気づいていましたし、「娘の所在が分かった」という嘘自体もあの時点で二度目でしたからねぇ。
それでもあえてあの老人が住本と奥田果織を相手にしていたのは、「核爆弾起爆を止めることはできない」という勝者の余裕もあったのでしょうが、死んだ妻と行方不明の娘に対する懺悔的なものでも告白する意図があったのではないでしょうか?
既に末期ガンなり核爆弾起爆なり、あるいは今現在の対面相手に殺されるなりで自分の死も確定していたわけですし、死ぬ前の余興としてあえて住本の策に乗って長々と会話を交わしていた、というのがあの老人の考えだったのではないかと。
そして、結局核爆弾起爆の解除パスワードを明かすことなく自殺することで、自身の最後の矜持だけは守り抜いてみせたのでしょう。
そう考えると、あの場に居合わせた三者全てが桁外れの傑物だったと言わざるをえないところですね。
まあ、徐昌義が実際にどんなことを考えていたのかは、当の本人にしか分からないことではあるのですが。

「日本のCIA」こと警視庁公安部外事課というのは、これまでロクにスポットが当てられてこなかった部署ではありますが、こういう作品を観ると「公安というのも色々言われているけど、やはり【必要悪】ではあるよなぁ」とは思わずにいられませんね。
実際、彼らが水際で日本におけるテロ行為を阻止&抑止しているという側面は当然あるのですし。
もちろん、「毒をもって毒を制す」的な一面もありますし、その毒が悪い方向に作用しないよう注意・監視する必要も当然ありますが、単純に「絶対悪」として全否定するのもまた違うでしょう。
公安の仕事の実態にスポットを当てすぎるのもまた良くない副作用があるのでしょうが、たまにはこういう作品で公安の実態と素顔を「理解する」というのも必要なのではないかと。
公安に対する批判の中には、「何のためにあるのか分からないから不気味である、だから排除すべき」などという「無知から来る自己防衛」的な心理も間違いなく存在するのですから。

人間同士による謀略・駆け引き・騙し合いといったサスペンス物が好きという方には、今作はイチオシの映画なのではないかと思います。

映画「ファイナル・ジャッジメント」感想

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映画「ファイナル・ジャッジメント」観に行ってきました。
宗教団体である「幸福の科学」の大川隆法が製作総指揮を手掛ける、近未来の日本を舞台に繰り広げられる近未来予言?作品。
元々「幸福の科学」が主催しているということもあり、「宗教的な要素が色濃い映画なのだろう」とある程度構えて観賞してはいましたが、まさかこれほどのものとは……。

1996年。
どう見ても中国がモデルとしか思えないオウラン国によって併合された旧南アジア共和国(現在はオウラン国南アジア自治区)で、父親・母親・娘で構成される1組3人の家族が宗教的な挨拶と共に一家団欒の食事を始めようとしていました。
そこへ、お約束のようにドアを蹴り破って集団で押し入ってくるオウラン国の人民軍兵士達。
オウラン国では宗教活動が全面的に禁止されており、それに反した者は国家反逆罪として処刑されることになっていました。
家に押し入った人民軍の長らしき人物は、家にいた幼女に祈りの言葉をしゃべらせると、幼女を自分で連れて行き、父親と母親を部下に連行させるのでした。

時もところも変わった2009年の日本。
元商社マンとしてオウラン国に赴任した際、オウラン国の軍事力膨張と勢力伸張に危機感を覚えた今作の主人公である鷲尾正悟(わしおしょうご)は、友人の中岸憲三(なかぎしけんぞう)と共に未来維新党を結成し、当時行われた衆議院総選挙に立候補し日本の危機を訴えました。
ところが選挙では、選挙カーで演説する鷲尾正悟に耳を傾ける者はほとんどおらず、敗色濃厚な気配が漂います。
誰も聞いていない中で演説を続けることに空しさを覚えずにいられなかった鷲尾正悟がふと空を見上げた時、何故か空から金色の羽が舞い降りてきます。
しかし、その金色の羽は鷲尾正悟にしか見えないものだったらしく、呆然としていると勘違いされた中岸憲三の注意で我に返った鷲尾正悟は、再び誰も聞いていない選挙演説に戻っていくのでした。
しかし、そんな鷲尾正悟の選挙活動に感動したひとりの女性が、鷲尾正悟の選挙スタッフに協力を申し出てきました。
彼女の名はリンといい、鷲尾正悟が声を大にして脅威を主張するオウラン国の人間でした。
彼女はそのまま、鷲尾正悟の選挙スタッフの一員に加わることとなります。
しかし、そんな努力の甲斐もなく、その夜の選挙速報では鷲尾正悟の落選があっさりと確定してしまったのでした。
ちなみに選挙で勝利したのは、これまたあからさまに民主党がモデルであることが分かる民友党という名の政党です。
作中で放送されていたTVニュースのテロップにも、「政権交代」という文字がデカデカと書かれていましたし(苦笑)。
選挙後の民友党が、憲法9条を掲げて軍備撤廃・日米安保破棄を唱え聴衆から拍手喝采を受けていたり、オウラン国に沖縄の領土宣言をされて「遺憾の意」を表明しまくったりしている描写などは、もう現実に対する皮肉であるようにしか思えないところが何とも……。
一方、選挙で落選した鷲尾正悟は、選挙戦の際に出会ったリンと親しい関係となり、2人で新田神社の祭りでデートに興じたりするのでした。

