エントリー

カテゴリー「邦画感想」の検索結果は以下のとおりです。

映画「ロック ~わんこの島~」感想

ファイル 408-1.jpg

映画「ロック ~わんこの島~」観に行ってきました。
2000年に発生した三宅島大噴火の災害で、生まれ育った島を離れざるをえなかった小学生の主人公およびその家族と、飼い犬であるゴールデンレトリバーのロックの物語です。
なお、今作で私の2011年映画観賞本数は、記録的な大豊作となった去年1年間の映画観賞総本数である35本のラインに到達しました。
8月~10月にかけても観賞予定の映画が目白押しですし、今年の最終的な映画観賞総本数は60本近くまで行きそうな状況ですね(^^)。

作品最初の舞台は1999年?~2000年当時の三宅島。
東京から船で6時間半かかるこの島の「6区」で、民宿「たいよう」を営んでいる野山一家を軸にストーリーは進行していきます。
その野山一家の長男で今作の主人公である野山芯は、ヤンキーのような風体なのにウソがつけない熱血漢の父親・松男と、「かかあ天下」という概念を具現化したような母親・貴子の下で育った小学生。
ある日、父方の祖母である房子の家で飼われていたメス犬の老犬・ハナに、1匹の犬が生まれます。
母親犬が老齢で無理な出産だったことと、出産直後は反応がなかったことから最初は死産ではないかと思われていたのですが、野山芯が仔犬の目が開いているのを発見し、喜びに湧く野山一家。
仔犬は「ロック」と名付けられ、以後、当時小学生だった野山芯が面倒を見ていくことになります。

しばしば部屋を荒らしたり母親相手に粗相をしたりして教育指導的に2度にわたり捨てられるという経験を受けながらも、野山芯と共に健やかに育っていくロック。
ところが2000年8月、突如三宅島の大噴火が発生し、島民全てが島か避難せざるをえない事態に発展します。
それに先立ち、三宅島の子供達を東京の全寮制の学校に受け入れるという方針が決定。
野山芯は当時まだ小学2年生でしかなかったにもかかわらず、ロックどころか家族とまで一時的にせよ引き離れることを余儀なくされます。
そして、東京へ移動する日に当たる2000年8月29日の朝、駄々をこねつつも両親の説得(というより母親の一喝)で東京へ向かうための車に乗り込んだ野山芯は、異変を察知して追いかけてくるロックに見送られながら三宅島から離れることになるのでした。
しかし島の状況はそれからさらに悪化し、わずか4日後の9月2日は全島民が三宅島からの離島を余儀なくされることになります。
当然、ロックも一緒に家族と一緒に三宅島から離島することになっていたのですが、ここで大きなミスが発生します。
大型犬を収納するカゴに入れられることを嫌がったロックが、あろうことかカゴから脱走し、行方をくらましてしまったのです。
ロックの生存が絶望視される状況の中で父親からそのことを告げられた野山芯は、それでも「ロックは生きている」と信じて待ち続けるのですが……。

映画「ロック ~わんこの島~」は、フジテレビ系列で放送されている朝の情報番組「めざましテレビ」の人気コーナー「きょうのわんこ」で話題となった実話を元に製作された作品です。
その紹介内容はネット上でも公開されています↓

http://www.fujitv.co.jp/meza/wanko/wsp0706.html

こちらのロックはゴールデンレトリバーではなく雑種だったようですね。
ただ、今作の元ネタとなった実在のロックは、映画クランクインの3ヶ月前に、14年11ヶ月という高齢のため亡くなったとのこと↓

http://www.cinematoday.jp/page/N0034029

実在のロックもまた、三宅島の噴火で数奇な人生を歩んでいたようですね。

映画「ロック ~わんこの島~」では、飼い犬であるロック絡みの話もさることながら、大規模災害で被災した家族が如何にして避難生活を乗り越えるかというテーマについても描かれています。
自分達の生活を維持していくため下働きに出る両親。
同じ避難民達の相談窓口担当になる祖母。
離島者達を励ます意図で開催された祭り。
野山芯の父親が母親に向かって述べていた「俺達に出来ることはひとつ、落ち込まないこと」「落ち込んだら、負けるぞ」という言葉。
そして、奇跡的にロックと再会することができたものの、避難生活を余儀なくされているが故に避難先の仮住まいでは飼うことができず、収容されていた三宅島噴火災害動物救護センターの生活でストレスが溜まり衰弱していくロックを見て、「ロックを手放す」という自身にとってもつらい決断を下す野山芯。
いずれも、三宅島からの離島で生活基盤を破壊され、いつ終わるとも知れない避難生活を余儀なくされた避難民ならではの日常風景と言えるものでしょう。
時勢柄、東日本大震災や福島第1原発の被害に遭い、まさに「いつ終わるとも知れない避難生活」を続けている被災者の人々の境遇とも重なります。
それ故に作中で描写されている避難生活は、今の日本人にとって感情移入しやすいものになっているのではないでしょうか?

あと、物語後半でロックを引き取っていった新しい里親さん達が、2005年2月に三宅島の避難命令が解除された際、どういう心境でロックを手放したのかも気になるところではありましたね。
ロックは野山芯の決断で新しい里親に引き取られていったのですが、その際、野山芯の父親が、新しい里親の人に「三宅島の避難命令が解除されたら、再びロックを自分達に返して欲しい」と土下座までして頼み込んでいました。
しかしその後1年以上経っても避難命令が解除されなかったため、「もう返すようなことにはならないだろう」と判断した新しい里親の人達は、「ロック」という名前も改名してすっかり「自分達の犬」として可愛がっており、ロックもまた新しい里親の人達に懐いていたのです。
それを避難命令が解除され、自分達のところにロックを返すよう改めて求められた新しい里親の人達は、さぞかしロックのことについて悩まざるをえなかったことでしょうね。
確かに土下座までして頼み込まれた約束を承知してしまった以上、理論的には返すのが筋ではあるのですが、彼らとてロックを引き取っていた間にロックに対する愛着も湧いてきたでしょうし、こちらも相当なまでの葛藤があったであろうことは想像に難くありません。
両者を仲裁していた女性の獣医の真希佐代子も、ロックを返してもらうよう押しかけてきた野山芯の父親相手に何度も思いとどまるように忠告すらしていたくらいでしたし。
野山一家と再会したロックは、野山芯のことをちゃんと覚えていて、嬉しそうに吠えながら野山芯に向かって駆け出してきましたが、ロックにとって果たしてどちらの飼い主が本当に大事だったのか、微妙なところではあります。
ロックの視点から見れば、「野山芯および野山一家は自分を捨てた」と解釈しても不思議ではないところですからね。
というか、両者の再会でロックが吠え出した時、笑みを浮かべる野山一家の面々を見て「アレは野山一家を拒絶している吠え声かもしれないじゃないか、その判断はまだ早過ぎる」とすら、私はついつい考えてしまったくらいだったのですが(^_^;;)。

ペットを扱った作品としての方向性は、過去に観賞した映画「わさお」に近いですね。
最初から悲劇的な結末が明示されている映画「星守る犬」は「泣くのが分かりきっているから観ない」と犬好きな人間から敬遠される傾向が多々ありましたが、その点この映画はある意味「安心して観れる作品」です。

映画「コクリコ坂から」感想

ファイル 405-1.jpg

映画「コクリコ坂から」観に行ってきました。
1963年の横浜の港町を舞台に繰り広げられる青春ドラマ系のスタジオジブリ作品。
この映画、当初観に行く予定はなかったのですが、映画公開がちょうど1ヶ月映画フリーパスポート有効期間中だったことから、急遽映画観賞リストに追加されました。
「SP 警視庁警備部警護課第四係」シリーズで主演を演じている岡田准一が声優をやっているという点も大きな観賞動機になりましたし(^^)。
私のスタジオジブリ作品の映画観賞は、1997年公開映画「もののけ姫」以来途絶えていたので、実に14年ぶりのこととなります。

今作の主人公・松崎海は、仕事でアメリカに渡っていた母親に代わり、下宿屋であるコクリコ荘を切り盛りする16歳の少女。
彼女は船乗りを生業とし航海途上で船が遭難し行方不明になった父親の帰還を夢見てか、毎朝海に向かって「安全な航行を祈る」という意味を持つ国際信号旗を掲げるのが日課になっていました。
しかしある日、松崎海が通っている高校で発行されている「週刊カルチェラタン」という学生新聞の記事の片隅でそのことがネタにされ、「これってあなたのことじゃないの?」と親友達と話題になります。
親友達以外の誰が自分の習慣のことを知り、ネタにしたのか?
松崎海はその記事と作成者のことが気にかかるようになるのでした。

そんな松崎海が通っている高校では、高校の文化部が部室として使っていた通称「カルチェラタン」と呼ばれる建物を取り壊し、新しいクラブハウスに建て替えるという話が持ち上がっていました。
文化部を中心に反対運動が起こるのですが、「週刊カルチェラタン」が行っているらしい全学生対象のアンケート調査では取り壊し容認が大勢を占めており、反対運動派にとって状況は圧倒的に不利。
そしてある日の昼食時、彼らは自分達のカルチェラタン取り壊し反対運動をアピールするためなのか、各校舎の窓から垂れ幕を流しつつ、校舎の屋根から学生食堂の脇にある貯水池に飛び込むという挙に出ることとなります。
その貯水池に飛び込んだのが、松崎海より1歳年上の男子生徒・風間俊。
貯水池から浮上してきた風間俊を松崎海は手を差し出して引き上げようとしますが、周囲のはやし立てる声に戸惑った松崎海は引き上げようとしていた手を離してしまいその場から逃げてしまいます。
これが2人の最初の出会いでした。

