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カテゴリー「2012年」の検索結果は以下のとおりです。

映画「ツナグ」感想

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映画「ツナグ」観に行ってきました。
辻村深月の同名小説を原作とする、人の死と死後の再会をテーマとするファンタジー要素を含有した人間ドラマ作品。

その街には、ひとつの都市伝説が存在しました。
生涯でたった一度かつひとりだけ、死んだ人と再会させてくれる仲介人「ツナグ」という名の存在。
多くの人が一種のヨタ話として信じない中で、「ツナグ」は実在し仲介活動を行い続けていました。
その噂話や存在の話を知る人が、その存在を信じ、さらに「ツナグ」と何らかの形で連絡が取ることができ、そして何よりも「死者が生者と会うことを承諾する」ことによって初めて実現する、ツナグを介した死者と生者との邂逅。
そこには、死者と生者、そして「ツナグ」の3者を取り巻く複数のルールが存在します。

1.死者が「生者に会いたい」と「ツナグ」に依頼をすることはできない。
2.死者・生者共に「死」の壁を越えて会えるのはひとり1回だけ(ひとりの生者が「ツナグ」に複数回依頼することができないのはもちろんのこと、複数の生者がひとりの死者相手にそれぞれ1回ずつ会うこともできない)。
3.死者と生者が会えるのは月が出る夜、日没から夜明けまでの限られた時間のみ。それが過ぎると死者は消滅する。
4.「ツナグ」自身は1回たりとも死者に会うことを望むことはできない(ただし、「ツナグ」を引退したり「ツナグ」になる前であれば別)。
5.「ツナグ」になるためにはとある鏡の所有者になることが必須条件。その鏡を使うと、特定の死者と会話をすることができる。
6.「ツナグ」以外の者が鏡の鏡面部分を直接見た場合、その鏡を見た者と「ツナグ」の双方が死ぬ。

なお、作中で「ツナグ」の仕事に従事していた渋谷一家は、「ツナグ」の仲介で依頼者からカネを取るといった行為は一切行っていませんでした。
「ツナグ」の仕事でカネを取ってはいけない、というルールは特になかったようなのですが。
作中でも言われていたように、人生に立ち会うという重い仕事を担うことになる「ツナグ」が無報酬というのは、正直割に合わない感が否めないところではあるのですけどね。

作中における「ツナグ」を担う人間は、今作の主人公・渋谷歩美(こんな名前なのに男性だったりします(^^;;))の父方の祖母である渋谷アイ子。
渋谷アイ子の生家は、先祖代々「ツナグ」の仕事を担い続けてきた秋山家という家で、現在は渋谷アイ子の兄である秋山定之がひとりで家を維持しているようです。
秋山定之もかつては「ツナグ」として死者と生者の仲介を行った過去があったものの、渋谷アイ子にその地位を譲ったのだとか。
渋谷歩美は、渋谷アイ子から「ツナグ」の話を聞かされ、半信半疑ながらもその見習いを自主的に引き受けていたのでした。
その彼が作中で直面することになる「ツナグ」見習いとしての仕事は、以下の3人の人物からの仲介依頼となります。

1.ガンで亡くなった母親がどこかにしまってそれっきりとなっている土地の権利書を聞き出すことを目的としている、個人経営の木材精製所?の社長・畠田靖彦。
2.演劇部の主役を巡り、自分を差し置いて主役に抜擢された親友・御園奈津に殺意を抱き、その直後に事故死してしまったことに罪悪感と恐怖心を抱いている嵐美沙。
3.7年前に突如失踪して行方どころか生死すら不明の恋人・日向キラリを想い続けるサラリーマンの土谷功一。

この3つの依頼に基づく「死者と生者の仲介」を通じて、渋谷歩美は「ツナグ」の仕事とその心得について実地で学んでいくことになります。
また渋谷歩美は両親が既に他界しているのですが、その両親の死には疑惑が付きまとっており、その疑惑についても彼は向き合っていくことになります。
その結末と真相は、一体どのようなものとなるのでしょうか?

映画「ツナグ」では、主人公である渋谷歩美役を松坂桃李が主演として担っています。
私が彼の存在を初めて知ったのは、2010年に銀英伝舞台版で彼がラインハルト役を担当することが公式サイドから発表された時だったのですが、その頃と比べても彼が映画界その他でメキメキと頭角を現しているのが分かりますね。
その後、私が観賞したことのある映画に限定しても「アントキノイノチ」「麒麟の翼 〜劇場版・新参者〜」などに出演暦がありますし、「ドットハック セカイの向こうに」でも登場人物のひとりの声優を担当していたりします。
Wikipediaを参照してみると、実際にはさらにそれ以外の映画やテレビドラマ、さらにその他色々な分野でも活躍しているみたいですし。
芸能・スポーツ分野には人並以上に疎く、初めて名前を知った頃に「誰だこいつは?」とすら考えていたほどの私がこれだけ名前を見かける覚えていることができるというのは、俳優としては結構成功している部類に入るのではないかなぁ、と(苦笑)。
また、今作で渋谷歩美の依頼者のひとりとなっていた嵐美沙役の橋本愛も、私が観賞している映画の中では「HOME 愛しの座敷わらし」「スープ ~生まれ変わりの物語~」「アナザー/Another」に続き今年4作目。
こちらも現在人気上昇中といったところのようですね。
ただ、今作では序盤から意味ありげに出演していたことから、ひょっとすると主人公と恋愛関係にでもなるのかと考えていたら、作中ではあくまでも依頼者のひとりという立場のみで終わっていたので、その辺は少々肩すかしを食らったところではあったのですが。

3人の依頼者による死者との対面は、そのいずれもが少なからず印象に残るものではあったのですが、個人的にも最も強烈だったのは、橋本愛が演じた2人目の依頼者である嵐美沙のものでした。
残り2者が動機や過程がどうであれ「死者に会いたい」という願いそのものは本物だったのに対して、彼女だけは親友の御園奈津に対して「自分が殺してしまった」という負い目と「そのことが他者にバレたら…」という恐怖心を抱いていて、どちらかと言えば「親友に会いたい」よりも「自分の負い目と恐怖心を払拭するため」という思惑の方が強かったわけなのですから。
御園奈津は御園奈津で、嵐美沙の思惑や自身への殺意を知っていたようでしたし、「ツナグ」見習いの渋谷歩美を介して、嵐美沙を試していたかのようなスタンスを最終的に披露したりしていました。
あそこまで嵐美沙のやっていたことを知っていたのならその心情を理解することもできたでしょうに、御園奈津も残酷なことをするよなぁ、とあの場面ではつくづく考えずにはいられなかったですね(T_T)。
あのやり取りのせいで、嵐美沙は間違いなく一生ものの後悔を背負うことになってしまったのではないかと思えてならないのですが。
御園奈津にしてみれば、長年親友関係をやっていた嵐美沙との友情を疑いたくなかった、という心情も働いてはいたのでしょうけど、どうせ今後の御園奈津と嵐美沙は、嵐美沙が死ぬまで二度と会うことはないわけですし、真相を自分の胸にしまったまま嵐美沙の負い目と罪悪感を当人の希望通りに払拭してやっても良かったのではなかったかと。
ただ、嵐美沙が懸念していたであろう「御園奈津を殺そうとしていたことが御園奈津の口から他者にバレたら……」という問題については、「ツナグ」を介して自分が御園奈津と出会った時点で雲散霧消してしまってはいたのですけどね。
「ツナグ」のルール上、今後の御園奈津が「ツナグ」を介して他者と出会うことはできなくなったわけですし、その点ではひとつの目的は達成していると言えるのではないでしょうか。

あと、映画「ツナグ」における「仲介者としてのツナグの存在とその小道具」は、もし実在するならば政府機関やマフィア、および彼らに派遣されるであろう暗殺者や刺客などに付け狙われる要素となりえるでしょうね。
何しろ「ツナグ」がいる限り、「口封じで暗殺」という手法は一切通用しなくなってしまうのですから。
「ツナグ」がいれば、口封じで殺されたしまった被害者から、事件の真相や加害者の正体などを聞き出すことも可能となるのです。
加害者側にしてみれば、「ツナグ」から口封じの被害者が生者と対面し真相を暴露するような事態は何としてでも防がなくてはなりませんし、逆に被害者側にとっての「ツナグ」の存在は、加害者に一矢報いるための必勝必殺の武器となりえます。
「ツナグ」を巡っての政争や争いが起こっても何ら不思議なことではありませんし、これがアメリカであれば、CIAやFBIに大統領直属のシークレットサービスなども絡んだ一大スパイアクション映画的な作品にでも変貌していたのではないかと(笑)。
そこまでスケールのデカい話でなくても、たとえば迷宮入りした殺人事件などで、死者に直接犯人を尋ねたり真相を語らせたりすることもできるでしょうし、個人的な用途以外にも使い道はかなりのものがありそうなのですけどねぇ。
実際、作中でも「母親から土地の権利書について聞きだす」だの「殺意の真相が他者にバレたらどうしよう」などといった、「ツナグ」依頼者達の事情が描写されていたりしているのですから。
「死者から直接情報を引き出せる」というのは、そこまで大きな価値が伴うことなのですが。

他にも、「ツナグ」になるために必須となる鏡の存在も、本来の用途とは全く異なるものでありながら極めて有効な使い方がありますね。
「ツナグ」のルールにもあるように、あの鏡は「ツナグ」以外の者が鏡面部分を見ると当人および「ツナグ」が死ぬようになっています。
ということは、あの鏡の鏡面部分を他者に見せることで、その他者を死に至らしめることも可能、ということになります。
つまりあの鏡は、メドゥーサの首のごとく「人を殺すための武器」としても活用することができる、ということになるわけですね。
渋谷歩美の両親の死の原因がまさにそれだった(当時「ツナグ」だった父親の鏡を母親が見てしまった)わけですが、当時の警察での調べでは「母親が父親に殺され、直後に父親も自殺した」とされていました。
これから分かるのは、鏡を使った殺害では、その凶器ばかりか死因の真相すらも満足に暴くことができない、という事実です。
あの鏡は、やり方次第では「完全犯罪」をも可能にする凶器となりえるわけですよ。
歴代の「ツナグ」がそんな鏡の使い方をしなかったのは、何と言っても「ツナグ」自身の生命に関わる事項である以上当然と言えば当然なのですが、逆に言えば自分が「ツナグ」にさえならなければ、他者「だけ」を殺すことも可能となるわけでしょう。
「ツナグ」の件を抜きにして考えても、あの鏡を欲しがる人は欲しがるのではないかと思えてならなかったですねぇ(^^;;)。
……「ツナグ」とは全くの対極をなすであろう、どこか「デスノート」を髣髴とさせる「ルールを逆用したゲーム」のごとき使用方法ではあるのですが(苦笑)。

ストーリー的には「死者と生者との対面」を巡る死者と生者それぞれの葛藤や本音のぶつかり合いが面白く、充分に楽しめる仕上がりになっています。
「映画はアクションシーンや迫力ある映像が全てだ!」という嗜好の人でなければ、多くの方にオススメの作品ではないかと思います。

映画「天地明察」感想

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映画「天地明察」観に行ってきました。
冲方丁による日本の時代小説を原作とし、日本独自の暦を初めて作り上げた歴史上の人物・安井算哲(渋川春海)の生涯を描いた人間ドラマ&歴史伝記作品。
SPシリーズで主演を演じた岡田准一と、「神様のカルテ」「わが母の記」で好演した宮崎あおいが共演していることで話題となった映画でもあります。
もっとも、単に「有名俳優同士の共演」というだけでなく、両者の間で不倫疑惑が週刊誌などで騒がれたというスキャンダルネタでも話題になっていたりするのですが(-_-;;)。

