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映画「ワイルド7」感想

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映画「ワイルド7」観に行ってきました。
1969年~1979年にかけて週刊少年キングで連載された同名の原作マンガを、現代に舞台を替え実写映画化したアクション物。

物語は、マシンガンを持った武装集団が銀行強盗をやらかした挙句、人質のために警察が手を出せない中、人質を一方的に虐殺して逃走するところから始まります。
凶悪犯達を取り逃した警察は、7人の(元?)犯罪者達で構成される超法規的警察組織に対し全権限を移譲、凶悪犯達の抹殺を命令します。
命令を受けると同時に、海上に架けられた高速道路の立橋?とおぼしきところを走っている大型トレーラーから7台のバイクが現れ、犯人が逃走している現場へと急行します。
一方、凶悪犯達は、襲撃と逃走の際に使用したクルマを爆破し、予め用意していた別のクルマに乗り換えると共に、逃走のための保険としてただひとり連れていた人質の女性を、自分達の安全が確認されたとしてまさに射殺せんとしていました。
そこへ突然、猛スピードで突っ込んできたトレーラーの直撃を受け、乗り換え用のクルマを大破されてしまう凶悪犯達。
かろうじてクルマから脱出した凶悪犯達は、各々が手に持っていたマシンガンをトレーラーに対してぶっ放し反撃を開始しますが、トレーラーは頑丈な上に運転席も蛻の空状態。
そこへ、先ほどトレーラーから出てきた7台のバイクが、これまた猛スピードで凶悪犯達へと向かってくるのでした。
もちろん、敵以外の何者でもない彼らに対しても、凶悪犯達は躊躇することなくマシンガンを乱射するのですが、7台のバイクは卓越したバイクテクニックを駆使して銃撃をかわしていきます。
そして逆に、7台のバイクからの発砲により、凶悪犯達は次々と致命傷を被り倒れていくのでした。
かろうじて生き残った数名の凶悪犯達を、7台のバイクは完全包囲し「お前達を【退治】する」と言い放ちます。
「退治? 逮捕の間違いだろ」と言い返しつつ、クルマの中に潜んでいた人間と共に反撃の機会を伺う凶悪犯達。
彼らには当然、日本の警察が発砲にとにかく慎重であり、ましてや犯人を射殺するなどよほどのことでもない限りはできないという事実を知っているからこそ、簡単に反撃できると考えていたのでしょう。
しかし彼らは凶悪犯達の抹殺を命じられた超法規的警察組織であり、そんな考えが通用するわけもありません。
かくして、凶悪犯達は反撃どころか、その場で躊躇なく超法規的警察組織の7人によってあっさりと全員「逮捕」ではなく「退治」されてしまうのでした。

一連の事件は、公的には「凶悪犯達が逃走の途中で事故を起こした」として処理され、超法規的警察組織の存在は一言半句も表に出てくることはありませんでした。
しかし、一連の事件を追っていた東都新聞社のジャーナリストにして重度のヘビースモーカーでもある藤堂正志は、事故として片付けられてしまった事件の結末に疑問を抱きます。
ここ1年ほど、凶悪犯達が突然事故で全員死亡するという事件が頻発しており、7人の元犯罪者達で構成される超法規的警察組織の存在も、通称「ワイルド7」と呼ばれる真偽の程が疑わしい都市伝説として密かに語られていました。
そして藤堂正志は、偶然撮影されたらしい「ワイルド7」が凶悪犯達を始末している現場が映っている動画を持っており、「ワイルド7」が実在しているとの確信を持つに至ったのです。
ところが東都新聞社の上層部は、警察から圧力を受けている影響もあるのでしょうが、藤堂正志の言うことをマトモに取り合おうとしません。
東都新聞社の新人記者である岩下こずえは「ワイルド7」の存在に懐疑的で、何かと暴走しがちな藤堂正志のサポートに回るのですが…。
ちなみに、この岩下こずえの出自が、物語後半の展開に大きく関わってくることになります。

一方、「ワイルド7」はその後も凶悪犯達を「退治」していく任務に従事していくのですが、その「退治」の最中に本来「ワイルド7」が始末すべき凶悪犯を遠距離から抹殺してしまう謎のスナイパーが出現します。
当然「ワイルド7」もスナイパーを追跡するのですが、「ワイルド7」と同じくバイク使いであるスナイパーはよほどに逃げ足が早いのか、それとも周囲の地理を知悉しているのか、「ワイルド7」の追跡力でも力及ばず、あえなく取り逃がしてしまいます。
「ワイルド7」には、過去にも同じスナイパーによって獲物を掻っ攫われた経緯があり、また射殺されている凶悪犯が全て「広域指定犯罪グループM108号」のメンバーであるという共通点を持つことから、「ワイルド7」内でも謎のスナイパーの掌握が優先事項となっていきました。
そんなある日、「ワイルド7」の一員にして物語の主人公である飛葉大陸(ひばだいろく)は、謎のスナイパーの手がかりを掴むため埠頭のクラブに立ち寄った際、ひとりの女性を目撃します。
その時はただすれ違っただけのその女性がどことなく気になった飛葉大陸は、後日街中をバイクで疾走している最中、偶然にもバスに乗り込んだその女性を再び目撃する機会に恵まれます。
バイクで強引にバスを止め、バスから降りてきた女性に「どこかで見たことがあるような…」と話しかける飛葉大陸。
会話を交わした末に「人違いだった」とその場を離れようとする飛葉大陸でしたが、その時女性の方から「あなたのせいでバイトに遅れそうだから送って行って」と主張してきます。
彼女の名前は本間ユキといい、とあるレストランでウェイトレスのバイトをしていたのでした。
彼女の要求通り、レストランまでバイクで送って行った飛葉大陸は、さらに「レストランの売上に貢献して」と言われ、これまた要求通りに色々なものを注文して飲み食いしていくことになります。
そして気がつくと、飛葉大陸は本間ユキが住んでいるとおぼしきアパートの一室で裸になって眠っていたのでした。
本間ユキの話を聞く限りでは、どうも描写されない部分で男女の濡れ場シーンでもあったようなのですが、その割に本間ユキはどことなく淡々としていますし、飛葉大陸もあっさり服を着てその場を後にします。
時を同じくして、制約会社が極秘裏に開発を進めてきた致死性90%以上を誇るウィルスが盗まれるという事件が発生します。
ウィルスを強奪した犯人達は、政府に対し2億ドルの指定口座振込みを要求し、要求に応じない場合は、ウィルスを積んで東京を飛行している飛行船を爆破してウィルスをばら撒くとの脅迫を行ってきたのです。
要求に応じても犯人側が飛行船爆破を止めるという保証はないと確信した警察側は、バイオテロを阻止すべく「ワイルド7」の出動を命じるのですが……。

映画「ワイルド7」では、現代日本が舞台とはとても思えないほどに敵味方問わず銃や重火器の類を乱射しまくるシーンが頻繁に登場します。
犯罪のためならば手段を問わない凶悪犯達や、その凶悪犯を抹殺するよう命じられる「ワイルド7」の面々が発砲に躊躇しない、というのはむしろ当然のことでしょう。
ところが作中では、SATや機動隊などといった警察所属の一般的な警察官ですら、発砲に全く躊躇している様子がないんですよね。
物語後半では、黒幕によって「7人の犯罪者集団」として指名手配された「ワイルド7」の面々に対し、SATや機動隊が公安調査庁内で派手に銃撃を浴びせまくるシーンが存在します。
しかし、そもそも日本の警察にそんな強硬手段を行うことができる権限が事実上無いに等しいからこそ、「ワイルド7」のような超法規的な存在が必要になったのではないのでしょうか?
「踊る大捜査線」シリーズや現実世界における警察絡みの報道に象徴されるように、日本の警察は銃の乱射どころか「1発発砲した」というだけでもマスコミや世間一般から多大な非難を浴び、正当な理由があってさえも警察官が始末書を書かされるというほどに、世界的に見ても銃の扱いについてとにかく異常なまでにうるさく言われる組織なのです。
「ワイルド7」が武装した凶悪犯であるという事実が周知されていてもなお、作中で見られたような銃撃戦を警察が行うためには、どれほどまでの法的な手続きと時間が必要となることか……。
現実どころか、フィクションの中でさえも、最近の警察はただの1発でも発砲することについてすら慎重な姿勢を示すのは当たり前、それどころか現場からの悲鳴のような要請があってさえも、官僚答弁的な対応で現実を無視した真逆の命令が下ったりするのがすっかりスタンダードと化している感すらあります。
「SP」シリーズ映画「DOG×POLICE 純白の絆」 などでも「自己保身に邁進する硬直しきった官僚機構としての側面を持つ警察機構」が作中人物によって問題視されていますし、それを破天荒な形で破る主人公の姿が爽快感として描かれていたりするわけです(まあ後者の場合は掟破りをしすぎて逆に問題になっていますが)。
それらの現実と過去の作品を見慣れてきた人間としては、「ワイルド7」における警察の過激としか評しようのない銃撃戦は、大いに違和感を覚えざるをえないところでして。
警察にあんなことができるのであれば、そもそも「ワイルド7」なんて必要ないのでは?などという根源的な疑問まで出てくるありさまでしたし(^^;;)。

もちろん、原作の「ワイルド7」の出自を考えれば、銃撃戦をも含めた問答無用とも言える派手なアクションシーンが頻発するのはむしろ当然のことではあるでしょう。
1970年代頃の警察を扱っている作品では、今から考えればとても信じられないレベルの荒唐無稽な派手なアクションや銃撃戦を、犯人どころか警察側も披露していたりするのがむしろ当たり前だったわけですし。
また、作中のような世界観だからこそ、ハリウッドばりのアクションシーンや銃撃戦が展開できるという利点も当然あるわけで、そこはまさに「フィクションならではの約束事」として割り切るべきではあるのでしょうけど。
ただそれにしても「思い切ったことをやっているなぁ」とはついつい考えざるをえないですねぇ、私としては。

また、「ワイルド7」の構成員である7人は、その全員がバイク使いで、作中でも高度なバイクテクニックを使って敵を翻弄しています。
何故全員がバイク使いなの? と原作を知らない私は当然疑問に思ったのですが、どうも「ワイルド7」メンバーのひとりであるセカイが他の仲間達にバイクテクニックを教え込んだ結果だったようですね。
今作におけるバイクに対する思い入れは相当なもので、物語後半では建物の中にまでバイクを持ち込み疾走するシーンまであったりします。
この作品、バイクに対して相当なまでの思い入れがあるのだなぁ、と観ていて思った次第です。
これもまた1970年代当時とは事情が異なるのでしょうが、現代は完全なクルマ社会であり、自転車や原付・オートバイなどの自動二輪車は軒並み冷遇される傾向にありますからねぇ。
「不安定で危ない」という宣伝効果による悪しきイメージも手伝って、バイクに乗る人は減少の一途をたどっていますし。
作中のようにバイクにこだわる人も、今では少数派なのではないかなぁ、と。

作中では、ハリウッドばりのアクションシーンや銃撃戦、それにバイクテクニックなどが大いに披露されていますので、そういう系統の作品が好みという方には文句なしにオススメできる映画ですね。
ラストを見る限りでは続編もありそうな雰囲気だったのですが、続編が作られることは果たしてあるのでしょうか?