学生食堂での一騒動の後、松崎海より1歳年下の妹である松崎空が、現場で撮られた風間俊の飛び込み写真を30円で購入したと姉に見せつけてきます。
そして、「この人に会いに行きたいから一緒に付いてきて!」と姉に頼みごとをするのでした。
家事に忙しいこともあり、松崎海は最初妹からの頼みを断るのですが、何度もしつこく頼んでくる松崎空についに根負けしたのか、風間俊がいるカルチェラタンの建物へ一緒に向かうことになります。
カルチェラタンは老朽化が著しく進んでおり、壁は内外を問わずペンキが剥がれ落ちて汚れも目立ち、各部屋や廊下も物が乱雑に置かれている上に埃を被りまくっており、確かにこれでは取り壊し容認が大勢を占めるのも当然といった趣をしていました。
そんなカルチェラタンを歩きつつ、風間俊がいるらしい部屋に辿り着きます。
そこは考古学研究会と新聞部の2つが入っている部室。
風間俊は新聞部の部長であり、「週刊カルチェラタン」を執筆・発行していた張本人でもあったのでした。
そして、これがきっかけとなって、2人は次第に惹かれあっていくことになるのです。

しかし、相思相愛になりつつあった2人に試練が襲い掛かります。
松崎海に家に招待され、そこで松崎海の父親の写真を見た風間俊は、次第に松崎海と距離を置くようになってしまいます。
その態度を不審に思い、雨が降るある日の放課後に風間俊を問い質した松崎海は、そこで衝撃的な事実を聞かされることになります。
「俺達は兄妹かもしれない」
2人の父親は共に澤村雄一郎という人物で、戸籍謄本でもそのように登録されているのでした。
松崎海にしてみれば、この話はショックもいいところだったでしょうね。
兄妹だから結ばれないという事実もさることながら、あれだけ昔から慕っていたはずの父親が実は「母親以外の他所の女と寝て子供を作った挙句捨てたろくでなし」だった可能性も否定できないわけですから。
この問題は写真に登場していた父親以外の人物が解決のカギを握っているのですが、さて2人の恋愛の結末は果たしてどうなるのでしょうか?

映画「コクリコ坂から」は、時代背景は異なるものの、同じスタジオジブリ作品で1995年公開の映画「耳をすませば」とかなり雰囲気が似ていますね。
カップル2人の出会い方も微妙に似ていますし、「原作が少女漫画」という点も両作品で共通しています。
「コクリコ坂から」ではそこに、「カルチェラタンの取り壊し反対運動」という1960年代の学生紛争を彷彿とさせる要素を大量に盛り込んでいるのが大きな特徴です。
ただ、物語中盤で松崎海と風間俊の仲がゴタゴタしていたこともあって、本来ストーリーの軸になるはずの恋愛話的な要素が薄れてしまい、どちらかと言えば反対運動話の方がメインで展開されているような感がありました。
カルチェラタン絡みの話はやたらと細かく描写されていますし。
上映時間が91分と映画としては比較的短い部類に入るわけですし、反対運動話よりも恋愛話の方にもう少し力を入れてもらいたかったところなのですけどね。

あと、タイトル名が「コクリコ坂から」となっているにもかかわらず、作中ではコクリコ坂という名前は一切出てきません。
坂自体は何度か出てきているので、その中のどれかがコクリコ坂ではないかとは思うのですが。

ただ、映画を製作した監督である宮崎吾朗は、前作「ゲド戦記」で散々なまでの酷評を受けていたようですが、映画「コクリコ坂から」に関する限りはそういうこともないのではないでしょうか?
個人的には、「耳をすませば」がスタジオジブリ作品の中では1・2を争うお気に入り作品だったこともあり、同様の傾向を持つ作品として充分に楽しむことができましたし。
すくなくとも、少女漫画的な恋愛話や、1960年代的な雰囲気が好きという方にはそれなりにオススメできる作品ではないかと。

映画「小川の辺(おがわのほとり)」感想

ファイル 396-1.jpg

映画「小川の辺(おがわのほとり)」観に行ってきました。
藤沢周平原作の短編集「闇の穴」に収録されている短編小説を映画化した作品。

ストーリーは、架空の藩である海坂藩の藩士で戊井家の家長でもある主人公・戊井朔之助が、義弟である佐久間森衛を討てとの藩命を受けるところから始まります。
佐久間森衛は、2年前から凶作が続いていた海坂藩の農政について、改善案をまとめた意見書を藩の上層部に上申。
改善案自体は極めて理にかなったものだったのですが、自分の正しさを信じ周囲が見えなくなっていた佐久間森衛は、さらに殿様および重臣一同が集まった面前で現在の農政に対する批判を公然と展開。
これが、どう見ても名君には見えない殿様と、殿様の侍医に過ぎないのに政治にやたらと口出し、現在の農政を主導していた鹿沢堯伯の怒りを買ってしまい、謹慎処分が下されることになったわけです。
しかし、佐久間森衛の改善案に何か感じるものがあった重臣達は、佐久間森衛の改善案を元に独自に農政調査を行い別に改善案を提示。
さらに鹿沢堯伯を叩き出すよう殿様への説得工作も行い、結果めでたく鹿沢堯伯は上意により追放の沙汰が下されることになります。
しかし、当の佐久間森衛が殿様に対する批判を行ったことは事実であり、佐久間森衛および彼の親類にも更なる重い処罰が下されるであろうことは当然予想されました。
結果、佐久間森衛は主人公の妹で妻でもある田鶴を伴い脱藩。
海坂藩としては、殿様批判と脱藩の罪を犯した佐久間森衛を放置するわけにはいきません。
そのため藩による佐久間森衛討伐が行われることになったのですが、最初の討手の病気療養で藩へ帰還してしまいあえなく失敗。
また佐久間森衛は藩でも1、2を争うほどの剣術の達人でもあり、さらにその妻である田鶴もかなりの剣術使いと目されており、それに対抗できる人材が求められました。
そこで、やはり同じく剣術の達人であり、御前試合で佐久間森衛とやり合ったこともある戊井朔之助が、藩から佐久間森衛討伐の命を受けることになるわけです。

戊井朔之助にとって佐久間森衛は義弟であり親友でもある存在。
当然、戊井朔之助も最初は命令を受けかねる旨を、藩命を言い渡してきた海坂藩の家老・助川権之丞に伝えるのですが、助川権之丞は田鶴の存在を元に「そなたの戊井家にも類が及ぶかもしれない」と暗に仄めかし、命令の受諾を迫ります。
結局、戊井朔之助はお家の事情から、自身にとっても苛酷な命令を受諾せざるをえなかったのでした。
自宅に戻ってそのことを伝えられた戊井朔之助の両親と妻は当然いい顔をするわけもなく、特に母親である以瀬は半ば八つ当たり気味に戊井朔之助に突っかかってくるのですが、父親で剣の師でもある戌井忠左衛門は戊井朔之助の苦渋の決断に理解を示します。
その夜、「藩命だから佐久間森衛は討たねばならないが、せめて妹は助けたい」と思い悩む戊井朔之助の元に、兄弟のような間柄の幼馴染で戌井家に仕える奉公人でもある新蔵が、「自分も討伐の旅に同行させて欲しい」と嘆願にやってきます。
戊井朔之助はその嘆願を聞き入れ、かくして2人による佐久間森衛討伐の旅が始まることになります。

映画「小川の辺」では、日本の山岳や河川を描写するのがメインテーマなのではないかと考えてしまったくらいに、数多くの美しい自然風景が映し出されています。
作中に登場する「海坂藩」というのは架空の藩なのですが、元となっている藩は一応存在していて、現在の山形県鶴岡市と庄内地方を収めていた庄内藩がモデルみたいなんですよね。
そして、佐久間森衛がいると噂され、戊井朔之助と新蔵が向かったのは、現在の千葉県市川市の南部に位置するらしい行徳宿。
この間の旅程における山岳・田園・寺社、そして小川の風景が、主人公の回想と共に盛んに映し出されており、いわばロードムービー的な要素も多く含まれているわけです。
実際の撮影も山形県各地で行われたのだとか。

ストーリー後半で判明するのですが、佐久間森衛討伐への同行を自ら志願してきた新蔵は、佐久間森衛の妻となっている田鶴に恋心を抱いていました。
新蔵が同行を申し出てきたのも、田鶴の身を案じたのが一番の理由だったわけです。
それは田鶴の方も同じだったようで、昔の回想シーンで、佐久間森衛に嫁ぐ直前に田鶴が新蔵の下へやってきて、その心の内を告白する描写があります。
つまり田鶴にとって、現在の夫である佐久間森衛との婚姻は必ずしも自分から望んだものではなく、嫌々ながらも「お家のため」と受容したものであったわけです。
作中で主人公も含めた「海坂藩」の面々が軒並み「(佐久間森衛と対峙OR討ち取ったら)田鶴は必ず手向かってくるだろうな」などと言っていたので、てっきり相思相愛による婚姻だとばかり最初は考えていたのですが。
実際、物語終盤に佐久間森衛が討ち取られた際には、田鶴はしっかり実の兄に対し刃向かってきましたし。
元々は自分から望んだことではなく嫌々婚姻させられた夫のためにそこまで尽くすことができる女性というのも、現代ではあまり考えられない話でしょうね。
主人公の藩命にひたすら忠実な行動もさることながら、私はこちらについても「何とも難しい武士の生き様」というものを感じずにはいられませんでした。