それからさらに数年後。
いつもの平和な東京渋谷に、突如として大量の軍用機とヘリが現れ飛び交う光景が多くの人に目撃されます。
多くの人々が呆然とそれを見守る中、やがてTVにひとりの人物が映し出されます。
その人物はラオ・ポルトと名乗り、オウラン国が日本を占領し、オウラン国極東省としてオウラン国の支配下に入ったことを高らかに告げるのでした。
口ではオウラン国人民としての共存を主張しつつ、日本文化の完全破壊に勤しんだり、夜間外出禁止令を発動したりして圧政を布くオウラン国。
そんな中、鷲尾正悟は、オウラン国によって弾圧された各種の宗教団体の信者達を匿うレジスタンス地下組織「ROLE(Religious Organization for Liberty of the Earth、ロール)」という組織の存在を親友達から聞き、組織と合流することとなるのですが……。

映画「ファイナル・ジャッジメント」は、物語が進めば進むほどにツッコミどころがどんどん増えていく構成ですね。
特に物語後半などは、描写が切り替わる毎にいちいちツッコミを入れなければならないほどの超展開だらけでしたし。
一番大きなツッコミどころは、一般人に情け容赦なく殴る蹴るの暴行を働きまくる悪逆非道な集団として描かれているオウラン国人民軍が、作中では何故かロクに発砲する描写がないことにあるでしょうか。
オウラン国人民軍は必ずと言って良いほど銃を携帯しているのに、作中ではもっぱら殴打用の武器として使用される傾向の方が圧倒的に多く、銃を発砲すること自体がほとんどありませんでした。
映画全体で見ても、敵味方問わず銃から発射された銃弾の総数は50発にも到達していないのではないでしょうか?
主人公が乗車するクルマとの間で繰り広げられたカーチェイスの場面でも、別にオウラン国の要人が乗っているわけでもないクルマに対してすら、オウラン国人民軍はせいぜい2~3発発砲した程度でしかありませんでしたし。
さらには、物語のラストで主人公が選挙カーの上に立ってほとんど無防備の状態で演説を始めた際にも、オウラン国人民軍はただの1発も銃弾を発射することすらなく、バカ正直に主人公の演説に聞き入っているありさまでした。
銃の発砲自体が法的な制約からほとんど行えない状態にある日本の警察や自衛隊などではあるまいし、オウラン国人民軍が発砲を躊躇しなければならない理由などどこにもないはずなのですけどね。
占領国の住民が集まっている衆人環視の中で、無抵抗な人間に対しこれ見よがしに集団リンチを繰り広げて平然としているような軍隊が、一般人どころかレジスタンスの類に対してすら発砲を自重しているというのは大きな矛盾なのではないかと思うのですが。
ラストの演説シーンなんて、人民軍兵士の1人が、主人公にただ1発銃を発砲しただけで、反乱分子の要を完全に潰すことができたはずなのですけどねぇ。

また、物語中盤で主人公が瞑想し、悪魔との戦いを経て悟りを開く部分でも、多少どころではない違和感を覚えずにはいられませんでした。
瞑想の最中、悪魔は主人公の父親で故人となっている鷲尾哲山(わしおてつざん)に化け、主人公に宗教の無意味さと「争いを続ける人間のサガ」を説くのですが、主人公は「本当の父親ならば絶対に言わないであろう言動」から悪魔の正体を見破り反撃に転じています。
それは良いのですが、実はこの場面で主人公は、悪魔の主張について何ら反論を提示することすらなく、ただオカルティックな攻撃で悪魔を撃退しているだけでしかないのです。
悪魔の主張はこれこれこういう形で間違っている、宗教にはこれだけの偉大な可能性があるんだといった反論を展開して悪魔を追い詰める、という形では全くないんですよね。
作中のような展開では、悪魔の正論に正面切って反論できなかった主人公が、論点を逸らして悪魔を力づくかつ物理的に撃退しただけのようにしか見えません。
あの場面で本当に撃退すべきだったのは、「悪魔の存在」それ自体ではなく「悪魔の主張」の方だったはずなのに。
あんなやり方で「悟りを開いた」「神と一体化して奇跡が行使できるようになった」などと言われても、それって軍事力にものを言わせて周辺諸国への侵略を繰り広げるオウラン国のやり方と何も変わらないのでは、としか評しようがないところなのですけどね。

