よく日本社会では、口頭や文書などで命令されたりしていないにもかかわらず、自分の意思に反して半ば雰囲気的に非合理的な愚行への従属を余儀なくされてしまう事例が多々あります。
日本でこれまで生活したことのある人であれば、誰もが一度は「和を乱すな」「空気を読め」と言ったOR言われたことがあるのではないでしょうか?
しかし、この「空気」という概念は、自由な議論を問答無用で封殺し、責任回避の温床にもなっているという点で、社会に害悪しかもたらさないシロモノにしかなっていないんですよね。
「空気」の問題は何も最近になって突然発生したものではなく、戦前の時代には既に存在が確認されていました。
戦前の日本は、朝日新聞をはじめとする大手マスコミが煽りたてた「鬼畜米英」「進め一億火の玉」的な「空気」が世論を支配していましたし、映画「聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実-」でもその様相がはっきりと描かれています。
戦前の軍国主義についてよく言われる「軍部が暴走して戦争への道を突き進んだ」というのも、実は世論という名の「空気」がそれを支持していたからこそ実現しえたものだったわけです。
また「戦艦大和の沖縄特攻作戦」などは、実行すれば確実に失敗することがあらゆる資料やデータなどから明らかだったにもかかわらず、「当時の空気ではああするしかなかった」として実施せざるをえなかったと、当時の軍関係者が証言していたという話があったりします。
「空気」などに従っても何も良いことはない、それどころか身の破滅に陥る危険性すらあることは、戦前・戦時中における愚劣な政策・作戦の数々が「空気」の名の下に問答無用で実施され、無用な損害と犠牲を出してきたことを振り返っても一目瞭然でしょう。
「空気」の危険性は、既に戦前の昔から警告されていたわけです。
比較的最近における悪しき「空気」の実例としては、2009年8月の衆議院総選挙、およびその前の自民党バッシングが筆頭的なものとして挙げられるでしょう。
当時の日本では、たかだか政治家がカップラーメンの値段や漢字の読みを間違えた程度のことで、汚職事件にも匹敵する一大スキャンダルであるかのごとく騒ぎ立てられ、政治面での実績など何も顧みられることなく「自民はダメだ! 民主党に政権交代を!」などと呼号される始末でした。
挙句、民主党が政権を取ったらどうなるかについて、いくつもの実例を元に当時から警告も行われていたにもかかわらず、「民主党に投票するのは当然のこと」という「空気」がそれらを全て押し潰して政権交代を実現させてしまいました。
その結果が今日の惨状であることは今更言うまでもありますまい。
また、2011年3月11日に発生した東日本大震災では、「震災自粛」と「反原発」という名の「空気」が醸成されました。
「被災者に配慮する」という大義名分の下、震災被害とは全く関係のない地域で異常なまでに蔓延した震災自粛という「空気」は、そのために倒産する企業まで出るほど猖獗を極め、悪戯に日本経済を痛めつけ却って震災復興を遅らせてしまうありさまでした。
今から考えると、あのバカ騒ぎは一体何だったのかとすら言いたくもなってしまいますね。
そして震災直後に発生した福島第一原発事故に端を発した「反原発」という「空気」は、原発再稼働問題をこれまた悪戯に拗らせ、今なお日本社会に電力供給面での不安と抱え込ませると共に経済への悪影響を与え続けるに至っています。
戦前の軍国主義・民主党による政権交代・震災自粛・反原発…。
その存在によってこれだけの愚行が何度も執拗に展開されるのに、未だに日本社会では肯定的に扱われている「空気」。
このような珍現象が発生するのは一体何故なのでしょうか?
「空気」の弊害は誰もが感じているところでしょうが、一方で、誰もが利益や恩恵を受けないような社会システムが存続などするわけがありません。
となると、実は「空気」にも万人に受け入れられるだけの利益や恩恵が存在する、ということになります。
それは普通であれば、金銭や社会的インフラ・領土・有形財産などの「誰もが目に見える形での分かりやすいものになるはずですが、「空気」の場合は全然違うんですよね。
「空気」があることで得られる利益を突き詰めていくと、その最たるものは「責任の所在が曖昧になる」「責任回避・免罪が受けられる」という点に行き着いてしまうんですよね。
記憶や記録として残る口頭や文書で他人に命令しているわけではないため、言質を取られる心配が一切ない。
あとで「何故あんな愚行をやらかしたんだ」と問われても「あの当時の空気ではああするしかなかった、俺が悪いんじゃない」と自己の責任を回避できる。
結果、誰ひとりとして責任を取ることなく全員が免責されるか、「みんなが平等に悪い」「みんなで責任を取ろう」などという結論に終始することになる。
これが「空気」によって得られる利益と恩恵なのです。
理論的に言えば、「空気」を煽りたてた人間と、それを無条件に信じ込んで迎合した人間は、当然のごとく相応の責任を問われる必要があるはずなのですが、日本ではそれすらもロクに行われることがありませんからねぇ。
つまり「空気」というのは、その扇動者と大衆迎合主義者にとって大変に都合の良い概念である、というわけです。
戦前の軍国主義的な「空気」を煽り、かつて自社がやらかしたサンゴ捏造報道事件のシンボルである「KY」という言葉に「空気を読め」などという新たな造語を付与してのけた朝日新聞社などは、まさにその典型例でしょう(笑)。
戦前の報道に関する朝日の弁明も、まんま「あの当時の空気では…」の論理を地で行くシロモノでしかないですし。
「空気」の存在を誰よりも欲しているのは、昔から「空気」の煽り手だった大手マスコミなのではないかと。
そんな連中のために存続されている「空気」という社会概念は、一刻も早くこの世から消し去った方が良いのではないかと思えてならないのですけどねぇ。
では、そんな「空気」を打破するには一体どのような方法を取れば良いのか?
