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映画「草原の椅子」感想

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映画「草原の椅子」観に行ってきました。
芥川賞作家の宮本輝による同名作品を原作し、日本映画では初めてパキスタン・イスラム共和国の北西部に位置するフンザでの映画撮影を実現させた、佐藤浩市主演の人間ドラマ作品です。

物語の冒頭は、明らかに外国と思しき風景が映し出され、その中で4人の日本人が集まって和やかに談笑している場面から始まります。
4人の日本人の構成は、男性2人に女性1人、そして子供がひとり。
彼らは地元のものとおぼしきマイクロバスに乗り、どこかへと向かっていくのでした。

ここで時系列は過去に戻り、4人が冒頭のようになった経緯が、4人の中のひとりで今作の主人公でもある遠間憲太郎の視点から語られていきます。
彼は、とある大手企業の中間管理職的な地位にあるサラリーマンで離婚歴があり、現在は大学に通っている娘の遠間弥生との2人暮らしをしています。
会社ではそれなりに人望もあるらしい遠間憲太郎は、部下達の悩みや相談にもしばしば丁寧に応じる人格の持ち主でもありました。
そんなある日、遠間憲太郎は、勤めている会社の取引先企業「カメラのトガシ」の社長である富樫重蔵からの電話を受けることになります。
何でも富樫重蔵は、激昂した不倫相手から灯油をぶっかけられてしまい、その強烈な臭気のためにタクシーの乗車を完全に拒否されてしまっている状態にあるのだとか。
遠間憲太郎はすぐさま、自家用車で富樫重蔵を迎えに行き、風呂に入れて新しい服を与え、さらには不倫相手と示談させるべく弁護士の紹介まで取り計らってやったのでした。
これに恩義を感じた富樫重蔵は、遠間憲太郎に対して「敬語や肩書は一切なしで語り合う親友になって欲しい」と申し出、遠間憲太郎は戸惑いながらもこれを受け入れます。
その後2人は、年齢が同じということもあってか、しばしば飲み屋で互いに悩みを打ち明け、忌憚なき会話を交わすことができる関係に昇華していくことになります。

また遠間憲太郎は、会社の過重労働が原因で居眠り運転を行い事故を起こしてしまい、病院で入院生活を送っている部下を見舞いに訪れていました。
部下は過酷な労働環境に自分を置いた会社を訴えると遠間憲太郎に告げており、遠間憲太郎は部下を何とかなだめすかしてその場を収めることになります。
部下を見舞った病院からの帰り道、雨が降る中タクシーで移動していた遠間憲太郎は、その途上で雨宿りをしている、ひとりの着物姿の女性を目撃します。
その女性が雨の中を走って一軒の骨董屋へ入っていくのを確認すると、彼女のことが妙に気になったのか、遠間憲太郎はタクシーを停車させ、後を追うようにその骨董屋へと入っていくのでした。
その女性・篠原貴志子は骨董屋を営んでおり、遠間憲太郎は彼女のためにわざわざ10万円もする骨董の皿を購入したりするのでした。
その後、遠間憲太郎は、骨董について独学で学びつつ、篠原貴志子の骨董屋にしばしば足を運ぶようになっていきます。

そしてまた別の日。
バス停でバスに乗ろうとしていた遠間憲太郎は、すぐ近くで自分の娘である遠間弥生が見知らぬ中年男の車に乗り込む光景を目撃します。
タクシーでその後を尾けた遠間憲太郎は、その中年男が住んでいるとおぼしきアパートのベランダで、遠間弥生が洗濯物を干している様子を見出すことになるのでした。
娘がいかがわしい男と、それも下手すれば援助交際や不倫の疑いすらもある付き合いをしているのではないかという疑問に駆られた遠間憲太郎は、その日娘が家に帰って来るとすぐさま中年男の件について問い質します。
奇しくもその時、遠間弥生は問題の中年男とその子供を家まで連れてきており、あわや一触即発の事態になりかけました。
しかし遠間弥生は、別に中年男とその手の関係にあるわけではなかったのです。
彼女は、同じバイト先で働いていた中年男の子供に懐かれており、子供の面倒を見るために中年男の家に出入りしていたとのこと。
そして中年男こと喜多川秋春と遠間弥生は、子供の喜多川圭輔を一時的に遠間家で世話をすることはできないかと遠間憲太郎に持ちかけてくるのでした。
喜多川圭輔の母親は、2年にわたって育児放棄と虐待を繰り返した挙句に男を作って家を出て行ってしまっており、また父親も一時的に遠出をしなければならない仕事ができたため、子供の面倒を見ることができなくなったのだそうで。
中年男の得手勝手な態度に怒りを覚えながらも、遠間憲太郎はしぶしぶその申し出を承諾し、喜多川圭輔の面倒を見ることになります。
母親の育児放棄と虐待から、精神的に深刻な外傷を被っている気配すらある喜多川圭輔を相手に、遠間憲太郎は様々な試行錯誤を繰り返していくことになります。

