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カテゴリー「2012年」の検索結果は以下のとおりです。

映画「宇宙兄弟」感想

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映画「宇宙兄弟」観に行ってきました。
小山宙哉による週刊漫画雑誌「モーニング」で連載中の同名マンガを実写映画化した作品。

全ての発端となるのは2006年7月9日。
この日の夜、兄の六太(むった)と弟の日々人(ひびと)の南波兄弟は、録音機器を持ってカエルの生態の調査を行っていました。
カエルの鳴き声をナレーション混じりに録音している最中、2人は突如空を怪しげな機動を描いて飛ぶ謎の飛行物体を目撃します。
どう見ても地球上の飛行機やヘリなどではありえない機動で飛び回った謎の飛行物体は、ひとしきり南波兄弟の目の前で飛び回った後、空に浮かんでいた月に向かって消えていってしまいました。
半ば呆然とその様相を眺めていた2人でしたが、しばらくして弟である日々人が沈黙を破ります。
「俺、大人になったら宇宙飛行士になるんだ!」という言葉と共に。
さらに日々人は兄に対してもどうするのかと尋ね、兄がそれに答えようとしたところで舞台は暗転、時代は2025年へと移ることとなります。

UFOを目撃したあの日から19年後、南波兄弟はそれぞれ異なる道を歩んでいました。
弟の日々人は、あの日宣言した夢を見事に叶え、日本人初となる月面着陸者という栄誉と共にマスコミの注目を集める宇宙飛行士に。
そして、今作の主人公となる兄の六太は、自動車会社で車のデザイン設計を担う仕事に従事する日々を送っていました。
ところが六太は、マスコミで弟のことが話題に上がる中、その弟のことを腐しまくっていた会社の専務に激怒して頭突きをかましてしまい、その場でクビを言い渡されてしまうことに。
無職になってしまった六太は、再就職するべく何十件もの会社へ面接に挑むのですが、辞めた経緯と年齢の問題も相まってなかなか再就職が決まりません。
この辺りは、「2025年の日本も今と同じ不況の渦中にあるのか?」とついつい疑いたくなってしまうところですが、そんなある日、実家暮らしをしている六太の下に、自分が応募した覚えのない宇宙航空研究開発機構(JAXA)の書類選考を通過したとの知らせが届きます。
JAXAは弟である日々人の職場でもあることから、六太は当然のごとく弟の関与を疑います。
現在は月面着陸の宇宙航行のためにアメリカへ飛んでいる弟に電話してみると、やはり兄も自分と一緒に宇宙飛行士になって欲しいという弟の画策によるものでした。
日々人の進めに最初は渋る六太でしたが、日々人は「忘れたのかよ、あの約束」という言葉と共に、冒頭の2006年7月9日の録音テープを聞くよう兄に催促します。
家の中から録音テープを探し出して耳を傾けた六太が聞いたのは、他ならぬ自分自身が弟に対して宣言した「俺も宇宙飛行士になる」「2人で一緒に宇宙へ行こう!」という言葉だったのです。
今更ながらに昔のことを思い出した六太は、おりしも就職がなかなか決まらないことも手伝い、実に5年ぶりの募集となるらしいJAXAの採用試験を受けてみようと決意するのですが……。

映画「宇宙兄弟」のストーリー展開は結構「地味」なところがありますね。
アクションシーンなどの派手かつ奇抜な描写は一切なく、唯一見栄えのする描写と言えば、月面に向けて発射されるシャトル?のシーンくらい。
物語の核自体が「『兄弟2人で一緒に宇宙飛行士になる』という夢の実現」と「六太のJAXA試験行程」で構成されているので、派手なシーンなどそもそも登場させようもないのですが。
ただ、人間ドラマとしての出来はまずまずのものでしたし、また作中では、実際にアポロ11号の乗組員でニール・アームストロング船長と共に最初に月に降り立ったバズ・オルドリンが「本人役」として友情出演していたりします。
彼は、月に向かう日々人を見送りに来ていたものの、日々人が飼っていたペットであるブルドック犬のアポを追いかけているうちに道に迷った六太に対し、発射するシャトルを一望できる見晴らしの良い場を提供すると共に、宇宙飛行士になるか否かで迷っている六太の背を押す重要な役割を果たしています。
バズ・オルドリンはあくまでも元宇宙飛行士であり俳優ではなかったはずですが、その演技は他の出演者と比べても決して劣るものではなかったですね。
そのバズ・オルドリンと六太が出会った旧施設をはじめとするNASA関連の建造物なども、実在の施設にまで直接赴き撮影したものなのだとか。
この辺りは、映画製作者達のこだわりが伝わってくるところですね。

物語後半になると、JAXAの二次選考を通過した6人が受けることとなる最終試験の描写がメインとなります。
この最終試験は、宇宙での実験場兼居住環境を模した閉鎖空間に、二次選考通過者全員を10日間押し込めた状態での適性を見るためのもの。
その間、様々な課題をこなしたり、その日の日誌を書かせたりして、ストレスの溜まり具合などを見ていくわけです。
驚いたのは、2チームに分かれて宇宙基地の模型作成を数日かけて行う課題を遂行していく途中で、アトランダムに選抜した人物に「グリーンカード」なるものを手渡し、自分のチームの模型を破壊するよう指示するミッションがあったこと。
「グリーンカード」を渡された人間がそのことを話すと即失格となるため、試験遂行中は「グリーンカード」およびその内容についてしゃべることができません。
「グリーンカード」を渡した人間には秘密を抱え込ませた状態に、それ以外の人達には6人の中で誰が悪いのか疑心暗鬼にする状態にそれぞれ陥れさせ、さらなる極限状態を現出させるわけです。
これは宇宙空間における事故などを想定して行うテストのようで、そういう状態でも冷静に判断したり場を収めるための能力を問うているわけです。
かかっているのは試験の成否なのですから、やられた方もやった方も確かに凄いストレスになるでしょうね。

ただ、これは今回だけのアクシデントだったのですが、月に行った日々人が月面で事故を起こし安否が不明になったからといって、最終試験の最中に試験官達が六太にそれを教えるという対応は正直どうかと思いました。
明らかに試験内容とは全く関係のないことでしたし、そもそもあの時点ではまだ安否が知れなかっただけで「日々人の死」まで確認されていたわけではなかったのですから、最終試験およびその後の最終面接が終わった後にそのことを伝えても決して遅くはなかったはずでしょう。
時期的に見ても最終試験のちょうど最終日で、しかも終わるまであと少しという段階だったのですからなおのこと。
仮に試験の一環としてアレを仕込んだとしても、「グリーンカード」の件と違って六太にだけ圧倒的なハンデが課せられることとなってしまうわけで、「試験の公正性」という観点から言っても問題があり過ぎるでしょう。
確かに物語的には、その逆境を乗り越えて主人公が魅せる、という盛り上がりがあるわけですが、試験官達の言動自体は、新人の採用を審査する試験官としては完全に失格であると言わざるをえません。
作中の描写を見る限りでは、試験官達も「試験の課題」とかではなく本当の善意から六太に凶報を伝えていたようなのですが(「この件で試験を途中で降りても合否には影響しない」とまで言っていたわけですし)、事件のことを伝えるにしてももう少し待てなかったのか、とツッコミを入れずにいられなかったところですね。

アクションやSFXを売りにしている映画ではありませんが、人間ドラマ作品としては比較的万人受けしやすい部類に入る、とは言えるのではないでしょうか。

映画「HOME 愛しの座敷わらし」感想

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映画「HOME 愛しの座敷わらし」観に行ってきました。
荻原浩の同名小説を原作とした、劇場版「相棒」シリーズの和泉聖治監督と水谷豊主演で送る、家族の再生物語。

物語のメイン舞台となるのは東北地方の岩手県。
その片田舎にある一軒の民家に、一組の家族が東京から引っ越してきました。
TOYOTAのミニバン「NOAH」に乗ってやってきたその家族・高橋家一同の前に姿を現した民家は、何と築200年を数えるという、「和製ログハウス」という名の今時珍しい藁葺き家でした。
トイレは水洗ではなくポットン便所ですし、風呂もガスではなく薪をくべて湯を沸かす五右衛門風呂というありさま。
あまりにも古めかし過ぎる家に、家を選んだ主人以外の家族は当然のごとく不満タラタラです。
しかし、一家5人が暮らすには充分なだけの広さがあり、また支払う家賃が3分の1で済むとの主人の説明で、その場は皆渋々ながらも納得せざるをえなかったのでした。

引っ越してきた高橋家は、両親に長女(姉)と長男(弟)、それに祖母の5人家族。
この5人は、それぞれ少なからぬ問題を抱え込んでいました。
勤め先の会社である「日栄フーズ」で、東京本社から岩手の盛岡支社への転勤を命じられた、一家の主人にして今作の主人公でもある、水谷豊演じる高橋晃一。
東京生まれの東京育ちなことから、主人の地方転勤に戸惑いを隠せず、一家を支えつつ慣れない近所付き合いに悪戦苦闘を強いられる、専業主婦の高橋史子。
中学3年生の長女で、父親に反感を抱き、前の学校で少なからぬ人間関係で苦しめられていた高橋梓美。
小学5年生の長男で、喘息の持病を持つために母親からスポーツを止められている高橋智也。
そして最近、認知症の症状が出始めつつある祖母の高橋澄代。
それぞれがそれぞれに問題を抱えているところに今回の引っ越しが重なったこともあり、新住居での新生活も最初は当然のことながら全く上手くいきません。
それに加えて、新生活を始めた直後から、誰もいないのに囲炉裏の自在鉤が勝手に動いたり物音が聞こえたりするポルターガイストや、掃除機のコンセントが勝手に抜けるなどの現象が確認されるようになりました。
さらには、後ろには誰もいないのに手鏡を見ると何故か映っている謎の幼女。
最初は気のせいだと思っていた個々の家族達も、主人を除く全員で同じ現象を確認し合ったことから、一家共通で取り組むべき問題であると認識するに至ります。
そして彼らは、近所の人達からの証言で、自分達が住んでいる藁葺き家に「座敷わらし」が住んでいるのではないかという結論に到達するのですが……。