江戸時代前期、「左様せい様」の異名で知られる徳川4代将軍家綱の御世。
囲碁の名家である京都の安井家に生まれ、自身も将軍の御前で碁の対局勝負「御城碁」が行えるだけの実力と地位を持つ安井算哲(やすいさんてつ)という人物が存在しました。
彼は、幼少の頃から寝食を忘れて没頭するほどに星の観測と数学が好きな人物で、物語冒頭でも、翌日には「御城碁」を行うために江戸城へ参内しなければならないにもかかわらず、自宅の屋根で星を観測している様が描かれています。
翌日、江戸城へ参内に向かった安井算哲は、その途上にある寺に立ち寄ります。
その寺では、難解な算術問題が描かれた絵馬が飾られているという一風変わった風習?があるらしく、安井算哲は場所も構わず道具を広げて算術問題を解くことに没頭するのでした。
そこで彼は、たまたま寺の清掃をしていた村瀬えんという女性と出会うことになります。
江戸城へ参内する際に献上しなければならない大事なものを寺に忘れるなどのハプニングを経て、予定より遅刻しながらも何とか江戸城へ参内した安井算哲。
幸い、「御城碁」の対局には支障をきたすことはなく、彼は徳川4代将軍家綱の御前で、対戦相手にして旧友でもある本因坊道策(ほんいんぼうどうさく)との対局に臨むこととなります。
この当時の「御城碁」は、予め決められた定石に従って双方が碁を打つという、囲碁勝負とは名ばかりの形式的かつ儀礼的な式典と化していました。
しかし安井算哲と本因坊道策は、いつも真剣勝負の場に身を置いていたという思いから、型破りを打ち方を披露して周囲を驚かせます。
周囲が非難の声を上げる中、将軍に平伏しつつも己の主張を貫き通し、その心意気にお得意の「左様せい」という承認を家綱からもらい、型破りで真剣勝負な「御城碁」を続ける2人。
ところが、その「御城碁」の内容に周囲も固唾を飲んで見守る中、突如日食が発生してしまい、
「不吉の前兆」ということで「御城碁」を含む全ての式典は一切中止ということになったのでした。
「御城碁」に集まった一同が解散する中、安井算哲は会津藩主で家綱の後見人である保科正之に呼ばれ、彼に刀を授けると共に、日本全国の北極星の高度を測りその土地の位置を図る「北極出地」の旅に同行することを命じます。
この旅が、安井算哲の人生をも一変させるきっかけとなるのですが……。

映画「天地明察」で活躍する主人公・安井算哲は、星の観察と算術問題にうつつを抜かす一種の「オタク」な人物として描かれています。
自分の好きなものに夢中になるあまり、後先考えずに行動したり、周囲の状況が見えずに日常的なことでは色々なポカをやらかしたりする辺りは、現代の「オタク」にも共通するところがありますね。
「北極出地」の旅で全国各地の経度を正確に言い当てるほどの実力を有し、また旅を通じて現行の暦である「宣明暦」に2日もの誤差が生じていることを突き止めた安井算哲は、「北極出地」の責任者だった建部伝内や伊藤重孝、さらには幼少時における天文学の師でもあった山崎闇斎の推薦を受け、新暦作成の総責任者として抜擢されます。
自分の得意分野を存分に生かすことができる「天職」とすら言って良い仕事を、しかも幕府の命令で得ることができたわけなのですから、その点において安井算哲は非常に恵まれた境遇にあったと言えるでしょう。
本業である碁打ちでも安井算哲はそれなりの実力を誇ってはいたのでしょうが、星の観察と算術に比べれば、やや一歩を引いていた感は否めないところでしたし。
世の中は「天職」に恵まれるどころか、意に沿わぬ奴隷同然の労働を強要されるケースの方が圧倒的に多いことを考えればなおのこと。
ただ、それが天職ではあったにしても、その事業が決して楽なものでなかったことは確実なのですし、それを成功に導いたのは紛れもなく安井算哲自身の才覚と努力の賜物であることに変わりはないのですけどね。

安井算哲の功績は、日本独自の暦を日本で初めて作り出したことにあります。
それまで日本で使用されていたのは、9世紀中頃に唐の時代の中国から輸入された「宣明暦」と呼ばれる暦でした。
しかしこの暦は、徳川4代将軍家綱の御世の時点で既に800年以上もの時間が経過していることもあり、日食や月食の予報が困難になったり、春分・夏至・秋分・冬至などの24節気が実際より2日もズレたりするなど、大きな不具合が頻出していました。
また暦は吉日や凶日なども刻まれていたことから、これがズレるというのは当時としては死活問題にも関わることでした。
科学知識がまだ一般的ではなかった時代に、縁起や吉凶日などの風習が重んじられるのはむしろ当然のことだったわけで。
安井算哲ら新暦作成チームは、唐代に作られた「宣明暦」に加え、元の時代に創出された「授時暦」、明代に用いられた「大統暦」とを比較した結果、「授時暦」こそが最も優れた暦であると結論付けます。
ところが、暦を司ることで莫大な利権に与っている朝廷は、「授時暦」の優秀性を認めず、改暦に全く応じようとしません。
しかも、その「授時暦」にも実は大きな誤謬が内包されており、安井算哲は「授時暦」の優秀性を立証するために行った「三暦勝負」のラストで、日食予報を外す羽目になってしまいます。
それでも、ハズレばかり連発していた「宣明暦」より優秀であることは証明できていたのですから、それだけでも安井算哲の正しさの証明と「授時暦」採用の根拠には十分になり得ていたはずなのですが、まあこの辺りは天文学よりも政治の問題に属する話ではあるのでしょうね。
幕府の面目を保ち朝廷を頷かせるためには、たとえ僅かな誤謬であっても許されない、という次元の話であるわけなのですから。
結果、幕府の面目は見事に丸潰れとなってしまったわけですが、安井算哲にとってもこの結果は屈辱以外の何物でもなかったでしょうね。
今のままでも、なまじ「宣明暦」より優秀さが証明されていたのですからなおのこと。
この手の不具合というのは、原因を見つけてしまえば「なあんだ」で簡単に終わってしまうものなのですが、現実にはその「見つけるまで」が大変なわけで、この「不具合の原因」を探すために七転八倒して苦悩する安井算哲のありさまは、見ていて共感せずにはいられなかったですね。
結局、安井算哲は水戸光圀や関孝和などの協力を得ることで、何とかこの苦境を乗り切ることに成功するのですが。

あと、安井算哲は冒頭の寺で出会った村瀬えんについて、当初は1年の予定だった「北極出地」の旅から帰還した後に結婚の申し込みをするようなことを、村瀬えん本人に明言しています。
ところが、当初の予定より半年以上も大幅に遅れて安井算哲が「北極出地」から帰還した時、村瀬えんは既に他家へ嫁いで行ってしまった後でした。
村瀬えんの兄である村瀬義益の発言によれば、彼女は予定の1年までは安井算哲の帰還を待っていたとのことだったのですが。
しかし、新暦作成の仕事が佳境に入ってきた頃、村瀬えんは嫁ぎ先から出戻ってきているんですよね。
これ幸いと安井算哲は、出戻ってきた村瀬えんに再度プロポーズを仕掛け、紆余曲折な反応を経て夫婦として結ばれることになるのですが……。
ただ、村瀬えんが嫁ぎ先から出戻ってきた理由については、作中でも「よんどころない事情」と言われているだけで、具体的な内容については何も語られていなかったりするんですよね。
どう見ても「夫との死別」が原因であるようには見えませんし、仮にあちらの家で世継ぎの子供でも作っていれば、たとえあちらの家の主人が死んだとしても「母親」として子供を育てることに専念せざるをえなかったはずでしょう。
表面的にはお淑やかな美人に見える村瀬えんの、しかし微妙に強気かつ頑固な性格を鑑みると、嫁ぎ先の家でその性格を嫌われ離縁させられたか、あるいは村瀬えんの方で嫁ぎ先の家の気風なり主人の性格なりが気に入らず、自分から飛び出していったかのいずれかのように思えてならないのですが(苦笑)。
元々彼女は、「普通の武家が嫌い」みたいな発言も行っていたわけですし。
ならば結婚なんてしなければ良かったのに…………というのは現代人の価値観なのであって、あの当時は「家のために結婚する」のが当たり前な時代だったのですから、村瀬えんも「世間体」や「家の事情」にせっつかれる形で【他家へ嫁がざるをえなかった】のでしょう。
そんな事情さえなければ、村瀬えんもひょっとすると、安井算哲が「北極出地」から帰還するまで待ち続けていたかもしれないですね。
まあこの辺りは、安井算哲側の「女性関係に対する不器用さ」にも原因がないとは言えないのですけど(^_^;;)。

ストーリーの主要なテーマが「日本初の新暦の作成」ということもあり、作中ではそれなりに難しい専門用語が飛び交っていたりします。
色々な解説を交えることで素人にも分かりやすく説明している努力の痕跡は伺えますし、決して理解できないものでもないのですが、それでも初心者にはやや「取っ付き難い」部分があるかもしれません。
SPシリーズの岡田准一が主演と言っても、今作は派手なアクションシーンなんて全くないわけですし。
岡田准一や宮崎あおいをはじめとする出演者が目当てというのでなければ、今作は時代劇などの歴史物が好きな人向けの映画、ということになるでしょうか。

映画「夢売るふたり」感想

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映画「夢売るふたり」観に行ってきました。
結婚詐欺をテーマに男女間の複雑な心情や葛藤などを描いた、阿部サダヲと松たか子の2人が夫婦として主演を担う人間ドラマ作品。
作中では「本番」さながらのセックスシーンが3回ほど出てくることもあり、今作は当然のことながらR-15指定されています。
作中で披露される本番さながらのセックスシーンは、同じR-15指定でかなり印象に残った映画「ドラゴン・タトゥーの女」にも匹敵するものがありますね。

東京の片隅で小さな飲み屋兼料理屋を営む一組の夫婦がいました。
板前としての確かな腕を持ち、仕事についてそれなりのこだわりを持つ夫の貫也と、店の従業員として夫を支える妻の里子。
2人は5年にわたって店を営んでおり、常連客も獲得してそれなりの繁盛を見せていました。
ところがある日の店の営業中、多忙な店内を回すために貫也がわずかに目を離した隙に、厨房にある焼き鳥を焼くための機器が突如火を噴き、店は客の阿鼻叫喚の地獄絵図と共に炎に包まれてしまいます。
突如、しかも一夜にして店を失ってしまい、やる気をなくしてしまった貫也は、「もう一度店を出せば良いじゃない」という里子の前向きな励ましにも耳を貸さず、毎日酒浸りの日々を送ることに。
里子はそれでも夫を支えるため、近所のラーメン屋で働きに出て生計の足しにしようと奮闘します。

