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映画「おおかみこどもの雨と雪」感想

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映画「おおかみこどもの雨と雪」観に行ってきました。
「時をかける少女」「サマーウォーズ」などの作品を手掛けてきた細田守監督の新作アニメーション。
なお、今作は映画「メリダとおそろしの森」との2本立てで観賞しています。
1日2作品の映画同日観賞は久々ですね(^_^;;)。

映画の基本的な進行は、後日の成長したと思しき雪のモノローグをはさみながら、物語の前半は映画のタイトルにもなっている雨と雪の母親である花に、後半は雨と雪に、それぞれメインスポットを当てる形で進んでいきます。
そして物語は、大学生である花が、大学の講義でひとりの男性に興味を示したことから始まることになります。
作中でもエンドロールでも「彼」としか呼ばれていないその男性と、花はやがて親密な関係を結んでいくことに。
ある日、「彼」と一緒に街中を歩いていた際に、花は自分の名前の由来を「彼」に話し始めます。
何でも「花」という名前は、生まれた際に近くに咲いていた花を父親が見て、「いつでも花のように笑っている」ことを願い名付けられたものだったとか。
もっとも、父親が死んだ際の葬儀でまで彼女は笑顔を浮かべ続けていて、周囲に「不謹慎だ」と非難もされた過去もあるのだそうですが(^^;;)。
その花の過去話に感化されたのか、「彼」もまた、自身の重要な秘密を花に明かすことを決意。
その日の夜、誰もいない場所で、「彼」は花の眼前で自身の顔を狼のそれに変容させるのでした。
「彼」は、過去に絶滅したニホンオオカミと人間の最後の混血種で、同じく混血種だった父親から「おおかみおとこ」の歴史を学び育ったのでした。
ちなみに、「おおかみおとこ」の変身能力は別に「満月の夜」に限定されるものではなく、また人の血を好むというものでもないのだとか。
しかし、そんな「彼」の正体を見てもなお、花の「彼」に対する好意は何ら揺らぐことはなく、2人はついに逢瀬の時を迎えるのでした。

人間と混血種の2人の間には、2人の子供が誕生しました。
ひとりは冬の雪の日に生まれた女の子で、その日の天気から取って名前は「雪」。
もうひとりは春の雨の日に生まれた男の子で、名前は同じく天気から取って「雨」。
2人の子供は共に、人間から人狼へと変身する能力を生まれながらに身につけていました。
そのことが事前に予測できたことから、花は出産の際、わざわざ病院にかかることなく、自宅のアパートで2人の子供を産んでいたりします。
子供も生まれ、永遠に続くかと思われた花と「彼」の関係は、しかしある日突然終わりを告げることになります。
「雨」が生まれて間もないある日、花は雨が降り注ぐ天気の中、近くの川で死んでいる狼の姿を目撃するのです。
狼の死体は業者によってゴミ収集車でゴミ捨て場へと運ばれてしまい、花は「彼」の死を看取ることすらできなかったのでした。
当然のごとく打ちひしがれてしまう花でしたが、残された2人の子供を見て、彼女は涙を浮かべながらも持ち前の笑顔を刻み、自分ひとりで子供を育てていくことを決意するに至ります。
しかし、「おおかみこども」である2人を育てるのには様々な困難が伴いました。
身体的な問題がある故に子供を他の子供達と一緒に遊ばせることもできず、また子供が病気を患った際も医者にかかることができず、自分ひとりで見様見真似的に対処しようにも、小児科と動物病院のどちらに相談すれば良いのかという問題もありました。
しかも、幼稚園や保育園に子供を預けなかったことから、児童虐待の疑いを抱いた児童相談所の職員にアパートまで押しかけられてしまう始末。
児童相談所の対応自体は、それはそれで当然のものだったとは言え、事情を知る観客的には「何とも世知辛い世の中になったものだなぁ」と痛感せずにはいられないものがありましたね。
都会での生活が難しいことを痛感し、また「おおかみこども」である子供達の将来のことについても考えざるをえなかった花は、思い切って人里離れた田舎へ引っ越すことを決意するのですが……。

映画「おおかみこどもの雨と雪」は、花と「彼」が出会ってから、2人の子供が小学校を卒業する年代になるまでの13年間が描かれています。
父親が亡くなってから子供達が小学校へ入学するまでは、母親である花の奮闘記的な要素がメインで繰り広げられていますが、それ以降は子供の性格の変遷にスポットが当てられている感がありました。
たとえば長女の雪は、幼少時はネズミなどの小動物や蛇などと格闘して遊ぶような、とにかく明るく活発かつお転婆な幼女として描かれていますが、小学校へ入学した後、新しくできた友人達との交流を経て、彼女は次第に恥じらいや淑やかさを身につけるようになっていきます。
それに対して弟の雨は、幼少時はとにかく母親に甘え姉に引っ張られるような臆病な性格をしていたにもかかわらず、成長するにつれてこちらは「おおかみ」が持つ動物的な本能に目覚めていき、ついには山の「主」とされる老キツネに師事し、その後継となることを決断するにまで至ります。
また母親である花もまた、田舎へ引っ越してきた当初は、何でもかんでも自分ひとりだけでこなそうと無理をするのですが、やがて田舎の人達の支援を受けるようになり、ご近所付き合いもできるようになっていきます。
この三者三様の成長をよく描いているのが、今作の特徴と言えるでしょうか。
個人的には、母親である花の真骨頂は、それまで手塩にかけて育ててきた子供達が自立していく際、それをきちんと認めてあげたことに尽きるのではないかと思うんですよね。
花にしてみれば、アレだけ自分が苦労して育ててきた2人の子供が、自分の元を離れていくというのは悲しい部分もあれば不安な一面もあるでしょうし、「できれば【自分の保護下で】育って欲しい」という感情は母性本能の一側面として見てもごく自然なものです。
人間の母性本能には、長期にわたる子育ての必要性から「子供をいつまでも手放さない」という要素も備わっており、それが特に子供の思春期以降では「過保護」「過干渉」などの問題を引き起こすことも決して珍しいことではありません。
だから母親にとって「我が子の成長と自立を認める」というのは、実は「子供を大事に育て守り続ける」のと同じかそれ以上に難しいことであるわけです。
後者ができても前者はできないという母親は意外に多いものなのですから。
もちろん、作中でモンスターペアレント臭をこれでもかと言わんばかりに放出しまくっていた草平の母親のような輩は、全くもって論外ではあるのですが。

草平といえば、作中で彼が雪の通っている小学校へ転校してきた直後、いきなり雪に対して「お前から獣臭い臭いがする」的な放言を言い放つに至ったのは、正直どうなのかとは思わずにいられなかったですね。
「おおかみこども」である雪の場合は、自身にある程度の後ろめたさがあったにせよ、あんなことを正面切って言われれば、性別や事情を問わず普通に嫌悪されて然るべきではなかったのかと。
挙句の果てに、「獣臭い」発言から雪のことをひたすら追いかけまくっていた件に至っては、イジメやストーカーの類と見做されても文句は言えないでしょうに。
まあ、雪に対してはモンスターペアレントとして振る舞いながら、再婚が決まった途端に自分の息子に対し「お前はいらない」的な発言をやらかした「あの」母親に育てられたのでは、そうなるのも当然かと思わせるものがあるにはあったのですが……。
あの草平の母親って、絶対再婚後も問題を引き起こしそうな気がしてならないのですけどねぇ(苦笑)。

作品の全体的な構成としては「大人向けのアニメーション作品」といったところになるでしょうか。
あまり子供向けに作られているとは言い難いような気が(^^;;)。
大人向け映画としては、それなりに丁寧に作り込まれているので、イチオシの作品であるとは言えるのですけどね。

映画「苦役列車」感想

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映画「苦役列車」観に行ってきました。
第144回芥川賞を受賞した西村賢太の同名私小説を実写映画化した作品。
映画のタイトルに反して、作中に列車の類は一切出てきません(苦笑)。
作中には生々しい風俗関係の描写があるため、R-15指定されています。
なお今作は、熊本県では熊本シネプレックス1箇所限定での劇場公開となっていたため、そこまで足を運んでの観賞となりました。

物語の舞台は1986年。
父親が性犯罪行為で社会的に取り上げられ、一家離散を余儀なくされた挙句に中卒で働き始めた今作の主人公の北町貫多は、日雇い労働でその日暮らしの生計を立てつつも、風俗や酒に溺れる自堕落な生活を送っていました。
そんなある日のこと、いつも彼が日雇いで働いている職場に、その年から専門学校生として田舎から上京してきた日下部正二が新入り労働者としてやってきます。
北町貫多と日下部正二は仕事場で意気投合し、公私両面で行動を共にするようになります。
ちょっとしたことですぐにブチ切れる北町貫多に対し、処世術に長け世慣れた感のある日下部正二は、最初は良きコンビとして機能します。
もっとも、それは無理筋な要求ばかりする北町貫多に対し、日下部正二が困った顔をしながら受け入れていくというパターンに終始してはいたのですが……。
北町貫多には、行きつけの古本屋でバイトとして働くひとりの女性の存在が気になっていました。
自身も読書が趣味という北町貫多は、その容姿といつも読書をしているバイトの女性こと桜井康子にお近づきになりたいと願うようになっていたのでした。
北町貫多がそのことを日下部正二に話すと、彼は北町貫多を伴って古本屋へ直接乗り込み、桜井康子と直談判をすることで、2人の友人になってくれることを桜井康子に了承させることに成功するのでした。
しかし、「友達」の意味が全く分かっていない北町貫多は「友達になれる=(セックス的な意味合いで)ヤれる」と勘違いするありさま。
その様子に、日下部正二は一抹の不安を抱くのですが……。