映画「源氏物語 千年の謎」感想

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映画「源氏物語 千年の謎」観に行ってきました。
日本最古の長篇小説である「源氏物語」の誕生と、その作者・紫式部の謎に迫る歴史スペクタクル作品。
原作である「源氏物語」からして「光源氏が複数の女性と情を交わす」というイメージがあるためか、作中にはいわゆる「濡れ場」のシーンがかなり盛り込まれていますが、直裁的な性行為等の描写はないため、今作はR指定等の年齢制限なしに観賞できます。

物語冒頭はいきなりショッキングな描写から始まります。
何と、時の権力者である藤原道長が、夜中に逃げる紫式部を追跡し捕まえた挙句、その場で無理矢理手篭めにしてしまうのです。
その際の「私は何をしても許される身なのだ」的な道長の言い草がいかにも横暴な権力者のそれで、たったこれだけで良くも悪くも強烈なインパクトが残りましたね。

紫式部を手篭めにした藤原道長は、彼女を宮廷に招き入れると共にひとつの物語を書くよう命じます。
藤原道長の意図としては、時の最高権力者である一条天皇に紫式部の小説を紹介・提示することで一条天皇の歓心を買い、それによって彼に嫁いだ自分の娘である彰子(しょうし)に目を向けさせ、彼女に男児を産ませることで藤原一族の権力基盤を強化することが狙いでした。
当時は貴重品だったであろう紙も用意され、かくして紫式部は源氏物語を書き始めることとなるのです。
ここからしばらくは源氏物語の主人公である光源氏が生まれる前から元服する辺りまでの物語が展開されます。
低い身分の出自ながら帝の寵愛を一身に受け、光源氏を妊娠・出産するも、第一妃である弘黴殿女御(こきでんのにょうご)をはじめとする周囲の女性からの嫉視反感を受けて早逝してしまう桐壺更衣(きりつぼのこうい)。
その後、新たに帝が迎え入れた、桐壺更衣そっくりの女性・藤壺(ふじつぼ)。
生みの母親そっくりで義理の母親でもある藤壺に禁断の恋をしてしまい、その想いに苛やまされながらも、周囲の女性と関係を結んでいく光源氏。
そして、光源氏と関わっていくことになる女性達。
これらの登場人物で出揃った辺りまでの話を読んだ藤原道長は「我が意を得たり」とほくそ笑み、実際、紫式部から源氏物語の内容を拝聴していた一条天皇から「続きが気になる」という好意的な反応を得ることに成功します。
そして藤原道長の期待通りに彰子は妊娠し、見事男児(史実では敦成(あつひら)親王、後の後一条天皇)を出産するのでした。
これで紫式部の役目は終わったはずなのですが、紫式部は何故かその後も「源氏物語」を書き続けます。
そして、それを止めようとせず、むしろ純粋に続きを楽しみにしているかのような態度を示す藤原道長。
しかし、藤原道長の友人である陰陽師・安倍晴明は、そんな紫式部の様子に不穏な気配を感じ取るのでした……。

映画「源氏物語 千年の謎」の公式サイトによると、「源氏物語」は藤原道長の命令もさることながら、「天才女流作家・紫式部の叶わぬ愛が、その物語を綴らせた」と記載されています。

http://www.genji-nazo.jp/aboutthemovie/index.html

しかし、いくら作中の描写や演出・ストーリー展開などを総括してみても、紫式部が藤原道長に恋愛感情を抱いているような様子が全く垣間見られないんですよね。
そもそも、物語冒頭の手篭めシーンからして、紫式部が藤原道長に対して抱いているのは愛情ではなく憎悪の類だろう、と推察する材料として充分過ぎるシロモノでしたし。
また、物語前半における紫式部の藤原道長に対する態度も、嫌々な態度が前面に出ている極めてそっけないもので、ここからどうやって愛情が導き出せるのか理解に苦しむものがあります。
加えて、物語中盤になると、紫式部の様子に不穏な気配を感じ取り、かつ「源氏物語」の世界に入り込んで作中の生霊と戦いを演じた安倍晴明が、藤原道長に対して「このまま紫式部が『源氏物語』を執筆すると道長様に不幸が訪れる」と進言しており「それを回避したくば、式部の筆を止めるのです」とまで忠告しているのです。
それに対する藤原道長の返答もこれまた振るっていて、彼は「源氏物語を書くよう紫式部に命じたのは私だから、私にはそれを最後まで見届ける義務がある。だからそれ(式部の筆を止めるよう命じること)はできない」と述べているんですよね。
これって「自分は紫式部から憎悪されて、何らかの報復を受けてもおかしくない立場にある」と藤原道長が自覚しているとも取れる発言ですよね。
そして何より、今作における「源氏物語」の光源氏は、冒頭の手篭めシーンで藤原道長が口走った「私は何をしても許される身なのだ」という台詞をしゃべっていることからも分かる通り、藤原道長をモデルに作られた存在であるとされており、彼は作中で愛する女性達に先立たれたり出家されたりする不幸に何度も遭遇することになるのです。
光源氏の愛人のひとりで後に生霊となり、他の女性を呪い殺したり、安倍晴明とオカルト合戦を繰り広げたりする六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)などは、現実世界の紫式部と半ばシンクロしていたりします。
これらのことから総合すると、紫式部は藤原道長を憎悪しており、藤原道長を自分が描く物語の主人公に見立てた上で彼に次々と不幸な事件を叩きつけまくることで、最終的には現実世界の藤原道長を「呪殺」することを目的に「源氏物語」を執筆していたのではないか、と映画観賞が終わるまで私はずっと考えていたくらいだったんですよね。
日本には昔から「言葉には霊的な力が宿る」という言霊信仰がありますし、作中の紫式部も「物語で人を魅了する天才」的な評価を受けていましたから、一種の「言霊使い」として紫式部は自らの復讐を画策していた、というわけです。
これだと安倍晴明が藤原道長に対して述べていた「『源氏物語』が完成すると道長様に不幸が訪れる」とも合致するわけで、私も自分の解釈にそれなりの根拠と自信を持ってはいたのですけどねぇ(-_-;;)。
物語終盤に紫式部が「源氏物語」を宮中で完結させることなく田舎に帰ったのも、自分がシンクロしていた「源氏物語」作中における六条御息所が自らの業の深さに宮廷を離れたのと同じ理由だったのではないか、と考えていましたし。
手篭めにされて自由を奪われたことへの恨みと復讐から、藤原道長を殺すことを目的に作られた「源氏物語」、というのは確かに公にもできない壮大な真相ないしは斬新な解釈だよなぁ、などとひとり納得してもいたのですが……。

こういう映画制作側の意図から大きく外れた解釈が生まれてしまう最大の理由は、やはり何と言っても冒頭の手篭めシーンのインパクトと、その後の藤原道長と紫式部の関係があまりにもビジネスライク過ぎるところにあるんですよね。
あの2人の関係のどこに、僅かでも恋愛要素を匂わせるものがあったというのでしょうか?
双方共に、相手の文才や権勢などを褒めることはあっても、相手への想いを語る描写なんてどこにもありませんでしたし。
紫式部は「源氏物語」に藤原道長への愛情を込めた、というのが映画制作側の主張なのでしょうが、そもそも「源氏物語」の作者である紫式部の謎に満ちた心情部分を、既に周知であるはずの「源氏物語」だけで説明するのは無理があり過ぎます。
しかも、今作作中の藤原道長は、愛人どころか紫式部以外の女性と関係している描写すらも全く描かれていませんし、そんな状態では、光源氏と関わる女性達を呪殺していた六条御息所と紫式部が「恋愛絡みで」シンクロしなければならない理由も全く見出しようがありません。
せめて藤原道長も光源氏と同じように大量の女性を侍らせていた、みたいな描写でもあったならば、それと「源氏物語」をシンクロさせることで「紫式部の無言の主張」を展開させることも可能だったかもしれないのですが……。
紫式部の恋愛感情が作品の主要なテーマだったというのであれば、その意図は完全に失敗していると言わざるをえないのではないかと。

あと物語後半で、光源氏の正妻である葵の上を、生霊となった六条御息所が呪殺しようとして安倍晴明に阻止されるシーンが2回発生するのですが、2回目の安倍晴明は、六条御息所の主張を聞くと、今にも殺されようとしている葵の上を顧みることなく現実世界に帰ってしまうんですよね。
何故あそこで安倍晴明は六条御息所の生霊を滅殺してしまわなかったのか、そこは疑問でなりませんでした。
あの生霊に紫式部の想いだか怨念だかがシンクロしていることを安倍晴明は充分に理解していたようでしたし、あそこで生霊を完全に滅殺していれば、物語世界の葵の上を助けられたのみならず、自分の友人でもある現実世界の藤原道長の安全を確保することだってできたでしょうに。
アレが「源氏物語」から出てきたら自分の手には負えないとも安倍晴明は明言していましたし、それならなおさら事前に滅殺すべきだったのでは、と思わずにはいられなかったのですが。
実力的にも、終始生霊を圧倒していた安倍晴明であれば滅殺も不可能ではなかったでしょうに。

「源氏物語」の完結が自分に災いをもたらすと聞いてなお紫式部の筆を止めさせない藤原道長の政治哲学や、光源氏絡みの女性関係および出演者達の熱演など、見所自体は結構多い作品ではあります。
一番肝心要の「映画制作側の意図」が失敗しているのは正直残念なところではあるのですが。
「映画制作側の意図」なんて公開しない方が却って作品を色々な形で解釈できるようになって良かったのではないか、というのが私の偽らざる感想ですね。