ただ、戊井朔之助は藩命を忠実に守りぬいたわけですが、「海坂藩」的には戊井朔之助が命令に逆らうとは考えなかったのでしょうか?
戊井朔之助の旅には個人的動機から同行した新蔵以外、お目付け役的な同伴者は誰もいなかったんですよね。
となると戊井朔之助としては、命令が忠実に実行されるのかを常に監視する人間がいないことになるわけなのですから、いくらでも不正がやりたい放題なわけです。
終盤の描写を見る限り、藩命を遂行した証としては、別に佐久間森衛の首桶を持って帰ってこなければならなかったわけでもなく、佐久間森衛の髷を取ってくれば良かっただけのようでしたからね。
別に正面から命令に背く必要はなく、佐久間森衛の髷だけを切り取ってきて「佐久間森衛を討ち取った証」とすれば、誰も死なずに藩命を遵守したとすることだって不可能ではなかったのではないかと。
その上で佐久間森衛と田鶴には、行徳宿から出て顔も名も変えて新たに人生をやり直すよう告げれば良かったわけで。
まあそれをやってしまったら「武士の生き様」でも何でも無くなってしまいますし、そういう一種の「逃げ」をやらないところも「何とも難しい武士の生き様」というものだったのでしょうけどね。

ストーリー的にも演出面も、ハリウッド的な派手な要素は皆無といって良く、観客を限定しそうな万人受けしない作品ですね。

映画「アンダルシア 女神の報復」感想

ファイル 391-1.jpg

映画「アンダルシア 女神の報復」観に行ってきました。
真保裕一の小説を原作とする前作「アマルフィ 女神の報酬」、テレビドラマ「外交官・黒田康作」シリーズに続く、織田裕二主演のサスペンス作品。
スペインと、フランス・スペインの境目にある小国のアンドラ公国をメイン舞台に、とある邦人の殺人事件の真相を、織田裕二扮する主人公・黒田康作が究明していくストーリーです。
なお、私は「アマルフィ 女神の報酬」は劇場観賞したのですが、「外交官・黒田康作」シリーズの方は全く観ていなかったりします(^^;;)。

物語は、フランスのパリで開催されるG20国際会議への出席を控えていた村上清十郎財務大臣が、何故か裏通りにある場末の飲食店で佇んでいる光景から始まります。
財務大臣は、いかにも汚くて浮浪者が飲食しているような店を見回した後、「何故俺がこんなところで待たされなければならないんだ」と周囲に不満をぶつけて店から出ようとします。
そこへ、何故か店を訪れるアメリカの財務大臣。
アメリカの財務大臣は件の店を昔から懇意にしていたものの、いつの間にか店がなくなっていた事を残念に思っていたのですが、匿名の電話でこの場所に移転していたと聞かされやってきたのだとか。
「あの匿名の電話はあなたの手によるものなのですか?」とアメリカ財務大臣から尋ねられた村上財務大臣は、訳が分からなかったものの周囲の合図でとりあえず「YES」と返答し、上機嫌になっているアメリカ財務大臣に対し、今後行われる国際会議についての根回し交渉を行うことになります。
実はこの両者の鉢合わせは、今作の主人公である外交官・黒田康作によって演出されたものであり、これで一連のシリーズ作品を全く観ていなくても、黒田康作の有能ぶりが示される構図になっているわけです。
こういうのって、外交の場では意外と重要な要素を持っていますからねぇ。
ちなみにこの序盤の描写、物語終盤でも大きな伏線として生きてくることになります。

フランス・パリで開催されたG20の国際会議では、マネー・ロンダリングについての規制強化が議題として挙げられ、日本国代表の村上財務大臣は規制強化を各国に提言します。
しかし、主にヨーロッパ諸国の反対によって交渉は難航を極める状況に。
そんな様子を、財務大臣の警護任務に従事しながら様子見している黒田康作の下に、上司である安藤庸介から、アンドラ公国で邦人の殺人事件が発生したので調査に向かって欲しいとの連絡が入ってきます。
財務大臣の次の演説まで間があることもあり、黒田康作は早速アンドラ公国へと向かうことになります。
そこで黒田康作は、ビクトル銀行の行員で事件の第一発見者でもある新藤結花と、黒田康作に先行してアンドラ公国で新藤結花に対する事情聴取を行っていたインターポール捜査官・神足誠と出会います。
第一発見者の新藤結花は、明らかに事件の証拠を隠滅していると思しき描写が序盤で展開されており、また事情聴取にも当たり障りのないことを発言するのみで、いかにも怪しげな雰囲気が漂っています。
一方の神足誠も、黒田康作と出会う直前に上司らしき人物から電話で「事件を穏便に済ませろ、汚名を返上して日本に帰るチャンスだ」的な説得を受けており、こちらはこちらで腹に一物あり気な感じです。
現場検証から、新藤結花の発言と矛盾する不審な点を発見した黒田康作は、新藤結花の自宅を密かにマークするのですが、そこで偶然、新藤結花が何者かに襲撃されている光景を目撃します。
全く別の理由から新藤結花を見張っていた神足誠と共に、襲撃者から新藤結花を守ることに成功する黒田康作は、新藤結花を保護すべく、アンドラ公国から一番近いバルセロナの日本領事館へと向かいます。
しかし、そこでも新藤結花は更なる襲撃を受けることになり……。

前作「アマルフィ 女神の報酬」もそうだったのですけど、今作「アンダルシア 女神の報復」もまた、タイトルで派手に銘打っている割には肝心要のアンダルシアの出番が少ないですね。
作中で占める舞台の割合は序盤の大半と終盤に登場するアンドラ公国、中盤の舞台となるバルセロナで既に3分の2近くが占められていますし、プロローグとエピローグではフランスのパリが出てくるわけですから、スペイン南部のアンダルシア州は全体的に見れば3分の1以下の割合しか占めていないわけです。
しかも真の最終決着の地も、実はアンダルシアではなくアンドラ公国だったりしますし。
前作のアマルフィも結局最終決着の地ではありませんでしたし、このシリーズの映画のタイトルって一体何を基準に命名されているのでしょうか?

「アンダルシア 女神の報復」では、主演の織田裕二もさることながら、脇役達もなかなか豪華なメンバーを取り揃えていますね。
今作のヒロイン役である新藤結花を演じている黒木メイサは、映画「SPACE BATTLESHIP ヤマト」でもヒロインである森雪を演じていますし、神足誠役の伊藤英明は「海猿」シリーズで主人公として活躍しています。
以前観賞したことのある映画の主演クラスともなれば、元来俳優に疎い私でもさすがに名前を覚えざるをえないわけで、「なかなか豪華な俳優さんを揃えたなぁ」とこの辺は素直に感心したところです。
ただ、前作「アマルフィ 女神の報酬」でいかにも「駆け出しの新人」的な言動に終始していた、戸田恵梨香扮する安達香苗役の出番が少なかったのは少々意外ではありました。
予告編では冒頭でご機嫌に黒田康作に話しかけるシーンが映し出されていただけに出番も多いのではないかと思っていたのですが、いざフタを開けてみると彼女の出番はバルセロナが舞台となっている物語中盤のみで、しかもどちらかと言えばチョイ役的な役柄です。
「アマルフィ 女神の報酬」で黒田康作としばしば掛け合い漫才をやっていた場面が印象に残っていただけに、今作でもそれを観られるかと期待していたのですけどね。

あと今作で一番驚いたのは、主演の織田裕二に接吻シーンがあったことですね。
というのも、私は映画「ホワイトアウト」以来、織田裕二主演の映画作品は「駄作な邦画群の中でも数少ない例外」として、邦画の評価が全面的に見直される以前から積極的に観賞しているのですが、その中では男女の関係を匂わせる描写はあっても、実際に抱き合ったり接吻したりするシーンというのは皆無だったんですよね。
織田裕二は恋愛絡みの演技が苦手とか本人がやりたがらないとかいった噂話を耳にしてもいて、「ああ、だからその手のシーンは皆無なのか」とひとりで勝手に納得してもいたのですが、それだけに今回のシーンには驚きを禁じえなかったというわけです。
まあ、件の接吻シーンはフラメンコ踊りも交えていかにもラブシーンだと言わんばかりの演出をしていたものの、結末まで見るとそんな要素は全くなかったことが分かるという、何とも奇妙なシロモノではあったのですが。

サスペンス的なストーリー部分は、ラストの大どんでん返しをハイライトとして、個人的にはなかなか良く出来ていた部類に入るのではないかと。
アクションシーンの方は、本場ハリウッドなどに比べると全体的にショボい印象が否めませんが、まあそれがメインの作品ではありませんしね。
出演している俳優さんないしシリーズ作品いずれかのファンの方ならば、観てまず損はしない作品だと言えるでしょう。