映画「HOME 愛しの座敷わらし」は、ストーリー構成が全体的にほのぼの感で溢れていて安心して観賞することができますね。
「家族の絆」を扱っているという点では、同日に公開されている映画「わが母の記」も同じですが、今作はあちらに比べるとまだストーリーに起伏がありますし、起承転結の流れも比較的分かりやすい構成となっています。
あちらがシニア層・主婦層向けだとすると、今作は親子や一家揃っての観賞に適した作品、と言えるでしょうか。
少年からお年寄りまで、老若男女の層全てを取り入れていますし。
主演の水谷豊は、やはり「相棒」シリーズのイメージが強いのですが、今作では「普段は家族にあまり強く出れないが、いざという時には自己主張をしっかりやる父親像」を違和感なく演じていました。
物語前半では「どこか頼りない父親」だったものが、後半では見違えるかのごとく頼もしい存在になっていましたし、ラストで高橋晃一が再度東京に呼び戻されることになった際、高橋晃一だけ単身赴任で行くのではなく、全員一致で一緒に行くことを決定した過程と光景は、最初の頃からは想像もつかないものだったでしょう。
それと、地元の祭りを楽しんでいる最中に祖母が認知症を本格的に発症してしまったことが判明した際の高橋晃一こと水谷豊の男泣きぶりは、やはり「わが母の記」における役所広司のそれと比較せずにいられませんでした。
「わが母の記」と同じく、あの描写も今作のハイライトのひとつではあるでしょうね。

ただ、日栄フーズの本社で最初に東京勤務に戻れることを示唆された際に、反発した高橋晃一が行った「愛」云々の演説は、何の伏線もなく唐突に出てきたこともあり、観客的には今ひとつその思いが伝わり難いものがありました。
あれだと、突然意味不明な理由をでっち上げてワガママをこねている、とすら解釈されてしまいかねないですし。
高橋晃一がそう思うようになった背景などについてもある程度描写した方が、あの演説により説得力が与えられたのではないでしょうか?

あと、今回出てきた「和製ログハウス」こと藁葺き家は、高橋一家が居住する前にフォスターという名の外国人(一家?)が住んでいたらしいのですが、居住して1年程経った頃に突然引っ越ししてしまったとのこと。
藁葺き家の台所が現代風に改造されていたり、家のところどころに魔除けが貼ってあったりするのはその名残なのだそうです。
作中では「昔のエピソード」として登場人物の口で紹介されていただけでしたが、この個人だか一家だかのフォスターさんが一体どういう過程を経て引っ越しをすることとなったのか、そこは少しばかり興味が出てくるところです。
家に魔除けが貼ってあってしかもそのまま放置されていたところから考えると、彼(ら?)は「座敷わらし」のことが理解できず、最後まで「排除すべき化け物」とでも解釈していた可能性が高いように思えるんですよね。
あんな「和製ログハウス」にわざわざ住むくらいですから、日本文化について相当なまでの理解はあったのでしょうが、それでも「座敷わらし」のことまで理解できるのかというとかなり微妙なところですし。
あの手の妖怪を尊重し、共に共生する文化って、外国にはほとんどないものですからねぇ(-_-;;)。
「突然引っ越ししてしまった」という辺り、近所の人間にも何も告げずに出て行ったことは確実ですし、ノイローゼでも患って逃げるように藁葺き家から去ってしまったのではないかと、ついつい考えてしまったものでした。
高橋一家の面々でさえ、最初は「座敷わらし」の悪戯について「私って何か(精神的に)おかしいんじゃないの?」と疑っていたくらいなのですし。
もちろん、高橋一家と同じく幸福になった上で転勤を命じられた等の理由で再引っ越しした可能性もありますし、「座敷わらし」の動向とは全く何の関係もなく「郷里の親族に何か突然の不幸があって……」などの事情があった可能性もありえるわけではあるのですが。
作中では結局、具体的な理由や事情について何も言及されていないために色々な想像ができてしまうのですが、できれば個人だか一家だかのフォスターさんも幸せな人生なり家庭環境なりを構築していることを願いたいものです。

今作は、「GWで一家揃って映画を観る」という需要に応えた映画と言えるのではないかなぁ、と。

映画「テルマエ・ロマエ」感想

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映画「テルマエ・ロマエ」観に行ってきました。
月刊雑誌「コミックビーム」で連載されているヤマザキマリの同名漫画を原作とした、古代ローマ帝国の公衆浴場「テルマエ」を設計する技師が現代の日本へタイムスリップすることから始まる、阿部寛・上戸彩が主演のコメディ作品。
一応古代ローマ帝国も舞台になっているのに、主要登場人物の俳優が全て日本人だけで構成されているという、なかなかに斬新な手法が用いられている映画です。
なお、今作で私の2012年映画観賞本数はちょうど30本目となります。

物語の始まりは西暦128年の古代ローマ帝国。
ローマ帝国のこの時代は、後に五賢帝の3人目に数えられることとなる第14代皇帝ハドリアヌスの御世であり、当時のローマ帝国は、異民族の度重なる侵入に手を焼きつつも、全体的には「パックス・ロマーナ」の恩恵を存分に享受していました。
ハドリアヌス帝は、即位当初に自身の政策に反対した4人の元老院を殺害するなどの強硬策から元老院の受けが悪く対立していたものの、「テルマエ」と呼ばれる公衆浴場を整備することで一般大衆の支持を得ていました。
阿部寛が演じる今作の主人公ルシウス・モデストゥスは、そんな「テルマエ」を設計する技師のひとり。
ところが彼は、革新的かつ豪華な建造物が次々と誕生していく世相の中、その生真面目過ぎる上に頑固な性格から時代に合わない古風な「テルマエ」を設計し続けたことが災いし、仕事を斡旋してくれていた依頼主と喧嘩別れをすることとなってしまいます。
自身の考え方が受け入れられないことに憮然とならざるをえなかった彼は、親友であるマルクス・ピエトラスに連れられ、ローマの「テルマエ」に一緒に入ることとなります。
しかし、あまりの喧騒と、自分の理想から著しくかけ離れた「テルマエ」の様相にさらに落胆したルシウスは、喧騒を避けるため浴槽の湯中にひとり潜りこむことに。
そこでルシウスは、浴槽の壁の一部に穴が開いており、そこから水が排水されている光景を発見します。
ルシウスが確かめてみようと近づくと、突如ルシウスは水流に足を取られ、壁の穴に吸い込まれてしまうのでした。

ルシウスは無我夢中で出口を求め、ようやく水から顔を出すことに成功します。
しかし、そこは自分がいたローマの「テルマエ」ではなく、何と現代日本の銭湯だったのです。
どう見てもローマ人の顔つきとは異なる日本人と、見たこともない浴場の様相に戸惑いを覚えるルシウス。
そんなことなど知る由も無い彼は、そこがあくまでもローマの属州であり、かつ入浴している日本人達もローマの奴隷であると思い込み、彼らを「平たい顔族」として下に見るのでした。
基本的に好奇心旺盛かつ学習意欲満々のルシウスは、浴場、ひいては現代日本の文明水準にいちいち大真面目なリアクションで驚愕することを繰り返しまくりつつも、それが自分が理想とする浴場のあり方と合致していることから、日本の浴場文化をローマの「テルマエ」に取り入れていくことを考えつきます。
素っ裸のまま浴場・脱衣所を経て一度外に出たルシウスは、今度は女湯の方へと足を踏み入れてしまい、悲鳴と共に体重計?を投げつけられ気絶してしまうのでした。
そんなルシウスを女湯から引き摺り戻し、フルーツ牛乳を渡す「平たい顔族」の老人達。
それを飲んだルシウスが味に感動していると、次第に視界が霞んでいき、次に気づいた時には元いたローマの「テルマエ」に戻ってきていたのでした。
ローマに戻ってきたルシウスは、現代日本で得た知識を元に、当時のローマにはなかった斬新な「テルマエ」を次々と作り出し、それまでとは一変して人気を博するようになっていくのですが……。

映画「テルマエ・ロマエ」は、阿部寛が演じる主人公ルシウスの驚愕なリアクションが序盤の見所のひとつですね。
洗面器やシャンプーハットなどについて、いちいち仰天の表情と詳細なモノローグを交えて、その驚きぶりを表現してくれます(苦笑)。
そのカルチャーショックは浴場だけにとどまらず、トイレのフタの自動オープン機能やお尻ウォッシャーなどにも及び、電気のことを知らないルシウスは「これは奴隷が隠れてやっているに違いない」と間違った解釈をしていたりします。
ただそれにしても、お尻ウォッシャーに感動して涙まで流すのはさすがにどうかとは思うのですが(爆)。
しかし一方で、そうやって見聞した現代日本の文化を自分なりに解釈し、その結果をローマの「テルマエ」に反映させてしまう辺り、ルシウスの仕事に対する情熱とやる気は並々ならぬものがあります。
ルシウスにとっての「テルマエ設計技師」という仕事は、生計の術であるのと同時に、現代日本の「オタク」「マニア」と似たようなものでもあるのでしょうね。
ただ、その仕事一筋な性格が災いして、奥さんに不倫された挙句に逃げられてしまったのは何とも気の毒な話ではありましたが(T_T)。
また、この手の作品では、異世界にジャンプする際に何故か自分と相手との言語の問題が自動的にクリアされていて普通に意思疎通が可能だったりするのが一般的なパターンなのですが、今作ではルシウスは当時のローマで使われていたラテン語で、日本人は普通の日本語をしゃべっているという設定となっていました。
日本に来た際のルシウスはラテン語をしゃべっていましたし、物語中盤までは「平たい顔族」との意志の疎通自体が困難を極めるありさまでした。
普通にありえる話なのに、巷のエンターテイメント作品では意外と見かけない設定であり、却って斬新な感がありましたねぇ。

ルシウスのタイムトラベルには、ルシウス本人が身に纏っている物や手に持っている物も一緒に移動させることが出来るという特性があります。
序盤でも牛乳瓶などを持ち帰っていたり、バナナの皮と種を入手して「テルマエ」の建造に利用したりしているのですが、何と人間まで持ち帰ることも可能という恐るべき仕様も。
さらには、ルシウスが現代日本からローマへとタイムリープする際、その場には一定時間の間、タイムホール?のようなものが出来るらしく、他の人間達もその穴を伝ってローマ時代にタイムトラベルすることも可能なようです。
結果、物語後半では、逆にルシウスのいるローマの時代に複数の現代日本人がタイムトラベルしてくるという事態に。
しかもその際、ルシウスに連れられる形でローマにやって来た山越真実は、自身がケイオニウス(後のルキウス・アエリウス・カエサル)の愛人にされかけるところをアントニウスに助けられることで、世界の歴史が変わりかねない事態を招くこととなってしまう始末。
何と、史実ではハドリアヌス帝の後を継いで第15代ローマ皇帝に即位するはずのアントニウスが、本来ケイオニウスが赴任しそこで死去するはずのパンノニア属州の総督に任命されることとなってしまうのですね。
歴史の流れを修正するため、山越真実はルシウスと共に奔走することとなるのですが、この辺りが今作の映画オリジナル要素と言えるところなのでしょうか?