映画「苦役列車」は、主人公の破綻だらけな性格と言動をどのように解釈するかによって、観る人次第で大きく賛否が分かれそうな作品ではありますね。
個人的には、正直「何を言いたいのか分からない」的な部分がとにかく多すぎる上、主人公の言動にはまるで共感も同情もできないというのが実情ではあったのですが。
ストーリー的に見ても、「生活破綻者が友人を得てから無くしていく過程」が延々と描かれているだけで、爽快感的なものもまるでなく、そこにどんなテーマがあるのかを見出すのにすら困難を極めるありさまでしたし。
同じ私小説でも、映画「わが母の記」などはテーマに普遍性があり感情移入もしやすかったのですが、この作品にそういう要素はまるで見出せない状態。
どちらかと言えば、映画「ラム・ダイアリー」を日本に移植してさらに劣化させた作品というのが、今作の実情に近い評価と言えるのではないかと。
作中で主人公が何の結果も出していないこととか、作中におけるヒロインの存在意義がないも同然とか、昔の特定地域の知られざる闇の雰囲気を堪能できるとか、そんな共通点が両作品共に存在するわけですし。
今年の観賞映画の中でもワーストクラスに入るであろう「ラム・ダイアリー」と作品の出来や評価までもが同じ、というのは正直どうかとは思うのですけどね(-_-;;)。

それでも無理に今作のハイライトを見出すとしたら、一度険悪な雰囲気になってしまった北町貫多と桜井康子が日下部正二の仲介で和解した後、3人で海に入って仲良くじゃれあう光景でしょうか。
個人的には、ここで映画そのものを終了しておいた方が、却って作品の評価は上がったのではないかと思えてならないですね。
ここからストーリーをさらに展開していくとしたら、友情に目覚めた北町貫多が真人間になっていく過程を描くというパターンが理想的なわけなのですが、実際にはこれ以降の北町貫多の性格破綻ぶりはますます悪化の一途を辿り、全ての人間関係を破局へと追い込むことになってしまうのですから。
作中の北町貫多は、中卒であることや家庭問題などで少なからぬコンプレックスを抱え込んでいるのは良いにしても、破滅願望でも抱いているようにしか思えない言動に終始し過ぎていて、とても感情移入できるようなシロモノではありませんでしたし。
物語の終盤近くで、日下部正二と彼の恋人?に対し、東京と映画について何やら偉そうに御高説を垂れていた場面でも、主張内容の是非以前に「そんなことをしたらせっかくの友人関係が確実に破綻するだろ」としか評しようがありませんでしたし。
作中の北町貫多って、対人コミュニケーション面で何らかの障害でも抱え込んでいる狂人の類にしか見えなかったのですが、こんな人物のどこに人間的な普遍性や魅力といったものが存在するのかと。
まあ原作からしてそういうキャラだったのかもしれませんし、そういうキャラクター性を100%出し切っていたであろう俳優さんは、それはそれで評価に値するのかもしれないのですが……。

最初から最後まで「救い」とか「明るさ」とかいった要素がまるで期待できない作品なので、エンターテイメント的な面白さや感動的な人間ドラマのようなものが観たいという方にはあまりオススメできるものではないですね。

映画「BRAVE HEARTS/ブレイブハーツ 海猿」感想

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映画「BRAVE HEARTS/ブレイブハーツ 海猿」観に行ってきました。
海難事故の救助に奮闘する海上保安官達の姿を描く、同名漫画原作の人気シリーズ劇場版第4弾。
劇場版の「海猿」シリーズは、前作「THE LAST MESSAGE/ザ・ラストメッセージ 海猿」および前々作「LIMIT OF LOVE/リミット・オブ・ラブ 海猿」において「シリーズ完結編」を謳い文句にした宣伝が盛んに行われていましたが、その謳い文句を2度も裏切った形で劇場公開された今作では、さすがに同じキャッチフレーズを使う気にはなれなかったみたいですね(苦笑)。
製作側としては、今作の観客動員数と興行収益が成功レベルに到達すれば、また続編を作る気満々なのでしょうし、その判断自体は正しいと思うのですが、どことなく「大人の世界&事情」が垣間見られる光景ではあります(^_^;;)。
前作も前々作もそうでしたが、今作も映画単体だけで楽しめる仕様となっており、これまでの「海猿」シリーズを知らない方でも問題なく観賞することができます。

今作が現実世界で前作から2年後に劇場公開されているのに合わせたものなのか、作中時間においても前作の「レガリア」の事故より2年の時間が経過している今作の舞台。
「海猿」シリーズの主人公である仙崎大輔は、前作まで所属していた海上保安庁の第十管区から「第三管区海上保安本部羽田特殊救難基地」こと特殊救難隊、通称「特救隊」に自ら志願し配属されていました。
「特救隊」は、全国各地で発生する非常に特殊で危険な救助活動を行うことを目的とする、海難救助のスペシャリスト達で構成されている部隊を指します。
「特救隊」の誕生は、1974年11月に東京湾で発生した、LPG・石油混載タンカーの「第十雄洋丸」とリベリア船籍の貨物船「パシフィック・アレス」が衝突・爆発炎上して総計30名以上の乗組員が犠牲となった「第十雄洋丸事件」を発端としており、当初は5名で発足、現在は1隊につき6名で構成される、第一から第六までの6隊36名で構成されています。
形式上は海上保安庁の第三管区に所属していますが、出動地域に制限はなく、海上保安庁の各管区からの出動要請に基づいて全国各地で救助活動を行う部隊とされています。
第十管区の機動救難隊で隊長になる話も持ち上がっていた仙崎大輔は、しかしその話を断り、後輩の吉岡哲也と共に「特救隊」の第二隊へと異動してきたのでした。

作中で最初に展開される「特救隊」第二隊の任務は、台風が接近している中で発生した大阪湾で事故を起こし沈没しつつあるコンテナ船での救難活動。
暴風雨が吹き荒れる中、既に大きく斜めに傾斜し積載されたコンテナ群が今にも海に転げ落ちそうになっている船の救出作業は、当然のことながら至難を極めるものがありました。
それでも「特救隊」第二隊の面々は、ヘリを巧みに船に接近させ、船上にいた2人を救助することに成功します。
しかし2人をヘリまで引き上げた直後、仙崎大輔は未だ船上にいた人がいるのを発見。
既に船はいつ沈没してもおかしくない危険な状況になっていたのですが、周囲が止めるのも聞かずに仙崎大輔は船上の人を救助にかかります。
しかし彼は、傾いた船に叩きつけられる荒波に飲み込まれ、さらにその上からはコンテナが落下しまくり、救助は全く不可能な状態に。
結果、その船員1名が犠牲になるという形で、作中の「特救隊」第二隊の任務は終了となってしまうのでした。
現場となった大阪湾から、「特救隊」への出動要請が行われた第五管区の本部へ帰還後、第二隊の副隊長である嶋一彦から「判断が甘い」「特救隊に必要なのはスキルと技術だ」と責められることになります。
同時に前々作および前作の救難活動で、最終的に仙崎大輔自身が同僚達から救助された件について触れられ、「それによって結果的に仲間を危険に晒した」「助かったのは運が良かっただけだ」とまで言われてしまいます。
しかし仙崎大輔は、「海難救助の際には諦めない心が必要だ」と反論し、結局両者はこの場では物別れに終わってしまうのでした。
仙崎大輔は、前作でバディとして海難救助を共にし、今では第五管区に異動になった服部拓也と一時の邂逅を果たしつつ、第三管区へと戻ることになります。

前作から2年の歳月は、仙崎大輔の私生活にも一定の変化を与えていました。
妻である仙崎環菜は長男の仙崎大洋に続く2人目の子供を身篭っており、後輩の吉岡哲也には付き合ってそれなりの月日が経つCA(キャビンアテンダント)の恋人が出来ていました。
仙崎夫妻は、吉岡哲也と恋人の矢部美香の関係を応援しており、吉岡哲也は既に結婚の決意まで固め告白する気満々ですらいるのですが、矢部美香は何故か結婚に乗り気ではありません。
実際、吉岡哲也は矢部美香に何度も「結婚してくれ」と迫っており、その都度矢部美香は何度もはぐらかし、遂には明確に拒否の意思を示し別れまで告げる始末。
表向きには仕事や収入を口実に挙げていた矢部美香には、それとは別の結婚したくない本当の理由があるようではあったのですが……。
そんな折、矢部美香がCAとして登場していた、シドニー発羽田空港行きのG-WING206便にエンジントラブルが発生。
マスコミの生中継で日本中が注目し、吉岡哲也が矢部美香の安否に気を揉む中、G-WING206便の乗客乗員346名の救助作戦が開始されることになるのですが……。

映画「BRAVE HEARTS/ブレイブハーツ 海猿」では、予告編でも公開されている「ジャンボジェットの海上着水」に至るまでのストーリーがかなり長いですね。
むしろ、そちらの方がメインなのではないかと思えるほど、ジャンボジェットを巡る動向に多くの時間が割かれている感すらあります。
最初は他の飛行機の着陸を禁止した上で羽田空港の滑走路に着陸させようとしたのですが、飛行機の胴体右側の降着装置が故障して車輪が出てこなかったことで、この作戦は失敗に終わってしまいます。
そして今度は、下川嵓の提案で海上着水が提案されるも、懸案が多すぎて一旦はボツになってしまい、かといって代案も浮かばす皆が頭を抱えているところで、仙崎大輔が海上着水の修正案を提示し、それによって作戦決行になった、という過程が延々と描かれています。
まあ実際問題、「ジャンボジェットの海上着水」というのは「着水から沈没まで20分程度しかない」と作中でも言われているように実は最悪の手段もいいところなのですし、可能な限り安全確実な救出手段を行いたいと考えるのも、救助する側としては至極当然のことではあるのですが。
作中の救助活動の際にも、中央部で2つに割れてしまったジャンボジェットは、コックピットを含む前部は「機体が一旦コックピットを頭にして垂直に立った直後に水没」という映画「タイタニック」を髣髴とさせるようなパターンで、後部は乗員乗客の大部分が退去したのを見計らったように割れた部分から水が流入する形で、それぞれ短時間のうちに水深60mの海の底に沈んでいきましたし。
一歩間違えれば大勢の犠牲者が出ることは確実の救出劇であり、確かに危険と言われるだけのことはありました。

物語中盤のハイライトは、官民問わず全て一丸となって救助活動に邁進する光景ですね。
一連の救助作戦は当初、警察・消防・海上保安庁・空港関係者などの組織や国家機構だけで主導されていたのですが、海上着水が決定されると民間の漁船や病院などにも協力要請がもたらされ、彼らも救助活動に協力していくことになります。
海上に即席で設置された誘導灯をパイロットが見出してから、海上着水した飛行機に向けて多くの船が動き出す光景は、まさに圧巻かつ感動的なものでした。
この辺りは、東日本大震災における日本の団結力の強さを再現しているかのようにも見えましたね。
製作側も意図してこういう描写を作ってはいたのでしょうけど。

