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2011年02月の記事は以下のとおりです。

映画「ウォール・ストリート」感想

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映画「ウォール・ストリート」観に行ってきました。
1987年公開映画「ウォール街」の続編作品。
新エネルギーを開発するベンチャー企業を支援しようと奮闘するシャイア・ラブーフ演じる若き証券マンのジェイコブ・ムーアと、8年の服役ですっかり過去の人となった、前作でも活躍したマイケル・ダグラス扮するゴードン・ゲッコーの2人が織り成すマネーゲームを描いた人間ドラマです。

物語は2001年、インサイダー取引の罪で収監されていたゴードン・ゲッコーが、8年の服役を終えて出所するところから始まります。
ほとんど無一文状態で出所したゴードン・ゲッコーは、自分と同じように出所しながら、迎えに来た家族?と一緒に帰っていく黒人を尻目に見ながら刑務所を後にします。
その後ゴードン・ゲッコーは、金融関係の本を書いて一定のファンを獲得するまでの著名人となっていきます。
舞台は変わってその7年後の2008年。
ニューヨークで投資銀行ケラー・ゼイペル社に勤めていたジェイコブ・ムーアは、次世代クリーン・エネルギーの開発支援に情熱を傾ける若き証券マン。
また私生活面でも、ゴードン・ゲッコーの娘であるウィニー・ゲッコーと結婚を前提とした付き合いをしており、順風満帆な人生を送っていました。
ところが、勤め先のケラー・ゼイペル社が急激な株価の大暴落に見舞われ破綻。
さらには、自身が恩師として慕っていた経営者のルー・ゼイペルが地下鉄で飛び降り自殺するにまで至り、失意のどん底に突き落とされてしまいます。
そんな中ジェイコブ・ムーアは、とある大学で開催されたゴードン・ゲッコーの講演会に出席。
講演会終了後、ジェイコブ・ムーアはゴードン・ゲッコーに「娘さんと結婚します」と告げ、彼に「取引」を持ちかけます。
その内容は、ゴードン・ゲッコーと娘との仲を取り持つ代わりに、ケラー・ゼイペル社を1株3ドルという破格の安値で買い叩き、恩師を自殺に追いやった黒幕であるブレトン・ジェームスに対する復讐のサポートをしてもらうこと。
「取引」を成立させたジェイコブ・ムーアは、「風説の流布」を駆使した株価操作で、ブレトンの会社に打撃を与える作戦に打って出ることになります。

映画「ウォール・ストリート」は、前半が金融や株がらみのマネーゲーム、後半が人間ドラマを中心にした物語構成となっています。
前半はやたらと金融関係の用語が飛び交っており、金融絡みの駆け引きなども展開され、また2008年10月に世界を震撼させたリーマン・ショックのネタも出てきます。
それに対し、後半から終盤にかけては金融や株などといった要素が薄くなり、どちらかと言えば「情に訴える」展開ばかりになってきます。
ジェイコブ・ムーアが最終的に復讐を達成する手段も、結局金融絡みの罠というよりは「スキャンダル報道による信用の失墜」に近いものがありましたし、ジェイコブ・ムーアがゴードン・ゲッコーと対立した際に持ち出された取引材料は、金融絡みのネタではなく「孫の存在」だったりします。
最初から最後まで金融用語だらけのマネーゲームが展開されるとばかり考えていただけに、後半の展開は少々意表を突かれた感がありますね。
ラストシーンも、「金融界に君臨した男も、家族の情を無視することはできませんでした」的な展開でしたし。

私は前作映画「ウォール街」を観ることなく今作を観に行ったのですが、前作映画からの繋がりを示す描写もいくつかあるそうで。
余裕があるなら、予め「ウォール街」を観てから今作は観た方が良いかもしれませんね。

第3回くまもとラーメン祭に行ってきました

2011年2月5日~6日にかけてグランメッセ熊本で開催された「第3回くまもとラーメン祭」に行ってきました。
熊本の老舗ラーメン店が一同に会する、熊本ラーメンの食べ歩きにはもってこいのイベントです。
今回は熊本県外からも計5店が参加していたとのこと。
公式サイトはこちら↓

http://www.kumamoto-ramen.jp/

何気に私は、過去2回開催された「くまもとラーメン祭」にも顔を出していたりします。
熊本ラーメンというと、普段は味千ラーメン以外のラーメンは食べる機会に恵まれないもので、「くまもとラーメン祭」は味千以外の熊本ラーメンを味わえる数少ないチャンスだったりするんですよね。
チェーン展開している味千ラーメンはともかく、老舗ラーメン店は普段あまり行くことのない地域に、しかもクルマを飛ばさないとお目にかかれない場所にあったりしますし。