ただ、その歴史を修正する過程で2人が提示した改善策だと、ケイオニウスとアントニウス絡みの歴史は修正されても、その他の部分で歴史が大幅に変わるような気はしなくもないのですけどね。
戦いの兵士達の傷を癒す「テルマエ」を作った結果、ローマ辺境蛮族との戦いに勝ってしまったら、それは充分に歴史を変える行為になってしまうのではないかと思うのですが(^^;;)。
あの蛮族との戦い、作中ではモロにローマ側の敗色濃厚な状態でしたし。
ハドリアヌス帝は、本来負けるはずの戦いに勝ってしまったのかもしれませんし、その戦いで死ぬはずだった人間が生き残り、またその逆も充分に発生しえる事態なのですから、歴史に与える影響が少なかろうはずもありません。
下手をすれば、遠い未来にどこかの国の王族を誕生させることになるはずの遠い祖先が、その戦いで死んでしまった、などという事態もないとは言い切れないわけですし。
これって本当に大丈夫なのだろうか、とは、正直野暮だろうと思いつつも考えずにはいられなかったですね(苦笑)。

ちなみに、今作のオリジナルキャラクターでもあるらしい山越真実は、明らかに原作者自身をモデルにしたキャラクターですね。
元々、名前からしてそっくりで「漫画家志望」という設定な上、物語の最後にどこかの出版社?で今回の事件をモデルに書いたらしい、そのものズバリ「テルマエ・ロマエ」の漫画原稿を提出していたのですから(笑)。
ここは繋げ方が上手いなぁ、と少し感心したところです。

出演俳優とコメディ映画の好きな方にはイチオシの作品、と言えるでしょうか。

映画「わが母の記」感想

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映画「わが母の記」観に行ってきました。
作家・井上靖の同名小説を原作に役所広司・樹木希林・宮崎あおいが主演を演じる、高度成長期の古き良き昭和の時代を舞台とした人間ドラマ作品。
今作は本来、2012年4月28日公開予定の映画なのですが、今回もたまたま試写会に当選することとなり、公開予定日に先行しての観賞となりました。
まあ、今回はほんの数日程度の違いでしかなかったですけどね(^^;;)。

土砂降りの雨が降る中、幼い妹2人と共に雨宿りをする母親を、少し離れたところでただひとり見つめる自分――。
1959年、役所広司が演じる今作の主人公にして小説家の伊上洪作は、老齢で身体の容態が思わしくない父親の隼人を見舞うべく他の家族と共に訪問していた、現在の静岡県伊豆市湯ヶ島にある郷里の実家で、昔見た母親の八重の光景について回想していました。
洪作は、5歳の頃に2人の妹を連れて当時は日本領だった台北へと行ってしまい、以後13歳になるまで自分のことを放置していた母親に対する恨みとわだかまりをずっと抱き続けていました。
母親は自分だけを捨てていった、と洪作は考えたわけですね。
八重がそうするに至った本当の理由については物語後半で明らかとなるのですが、今作はこの「母子関係の葛藤と心情」が大きなテーマのひとつとなっていきます。
さて、もう長くないであろうことが確実な父親と半ば「最後の別れ」的な対面をした洪作は、ついさっき自分に言った発言を二度も繰り返す母親に「困ったものだ」的な苦笑いを浮かべていました。
実はこの頃からすでに、八重の老人ボケは既に進行しつつあったのですが。
洪作は東京ではそれなりに売れている小説家で、その東京の家では、まもなく売り出す予定の洪作の新刊に、洪作の家族が一家総出で検印を押し続けていました。
……ただし、洪作の三女である琴子を除いて。
湯ヶ島から帰ってきて、家族に加えて編集者も共にした夕食会でも全く姿を見せようとしない琴子に怒りを覚えた洪作は、琴子の部屋へ直接怒鳴り込みに行く亭主関白ぶりを見せつけます。
琴子は琴子で、父親に対する反抗心丸出しな様子を隠そうともしませんし。
ところがその日の深夜、昼に見舞いに行った父親・隼人の容態が急変し、そのまま逝去したとの連絡が伊上家にもたらされます。
ささやかながらも一族総出の葬儀が行われる中、父親に対する反発も手伝ってか、琴子は八重に話しかけ、洪作絡みの話題にしばしの時を費やすのでした。

以後、1960年、1963年、1966年……と時間が過ぎていき、1973年に八重が亡くなるまで物語は続いていくことになります。
時が進むにしたがって八重の老人ボケの症状はますます酷さを増していきます。
1966年頃になると、もう現在の息子の顔すらも忘れ、ただひたすら昔の思い出を途切れ途切れかつ脈絡もなく思い出しながら、たちの悪い放浪癖で家族をハラハラさせるような状態にまで至ってしまいます。
洪作も琴子もその他の家族の面々も、それぞれの人生を歩みつつ、そんな八重の様子を時には気にかけ、時には激怒しつつ見守っていくのですが……。

映画「わが母の記」は、認知症の実態を描いているという点においては、映画「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」に近いものがあります。
ただ、あの作品が「マーガレット・サッチャーの現状と本人の視点」に重点を置きすぎて観客の期待からは大きく外れた形で終始していたのに対し、今回は最初から「母親の認知症」を前面に出し、かつ母親周辺の人々にスポットを当てている点が、違うと言えば違うところですが。
今作では「認知症を患っている母親本人の視点」というものは一切登場せず、あくまでも「認知症の母親を見る周囲の視点」だけでストーリーが進んでいきます。
認知症患者の物忘れや奇行ぶりに振り回され悩まされ続ける家族の様子もよく描かれており、その点では地に足のついた現実味のある物語に仕上がっています。
ただ、全体的に淡々と進みすぎた感があり、特に1973年に八重が死ぬことになるラストを飾る「八重とのお別れ」の描写は「あれ? これで終わり?」的なあっけなさがありましたね。
あまりにあっけなさ過ぎてエンドロール後に何かあるのかと期待していたら、結局そちらでも何もなかったですし。
まあ正直、あの段階だと洪作と八重絡みのしがらみも終わってしまっていますし、あれ以外に締めようもなかったというのが実情ではあったのでしょうが、あそこはもう少し何かを感じさせる終わり方でも良かったのではないかと。

物語のハイライトは、やはり何といっても1969年の2つのシーンですね。
ひとつは、「洪作が少年時代に自作したものの本人ですら忘れていた詩の内容を八重が全て諳んじて、洪作が号泣するシーン」。
琴子との会話で出てきた少年時代の詩のエピソードがああいう形で繋がる点も見事の一言に尽きましたし、また洪作の「男泣き」も役所広司ならではの安定した上手い演技でした。
ふたつ目は、予告編でもある程度明示されていた「海辺で洪作が八重をおんぶするシーン」。
こちらは、終盤で徘徊していた八重が、人の良いトラックの運ちゃんに乗せられて海に向かったという情報が出た時点で「ああ、あのシーンが来るな」と簡単に予想はついたのですが、琴子に連れられた八重が洪作に背負われ、2人で一緒に海を歩くシーンは確かに充分絵になる描写でした。
映画「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」ほどのサプライズ感はさすがになかったものの、家族愛を表現する描写としては邦画の中でもトップクラスに入るものなのではないでしょうか。

ただこの映画、アクションシーンのような派手な描写は全くないですし、人間ドラマとしても全体的に起伏が少な過ぎる感が否めないので、正直言って「観る人を選ぶ」作品ではありますね。
出演俳優は豪華ですし演技も上手いので、俳優のファンの方々には一見の価値があるでしょうけど、果たして一般向けなのかと言われると……。
内容から考えるとシニア層&主婦層向けの作品、ということになりますかねぇ、やっぱり。

映画「SPEC~天~」感想

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映画「SPEC~天~」観に行ってきました。
特殊能力を題材にした独特の世界観で人気を集めたTBS系列のテレビドラマ「SPEC(スペック) ~警視庁公安部公安第五課 未詳事件特別対策係事件簿」の続編作品です。

今作は、テレビドラマ版のラストからそのまま続くストーリーな上、テレビドラマ版の設定が分かっていないと意味不明なエピソード話がかなりの数出てきます。
冒頭からして、主人公である当麻紗綾(とうまさや)が左手を三角巾で吊るしているという特殊な光景が当たり前のように描かれていますし、主人公の性格設定や周囲の人間関係についても当然のごとく何の説明もありません。
また作中では、「津田助広(つだすけひろ)」と名乗る人物の本物が出現するというエピソードが出てくるのですが、これも初見の人間には一体何のことやら不明なシロモノです。
よって、テレビドラマ版について知らない方は、事前にテレビドラマ版の予習をしておくことが確実に求められる作品であると言えるでしょう。
間違っても、今作単独で楽しめる映画などではありえません。
かくいう私自身も、テレビドラマ版「SPEC」は全く視聴していなかったこともあり、あえて予備知識も入れることなく白紙の状態で今作を観賞してみたのですが、そもそも冒頭15分の時点で「今どんな状況で、何故そんな事態が発生しているのか?」からして全く分からなくなってくるという惨状を呈するありさまでした。
過去のシリーズも全部観ないと話そのものが全く理解できないという点では、映画「SP」シリーズ2部作に近いものがあります。
「海猿」シリーズ「麒麟の翼」などは、同じテレビドラマ版からの続きものであっても映画単独で充分に楽しめるストーリー構成だっただけに、今作でも同じように楽しめることを期待していたのですけどねぇ(-_-;;)。

