映画「源氏物語 千年の謎」感想
映画「源氏物語 千年の謎」観に行ってきました。
日本最古の長篇小説である「源氏物語」の誕生と、その作者・紫式部の謎に迫る歴史スペクタクル作品。
原作である「源氏物語」からして「光源氏が複数の女性と情を交わす」というイメージがあるためか、作中にはいわゆる「濡れ場」のシーンがかなり盛り込まれていますが、直裁的な性行為等の描写はないため、今作はR指定等の年齢制限なしに観賞できます。
物語冒頭はいきなりショッキングな描写から始まります。
何と、時の権力者である藤原道長が、夜中に逃げる紫式部を追跡し捕まえた挙句、その場で無理矢理手篭めにしてしまうのです。
その際の「私は何をしても許される身なのだ」的な道長の言い草がいかにも横暴な権力者のそれで、たったこれだけで良くも悪くも強烈なインパクトが残りましたね。
紫式部を手篭めにした藤原道長は、彼女を宮廷に招き入れると共にひとつの物語を書くよう命じます。
藤原道長の意図としては、時の最高権力者である一条天皇に紫式部の小説を紹介・提示することで一条天皇の歓心を買い、それによって彼に嫁いだ自分の娘である彰子(しょうし)に目を向けさせ、彼女に男児を産ませることで藤原一族の権力基盤を強化することが狙いでした。
当時は貴重品だったであろう紙も用意され、かくして紫式部は源氏物語を書き始めることとなるのです。
ここからしばらくは源氏物語の主人公である光源氏が生まれる前から元服する辺りまでの物語が展開されます。
低い身分の出自ながら帝の寵愛を一身に受け、光源氏を妊娠・出産するも、第一妃である弘黴殿女御(こきでんのにょうご)をはじめとする周囲の女性からの嫉視反感を受けて早逝してしまう桐壺更衣(きりつぼのこうい)。
その後、新たに帝が迎え入れた、桐壺更衣そっくりの女性・藤壺(ふじつぼ)。
生みの母親そっくりで義理の母親でもある藤壺に禁断の恋をしてしまい、その想いに苛やまされながらも、周囲の女性と関係を結んでいく光源氏。
そして、光源氏と関わっていくことになる女性達。
これらの登場人物で出揃った辺りまでの話を読んだ藤原道長は「我が意を得たり」とほくそ笑み、実際、紫式部から源氏物語の内容を拝聴していた一条天皇から「続きが気になる」という好意的な反応を得ることに成功します。
そして藤原道長の期待通りに彰子は妊娠し、見事男児(史実では敦成(あつひら)親王、後の後一条天皇)を出産するのでした。
これで紫式部の役目は終わったはずなのですが、紫式部は何故かその後も「源氏物語」を書き続けます。
そして、それを止めようとせず、むしろ純粋に続きを楽しみにしているかのような態度を示す藤原道長。
しかし、藤原道長の友人である陰陽師・安倍晴明は、そんな紫式部の様子に不穏な気配を感じ取るのでした……。
映画「源氏物語 千年の謎」の公式サイトによると、「源氏物語」は藤原道長の命令もさることながら、「天才女流作家・紫式部の叶わぬ愛が、その物語を綴らせた」と記載されています。
http://www.genji-nazo.jp/aboutthemovie/index.html
しかし、いくら作中の描写や演出・ストーリー展開などを総括してみても、紫式部が藤原道長に恋愛感情を抱いているような様子が全く垣間見られないんですよね。
そもそも、物語冒頭の手篭めシーンからして、紫式部が藤原道長に対して抱いているのは愛情ではなく憎悪の類だろう、と推察する材料として充分過ぎるシロモノでしたし。
また、物語前半における紫式部の藤原道長に対する態度も、嫌々な態度が前面に出ている極めてそっけないもので、ここからどうやって愛情が導き出せるのか理解に苦しむものがあります。
加えて、物語中盤になると、紫式部の様子に不穏な気配を感じ取り、かつ「源氏物語」の世界に入り込んで作中の生霊と戦いを演じた安倍晴明が、藤原道長に対して「このまま紫式部が『源氏物語』を執筆すると道長様に不幸が訪れる」と進言しており「それを回避したくば、式部の筆を止めるのです」とまで忠告しているのです。
それに対する藤原道長の返答もこれまた振るっていて、彼は「源氏物語を書くよう紫式部に命じたのは私だから、私にはそれを最後まで見届ける義務がある。だからそれ(式部の筆を止めるよう命じること)はできない」と述べているんですよね。
これって「自分は紫式部から憎悪されて、何らかの報復を受けてもおかしくない立場にある」と藤原道長が自覚しているとも取れる発言ですよね。
そして何より、今作における「源氏物語」の光源氏は、冒頭の手篭めシーンで藤原道長が口走った「私は何をしても許される身なのだ」という台詞をしゃべっていることからも分かる通り、藤原道長をモデルに作られた存在であるとされており、彼は作中で愛する女性達に先立たれたり出家されたりする不幸に何度も遭遇することになるのです。
