映画「ナルニア国物語/第3章:アスラン王と魔法の島(3D版)」観に行ってきました。
イギリス人作家のC・S・ルイス原作小説「ナルニア国ものがたり」の3作目「朝びらき丸 東の海へ」の実写映画版。
映画「ナルニア国物語/第3章:アスラン王と魔法の島」の前身となる「第1章:ライオンと魔女」「第2章:カスピアン王子の角笛」でナルニア国に召喚され、ナルニアの危機に立ち向かい活躍したイギリスのペペンシー4兄弟。
しかし今作では、そのうちの上2人・長男ピーターと長女スーザンがアメリカに行っているという設定になっているため、ナルニアには召喚されません。
代わりに、ペペンシー4兄弟の下2人である次男エドマンドと次女ルーシー、そして彼らが一時的に預けられていたスクラブ家のユースチスが主人公として活躍することになります。
今作初登場でペペンシー4兄弟の従兄弟に当たるユースチス・スクラブは、とにかく頭でっかちでワガママな「良家のお坊ちゃん」として描かれており、特に序盤における非協調かつ現実を認めない発言を乱発するサマは、周囲にも観客にも悪印象を植え付けるに充分な態度でした。
物語中盤では、金銀財宝に目が眩んだ強欲さによってドラゴンに変化する呪いをかけられてしまいますし。
しかしこのユースチスが、主にしゃべるネズミのリーピチープとの会話を通じて次第に周囲との理解が深まり、終盤では戦いの帰趨を決する役割を担うまでに至ります。
また、前作・前々作と長男ピーターに活躍の場を奪われていた感があったばかりか、特に1作目では白い魔女の誘惑に物語終盤直前まで囚われていた次男エドマンドが、今作ではようやく汚名返上できる活躍の場が与えられています。
エドマンドはやはり1作目の白い魔女のことをずっと気にしていたのか、作中で登場する「人を誘惑する緑の霧」にも白い魔女を形作られ何度も誘惑されることになります。
エドマンドも最終的には見事に誘惑を断ち切り、白い魔女(を形作った緑の霧)は断末魔の声を上げて消えることになります。
そして、次女のルーシーもまた、長女スーザンの美貌にコンプレックスを持っていることが作中で明らかになるのですが、この辺りの描写は幼女だった1作目辺りでは考えられなかったことで、彼女が思春期の少女に成長していることを示すものと言えます。
エドマンド、ルーシー、ユースチス、3者3様でそれぞれ描かれる成長物語が、今作の魅力のひとつと言えるのではないでしょうか。
映画「ナルニア国物語/第3章:アスラン王と魔法の島」のストーリーは、スクラブ家の一室にあった海の絵から突然溢れ出てきた大量の海水に巻き込まれ、エドマンド&ルーシー&ユースチスの3人がナルニアの海に放り出されるところから始まります。
放り出された目の前には、前作でも王子として登場しその後王位についたカスピアンが指揮する帆船「朝びらき丸」があり、3人は「朝びらき丸」に救助されることになります。
カスピアンは、亡き父親の友人だった7人の貴族(7卿)を探す旅の途中で、成り行きから3人はカスピアンの航海に同行することになります。
行く先々の島では、人売りに捕まったり、透明な化け物に襲われたり、黄金に魅入られたりと様々な事件に巻き込まれ、航海でも嵐の遭遇と糧食の問題に悩まされつつ、7卿を探す旅は進んでいくのですが……。
同じファンタジー作品系列になるであろう映画「ハリー・ポッター」シリーズが特にそうなのですけど、「ナルニア国物語/第3章:アスラン王と魔法の島」もまた、ストーリー展開がやたらと速すぎる感が否めませんね。
7卿(と彼らが持っている7つの剣)を探す旅では、3人が1箇所でまとめて見つかったりしていますし、本来のストーリーをかなり端折っている感があります。
やはり「ハリー・ポッター」と同じで、1冊のストーリーを2時間あるかどうかの映画にまとめるのは物理的に無理があるのでしょうけどね。
シリーズ作品の宿命的な欠陥なのでしょうが、シリーズを重ねれば重ねるほど内容の理解が難しくなっていくこの問題、どうにかならないものなのでしょうか?
ところで「ナルニア国物語」と言えば、我らが田中芳樹御大がかつてこんなことを述べていたことがあります↓
薬師寺シリーズ7巻「霧の訪問者」 講談社ノベルズ版P27上段~下段
<原理主義というと、すぐイスラム教の過激派を想いおこすが、キリスト教にだって排他的な原理主義者はいる。じつはアメリカという国は、その種の連中の巣窟だし、意外なところでそういったものに出くわすこともあるのだ。
『ナルニア国物語』というイギリスの有名なファンタジー小説があって、映画にもなった。この作品はかなり保守的なキリスト教的世界観にもとづいて書かれたもので、あきらかにイスラム教を敵視したり女性に対して偏見を持った記述がある。その点に対する批判が欧米社会にはあるのだが、日本ではまったく問題にされなかった。日本は宗教に対して、よくいえば鷹揚だし、悪くいえば鈍感なので、『ナルニア国物語』も単なる異世界ファンタジーとして受容されたのだ。『指輪物語』の作者トールキンが『ナルニア国物語』をきらっていたとか、アメリカのキリスト教右派がこの本を政治的に利用したとかいう事実は、日本人には関係ないことだった。まあ実際、物語としてはおもしろいから、単にそれだけですませておくほうがオトナな態度かもしれない。>
で、私は一応「ナルニア国物語」の実写映画版は全て観賞しているのですが、あいにくと今作も含めて「あきらかにイスラム教を敵視したり女性に対して偏見を持った」に該当する描写というものを一度も観たことがないんですよね。
田中芳樹は「【アメリカ】にはキリスト教の排他的な原理主義者がいる」という論の根拠として【イギリス】の有名なファンタジー小説である「ナルニア国物語」を持ち出しています。
しかし、作者の出自はイギリス、原作小説の舞台もイギリスと架空の国ナルニアであり、アメリカとの関連性は全くありません。
そんな状態で「ナルニア国物語」からアメリカ批判に繋げようとするのであれば、アメリカで作られた実写映画版の「ナルニア国物語」シリーズにそういう描写がないと話がおかしくなってくるのではないかと思うのですけどね(苦笑)。
アメリカのキリスト教右派とやらが「ナルニア国物語」を政治的に利用しようがどうしようが、そんなものは作品にも(原作者含む)製作者にも、ましてやイギリスにも全く何の関係もない話でしかないのですし。
もちろん、7作あるとされる原作小説には、田中芳樹が問題視する「あきらかにイスラム教を敵視したり女性に対して偏見を持った記述がある」のかもしれません。
しかしそれならば、実写映画化に際してそういう描写を取り除いたハリウッド(アメリカ)の映画制作スタンスは、田中芳樹的にはむしろ賞賛すらされて然るべきではないのかと(爆)。
全く何の関係もないのに田中芳樹のアメリカ批判の「ヤクザの言いがかり」的なダシにされてしまった「ナルニア国物語」、特に実写映画版には、私は心からの同情の念を禁じえませんね(T_T)。