映画の冒頭では、2014年11月3日の海辺?に佇むひとりの女性が手紙を読み始める描写が映し出された後、「ファティマの預言」なるものの説明が行われます。
「ファティマの預言」というのは、1917年にポルトガルのファティマに聖母マリアが突如出現して残したという3つの預言のことを指すそうです。
第一の預言は当時繰り広げられていた、当時は欧州大戦という名で呼ばれていた第一次世界大戦の終焉を、第二の預言は第二次世界大戦の勃発についてそれぞれ語られており、最後となる第三の預言はバチカン教皇庁によって厳重に管理されているとのこと。
第三の預言は「1981年に教皇が暗殺されることを示したものだった」と発表されましたが、過去の預言との文脈から言っても辻褄が合わないという疑問で説明は締めくくられていました。
この、いかにもおどろおどろしく出てきた預言の解説が終わり、海に浮かぶクルーザーが突如氷結する描写が繰り広げられた後、舞台は当麻紗綾と瀬文焚流(せぶみたける)が属する警視庁公安部公安第五課の未詳事件特別対策係、通称「未詳(ミショウ)」の一室で自分達の趣味にそれぞれ没頭している様子が描かれます。
瀬文焚流は机の上に○分の1ジオラマか何かを置いて桶狭間の戦い?を再現しようと躍起になっており、当麻紗綾は自身の好物らしい餃子の模型を作っている最中といったところ。
やがて2人は、互いの行為にブチキレて体を張った殴り合いを演じることになるのですが、そんな2人の元に、何故か警視庁のお偉方が2人やってきました。
「未詳」が担当しているSPEC(特殊能力)持つ人間「スペックホルダー(SPEC HOLDER)」について話があるとのことで、その場にいる人間が2人に注目します。
2人が話そうとしていたのは、「ファティマの預言」の話の後に出てきたクルーザーの氷結事件についてでした。
ところが説明を受けている最中に2人が突然狂い出し、外部のスペックホルダーのSPECに操られているかのごとき様相を呈し始めます。
ひとしきりその状態が続き、好き勝手にしゃべくり倒した後に2人は元の状態に戻るのですが、操られていた間のことは何も覚えていないありさま。
新たなスペックホルダー達の蠢動を感じざるをえなかった当麻紗綾と瀬文焚流の2人は、問題となったクルーザーの調査へと向かうのですが……。

映画「SPEC~天~」の宣伝では、「真実を疑え」「未来を掴め」「人気シリーズ完全映画化! 最強の敵。仲間の死。そして全ての謎に終止符が打たれる」などといったキャッチフレーズが使われています。
ところが実際に映画を観てみると、「SPEC」シリーズは全然終わっていないどころか、今後も続ける気満々であることがはっきりと明示されているんですよね。
特にエンドロール開始以降はその手のネタが次々と頻出するありさま。
作中最大の敵だった一十一(にのまえじゅういち)のクローンが実は1体ではなく複数あったことが明示され、4体のクローンが登場したかと思いきや、その場にいた白いタキシード?の謎の男が片手を振っただけであっさり消し飛んでしまったり、何故か国会議事堂が砂に埋もれて廃墟と化している未来?が明示されていたりと、「全ての謎に終止符が打たれる」どころが、逆に「新たな謎」が出てきてしまう始末。
トドメは、当麻紗綾と瀬文焚流が並んで立っている場面で、「この物語における起承転【けつ】の最後の文字は『結』ではなく『欠』」などと主張して、続編があることを問答無用に示唆してしまっていました。
冒頭に出てきた「ファティマ第三の預言」とやらも、結局作中では内容がある程度明らかになっただけで、結局預言が具現化していたような描写もなかったですし。
宣伝文句に偽りがあり過ぎますし、ただでさえ意味不明な展開が多すぎた中でこれではちょっとねぇ……。
観客を舐めまくっているとしか思えなかったですね、あのエンドロールは。

当麻紗綾と瀬文焚流が作中で繰り広げまくっていたドツキ漫才なギャグの連発はむしろ清涼剤的な効果もあったと思うのですが、肝心の話の内容がここまで分かりにくいというのは予想外もいいところでした。
「SPEC」と同じくテレビドラマ版視聴前提だった「SP」シリーズでさえ、すくなくとも作中で繰り広げられたミッション内容程度くらいは理解でき、かつ「テレビドラマ版も面白そうだからそちらも観賞してみようか」と関心を持たせてくれるだけの構成ではあったのですが……。
しょっちゅうテレビドラマ版とリンクしたエピソードが繰り広げられたことも、初見者である私にとっては分かりにくさに拍車をかけるシロモノでしかありませんでしたし。
テレビドラマ版からのファンであればそれでも問題なく楽しめるのかもしれませんが、そうでない人達については、すくなくとも予備知識なしにイキナリ今作を観賞することのないよう、これは強く忠告しておきます。

映画「ももへの手紙」感想

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映画「ももへの手紙」観に行ってきました。
沖浦啓之監督が7年の製作期間をかけて完成させた、120分長編アニメーション作品。
今作は本来、2012年4月21日に劇場公開される映画なのですが、今回無差別に応募していた試写会のひとつに当選し、劇場公開日より先行しての観賞となりました。
作画監督&キャラクターデザインの安藤雅司がスタジオジブリ出身と言うこともあってか、今作はスタジオジブリ作品ではないにも関わらず、微妙にスタジオジブリ的な雰囲気がありますね。

調査船の父親が死んだことから、母親の宮浦いく子と共に、母方の実家がある瀬戸内海の汐島(しおじま)に引っ越すことになった、今作の主人公である宮浦もも。
広島県三原市から出港したフェリーで汐島へと向かう途中、船外に出て晴れた空を眺めていたももは、懐からおもむろに1通の手紙を取り出します。
そこにはただ「ももへ」の3文字だけ書かれて終わっている手紙がありました。
手紙を見て「お父さんは何を言いたかったのだろう」と考えるももの頭に、頭上には雲ひとつなかったにもかかわらず何故か3粒の水滴が落ちてきます。
当然ももは不審に思い、周囲をキョロキョロするのですが、ほぼ同時に母親のいく子が「島が見えてきた」とももに話しかけてきたため、詮索は曖昧なままに終わるのでした。
ももに落ちてきた3粒の水滴?は、しかし地面に落ちた後も何故かその形状を崩すことなく、まるで見張るかのようにももの後を追っていくのでした。

今作の主要舞台となる瀬戸内海の汐島(しおじま)は、広島県呉市にある大崎下島の豊町を中心とした、本州と四国を結ぶ3つの交通ルートのひとつ「しまなみ海道」より西にある島々の風景を取り入れた架空の島。
フェリーで汐島に降り立ったももは、島内にある母親の実家へと向かうことになります。
もちろん、ももの頭に落ちてきた謎の3粒の水滴も。
母親の実家には、ももの大おじと大おばが住んでおり、ももといく子の宮浦母子は、今は使われていないらしい住居を借りて住まうこととなるのでした。
しかし、母親いく子がやたらと元気な様子を見せるのと対照的に、ももはとにかく無口で、大おじと大おばから話しかけられても必要最小限の受け応えしかしない状態にありました。
ももは元々人見知りな性格で、実家の大おじと大おばに会ったのも、すくなくとも物心ついてからは初めてだったようで、それが打ち解けない原因のひとつだったようです。
しかし、ももにはそれとは別に、心に残っていたしこりのようなものがありました。
ももは父親が死ぬ直前、親子3人で父親が好きだったらしいウィーン少年合唱団?の公演を観に行く計画を立てていたのに、急な仕事が入り予定をキャンセルした挙句調査船への長期出張に向かうべく準備し始めた父親に腹を立て、「お父さんなんかもう帰ってこなくていい!」と啖呵を切ってしまったのです。
ところがその後、父親は調査船の事故で本当に「帰らぬ人」となってしてしまい、ももは父親と和解するチャンスを永遠に失ってしまったのでした。
そんな理由でどこか沈みがちなももは、新しい住居を大おじと大おばに案内される中、2人に「空」と呼ばれている屋根裏部屋でひとつの箱を発見します。
箱の中には地元伝来とおぼしき奇妙な風体の妖怪の絵が描かれた本が一冊あり、何故かももはその本のことが気になりました。
そして、ももが屋根裏部屋から去った後、ももを追跡してきたあの3粒の水滴が、意味ありげに本の中へと入っていったのでした。
そしてその夜、ももは寝静まったはずの家の中で、屋根裏部屋から聞こえてくる正体不明の音に悩まされることとなります。
母親にそのことを訴え、「東京に帰りたい」と嘆くももですが、母親はそんなももの嘆願を一蹴。
そればかりか、本土で行われるらしい介護ヘルパーの講習を受けるべく、快速船で島から離れてしまうのでした。
ところが、快速船まで母親を見送りに来ていたももは、船でももに向かって手を振る母親の真横で、モヤモヤした人型の影を目撃することになります。
最初から目の錯覚か何かではないかと考えたももは、腑に落ちないまま実家へ戻るのですが、不可解な現象はその後もさらに続き……。

映画「ももへの手紙」では、イワ・カワ・マメという3人(?)の妖怪モドキが出現します。
彼らは普通の人間にはその姿すらも全く見えず、主人公である宮浦ももと、汐島の住人である5歳の幼女・海美だけがその目で見ることができるという特性を持っています。
妖怪モドキの姿は、ももが見つけた箱に入っていた妖怪の姿を借りたものに過ぎず、その正体は物語冒頭でももの頭に落ちてきた3粒の水滴です。
彼らの主張によれば、元々は名のある妖怪だったものが、何か悪さをしたとかで呪いのようなものをかけられ、今のような下っ端的な立場にまで落ちてしまったとのことでしたが。
姿が見えないのを良いことに、畑を荒らしたり家の中のものを食い散らかしたりと好き勝手に振る舞うのですが、どこか憎めないところがあるコミカルなキャラクターでしたね。
最初は怯えていたももも次第に大胆になっていき、気がつけば打ち解ける人間がいなかった汐島で最初の友人的なポジションに納まっていましたし。
父親の死で鬱屈としていたももにとっても、彼らの存在はある意味「癒し」「心の慰め」的なものになっていたのではないでしょうか。