これら3つの出会いがやがてひとつの流れを生み、やがてそれは遠間憲太郎とその周囲の人間に少なからぬ転機をもたらすこととなっていくのですが……。

映画「草原の椅子」に登場する主要人物達は、全員が何らかの形で心に傷を抱え込んでいます。
バツイチかつ浮気の経歴を持つ主人公の遠間憲太郎。
会社経営で少なからぬトラブルを抱え、リストラした元社員に自殺されて落ち込んでしまう富樫重蔵。
何度も不妊治療をしながら子宝に恵まれず、それが災いして夫と離婚する羽目になった、主人公と同じく同じくバツイチの篠原貴志子。
遠間憲太郎の娘と元妻も、離婚絡みでそれぞれ少なからぬ傷を負っていた様子が描かれています。
しかし、作中で一番大きな精神的ショックと外傷を被っているのは、価値観が俺様至上主義かつ電波入りまくりであまりにもゴミ過ぎる両親の得手勝手な自己都合に振り回された挙句、わずか4歳でありながら実の両親から事実上捨てられることになった喜多川圭輔でしょうね。
自分のこと以外全く眼中にないあの2人の実の両親のクズっぷりは、傍目から見ている分にはなかなかに笑えるものがありました。
もちろん、当事者にとっては深刻な問題以外の何物でもありませんし、親が子供を捨てるという行為が許されるはずもないのですが。
ただ喜多川圭輔の場合、実の両親があまりにもあっさりと子供を捨てる態度を取っていたことは、むしろ逆に幸いな側面もあったでしょうね。
作中で遠間憲太郎も述懐していましたが、あのまま実の両親の下にいたら、両親による更なる育児放棄と虐待によって殺されていた可能性すら充分にありえたわけですし。
また、これは意外な話ではあるのですが、子供を虐待する親というのは、実際には作中の両親とは逆に、子供を自分の管理下から放したがらないという問題もあったりするんですよね。
もちろんその理由は決して子供の将来等を考えてのことなどではなく、単に世間体が悪く自分に非難の目が集中するからとか、子供に暴力を振るって自分の不満のはけ口にするためとか、およそ自己中心的な事情によるものでしかないのですが。
虐待の疑いのある親や、実際に子供を殺してしまった親が、行政の干渉をすら跳ね除けて子供を執拗に自分の管理下に置こうとする事例は、実際に数多く存在していたりします。
もし喜多川圭輔の両親がそんな態度に打って出ていたら、喜多川圭輔自身にとっても不幸なことはもちろんのこと、遠間憲太郎も余計な法廷闘争を強いられることになったのは確実だったことでしょうね。
まあ遠間憲太郎には知り合いに弁護士がいるみたいですし、状況証拠的に見ても遠間憲太郎側に有利に戦いを勧められはしたでしょうけど、それが子供に少なからぬ悪影響を与えるであろうことは避けられなかったでしょうし。
その点で、あのゴミな実の両親が喜多川圭輔をあっさりと捨て去ったことは、結果的に見れば、あの2人が子供にしてやった唯一の「善行」だったとすら言えるのかもしれません。
もちろん、そんなシロモノをそんな風に評価しなければならないこと自体、あの両親の救いようがないクズっぷりを充分に証明して余りあることでしかないのですけどね。

物語冒頭と終盤で舞台となるパキスタン・イスラム共和国のフンザは、さすが「世界最後の桃源郷」と言われるだけのことはあり、雄大かつ美しい光景をまざまざと見せつけていました。
ロードムービー的な構成としては、なかなかに良く出来ていたのではないでしょうか。
ただ、ああいうのってやはり映像や写真ではなく、実際に自分の目と耳で実地で確認してこそ、本当の意味で実感できるものなのでしょうね。
だからこそ作中の主人公達も、写真集で何度も風景を見ていながら、実物のフンザへ足を運ぶことを決断したわけで。
フンザは2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件以降、パキスタンがイスラム国家ということもあり観光客が減少傾向にあるとのことなのですが、今作の上映で客足に弾みがつくことになるかもしれませんね。

登場人物の設定に暗い要素はあるものの、全体的には安心して観賞できる構成ですし、個人的にも結構オススメできる作品ですね。

映画「遺体 明日への十日間」感想

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映画「遺体 明日への十日間」観に行ってきました。
2011年3月11日の東日本大震災発生直後に臨時に設置された岩手県釜石市の遺体安置所を舞台に、遺体を管理する人達と遺族の姿を描いたヒューマン・ドラマ作品。
内容的には非常に地味かつ起伏のないストーリーなのですが、西田敏行・佐藤浩市・柳葉敏郎などの豪華キャストが多数出演しています。

今作の物語は、東日本大震災が発生する約10分前の日常風景が展開されるところから始まります。
何故10分前と分かるのかというと、西田敏行が演じる今作の主人公・相葉常夫が地元の老人?達と卓球レクリエーション?をしていた場所に時計があり、その時刻が昼間の2時35分頃を指している描写があるためです。
その他、患者を診る医者、学校から帰宅する小中高の学生、買い物をする主婦、港で働く人達など、どこにでもある日常風景が続いていきます。
そして、ひとしきりその手の日常風景が展開された後、画面が暗転し、ナレーションのみで東日本大震災の発生および津波で海沿いの街が壊滅したことが掲示されます。
そして次の場面では、冒頭で相葉常夫が卓球レクリエーションをしていた場所の「震災で被害を受けた後」の光景が映し出されます。
震災で停電し、卓球のボールなどが散乱した部屋で相葉常夫が後片付けに精を出している中、震災直後に帰宅した(らしい)はずの老人達が戻ってきていました。
海沿いにある家に帰ろうとしていた彼らは、海沿い方面への道が通行止めになってしまっていて帰れなくなってしまったこと、海沿いが津波で壊滅状態となってしまったことなどを相葉常夫に教えるのでした。
一方、釜石市の役所では、震災で犠牲となった遺体を一時的に置いておくための安置所を設置することが決定され、3人の職員がその責任者として指名されていました。
遺体安置所は、数年前に廃校となった中学校が使用されることとなり、自衛隊や役所の職員によって発見された犠牲者の遺体が続々と運ばれていました。
その遺体安置所を訪ねた相葉常夫は、あまりの被害の大きさと、遺体安置所における遺体への扱いに愕然とします。
震災当時66歳だった相葉常夫は、定年まで葬儀会社の仕事に就いていたこともあり、運ばれてきた遺体が雑に扱われていることに口を出さずにはいられなかったのでした。
そして相葉常夫は、震災で混乱している市政の指揮に当たっていた、震災当時の釜石市市長・野田武則に直談判し、遺体安置所でボランティアとして働きたいと申し出ることになります。
ボランティアでありながらも、葬儀関係の経験が相葉常夫は、役所から派遣されてきた職員達の上に立ち、遺体安置所の管理運営を任されることになります。
次々と運ばれてくる遺体と、行方不明となっている親類縁者や知人を探してやってくる遺族達を相手に、相葉常夫は対処していくことになるのですが……。