まあ作中では、その悪魔に対する反論部分に相当するものが全くないというわけではなく、作品的には物語のラストで繰り広げられる主人公の街頭演説こそがそれに当たると言いたいところなのでしょう。
しかしあの演説って、「人を憎むのは止め、自分の行いを反省しましょう」などという、あまりにも素朴過ぎるが故に政治的には現実離れした理想論を唱えているだけでしかなく、悪魔の現実に裏打ちされた主義主張には到底対抗しえるものなどではないんですよね。
あんな程度の理想論で世界が変わるのであれば、とっくの昔に世界から争いなど無くなっているでしょうに。
日本国内限定で通用するのか否かすらも怪しいレベルの個人的道徳観程度の演説を披露するだけで「世界が変わる」「オウラン国の独裁体制が崩壊する」などという世界的な変革が起こしえるなど、それこそ3流カルト宗教の妄言レベルなシロモノでしかないのですが。
オウラン国のあまりにも手緩い対応と併せ、露骨過ぎるまでの超御都合主義以外の何物にも見えはしませんでしたね、この部分は。

この映画、特にラスト30分はトンデモ描写のオンパレードで、いちいちツッコミを入れたり笑いを堪えたりしながら観る羽目になりましたよ、私は。
宗教映画であることを差し引いて考えてさえ、あまりにも御都合主義に満ち溢れ過ぎていて、普通に観賞して素直に楽しむなど不可能でしたし。
同じ宗教観を前面に出した映画でも、「ザ・ウォーカー」「ヒアアフター」などは普通に楽しめましたし、共感できる部分もあったのですけどねぇ。
まあ「ツリー・オブ・ライフ」などのように、前衛芸術ばかり前面に出しまくって何を主張したいのかすらも分からないような宗教映画よりはまだマシではあるのですが、最下級クラスの作品と比較しても不毛なだけですからねぇ(爆)。
よほどに宗教が大好きという人以外は、作中で展開されるトンデモ描写の数々を「笑いのネタ」として割り切って楽しめるという人くらいにしかオススメのしようがないですね、今作は。

映画「宇宙兄弟」感想

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映画「宇宙兄弟」観に行ってきました。
小山宙哉による週刊漫画雑誌「モーニング」で連載中の同名マンガを実写映画化した作品。

全ての発端となるのは2006年7月9日。
この日の夜、兄の六太(むった)と弟の日々人(ひびと)の南波兄弟は、録音機器を持ってカエルの生態の調査を行っていました。
カエルの鳴き声をナレーション混じりに録音している最中、2人は突如空を怪しげな機動を描いて飛ぶ謎の飛行物体を目撃します。
どう見ても地球上の飛行機やヘリなどではありえない機動で飛び回った謎の飛行物体は、ひとしきり南波兄弟の目の前で飛び回った後、空に浮かんでいた月に向かって消えていってしまいました。
半ば呆然とその様相を眺めていた2人でしたが、しばらくして弟である日々人が沈黙を破ります。
「俺、大人になったら宇宙飛行士になるんだ!」という言葉と共に。
さらに日々人は兄に対してもどうするのかと尋ね、兄がそれに答えようとしたところで舞台は暗転、時代は2025年へと移ることとなります。

UFOを目撃したあの日から19年後、南波兄弟はそれぞれ異なる道を歩んでいました。
弟の日々人は、あの日宣言した夢を見事に叶え、日本人初となる月面着陸者という栄誉と共にマスコミの注目を集める宇宙飛行士に。
そして、今作の主人公となる兄の六太は、自動車会社で車のデザイン設計を担う仕事に従事する日々を送っていました。
ところが六太は、マスコミで弟のことが話題に上がる中、その弟のことを腐しまくっていた会社の専務に激怒して頭突きをかましてしまい、その場でクビを言い渡されてしまうことに。
無職になってしまった六太は、再就職するべく何十件もの会社へ面接に挑むのですが、辞めた経緯と年齢の問題も相まってなかなか再就職が決まりません。
この辺りは、「2025年の日本も今と同じ不況の渦中にあるのか?」とついつい疑いたくなってしまうところですが、そんなある日、実家暮らしをしている六太の下に、自分が応募した覚えのない宇宙航空研究開発機構(JAXA)の書類選考を通過したとの知らせが届きます。
JAXAは弟である日々人の職場でもあることから、六太は当然のごとく弟の関与を疑います。
現在は月面着陸の宇宙航行のためにアメリカへ飛んでいる弟に電話してみると、やはり兄も自分と一緒に宇宙飛行士になって欲しいという弟の画策によるものでした。
日々人の進めに最初は渋る六太でしたが、日々人は「忘れたのかよ、あの約束」という言葉と共に、冒頭の2006年7月9日の録音テープを聞くよう兄に催促します。
家の中から録音テープを探し出して耳を傾けた六太が聞いたのは、他ならぬ自分自身が弟に対して宣言した「俺も宇宙飛行士になる」「2人で一緒に宇宙へ行こう!」という言葉だったのです。
今更ながらに昔のことを思い出した六太は、おりしも就職がなかなか決まらないことも手伝い、実に5年ぶりの募集となるらしいJAXAの採用試験を受けてみようと決意するのですが……。