光源氏の愛人のひとりで後に生霊となり、他の女性を呪い殺したり、安倍晴明とオカルト合戦を繰り広げたりする六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)などは、現実世界の紫式部と半ばシンクロしていたりします。
これらのことから総合すると、紫式部は藤原道長を憎悪しており、藤原道長を自分が描く物語の主人公に見立てた上で彼に次々と不幸な事件を叩きつけまくることで、最終的には現実世界の藤原道長を「呪殺」することを目的に「源氏物語」を執筆していたのではないか、と映画観賞が終わるまで私はずっと考えていたくらいだったんですよね。
日本には昔から「言葉には霊的な力が宿る」という言霊信仰がありますし、作中の紫式部も「物語で人を魅了する天才」的な評価を受けていましたから、一種の「言霊使い」として紫式部は自らの復讐を画策していた、というわけです。
これだと安倍晴明が藤原道長に対して述べていた「『源氏物語』が完成すると道長様に不幸が訪れる」とも合致するわけで、私も自分の解釈にそれなりの根拠と自信を持ってはいたのですけどねぇ(-_-;;)。
物語終盤に紫式部が「源氏物語」を宮中で完結させることなく田舎に帰ったのも、自分がシンクロしていた「源氏物語」作中における六条御息所が自らの業の深さに宮廷を離れたのと同じ理由だったのではないか、と考えていましたし。
手篭めにされて自由を奪われたことへの恨みと復讐から、藤原道長を殺すことを目的に作られた「源氏物語」、というのは確かに公にもできない壮大な真相ないしは斬新な解釈だよなぁ、などとひとり納得してもいたのですが……。
こういう映画制作側の意図から大きく外れた解釈が生まれてしまう最大の理由は、やはり何と言っても冒頭の手篭めシーンのインパクトと、その後の藤原道長と紫式部の関係があまりにもビジネスライク過ぎるところにあるんですよね。
あの2人の関係のどこに、僅かでも恋愛要素を匂わせるものがあったというのでしょうか?
双方共に、相手の文才や権勢などを褒めることはあっても、相手への想いを語る描写なんてどこにもありませんでしたし。
紫式部は「源氏物語」に藤原道長への愛情を込めた、というのが映画制作側の主張なのでしょうが、そもそも「源氏物語」の作者である紫式部の謎に満ちた心情部分を、既に周知であるはずの「源氏物語」だけで説明するのは無理があり過ぎます。
しかも、今作作中の藤原道長は、愛人どころか紫式部以外の女性と関係している描写すらも全く描かれていませんし、そんな状態では、光源氏と関わる女性達を呪殺していた六条御息所と紫式部が「恋愛絡みで」シンクロしなければならない理由も全く見出しようがありません。
せめて藤原道長も光源氏と同じように大量の女性を侍らせていた、みたいな描写でもあったならば、それと「源氏物語」をシンクロさせることで「紫式部の無言の主張」を展開させることも可能だったかもしれないのですが……。
紫式部の恋愛感情が作品の主要なテーマだったというのであれば、その意図は完全に失敗していると言わざるをえないのではないかと。
あと物語後半で、光源氏の正妻である葵の上を、生霊となった六条御息所が呪殺しようとして安倍晴明に阻止されるシーンが2回発生するのですが、2回目の安倍晴明は、六条御息所の主張を聞くと、今にも殺されようとしている葵の上を顧みることなく現実世界に帰ってしまうんですよね。
何故あそこで安倍晴明は六条御息所の生霊を滅殺してしまわなかったのか、そこは疑問でなりませんでした。
あの生霊に紫式部の想いだか怨念だかがシンクロしていることを安倍晴明は充分に理解していたようでしたし、あそこで生霊を完全に滅殺していれば、物語世界の葵の上を助けられたのみならず、自分の友人でもある現実世界の藤原道長の安全を確保することだってできたでしょうに。
アレが「源氏物語」から出てきたら自分の手には負えないとも安倍晴明は明言していましたし、それならなおさら事前に滅殺すべきだったのでは、と思わずにはいられなかったのですが。
実力的にも、終始生霊を圧倒していた安倍晴明であれば滅殺も不可能ではなかったでしょうに。
「源氏物語」の完結が自分に災いをもたらすと聞いてなお紫式部の筆を止めさせない藤原道長の政治哲学や、光源氏絡みの女性関係および出演者達の熱演など、見所自体は結構多い作品ではあります。
一番肝心要の「映画制作側の意図」が失敗しているのは正直残念なところではあるのですが。
「映画制作側の意図」なんて公開しない方が却って作品を色々な形で解釈できるようになって良かったのではないか、というのが私の偽らざる感想ですね。