映画「遺体 明日への十日間」では、東日本大震災をメインテーマに扱いながら、「被災者や犠牲者が震災の被害を【直接】受けている様子」というのが一切描かれていないのが、大きな特徴のひとつであると言えますね。
津波に襲われる市町村の様子とか、津波に巻き込まれ流されていく人々とか、そういった直截的なシーンが一切ないわけです。
あくまでも「震災後」が舞台であり、震災で死んだ人と向き合わなければならない「生き残った人達」にスポットを当てた作品なのです。
ただそうは言っても、震災の凄惨さを演出するという意図から、震災や津波等の光景自体はそれなりに描写するのではないかと個人的には予想していたので、これは少々意外な展開ではありましたね。
まあ、予算の都合や「作品のテーマが拡散する」等の理由で削られたのかもしれませんが。

また今作は、最初から最後までとにかく起伏のない淡々としたストーリーが延々と展開されていきます。
「遺体 明日への十日間」という題名といい、「東日本大震災の真実」という題材といい、事前予測でも明るい要素が欠片も見出せない上に事実暗いストーリー構成だったりもするので、
エンターテイメント的な爽快感などとはおよそ無縁な映画であると言えます。
ただその分、出演している俳優さん達の真に迫った名演技が光っていますね。
個人的に考えさせられたその手の描写は2つ。
ひとつは、自分と全く面識のない遺体に懇切丁寧に話しかけるという、傍から見たら奇異な対応をする主人公・相葉常夫の言動。
彼がそうする理由については、老人の孤独死を見続けてきたことから、死んだ老人が哀れになって話しかけてみたところ、遺体が変わったように見えたという過去の経緯が作中でも語られています。
そして相葉常夫は、次々と際限なく運ばれ続ける遺体管理の仕事に嫌気がさして不満を述べる職員に対し、「ここにあるのは死体ではない、御遺体なんです」と主張するのです。
相葉常夫的には、そうやって「遺体」と接することで故人を労わると共に、哀しみに押しつぶされそうな遺族の心情に若干ながらの安息を与えるという意図があるのでしょう。
ただ実際には、この手の遺体管理の仕事場では、相葉常夫とは逆に「遺体について感情移入するな、ただのモノとして考えろ」などという考え方も普通にあったりするんですよね。
故人の遺品整理を行う仕事を扱っている映画「アントキノイノチ」などでは、作中の人物が主人公に対してまさにそういう主旨のセリフを述べているシーンがあったりします。
下手に故人に感情移入してドツボに填ってしまったり、余計なお節介をやってしまって遺族からウザがられ、場合によっては無用な揉め事の種にまで発展するリスクもあったりするわけで、これはこれで間違った考え方というわけではないわけです。
特に、震災の現場で何百体もの死体を捜し出し遺体安置所へ運び続けなければならない職員や自衛隊の人間などは、そうでもしないと自分の心が押し潰されることにもなりかねないケースもあったりするのではないかと。
相葉常夫のような考え方は、自身のメンタル面が相当なまでに強くかつ柔軟性がないと、その実行は難しいものがあるでしょうね。

もうひとつ印象に残ったのは、津波の犠牲となった小学生の遺体が運ばれてきた際に、釜石市の女性職員・照井優子が壁を叩きながら「幼い生命が死んでいるのに私なんかが生きているのが申し訳なくて……」と泣き叫ぶシーンです。
その小学生が津波で犠牲になった件について、別に照井優子が直接手を下した等の責任があるわけでもないのに、何故照井優子が自分を卑下しなければならないのでしょうか?
照井優子が生きていることと、震災で小学生が死んだ件とは何の相関関係もないのですし、そもそもその小学生と照井優子とは一面識すらもなかったわけでしょう。
「自分より幼い人間が死んだこと」について嘆くのであれば、それは別に東日本大震災に限らず、毎日世界中のどこかで日常茶飯事に起こっていることであるはずなのですが。
第一、本当に故人に対して自分が生きていることに申し訳ないと考えているのであれば、自分がその場で自殺でもしてしまえば一瞬で解決する話ではないのかと。
こういう発想が、「英霊に申し訳が立たない」からと戦場での犠牲を悪戯に増やした戦前の一億総玉砕論や、「被災者に申し訳ない」という理由から始まったあの愚かしい自己満足の産物でしかない震災自粛の温床でもあることを考えると、とても賛同なんてできるようなシロモノではなかったですね。
自分の責任の範疇外で発生した「他人の死」に自責の念など抱いていては身が持ちませんし、そんなものでは死者も生者も、何よりも自分自身も救われることなどないのです。
自分を責めるよりも行動した方が、はるかに生者どころか死者さえも含めた他人のためになるのではないのでしょうか?