ここまでは「ダメ夫を健気に支える良妻」という、美しくもある意味単純な構図だったのですが、そんな日々が続いたある日、貫也が店の常連客のひとりだった玲子と道端で偶然出会ったことから、全ての運命が狂い出します。
玲子はとある金持ちの資産家・俊作と不倫の関係にあったのですが、その資産家が突然の事故で危篤状態に陥り、俊作の弟で兄の不倫事情を知る明浩から見舞いを拒否された上で「手切れ金」として百万円の包みを受け取らされていました。
2人は意気投合して酒を飲み合い、互いの境遇を話し合うことになります。
その境遇があまりにもみじめだと嘆く玲子と、彼女を励ます貫也は、しかし酒の勢いもあってか、そのまま抱き合い、風呂場でセックス行為に興じてしまいます。
ことが終わった後、玲子は自分が受け取らされた手切れ金百万円の包みをそのまま貫也にわたし、店の開店資金に使ってほしいと申し出てきます。
最初は受け取りを拒否する貫也でしたが、玲子のゴリ押しと自身の金銭事情の問題もあり、「必ず返すから」との条件付きでカネを受け取ることになります。
しかし、とにもかくにも突然大金が転がり込んできたことは事実で、貫也はすぐさま妻の里子にその事実を報告すべく走り出すのでした。
家に帰って早々に妻を抱きしめ、浮気の事実は隠しつつ「知り合いが金を貸してくれた」と報告する貫也。
ところが里子はしばらく戸惑っていたものの、抱きしめられた夫の服に染みついていた「洗濯された匂い」から、貫也が他の女と寝ていたことをあっさりと見破ってしまいます。
さらに、件の百万円の包みの中には玲子宛ての手紙も同梱されており、浮気相手の正体や受け取り過程までもが露見してしまうことに。
動かぬ証拠を突きつけられ逆ギレした貫也は風呂場へ逃亡。
一方、百万円と共に放置された形の里子は、夫が受け取った百万円を火が付いたコンロに突っ込み燃やそうとします。
しかし、なかなか燃えない札束をしばらく見つめていた里子は、突然夫がいる風呂場へと向かい、夫へ向かって札束を投げつけ癇癪を爆発させるのでした。
しかし、自身の変貌に震える夫を見た里子は、夫に女性をたらし込む才覚があることを見抜き、これを利用することを思いつきます。
これがきっかけとなり、貫也と里子の2人は、女性相手に結婚をちらつかせカネを騙し取る結婚詐欺の道を歩み始めることになるのですが……。

映画「夢売るふたり」では、夫の浮気が発覚した後の妻の変貌ぶりが凄まじかったですね。それまでは「ダメ夫を支える良き妻」的な描写だった里子が、夫の浮気が発覚するや、札束は燃やそうとするわ、夫を足蹴にするわ、挙句の果てには結婚詐欺まで実行させるわ……。
それまでの良妻ぶりとは打って変わって冷酷な態度で夫に接する里子の姿は、「今までの善良キャラは一体何だったのか?」とすら考えてしまうほどに強烈なインパクトを残すものではありました(苦笑)。
それまでは里子に対して横柄に振る舞っていた貫也が、里子に怯えるようになってすらいましたし。
物語中盤では、女子ウェイトリフティングの女性選手のひとみを貫也が結婚詐欺のターゲットに選ぼうとした際に、相手を詐欺にかけることよりも「あの身体で【セックスの】相手をするのは、貫也には身体的な負担が重いのでは?」などという、ある意味「機械的」な心配をして貫也を呆れさせていたりもします。
人当たりが良かった序盤やパート関係の描写とは対極とすら言って良い態度で、正直「人はこんなにも変わってしまうものなのか」と思わずにはいられなかったですね。
ただ、その里子の「本性」は、当の里子自身も実はそれまで全く意識していないもので、夫の浮気をきっかけに一挙に表に出てきた、というのが実情だったのでしょうけど。
里子にとって「夫が浮気をした」という事実はそれほどまでに重いものだった、ということなのでしょう。

ただ、「夫の浮気」によって妻が夫に愛想を尽かした、という単純な構図にもならないのが今作の魅力のひとつですね。
確かに夫の浮気発覚直後は怒りを爆発させた里子ではありましたが、その後自身の発案で他の女性達を結婚詐欺にかける際には、2人揃って仲良く笑い合っていたりする描写も存在します。
前述のウェイトリフティング選手絡みにおける里子の「心配」も、夫である貫也を気遣ったものではあったわけですし。
浮気の事実が発覚した後もなお、彼女が夫を愛し、心から献身的に支えようとしていたのは疑いの余地がないでしょう。
ただ結婚詐欺絡みでは、その里子の「夫に対する愛」こそが、結果的に夫を破滅に追い込んでしまっていた感も多々あります。
彼女は夫に結婚詐欺を行うことを自分から命じてすらいるのに、その夫が結婚詐欺の一環として他の女性と親しくなったりセックスをしたりする関係になることを嫌悪していたりするんですよね。
物語終盤付近になると、彼女は夫が結婚詐欺で積極的にカネを得ようとする行為に賛同しなくなっていき、ついには包丁を持ち出して夫だか相手の女性だかを刺し殺そうと発作的に行動を起こしてすらいます。
それが結果的には、夫を全く別の形で破滅に追い込むこととなってしまうのですが……。
ただ、一番最初の「自分の関知しないところで夫が浮気していた」という事実に怒り狂うのは当然であるにしても、それ以降の夫の(里子以外との)女性関係は全て「自分が夫に結婚詐欺を命じた結果」によるものなのに、被害者はともかく、当の里子がそれに癇癪を起こすというのは、どうにも理屈的には理解し難いものがありますね。
夫の貫也だって、自分の夢と妻の里子のために結婚詐欺という危険な道を突き進んでいたわけで、それで命令権者の妻から怒りを買わなければならないというのも、何とも理不尽な話ではあります。
女性は理屈やカネだけを欲しているのでなければ、それだけで動いているわけでもない、という概念を表現する描写としてはなかなかに秀逸なものではありましたが。

里子は貫也に自分を見て欲しかった、自分を愛して欲しかっただけだったのかもしれませんね。
貫也は貫也で、妻に対しては反発もあったにせよ、愛情や思いやりもあったであろうことは疑いようもなかったのに、特に物語後半では結婚詐欺に慣れたこともあってか、妻に対してやたらとビジネスライク的な接し方に終始していたりしますし。
貫也の妻に対する観察眼もそれなりに鋭いものがあったものの、もう少し妻の心情や葛藤について敏感に察し配慮さえしていれば、あの破滅は免れ得たかもしれないのですけどねぇ(T_T)。

結婚詐欺の主犯である貫也と里子のやり取り以外にも、結婚詐欺の被害者達の心情や葛藤なども良く描かれており、メロドラマ系ストーリーとしてはそれなりの見応えがある映画と言えますね。
その手の作品が好きな方にはオススメの一品です。

映画「踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望」感想

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映画「踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望」観に行ってきました。
「踊る大捜査線」の映画版4作目にしてシリーズ完結編。
テレビドラマ版「踊る大捜査線 THE LAST TV サラリーマン刑事と最後の難事件」で展開されていた伏線の一部が今作で反映されています。
なお、今作で私の2012年映画観賞本数は、記録的な大豊作となった去年1年間の映画観賞総本数である65本のラインに到達しました。
今月中に70本を突破するのは確実な情勢ですし、今年は最終的に80~90本くらいは映画を観賞することになりますかねぇ。

映画の冒頭では、シリーズお馴染みの湾岸署の面々が、何故か東京の下町?で唐揚げ屋を営んでいる様子が描かれています。
主人公である青島俊作が唐揚げ屋の店主、恩田すみれが相方の奥さん?兼店員で、和久伸次郎が下っ端店員として、和気藹々で明るい店を営んでいるようでした。
すぐに判明するのですが、彼らは唐揚げ屋の近くに住んでいるらしい老人の息子?で指名手配されている人物を捕まえるべく、1ヶ月近くにわたって張り込みを続けていたのでした。
その張り込みの甲斐あってか、該当の被疑者は見事に現場に現れ、犯人ひとりに物量に物を言わせた大捕り物の末、湾岸署の面々は無事目的を達成することに成功するのでした。
結果、1ヶ月にわたって運営してきた唐揚げ屋は店仕舞いとなり、閉店セールと共に残りの唐揚げがほとんどタダ同然で下町の住民達に手渡されていくのでした。
ちなみに後で唐揚げ屋の経費を青島らが請求した際に判明するのですが、この唐揚げ屋の売り上げは黒字を達成していたのだとか(苦笑)。

被疑者を確保し、意気揚々と湾岸署へ久々に戻ってきた青島らの眼前に繰り広げられていたのは、湾岸署管内にある東京ビッグサイトで開催されていた国際環境エネルギーサミットの影響で多くの警官が駆り出され、いつもより人が少なくなっている湾岸所内の一風景でした。
青島らも湾岸署に到着早々、署長の真下正義に交通課など他部署へ手伝いに行くよう言い渡され、しぶしぶながらも手伝いへと向かうのでした。
ところがそんな中、国際環境エネルギーサミットの会場内で男性の誘拐事件が発生し、青島らは事件の聞き込み捜査を行うことに。
事件は人がごった返している広場で公然と起こっており、現場では多くの人達が事件を目撃していましたが、犯人が具体的にどこへ行ったのかまでは結局掴むことができませんでした。
そして数時間後、事件の際に誘拐された男性と同じ黄色いシャツを着た男が、拳銃で撃たれた痕跡を残した死体となって発見されてしまいます。
事件を受け、本店(警視庁)では、誘拐事件で被害者の殺害に使われた拳銃が、かつて警察が押収したものと合致するとの情報をいち早く掌握していました。
しかし、警察が押収した拳銃が犯行で使用されたということは、事件が警察内部の人間によっておこなわれたものであることをも意味することになります。
それが「警察の不祥事」としてマスコミに叩かれ、自分達の出処進退が問われる事態になることを恐れた警察の上層部達は、事件の捜査を指揮する立場となる鳥飼誠一に対し、犯行の隠蔽を行うよう命令を下すのですが……。

映画「踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望」は、相変わらずコメディ要素満載な展開が繰り広げられていますね。
テレビドラマ版「踊る大捜査線 THE LAST TV サラリーマン刑事と最後の難事件」でも披露された、署長の真下正義をリーダーとする3人組と、元署長を筆頭とするスリーアミーゴスの「猿山のボス猿争い」のごとき低次元な対立は今回も健在でしたし、それ以外にも作中の随所に笑いのネタが目白押しでした。
テレビドラマ版ではスリーアミーゴスの面々に事件の対策本部の玄関口に貼る戒名?を書こうとしたところを妨害された真下でしたが、今作ではその雪辱叶って、見事に自分で戒名を書くことに成功していました。
ただ、「これならスリーアミーゴスの面々の方がまだマシだったんじゃ……」と言いたくなるほどヘタクソな上に字の大きさまで不統一な戒名の仕上がりは、そこらの女性警官達にまで酷評される始末ではありましたが(笑)。
また、青島の部下である王明才がお茶&ミネラルウォーターと間違って注文(「みず」の発言がなまって「ビール」になっていた)してしまった大量のビールの件を巡る責任回避の構図も笑うところですね。
ビールを間違って購入した責任を問われて左遷されることを恐れた青島は、湾岸署内に設置された総計500缶ものビールの山をカモフラージュしてその場凌ぎで何度もごまかしまくった挙句、ついにその存在が露見してしまった際には真下を口先三寸で丸め込んで責任を擦り付けてしまいます。
物語後半の事件発生の際には、いくら緊急時とは言え「真下の息子が久瀬って男に誘拐された!」と青島から堂々と呼び捨てされているありさまでしたし、真下って本当に「人の上に立つ人間」には向いていない上に、部下からも上司として見られていないのだなぁ、とつくづく感じずにはいられなかったですね(^_^;;)。
一応はキャリア出身で出世も順風満帆、私生活面でも妻の柏木雪乃と二児の子供の父親で恵まれた環境にあるはずなのに、スリーアミーゴスと比較してさえも小悪党&小物過ぎる感が否めないところですし。
ただまあ、物語後半ではその手のお笑いネタも鳴りを潜め、陰惨な事件の当事者として悲壮感を露わにしてはいましたが。