映画「RAILWAYS 愛を伝えられない大人たちへ」感想

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映画「RAILWAYS 愛を伝えられない大人たちへ」観に行ってきました。
富山県に実在する富山地方鉄道を舞台に、長きに渡って鉄道運転士を勤めた男とその家族を描いたヒューマンドラマ。
今作は「RAILWAYS」シリーズ2作目とのことですが、前作とは「地方の鉄道および鉄道運転士を扱っている」というコンセプトの共通点はあっても、ストーリーや登場人物等での関連性は一切ないので、前作を知らない人でも問題なく観賞できます。

今作の主人公である滝島徹は、富山地方鉄道で実に42年も勤務し続け、かつ35年もの間無事故の実績を持つベテランの鉄道運転士。
その彼が定年退職を迎える1ヶ月前、55歳で長年専業主婦として滝島徹を支えてきた妻佐和子と、妊娠中の娘片山麻衣が、踏切の前で停まっている車の中で走行していく列車を眺めているところから物語は始まります。
滝島徹がいつものように鉄道運転士の仕事を終えて自宅に帰ると、妻が看護師の仕事をしたいと相談をもちかけてきました。
実は妻の佐和子は元々看護師の職に就いていたものの、ガンを患った母親の介護のために仕事を辞め、以後はずっと専業主婦として家事を担っていたという経緯がありました。
そして、夫の定年退職と、物語中盤で明かされるあることがきっかけで第二の人生を歩みたいと考え、再び看護師の仕事に就こうと考えたわけです。
しかし夫である徹は「お前が働く必要はない」と聞く耳を持たず、2人は激しい口論を繰り広げることとなってしまいます。
挙句、口論の最中に、「同僚が倒れたからすぐ来てくれ」という鉄道会社からの緊急連絡で、滝島徹は会社へとんぼ返りをしてしまうのでした。
トラブルを何とか処理し、滝島徹が再び家に帰ってみると、自宅から妻の自家用車がなくなっており、家の中も誰もいなくなっていました。
先ほどの件が原因で失踪した以外の何物でもない状況に直面した滝島徹は、朝になって娘夫婦に妻の所在を確認する電話をかけてみますが、当の娘夫婦は妻の失踪の事実すら知らない始末。
そうこうしているうちに仕事の時間が迫ってきたため、滝島徹は妻の所在が不明なままの状態で鉄道会社に出勤する羽目となります。
一方、鉄道会社では、滝島徹の同僚が倒れてしまったことで問題が発生していました。
倒れた同僚が新人の鉄道運転士見習いである小田に対して行っていた研修指導が継続できなくなってしまっていたのです。
小田の研修期間は残り1ヶ月もないということもあり、その研修指導員の穴埋めの話が滝島徹に持ち込まれてきます。
妻のことが気になりつつも、滝島徹は通常の鉄道業務と小田の研修指導を一緒にこなしていくことになるのですが……。

映画「RAILWAYS 愛を伝えられない大人たちへ」では、実在する富山地方鉄道が舞台の中心となることもあり、富山地方鉄道を実際に走行している、レッドアロー・かぼちゃ電車・だいこん電車等の愛称で知られる列車が登場します。
主人公・滝島徹が作中で主に運転しているのは、二両編成の「レッドアロー」ことモハ16010形。
地方でしか見られない列車が、田舎ならではのだだっ広い田園や山間をひた走るシーンが作中で何度も繰り広げられるのも、「RAILWAYS」シリーズの魅力のひとつでしょう。
実際、前作「RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語」でも、劇場公開された2010年5月以降、物語の舞台となった島根県の一畑電車は利用者が急増し前年同時期に比べて8.7%増益になったのだとか。
今作でも同じ効果がそれなりに期待できるのではないかと。

また今作では、主人公である鉄道運転士・滝島徹役を担っていた三浦友和の好演が光っていました。
三浦友和も作中の主人公とほぼ同年齢とのことですが、昔ながらの頑固オヤジとしての姿と、それ故に周囲と衝突し葛藤する様子を、カッコ良さと貫禄も交えて丁寧に演じていました。
彼が登場している映画で私が観賞した作品としては、「マイ・バック・ページ」「星守る犬」がありますが、どちらもチョイ役での登場だったにもかかわらず「妙にカッコ良いキャラクター」というのが印象に残っていたものでした。
特に「星守る犬」では「この人にも何か曰くありげな別の物語がありそう」とすら考えたくらいでしたし。
今作は、彼のファンであればまず必見と言える映画でしょうね。

作中のストーリーでは、主人公の鉄道運転士としての仕事と別居を始めた妻の訪問看護の仕事、そして、互いに無器用な形でしか相手に接することができず、結果的にスレ違ってしまう夫婦の関係が描かれています。
主人公は、妻に対してだけでなく娘夫婦、さらには、同僚が倒れたことで半ば押し付けられた新人の小田に対する研修指導などでのやり取りでも無器用な面を見せており、そのためにしなくても良い損をしているような印象が多々あります。
奥さんに対する態度も、別に相方のことを蛇蝎のごとく嫌っているわけではなく、むしろ(間違ったものであったにしても)自分なりに相手のことを考えていたが故の失敗だったわけですし。
一方の奥さんは奥さんで、看護師の仕事をすることについて「母親をなくしたことに対することに対する気の迷いだろう」と誤った分析をしながらも「好きにすれば良い」ととにもかくにも容認してくれた夫に対し、「何故分かってくれないの!」と激高した挙句に結婚指輪と離婚届を突きつけてくる始末ですし。
これまでの鬱屈がたまっていたという事情もあったのでしょうが、それを差し引いても「そこは怒るところなのか?」と若干は疑問を抱かずにいられませんでした。
いっそ本当に互いに憎しみ合うような関係であれば却って話は簡単になったのでしょうけど、そうではないからこそ複雑で解決しがたい問題なんですよね、ああいう夫婦関係のこじれは。
2人の関係に娘夫婦がやきもきしていたのは当然でしょうが、当の本人達でさえも「何とかしてくれ」と言いたい気分ではあったことは間違いなかったでしょうね。

アクション映画のような派手さは皆無ですし、また世代によって評価にかなりの差が出そうな作品ではありますが、個人的には充分に面白くオススメの作品だと思います。

映画「カイジ2~人生奪回ゲーム~」感想

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映画「カイジ2~人生奪回ゲーム~」観に行ってきました。
福本伸行原作の人気コミックである「カイジ」シリーズを、映画「DEATH NOTE」2部作で主人公を演じた藤原竜也を主演に実写化した前作「カイジ~人生奪回ゲーム~」の続編。
前作は映画館では未観賞だったのですが、2011年11月4日に日本テレビ系列の金曜ロードショーで放映された際に観賞する機会があり、何とか前作のあらすじは把握することができました。
今作は前作を事前に観賞していることが前提となるストーリーなので、前作を未観賞の方は前作を観てから今作を観賞することをオススメしておきます。

前作のラストで利根川幸雄を相手にEカードゲームで勝利を収め5億円を獲得したにも関わらず、カネを山分けするはずだった遠藤凛子に自分の取り分まで全部奪われ無一文になってしまった主人公・伊藤カイジ。
結果、彼はまたも多額の借金を背負う羽目になり、帝愛グループの地下帝国に再び送還され強制労働を強いられる日々を送っていたのでした。
そのカイジが配属された地下帝国の現場では、場を取り仕切っている班長の大槻太郎による「地下チンチロリン」という名のギャンブルゲームが行われていました。
「地下チンチロリン」とは、3つのサイコロの出た目の大小で勝負が決まるゲームで、カイジはこのゲームで大槻太郎と何度も勝負しながらも惨敗を繰り返してしまいます。
しかし、同じ仕事仲間のひとりが「地下チンチロリン」の出た目を常に記録していたことから、カイジは「サイコロの目が4~6しかない」という大槻太郎のイカサマを見破ります。
結果、大槻太郎はこれまでの勝利を全てチャラにさせられ、それまでの「地下チンチロリン」で収奪してきた地下帝国限定通貨「ペリカ」のほとんどを奪われてしまいます。
大量の「ペリカ」を入手した地下帝国の労働者達は、かつて利根川に勝利したカイジに全てを託し、ペリカを換金してカイジひとりに109万円の現金を持たせ、14日間限定で地上に出すことで、全員分の借金を返済するための資金2億円以上を作らせる決断を下すのです。
カイジはこれを快諾し、109万円から2億円を捻出するための手段を模索することになります。
カイジが最初の日に当座の食と寝泊り場を確保するため立ち寄ることになる派遣村?モドキな場所で、彼はかつて自身が敗北させた利根川と再会します。
カイジにしても利根川にしても、本来は互いに殺したいほど憎み合ってもおかしくない関係にあるはずですが、確かに最初は多少のイザコザもあったものの、その後の両者は何となく意気投合するような関係になっていきます。
カイジの事情を知った利根川は、カイジに将棋のイカサマ勝負を申し込み勝利した後、帝愛グループが運営するカジノの招待状を置いて姿を消します。
招待状を持ってカジノに入ったカイジは、カジノの目玉となっている巨大パチンコ「沼」で億単位の一攫千金が狙えると知り、その攻略に挑むこととなるのですが……。

一方、帝愛グループでは、カイジとの勝負に負け失脚した利根川に代わり黒崎義裕が会社の重役となり、その部下?とおぼしき一条聖也が、帝愛グループの運営するカジノの支配人に抜擢されていました。
一条聖也は、前作にも登場したゲーム「鉄骨渡り」を見事渡りきったひとりで、同じく「鉄骨渡り」をクリアした伊藤カイジを帝愛グループの会長が褒めていたことから、彼に敵愾心を抱くようになります。
度が過ぎるほどの「人の良さ」を前面に出しているようなカイジと異なり、一条は「他人を押しのけることで自分の席を確保する」ことを思想信条とする人物。
作中で2人は、ギャンブラーとしての心理戦を競うのみならず、信条においても争っていくことになります。

映画「カイジ2~人生奪回ゲーム~」で主人公を演じている藤原竜也の出演作品としては「バトル・ロワイアル」シリーズが特に有名です。
ただ、私が初めて観賞した藤原竜也出演作品は映画「DEATH NOTE」2部作で、それ以降は前作「カイジ~人生奪回ゲーム~」の金曜ロードショー版までとんと縁がなかったというのが実情だったりします。
同じく映画「DEATH NOTE」で藤原竜也と共演し、かつ前作「カイジ~人生奪回ゲーム~」でも登場していた松山ケンイチが主演している映画の観賞作品は「椿三十郎」「L change the WorLd」「GANTZ」2部作そして「マイ・バック・ページ」と結構縁があったのですが。
映画「DEATH NOTE」以来、藤原竜也の姿を見ることがなかっただけに、その姿を久々に確認した時は何となく嬉しいものがありましたね。

