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映画「リアル ~完全なる首長竜の日~」感想

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映画「リアル ~完全なる首長竜の日~」観に行ってきました。
乾緑郎の小説「完全なる首長竜の日」を原作とする、実写版「るろうに剣心」の佐藤健および「ひみつのアッコちゃん」の綾瀬はるか主演のSFミステリー作品です。

今作の主人公である藤田浩市と和敦美は、小学校時代の幼馴染で、現在は恋人同士の関係にあります。
同棲生活をしていて結婚まで視野に入れた付き合いをしていたであろう2人の関係は、しかしある日突然、和敦美の自殺未遂によって突然断ち切られてしまいます。
和敦美は自殺未遂から1年もの時間が経過してもなお意識が戻らず、また自殺した理由自体も全く不明。
何とか和敦美を目覚めさせたい藤田浩市は、和敦美が入院している病院の医師から「センシング」と呼ばれる先端医療機器の使用を提言されます。
「センシング」とは、昏睡状態となった患者の脳に他者が直接アクセスし、互いの意思疎通を可能にする最先端の医療機器技術のことを指します。
「センシング」の使用に際しては、患者と患者にアクセスする人間との相性も問われるようなのですが、幸いにして藤田浩市と和敦美の相性は良好だったのだとか。
今回の「センシング」の目的は、和敦美が自殺した理由と原因を明らかにすると共にその問題を解消し、和敦美が目覚める方向へと誘導すること。
そして藤田浩市は「センシング」を使い、和敦美との第1回目のコンタクトを図ることとなるのでした。

「センシング」で患者とアクセスできる時間は最大でも数時間程度。
その記念すべき最初の「センシング」で、藤田浩市は無事に和敦美の意識の中にダイブすることに成功します。
そこで彼が見たのは、住み慣れた2人の住居で一心不乱にマンガを描き続ける和敦美の姿でした。
意識の中における彼女は、自身が連載しているマンガの執筆に行き詰っているようでした。
藤田浩市は早速、和敦美に自殺未遂を図った理由について問い質すのですが、彼女は完全に自分の世界に浸りきっていて、藤田浩市の質問に回答を与えようとしません。
そして、自分が抱え込んでいるスランプを抜け出すために、幼い頃に描いた「首長竜の絵」を見つけてきて欲しいと藤田浩市に依頼するのでした。
「首長竜の絵」を見れば、和敦美の意識が戻るかもしれない。
そう考えた藤田浩市は、現実世界と「センシング」の双方で「首長竜の絵」の探索に乗り出すことになります。
しかし、「首長竜の絵」を探す過程で、藤田浩市の周囲では次々と不可解な事象が発生し始めるのです。
謎の怪現象に翻弄されつつ、藤田浩市は事の真相に迫ろうとするのですが……。

映画「リアル ~完全なる首長竜の日~」で重要なツールとして登場する「センシング」という先端医療技術は、ある種の人々にとってはまさに夢のような存在と言えますね。
何しろ、意識不明の重体にある人間の脳に直接アクセスし、様々な情報を引き出すことができるときているのですから。
意識不明の状態にある親族を長年にわたって看病・介護し続けているような家族などにとっては、喉から手が出るほどに欲しい技術ではあるでしょう。
それだけでなく、患者が暴力・殺人未遂事件等の当事者であった場合は犯罪捜査にも役立ちますし、また本人確認が必要不可欠な遺言などにも力を発揮するであろうことは確実です。
意識不明の患者だけでなく、精神病を抱え込んでいる患者相手にも「センシング」はかなりの威力を発揮しそうです。
作中の描写を見る限り、無意識の深層意識なども投影されているようなので、患者の心理状態や過去の事象を探ったりするのにはうってつけのツールと言えますし。
一方で今後の課題としては、患者および患者とアクセスする人間との間で相性が良いことが相当程度の割合で求められることにあるでしょうか。
作中でも、「センシング」が成功したというだけで周囲の医師達一同がわざわざ一斉に拍手していたりするくらいですから、アクセス者は誰でも良いというわけではなく、また成功率もあまり高くないであろうことが伺えますし。
まあ患者側からすると、全く知りもしない人間がズカズカと自分の意識の中に入ってくるというのは、プライバシーその他の問題に抵触する等の様々な問題や弊害を引き起こしかねない事態ではあるのでしょうけど。

プラスマイナスいずれにせよ、色々な事態や利益・問題が生じ得る画期的な技術ではありえるでしょうね、「センシング」という存在は。
他人の意識や夢の中にダイブして情報を引き出したり植え付けたりする、というコンセプト自体は、過去の事例でも2010年公開映画「インセプション」がありましたが、技術的にはこちらの方が現実味があるのではないかと。
「インセプション」の方は、どちらかと言えば「職人芸」的な側面の方が強調されていましたし、その使用用途も「犯罪行為を遂行するためのツール」でしかなく、汎用性が高いとは正直言い難いものがありましたから。
あちらはあちらで、今作のような使い方ができないわけではないと思うのですけどね。

今作は前回観賞した映画「オブリビオン」と同じく、物語前半と後半で主人公の立場が大きく変わることになります。
物語前半の展開全てが、実は事故で入院していた藤田浩市が外界から得た情報を元に構築した妄想の世界だった、というのは何とも凄まじく強引な展開ではありましたが(苦笑)。
ただ、その妄想世界に登場する自分以外の人物達は、外面だけで中身のないフィロソフィカル・ゾンビではなく、どう見ても普通の人間のごとき外見で意思も感情もあったわけなのですが、アレを藤田浩市は一体どうやって現出させていたのでしょうか?
作中前半の描写を見る限り、意識の世界では、人間は本人以外だとフィロソフィカル・ゾンビしかいないみたいな演出だったのですが……。
もっとも、後半判明する逆転の事実から考えると、実は「フィロソフィカル・ゾンビ」という概念自体が藤田浩市の頭の中で作り出された妄想の産物だった、という可能性も否定できないのですが。
マンガ家として自身が執筆していた猟奇作品辺りに出てきても不思議ではなさそうな設定ではありますからねぇ、アレは。
他の患者の「センシング」で同様の存在が出現している、というのであればまだしも、作中では藤田浩市以外の「センシング」実施例がないわけですし、作品世界における「フィロソフィカル・ゾンビ」の実在性については作中の描写や設定だけでは判断できないですね。

あと、物語終盤で藤田浩市と和敦美は、首長竜を相手に逃走劇を披露することになるのですが、ただ逃げるだけでなく「戦う」という選択肢はなかったのですかね?
物語前半では、和敦美(の妄想体?)がどこからともなく拳銃を持ち出してフィロソフィカル・ゾンビを撃ち殺しているシーンがあったのですから、それと同じように重火器の類を作り出したり、自分達に超人的な力を付与したりして、正面から首長竜を打ち倒すことも不可能ではなかったのではないかと。
和敦美(の妄想体?)が主張していたがごとく、所詮は「何でもあり」の意識の世界でしかないのですからねぇ。
まあ、藤田浩市にとっての首長竜は「幼少時のトラウマ」が形になったものでしたし、戦うこと自体が最初から不可能だった、ということなのかもしれませんが、あの時点では和敦美も隣にいたのですし、対抗できないこともなかったように思えてならなかったのですけどねぇ。
首長竜の形をしたトラウマに対し、藤田浩市は結局最後まで反撃どころか逃げることすらもできず、ひたすら無為無力を露呈していただけでしかなかったですし。
この辺りは、自力だけでの更生が極めて難しい精神医学の限界を表現した者でもあったりするのでしょうかねぇ。

SFミステリーと言っても、SF映画にありがちな派手な演出は全くありませんし、どちらかと言えばミステリー的な面白さを追求した映画であると言えるでしょうか。

映画「探偵はBARにいる2 ススキノ大交差点」感想

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映画「探偵はBARにいる2 ススキノ大交差点」観に行ってきました。
作家・東直己の「ススキノ探偵シリーズ」を原作とする、北海道を舞台に繰り広げられるハードボイルド・ミステリーシリーズ第二弾。
今作は原作5巻の「探偵はひとりぼっち」がベースになっているのだとか。
前作「探偵はBARにいる」から引き続き出演しストーリーと関わってくる登場人物も少なからずいるので、今作を観賞する際には前作を事前に復習しておくことをオススメしておきます。
なお作中では、主人公が女性と延々とまぐわっているシーンが序盤に登場する等の描写があるため、前作同様に今作もPG-12指定されています。

前作に引き続き、作中で全く名前が公開されない「探偵」が主人公の今作の物語は、「探偵」の友人であるオカマのマサコちゃんが何者かに殺害されるところから始まります。
マサコちゃんはマジシャン?としてかなりの実力を持っており、その手の全国大会を扱ったテレビ番組で優勝してしまうほど。
しかし、その優勝から2日後、マサコちゃんは何者かに殺されて、ゴミ溜めの中に放置されているのが発見されたのでした。
当然のごとく、マサコちゃんの周囲は怒りに満ち溢れ、「探偵」もそれに同調するのですが、それから3ヶ月の歳月が経過しても、警察の捜査は一向に進展せず、容疑者の候補すら全く浮上してきません。
その3ヶ月の間、ただひたすら女遊びにシケこんでいたものの、最終的に女から捨てられてしまった「探偵」は、思い出したかのようにマサコちゃん殺人事件の捜査状況を把握して愕然とするのでした。
捜査が行き詰っているだけでなく、当初は犯人への復讐心で気炎を上げていた関係者達が、何故か奥歯に物が挟まったかのごとく曖昧に言葉を濁すありさま。
それもそのはずで、マサコちゃん殺人事件には、北海道でも大物とされる政治家の姿が見え隠れしていたのでした。
その政治家・橡脇孝一郎は、かつてマサコちゃんと同性愛的な関係にあることが、関係者の間では密かに知れ渡っていました。
現在は既に縁が切れているものの、マサコちゃんがテレビ出演したことで過去を蒸し返されることを恐れた橡脇孝一郎本人またはその関係者が、口封じを意図してマサコちゃんを殺害したのではないか?
そのような噂が関係者の間で広がったことから、周囲はマサコちゃん殺人事件について口を閉ざすようになってしまったのでした。
そんな周囲の様子に納得がいかない「探偵」は、独自に事件の捜査を進めていくことを決意するのですが、その時から彼には不審な人物達がまとわりつくようになります。
「マサコちゃんのファン」を名乗る謎の女性。
橡脇孝一郎絡みで、それぞれの思惑に基づいて蠢く3つの集団。
「探偵」は、これらの存在に対処しながら、事件の真相を解明していくことになるのですが……。