ところで作中では、恩田すみれが実は身体の不調から辞職をしようとしていることが明らかになっています。
これはテレビドラマ版でも伏線として出てきていましたが、彼女は2作目映画「踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!」で撃たれた傷が原因で身体に痛みが走るようになっており、近年は警察としての職務にも耐えられないほどになってきているとのこと。
警察を辞めるという恩田すみれの決意は固く、彼女は青島ら湾岸署の親しい同僚達には何も告げず、九州行の夜行バスで故郷の大分へ帰るつもりだったようです。
恩田すみれは結局、青島に擦り付けられた冤罪の報道から青島の危機を知り、ラストで夜行バスを乗っ取り倉庫へ突っ込むという大立ち回りを演じてのけるのですが、ただ、恩田すみれがあの後どうなったのかについては作中でも全く描かれていないんですよね。
バスの横転後に青島に介抱されたシーンを最後に、作中から存在すら消えてしまった感すらありましたし。
普通に考えれば、あの夜行バスをハイジャックした上に横転大破させてしまった恩田すみれが罪に問われないはずもないので、作中のラスト時点では警察から長期の事情聴取を受け青島らから隔絶された状態にあると考えるのが妥当なところではあるのでしょうが……。
ただ、今作は一応シリーズの完結編・最終作と銘打っているのですから、後日談的なエピソードなり画像なりをエンドロールで流すという形で披露しても良かったのではないかとは思わなくもなかったですね。
また公約を破って性懲りもなく続編を作るというのでなければ、今作を最後に「踊る大捜査線シリーズ」のエピソードは一切語られなくなってしまうのですし。
青島と結ばれて結婚、というシナリオだけはどうにも考えられない話ではありますけど。

今作の事件は、全体像から見れば「警察への私怨と上層部の一掃の双方を達成することを目的とした、鳥飼誠一の謀略劇」という要素が非常に強いですね。
6年前の幼児誘拐事件で無念を味わった警官達を動かし、警察の信用に関わる事件を起こす。
その事件を上層部に隠蔽させると共に無関係な人間に罪をかぶせるなどして上層部に罪を負わせる。
その事件の一部始終および真相を自分の名で公開し、上層部を軒並み引責辞任させ首を挿げ替えると共に、自分は一切傷つくどころか名声すら獲得する。
青島や室井慎次が成し遂げようとしていた警察の改革を、彼は謀略でもって短期間で可能な状態にしてしまったわけです。
自分の私怨すらも利用して邪魔者を片付ける鳥飼の謀略手腕は、政治的には相当なものがあると言わざるをえないですね。
青島も室井も、鳥飼の手法にはある程度気づいている感がありましたが、踊らされていることを自覚しつつ、それでも彼らの立場的には踊り続けるしかないのでしょうね。
ある意味、一連の事件の真の黒幕である鳥飼こそが、今作における最終的な勝者となるのでしょうが、しかし彼の今後は一体どうなるのやら。
こちらも、今作がシリーズ完結編・最終作として語られている以上、普通に考えればまず語られることはないであろうと思われるのですが、彼の罪が何らかの裁かれるがないというのも、政治的にはともかく、物語的には何か不完全燃焼な感が否めないところですね。

シリーズ完結編・最終作というだけのことはあり、「踊る大捜査線」シリーズのファンであれば必見な映画と言えるのではないかと。

映画「ひみつのアッコちゃん」感想

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映画「ひみつのアッコちゃん」観に行ってきました。
赤塚不二夫原作の国民的人気を誇る同名コミック生誕50周年を記念して制作された、綾瀬はるか・吉田里琴が主演を担う実写映画化ハートフルコメディ作品。
ストーリーは完全オリジナルで、原作や既存アニメとは何の関連性もありません。
今作は元来観賞する予定はなかったのですが、現在がちょうど1ヶ月フリーパスポート発動期間中ということで、急遽観賞予定リストに加えられることになった経緯があったりします(^_^;;)。
しかし、こんなある意味「古典的作品」までとうとう実写映画化されるようにまでなったのですねぇ。
洋画・邦画を問わず、昨今の映画では原作マンガの実写化が顕著なのですが、この傾向、果たしていつまで続くことになるのやら。

映画のタイトル名や原作から考えても当然のごとく今作の主人公である「アッコちゃん」こと加賀美あつ子は、母親の化粧箱を無断で失敬して見様見真似の化粧をするような、小学5年生のちょっと活動的な女の子。
ある日、加賀美あつ子が5年2組の教室で化粧をしていたところ、今時珍しいガキ大将含む3人の男子児童にイチャモンをつけられた挙句、ガキ大将から物を投げつけられた衝撃で父親からもらったコンパクトを壊されてしまいます。
そのことを嘆き悲しんだ加賀美あつ子は、自宅の庭にコンパクトの墓を作り、壊れたコンパクトを丁重に葬ります。
しかしその夜、加賀美あつ子は突如、誰かに名前を呼ばれると共に白い光が自宅の外で放たれているのを目撃するのでした。
謎の声に導かれるままに彼女が自宅の外に出ると、そこには光に包まれたひとりの男が佇んでいました。
彼は自分のことを「鏡の精」と名乗り、壊れたコンパクトを長年にわたって大事にしてくれたお礼として、新しいコンパクトを加賀美あつ子にプレゼントするのでした。
そして彼はこう付け加えるのです。
そのコンパクトは魔法のコンパクトであり、「テクマクマヤコンテクマクマヤコン」と唱えて変身したいものの名前を言えば、その名前のものに変身することができること。
元に戻りたい時は「ラミパスラミパスルルルンパ」「ラミパスラミパスルルルルルー」と唱えれば良いこと。
そして、コンパクトの魔法は誰にも知られてはならず、もし知られたら魔法が使えなくなってしまうこと。
「鏡の精」が去った後、加賀美あつ子はコンパクトの魔法を何度か発動させ、「鏡の精」が言っていたことが事実であることを確認します。
元々「大人になること」に憧れを抱いていた加賀美あつ子は、自分が好きな時にすぐさま大人に変身することができるコンパクトをすっかり気に入り、大人の女性警察官に変身してガキ大将に説教をしたりするのでした。
そんな折、小学校の同級生と一緒に遊びに行った遊園地で、加賀美あつ子は御年27歳になるひとりの男性と「子供の姿で」出会うことになります。
色々あって遊園地の観覧車に、その男性と一緒に同乗することになった加賀美あつ子は、妙に寂しそうなその横顔が気になるのでした。
その男性とは本来、一度きりの出会いとなるはずでした。
しかしその後、コンパクトの魔法でまた大人に変身した加賀美あつ子は、かねてから興味があった化粧品の売り場で店員から化粧をしてもらっている際、何の因果か再びその男性と遭遇することになります。
彼は化粧品の開発・販売を担っている大企業「赤塚」の開発室長待遇の地位にある早瀬尚人という名前の人物であり、この出会いが加賀美あつ子と早瀬尚人、さらには「赤塚」の運命をも変えていくことになるのですが……。

初の実写版映画(テレビドラマでは既に前例あり)となる今作の「ひみつのアッコちゃん」は、そのメルヘンチックなお子様向け作品をイメージしやすい名前と実績に反して、企業乗っ取りだの株主総会だのといったドロドロな一面が前面に出てきます。
ストーリーの大部分が、化粧品会社「赤塚」および「赤塚」に勤務している早瀬尚人との関係に終始しているため、ストーリー的にはそうなるのも当然ではあるのですが、そのこともあってか、「子供としての加賀美あつ子および彼女周辺の人間関係」についてはかなり小さな比重でしか扱われていないんですよね。
ガキ大将とか加賀美あつ子の友人であるモコなどは、序盤と終盤以外ではほとんど「お情け」レベルの出番しかありません。
そこから考えると、今作はあくまでも「魔法の力で大人になった加賀美あつ子の物語」であり、同時に「大人に憧れる子供の現実遊離な物語」でもある、ということになるでしょうか。
物語終盤では、魔法が使えなくなった加賀美あつ子が、元いた「子供としての自分の居場所」に戻っていくという描写もしっかり描かれていますしねぇ。

ただ、物語全体で見ると、明らかに「魔法のコンパクト」以外の要素があるとしか思えない言動が、加賀美あつ子には目立ち過ぎますね。
たとえば序盤で加賀美あつ子は、冬休み中に通わなければならない塾をサボるために大人に変身して「加賀美あつ子の親戚」と称し、塾に直接乗り込んで「加賀美あつ子は外国へ行ったから当面塾は休むことになる」と塾講師?に告げることで休みを確保します。
しかし、こんなのは塾側が加賀美あつ子の母親に直接電話をかけて確認を取ればすぐにでも露呈するウソでしかありませんし、そもそも一度も面識もない「加賀美あつ子の親戚」なる人物の身分詐称を、塾側が頭から信じなければならない理由もありません。
むしろ塾側としては、加賀美あつ子が何らかの犯罪に巻き込まれた可能性をも考慮して、目の前の女性の身元や親への確認を、自分から率先して行わなければならないところでしょう。
今の時代、この手の対処を誤ればマスコミが総出で叩きにかかりますし、下手すれば塾の経営や信用にも多大な悪影響が出かねないのですから。
あんな稚拙なやり方で、よくもまあ親にもバレないサボりができたよなぁ、とつくづく考えずにはいられませんでした。
そして早瀬尚人が勤務する化粧品会社「赤塚」へバイト待遇で入社した後も、社会人としてのマナーなど欠片たりとも持ち合わせていない言動を披露するのは、その出自から考えてやむをえないにしても、それに対して実行力のある制裁が全く発動しないというのは奇妙な話です。
加賀美あつ子の「非礼」な言動を見て周囲の他者が取った行動って、せいぜい「口先だけの抗議」くらいなものでしかなかったですからねぇ。
特に酷いのは、「赤塚」の株主総会で披露されたマイクパフォーマンスですね。
作中では誰もが彼女に注目し筆頭株主を動かすほどの名演説的な演出として扱われていましたが、元々彼女は「赤塚」の株主ではなく、あの場における発言権限など皆無なはずなのですから。
それどころか、あんなマイクパフォーマンスは企業の株主総会に対する明確な妨害行為とすら見做され、最悪は法的に罰せられる危険性すら否定できないところでしょう。
というか、加賀美あつ子が通う小学校でさえ、ああいう「悪目立ち」する行為を抑制するための社会的なマナー程度のことは普通に教えられそうなものなのですけどねぇ。
ましてや、小学校でも5年生レベルであればなおのこと。
この辺りは「小学生ならではなの世間知らずと無邪気さ」を逆手に取って大人達を圧倒する美談的に扱ってはいるのでしょうが、展開に無理があり過ぎて、正直ここにすら「魔法の力」が介在していたのではないかと考えざるをえなかったですね。

あと、ラストの爆弾騒ぎで加賀美あつ子は、ネコに変身して爆弾の所在を確認した後に人員の誘導を行っているわけですが、何故あそこでネコから元の大人の姿に戻って他者に爆弾の存在を知らせようと考えなかったのでしょうか?
ネコに変身して爆弾の現場まで他人を誘導するなんて手段自体がまどろっこしすぎますし、実際、作中でも一度失敗しかけてすらいますよね、アレって。
そんなことをするよりも、一度大人に変身して素直に「工場に爆弾が仕掛けられています」と他者に知らせていた方がはるかに効率も良く、かつ自身の秘密を知られることなく魔法を失うこともなかったのではないのかと。
というか、もっと効率の良い方法を考えれば、魔法のコンパクトを使って爆弾解体業者に変身して自分で起爆装置を解除するとか、オリンピック級の長距離走&槍投げ選手に変身して爆弾を安全な場所まで持っていって空高く遠くに投げるとか、自分ひとりで解決できる手段はもっと色々あったはずなのですが。
作中でも、魔法のコンパクトでバイクレーサーに変身した際にオートバイまで一緒に出していた上、免許もなく一度も動かした経験すらないはずなのに問題なく普通に乗り回していたのですから、魔法のコンパクトの力を使えば決してできないことではないでしょう。
外見上の変身のみならず一流の技能まで備わる魔法のコンパクトなんて、無敵のチート能力もいいところなのではないかと思うのですけどねぇ(苦笑)。