映画「宇宙兄弟」のストーリー展開は結構「地味」なところがありますね。
アクションシーンなどの派手かつ奇抜な描写は一切なく、唯一見栄えのする描写と言えば、月面に向けて発射されるシャトル?のシーンくらい。
物語の核自体が「『兄弟2人で一緒に宇宙飛行士になる』という夢の実現」と「六太のJAXA試験行程」で構成されているので、派手なシーンなどそもそも登場させようもないのですが。
ただ、人間ドラマとしての出来はまずまずのものでしたし、また作中では、実際にアポロ11号の乗組員でニール・アームストロング船長と共に最初に月に降り立ったバズ・オルドリンが「本人役」として友情出演していたりします。
彼は、月に向かう日々人を見送りに来ていたものの、日々人が飼っていたペットであるブルドック犬のアポを追いかけているうちに道に迷った六太に対し、発射するシャトルを一望できる見晴らしの良い場を提供すると共に、宇宙飛行士になるか否かで迷っている六太の背を押す重要な役割を果たしています。
バズ・オルドリンはあくまでも元宇宙飛行士であり俳優ではなかったはずですが、その演技は他の出演者と比べても決して劣るものではなかったですね。
そのバズ・オルドリンと六太が出会った旧施設をはじめとするNASA関連の建造物なども、実在の施設にまで直接赴き撮影したものなのだとか。
この辺りは、映画製作者達のこだわりが伝わってくるところですね。

物語後半になると、JAXAの二次選考を通過した6人が受けることとなる最終試験の描写がメインとなります。
この最終試験は、宇宙での実験場兼居住環境を模した閉鎖空間に、二次選考通過者全員を10日間押し込めた状態での適性を見るためのもの。
その間、様々な課題をこなしたり、その日の日誌を書かせたりして、ストレスの溜まり具合などを見ていくわけです。
驚いたのは、2チームに分かれて宇宙基地の模型作成を数日かけて行う課題を遂行していく途中で、アトランダムに選抜した人物に「グリーンカード」なるものを手渡し、自分のチームの模型を破壊するよう指示するミッションがあったこと。
「グリーンカード」を渡された人間がそのことを話すと即失格となるため、試験遂行中は「グリーンカード」およびその内容についてしゃべることができません。
「グリーンカード」を渡した人間には秘密を抱え込ませた状態に、それ以外の人達には6人の中で誰が悪いのか疑心暗鬼にする状態にそれぞれ陥れさせ、さらなる極限状態を現出させるわけです。
これは宇宙空間における事故などを想定して行うテストのようで、そういう状態でも冷静に判断したり場を収めるための能力を問うているわけです。
かかっているのは試験の成否なのですから、やられた方もやった方も確かに凄いストレスになるでしょうね。

ただ、これは今回だけのアクシデントだったのですが、月に行った日々人が月面で事故を起こし安否が不明になったからといって、最終試験の最中に試験官達が六太にそれを教えるという対応は正直どうかと思いました。
明らかに試験内容とは全く関係のないことでしたし、そもそもあの時点ではまだ安否が知れなかっただけで「日々人の死」まで確認されていたわけではなかったのですから、最終試験およびその後の最終面接が終わった後にそのことを伝えても決して遅くはなかったはずでしょう。
時期的に見ても最終試験のちょうど最終日で、しかも終わるまであと少しという段階だったのですからなおのこと。
仮に試験の一環としてアレを仕込んだとしても、「グリーンカード」の件と違って六太にだけ圧倒的なハンデが課せられることとなってしまうわけで、「試験の公正性」という観点から言っても問題があり過ぎるでしょう。
確かに物語的には、その逆境を乗り越えて主人公が魅せる、という盛り上がりがあるわけですが、試験官達の言動自体は、新人の採用を審査する試験官としては完全に失格であると言わざるをえません。
作中の描写を見る限りでは、試験官達も「試験の課題」とかではなく本当の善意から六太に凶報を伝えていたようなのですが(「この件で試験を途中で降りても合否には影響しない」とまで言っていたわけですし)、事件のことを伝えるにしてももう少し待てなかったのか、とツッコミを入れずにいられなかったところですね。

アクションやSFXを売りにしている映画ではありませんが、人間ドラマ作品としては比較的万人受けしやすい部類に入る、とは言えるのではないでしょうか。

映画「HOME 愛しの座敷わらし」感想

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映画「HOME 愛しの座敷わらし」観に行ってきました。
荻原浩の同名小説を原作とした、劇場版「相棒」シリーズの和泉聖治監督と水谷豊主演で送る、家族の再生物語。

物語のメイン舞台となるのは東北地方の岩手県。
その片田舎にある一軒の民家に、一組の家族が東京から引っ越してきました。
TOYOTAのミニバン「NOAH」に乗ってやってきたその家族・高橋家一同の前に姿を現した民家は、何と築200年を数えるという、「和製ログハウス」という名の今時珍しい藁葺き家でした。
トイレは水洗ではなくポットン便所ですし、風呂もガスではなく薪をくべて湯を沸かす五右衛門風呂というありさま。
あまりにも古めかし過ぎる家に、家を選んだ主人以外の家族は当然のごとく不満タラタラです。
しかし、一家5人が暮らすには充分なだけの広さがあり、また支払う家賃が3分の1で済むとの主人の説明で、その場は皆渋々ながらも納得せざるをえなかったのでした。