映画の「カイジ」2作におけるカイジ役の藤原竜也は、演じる役の性格が似通っていることもあってか、演じ方がそのまんま映画「DEATH NOTE」の夜神月を想起させるものがありますね。
いかにも舞台のど真ん中でひとり絶叫しているような描写や、苦境に陥った際の見苦しい悪あがきぶりなどはほとんど「まんま」ですし。
この辺り、出演する作品毎に登場人物の性格どころか容姿まで丸ごと変わってしまう松山ケンイチとは対極にあると言えるのではないかと。
前作「カイジ~人生奪回ゲーム~」では、最初「松山ケンイチが出演している」という情報を私は知らなかったのですが、観賞後に知った後でも「あれが松山ケンイチだったの!? 全く見分けがつかなかった」と驚いたくらいでしたし(^^;;)。

原作にはないものの、原作者である福本伸行本人が考案したという物語中盤登場の映画オリジナルゲーム「姫と奴隷」は、ゲームの内容も映画としての描写も秀逸の一言に尽きますね。
このゲーム、プレイヤーとなる奴隷には3つの檻とそれを開くボタンが用意されているのですが、1つには姫が、残り2つにはライオンが入っています。
そして、1~3までの数値が振られている3つのボタンの1つをプレイヤーは押下し、姫が入っている檻が開けばプレイヤーの勝利、ライオンの檻が開けば食い殺されて死亡、という内容です。
ここで面白いのは、姫は予め正解となるボタンを知ることができ、かつそれをプレイヤーに教えることも可能、というルールがあることです。
一見すると最初からプレイヤー側の勝利が約束されているかのように見えるゲームですが、しかし姫がプレイヤーに教える「正解」が本当であるという保証は実のところ全くなかったりします。
実際、「姫と奴隷」に挑んだ最初の挑戦者は、カジノ側が約束した300万の報酬に動かされて姫側が挑戦者を裏切ってしまい、挑戦者にわざとハズレのボタンを教えてライオンに食い殺させていました。
かといって、姫が本当に正解のボタンを教えていた場合、それを信じなければ自ら率先してハズレのボタンを押すという愚挙をしでかすことにもなりかねません。
非常に単純なのに人間心理的に奥の深いゲームと言って良く、またそれをカイジが乗り切るための伏線の張り方や演出も上手く、地味ながらもここが一番感心させられたところでした。

ただ、物語後半におけるパチンコ台「沼」の最終決戦については、カイジと対決する立場にあった一条聖也の視点で考えると、彼にはもっと安全確実な勝利への道があったように思えてなりませんでしたね。
パチンコ台「沼」は、一条によって絶対に勝つことができない細工が二重三重に施されていたのですが、カイジ一派はそのトリックを見破り、自分達に有利になるよう逆細工を行い、勝負を有利に進めていきます。
これに対し一条は、ただひたすらパチンコ台にイカサマが仕込まれていないかとか、店の信用を失わせるほどに露骨な小細工でパチンコの玉を入れさせないとか、とにかくパチンコ台のみに注視した対応ばかりやっているんですよね。
実は一条には、パチンコ台の操作などよりもはるかに強力な武器が、それも最初から備わっていたはずなのです。
それは彼がカジノの支配人であり、かつカジノ内における最高権力者であるという事実です。
一条がその権限を行使さえすれば、「カイジ一派がパチンコ台で不正を行っていた」という【カジノ側にとって都合の良い事実】をでっち上げ、問答無用に敗北を叩きつけることが容易にできたはずなのです。
それを最初からやっていれば、カイジ側がどんな小細工を弄していたとしても、彼らに無実の罪を着せることができ、ああまでハラハラドキドキしながらパチンコ台の小細工に忙殺される必要もなかったことでしょう。
一応作中でも、一条はカイジ達が不正を働いているのではないかと調査を一度行っているのですが、バカ正直に正規の方法で調査を実施した挙句、不正の証拠を上げることができなかったんですよね。
カイジ達がどんな小細工を弄していようと関係ない、罪をでっち上げて潰してしまえば問題ないのだ、とまでは、さすがに彼も割り切ることができなかったのでしょうか?

また一条は、自分の奴隷同然の身になっていた利根川がカイジについた際も、彼の身分剥奪やカジノ内における一切の権限停止などといった措置を一切行っていませんし、石田裕美がカイジ側についた時も同様でした。
一条はカジノの支配人なわけですし、利根川も石田裕美も名目上は部下扱いなのですから、彼らに「カイジ側につくな」と命令を下したり、違反した場合に制裁を下したりするなどといった行為も、己の権限内で普通に行えることであるはずでしょう。
それを行っていれば、彼らがカイジ側についた瞬間に「カジノの従業員としての権限を全て剥奪する」と宣言した上で、彼らが持っていた金権を全て無効化することが合法的に可能だったのです。
最後に登場した「切り札」の発動などよりも、こちらの方がはるかに「スマート」なやり方ですし、相手が(名目的な)自分の部下ということも手伝って、カジノの信用もそれほど損なわれずに済んだのではないのかと。

まあもちろん、実際にそういう「問答無用な強権発動の乱発」的なことをやってしまうと、「カイジ」シリーズがメインにしているであろう頭脳戦や心理戦の「売り」そのものが全て御破算になってしまうわけですから、作品的にそういうことはできないという事情は当然あるでしょう。
しかし物語終盤における一条は、もはや「カジノの信用を完全に失墜させてでも、目の前におけるカイジとの戦いに勝利する」「そのためには手段を問わない」という状態にあったのですし、勝負に負けてしまえば彼は前作の利根川同様に破滅の運命が待っているのですから、彼の立場的にこれを使わなかったというのはさらに不思議でならなかったのですけどね。

俳優さんの演技・演出も良く出来ていましたし、頭脳戦や心理戦メインのストーリーを楽しみたい方には是非オススメしたい作品ですね。

映画「一命」感想

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映画「一命」観に行ってきました。
滝口康彦の小説「異聞浪人記」を原作とし、江戸時代初期に蔓延したと言われる「狂言切腹」を題材に「武士の生き様」に対し疑問を投げかける作品。
2010年11月に暴行事件を起こしニュースになった市川海老蔵が主演ということで話題になった映画です。
時代劇なのに3D版公開などという、観客的には実に無意味&ボッタクリもはなはだしい仕様で撮影が行われていたようですが、幸い行きつけの映画館では2D版も公開されていたため、3D版の回避には成功。
何でもかんでも3D版にすれば良いってものではないだろうと、私としては思えてならないのですけどねぇ(-_-;;)。

1630年(寛永7年)の冬。
徳川幕府に仕える名門・井伊家に、ひとりの浪人が門戸を叩きました。
市川海老蔵扮するその浪人・津雲半四郎(つくもはんしろう)は、主君を失い、その日暮らしの生活にも疲れたので、せめて武士らしく最期を遂げたい、そのために庭先を貸してくれと井伊家に申し出てきます。
その申し出に対し、「またか」とウンザリした顔で騒ぎ立てる井伊家に仕える武士達。
当時の日本では、中央集権体制の確立を企図した江戸幕府による大名取り潰しが相次ぎ、仕える主君と職を失い生活に困窮し浪人化する武士が頻出していました。
そして、そんな浪人のひとりが「最期を遂げたい」とある大名家に申し出、その心意気に感心した大名家が家臣として取り立てたという噂話が広まったことから、大名家に切腹を申し出ることで職を得たり、悪くても金銭を恵んでもらったりすることを目的とする「狂言切腹」というものが各地の大名家で問題化していました。
この事例を知る大名家の武士達が、素性も分からぬ浪人の切腹申し出に良い顔をするわけもありません。
彼らは口々に「門前払いをしろ」と言い立てますが、井伊家の家臣である斎藤勧解由(さいとうかげゆ)がそれを抑え、自ら会って話をすると津雲半四郎を招き入れます。
そして、切腹を申し出る津雲半四郎に対し、同年秋に起こった「狂言切腹」の話を始めるのでした。

斎藤勧解由が話し始めたのは、千々岩求女(ちぢいわもとめ)という若い浪人が起こした「狂言切腹」のエピソードです。
千々岩求女は当時頻発していた「狂言切腹」と同じく、金銭目当てで井伊家に「狂言切腹」を申し出たのですが、以前から「狂言切腹」を問題視していた斎藤勧解由ら井伊家の家臣達は、これに対し断固たる措置を取ることを決定します。
それは「狂言切腹」を申し出てきた千々岩求女に、本当に切腹をさせてしまうというもの。
金銭目当て、上手く言えば仕官の道も開けるかもしれないという意図で「狂言切腹」を申し出た千々岩求女は当然のごとく狼狽しまくり、「せめて1日の猶予を」「病に臥せっている妻子を医者に見せたいから3両下さい」などと本音を吐露しますが、斎藤勧解由は「武士に二言はない」の一言で撥ね付けます。
さらに、千々岩求女は「武士の魂」とされる刀ではなく木製の竹光しか所持していなかったのですが、井伊家家臣の面々はその竹光で切腹をするように仕向けます。
当然、竹光で腹を掻っ捌くことなどできるわけもなく、千々岩求女は何度も自分の腹に竹光を突き続けることになります。
その姿は壮絶の一言に尽きるのですが、周囲の武士達も残酷そのもので、介錯人を任されたはずの沢潟彦九郎(おもだかひこくろう)は「もっと腸を刀でかき回せ」「まだ足りない」などと冷淡に言い張り、なかなか介錯をやろうとしません。
その惨状を見かねた斎藤勧解由は、ついに自ら刀を取って千々岩求女に自らトドメを刺し、千々岩求女を楽にしてやったのでした。