映画「探偵はBARにいる2 ススキノ大交差点」は、いかにも闇の組織が蠢いていると言わんばかりのストーリー構成に反して、その事件の真相はおよそ笑えるレベルで卑小なシロモノでしかなかったですね。
作中でアレだけドタバタ劇をやっていたのは一体何だったのか、とすら思えるほどに。
政治家およびその周囲の人間達の動向だの、主人公と周囲の人間の怒りだのは、結局殺人事件とは全く何の関係もなかったわけですし。
結果から見れば、終盤近くまで政治家が犯人であることを前提に各種の言動を繰り広げていた、主人公を含めた全ての登場人物達が、実に滑稽に見えてならなかったですね。
犯罪捜査は予断と偏見をベースに行ってはいけない、という基本中の基本な考え方を、今作はまざまざと見せつけてくれています。
とはいえ、物語的に見ると、アレだけ大騒動を繰り広げた挙句があの真相では、あまりにも竜頭蛇尾に過ぎて悪い意味で拍子抜けもいいところです。
先の展開がなかなか読めないながらも、結果から見れば最初から最後まで一本筋が通ってはいた前作の方が、ミステリー作品としては出来が良いのではないかと。
アクションシーンやカーチェイスなどは、確かに前作よりもスケールアップしていた感はありましたけど。

また、いくら自分の思想や政策と合致する政治家を守るためとはいえ、「自発的に」主人公達を暴力的に襲撃して平然としている集団も、なかなかにクるものがありましたね。
その目的が「脱原発推進」というのも笑えるところではあったのですが。
カネで雇われて手先になっていた、というのであればまだしも、彼らは自主的かつ無報酬で手先同然の行動に打って出ていたわけですからねぇ、彼らは。
巷の左翼&サヨク運動を皮肉る意図でもあったりしたのでしょうかね、アレは(苦笑)。
まあ実際には、彼らが自分達の正体や黒幕の存在を隠蔽したいがためにあえて虚言を弄していた、という可能性もなくはないのですが。
あの手の組織では、依頼主やスポンサーは最大の企業秘密のひとつでしょうし、傍から見てもウソっぱちな虚言であっても、それを守ろうとするのもこれまた当然の話ですし。
ただ、あそこまで状況証拠が歴然としている中で、そんなことをして意味があったのかは疑問もいいところなのですけど。

エピローグでは前作に引き続き、「探偵」の相棒である高田が所有するボロ車のビュートがド派手にエンストし、2人して立ち往生する様が描かれています。
前作でも「クルマ買い替えろ!」を激高していた「探偵」でしたが、何故高田はあのクルマを全く変えようとしないのでしょうか?
今時、アレより安くて燃費その他の面で性能の良いクルマなんて、中古車ショップにすらたくさんあるのではないのかと。
というか、むしろあのクルマを維持することの方が、メンテ費用その他で却って高くつくのではないかとすら思えてならないくらいですし(爆)。
ものぐさで怠け者気質な高田であれば、むしろメンテの手間がかからないクルマを選びそうなものなのですが、高田はあのクルマによほどの愛着でもあったりするのでしょうかね?

ミステリー物としてはイマイチな感がありますが、アクションとコメディを交えたハードボイルド物としてならば、それなりに見れるものはあるのではないでしょうか。

映画「図書館戦争」感想&疑問

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映画「図書館戦争」観に行ってきました。
有川浩の同名小説を原作とする、岡田准一・榮倉奈々主演のSFアクション大作。
「図書館戦争」は、元々アニメ化された後に「図書館戦争 革命のつばさ」というタイトルで映画化もされていたのですが、そちらは全国わずか30スクリーンでの上映ということもあり、熊本では全く観賞することもできないまま終わってしまっていました(T_T)。
それだけに今回の実写映画版は、公開が決定したことを知ってすぐに観賞リストに追加したほど、期待の高い作品でもありました。
しかも今作では、「SP」シリーズで奇抜なアクションシーンを見せてくれた岡田准一が主演、という大きなプラス要素もあったわけですし。
個人的に、映画観賞前の期待度という点では、今年前半期に上映される映画の中では一番だったと思いますね、今作は。

物語の舞台は並行世界?の架空の日本。
この世界の日本では、1988年に当時の国会で「メディア良化法」が成立するまでは、現実世界と全く同じ歴史を歩んでいます。
「メディア良化法」とは、公序良俗を乱し人権を侵害するとされる表現を規制するために制定された法律で、その対象は新聞・週刊誌等の紙媒体マスメディアはもちろんのこと、個人の著書やWebサイトなども含まれています。
「メディア良化法」の施行に伴い、その法の執行を行う機関「メディア良化委員会」が設置され、「メディア良化法」の名の下で苛烈な言論弾圧が開始されることになりました。
翌1989年1月、この世界でも昭和天皇が崩御され、新たな元号が制定されました。
この世界の日本で新たに採用された元号は「平成」ではなく「正化」。
「正化」は実際に「平成」と並ぶ新元号の有力候補のひとつだったのだそうですが、これ以降、日本国内における言論弾圧はますます激しさを増していきます。
「メディア良化委員会」は、検閲に抵抗する者に対する武器の使用まで認められ、自衛隊と並ぶ国内最大の武装集団へと躍進していくのでした。
そんな中、図書館だけは唯一、メディア良化委員会からの言論弾圧から免れ、かろうじて表現の自由を守り抜いていました。
しかし正化11年(西暦で言えば1999年)、公共図書館のひとつである日野市立図書館が、メディア良化委員会に同調する武装化された政治結社集団に襲撃されるという「日野の悪夢」と呼ばれる事件が発生します。
この事件では貴重な図書が1冊を除き全て損壊した上に総計12名の死者を出し、しかも警察の対応が大幅に遅れたことから被害が拡大。
結果、図書館側は「警察は自分達を守ってはくれない」と、独自に武装化する道を歩み始めます。
さらに正化16年(2004年)には図書館法が改正され、図書館の武装化を規定した条文が追加されたことにより武装化が合法化され、図書館の私設軍隊と言える「図書隊」が設立されるに至ったのでした。
以来、「図書隊」と「メディア良化委員会」は何かにつけて対立を続け、市街戦すら演じるほどの犬猿な関係となっていくのでした。
そして正化31年(2019年)、物語の本編が開始されることになります。

この年、図書隊に笠原郁(かさはらいく)という女性が入隊してきました。
一応は今作の主人公である彼女は、高校時代に所持していた本をメディア良化委員会の検閲で没収されそうになった際、図書隊の隊員によって窮地を救われた過去があり、以来、名前どころか顔すらもマトモに見ていないその隊員に憧れ、また再会を期して図書隊へ入隊したのでした。
その笠原郁の最初の上官となったのは、コチコチの規律至上主義的な言動を繰り広げ、鬼教官として恐れられている堂上篤(どうじょうあつし)。
彼は笠原郁に対し、しばしば手を挙げたり怒鳴りつけたりするなどして厳しく指導したことから、笠原郁から反発と陰口を叩かれるようになってしまいます。
堂上篤が笠原郁に厳しく当たるのには、実は彼個人の全く私的な理由があったのですが。
やがて笠原郁は、元々の素質と堂上篤の厳しい指導の賜物なのか、図書隊初の図書特殊部隊(ライブラリータスクフォース)の隊員として配属されることになります。
そして彼女は、図書隊が置かれている現実の厳しさを目の当たりにすることとなるのですが……。

映画「図書館戦争」における図書隊やメディア良化委員会、および両陣営の戦いについては、正直いくつものツッコミどころがあると言わざるをえないですね。
それを一番痛感せずにいられなかったのは、植物人間状態の館長が死去したのに伴い閉鎖されることになった小田原の情報歴史図書館の資料を巡って発生した、図書隊とメディア良化委員会との戦いですね。
この戦いでは、図書館にバリケードを張り巡らせて籠城しつつ、ヘリ輸送による空輸で資料を運ぶ時間を稼ぐ図書隊と、それを攻撃するメディア良化委員会という図式で進行することになったのですが、その実態は、第一次世界大戦当時の塹壕戦レベルなシロモノでしかないんですよね。
両陣営共に自動小銃を装備し、互いに撃ち合いながらの戦いは一見派手ではあるのですが、自動小銃程度では図書隊が築いたバリケードを突破することも、盾を並べて進軍するメディア良化委員会の進軍を阻むことも難しく、戦いは長期戦(と言っても数時間程度ではあったでしょうけど)の様相を呈してきます。
しかし、もしどちらかの陣営がロケットランチャー等の重火器や戦車・航空機などを駆使した軍事作戦を展開していれば、あの戦いは数時間どころか数分程度であっさりとケリがついてしまったことでしょう。
どちらの陣営も、自動小銃が標準装備という、日本の警察など及びもつかないレベルの武装化を既に達成しているにもかかわらず、更なる重武装を志向しないのはあまりにも不自然です。
「法律で重武装が規制されていた」というのであれば、では何故自動小銃による武装は許したのか?という疑問が逆に生じてしまいます。
特に図書隊なんて、法的・治安維持の観点から見れば、地方政権による軍閥ないしは私設軍隊と見做されても何の違和感もないようなシロモノなのですし、日本国内における銃撃戦や市街戦が想定されるような法体系の成立自体、他国はいざ知らず、治安の良さが売りの日本では論外もいいところではありませんか。
特に図書館の武装化を認める法律の成立なんて、日本国内で内紛が発生するのが最初から誰の目にも明らかだったのではないのかと。
一方では「武器の所持を特定の組織・個人相手に認める」などという、日本の治安を揺るがしかねない大変革を行いながら、他方では中途半端に武器の種類を制限・選別する。
これって「メディア良化法」など比べ物にならないくらいの大失政なのではないかと思えてならないのですけどね。