引っ越してきた高橋家は、両親に長女(姉)と長男(弟)、それに祖母の5人家族。
この5人は、それぞれ少なからぬ問題を抱え込んでいました。
勤め先の会社である「日栄フーズ」で、東京本社から岩手の盛岡支社への転勤を命じられた、一家の主人にして今作の主人公でもある、水谷豊演じる高橋晃一。
東京生まれの東京育ちなことから、主人の地方転勤に戸惑いを隠せず、一家を支えつつ慣れない近所付き合いに悪戦苦闘を強いられる、専業主婦の高橋史子。
中学3年生の長女で、父親に反感を抱き、前の学校で少なからぬ人間関係で苦しめられていた高橋梓美。
小学5年生の長男で、喘息の持病を持つために母親からスポーツを止められている高橋智也。
そして最近、認知症の症状が出始めつつある祖母の高橋澄代。
それぞれがそれぞれに問題を抱えているところに今回の引っ越しが重なったこともあり、新住居での新生活も最初は当然のことながら全く上手くいきません。
それに加えて、新生活を始めた直後から、誰もいないのに囲炉裏の自在鉤が勝手に動いたり物音が聞こえたりするポルターガイストや、掃除機のコンセントが勝手に抜けるなどの現象が確認されるようになりました。
さらには、後ろには誰もいないのに手鏡を見ると何故か映っている謎の幼女。
最初は気のせいだと思っていた個々の家族達も、主人を除く全員で同じ現象を確認し合ったことから、一家共通で取り組むべき問題であると認識するに至ります。
そして彼らは、近所の人達からの証言で、自分達が住んでいる藁葺き家に「座敷わらし」が住んでいるのではないかという結論に到達するのですが……。

映画「HOME 愛しの座敷わらし」は、ストーリー構成が全体的にほのぼの感で溢れていて安心して観賞することができますね。
「家族の絆」を扱っているという点では、同日に公開されている映画「わが母の記」も同じですが、今作はあちらに比べるとまだストーリーに起伏がありますし、起承転結の流れも比較的分かりやすい構成となっています。
あちらがシニア層・主婦層向けだとすると、今作は親子や一家揃っての観賞に適した作品、と言えるでしょうか。
少年からお年寄りまで、老若男女の層全てを取り入れていますし。
主演の水谷豊は、やはり「相棒」シリーズのイメージが強いのですが、今作では「普段は家族にあまり強く出れないが、いざという時には自己主張をしっかりやる父親像」を違和感なく演じていました。
物語前半では「どこか頼りない父親」だったものが、後半では見違えるかのごとく頼もしい存在になっていましたし、ラストで高橋晃一が再度東京に呼び戻されることになった際、高橋晃一だけ単身赴任で行くのではなく、全員一致で一緒に行くことを決定した過程と光景は、最初の頃からは想像もつかないものだったでしょう。
それと、地元の祭りを楽しんでいる最中に祖母が認知症を本格的に発症してしまったことが判明した際の高橋晃一こと水谷豊の男泣きぶりは、やはり「わが母の記」における役所広司のそれと比較せずにいられませんでした。
「わが母の記」と同じく、あの描写も今作のハイライトのひとつではあるでしょうね。

ただ、日栄フーズの本社で最初に東京勤務に戻れることを示唆された際に、反発した高橋晃一が行った「愛」云々の演説は、何の伏線もなく唐突に出てきたこともあり、観客的には今ひとつその思いが伝わり難いものがありました。
あれだと、突然意味不明な理由をでっち上げてワガママをこねている、とすら解釈されてしまいかねないですし。
高橋晃一がそう思うようになった背景などについてもある程度描写した方が、あの演説により説得力が与えられたのではないでしょうか?

あと、今回出てきた「和製ログハウス」こと藁葺き家は、高橋一家が居住する前にフォスターという名の外国人(一家?)が住んでいたらしいのですが、居住して1年程経った頃に突然引っ越ししてしまったとのこと。
藁葺き家の台所が現代風に改造されていたり、家のところどころに魔除けが貼ってあったりするのはその名残なのだそうです。
作中では「昔のエピソード」として登場人物の口で紹介されていただけでしたが、この個人だか一家だかのフォスターさんが一体どういう過程を経て引っ越しをすることとなったのか、そこは少しばかり興味が出てくるところです。
家に魔除けが貼ってあってしかもそのまま放置されていたところから考えると、彼(ら?)は「座敷わらし」のことが理解できず、最後まで「排除すべき化け物」とでも解釈していた可能性が高いように思えるんですよね。
あんな「和製ログハウス」にわざわざ住むくらいですから、日本文化について相当なまでの理解はあったのでしょうが、それでも「座敷わらし」のことまで理解できるのかというとかなり微妙なところですし。
あの手の妖怪を尊重し、共に共生する文化って、外国にはほとんどないものですからねぇ(-_-;;)。
「突然引っ越ししてしまった」という辺り、近所の人間にも何も告げずに出て行ったことは確実ですし、ノイローゼでも患って逃げるように藁葺き家から去ってしまったのではないかと、ついつい考えてしまったものでした。
高橋一家の面々でさえ、最初は「座敷わらし」の悪戯について「私って何か(精神的に)おかしいんじゃないの?」と疑っていたくらいなのですし。
もちろん、高橋一家と同じく幸福になった上で転勤を命じられた等の理由で再引っ越しした可能性もありますし、「座敷わらし」の動向とは全く何の関係もなく「郷里の親族に何か突然の不幸があって……」などの事情があった可能性もありえるわけではあるのですが。
作中では結局、具体的な理由や事情について何も言及されていないために色々な想像ができてしまうのですが、できれば個人だか一家だかのフォスターさんも幸せな人生なり家庭環境なりを構築していることを願いたいものです。

