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カテゴリー「男女問題」の検索結果は以下のとおりです。

民主党が選択的夫婦別姓制度の推進を強行

12月2日に、民主党の子ども・男女共同参画調査会が、保守系議員の反対と議論の紛糾を無視し、選択的夫婦別姓制度の導入を事実上容認する提言を提出し了承された模様↓

http://megalodon.jp/2010-1203-2306-04/sankei.jp.msn.com/politics/situation/101202/stt1012022235012-n1.htm

同日の調査会では、保守系の議員らが「世論を踏まえておらず拙速だ」などと反発し、議論が紛糾したにもかかわらず、「世論にばかり左右されるものではない」として提出を強行したのだとか。
国民に公約したマニフェストすら何ひとつ満足に実行できていない民主党が、如何なる理由でマニフェストにも全く載っていない選択的夫婦別姓制度の導入などを、しかも民主主義の手続きおよび民意を無視してまで急いでいるのでしょうか?
ここ最近の自業自得な失態の数々で次の選挙では惨敗が確実視されているとはいえ、いくら何でも開き直りすぎなのではないのですかね>民主党。

夫婦別姓については私も創竜伝考察の3140で論じているのですけど、結局一番問題となるのは「子供の姓」なんですよね。
夫婦間でそれぞれの姓を維持して「これぞ男女平等!」などと嘯いたところで、両者の間で子供が生まれれば、子供に対して「どちらか一方の姓」を「他方の姓」を排除して付与しなければなりません。
両者が子供について自分の姓を与える権利を主張すれば争いや不和が発生することは避けられませんし、子供に自分の姓を与えられない側は、自分と子供の姓が違うことによる疎外感・孤立感を抱かざるをえなくなります。
すでにこの時点で「両者の姓を尊重する男女平等な夫婦別姓」などという建前は完全に崩れ去ってしまうのですが、姓を「自分で選択することなく」与えられた子供の方はさらに悲惨です。
幼少時の子供にとって「親」というのは絶対的どころか「生殺与奪の全てを握る神」とすら言って良いほどの存在であり、親に抱く依存心や信頼感というのは、その後の人生を左右する要素とさえ言えるものです。
自分の姓や片親と違う、という「大人でさえ少なからぬ違和感を覚えることがありうる」事実は、特に幼少時の子供にとってはさらに大きな違和感となってのしかかります。
大人でさえ拭い難いその違和感を跳ね返すのは、ましてや何も知らない子供にとっては至難の業もいいところですし、全ての家庭でそれが実現しえると考えるのは楽観的に過ぎるというものでしょう。
そういう懸念があるからこそ、保守系の人間は夫婦別姓に反対するのですし、その反対に対して何ら有効な反論すらすることなく強引に押し切った民主党の所業は、民主主義国家の政党として到底許されるべきことなどではないのですけどね。

ところで夫婦別姓といえば、我らが田中芳樹御大もまた、創竜伝10巻と13巻で礼賛的な自論を盛大に吹聴しておられます。
特に創竜伝13巻における作中の社会評論は、10巻で自ら設定していたはずの「創竜伝世界の日本ではすでに夫婦別姓が実施されている」という作中事実を無視してまで「夫婦別姓の導入」を提唱しており、夫婦別姓導入に対する田中芳樹の並々ならぬ思い入れと意気込みが伝わってくる一品です(笑)。
それだけに、今回の民主党の「英断」は、田中芳樹的には感涙に咽びつつ諸手を挙げながら賛同したいところではあるでしょう。
たとえそれが、民主主義的な手続きや民意を蹂躙しきった論外なシロモノであるとしても(爆)。

続・「男女平等」の正しいあり方とは?

