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映画「大奥 ~永遠~ 右衛門佐・綱吉篇」感想

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映画「大奥 ~永遠~ 右衛門佐・綱吉篇」観に行ってきました。
白泉社が出版する隔月刊誌「メロディ」で連載されている、よしながふみ原作の同名少女マンガの実写化映画2作目で、徳川5代将軍綱吉の時代を舞台とした作品。
今回は1作目映画はむろんのこと、原作も全巻既読、さらにはTBS系列で放映されたテレビドラマ版をも全て網羅した上で臨むという、これ以上ないレベルの事前準備が整った上での観賞と相成りました。
正直、1作目映画を観賞するまでは、原作や原作者の存在すらも全く知らなかったくらいだったのですが、人生一体何がきっかけになるのか、分からないものですね(苦笑)。
なお、過去の「大奥」に関する記事はこちらとなります↓

1作目映画「大奥」について
映画「大奥」感想&疑問
実写映画版とコミック版1巻の「大奥」比較検証&感想

原作版「大奥」の問題点
コミック版「大奥」検証考察1 【史実に反する「赤面疱瘡」の人口激減】
コミック版「大奥」検証考察2 【徳川分家の存在を黙殺する春日局の専横】
コミック版「大奥」検証考察3 【国内情報が流出する「鎖国」体制の大穴】
コミック版「大奥」検証考察4 【支離滅裂な慣習が満載の男性版「大奥」】
コミック版「大奥」検証考察5 【歴史考証すら蹂躙する一夫多妻制否定論】
コミック版「大奥」検証考察6 【「生類憐みの令」をも凌駕する綱吉の暴政】
コミック版「大奥」検証考察7 【不当に抑圧されている男性の社会的地位】
コミック版「大奥」検証考察8 【国家的な破滅をもたらす婚姻制度の崩壊】
コミック版「大奥」検証考察9 【大奥システム的にありえない江島生島事件】
コミック版「大奥」検証考察10 【現代的価値観に呪縛された吉宗の思考回路】
コミック版「大奥」検証考察11 【排除の論理が蠢く職業的男性差別の非合理】

テレビドラマ「大奥 ~誕生~ 有功・家光篇」
第1話感想  第2話感想  第3話感想  第4話感想  第5話感想  第6話感想  第7話感想  第8話感想  第9話感想  最終話感想  全体的総括

映画2作目の物語は、京の都にある冷泉家の閨で、後に右衛門佐と名を改める継仁が、子作りを目的に性行為に勤しむ様子が描かれる、原作5巻P13~P14のシーンから始まります。
冷泉家の女性とまぐわっている最中、突然ネズミの鳴き声と足音がして抱きついてくる女性をなだめながら、継仁は「自分はネズミや」と自虐まじりに思いを致すのでした。
そこで舞台は変わり、今度は原作4巻P117に戻り、メガネをかけ直した御台所付御中臈・秋本が、御台所(正室)・信平に刻限を告げ、桂昌院と伝兵衛と共に徳川5代将軍綱吉の「総触れ」が行われる様が描写されます。
大奥ではロクな男が物色できないことに飽きでもしたのか、綱吉は牧野備前守成貞に入り浸るようになります。
この世界では当然のごとく女性である牧野備前守成貞の夫は、館林時代に綱吉の愛人だった阿久里がおり、彼女は成貞が事前に用意した夜の世話のための男達には全く目もくれることなく、阿久里に自分の世話をするよう命じるのでした。
阿久里との「夜の営み」の後、満足気に帰っていく綱吉を見送る牧野家では、結果的に夫を寝取られることになった成貞のすすり泣きが響き渡るのでした。
その後、綱吉は1ヶ月の間に5回というペースで牧野家に入り浸り阿久里と夜を共にすることに。
さらに綱吉は、阿久里の健康状態が思わしくなくなったことを察すると、今度はその息子の貞安にも手を付け、大奥に入れてしまいます。
結果、阿久里と貞安は病死、貞安の妻も夫が綱吉に寝取られたことがショックで自害することとなり、一家をボロボロにされた牧野備前守成貞は隠居を申し出る羽目になったのでした。
それは、綱吉の寵愛?を自分ひとりで独占しようとする柳沢吉保の策謀でもあったのですが。

そんな中、綱吉にすっかり見向きもされなくなってしまった上、35歳のお褥すべりが迫っている自身の今後の立場や権力が気になった御台所・信平は、京から自身の子飼いとなるであろう公家の男を呼び、綱吉との間に子供を生ませることで、自身の立場を強化することを思いつきます。
そして、信平が京から呼び寄せた男は、物語冒頭に登場し改名した継仁こと右衛門佐だったのです。
右衛門佐は、巧みな社交辞令と政治的センスを駆使し、瞬く間に綱吉に気に入られたばかりか、有功ことお万の方以来長年空席だった大奥総取締の座を手にすることに成功。
さらに右衛門佐は、綱吉のひとり娘である松姫の「お腹様」だった黒鍬者の伝兵衛を隔離し、短期間のうちに大奥内で絶大な権勢を誇るようになっていきます。
しかし、右衛門佐が有功と瓜ふたつな顔立ちをしているために初対面でまんまと出し抜かれた綱吉の父親である桂昌院は、当然のごとく右衛門佐の台頭が面白くありません。
2人は綱吉の世継問題を巡って対立し、事あるごとに衝突することとなるのですが……。

映画「大奥 ~永遠~ 右衛門佐・綱吉篇」は、一応はテレビドラマ版から続く続編という位置付けではあるのですが、ストーリー自体は桂昌院関係のエピソードを除きほとんど関連性がないため、作品単体でも観賞は充分に可能です。
過去作を見ないと話の繋がりが分からない唯一のエピソードは、桂昌院が隆光に「綱吉に世継ぎができない理由」を尋ねた際、「殺生をしたことがあるか」と問われてショックを受けるシーンくらいです。
その理由については、原作2巻またはテレビドラマ版「大奥 ~誕生~ 有功・家光篇」の第3話で披露されていますので、今作が「大奥」初観賞で意味が分からなかったという方は、そちらを確認することをオススメしておきます。

また、テレビドラマ版に引き続き主演を担っている堺雅人が演じていた右衛門佐は、しかし原作と比べてもかなり大人しく静かなイメージがどうにも拭えなかったですね。
一応設定では「切れ者」ということになっており、綱吉や桂昌院相手にも物怖じすることなく堂々と渡り合っていた様が描写されてはいたのですが、どことなく「覇気」という要素が足りないというか……。
性格的には優しく誰にでも慕われるが鬱屈を自分の中に溜め込む気質な有功に対し、右衛門佐はどちらかと言えば野心と計算に基づいて他人を動かしている的なイメージがあるのですが、映画版の右衛門佐は「他人を動かす」的な描写が不足している感が多々あります。
秋本を自分の腹心として見出した理由とか、御用商人達を手玉に取って大奥へ搬入する物品の仕入値を値切るシーンとかいった、政治謀略家としての右衛門佐の側面が思いっきり省略されてしまっていましたし。
右衛門佐の腹心たる秋本にしても、大奥の動向を監視する「密偵の総元締め」的な一面はまるで描かれることなく、ただ右衛門佐の傍仕え兼語り部として登場していただけでしかありませんでした。
その手の描写は、右衛門佐の政治的センスやその方面における辣腕ぶりを示すものでもあったのですから、右衛門佐の有能性を示すという観点から言えば省略してはいけなかったのではないかと思えてならないのですが。
全体的に旧社会党ないしは社民党的な腐臭が漂う愚劣な女尊男卑的な人間や主義主張が披露されまくっている「大奥」世界において、右衛門佐というキャラクターは結構好評価なものがあっただけに、彼の有能性を示すエピソードの省略は何とも惜しいものがありますねぇ(T_T)。

今作では右衛門佐絡みのエピソードに限らず、原作におけるエピソードや設定を少なからず端折っていたり「なかったこと」にしたりしています。
たとえば、原作5巻における元禄赤穂事件の勃発から武家の男子相続禁止令までの流れは完全になくなっていましたし、秋本が大奥に入った真の理由「妹の絹との近親相姦と『他の女との間に子供を作りたくなかった』から」という動機も、結局映画版では言及されずじまいでした。
映画版は上映時間124分という時間枠しかなかったのですし、その限られた時間の中で原作ストーリーの全てを描くのは至難の業だった、という事情は当然あったでしょう。
しかし、テレビドラマ版が原作ストーリーの大部分を余すところなく描写していたことを鑑みると、原作既読者としては「やはり原作エピソードの抜けが多い」と言わざるをえないところですね。
その割に、原作でも右衛門佐の野心的な構想と共に鳴り物入りで登場していたにもかかわらず、結局いつのまにかフェードアウトしていた大典侍と新典侍は、原作の描写そのままな立ち振る舞いに終始していたりしましたし。
原作エピソードの取捨選択がどうにも中途半端で、もう少し何とかならなかったのかとついつい考えてしまいましたね。
まあ、原作でも問題だらけなエピソードだった、元禄赤穂事件後の綱吉が発した「武家の男子相続禁止令」がなくなったことについては、結果的には「削って良かった」と言えるシロモノではあったのですけどね。
検証考察6でも述べていますが、アレがあったら「大奥」世界における綱吉の歴史的評価がさらに悪化したであろうことは間違いないわけですし(苦笑)。

映画「大奥 ~永遠~ 右衛門佐・綱吉篇」が描きたかったテーマを挙げるとすると、それは「毒親からの解放」ということになるのではないですかね?
何しろ、綱吉の父親である桂昌院は、かつてのライバルだったお夏の方憎しという個人的感情と自己都合を、無理矢理綱吉に押し付けていた側面が多々あったわけで。
それだけに、次代の将軍として、綱吉の姉で故人の徳川綱重の娘・綱豊を養子に迎えることを決定した際の綱吉の決断は相当なまでに重いものがあったでしょうね。
彼女にしてみれば、父親たる桂昌院を文字通り「捨てる」覚悟で事に臨まざるをえなかったわけですし。
ただ、そこまでできたのであれば、ことのついでに桂昌院を安心させる【だけ】のために定めた感すらあった「生類憐みの令」も一緒に廃止してしまえば良かったのに、とは考えずにはいられなかったところなのですが(^^;;)。
あの状況で、綱吉が「生類憐みの令」を廃止してはいけない理由なんてどこにもないわけですしね。
結局、「生類憐みの令」は次代将軍の家宣が廃止を宣言することになるわけですが。

ところで、この「大奥」シリーズは、徳川5代将軍綱吉の死後以降のストーリーについても、やはり映画化なりテレビドラマ化なりされるのでしょうかね?
すくなくとも、江島生島事件がメインとなるであろう徳川6~7代将軍の話は、普通に実写化されそうな感じではあるのですが。
これが実写化すれば、映画版1作目のストーリーにも繋がることになるわけですし、ここまで「大奥」を実写化するのであればやらない方が変だとは思うのですけどね。
まあ、この辺りは予算の都合とか人気の度合いにもよるのでしょうが。

しかしまあ今作は、いくら原作からしてそうだったとは言え、ストーリーが全体的に暗く、テレビドラマ版以上にあまり一般受けしそうな構成ではないですね。
テレビドラマ版も視聴率が芳しいものではなかったわけですし、今作が果たしてどれくらいの興行的な成功を収め得るのか、はなはだ心許ない限りではあります。

映画「妖怪人間ベム」感想

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映画「妖怪人間ベム」観に行ってきました。
1960年代に放映された同名テレビアニメを実写化し、2011年に日本テレビ系列で放映されたテレビドラマ番組終了後の後日談にあたる作品。
今作のストーリーは、テレビドラマ版と密接な関連性があり、テレビドラマ版を視聴していないと登場人物達の人間関係が分かりにくいところがありますので、今作を観賞する際には事前にテレビドラマ版を視聴することをオススメします。
かく言う私自身、テレビドラマ版はたまたま最終回だけ再放送で途切れ途切れながら観賞する機会があった以外は未視聴で、特に物語中盤に登場したベム・ベラ・ベロの知り合い的な登場人物達については「こいつら一体誰だよ?」と疑問に思わざるをえませんでしたし。