映画「星守る犬」感想

ファイル 382-1.jpg

映画「星守る犬」観に行ってきました。
双葉社が発行する青年漫画雑誌「漫画アクション」で連載されていた、村上たかし原作の同名ベストセラーコミックを映画化した感動作。
北海道でワゴン車と共に遺体で見つかった身元不明の中年男性と飼い犬ハッピーの足跡を訪ね歩き、その旅路に思いをはせる姿を描く作品です。

この映画の主人公・奥津京介は、北海道名寄市役所の福祉課に勤務する青年。
彼は幼少時に両親を事故で、祖母を病気で立て続けに亡くした過去を持ち、唯一の肉親だった祖父にも先立たれ、今ではひとり暮らしをしています。
過去の経緯から、人と積極的に関わることを避け、小説などの本の世界に没頭する性格で、映画冒頭にその趣味のありようが描写されています。
そんなある日、警察から福祉課へ、一台のワゴン車と共に身元不明の中年男性の遺体が発見されたとの連絡が入ります。
福祉課はそういった遺体を引き取り弔うことも生業としているため、連絡してきた警官に先導される形で、奥津京介は同僚と共に遺体発見現場へと向かいます。
現場に辿り着いて検分を進める奥津京介は、放置されたワゴン車とそばに盛り土がされていることに気づきます。
警官によると、それは遺体のそばに寄り添って死んでいた秋田犬を弔った墓であるとのこと。
その時、突如吹きぬけた風で、ワゴン車の下にあった数枚の紙切れが奥津京介の足元に飛ばされてきました。
それはレシートやリサイクルショップの買取証であり、特に買取証には名前や住所も記されていたことから、死んだ男の身元を特定する手がかりになるのではないかと考えられました。
ところが電話で関係各所に連絡を取っても、個人情報保護などを理由に具体的な情報を引き出すことはできず、それ以上の調査は行き詰ってしまいます。
結局、福祉課としては手がかりがないということで、身元不明の遺体を「無縁仏」として処理する判断を下します。
しかし、どうしても身元不明の男性と秋田犬の正体が気になる奥津京介は、ついに有給休暇を取り、リサイクルショップに書かれていた住所へ単身向かうことを決意。
祖父から譲り受けた愛車であるワーゲンビートルに乗り込み、自腹で一路、単身東京へと向かうのでした。

買取証に書かれていた東京の住所と名前は、結局のところ身元不明の遺体とは全くの別人であることが判明。
若干は落胆しつつも、残ったレシートに書かれている店とリサイクルショップを回って北海道に戻ろうと考えた奥津京介ですが、東京に土地勘がないこともあって間違って一方通行路に入り込んでしまい、対向車に怒鳴られながら車を擦ってしまいます。
車の傷を見て落胆する奥津京介の前に、突如「悪い男達に追いかけられている!」などと叫ぶ少女が現れ、車に乗せてくれるよう奥津京介に迫ります。
半ば急かされる形で少女を乗せた奥津京介は、少女を警察へ連れて行こうとしますが、いざ警察署に着くと今度は「おなかが痛いから病院に連れてって!」などと言い出す始末。
目に見える範囲に病院があったのでそこまで歩いていくよう奥津京介が促すと、ようやく少女は本当の事情を話し始めます。
何でも少女こと川村有希は、新人アーティストのオーディションを受けるために旭川から上京してきたものの、旅費も尽きて困窮していたところだったとのこと。
旭川ナンバーだった奥津京介のワーゲンビートルを見つけ「これだ!」と閃いた川村有希は、奥津京介に対し自分を実家のある北海道まで一緒に連れて帰って欲しいと懇願します。
奥津京介は川村有希の身勝手な態度に辟易しながらも、結局、奥津京介は旅の道連れに、北海道までの旅路を進めていくことになります。

映画「星守る犬」における旅の旅程は以下の通りです。

東京

福島県いわき市

岩手県遠野市

青森県弘前市

北海道石狩市

北海道名寄市

今作は2010年8月~10月に撮影が行われたとのことで、震災前の風景が映し出されています。
映画の風景は今現在のそれとはもう違うのかと思うと、作品本来の意図とは違う視点でも切なくなってきましたね。
特に福島県いわき市のエピソードでは、すぐ後ろが海岸であるコンビニが出ていましたし、そこで泳ぐ子供達の姿も映し出されていました。
今となっては、もはや収録不可能な光景ですね(T_T)。

主人公である奥津京介が身元不明の男性である「おとうさん」と秋田犬ハッピーに興味を抱いた理由は、自身も以前にクロという犬を飼っていたことにありました。
クロは、祖母が死んで間もない時期に祖父が奥津京介に飼い与えた犬で、奥津京介は最初の頃こそ可愛がっていたものの、次第にウザがり、邪険に扱うようになっていきます。
その理由については物語後半で明かされるのですが、「クロを愛してしまうと、いつかまた深い傷を負うのが怖かった」というものだったとのこと。
しかし祖父の死後、福祉課に就職した奥津京介を見届けて使命を全うしたかのごとく衰弱し、息を引き取ったクロを見て、奥津京介には「クロに愛情を注いでやれなかった」という後悔が残るのでした。
本当に犬を心の底から可愛がっていたとしても、「もっと可愛がってあげれば良かった」的な後悔は犬好きであれば誰もが思うことですから、奥津京介の後悔はなおのこと深かったであろうことは想像に難くありません。
奥津京介の考え方は結局のところ、クロにとっても自分自身にとっても不幸な結果しか残さなかったわけです。
しかし、件の「おとうさん」とハッピーは最後まで行動を共にし、2人寄り添うように亡くなっていたわけです。
彼らの関係は如何なるものだったのか、奥津京介が多大な興味を抱くのは当然のことだったと言えるでしょう。

映画「星守る犬」では、ペットに対する飼い主のスタンスがこれほどまでに得手勝手なものなのかということについても色々と考えさせられました。
主人公が個人的事情からペットを邪険にしていた件では、まだ主人公に悔恨の情が見られたから救いもあるのですが、秋田犬であるハッピーの方は壊滅的なまでに「ひどい」の一言に尽きますからねぇ。
自分から犬を飼いたいと言って父親を説得しながら、犬が大きくなったからといってその世話を父親に押し付けてしまう娘。
実家がある青森の弘前で、離婚した父親およびハッピーのことなど最初からなかったかのごとく普通に家から出かけている光景を見た時は「さすがに自分勝手が過ぎるのでは?」とついつい考えずにはいられませんでした。
主人公と異なり、彼女には何の悔恨の念もなさそうな雰囲気でしたし、父親共々犬のことなど忘れ去ってしまっているのではないかなぁと。
主人公についても言えることではあるのですが、最初「だけ」可愛がって「飽きた」「面倒臭い」などの理由から犬の面倒を見なくなる飼い主達というのは、ある意味ペット達にとってこれ以上ない残酷な仕打ちをしていると言っても良いのですけどね。

あと物語終盤、ハッピーが近づいてきただけで「野犬だ!」と騒ぎ立てた挙句、ハッピーに薪を全力で投げつけてきた親子についても、「いささか過剰反応過ぎないか?」という感想を抱きました。
確かに、長い間泥まみれ雪まみれ水まみれになって外見が著しく汚れていたハッピーには「可愛い」ではなく「何だこいつ」的な目を向けてしまうかもしれません。
しかし、あの状況では別にハッピーは誰かに吠え掛かったり噛み付いたりしたわけではなく、また唸り声を上げるでもなく、ただ普通に近づいてきただけでしかなかったわけです。
ただそれだけのことだったのに、あそこまで騒いだ挙句にハッピーに薪を叩き付けて致命傷を負わせなければならないことだったのでしょうか?
キャンプ場で犬や猫を見かけるなどさして珍しいことでもないわけですし、あの状況だったら、ある程度は警戒したり距離を置いたりしつつ様子を見るのが常道だったと思うのですが。
あの親子、ハッピーが野犬だったのかどうかが問題だったのではなく、元々相当なレベルの「犬嫌い」だったのではないか、とすら考えてしまったほどです。

私自身が大の犬好きということもありますが、「おとうさん」とハッピーのやり取りはやはり感情移入せずにはいられませんでしたね。
特に北海道石狩市の海辺にあるレストランのオーナーにハッピーを預けようとしながら、ハッピーが「置いて行くな!」と言わんばかりに吠えまくって追いかけようとする光景と、その光景を見て「互いに不幸になる」と分かっていながらハッピーを抱きしめ連れて行くことを決意するシーンは、映画で感動することなどほとんどない私でさえ思わずこみ上げるものがありました。
最初から明示されている結末は確かに悲劇的なものではありましたが、作中でも言われているように、ふたりは短いながらも素晴らしい時間を過ごしたと言えるでしょう。

ただのアンハッピーエンド物ではなく、悲劇的なはずの「おとうさん」とハッピーに勇気づけられ、未来に希望が抱ける終わり方をしています。
犬好きな方はもちろんのこと、そうでない方にも是非観て貰いたい映画ですね。

映画「マイ・バック・ページ」感想

ファイル 376-1.jpg

映画「マイ・バック・ページ」観に行ってきました。
学生紛争の末期となる1969年から1972年の日本を舞台に、雑誌記者と自称革命家との出会いから破滅までを描く、妻夫木聡と松山ケンイチ主演の作品です。