作品全体で見ると、今作では前作「THE LAST MESSAGE/ザ・ラストメッセージ 海猿」でほとんど活躍の場がなかった吉岡哲也が、その鬱憤を晴らすかのごとく、下手すれば仙崎大輔をも凌ぐ勢いで見せ場がありましたね。
特に物語終盤付近では、ほとんど彼の独壇場的な感すらありましたし。
そして、これまでの劇場版「海猿」シリーズでも顕著に出ていた「生きるか死ぬかの手に汗握るギリギリの状況を描く上手さ」は今作でも健在です。
特に今作は、序盤の大阪湾の救助活動で船員のひとりが救助に失敗して死んでいることもあり、「ひょっとすると……」という考えは前作よりも強いものがありましたし。
あの「どうせ助かるのだろうけど、でももしや……」という感触を観客に抱かせる演出の巧みさはなかなかのものがあります。
これを「御都合主義ないしはファン向けのリップサービス」と見るか「安心して楽しめる」と解釈するかは、意見の分かれるところではあるでしょうけど。

「海猿」シリーズのファンの方々はもちろんのこと、人間ドラマや映画ならではの迫力ある演出を楽しみたい方などにも、今作は間違いなく楽しめる作品ではないかと思います。

映画「スープ ~生まれ変わりの物語~」感想

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映画「スープ ~生まれ変わりの物語~」観に行ってきました。
森田健のノンフィクション「生まれ変わりの村」をモチーフにし、転生や死生観を前面に押し出しつつ、父と娘の心温まる家族のあり方にスポットを当てた人間ドラマ作品。
今作は、熊本県では熊本市中央区大江にある熊本シネプレックス1箇所のみでの上映だったため、そこまで足を運んでの観賞となりました。

冒頭のシーンでは、ウェデイングドレスに身を包んだひとりの女性が立っている教会?の扉を、花束を抱えたひとりの学生らしき人物が開ける光景が映し出されます。
このシーンは物語終盤の流れと繋がることになるのですが、この時点ではさっさと次の舞台に移ることになります。
次の舞台では、娘のことを気にかける父親と、父親に対し無愛想かつ邪険に振る舞う娘とのすれ違いが描かれます。
何でも、父親こと今作の主人公である渋谷健一は、2年前に妻と離婚して以降、すっかり無気力になってしまい、娘こと渋谷美加との関係も悪化の一途を辿っているのだとか。
その無気力ぶりは仕事にも多大な悪影響を及ぼしており、ついに彼は唯一自分に任されていた仕事を、自分より若い女性社員の綾瀬由美に奪われるという事態に直面してしまいます。
仕事の引き継ぎ?の打ち合わせでも、綾瀬由美に頭ごなしに注意される渋谷健一は、その日ちょうど15歳の誕生日を迎えることになっていた娘のことがとにかく気がかり。
しかし、当の渋谷美加は誕生日当日、友人に唆されて店で万引きを働くという所業をやらかし、店から父親に連絡が行くという事態に直面していたのでした。
娘のために花屋で花束を購入していたところを呼び出された渋谷健一は、店の女主人に対してひたすら平謝りを繰り返し、何とか許しを貰うことに成功します。
しかし、渋谷美加はそのことに感謝するどころか、父親の態度に不満を抱き、昔の離婚話を蒸し返して父親を論難する始末。
娘の無反省よりも離婚話についカッとなってしまった渋谷健一は、無意識の行動だったのか、娘の頬をひっぱたいてしまいます。
渋谷健一は部屋に閉じこもってしまった娘と和解しようとアプローチを行うのですが、娘は全く取り合うことなく、また渋谷健一自身も明日は綾瀬由美との出張が控えていることもあり、出張から帰った後に和解するつもりでその場はあっさりと引き下がるのでした。
まさか、これが父と娘の最期の別れになるとも知らずに……。

翌日。
綾瀬由美と共に出張先の仕事場で仕事の引き継ぎを行った渋谷健一は、一段落した後で別の場所へと向かうべく、信号が青に変わるのを待っていました。
昨日娘を叩いたことのショックが尾を引いていた渋谷健一の愚痴に対し、「そりゃマズいでしょう」と娘の肩を持ちまくる綾瀬由美。
しかし、そんな2人の頭上で天候が突如急変。
そして、突如空を覆った雷雲から発せられた一閃の落雷が、信号待ちをしていた2人を直撃してしまうのでした。
それによって当然意識を失った渋谷健一は、しかし綾瀬由美の声によって目を覚まします。
そこで渋谷健一が見たものは、暗くなった無人の街中で雪が舞う光景でした。
何故かペンギンが街中を歩いていたりしますし(苦笑)。
街の様子に不審を抱いた2人は、劇場らしき建物の中に入り、自分達と同じようにわけが分からないまま集まっている集団を見つけ出します。
何が起こったのか分からない者同士で言い合いが発生するのを見計らったように現れた、赤い服を着た訳知り顔の女性。
彼女は皆を劇場へ導き、そこで説明役の男と鉢合わせます。
そこでその男は、集まっている皆が既に死んでいること、ここが実はあの世であること、そしていずれは転生(生まれ変わり)が行われることを解説するのでした。
しかし渋谷健一は、娘と再会したい一身で、あの世から脱出する方法を模索することを決意するのでした。
自分の死を素直に受け入れた綾瀬由美と半ばなりゆきで一緒に行動しつつ、彼は現世に戻るべく動き回ることになるのですが……。

映画「スープ ~生まれ変わりの物語~」における「あの世」は、一般的にイメージされる「あの世」とはかなり様相が異なっています。
今作の「あの世」はあくまでも「前世の死から来世に生まれ変わるまでの待機所」的なものとなっており、かつ地獄のような阿鼻叫喚の拷問や天国のごとき王道楽土があるわけでもなく、酒場やディスコや焼肉屋があったり、人々が娯楽に興じていたりと、現世と何も変わるところがありません。
現世と違うところがあるのは、世界のあり方ではなく人間の方で、容姿が死んだ当時の頃から不変であることと死なないことくらいなものでしょうか。
この世界から脱出し、生まれ変わるためには、決められた配給所で配給される「スープ」を飲む必要があります。
ただし、この「スープ」を飲んだ者は、現世に生まれ変わることと引き換えに前世の全ての記憶を失うことになります。
現世の人間が前世の記憶を持っていないのはこのためであるというわけです。
また、「スープ」を飲みさえすればただちに転生が行われるというわけでもないようで、「あの世」の人達の中には、「スープ」を飲んでから何年経っても転生が行われないというケースも存在していたりします。
作中の描写を見る限り、この転生の可否というのは「前世での未練」の有無が関わっているのではないかと考えられます。
後述する石田努の母親などは、息子との再会がきっかけとなって消滅していったみたいでしたし。
しかし、今作の主人公である渋谷健一は、あくまでも「父親としての記憶を持った状態で娘と再会する」ということにとにかく拘りました。
そのため、「スープを飲むことなく、かつ現世に記憶を残したまま転生する方法」を、渋谷健一は模索することになるわけです。

また今作では、主人公の取引先の社長として登場する石田努がかなりイイ味を出していますね。
演じる俳優が「遠山の金さん」の松方弘樹ならば、性格設定も言動も遊び人バージョンの「遠山の金さん」そのものでしたし(笑)。
やたらとあの世の遊び場に精通していて、女を連れてディスコで踊り明かしたり、プールで泳ぎ回ったりと、どう見ても「あの世の人生」を謳歌しているようにしか思えないところが何とも言えないところで(苦笑)。
しかし、そんな彼にも「あの世」に留まっている一応の目的はあって、それは8歳の幼い頃に死に別れた母親を探しているというものでした。
そして、渋谷健一と綾瀬由美を連れて立ち寄った焼肉屋で、石田努は死んだ母親と偶然にも再会することになります。
石田努は半年前に65歳で糖尿病によって「あの世」にやってきたとのことだったため、若い母親に年老いた息子が抱きついて「おかあちゃん」と泣き縋るという、何ともシュールな光景が現出することになるわけですが(^_^;;)。
そして再会後に「前世の未練」がなくなったからなのか消滅していった母親を見送った後、彼は(原因不明の現象でスープを飲まず記憶を残したまま)現世に転生することになるのですが、転生後の彼は何と「美崎瞳」という【女】として生を受けることになるんですよね。
同じく「三上直行」として転生した主人公との会話で、「女の身体って大変なことがよく分かった」とか「(初体験は済ませたのかという質問に対して)女の身体の方が気持ち良いからな」とかいった生々しい発言まで披露していましたし。
主人公が転生した後も「共通の事情を知るが故の良き相談役」的な役割を担っていましたし、彼は今作の物語における重要な潤滑油的存在となっていますね。
実際、石田努がいない場面では、見ているだけで暗くなりそうなエピソードが延々と続いていたりしますし。
松方弘樹のファンであれば必見の映画と言えますね。

作中の話で少し疑問に思ったのは、「スープ」を飲んで転生後に記憶を無くした人間の性格がそのままである、という設定ですね。
渋谷健一は転生後に「スープ」を飲んで綾瀬由美の転生した存在「西村千秋」と出会うことになるのですが、彼は「綾瀬由美と性格や言動がよく似ている」という理由から、西村千秋が綾瀬由美の転生であると喝破しています。
しかし、性格と記憶というのは実は極めて密接した関係にあり、「記憶を元に性格が作られる」という要素が多分に含まれているので、記憶を無くした人間の性格が記憶を無くす前の人間と同じであることはまずありえません。
実際、記憶喪失前と後の人間の性格を比べるだけでも、かなり違うところが多々あったりするのですし。
「記憶が無くなる」というのは何も「知識や記録が無くなる」という表層的な事象だけを指すのではなく、それまでの人格・性格・思想、さらにはちょっとしたクセの類に至るまでの一切合財全てを無くすことをも意味しており、すなわちそれは「自分の存在そのものが消える」ことにも繋がるのです。
現実世界の記憶喪失などは、心因性な要因で発症していることが多く、まだ脳内にデータが残っている状態であることも少なくないので、何らかのきっかけで記憶が戻るケースも起こりえるわけですが、作中のような「スープを飲んでの転生」では当然そんなことが発生しえるわけもないのですし。
「スープ」を飲む前の綾瀬由美の言動を見ても、「記憶を無くす=知識や記録が無くなる」程度の認識しか垣間見られず、「自分の存在そのものが消える」とまでは全く考えてもいないところが少々気になるところではあるんですよね。
西村千秋の性格が綾瀬由美のそれと同じだというのであれば、それは西村千秋がこれまで歩んできた人生が綾瀬由美のそれと大同小異なものであったか、もしくは単なる偶然の産物によるものとしか解釈しようがないところなのですが。