また、メディア良化委員会については、警察や自衛隊でさえそうそう簡単に行使しえない先制攻撃の自由が事実上与えられているに等しい(検閲に逆らう相手には武器の使用が認められ、かつその判断はメディア良化委員会の裁量に委ねられる)のですから、その利点を最大限に有効活用するという観点から言ってもなおのこと、重武装を志向してはいけない理由が全くありません。
また、専守防衛思想を旨とする図書隊の基本スタンスから考えても、メディア良化委員会は重武装すべきなのです。
作中でも図書隊の面々が主張していることなのですが、専守防衛思想というのは「まず相手に撃たせてから反撃する」というのがベースの考え方です。
ならばメディア良化委員会としては、その思想を逆手に取り、最初の一撃で敵を壊滅状態に追い込めるだけの火力を充実させる必要性が確実にあるわけです。
極端なことを言えば、敵が死守する図書館に核ミサイルを撃ち込むような体制を構築しえれば、メディア良化委員会にとって図書隊など敵でも何でもなくなってしまうのです。
さすがに核ミサイルは不可能であるにしても、先制攻撃の一撃で圧倒的火力による超飽和同時多方面攻撃を仕掛け、敵に壊滅的打撃を与える程度のことくらい、考えない方がむしろ変というものでしょう。
何しろ、最初の一撃だけは相手からの妨害を全く考慮する必要がないのですから。
専守防衛などという軍事的にはマイナス以外の何物でもない弱みを自ら進んで抱え込むような図書隊に対し、何故メディア良化委員会が同水準の武装でもってバカ正直に付き合ってやらなければならないのでしょうか?

さらに奇怪なのは、図書隊がヘリを使った空輸で図書館の資料を運び出す際、メディア良化委員会側がヘリを撃ち落とそうとすらせず、ただ黙って飛び去っていくがままに放置していたことです。
ヘリについては、一部の兵士?達がヘリに向かって銃撃している描写が一応ありはしたものの、ヘリに対する具体的な行動と言えばそれくらいなものでしかありませんでした。
しかしこれにしても、自動小銃よりもさらに強い火力を持つ武器を用いてヘリを撃墜すれば、メディア良化委員会は簡単にその目的を達成することができたはずなのです。
元々メディア良化委員会が小田原の情報歴史図書館を襲撃したのは、そこに眠っている「自分達に都合の悪いことが書かれている資料」を我が物とすること、もしくはその資料を亡き物にしてしまうことが目的だったはずです。
ならば空輸を妨害するという行為は、その目的を達成する最も簡単かつ確実な方法となりえるわけで、ここでメディア良化委員会側がヘリ撃墜を志向してはいけない理由が全くありません。
ヘリが銃撃されていたシーンがあったことから考えても、「ヘリを攻撃・撃墜してはいけない」というルールがあったわけでもないようですし。
また、単なる軍事的な理由に限定しても、ヘリから地上へ向けて銃撃等の支援があるというだけでも、攻撃される側にとっては充分過ぎるほどの脅威となりえるのですし、自己防衛という観点から言ってさえも、ヘリ撃墜は大いに正当性を主張しえるでしょう。
というか、私は戦いの最中に呑気にやってきたヘリを見た瞬間に「ああ、このヘリは撃墜されるな」と考えたくらいだったのですが。
にもかかわらず、ヘリがあっさり資料が満載されたコンテナ?を機体に接続して空輸して去っていったのを見た時は目が点になりましたよ(苦笑)。
ヘリを1機撃墜しただけでも、目的達成に向けて大きく前進したはずのメディア良化委員会は、わざわざ小田原くんだりまで集団でやってきて一体何がしたかったというのでしょうか?
まさか、図書隊の面々と戦争ごっこや陣取りゲームがやりたかった、というわけではないでしょうに。

国家的権力による検閲制度とそれを遂行する機関の存在、というコンセプト自体は、現実世界でも表現規制問題があったりするのでそれなりの説得力や現実感もあるのですが、警察や自衛隊以外の特定組織が、よりによって法律のバックアップを受けて武装化されるというのはあまりにも非現実的過ぎますね。
今の日本で個人の銃の所持が合法化されたり、暴力団等の武器所持が合法化されたりするとなったら、それに無関心でいられる人間がどれだけ存在するというのでしょうか?
表現の自由の侵害はただちに国民生活には直結しない(もしくは「直結しないように見える」)かもしれませんが、治安と安全の問題はすぐさま国民生活に関わってくるのですから。
「図書館戦争」の世界における日本では、南アフリカのヨハネスブルグ並の最悪水準で治安が悪化しているか、映画「エイトレンジャー」のごとく警察が完全に無為無力化しているという設定でもあったりするのでしょうか?
そのレベルで治安が悪化してでもいないと、特定組織や個人の武装化なんて、検閲の有無と関係なく法的に認められるものではありえないのですけどね。
図書隊も、図書館法などで合法とされるのではなく、全体主義に堕ちた国家と戦う非合法なレジスタンス組織として描かれていた方が、まだリアリティ的なものは出てきたのではないのかと。

映画の設定以外の面を見てみると、やはり今作では「SP」シリーズ以来となる岡田准一のアクションシーンが盛大に披露されていて充分な見応えがありますね。
彼が演じる堂上篤は、「SP」シリーズの井上薫が挫折な人生経験を経て規律至上主義になったような人物でしたし(苦笑)。
前回の主演作である映画「天地明察」では全くアクションがなかったですし、その点でも今作は満足な構成ではありました。
一方で、榮倉奈々扮する笠原郁は、軍隊的な雰囲気を持つ図書隊と盛大なミスマッチをやらかしているのではと思えるほどに軽いノリな調子が多々伺えます。
原作のキャラクター自体もそうなのでしょうが、軍人というよりは「世間知らずな女子高生」的な感じにしか見えなかったですね。
活躍度という点でも、終盤以外では味方の足を引っ張っているだけのようなイメージが強いですし。
女性から見れば感情移入しやすいキャラクターではあるのでしょうが、個人的には「主人公ではなく脇役だったら良かったのでは?」というのが感想ですね。

原作の「図書館戦争」は4巻まであるのだそうですが、実写映画の「図書館戦争」も4作までシリーズ化されるのでしょうかね?
岡田准一のアクションシーンが引き続き披露されるのであれば、是非ともそこまで作り込んで欲しいところではあるのですが。

映画「藁の楯/わらのたて」感想

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映画「藁の楯/わらのたて」観に行ってきました。
木内一裕の同名小説を原作とする、大沢たかお・松嶋菜々子主演のサスペンス・アクション作品。
少女殺しの凶悪犯を、「DEATH NOTE」2部作および「カイジ」シリーズの藤原竜也が演じており、こちらの「人間のクズ」っぷりな迫真の演技にも要注目です。
今作は流血を伴う殺しのシーンが複数回登場しているのですが、しかしその割にはR-15どころかPG-12にすらも全く指定されていなかったりします。
同じような流血シーンがあるという理由でR-15指定された映画も、これまで観賞した過去作品には複数存在しているのですが……。
この手の規制というのは一体何のために存在するのかと、つくづく考えずにはいられない話ですね。

物語は、7歳の少女が用水路で無残な惨殺体となって捨てられているのが発見されるところから始まります。
殺された少女は、日本の政財界を牛耳る大物・蜷川隆興の孫娘。
殺害した容疑者として、かつて8年前に西野めぐみという少女を殺害した罪で逮捕・収監され、その後仮出所していた清丸国秀という男が浮上、全国に指名手配されることになります。

それから数ヶ月後。
一向に見つからない清丸国秀について、日本の新聞や週刊誌などの全面広告に、驚くべき記事が掲載されました。
それは、清丸国秀を殺害した者に、報酬として10億円を支払うというもの。
またWebサイト上にも、蜷川隆興本人が全く同じことを述べている動画を流しているサイトがアップされ、このことは瞬く間に日本全土に知れ渡ることになりました。
蜷川隆興は、カネと権力にモノを言わせ、本来ならば全く不可能であるはずの殺人教唆宣伝を行うことに成功したわけです。
これによって、それまで潜伏していた清丸国秀も、当然のごとく炙り出されることになりました。
それまで清丸国秀を匿っていた男が、10億円もの懸賞金欲しさに清丸国秀を裏切り、清丸国秀の殺害を図ったのです。
清丸国秀はかろうじて男を返り討ちにしたものの、身近な味方にすら裏切られるという状況に危機感を抱いた彼は、それまで潜伏していた福岡県の警察署へ出頭。
事態を重く見た警察は、清丸国秀を福岡から東京へ護送すべく、以下の5人を選出し清丸国秀の警護に当たらせることになります。

警視庁警備部警護課SPから、今作の主人公となる警部補の銘苅一基と巡査部長の白岩篤子。
警視庁捜査一課から、警部補の奥村武と巡査部長の神箸正貴。
そして、護送元である福岡県警から、巡査部長の関谷賢示。

しかし、彼らが任務に当たる前から、既に事態は大きく動き出していました。
福岡県警の留置所?で収監されていた清丸国秀が、地元の警察官によって殺害されかけるという事件が、任務開始前の時点で早くも発生していたのです。
また、負傷した清丸国秀の治療に当たっていた病院では、女性看護師が致死性の薬を注入して清丸国秀を殺害すべく図り、その場で清丸国秀と対面していた銘苅一基によって阻止される事件が発生。
その上、福岡空港から羽田空港まで飛行機を使って護送するという当初の方針は、福岡空港の整備士が飛行機を墜落させるべく画策していたことが露見して逮捕されるという事件の発生で、いともあっさり中止を余儀なくされることになってしまいます。
さらには、そうやって清丸国秀の殺人未遂を行い逮捕された人間に対しても、蜷川隆興側はWebサイト上で1億円の契約を行うと表明し、「殺害に失敗しても1億円!」と日本国民をさらに煽りたてる始末。
警察、そして5人の警護者達は、日本国民全てが敵、身内ですら全く信用できないという異常な状況の中、48時間以内に清丸国秀を東京へ護送すべく、四苦八苦・七転八倒の苦しい任務を続けていくこととなるのですが……。