物語は、大金のバックを抱えながら多くの乗客が乗っているバスジャックした3人組の覆面男が、雷雨の中、バスの運転手に銃を突きつけ警察の検問を突破したところから始まります。
バスは検問が死守していた建設途上?の無人のトンネル内に突入するのですが、そこで突然、バスが停止し動けなくなってしまうという事態が発生します。
バスジャック犯がいきり立って周囲を怒鳴りつけつつ外の様子を確認しようとしますが、バスの外に出るや否や、彼らは何者かによって悲鳴と共に姿を消してしまいます。
3人のバスジャック犯達は次々と消されていき、乗客の子供をひとり人質として連れ去ろうとした最後のひとりも、悲鳴と銃声を残していなくなってしまうのでした。
バスジャック犯がいなくなり、子供の安否を確認しようと我先にバスから降りた乗客達は、最後のバスジャック犯が逃走した先で、ただひとり呆然と座っている子供を発見し胸をなでおろすのでした。
しかし、バスジャック犯に一体何が起こったのか?
自分達も安全であることを確認できた後で、当然のごとくその疑問に駆られた彼らは、ふとトンネルの出口方面に目を向けます。
ちょうどその時、稲光と共に浮かび上がる3体の異形の存在。
明らかに人間ではないその異形の存在にパニック状態となったバスの乗客達は、悲鳴を上げながら我先に反対側のトンネルの出口へと殺到していきます。
そして一方、3体の異形の存在もまた、驚異的な身体能力を駆使してその場を後にするのでした。

乗客達が目撃した3体の異形の正体。
それは、人間になることを目的とし、人間のために戦うことを自らに課している妖怪人間ベム・ベラ・ベロの3人でした。
彼らは、バスの乗客達に姿を見られてしまったことから、新たな場所へ「引っ越し」をする必要に迫られることになります。
船に密航?し、新たな場所へと移動することになる3人。
しかし、船で辿り着いた新たな場所では、MPL製薬という巨大企業の重役が何者かに襲撃・殺害されるという事件が頻発していました。
船から上陸早々、そのMPL製薬の重役がクレーンの真下で重傷を負っている事態になっていることをベムは突き止めます。
3人が重役の男を発見直後、クレーンのワイヤーが何者かによって切断され落下してくるのですが、間一髪で3人はクレーンを交わし、巨大な落下音を聞きつけた人間達に後の処理を任せその場を後にします。
またもや騒動に巻き込まれそうな気配が濃厚な中、3人はただひとり寂しそうに佇む少女の姿を発見することになるのですが……。

映画「妖怪人間ベム」のストーリーは、原作のテレビアニメ版で見られた「妖怪同士の戦い」などよりも人間ドラマ的な物語に重点が置かれており、醜い容姿をしているために人間社会に溶け込めないことや、不老不死であるが故の葛藤などがメインテーマとなってます。
敵方の妖怪も全く出てこないというわけではないようなのですが、それらの存在との戦いはあくまでも「メインテーマの添え物」的な扱いです。
巷に溢れる「妖怪もの」と言えば「妖怪VS妖怪」という図式がメインで繰り広げられる構図が常に存在するだけに、人間ドラマに重点を置いた妖怪ものというのはある意味新機軸ではあったでしょうね。
まあ、それでヒットしたのかどうかはまた別問題ですが。
また、テレビアニメ版の「妖怪人間ベム」と言えば、肝心のベムの露出が控えめで実質的な主人公がベロだったのに対し、テレビドラマ版&映画版のそれは名実ともにベムが主人公となっています。
タイトル名もさることながら、実写でベロが主役ということになると、ベロ役を担う子供にかかる負担が半端なものではなくなるという「大人の事情」も絡んだ上での変更なのでしょうね、これは。

ただ今作では、テレビドラマ版で終始悪役として君臨していたらしい「名前のない男」がいなくなってしまったこともあってか、これといった存在感を放つ「ラスボス」が不在だったことから、どことなく消化試合的な雰囲気がどうにも否めなかったですね。
強大な力を保有する主人公達に対し、物理的なものではなく社会的・政治的なテーマやアンチテーゼなどで対抗しえる「敵」の存在が不在なんですよね、今作は。
副作用のある薬を隠蔽するMPL製薬や、妖怪人間達に銃を向けてくる警察組織等を「悪の組織」的な存在にするとか、その手の「敵」を作る方法はいくらでもあったのではないかと思えてならないのですが。
映画ならではの演出としてラストに登場させたのであろう巨大植物妖怪?も、ただ「物理的に強い」というだけで、絶対的な悪でもなければ非道な敵というわけでもなかったですし。
作中における「絶対悪」を挙げるとすれば、MPL製薬の代表取締役?の加賀美正輝がそれではあるのでしょうが、しかし彼にしてもその主張に比してあまりにも物理的に弱すぎて、主人公の対抗軸になど到底なりえていません。
加賀美正輝は、彼なりに筋の通った「悪の信念」に基づいて悪行を為してはいたのでしょうが、物理的にほとんど無力な彼は、結局妖怪人間達にいいように振り回される人間のひとりでしかなかったのですから。
彼の信念そのものは決して悪いものではなかったのですが、如何せん「自分の手を汚す」ということにこだわり過ぎるあまり、汚れ役のプロやボディーガードをそれなりの数だけ雇うでもなく、単独で殺人その他の悪行を重ねていたのには笑うしかありませんでしたし。
一応は巨大企業の支配者でもあるのですし、その程度のカネくらい動かせる力は充分に備えているでしょうに(苦笑)。
加賀美正輝を悪役として登場させるのであれば、彼が自ら望んで巨大妖怪に変化して主人公と戦うとか、警察を裏から操って邪魔者を情け容赦なく殺すよう指示させるとかいった演出でもやってくれた方が、主人公の対立軸にもなって良かったのではないのかと。
エンターテイメント作品における「悪役の使い方」というものが、どうにもヘタクソに思えてなりませんでしたね、今作は。
いくら今作が人間ドラマ重視の作品だったにしても、もう少しやりようはあったのではないかと、つくづく思えてならなかったのですが。

あと、作中の演出で思わず内心笑ってしまったのは、いくらベム・ベラ・ベロの3体の妖怪人間が怖かったからとはいえ、その場の状況も考えることなく銃を乱射しまくる警官達の行為ですね。
作中の警官達は、明らかに警察上層部から発砲許可を取ることなく銃を乱射していましたし、そもそも妖怪人間達の後方には民間人たる子供がいたりしていたのですが。
特に、妖怪相手に撃ちまくった銃弾の流れ弾が後方の人間に当たろうものならば、後日警察がその横暴ぶりと責任を社会的に問われ、窮地に追いやられることになるのは確実なのですし。
映画「ロボット」におけるインド警察じゃあるまいし、コチコチの官僚機構たる日本の警察がそんなことをやって良いものなのかと(苦笑)。
あそこまで日本の警察がはっちゃけることが可能なのであれば、様々な作品で問題として取り上げられてきた「事なかれ主義な官僚機構の硬直性」などとは、永遠に無縁でいることができるはずなのですが。

テレビドラマ版のファンであれば、今作を観賞する価値はあるでしょう。
ただ、テレビアニメ版のイメージでもって「派手な妖怪の戦い」を期待し今作を観賞しようとすると、大きく肩透かしを食らうことになるかもしれません。

映画「カラスの親指」感想

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映画「カラスの親指」観に行ってきました。
道尾秀介の同名小説を実写化した、阿部寛と村上ショージが主演を担う人間ドラマ作品。

物語最初の舞台は競馬場。
競馬場の馬券売り場で、あからさまに初心者な風体の長身な男がひとり、何の馬券を買うべきか迷う様子を見せていました。
そんな男に近づき声をかける、こちらは小柄な男。
彼は自己紹介の後、「この馬券を買うといいよ」ととある馬券を勧め、その場を後にします。
そんな2人の様子を後ろから眺めていた、ユースケ・サンタマリアが扮する優男。
競馬場のレース結果はどうやら小柄な男の忠告通りの内容になったらしく、競馬場の客席で喜ぶ長身の男の前に、優男は注意を呼び掛けます。
実は先の小柄な男の言動は詐欺の一環であり、このまま換金所へ行けばさっきの男がやってきて分け前を求めてくることになると。
その優男によれば、小柄な男の詐欺の手法は、あらかじめ全ての馬券を複数の人間にひとつずつ教え、当たった人間をターゲットにしてカネをせびるというものなのだそうで。
そんなことになっては面倒だから、その当たり馬券は俺が買おうと優男は申し出てきます。
もちろん、そんな優男の親切ぶりには当然のごとく理由がありました。
優男は、長身の男が持っていた馬券が実は配当金400倍以上もの当たり馬券であることを知っており、長身の男の無知ぶりに乗じて、本来の配当金の10分の1以下の金額でその馬券を買おうとしていたわけです。
最初は渋っていた長身の男でしたが、何やら急いでいるらしい男は電話でせっつかれていたようで、優男の言うがままに馬券を売ってしまい、その場を後にします。
優男はしてやったりと言わんばかりにさっさと換金所へと向かい、馬券の両替を行なおうとします。
ところが換金所のATM?は、優男の馬券に対して「この馬券は換金できません」という応答を返すばかり。
不審に思った優男が馬券をよくよく調べてみると、何と馬券の表面はシールによる二重構造になっており、シールをめくったら全く違う馬券が出てきたのでした。
長身の男を騙したつもりで、本当に騙されたのは実は優男の方だったのです(苦笑)。
優男を騙した一連の詐欺は、長身の男と、長身の男に最初に話しかけてきた小柄な男が共謀したものだったというわけですね。

今作の主人公で阿部寛が演じる長身の男の名は武沢竹夫といい、小柄な男からは「タケ」と呼ばれていました。
一方、村上ショージが扮する小柄な男の方は入川鉄巳といい、タケからは「テツ」という愛称をつけられていました。
2人はコンビを組んでおり、冒頭の競馬場での一件のように詐欺行為に手を染めることで生計を立てていました。
基本的にはタケの方がベテランの本職詐欺師で、テツはオタオタしながらその手伝いをする素人な相棒といった感じです。
競馬場の詐欺で大金を手にし、近くのタンメン屋?でささやかな祝杯を上げていた2人は、しかしその最中で、自分達が借りているアパートの一室が火事になっているのを目撃します。
するとタケは顔を青ざめさせ、テツの手を引っ張ってその場を後にし、火事になったアパートへ戻ることなく公園の遊具の下で野宿をするのでした。
そしてタケは、自分が詐欺師になった経緯をテツに語り始めます。
元々は普通のサラリーマンだったタケは、しかし会社の同僚がこしらえた借金の連帯保証人になってしまい、闇金から借金の返済を迫られた過去がありました。
そして闇金を牛耳るヒグチという男の手下として借金の取り立て役を任され、借金の返済を迫った先の女性を自殺にまで追い込んでしまったのです。
その行為にウンザリしたタケは、ヒグチの事務所から金貸しのリストを密かにちょろまかし、それを警察に持って行ってヒグチもろとも闇金組織を壊滅させることに成功。
しかしその直後、タケの家が火事に見舞われ、その際に彼の唯一の肉親だった娘が他界することとなってしまいます。
そこにヒグチの影を見出さざるをえなかったタケはただひとり逃亡、その後はまともな職に就くこともなくいつの間にか詐欺師になったとのことでした。

その後、別の場所で新たな一軒家を拠点として確保し、心機一転と言わんばかりに詐欺稼業を再開したタケとテツの2人は、詐欺のターゲットを物色している最中、目星をつけていたターゲットにスリを働いた少女を目撃します。
とっさに2人は助けに入り、少女を逃がすことに成功。
ひとまず落ち着いたところで2人が事情を聞くと、今いるアパートの家賃が払えず、近いうちに追い出される公算が高いことから、一発逆転的にスリに走ったとのこと。
その少女に何か感じるものがあったのか、タケは少女に対し、アパートを追い出されたら新たに確保した自分の拠点に来るよう少女に促すのでした。
これが、タケにとっても少女にとっても大きな転換点となるのですが……。