一方、作中で「記憶を失う=自分の存在そのものが消える」という認識を正確に抱いているのは、「あの世」で渋谷健一に「記憶を持ったまま転生する裏技」を教えた近藤一ですね。
近藤一は「裏技」を駆使して3回も記憶を保ったまま転生しているのですが、彼は「親しい人間がいない世界に転生して一体何の意味があるんだ」と渋谷健一を止めようとするんですよね。
確かに、前世の記憶を持ったまま生まれ変わった場合、生まれ変わった際の両親を「世話になる&なった人」としてはともかく「実の親」として認めるのは非常に難しいものがありますし、それまでの親友に再会しても全くの赤の他人状態なわけですから、そんな辛酸を舐めてきた彼が転生を否定する心情も分からなくはありません。
いくら苦労して新しい人間関係を作っても、死および転生と同時に全てがリセットされ、しかもその記憶を持ったまま転生し続けるというのは、ある種の人間にとっては地獄よりも辛い人生なのかもしれません。
だからこそ彼は、次は「スープ」を飲んで記憶を消すことで自分の存在をも抹消し、全く新しい人生を生きることを決意したのでしょう。
前世の記憶や知識を保ったまま生まれ変わることができれば何でもできるじゃないか、とは誰もが考えるところですし、作中でもそういう考え方が披露されていたりもするのですが、この「転生の短所または問題点」をも上手く表現しているのが今作の特徴でもありますね。

如何にも地味な映画タイトルと予告編&映画紹介に反して、意外に面白く色々と考えさせられた作品でしたね。
若年層はともかく、中高年層以上には結構イチオシな映画であると言えそうです。

映画「臨場 劇場版」感想

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映画「臨場 劇場版」観に行ってきました。
横山秀夫のミステリー小説を原作とし、テレビ朝日系列で放映された人気ドラマシリーズの劇場映画版。
今作はテレビドラマシリーズの続編という位置付けではありますが、ストーリー自体は映画単独で成り立っており、テレビドラマ版から引き続き出演している主人公含めた登場人物達の人間関係以外は、これまでのシリーズを知らなくても問題なく観賞可能です。
かく言う私も、テレビドラマ版はただの1話も観賞することなく今作に臨んでいましたし(^^;;)。

映画の冒頭は、大雨が降り注ぐ無人の街中で、今作の主人公にして「終身検視官」の異名を持つ倉石義男が倒れ込むシーンから始まります。
このシーンの意味するところが何なのかについては物語後半である程度明らかになりますが、序盤は思わせぶりに明示するだけで次のシーンへと移行します。
次に映し出されるシーンは2010年冬の吉祥寺の繁華街?における、如何にも平和的な広場を普通に行きかう人々の姿。
そんな一般的な光景は、しかし突如突っ込んできたバスの中から慌てて下車して悲鳴を上げて逃げ惑う人々と、血塗れになってナイフを握りながら狂笑を浮かべるひとりの男によって、唐突に終わりを告げることになります。
ナイフを持った男は、広場にいた通行人達に無差別に切りつけていき、さらにその場にいた2人の女性を刺殺までしてしまいます。
ナイフの男こと波多野進は、バスの中でも2人の人間を殺害、さらに15名もの重軽傷者を自らの手で作り上げており、彼は複数の警察官によってその場で現行犯逮捕されます。
ここで倉石義男は、事件の現場検証で部下達と共に遺体の検視を行うと共に、遺体と遺族の対面にも立ち会うことになります。
ところが波多野進はその後、警察の事情聴取の場で精神喪失状態の様相を呈したことで刑法39条の1「心神薄弱者ノ行為ハコレヲ罰セズ」の規定が適用され、一審・二審共に裁判で無罪判決が下されることになってしまうのでした。
当然のごとく、遺族は波多野進に対する理不尽な無罪判決に怒りを抱くことになるのですが……。

それから2年後。
東京都港区で弁護士事務所を営んでいる高村則夫が、事務所内で何者かに殺害されるという事件が発生します。
検視官である倉石義男も当然のごとく遺体の検視を命じられることとなり、彼は最初、部下である小坂留美に検視の実務を委ね、自身は遺体の着衣や遺品などを調べ始めます。
そこで倉石義男は、ズボンに濡れている痕跡があることを発見することになります。
それを不審に思った倉石義男は、ある程度進んでいた小坂留美の検視を制止し、自分で直接遺体をつぶさに調べていくのでした。
倉石義男が小坂留美に検視を任せる際は常に最後までやらせるのに、と同じく倉石義男の部下である永嶋武文は呟いています。
その後の司法解剖では、直腸温の測定に基づいた遺体の死亡推定時刻が割り出されるのですが、倉石義男は肝臓の温度測定による死亡推定時刻が直腸温測定のそれと比べて数時間のズレがあることを発見、遺体に何らかの細工が行われているのではないかという疑問を抱きます。
さらにその後、今度は神奈川県警の管轄で病院を営む精神科医・加古川有三が殺害されるという事件が発生します。
遺体の傷跡に高村則夫との共通点が浮かび上がったことから、警察はこの2つの事件が同一犯の犯行によるものと断定、警視庁と神奈川県警との間に合同捜査本部が立ち上がることになります。
高村則夫と加古川有三が、2年前の無差別通り魔事件の際に波多野進の弁護と精神鑑定をそれぞれ担っていたことから、神奈川県警の捜査一課の管理官・仲根達郎は、裁判での判決に不満を抱いた遺族の犯行によるものと断定し、遺族について調べるよう捜査官達に指示を出します。
しかし、遺族に医学的知識を持つ者がいないことを理由に「俺のとは違うなぁ」と仲根に異を唱える倉石義男。
2人が対立する中、さらに捜査線上には全く別の線から出てきた容疑者の存在も浮上し始め……。

映画「臨場 劇場版」では、理不尽な犯罪や冤罪で身内を失ってしまった遺族の悲哀と、さらにその立場から容疑者として疑われる理不尽な様子が描かれています。
元来娘がいるはずもない場所で突然娘を失ってしまった母親の関本直子や、神奈川県警の捜査ミスで冤罪を着せられた挙句に自殺してしまった息子の助けられなかったと自分を責め続ける父親&現職警察官の浦部謙作などは、本来ならば事件の被害者もいいところだったはずです。
しかし警察からは、まさにその立場故に犯行を行っても不思議ではないと逆に目をつけられ、それを前提とした事情聴取や監視を受けることにまでなってしまうんですよね。
特に浦部謙作などは、物語終盤で「アレだけ警察に奉仕してきたのに、息子を奪った次は自分なのか!」と怒りを露にし、当時の冤罪事件の捜査責任者だった仲根達郎を自身の手で殺害しようとした挙句、最終的には自身の拳銃で自殺してしまうのですからね。
実際に彼は連続殺人事件の犯人では全くなかったわけで、そんな気は全くなかったにせよ、結果として無実の人間にあらぬ疑いをかけ死に追いやることになってしまった警視庁管理官・立原真澄は、さぞかし甚大なショックを受けざるをえなかったことでしょうね。
結果的に彼は、浦部謙作の息子を自殺に追い込んだ仲根達郎と全く同じ過ちを犯してしまったことになるのですから。
物語中盤頃の立原真澄は、冤罪事件で仲根達郎を責めるかのごとき言動を繰り広げていたのですが、まさかそれが自分にも跳ね返ってくることになるとは夢にも思わなかったことでしょうね。
もちろん、仲根達郎にしても立原真澄にしても、別に明確な悪意を持ってあの親子を冤罪に陥れようとしたわけでも何でもなく、あくまでも事件解決を心から願い正義感を持って行動した末の悲劇ではあったのですが。
この辺りは、全知全能ならぬが故の、警察というよりも人間の限界ではあるのでしょうが、それだけに被害者はもちろんのこと、捜査官達の苦悩や後悔もやるせないものがありますね。

作中の展開で少し疑問に思ったのは、物語終盤における波多野進についてですね。
彼は事件の遺族の墓参りから措置入院している病院に戻ってきた際、浦部謙作から2発の銃弾を受け、さらに連続殺人事件の真犯人である安永泰三に注射までされてしまい、今まさに生命を奪われんとしていたのですが、それを止めに入った倉石義男と安永泰三が対峙している間に奇跡的な復活を遂げ、安永泰三を刺殺した上に倉石義男にまで襲い掛かっているんですよね。
2発の銃弾(しかもそのうち1発は左胸から左肩の間付近に命中している)+注射を受けてなお、そこまでの行動に打って出られること事態が凄まじく驚異的であると言わざるをえないところなのですが。
あの注射って、最初は筋弛緩剤のような類の致死性薬物で、注射された時点で波多野進はもう死んだものとすら考えていたくらいでしたし、アレだけ劇的な復活を遂げたとなると麻酔という線も確実にないでしょう。
状況的に見てあまりにもありえない劇的過ぎる復活だったために、安永泰三は興奮剤かエンジェルダスト(PCP)の類でも間違って注射してしまったのではないかとすら考えてしまったほどです(^_^;;)。
また波多野進は、措置入院における自分の更正が全くの偽りであることを倉石義男の前で自白したりしているのですが、倉石義男に凶器を取られてしまった途端に再び精神異常者の演技を繰り出しているんですよね。
その前の言動を見てそんなことをしても騙される奴はまずいないでしょうし、そもそもあの状況における波多野進であれば、倉石義男が投げ捨てた凶器を拾うなり、安永泰三が持っていたナイフを奪い取るなりして反撃する術も体力もまだ充分に余力を残していたのではないかと思うのですが。
それどころか、あの驚異的な復活ぶりから考えると、下手すれば素手でも倉石義男を殺すことが可能だったのではないかとすら思えるくらいですし(苦笑)。
ゲームのバイオハザードに出てくるゾンビクラスの生命力を、あの時の波多野進は持ち合わせているようにさえ見えたくらいですからねぇ(^^;;)。
どの道、波多野進にしてみれば、自身の精神異常者としての振る舞いが全くの演技であることの目撃者である倉石義男を殺さなければ、自身の弁明を周囲に信じ込ませることもできないわけですし、足掻ける限りの物理的な抵抗をしても不思議ではなかったくらいなのですが。
あの重傷からの復活も奇跡かつ驚異的ならば、あそこで抵抗を止めてしまうというのも多大な違和感を覚えざるをえないところでして。