映画「藁の楯/わらのたて」で大々的に行われている殺人教唆は、非常によく考えられたユニークな内容ですね。
この殺人教唆および10億円の懸賞金のかけ方なのですが、これがまた何とも微妙な条件なんですよね。
懸賞金が与えられる条件は以下の2通りなのですが↓

1.清丸国秀に対する殺人罪、もしくは傷害致死で有罪判決を受けた者(複数可)。
2.国家の許可をもって清丸国秀を殺害した者。

これは、一般の国民を清丸国秀殺害に走らせるには確かに充分過ぎるほどに魅力的な条件なのですが、同時に「その道のプロ」達を遠ざけてしまう内容にもなっているのです。
たとえば、テレビドラマ&映画の「SP」シリーズで猛威を振るっていたリバプール・クリーニングのような「自殺や事故死を装ってターゲットを殺害する暗殺者」のごときタイプや、ゴルゴ13のような「暗殺のプロ」などは、この条件では清丸国秀の殺害に全く動くことができません。
彼らは立場的に、暗殺者としての自分達の正体が露見するような事態は何が何でも避けなければならないため、警察に出頭し裁判を受けることが前提のこの条件では、如何に報酬が高くても全く割に合わないのです。
それどころか、清丸国秀殺害で逮捕されたことを発端として、様々な余罪が追及されるリスクも多々あり、またそうなれば当然死刑判決は免れ得ないでしょう。
いや死刑判決どころか、場合によっては自分達の秘密が露見されることを恐れる個人や組織によって雇われた同業の暗殺者達によって生命を狙われる、などという事態にすらも至りかねません。
また暗殺者に限らず、警察のガサ入れによって余罪が追及されると、場合によっては破滅の危機に直面しかねない立場の個人や組織、たとえば指定暴力団やアルカーイダ等のテロ団体の類も同様ですね。
この手の組織では、末端の構成員達が独自に動く、あるいは独自に動いているように見せかけるということはあっても、組織としての関与については、すくなくとも表面的には全面的に否定する方向へ走ることになるでしょうね。
作中でも、明らかにヤクザの構成員とおぼしき人間達が、新幹線内で5人の警護者達と派手な銃撃戦を展開していましたが、彼らが所属する大元の組織としては、自分達にまで捜査の手が及んでは当然困ったことになるわけですから「奴らは独自の判断で勝手に暴走しただけであり、自分達は全く何の指示も命令も与えておらず関係もない」と知らぬ存ぜぬな反応を繰り返すしかないわけです。
コストパフォーマンスの観点から言えば、プロの殺し屋を高額で雇って人知れず清丸国秀を探索・殺害させた方が、口止め料を含めてさえもはるかに安上がりであるはずなのですが、蜷川隆興の殺人教唆は、皮肉にも彼らを遠ざけてしまう結果をもたらしてしまっているのです。
あくまでも一般人を使って清丸国秀を殺害させることに、蜷川隆興自身がこだわってでもいたのかもしれませんが、「目的の達成」という観点から考えれば何とも非効率極まりないことをやっているよなぁ、と。

一方で、10億円の懸賞金に突き動かされ、次々と清丸国秀殺害に動く人間と、彼を死守する人間達の極限状態な心理と葛藤を、今作は非常に上手く表現していますね。
前述のように、蜷川隆興の殺人教唆は「プロの殺し屋や闇の世界の人間達」を最初から排除しているが故に、清丸国秀を殺害せんとする人達も、元々は善良な性格の人間だったケースが多かったりするんですよね。
彼らはあくまでも「金に困って&追い詰められて」犯行に走ったというエピソードが作中でも語られており、カネが人を狂わせるという実例をまざまざと見せつけてくれます。
5人の警護者達も「実は誰かが裏切っているのではないか?」と互いに疑心暗鬼の目を向ける始末ですし、実際、5人の中に裏切り者は立派に存在していたのでした。
「誰も信用などできない」ということの怖さを、これほどまでに前面に出している作品というのも、そうそうあるものではないですね。
そして、それでも清丸国秀を護送するという任務の意義を致命的なレベルで揺るがしてくれるのが、当の清丸国秀本人だったりするのが何とも言えないところです。
彼は、初犯?で殺害した西野めぐみの父親を嘲弄する発言をやらかした上、銘苅一基と白岩篤子がちょっと目を離した隙を突いて逃亡し、たまたま目撃した少女を相手にまたしても惨殺行為に及ぼうとしています。
挙句の果てには、白岩篤子の不意を突いて(二度も不意を突かれる白岩篤子も正直どうかとは思いましたが)後方から襲撃し、拳銃を奪って射殺までしてしまう始末。
その理由がまた振るっていて、何と「彼女がオバサン臭いから」などというしょうもないシロモノでしかないんですよね。
物語のラストで死刑判決を受けた際も、「どうせ死刑になるのならば、もっと殺しておけば良かった」などとほざく始末ですし、清丸国秀の「人間のクズ」っぷりはなかなかに堂に入ったものがありましたね。
確かに、作中のごとき死にもの狂いな警護をしてまで守る価値が清丸国秀にはあるのか、という問いには大きな重みがあります。
その問いに何の疑問も抱くことなく正面切って「YES」と答えられる人間は、相当に人間が出来ているのでなければ、よほどのバカか詐欺師の類くらいなものでしょうし。
しかし、国家的な公務に従事する人間は、それでも建前上は「YES」と答えなければならない。
そこが、今作が問う命題の重さと社会的矛盾でもあるのですが。

映画「藁の楯/わらのたて」はその構成上、先の展開もなかなか読めず、最初から最後まで緊迫した状況が続きます。
アクションシーンもあり人間ドラマもあり、万人にオススメできる作品です。

映画「舟を編む」感想

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映画「舟を編む」観に行ってきました。
2012年本屋大賞に輝いた三浦しをん原作の同名小説を、松田龍平・宮崎あおい主演で実写化した作品。

物語の始まりは1995年。
出版社の玄武書房・辞書編集部では、長年辞書製作の仕事に携わってきた荒木公平は、辞書編集部を統括している松本朋佑に退職の意思を表明していました。
彼は定年に近い年齢もさることながら、病床にある妻の容態が思わしくなく、妻を介護してやりたいという理由から退職を申し出ていたのでした。
しかし、荒木公平は辞書製作・編纂のベテランであり、かつ彼に代わる人材が現在の辞書編集部には存在しません。
強く留任を迫ってくる松本朋佑の主張を、荒木公平も無視することはできず、仕方なく荒木公平は、自分の後継者となる人材を探し出すことを約束することになるのでした。
しかし、辞書編集部は社内では閑職扱いどころか、人によっては存在すら知らないというほどのお寒い知名度しかなく、人材探しは難航します。
そんなある日、荒木公平と共に後継者探しをしていた西岡正志は、同じ会社の営業部に所属している恋人から「営業部に変人がいる」との話を持ちかけられます。
その変人の名は、馬締光也(まじめみつや)。
荒木公平と西岡正志は、大学では言語学を専攻していたという馬締光也を営業部から呼び出し、「【右】という言葉を説明できるか?」と問います。
これまで同じ問いをかけられた人達は、しどろもどろになって何も説明できないか、相手にするのも面倒と言わんばかりに立ち去っていくのが常でした。
しかし馬締光也は「西を向いた時、北に当たる方が右」と返したのです。
期待していた人材をついに見つけた、と確信した2人は、早速馬締光也を営業部から引き抜き、辞書編集部へ迎えることになります。
馬締光也を迎えた辞書編集部は、松本朋佑主導の下、新しい辞書「大渡海」の製作を打ち出します。
収録予定の見出し語は実に24万語以上、近年新しく生まれた流行語の類も積極的に取り入れるという全く新しい辞書の製作。
やがて馬締光也は、辞書の製作に一生を捧げる決意を固め、辞書作りにのめり込んでいくのでした。

一方、プライベートにおける馬締光也は、「早雲荘」という名のボロアパートで、大家のタケと共に10年もの長きにわたって生活していました。
「早雲荘」には馬締光也と大家のタケ以外は誰も住んでおらず、馬締光也は本が乱雑に積み重ねられた一室を自分の部屋としていました。
しかし、辞書編集部に配属されてからしばらく経ったある日の夜、「早雲荘」で飼われている猫のトラの鳴き声がする2階の物干し場へ行くと、そこには全く見知らぬ女性がトラを抱きかかえ、馬締光也に挨拶を返してきたのです。
その女性は林香具矢(はやしかぐや)といい、大家のタケの孫娘で、タケの世話と板前修行のために「早雲荘」へやってきたのだとか。
彼女に一目惚れしてしまった馬締光也は、彼女のことで頭が一杯になり、仕事に手が付かない日々を過ごすことになります。
そして馬締光也は、自分の恋路を応援してくれる辞書編集部の面々から、恋文を書くことを勧められることになるのですが……。

映画「舟を編む」はとにかくひたすら地味な構成で、奇想天外な展開といったものがまるでありません。
辞書製作の過程で発生する様々なトラブルも、馬締光也絡みのプライベートな事象も、形は違えどどこでも普通に見かけられるものばかりですし。
主人公である馬締光也の人物造形自体、昨今のオタクやニートを髣髴とさせるものがありますからねぇ。
ただそれだけに、主人公およびその他の登場人物達に共感がしやすい構成になっているとは言えるのではないでしょうか?
かく言う私自身、物語後半で発生した辞書の収録単語漏れの騒動などは「ああ、私も似たような経験があるなぁ」とついつい感慨にふけってしまったものでしたし(^^;;)。
ああいうトラブルは、事務職系でも技術職系でもしばしば発生したりするものですからねぇ(T_T)。
それだけに、辞書「大渡海」が完成の日を迎えた時の喜びは、関係者一同、相当なものがあったことでしょう。
単純に見ても、馬締光也が辞書編集部に入ってから「大渡海」が完成するまで、実に15年もの歳月がかかっているのですからねぇ。