この映画は、1971年8月21日の夜に実際に起こった「朝霞自衛官殺害事件」を元に作られています。
「朝霞自衛官殺害事件」とは、東京と埼玉にまたがる陸上自衛隊朝霞駐屯地で、当時歩哨任務についていた一場哲雄陸士長が「赤衛軍」と名乗る新左翼グループに殺害された事件のことを指します。
犯行現場には「赤衛軍」の名称が入った赤ヘルメットやビラが散乱しており、また殺害された一場哲雄陸士長が左腕に付けていた「警衛」の腕章が無くなっていました。
「赤衛軍」はこの事件まで全く問題を起こしたことがなく、組織犯罪を担当する公安にとってもノーマークかつ正体不明な存在でした。
ところが、1971年10月5日発売の週刊誌・朝日ジャーナルに「謎の超過激派赤衛軍幹部と単独会見」という記事が掲載され、そこに一般に公開していなかった「警衛」の腕章についての記述があったことから、警察はこの取材源について徹底的な捜査を進めます。
結果、日本大学と駒澤大学の学生3人が捜査線上に浮上、同年11月16日と25日に相次いで逮捕されます。
またこの事件では、当時朝日ジャーナルの記者だった川本三郎が、犯人から「警衛」の腕章を受け取り燃やしていたことや、週刊プレイボーイの記者が犯人達に逃走資金を渡していたことなども判明し、両名は「犯人蔵匿及び証拠隠滅の罪」で逮捕されています。
この時逮捕され、懲役10ヶ月・執行猶予2年の有罪判決を受けた川本三郎が「朝霞自衛官殺害事件」についての自己の体験を綴った回想録が、この映画の原作となる「マイ・バック・ページ」です。
今作の主人公で妻夫木聡扮する沢田雅巳のモデルが、原作者である川本三郎自身ということになるわけですね。

一方、「赤衛軍」ならぬ「赤邦軍」のリーダー格となるのが、松山ケンイチ演じる梅山(本名は片桐優)。
梅山は、思想活動サークルで学生紛争の目的について問われた際、問いかけた相手に「お前は敵だろ!」と逆ギレした挙句、自分の意見に従えないものは出て行けなどとのたまう、ディベートの論者としてはどこかの山○弘を想起させる、何ともお粗末な人物です。
さらには虚言癖まであり、犯行が発覚して逮捕された後における警察の事情聴取では、すくなくとも自衛官殺害を指示していたわけではない京大全共闘議長の前園勇を首謀者に仕立て上げるウソの供述を始める始末。
アジトでは、仲間達が隣の部屋で待機している中、防音性の欠片もない一室で女性隊員を垂らし込んでズッコンバッコンよろしくやっているシーンまでありましたし、その癖その女性にカネの調達を要求したりするなど、人間としてもあまり好感が抱けるような人物ではなかったですね。
物語の最後では、半ば功名欲から事件を起こすに至ったことを告白していましたし。
ただ一方では、主人公である沢田雅巳を上手く利用したり、自分達を利用しようとした反戦自衛官・清原(本名は荒川昭二)を逆に追い込んだりするなど、したたかで微妙にカリスマ性のある人物でもあったりします。
カリスマ性のあるエゴイスト、というのが人物像になるでしょうか。

映画「マイ・バック・ページ」では、「朝霞自衛官殺害事件」以外にも実際に起こった事件が取り上げられています。
物語序盤では、東大安田講堂事件の最中、日比谷の全国全共闘連合結成大会に出席・演説しようとしていた東大全共闘議長・唐谷義朗が、彼の取材をしていた主人公の面前で逮捕される事件が発生していますが、この唐谷義朗のモデルは、当時やはり東大全共闘議長を務めていた山本義隆という人物です。
事件の経緯も、逮捕された大会の会場が日比谷というのも全く同じですし。
また、作中で主人公が憧れの職場として配属を希望していた東都ジャーナルは、1971年に雑誌の回収騒動が起こっているのですが、これも同じく1971年3月19日号の朝日ジャーナルで発生した雑誌回収事件がモデルだったりします。
この回収事件は、雑誌の表紙が女性のヌードだったことと、同雑誌に掲載されていたマンガ「櫻画報」の最終回となるこの号で、朝日新聞の社章が日の出のように水平線から昇る絵に「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」という文が添えられ、さらに「朝日は赤くなければ朝日ではないのだ」などとキャプションがつけられたことが朝日新聞本社で問題となり、同誌の回収が決定されたというもの。
事件後、朝日ジャーナルでは編集長が更迭された他、61名の人事異動がなされ、雑誌自体も2週間にわたって休刊となります。
作中では「アサヒ」の部分が別の表現に置き換えられていましたが、やはり同じように問題となり、現実の回収事件と同じように大規模な人事異動が行われ、そこへ元から配属を希望していた主人公も配属される、という形になります。
しかしまあ、当時から朝日新聞で既に行われていた中国・北朝鮮礼賛報道、後年に次々とやらかしていくことになる教科書・南京・サンゴ捏造虚報事件、さらには近年における「ジャーナリスト宣言」や自民党に対するバッシング、さらには対民主党向けの「報道しない自由」の行使などに見られる愚劣な偏向報道の数々を鑑みるに、この当時の朝日ジャーナルは全くもって正しいことを述べていたように思えてならないのですけどね(苦笑)。
作中の朝日ならぬ東都新聞本社の社会部記者が主人公に対して放った台詞も凄まじいまでに傲慢なシロモノでしたし、「ああ、朝日はやはり当時からずっと朝日だったのだなぁ」と思わず頷いてしまいましたね(爆)。
朝日新聞のスタンスは今現在も昔とほとんど変わっていないばかりか、むしろ悪化すらしている始末ですし。

作中の描写として気になったのは、主人公が梅山へ協力したことについて警察から事情聴取を受けた際、「取材源について明かすわけにはいかない」を繰り返すばかりで、証拠隠滅を図った事実や逃走資金を供与した問題については全く何も言及していない点ですね。
特に後者の場合、「取材源の秘匿」云々は全く何の関係もないのですし、それが「犯罪」であることを自覚できなかったわけもないでしょうに。
まあ、自分の「犯罪」を率先して認めるわけにもいかないから「我が身可愛さ」に自白を拒んでいた、という面もあったのでしょうが、「取材源」云々以外の問題についてどのように考えていたのか、モノローグでも良いから語っている場面が欲しかったところです。

最初から最後まで陰々滅々な雰囲気に満ち満ちていましたし、明るい要素がどこにも見当たらない映画と言えます。
1970年代テイストは上手く再現できていたようで、年配の人には「懐かしい」と思わせるものがあったようなのですが、それ以降に生まれた人間としては「単なる歴史の1ページ」以外の感想など抱きようがありませんでしたし。
「当時の歴史を振り返る&検証する」という目的であればそれなりに楽しめるのかもしれませんが、エンターテイメントしての盛り上がりを期待すると痛い目を見ることになる作品でしょうね。

映画「プリンセストヨトミ」感想

ファイル 371-1.jpg

映画「プリンセストヨトミ」観に行ってきました。
作家・万城目学による同名の長篇小説を原作とする、大阪国と会計検査院の間で繰り広げられる駆け引き、および家族の絆を描いた作品です。
TVドラマ&映画版「SP 警視庁警備部警護課第四係」シリーズで好演した堤真一が主人公だったことが、今作をチョイスした最大の理由となりました。

このことは誰も知らない。
2011年7月8日金曜日 午後4時のことである。
大阪が全停止した。

こんなキャッチフレーズから始まる物語冒頭。
各所にひょうたんが掲げられた状態で誰もいなくなった大阪の街を、ひとりの女性が驚愕の表情を浮かべながら歩いている光景が映し出されます。
かくのごとき衝撃的な事態にまで至ったそもそもの遠因は、7月8日から遡ること4日前の7月4日月曜日に、東京の会計検査院から3人の人物がやってきたことにあります。
今作の主人公にして「鬼の松平」の異名を取る会計検査院第六局副長・松平元(まつだいらはじめ)。
冒頭にあった無人の大阪の街を歩いていた会計検査院第六局所属の女性・ミラクル鳥居こと鳥居忠子。
そして、今回の大阪出張が会計検査院第六局としての初仕事になるらしい、日本人とフランス人のハーフの男性・旭ゲーンズブール。
会計検査院とは、国および国の出資する政府関係機関の決算・独立行政法人および国が補助金等の財政援助を与えている地方公共団体の会計などに関する検査を行い、会計検査院法第29条の規定に基づく決算検査報告を作成することを主要な任務としている組織です。
簡単に言えば、公的機関の決算や会計で無駄や不正が行われていないかをチェックするのを仕事とする組織ですね。
法律上は行政機関となるのですが、内閣に対し独立した地位を有していることが日本国憲法第90条第2項および会計検査院法第1条で定められており、国の公的な機関でありながら、立法・行政・司法の三権いずれからも独立しているという非常に特殊な組織でもあります。
会計検査院所属の3人は、大阪の各公的組織の決算・会計を調査するため、東京から大阪へやってきたわけですね。