私がグランメッセ熊本に行ったのは正午前後だったのですが、その時は周辺の道路が混雑していて大盛況状態。
昼時だからということで来場者が集中していた時間帯だったようで、それから1時間後には混雑はすっかりなくなっていました。
1時間くらい時間をズラして来ればよかったなぁ、とつくづく思いましたね。

今回私が選んだラーメンは黒亭ラーメン。
黒亭は熊本駅の近くに1店舗しかない老舗のラーメン屋。
さすが熊本ラーメンの中では知名度が高い部類に入るラーメンだけあって、味はなかなか満足できるものでしたね。
お土産でも黒亭ラーメンを購入し、引き上げてきました。

ただ、「くまもとラーメン祭」で振舞われるラーメンは、1杯当たりの値段が一律700円と結構高め。
量自体は普通のラーメンよりも少ないので、一層割高感があったりします。
料金自体にはイベント開催のための費用も含まれているのでしょうが、あの料金設定はもう少し安くした方が良いのではないかと、1回目参加の頃からずっと考えていたりするのですけどね。

映画「白夜行」感想

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映画「白夜行」観に行ってきました。
東野圭吾原作のサスペンス小説映画版。
質屋の殺人事件から始まる、被害者の息子、容疑者の娘、そして18年もの歳月をかけ真相に迫る刑事の視点で綴られる心理描写ミステリー作品です。
ちなみに私は、原作未読のまま映画を観に行っています。

物語最初の舞台は1980年(昭和55年)、廃ビルで質屋の店主だった桐原洋介が、廃ビルで遊んでいた子供達に発見されることから始まります。
事件発覚後、まずは被害者の妻である桐原弥生子と、質屋の従業員である松浦勇が警察に事情聴取されます。
その際、両者の事情聴取に当たっていた刑事・笹垣潤三は、質屋の2階にいた被害者の息子である桐原亮司からの話を聞くことになります。
この時のアリバイ証言である「テレビを見ていた」に関する裏づけとして行われた「クイズダービーではらたいらが竹下景子に敗れた」という説明は、当時の時代を象徴していて何とも懐かしい気分にさせられましたね(苦笑)。
その後の警察の調査で、被害者は西本文代という女性の家に足繁く通っていたことが判明。
彼女とその愛人である寺崎忠夫が容疑者として浮上したため、笹垣潤三は相棒の古賀久志と共に西本文代の自宅を訪問します。
その際に留守だった西本文代に代わって応対したのが、西本文代の娘で当時小学生だった西本雪穂。
被疑者である西本文代を待つ間、ハードカバー本?の「風と共に去りぬ」を黙々と読んでいる西本雪穂に、笹垣潤三は強い印象を抱くことになります。
やがて帰宅した西本文代に、笹垣潤三は事情聴取を行っていくのですが、彼女には事件当時「公園でブランコをこいでいた」というアリバイが出てきます。
決定的な証拠も出ないまま捜査が難航する中、西本文代はガス中毒で、寺崎忠夫は交通事故でそれぞれ死亡してしまいます。
有力な容疑者が死亡してしまったことに加え、警察上層部のひとりの出世問題が切迫していたという事情が重なったことも相まって、結局事件はそのまま被疑者死亡ということで表面的には決着することになります。
しかし、笹垣潤三はこの決着に納得がいかず、自らの出世を棒に振ってまで独自に調査を進めていき、事件の被害者の息子である桐原亮司と、容疑者の娘である西本雪穂も、それぞれの人生を歩んでいくことに……。
という形で、以後、1985年(昭和60年)、1988年(昭和63年)、1989年(平成元年)にそれぞれエピソードが語られていき、最終的には1998年(平成10年)で事件の真相が明らかになります。