斎藤勧解由から一連の話を聞かされた津雲半四郎は、しかしその場では千々岩求女のことを「哀れだ」と淡々と評しただけで、「止めるなら今のうちだぞ」と諭されたにもかかわらず、あくまでも自分は切腹をすると主張し続けます。
その頑固な心意気に根負けした斎藤勧解由は、ついに津雲半四郎が望む切腹を行わせるための準備を整えるのでした。
そしていざ切腹の仕儀となった時、津雲半四郎は、剣客として名高いとされる沢潟彦九郎を自分の介錯人にして欲しいと願い出ます。
ところがその日、沢潟彦九郎は井伊家に出仕しておらず、斎藤勧解由はやむなく沢潟彦九郎に出仕の使いを出し、津雲半四郎にその事実を告げます。
それに対し、津雲半四郎はさらに2人の武士の名前を指名するのですが、何とその2名の武士達も出仕しておらず、さらには沢潟彦九郎もまた、先日から行方をくらましていることが判明するではありませんか。
しかも、まるでそのことを予め知っていたかのような態度を取る津雲半四郎。
さすがに不審に思い始め、「貴様、何をしに来た」と問い質す斎藤勧解由と抜刀の構えを見せる周囲の武士達。
そして、それに応える津雲半四郎の口から、驚くべき事実が語られ始めるのでした。

映画「一命」は、切腹をメインテーマに扱っていることもあり、最初から最後までとにかく暗い話が続きます。
実は津雲半四郎と千々岩求女は義理の親子関係にあるのですが、彼らが「狂言切腹」に至った経緯も理由も不幸そのものです。
裕福な武士の生まれだったのに大名改易で浪人化し、妻子が病に倒れ、医者にかかるためのカネもないという状況は、当時の社会情勢や経済水準から見ればごくありふれた現実ではあったのでしょうけど。
また、作中の演出や舞台も、全体的に「貧乏な江戸時代」を前面に出しているイメージがありました。
元々貧乏な暮らしをしていた主人公親子の家が貧しいのは当然にしても、一応は名門・井伊家の家臣であるはずの斎藤勧解由の部屋でさえ、障子や壁が相当なまでに黒ずんでいるなど、薄汚れかつ質素な佇まいをしていますし。
実際の江戸時代もあんなものだったのかもしれませんが、時代劇などに出てくる家屋でももう少し綺麗な佇まいをしているのを見慣れていただけに、「えらい貧しい暮らしぶりだなぁ」というのが感想でしたね。

ただ、結果的に義理の息子を惨たらしく殺されてしまった形になる津雲半四郎が、斎藤勧解由に対して「慈悲をかけようとは思わなかったのか」と訴えかけるシーンは「さすがにそれは違うだろう」とは思いましたが。
井伊家の面々にしてみれば、千々岩求女の事情なんて津雲半四郎が話すまで全く知らなかったわけですし、仮に知っていたとしても「狂言切腹」でいちいち慈悲を示して金子を恵んでいたりしていたら、ここぞとばかりに他の浪人達が模倣し始める懸念もあるのですから。
井伊家の面々が自分達と何の関わりもない千々岩求女を助けなければならない理由など、世界中探したってあるわけもないのですし。
まあだからと言って「狂言切腹」を字面通りに受け止めて意図的に切腹までさせてしまう、というのは、現代どころか当時の価値観からしてさえやり過ぎの範疇ではあるのでしょうけど。
作中の記述を見る限り、他の大名家でも井伊家のごとき処断はできなかったみたいですからねぇ。

しかし、この作品の真骨頂は実は物語のラストにあります。
物語終盤、自分の正体を現し、ここぞとばかりに井伊家屋敷の中で大立ち回りを披露した津雲半四郎に対し、斎藤勧解由は「武士に二言はない」云々に代表される説法を説きまくっています。
ところがよくよく考えてみると、津雲半四郎を井伊家屋敷に招き入れてしまった時点で、既に彼らは「自らの手で賊を侵入させた」も同然の不祥事をやらかしてしまっていることになります。
さらに津雲半四郎は、大立ち回りの最中に、井伊家の象徴とされる赤備えの鎧一式を破壊してしまうのですが、こんなことまでされてしまったら当然、斎藤勧解由をはじめとする井伊家家臣一同は、その全員が責任を問われた挙句に切腹どころか斬首・遠島などの重罪すら課せられてもおかしくはなかったはずです。
現に作中では「武士の象徴」である髷を取られただけで、沢潟彦九郎と他2名の武士達が切腹に追い込まれたりしているのですし。
ところが、一連の「狂言切腹」騒動が治まり、井伊家の殿様が屋敷に帰還した際には、津雲半四郎が破壊したはずの赤備えの鎧一式は何事もなかったかのように元の場所に鎮座していた上、目新しくなっている鎧を見て「(赤備えの鎧を)手入れしてくれたのだな」と質問してきた殿様に対し、斎藤勧解由は事の真相を全く告げることなくおべっかを並べて平伏している始末です。
斎藤勧解由が津雲半四郎に対して説きまくっていた「武士の生き様」とは一体何だったのか、と思わずにはいられなかったですね。
何しろ、一般的に思われているであろう「武士の生き様」を主張していたはずの当の斎藤勧解由自身が、その「武士の生き様」という概念を全て御破算にしてしまう「生き様」を、しかも自分の主君相手に堂々と披露しているわけなのですから(爆)。
「武士に二言はない」というのは、一言も発することなく事実を好き勝手に改竄・隠蔽してしまえば責任回避は充分に可能、という意味だったのか。
「面目は施さなくてはならない」というのは、下の人間に全ての責任を押し付けて口封じも兼ねて殺してしまい、そ知らぬ顔を決め込んでいれば良いということだったのか。
確かにそれも「武士の生き様」には違いなく、また実際にそうやって生きてきた武士も決して少なくはなかったでしょうが、ある意味身も蓋もない事実の肯定ですね(苦笑)。
このラストの大どんでん返しを、作者ないし映画の製作者達が、まさに私が感じたようなことを意図して作ったというのであれば、それはある意味最高傑作として讃えられるべき所業ではあるのですが……。

内容が地味かつ暗いこともあり、映画「一命」は、お世辞にもハリウッド映画のように大衆受けする内容のストーリーとは到底言えたものではないですね。
時代劇が好きという人か、出演している俳優さんが好きという人ならオススメでしょうけど、人によって好みが分かれそうな作品ではあります。

映画「はやぶさ/HAYABUSA」感想

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映画「はやぶさ/HAYABUSA」観に行ってきました。
2003年5月9日に打ち上げられ、2010年6月13日にサンプルを地球に投下して消滅した小惑星探査機「はやぶさ」、およびその開発・運用に関わった人々の実話を元に製作されたドラマ作品。
今作は日本のみならず、アメリカでも2012年3月に主要10都市にて劇場公開予定であることが発表されたみたいですね。

物語の始まりは2002年。
当時の文部科学省宇宙科学研究所(ISAS、2003年10月にJAXAに統合)の対外協力室室長だった的場泰弘が、まだ「はやぶさ」という名前が付けられていなかった小惑星探査機「ミューゼスC」についての講演を行っているシーンから始まります。
当時はまだ小惑星探査機についての世間一般の関心がそれほど高くなかったこともあってか、講演の入場者数は主催者側の想定よりも低かったのですが、その中でひとり、的場泰弘の講演内容に感動した女性がいました。
その女性・水沢恵は、講演終了後、わざわざ会場を後にしようとする的場泰弘の眼前に現れ、自分が抱いた感想や疑問を的場泰弘に直接ぶつけまくるというミーハー根性丸出しな行動に打って出、これが的場泰弘の印象に強く残ることになります。
それからしばらく経った同年夏、古本屋のアルバイトとして働いていた水沢恵の下に、的場泰弘から「宇宙科学研究所に来てみないか?」という誘いの電話がかかってきます。
宇宙科学研究所の研究生として迎えられることになった水沢恵は、主に「ミューゼスC」研究開発チームの雑用係的な仕事と、広報スタッフとしての仕事を主に担当することになります。
しかし広報活動の中で、宇宙科学研究所の施設を見学に来た小学校低学年とおぼしき子供から質問をされた際、水沢恵は専門用語を早口で乱発しまくって顰蹙を買うという失態を演じてしまい、自分達の仕事の内容を他者に伝えることの難しさを痛感します。
そこで水沢恵は、子供向けに分かりやすく親切丁寧な説明を行うため、絵本的な構成で解説を行う「ミューゼスC君の冒険日誌」の製作に着手することを決意。
的場泰弘に頼み込んで宇宙科学研究所の資料室に入れてもらい、様々な資料を漁りまくる水沢恵。
ここで、1985年から始まる「ミューゼスC」製作秘話が語られることになります。
一方、的場泰弘は「ミューゼスC」を打ち上げるための予算と候補地を確保するために奔走。
文部科学省、および打ち上げ候補地のひとつである鹿児島県内之浦町の漁業組合との交渉を纏め上げ、「ミューゼスC」の打ち上げが正式に決定されます。
そして2003年5月9日、「ミューゼスC」には「はやぶさ」という名前が冠せられ、多くの人々が見守る中、内之浦宇宙空間観測所よりM-Vロケット5号機によって打ち上げられ、結果的には実に7年以上にも及ぶ長い長い宇宙の旅へと出て行くことになるのです。

映画「はやぶさ/HAYABUSA」では、小惑星探査機「はやぶさ」というかなり専門的かつ特殊なあり方について、当然のごとく詳細な説明が作中で行われています。
しかし、物語の範囲が2002年~2010年と実に8年もの長きに渡る上、「はやぶさ」のエピソードのみならず主人公・水沢恵や「はやぶさ」関係者達の人間ドラマまで展開されるため、物語の展開が早く説明もさっさと過ぎ去ってしまうという印象が強かったんですよね。
作中でも専門用語について数多くの注釈が出てきますし、作中の水沢恵が他者への説明に苦労する描写が見られることもあってか、かなり平易に説明しようとする努力は伺えるのですが、理解が追いつく以上に話の展開が早いと言わざるをえないところでして(-_-;;)。
すくなくとも「はやぶさ」について何の予備知識もない人が1回映画を観るだけでは、「はやぶさ」絡みの技術的な知識や問題について理解するのはかなり難しいのではないかと。
何度も繰り返し観るのであれば話は別なのでしょうけど、DVDならばともかく、映画館で同じ映画を何回も観賞するという人はあまりいないでしょうからねぇ。
シリーズ分割するような余裕がないとは言え、上映時間140分の中にあまりにも大量の情報を詰め込み過ぎなのではないか、というのが私の率直な感想だったりします。
この映画を観賞する際には、「はやぶさ」の旅程や技術などについてある程度事前に予習をしておいた方が良いのではないかと思えてならないですね。