映画「カラスの親指」は、ラスト30分の思わぬ展開と伏線の回収ぶりが光る作品ですね。
それまでの映画の世界観が根底から覆る衝撃の展開でしたし、そこに至るまでの伏線の積み重ねがまた丁寧かつ大量に行われています。
これほどまでの大逆転ぶりは、今年観賞した邦画作品の中でもダントツの凄さで、観客として見てさえ思わず「これは騙された!」と唸らざるをえないほどに秀逸な出来です。
洋画も含めた映画全体で見ても、今作に匹敵するだけの大逆転をこなしてみせた作品は「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」くらいなものでしたし。
映画の評価はラスト30分の展開でその大部分が決まる、というのが私の持論なのですが、今作はその定義に見事に当てはまった構成ですね。
人間ドラマ的な面白さ以上に、ミステリー的な要素も少なくない作品と言えるのではないかと。

逆に今作で一番悲惨な役どころを演じる羽目になったのは、物語中盤で主人公達の平和な生活を乱したと見做され、詐欺のターゲットとして狙われることになるヒグチ一派でしょうね。
物語ラストで披露される真相から見れば、彼らは一方的に冤罪をかぶせられ危険視された挙句に先制攻撃を受ける羽目になっていたわけなのですから。
もちろん、彼らもそれなりに非道なことをやらかしまくっていた前歴があるのですし、作中でも言われていたように本当にタケ達を襲撃する可能性も決してなくはなかったのですが。
ここでさらに笑えたのは、ヤクザの一員が主人公達の素性に探りを入れた際に■■を指さしてやり返した台詞「私は○○○○の△△△なんです」でしたね。
あれを言われた時、黒幕の人は内心大爆笑していたのではないですかねぇ。
良くも悪くも、確かに凄く良い思い出になったのではないかと思えてならないのですが(苦笑)。

今作では「阿部寛主演」というのが映画広報の際の売り文句のひとつとなっていましたが、作中ではどちらかと言えば村上ショージのキャラクターぶりの方が光っていた感じではありましたね。
何でも村上ショージは、今作が初めて本格的な俳優としてデビューした映画となるのだそうで。
あの最後まで飄々としていたキャラクターぶりは、私は嫌いではないですね。
今作の雰囲気にも良く合っていましたし。
両者のファンと人間ドラマ&ミステリー好きな方は、今作を見る価値があるのではないかと。

映画「ぼくが処刑される未来」感想

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映画「ぼくが処刑される未来」観に行ってきました。
「仮面ライダー」や「スーパー戦隊」シリーズで活躍してきた若手俳優達にスポットを当てる映画シリーズ「TOEI HERO NEXT」の第二弾。
この「TOEI HERO NEXT」シリーズというのは、まだ今年になって発足したばかりのシリーズということもあって、劇場での公開も全国でわずか20箇所程度の映画館でしか行っていないみたいですね。
熊本ではたまたま1箇所だけ該当の映画館があったので私は観賞することができたのですが、全国20箇所では全く上映されない都道府県の方がむしろ多いわけなのですからねぇ。
この映画の地域間格差、いい加減どうにかして欲しいものなのですが(T_T)。
なお今作で、私の2012年映画観賞総本数は90本の大台に到達しています。

今作の主人公である浅尾幸雄は、世の中のことも他人についても、それどころか自分自身のことについてさえも無関心な体を為している若者。
その日の夜も、飯屋?の親父の注文ミスについてちょっと凄まれただけで何も言い返すことも出来ず、路上で負傷して寝ている酔っ払いサラリーマンを見て見ぬふりをして通り過ぎようとしたりと、その無関心かつ事なかれ主義ぶりが露わになっていました。
しかし酔っ払いサラリーマンを避けて通ろうとしたその時、突如頭上から眩しい光が浅尾幸雄に降りかかり、次に気づいた時、彼は薄暗い取調室の椅子に座らされていたのでした。
突然のことに混乱する浅尾幸雄を尻目に、取調室にいた取調官は「お前は人を5人も殺したんだ!」などとをのたまい、強圧的に浅尾幸雄に罪を認めさせようとします。
もちろん、浅尾幸雄に5人もの人間を殺した経歴など全くなく、彼はますます混乱を余儀なくされていくことに。
結局、必死の弁明も空しく、彼は独房に収監される羽目に。
ただ、浅尾幸雄には一応弁護士が付けられるということで、彼はその弁護士の面談を通じて事情を聞こうとします。
しかし、女性弁護士である紗和子は、無常にも「あなたの有罪は既に決定している」と通告。
それと共に彼女の口から語られたのは、驚くべき事実でした。
何と、浅尾幸雄が今いるのは、彼が元いた現代日本から25年も経った世界であり、殺人事件を犯した(とされる)のは25年後の彼だったというのです。

25年後の日本では死刑が廃止されており、犯罪者本人を死刑に処すことができないこと。
そしてその代わりに、「未来犯罪者消去法」という法律が施行されており、過去の犯罪者をタイムワープさせてきて見せしめに公開処刑をするという行為が公然と行われること。
過去の犯罪者をタイムワープさせた時点で、現在の時間軸とは全く異なる並行世界が作られるので、今の歴史が変えられたりする等のタイムパラドックスの問題は全く発生しないこと。
そして、浅尾幸雄を25年後の日本にワープさせたのは、日本の空に浮遊している巨大な量子コンピュータ「アマテラス」であり、日本の裁判は「アマテラス」の演算処理に基づいて行われていること。
これらの事情を聞かされた上、後日行われる裁判の場で遺族に謝罪してくださいと、浅尾幸雄は紗和子から一方的に告げられることになるのでした。
彼女は浅尾幸雄の弁護をするつもりなど欠片もなかったのです。

そして後日、裁判が行われることになったのですが、裁判と言ってもその実態は「最初から決まりきった結論を宣告するためのデモンストレーション&パフォーマンス」的なものでしかなく、殺害された遺族と観客たる国民が被告を罵るために存在するようなものでしかありませんでした。
判決は当然のごとく有罪&死刑。
ところが裁判後、何故か浅尾幸雄に面談が許されたことから、さらに事態は大きく変転することになります。
浅尾幸雄はその面談で、5人の人間の殺人を犯したとされる25年後の自分と会うことになっていたのですが、そこで姿を現したのは、彼と同姓同名でありながら実は全く別の人間だったのです。
「キングアーサー」と名乗るその人物は、浅尾幸雄が幼少時の頃の虐めっ子で、当時の浅尾幸雄に「奴隷の証」として焼印を押し付けるような残虐な人格の持ち主でもありました。
そのことに気づき、自分の無罪を何とかして証明しようとした彼は、さらに独房の中で思いもよらぬ声をかけられることになります。
刑務所のシステムを一時的にハッキングして浅尾幸雄に声を届けたその人物は「ライズマン」と名乗り、刑務所のシステムを操作して浅尾幸雄を脱獄させるのでした。
公開処刑の執行まであと3日という時間を残した中で、浅尾幸雄は何とか自分の無罪を証明すべく奔走を始めることとなるのですが……。

映画「ぼくが処刑される未来」で主要な舞台となる25年後の日本は、実に歪な法体系が現出していると言えますね。
25年後の日本で死刑が廃止されたのは、無実の人間を殺人罪で死刑にしてしまった後に真犯人が見つかったという事件があったことが問題となり、その再発防止の観点から成立したというのが背景にありました。
そして「未来犯罪者消去法」が誕生したのは、犯罪者を死刑にできない遺族の心情に配慮し、その復讐心を満たして心の平穏を回復させることにその主眼が置かれていました。
そして、量子コンピュータ「アマテラス」が裁判を担うようになったのは、かつて紗和子が弁護を担当した殺人事件の被告が無罪を勝ち取った後、別の殺人事件を起こして逮捕されたことがマスコミなどで大々的に報じられた結果、人間による誤認を伴う裁判制度に多くの人が疑問を抱くようになったため。
前述のように、タイムワープしてきた人間を殺しても「その人間がいない並行世界」が出現するだけで歴史改変等の問題は全く発生することがなく、またタイムワープした人間は「この世界の人間ではなく、この世界における日本の法律適用対象外となる」ため、公開処刑も問題なく行える、ということになっているようです。
一見すると、なかなかによく練られた設定と論理であるかのように思われます。
ただ、よくよくその実態を眺めてみると、すぐさま色々なツッコミどころが見つかってしまったもするんですよね(苦笑)。
一番の問題は、「未来犯罪者消去法」で公開処刑をするための人間を選定するに際して、何故わざわざ25年も前の存在を引っ張ってこなければならないのか、という点です。
25年も前の人間を引っ張ってきて「現在の」罪を認めさせ土下座などを強要したところで、作中の浅尾幸雄がそうであるように普通はわけも分からず戸惑うだけでしかありません。
また、「自分がやってもいないことを無理矢理認めさせる」などという構図は、まず相手の人権および法の権利を無視しているという点で論外もいいところですし、そんな構図に必死になって抵抗しようとする人間も決して少なくはないでしょう。
全く身に覚えのないことで有罪を宣されることほど、人間にとって不当極まりない事象はないのですから。
作中の浅尾幸雄はまさに事実関係においてさえも冤罪を着せられていたわけですが、たとえそうでなかったとしても、あるかどうかも分からないし、まだ自分がやってもいない25年後の未来の行為について自己責任を感じ懺悔までする人間なんてそうそういるものではありません。
人間は過去と現在の行為にはともかく、未来の行為に対する責任なんて持ちようがないわけですし、仮にそんなことをする人間がいたとしたら、そいつはよほどの聖人か偽善者の類でしかないでしょう。
こんなことをやったところで、遺族の復讐心的な感情など満たしようがないばかりか、むしろ遺族を「不当な殺人者」と同等以下の存在にまで貶めてしまう危険性すら否めません。
そんなことをするよりは、殺人事件を犯す直前の犯罪者をタイムワープさせて前非を悔いさせでもした方が、まだ遺族の復讐心を満足させるという観点から言ってさえもはるかに有効なのではないのかと。
タイムワープさせてきた人間を殺しても、並行世界が生じるだけで時間軸に全く何の影響もないであればなおのことです。
何故「アマテラス」がわざわざ25年も前の犯罪者をタイムワープさせてくるようなシステムになってしまっているのか、理解に苦しむと言わざるをえないところなのですが。
しかも「アマテラス」は、同姓同名や双子などといったケースを全く区別することができず、犯罪者とは全く無関係な人間をタイムワープさせたりしているのですから、その滑稽かつ悲惨な惨状は目を覆わんばかりなものなのですし。
もう少し安全確実かつ実効性のあるシステム体系というものを、「アマテラス」にせよそれを作り出した人間にせよ構築することができなかったのですかねぇ。

また、いくら人間社会で誤審を伴う裁判制度に懐疑的な目が向けられていたとはいえ、量子コンピュータの判決についてあそこまで絶対的かつ宗教的なまでの信奉っぷりはさすがにありえないでしょう。
人間の恣意性が多大な影響を及ぼす裁判や法律という分野は、演算能力と「型にはめたプログラム運用」を売りとするコンピュータが最も苦手とするものなのですから。
裁判や法律の世界では、下手に型にはまった運用などしようものならば却って社会的な混乱を招きかねません。
著作権や表現規制の問題などは、まさに機械的に型にはめた運用を行って歪な形になってしまった典型例ですし。
現代でさえ、コンピュータはセキュリティや管理運用の面で毎日毎日色々な問題を引き起こし続けているのですし、作中の「アマテラス」も簡単にハッキングされたりしている辺り、セキュリティ面の問題は相当なものがあると言わざるをえないところです。
いくら「アマテラス」が高性能かつ多機能であるとは言え、よくまあこんな不安だらけなシステムに人の命運をも左右する裁判などを任せることができるなぁ、と逆の意味で感心するしかなかったですね。
というか、本当に裁判面で「アマテラス」を活用したかったのであれば、犯行が行われた現場と時間に監視カメラをタイムワープさせる等の「サポート役」として使用していた方が、裁判の誤審を防ぐという本来の主旨にもはるかに合致したのではないのかと。
この辺りの方向性は、その管理運用に全面的な信頼が置かれていたAIが暴走し、AIの主観的には人類社会のためを思って行動していることが逆に人類社会の脅威となっていく「アイ,ロボット」や「イーグルアイ」を髣髴とさせるものがあります。
まあ作中の「アマテラス」はそこまで自律的な行動をする存在ではなく、ただ判断能力などの性能面でバグを頻出させていた、ある種の「欠陥品」でしかなかったのですが。