あと、今作ではエンドロール後に重要な映像が出てきます。
もぬけの殻になった倉石義男の自室に置かれている携帯電話が鳴り響き、連絡主の小坂留美が倉石義男と連絡が取れないことに絶望的な表情を浮かべる、というものなのですが、これが実は土砂降りの雨の中で倒れこむ冒頭の倉石義男の描写と結びついていたりするのでしょうか?
いかにも続編が出そうな終わり方ではあるのですが、これって一体どうなるのでしょうかねぇ。
いずれにせよ、今作ではエンドロールが完全に終わるまで席を立たないことを是非ともオススメしておきます。

テレビドラマ版からのファンはもちろんのこと、ミステリー好きな人達にも単品で満足できる作品であると言えますね。

映画「LOVE まさお君が行く!」感想

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映画「LOVE まさお君が行く!」観に行ってきました。
テレビ東京系列で2010年3月まで放映されていた番組「ペット大集合!ポチたま」に出演していたラブラドール・レトリバー犬の「まさお君」と、番組開始当時は売れないお笑い芸人だった松本秀樹に纏わる実話を元にした映画作品。
作中の松本秀樹役は香取慎吾が演じているのですが、松本秀樹本人も友情出演的な扱いながら登場していたりします。
また、「ペット大集合!ポチたま」と同じくテレビ東京系列の番組「ちゃたろうの旅」に出演しているエアデール・テリア犬「ちゃたろう」と篠山輝信も、同じくチョイ役ながら出演しています。
この辺りは、同一テレビ局ならではのシャレが効いたサプライズ企画と言えるところでしょうね。

東京タウンテレビ(TTV)では、新番組企画として浮上した「犬と人間が全国各地を旅する番組」の進行役を探していました。
製作費を極力抑えるという番組ディレクター・河原茂雄の意向により、犬は動物プロダクション「WAN NYAN」で貸し出しを行っている犬の中で最も安い価格がつけられていたラブラドール・レトリバーの「まさお君」が、人間はとある芸能事務所で仕事もなくクダを巻いていた売れない芸人・松本秀樹が抜擢されます。
この1匹とひとりの珍妙なコンビが、今作における実質的な主人公となります。
漫才コンビとしてデビューしたのは良いものの、芸人として大成できず、漫才コンビ解消の危機にまで直面していた松本秀樹は、番組進行役の抜擢を受けて当初は当然のごとく大喜びします。
しかし、肝心の相方が犬で、しかも犬が主役の番組であることを知らされたことで、松本秀樹は一転して不満を抱くことになります。
松本秀樹的には、自分の1日当たりのギャラが「まさお君」の貸し出し料金より低いことも不満の種であったようですが(苦笑)。
番組収録自体も最初はボロボロで、ボールを投げて犬がそれを追いかける定番のシーンで「まさお君」が寝そべっていたり、商店街の取材で果物屋?に商品を陳列している置き台に「まさお君」が突っ込んで果物類をバラバラに転がしてしまったりと、ひたすらトラブル続き。
しかもそれでいて番組の評判は全く芳しいものなどではなく、寄せられてくるFAXなどの手紙は苦情やクレームのような反応ばかりという惨状を呈する始末。
しかし、「まさお君」と松本秀樹が互いにじゃれあっているように見える光景を見て、スタッフ達は一縷の希望をそこに見出すのでした。

一方、松本秀樹は私生活面でも問題を抱え込んでいました。
「まさお君が行く!」の番組に出演している最中に、黒人だったらしい漫才コンビの相方がアメリカに帰国してしまい、漫才コンビが正式な解消を余儀なくされてしまいます。
しかも追い討ちをかけるように、長年同棲してきた須永里美には「実家でホテルの稼業を継ぐから」との理由で別れを告げられてしまいます。
松本秀樹は、芸人として大成する夢と伴侶の双方を一挙に失ってしまったも同然の事態に陥ってしまうのでした。
そんなある日、海岸で行われた「まさお君が行く!」番組収録の際、松本秀樹は崖下に落ちていったフリスビーを取ろうとして崖から落っこちてしまいます。
番組スタッフ達が慌てて現場へ向かおうとする中、誰よりも早く反応して松本秀樹の下へと駆けつけたのは、常日頃はなかなか言うことを聞かずに寝そべっている「まさお君」だったのです。
これがきっかけとなり、松本秀樹は「まさお君」に親愛と友情に近い感情を抱くようになり、コンビとして上手く機能するようになっていきます。
それに伴い、番組に寄せられる反応も、苦情やクレーマーじみたものから少しずつ好意的なものが混ざるようになっていき、番組開始から1年後には全国ネットでの放映が決定するにまで至りました。
そして、松本秀樹と「まさお君」の関係は、誰もが羨む理想のものとなっていくのですが……。

映画「LOVE まさお君が行く!」に登場する「まさお君」は、悪性リンパ腫により2006年12月9日に7歳で死去しています。
今作では、「まさお君が行く!」の番組スタートから「まさお君」が亡くなり次代の旅犬が「まさお君」の後継になるまでのエピソードが綴られており、作中ではギャグ要素も少なからず盛り込まれていたものの、基本的には感動物のストーリーとして描かれているわけです。
ただ正直、この映画でそれをやるのは、結果として少々間が悪かったのではないかと評さざるをえないところなんですよね。
現実世界で「まさお君」が亡くなった後にその後を継いで「ペット大集合!ポチたま」の顔となったのは、「まさお君」の末っ子の息子の「だいすけ君」で、彼もまた「まさお君」並の人気を博したのですが、その「だいすけ君」もまた、2011年11月29日に胃捻転による緊急手術後に容態が急変して死去してしまっています。
ところが、エンドロール後に出てくる映像では、須永里美がアパートの扉に「だいすけ君と旅をしています」という貼り紙を貼るシーンが映し出されているのです。
映画の収録時点では「だいすけ君」は生きていたでしょうから、このシーンも妥当なものではあったのでしょうが、映画が公開される時点では、「だいすけ君」が死んでいることは既に周知の事実であったはずでしょう。
「だいすけ君」の死の際にも、作中の「まさお君」の死の際と同様に多くの人達が献花のためにテレビ局を訪れ、その様子が特別番組としてテレビでも大々的に放映されていたのですから。
にもかかわらず、この映像をわざわざそのままにしておく、というのは正直理解に苦しまざるをえないところなのですが。
ちなみに、現在の旅犬は「まさお君」の母犬が産んだ「まさはる君」が3代目を襲名し、2012年6月6日にBSジャパンの番組「まさはる君が行く!ポチたまペットの旅」にてデビューを果たしています。
「だいすけ君」も亡くなってしまった今となっては、あのエンドロール後の映像は完全に削除するか、でなければラストの映像を差し替えて「まさお君とだいすけ君に哀悼の意を表します。現在はまさはる君と旅をしています」的なものにでも改めた方が良かったのではないかと思えてならないのですけどね。
それとも、実はこの後に今度は「だいすけ君」をモデルにした「LOVE だいすけ君が行く!」的な続編でも企画されていて、それにバトンタッチをする意味合いで、あの映像をあえてそのまま残していたりするのでしょうか?
続編構想が明確なものになっていない現状であの映像は、ファンにとってもかなりのミスマッチ感が否めないのではないかと。

それにしても、この手の犬やネコなどの動物(というかペット?)を扱う話では、必ずと言って良いほどに「動物の死とそれに直面する人間」というものが描かれますね。
去年観賞した映画「わさお」「星守る犬」「ロック ~わんこの島~」などでも、何らかの形で「犬の死」が描かれていましたし。
確かに現実問題として、人間よりも寿命が短い犬やネコは、人間側が不慮の事故等で早死にしない限りは人間よりも早く死ぬことが運命付けられているわけですから、そんな事態が起こること事態にはある種の必然性というものはあるでしょう。
犬猫好きが揃っている私の実家や親戚一家でも、飼い主に先立って様々な要因で他界していったペット達を少なからず看取ってきた歴史があるのですから。
しかし、映画作品でそういう要素を盛り込むのは、確かに涙なくしては語れない感動的な話にできるという側面もある一方で、爽快感を求める観客を遠ざけてしまうという諸刃の剣的な一面も多々あるのではないかと思うんですよね。
他ならぬ私自身、かつてはこの「動物の死」が必ず盛り込まれている構図がイヤだったことから、ペット物の映画作品を敬遠していたことがあるのですし、同じことを考える人は意外に少なくないのではないかなぁ、と。
「動物の死」を描くことなく動物を扱った作品を描くというのは決して不可能ではないと思うのですが、そういう作品がなかなか出ないのって一体何故なのでしょうかねぇ(-_-;;)。

ペット好きな人や番組および「まさお君」ら旅犬シリーズのファンの方々であれば、問題なく観賞できる作品だと思います。
実写版「こち亀」シリーズにおける香取慎吾のハイテンションなオーバーアクションぶりにドン引きしたという人でも、今作ならば問題なく観賞できそうな気がしなくもないのですが(^^;;)。

映画「スマグラー おまえの未来を運べ」感想(DVD観賞)

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映画「スマグラー おまえの未来を運べ」をレンタルDVDで観賞しました。
2011年10月に劇場公開された邦画作品で、月刊アフタヌーンの2000年5月号~8月号まで連載されていた真鍋昌平原作の同名漫画の実写映画化作品。
作中では殺し合いや拷問描写などが延々と続くこともあり、映画館ではPG-12指定されていました。