あと個人的には、物語中盤で子供の加賀美あつ子が、唐○俊○ばりのネットからのコピー&ペーストで「冬休みの課題」をさっさと終わらせたところを佐藤先生に見つかって咎められていたシーンも笑えるものがありましたね。
映画における●沢●一レベルのP&Gな盗作行為自体は、ジャック・ブラック主演の映画「ガリバー旅行記」でも見られたものではありましたが、これって知識さえあれば子供でもできることでもないのだなぁ、と。

原作やアニメにおける「ひみつのアッコちゃん」は、全体的に子供がメインの作品であるのに対し、今作はストーリー的にも出演キャスト的に見ても「大人向けの大人のための作品」ではあるでしょうね。
企業乗っ取りや株主総会の話なんて、とても子供向けに作られたものとは思えないですし(苦笑)。
大人だけで観るのならともかく、すくなくとも親子連れで観賞しえる映画であるようにはあまり見えないですね、今作は。

映画「闇金ウシジマくん」感想

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映画「闇金ウシジマくん」観に行ってきました。
小学館発行の青年マンガ雑誌「ビッグコミックスピリッツ」で不定期連載されている、真鍋昌平原作の同名マンガを実写化した作品。
2010年に実写化されたテレビドラマシリーズの続編で、キャストもテレビドラマ版をそのまま踏襲しています。
作中には女性の裸やレイプシーンなどが描写されていることもあり、PG-12指定されていますね。
なお、私は原作未読・テレビドラマ版未視聴で今作に臨んでいます。

とある一部上場企業の社長・二宮が主催するセレブパーティ。
持ち前のネットワークとコネクションを駆使して二宮を口説くことで、そのセレブパーティに出席した、イベントサークル「BUMPS」の代表である小川純は、セレブパーティに参加している金持ち達に取り入り、自分が主催するイベントで多額の資金を提供してくれるスポンサーを集めることを画策していました。
小川純は、FX長者として成り上がった猪俣なる人物を二宮から紹介されます。
「シャンパンを10分以内に一気飲みして見せたら1000万円出す」という猪俣の挑戦に応じ、見事勝利を勝ち取ってみせる小川純。
シャンパンに2・3滴残されていたことを理由に100万円に値切られはしましたが、それでも小川純は猪俣の名刺を渡され、何とか資金調達のための新たなコネクションを獲得したかに見えました。
ところが、セレブパーティが盛り上がりを見せ始めた中、突如3人の男が会場に現れます。
彼らは会場の雰囲気を無視してズカズカとパーティ会場へ押し入り、猪俣に対し、過去に借金していたことを理由に750万円もの現金を、今すぐこの場で全額支払うよう命じるのでした。
猪俣はFX長者であり億単位のカネを動かせると豪語していましたが、さすがにセレブパーティに参加している席上でそんな大金を、しかも現金で持ち歩いているわけもありません。
猪俣は後日の返済を約束するのですが、男達のリーダー格にしてカウカウファイナンスの社長である丑嶋馨は「借金まみれの奴に明日がくるかどうかなんて分からない、今日返せ」と聞く耳を持とうとしません。
そして丑嶋馨は、猪俣を問答無用の暴力で脅した挙句、「今この場で500万のカネを貸す人間がいたらお前を信用してやる」と宣言するのでした。
猪俣は周囲のパーティ参加者にすがるかのようにカネの催促を行うのですが、丑嶋馨の暴力と雰囲気に圧倒されていた上、求められる金額が金額ということもあり、誰もその要求に応えようとはしませんでした。
結果、猪俣は問答無用で3人の男達に強制連行され、セレブパーティの会場を後にする羽目となったのでした。
しかし、せっかく得られた金ヅルを突然潰されてしまう形になった小川純は、納得できないままに彼らの後を追います。
それに対して丑嶋馨は、「金は奪うか奪われるかだ、お前のように媚びて恵んでもらうものじゃない」と突き離し、猪俣を連行し去っていくのでした。

3つの携帯電話に3000以上ものアドレスを持つ小川純は、その広範なネットワークを駆使して「BUMPS」主催のコンサートを開催し、それを土台にして成り上がるという野望を抱いていました。
ルックスが良く人気が高い「ゴレンジャイ」というダンスユニットを結成させ、女性ファンを中心に集客活動を行っていた彼は、コンサートを行うための会場を借りる交渉を行っている真っ最中でした。
ところがある日、会場主のオーナーが突如、以前からの支払スケジュールを反故にして今日中に会場の賃貸料300万円を全額納めろと小川純に命令してきます。
突然の命令な上、300万円もの大金をイキナリ用意できるわけもなく、また過去に多くの借金を踏み倒してきた前科の数々を抱え込んでいることから、小川純は頭を抱えて悩むことになります。
冒頭のパーティで100万円の資金提供を約束してくれた猪俣も、丑嶋馨に連れ去られて以降は音信不通となってしまい、名刺に書かれていた連絡先も応答がなくなってしまうありさま。
そこへ、小川純の幼馴染である通称ネッシーこと根岸裕太に、違法な闇金業者にカネを借りることを進言されるのでした。
その忠告に従って小川純がカネを借りに行った先は、何と冒頭で猪俣を連行していった丑嶋馨が社長を務めるカウカウファイナンス。
「10日で5割、賭け事の場合は1日3割」などという違法以外の何物でもない超高率な利息でカネを貸すことを説明され、小川純はその条件でカネを借りることになるのですが……。

映画「闇金ウシジマくん」を観賞していて思ったのは、「この主人公、本当に闇金の借金取りを生業にしているのか?」「この作品構成で『闇金』というテーマにこだわる必要があるのか?」というものでしたね。
明らかに「闇金の回収」が目的とは思えない行動が目立ち過ぎです。
特に、FX長者である猪俣を丑嶋馨達が問答無用で脅したてるシーンなどはその典型で、彼らはわざと「自分達に借金の返済が行えない状況」を作り出して借金回収に臨んでいたとしか思えないんですよね。
かつてはその日暮らしにも困窮する生活を送っていたにしても、猪俣はFXで多額の資金を稼ぎ出し、億単位のカネが動かせる生活ができるようにまでなった身分だったはずです。
冒頭のセレブパーティーでも、彼は小川純相手に1000万円もの資金提供を即興で申し出たりしているわけですし。
丑嶋馨が通告してきた750万円の借金返済にしても、あのような場ではなく自宅を強襲したり、カネを銀行等から引き落としたタイミングなどを狙ったりするだけで、彼らはより確実な借金返済を行うことが可能だったはずでしょう。
猪俣の言動自体が全て虚言で、あのセレブパーティーにもわざわざ借金まみれで参加していたなどという事実でもない限り、彼の手元にはFXで稼いだ返済可能な資金が確実にあるはずなのですから。
にもかかわらず、丑嶋馨達があのような「借金取りのセオリー」に反した強硬手段を、それも衆人環視の場でやってのけたということは、つまるところ彼らの本当の目的は「借金取り」ではない、ということにもなりかねないでしょう。
作中の描写を見る限りでは、借金返済を怠った人間に対して制裁を科し、全財産を没収した上で身元不明の状態にして人知れず殺害する、というのが彼らの本当の目的だったとしか思えないところなんですよね。
750万円というのは確かに大金ではあるでしょうが、億単位のカネを持つ人間相手に暴力を振るって強制連行してまで回収すべき金額であるとは到底考えられないのですし。

また、彼らは一部上場企業の社長が主催するセレブパーティー、という衆人環視の目がある中で猪俣を脅しつけ強制連行まで行っているわけですが、その行為によって、セレブパーティーを主催したあの社長は、結果的に自分の顔を潰される羽目になったわけですよね。
作中では丑嶋馨達の暴力の前に事なかれ主義な対応を決めざるをえなかったにしても、あのまま黙って大人しく泣き寝入りを決め込むなんて、あの社長的には到底ありえない対応であるはずなのですが。
猪俣という上客を連れ去られた上、自分が主催するセレブパーティーの眼前で繰り広げられた犯罪行為を黙認したとなれば、自分自身どころか、下手すれば会社の信用問題にまで直結する事態にも発展しかねないのですから。
あの場には猪俣や小川純以外にも多くのパーティー参加者がいて、状況証拠や目撃情報にも事欠かないわけですし。
物語中盤で、借金取り行為で被害届を出され、前科がつくどころか起訴されることにすら危機感を持って対処していた丑嶋馨が、あの公衆の面前でやらかした犯罪行為の数々に無頓着だったというのはおかしいでしょう。
不法侵入と器物破損だけでも、丑嶋馨達が訴えられるのに充分な訴追事由となりえるわけですし、そこから闇金問題にガサ入れされてしまう可能性は濃厚にあるのですから。
後から示談金を支払って解決する問題とは思えませんし、仮にそんな解決法に頼ったとしても、その示談金の金額は猪俣の借金請求額よりも多いものとなりかねないでしょう。
闇金の借金取りが本職であるはずの彼らのあの場での行動は、しかし借金取りとしては完全無欠の失格以外の何物でもありません。
だから私は、「そもそも彼らは本当に借金取りを生業にしていたのか?」という疑問すら抱かざるをえなかったんですよね。
彼らの行動は、むしろ一昔前の時代劇で散々披露されていた悪代官や悪徳商人を成敗する勧善懲悪主人公のそれを連想させるものすらありますし。
作中における彼らの行動を見る限り、「闇金ウシジマくん」というよりも「制裁ウシジマくん」の方が、彼らの実情に正しく沿っている作品タイトルなのではないかと思えてならないのですけどね、私は。

あと、物語中盤で小川純がカウカウファイナンスに対する被害届攻勢をかけていた際、被害届を取り下げるのと引き換えに250万円ものカネをカウカウファイナンス関係者から引き出させることに成功しているのですが、何故その後小川純はバカ正直に被害届を取り下げてしまったのでしょうか?
丑嶋馨をはじめとするカウカウファイナンスの手口を、小川純は物語冒頭から実地で目の当たりにさせられていたはずですし、彼らを警察から自由にすれば、いずれ自分に対して借金回収と報復の手が及ぶことくらい、冒頭の手口からいくらでも察することが可能なはずでしょう。
また、小川純が被害届を取り下げることなく、カウカウファイナンスが警察の手によって壊滅させられれば、小川純はカウカウファイナンスからせしめた250万円をそのまま自分のものにしてしまうことも可能なのです。
となれば小川純は、250万円をせしめた後に約束を反故にし、警察の手でカウカウファイナンスを壊滅に追いやることこそが、あの場における唯一の選択肢であるべきだったのではないのかと。
司令塔である丑嶋馨がいない状態では、さしものカウカウファイナンスといえども十全の実力を発揮することはできないでしょうし。
元々被害届を出して喧嘩を売った時点で、カウカウファイナンス側の怒りと憎悪は確実に買っている上、当の小川純自身、冒頭の猪俣の件もあってカウカウファイナンスを「あんな悪党は滅びて当然」とまで考えていたくらいなのですから、被害届を取り下げるべき理由などどこにもないといっても過言ではないのですが。
というか、カウカウファイナンスを壊滅に追い込むことで目先の250万円を自分のものにする、というだけでも、カウカウファイナンスに被害届を出した小川純の目的は充分に達成できていたはずでしょうに。
出さなくても良い変な温情を出して被害届を取り下げてしまったばっかりに、彼は見事に身の破滅を招くことになったわけなのですから、妙なところで甘いよなぁとつくづく思わずにはいられなかったですね(-_-;;)。

小川純の幼馴染として登場する鈴木美來がラストで若干明るい展望だった以外は、軒並み暗いストーリーのオンパレードでしたね、今作は。
その鈴木美來にしても、母親の性格が最悪な上、丑嶋馨には母親の借金の取り立てを情け容赦なく求められ、小川純からは「ウリ(売春)をやって金を稼いでくれ」などと迫られたりと、不幸な目に遭いまくっているわけですが。
人間の負の部分を描くダークな展開を売りにしているという点では、映画「スマグラー おまえの未来を運べ」にも通じるものがあります。
内容が内容だけに、観る人を選別しそうな映画と言えるでしょうね。