かくのごとく、ストーリー面では色々とツッコミどころのある作品ですが、粗削りな中にも光るところはあり、将来的な期待は持てそうな感じの映画ではありますね。
着眼点や展開自体は決して悪いものではなかったですし。
「TOEI HERO NEXT」シリーズの3作目は2013年2月に公開されるとのことですが、この調子でどんどんシリーズを積み重ねていって欲しいものですね。

映画「任侠ヘルパー」感想

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映画「任侠ヘルパー」観に行ってきました。
諸々の事情からヤクザが介護ヘルパーとして働くという奇抜な設定が話題となった、2009年にフジテレビ系列で放映された草彅剛主演の同名テレビドラマの映画化作品。
テレビドラマ版については、映画館での宣伝からその存在自体を知ったくらいなので当然のことながら全く未視聴。
ただ、設定自体はテレビドラマ版と一応の繋がりはあるものの、ストーリー自体はテレビドラマ版とは別個になっているので、作品単独でも充分に観賞可能な映画ではありますね。

かつては指定暴力団「隼会」に所属していた、草彅剛が扮する今作の主人公・翼彦一は、映画の冒頭では組織を抜けて堅気となり、とあるコンビニで働きながら細々と生活していました。
客商売にはおよそ向かないレベルの愛想のなさっぷりを披露していたため、客からも同じバイト仲間?からも見下されバカにされる日々ではあったのですが。
しかしその日常は、コンビニにヘルメットをかぶった強盗が押し入り、バイト仲間にナイフを突きつけてカネを要求されたことから終わりを告げることになります。
ヤクザ時代に培ってきた修羅場での経験を生かし、いともあっさりと強盗を返り討ちにしてヘルメットを奪い取る翼彦一。
しかし、そこにあったのは老人の顔で、明らかに食い詰めて犯行に及んだことが丸分かりな風体でした。
そんな老人に翼彦一は何か同情するものでも見出したのか、自分から老人のバックをかすめ取ってコンビニのカネを入れ、老人に手渡してこの場を去るよう促すのでした。
しかし、そんな一連の出来事は全てコンビニに設置されていた監視カメラに録画されており、翼彦一はコンビニをクビになった上で警察に逮捕されることとなります。
一度は警察に従順に従うそぶりを見せていた翼彦一は、警官達の一瞬の隙を突いて逃亡し、警察に追われながらトンネルを走る描写が展開されます。
まあ、その直後には刑務所の中で囚人として過ごす翼彦一が映し出されていたので、直後にまた捕まったであろうことは想像に難くないのですが(苦笑)。

刑期を過ごしていた刑務所の中で、翼彦一は冒頭のコンビニで強盗に押し入っていた老人と再会することになります。
その老人の名は蔦井雄三といい、刺青もしっかり彫り込んでいる元極道者。
彼は翼彦一からもらったカネを競馬で全部スッてしまった挙句、別件で逮捕され刑務所へ収監されたのだとか。
蔦井雄三は自分と同じ「元極道」という境遇に共感でもしたのか、翼彦一に将棋の駒を渡し、自分が元いた大海市を牛耳っている「極鵬会」という組を訪ねるよう促します。
そして後日、蔦井雄三は老齢に加えて病を患っていたことから死去。
翼彦一が出所するその日、彼の遺体は棺に入れられ火葬場なり墓場なりへ運ばれていったのでした。

刑期を終えて出所した翼彦一は、しかしその直後、冒頭のコンビニで自分と共に仕事をしていた山際成次という若者と出くわし、「男気に惚れたから舎弟にしてくれ」と懇願されることになります。
最初は拒絶していた翼彦一でしたが、あまりにもしつこい上に、その直後に蔦井雄三の娘にして遺族でもある蔦井葉子から形式的な挨拶を受けたこともあり、なし崩し的に舎弟として扱っていくことに。
そして、自身と蔦井雄三の事例から、元極道として堅気で生きていくが困難であると思い知らされた翼彦一は、今は亡き蔦井雄三の勧めに従い、大海市へと向かうことになるのですが……。

映画「任侠ヘルパー」では、まさにゴミ溜めのごとき施設に老人達を隔離し、生活保護のカネだけをふんたくって私腹を肥やす暴力団が登場します。
それどころか、一応は法的に何の問題もない高級老人介護施設でさえも、老人達を半ば機械的に扱い、薬を使って黙らせたりする傾向があることが普通に描かれていたりします。
人をモノとしてしか見ていない凄まじく非人道的な話ではあるのですが、しかし実際問題として、こういったことは現実の介護施設の現場で本当に行われていることのように思えてならないですね。
実際、生活保護の支給は暴力団や悪質なNPO法人の資金源になっているとされ問題にもなっており、作中で展開された「介護や借金を餌にした貧困ビジネス」も普通に横行しているのだとか。
介護ヘルパーによる老人イジメなども一時期話題となりましたが、それも老人を人間ではなく「金のなる木」と見做す風潮が原因でしょうし、根は同じところにあるような感が多々あります。
日本のみならず世界各国の主要国全てで、高齢化社会は誰にとっても避けて通れない深刻な問題となりつつありますし、今後似たようなケースはいくらでも出てくるでしょう。
もちろん、作中における翼彦一のごとく、老人のことを親身に考え老人のためになる介護を真剣に行っている良識的な施設もあることはあるでしょうけど。
出演者の顔ぶれに加え、どう見ても軽いノリの舎弟っぷりを披露している山際成次や正真正銘軽い頭な持ち主の仙道茜などのキャラクターがいることから、一見するとギャグ調な作品っぽく見えるのですが、作品のテーマには意外に重いものがあり、良い意味で予想を裏切る内容ではありましたね。

ただ、個人的に少々疑問に思ったのは、物語終盤における「極鵬会」の面々達の行動ですね。
貧困ビジネスの一環として自分に与えられた「うみねこの家」を焼かれたことから、翼彦一は介護施設建設の入札?会場で「極鵬会」に対して大々的に喧嘩を打ってビジネスを壊してしまった翼彦一は、「極鵬会」の総力を挙げて追われる存在となってしまいます。
そして、放火された「うみねこの家」で老人達が戻ってきた光景を目の当たりにした翼彦一は、老人達が「極鵬会」の目に留められ襲撃されることのないよう、自分の身を「極鵬会」に晒しその身を犠牲にすることを決断します。
果たして彼は「極鵬会」の組員達によって集団リンチに遭い、今まさにどこかへ連れ去られ殺されようとしていたのですが、そこへ異変を察知した八代照夫と蔦井葉子の2人が駆けつけ、八代照夫が「極鵬会」に向かって啖呵を切ることになります。
そしてそれに恐れを抱いたのか、「極鵬会」の面々達はそれ以上の危害を誰にも加えることなく、捨て台詞を吐きながら退散することになるのですが……。
しかし「極鵬会」の面々にしてみれば、たかだか八代照夫の啖呵程度のことで撤退する必要など、実はどこにもなかったりします。
その時の八代照夫は既に大海市の議員を辞職していることを宣言していましたし、その理由が彼自身の女性問題であることも、彼自身の口から既に公のものとなっていました。
となれば、あの場における八代照夫はただの一介の弁護士であるに過ぎず、「極鵬会」にしてみればその場で殺してしまっても何ら問題のない存在でしかない、ということになります。
むしろ「極鵬会」としては、翼彦一に集団リンチを加えていた現場を八代照夫と蔦井葉子に目撃されていることになるわけですから、2人を見逃すと後々厄介な問題にも発展しかねない局面でさえあるわけです。
既に「極鵬会」は、翼彦一を殺すためにどこかへ連れて行く段階に入っていたのですし、あの場には2人以外に目撃者もいなかったのですから、殺すべき対象をひとりから3人に増やしたところで何の支障もなかったはずでしょう。
口封じを目的にした殺人行為なんて、仮にもヤクザや暴力団を名乗っている面々ともあろう者達であれば常日頃から行っているビジネスでしかないのですし。
もちろん、2人を殺す際にはそれなりに合理的な理由で自分達の犯行がバレないような細工をする必要もあるでしょうが、そんなものは後からいくらでもでっち上げることも容易なことでしかないでしょう。
さし当たっては、八代照夫と蔦井葉子の関係を利用して心中に見せかけて殺すとか、何ならコンクリ詰めなり死体を処分するなりして「行方不明」にしても良かったでしょうし。
映画「悪の教典」の蓮実聖司辺りならば簡単に実行してのけそうなものなのですが、仮にも非合法行為を生業とする暴力団の面々が、その程度のことすらも実行どころか思いつきさえしないとは驚きです。
あの場は弁護士である八代照夫が得意とする法律など何も機能しておらず、完全無欠な「極鵬会」のテリトリー下にあったのですから、既にひとりの人間の殺害を実行しようとしていた「極鵬会」が2人を追加で抹殺するなど、赤子の手をひねるよりもはるかに容易なことだったようにしか思えないのですが。
あれでは「極鵬会」は、極道にあるまじき「アマちゃん&事なかれ主義の集団」でしかないではありませんか。
あの場で3人が助かるシナリオにするならするで、もう少し「極鵬会」側がそうせざるをえないような「物理的な力の明示(八代照夫の背後から警察が大挙して出現しようとしていたとか)」の類の演出が必要だったのではないかと。

テレビドラマ版か草彅剛のファンであればもちろん、介護問題について考えたい方であれば必見の映画ではないかと思います。

映画「悪の教典」感想

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映画「悪の教典」観に行ってきました。
「海猿」シリーズその他でヒーローや善人的な役柄を主に担ってきた伊藤英明が一転してサイコキラーな悪役を演じることで話題となった、貴志祐介の同名ベストセラー小説を実写化したサスペンス作品。
教師がありとあらゆる犯罪に手を染めた挙句、最後には生徒を大量に殺害していくなどという、非常にショッキングな内容です。
そのため当然のことながら、今作はR-15指定を受けています。

今作のプロローグは、とある両親が寝室で顔を合わせ、息子の異常行為について話し合っているところに、サバイバルナイフ?を持った当の息子で今作の主人公・蓮実聖司が部屋の中に入ってくるシーンから始まります。
後の展開でこの事件は、「蓮実聖司の両親は強盗に殺され、蓮実聖司自身も重傷を負った」と公式には処理されていることが描写されていました。
もちろん、全ては蓮実聖司自身の自作自演であったこともきっちりと強調されていましたが。

それから時が経過し、蓮実聖司は東京都町田市にある私立晨光学院町田高校で英語の教師の職に就いており、そのルックスと面倒見の良さから、生徒達から「ハスミン」の愛称で呼ばれ人気を博していました。
その年の町田高校では、携帯電話を使った生徒による集団カンニングが疑われる問題が浮上しており、学校の職員会議ではその対策について論議が交わされていました。
その席上で蓮実聖司は、携帯での連絡を不可能にする妨害電波を試験時間限定で発信することにより、携帯を使ったカンニングを完全にシャットアウトできると提言します。
ただ、この方法は電波法に抵触するという問題もあり、職員会議では提案を却下、結局は「試験時間中は各教師の権限で生徒達から携帯電話を一時的に没収する」という案に落ち着いたようです。
しかし後で蓮実聖司は、独自に妨害電波を流すことで生徒達のカンニングを抑止するという行為に及んでいたりします。
また一方、蓮実聖司および学校は、クラスで「自分の娘がイジメを受けていた」として学校に乗り込んできた父親の対応にしばしば追われる羽目になっていました。
学校側は余計な面倒事を起こしたくないという事なかれ主義もあり何とか説得しようと努めるのですが、モンスターペアレントの気がある父親は、ここぞとばかりに連日学校にやってきては居丈高にヒステリックな糾弾を続けており、学校側もいいかげんウンザリしていました。
蓮実聖司にとってもそれは同じことで、ついに彼は件の父親を排除すべく動き出すことになります。
父親の家には猫除けのためなのか、水が入ったペットボトルが家の壁に沿って設置されていたのですが、彼はこの中身を灯油にすり替えて父親を事故に見せかけて殺害してしまいます。