今作の主人公……のはずの砧涼介は、かつてとある劇団に所属して役者を志していたものの、劇団を辞めて今では自堕落な生活を送っているフリーター。
その自堕落な生活が災いし、彼は多額の借金を背負わされた挙句、その返済のために「スマグラー」という名の運び屋の仕事を強制的にやらされることとなります。
「スマグラー」は、ヤクザ同士の組織抗争の際に発生した死体などを、人の目の届かない場所に運んで処理をしたり、指定された場所まで運送したりする「非合法的な裏稼業」を主な生業とするグループです。
「スマグラー」の構成員は、「スマグラー」のリーダー格で凄腕のプロ的な雰囲気を醸し出している花園丈(通称「ジョー」)と、そのジョーの下で働く塚田マサコ(通称「ジジイ」)に砧涼介を加えた総計3名。
この「スマグラー」に、同じく裏家業の便利屋を営んでいる山岡有紀が運び屋の依頼をするという形で物語は進行していきます。

砧涼介の「スマグラー」での初仕事となったその日も、「田沼組」と呼ばれるヤクザの組長を含めた集団を襲撃し皆殺しにした中国人の凄腕殺し屋2人組の後始末をするよう依頼が舞い込んできていました。
輸送する荷物の中身をこっそりと確認し、刺青がびっしり入った死体と対面する羽目になってショックを受ける砧涼介。
しかし、既に多額の借金を背負っている身としては今更引き返すこともできず、彼は嫌々ながらも「スマグラー」としての仕事に従事することに。
人気の無い場所で死体を処理すべく移動し、やがて目的地に到着するという段になって、「スマグラー」に試練が訪れます。
不法投棄がないかパトロールしていた警官達に、ふとしたことから職質を受ける羽目になってしまったのです。
荷物の確認を行うから中身を見せろと迫る警官達に対し、懐から密かに銃を取り出し始末しようとするジョー。
しかし、そこで砧涼介の役者としての経験を生かした機転が功を奏し、警官達は荷物の中身を確認することなく、その場を後にするのでした。

一方、組長を殺されてしまった田沼組では、組長の仇を取らんと組織子飼いの組員達が気勢を上げていました。
彼らは死体処理を「スマグラー」に依頼していた山岡有紀の事務所に殴りこみをかけ、3日以内に組長を殺した下手人を捕らえろ、さもなければ……と脅迫するのでした。
仕方なく山岡有紀は、下手人である中国人殺し屋の2人組である「背骨」と「内臓」を捕縛すべく作戦を展開。
2人が所属する中国系マフィア「死海幇」の構成員で、砧涼介を借金地獄に陥れた元凶でもある張福儀の協力を得、2人に毒を飲ませると共に仲間割れさせることに成功します。
結果、「内臓」は死亡し、「背骨」も捕縛されることに。
そして山岡有紀は、2人の護送を当然のごとく「スマグラー」に依頼するのでした。
護送する際に何故か一緒に乗り込んできた組長の妻・田沼ちはるも同乗する形で、「スマグラー」は運び屋としての仕事を始めることになるのですが……。

映画「スマグラー おまえの未来を運べ」は、とにかく最初から最後までバイオレンスな描写のオンパレードですね。
「背骨」と「内臓」の殺し屋2人組が田沼組を壊滅させるところから始まり、「背骨」と「内臓」の仲間割れ、田沼組組員の拷問描写と、バイオレンスな描写が満載です。
特に、自らの失態から「背骨」を逃がしてしまった砧涼介が「背骨」の身代わりとして田沼組に引き渡され、拷問されるシーンに至っては、物語後半のかなりの時間を割いて延々と描写されていました。
色々とカメラアングルを駆使して具体的な描写ははっきりと映し出していなかったとはいえ、よくもまあPG-12指定で済んだよなぁ、と逆に感心させられてしまったところでした。
また、作中では「伝説の殺し屋」と称されている「背骨」の強さがおよそ尋常なものではなかったですね。
いくら奇襲をかけたからとはいえ、田沼組と死海幇という2つの裏稼業組織を1人で壊滅させてしまっていますし(前者の際は「内臓」も一緒でしたが、「内臓」は「背骨」のサポートに徹していてあまり目立っていませんでした)、物語終盤でマシンガンを持ったジョーと対峙した際には、マシンガンの弾を微速度撮影のごとき驚異的な動作で全てかわしきっていました。
殺し屋なのですから、人間を一瞬で殺せる技能自体は持ち合わせているにしても、至近距離でぶっ放されるマシンガン相手にあの動きというのは、さすがに人間の領域を超越しているとしか評しようがないのではないかと(苦笑)。

人間ドラマ的に見ると、主人公であるはずの砧涼介を、言葉が荒く無愛想な花園丈ことジョーが食ってしまっているような感がありありでしたね。
カッコ良さから言えば、ラストくらいしか見せ場がない砧涼介よりも、山岡有紀や田沼ちはるとの駆け引きじみた会話を何度も展開している上に「背骨」との対決シーンもあるジョーの方に圧倒的な軍配が上がりますし。
また、物語後半に砧涼介を延々と拷問にかける田沼組の組員・河島精二も、拷問役としてはなかなかに良い味を出していました。
拷問を進める過程でわざわざ服装を変えてきたり、拷問行為自体にエクスタシーを感じたりする「壊れたキャラクター」ぶりを完璧に演じきっていましたし。
他にも、実は組長殺しの元凶でもあり常に冷徹な態度を崩さないながらも、誰も見ていないところで素の自分を見せる田沼ちはるや、悪人であるが故に逆に信用できるとジョーが評価する山岡有紀など、映画「スマグラー」の登場人物は「悪であるが故の魅力」というものを前面に出しているキャラクターばかりですね。
だからこそ、主人公である砧涼介がそれらに埋もれて目立たなかったりもするのですが。
彼にもラストには一応見せ場もあるのですが、どうにも今ひとつな感がねぇ……。

日本映画では結構珍しいバイオレンス作品なので、観る人が観たら結構楽しめるのではないかと思います。

映画「アントキノイノチ」感想(DVD観賞)

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映画「アントキノイノチ」をレンタルDVDで観賞しました。
2011年11月に劇場公開された邦画作品で、歌手として有名なさだまさし原作の同名小説を実写映画化した、岡田将生・榮倉奈々主演の人間ドラマ。
あの銀英伝舞台版第一章でラインハルトを演じた松坂桃李も、主人公の高校時代に重要な役として登場しています。
2012年6月9日および10日は、当初観賞を予定していた映画が既に試写会で視聴済みの「幸せへのキセキ」1作品しかなかったため、久々に映画を観賞しない週末を迎える羽目になってしまいました(T_T)。
そんなわけで、久々に手持ち無沙汰となってしまった私は、せっかくの機会だからということで、去年観賞し損なっていた映画をいくつかレンタルDVDで観賞することにしたわけです。
まあ、今年の私の映画観賞総本数は、過去最高を記録した2011年の65本をすら上回るのが既に確実な情勢となっていますし、たまにはこういう週があっても良いのでしょうけどね。

映画「アントキノイノチ」の冒頭は、裸で屋根に上っているひとりの青年の姿が映し出されるところから始まります。
高校の制服をズタズタに切り裂き、「僕は二度、親友を殺した」という意味深なモノローグが語られたかと思えば、舞台はそれから3年後にあっさり移ることになります。
その当時、この青年こと主人公の永島杏平に一体何があったのかは、その後の物語の進行と共に語られていくことになります。
3年後に舞台が移り、永島杏平は父親の勧めで遺品整理業を営む「クーパーズ」という職場を紹介され、そこで働くことになります。
遺品整理業とは、不慮の事故や突然死などで亡くなった人の部屋を片付け、貴重品や遺品などを保管する仕事のことを指します。
永島杏平が「クーパーズ」に入社して最初の仕事は、死後1ヶ月も経過して遺体が発見された孤独死の老人の部屋を片付けるというものでした。
孤独死から1ヶ月にわたって遺体が放置されていたこともあり、遺体があったと思しきベッドは遺体から流れ出た大量の体液で汚れており、また部屋の至るところに遺体を貪っていたであろう蛆虫の死骸が散乱しているような状態でした。
最初は誰もが怖気づき、最悪はその場で辞めていくと「クーパーズ」の先輩社員である佐相(さそう)は永島杏平に話しかけるのですが、しかし永島杏平は特に何も語ることなく淡々と仕事に従事していきます。
永島杏平の様子に感心した佐相は、比較的年齢の近い久保田ゆきという先輩社員から仕事を教わるよう、永島杏平に指示を出します。
初めての仕事で右も左も分からない永島杏平に、久保田ゆき淡々と、しかし丁寧に仕事のやり方を教えていくのでした。
しかし、過去の精神的外傷が原因なのか、話しかけられてもロクに返事すらも返すことが無い永島杏平。
そのことを心配した佐相は、久保田ゆきに金を渡して永島杏平と「飲みニケーション」をするよう伝えます。
そして久保田ゆきと「飲みニケーション」をすることになった永島杏平は、それがきっかけとなって久保田ゆきと気軽に話し合える仲になっていくのでした
久保田ゆきのことが気になりつつ、遺品整理業を続けていく過程で、永島杏平は自身と久保田ゆきのそれぞれの過去と向き合っていくことになるのですが……。

映画「アントキノイノチ」は、主人公・ヒロイン共に凄惨な過去を持ち、精神的な外傷を抱え込んでいるような状態にあります。
永島杏平は、高校時代にイジメに遭っていた親友・山木信夫の自殺に直面した上、イジメの元凶であった同級生の松井新太郎を二度にわたって殺そうとした過去に苦しめられ続けていました。
一方、久保田ゆきは、高校時代にレイプされた上に妊娠してしまい、レイプ犯からも親からも罵られた挙句に流産してしまったことから、重度の男性恐怖症と絶望感を抱え込むようになっていました。
序盤の2人は、遺品整理業に何かの意義を見出していたというよりも、とにかく何でも良いから作業に没頭することで、過去のトラウマから逃避したかっただけなのではないかと思える一面を覗かせていました。
ただ何となく生きていただけ、そんな感じが漂いまくっていたんですよね。
しかし、遺品整理業の仕事を進めていく中、故人の遺族に遺品を渡したことで感謝されたことから、まずは永島杏平に転機が訪れます。
これ以降、彼は明らかに遺品整理の仕事に積極的になっていきましたし、そればかりか遺族にわざわざお節介をかけるほどに精神的な回復が見られたのですから。
あの時初めて彼は、自身の生きる意義を見出すことができたのではないでしょうか。