映画「あなたへ」感想

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映画「あなたへ」観に行ってきました。
2012年で御年81歳になる高倉健が、2006年日本公開の日中合作映画「単騎、千里を走る。」以来、実に6年ぶりに映画出演を果たした人間ドラマ作品。
作品の内容が内容ということもあってか、スクリーンの観客は年配者がほとんどでしたね。

富山の刑務所で囚人達の指導技官を長年にわたって務めている今作の主人公・倉橋英二。
彼は高齢になってから結婚して15年になる妻・倉橋洋子に先立たれ、目的がないままに仕事に従事する日々を送っていました。
そんなある日、亡くなった妻の手紙を届けに来たというNPO法人の女性が、 倉橋英二が勤めている刑務所を訪ねてきます。
彼女は、倉橋洋子から依頼されていた2通の手紙を提示し、そのうちのひとつをその場で倉橋英二に直接渡します。
その手紙には、灯台らしき絵と共に以下のような文章が綴られていました。

あなたへ
私の遺骨は
故郷の海へ
撒いて下さい

そして、もうひとつの手紙は、「故人の意思」ということから、倉橋洋子の生まれ故郷である長崎県平戸市の郵便局で「局留め郵便」として10日以内に受け取るように、とのことでした。
何故妻はそんなことをするのか?
疑問に駆られながらも、倉橋英二は妻の生まれ故郷である長崎県平戸市へ行くことを決意します。

倉橋英二は、死ぬ前の入院生活の中で、自家用車である日産製の大型ミニバン・エルグランドをキャンピングカー仕様に改造し、2人で旅に出ようという構想を妻に話していました。
それは既に叶わぬ願いとなってしまったわけですが、倉橋英二は妻の死で途中放棄されていたエルグランドの改造に乗り出し、エルグランドを簡易キャンピングカーとして生まれ変わらせます。
そして彼は、長旅の前に刑務所へ退職届を出し、長崎へ出発しようとするのでした。
しかし、突然退職届を出された刑務所側は、倉橋英二の長年の刑務所勤務の経験を買っており、退職届を受理せず休暇扱いとします。
同僚の刑務所職員が見送る中、倉橋英二は富山を出発。
かくして、妻の散骨のために、富山から長崎県平戸市まで実に1200㎞以上もある長い旅が始まったのです。

映画「あなたへ」は、旅先の風景を映し出すロードムービーとしての一面も兼ね備えており、富山から長崎県平戸市まで、いくつかの観光名所が描写されています。
作中で描写されていた主な中継地は以下の通り↓

富山(出発地点)

岐阜県飛騨高山(杉野輝夫との出会い/その1)

大阪(駅弁の販売/その1)

兵庫県和田山の竹田城跡(妻との思い出)

山口県下関市(杉野輝夫との出会い/その2)

北九州市門司(駅弁の販売/その2)

長崎県平戸市(妻の散骨)

北九州市門司港(駅弁の販売/その3、ラストシーン)

物語は、高倉健が演じる倉橋英二が、行く先々で多くの人と出会い交流しつつ、妻との思い出を回想していくという形で進行していきます。
倉橋英二と妻の倉橋洋子以外は「行きずりの他人」かつ「チョイ役」的な扱いで、浅野忠信が演じた山口県下関署の警官に至っては、名前すらもなく本当にちょっとしか登場しないありさま。
しかし、各登場人物を演じた俳優さん達は、その登場回数を問わず、皆渋い役どころを忠実に演じていました。

ビートたけしが演じた杉野輝夫は、本人の言によれば元国語教師で、倉橋英二と同じく妻に先立たれ、キャンピングカーで旅を続けているとのこと。
山口県下関市で、実は彼は各地で車上荒らしの犯行を重ね指名手配されていたことが判明するのですが、倉橋英二については特にそういったことをやらかすでもなく、むしろ良きアドバイザーとしての一面を披露していました。
コンビニなどで車を止めて宿泊するのは、防犯の観点から拒否される店も少なくないなどといった、意外な盲点を突いた忠告もしてくれていますし。
下関署の警官達は、杉野輝夫が話した生い立ちの数々を「作り話だろう」と切り捨てていましたが、すくなくとも彼が倉橋英二に話したことについては、少なからぬ真実も含まれていたのではないかなぁ、と思わせるものがありました。
倉橋英二も、杉野輝夫には特に悪い印象を抱いていた様子もなく、「むしろ良くしてくれた」などと話していたくらいでしたし。

車の故障が縁となって知り合うことになった、草彅剛が演じる田宮裕二は、およそ遠慮というものを知らないながらもどこか憎めない人間、という役柄でしたね。
何やかやで倉橋英二は、大阪までの輸送どころか、田宮裕二の仕事である駅弁販売まで手伝わされる羽目になっていましたし(苦笑)。
まあそんな田宮裕二も、実は生活面で暗い一面を抱え込んでいることが、北九州市門司のエピソードで判明するのですが。
ちなみに、田宮裕二の車が故障し、倉橋英二の車に荷物を載せて大阪へ向かった際、その場で置き去りにしていた故障車は一体どうなったんだ? という疑問を私は一瞬抱かざるをえませんでした。
しかし、あの車は「わ」ナンバーのレンタカーであり、レンタカー会社に連絡すれば社員が現地まで行って引き取ってくれるのだそうで、その辺の問題はないとのことです。
この辺は作中の登場人物達の会話でも全く言及されておらず、何も知らない人から見れば少々混乱させられる描写ではありますね。

物語後半に全く意外な形でキーマンになるのが、田宮裕二より年長でありながら、仕事の関係上は後輩であるという、佐藤浩一がキャストを担う南原慎一。
初登場時の彼は、お調子者の田宮裕二を諌める役割以外は存在感の薄いキャラクターでしかなかったのですが、長崎県平戸市へ着く直前頃から、彼には明確な伏線が出てくるようになります。
実は彼は長崎県平戸市の出身で、そこで登場することになる食堂店の母娘の関係者でもあるんですね。
南原慎一という名前自体、7年前に名乗るようになったものなのだとか。
しかし、彼が偽名を名乗り長崎県平戸市と縁があることは作中での会話から分かるにしても、南原慎一が実はあの一家の亡くなったとされる夫だったという事実を、倉橋英二が一体どうやって理解したのか、そこは少々疑問ではありましたね。
一応、作中では「散骨の際に一緒に海に沈めてくれ」とあの母娘に言われて渡された「娘と婿さんとの写真」を見て理解したみたいな描写ではありましたが、正直アレだけでは観客的に理解はできないというか……。
平戸市といっても人口は3万人以上いるわけですし、漁師に限定しても数百単位はいるでしょうに、ピンポイントで母娘と父親にぶち当たってしまうとは、倉橋英二も何という僥倖だったことかと。
まあこの辺は、フィクション作品ならではのご都合主義的な要素も多々あるのでしょうけどね。

作品の内容的には、高倉健のファンや年配者向けの映画であることはまず間違いないでしょうね、今作は。
目的地までの過程で各地を巡るロードムービーという点では、映画「星守る犬」に通じるものがありますが、あれが悲劇的結末が最初から確定していた映画だったに対して、今作はある意味安心して観賞することができますので、ロードムービー好きな方にもオススメな一品です。

映画「るろうに剣心」感想

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映画「るろうに剣心」観に行ってきました。
1994年から5年にわたって週刊少年ジャンプで連載され、その後も根強い人気を誇る和月伸宏の原作マンガ「るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-」を実写映画化した時代劇アクション作品。
連載当時は週刊少年ジャンプの愛読者だったこともあり、原作は当然既読。
ストーリーは原作における「東京編」の「斬左編」「黒笠編」「恵編」をベースとしつつ、原作とは全く別のオリジナル構成で展開されています。

1868年(慶応4年/明治元年)1月に行われた鳥羽・伏見の戦い。
朝廷を擁する新政府軍と、徳川将軍に見捨てられた旧幕府軍が衝突し、凄惨な殺し合いが繰り広げられていました。
数的には圧倒的優勢な旧幕府軍に対し、新政府軍は苦戦を強いられます。
そこへさらに、斎藤一が率いる新撰組三番隊が新たに参戦。
戦局が旧幕府軍に傾きかけたまさにその時、突如ひとりの剣客が単身で新撰組をはじめとする旧幕府軍へ向かっていき、目にも止まらぬ速さと斬撃で次々と旧幕府軍の武士達を屠っていきます。
これに新政府軍は再び勢いづき、戦局は一転して幕府軍有利に。
それでもしばらく殺し合いが続く中、戦場にひとりの伝令がかけつけ、戦いが新政府軍の勝利に終わったことを大声で触れ回るのでした。
戦闘が終了すると、それまで鬼神のごとき強さを振るっていたのとは対照的に、まるで魂が抜けてしまったかのごとく虚ろな様子を見せる剣客。
剣客はその場で剣を地面に突き刺すと、斎藤一が話しかけるのにも返答を返すことなく、その場を後にするのでした。
これが、後に伝説として謳われることになる「人斬り抜刀斎」が、幕末で活躍した最後の姿となるのでした。

一方、勝敗の帰趨が決して無人となった戦場跡では、ひとりの男が息を吹き返していました。
ヨタヨタと戦場を歩く彼は、やがて「人斬り抜刀斎」が地面に突き刺していって剣に触れ、その剣に込められていたと思しき残留思念を垣間見ることになります。
それをきっかけに、彼は「人斬り抜刀斎」にひとかたならぬ執着を抱いていくのでした。

時は流れて1878年(明治11年)。
明治維新から10年の歳月が流れた東京では、武田観柳という名の実業家が「蜘蛛の巣」と呼ばれる新型阿片の開発に成功していました。
武田観柳の弁によれば、「蜘蛛の巣」は従来の阿片よりも依存性が高いとのこと。
彼は「蜘蛛の巣」の製造技術を外に漏らさないようにするため、「蜘蛛の巣」の製造に関わった技術者達を、自身の愛人でもあった高荷恵を除き、手下を使って全て殺させてしまいます。
その際、ひとりの男が逃走に成功するのですが、武田観柳は「奴は人斬り抜刀斎に任せておけ」という謎めいた言葉を残すのでした。

一方、東京の街では、その「人斬り抜刀斎」を名乗る正体不明の人物が、手当たり次第に人を殺害する事件が頻発していました。
件の「人斬り抜刀斎」は、その剣の流派を「神谷活心流」と名乗っており、その情報と共に簡単な人相が描かれた手配書が回されていました。
「神谷活心流」は東京で剣術を教えている道場を営んでいたのですが、その煽りを食らう形で門下生が一斉に離反し、衰退の一途を辿るありさまでした。
その「神谷活心流」の師範代である神谷薫は、ある日、立札に貼られていたその手配書を眺めていたひとりの男を目撃します。
その男の外見が手配書の容貌と似ていたことから、男を「人斬り抜刀斎」と判断した神谷薫は、「神谷活心流」を衰退に追い込んだ元凶を見つけたと言わんばかりの勢いで、男に木刀を突きつけ問答無用に成敗しようとするのでした。
そこで一騒動あった末、彼が街で噂になっている「人斬り抜刀斎」ではないと判断せざるをえなかった神谷薫は、お詫びという形で彼を「神谷活心流」の道場へと案内することになります。
これが、映画の中における神谷薫と、本当の「人斬り抜刀斎」こと緋村剣心との最初の出会いであり、そしてここから全てが始まることになるわけです。