大阪各所にある公的機関は、緊張の面持ちで会計検査院の面々を迎えます。
もちろんその理由は、陰で色々な不正や無駄などをやらかしているため、それがバレることに戦々恐々としていることにあるのですが。
しかし、最初の調査対象機関である大阪府庁では旭ゲーンズブールによって30万前後の不正支出が、次の空堀中学校ではミラクル鳥居の「怪我の功名」によって事務がらみの不正がそれぞれ暴かれていきます。
大阪府庁と空堀中学校のチェックを終えた会計検査院の一行は、次の調査対象である財団法人OJO(大阪城址整備機構)がある長浜ビルへと向かいます。
この時の調査は何事もなく終わるのですが、ミラクル鳥居の駄々こねで長浜ビルの正面に位置しているお好み焼き屋「太閤」で食事をすることになった際、松平元がOJOに携帯電話を忘れたことから、事態が意外な方向へと動き出します。
「鬼の松平」が携帯を忘れる、という描写は作品冒頭にもあるのですが、この辺りは何となくSPシリーズの「いつも手錠を忘れる」主人公のことを想起せずにはいられませんでしたね(苦笑)。

それはさておき、携帯を取りに再びOJOに行くと、さっきまで働いていた職員達の姿が全くありません。
OJOに電話をかけても目の前にある電話は全く鳴ることがなく、デスクの引き出しの中も空っぽの状態。
不審に思った松平元は、翌日再びOJOを訪ね、昨日の件についての説明を求めるのですが、OJOの経理担当である長宗我部はのらりくらりと質問をかわし、なかなかボロが出てきません。
大阪中の人間に片っ端から電話をかけまくり調査するという手段に打って出ても不正の証拠は何も出てくることがなく、松平元以外の2人は半ば諦めムード。
しかし、OJOの表向きの管理対象である大阪城について調べていった結果、大阪城の緊急脱出用の抜け穴がOJOに通じており、そこから職員が出入りしているのではないかという仮説を、松平元は導き出します。
そして、OJOの長浜ビルのロビーにあった、曰くありげな扉がその出入り口ではないかと踏んだ松平元は、OJOに乗り込み長宗我部に扉を開いて中を見せるよう要求するのですが、長宗我部は頑強にこれを拒否。
業を煮やした松平元がさらに強硬に要求しようとした時、突如後ろから「私がご案内致します」という声がかけられます。
松平元が振り返ると、そこにいたのは何とお好み焼き屋「太閤」の店主・真田幸一。
扉の中は長い廊下が続いており、その先にあったのは国会議事堂モドキな光景。
半ば呆然とする松平元に対し「ここは大阪国議事堂です」と説明をする真田幸一。
そして「大阪国?」と訝しがる松平元に対し、真田幸一は高らかに宣言するのです。
「私は、大阪国総理大臣・真田幸一です」と。

映画「プリンセストヨトミ」で「大阪国」なるものが建国されるに至った起源は、1615年の大坂夏の陣まで遡ります。
この戦いによる当時の大坂城陥落の際、豊臣家の血筋は絶えたとされているのですが、実は豊臣秀頼の幼い息子だった国松が難を逃れ、その血筋は細々ながらも続いていたのでした。
豊臣家は当時の大坂の民から親しまれていたこと、またその後に莫大なカネをかけて大坂城を再建し威勢を誇った徳川家に対する反発も手伝って、国松および豊臣家の血筋を守り抜くことを目的に、大坂城の地下に寄り合い所が作られたのが「大阪国」の起源であるとされています。
その後、明治維新の際に資金不足に陥っていた当時の明治政府が、資金調達を目的に「大阪国」を正式に国として承認する条約を「大阪国」と締結します。
条約では「大阪国はその存在を外部に公表してはならない」とも定められており、またその条約締結の際の文書には、大久保利通や西郷隆盛などといった明治の元勲達の署名もはっきり記されていたりします。
つまり「大阪国」とは日本国という主権国家から承認を受けているれっきとした「国」であるわけですね。
財団法人OJOも、「国」として公に出来ない「大阪国」の隠れ蓑ないしは出先機関であり、また「大阪城址整備機構」なる略称自体も実は全くの偽りで、その読み方もローマ字読みで「オージョ」、つまり「王女=プリンセス」という、映画のタイトルにもなっている「大阪国」が守るべき対象そのものを指す名称だったのです。
まさかそんな読み方をするとは思わなかったので、この辺は結構良い意味で意表を突かれましたね(苦笑)。

ただ、この話だとある疑問が出てきます。
それは、いくら国家の三権から独立した存在だとはいえ、会計検査院に「大阪国」を好き勝手に処分する権限があるのか、という点です。
先にも述べたように、「大阪国」は明治時代に当時の日本政府から国家としての承認を受けている「外国」であり、その領域は日本国の主権が及ぶところではありません。
会計検査院の調査対象はあくまでも「国内限定」であり、「外国」が調査対象、ましてや「取り潰し」の権限まで行使することは本来ありえないのです。
作中で財団法人OJOが調査対象になっているのは、実は「大阪国」の人間で、会計検査院を利用して「大阪国」の存在を外部に知らしめようとしていた旭ゲーンズブールの画策であることが明らかになっているのですが、実際問題、会計検査院ができるのってここまでが限界なはずなんですよね。
「外国」である「大阪国」でどんな不正や会計が行われていようが、そこに「日本国」の会計検査院が口を出したら、それは「他国に対する内政干渉」になってしまうのですから。
唯一、会計検査院が干渉できるところがあるとすれば、それはすくなくとも表面的な法理論上では「日本国の財団法人」として登録されているOJOだけしかないのですが、作中の松平元は明らかに「大阪国」を攻撃の対象にしています。
真田幸一をはじめとする「大阪国」の面々と対峙していた松平元は、一官僚の立場をわきまえずに日本国代表としての「他国に対する宣戦布告」を無断でやっているも同然だったわけで、これってかなり大問題になるんじゃないのかなぁ、と思えてならないのですけどね。
一方の「大阪国」の面々も、自分達が「正規の条約に基づいて日本国から正式に国家承認されている国である」という事実の強みをもっと大々的に主張すべきだったのではないかと。
「国の重み」というのは、たかだか会計検査院程度の組織くらい黙らせられる力を持つものなのですけどね、小なりといえども。

あと、作中における「大阪国」の人間って、物凄く宗教的かつ国家総動員的な体質を持っていますね。
大多数の人間にとっては一度も見たことがないばかりか正体すらも不明な「プリンセストヨトミ(豊臣家の末裔)」のために、あそこまでの総動員が短時間のうちにかけられ、しかもそのことに誰も疑問を持たないときているのですから。
物語のラストで真田幸一が大衆に向かって笑顔を見せた時も、皆熱狂的に歓喜の雄叫びを上げていましたし(苦笑)。
見様によっては、「アメリカ万歳主義」などとしばしば見当違いな揶揄をされるハリウッド映画が裸足で逃げ出してしまうほどの「右翼的」かつ「愛国心礼賛」な作品ですよね、これって。
まあ、作品および作者的にはそういう意図を込めてはいないのでしょうけど。

作品設定的には色々とツッコミどころが満載ですし、派手なアクションシーンやラブロマンスの類も全くありませんが、主演である堤真一・綾瀬はるか・岡田将生の3人の演技で結構点を稼いでいる映画でもありますね。
俳優さん目当てで映画を観る、という人にはオススメの作品かもしれません。

映画「岳-ガク-」感想

ファイル 357-1.jpg

映画「岳-ガク-」観に行ってきました。
小学館発行の漫画雑誌「ビッグコミックオリジナル」で連載中の石塚真一原作漫画「岳 みんなの山」をベースとする、山岳救助にスポットを当てた小栗旬&長澤まさみ主演の映画作品です。
同じく遭難者の救助活動をテーマにしつつも、舞台が海である「海猿」シリーズとは対極に位置する作品と言えますね。

映画「岳-ガク-」の物語は、ひとりの登山家が北アルプスを登山中、足を滑らせてクレバスに落ちていくシーンから始まります。
すぐさま救助要請が長野県警北部警察署の山岳救助隊に入ることになるのですが、ヘリで現場へ急行するにも時間がかかり過ぎることが問題として取り沙汰されます。
ちょうどそこへ、その日から山岳救助隊に配属されることになっていた椎名久美が部屋へ入ってきます。
椎名久美が部屋に入ってきたことに誰も気づかないまま揉めに揉める山岳救助隊の面々ですが、不意に呟いた山岳救助隊の隊長・野田正人の鶴の一声が全てを決します。
「そうだ、三歩がいる!」
三歩こと島崎三歩は、誰よりも山を愛し、世界中の巨峰を登り歩いてきた山岳救助ボランティア。
彼は普段から北アルプスの山で寝食するほどの「山バカ」であり、この日も現場から比較的近い山中で野宿していたのでした。
野田正人は早速三歩と連絡を取り、ヘリで救助に駆けつけるまでに現場へ駆けつけ応急的な措置をしておくよう依頼します。
ここで呟かれた「三歩?」という疑問の声に、ようやく椎名久美の存在に気づく山岳救助隊の面々。
しかし時間が差し迫っていることもあり、山岳救助隊はその質問に対する回答もそこそこ直ちに行動を開始。
椎名久美も移動するヘリに同乗することを許可され、一緒に現場へ向かうことになります。
一方、島崎三歩は何事もなく無事にクレバスへ辿り着き、クレバスに嵌った形で底への落下を免れていた遭難者を見つけ出し、無事を確認すると「良く頑張った」と励ましつつ、遭難者を担いでクレバスから脱出します。
クレバスから脱出して少し歩いたところで、椎名久美も搭乗している山岳救助隊のヘリが現場に到着し、遭難者は無事に保護されます。
ヘリの中から、遭難者を担いだままヘリに手を振る島崎三歩を眺める椎名久美。
これが2人の出会いとなるのです。