今作は、「GWで一家揃って映画を観る」という需要に応えた映画と言えるのではないかなぁ、と。

映画「テルマエ・ロマエ」感想

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映画「テルマエ・ロマエ」観に行ってきました。
月刊雑誌「コミックビーム」で連載されているヤマザキマリの同名漫画を原作とした、古代ローマ帝国の公衆浴場「テルマエ」を設計する技師が現代の日本へタイムスリップすることから始まる、阿部寛・上戸彩が主演のコメディ作品。
一応古代ローマ帝国も舞台になっているのに、主要登場人物の俳優が全て日本人だけで構成されているという、なかなかに斬新な手法が用いられている映画です。
なお、今作で私の2012年映画観賞本数はちょうど30本目となります。

物語の始まりは西暦128年の古代ローマ帝国。
ローマ帝国のこの時代は、後に五賢帝の3人目に数えられることとなる第14代皇帝ハドリアヌスの御世であり、当時のローマ帝国は、異民族の度重なる侵入に手を焼きつつも、全体的には「パックス・ロマーナ」の恩恵を存分に享受していました。
ハドリアヌス帝は、即位当初に自身の政策に反対した4人の元老院を殺害するなどの強硬策から元老院の受けが悪く対立していたものの、「テルマエ」と呼ばれる公衆浴場を整備することで一般大衆の支持を得ていました。
阿部寛が演じる今作の主人公ルシウス・モデストゥスは、そんな「テルマエ」を設計する技師のひとり。
ところが彼は、革新的かつ豪華な建造物が次々と誕生していく世相の中、その生真面目過ぎる上に頑固な性格から時代に合わない古風な「テルマエ」を設計し続けたことが災いし、仕事を斡旋してくれていた依頼主と喧嘩別れをすることとなってしまいます。
自身の考え方が受け入れられないことに憮然とならざるをえなかった彼は、親友であるマルクス・ピエトラスに連れられ、ローマの「テルマエ」に一緒に入ることとなります。
しかし、あまりの喧騒と、自分の理想から著しくかけ離れた「テルマエ」の様相にさらに落胆したルシウスは、喧騒を避けるため浴槽の湯中にひとり潜りこむことに。
そこでルシウスは、浴槽の壁の一部に穴が開いており、そこから水が排水されている光景を発見します。
ルシウスが確かめてみようと近づくと、突如ルシウスは水流に足を取られ、壁の穴に吸い込まれてしまうのでした。

ルシウスは無我夢中で出口を求め、ようやく水から顔を出すことに成功します。
しかし、そこは自分がいたローマの「テルマエ」ではなく、何と現代日本の銭湯だったのです。
どう見てもローマ人の顔つきとは異なる日本人と、見たこともない浴場の様相に戸惑いを覚えるルシウス。
そんなことなど知る由も無い彼は、そこがあくまでもローマの属州であり、かつ入浴している日本人達もローマの奴隷であると思い込み、彼らを「平たい顔族」として下に見るのでした。
基本的に好奇心旺盛かつ学習意欲満々のルシウスは、浴場、ひいては現代日本の文明水準にいちいち大真面目なリアクションで驚愕することを繰り返しまくりつつも、それが自分が理想とする浴場のあり方と合致していることから、日本の浴場文化をローマの「テルマエ」に取り入れていくことを考えつきます。
素っ裸のまま浴場・脱衣所を経て一度外に出たルシウスは、今度は女湯の方へと足を踏み入れてしまい、悲鳴と共に体重計?を投げつけられ気絶してしまうのでした。
そんなルシウスを女湯から引き摺り戻し、フルーツ牛乳を渡す「平たい顔族」の老人達。
それを飲んだルシウスが味に感動していると、次第に視界が霞んでいき、次に気づいた時には元いたローマの「テルマエ」に戻ってきていたのでした。
ローマに戻ってきたルシウスは、現代日本で得た知識を元に、当時のローマにはなかった斬新な「テルマエ」を次々と作り出し、それまでとは一変して人気を博するようになっていくのですが……。