最初に行うべきは、やはり何と言っても客観的かつ実証性に満ちたデータを元に、「空気」を論破できるだけの強力な理論を作り上げること。
これが最初にできないと、そもそも「空気」のどこが問題であるのかを明示することもできないのですから、ある意味当然の方策でしょう。
また、そういった理論を自前で用意すること自体が「自分で考えて行動する」ことの証明にもなります。
しかし、ただ理論を用意するだけでは「空気」の流れに抗うことはできません。
相手は数を頼みに問答無用で迫ってくるのが常なのですから、ただ正論を振りかざすだけでは、これまでの事例が明らかなように数で押し潰されるだけでしかありません。
そこで、その正論を公の場で大々的に宣伝する場と、理論の正しさを他者に評価してもらう場が必要となります。
前者は後者も兼ねている場合がありますが、後者は前者だけでなく「議論をする場」なども含みます。
ここで重要なのは、宣伝や議論の際には常に第三者の目を意識し、彼らに「『空気』よりもこちらの方に理がある」と評価してもらうことです。
特に議論の場合は、議論相手をいくら追いつめても論点そらしや開き直り、さらには諸々の圧力(暴力行為や脅迫、個人情報の流布など)などで逃げられる可能性が大ですから、むしろそのような無様な姿を第三者の目に晒させる方がはるかに効果的です。
尊敬・崇拝する相手がどんな愚行をやらかしても敬意の念を抱き続ける、などという「信者」的な人間なんてそうそういるものでもないですし、たまにいたとしても笑いのネタにしかならないのですから。
ただ実際には、そこまでやってもなお「空気」を覆せないことの方が圧倒的に多かったりします。
先に紹介した4つの事例でも、結局非合理的な「空気」が合理的な正論を押し潰している現実が存在するわけですから。
「空気」側もなかなかに狡猾なもので、自分にとって脅威となるであろう理論には「絶対悪」のレッテルを貼って人格的に貶めたり、全体から見ればどうでも良い部分をことさら論って挙げ足取りに走ったり、最初から「あんな奴は相手にしない」と上から目線で無視を決め込んだり、さらには有形無形の政治的・経済的圧力をかけて社会的どころか非合法的かつ物理的に相手を葬ってしまったりすることすらも珍しくなかったりします。
たとえ相手に理があると考えても、そこから「空気」に逆らうためには、自分の選択の正しさを信じ、かつ周囲の圧力に抗しえるだけの強い精神が必要となります。
それは大多数の一般人にはなかなか難しいことですし、ましてや、そのことで人的・物的な被害まで発生しかねないとなればなおのことでしょう。
ならば、そういった事情を勘案した上で、より安全確実に「空気」に逆らうにはどうすれば良いのか?
それは、「当時の『空気』の実態およびそれに基づく発言を全て記録し公開すること」これに尽きます。
当時の「空気」の中で、誰がどんな発言をし、どんな行動に出ていたのか、その事実を全て記録し尽くすのです。
そうすれば「空気」が変わり、そいつが変節をしようとした時、その記録を突きつけて責任を問うことが可能となります。
独自の正論も持たず、「空気」だけを担保に好き勝手やっているような人間は、「空気」が変わった途端にそれまでの主張を簡単に翻してしまいます。
しかし、過去の記録があればそういうことも簡単には行えなくなりますし、周囲も「お前はかつて正反対なことを述べていたじゃないか」と警戒するようになります。
もちろん、記録を突きつけられた人間も、その際にはまさに「あの当時の空気では…」などという言い訳をここぞとばかりに披露することになるでしょうが、それは「俺は空気に流されるだけの風見鶏な人間でしかない」と自ら告白するようなものですし、節操のない変節漢として信用も大きく失ってしまうことにならざるをえないでしょう。
しかも、記録する行為自体は何ら「空気」に逆らうものではありませんから、誰でも何らリスクを抱え込むことなく行うことができるわけです。
「空気」で動いている人間も、まさか「俺の言動を記録するな!」などと主張することはできないでしょうし、そんなことをしたら自分の言動に正当性がないことを自ら自白するようなものです。
また、その場の「空気」に基づいた言動が「記録」によって後から裁かれる、ということになれば、安易に「空気」によって動くことについても一定の抑止力として機能しえます。
一見迂遠な手法ではありますが、急がば回れの格言のごとく、「空気」に対抗する一番の道は結局これなのではないか、と考える次第です。
自分の意に沿わないばかりか、自身や社会にとっても害悪しかもたらさない「空気」に従わなければならない理由など、世界の果てまで探してもあろうはずがありません。
他者、特に大手マスコミが煽りたてる「空気」に対抗する術を、国民ひとりひとりが持つべき時にいいかげん来ているのではないでしょうか?