かくのごとく、蓮実聖司は学校および自分の周囲で発生した問題の解決には熱心だったのですが、その解決のためには手段を問わず、脅迫や自殺や事故に見せかけた殺人なども躊躇なくやってのけるサイコパスな精神の持ち主でした。
助けてもらったことがきっかけで愛の告白をしてきた女生徒と肉体関係に及んだり、盗聴器を使って生徒と同性愛の関係に及んでいた教師の弱みを握って脅したり、さらには自分の過去の履歴を調査していた人間を死に追いやったりと、これでもかと言わんばかりに犯行を重ねていく蓮実聖司。
しかし彼は、来るべき文化祭の準備で夜にも準備作業が進められている学校内で、愛人関係にあった女生徒・安原美彌を投身自殺に偽装して殺害しようとした際、その現場に居合わせていたことを他の女生徒に見られてしまうことになります。
すぐさまその女生徒を後ろから襲撃し、素手で首を捻って殺害するのですが、あまりにも偶発的な行為だった上に死ぬ理由もない彼女をそのままを捨て置いていては、普通に殺人事件として扱われてしまい、自分に嫌疑の目が向けられる事態にもなりかねません。
当然、その窮余の事態を打開すべく、彼は死にもの狂いで策を考え始めます。
そして、彼の頭にひらめいた究極の打開策、それは何と「学校内にいる生徒達全てを自分の手で殺害し、その犯行の全責任を別の人間に擦り付ける」というものだったのです。
かくして、猟銃を片手に、前代未聞の大量殺人が始まることになるのですが……。

映画「悪の教典」は、とにかく最初から最後までまるで救いのない作品ですね。
サイコパスな主人公の蓮実聖司は、殺人その他の犯罪行為を行うことに全く躊躇がありません。
過去の経緯を見る限り、中学時代には中学の担任教師と実の両親を殺害していますし、アメリカのハーバード大学へ留学した際には、猟銃?の扱い絡みで親しくなった外国人を焼き殺すといった所業をやらかしていたりします。
そして、私立晨光学院町田高校へ転任してくる前の高校では、生徒4人が謎の自殺を遂げるという事件が発生していたりします。
どう少なく見積もっても、蓮実聖司は50人近い人達をその手にかけ偽装工作紛いのことを繰り返してきたことになりますね。
さらにこれに脅迫行為なども追加すれば、その犯罪履歴はとてつもない規模のものとならざるをえないでしょう。
よくもまあこれだけの犯罪を重ねてきた人間が、少数の例外を除けば今まで疑われることもなく、一定の社会的地位を維持できたものだなぁと、つくづく感心せざるをえなかったですね。
まあだからこそ、彼も同じところに長居をすることなく、わずか数年から数ヶ月程度であちこちを転々としているのでしょうけど。
同じところにずっと留まり続け、人付き合いも長くなってくれば、彼の周辺で自殺や事故の話が著しく多く、当の本人もしばしば巻き込まれている割には何故か再起可能なケガだけで済んでいるという状況に、さすがの周囲も気づいて不審感を抱いてくるリスクが増大せざるをえないわけですし。
今回の事件も、もし自分の意図通りに事が運び、目的を達成することができたならば、彼はまた別の高校に転任して一からやり直すつもりだったのでしょうね。

作中における蓮実聖司は、殺人や脅迫を行う際も怒りや憎悪などの表情を浮かべることがありません。
彼は常に笑顔か、せいぜい無表情を浮かべた顔で、淡々と殺人や脅迫等の犯罪を犯したり犯行の後始末をしたりしています。
蓮実聖司の凄まじいところは、たとえ自分の計画が失敗し、その犯行が世間の明るみに出るかもしれない、または出てしまったという局面においてさえも、すくなくとも表情面には全く動揺や負の感情が出てこなかったことです。
ラストの顛末なんて、彼の視点的には、生き残った2人に対して後ろ暗い表情を浮かべたり、「何故お前ら生きていやがった!」的な感情を叩きつけたりしても良さそうなものだったのに、それでもなおあれだけの演技ができるというのは凄いを通り越して怖いですね。
犯行の疑いを自分に向けさせないために、自分の身体に「重傷に見える傷」をつけることにも全く躊躇がありませんし、自分の計画が露見してもなお、狂気な精神異常者を装い責任能力喪失の路線で自身の罪を免れようとするのですから。
まさに「悪の教典」と呼ぶにふさわしい、同情の欠片も救いの余地もまるで見い出せない絶対悪ぶりでしたね。
そして、「海猿」シリーズや「252 生存者あり」などで人助けに全力を挙げる善人ぶりを演じてきた伊藤英明の好演にも必見です。
蓮実聖司のキャラクター像というのは、これまで伊藤英明が演じてきた人間とは全くの対極に位置するものなのですし。
今作で伊藤英明は、これまで築き上げてきた自分の俳優としてのイメージ像をあえて壊すことに注力していたのではないでしょうか?
あまりに同じ役柄を演じ続けると、そのキャラクターのイメージ像が固定されてしまい、却って仕事が来なくなってしまったりすることもあるわけですし。
「海猿」シリーズの大ヒットで、「伊藤英明=仙崎大輔」的なイメージもすっかり定着していますからねぇ。
ただ一方では、これまでのイメージ像が壊れることで、却って人気が落ちて短期的に仕事が来なくなるというリスクもあったりするので、俳優にとっても一種の賭けではあったりするのですが。
今作における伊藤英明の演技は、果たして彼にとって吉凶いずれの結果をもたらすことになるのでしょうか?

ただこの作品、エンドロールの直前に思わせぶりな描写が映し出された挙句に「TO BE CONTINUED」の文字が出てきていたのですが、あの顛末で一体どうやって続編が製作できるというのでしょうか?
すくなくとも蓮実聖司は、作中の事件で自身の犯行である証拠と証人が揃ってしまっていますから無罪放免は難しいでしょうし、仮に万が一「責任能力喪失による無罪」になったとしても、今後の彼には「一生精神病院に収容される」という末路が待っているだけでしかないでしょう。
彼に唯一可能性があるとすれば、作中でも披露されていたスパイアクション映画の主人公並に桁外れな格闘戦闘能力を駆使して監視者達を倒して逃亡を果たし姿を暗ました後、別人になりすまして全く新しい人生を歩むシナリオが展開される、といったパターン辺りにでもならざるをえないのではないかと。
あるいは、ラストで自殺を装って学校の屋上から落とされていた安原美彌が奇跡的に意識を取り戻したことから、蓮実聖司のサイコパスぶりが彼女に伝染でもして安原美彌が新たな犯罪者になるというストーリーが展開されることになったりするのでしょうか?
それともいっそ、続編というのは題名だけで、実際には今作とはストーリーや設定面では何の関連性もない、全くの別人を題材にした全く別の物語が作られるという意味なのでしょうか?
すくなくとも、蓮実聖司がまた主人公として悪逆非道の限りを尽くす、というシナリオは成立しえないのではないかと思えてならないのですけどねぇ。

内容が内容なので、観れる人を確実に選びそうな作品ではありますね。
すくなくとも、「海猿」シリーズにおける「伊藤英明=仙崎大輔」的なイメージを当て込んで今作を観賞するのは止めた方が無難です。
そのイメージがどのように壊されるのかを観賞する、というのであれば必見かもしれませんが。

映画「北のカナリアたち」感想

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映画「北のカナリアたち」観に行ってきました。
湊かなえの短編集「往復書簡」に収録されている短編小説のひとつ「二十年後の宿題」を原作とする、吉永小百合主演のヒューマン・サスペンス作品。

今作の冒頭では、雪が降り注ぐ離島でキャリーバッグを引き摺りながら移動している女性の姿が映し出されます。
彼女の名前は北島はるといい、離島にある小学校で教師をしていました。
しかし、島でとある事件が起こったことをきっかけに悪い噂が流れたことから、彼女は島民から避けられるようになってしまい、結果的に島を離れなくてはならなくなってしまいました。
ただひとり港へと向かう北島はるの前方に、彼女の教え子のひとりだった鈴木信人が姿を現します。
自分を見送りに来てくれたのかと思ったのであろう北島はるは、「のぶちゃん!」と鈴木信人へ歩み寄ろうとするのですが、当の鈴木信人はそばにあった石を拾い、北島はるに目がけて投げつけます。
石は狙い違わず北島はるの頭に命中。
額から血を流し、半ば呆然とする北島はるを尻目に、鈴木信人は謝罪の言葉もなくその場から足早に去っていくのでした。

それから20年後。
島を離れて以来、東京の国会図書館で勤続していた北島はるは、定年退職の時を迎えていました。
職場の人に「今までお疲れ様でした」と見送られ、自宅へと戻ってきた北島はるでしたが、そこへ警察の人間2人が彼女を訪ねてきます。
警察が彼女の元を訪ねてきた理由は、彼女のかつての教え子で、冒頭のシーンで石を投げつけてきた鈴木信人に絡むものでした。
鈴木信人は殺人事件を起こして行方を眩ましており、しかも彼の家には北島はるの現住所と連絡先が書かれていた紙が貼られていたというのです。
当然警察は「鈴木信人から何か連絡がありましたか?」と質問してくるのですが、北島はるは「20年前に島を離れて以来、連絡は取っていない」と返答。
関わりがあったのが20年も前ということもあってか、警察もそれ以上北島はるを疑うこともなく、部屋に置かれていた草津温泉のパンフレットを見て「旅行へ行くんですかぁ」などと雑談に興じたりしていました。
一応、去り際には「もし鈴木信人から連絡があったら、私の元へご連絡を」と連絡先の名刺を渡してはいましたが。
しかし、これをきっかけとして北島はるは、かつての教え子達6人の元をひとりひとり訪ねるべく、単身北海道へと向かうことになります。
まずは6人の中で唯一結婚し姓を変えている、戸田(旧姓:酒井)真奈美の元を訪ねることになるのですが……。

映画「北のカナリアたち」は、主演である吉永小百合をはじめとする豪華キャストもさることながら、3100人のオーディションから選抜されたという子役のチョイスもなかなかのものがありますね。
公式サイトのINTRODUCTIONページによると、この子役達は「天使の歌声を持っているか否か」で選定されたようなのですが、成人後の役を担う俳優さん達と比較しても、幼少時の面影や背格好などの構図がそのまま被せられるようなチョイスになっています。
おかげで物語のラストにおける旧小学校で全員が一堂に会した際も、幼少時と成人後の組み合わせが分からなくなるということは全くなかったですね。
この辺りの作りこみはなかなかに上手いのではないかと思いました。
また、ストーリーが進行するにつれて、20年前の事件の全貌や、当時における登場人物達の心情が少しずつ明らかになっていく構成になっており、その過程も丁寧に描かれているため、人間ドラマとしてのみならずミステリー的な視点でも楽しむことができます。
ラストで6人全員が一堂に会するシーンは、ややご都合主義的な展開であってもやはり感動的なものではありますし。
さらには、実はその演出自体が北島はるが最初から画策していたものだった、などというオマケまでつきますし。
物語序盤における警察とのやり取りで出てきた「鈴木信人とは連絡を取っていない」云々自体が実は全くのウソだった、という展開は、あの冒頭の石投げシーンも相まって最初の時点で気づけるものではなかったですからねぇ(苦笑)。
この辺り、本当に展開の仕方が上手く、私も見事に騙されてしまいました(T_T)。