また、作中のあちこちで水沢恵が描いていた「ミューゼスC君の冒険日誌」は、実際にJAXA(宇宙航空研究開発機構)の公式サイトで公開されている「はやぶさ君の冒険日誌」がベースになっていたりします↓

はやぶさ君の冒険日誌
http://www.isas.jaxa.jp/j/enterp/missions/hayabusa/fun/adv/index.shtml
PDF版
http://www.isas.jaxa.jp/j/enterp/missions/hayabusa/fun/adv/image/adv_2010tadaima.pdf

エンドロールではその一部が掲載されており、さらにこれまで日本が打ち上げてきた人工衛星や小惑星探査機の数々が併せて紹介されています。
税金の無駄だの非効率だのとマスコミや国会などから散々非難されつつも、日本の宇宙技術開発は他国に誇れる業績を地道に積み上げてきていたのだなぁ、と感じさせてくれるものではありましたね。

物語の展開は「はやぶさ」に関する説明も含めとにかく地味なので、ハリウッド映画のような作品が好みという人にはあまりオススメできる映画ではないですね。
あくまでも「はやぶさ」ファンのための作品、といったところでしょうか。

映画「DOG×POLICE 純白の絆」感想

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映画「DOG×POLICE 純白の絆」観に行ってきました。
警備犬と警察官が互いに成長しつつ、警視庁を震撼させる連続爆破事件に挑む姿を描いた作品。
今作は、映画料金一律1000円で観賞できるファーストデー(映画の日)での観賞となりました(^^)。

物語は、多くの人で賑わう大型ショッピングモールで、ゴミ箱に設置されていた爆弾が爆発するシーンから始まります。
死亡者1名と多くの負傷者を出す騒ぎに発展する中、警察による厳戒態勢が布かれ、現場に近づこうとする野次馬を抑えるために多くの警察官が動員されることになります。
その中の警察官のひとりである主人公・早川勇作は、群がる野次馬の中に不審な人物を発見します。
自分と目が合うや否や突然逃げ出したその人物を、早川勇作は後先考えず自分の持ち場を無断で抜け出して追跡行を開始します。
何とか不審人物を追い詰め、公務執行妨害の現行犯で捕まえることに成功したものの、不審人物との取っ組み合いの最中、たまたま自転車でその場を通りかかった通行人が巻き添えになり怪我をしてしまうというアクシデントが発生してしまいます。
通行人が怪我をしていることを確認し、そのことに責任を感じざるをえなかった早川勇作はすぐさま救急車を呼ぼうとしますが、通行人は「もうすぐ赤子が産まれるから…」という理由でその申し出を拒否します。
早川勇作が通行人を乗せた自転車をこぎ、辿り着いた目的地では、しかし出産は出産でも人間ではなく犬のそれが行われようとしている場面でした。
実は件の通行人は獣医さんだったわけですね。
出産の場では早川勇作も手伝わされる形で、3匹の仔犬が健康体で無事に出産されます。
しかし、そこで獣医が母親犬の様子を確認すると、さらにもう1匹、母親の胎内に引っかかっている仔犬が確認されました。
何とか仔犬は母親の胎内から引きずり出されたものの、他の黒い仔犬と違って皮膚の色が白く、その上呼吸もしていなかった状態であり、獣医と母親犬の飼い主らしき人物は「これは死んだな」と諦めムードに入ってしまいました。
しかし早川勇作は諦めることができず、人工マッサージもどきな行為を繰り返すことでその白い犬の蘇生に成功します。
これが、早川勇作と後のアルビノ犬シロとの最初の出会いでした。

早川勇作が取っ組み合いの末に捕まえた不審人物は、結局件の爆破事件とは何の関係もなく、さらに早川勇作は独断専行について上司から厳重注意を受け始末書を書かされることになります。
それからしばらくして早川勇作は、それまで所属していた部署から、警視庁警備部二課装備第四係、通称「イヌ屋」への配置転換を命じられます。
そこでは、災害救助や犯人の制圧行動を主な任務とする「警備犬」の育成と訓練をメインとする部署でした。
警備部所属の「警備犬」は、刑事部鑑識課の所属で犯人の足跡調査などといった捜査の支援を主な役割とする「警察犬」とは明確に区別されるということが、作中でも説明されています。
しかし、犯人逮捕を志していた早川勇作にとって「イヌ屋」の仕事は熱意を失わせるに十分なもので、ついに彼は「イヌ屋」こと警視庁警備部二課装備第四係の係長である向井寛に土下座まで刑事部に戻すよう懇願までする始末。
しかし向井寛の口からは、早川勇作の独断専行と協調性のなさが刑事部側で問題視され「こいつはいらない」と評されていた事実が無情にも告げられ、早川勇作は前途の暗さに絶望することになるのでした。
そんなある日、向井寛は早川勇作を連れ、早川勇作が育成・訓練するための警備犬、通称「バディ」をあてがうための犬を選出します。
その犬は何と、物語冒頭で早川勇作が生命を助けたアルビノ犬シロだったのです。
嗅覚が鋭い母親の血統を受け継いでいるシロは、アルビノ(劣性遺伝)というハンディを背負い、普通の犬並みの体力や持久力を持ち合わせていないことから「警備犬としては不適格」という評価が下されていたような犬でした。
不平満々な様子を見せながらも、早川勇作はシロを警備犬として育て上げるべく奮闘することになるのですが……。

映画「DOG×POLICE 純白の絆」を一通り観賞していて思ったのは、「この作品、ストーリー構成や設定が映画『岳-ガク-』にそっくり」というものでした。
特殊な仕事についての詳細かつ現実的な説明。
自分なりの理想をもって上司に反発して独断専行ばかりやらかした挙句、情け容赦のない現実を見せ付けられて挫折を味わう主人公。
その主人公に現実を見せ付ける役割を担う凄腕な実力を持つ教育係の存在。
上司の過去の出来事に纏わる上司とメインヒロインとの因縁めいた人間関係。
全て映画「岳-ガク-」にも存在する作品の特徴です。
特に、メインヒロインである水野夏希の父親がかつての上司で、かつその上司の娘を部下として迎え入れることになったという向井寛の過去話などは、聞いた瞬間に「岳-ガク-」で山岳救助隊をまとめていた野田正人のエピソードを連想してしまったほど全く同じパターンでした。
この作品、「岳-ガク-」をかなり意識して製作していたのではないか、とすら考えてしまったほどです。

ただ一方で、「DOG×POLICE 純白の絆」は「岳-ガク-」ほどには主人公の成長がきちんと描かれていないようにも見えましたね。
というのも、今作の主人公・早川勇作は「独断専行や協調性のなさ」から組織でハブられ、また物語中盤でも少なからぬ失敗を繰り返し、周囲からも散々に問題点を指摘され注意も受けているのですが、物語後半になってさえもその行動原理は全然改善されてなどいないんですよね。
爆弾を処理する際も、爆破事件の犯人を追い詰める際も、結局彼はひたすら周囲と連携を図ることなく独断専行を貫き通しています。
一番問題なのは、彼が独断専行的な行動を取る際、上司や他の同僚に対して無線通信で連絡を取るということすらもしていない点です。
作品は違いながらも、同じ警視庁警備部に所属しかつ独断専行も多かったSPシリーズの井上薫でさえ、上司や同僚達と密接に連絡を取り合って相互連携を図るシーンが少なからず盛り込まれていたというのに。
自分の状況はこうだからどうすれば良いかと上に指示を仰ぐ、という常識はもちろんのこと、「ただいま犯人を追跡中、現在○○地点から△△方面に移動中」のような状況報告すら、作中の早川勇作はほとんど行っていません。
緊急事態であり時間的な余裕もない、という事情もありはしたでしょうが、手を使わずに無線通信ができるわけですし、簡単な状況報告の類であれば走っている途中でも容易に行うことはできたはずなのですが。
最低限の状況報告さえ行っていれば、上層部だってバカではないのですから後詰の支援や援軍の派遣程度のことは充分に行えるでしょうし、そういうことはむしろ非常時で失敗が許されない状況「だからこそ」しっかりやっておく必要があるものだったでしょうに。
物語のラストで早川勇作が重傷を負った際でも、現在位置を知らせる連絡を早川勇作がちゃんと行っていれば、シロがあんな無駄に走る手間も必要なく、また水野夏希に危険な作業をさせることもなく、より安全確実に味方からの救助を受けることができたはずです。
そう考えるとラストのアレも、主人公の「独断専行と協調性のなさ」の結果としての自業自得としか言いようがなかったのではないかと。
「岳-ガク-」の成長要素が「現実の直視」と「非情な決断力」だったのに対し、「DOG×POLICE 純白の絆」では「周囲との協調性」が何度も強調されていたことが、成長物語としての評価の違いを生んだのでしょうけどね。

作品のテーマ自体は決して悪いものではなく、またアクションや迫力ある描写もまずまずの出来ではあっただけに、成長物語としての部分をもう少し練りこんで欲しかったところですね。

映画「日輪の遺産」感想

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映画「日輪の遺産」観に行ってきました。
浅田次郎原作の同名小説を映画化した作品。
この映画、私の地元熊本では熊本市中心部にある熊本シネプレックスでしか上映されていなかったため、そこまで出向いての映画観賞になりました。

この映画のメイン舞台は1945年8月なのですが、物語冒頭は2011年3月から始まります。
まずはアメリカの別荘らしき家でインタビューを受ける日系アメリカ人がクローズアップされますが、彼はその後の物語に繋がるいくつかのキーワードを並べただけでその場ではすぐに出番が終了します。
次に舞台は、同時期の森脇女子学園中等部で行われようとしている卒業式に移ります。
森脇女子学園には、戦前に空襲の犠牲となり死亡したとされる当時の女学生19人と教師1人の名が刻まれた追悼のための石碑がありました。
そこへ、車椅子に乗った老人と年の離れた奥さん、そして彼らの義理の息子(婿養子だったらしい)で構成されている3人がやってきます。
彼らは森脇女子学園に毎年多額の寄付を行うことと引き換えに中等部の卒業式に出席しており、また森脇女子学園で教師職に就いている孫娘と、その孫娘と結婚を前提として付き合っているらしい彼氏に会うことも兼ねて、今回森脇女子学園に足を踏み入れていたようでした。
しかし中等部の卒業式が厳かに執り行なわれていた最中、老人が突然発作を訴えて倒れてしまい、高齢ということもあってかそのまま帰らぬ人となってしまいます。
そして、故人の遺言で密葬が執り行なわれる中、未亡人となった奥さんは、一家の人間と孫娘の彼氏を呼び集め、森脇女子学園の石碑について「あれには本来私の名前も入るはずだった」と前置きした上で、物語の本編となる戦前の話について語り始めるのです。