映画「白夜行」では、作中における年を表す描写として、その時代を象徴するキーワードが出てくるのが面白かったですね。
1980年は前述のクイズダービーの話、1985年は本田美奈子のコンサート、1989年は社交ダンス関連の話が出てくることで、それぞれの年が表現されています。
まあ、この3つの中で私がピンと来たのはクイズダービーだけで、社交ダンスは1996年公開映画「Shall we ダンス?」からの連想で少し時代がズレていましたし、本田美奈子に至っては存在すら知らなかったというのが実態だったりするのですが(^^;;)。

作中のストーリーは、最初から最後までとにかく「暗い」の一言に尽きますね。
殺人、冷たい家族関係、学校内でのイジメ、報われない愛、レイプ・性的虐待と、暗い話が目白押しに続きますし。
ところどころに「明るさ」を感じさせてくれるエピソードもあるにはあるのですが、それもほとんどは後半で不幸のどん底に突き落とすための伏線だったりします。
さすが元々がミステリー小説なこともあってか、物語終盤で全ての真相が明らかになる描写の運び方は上手いものがありましたが、最終的な結末も「何故そこでそんな選択を…!?」と言わんばかりのバッドエンドな終わり方をしていますし。
映画の宣伝ポスターで謳われている「二番目に殺したのは、心」というキャッチコピーに良くも悪くも偽りはなし、ですね。

ハリウッド映画にありがちな「爽快感を伴うハッピーエンド」的なものは全く期待できませんので、そういう作品を観たいという方にはあまりオススメできない作品ですね。
あくまでもミステリー好きのための映画、といったところでしょうか。

山本弘がmixiの公開コミュニティの管理人に就任

今更な話になるのですが、今年の1月に「と学会」の某キチガイ会長が、事実上管理放棄されていたmixiコミュニティ「トンデモ・疑似・エセ科学(w)」の管理人を引き継いだのだそうです。
URLはこちら↓

mixiコミュニティ「トンデモ・疑似・エセ科学(w)」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=59237647&comm_id=5102

で、管理人に就任した山本弘大将軍様が最初にやったことが、自分が気に入らなかったコミュニティメンバーの追放処分。

管理人引継ぎのごあいさつ
http://www.tondemo.info/material01_2011_01_aa.html

管理人としての最初の仕事で早速ゴタゴタが発生する辺りは「さすが山本弘」と言わざるをえないところなのですが(苦笑)、この管理人就任挨拶のスレッドで開陳されている山本弘のコミュニティについての考え方というのがまた笑えるシロモノなんですよね。

2011年01月11日 10:51 43: 山本弘
>  私見ですが、僕が「コミュ管理人の義務」と考えるものを明らかにしておきます。
>
> 「参加者にとって快適な場を維持することをこころがける」
>
>  基本的にはこれだけです。
>  特にこのコミュの場合、カテゴリは「お笑い」ですから、楽しい場でなくてはいけないと思うのです。
>  もちろん、人によって意見の相違はありますから、時には議論が白熱することもあるでしょう。それはしかたのないことです。
>  しかし、
>
> ・明らかに間違っていると分かる説を強硬に主張し、他の人たちから批判されても撤回しない。
> ・同じ内容の発言を何度も何度も繰り返す。
> ・コミュのテーマと関係のない話題をえんえんと続ける。
> ・自分以外の参加者すべてを見下す態度を取る。
> ・差別発言を繰り返す。
> ・デマを広める。
> ・ルールを無視する。
> ・他の人からの重要な質問に答えようとしない。
> ・他の人から注意されても態度を改めない。
>
>  こういう人って、
本人以外の大多数の人にとっては不快ですよね?
>  こういう問題人物がいると、せっかくの楽しい場が楽しくなくなってしまう。だから排除することも必要になります。
>  その際、問題人物を擁護するごくごく少数の意見があったとしても、それは無視してかまわないはずです。
>  なぜなら、
参加者の多くが覚えている不快感を解消するのが、管理人としての急務なのですから。
>  管理人の決定に対して、ごくごく少数の人間が不快感を覚えたとしても、それは我慢してもらわねば困ります。なぜなら、あなたの意見を通すことによって、少数の人の不快感は解消されても、多くの人が不快になるからです。
>  管理人の決定が不満であれば、退会していただいてかまいません。誰も止めません。
>
>  そもそもこうしたコミュニティというのは、同好の士が集まって楽しむ場であろうと思います。
>  他の人とまったく相容れない意見の持ち主が混ざっていても、楽しむことはできないでしょう。たとえば阪神タイガースが嫌いな人が、タイガースのコミュに入っても楽しめないし、かえって不快な思いをするだけでしょう。そういう人がタイガースのコミュに入ること自体が間違いなんです。
>  
そういう人は不快な思いをしてまでとどまる必要はない。自分と同意見の人が集まる場に行けばいいのです。
>
>  僕も自分と趣味や意見が異なるコミュ、不快な思いをするコミュには入らないようにしています。
「人類は月に行ってない!?」コミュには入ってますが、あそこはすでに「行った」派の巣窟になっちゃってますし(笑)。
>  何も好んで不快な思いをすることはないだろ、と思うのですよね。