ストーリーを総合的に見てみると、映画「ももへの手紙」は、洋画の「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」「ヒューゴの不思議な発明」などと同じく「家族愛」をテーマとした作品ですね。
父親が不慮の事故で突然死んでしまう点と、父親の死を引き摺っている子供の独りよがりな性格が3作品全てで共通していますし、夫を亡くした悲しみを押し隠す母親の描写は「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」と同じですね。
ただ、洋画の2作品の父親が基本的に子供から尊敬の念を受けていたのに対し、今作は子供の方から喧嘩別れになったまま永遠の別離になってしまった点が、違うと言えば違うところですが。
夫の死を引き摺りつつも、娘の前ではそのことをひた隠しにしつつ、悲しみを忘れるために娘を顧みず介護ヘルパーの勉強にひたすら打ち込む母親いく子も、映画「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」に登場したサンドラ・ブロック演じる母親と大いにカブるものがありました。
しかしこちらも、「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」の母親が息子の行動を全て承知の上で密かに暖かく見守っていたラストのインパクトが強烈だったのに比べれば、どこかテンプレートかつありがちな現代の母親像ではあったのですけど。

あの母親で正直疑問だったのは、物語後半で「妖怪が畑を荒らして果実を奪ってきた」というももの主張を信じず頬を引っ叩いた母親が、ラストで一体いつの間に「藁船に乗っていた手紙を『死んだ父親からのものだ』と信じられる」ほどにまでなったのか? という点ですね。
確かに母親とももは、一時険悪になったものが母親の喘息がきっかけで和解することになったわけですが、しかし一方で、母親がももの主張を信じるべき理由は相変わらず何もなかったわけですし、母親がももの主張を受け入れていく描写も特に何もなかったので、「それはそれ、これはこれ」で母親が相変わらずもものことを疑うのがむしろ当然な態度にすら見えてしまうのですが。
あえて好意的に解釈すれば、母親いく子の幼馴染である幸市が、台風の中で物の怪達による怪奇現象を目の当たりにしているので、そこから話を聞いて信じる気になったのかもしれませんが、ただそれだと「じゃあ何故娘の話は全く信じないんだよ」ということにもなりかねないわけで。
ラストの母親のスタンスが、微妙に「取って付けた」ような形になってしまっているのが、ちょっとした減点ポイントになるでしょうか。
ひょっとすると、あの時の母親は、いかにも絵空事じみたことを主張しているももにただ調子を合わせていただけで、心の中では「そんなことあるわけないだろ」と密かに考えていたのかもしれませんが。

今作はアニメーション作品ではありますが、対象年齢層はどちらかと言えばやや高めの部類に入るのではないかと。
大人でもそれなりに楽しめる構成になっている一方、小学校低学年層には正直難易度の高そうな話ですし。
子供を持つ母親と、小学校中高学年層以上の子供向けの作品と言えるのかもしれません。

映画「僕達急行 A列車で行こう」感想

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映画「僕達急行 A列車で行こう」観に行ってきました。
松山ケンイチと瑛太が演じる鉄道マニアの2人が、ふとしたきっかけから出会い意気投合し、仕事に恋愛に精一杯生きる様を描いたコメディ・ドラマ作品。
作品タイトルを見て、アートディンクの鉄道経営シミュレーションゲーム「A列車で行こう」シリーズを真っ先に連想したのは、多分私だけではないのではないかと(^^;;)。
かくいう私自身、最初に作品名を知った際には、ゲーム版「A列車で行こう」の実写映画化作品に違いないとついつい考えてしまったクチでしたし(^_^;;)。

この映画では、九州北部と東京近郊他を走る総計20路線80モデルもの列車が作中で登場します。
その最初のトップバッターを飾る鉄道は「わたらせ渓谷鐡道」。
その路線を走行している列車「わ89-315号」の車内で、一組の男女のカップルが向き合って座っていました。
列車の外の景色を見ながらイヤホンで音楽を聴くのに熱中している男性と、何かに耐えるようにじっとしている女性。
女性は男性に対し「座席のシートが硬い」と訴えるのですが、男性は全く聞こえていないのかイヤホンを外すことすらなく外の景色に夢中になっています。
そんな男性の態度に耐えかねたのか女性は怒り出してしまい、「次の駅で降りる」と席を立ちその場を離れてしまいます。
後を追うに追えない男性は、そこで黒人?2人と一緒にいた優男風の男性と目が合い、互いに何か感じるものがあったのか、2人はアイキャッチだけの会釈を交わします。
女性にフラれた男性は、鉄道風景を見ながら音楽を聴くことを趣味とする小町圭(松山ケンイチ)。
黒人と一緒にいた男性は、やや堅物で鉄道の列車そのものを好む小玉健太(瑛太)
同じ「鉄道オタク」でもその中身は若干異なる2人の、これが最初の出会いでした。

小町圭は、東京に本社を持つ大手不動産会社「のぞみ地所株式会社」に勤めるサラリーマン。
どちらかと言えば「イケメン」の部類に入る彼は、女性達にも相応に注目されていたりする人物です。
ある日、彼が居住していたマンションで水道管の構造的な問題が発覚し、全面的な立替工事が行われることが決定され、小町圭はマンションから退去を余儀なくされてしまいます。
しかたなく小町圭は新しい住居を探し始めるのですが、なかなか気に入った住居が見つかりません。
しかしそんな最中、彼は冒頭の「わたらせ渓谷鐡道」で会釈を交わした小玉健太と偶然にも再会することになります。
小玉健太は、町工場レベルの規模しかない有限会社コダマ鉄工所の2代目跡取りで、社長である父親・小玉哲夫と共に会社を切り盛りしていました。
同じ「鉄道オタク」ということで小玉健太と意気投合した小町圭は、コダマ鉄工所の寮を借りることとなったのです。
趣味が合うもの同士で鉄道絡みの会話を楽しみながら日々の生活を送る2人。
ところが小町圭は、会社の会議の中で「都心に高層ビルを建設し、都心を見下ろせる景観を客に提供する」という会社の方針に対し反対の声を上げたことから、会社の女性社長に目をつけられてしまいます。
「彼はどちらかと言えばベンチャー向きね」という、褒めているのか貶しているのか微妙な女性社長の評価と決定により、小町圭は福岡にある九州支社への転勤(という名の一般的には左遷)を命じられることになってしまうのでした。
とはいえ、元来が「鉄道オタク」である小町圭は、「九州の鉄道巡りができる」とむしろそのことを喜んですらいたのですが(苦笑)。
福岡のシーサイドももちの一角にある高層ビルの住居が与えられた小町圭は、九州支社の社員達と仲良くやりつつ、「鉄道オタク」としての鉄道めぐりを満喫することになるのですが……。

映画「僕達急行 A列車で行こう」に登場する名前は全て鉄道の特急の名称がつけられています。
主人公2人の苗字である小町・小玉、および会社名である「のぞみ地所」の「のぞみ」は明らかに新幹線のそれですし、他の登場人物もまた、苗字と名前のいずれかに全国各地の特急の名称が冠せられています。
物語後半に登場する九州地元企業「ソニックフーズ」も、元ネタは福岡-大分間を結ぶ日豊本線を走る特急の名称「ソニックにちりん」だったりしますし。
また作中では、いかにも「鉄道オタク」的な会話が盛んに繰り広げられています。
主人公2人がコダマ鉄工所で働く外国人とキャッチボールをしている場面では、ボールを投げながら列車の速度についてのウンチクが披露されていたりしていますし、物語後半では、後でソニックフーズの社長・筑後雅也と判明する鉄道オタクな人物が、どう見ても鉄道に興味なさげな付き人の女性2人に「スイッチバック」についての解説を行っている描写があったりします。
久大本線の豊後森駅にある「豊後森機関庫」では、主人公2人が筑後雅也と出会い意気投合する様が描かれていたりしますし。
作中の描写のあちこちでも様々な列車が風景の一部として走っていてその存在をアピールしまくっており、「鉄道オタク」の方々にとってはこれだけでも一見の価値があるのではないかと。

ちなみに私は生まれてこの方一貫して九州在住なので、作中で走っていた九州北部の列車には見覚えのあるものが多数ありましたし、いくつかの列車には実際に乗ったこともあったりします。
作中に登場しているもので私が実際に乗ったことのある路線は鹿児島本線・日豊本線・福北ゆたか線の3つで、列車はソニック(日豊本線)・813系100番台(福北ゆたか線)ですね。
鹿児島本線の列車で作中に登場したものについては、見たこと自体は何度もあるのですが、不思議と乗ったことは一度もなかったですね。
一方で、元々熊本出身の人間としては、熊本-大分別府間を結ぶ豊肥本線が出てこなかったのが少々惜しいところではありました。
作中でも言及され説明が行われていた「スイッチバック」が存在する全国的にも珍しい路線なので、ひょっとすると出てくるのではないかと期待していたのですが。

物語に目を向けてみると、主人公2人が「鉄道オタク」という趣味を持っていることが、仕事と恋愛で見事に正反対の結果をもたらしているような感がありましたね。
仕事面では、「のぞみ地所」の九州支社が長年懸案として抱え込んでいたソニックフーズとの交渉が、主人公2人とソニックフーズ社長が同じ趣味で意気投合したことにより前進を見せ、結果的に懸案を解消することに成功しました。
ところが恋愛面では、主人公2人が鉄道にばかり熱中する様を相方の女性が戸惑う様が描かれていますし、特に小町圭の場合はそれが原因で相方の女性にフラれたようなものでした。
ああいうのを見ていると、恋愛や夫婦生活などでは「相手の趣味を理解し許容する」という要素は結構重要なものなのだなぁ、とついつい考えさせられてしまいますね。
ちなみにこのエピソードを見ていて、私はかつて2chの生活板でネタにされていたという以下の話を思い出していました↓

【ストレス】家族が「物を捨てられない病」3【ジレンマ】
ttp://life7.2ch.net/test/read.cgi/kankon/1128500852/802-
> 802 名前:おさかなくわえた名無しさん 投稿日:2006/03/10(金) 17:32:24 ID:s2RHsW2o
> 上にコレクションについての話がありましたけど
>
私は夫のコレクションを捨ててしまって後悔した立場でした
>
鉄道模型でしたけど
>
> かなり古い模型がまさに大量(線路も敷いてて一部屋使っていた)という感じでした
> 結婚2年目ぐらいから
「こんなにあるんだから売り払ってよ」と夫に言い続けたのですが
>
毎回全然行動してくれずに言葉を濁す夫にキレてしまい
>
留守中に業者を呼んで引き取ってもらえるものは引き取ってもらいました
>
> 帰ってきた夫は「売り払ったお金は好きにしていい」「今まで迷惑かけててごめん」と謝ってくれました
> 残っていた模型も全部処分してくれたのですごく嬉しかったです
>
> でも
その後夫は蔵書をはじめ自分のもの全てを捨て始めてしまいました
> 会社で着るスーツとワイシャツや下着以外は服すらまともに持たなくなり
> 今では夫のものは全部含めても衣装ケース二つに納まるだけになってしまって
>
> あまりにも行きすぎていて心配になり色々なものを買っていいと言うのですが
>
夫は服などの消耗品以外絶対に買わなくなってしまい
>
かえって私が苦しくなってしまいました
>
> これだけ夫のものがないと夫がふらっといなくなってしまいそうですごく恐いのです
> こういう場合ってどうしたらいいんでしょう