宮崎あおいが演じる林香具矢は、映画の前宣伝で大々的に強調されていたイメージと比較すると、出演頻度がかなり少ない印象を受けましたね。
彼女は要所要所では出番があってストーリーを進展させる役割を果たしてはいるのですが、映画全体で見ると、彼女は元々馬締光也と仕事上の接点が少ないのに加え、「専業主婦として家庭を守る」というタイプの女性でもないため、出番がかなり少ないんですよね。
むしろ、2008年?に突入した物語後半になってやっと登場した岸辺みどりなどの方が、出演頻度は逆に高かったのではないかとすら思えてくるくらいです。
馬締光也が林香具矢に惚れる過程とは逆に、林香具矢が馬締光也を好きになる過程というのも今ひとつ分かりにくいものがありますし。
どうにも「何故だか知らないけど、気が付いたら好きになっていた」的な感が拭えないところなんですよね、彼女の馬締光也に対する好意というのは。
物語がひたすら馬締光也の視点メインで進行していて、林香具矢から見た視点というものがほとんどないことも原因ではあるのでしょうけど。
また、「早雲荘」というボロアパートで主人公とヒロインが出会って結ばれるというエピソードは、今作と同じく宮崎あおいがヒロイン役を担当していた映画「神様のカルテ」を髣髴とさせるものがありました。
あちらは既に出会って結婚した後からストーリーが始まっていましたが。

日常生活を扱う人間ドラマが観たいという方にはオススメの作品と言えるでしょうか。

映画「探偵はBARにいる」感想(DVD観賞)

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映画「探偵はBARにいる」をレンタルDVDで観賞しました。
2011年9月に劇場公開された日本映画で、北海道を舞台に繰り広げられるハードボイルド・ミステリー作品です。
今作は普通に熊本でも劇場公開されていたのですが、タイミングが合わずに見逃していたことに加え、2013年5月に続編映画「探偵はBARにいる2 ススキノ大交差点」が公開されるという事情もあり、今回のレンタル観賞と相成りました。
作中では闇世界ならではの殺し描写があったりするためか、劇場公開時に今作はPG-12指定されていました。

今作の主人公は、実は名前が一切作中で明示されることがありません。
一人称は俺、自ら名乗ることもなく、自己紹介は北海道の繁華街「すすきの」にある「KELLER OHATA(ケラーオオハタ)」というバーの名詞を差し出すという形で行います。
他の登場人物達も、主人公を呼ぶ際には名前も苗字も言うことがなく、「探偵」という職業名、もしくは「お前」「あなた」等の二人称代名詞しか使っていなかったりします。
映画のタイトルにもある「探偵」というのは、主人公の職業だけでなく、主人公そのものをも指す言葉だったりするわけですね。

さて、そんな主人公は物語冒頭、雪高く積もる北海道・札幌の街中で、複数人のガラの悪いチンピラに追われていたりします。
必死の逃走もむなしく、前後から挟撃され、逃げ場を失ったた主人公は絶体絶命の危機に晒されます。
その時、突如チンピラ達の後方から奇襲をかけ、アッというまにチンピラ達を倒してしまったのは、主人公の運転手兼相棒的な存在である高田でした。
再度起き上がったチンピラ達は再び2人に攻撃を仕掛けてきますが、既に2人の敵ではなく、2人はあっさりと蹴散らしてその場を後にします。
その後、主人公はとあるホテルの立食パーティの会場で、北海道日報の記者である松尾と出会い、最初に主人公を追っていたチンピラ達から騙し取ったらしいネガを見せつけます。
その写真には、松尾が同性の男とキスしたり、ベッドで同衾したりしている光景が写し出されていおり、主人公は松尾からネガを奪い取るよう依頼を受けていたのでした。
主人公は報酬として30万を受け取り、さらに何か依頼を頼む際にはここに電話してくれと、「KELLER OHATA」の名刺を渡すのでした。

ちょうど同じ頃、札幌のとある裏路地で、クルマから降りてきて女性を拉致しようとしていたチンピラ達に、女性を助けようとしていた北海道の大手企業社長の霧島敏夫が殺害されるという事件が発生します。
そして1年後、この事件を重要なキーワードとして、主人公は大いに振り回されることになるのですが……。

映画「探偵はBARにいる」のストーリーは、事前には全く予想もつかない展開が延々と続いています。
序盤は謎が謎を呼ぶ展開な上に、依頼主は電話の会話の中だけの存在でしかありません。
簡単な依頼と称して10万単位のカネを振り込み、しかもいざ依頼を実行してみれば生命の危機に直面するという惨状を呈するありさま。
しかしそれでも、主人公はあくまで律儀に依頼を受け続けます。
口ではやたらと文句を言いまくっている上に不平満々な態度を隠そうともしていないのに、それでも依頼を受けるのは、依頼主が女性だからなのか、自分の仕事に誇りを持っているからなのか、何とも判断に苦しむところではあるのですが(苦笑)。
主人公は一応格闘戦に関してはそれなりの心得を持ってはいるものの、別に超人というわけでもなく、不意打ちに遭ってあっさりやられてしまったりする脆弱さも持ち合わせています。
運転手兼相棒の高田と手を組むと、対集団戦でもかなりの強さを発揮するのですが、その高田も相当なまでに性格に難がある上、主人公の危機に駆けつけるのがやたらと遅いですし。
特に物語後半で主人公がまたしても不意打ちの拉致を食らった際には、主人公が姿を消したことにラーメン屋を出るまで気づかなかった上、ようやく主人公を見つけた時には既に主人公はスタボロにされた挙句に実行犯も姿を消しているありさま。
ただそんな高田も、彼なりに主人公のことを「唯一の親友」とは認めているようですし、不器用ながらも心配する様子も見せてはいるのですが。
この2人、一体どのような経緯を経て相棒関係になったのか、つくづく興味をそそられるところですね。

今作で披露されたミステリー要素の集大成であるラストの展開も、かなりの意外性があってなかなかによく出来たものではあります。
その手前の「一見真相に見せかけたフェイント」は、ラストの展開を見ると笑えるくらいに的を外した推理でしたし。
物語序盤は謎だらけの伏線や演出が施され、終盤に近づくにつれて真相が明らかになっていく、というのがミステリーの売りであり爽快感を伴うものでもあるのですが、今作のそれは充分に合格点に達していると言えるでしょう。
また、本場ハリウッドに比べればやや劣りはするものの、格闘戦メインのアクションシーンもそれなりにあります。
これまで私が観賞した映画で言えば、「アウトロー」にコメディとお笑いの明るい要素をふんだんに盛り込んだ作品という感が多々ありますね、今作は。
アレも何やかや言って、アクションよりもミステリー要素が強い作品ではありましたからねぇ。

2013年5月公開予定の続編映画も今から楽しみですね。
当然、私も観賞する予定です。

映画「相棒シリーズ X DAY」感想

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映画「相棒シリーズ X DAY」観に行ってきました。
人気テレビドラマ「相棒」シリーズのスピンオフ作品で、同シリーズの脇役である警視庁刑事部捜査一課の伊丹憲一と、警視庁サイバー犯罪対策課の岩月彬をコンビが主人公の物語となります。
今作では休暇でイギリスにいるらしい杉下右京や、杉下右京の元相棒である神戸尊もチョイ役で出演していますが、本当にちょこっとだけしか登場していないですね(苦笑)。
私の「相棒」シリーズの映画観賞歴は、2010年末に公開された「相棒-劇場版Ⅱ- 警視庁占拠!特命係の一番長い夜」に続き今作で2作目。
あの頃と同じく、TVシリーズの「相棒」は相変わらずほとんど観賞していなかったりするのですけどね(^^;;)。

東京のとあるビルの下で、燃やされた数十枚の1万円札と共に屋上から落下したと思しき男性の遺体が見つかり、警察が捜査に入るところから物語は始まります。
今作限定ながらも晴れて脇役から主役へと出世することになった警視庁刑事部捜査一課の伊丹憲一は、現場検証の最中、ひとりの来訪者を迎えることとなります。
その人物、警視庁生活安全部サイバー犯罪対策課の岩月彬は、今回の事件で遺体となった中山雄吾が、実は岩月彬が一週間かけて追跡していた不正アクセス事件の容疑者であったことを告げます。
そこまで追跡していたのだからさぞかし遺体に関心があるのかと思いきや、岩月彬は「殺人事件は自分の管轄外だから」と、これで自分の仕事は終わったとばかりにその場を立ち去ろうとします。
その態度に腹を立てた伊丹憲一と、自分の職分にのみ忠実な岩月彬は、以後、顔を合わせる度に皮肉の応酬を交わすほどの犬猿の仲となってしまいます。
中山雄吾は、死亡する直前にあるデータをネット上にばら撒いており、そのデータは何者かによって削除依頼がプロバイダ管理者等によって頻繁に出されていました。
元々中山雄吾は東京明和銀行のシステムエンジニアであったことから、削除依頼は東京明和銀行の上司が出したのではないかと伊丹憲一は睨みます。
そして伊丹憲一は、東京明和銀行の上司・朽木貞義と面談する際、あくまでも不正アクセス事件のみを追う岩月彬と偶然鉢合わせすることになります。
2人は朽木貞義から、ネット上に流出したとされるデータを入手。
ところがここでも、どちらがデータ調査の主導権を握るかを巡り、2人は対立することになります。
結局、その場は岩月彬が伊丹憲一を完全無視してデータを持ち去るという形で決着するのですが。
さらに2人にとって災難は続き、その後、警視庁の捜査本部で二人一組のチームを編成することになった際、刑事部と生活安全部でそれぞれ1人ずつ余りが生じたことから、2人は全く異なる所轄でありながら上層部の意向によってコンビを組まされる事態となってしまうのでした。
考え方も行動原理もまるで正反対な2人は、互いに苦虫を噛み潰すような表情を浮かべながらも、捜査に乗り出していくことになるのですが……。