「参加者にとって快適な場を維持することをこころがける」の判断基準が、快・不快の感情論で行われる、と断言しているのが凄いところです。
確かに、どんなに参加者の自由を尊重する発言の場であっても、運営に支障を来たすレベルの荒らし投稿者や問題発言者に、管理人がペナルティを与えたり追放したりといった強権発動を行わなければならない局面は間違いなくあるでしょう。
しかし同時に、管理人にはそういう強大な権限と表裏一体の責任を背負わなければならないのですし、ことある毎に強権発動を乱発するような管理人は無能のそしりを免れません。
管理人としての権限を「不快だから」という理由で行使すると宣言している自称SF作家に、管理人としての責任意識を自覚している様子は全く見出すことができませんね。
なにしろ、かつてそういう運営を実地で本当に行った結果、発言者の質の低下と信者の離反を招いた挙句、自身でさえも窮屈になって閉鎖を宣言する羽目になった山本封殺板の前科があるというのに、その反省もなく同じことが堂々と断言できるときているのですから。
自分にとって不快な人間を排除することが、結果的には「快適な場を維持」にも多大な支障を及ぼしてしまうという可能性について、大将軍様は寸分たりとも考慮することができないのでしょうね。

それと、山本弘が言及している「人類は月に行ってない!?」コミュって、元々は「行ってない」派の人が作ったものですよね?
自分と全く合わないそのようなコミュニティにわざわざ直接乗り込んで「行った」派の巣窟にしてしまったというのは、「僕も自分と趣味や意見が異なるコミュ、不快な思いをするコミュには入らないようにしています」という山本弘の思想信条に反するのではないでしょうか。
自分の都合でこういうダブルスタンダードなことばかりやらかすから、山本弘の信用はすっかり地に堕ちてしまっているのですけどねぇ。

2011年01月12日 11:16 70: 山本弘
> > アクセスブロックなど反論のできない状況下で他のmixi会員への批判や誹謗中傷は慎むべきではありませんか?
>
>  ZAP@疲労物質さんも書いておられますが、
相手がこの場で反論できるかどうかはこの問題とは無関係です。
>  たとえば、文芸評論家がある作家を著書の中でボロクソに批判したとします。その作家は
同じ本の中で反論することはできません。
>  だったら評論家は作家を批判してはいけないことになりますか?
>  なりませんよね。
作家は反論したければ、自分の本の中なり自分のブログなりでやればいいだけの話です。
>  mixiの場合も同じです。
反論したければ自分の日記なり別のコミュニティでなりやればいいだけの話です。その人の言論の自由は保証されています。

かつて私のサイトである「奇説珍説博物館」に対して閉鎖圧力をかけていたことを自白した前科のあるアンタが、よくもまあそこまで厚顔無恥にもほざけたものですね。

http://www.tondemo.info/material01_2009_05_ad.html

しかも私は、山本弘が参加している掲示板やコミュニティには直接投稿を行ったことが現在に至るまで一度たりともないのですが、何故かくのごとき「言論弾圧的な攻撃」に晒されなければならなかったのでしょうか(苦笑)。