単身世帯を対象にした総務省の2009年の調査によると、30歳未満の女性の可処分所得(家計の手取り収入)が男性のそれを初めて上回ったとのことです。

http://ow.ly/2Tuk1

つい先日、世界経済フォーラムの男女性別格差ランキングで134ヶ国中94位と発表された結果とあまりにも大きな隔たりがあります。
こと給与水準だけを見れば、男女格差など存在しないも同然どころか、むしろ男性側を優遇しなければならないレベルですらあるわけです。
何故このような矛盾した調査結果が出てくるのでしょうか?

世界経済フォーラムの男女格差調査は、「経済」「教育」「健康」「政治」の4つの分野について国毎にスコアをつけ、総合的な「男女格差指数」を出すという手法が取られています。
具体的な基準としては、

・ 女性の就業率など経済への参加度
・ 産休制度の充実や、専門職に占める女性の比率など雇用機会の均等性
・ 議会や政府など政治決定機関に女性が占める比率
・ 教育機会の均等性
・ 女性の健康への配慮

といったものが挙げられますが、要するに

「女性がいかに家庭の外に出て働いているか&政治参加しているか?」
「女性に男性と同等、もしくはそれ以上の権利ないし政治的保護が認められているか否か」

というテーマを元にした調査であるわけです。

しかし、「経済への参加度」だの「政治の場や職場における女性の比率」だのといった項目は、そもそも「全ての女性が家庭の外で働きに出たがっている」という前提がなければ、すくなくとも男女平等の指標として調査する意味が全くないシロモノです。
実のところ、日本における女性の大部分は、子育てや家庭の維持、そして何より「自身の身体的負担を軽くしたい」などといった動機から、専業主婦やパート、事務職系などの軽労働を志願する割合が高く、他ならぬ女性自身が男性並の重労働や時間外超過残業を望まない傾向にあります。
調査の前提が成立していない日本において、「経済への参加度」だの「政治の場や職場における女性の比率」だのといったものを算出することに、一体何の意味があるというのでしょうか?

そして一方、女性の労働環境については、日経新聞の記事でも明らかなように、男女間の賃金格差は30歳未満では男女逆転していますし、また企業の中には従業員の半分以上、下手すれば4分の3近くが女性で占められている、というところも決して珍しくありません。
就業における男女間の「機会の平等」はすでに達成されていると言って良く、その上で女性の社会進出や政治参加の比率が小さいというのは「男女差別」などではなく、あくまでも「女性自身の選択による結果」というものでしょう。
そこからさらに「結果の平等」を追求した挙句、北欧諸国で採用されているようなクォータ制やアハーマティブ・アクションを採用しても、却って余計な人件費と人材の浪費、さらには新たな男女差別が誕生するだけでしかないと思うのですけどね。

さらに言えば、冒頭で紹介した、女性の可処分所得が男性を上回ったというニュース自体、実は男女平等の観点から言ってさえも歓迎できないシロモノだったりします。
件のニュースをよく読んでみると、可処分所得は女性が2004年から11.4%増加しているのに対して、男性が0.7%の縮小となっています。
また、完全失業率についても女性が男性を下回っています。
つまり、就労待遇では女性が優遇されている一方、男性は給与が削られ、雇用自体も減少しているという事態に直面しているわけです。
男女平等の観点からすれば、かくのごとき「女尊男卑」な状態が歓迎できる話であるはずもないでしょう。
表層的な数値のみを帳尻合わせただけの「男女平等」にこだわっていると、こういう別観点から見た問題をも結果として見落としてしまうことにもなりかねないのです。

巷に溢れかえっている、
「女性が家庭の外に出て男性並に重労働するのが男女平等」
「男性の権利を抑圧し女性を優遇するのが男女平等」
などという誤った旧時代の固定観念をいいかげん打破すべき時期にそろそろ来ているのではないか、と私などは思えてならないのですけどね。

「男女平等」の正しいあり方とは?