今作における主人公である北島はるという人物は、良くも悪くも「自分よりも他人のことを優先に考える」人間ですね。
病で余命半年の夫・北島行夫のために北海道の離島へとやってきたり、自殺しようとしていた警官・阿部英輔を不倫の噂を流されてまで無理にでも引き留めようとしたり。
彼女にしてみれば、相手が自ら死の道を歩もうとしていることが我慢ならなかったのでしょうし、そんな道を選ぶことなく幸せになって欲しかったというのが本音であったのでしょう。
ただ彼女の場合、特に20年前はそれが完全に空回りしていて、結果的に周囲の人間を却って不幸にしていた感が多々ありますね。
彼女が6人の生徒達に歌を教えていた件などはまさにその典型で、アレのために6人の生徒達は内部分裂を引き起こした上、それを改善するために主催したバーベキューで北島行夫が死んでしまった上、北島はるの不倫話が村中に広がってしまったことで、生徒達の心の傷が修復不能までに悪化してしまったのですから。
自分のやることなすことがことごとく最悪の方向へと転がっていく様を見て、当時の彼女はさぞかし絶望せざるをえなかったのではないかなぁ、とつくづく思わずにはいられなかったですね。
下手すれば、それこそ彼女自身が自殺してもおかしくはなかったでしょうし。
しかし、それでも6人の生徒達にとっての北島はるは、やはりなくてはならない存在であったし、彼女と別れる羽目になった後もそれは変わらなかったのでしょう。
彼らは全員、自分達の家族に少なからぬ問題を抱え込んでおり、自分のことを真剣に見てくれる者は北島はるを除き誰もいなかったわけなのですから。
作中のごとき不幸な事件があってもなお北島はるが6人の生徒達から慕われていた理由は、彼女が初めて自分達と真剣に向き合ってくれる「本当の母親」のごとき存在だったからでしょう。
ただ、それでも北島はると出会ったことが6人の生徒達にとって本当に良かったことなのか否かは、物語の全体像を見ると結構疑問に思わざるをえない部分も多々あったりするのですが。
幼少時の心の傷を20年間も抱え込んで生きていかなくてはならなかった、という事実は、その後の人生に間違いなく多大な負の影響を与えるものとなりえるのですからねぇ。
もしあの6人の生徒達が、北島はると出会うことのない幼少期を過ごしていたら一体どのような人生を歩むことになっていたのか、というIF話は少々興味をそそられるところです。

あと、物語とは全く関係ないのですが、今作で北島行夫を演じていた柴田恭兵って、映画「エイトレンジャー」に出演していた舘ひろし共々、すっかり人間が丸くなった役柄が似合うようになってしまったのだなぁ、と往年の「あぶない刑事」ファンとしては考えずにいられなかったですね。
個人的にはあちらのキャラクター像の方が好きなのですけど、今作や「エイトレンジャー」のような描写のされ方も似合っていた辺り、2人ともすっかり年を取ってしまったのだなぁ、と。
年月の経過や人の老いというのはこういうところにも表れるものなのか、とついつい考えてしまったものでした(T_T)。

感動的かつハッピーエンドな人間ドラマが見たいという方はオススメな作品ですね。
あと、ミステリー好きな人も意外にその面白さを感じられるところがあるかもしれません。

映画「黄金を抱いて翔べ」感想

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映画「黄金を抱いて翔べ」観に行ってきました。
大阪のメガバンクにある240億円相当の金塊の強奪を画策する男達の物語を、妻夫木聡を主演に、浅野忠信・西田敏行などの豪華キャストで彩る、高村薫の同名サスペンス小説を原作とするクライム・アクション作品。
今作は、内容的に見る限りではR-15指定されてもおかしくないレベルのバイオレンス&セックス絡みの描写がてんこ盛りなのですが、何故かR-15どころかPG-12指定すらも全く為されていませんね。
前回の「のぼうの城」といい今作といい、この手の規制って一体何を基準に決められているのか、何度考えても疑問が尽きないのですけど…。

物語は、 今作の主人公である幸田弘之の「俺は人のいない土地を探して……」云々のモノローグとビルの間を移動する風景が短時間披露された後、ハングルと思しき外国語を話す2人の男が出会い、喫茶店で会話をしているシーンから始まります。
2人は兄弟の関係にあったらしいのですが、喫茶店から場面が変わった後、弟が兄を銃で撃ち殺すという顛末に至っています。
これらの描写は当然のごとく後々のストーリーと絡んでくることになるのですが、ここで観客の視点はようやくストーリー本筋へと入ることになります。
諸事情あって離れていた生まれ故郷である大阪の街へ20数年ぶりに戻ってきた幸田弘之に、彼の大学時代からの親友で運送会社のトラック運転手をしている北川浩二が接触してきます。
北川浩二は幸田弘之に対し、仮の仕事場と住居を提供すると同時に、とある遠大な計画に参加するよう促します。
その計画とは、大阪にある巨大メガバンクの地下にあるとされる、総額240億円にも上ると言われる金塊を強奪するというもの。
北川浩二は幸田弘之との再会の前に、外車ショーで知り合ったらしい野田という人物を既に仲間に引き入れていました。
彼は件の銀行を担当するシステムエンジニアで、数千万単位の借金を抱え込んでいました。
3人は計画について活発にやり取りを続けていましたが、計画を練るに従い、計画に必要な専門家がまだ必要であるとの結論に達します。
具体的には、銀行内部の地図や内部事情に精通した人間と、陽動作戦や金庫の爆破等に使用する爆弾を製造するエキスパートが。
前者は野田がツテを当たり、かつて銀行のエレベーターの保守管理を担っており、現在は公園清掃員の仕事に従事している斉藤順三なる老人を担ぎ出します。
そして後者は、北川浩二に斡旋された住居の近くに住んでいた朝鮮人のチョウ・リョファンを、幸田弘之が見出すことで確保することになります。
さらに、北川浩二の弟でギャンブル依存症の北川春樹が金塊強奪計画を察知し、北川浩二と幸田弘之は、成り行き上しかたなく彼も仲間に組み入れることに。
かくして、6人の男による大胆不敵な犯行計画が準備されることなったわけなのですが……。

映画「黄金を抱いて翔べ」は、その名だたる顔ぶれが揃った豪華キャストの割には、宣伝も知名度も今ひとつな感のある映画ですね。
浅野忠信・西田敏行なんて、私でさえ名前を知っていて多くの映画やテレビで少なからず顔を見かけるクラスの俳優なのですが。
バイオレンス要素満載な作品であることが、映画の前評に陰を落としていたりでもするのでしょうか?
物語後半では、浅野忠信が演じる北川浩二が、奥さんの北川圭子とおもむろに着衣セックスをする描写までありましたし。
映画「終の信託」でも浅野忠信はそんな役どころを演じていましたが、「マイティ・ソー」「バトルシップ」などで好漢なキャラクターぶりを披露していた経緯を見てからそれらの描写を見ると、何とも多大な違和感が拭えないところで(^^;;)。
ただその割には、前述のように今作がR-15にもPG-12にも指定されていないのは何とも奇妙な話ではあるのですが……。

今作の大きな特徴は、金塊強奪計画の準備だけでストーリーの7割以上を占めており、かつその準備過程の中で計画とは全く関係のない組織が主人公達にちょっかいを出してきたり、その過程で計画の構成員達が死を余儀なくされたりしているところですね。
面白いのは、それらの組織は別に主人公達の金塊強奪計画を察知した上で計画の妨害を図っているのではなく、あくまでも自分達の利害から主人公達に関与したり襲撃したりしている、という点です。
特にチョウ・リョファン関連では、彼を抹殺すべく北朝鮮系の組織までもが動いており、彼を巡って斉藤順三が情報を売ったり、複数の組織が金目当てに襲撃を画策したりと、彼を味方に引き入れたことによるリスクの発生が半端なものではありませんでした。
北川浩二らにしてみれば、彼が持つ爆弾製造の知識は計画遂行に当たって何としても必要なものではあったのでしょうが、それで多大なリスクを抱え込んだ辺り、果たして彼を引き込んだのは正しいことだったのかと、観客から見てさえも疑問を抱かずにはいられなかったですね。
特に幸田弘之の場合は、そのために自ら重傷を負い、計画遂行に多大な支障をきたすことにまでなってしまったわけですし。
また、北川浩二の弟である北川春樹もまた、ギャンブル絡みで別の組織とトラブルを引き起こしており、そのトバッチリを食らう形で北川浩二の妻と子供が犠牲となっています。
結果、計画の準備が完了するまでに2人が死ぬ形で脱落、さらには幸田弘之が重傷を負うという、コンディションとしては最悪もいいところ、しかも日程の都合で計画の延期も不可能な状態で、彼らは計画の遂行を余儀なくされてしまうことになるわけです。
大規模な犯罪行為を行おうとしているのですから当然リスクはつきものではあるのでしょうが、金塊強奪計画とは元来全く関係ないはずの別件な抗争に巻き込まれる形で計画遂行に支障をきたす羽目になるというのでは、トラブルを持ち込んだ当人はともかく、トバッチリを受けた当事者達は正直たまったものではなかったでしょうね。
作品的に見ても、本筋とは全く関係のない話にあちこち飛び火しまくっていて、話が拡散しすぎている感がどうにも否めなかったところでしたし。
本件であるはずの金塊強奪計画の方が、その準備よりもはるかに「楽」な作業であったようにすら見えてしまったのは、果たして私の気のせいなのでしょうか(^^;;)。
そちらにしても、少なからぬ失敗や行き当たりばったり的なアクシデントが多々あったりしたのですが……。

R-15系的なバイオレンス要素が前面に出ている映画ではありますが、全体的には人間ドラマを重視した作品、ということになるでしょうか。

映画「のぼうの城」感想

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映画「のぼうの城」観に行ってきました。
戦国時代末期、豊臣秀吉の配下だった石田光成率いる2万の軍勢に攻められながら、たった500の兵力、避難してきた民百姓を含めても3000に達しない数で、本城たる小田原城が落城するまで抗戦を続けた、後北条氏の実在の武将・成田長親および忍城の戦いを描いた時代劇&戦争映画です。
しかしこの映画、戦場で首がもげるシーンとか水死体とか、残虐描写がそれなりにある作品だというのに、R-15どころかPG-12指定にすらなっていないというのは何とも不思議な話ではあります。
相変わらず、この手の規制は一体何を基準にしているのかよく分からないですね。

今作は、作中冒頭および後半部分に水攻めのシーンがあることから、東日本大震災後に蔓延した「震災自粛」の悪影響をモロに被った挙句、2011年9月から2012年11月への公開延期を余儀なくされた経緯があります。
これは、同じく「震災自粛」で公開延期を余儀なくされた映画の中でもトップクラスに入る規模の延期期間となります。
何しろ、10秒あるかどうかの「宇宙人の飛翔体落下に伴い発生した津波に飲まれる描写」だけのために自粛させられた映画「世界侵略:ロサンゼルス決戦」や、水死絡みの描写が満載の映画「サンクタム」などは、「のぼうの城」が当初劇場公開を予定していた2011年9月に日本で公開されているのですから。
他の映画が普通に劇場公開されている2011年9月に、何故「のぼうの城」だけは公開が自主規制されなければいけなかったのか、つくづく理解に苦しむと言わざるをえないですね。
そもそも、あの当時蔓延していた「震災自粛」自体、その実態は「被災者に同情している俺カッコイイ」的な自己満足の類でなければ、単なる営業上の都合やクレーマー対策などから発生していたシロモノでしかなかったのですし。
あの「震災自粛」は、そんな目先かつ愚劣なシロモノと引き換えに、長期的には日本経済を滞らせ更なる不景気を招きよせたことで、却って被災地の経済的な復興をも阻む要素にまでなっていたのですけどね。
その意味では、今回「のぼうの城」が無事劇場公開にこぎつけられたことで、映画業界における「震災自粛」の被害がとりあえずは終息したことになるわけで、とりあえずはめでたい限りと言えるでしょう。
もっとも、「震災自粛」と同じく震災後に日本に蔓延した「脱原発」という名の「空気」は、未だ収束の気配すらもなく日本中で猛威を振るい続けている状態なのですし、震災の爪痕は未だに色濃く残っているのが現状ではあるのですが。