それと、山本弘のたとえ話の論理は無茶苦茶もいいところです。
何故、作家が文芸評論家を批判する際に「同じ本の中で」反論しなければならないのでしょうか。
この場合、「反論を文芸評論家に直接見せつける」ことが重要なのですから、文芸評論家に文書を郵送なりメールなりで送りつけるとか、文芸評論家が直接運営&閲覧している公式の掲示板なりコミュニティなりで反論を投稿するとかいった手法の方が、挙げる例としてははるかに適切でしょうに。
こちらは管理者が言論封殺論者でもない限り、当事者のみならず誰でも充分に実行可能な話なのですし。
まあ、大将軍様がそれを言ってしまうと、かつて南京問題でグース氏が己の掲示板に直接乗り込んで反論してきた件をはじめとする「掲示板&コミュニティ上における山本弘に対する批判」を抹殺してきた過去の所業を全否定しなければならなくなってしまうわけですから、言いたくても言えなかったというのが実情だったのでしょうけどね(爆)。

http://www.tondemo.info/material01_2004_06_aa.html

ただまあ経緯はどうあれ、mixiの中でさえ非公開設定の日記やコミュニティに引き籠る傾向にあった山本弘が、公開の、それも何かとトラブルが想定しうるテーマのコミュニティの管理人になったというのは、ウォッチャーとしては大変喜ばしい限りです。
遠慮はいりませんから、これからもどんどんトラブルを引き起こして笑いのネタを提供して頂きますよう、「と学会」のキチガイ会長様にはお願い申し上げる次第です(笑)。

コミック版「大奥」検証考察5 【歴史考証すら蹂躙する一夫多妻制否定論】

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コミック版「大奥」検証考察も、今回で5回目を迎えることになりました。
今回の検証テーマは 【歴史考証すら蹂躙する一夫多妻制否定論】です。
過去の「大奥」に関する記事はこちら↓

映画「大奥」感想&疑問
実写映画版とコミック版1巻の「大奥」比較検証&感想
コミック版「大奥」検証考察1 【史実に反する「赤面疱瘡」の人口激減】
コミック版「大奥」検証考察2 【徳川分家の存在を黙殺する春日局の専横】
コミック版「大奥」検証考察3 【国内情報が流出する「鎖国」体制の大穴】
コミック版「大奥」検証考察4 【支離滅裂な慣習が満載の男性版「大奥」】

コミック版「大奥」における男女人口の激減と男女比率1:4の話を初めて聞いた際、そこから「一夫多妻」「ハーレム」といったものを連想した人は多いのではないでしょうか。
かくいう私自身、映画版「大奥」の存在と内容を知った時から、

「何故そんな男女比率でありながら一夫多妻制が採用されなかったんだ?」
「男性人口に対して女性人口が圧倒的に多いのだから、ハーレムが普通に成立してもおかしくないのでは?」

とずっと疑問に思っていましたし、元来原作者よしながふみのファンでもなければ「大奥」の愛読者でもなかったはずの私が、映画版のみならずコミック版にまで手を出すに至ったのも、実はその疑問を解消することが最大の動機になっていたりします。
その私の疑問に対する回答らしき説明が行われている箇所が、コミック版「大奥」3巻にあります。

コミック版「大奥」3巻 P167
<いわゆる一夫多妻の「ハレム」化を進めて大名家の統合を進めれば、必然的に残った少数の大名家が所有する領地は広大なものとなり、徳川家の脅威となってしまう。
そして「家」を存続させる事が、士農工商どの身分においても最重要課題であるこの国特有の事情ゆえに、
世帯数が極端に減少する(つまり多くの「家」が潰れる)事を意味する一夫多妻化は進まなかったのである。>

……初めてこの文章を読んだ時は思わず目眩がしてしまったものなのですが、こんな無茶苦茶なコジツケでよくもまあ一夫多妻制を拒否してのけたものですね。
まず、江戸時代における幕府の大名統制と一夫多妻制の問題は、全く無関係かつ何の関連性もありません。
大名家が婚姻を通じて「家の統合」を進めたいと本当に考えるのであれば、それは別に一夫多妻制でなく一夫一妻制下の婚姻であっても充分に進めることが可能です。
世界における政略結婚の歴史を見ても、カスティーリャ王国と王女とアラゴン王国の王子が政略結婚することで両国が統合され成立したスペイン王国、ヨーロッパに君臨したハプスブルク家の政略結婚などは、すくなくとも法的には一夫一妻原則に基づいた婚姻制度下で進められたものです。
大名家を統合するレベルの政略結婚が自由に行えるとなれば、一夫多妻制だろうが一夫一妻制だろうが関係なく推進されるに決まっているでしょう。
政略結婚に使うためのコマは、男女問わず子供をたくさん産んでしまえば済む話でしかありませんし、それこそ「お家のため」となれば自分の意思と関係なく「家が決めた相手」と結婚しなければならない、というのが近代以前の常識だったのですから。
一夫多妻制の導入が大名家の統合を推進するなど、すでにこの時点でトンデモ理論もいいところです。