1945年8月。
日本にとっては敗戦間際の絶望的な状況の中、語り部の奥さんこと金原久枝は、森脇女子学園の前身である森脇女学校の女生徒20名のひとりとして、教師・野口孝吉の指導の下、当時行われていた学徒勤労動員に従事していました。
そんな中、憲兵達が野口孝吉を治安維持法違反で逮捕・連行するという事件が発生します。
1週間後に野口孝吉は無事釈放され女生徒達のところへ戻ってくるのですが、これが伏線となって彼女達の運命が決定づけられます。
一方、日本の帝国陸軍近衛第一師団に所属している真柴司郎少佐は、東部軍経理部所属の小泉重雄主計中尉と共に軍首脳から直々に呼び出され、ある重大な密命を帯びることとなります。
その密命の内容とは、山下奉文によってもたらされたらしい、当時の金額で900億円(現在の金額換算で200兆円)にも及ぶマッカーサーの隠し財産を隠蔽するというもの。
そして、その財産を隠蔽するための勤労要員として、あの森脇女学校の女生徒20名と教師・野口孝吉に白羽の矢が立つことになるわけです。
隠し財産であることは彼女達にも秘密なので、表面的には本土決戦の際の秘密兵器を隠蔽するという口実で作業は進行されていきました。
しかし、4日間におよぶ作業の末、ようやく極秘任務完了の目処が立ってきた頃、軍上層部は真柴司郎少佐に対し、森脇女学校の女生徒と教師に対する内容の命令が送られてきます。
それは、任務の内容が外部に漏れないようにするため、隠蔽作業に従事した森脇女学校の女生徒と教師に死を与えよ、というものだったのです。

映画「日輪の遺産」は、そもそも話の前提条件自体に大きな疑問があります。
一番致命的なのは、そもそも日本側がマッカーサーの隠し財産を隠蔽する必要など、実のところ全くなかったという点です。
マッカーサーの隠し財産を接収した日本政府にしてみれば、その隠し財産をそっくりそのまま戦利品として「公式に」接収し日本の国家予算の一部に組み込み、使い切ってしまえば、何もあんな手の込んだことをしなくてもマッカーサーからの追跡の手を逃れることは簡単に行えてしまいます。
カネはいくらあってもあり過ぎということはないわけですし、戦争にせよ戦後復興にせよ、使用すべき用途はいくらでもあったはずでしょう。
むしろ、死蔵しているも同然の財産を下手に隠蔽し続けることの方が「いつ奪い取られるのか」という不安が常に付き纏う上、隠蔽している間は何の用途にも使えないという点で非合理もいいところです。
一方、マッカーサー側にしてみれば、もしマッカーサーに「自分の命令=国家の意向」レベルの無尽蔵な権力が存在する場合は、奪われた財産の額に相当する賠償金を日本政府に要求してカネを作るという手法を使ってしまえば、わざわざ自分で財産を探す必要それ自体がなくなってしまいます。
マッカーサーは労せずして自分が失った財産をいとも簡単に取り戻すことができるのですし、賠償金を要求された日本政府は、要求されたカネが払えなければ結局自分達の手で隠蔽した隠し財産を自ら掘り起こし、マッカーサーに献上せざるをえなくなるのですから。

そしてここが重要なのですが、実はGHQ時代におけるマッカーサーはそこまでの権力など持ってはいませんでしたし、そもそもあの隠し財産には「アメリカが公式に保有する公のものではない」という大きな弱みがあるのです。
マッカーサーの隠し財産はあくまでも「マッカーサー個人」のものでしかなく、しかも作中におけるマッカーサーの言動を見る限り、マッカーサーはその存在を公にすることすらなく秘密裏に探索を進めています。
アメリカ本国にしてみれば、たかだかマッカーサー個人の隠し財産を補填するだけのために日本政府にカネの要求をするなどという不毛な行為などやりたくもなかったでしょうし、またマッカーサー側からしても、下手にアメリカ本国の公的な意向を背景にしてしまうと、個人的な隠し財産をそっくりそのままアメリカ本国に接収されてしまう危険性があります。
それどころか、隠し財産の半端じゃない金額から考えると何らかの不正が行われている可能性もあるため、下手をすればアメリカ本国から脱税や公金横領等の罪に問われ、財産没収どころか政治生命すら終焉を迎えてしまうリスクもあったりしますよね。
マッカーサーが赴任していた当時のフィリピンは完全な独立国ではなく、マッカーサー本人もアメリカの軍人なのですから。
国家的な背景のない個人的な隠し財産、そこにマッカーサーの致命的な弱みがあるわけです。

また、マッカーサーは物語終盤で偶然にも日本側が隠匿した自身の隠し財産を見つけることに成功します。
ところが、その隠し財産に寄り添うように並んで転がっていた女学生19人の白骨死体と「七生報国」の鉢巻を見てヒステリックに叫びまくった挙句、隠し財産を全く回収することなく「ここは永遠に閉鎖しろ」と部下達に命じてその場を立ち去ってしまうんですよね。
私は何故マッカーサーがそんなことをしなければならないのが、疑問に思えて仕方がありませんでした。
マッカーサー的には、日本人が「簡単に自決する」ことに恐怖を感じてもいたのでしょうが、そういった事例自体を目にするのは別にその時が初めてだったというわけではないでしょう。
作中でも、隠し財産の場所を教えることと引き換えに経済政策についての提言書を受け入れるようマッカーサーに迫った小泉重雄元主計中尉が、拒否の返答を聞くやマッカーサーの眼前でピストル自殺していますし、それ以前にマッカーサーの立場であれば、日本軍の強さや特攻の実態などについて何度も目の当たりにしていたはずです。
それらのことに比べれば、たかだか女学生19人が集団自殺していた程度のことなど「路傍の石ころ」「既に周知の事実」程度の事象に過ぎないわけで、ああまでヒステリックになった挙句、900億円相当の隠し財産を放棄すらしなければならないようなことだったのかと言わざるをえないんですよね。
むしろマッカーサー的には、白骨死体を踏みつけて「バカなジャップ共が意味不明な理由で勝手に死んでくれてせいせいした」とでもふんぞり返り、隠し財産が見つけられたことに素直に欣喜雀躍しても良かったところだったでしょうに。
当時の欧米諸国が当然のように抱いていた人種差別的思想から考えても、マッカーサー個人もかなりの人種差別主義者だったことから言っても、そのように反応する方がはるかに自然だったのではないかと。
たかがあの程度のことであそこまでヒステリックになってしまう(作中の)マッカーサーって、実は軍人や政治家としての適性が著しく欠落しているのではないか、という疑念すら抱いてしまったくらいなのですけどね、私は。

とまあ、政治的な視点で見れば結構色々なツッコミどころがありますが、普通に悲劇物として観賞する分には何の問題もない作品です。
戦時下の絶望的な状況下でアレだけ明るく振る舞い&助け合い、戦争自体に批判的な声すらも上げていた女学生達が、自分達に対する軍からの命令を知った後に自ら率先して集団自決という道を選ぶ結末には驚くべきものがありましたが。
自分達に死を命じる軍の理不尽な命令なんて聞く必要はないし、何も自殺することはなかろうに……とはやはり現代人の考えなのであって、当時の風潮と、何よりも彼女達自身の「純粋さ」からは、あのような結末が導き出されてしまう必然性もあったのでしょうね。
賛否いずれにせよ、色々と考えさせてくれる作品であろうと思います。

映画「神様のカルテ」感想

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映画「神様のカルテ」観に行ってきました。
医師でもある夏川草介原作の同名小説をベースとした、地方医療における現実と患者の心の問題を描いたヒューマンドラマ系の作品。

物語の舞台は長野県松本市。
ここにあるそこそこ大きな総合病院である本庄病院で多くの患者を診る勤続5年の若き医師・栗原一止が主人公となります。
序盤の栗原一止は、表情というものがほとんどなく、目は虚ろで勤務中にしばしば独り言を呟き、さらには患者に対して淡々と事務的に対応しているかのような人物として描かれています。
重度のガン患者のひとりが危篤状態に陥った際も、その対応は事務的かつ淡々としたもので、その態度を新人の女性看護師・水無陽子に罵られていたりしています。
また、女性看護師が昼食に誘ったりする際も、「私には妻がいるから女性からの誘いには乗らないようにしているんだ」などという理由で断ったりするような「現実離れした堅物」的な一面も持ち合わせています。
その妻である栗原榛名は、作中でも長野の山々を撮影しているボランティア?の山岳写真家。
非常に良く出来た奥さんで、医師稼業で多忙を極めている夫を陰に日向に支える妻として描かれています。
趣味的には全く噛み合いそうにない上にお互い積極的でもなく、しかも恐ろしく堅物そうなあの2人が一体どうやって出会い、結婚にまで至ったのか、正直興味をそそられるところではありましたねぇ。
作中ではそのあたりの事情については全く語られませんでしたし。
まあWikipediaによれば、2人は結婚前も現在も居住している御嶽荘の住人同士という共通項があったそうなので、その縁から始まった夫婦関係ではあるのでしょうけど。

そんなある日、栗原一止にひとつの転機が訪れます。
本庄病院の消化器内科部長で栗原一止の上司でもある医師・貫田誠太郎が、信濃医科大学の研修に参加するよう栗原一止に勧めてきたのです。
勧められるがままに信濃医科大学の研修に参加した栗原一止は、大学の教授でその道の権威として知られる高山秀一郎にその医療技術を見込まれ、大学病院で勤務してみないかと誘われることになります。
より高度な最先端の医療技術を研究することが可能となる、万全の医療体制でより多くの患者を救うことも出来、もちろん自身の立身出世の道も開かれると、まさに良いことずくめの誘いであり、同僚で栗原一止の先輩である砂山次郎もまた誘いに乗るよう強く勧めてきます。
しかし、研修の最中に診断したひとりの女性の存在が、栗原一止のその後の動向に大きな影響を与えることになります。
安曇雪乃というその女性は、大学の研修では既に手の施しようがない末期ガン患者という方向で話がまとまっていきます。
そして、大学での研修を終え、再び本庄病院での勤務に勤しむ栗原一止の元に、如何なる理由でか栗原一止を探していた安曇雪乃が訪れるのです。
信濃医科大学病院で余命半年の末期ガンであると宣告された上に「その間に自分がやりたいことをやりなさい」と見捨てられたことを語る彼女に、栗原一止は「次の外来はいつにしましょうか?」と優しく語りかけるのでした。
それ以降、栗原一止は治癒の見込みがない安曇雪乃を本庄病院に受け入れるのですが……。