全体的には、豪華キャストな出演者の顔ぶれを見てさえも、やはり万人受けはしなさそうな構成の作品だよなぁ、というのが正直な感想ですね。
人間ドラマとしてはそれなりのものがありはするのですけど、映画は「派手な演出」こそが大きな売りのひとつでもあるわけですし。
原作が「遺体 震災、津波の果てに」というルポルタージュ本とのことなので、その手の要素は最初から望みようがなかったのでしょうけどね。

映画「脳男」感想

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映画「脳男」観に行ってきました。
首藤瓜於の同名小説を原作とする、生田斗真主演のバイオレンス・ミステリー作品。
バイオレンスの名が示す通り、今作は人から切り取られた舌の描写や、爆弾で阿鼻叫喚の地獄絵図のごとく人が次々と死んでいくなどといった描写があったりするため、PG-12指定されています。

今作の主人公は、とある病院で精神科医を務めている鷲谷真梨子(わしやまりこ)。
今作における彼女は、「脳男」の精神鑑定と正体を突き詰める役を担っています。
ある日、仕事から帰ろうとしていた鷲谷真梨子は、バスに乗り込もうとするもギリギリのところで間に合わず、バスに乗っていた小学生達にからかわれながらバスを見送る羽目となります。
元来自分が乗るはずだったバスを見送っていたところ、彼女は次にバスが停車したバス停で、口に血の跡がついている女性が乗り込む姿を目撃します。
その女性を乗せ、バスが出発した次の瞬間、突如バスは轟音を立てて爆発炎上!
しばらくは周囲の人間共々茫然としていた鷲谷真梨子でしたが、バスからよろよろと歩き出てきた子供を見るや、ハッと我に返り子供の元に駆け付け、「早く救急車を!」と叫び始めます。
周囲は騒然となり、ただちに警察による現場検証が開始されました。
しかし、事件の物珍しさもあってか、周囲の野次馬達は携帯を片手に現場の写真を撮ろうとするありさま。
現場検証に当たっていた刑事のひとり・茶屋(ちゃや)は、そんな野次馬に腹を立て、野次馬のひとりが現場に向けていた携帯を取り上げ、その場で叩き壊してしまいます。
当然、周囲は彼に非難の目を向けるのですが、彼は平然としていました。
茶屋は、今回の事件を起こした犯人を憎悪し、何が何でも自分で検挙すべく、執念を燃やしていたのでした。

今回の爆破事件は単独で発生したものではなく、個人をターゲットとし、そのターゲットの舌を切り取った上で爆殺するという同じ手口が既に何度も実行されていた、連続性・関連性の極めて強いテロ事件でもありました。
事件で使用されている爆弾はありふれた市販の製品を元に構成されており、物流ルートの追跡が事実上不可能であることから、警察の捜査は難航していました。
しかし、爆発物のスペシャリストである黒田雄高の調査結果により、爆弾製造の際に特殊な素材が使用されていることが判明し、これが容疑者を割り出す大きな手掛かりとなります。
その特殊な素材の購入者リストを入手した茶屋は、ひとりずつ購入者を洗い出していき、ついに有力な容疑者とそのアジトの割り出しに成功するのでした。
部下の広野と共にアジトへと向かう茶屋。
アジトでは侵入者を想定していたのか、入口に爆弾が設置されており、ドアを開けると同時に爆発に巻き込まれた広野は、2階から地面に叩きつけられてしまいます。
重傷ながらも意識はある広野の無事を確認した茶屋は、アジトの中でひとりたたずむ男に対し銃を向け、爆破事件の共犯者としてその身柄を確保することになります。
連続爆破事件があまりにも犠牲が大きく異常性のあるものであったことから、その男は精神科医による精神鑑定を受けることになりました。
その精神鑑定を受けることとなったのは鷲谷真梨子。
彼女は、鈴木一郎という露骨な偽名を名乗るその男の鑑定結果に興味を持ち、彼の素性を調べ上げていくことになるのですが……。

映画「脳男」は、「脳男」に出会いその正体や誕生に至るまでの経緯を把握するためのパートと、「脳男」と警察と爆破テロ犯との3つ巴の戦いが繰り広げられるパートの2つに分かれるストーリー構成となっています。
前半は、主人公である鷲谷真梨子、および「脳男」こと鈴木一郎(本名:入陶大威(いりすたけきみ))の過去や生い立ちなどがメインで語られており、どちらかと言えばやや退屈な展開が続きます。
一応、ミステリー的な謎解き要素を入れることで、話にそれなりの起伏や演出を盛り込んではいますが。
そして後半、特に病院が爆弾魔に襲撃されてからは、とにかく緊迫感に満ちたストーリーが展開されることになります。
派手な爆破シーンやアクションシーンがてんこ盛りな上、誰が最終的に勝つのか全く予測不可能な話の進め方でしたし。
世界観の解説に終始する前半とアクションメインの後半という今作の構成は、映画「インセプション」と比較的良く似た構成であると言えるでしょうか。
映画の製作者達も、宣伝などで「衝撃のラスト30分」と豪語していましたが、確かにそれにふさわしい出来ではありましたね。

個人的に「ちょっとそれは違うだろ」と考えずにいられなかったのは、鷲谷真梨子が数年?かけて更生させ社会復帰させた自分の弟を殺した犯人を「脳男」が殺した際の、鷲谷真梨子の激情ですね。
あの犯人は、上辺だけの更生した態度を見せつけることで鷲谷真梨子を騙していたのであり、「脳男」があの犯人を殺害していなかったら、かつて弟が殺された時の惨劇を、しかも彼女自身の手で再現することにもなりかねなかったのです。
にもかかわらず、鷲谷真梨子が殺された犯人ではなく「脳男」に対して「私が長年かけて築いてきたものを壊した」などと怒りをぶつける光景は、「脳男」にしてみれば八つ当たりもいいところだったでしょう。
あの犯人が再び犯行を繰り返すことを見抜けなかったのは明らかに鷲谷真梨子の大失点だったのですし、それは精神科医としての自身の責任を問われ、下手すれば自分の地位も立場も失いかねないほどのものですらあったはずです。
もし「脳男」があの犯人を殺さなかったら、鷲谷真梨子はまさにそういう立場に追いやられていたかもしれないのですし。
自分の無能と見る目の無さを、綺麗事を並べて誤魔化していた以外の何物でもなかったのではないですかね、あの時の鷲谷真梨子の態度は。
その前にも鷲谷真梨子は、爆弾魔を殺そうとしていた「脳男」を制止して動きをとめ、ここぞとばかりに爆弾を起爆させようとした爆弾魔の行動によって、結果的に自分達を危険に晒すことにもなっていたのですし。
何というか、作中後半における鷲谷真梨子は、「無能な働き者」の代名詞な言動に終始していたと言っても過言ではないのではなかったかと。