> 828 名前:802 投稿日:2006/03/11(土) 12:21:02 ID:ImOgEUVz
> 皆さんありがとうございます
>
> 今朝出勤前の夫と話をしました
> 謝ろうとしたのですが
> 「君の気持ちに気づけなかった僕が悪いんだから」
> という答えしか返ってこなく謝らせてもらえませんでした
>
> 取り戻すか新しいのを買おうとも言ったのですが
> 「もういいんだ」を繰り返すばかり
>
> 考えてみれば
夫のコレクションは結婚以来ほとんど増えてません
> 昔からのものばかりだったのでしょう
> 夫の部屋の中だけでしたし掃除もしていました
> (共働きのため家の掃除は殆ど夫がしています)
>
> ただ
新婚の家に既に夫のコレクションが沢山あったので
>
私は結構苛ついていたんだと思います
> 別に部屋に籠っているというわけでもなく
> 二人で映画を見たりご飯を作ったりしている時間の方が遥かに長かったのに
> なぜか私は苛ついていました
>
> 本も読まなくなってしまいました
> 私が見ているテレビを後ろからボーと見ているだけ
>
> 謝らせてもくれないぐらい傷つけてしまったんだと思います

夫と妻との間でそれぞれの趣味に対する理解というものがないと、こういう惨劇が実際に起きかねないわけで、こういうのを見ていると、作中の小町圭も「今の時点で別れることになって却って良かったじゃないの」という感想すら出てきたりもするんですよね(苦笑)。
あの女性はまさに、小町圭の「鉄道オタク」な趣味を理解するどころか反発すらしていたわけですし。
あの主人公2人の場合、「自身も鉄道オタクである」という女性を選んだ方が後々のことを考えると良いのではないか、とついつい考えてしまいましたね(^^;;)。

物語の雰囲気は全体的にほのぼのとしていて、御都合主義的な展開はあるものの安心して楽しめる構成となっています。
鉄道オタクな方々や、ほのぼの系のストーリーを楽しみたい方向けの作品と言えるでしょうね。

映画「ライアーゲーム -再生(REBORN)-」感想

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映画「ライアーゲーム -再生(REBORN)-」観に行ってきました。
甲斐谷忍の同名人気漫画「ライアーゲーム」を原作とするシリーズの続編。
時系列的にはテレビドラマ版「ライアーゲーム」を経た前作映画「ライアーゲーム ザ・ファイナルステージ」より後の話となります。
今作は一連の「ライアーゲーム」シリーズの続編ではありますが、登場人物の大半が一新されている上、前作までのエピソードもほとんど絡んでこないため、これまでのシリーズ作品を全く知らない人でも問題なく楽しむことができます。
かくいう私自身、「ライアーゲーム」シリーズは原作漫画もテレビドラマ版も前作映画も全て未観賞で、今作が初の観賞作品だったりしますし(^_^;;)。

物語の冒頭では、前作で壊滅状態となったライアーゲーム事務局が謎の復活を遂げ、とある一室で2人の人物が何かのゲームをしている様子が描かれます。
ゲームの当事者のひとりである福永ユウジは、もうひとりの当事者であるヨコヤノリヒコに対し、ゲームで優勢にでも立ったのか、勇ましく勝ち誇った台詞を吐き散らしまくっていました。
ところが、審判によるゲームの判定はヨコヤノリヒコに軍配を上げ、福永ユウジは愕然となり結果が認められない発言を連発します。
結果としてあまりにも無様な敗北者となってしまった福永ユウジは、ライアーゲーム事務局の言いなりになるしかなくなってしまったのでした。

ここで舞台は切り替わり、帝都大学における卒業式のシーンが映し出されます。
今作の主人公のひとりである篠宮優は、帝都大学卒業生代表として答辞を語っていました。
問題なく卒業式も終わり、友人と語らい篠宮優が自宅に帰ってくると、そこには1通の招待状とアタッシュケースが置かれていました。
不審に思ってアタッシュケースを開けてみると、そこには何と現金1億円もの大金が。
さらに招待状にあったDVD映像?には、

「あなたをライアーゲームに招待します。なお、一度招待状を開封した後に拒否した場合は、1億円を返済の上さらに1億円を支払って頂きます」

とのメッセージが。
不気味に思った篠宮優がおそらくは警察に行くために外へ出ようとすると、途端に子供の声で「どこへ行くのですか?」と話しかけられます。
篠宮優の部屋には篠宮優以外誰もいないはずなのに。
驚愕して振り返ると、そこにはすくなくとも外見上は小さな女の子の姿が。
ライアーゲーム事務局に所属しているらしいその子供(公式サイトによると「アリス」という名前らしい)は、淡々とした口調で映像と同じ注意事項を繰り返すとその場を去って行きます。
あまりでオカルティックな事態が連発した上、相手は1億円もの現金を手軽に用意できる組織。
半ば恐慌状態に陥った篠宮優は、そこで帝都大学で心理学を教えていた教授の存在に思い当たり、彼の元を尋ねに卒業した帝都大学へと向かうのでした。
そしてほどなく篠宮優は、帝都大学で生徒達に講義を行っていたその教授に出会うことができたのでした。
その教授の名は秋山深一。
テレビドラマ版および前作映画で活躍し、ライアーゲーム事務局を壊滅に追いやった張本人であり、また今作におけるもうひとりの主人公なのでした。

篠宮優は秋山深一にライアーゲームでの協力を依頼しますが、秋山深一はにべもなく拒絶し、結局彼女はひとりで帝都大学を出ることに。
ひとりで歩いている篠宮優は、やがて目の前に突如現れたトラックに拉致されてしまい、そのままライアーゲームの会場まで連行されてしまうのでした。
一方、篠宮優を拒絶した秋山深一の元にも、冒頭のゲームで事務局の手先となった福永ユウジによって、ライアーゲームの招待状が届けられていました。
篠宮優のことをどこで知ったのか、福永ユウジは彼女をネタに「お前がゲームに参加しないと彼女は負けるぞ」と言い募ります。
秋山深一は全く関心なさ気にその場を去りますが、アリスに成果を問われた福永ユウジは、彼は絶対ゲームに参加するであろうと自信に満ちて返答をするのでした。
果たして秋山深一は、福永ユウジの言う通りにライアーゲームの会場に姿を現すこととなるのでした。
かくして、篠宮優と秋山深一を含めた総計20人による、新たなライアーゲームが始められることとなるのですが……。

今作で行われるライアーゲームの主題は「イス取りゲーム」。
そのルールは、以下のような内容で構成されています↓

・ 参加者20名に対し、イスの数は15。
・ 参加者はまず、ゲーム会場となっている15のイスを探し出す。
・ 制限時間以内にイスを見つけられなかった参加者、およびイスに座っていなかった参加者は失格となる。
・ 回を追う毎にイスの数を減らしていき、最後に残ったイスに座っていた1人が勝者となる。
・ 各イスにはそれぞれ1~15までの番号が割り振られており、どのイスを減らすかは、その回毎に投票で選ばれた親が決めることができる。
・ 回毎の親を決める投票は失格となったプレイヤーも参加することができる。
・ 投票でトップが同点で2人以上いた場合、親決め投票は無効となり、イスを減らすことなく次の回へと進む。
・ 同じイスに2回連続で座ることはできない。ただし、2回連続でなければ同じイスに何度座っても構わない。
・ ゲームの最中に暴力行為を働いた参加者はその場で失格となる。
・ 既に失格した者が暴力行為を働いた場合はマイナス1億円のペナルティーが科せられる。

そして、ゲーム全体の流れとしては以下のようになります↓

1.まずは30分の作戦タイム。この間はイス探しの他、暴力行為以外は自由に何をしても良い。

2.作戦タイム終了後、イスに座った参加者は10分以内に親を決めるための投票を行う場に戻る。

3.10分以内に戻らなかった場合は投票権没収(失格にはならない)。

4.投票所へ集合後、5分間の投票タイムで親を決める投票を行い、参加者の中から親を決定する。

5.投票で選ばれた親がイスの番号を指定し、その番号のイスを減らす。

6.以上の流れを最後の一人になるまで繰り返す。

さらに賞金については以下の通り↓

・ 賞金は総額で20億円。
・ 各参加者には、それぞれの名前が刻んであるメダルが予め20枚配られている。
・ ゲーム終了後、勝ち残った参加者の名前が刻んであるメダル1枚につき1億円で換金される。
優勝者でなくても、優勝者のメダルを持っていれば、それを換金し賞金を受け取ることが可能。

作中でも明示されていますが、このゲームはルール上、ひとりで勝つことはまず不可能です。
同じイスに2回連続で座ることはできないのですし、またイス減らしを決める投票では参加者の数がものを言います。
仮に1人で複数のイスを取得していたとしても、投票で決定した親によってそのイスが消されてしまったら元も子もありません。
そのためこのゲームでは、参加者同士が徒党を組み、互いのイスを交換し合ったり、組織票で親の権利を取得したりするなど、相互連携して行動する必要が出てくるのです。
また親決め投票では失格者も参加することができることから、失格者を自分達の陣営に取り込むことも求められることになります。
失格者を取り込む際にはメダルがものを言います。
つまり、失格者にメダルをあげ、優勝すれば賞金を分け合うという形で失格者を買収することが可能なわけです。
ただ、ここで注意しなければならないのは、優勝者はあくまでもひとりだけであり、その人間の名前が刻まれたメダル以外は全く価値がないので、失格になるであろう人間のメダルをいくら持っていても意味がないということ。
よって、買収される失格者は失格者で、誰が優勝するのか、また誰のメダルが真の価値を持つことになるのかについて見極めなければならないのです。
かくのごとく複雑極まりないルールと環境の下、メダルを使った買収を巡る駆け引きや騙し合いを展開し親決め投票を制することで、参加者は初めて勝利を獲得することができるのです。