さて、曰くつきな公開延期を余儀なくされた今作で問題になった水攻めシーンの最初のものは、物語冒頭にいきなり登場します。
1582年(天正10年)に、当時の羽柴秀吉が中国地方の毛利氏を攻める際に行われた、備中高松城の戦いにおける水攻めがそれに当たります。
作中では、当時は羽柴秀吉の小姓だった石田三成と大谷吉継が、羽柴秀吉と共にこの水攻めの光景を目の当たりにしており、特に石田三成がこの光景に「天下人の戦だ」と感動する様が描かれています。
そしてもうひとつが、8年後の1590年(天正18年)に羽柴改め豊臣秀吉による小田原征伐が行われた際に、石田三成が周囲の反対を押し切って断行した忍城水攻めとなるわけです。
この忍城水攻めにおける描写はさらに、忍城が水攻めで被害を被るシーンと、石田三成が急造させた水攻めのための堤が決壊して石田三成側に水が襲い掛かるシーンという2種類の異なる水の脅威が描かれることになります。
その水攻めの描写は確かに迫力かつリアリティのあるものであり、その秀逸な出来故に却って「震災自粛」の巻き添えを食う羽目になったというのは皮肉もいいところですね。
実は「のぼうの城」にはさらに、人間が水攻めに巻き込まれるシーンなども多く盛り込まれていたらしいのですが、そちらはさすがにカットされてしまっているのか、その手の描写はほとんどありませんでした。
この辺についても、「震災自粛」などのために余計なことを、と思わずにはいられませんでしたが。

作中における忍城の戦いは、豊臣秀吉が配下の武将達に軽んじられている石田三成に箔をつけようと、当時後北条氏が領有していた関東地方に攻め入る小田原征伐を行う軍議の場で、石田三成に2万の兵を預け、進軍途上にある後北条氏の支城、館林城と忍城を陥落させるよう命じたことに端を発します。
ところが館林城は守兵2000、忍城に至ってはわずか1000と、どちらも兵力的には「勝って当然」と言わんばかりの弱小な関門でしかありません。
しかも、豊臣秀吉の小田原征伐に伴い、主である後北条氏からは各支城に対して「城主自ら兵を率い、小田原城の籠城戦に参加せよ」との通達が来ており、忍城は城主である成田氏長(なりたうじなが)自らが、城内半数の兵力500を率いて小田原城へ進発していました。
さらに成田氏長は、後北条氏に従うように見せかけて裏では豊臣方に内通と恭順の意を示しており、忍城は本来戦わずして開城する手筈となっていました。
豊臣方から見れば、石田三成は「ただ進軍するだけで勝利が転がり込んでくる」状態でした。
しかし、忍城の無血開城は豊臣秀吉だけが知る秘密であり、石田三成の軍の中でそれを知るのは、豊臣秀吉本人から秘密を知らされた大谷吉継のみ。
この戦いはあくまでも石田三成に武勲を立てさせるためのものであり、「抗戦の意思を示している城を【石田三成の実力】で開城させた」という構図を形だけでも演出しなければならなかったからです。
最初から無血開城では「石田三成の武威で城を降伏させた」にも「八百長かつ出来レース的な戦い」にもならず、石田三成の功績にはならないのですから。
しかし、誰にとっても不幸だったのは、ここまでお膳立てをされた当の石田三成自身が、本格的な攻城戦を自ら積極的に望んでいたこと。
彼は、忍城の前の進軍経路にあった館林城が戦わずしてあっさり降伏してしまった(彼我の戦力差と自分達が置かれた絶望的な状況から考えればこれはこれで当然の選択なのですが)ことに不満を抱いており、また前述の備中高松城の戦いで見た水攻めを自分で演出したいという思惑もあり、忍城と交戦に持ち込むべく策を練ることになります。
それが結果的に、忍城の獅子奮迅な戦いぶりと石田三成の稚拙な軍事手腕を後世の歴史に伝え残すこととなったわけなのですから、何とも笑える話ではありますね。
石田三成が余計なことを画策しなければ、忍城の戦いも発生せずに無為無用な犠牲が発生することもなく、他ならぬ石田三成自身も武功を挙げることができたはずなのですから。
戦が全然分かっていないどころの話ではないのですが、「戦わずして勝つ」よりも誇りや矜持のために戦うことに価値を見出しているのが、作中で描かれている石田三成という男の性といったところなのでしょうか。

そして一方、豊臣側に内通の意を伝えた忍城側も、これまた形の上だけでも「戦いの意思はあったが、やむなく降伏した」という体裁を取り繕う必要がありました。
戦うことはないのだからと戦の準備もせずに構えていたら、現時点では未だ主格である後北条氏に内通を疑われ、場合によっては豊臣方に内通する前に後ろから攻め込まれてしまう危険性があります。
また、世間体や武士の矜持的な観点から言っても「最初から降伏を決めていた」という事実があからさまに示されるのでは悪評を被ること必至ですし、その後自分達が冷遇されたりすることにもなりかねません。
だからこそ、内通を決断した城主の成田氏長は危険を承知で小田原城へ向かったわけですし、忍城も形の上での籠城戦の準備を進めていたわけです。
成田氏長が小田原城へ発った後の忍城は、成田氏長の叔父である成田泰季(なりたやすすえ)が代理の城代となるのですが、彼は成田氏長の小田原城進発直前に病に倒れてしまい、自分の息子である成田長親(なりたながちか)を新たな城代に任じることになります。
しかし成田長親は、武芸はてんでダメで馬にすらも乗れず、常日頃から百姓達と交わり農作業を手伝おうとして却って足手纏いになることから、「でくのぼう」を略して「のぼう様」という仇名で呼ばれているような人物。
家臣達も「のぼう様」の奇行ぶりには手を焼いており、幼馴染である正木丹波守利英(まさきたんばのかみとしひで)などは、常に百姓の村へ出かけていく成田長親を探し出しては説教をする毎日を送っている始末。
ただ、性格が気さくで常に下の身分の者達と和やかに笑いながら接していることから、百姓達からは大いに慕われていました。
成田長親とその家臣達は、事前の決定通りに豊臣方へ降伏する方針だったのですが、石田三成が降伏勧告の軍使として派遣した長束正家は、人を舐めきった高圧的な態度で忍城側の人間と相対し、さらに「降伏後の財産の安堵」が全く保証されない内容の降伏条件を提示してしまいます。
これこそが、忍城との開戦を望む石田三成による策略だったわけです。
長束正家のその態度を見た成田長親は、降伏方針から一転、独断で城を挙げて戦うことを全く唐突に宣言し、周囲を驚かせることになります。
すぐさま正木丹波守利英をはじめとする家臣達が成田長親を諌めようとするのですが、そもそも家臣達自身も本当は武士の名誉のために戦いたくてならなかった面々ばかり。
家臣達は成田長親の主張を聞くにおよび、説得どころかむしろ逆に「やろうぜ!」「戦おう!}などと成田長親に同意していくばかり。
最後まで慎重論を唱えていた正木丹波守利英も、やはり心情は同じだったこともあって最終的には彼らに唱和することとなり、かくして忍城は全会一致で長束正家に改めて抗戦の意を伝えることになるのでした。
かくして、普通ならば決して戦うことはなかったはずの両者が、圧倒的な戦力差で忍城を舞台に合戦の火花を散らすこととなったのです。

映画「のぼうの城」では、戦国時代の合戦を描いていることもあり、水攻めのシーンもさることながら、その手の戦争描写や当時の情勢などもなかなかに上手く描写されていましすね。
正木丹波守利英を筆頭とする成田長親配下の武将達にもそれぞれ見せ場があり、水攻め前の攻城戦で彼らは獅子奮迅の活躍を演じることになります。
城攻めの際の兵の動きなども、当時の戦国時代の合戦事情をそのまま再現しているかのごとくでした。
石田軍の鉄砲歩兵が火縄銃を一発斉射した後、再度の弾込めに手間取っている間に正木丹波守利英率いる鉄砲騎兵の一斉掃射で大ダメージを被ってしまう光景とかは、まさにその典型でしたし。
また、忍城側の兵達の士気が総じて高いのに対して、石田軍の兵達はそもそも戦意自体があまりないような感が多々ありました。
まあ、元々「勝ち戦に便乗して戦っている」的な側面が大きい軍でしたし、何よりも総大将が石田三成ということであまり信用がない、という事情もあったのでしょうけど。
館林城が無血開城した前事情もあって、石田軍の兵達にとっては忍城の戦い発生自体が意外もいいところだったかもしれないのですし。
ただでさえ戦意が低いところに、攻め辛い上に多大な犠牲を強いられることが判明した城に自身の身を剣と槍と弓矢の危険に晒さなければならないとなれば、兵の士気がさらに低くなるのも当然と言えば当然といったところでしょうか。
水攻め失敗後、再度忍城を攻略せんと石田軍が攻め込んだ際などは、水攻めでぬかるんだ足場を土塁で固めながら少しずつ前進していくという慎重&鈍重ぶりを披露していましたが、これも実際にそうする必要があったこともさることながら「そうしなければ前線の兵達が納得しない」という事情が少なからず働いてもいたでしょう。
また芸のない正面攻撃をやって撃退されるのでは、兵達にとってもたまったものではないのですし、最悪、反乱や逃亡までもが発生しかねないのですから。
他にも、「水攻めをすると他の武将達が武勲を立てる機会がなくなるから反対する」という大谷吉継の発言なども結構新鮮なものがあったりしましたし、戦国時代を扱った戦争映画としてはまずまずの出来であると言えるでしょうか。

ただ個人的に少々残念なのは、史実では忍城の戦いで城の守りを支援し敵を多数討ち取る活躍をしたとされるはずの甲斐姫が、活躍どころか全くと言って良いほど戦場に登場してすらもいなかったことですね。
作中における甲斐姫は、男勝りかつ武芸達者的な評価と実力を持っているように描かれていたのですから、彼女も男の武将達と同じく戦場に出て、ハリウッド映画のアクション女優のごとき獅子奮迅の活躍を演じるのだろうとばかり考えていたのですが。
甲斐姫最大の見せ場と言えば、忍城水攻め後に成田長親が城外で田楽踊りを演じて銃撃された後、一命を取り留めて寝込んでいた成田長親の体を起こして羽交い絞めにし、慌てて止めようとした忍城の名だたる武将達を片っ端から投げ飛ばしていたシーンくらいです。
無抵抗の人間を羽交い絞めにしたり、本気が出せない武将達をいくら相手取っていたりしても、それでは彼女が本当の意味で武芸達者であることの証明などにはならないでしょうに。
そして一方で、名だたる武将達を一方的にあしらえるだけの実力の持ち主であることが作品的に明示されているのであれば、甲斐姫も戦場に出て一緒に活躍させていた方が、ストーリー的にも映画の演出的にもより映えるものになっていたのではないかと思えてならないのですけどね。
結局、作中における甲斐姫は、忍城の戦いでは「ただ戦争の決着を待っていただけ」の立場に終始していて、いてもいなくても大した違いはない程度の役柄でしかなかったのですし。
わざわざあんなポジションを用意するのであれば、甲斐姫にも是非戦場で活躍してもらいたかったところなのですが、それがなかったのは正直肩すかしもいいところでした。
今作の中で唯一「惜しい」と思われる部分ですね、これは。

戦国時代の合戦ものや時代劇・戦争映画などが好きという方にはイチオシの作品です。

映画「終の信託」感想

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映画「終の信託」観に行ってきました。
朔立木原作の同名小説を、草刈民代と役所広司が「Shall we ダンス?」以来16年ぶりに共演し、終末医療のあり方をテーマとした、周防正行監督の制作によるラブストーリー作品。
作中には不倫関係の男女が絡み合うシーンと、末期患者が発作を起こして激しくもがき苦しむ描写が存在することから、今作はPG-12指定されています。

物語冒頭は2004年(平成16年)11月、今作の主人公である折井綾乃が、検察から呼び出しを受けて検察庁へと出頭するところから始まります。
予定では3時から検察官との面接が始まることになっていたのですが、面接を担当するはずの検察官・塚原透は、折井綾乃が予定よりも30分早く来ても面接しようとしないどころか、3時を過ぎてさえも面接を始めようとしません。
その間、ずっと待たされ続けていた折井綾乃は、今回自分が呼び出された発端となった事件を回想するのでした。