ミステリーとして見てもアクションシーン等の演出面でも、映画館で見てまず損はない良作ですね。

映画「恋する歯車」感想

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映画「恋する歯車」観に行ってきました。
「仮面ライダー」や「スーパー戦隊」シリーズで活躍してきた若手俳優達にスポットを当てる映画シリーズ「TOEI HERO NEXT」の第三弾。
今作では、「海賊戦隊ゴーカイジャー」に出演していた俳優達にスポットが当てられています。
同シリーズの第二弾「ぼくが処刑される未来」と同じく、上映される映画館も少なくマイナーな作品ではあるみたいなのですけどね(T_T)。
作中ではセックスを連想させる微妙な描写の他、血を流して死んでいる人間の描写等もあることから、PG-12指定されています。

今作の主人公で弁護士志望の大学院生・高岡祐市は、ある日突然両親を事故で失ってしまったことから、チンピラに喧嘩を売るなどの自暴自棄な生活を送っていました。
その日も、複数のチンピラ達にボコボコにされているところを、通りがかった警官に助けられる始末。
その警官は、元警察官であった死んだ父親の元部下だったということもあり、「いざという時にはここに連絡して」と高岡祐市相手に世話を焼くなどの親切ぶりを披露していました。
結果、高岡祐市はボロボロになった身でありながら、警察の世話になることもなく帰宅の途につくことができていました。
しばらく道を歩いていると、高岡祐市は、道路に飛び出したひとりの女性がそのまま道の真ん中で立ち尽くしている光景を目撃します。
さらにそこへ、お約束のごとく大型トラックがスピードを出し、女性めがけて突っ込んできました。
高岡祐市は女性を助けようと自分も道路に飛び出し、間一髪のところで女性を突き飛ばし大惨事を回避することに成功します。
助かった女性は自分の事情や自殺に至るまでの経緯については何も語ろうとしませんでしたが、自分を助けてくれたことについては、高岡祐市にキスし礼を述べることで応じるのでした。
その女性の名は藤島リサ。
これがきっかけとなり、2人は交際する関係となり、次第にその仲を深めていきます。

そんなある日、高岡祐市の両親の死後49日が経過したことから、高岡家では父母の生前の知り合いや親族等を集めて49日法要が行われていました。
その最中、高岡祐市は「両親の死に際しての事故報告書で、ブレーキ痕の形跡がない」という不審な内容に疑問を抱きます。
そこで彼は、法要を取り仕切っていた父親の元同僚で現職の警察官である曽根隆三に警察内部での調査を依頼。
また事故報告書によれば、両親が乗っていた車は、時速75㎞ものスピードで交差点の角に激突していたとのことだったのですが、高岡祐市が直接事故現場に赴いてみると、そこは極めて狭い道路の交差点であり、普通に運転していて時速75㎞ものスピードが出せるような場所ではなかったのです。
やがて高岡祐市は、両親の死そのものに対し疑問を抱くようになっていくのですが……。

映画「恋する歯車」は、派手なアクションなどの演出はおよそ皆無で、どちらかと言えばミステリーな謎解きが醍醐味な作品ですね。
最初はいくつもの謎が次々と出現しつつ、わけが分からないままに翻弄されるのですが、物語後半でちりばめられた謎がこれまた次々と解明されていくという構図が展開されています。
ただ正直、ミステリーとしてはあまりにも色々なものを詰め込みすぎている感が否めないところではあります。
25年前の事件を隠蔽するために、殺人はもちろんのこと、25年近くにわたって家を監視する警察とか、そのためにわざわざ恋人に偽装した監視役までつけるとか、当事者以外の人間が聞いたら誇大広告の陰謀論も甚だしいことを、しかし作中の公安警察は大真面目にやっていたりしますし。
警察もまあ、昔の汚点を隠蔽するためとはいえ、ずいぶんとまだるっこしいことをやっているなぁ、と見ているこちらの方がツッコミを入れずにいられなかったのですけどね。
元々作中の警察は、犯罪捜査や真実の隠蔽のためならば手段を問わず、殺人も拷問でさえも躊躇しない集団として描かれているのに、わざわざ25年も監視「のみ」を続けなくてはならない理由が必然性が一体どこにあったというのでしょうか?
あんなことをするよりも、25年前に事件の関係者一同を全員殺してしまっていた方が、事件の隠蔽という観点から言っても、面倒な手間やゴタゴタを事前に抑止するという観点から見ても上策だったでしょうに。
25年前に高岡祐市が高岡家に引き取られた理由も、養父たる高岡宏則の個人的な「罪滅ぼし」でしかなかったのですし、高岡祐市を殺してはいけない理由自体がないに等しいのですが。
そのくせ25年後になると、今度は高岡家の面々を殺すことに何の躊躇もないときていますし。
どうにも作中の警察は、悪逆な組織であるかのごとく描かれている割には、肝心なところで冷酷に徹しきれない中途半端ぶりが浮き彫りになっているとしか評しようがありませんでした。
物語のラストで高岡祐市に銃を発砲しその場で倒しておきながら、それを介抱していたリサも口封じに一緒に殺そうとしたのを制止した行為も意味不明でしたし。
主人公死亡?のためにほとんどバッドエンド的な終わり方になってしまったことも含め、あのラストシーンは映画の評価を大きく下げるシロモノにしかなりようがなかったですね。