映画「るろうに剣心」では、原作の「恵編」で黒幕として登場した武田観柳が、原作同様にカネの亡者としての悪役ぶりを大いに披露しています。
しかしその一方で、原作で彼の用心棒として雇われていたはずの御庭番衆御頭・四乃森蒼紫は、今作では一切登場しておらず、序盤の鳥羽・伏見の戦いで生き永らえ「人斬り抜刀斎」の剣を取った鵜堂刃衛が、彼に代わってその役割を担っています。
四乃森蒼紫が劇中で登場しないことについて、映画の脚本制作にも関わったという原作者の和月伸宏は、シネマトゥデイのインタビューで以下のように回答しています↓

http://www.cinematoday.jp/page/N0043764
>  [シネマトゥデイ映画ニュース] 実写映画『るろうに剣心』の公開を控え、原作者の和月伸宏が実写化にあたってのエピソードを語るとともに、完成版を観たときの心境を明かした。一人のクリエイターとして「悔しいくらい良いシーンなんですよね」と口にしたのは、主人公・緋村剣心がおなじみの赤い衣装で初登場する映画オリジナルのシーン。「本当にもう『剣心だなあ』って染みこんでくるので、ぜひ観ていただきたいですね」と話す口調にも熱がこもっていた。
>
>  和月も脚本段階から関わったという本作は「人斬(き)り」というテーマが最初に出てくる鵜堂刃衛との戦い、原作でいう1巻と2巻がベース。そこにもう一人の敵である武田観柳のエピソードを交えた構成となっているが、
脚本の第1稿は完成したものとはかなり違い、原作の人気キャラクターで剣心の宿敵である四乃森蒼紫も登場していたという。「監督とも話していて、敵が刃衛だけでは寂しいということで、最初は蒼紫を含めた御庭番衆も考えていたんです。ただ、そうすると2時間では収まらなくなってしまって……」と泣く泣くカットしたことを告白すると、「それで、今回は剣心と仲間たちを描いていこうという形になりました」と現在の構成に落ち着いた経緯を明かした。

このインタビューの内容から考えると、四乃森蒼紫は次回作辺りで原作とは違った形で登場する、ということになるのでしょうか?
原作者のインタビューを見る限りでは、明らかに次回作の存在を視野に入れているフシが伺えますし。
まあ、原作からして単行本28巻・完全版22巻分ものエピソードが存在するのですし、今回の映画も原作の序盤付近のストーリーが展開されていただけですから、続編を制作する余地はまだいくらでも存在するわけですが。
とはいえ正直言って、四乃森蒼紫抜きで構成した今作でさえ、実のところ「詰め込み過ぎ」な感が否めなかったりするんですよね。
特にそれを痛感せざるをえなかったのは、原作では「斬左編」を経て剣心の仲間になっていった相楽左之助の扱いですね。
原作の相楽左之助は、かつては新政府側で戦った赤報隊に所属し、隊長である相楽総三を味方に殺されたことから、明治政府や維新志士を憎み、その関係から剣心と対峙した経緯があったのに、映画ではそれらのエピソードは作中で何も語られも生かされもすることなく、ただ彼は自分の強さを武田観柳に売り込むだけのために剣心に喧嘩を売ってくるというありさま。
しかも劇中での戦いでは、剣心は相楽左之助から終始逃げ回っていただけで斬馬刀がへし折られることすらなく、ただ「あんな男(武田観柳)のために尽くすことはない」という剣心の説得?だけであっさり剣を引いて去ってしまう始末。
しかもその後は、特にこれといった心情が描かれることもなく、いつのまにか剣心の仲間になっているという展開で、あまりにも色々なエピソードが省略され過ぎています。
ラストの鵜堂刃衛との戦いの際も、相楽左之助は原作と違って別に重傷を負っていたわけでもなく、剣心と共にラストバトルに臨むことができる状態にあったにもかかわらず、そこでは何故か相楽左之助が戦いに加勢することもなく、原作同様に剣心と鵜堂刃衛との一騎打ちになってしまう状況。
剣心と2人がかりで鵜堂刃衛に挑むなり、剣心が鵜堂刃衛を引きつけている間に人質となっている神谷薫を救出するなり、彼の使い道もそれなりにはあったはずなのですけどね。
この映画で一番ワリを食っていたのは相楽左之助だったのではないかとすら思えてしまうくらいに、原作のエピソードが全く語られずに原作通りの動きを強制されたキャラクターであったと言えます。
こんな扱いになってしまうくらいだったら、相楽左之助も四乃森蒼紫同様に今作で登場させず、その分を他のキャラクターのエピソードに盛り込んでおいた方が良かったのではないでしょうか?
まあ個人的には、「四乃森蒼紫のいない武田観柳」の方がミスマッチな感が拭えないので、彼ではなく原作通りに比留間兄弟でも出して、原作における相楽左之助のエピソードを忠実に踏襲した方が良かったのではないかと思うのですが。

予告編でも売りになっていたアクションシーンの方は、既存の時代劇の殺陣とはまた異なるスピーディな展開になっているものが多く、こちらは充分に見るべきものがありました。
アクションシーン自体で特に不満に思った箇所は、前述の剣心と相楽左之助の対決も含めて特になかったですね。
四乃森蒼紫と彼の部下の御庭番衆がいないために、武田観柳がガトリングガンを乱射しまくるシーンは原作から大幅に改変されていましたが、むしろこちらの方が原作よりも合理的な上に剣心一派の強さが上手く表現できていたくらいでしたし。
武田観柳の屋敷で剣心と相楽左之助を相手に戦っていた武田観柳の部下2人は、何故か「人誅編」に登場する戌亥番神と外印だったりするのですが、続編を想定している作品で、かなり先のストーリーで登場予定のはずの敵キャラを登場させてどうするのでしょうかね?
まあ2人共死んではいないわけですし、再び敵として再登場ということもありはするのでしょうけど。

原作ファンから見てもまずまずな出来ではありますし、アクションシーンを目当てに観賞してもまず損はしない映画ではあろうと思います。
この出来であれば、制作側の意図通りに続編が出てくることにも期待したいところですね。

映画「アナザー/Another」感想

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映画「アナザー/Another」観に行ってきました。
ベストセラー作家・綾辻行人の同名小説を実写映画化した学園ホラー作品。
映画「麒麟の翼 ~劇場版・新参者~」で真犯人役を演じた山崎賢人と、映画「HOME 愛しの座敷わらし」「スープ ~生まれ変わりの物語~」にも出演した橋本愛の2人が、今作の主演を担っています。
なお今作は、人間の首がワイヤーロープで切断される映像や、スプーンが眼球に突き刺さり頭を貫通するシーンなどといった「残虐な死」の描写が作中で展開されるため、PG-12指定されています。
ちなみに、私が映画館でホラー映画を観賞するのは、実は今作が初めてだったりします(^^;;)。
今週はこれといった映画観賞候補作が、今作以外何もなかったものでしてねぇ(-_-;;)。

物語の舞台は1998年。
父親の一時的な海外出張という期間限定で、地方都市である夜見山市の夜見山北中学校へ転校してきた今作の主人公・榊原恒一(さかきばらこういち)。
しかし4月26日、彼はクラスへの編入直前になって、自然気胸という病を患ってしまい、地元の病院への入院を余儀なくされてしまうのでした。
意識が朦朧とする中、彼は全く見覚えのない「左目に眼帯をつけている美少女」に導かれ、幼い頃に死んだ母親と出会う夢を見ることになります。
やがて夢から覚め、病院で1週間以上にわたる病院生活を送ることになった榊原恒一でしたが、病院の中を散歩している中、夢の中に出てきた「左目に眼帯をつけている美少女」を見かけることになります。
夢のこともあり、彼女を追った榊原恒一は、霊安室へと入っていく姿を目撃することになるのでした。

5月6日。
病院から退院し、元々転校予定だった夜見山北中学校3年3組のクラスへ編入することになった榊原恒一は、そこでまたしても「左目に眼帯をつけている美少女」と再会することになります。
しかし3年3組のクラスメイト達は、確実に存在するはずの彼女を、あたかも最初から存在しないものとして扱うという不可解な対応に終始していました。
それでも「左目に眼帯をつけている美少女」のことが気になる榊原恒一は、何とか彼女に接触しようと行動するのですが、何故かそれを止めにかかるクラスメイト達。
それでも何とか見崎鳴(みさきめい)という名前を突き止めることに成功した榊原恒一は、なおも接触を図ろうとするのですが、その光景を発見したひとりの女子生徒が悲鳴を上げます。
そしてその直後、彼女は偶発的な事故に巻き込まれ、首に致命傷を受けて死んでしまうのでした。
しゃがれた声で「あなたのせい」というメッセージを残して。
その現場に集まったクラスメイト達は、「ルールを破ったからだ」などという謎めいた言葉を呟き、死者となった女子生徒と同じように榊原恒一と見崎鳴を責め、さらには榊原恒一同様に「最初からいなかった」かのごとく扱われるようになるのでした。
榊原恒一は見崎鳴を問い質し、3年3組に纏わる謎の「現象」を知ることになるのですが……。

映画「アナザー/Another」では、次々と人が死んでいく「現象」が何故発生したのか、具体的な真相とその抜本的な解決策については全く何も語られていません。
作中で語られているのは、26年前の1972年に夜見山岬(よみやまみさき)というひとりの女子生徒の死後、当時の3年3組のクラスメイト達が彼女の死を受け入れず「生きている人」であるかのごとく振る舞った翌年から「現象」が始まった、という解説なのですが、本当にそれが原因なのかは全く不明です。
実際には全く別の理由があるにもかかわらず、当時者達が夜見山岬の件を「現象の原因」であると思い込んでいる可能性も否定できないところですし。
また作中では、榊原恒一と見崎鳴の旧校舎探索で、1983年当時の3年3組卒業生によるテープが発見されるのですが、それには「3年3組には死者がひとり紛れ込んでいる」「その死者を殺せばその死体は消滅し、それ以降は『現象』は収まる」という内容のメッセージが録音されていました。
これが、映画のキャッチフレーズにもなっている「死者は誰?」の本当の意味でもあるわけですね。
しかし「現象」が発動している最中は、当時者達の記憶どころか、過去の死者の記録なども全て改竄されてしまうため、新聞記事などの過去の記録を元に死者を探すことは全く不可能。
しかもその死者自身、「自分が死んでいる」という自覚は全くなく、見た目も記憶も普通の人間と何も違わないため、その特定どころか、実際に殺してみるまでは真偽を判定することすらもできないのです。
それどころか、下手にこのことが露見しようものならば、クラス全体が「死者探し」に狂奔した挙句、クラス内における凄惨な殺し合いが勃発する危険性すらあります。
実際、物語終盤では、部分的ながらもクラスメイト達が互いに猜疑し合い、殺し合いに狂奔する場面も見られたわけですし。
これでは真相が分かっても、普通であれば「バトルロワイヤル」のごとき虐殺が始まってしまい、却って事態を悪化させるだけでしかないですね。
ただ今回の場合、「人の死の色が見える」という特殊能力を左目に秘めている見崎鳴の活躍で、死者の存在が判明することになるわけですが。