そしてこれがさらに問題なのは、1615年に制定された「武家諸法度」の存在を完全に無視していることです。
「武家諸法度」には「国主・城主・一万石以上ナラビニ近習・物頭ハ、私ニ婚姻ヲ結ブベカラザル事」という法令があり、大名の結婚は幕府の許可が、その下で働いている武士達のそれは上司たる大名や藩の許可が必要不可欠でした。
日本の戦国時代も、主に同盟の締結を目的とした大名間の政略結婚が盛んに行われており、この経験から江戸幕府は、大名達が政略結婚によって互いに同盟を組んだりすることを阻止するために、大名をはじめとする武士の婚姻を厳しく規制していたわけです。
政略結婚による大名家の統合など「武家諸法度」で合法的に規制できる上に、それに逆らう大名家は改易などの厳罰でこれまた合法的に処分することができるのですから、一夫多妻制をことさらに警戒しなければならない理由はどこにもありません。
歴史考証にすら逆らっているという点においても、コミック版「大奥」における一夫多妻制否定論は論外なのです。

では、これらの問題を全て黙殺すると「家の統合」は可能になるのか?
実は、それでも政略結婚による「家の統合」は不可能なのです。
というのも江戸時代当時における武士階級は「夫婦別姓」が一般的なあり方で、夫に嫁ぐ女性は基本的には実家の姓で呼ばれていました。
現代では「夫婦別姓」というと男女平等を実現する制度であるかのごとく勘違いされていますが、元々「夫婦別姓」というのは、家を守ることを目的に妻を余所者扱いする男女差別的な思想に基づいて作られた慣習です。
前述のスペイン王国の政略結婚が顕著な実例となりますが、政略結婚で「家の統合」をするためには、すくなくとも形の上では妻も夫も対等な立場となる「同君連合」的なものにしなければなりません。
ところが、江戸時代における「夫婦別姓」下では、必然的に夫の家に妻の家が一方的に吸収合併されるという形にならざるをえないため、「同君連合」など成立のしようがないのです。
生まれてくる子供も全員父親の姓を名乗ることになるわけですからなおのことです。
一方の家が他方の家を武力なりカネの圧力なりで無理矢理併合し、その体裁を取り繕うために政略結婚を行う、という形であればあるいは可能かもしれませんが、戦国時代ならいざ知らず、幕府が睨みを効かせている江戸時代にそれをやるのは至難の技もいいところでしょう。
第一、一夫多妻だろうが一夫一妻だろうが、これでは結局「家を潰す」「世帯数が減少する」ことに変わりがありません。
江戸時代における大名統制の実態や武士階級のあり方についてあまり考えることなく、一夫多妻制と「家の存続」などという、本来全く関係のない事象を無理矢理繋げて論を展開したのがそもそも間違いの元なのです。

「赤面疱瘡」の大流行に伴い男性人口が激減した結果、女性が有力な働き手としてクローズアップされるようになったり、「一時的に」「後見人ないしは家長代行的な立場で」男性と同等の権力を行使したりする、という流れは確かにありえることでしょう。
しかし、単純に男子の世継を確保したいというのであれば、側室制度や多産奨励、それに養子縁組などといった様々な解決方法が他に色々と存在するにもかかわらず、それを無視して一挙に女系優先の社会システム移行へ突っ走るというのが何とも不思議でならないんですよね。
「あの」春日局でさえも、「いくらでも側女を抱えてお家を存続させれば良いではありませぬか!!(コミック版「大奥」3巻P165)」と明言しているわけですし、「5人にひとりしか男子が育たない」というのであれば、多産奨励で5人以上男子をこしらえれば良いだけの話ではないですか。
第一、史実の江戸時代でさえも、乳幼児の死亡率は男女問わず、また医学の未発達もあって5~7割以上にも達していたわけなのですから、あえて言えば、【たかだか】作中で描写されている「赤面疱瘡」の存在【程度】のことが、すくなくとも男系を差し置いて女系を優先しなければならない理由に【まで】はなりえないと思うのですけどねぇ。
男系から女系に社会システムが変革されるというのは、「あの」明治維新をもはるかに上回る凄まじいエネルギーを必要とする「革命」である、とすら言えるものなのですから。