また、日本に革命をもたらすために活動しているという、一昔前の左翼学生運動を髣髴とさせるテロ組織も、関口琢馬の狂人ぶりが前面に出過ぎていて、狂信的な過激派以上のものが今ひとつ伝わりにくいものがありますね。
一応彼らも、警察の陰謀論や監視の仕掛けを見破るだけの知識や能力は持っているわけですし、もう少し冷静沈着かつ警察に対抗しえるだけの存在として描く余地は充分にあったのではないかと思えてならないのですが。
ある意味「古典的」な警察の悪逆描写と併せ、昔懐かしい左翼思想のノスタルジアをベースに今作の脚本は制作されたのではないかとすら思えてしまうほどに、ストーリー構成や設定面については時代錯誤かつチープな内容もいいところでしたね。
それこそ25年前に今作が製作・公開されていたら、あるいは「時代のニーズと合致した作品」として大ヒットしえたのかもしれませんが(苦笑)。

ところで、細々とながらも上映されてきた「TOEI HERO NEXT」シリーズというのは今作で終了、ということになるのでしょうか?
前回のシリーズ作品である「ぼくが処刑される未来」では、エンドロール後に今作の次回予告みたいな特典映像が出てきていたのですが、今作にはそれが全くなかったんですよね。
となると、「TOEI HERO NEXT」シリーズは今作で打ち止め、という可能性も大いに考えられることになってしまうのではないかと。
まあ、劇場公開される映画館の数からして全国20箇所程度、しかも公開時期も2~3週間あるかどうかというレベルでは、興行収益的な観点から見ても採算が取れるようにはまるで見えないのですし、いつ打ち切りになっても何の不思議もないシリーズではあるのですが。
正直、次代の映画俳優を育成するための映画作品というコンセプト自体は必要な部分もあると思いますし、個人的にはもう少し続けてもらいたいところではあるのですけどね。

映画「ストロベリーナイト」感想

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映画「ストロベリーナイト」観に行ってきました。
フジテレビ系列で放映された同名テレビドラマシリーズの劇場版。
竹内結子が演じるノンキャリア出世組の女刑事・姫川玲子、および「姫川班」と呼ばれる部下達の活躍を描いた刑事物です。
今作は姫川玲子シリーズのひとつ「インビジブルレイン」という小説が原作なのだとか。
ちなみに私は、過去のテレビドラマシリーズは全く未観賞で今作に臨んでいます。
その視点から見る限りでは、一応テレビドラマ版とは独立したストーリー展開となっていて事件の背景などについては問題なく理解できます。
しかし一方では、主人公である姫川玲子を取り巻く人間関係や過去のエピソードなどについてはほとんど何もフォローされておらず、そちらについては非常に分かりにくい構成でしたね。
作品の世界観や登場人物達について知りたいのであれば、過去のテレビドラマの事前復習は必須ではないかと思われます。

物語は、主人公である姫川玲子のモノローグと、事件の発端と思しき光景が混在する形で描写されていくところから始まり、直後に姫川玲子と菊田和男がバーで飲んでいる?シーンが映し出されます。
菊田和男は、姫川玲子が長年愛用していてすっかりくたびれてしまっている真っ赤なエルメスのバッグについて「買い替えないのか?」と尋ねるのですが、その場では明確な答えが出されることなく、2人は殺人事件発生の報に接することとなります。
殺害現場における被疑者は、何故か左目が切り裂かれている暴力団構成員の男。
ここ最近、全く同じ手口による殺人事件が、それも全く同じ暴力団の人間相手に発生していることから、警察では連続殺人事件と断定し、合同特別捜査本部が設置されます。
しかし、捜査本部設置初めての会議で事件のあらましを説明する段階から、姫川玲子は早々に異議申し立てを行い、暴力団等の組織犯罪を主に扱う組対四課の面々といがみ合うこととなります。
とても「互いに協力して捜査を行う」などという雰囲気ではなく、組対四課は捜査一課とは別個に捜査を行うことを上に提案する始末。
結果、組対四課の提案が採用され、警察の各課は「合同」の名に反し、「情報を共有すること」を条件としつつも全く連携の取りようがない捜査を行うこととなったのでした。

いきなり不穏な気配が漂いまくり、先行き不安な局面から始まった捜査でしたが、会議の終了後、誰もいなくなった会議室に一本の電話が鳴り響きます。
唯一その部屋にいた姫川令子が電話を取ると、コンピュータ音声を繋ぎ合わせたと思しき不審な声が「殺人事件の犯人は柳井健斗」などとしゃべったのでした。
電話は一方的に言葉を伝えた後、何も尋ねることなく一方的に切られてしまいます。
電話の内容をメモっていた姫川玲子は、体調不良だか何かで現在入院している自分の上司で係長の今泉春男の元を訪れ、電話の件を報告します。
ところが今泉春男は、「この件は一旦自分に預けておいてくれ」と不可解な言動を見せます。
さらに翌日、姫川玲子は橋爪俊介から「誰にも見られないよう早朝に公園に来い」命じられ、柳井健斗については一切触れるなと言われてしまいます。
当然のごとく不審を抱かざるをえなかった姫川玲子は、裏にヤバいものがあることを察し、命令に従わず単独での捜査を始めることとなるのですが……。