ただこの「現象」、実は記憶&記録操作に抵触することのない形で意外と簡単に解消できてしまえるのではないか、とは思わなくもなかったですね。
非常に簡単な方法で、夜見山北中学校3年3組を名目だけの存在にしてしまい、誰もそのクラスに所属しないようにしてしまえば良いのです。
作中で発生している「現象」は、あくまでも夜見山北中学校3年3組に所属する(&していた?)生徒・教師およびその血縁者に対してのみ発動するものなのですから、その3年3組に所属する人間が誰もいなくなってしまえば、当然「現象」を止めることも簡単に行えるわけです。
作中の描写を見る限りでは、いくら人間の記憶や過去の記録を改竄するといっても「現象」の存在そのものまではさすがに隠蔽できていないようですから、学校関係者が「現象」の元を断つことは充分に可能でしょう。
何なら、3年3組として使われている教室そのものをも完全に閉鎖し、立ち入り自体を禁止してしまっても良いでしょうし。
第一、毎年毎年3年3組という特定のクラスで大量の死者が出るというのであれば、いくら表面的には偶発的なものに見えるにせよ、保護者も学校側も当然不安を覚えるようになるでしょうし、特に生徒の管理指導の責任が問われるであろう学校側がその手の対策を検討しても何ら不思議なことではないと思うのですが。
3年3組に死者が紛れ込むといっても、肝心の3年3組に誰もいなければ、その時点で死者の正体は簡単に露見するわけですし、当然「現象」も発動の停止を余儀なくされてしまうでしょう。
まあひょっとすると、「現象」が纏わる記憶&記録改竄の中には、この手の「3年3組そのものを根絶する」という発想をも封じ込める機能も備わっているのかもしれないのですが、「『現象』の存在を誰もが知っている時点で対策も打たれてしまうのではないか?」とは正直思えてならないのですけどね。
この手の「災いの元を根元から根絶する」的な対策を打たれないようにするためには、「現象」の存在そのものが3年3組の当事者達以外誰も知らない&他者に知らせることもできない、しかも卒業すると同時に全ての人間の記憶と記録媒体から「現象」および死者&死亡事故等の存在そのものが完全に抹消されてしまう、というところまでいかないと無理なわけですが、作中ではそこまで徹底されていませんでしたし。
「バトルロワイヤル」のごとき凄惨な殺し合いや、見崎鳴の特殊能力に依存するよりも、3年3組の存在そのものを有名無実化する方が非常に簡単な解決方法に見えてならない、と思うのは私だけなのでしょうか?
この辺り、原作ではきちんとした説明があるのでしょうかね?

映画自体は、学園ホラー要素以外にも、犯人探しのミステリーやサスペンス要素もあり、意外に見応えのあるものにはなっていると思います。

映画「エイトレンジャー」感想

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映画「エイトレンジャー」観に行ってきました。
アイドルグループの「関ジャニ∞(エイト)」が上演してきた、同名のスーパー戦隊シリーズのパロディ物を映画化したコメディ作品。
なお、私は「エイトレンジャー」の元ネタについては全くタッチすることなく今作に臨んでいます。

物語の舞台は、民主党が20年以上も政権を担っていたらこうなるのではないかというレベルまで荒廃している2035年の日本。
少子化が今よりもさらに進んで人口は7500万人にまで減少し、円の価値が下落して経済は衰退。
日本政府は「小さすぎる政府」への転換を目指し、警察や消防などの公共サービスの類を大きく削減。
その結果、日本有数の人口を誇る東京や大阪などの大都会にのみ、充実した公共サービスによる秩序が存在する状態と化していました。
人口の希薄な地方の小さな市町村の類は完全に見捨てられ、地方都市でさえヤクザが跳梁跋扈し犯罪やテロが横行する始末。
特に少子化の影響から、子供の誘拐および人身売買が横行し、それがヤクザやテロリスト達の資金源になるという、極めて不安定な社会が現出していました。
警察は警察で、「事件に対処して欲しければまず多額の入金をしろ!」などと民衆に向かって堂々とのたまえるほどの腐敗ぶりを披露する惨状を呈していたりします。
そのため一般的な日本国民は、明日をも知れない苦しい生活の中、自分の身は自分で守ることを余儀なくされていたのでした。
誰もが先行きに不安を抱き、未来に希望が抱けない、まるで「北斗の拳」の無秩序な世界や、お隣の中国のモラルハザードな一般社会を再現しているかのごとき未来の日本。
そして、作中の物語の主要舞台となる八萬市(エイトシティ)もまた、犯罪組織の凶悪犯罪に悩まされていました……。

物語の冒頭、今作の主人公である横峯誠は、闇金からの借金取りに追われていました。
海辺の公園でついに借金取りに追い詰められ、カネを返すか海に投げ込まれるかの二者択一を迫られる横峯誠。
そこへ突然現れ、杖1本?で借金取りをあっさりと蹴散らしていった謎の老人。
老人は自らをヒーロー協会の理事長と名乗り、横峯誠をヒーロー協会へスカウトします。
ヒーロー協会での活躍次第では、お前の借金を肩代わりしても良いという条件付で。
危機的条件を助けられたということもあり、渡された電子ホログラム名刺?の案内に従い、ヒーロー協会の本部を訪れる横峯誠。
到着早々、彼は理事長によってヒーロー協会お抱えの戦隊「エイトレンジャー」のブラック&リーダーを任され、その他6名の隊員のまとめ役を任されることになります。
突然の抜擢に戸惑う横峯誠ですが、紹介された他の6名の「エイトレンジャー」達は、揃いも揃ってやる気がなく、訓練どころかひたすらダラけているありさま。
一応、横峯誠も含めた7人の「エイトレンジャー」達には、一定の条件が揃うと超人的な力を発揮できるスーツを支給されてはいたのですが、その発動条件は7人の中の誰にも分からず、現時点では宝の持ち腐れ同然の状態。
この状況を打破すべく、彼らはヒーロー協会の切り札で「伝説のヒーロー」としてその名を轟かせるキャプテン・シルバーに教えを請おうと動き始めるのですが……。

映画「エイトレンジャー」は、スーパー戦隊のパロディというだけでなく、物語の随所に「お遊び」的なギャグ要素が盛り込まれています。
たとえば、主人公の横峯誠がヒーロー協会を訪れた際、理事長からヒーロー協会のCM映像を見せられるシーンがあるのですが、そのCMの内容は、頑丈そうな物置にヒーロー協会の構成員が100人乗っていて自分達をアピールするというシロモノでした。
これは、物置の上に100人の人間が乗って頑丈さをアピールしていたイナバ物置のCMをいじったパロディです。
作中のヒーロー協会のそれは、最初物置の上に乗っていた100人がだんだんと数を減らしていき、しまいには10人を切ってしまう衰退ぶりを披露するという、何とも哀愁漂う仕上がりになっていましたが(苦笑)。
横峯誠も「何故物置?」というツッコミを小声で呟いていましたが、何故こんなネタをわざわざ仕込んでいたのか、観客としても是非知りたいところではありました(^_^;;)。
また、舘ひろしが演じるキャプテン・シルバーが居住するアパートの部屋の中には、何故か1980年代にテレビ放映されていた往年の刑事ドラマ「あぶない刑事」のポスターが貼られていて、「俺、そっくりだとよく言われるんだよね」と当の本人が弁明するシーンが披露されていたりします。
そっくりも何も、アンタは「あぶない刑事」で普通に主演のひとりを担っていたじゃないか舘ひろし、と往年の「あぶない刑事」ファンとしては思わずツッコミを入れてしまったものでした(^^;;)。
この辺りの所謂「お遊びネタ」は、今作の監督である堤幸彦の持ち味ではあるのでしょうね。
彼が同じく監督を担っていた映画「SPEC~天~」でも、この手の「お遊びネタ」が随所にちりばめられていましたし。
この「お遊びネタ」に代表されるように、今作の内容はギャグコメディをメインかつ前面に展開しつつ、要所要所でシリアスな要素を挿入するという構成になっています。
キャプテン・シルバーと横峯誠の関係や、今作のラスボスとのやり取りなどは、結構シリアスな展開になっていたりしますし。
この辺りの構成は、人によって好みが分かれそうなところではありますね。

それにしても、この世界における日本政府って、一体どこまで無能な統治をやっていたのだろうかと、正直その部分については色々と疑問を抱かずにはいられませんでしたね。
そもそも、今でさえ供給が需要よりも膨らんでいる「デフレギャップ」が叫ばれている中で、一種の需要減・供給増の効果をもたらす構造改革的な「インフレ対策」を打ち出すなど、狂気の沙汰もいいところなのですが。
作中における日本政府が実行した政策というのは、公共事業や公共サービスの削減という「小さすぎる政府」の実現であり、それは必然的にそれらのサービスに携る人達の給与を削り、需要を減らしてしまうことになります。
それは一方では「製造コストの減少」による供給増をもたらすことにも繋がるのですが、給与が減れば当然一般国民の購買力は低下せざるをえないので、そんな中で供給量が増えても経済は豊かにはなりません。
まさに「供給が需要を上回るが故のデフレギャップ」に苦しんでいる日本で、さらにそれを促進するような政策を行うのは自殺行為も良いところでしょう。
ならば外国に輸出して外貨を稼げば良いではないか、とは誰もが考えるところでしょうし、作中では「円の価値が下がった」と言われているのですから対外貿易にはむしろ適しているはずなのですが、その割には作中の日本は対外貿易で潤っているような形跡すらもありません。
昨今の日本経済で問題になっている事案のひとつに「円の価値が異様なまでに高くなっている」ことが上げられるのですから、「円の価値が下がる」円安は、むしろ日本経済にとって恩恵になりえるものではないかと思えてならないのですが。
あの世界の日本って、円の価値云々以前の問題として、諸外国から何らかの経済制裁ないしは海上封鎖でも行われているのではないか、とすら考えてしまったくらいなのですけどね。
第一、あそこまで経済状態がボロボロで大都会以外の治安も悪化し、かつ内部統制もままならない状態では、他国のスパイや特殊工作員なども今以上に入りたい放題になるでしょうし、場合によっては地方自治体のいくつかが諸外国のカネによって買収され、無血で他国領土化する可能性すら起こりえるのですけど。
そうでなくても、日本の周辺には中韓朝やロシアなどといった、日本侵攻の意思を明確に示している国々が蠢いているのですし。
むしろ、危機的状況に乗じられて日本が他国に攻め入られ分割占領された状態という、映画「ファイナル・ジャッジメント」的な状況の方が、日本の未来図としては「より」ありえそうな気がしなくもないのですけどね。
まあ、消費税増税やTPPなどという「デフレ下のインフレ対策」を堂々と推進し、その他の面々でも愚劣な政策や失政に邁進している民主党政権のようなシロモノが長く続けば、こんな荒唐無稽な暗い世界も夢物語ではなく実際に起こりえるのではないか、という「恐怖の可能性」もゼロとは言えないのが、いささかウンザリするところではあるのですが。
こんなアホな世界を現出させないためにも、国民のための政治をきちんと行ってくれる政治家や政権をきちんと選ばなければならない、という教訓を教える映画としても、今作はそれなりに機能するものと言えるのではないかなぁ、と。

ちなみに、作中における「エイトレンジャー」というのは「8人で構成される戦隊」ではなく、物語の主要舞台となっている八萬市(エイトシティ)の戦隊という意味を持つのだとか。
だから「エイトレンジャー」と銘打っているにもかかわらず、実際の戦隊の構成員は7人しかいないわけですね。
映画ではなく元ネタの方の「エイトレンジャー」は、「関ジャニ∞(エイト)」の結成当初が8人のメンバーだった頃の名残なのだそうですが。
映画のタイトルと予告編を初めて見た時は、キャプテン・シルバーか、ヒロイン(兼ラスボス)の鬼頭桃子のどちらかを含めて8人になるのではないかと考えていたものでした(^^;;)。
同じような構成だった映画「ワイルド7」は、当初は部外者だったヒロインがラストでメンバーに加わるというパターンになっていましたし。
ラストを見る限り、人気が出れば続編を作る気ではあるようなのですが、果たして興行的に成功するのでしょうかね、この映画は。

上でも述べていますが、今作は基本的にギャグコメディがメインで構成されていますので、その手の作品が嫌いという人にはあまりオススメできるものではないですね。
ただ、舘ひろしが本来お笑い物の戦隊スーツを違和感なく着こなしてシリアスな役柄を演じている様は結構面白いものがあったりするので、舘ひろしファンな方々は意外と必見かもしれません。

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