作中では、このイス取りゲームの本質に気づいた3人の人物により、それぞれ3つの「国」が作られることになります。
カルト教団の教祖・張本タカシをリーダーとする「張本国」(初期は5人で構成)。
前回のライアーゲームの優勝者である秋山深一を一方的にライバル視している桐生ノブテル率いる「桐生国」(初期は3人で構成)。
そして秋山深一を中心に集まった「秋山国」(初期は4人で構成)。
これに失格となった参加者達も加わり、かくして自陣営のイスを死守する一方、他の2国のイスを減らさんとする3国による3つ巴の知略戦が熾烈を極めることになるわけです。

映画「ライアーゲーム -再生(REBORN)-」は、これまで私が観賞した作品で言うと、映画「デスノート」2部作および映画「カイジ2~人生奪回ゲーム~」などに近いものがありますね。
基本的には人間同士の騙し合いや心理戦が延々と続くことになるわけですし。
上記作品と異なるのは、「2勢力が互いにシノギを削って争っている中で1勢力が様子見をしている」的な3つ巴の構図ならではの展開があることですね。
この間観賞した映画「アンダーワールド 覚醒」では、映画の宣伝から期待していた3つ巴の戦いがほとんど出てこなくてガッカリした経緯があっただけに、今作で展開された3つ巴の戦いは個人的にも嬉しいものがありました(^^)。
主人公格の秋山深一だけでなく、他の2国を率いていた張本タカシと桐生ノブテルによるそれぞれの知略戦も見応えがありましたし。
逆に、最初は全く頼りにならないどころか「邪魔」な様相すら呈していたのは、秋山深一と同格以上の主人公であるはずの篠宮優ですね。
素直に戦いを主導している秋山深一に任せておけば良いのに、自分で自分を勝手に追い込んだ挙句、張本タカシの姦計にハマって「無能な働き者」のごときピエロな愚行をやらかし、結果として自分も含めた「秋山国」の面々を窮地に追い込んでいたのですから。
まあ彼女も後半では秋山深一と共に見事な逆転劇を演じていましたし、その愚行と挫折は同時に彼女を成長させるための原動力にもなったのでしょうけど。
ラストは若干御都合主義的かなと思わなくもありませんでしたが、各参加者毎の人間模様や知略戦は、確かに人気作品になるだけの面白さがありましたね。

ただ、ひとつ疑問だったのは、今回開催されたライアーゲームって、前作でライアーゲーム事務局を壊滅に追い込んだ秋山深一に対する復讐が目的だったらしいんですよね。
作中でも、秋山深一に招待状を渡していた福永ユウジがそんなことを述べていましたし、公式サイトのストーリー紹介でも同様のことが書かれています。
しかし、秋山深一をライアーゲームに参加させると、一体どのようなメカニズムでもって「復讐が達成される」ということになるのか、それがそもそも全く見えてこないんですよね。
一応ライアーゲーム事務局側としては、秋山深一をライアーゲームで敗北させれば復讐は達成されると考えていたようなのですが、ただ「秋山深一を敗北させる」ことを実現するだけであれば、ライアーゲーム事務局にとって方法なんていくらでもあります。
たとえば、イス取りゲームのルールの中に「各参加者は秋山深一とだけは絶対に手を組んではならない。手を組んだ者はその場で失格」みたいな条項を追加するだけでも、秋山深一に挽回不可能なレベルの多大なハンディキャップを背負わせることが可能となります。
また、イス取りゲームのルールが適用されるのはゲームの参加者だけなのですから、ライアーゲーム事務局が外部の人間を使って秋山深一を拘束したりする、といった行為をやっても何の問題もないことになります。
あくまでもライアーゲームのルールを全く変えず、また外部の人間も使わないというのであれば、いっそ秋山深一以外の参加者全員を自分達の息がかかった手駒だけで固めてしまったり金銭を渡したりするなどして、組織的な連携プレイで問答無用に秋山深一ひとりを叩き潰す、みたいな方法を取ることだって可能です。
ゲームの参加者を選定する権利は、あくまでもライアーゲーム事務局にあるのですから簡単なことでしかありません。
もちろん、こんなことを本当にやろうものならゲーム自体が全く成り立たなくなってしまうわけですが、しかしライアーゲームの中におけるライアーゲーム事務局はある種の「神」のごとき絶対的な存在なわけですし、本当に「秋山深一への復讐」が最優先目標なのであれば、こういう選択肢を取らない方がむしろおかしいと言わざるをえないのです。
秋山深一を文字通り殺してしまえば復讐は成就される、というわけでもなさそうですし、自分達が独自に動いてなりふり構わず敗北させる手段に打って出るわけでもない。
作中のようなやり方では、ライアーゲーム事務局の復讐が達成できるか否かはかなり「運任せ」な要素が強いものとならざるをえませんし、確実に勝てる方法を捨ててわざわざ「分の悪い賭け」をしなければならない理由がライアーゲーム事務局にあったのでしょうか?
「個人への復讐」などという利害無視の行為を正当化すらしかねない要素など前面に出さないで、普通に金儲け目的のライアーゲーム開催、という形にした方がまだ良かったのではないかと思うのですけどね。

知略戦や3つ巴の戦いを観たいという方には文句なしにオススメできる作品です。

映画「逆転裁判」感想

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映画「逆転裁判」観に行ってきました。
2001年に発売されて以降シリーズを重ね、累計で400万本以上の売上を記録し、以後の法廷・弁護士ドラマにも影響を与えたと言われる、カプコンから発売された同名の法廷バトルゲームの実写化作品。
ちなみに原作ゲームは全て未プレイです(^^;;)。
Wikipediaで調べたところによると、映画のストーリーは原作ゲームの「1」をベースにしているみたいですね。

物語は何故か、霊媒師と思しき女性が、おどろおどろしく祈祷をしている場面から始まります。
自身に霊?を乗り移らせ、何かをしゃべらせようとするところで、舞台は急に切り替わり、主人公の新米弁護士・成歩堂龍一(なるほどうりゅういち)が弁護をしている法廷の場へと移ります。
成歩堂龍一は、とある殺人事件で自身の幼馴染である矢張政志(やはりまさし)にかけられた殺人容疑を晴らすべく、序審裁判で検事とのバトルを繰り広げていました。
序審裁判とは、起訴された被告が「有罪なのか無罪なのか」についてのみを、検事と弁護士による最長でも3日以内の直接対決で結審する序審と、有罪の場合のみ量刑などについての審議を行う本審に裁判過程を分ける制度を指し、原作ゲームおよび今作特有のオリジナルとなるシステムです。
何でも、増加する犯罪に対して迅速に対応できることを目的とした制度なのだとか。
その序審裁判で矢張政志の弁護を続ける成歩堂龍一は、しかし検事側の反撃で返答に窮してしまい、まさにギブアップ寸前にまで至ろうとしていました。
そこへ颯爽と登場し、被告の無罪を100%証明するだけの証拠を突きつけ、裁判の流れを逆転させたのは、成歩堂龍一の上司で良き理解者でもある綾里千尋(あやさとちひろ)でした。
結果、矢張政志は裁判官から見事に無罪を獲得することに成功します。

晴れて法廷から出てきた矢張政志は、無罪判決を獲得したお礼にと、綾里千尋に自作の「考える人」を模した時計型置物をプレゼントします。
この置物は頭の部分がスイッチになっており、スイッチを押すことで時刻を教えてくれるというシロモノでした。
困惑しながらも置物を受け取った綾里千尋はその後、どこかの資料室で資料を漁っている姿が映し出され、目的のブツらしきものを見つけて走り出しながら、「近いうちに大きな裁判をやることになるから明日の夜に来て欲しい」と成歩堂龍一に連絡します。
翌日、その呼び出しに応じて綾里千尋の事務所を訪ねた成歩堂龍一は、しかしそこで頭から血を流して死んでいる綾里千尋の撲殺体を発見することになってしまうのでした。
しばらく呆然としている中、まるでタイミングを図ったかのように事務所へやってきて成歩堂龍一に拳銃を向ける警官達。
成歩堂龍一はうろたえながらも「俺は犯人じゃない」と主張しますが、拳銃を突きつけている刑事は「お前が目的じゃない」と視線を別のところへと向けます。
そこで初めて成歩堂龍一は、遺体の近くでへたり込んでいた女性の存在に気づくのでした。
撲殺された綾里千尋は、手に持っていた紙に「マヨイ」という3文字のカタカナをダイイングメッセージとして残しており、かつへたり込んでいた女性の名前は綾里真宵(あやさとまよい)。
当然、彼女は事件の第一容疑者として警察に逮捕されてしまいます。
しかし成歩堂龍一は、無実を主張する綾里真宵の言を信じ、序審裁判での彼女の弁護を引き受けるのでした。
ところが、いざ法廷へと向かう成歩堂龍一は、自分と対決することになる検事を見て驚きの声を上げます。
それは矢張政志と同じ幼馴染で、かつては弁護士になるという将来の夢を語り合っていた御剣怜侍(みつるぎれいじ)だったのです。
御剣怜侍は、被告を有罪にするためならば手段を問わない、若いながらも敏腕検事としてその名を轟かせていました。
何故彼は、弁護士とは全くの正反対の検事になったのか?
疑問が尽きないまま、成歩堂龍一は綾里真宵の無罪を勝ち取るため、かつての幼馴染との直接対決の舞台に立つこととなるのですが……。

映画「逆転裁判」では、どう見てもギャグコメディを意図して製作されているとしか思えない演出が多々ありますね。
そもそも髪型と各主要登場人物の名前からしてギャグそのものですし(笑)。
主人公格である成歩堂(なるほどう)と矢張(やはり)以外にも、糸鋸(いとのこぎり)、大沢木(おおさわぎ)、狩魔(かるま)、生倉(なまくら)など、当て字以外の何物でもない苗字が続々と登場しますし。
髪型も静電気でも浴びているかのように横に突っ張っていたり、結い上げ過ぎて頭が伸びていたり、銀髪だったりと、とにかくあらゆる意味で特徴的なシロモノだったりします。
他にも、主人公が素っ頓狂な言動をカマしたり、それを受けて被告・検事・傍聴席の人間が一斉にズッこけるシーンがあったりと、コメディっぽい描写が満載です。
ただ、これらの描写は原作からの延長でもあるでしょうし、かつ原作では大いにウケたのでしょうけど、実写化されたものを観た限りでは、笑いよりもむしろ「寒い」と感じずにはいられなかったところですね。
笑いという点では、この間観賞した映画「ジョニー・イングリッシュ 気休めの報酬」の方がはるかに上手かったですし。
原作キャラクターの造形や描写を忠実に再現すること自体は悪いものではないでしょうが、映画「逆転裁判」の場合、それが実写化に合致したものだったのかはかなり微妙なところですね。