映画「ストロベリーナイト」最大の特徴は、物語のほぼ全編を通して雨のシーンばかり続くことですね。
物語全体でも数日の時間が経過しているはずなのですが、その大部分で雨または曇り空の天気が続いていました。
雲ひとつない晴れ上がった空が出てくるのは、物語のラストシーンのみです。
映画の原作および副題が「インビジブル『レイン』」なので、意図的に雨を意識した場面作りに精を出していたといったところでしょうか。
柳井健斗のアパートを姫川玲子がひとりで張り込みを行っていたシーンなどは、最低半日~1日程度の時間経過があるような感じだったにもかかわらず、その間ずっとクルマのワイパーを常時回していなければならないほどの雨が続いていたみたいですし。
アレだけ長時間にわたってそんな大雨が降り続いていたら、大雨洪水警報が発令して川が氾濫したり道路の浸水が発生したりで、交通網が大混乱に陥っていてもおかしくないのではないかと、ついついいらざる心配をしてしまったものでした(^^;;)。
もっとも、作中で描写されていない時間帯で、一時的に雨が止んだり小雨になったりしていた可能性はあるわけですし、高台などではそんな雨でも意外と普段とあまり変わらなかったりするものなのですが。

作中のストーリーを見てみると、主人公である姫川玲子の行動にはかなり不可解な要素が否めなかったですね。
彼女は「上司の命令に従順ではない反権力的・真実追及を第一とする思考をする女性」として描かれており、犯人追求に人一倍の情熱を燃やしています。
ここまでならばこの手の刑事物にはありがちな設定なのですが、作中における姫川玲子は、不審な電話で言われていた柳井健斗のことを調べる過程で、指定暴力団・竜崎組の若頭である牧田勲と接触するようになります。
最初は牧田勲が自身の身分を偽っていたこともあり「事件の参考人」程度の接し方だったのですが、竜崎組絡みの暴力沙汰に巻き込まれたことがきっかけとなって、姫川玲子は牧田勲の正体に気付くことになります。
そこまでは良かったのですが、彼女は牧田勲を犯人と見立てて素性を調べ真相を暴くべく迫った際、逆に自分の本質を相手に見抜かれた挙句、「お前が憎む相手を俺が殺してやろうか?」という相手からの申し出に対し「殺して」と同意の返答をしてしまうんですよね。
さらにその直後、2人は互いに抱擁しそのままカーセックスへとしけこむありさま。
あの時点における牧田勲は、姫川玲子にとってはどう控えめに見ても事件の重要参考人、場合によっては真犯人の可能性すら持ちえる存在であることを、彼女は当然のごとく知っていたはずなのに、それを承知でああいう展開になるというのが正直理解に苦しむところなんですよね。
暴力団関係者、それも事件の容疑者にもなりえる存在とそんな関係になることが、自分にとっても警察にとってもどれほどまでに致命的なスキャンダルたりえるのか、一般常識があれば誰でも普通に理解できそうなことでしかないではありませんか。
警察内部でも、姫川玲子と牧田勲の関係が噂され、姫川班の面々が公衆の面前で堂々と糾弾されていた描写すらあったのですし、部下の菊田和男などは、2人がカーセックスにしけこむ場面に居合わせてさえいました。
このシーンの後、姫川玲子は度重なる単独行動と命令違反が問題視され、事件の捜査から外れることとなってしまうのですが、警察内部でのスキャンダルな噂話の方が、実際にはもっと大きな問題だったのではないのかと。
菊田和男も、よくもまあ姫川玲子のカーセックス問題を追及しなかったものだと、逆の意味で感心せざるをえなかったですね(苦笑)。
牧田勲とカーセックスをやらかした時点で、彼女は犯罪捜査にある種の「私情」を持ち込んでいることになるわけですし、警察の人間として完全に失格であるとすら言えてしまうのではないのでしょうか?
物語後半で菊田和男から「あなたは警察として行動しているのですか?」と問いかけられたのに対する返答も、明らかに私情で動いていることを告白しているも同然のシロモノでしかなかったですし。
映画観賞後にWikipediaで調べてみたところ、姫川玲子には17歳の頃にレイプされた過去があるらしいのですが、だからと言ってそれが彼女の「私情」な言動の免罪符になるわけもないのですし、彼女は警察という職種にはあまり向いていない人間であると評さざるをえないですね。
いっそ、カーセックスで結ばれた牧田勲と共に、極道の世界で成り上がっていった方が、彼女の適性的に見てもはるかに良かったのではないのかと(苦笑)。

ミステリー系なストーリーとしては意外な真相で面白かった部分もあったのですが、姫川玲子のカーセックスの一件から、どうにも彼女の言動にはついていけないものがありましたね。
しかも結果的に見れば、彼女は結局自力では事件の真相に辿り着けておらず、真犯人の一種の「自爆」によって幕が下りたようなものでしたし。
この点から言っても、姫川玲子の「有能さ」よりも「常識外れの異常ぶり」の方がはるかに際立った作品であると言えますね。

映画「東京家族」感想

ファイル 877-1.jpg

映画「東京家族」観に行ってきました。
「男はつらいよ」シリーズなどで知られる、山田洋次監督が手掛けた81作目の映画作品となるファミリー・ドラマです。

2012年の5月。
東京の郊外にある診療所・平山医院を営んでいる平山家では、瀬戸内海にある島のひとつ・広島県の大崎上島からはるばる新幹線で上京してくる予定の一組の老夫婦を迎えるべく、準備が進められていました。
老夫婦の長男で家主の平山幸一に代わり、料理を用意したり、2人の子供達に文句を言われながらも老夫婦の宿泊部屋を確保したりと、奥さんである平山文子は大忙し。
久々に両親に会えるということで、同じく東京郊外で理髪店を営んでいる長女・平山滋子も平山医院を訪れ、迎えに行った次男・平山昌次と共に帰ってくるであろう老夫婦との再会を待ちわびていました。
ところが何か手違いがあったのか、平山昌次は迎えに行くべき駅を間違え、本来老夫婦が降車する予定の品川駅ではなく、東京駅で待機していることが判明。
駅の間違いを指摘された平山昌次は、すぐさまイタリア製のオンボロ車・フィアットを駆使して東京駅へと向かいます。
しかし、品川駅で平山昌次を待ち続けていた老夫婦の夫である平山周吉は、これ以上待たされることに我慢が出来ず、妻の平山とみこを連れてタクシーで平山医院へと向かうことになります。
結局、タクシー代に1万円以上もかけたらしい老夫婦は、2人だけで平山医院へ到着することになります。
自分達にとっては孫に当たる、長男の子供達と挨拶を交わす平山周吉&とみこの老夫婦。
そうこうしているうちに、結果的には何の目的を果たすこともできなかった平山昌次も平山医院に到着。
久しぶりに家族一同が揃った平山家では、ささやかな歓迎の夕食会が行われることになったのでした。