むしろ物語中盤以降は、序盤はまだ普通に見えていた久保田ゆきの落ち込みぶりが半端ではなかったですね。
男性恐怖症を克服するために永島杏平とセックスに及ぼうとして果たせなかったり、死んだ子供の部屋の遺品整理をしている最中に過去のトラウマが蘇り「クーパーズ」を辞めてしまったり。
作中の描写を見る限り、久保田ゆきは自身がレイプされたことよりも、胎児が流産してしまったことの方を気にしていたようで、また、そのことでトラウマを抱え込んでいるにもかかわらず、そのことが忘れられずに苦しんでいる感じでした。
これに対し、永島杏平は「それでも君は生きている」「その胎児の生命が君の負担を背負って亡くなったからこそ、今の君がここにいる」という主張で励ますのです。
これが、映画のテーマにもなっている「あの時の命」の意味であり、それを早口で何度も言った際のなまりが、そのまま映画のタイトルにもなっているわけですね。
ただ、その際に何故か「アントニオ猪木」のネタが出てきたのは、ご愛嬌なのかギャグなのか判断に苦しむところがあるのですが(苦笑)。

しかし、これで主人公とヒロインが意気投合して結ばれる明るい未来が待っているのかと思いきや、物語は全く意外な方向へと向かいます。
「クーパーズ」を辞めた後に介護施設で働いていた久保田ゆきが、介護老人を見舞いに来たらしい子供を庇い、猛スピードで突っ込んできたトラックに跳ねられそのまま死んでしまうのです。
何の伏線もなく唐突だった上、久保田ゆきが永島杏平の説得で立ち直っていく過程が描かれていただけに、あまりにも意外過ぎる展開に驚かずにはいられませんでしたね。
庇われた子供は全くの無傷だったので、てっきり久保田ゆきも重症ながら生きているのでないかと最初は考えていたのですが、永島杏平と佐相の2人が「クーパーズ」の仕事として久保田ゆきの遺品整理を始めたことで、否応なく死の事実が明示されていましたし。
作者ないし映画製作者側の意図としては、生命のリレーによって人は生きている、という「アントキノイノチ」の摂理を、不条理な現実と共に観客に突きつける意図があったのでしょう。
ただ、「アントキノイノチ」の論理は既に久保田ゆきの過去話によって示されていたのですから、その上さらに追加でヒロインを死なせてしまう必要はすくなくともストーリー的な必然性の面ではなかったのではないか、とは思えてならなかったですね。
お腹の中の子が死んだことで久保田ゆきがここにいる、という「アントキノイノチ」の論理をまた再現したいのであれば、むしろ永島杏平と久保田ゆきを結婚させ、2人の間に子供を生ませるという結末に持っていくという形にしても「その子供は2人の親の存在があったからこの世に誕生しえた」という論法で充分に達成可能なわけですし。
全くの意外性と不条理な現実を突きつける、という点では効果のある演出だったと思うのですが、作品的には「ハッピーエンドになり損ねた」という点でややマイナスな部分が否めない、といったところでしょうか。

生命の絆的なテーマを盛り込んだ人間ドラマ作品を観たい、という方にオススメの作品となるでしょうか。

映画「外事警察 その男に騙されるな」感想

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映画「外事警察 その男に騙されるな」観に行ってきました。
麻生幾の同名小説を原作とする、あまり知られていない日本の警視庁公安部外事課(通称「外事警察」)にスポットを当てたサスペンス作品。
今作は2009年にNHKで放映された人気ドラマシリーズの続編となる作品ですが、作品自体は単独でも問題なく観賞できる仕様になっております。
ただ、主人公を取り巻く人間関係が少しばかり複雑なので、その辺りのことについてまで網羅したい方は、NHKドラマ版を事前に復習しておいた方が良いかもしれません。
ちなみに、私はドラマ版未視聴で今作に臨んでいます(^^;;)。

物語は、血まみれの白い服を纏い、右手に1枚の古びた写真を持つ女性が、クルマが1台も走っていない自動車道路?の大橋で倒れこみ、警察に保護されるところから始まります。
警察官が韓国語をしゃべり、女性が日本語で「韓国語は理解できない」と応対していることから、今いる国とそれぞれの立場が判明します。
この描写は実は物語終盤の展開に繋がるものであり、この場面自体はすぐに他の場面に切り替わることとなります。

次の場面は韓国の国境線。
韓国政府は北朝鮮を国家として承認していないため、韓国の公式見解による「韓国の国境線」というと実は中国と北朝鮮の国境線がそれに該当することになるのですが、今作の場合はどう見ても北朝鮮と接する38度線のことでしょうね。
作中では「北朝鮮」とは明示されず、「あの国」「朝鮮半島」という曖昧な表現に終始していますが。
その国境線にて、「あの国」から濃縮ウランを獲得してきた工作員らしき男の存在と、その男を待ちかまえつつ、取引をしようとする男を殺して濃縮ウランと共にその場を立ち去る大物らしき人物が描写されます。
同じ頃、東日本大震災で混乱する日本の東北地方にある陸奥大学で、核爆弾の小型化を可能とするレーザー起爆装置に関するハードディスクが盗まれるという事件が発生。
日本と「朝鮮半島」で起こった2つの事件に関連性があると判断した、「日本のCIA」と呼ばれる警視庁公安部外事課は、今作というよりドラマ版からの主人公であり「公安の魔物」と恐れられた住本健司に調査を命じることになります。
住本はまず、元在日二世で「朝鮮半島」に渡航して核開発に携り、現在は韓国に亡命していたらしい徐昌義を確保し、最高水準の医療と警備体制をつけて日本の施設に移送します。
次に彼は、震災に乗じて日本国内で蠢いている工作員の洗い出しに着手。
その結果、元韓国人で日本人女性と結婚し日本国籍を取得して「奥田交易」という企業を営んでいる金正秀(日本名:奥田正秀)という人物が浮上します。
そこで住本は、金正秀と結婚している日本人女性の奥田果織に目をつけ、彼女を「協力者」として利用することを考えるのでした。
部下である松沢陽菜を使って奥田果織に接触し、とあるアパート?の一室に誘い込んだ住本は、説得と脅しの話術を巧みに駆使することで、奥田果織に夫のことを探らせる「協力者」に仕立て上げることに成功するのですが……。

映画「外事警察 その男に騙されるな」では、主人公・住本健司の性格設定がなかなかに複雑な様相を呈していますね。
一見すると穏やかなイメージがあり、人の心の痛みが理解できる優しい人物像を思い描きがちなのですが、要所要所では脅しや騙しの手練手管を躊躇なく駆使して手段を選ばず目的を達成する一面も併せ持っています。
妙に誠実そうな対応をしたかと思えば、自分の命令を有無をも言わさず実行させるような一面も見せたりしていますし。
作中でも色々な「顔」をその時々に応じて使い分けている感があり、その正確な人物像を特定するのが非常に難しいですね。
その辺りが「公安の魔物」という異名を冠されている部分でもあるのでしょう。
この異名にふさわしい「魔物」ぶりが今作で最大限に発揮されたのは、物語の終盤で韓国に潜んでいるテロリストグループが殲滅された後、小型核爆弾を製造した徐昌義と対峙した場面ですね。
徐昌義には、かつて「朝鮮半島」へと渡った際、日本に妻子を残しており、妻は自殺、娘は消息を絶って「死亡判定」が出ている状態でした。
しかし住本は、娘が韓国人に誘拐されて娘を取り戻すべく必死になっている奥田果織に対し、奥田果織こそが徐昌義の娘であるとDNA判定による親子証明書で証明してのけ、さらには「金正秀も彼女の正体を知っていて、徐昌義に対する人質として偽装結婚をしていた」などという非常に説得力のある論法まで提示することで、徐昌義と奥田果織の「親子対決」を現出させていました。
ところが物語のラストでは、住本が提示していた親子証明書は全くの偽物であり、「否定」の判定が下っていた本物の証明書が焼き捨てられるシーンが描写されていたのです。
しかも、住本はその場にカネを置いていくのですが、それを受け取ったのが何と奥田果織の娘を誘拐した韓国人だったというオチ。
奥田果織が「あの人と私が親子って、実は嘘でしょ?」と発言してあのシーンが出てくるまで、観客の多くが「住本が言っていることは事実である」「住本は奥田果織とその娘のことを本気で案じている」と考えていたのではないでしょうか?
かくいう私自身、これにはすっかり騙されたクチでしたし(^^;;)。
この辺りは、キャラクターの演技でも演出面でも「見せ方」が本当に上手い、と感心せざるをえなかったですね。

ただ、奥田果織が住本の策謀に気づいていたことを考えると、もう一方の当事者である徐昌義もまた同じく「住本の騙し」であると直感していた可能性は極めて濃厚ですね。
あの老人、物語の中盤頃でも住本の「公安が人を騙す目」に気づいていましたし、「娘の所在が分かった」という嘘自体もあの時点で二度目でしたからねぇ。
それでもあえてあの老人が住本と奥田果織を相手にしていたのは、「核爆弾起爆を止めることはできない」という勝者の余裕もあったのでしょうが、死んだ妻と行方不明の娘に対する懺悔的なものでも告白する意図があったのではないでしょうか?
既に末期ガンなり核爆弾起爆なり、あるいは今現在の対面相手に殺されるなりで自分の死も確定していたわけですし、死ぬ前の余興としてあえて住本の策に乗って長々と会話を交わしていた、というのがあの老人の考えだったのではないかと。
そして、結局核爆弾起爆の解除パスワードを明かすことなく自殺することで、自身の最後の矜持だけは守り抜いてみせたのでしょう。
そう考えると、あの場に居合わせた三者全てが桁外れの傑物だったと言わざるをえないところですね。
まあ、徐昌義が実際にどんなことを考えていたのかは、当の本人にしか分からないことではあるのですが。