また、主人公が被告の無罪を立証するのに際し、検事から反論されると言葉に詰まったり返答に窮したりする描写が結構あるんですよね。
主人公は「新人の弁護士」という設定ですから、まだ弁護慣れしていないという事情もあるのでしょうけど、あまりにも頼りないイメージが前面に出ていました。
逆に決定的な証拠を突きつけて無罪を立証する場面では、ほとんどノリノリで弁術を繰り広げており、素晴らしく頼りになる弁護士であるかのように見えるんですよね。
この2つのギャップがなかなかに面白かったです。
しかし物語後半、検事側の反撃に窮するあまり、オウムのサユリさんを証人?として証言台に立たせた(設置した?)シーンなどは、さすがに「正気か?」と疑わざるをえないところでした。
証人どころか、そもそも「人」ですらないですし(爆)。
検事側も「証人としての適性を欠いている、というか適当すぎるだろ!」と吠えていましたが、思わず頷いてしまったものでした (^^;;)。
というか、よくオウムを証人(証鳥?)にすることを裁判官が認めましたね。
結果的には、そのオウムの囀りから事件のカギとなる意外かつ重要な事実が出てきたのですが、「結果良ければ全て良し」で片付く問題じゃないだろう、と。

ストーリー構成的に気になったところでは、作中で弁護側が被告の無罪を立証する際、「現状では被告が有罪なのか無罪なのか分からない」「被告には無罪の余地がある」という段階になってもなお、必死になって無罪を立証しようとしていたことですね。
実は実際の刑事裁判では、そういった段階にまで到達できれば、それは100%の「被告&弁護士の勝利」となります。
何故なら、裁判というのは本来「被告が有罪か無罪かを判断する場」でなければ「被告を有罪にしたり量刑を考えたりする場」でもなく「被告の有罪を立証しようとしている検察を裁く場」だからです。
検察が挙げている証拠が合法的に採取されたものなのか、検察が被告を有罪とする論拠は確かなものなのか、検察が出してきた証人は果たして本当のことを述べているのか……。
裁判とは、検察側が掲げる様々な証拠や証人の数々について上記のように審議する場なのであり、検察が被告の有罪を立証するためには、自分達の主張が100%全て正しいものであることを証明しなければならないのです。
裁判では「疑わしきは被告人の利益に」という言葉もあり、すくなくとも理念上では「被告が無罪になる余地は全くない」という状況にならないと被告は有罪になりません。
たとえ、検察側の主張が99.999…%と「限りなく100%に近い確率で正しい」ものであったとしても、それは「100%そのもの」ではないので、検察の主張には0.000…1%の穴があるということになり、それでは「検察は被告が100%有罪であることを立証できない」ことになってしまうのです。
当然、被告は裁判では無罪になります。
裁判がそのようなシステムになっているのは、検事が行政に属しており、裁判官は司法の一員としてのチェックを担うことでその暴走を防ぐという三権分立の理念に基づいているためで、そのため裁判官は公正ではあるべきだが中立であってはならず、あくまでも「被告の味方」でなければならないとされています。
よって、「現状では被告が有罪なのか無罪なのか分からない」という状況では、検察の主張には(無罪の余地があるだけでもダメなのに)50%もの大穴があることになり、弁護側はこの時点で被告の無罪を獲得することが可能となるのです。
この状況では、必死にならなければならないのはむしろ検事側でなければならないはずなのですが、作中ではむしろ検事側の方が余裕な態度を見せ、弁護側が追い詰められているような表情を見せているんですよね。
それは話が逆だろ、とは思わずにいられなかったのですが。

裁判で扱っている事件そのものはシリアスなもので、事件の真相もミステリー的な手法で解明されていくのですが、原作に似せようとする努力が一種のコメディっぽくなっているため、シリアス要素とコメディ要素の一体どちらを重視して映画を製作したのか、いささか判断に迷うところですね。
原作ゲームは2012年2月時点で4作目+αまで製作されているようですし、映画の興行次第では続編もありそうなのですが、果たしてどうなることやら。

映画「はやぶさ 遥かなる帰還」感想

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映画「はやぶさ 遥かなる帰還(以下「遥かなる帰還」)」観に行ってきました。
2003年5月9日に打ち上げられ、2010年6月13日にサンプルを地球に投下して消滅した、小惑星探査機「はやぶさ」とその開発・運用に関わった人々の実話を元に製作されたドラマ作品。

小惑星探査機「はやぶさ」に関する行程やトラブル発生などは、同じ「はやぶさ」をテーマに製作され、去年劇場公開された映画「はやぶさ/HAYABUSA(以下「HAYABUSA」)」とほぼ同じです。
ただ登場人物については、モデルとなった実在の人物はいるものの、「HAYABUSA」も「遥かなる帰還」も全く異なる架空の名前が使われているため、名前で登場人物の役割を照合しようとすると混乱を来たすかもしれません(^^;;)。
私も最初、「HAYABUSA」の人物設定をそのまま「遥かなる帰還」にも当てはめようとしてしまい、「アレ? こんな名前の人いたっけ?」と一瞬戸惑う羽目に(-_-;;)。
幸い、役職名の方はどちらもほぼそのままだったので、「ああ、この人物はあの役職を務めているのか」という形で、登場人物達が担っている立場や役割はすぐに頭の中に入ってきましたが。
ちなみに「HAYABUSA」および「遥かなる帰還」に共通で登場する、モデル元とおぼしき実在の人物および配役を演じたキャストは、私が調べた限りではだいたい以下のようになっているようですね↓

実在のモデル:川口淳一郎(「はやぶさ」のプロジェクトマネージャー)
HAYABUSA:川渕幸一(キャスト:佐野史郎)
遥かなる帰還:山口駿一郎(キャスト:渡辺謙)物語の主人公

実在のモデル:西山和孝(「はやぶさ」のイオンエンジン担当&運用スーパーバイザー)
HAYABUSA:平山孝行(キャスト:甲本雅裕)
遥かなる帰還:藤中仁志(キャスト:江口洋介)

実在のモデル:國中均(「はやぶさ」のイオンエンジン担当)
HAYABUSA:喜多修(キャスト:鶴見辰吾)
遥かなる帰還:藤中仁志(キャスト:江口洋介)

実在のモデル:堀内康夫(「はやぶさ」のイオンエンジン担当NEC)
遥かなる帰還:森内安夫(キャスト:吉岡秀隆)

実在のモデル:山田哲哉(「はやぶさ」のカプセル担当)
HAYABUSA:福本哲也(キャスト:マギー)
遥かなる帰還:鎌田悦也(キャスト:小澤征悦)

実在のモデル:的川秦宣(「はやぶさ」の広報担当)
HAYABUSA:的場秦弘(キャスト:西田敏行)
遥かなる帰還:丸川靖信(キャスト:藤竜也)

※取消線と青字部分は間違いとの指摘を受けましたので修正しております。

そして人間ドラマに関しては、当然のことながら「HAYABUSA」と「遥かなる帰還」でその見せ方も大きく異なっていますね。
女性平スタッフの視点および「はやぶさ君の冒険日誌」を用いることで、「子供にも理解させること」に重点を置いたストーリー進行だった「HAYABUSA」。
それに対して「遥かなる帰還」は、どちらかと言えば「大人が楽しむこと」を目的としたストーリー構成となっています。
小さな町工場を運営し、「はやぶさ」の試作品を製作した実績を持ちつつも、不況による経営悪化のために従業員が自主的に辞めていった東出機械の社長絡みのエピソードなんて、どう見ても子供向けではありませんし。
一方、人間ドラマ絡みでどちらにも共通して存在したエピソードとしては、「はやぶさ」のプロジェクトマネージャーが神社で「はやぶさの帰還」を祈願し、「はやぶさ」の管制室にお守りだかお札だかを祭るシーンですね。
このエピソードにある神社のモデルは岡山県の中和神社なのだそうで、「はやぶさ」のプロジェクトマネージャーだった川口淳一郎が2009年11月にこの神社を参拝していたことが、地元の地方紙である山陽新聞で報じられていたのだとか。
2012年3月に公開予定の、これまた「はやぶさ」をテーマとして扱っている映画「おかえり、はやぶさ」にも、このエピソードは普通に入っていそうですね(苦笑)。

今作のハイライトとしては、やはり主人公である山口駿一郎を演じた渡辺謙の演技が挙げられますね。
登場する場面の数々でやたらと貫禄がある演技を披露していましたし、「はやぶさ」が行方不明であることを理由に協力を打ち切ろうとしたアメリカのNASAに対して、流暢な英語で「貴国がそのような態度に出るならば、我が国も(はやぶさが持ち帰るであろう)サンプルの提供を拒否する」と堂々と反撃していた様は見事の一言に尽きました。
この辺りはやはり、ハリウッドでも活躍してきた渡辺謙ならではの演技だったでしょうね。
渡辺謙のファンであれば、今作を観に行く価値はあるのではないかと。

ただ個人的には、既に観賞済みだった「HAYABUSA」と「はやぶさ」絡みの描写で重複している部分が多々あったこともあり、楽しめる部分が半減していたのは惜しい部分ではありました。
「遥かなる帰還」自体が問題なのではなく、あまり期間を置かないうちに同じ主旨の映画を立て続けに観に行った私個人の事情ではあるのでしょうけど。
来月にはさらに3本目の「おかえり、はやぶさ」が出てきますし、全く同じ主旨の作品を複数、しかも立て続けに制作・公開するのは興行的にもどうかとは思わずにいられないですね。
最初からネタとして楽しむか、あえて3つ全て観賞してその違いを楽しむといった類の嗜好でも持っているのでなければ、映画を観るのは3本のうちの1本だけで充分なのではないかと。

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