映画「テルマエ・ロマエ」は、阿部寛が演じる主人公ルシウスの驚愕なリアクションが序盤の見所のひとつですね。
洗面器やシャンプーハットなどについて、いちいち仰天の表情と詳細なモノローグを交えて、その驚きぶりを表現してくれます(苦笑)。
そのカルチャーショックは浴場だけにとどまらず、トイレのフタの自動オープン機能やお尻ウォッシャーなどにも及び、電気のことを知らないルシウスは「これは奴隷が隠れてやっているに違いない」と間違った解釈をしていたりします。
ただそれにしても、お尻ウォッシャーに感動して涙まで流すのはさすがにどうかとは思うのですが(爆)。
しかし一方で、そうやって見聞した現代日本の文化を自分なりに解釈し、その結果をローマの「テルマエ」に反映させてしまう辺り、ルシウスの仕事に対する情熱とやる気は並々ならぬものがあります。
ルシウスにとっての「テルマエ設計技師」という仕事は、生計の術であるのと同時に、現代日本の「オタク」「マニア」と似たようなものでもあるのでしょうね。
ただ、その仕事一筋な性格が災いして、奥さんに不倫された挙句に逃げられてしまったのは何とも気の毒な話ではありましたが(T_T)。
また、この手の作品では、異世界にジャンプする際に何故か自分と相手との言語の問題が自動的にクリアされていて普通に意思疎通が可能だったりするのが一般的なパターンなのですが、今作ではルシウスは当時のローマで使われていたラテン語で、日本人は普通の日本語をしゃべっているという設定となっていました。
日本に来た際のルシウスはラテン語をしゃべっていましたし、物語中盤までは「平たい顔族」との意志の疎通自体が困難を極めるありさまでした。
普通にありえる話なのに、巷のエンターテイメント作品では意外と見かけない設定であり、却って斬新な感がありましたねぇ。

ルシウスのタイムトラベルには、ルシウス本人が身に纏っている物や手に持っている物も一緒に移動させることが出来るという特性があります。
序盤でも牛乳瓶などを持ち帰っていたり、バナナの皮と種を入手して「テルマエ」の建造に利用したりしているのですが、何と人間まで持ち帰ることも可能という恐るべき仕様も。
さらには、ルシウスが現代日本からローマへとタイムリープする際、その場には一定時間の間、タイムホール?のようなものが出来るらしく、他の人間達もその穴を伝ってローマ時代にタイムトラベルすることも可能なようです。
結果、物語後半では、逆にルシウスのいるローマの時代に複数の現代日本人がタイムトラベルしてくるという事態に。
しかもその際、ルシウスに連れられる形でローマにやって来た山越真実は、自身がケイオニウス(後のルキウス・アエリウス・カエサル)の愛人にされかけるところをアントニウスに助けられることで、世界の歴史が変わりかねない事態を招くこととなってしまう始末。
何と、史実ではハドリアヌス帝の後を継いで第15代ローマ皇帝に即位するはずのアントニウスが、本来ケイオニウスが赴任しそこで死去するはずのパンノニア属州の総督に任命されることとなってしまうのですね。
歴史の流れを修正するため、山越真実はルシウスと共に奔走することとなるのですが、この辺りが今作の映画オリジナル要素と言えるところなのでしょうか?

ただ、その歴史を修正する過程で2人が提示した改善策だと、ケイオニウスとアントニウス絡みの歴史は修正されても、その他の部分で歴史が大幅に変わるような気はしなくもないのですけどね。
戦いの兵士達の傷を癒す「テルマエ」を作った結果、ローマ辺境蛮族との戦いに勝ってしまったら、それは充分に歴史を変える行為になってしまうのではないかと思うのですが(^^;;)。
あの蛮族との戦い、作中ではモロにローマ側の敗色濃厚な状態でしたし。
ハドリアヌス帝は、本来負けるはずの戦いに勝ってしまったのかもしれませんし、その戦いで死ぬはずだった人間が生き残り、またその逆も充分に発生しえる事態なのですから、歴史に与える影響が少なかろうはずもありません。
下手をすれば、遠い未来にどこかの国の王族を誕生させることになるはずの遠い祖先が、その戦いで死んでしまった、などという事態もないとは言い切れないわけですし。
これって本当に大丈夫なのだろうか、とは、正直野暮だろうと思いつつも考えずにはいられなかったですね(苦笑)。

ちなみに、今作のオリジナルキャラクターでもあるらしい山越真実は、明らかに原作者自身をモデルにしたキャラクターですね。
元々、名前からしてそっくりで「漫画家志望」という設定な上、物語の最後にどこかの出版社?で今回の事件をモデルに書いたらしい、そのものズバリ「テルマエ・ロマエ」の漫画原稿を提出していたのですから(笑)。
ここは繋げ方が上手いなぁ、と少し感心したところです。

出演俳優とコメディ映画の好きな方にはイチオシの作品、と言えるでしょうか。

映画「わが母の記」感想

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映画「わが母の記」観に行ってきました。
作家・井上靖の同名小説を原作に役所広司・樹木希林・宮崎あおいが主演を演じる、高度成長期の古き良き昭和の時代を舞台とした人間ドラマ作品。
今作は本来、2012年4月28日公開予定の映画なのですが、今回もたまたま試写会に当選することとなり、公開予定日に先行しての観賞となりました。
まあ、今回はほんの数日程度の違いでしかなかったですけどね(^^;;)。