「日本のCIA」こと警視庁公安部外事課というのは、これまでロクにスポットが当てられてこなかった部署ではありますが、こういう作品を観ると「公安というのも色々言われているけど、やはり【必要悪】ではあるよなぁ」とは思わずにいられませんね。
実際、彼らが水際で日本におけるテロ行為を阻止&抑止しているという側面は当然あるのですし。
もちろん、「毒をもって毒を制す」的な一面もありますし、その毒が悪い方向に作用しないよう注意・監視する必要も当然ありますが、単純に「絶対悪」として全否定するのもまた違うでしょう。
公安の仕事の実態にスポットを当てすぎるのもまた良くない副作用があるのでしょうが、たまにはこういう作品で公安の実態と素顔を「理解する」というのも必要なのではないかと。
公安に対する批判の中には、「何のためにあるのか分からないから不気味である、だから排除すべき」などという「無知から来る自己防衛」的な心理も間違いなく存在するのですから。

人間同士による謀略・駆け引き・騙し合いといったサスペンス物が好きという方には、今作はイチオシの映画なのではないかと思います。

映画「ファイナル・ジャッジメント」感想

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映画「ファイナル・ジャッジメント」観に行ってきました。
宗教団体である「幸福の科学」の大川隆法が製作総指揮を手掛ける、近未来の日本を舞台に繰り広げられる近未来予言?作品。
元々「幸福の科学」が主催しているということもあり、「宗教的な要素が色濃い映画なのだろう」とある程度構えて観賞してはいましたが、まさかこれほどのものとは……。

1996年。
どう見ても中国がモデルとしか思えないオウラン国によって併合された旧南アジア共和国(現在はオウラン国南アジア自治区)で、父親・母親・娘で構成される1組3人の家族が宗教的な挨拶と共に一家団欒の食事を始めようとしていました。
そこへ、お約束のようにドアを蹴り破って集団で押し入ってくるオウラン国の人民軍兵士達。
オウラン国では宗教活動が全面的に禁止されており、それに反した者は国家反逆罪として処刑されることになっていました。
家に押し入った人民軍の長らしき人物は、家にいた幼女に祈りの言葉をしゃべらせると、幼女を自分で連れて行き、父親と母親を部下に連行させるのでした。

時もところも変わった2009年の日本。
元商社マンとしてオウラン国に赴任した際、オウラン国の軍事力膨張と勢力伸張に危機感を覚えた今作の主人公である鷲尾正悟(わしおしょうご)は、友人の中岸憲三(なかぎしけんぞう)と共に未来維新党を結成し、当時行われた衆議院総選挙に立候補し日本の危機を訴えました。
ところが選挙では、選挙カーで演説する鷲尾正悟に耳を傾ける者はほとんどおらず、敗色濃厚な気配が漂います。
誰も聞いていない中で演説を続けることに空しさを覚えずにいられなかった鷲尾正悟がふと空を見上げた時、何故か空から金色の羽が舞い降りてきます。
しかし、その金色の羽は鷲尾正悟にしか見えないものだったらしく、呆然としていると勘違いされた中岸憲三の注意で我に返った鷲尾正悟は、再び誰も聞いていない選挙演説に戻っていくのでした。
しかし、そんな鷲尾正悟の選挙活動に感動したひとりの女性が、鷲尾正悟の選挙スタッフに協力を申し出てきました。
彼女の名はリンといい、鷲尾正悟が声を大にして脅威を主張するオウラン国の人間でした。
彼女はそのまま、鷲尾正悟の選挙スタッフの一員に加わることとなります。
しかし、そんな努力の甲斐もなく、その夜の選挙速報では鷲尾正悟の落選があっさりと確定してしまったのでした。
ちなみに選挙で勝利したのは、これまたあからさまに民主党がモデルであることが分かる民友党という名の政党です。
作中で放送されていたTVニュースのテロップにも、「政権交代」という文字がデカデカと書かれていましたし(苦笑)。
選挙後の民友党が、憲法9条を掲げて軍備撤廃・日米安保破棄を唱え聴衆から拍手喝采を受けていたり、オウラン国に沖縄の領土宣言をされて「遺憾の意」を表明しまくったりしている描写などは、もう現実に対する皮肉であるようにしか思えないところが何とも……。
一方、選挙で落選した鷲尾正悟は、選挙戦の際に出会ったリンと親しい関係となり、2人で新田神社の祭りでデートに興じたりするのでした。

それからさらに数年後。
いつもの平和な東京渋谷に、突如として大量の軍用機とヘリが現れ飛び交う光景が多くの人に目撃されます。
多くの人々が呆然とそれを見守る中、やがてTVにひとりの人物が映し出されます。
その人物はラオ・ポルトと名乗り、オウラン国が日本を占領し、オウラン国極東省としてオウラン国の支配下に入ったことを高らかに告げるのでした。
口ではオウラン国人民としての共存を主張しつつ、日本文化の完全破壊に勤しんだり、夜間外出禁止令を発動したりして圧政を布くオウラン国。
そんな中、鷲尾正悟は、オウラン国によって弾圧された各種の宗教団体の信者達を匿うレジスタンス地下組織「ROLE(Religious Organization for Liberty of the Earth、ロール)」という組織の存在を親友達から聞き、組織と合流することとなるのですが……。

映画「ファイナル・ジャッジメント」は、物語が進めば進むほどにツッコミどころがどんどん増えていく構成ですね。
特に物語後半などは、描写が切り替わる毎にいちいちツッコミを入れなければならないほどの超展開だらけでしたし。
一番大きなツッコミどころは、一般人に情け容赦なく殴る蹴るの暴行を働きまくる悪逆非道な集団として描かれているオウラン国人民軍が、作中では何故かロクに発砲する描写がないことにあるでしょうか。
オウラン国人民軍は必ずと言って良いほど銃を携帯しているのに、作中ではもっぱら殴打用の武器として使用される傾向の方が圧倒的に多く、銃を発砲すること自体がほとんどありませんでした。
映画全体で見ても、敵味方問わず銃から発射された銃弾の総数は50発にも到達していないのではないでしょうか?
主人公が乗車するクルマとの間で繰り広げられたカーチェイスの場面でも、別にオウラン国の要人が乗っているわけでもないクルマに対してすら、オウラン国人民軍はせいぜい2~3発発砲した程度でしかありませんでしたし。
さらには、物語のラストで主人公が選挙カーの上に立ってほとんど無防備の状態で演説を始めた際にも、オウラン国人民軍はただの1発も銃弾を発射することすらなく、バカ正直に主人公の演説に聞き入っているありさまでした。
銃の発砲自体が法的な制約からほとんど行えない状態にある日本の警察や自衛隊などではあるまいし、オウラン国人民軍が発砲を躊躇しなければならない理由などどこにもないはずなのですけどね。
占領国の住民が集まっている衆人環視の中で、無抵抗な人間に対しこれ見よがしに集団リンチを繰り広げて平然としているような軍隊が、一般人どころかレジスタンスの類に対してすら発砲を自重しているというのは大きな矛盾なのではないかと思うのですが。
ラストの演説シーンなんて、人民軍兵士の1人が、主人公にただ1発銃を発砲しただけで、反乱分子の要を完全に潰すことができたはずなのですけどねぇ。

また、物語中盤で主人公が瞑想し、悪魔との戦いを経て悟りを開く部分でも、多少どころではない違和感を覚えずにはいられませんでした。
瞑想の最中、悪魔は主人公の父親で故人となっている鷲尾哲山(わしおてつざん)に化け、主人公に宗教の無意味さと「争いを続ける人間のサガ」を説くのですが、主人公は「本当の父親ならば絶対に言わないであろう言動」から悪魔の正体を見破り反撃に転じています。
それは良いのですが、実はこの場面で主人公は、悪魔の主張について何ら反論を提示することすらなく、ただオカルティックな攻撃で悪魔を撃退しているだけでしかないのです。
悪魔の主張はこれこれこういう形で間違っている、宗教にはこれだけの偉大な可能性があるんだといった反論を展開して悪魔を追い詰める、という形では全くないんですよね。
作中のような展開では、悪魔の正論に正面切って反論できなかった主人公が、論点を逸らして悪魔を力づくかつ物理的に撃退しただけのようにしか見えません。
あの場面で本当に撃退すべきだったのは、「悪魔の存在」それ自体ではなく「悪魔の主張」の方だったはずなのに。
あんなやり方で「悟りを開いた」「神と一体化して奇跡が行使できるようになった」などと言われても、それって軍事力にものを言わせて周辺諸国への侵略を繰り広げるオウラン国のやり方と何も変わらないのでは、としか評しようがないところなのですけどね。

まあ作中では、その悪魔に対する反論部分に相当するものが全くないというわけではなく、作品的には物語のラストで繰り広げられる主人公の街頭演説こそがそれに当たると言いたいところなのでしょう。
しかしあの演説って、「人を憎むのは止め、自分の行いを反省しましょう」などという、あまりにも素朴過ぎるが故に政治的には現実離れした理想論を唱えているだけでしかなく、悪魔の現実に裏打ちされた主義主張には到底対抗しえるものなどではないんですよね。
あんな程度の理想論で世界が変わるのであれば、とっくの昔に世界から争いなど無くなっているでしょうに。
日本国内限定で通用するのか否かすらも怪しいレベルの個人的道徳観程度の演説を披露するだけで「世界が変わる」「オウラン国の独裁体制が崩壊する」などという世界的な変革が起こしえるなど、それこそ3流カルト宗教の妄言レベルなシロモノでしかないのですが。
オウラン国のあまりにも手緩い対応と併せ、露骨過ぎるまでの超御都合主義以外の何物にも見えはしませんでしたね、この部分は。

この映画、特にラスト30分はトンデモ描写のオンパレードで、いちいちツッコミを入れたり笑いを堪えたりしながら観る羽目になりましたよ、私は。
宗教映画であることを差し引いて考えてさえ、あまりにも御都合主義に満ち溢れ過ぎていて、普通に観賞して素直に楽しむなど不可能でしたし。
同じ宗教観を前面に出した映画でも、「ザ・ウォーカー」「ヒアアフター」などは普通に楽しめましたし、共感できる部分もあったのですけどねぇ。
まあ「ツリー・オブ・ライフ」などのように、前衛芸術ばかり前面に出しまくって何を主張したいのかすらも分からないような宗教映画よりはまだマシではあるのですが、最下級クラスの作品と比較しても不毛なだけですからねぇ(爆)。
よほどに宗教が大好きという人以外は、作中で展開されるトンデモ描写の数々を「笑いのネタ」として割り切って楽しめるという人くらいにしかオススメのしようがないですね、今作は。

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