映画「相棒シリーズ X DAY」は、昨今の金融問題が大きなテーマとなっている作品です。
日本政府は数百兆~千兆円規模の借金を抱えているとか、少子高齢化で経済が衰退していくとか、今やすっかり決まり文句と化した感すらあるプロパガンダが展開されています。
作中でも、財務省関係者や政治家達が、「日本国債は暴落する」だの「日本経済は破綻する」だのといったスローガンを堂々とのたまい、しかもそれが具現化する日を「XDay」と呼んでいる始末です。
ところが現実には、当の財務省自身が、とにかく日本の格付けを下げる方向にばかり動く外国の格付け会社に対し、こんな意見書要旨を出している過去があったりするんですよね↓

http://www.mof.go.jp/about_mof/other/other/rating/p140430.htm
> 1.貴社による日本国債の格付けについては、当方としては日本経済の強固なファンダメンタルズを考えると既に低過ぎ、更なる格下げは根拠を欠くと考えている。貴社の格付け判定は、従来より定性的な説明が大宗である一方、客観的な基準を欠き、これは、格付けの信頼性にも関わる大きな問題と考えている。
>  従って、以下の諸点に関し、貴社の考え方を具体的・定量的に明らかにされたい。
>
> (1)日・米など先進国の
自国通貨建て国債のデフォルトは考えられない。デフォルトとして如何なる事態を想定しているのか。
>
> (2)格付けは財政状態のみならず、広い経済全体の文脈、特に経済のファンダメンタルズを考慮し、総合的に判断されるべきである。
>  例えば、以下の要素をどのように評価しているのか。
> ・ マクロ的に見れば、
日本は世界最大の貯蓄超過国
> ・ その結果、
国債はほとんど国内で極めて低金利で安定的に消化されている
> ・ 日本は世界最大の経常黒字国、債権国であり、外貨準備も世界最高
>
> (3)各国間の格付けの整合性に疑問。次のような例はどのように説明されるのか。
> ・ 一人当たりのGDPが日本の1/3でかつ大きな経常赤字国でも、日本より格付けが高い国がある。
> ・ 1976年のポンド危機とIMF借入れの僅か2年後(1978年)に発行された英国の外債や双子の赤字の持続性が疑問視された1980年代半ばの米国債はAAA格を維持した。
> ・ 日本国債がシングルAに格下げされれば、日本より経済のファンダメンタルズではるかに格差のある新興市場国と同格付けとなる。
>
> 2.以上の疑問の提示は、日本政府が改革について真剣ではないということでは全くない。政府は実際、財政構造改革をはじめとする各般の構造改革を真摯に遂行している。同時に、格付けについて、市場はより客観性・透明性の高い方法論や基準を必要としている。

この意見書要旨は2002年に出されたものなのですが、リーマン・ショック後でさえも日本の国債は買い手がつかないどころか、逆にますます買い手超過・金利低下が続くありさま。
日本経済の実態は、とても作中で言われているような「XDay」なるものが出現するような状況からは程遠いものがあるという事実を、他ならぬ財務省自身が主張しているわけです。
にもかかわらず、作中の警察幹部や財務省関係者達が「XDay」なるものの脅威を声高に説いた挙句、それに関連して「日本人は複雑な真実よりも分かりやすいウソを信じる」などとのたまうに至っては、一種のコメディとして大いに笑えるものがありますね。
まさか、上記引用の意見書要旨が「分かりやすいウソ」なわけがないのですし、そもそもそんなウソを、財務省が、しかも日本国内ではなく外国の格付け会社相手につかなければならない理由自体が全くありません。
日本国内向けのプロパガンダと違い、外国向けの意見書要旨というのは、下手すれば外交問題にまで発展するレベルのリスクがあるのですから当然のことです。
となると、作中で大いに謳われている「XDay」というもの自体が、実は財務省が考える壮大なまでのウソであり、作中の登場人物達はまんまとそれに騙されている、という全く逆の構図も実は立派に成立しえるわけですね。
財務省が「XDay」のような日本経済の破綻を訴えるのには大きな理由があります。
それは第一に「増税がしたい」からであり、第二に「天下り先が欲しい」からです。
「このままでは日本経済は破綻する、【だから】増税をしなければならない」というのは、増税反対の声をかき消すのには充分な説得力を持ちえます。
1998年の消費税増税や、民主党政権下で決定された三党合意の消費増税などは、まさにこの論法に基づいて決められたものですし、だからこそ彼らは「日本経済の破綻【という名の葵の印籠】」を、増税反対の声を抑えるために何かと振りかざすわけです。
そして一方、増税が決定されれば、財務省はその権限を大いに駆使することで、特定の組織に対して「お前のところの税率は低めにしておいてやるから天下りさせろ」と主張することも可能となるわけです。
消費税の増税問題では、日用品や出版物などに対する軽減税率の適用が何かと話題になっていますが、これもその一環だったりするわけで。
財務省にとっての「日本経済の破綻」というスローガンは、自分達の利益を通すのに非常に都合の良い「分かりやすいウソ」である、というわけです。
そういう観点から見ると、作中における「XDay」というのは、作品の意図とは全く異なるもうひとつの意味を持ってくることになりますね。
「日本経済は安泰だ」という「分かりやすいウソ」に騙される人間を嘲笑っている政財界の大物達が、「日本経済は破綻する」という「分かりやすいウソ」に騙されていることに気づかない、などという「複雑な真実」の構図が現出することになるわけで。
まあ、映画の製作者達がそこまでの意図やメッセージを込める形で今作を製作したのかと問われると、私も大いに疑問符をつけざるをえないところではあるのですけど。
作中の登場人物達は、杉下右京や岩月彬も含め、「XDayは実際に起こりえる」という前提を当然のものと考えた上で「XDay」について語っていたりするわけですからねぇ(-_-;;)。

「XDay」関連以外の作中の展開に目を向けてみると、今作の主人公である伊丹憲一と岩月彬が、顔を合わせる度に皮肉の応酬を交わしながらも、次第に分かりあっていく過程が、王道的な展開ながらも良かったですね。
当初はやたら淡々としていた岩月彬も、物語終盤では意外にも犯罪を追う熱血漢と化していましたし。
このコンビ、映画後も続くことになるのでしょうかねぇ。

刑事物や「相棒」シリーズのファンであれば、やはり今作はオススメの一品なのではないかと。

映画「だいじょうぶ3組」感想

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映画「だいじょうぶ3組」観に行ってきました。
「五体不満足」の著書で知られるベストセラー作家・乙武洋匡(おとたけひろただ)の同名小説を原作とし、さらに同作品に登場する「生まれつき手足のない新任教師」を、原作者自ら出演&熱演する人間ドラマ作品です。

東京の郊外にある松浦西小学校。
新学期を迎えるとある年の4月、5年3組に二人一組の教師が赴任してきました。
ひとりは、生まれつき両手足がないという先天性四肢切断を持ち、松浦西小学校5年3組を担当することになった新任教師・赤尾慎之介。
もうひとりは、一応今作の主人公で、教育委員会から派遣した赤尾慎之介のサポート役の補助職員・白石優作。
2人は仕事仲間であると同時に幼馴染の関係にもあり、互いにタメ口で語り合う仲でもあります。
新学期初日から遅刻してきたらしい2人は、赤尾慎之介の手足のない身体に驚きの表情を浮かべる5年3組28名の生徒達に挨拶した後、職員室で早々に遅刻について叱られることになってしまいます。
さらに5年1組を受け持つ担任教師・青柳秀子には、「もっと教師としての自覚を持ってください」などとキツい調子で釘を指される始末。
しかし、赤尾慎之介はそれでもメゲることはなく、担任就任早々に今度は桜の大木の下にホワイトボードを持ち出し、5年3組の生徒一同を集めてホームルームの授業をおっぱじめたりするのでした。
当然、青柳秀子はカンカンに怒って補助職員の白石優作に詰め寄り、白石優作は言い訳と謝罪に四苦八苦することになるのですが(苦笑)。

それからしばらく経過したある日。
5年3組の生徒のひとりである「ブーちゃん」こと山部幸二の上履きが紛失するという事件が発生します。
報告を受けた赤尾慎之介と白石優作は、生徒全員に上履きを探させると共に自分も一緒に学校中を探し回るのですが、紛失した上履きは全く見つかりません。
そんな中、5年3組では、上履きを隠した人間がクラス内にいるのではないかという疑惑が持ち上がります。
5年3組はクラスメイト同士が掴み合いを始めるほどに騒然となりますが、赤尾慎之介の取りなしで何とかその場は沈静化し、事件はとりあえず棚上げにされます。
その後、運動会や遠足など、様々なイベントを迎えることになる5年3組の面々達。
そして赤尾慎之介は、その中でクラスメイト達の信奉を少しずつ獲得していくことになるのですが……。

映画「だいじょうぶ3組」では、原作者たる乙武洋匡が自ら演じる「生まれつき手足のない新任教師」こと赤尾慎之介を補助する、TOKIOの国分太一が扮する教育委員会の職員・白石優作が主人公ということになっています。
ところが実際には、作中における登場頻度や露出度は、どう見ても赤尾慎之介の方が圧倒的に多く、逆に白石優作のそれは、むしろ全体的に見てもかなり少ない部類に入るようにすら思われるくらいなんですよね。
かく言う私自身、エンドロールで国分太一の名前が一番最初に出てくるのを見るまでは、てっきり乙武洋匡の方が主演だとばかり考えていたくらいでしたし。
原作自体が乙武洋匡の自伝ということもあり、当然主演もそちらだろうと考えるのが自然だったのですから、これはちょっとした驚きでしたね。
まあ実質的には、国分太一と乙武洋匡の2人が主演ということではあったのでしょうけど。