世界の大企業が参加している世界経済フォーラム(本部ジュネーブ)が発表した、社会進出や政治参加における性別格差ランキングによると、2010年度、日本は134ヶ国中94位とのことです。
前回は101位だったとのことで、順位自体は上がっているのですが、それでもこの順位は先進国の中では最下位なのだそうです↓

http://megalodon.jp/2010-1012-2128-50/sankei.jp.msn.com/life/trend/101012/trd1010122110010-n1.htm

ただ、これは以前から思っていることなのですが、女性の社会進出や政治参加が進んでいないという要素「だけ」で、「男女平等」の是非というのは果たして判定できるものなのでしょうか?

男女平等について語る際、よく「男女平等先進国」とされ、件の調査でも上位にランクインされていたノルウェー・スウェーデン・フィンランドなどといった北欧諸国の事例がよく挙げられます。
これらの国々では、公共機関の職員や議席数に一定数の女性を割り当てるクォータ制やアハーマティブ・アクションといった、理由や能力を問わず女性が「強制的かつ自動的に」採用される制度で運用されています。
男女間の競争の結果として男女平等が実現しているのではなく、最初から男女平等ありきで職員数や政治家等の男女の割合が政治的に決定されているわけです。
しかもこの制度は、無能な女性が有能な男性よりも優先的に採用されるという一種の「逆差別」的なものでもあり、その運用については多くの問題が指摘されています。
これって「男女平等」本来のあり方からは程遠いどころか本末転倒なシロモノですらあるでしょう。
「機会の平等」ではなく「結果の平等」を求めたところで、男尊女卑が女尊男卑に代わるだけで男女平等は一向に実現しないばかりか、人材の適材適所にも反するという点において「壮大な無駄」もいいところです。

元々男性と女性には、身体的のみならず脳や思考・発想法についても先天的な違いというものが存在します。
脳が認識する視点では、男性は一点集中的な視野を持ち、女性は周辺にまんべんなく行き届く目を持つ傾向にあります。
また、一般的な脳の傾向としても、男性は女性よりも空間能力に優れ、一方で女性は男性よりも言語能力に長じているという科学的な調査結果もあります。
それらの違いを無視して両性を無理矢理同列に並べようとすれば、大きな歪みや矛盾が生まれるのは必至というものです。
かといって、男女格差を完全に消去しようとすれば、行き着く先は、男女共に同室かつ裸でシャワーを浴びていた映画「スターシップ・トゥルーパーズ」のごとき世界か、さもなければ男女性の双方を併せ持つ「両性具有」に全人類が統合される、的なものしかないでしょう。
それって、本当にスバラシイ世界なのでしょうか?

就職については「機会の平等」を保証した上で、男性は男性の、女性は女性の、それぞれの個性に応じた分野で活躍する。それが「男女平等」の本来のあり方というものなのではないでしょうか。
そして、女性が家庭を維持し、子育てに専念する「専業主婦」というあり方もまた、それを志願する女性にとっては立派な仕事であり社会参加であると言えるでしょう。
「全ての女性が男性と同じように【家庭の外へ】働きに出なければならない」というのは、悪い意味での全体主義であり共産主義的な発想なのです。

巷で叫ばれている「男女平等」というのは、「女性が男性に合わせることによって男性の権利を獲得する」「男性を踏み台にすることで女性の優位を確立する【男尊女卑の裏返し】」的なものがあまりにも多いですね。
我らが田中芳樹御大もまた、その手の誤った「男女平等」に基づいて、薬師寺シリーズや田中小説版キング・コングなどという駄作を書き殴っていますし。
当の御本人様は「これこそが男女平等のあるべき姿であり、スバラシイまでに女性に配慮した描写である」とでも考えているのでしょうが、私からすれば勘違いも甚だしいと言わざるをえません。
まあ薬師寺涼子や田中小説版キング・コングのアン・ダロウのどこに「聡明な女性」的な要素があるのか、それからして私は疑問に思わざるをえないところなのですが(苦笑)。
同性を虐げている男性を叩き潰しさえすれば「強い女性」なるものが自動的に生成される、というわけではないのですけどね。

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