その後の映画「岳-ガク-」のストーリーは、山岳救助隊の新米女性隊員・椎名久美の視点をメインに進行していくことになります。
男だらけの職場で、紅一点として厳しい訓練に励む椎名久美。
しかし物語前半は、その努力も全て空回りしているような印象が否めず、周囲に対しても頑なな態度を取っていたりします。
また、物語中盤付近で休暇中に自主訓練をしている最中、自分の目の前で崖から転落した登山者を目撃することになるのですが、「その場で待機しろ」という山岳救助隊本部からの命令を無視して登山者を助けるべく行動したりしています。
その登山者は結局、崖から落ちた時点で頭蓋骨陥没の致命傷を負っていたのでどの道助からなかったのですが、その後、遺体となった登山者を崖の下に投げ捨てるという決断と下した山岳救助隊と、現場に駆けつけ実行に移した島崎三歩に、椎名久美は反感を抱きます。
挙句、その反感から登山者に八つ当たり的な言動を展開したり、怒りのあまり足元がおろそかになって自身が足を滑らせ遭難してしまったりと、物語中盤までの椎名久美は本当に全く良いところがなかったですね。
昴エアレスキューのヘリパイロットである牧英紀から「お前のような奴を何と言うか知っているか? アマチュアって言うんだよ」と酷評されていた描写は、「全くもってその通り」と思わずにはいられませんでしたね。
まあ、これが物語後半を盛り上げる伏線にもなるのですが。

椎名久美関連の描写に象徴されるように、映画「岳-ガク-」は山岳救助の厳しさと現実を良くも悪くも前面に出している作品であると言えます。
物語中盤の山岳救助は、遭難者を発見することはできても助からないものばかりですし、遺体に対面した遺族が救助活動を行っていたはずの山岳救助隊を罵倒し土下座を要求する描写まで存在します。
幾度も危機的状況に置かれながらも、最終的には誰も死ぬことがなかった映画版「海猿」シリーズとはこの辺りについても対極ですね。
個人的には「ああ、こういう場面、現実にも絶対にありえるだろうなぁ」と思いながら観賞していましたが。

物語前半のボロボロな惨状にさすがに意気消沈していた椎名久美は、山岳救助隊の隊長である野田正人から、島崎三歩の過去を聞かされます。
踏破だけで10日もかかるという断崖絶壁に挑戦していた際、自分と共に競いあっていた友人を失い、その遺体を2日がかりで担いで山を下りたという過去を。
山岳救助で冷酷な判断を平然と実行しているように見える島崎三歩にそんな過去があると知った椎名久美は、反発を抱いていた島崎三歩の元を訪ね、自身の父親の身の上話を始めます。
椎名久美の父親は今の山岳救助隊の元隊長で、椎名久美が幼少の頃、無謀な山岳救助に単身挑み、生命を落とした人物でした。
椎名久美は最初それに反発していたものの、17回忌に父親宛の手紙を読んだことから山岳救助を志すようになったそうです。
この時の会話と島崎三歩の激励で何か吹っ切れるものがあったのか、それ以降の椎名久美の成長ぶりは著しかったですね。
最後には「(遭難者を救うためとはいえ)よくぞそんな決断が下せたものだ」的な非情な決断まで実行に移していますし。

原作は未読なのでどうなのかは分かりませんが、すくなくとも映画「岳-ガク-」については「椎名久美の成長物語」的な側面が大きくクローズアップされているのではないでしょうか。
島崎三歩は一応主人公のはずなのに、「他人の視点から見た島崎三歩」的な描写しかなく、島崎三歩自身がどんなことを考えていたのかがはっきりと分かるような描写はほとんどありませんでしたし。
その辺りは原作ファンから見たら微妙に評価が分かれるところかもしれません。

映画「GANTZ:PERFECT ANSWER」感想

ファイル 347-1.jpg

映画「GANTZ:PERFECT ANSWER」観に行ってきました。
集英社の青年漫画雑誌「週刊ヤングジャンプ」で連載中の同名作品を、二宮和也と松山ケンイチを主演に迎えて描かれる実写映画2部作の後編に当たります。
前作「GANTZ」、および2011年4月22日にTV放送された「ANOTHER GANTZ」を観賞した際の私の感想については、こちらをご参照下さい↓

映画「GANTZ」感想
金曜ロードショー「ANOTHER GANTZ」感想

前作に引き続き、今作も残虐シーンが満載であることからPG-12指定されています。
映画公開直前の「ANOTHER GANTZ」放送の影響もあってか、私が行った映画館のスクリーンはほぼ満席状態でしたね。

映画「GANTZ:PERFECT ANSWER」の物語は、前作「GANTZ」のラストから5ヶ月後、トップモデルである鮎川映莉子の元に、小さな黒い球・ガンツボールが送られてきたところからスタートします。
ガンツボールは鮎川映莉子に対し、「鍵」となる人物を殺すよう命じ、鮎川映莉子は無意識のうちにそれを実行していきます。
殺された人物はガンツの元に転送され、前作「GANTZ」で失った加藤勝を生き返らせるため、事実上のリーダー格となって戦っている主人公・玄野計とその他のガンツメンバーと共に戦っていくことになります。
実は鮎川映莉子、および彼女によって殺された「鍵」の人物達は、最後に「鍵」として指定された人物を除き、2年前にガンツに召喚され、星人達との戦いで100点を獲得しガンツから解放された人間であることが、物語後半になって判明します。
ガンツから解放される際には記憶を消されるわけですが、戦い方は身体が覚えているため、彼らは当然のように強いわけです。
そして、ガンツボールが最後に指定した「鍵」の人物は、前作のラストで玄野計に告白し、その後は玄野計と親しく付き合うようになっている小島多恵。
何故「歴戦のガンツメンバー」でもない彼女が選ばれたのかについて作中では何も語られていないのですが、おそらくガンツの意図としては、小島多恵をガンツメンバーに加えることで、星人達との戦いで優秀な成績を収めている玄野計をいつまでも自分の手元に置いておきたいという意図があったのではないかと思われます。
そしてガンツボールが指示を送っている鮎川映莉子自身は、小島多恵を殺させた後で「ミッションクリア」としてガンツルームに呼び寄せる予定だったようです。

しかし、ここでそのガンツの目論見を妨害し、ガンツに仇なそうとする存在が2つ登場します。
ひとつ目は黒服・壹が率いる謎の集団。
彼らは、小島多恵を殺すために地下鉄に乗り込んだ鮎川映莉子を抹殺してガンツボールを奪い取り、ガンツの居場所を特定すべく、行動を開始します。
このことに危機感を抱いたガンツは、玄野計率いるガンツメンバーに対し「黒服星人」として抹殺するよう指示。
これまでの星人達との戦いは、真夜中の人気のない中で行われるのが常だったのですが、この時の舞台は通常運行している地下鉄の真っ只中。
当然、戦いに巻き込まれて死傷&逃げ惑う一般人も多数出る中で、凄惨な戦いが繰り広げられることになるわけです。
ここでの列車内&駅を駆使したアクションシーンはメインの見所のひとつですね。

もうひとつの脅威は、前作で死んだはずなのにラストで何故か野次馬の中に紛れ込んでいた加藤勝。
加藤勝はガンツの記録データの中でも「死者」として登録されており、復活しているはずなどないのですが、彼は黒服星人との戦い直前にも玄野計の前に姿を現します。
黒服星人との戦い後、彼はからくも難を逃れて地下鉄の構内をただ一人うつろに歩き回っていた鮎川映莉子を射殺し、まんまとガンツボールを奪い取ることに成功します。
その頃、ガンツの部屋では黒服星人との戦いにおけるガンツの採点が行われており、鈴木良一が100点を達成することに成功したことが判明します。
鈴木良一は「加藤君を生き返らせましょう」と提案しますが、玄野計は先日加藤勝と再会した経緯から躊躇します。
そこへ、加藤勝に射殺されガンツの部屋に転送されてきた鮎川映莉子がそのことを告白。
そこで「物は試し」ということで加藤勝を復活させ反応を見た玄野計は、先日出合った加藤勝は星人が化けているものだという確信を抱きます。