その国分太一が演じる白石優作は、かつては作中の赤尾慎之介と同じく教師だったものの、昨今話題になっているモンスタークレーマーへの対応に忙殺された挙句、教師職から教育委員会へ異動となって挫折を味わったという過去を持っています。
赤尾慎之介の補助職員になったのも、幼馴染の要望を叶えると同時に、かつてのように子供達と再び向き合いたいからという理由もあったのだそうで。
そんな彼にとって、生徒達の信頼を次々と勝ち取っていく赤尾慎之介の存在は、さぞかし眩しいものに見えたことでしょうね。
特に物語後半では、登山遠足のために同行できない赤尾慎之介と一緒に遠足に行くべく、5年3組の生徒達が一丸となって校長に陳情するという光景まで現出しているわけですし。
並の教師どころか、それなりに慕われている教師でさえ、生徒をそこまで駆り立ているのは至難の業もいいところでしょう。
そりゃ白石優作も、赤尾慎之介相手にある種の尊敬と敗北感も覚えようというものです。
それが、登山遠足で生徒と昼食を兼ねた休憩をしていた際に現れたのでしょうね。
もちろん、当の赤尾慎之介は赤尾慎之介で、障害者としての悩みや葛藤もあれば、健常者に対して越えられない壁のようなコンプレックスを常に抱いていたりもするのですが。

今作の大きな特徴のひとつは、手足がない赤尾慎之介が、普段どのように日常生活を送っているのかがきっちり描かれている点ですね。
普段どうやって食事をしているのかとか、手紙に文字を書く様子とか、電動車椅子なしで階段を上る様とか、作中の赤尾慎之介というより原作者の乙武洋匡が普段やっていることが再現されているような感じでした。
物語序盤でも、生徒達が興味津々で赤尾慎之介が食事をする様に注目しているシーンがありましたが、観客にしてもそれは同じ心境だったことでしょう。
こういう描写が生々しく描かれている作品というのは、映画に限らず巷のエンターテイメント媒体でもそうそうあるものではないので、その点は結構新鮮な部分がありましたね。
この辺りは、さすが「五体不満足」の著者である乙武洋匡ならではの体当たりな演技が光っていると言えるでしょうか。
一方で、白石優作の恋人らしい坂本美由紀は、正直作中での存在意義が今ひとつ分かりにくい存在でした。
いくら白石優作が忙しそうにしているからって、変に遠慮して自己主張を控えた挙句、自分で勝手に不満を爆発させている様は、見ていてもどかしいものがあった上に「面倒な女だな」と考えるのに充分なものがありましたし。
彼女の言動から垣間見えるその心情は「もっと私のことを見て!」というものではあったのでしょうけど、別に白石優作だって坂本美由紀に全く構わなかったわけではなく、彼的にはむしろ誠実に向き合っていた部類に入るでしょうに。
相手が浮気をしているとか、なおざりな態度に終始しているとか言った事情でもあるのならともかく、そうではないのに不満を鬱積させるというのはどうにも理解に苦しむものがありますね。
映画ではラストで強引に上手く行きそうな雰囲気に収めようとしていましたが、あの後の2人の関係って果たしてどうなるのでしょうかね?

元々が自伝ということもあり、作中の物語は淡々とした調子で進行していくため、アクションシーンや手に汗握るスリリングな展開等の派手な描写は一切存在しない作品です。
しかし、教師・生徒それぞれが抱く葛藤や心の交流など、人間ドラマ的な要素はそれなりに「魅せる」ものがある映画でもあります。
そういったものが好きな方と、あとは作中の小学校の風景を見て昔を懐かしみたい方にはオススメの作品であると言えるでしょうか。

映画「ひまわりと子犬の7日間」感想

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映画「ひまわりと子犬の7日間」観に行ってきました。
2007年に宮崎県中央保健所で実際にあった話をまとめた山下由美のノンフィクション小説「奇跡の母子犬」を基にした、保健所における殺処分がテーマとなる犬と人間の物語。
映画「ゴールデンスランバー」「日輪の遺産」、そして男女逆転「大奥」のテレビドラマ版2作目映画版で一人二役を演じた堺雅人が主演を担っています。

今作の冒頭では、物語の中で大きく取り上げられ、終盤近くで「ひまわり」と名付けられることになる一匹の雌犬の前半生が、登場人物の肉声が一言も発せられることなく語られていきます。
その雌犬は、とある老夫婦の家で3匹の子犬の中の1匹として生まれ、貰い手があった2匹と違ってそのまま家に残り、母親犬と共に幼少期を過ごしていました。
しかし、母親犬は黒い大きな犬から我が子を守るべく争いになり、体格の違いもあってそのまま他界してしまいます。
ただ一匹、老夫婦の家に残った雌犬は、老夫婦の愛情を一身に受け、健やかに成長していきます。
ところがある日、年老いた老婆が突然亡くなってしまい、一人残された老人もまた、親戚筋だか子供の家族だかによって老人ホームに入れられることになってしまいます。
残された雌犬は、飼い主恋しさに繋がれた鎖から強引に抜け出し、微かな匂いを頼りに老人ホームへと向かう飼い主の追跡を始めるのですが、おりしも降ってきた大雨によってその匂いすらもかき消され、追跡の手がかりを完全に失ってしまいます。
失意の中で数日かけてようやく家に戻ってきた雌犬が見たのは、飼い主に家を委ねられた近親者の意向?によって家の家財道具が次々と運ばれていく光景でした。
雌犬は引っ越し業者によってスコップなどを叩きつけられて追い払われてしまい、野良犬としての生活を余儀なくされてしまうのでした。

ここで舞台は変わり、今作の主人公である神崎彰司にスポットが当てられることになります。
彼は元々動物園の飼育員で、経営不振でそこが閉鎖された後は宮崎県東部保健所に勤務している中年男性。
同じ動物園の飼育員仲間という関係で知り合い結ばれた妻・神崎千夏を、5年前の交通事故で失った2児の父親でもあります。
宮崎県東部保健所では、3ヶ月毎に数人の職員の持ち回りで犬猫が「保護管理」されている保健所へ出向く決まりがあり、2007年2月は神崎彰司と彼の後輩である佐々木一也の持ち回り月となっていました。
しかし、保健所へ出向くに際し、神崎彰司は自分の上司である桜井から注意を受けます。
神崎彰司が保健所の保護管理を行っている間だけ、犬猫へのエサ代が急増していると。
これは、神崎彰司が独断で犬や猫の保護期間を延ばし、里親を探すべく尽力しているための副産物だったのですが、保健所の官僚的なルール上では立派な違反行為となるのです。
それだけでなく、保健所のエサ代も国民の税金から支出されているので、下手に犬猫を生かし続けると「税金の無駄」と保健所が世間から叩かれるという問題もあるわけなのでした。
結果、神崎彰司は犬猫の余計な延命はしないと約束させられることになります。
そんな中で保健所に出向する日々を続けていた最中の2月7日、神崎彰司と佐々木一也は、野良犬が畑を荒らしているという農家からの依頼で、同じ職員である安岡と3人で野良犬捕獲に乗り出すことになります。
そこで彼らは、生まれて1~2ヶ月程度とおぼしき3匹の子犬と、子犬を必死になって守ろうとする母親犬に出会うこととなるのですが……。

映画「ひまわりと子犬の7日間」は、タイトルに「7日間」と謳っているのに反して、実際には物語冒頭の雌犬&子犬と神崎彰司が出会った日時から換算しても3倍の21日間、物語全体で見ると2007年2月をほぼ丸々使用した期間が費やされています。
ではタイトルにもなっている「7日間」が何を意味するのかというと、これは作中の保健所がルールとして規定している「犬を預かってから殺処分するまでの保護期間」のことを指しているのです。
この7日間の間に保健所は里親を募集し、里親が見つかれば晴れてその犬は引き取られることになるのですが、もし見つからない場合は殺処分ということになるわけです。
ところが今作の主人公である神崎彰司は、保健所の真実を否応なく突きつけられることになった娘の神崎里美とのやり取りを経て、本来ならば捕獲から7日後の2月14日には殺処分をしなければならないところを、自分が保健所を管理できる1ヶ月間の期限一杯(2月28日)まで無断で延長し、何とか雌犬と子犬「全て」を助けようとするんですよね。
ちなみに、この一見短いように思われる「7日間」という期間は、しかし全国的に見るとまだ長い部類に入るのだそうで、地域によっては3~5日程度で殺処分が行われるところもあるのだとか。
かといって、それが可哀想だからと悪戯に保護期間を延ばしても、作中でも言われているようにエサ代をはじめとする費用がバカにならなくなりますし、世間からも「税金の無駄」と叩かれる問題があったりするわけです。
保健所における動物への殺処分がひとつの「必要悪」として存在する、という厳然たる事実を、今作の特に前半部では否応なく登場人物と観客に突きつける構図になっています。
単純に「可哀想だから」で終わる話でもなければ、それに代わる代替案も簡単には構築出来ないし、仮にたまたま代替案があったとしても、そのリスクと責任が当然のごとく問われる。
だからこそ、動物の殺処分問題は難しいのですし、作中の登場人物達も大いに頭を悩ませることになるわけです。

今作で大きな問題となっているのは、単に「犬を助けたい」ということではなく、「人間不信に陥り威嚇してばかりいる心を閉ざした母親犬」をも「子犬と一緒に」助けようとする点にあったりします。
生まれて間もない子犬だけならば引き取り手もたくさんいたでしょうが、神崎父子は「子犬だけでなく母親犬も一緒でなければならない」と考えるわけですね。
これはどちらかと言えば、母親犬よりも神崎父子側の家庭事情によるところが大きいでしょう。
神崎家は交通事故で母親が他界しているわけですし、特に娘の神崎里美は母親犬に自分の母親を重ねていたのでしょう。
作中における神崎里美の言動からも、その傾向は明らかに伺えましたし。
一方で、犬に限らず動物の母性本能というのは人間と異なり、自分の子供について結構割り切っているところがあったりしますからねぇ。
生まれた直後から一定期間は確かに子供を育て守るべく尽力するものの、中途で死んでしまったり自分の管理から離れた子供のことをいつまでも気にすることはないですし、ある程度子供が育ってくれば子育てを止めるばかりか、場合によっては自分から強引に引き離すべく邪険に扱ったりするようになることも珍しくなかったりします。
この辺りはむしろ、理性と記憶力というものを持ち、かつ長期間にわたる保護・育成のための時間を必要とする人間の方が、一般的な動物のグローバルスタンダード(苦笑)からすれば「不自然」かつ「異常」なのでしょうね。
そう考えると、神崎家の面々が子犬と一緒に母親犬をも助けようとする行動は、神崎家の面々が思い描く理想を母親犬に押し付けている、という一面も多分にあったのではないかと。
でなければ、一連の問題は「子犬だけ引き取って母親を殺処分する」という方向に安易な決着で落ち着いた可能性が高かったわけですし。
もちろん、彼らが母親犬を助けようとした行為自体は、それで他者に危害が加わるのでなければ何ら責められる筋合いのものではないのですけどね。
神崎彰司が結果的に保健所のルールを破ることになってしまった問題については、また別の評価もあるかもしれませんが。