さて、「大奥」世界における女系優先社会への変遷を語るにあたり、徳川3代将軍家光と並んでもうひとつ言及しなければならない時代があります。
次回の検証は、作中で「武家の女子存続を決定的にした」とされる徳川5代将軍綱吉について考えてみたいと思います。

映画「RED/レッド」感想

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映画「RED/レッド」観に行ってきました。
ブルース・ウィリス主演のアクション物。
「Retired Extremely Dangerous(引退した超危険人物)」を略して「RED」と呼ばれる、老齢となったかつてCIA凄腕スパイ達が活躍する作品です。

ブルース・ウィリス扮する主人公のフランク・モーゼズは、年金課で働いているサラ・ロスと電話で会話することを唯一の楽しみにしているオハイオ州クリーブランドの年金生活者。
彼女と会話をする口実のために、自分宛に届けられた年金の小切手をわざわざ破いて「年金が届いていない」などと苦情を述べていたりします。
そんなある日の深夜、フランク・モーゼズの自宅に最新火器で武装した数人の集団が来襲します。
まずは3人が自宅内に侵入してフランク・モーゼズを仕留めようとしますが、自宅の地の利を生かして後方から接近したフランク・モーゼズに逆に奇襲されあっさり全滅。
しかし敵方もさるもので、初動の奇襲失敗を悟ると、今度は外に予め待機していた第二陣が主人公の自宅に大量の銃弾を浴びせまくります。
家をメチャクチャにした後に死体を確認すべく接近した第二陣を、再びフランク・モーゼズが奇襲で危なげなく各個撃破。
襲撃者達を撃退したものの、サラ・ロスにかけた電話が盗聴されている可能性に気づいたフランク・モーゼズは、彼女が住んでいるミズーリ州カンザスシティへと向かうことになります。
あくまでも一般人であるサラ・ロスは、突然自分の自宅に不法侵入した上、「君は狙われている」などと主張するフランク・モーゼズを当然のように信じず口論に。
そこへお約束のように襲撃者達が襲い掛かり、フランク・モーゼズは仕方なくサラ・ロスを拉致って裏口から脱出。
追跡をかわしつつ事件の真相を探るべく、フランク・モーゼズはかつての自分の上司で現在は介護施設にいるジョー・マシスンを頼るべく、ルイジアナ州ニューオリンズまで車を走らせます。
ここから、「RED」達を訪ね歩く旅が始まるわけです。

映画「RED/レッド」は、老人が活躍する作品だけあって、スピーディーに溢れたアクションシーンはさすがにあまり多くありません。
どちらかと言えば、頭を使った作戦で機転を利かせたり、相手の不意を突く奇襲で敵を一撃で倒したりといった類の描写がメインだったりします。
この辺りは映画「エクスペンダブルズ」もそうだったのですが、老齢になるとどうしても体力や瞬発力が衰えて機敏な動きができなくなるため、そういう戦い方をせざるをえなくなってくるんですよね。
アラバマ州モビールの空港で主人公達の前にバズーカ砲とロケットランチャーを携えて立ちはだかった中年の小太りオバサンも肌ツヤツヤでしたし、メインの敵役である若きCIAエージェントのウィリアム・クーパーをはじめとする主要なCIA要員達も、一部を除き軒並み若い面々で固められています。
ただそれでも、数々のアクション物で主役を演じてきたブルース・ウィリスだけあって、要所要所のアクションシーンや奇襲は上手いの一言に尽きます。
中盤付近までのメインな敵役である若きCIAエージェントのウィリアム・クーパーとも格闘戦を演じていたりしますし。
今作の前に私が観たブルース・ウィリス主演作品が、日本では2010年1月に公開された映画「サロゲート」で、この時は本人のアクションシーンがほとんど披露されなかっただけに、今作はスタンダードに楽しむことができましたね。
ブルース・ウィリスで連想するものはと問われれば、やはり「ダイ・ハード」シリーズに代表されるアクションシーンなわけですから。