土砂降りの雨が降る中、幼い妹2人と共に雨宿りをする母親を、少し離れたところでただひとり見つめる自分――。
1959年、役所広司が演じる今作の主人公にして小説家の伊上洪作は、老齢で身体の容態が思わしくない父親の隼人を見舞うべく他の家族と共に訪問していた、現在の静岡県伊豆市湯ヶ島にある郷里の実家で、昔見た母親の八重の光景について回想していました。
洪作は、5歳の頃に2人の妹を連れて当時は日本領だった台北へと行ってしまい、以後13歳になるまで自分のことを放置していた母親に対する恨みとわだかまりをずっと抱き続けていました。
母親は自分だけを捨てていった、と洪作は考えたわけですね。
八重がそうするに至った本当の理由については物語後半で明らかとなるのですが、今作はこの「母子関係の葛藤と心情」が大きなテーマのひとつとなっていきます。
さて、もう長くないであろうことが確実な父親と半ば「最後の別れ」的な対面をした洪作は、ついさっき自分に言った発言を二度も繰り返す母親に「困ったものだ」的な苦笑いを浮かべていました。
実はこの頃からすでに、八重の老人ボケは既に進行しつつあったのですが。
洪作は東京ではそれなりに売れている小説家で、その東京の家では、まもなく売り出す予定の洪作の新刊に、洪作の家族が一家総出で検印を押し続けていました。
……ただし、洪作の三女である琴子を除いて。
湯ヶ島から帰ってきて、家族に加えて編集者も共にした夕食会でも全く姿を見せようとしない琴子に怒りを覚えた洪作は、琴子の部屋へ直接怒鳴り込みに行く亭主関白ぶりを見せつけます。
琴子は琴子で、父親に対する反抗心丸出しな様子を隠そうともしませんし。
ところがその日の深夜、昼に見舞いに行った父親・隼人の容態が急変し、そのまま逝去したとの連絡が伊上家にもたらされます。
ささやかながらも一族総出の葬儀が行われる中、父親に対する反発も手伝ってか、琴子は八重に話しかけ、洪作絡みの話題にしばしの時を費やすのでした。

以後、1960年、1963年、1966年……と時間が過ぎていき、1973年に八重が亡くなるまで物語は続いていくことになります。
時が進むにしたがって八重の老人ボケの症状はますます酷さを増していきます。
1966年頃になると、もう現在の息子の顔すらも忘れ、ただひたすら昔の思い出を途切れ途切れかつ脈絡もなく思い出しながら、たちの悪い放浪癖で家族をハラハラさせるような状態にまで至ってしまいます。
洪作も琴子もその他の家族の面々も、それぞれの人生を歩みつつ、そんな八重の様子を時には気にかけ、時には激怒しつつ見守っていくのですが……。

映画「わが母の記」は、認知症の実態を描いているという点においては、映画「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」に近いものがあります。
ただ、あの作品が「マーガレット・サッチャーの現状と本人の視点」に重点を置きすぎて観客の期待からは大きく外れた形で終始していたのに対し、今回は最初から「母親の認知症」を前面に出し、かつ母親周辺の人々にスポットを当てている点が、違うと言えば違うところですが。
今作では「認知症を患っている母親本人の視点」というものは一切登場せず、あくまでも「認知症の母親を見る周囲の視点」だけでストーリーが進んでいきます。
認知症患者の物忘れや奇行ぶりに振り回され悩まされ続ける家族の様子もよく描かれており、その点では地に足のついた現実味のある物語に仕上がっています。
ただ、全体的に淡々と進みすぎた感があり、特に1973年に八重が死ぬことになるラストを飾る「八重とのお別れ」の描写は「あれ? これで終わり?」的なあっけなさがありましたね。
あまりにあっけなさ過ぎてエンドロール後に何かあるのかと期待していたら、結局そちらでも何もなかったですし。
まあ正直、あの段階だと洪作と八重絡みのしがらみも終わってしまっていますし、あれ以外に締めようもなかったというのが実情ではあったのでしょうが、あそこはもう少し何かを感じさせる終わり方でも良かったのではないかと。

物語のハイライトは、やはり何といっても1969年の2つのシーンですね。
ひとつは、「洪作が少年時代に自作したものの本人ですら忘れていた詩の内容を八重が全て諳んじて、洪作が号泣するシーン」。
琴子との会話で出てきた少年時代の詩のエピソードがああいう形で繋がる点も見事の一言に尽きましたし、また洪作の「男泣き」も役所広司ならではの安定した上手い演技でした。
ふたつ目は、予告編でもある程度明示されていた「海辺で洪作が八重をおんぶするシーン」。
こちらは、終盤で徘徊していた八重が、人の良いトラックの運ちゃんに乗せられて海に向かったという情報が出た時点で「ああ、あのシーンが来るな」と簡単に予想はついたのですが、琴子に連れられた八重が洪作に背負われ、2人で一緒に海を歩くシーンは確かに充分絵になる描写でした。
映画「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」ほどのサプライズ感はさすがになかったものの、家族愛を表現する描写としては邦画の中でもトップクラスに入るものなのではないでしょうか。

ただこの映画、アクションシーンのような派手な描写は全くないですし、人間ドラマとしても全体的に起伏が少な過ぎる感が否めないので、正直言って「観る人を選ぶ」作品ではありますね。
出演俳優は豪華ですし演技も上手いので、俳優のファンの方々には一見の価値があるでしょうけど、果たして一般向けなのかと言われると……。
内容から考えるとシニア層&主婦層向けの作品、ということになりますかねぇ、やっぱり。

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