今作の物語は特に奇抜なものではなく、むしろ日本全国の保健所その他でいくらでも起こっていそうな「ごくありふれた話」です。
今作で「奇跡」と呼ばれる要素があるとすれば、それは「心を閉ざした母親犬が全くの他人に心を開いた」という事実のみにあるのであって、それ以上でも以外でもないのですから。
保健所で毎年10万単位で動物が殺処分されている事実も、それを回避すべく犬や猫を引き取る里親の存在も「ごくありふれた話」ですし、保健所の人間が犬猫を可哀想と引き取る光景も稀有とは言い難いものがあるでしょう。
ただまあ、こういった保健所の殺処分を巡る問題が「ごくありふれた話」でしかないという事実自体が、現実の構造的な歪みを象徴していると言えるのかもしれないのですが。
かく言う私の実家や親戚の家でも、複数匹の犬や猫を飼っていますし、ペットのことを最優先に考える傾向にあるのは作中の神崎家と同じだったりしますから、物語前半で披露された殺処分の現実と光景は、たとえ「必要悪」と分かっていても積極的には認め難い悲しい話ですね。
ましてや、自分の娘相手に「動物と心の交流がしたいから飼育員になった」とまで語るほどに動物好きな主人公が、職務として殺処分をしなければならないというのは、心身を切り刻まれるレベルの苦しみが伴ったであろうことは想像に難くありません。
私も見ていて「たまらんな、これは(T_T)」と考えざるをえなかったくらいでしたし。
「必要悪」であっても、いやむしろそうだからこそ、その「必要悪」たる殺処分が限りなく根絶されることを願わずにはいられないですね。

ストーリーの結末自体はそこまで暗い内容ではないものの、物語序盤では殺処分の描写や子犬が寒波で死んでしまうシーンなどがあったりするので、動物好きな方には涙なくして観賞できない作品ですね。
保健所の現実を否応なく突きつけられもしますし。
ただ今作は、むしろ本当にペットのことについて真剣に考えられる人こそが観賞すべきなのではないか、と私はそう考えますね。

映画「プラチナデータ」感想

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映画「プラチナデータ」観に行ってきました。
東野圭吾の同名小説を原作とし、男女逆転「大奥」1作目および「GANTZ」二部作で主演を担った二宮和也、および豊川悦司の2人を中心とするサスペンス・ストーリーが展開されます。

映画の冒頭は、児童連続殺人事件の現場に、警視庁捜査一課の浅間玲司が駆けつけるところから始まります。
一連の児童連続殺人事件は捜査が難航しており、警察は未だ容疑者を検挙することもできずにいました。
しかし、被害者の遺体に付着していた髪の毛を元に、警視庁特殊解析研究所(SARI)の主任解析官・神楽龍平が、自身で開発したDNA捜査システムを元に犯人像を割り出します。
そのDNA捜査システムは、登録されたDNAの持ち主を割り出し、DNAを元に真犯人個人の血液型・年齢等はもちろんのこと、詳細な容姿・体型に至るまで再現するという優れ物。
結果、あっという間に真犯人は割り出され、周到な準備と包囲によって、真犯人はいともたやすく逮捕されてしまったのでした。
これが端緒となり、1年後には全国民にDNAの提供が義務付けられるDNA法案が通過する運びとなったのでした。

児童連続殺人事件から3ヶ月後。
全国民のDNA登録が進んでいく中、警察はDNA登録を行わない犯罪者による連続殺人事件に手を焼いていました。
犯行現場等から検出されたDNAは、登録されているDNAに類似するものがなく、同一手口の殺人事件が13件発生していることから、この事件は「Not Found13」という通称で呼ばれていました。
そんな中、神楽龍平と共にDNA捜査システムの開発の創設者である蓼科耕作と、妹の蓼科早樹が何者かによって殺害されるという事件が発生します。
事件の手口が「Not Found13」と同一であったことから、この事件も「Not Found13」関連のものではないかと推察されたのですが、浅間玲司は被害者のパターンがこれまでの事件と異なることから犯人は別にいると考えます。
事件の現場となった新世紀大学病院には多数の防犯カメラが設置されていたことから、浅間玲司は防犯カメラの解析を元に容疑者の割り出しを進めていきます。
一方、同僚を殺された形となった神楽龍平もまた、DNA捜査システムを使って真犯人を割り出すべくシステムを起動させます。
ところが、その捜査の双方で、全く思いもよらぬ人物が重要参考人として浮上することになります。
それは何と、DNA捜査システムを開発した神楽龍平その人だったのでした……。

映画「プラチナデータ」では、「もしこんなシステムがあったらこういう捜査が可能になるのと同時にこういった問題が発生する」というテーマが描かれています。
DNAや指紋等を使用した犯罪捜査自体は、警察も20年以上も前から行っており、精度についても年々向上の一途を辿っています。
ただ、その精度については疑問符が上がることもしばしばで、DNA捜査が決めてとなって有罪判決が下された被疑者が後に逆転無罪を勝ち取るなどといった事例も過去には発生していたりします。
精度の問題だけでなく、DNAサンプルを採取する際に全く別人のDNAが付着したことに気付かないまま捜査が進められたり、サンプルの取り違えでこれまた全く別人が被疑者として挙げられたりといったヒューマンエラーの問題もあったりしますし、DNA「だけ」で犯罪捜査の全てが決まる、などという未来はまだまだ少なからぬ時間が必要ではあるでしょう。
しかし、作中のようなDNA捜査システム自体は、現時点ではともかく将来的には充分に出現が想定されるものではありますし、これを基にしたシステムというのも現実味のある話とは言えるのではないかと。
個人的に興味深かったのは、作中のDNA捜査システムと街中の防犯・防災カメラのシステムを融合する形で構築されている社会的な監視システムの存在ですね。
このシステムは、人が溢れ返っている街中においてもピンポイントで特定の人物を発見できるという優れ物で、物語前半における神楽龍平の逃亡劇においてその威力を存分に発揮しています。
人混みに紛れる形で逃走を始めたはずの神楽龍平をいともあっさりと発見してしまったこのシステムは、犯罪捜査や犯人追跡などにはかなり使い勝手が良いでしょうね。
監視システムの脅威というテーマを扱った映画自体は昔からそれなりの数はあって、私が知っている範囲でも、1999年公開映画「エネミー・オブ・アメリカ」や2008年公開映画「イーグル・アイ」などが印象に残っていますし、邦画でも「踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!」や映画版「ワイルド7」などの事例があります。
今作ではその脅威的な監視システムに、さらにDNA照合システムを組み合わせることでさらに特定の人物をピンポイントで割り出せるようにしているわけですね。
ただ一方では、防犯・防災カメラがロクに設置されていない街外れや無人地帯などではその実力を十全に発揮することができず、結果として追跡ができなくなってしまうなどの脆弱性をも抱え込んでしまっていたりもするのですが(-_-;;)。
携帯電話のGPS機能を利用した追跡システムとか、人工衛星を駆使した空からの監視システムとかいったものもあのシステムに組み合わせれば、作中で披露されたシステムの欠点を補って余りある強力無比なものができそうな感じではあるのですけどね。
DNA捜査システム以上に実現性の高い技術なのですし、これらの組み合わせはむしろない方が不思議な気はするのですが。

作中におけるDNA捜査システムの問題は、システム自体の技術的な欠陥ではなく、それを扱う人間の不完全さに焦点が当てられている感が多々ありましたね。
物語後半で大々的にクローズアップされた「真のプラチナデータ」問題などは、まさにその典型と言えるシロモノでしたし。
技術的には完璧であるはずのシステムが、それを運用する人間側の都合によって歪められる、というのは皮肉もいいところではあるのですが、同時に「確かにそういうことを考える人間は確実に出てくるだろうなぁ」という説得力は大いにありました。
ただ、「真のプラチナデータ」の対象者が本当に犯罪捜査から逃れたいと考えるのであれば、そもそも最初からDNA登録をしないか、それが無理というのであれば偽造のDNAを登録すればそれで済む問題でしかないのではないか、という疑問がないことはないですね。
彼らは世間的にもVIPや権力者なのですし、権力と財力と暴力を駆使して事実を歪めたり偽造したりすることも容易に行える立場にあるはずなのですから。
彼らの立場的には、バカ正直かつ素直にDNA登録などをやっていることの方がおかしな話なのではないかと思えてならなかったのですけどね、私は。

あと、ミステリー的な観点から見ると、真犯人が作中で展開していた殺人事件の動機が今ひとつ弱いのではないか、というのが少々気になりました。
真犯人の犯行動機というのが全て「自身の(殺人とは関係のない)犯行の隠蔽ないし口封じ」ばかりで、怨みとか金目当てとかいった「積極的な動機」がないんですよね。
告白の字面だけを追っていくと、その残虐性はかなりのものがあるはずなのに、どこか意志薄弱な雰囲気が漂いまくっていたことも、動機の弱さを強調する要素が多分に含まれていましたし。
ラストで披露された犯行告白の際も、自己主張が弱かった上にほとんど自滅の体で返り討ちに遭ったようなものがありましたからねぇ(苦笑)。
連続殺人事件の黒幕?にしては、どうにも「締まらない」印象が拭えないところなのですが。

物語前半および中盤の逃走劇は演出的にもそれなりに見応えがありますし、事件の真相や神楽龍平の正体など、上手い落としどころに落としている作品ではあります。
ミステリーや人間ドラマが好きな方は、観ても損はない映画と言えるのではないでしょうか。

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