翌日。
老夫婦を泊めていた平山家の長男は、自分の子供と一緒に老夫婦を東京観光へ連れて行く計画を立てていました。
ところが今まさに出かけようとしたその時、かねてより平山医院へ掛かっていた患者の容態が悪化したとの連絡が入り、長男はそのまま往診へ行くことを決断します。
当然、東京観光は取り止めとなってしまいました。
予定が立ち消えとなってしまった平山とみこは、父親と一緒に出掛けることを期待していた次男の勇と一緒に公園へ散策に出かけることに。
まだ9歳でしかない勇はすっかり人生を諦めてしまっており、平山とみこはその様子に溜息をつきながらも父親を引き合いに出して諭し続けるのでした。
その後、老夫婦は今度は長女の平山滋子の家で世話になるのですが、こちらは常日頃から理髪店の仕事が忙しくて老夫婦にかまっている余裕がなく、また天候にも恵まれなかったことから、2人は狭い家でただ佇んでいるありさま。
平山滋子は苦慮の末、次男の平山昌次に両親を連れて東京観光へ連れて行くよう依頼します。
平山昌次は、とりあえず東京観光用の遊覧バスに2人を乗せはしたものの、自分はバスの中で居眠りをこいて過ごすというやる気の無さを披露していました。
元々平山昌次は、何かと自分に厳しく当たってくる父親に隔意を持っており、老夫婦の子供である3人の中では一番父親を歓迎していなかったのでした。
そんな中、仕事の都合から両親の面倒を見ることが難しい長女・平山滋子は、同じ境遇にあった長男・平山幸一と相談して、2人を東京都内の高級ホテルに宿泊させることを思いつきます。
かくして2人の老夫婦は、一泊10万円近くもするらしい高級ホテルに宿泊することとなるのですが……。

映画「東京家族」に登場する家族および登場人物達は皆、どこにでも普通にいるような存在ですね。
特殊技能を駆使するスパイやヒーローというわけではなく、辣腕をふるう政治家や悪党というわけでもありません。
ストーリー自体も、手に汗握るスリリングな展開があるというわけでもなく、一応大きな事件は起きるものの、全体的にはそれすらも含めて淡々とした展開が続いていきます。
PG-12&R-15系な描写は何もないにもかかわらず、内容的には議論の余地なく大人向けの作品以外の何物でもないですね。
今作のストーリーは、平山周吉と平山昌次を中心に回っており、実質的にはこの2人が主人公ということになるでしょうか。

今回個人的に注目していたのは、やはり何と言っても平山周吉の平山昌次を巡るやり取りですね。
長男と長女は、父親に対して敬意は払いつつもどこか一歩距離を置いていたような態度に終始していたのに対し、次男は結構本気で父親を毛嫌いしているところがありましたし。
まあ、作中でも明示されていたあの父親の頑固一徹な態度に幼少時から晒され続けていれば、そうなるのも当然ではあったかもしれませんが。
あの父親は、今で言うならば「毒を持つ親(毒親)」に近いものが、平山昌次にとってはあったわけですからね。
あの2人の関係は、ストーリー中盤までは母親の平山とみこが、終盤30分ほどは恋人である間宮紀子が間に入ることで何とか成立していたようなものでしたし。
平山周吉も、次男のことを全く愛していなかったわけではないのでしょうが、父親のあの性格と息子の反感具合から考えると、あの2人だけでは永遠に和解する日など決してくることはなかったでしょうね。
ただ、母親の葬儀後、父親の世話や話し相手を全て恋人に押し付けていた平山昌次の対応は、さすがに正直どうかと思わなくはなかったのですが(苦笑)。
平山昌次の主観的には当然の選択肢であったにしても、厄介事を押し付けられた間宮紀子にしてみれば、「何故私が全く赤の他人の世話などをしなければならないのか?」と疑問に思わない方が不思議な話なのですから。
間宮紀子も、よくもまあアレだけのことを後悔しつつもやってのけたものだと、第三者的に見てさえも考えずにいられなかったですからねぇ。
まあ、そのことを当の父親本人に堂々と言ってのけた辺りは、彼女も相当なまでの「正直者」ではあったでしょうけど。

今作は2011年3月11日に発生した東日本大震災およびその影響をある程度意識して製作されたと聞いていたのですが、作中でそれが反映されていたのはたった2箇所程度でしかなかったですね。
ひとつは、平山周吉の友人宅で、家政婦さん?らしき女性の母親が東日本大震災で発生した津波の犠牲になったというエピソード。
もうひとつは、平山昌次と間宮紀子の出会いが、東日本大震災のボランティア活動がきっかけであったということ。
震災話はもう少し前面に出てくるものとばかり考えていただけに、「たったこれだけ?」という印象を抱かずにはいられなかったですね。
まあ、この映画が最初に企画されたのは東日本大震災発生前で、震災発生をきっかけに撮影を延期したとのことだったので、震災エピソードを大量に挿入する余裕もあまりなかったのでしょうけど。

アクション映画やVFX作品のごとき派手な演出も、ミステリー的な頭脳戦も皆無な作品なので、観る人をかなり選びそうな作品ではあります。
どこか響く物語であることは確かなのですが……。

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