「RED」の面々は、身体的な衰えはあっても過去の実戦含めた経験が豊富なためか、駆け引きや臨機応変な決断力については敵方から危険視されるに充分な要素を持ち合わせていますね。
作戦も緻密ならば、副大統領を襲撃することに何の抵抗感も覚えていないし、仲間が危機に陥って助けられないと判断したら躊躇なくその場から撤退していたりします。
逆に、物語中盤までは敵方の中心的な人物として登場するウィリアム・クーパーなどは、私生活で大事にしているらしい妻と2人の子供の身柄をネタに脅迫された際に動揺した様子を見せていますし。
この辺りの描写の違いは、有能さや素質といったものだけでは埋められない「経験の差」といったところでしょうか。

映画「RED/レッド」は続編も計画されているのだそうで、製作会社であるサミット・エンターテインメントが、今作で脚本を担当したジョン・ホーバー&エリック・ホーバーの兄弟に再び脚本製作を依頼しているのだとか。
続編が公開されるとしたら、またブルース・ウィリス主演で製作して欲しいところですけどね。

田中芳樹の「作家としてのこだわり?」

http://twitter.com/adachi_hiro/status/31966522729562112
<昨日の田中芳樹&後藤啓介トークショー。最後の質疑応答で会場の方から「〆切って、なんのためにあるのですか?」という質問が。会場に居合わせた編集さんたちが、思わず互いに顔を見合わせていたのが面白かった。その後の食事会でも「あの質問は、私たちの仕事の根源を揺るがしましたね」と。>

http://twitter.com/adachi_hiro/status/31968521588047872
<「〆切がないと、どれくらい仕事が遅れているか判らないから」だそうです。RT @masa_tao: @adachi_hiro 私は〆切を設定する立場なので、その質問に対する回答が、とても非常に気になります…。>

「〆切」や「納期」というのは普通「その時までに仕事を終わらせなければならない」という意味で設定するものだと思うのですが(爆)。
週刊誌や月刊誌連載の作家を観察してみれば、毎日本来の意味での「〆切」に追われている光景を拝することができるのではないでしょうか(苦笑)。
ところが田中芳樹が主張する「〆切がないと、どれくらい仕事が遅れているか判らないから」というのは、「仕事が遅れる」こと自体がそもそも前提になっていますからねぇ(…)。
小説家としての仕事のあり方、および客である読者一般というものに対して、これほどまでに舐めくさった回答というのもないのではないかと。

それに、2006年に設定していた創竜伝14巻の執筆スケジュールに関しては「仕事が遅れている」どころか「仕事が途中で頓挫した」という形になってしまったわけなのですが、これについてはどう説明するつもりなのでしょうか?
この場合の「〆切」というのは、「仕事の放棄を確認するために」設定するものだったりするのでしょうか(爆)。

http://twitter.com/adachi_hiro/status/32223211793940480
<田中さん宛に代理店から講演会の依頼をするメールが入っていた。丁寧にお断りする。ほかの作家さんは知らないが、田中さんは作家なので、世の中に発信するならば著作を通じて発信する。それに、講演会をする時間があるなら原稿書いて欲しいわな。>

田中芳樹の対談本である「イギリス病のすすめ」のあとがきにも「講演はしない」という「小説家としてのこだわり」が披露されていますので、自らの信条に基づいて講演を断るのはまあよいとしましょう。
ただその割に、田中芳樹はトークショーについては結構自発的に参加したりしているんですよね。
ここ最近でも、銀英伝舞台版で行われたトークショーや、1月30日に行われたという後藤啓介とのトークショーなどに田中芳樹も参加していることが社長氏によって公表されていますし。
「作家の本業ではない」「(自分の意見を)世の中に発信する」という点では講演もトークショーも同じことですし、「トークショーをする時間があるなら原稿書いて欲しいわな」とも言えてしまうのではないかと思えてならないのですが(苦笑)。
田中芳樹的に、講演とトークショーはどう違うというのでしょうか?

それに、「田中さんは作家なので、世の中に発信するならば著作を通じて発信する」というやり方にも問題大アリです。
田中芳樹の場合、それは「評論本を独自に作って発表する」という手法ではなく「小説の中でキャラクターに発言させたり地の文に書き連ねたりする」という形で発露されることが多く、しかもそれは「小説部分のストーリーや設定、面白さ」といったものを大いに食い潰していたりするわけです。
そんな本末転倒なやり方をされるくらいならば、素直に講演でもしてもらった方が、小説にとっても作家業的にも読者的にもありがたい話なのですけどね。

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