さらに鈴木良一と同じく100点を達成していた玄野計は、前作「GANTZ」の田中星人との戦いで死んだ西丈一郎の復活を選択。
西丈一郎に対し、黒服星人との戦いにおけるガンツの異常について問い質している中、突然ミッション開始を告げるラジオ体操の曲が、それも音程が狂いまくった状態で流れ出します。
誰もが異常事態と認識する中、ガンツは緊急ミッションとして新たなターゲットを指定します。
そのターゲットとは何と、玄野計が親しく付き合っている小島多恵。
加藤勝に化けている星人が小島多恵を殺してしまうと、星人がガンツボールのミッションクリアによってガンツの部屋へと転送されてしまう事態に直面することになるため、急遽、緊急ミッションが立ち上げられたものと思われます。
しかも、星人でもないはずの小島多恵に対し、ガンツは100点の配当と、ターゲットを殺したメンバー以外の得点を没収する通告まで出します。
これは、ガンツの危機感が相当なものだったという証明になるでしょう。
かくして物語は、小島多恵を死守すべく奮闘する玄野計・鈴木良一、自分に化けた星人に弟を殺され激怒する加藤勝、そして前作「GANTZ」最後の戦いで生き残った桜井弘斗の4人と、ガンツに不安を抱き解放されることを望むその他メンバーとの間で戦いが繰り広げられる事態へ発展することになります。

比較的原作に忠実だった前作「GANTZ」と異なり、今作の「GANTZ:PERFECT ANSWER」では、原作とは大きくかけ離れたオリジナルストーリーが展開されます。
黒服星人という名の星人は原作では未登場(ただし、原作に登場する吸血鬼が黒服星人とほぼ同じ能力を有している)ですし、小島多恵をターゲットとするストーリー自体は存在するものの、勃発する経緯がまるで異なりますし。
加藤勝に化けている星人は、黒服星人と同じ能力を使い、ガンツの部屋に乗り込んだ際に黒服・壹の仲間達を呼び寄せていることから、黒服星人達の仲間であろうことはまず間違いありません。
ただ、変身能力を持つことや二刀流の使い手であること、さらには前作「GANTZ」に登場した千手観音と似たような口調で似たような台詞を話すことなどから、前作の千手観音と同一星人である可能性も否定できません。
あの千手観音は前作でも直接倒された描写がなく(正確には、Xガンを防御した後に巨大大仏を出した後の描写がない)、また前作でも加藤勝の死に際の現場に直接居合わせていたという状況証拠もありますし。
この名前も正体も不明の星人が、歴戦の強者であったはずの玄野計と加藤勝の2人を同時に相手取りながら両者を圧倒していくシーンは、1999年公開映画「スターウォーズ エピソード1/ファントム・メナス」のラストバトルで、たった1人で2人のジェダイ達と互角の戦いを繰り広げたダース・モールを彷彿させるものがありましたね。

映画「GANTZ:PERFECT ANSWER」は、ハリウッド顔負けのアクションシーンだけでなく、これまでガンツメンバーによって殺されていった星人達の復讐心や、小島多恵を巡って葛藤するガンツメンバー達それぞれの姿も大きな見所のひとつです。
前作「GANTZ」でも、千手観音が「お前達が先に攻撃してきた、だから復讐する」みたいなことを述べていましたが、黒服星人も加藤勝に化けた星人も同じことを述べまくっています。
星人達にしてみれば、自分達は何もしていないのに突然攻撃され、仲間を殺されたとなれば当然怒り狂うでしょうし、仲間を殺したガンツメンバーに対し復讐を誓うようにもなるでしょう。
ただ、口では復讐を呼号しながら、殺戮は無感情かつ淡々とこなしている辺りが恐怖を誘うところではありますが。

一方のガンツメンバーは、小島多恵を巡る対応で各登場人物の人間性が表れていて面白かったですね。
半ば恋人関係にあることから小島多恵を死守しようとする玄野計。
玄野計に同意し身を呈して逃亡に手を貸す桜井弘斗。
同じく小島多恵を守るため奮闘しつつも、「100点獲得による妻の蘇生」という甘い誘惑に一度は屈してしまう鈴木良一。
鈴木良一の葛藤は「ANOTHER GANTZ」ともリンクしている内容で、こちらも吟味するとさらに葛藤の様子が分かりやすいですね。
一方、100点獲得のために小島多恵を追跡するメンバー達も、2人ほどは「もう止めよう」と葛藤する場面があったりします。
逆に、小島多恵を嬉々として追っているような印象があったのは、玄野計に復活させてもらったはずの西丈一郎。
追跡の障害となった桜井弘斗を躊躇なく殺しにかかっていますし、こいつを玄野計が復活させたのは間違いだったのではないかと思えてなりませんね。

映画の題名にもなっている「パーフェクトアンサー」の意味は、物語のラストで明らかになります。玄野計がガンツの玉男になる
確かにある意味「完璧な答え」と呼べるものではあったのですが、観覧車の電光表示板に出力されていたメッセージが、何とも切ないものに見えてしまいましたね。

ストーリーもアクションシーンも秀逸の一言で、原作ファンから見ればともかく、日本映画としては間違いなく高い評価が与えられて然るべき映画であると言えます。
機会がありましたら、前作「GANTZ」も併せ、是非観賞されることをオススメしておきます。

映画「T.R.Y.(トライ)」の時代考証に反する反日感情

ファイル 331-1.jpg

日中韓の共同制作作品として2003年に劇場公開された映画「T.R.Y.(トライ)」。
20世紀初頭、正確には1911年の上海を舞台に、織田裕二が演じる伝説の日本人詐欺師が、当時の日本軍から武器を奪うべく頭脳戦を繰り広げるサスペンスアドベンチャー作品です。

映画「T.R.Y.(トライ)」に登場する中国・韓国系の主要登場人物達は、皆多かれ少なかれ日本に対し反感や恨みの感情を抱いている設定を持っています。
しかし、彼らが何故日本を恨んでいるのかについて作中では何らの裏設定なり解答なりが全く明示されておらず、また当時の国際情勢を鑑みても日本が恨まれる要素は存在しません。
「過去の侵略行為」を常日頃絶叫する中国・韓国およびそれに迎合して安易に謝罪する日本、という現代でよく見られる図式から「当時もそうだったのだろう」と安易に考えてでもいたのでしょうが、当の中国・韓国が「過去の侵略行為」とやらを絶叫するようになったのは戦後になってからのことです。
そもそも「侵略が悪い」という認識が大手を振ってまかり通るようになったのは第一次世界大戦終結以降の話ですし、当時の大韓帝国などは、ハーグ密使事件と伊藤博文暗殺という2つの事件の報復を恐れるあまり、「自分の国を日本の一部として併合してくれ」などと日本に対して嘆願すらしていたくらいなのですけどね。

また中国の場合、当時の中国を支配していた清王朝は漢民族の国ではありませんし、また義和団事件から日露戦争終結まではロシアに満州を占領された上に略奪・虐殺の限りを尽くされるなど、日本以外の国による侵略の脅威にも晒されていました。
それを救ったのは皮肉にも日露戦争による日本の勝利で、ロシアは極東での南下政策を断念することになったのですから、むしろ感謝すらされても良かったくらいなものです。
すくなくとも日本軍はロシア軍どころか清王朝軍よりもはるかに公正な軍であると列強からも当時の中国人達からも高く評価されていたのですから。
実際、義和団事件や日露戦争を経て「日本の明治維新に学べ!」と考えて日本に渡った中国の革命家も数多く、後に中華民国を建国し臨時大総統に就任した孫文も、東京で中国同盟会を結成したりしています。
そして何より、このような中国の革命家達に協力したり、資金面で支援したりした日本人も決して少なくはなかったのです。

中国で国を挙げての反日感情が蔓延するようになるのは辛亥革命後、1915年に行われた対華21ヶ条要求以降です。
しかし、それよりも前の1911年時点では、映画「T.R.Y.(トライ)」のような話は時代背景的に成り立たないのではないかと思えてなりません。
前述のように、日本は中国革命家達の根拠地でもあったわけですし、革命前にわざわざ日本を敵に回してアジトを放棄したり支援のツテを失ったりするなど、自殺行為以外の何物でもないでしょう。
それでもなおかつ、そういう時代背景を無視してでも日本軍をあくまでも敵にする、という発想に行き着いてしまう辺り、「さすが日中韓合作!」という雰囲気を感じずにはいられなかったですね(苦笑)。
「T.R.Y.(トライ)」という映画は、元々井上尚登という日本人作家による同名小説を原作としているのですが、そのような作品の共同合作という形態を中国・韓国が受け入れたのは「敵は日本軍」という図式が気に入ったから以外の何物でもないでしょうから。
現代におけるあの2国の世界最大級の反日感情から考えても、そう結論せざるをえないところです。

純粋なエンターテイメント作品としては、織田裕二演じる主人公と敵の頭脳戦やラストの大どんでん返しなど、当時の邦画としては確かに面白い部分も多々あります。
しかし一方で、1911年当時の時代考証・政治背景的にはツッコミどころが満載で違和感も多く感じずにはいられなかった、というのが映画「T.R.Y.(トライ)」に対する私の評価ですね。

ページ移動

ユーティリティ

2024年11月

- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

検索

エントリー検索フォーム
キーワード

ページ

  • ページが登録されていません。

ユーザー

新着画像

新着トラックバック

Re:デスクトップパソコンの買い換え戦略 ハードウェア編
2024/11/19 from ヘッドレスト モニター 取り付け
Re:映画「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」感想
2014/11/27 from 黄昏のシネマハウス
Re:映画「プリンセストヨトミ」感想
2014/10/22 from とつぜんブログ
Re:映画「ひみつのアッコちゃん」感想
2014/10/19 from cinema-days 映画な日々
Re:映画「崖っぷちの男」感想
2014/10/13 from ピロEK脱オタ宣言!…ただし長期計画

Feed