映画「神様のカルテ」では、患者の心の問題に医者がどのように接していくべきかについて、主人公が思い悩む姿が描かれます。
高度な技術力と的確かつ冷徹な判断力・決断力のみならず、患者の心の問題についても向き合っていくためのスキルを要求される上、医療関係者が最善の限りを尽くしても手の施しようがなく死んでしまう患者だって当然いるわけですから、医師という職種はなかなか難しいものがあります。
それだけでなく、診療しなければならない患者の許容量がオーバーしてしまい、重症患者を「たらい回し」しなければならない事態が発生することもありますし、そんな状況で患者が死んだ場合でさえ、遺族から罵倒どころか訴訟を持ち込まれることすらあるのです。
作中でも急患が受け入れられないと栗原一止が決断したり電話で話したりする場面がありましたし、「35時間連続労働」などという労働基準法を盛大に違反しているような問題を、現場の医師達がごく普通のことであるかのように話している場面があったりします。
主人公が医療現場の現実に悩み苦しむのも当然といえば当然ですね。

ただ、本当に医療問題の救いようがないところは、そういった多大な問題を抱え込んでいる日本の医療事情でさえ、世界的に見れば実は世界最高水準を誇っているという点なのですけどね。
大金持ちしかマトモな診療が受けられないアメリカ(1日の入院費用が数千ドル単位、個人破産の理由第一位が医療費等)や、診療までに恐ろしく時間がかかるイギリス(救急病院の待ち時間でさえ数時間以上はザラ、重症患者の入院・手術などは半年以上待ちが当たり前等)などの医療崩壊の実態は日本の比ではありませんし。
アメリカやイギリスにしてみれば、「神様のカルテ」で描かれている医療現場など「大多数の患者にとってありえない非現実的な理想郷」でしかないでしょうね。
日本以外の他国の人間がこの映画を観たらどんな感想を抱くのか、是非とも知りたいところではあります。

作中の描写の問題点としては、栗原夫妻が居住している御嶽荘の面々が突然のように現れるため、彼らの人間関係を理解するのに最初は苦労することが挙げられるでしょうか。
話が進むにしたがい、栗原夫妻と彼らが長年の親しい関係にあるらしいことは分かってくるのですが、原作を知らない私としては「この人達って誰?」「何故同じ屋根の下で一緒に暮らしているの?」と疑問符ばかり出ていました。
御嶽荘という住居自体、最初は「奥さんが経営している旅館か?」とすら考えていたくらいでしたし。
ただでさえ医療現場の描写に重点が置かれている中でこれらの事情をも一緒に説明するのは難しかったのでしょうし、それが学士との別れのシーンの感動を薄めるものではないのですが、その辺についてのフォローがもう少しあれば世界観の理解もしやすかったのではないかと。

ストーリーの路線としては、映画「星守る犬」のような「悲劇を伴うが未来に希望が抱ける感動ドラマ」に近いものがありますね。
作中に犬は全く出てきませんが(^^;;)。
そういう作品が好きという方であればオススメです。

映画「こちら葛飾区亀有公園前派出所 THE MOVIE ~勝どき橋を封鎖せよ!~」感想

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映画「こちら葛飾区亀有公園前派出所 THE MOVIE ~勝どき橋を封鎖せよ!~」(以下「こち亀THE MOVIE」)観に行ってきました。
週刊少年ジャンプで長寿連載されている同名の原作漫画を実写化した、2009年TBS放送ドラマ版をベースとする映画作品です。
原作については最近のものは読んでいないものの、以前はかなり面白く読んでいたクチだったので、基本的な設定などは把握した上での映画観賞となりました。
TBSで放送されていたという実写ドラマ版の方は全く観ていませんでしたが。
なお、今作で私の1ヶ月フリーパスポート使用による映画無料観賞は終了となります。

映画「こち亀THE MOVIE」では、前半と後半で作品の雰囲気がガラリと変わります。
前半はSMAPの香取慎吾が演じる主人公・両津勘吉の初恋物語と、日常風景を中心とする一種のコメディタッチなストーリーが主に展開されます。
冒頭は、東京都中央区の隅田川に架けられている勝鬨橋を、自転車通勤をしている両津が眺めつつ、少年時代の回想に入るところから始まります。
勝鬨橋には、大型の船舶を通行させるために橋の中心部が跳開する機能があり、少年時代の両津は、当時片思いだった少女・沢村桃子にトリビアネタとして語りまくります。
しかし沢村桃子はその話を信じることなく、親の都合で転校する別れの際に「そのウソのこと絶対に忘れないから」というセリフを残し去ってしまうのでした。
昔の思い出を思い出しながら、自分の勤務地である葛飾区亀有公園前派出所へと向かう両津の前に、その日が給料日ということでたまりに溜まったツケの支払いを求める亀有商店街の店主達が包囲、狭い路地を駆使した逃走劇が始まります。
逃走劇は結局、川辺で再び包囲された両津が、唯一の活路とばかりに川に向かって疾走し自転車を半壊させてとっ捕まった挙句、せっかくの給与を残金45円まできっちり削られて終了となります。
さすがに意気消沈して壊れた自転車を持ち歩いて派出所へ向かう両津は、横断歩道で通学児童達の誘導を行っている顔見知りの横田泰三にメシ代をたかります。
バナナを買ってもらい、喜び勇んでほおばっている両津は、通学している児童の中にひとり見慣れない少女を発見します。
後の話で出てくるのですが、両津は小学生相手にアイスの当たり棒を精巧に偽造して1本30円で売るなどというセコい商売をやっていたりするため、その方面でもかなり顔が広いみたいなんですよね。
そして、その少女のことが気になった両津は、川辺でひとり縮こまっていた少女に声をかけます。
両津がしばらく少女と会話していると、やがてその少女の母親らしき人物が現れ、少女に声をかけるのですが、その姿に両津は驚きの声を上げます。
その母親こそ、少年時代の両津の初恋相手だった沢村桃子その人だったのです。

沢村桃子は親の代から続いているらしい旅芸人の一座の座長を勤めており、仕事の都合で期間限定ながら再び東京に戻ってきていたのでした。
2人にとっては小学校の頃以来の再会となったわけですが、沢村桃子も当然のように両津のことを覚えており意気投合します。
娘がいるということは当然父親もいるはずなのですが、そのことについて両津が問い質したところ、父親となるべき人物は元々一座の人間だったものの結婚はしておらず、また娘が生まれる前に沢村桃子の前から突如自分の意思で姿を消してしまったのだとか。
いわゆるシングルマザーという沢村桃子の立場に「自分が付け入る隙はある」と言わんばかりに心をときめかせた両津は、沢村桃子が運営している一座に入り浸るようになり、持ち前の機転とコミュニケーション能力でたちまち一座に溶け込んでしまいます。
また、転校の繰り返しで友達も作れず暗く沈みがちだった沢村桃子の娘であるユイともあっという間に仲良くなり、彼女に友達を作るように促すのでした。
ユイが通っていた小学校のクラスでも、ユイと友達になりたいと考えるアプローチをかける少女がいたこともあり、ユイは母親が興行をしている舞台に他の同級生達を誘うことに成功するのです。
全ては順調に進んでいるかのように見えました。
しかし、ユイと積極的に友達になろうとしていた少女が警察庁長官の孫娘であったことから、ユイは誘拐事件に巻き込まれてしまいます。
そして、この誘拐事件を境に、物語はそれまでのコメディタッチな路線からシリアスな刑事ドラマ的路線へと一挙に変貌するのです。

映画「こち亀THE MOVIE」は、作品のタイトル名を見ても分かるように、2003年公開映画「踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!」が相当なまでに意識されています。
捜査戦略上、勝鬨橋を封鎖しようと画策するにもかかわらず、都知事の許可が必要なのに都知事と連絡がつかないとの理由から「勝鬨橋封鎖できません!」という場面が登場したりしますし、他ならぬレインボーブリッジも移動場面でしっかりと映し出されていたりします。
また、実は警察庁長官の孫娘が誘拐されていなかったことが判明するや否や、いかにも官僚的に通常の捜査体制に戻ろうとする警察上層部に対し、両津と中川が半ば脅迫同然の手法で強引に非常体制を維持させる描写なども、「踊る大捜査線」本家の流れに近いものがありましたね。
今作後半の両津と「踊る大捜査線」の青島俊作は、行動も結構似ているところがありましたし、「踊る大捜査線」のパロディと割り切ってみるとそれなりに楽しめる部分があるのではないかと。

前半までの両津はとにかくオーバーアクションばかりが目立っていて、序盤は「原作の両津ってこんなんだったっけ?」という疑問ばかりが頭をよぎったものでした。
TBSの実写ドラマ版でも、両津ってあんなパターンばかり披露していたのでしょうかね?
小学生相手に当たり棒のセコい商売をしていたり、大原部長の禿頭をネタにしまくった劇を作ったりした辺りの描写は「確かに原作でもこういうことやりそうだよなぁ」と頷いていましたが。
少年時代の話については、原作の話もそこそこにシリアスな構成になるので、その辺は特に違和感は覚えていなかったですね。
あと、白黒がメインの原作マンガではあまり印象に残らなかった中川圭一と秋本・カトリーヌ・麗子の制服は、実写で見ると凄く目立つシロモノになっていましたね。
両津も含めた他の警察官の制服がごく普通の標準的なものだったのに対し、中川の制服は黄色ベース、麗子のそれは赤ベースで、一目で誰なのかがすぐに分かるのですから。
これは実写ドラマ版の頃から一貫してそうだったのでしょうけど、マンガの方ではあまりカラー版を見た記憶がないこともあって、これはかなり印象が強かったですね。
実写になったことで初めて分かる意外な特徴、といったところでしょうか。

大作が目白押しの夏の映画事情から考えると、宣伝やファーストインパクトという点では、正直他の大作映画と比較してかなり遅れを取りそうな作品ではあります。
ただ、予測に反して作りは意外にしっかりしていたというのが私の感想ですね。

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