事件の発端は1997年(平成9年)の天音中央病院。
同病院の呼吸器内科に勤務していた折井綾乃は、エリート医師として患者や仕事仲間の看護師から慕われている一方で、同僚の医師で既婚者である高井則之と不倫関係にありました。
その日の夜も、無人の部屋で密かに出会い、不倫セックスを始めて夜を明かす2人。
翌日、10日ほどの出張に出かけるという高井則之に対し、折井綾乃は空港で見送ると主張するのですが、高井則之は「俺達の関係がバレたらどうするんだ」と拒否の姿勢を見せます。
しかし折井綾乃はどうしても高井則之を見送りたかったようで、ひとり密かに空港へと向かい、高井則之と接触しようとします。
ところがそこへ、高井則之へ駆け寄るひとりの女性の姿が。
その女性は高井則之の妻ですらなく、折井綾乃は彼が複数人の愛人を囲っていて自分もそのひとりに過ぎなかったという事実を知ることになります。
高井則之が出張から帰ってくると、折井綾乃はこの件について問い質し、一体いつまで待てば今の奥さんと離婚して自分と結婚してくれるのだと主張します。
しかし、それに対する高井則之の返答は「俺、結婚するなって言ったっけ?」という何とも酷薄なシロモノ。
高井則之の態度に絶望せざるをえなかった折井綾乃は、その後、病院の宿直室で睡眠薬を飲んで自殺未遂を図ろうとします。
場所が病院だったこともあり、苦しみながらも一命を取り留めることはできた折井綾乃でしたが、このことは当然のことながら高井則之の耳にも入り、彼はベッドで横たわっている折井綾乃に対してこう言い放つことになります。
「自殺未遂で俺をこの病院から追い出したかったのか? そんなことをしなくても、俺は間もなくこの病院を離れることになっていたのに」
と。

不倫相手にも捨てられ、いよいよすべてを失い失意のどん底にまで落ちてしまった折井綾乃。
そんな彼女を救ったのは、彼女が担当医をしていた江木泰三という重度の喘息患者と、彼が貸した1枚のCDに収録されていたジャコモ・プッチーニ作曲のオペラ「ジャンニ・スキッキ」のアリアでした。
この曲に感動した折井綾乃は、医師として江木泰三と接する傍らで、「ジャンニ・スキッキ」のアリアについて語り合い、2人の間には強い信頼関係が構築されることになります。
しかし、江木泰三が患っていた喘息は日を追うにつれて改善されるどころか重くなる一方であり、彼は病院を入退院する日々を繰り返すことになります。
そんなある日、折井綾乃は退院していた江木泰三と川の土手で再会し、江木泰三から、
「これ以上、妻に治療費のことなどで迷惑をかけたくない。もし、自分がいざという時には、早く楽にしてください」
と懇願されることになるのですが……。

映画「終の信託」は、終末医療のあり方がテーマということもあり、今の医療現場の実態および尊厳死の問題、さらには尊厳死を巡る検察の認識および尋問手法などについて鋭く描いています。
特に、検察官として尊厳死を断行した女医を「殺人罪」として糾弾する、大沢たかおが扮する検察官・塚原透は、なかなかにムカつく嗜虐的な悪役ぶりを作中で披露していました。
家族および折井綾乃の証言を元に、検察の都合が良いように口述作成させた調書を作成してみせたり、調書にサインすれば帰すと言わんばかりの口約束をしておきながら、折井綾乃が不満ながらもサインするや否や再度の尋問に入ったり、相手を人格的に罵倒したり挑発したりして「尊厳死させた」という言質を取るや否や、したり顔で「殺人罪として逮捕する」と通告したりと、その悪役としての怪演ぶりには目を見張るものがあります。
作品としてではない意味で全く救いようがないのは、作中で描かれているこの検察官の尋問手法の実態が、決して架空のありえない話などではなく、現実にも実際に行われている所業であるという点です。
ちょうどリアルでも、コンピュータウィルスによるパソコンの遠隔操作問題で、警察が全く無関係の人間を誤認逮捕した挙句に「犯行」を自供させていたなどという事件があったばかりでしたし↓

遠隔操作ウイルス事件
> IPアドレスによる捜査に対してパソコンによる遠隔操作という新しい手法に対処する必要性、パソコンを遠隔操作されて逮捕されて被疑者とされた2人に対する取り調べで無実の罪を認めてしまうなど捜査機関の取調べについても問題が提起された。

極めて皮肉なことに、今作は時節柄話題となっている検察や警察の尋問手法の問題についてまで鋭く問題提起することになってしまったわけです。
また、尊厳死ではないのですが、警察が医療過誤による患者死亡を理由に、現職の医師を業務上過失致死罪や医師法21条違反の容疑で逮捕し、起訴まで行った裁判というのも実際にあったりするんですよね↓

福島県立大野病院産科医逮捕事件

ちなみにこの裁判、検察は求刑からして禁固1年・罰金10万円などという茶番じみた軽いシロモノで医師の有罪を訴えようとした挙句、その主張すらことごとく通らずに無罪判決を迎えるなどという、検察的には「史上最悪の恥」「黒歴史」以外の何物でもない無様な結末に終わってしまう惨状を呈していました。
通常の医療過誤ですらこんな愚行を平然とやらかすような警察や検察であれば、尊厳死に関する作中のような定規杓子な判断をやらかしたとしても何の不思議もないでしょうね。
検察官・塚原透のあまりにも頭がコチコチすぎる醜悪な見解の披露の数々が、しかし「現実にありえない」と断じられずに一定のリアリティを伴っているという事実それ自体が、現実における尊厳死のあり方や検察・警察の歪みを象徴しているとも言えるのですが。

ただ、作中で少々疑問に思わざるをえなかったことが3つあります。
ひとつは「塚原透は何故折井綾乃に調書へサインさせた時点で逮捕を宣言しなかったのか?」という点です。
塚原透が口述で作成させた調書の中には、折井綾乃が江木泰三への尊厳死実行に際し、「致死量に達する薬を与えた」という表現があり、実はあの調書を折井綾乃に同意させた時点で彼は折井綾乃への「殺人罪」容疑での逮捕が充分に宣言できたはずなんですよね。
塚原透にとっての勝利条件は「折井綾乃に江木泰三への【殺意】を認めさせ殺人罪で逮捕すること」であったはずであり、その勝利条件を満たした状態で更なる「殺人罪」認定のための尋問をわざわざ進めなければならない理由自体がありません。
一度調書にサインさせた以上、彼の「勝利」は既に揺るぎないものになっていたはずであり、その時点でさっさと折井綾乃を逮捕勾留させても、検察側の視点的には何の問題もなかったはずでしょう。
実際、前述の遠隔操作ウイルス事件などは、自分達に都合良くでっち上げた調書を被疑者にサインさせる、というのが警察や検察にとっての最終的なゴールでもあったわけですし。
あれ以上の尋問は折井綾乃はもちろんのこと、塚原透自身にとってさえも全く意味のないシロモノでしかありません。
尋問自体は逮捕後も20日にわたって行われていたようですが、それはあくまでも「事実確認を行うため」のものであって「殺意を認めさせるため」の内容ではないのですから、全く意味合いも違ってくるでしょう。
これを合理的に説明できる理由があるとすれば、それは「塚原透個人のサディスティックな嗜虐性を満たすために職権を乱用していた」以外にはありえないのですが。

そして疑問に感じた2つ目は、塚原透が折井綾乃を「殺人罪」で逮捕させ連行させるラストシーンと、それ以降に語られるモノローグの内容があまりにも乖離しすぎていることです。
ラストのモノローグでは、逮捕されて以降の折井綾乃の動向が語られているのですが、そのモノローグの中では、彼女は「殺人罪」で起訴されたものの、江木泰三が残していた61冊もの喘息日記が遺族によって裁判所に提示され、その中の最後のページで「折井綾乃に全てをお任せします」という文言が書かれており、それが「リビング・ウィル」として裁判所から認められたと綴られているんですよね。
「リビング・ウィル」というのは、終末医療における患者の意思を表すもので、尊厳死を行う際の患者本人の意思を確認するための文書や遺言書などのことを指します。
この「リビング・ウィル」については、作中で行われた塚原透の尋問の中でも言及されていて、彼は江木泰三の「リビング・ウィル」がないのを良いことに折井綾乃の行為を「殺人罪」呼ばわりしていたわけです。
ところが、モノローグの中で「リビング・ウィル」の文書が見つかり裁判所に認められたということは、つまるところ塚原透の主張を構成する前提条件そのものが崩壊してしまっていることをも意味するのです。
この時点で、作中における塚原透の主張は、その大部分が意味を為さなくなってしまうことになるのですが、何故作中ではこれほどまでに重要な部分をモノローグだけで簡単に済ませてしまったのでしょうか?
むしろ、この部分をこそラスト部分でメインに据え、塚原透の主張が根底から瓦解して彼がヒステリックに慌てふためくなり論点逸らしに終始するなりといった様を描写し、それによって検察の横暴ぶりと、それでも有罪判決が下される理不尽さを表現していった方が、演出的にもより良いものとなりえたのではないのかと。
そもそも、あの検察室の密室では、尊厳死の正当性・妥当性を論じる場としてはあまりにも不適格であると言わざるをえないのですからなおのこと。
あの塚原透が「最初から有罪ありき」で折井綾乃に相対していたことなんて、誰の目にも最初から分かり切っていたことなのですしね。
今作がテーマのひとつにしているらしい「検察室での尋問の実態」も、前述のように「調書にサインをした時点で問答無用に逮捕勾留」で問題なく表現できるのですし、その後の舞台を裁判の場に移していた方が、却って双方痛み分け的な結末へ持っていくことも可能だったのではないかと。
あのラストでは、「話の分からない悪意ある横暴な検察は最強にして最高!」的なイメージがどうにも拭えませんし、ストーリー的にもすっきりしない部分が多々残ってしまったものなのですけど。

そして最後の3つ目は、「結局、折井綾乃が引き起こした尊厳死問題を警察にタレ込んだのは一体誰?」という点。
実は折井綾乃が江木泰三の尊厳死問題を引き起こしたのが2001年(平成13年)だったのに対して、それが検察の目に止まり塚原透が折井綾乃を呼び出したのが、それから3年も経過した2004年(平成16年)なんですよね。
何故3年も経過した後に問題になるのかも疑問なのですが、結局、折井綾乃を訴えた人間の存在は作中でも全く明示されることがなく、「エリート医師としてのし上がった折井綾乃に反感を抱く人間の仕業なのではないか?」という推測が登場人物の口から語られていただけでした。
遺族が61冊の喘息日記を裁判所に提出したために「リビング・ウィル」が認められたという経緯を鑑みても、遺族が賠償金欲しさに画策したというわけでもないみたいですし。
作中における遺族の様子を見る限り、意志薄弱で誰かに煽動され操られている風な印象ではあったのですが。
私はてっきり、不倫問題で折井綾乃と一悶着あった高井則之が、その後自分の不倫がバレて離婚された上に社会的地位を失った腹いせに執念深く調査を行い一連の所業を画策したのではないか、とすら考えてしまったくらいでした(^_^;;)。
ミステリー的な視点で見ると、彼以外に折井綾乃に恨みを抱くであろう人間が作中には全く登場していないのですし。
ただ、1997年頃に「間もなくこの病院を離れることになる」と明言していたはずの高井則之が、2001年にあの病院に在籍していた可能性は非常に低く、物理的にそんなことが可能なのかという問題があるので、彼への嫌疑は証拠不十分と言わざるをえないところなのですけど。
まさか、あの塚原透が、あの初対面時まで一切面識のなかった折井綾乃を最初から陥れることを目的として一連の逮捕劇シナリオの絵図面を描いていた、などという陰謀論もはなはだしい舞台裏はいくら何でもないでしょうし。
誰が、如何なる動機に基づいて、作中のごとく折井綾乃を陥れようとしていたのか、この辺もしっかり描いて欲しかったところなのですけどねぇ。
尊厳死にまつわる偏見や誤解などとも絡めていけば、この辺だけでも結構面白い人間ドラマが展開できたかもしれないのですし。

作品のテーマ自体は充分に見応えのあるものだったのですが、後半部分の折井綾乃と塚原透とのやり取りが結構重い上に鬱々な展開だったりするので、見る人によっては後半の展開にいささかウンザリすることもあるかもしれません。
一方ではそれだけリアリティがある、ということもでもあるのですが。
今作を観賞する際には、一定の心構えを持って臨むのが良いかもしれません。

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