映画「TIME/タイム」観に行ってきました。
全ての人間の成長が25歳でストップし、時間が通貨として運用されている近未来の世界を舞台にしたアクション・サスペンス作品。
体内時間を通貨として運用することを可能にした「ボディ・クロック」という技術の確立により、人類社会全体が老化現象を克服することに成功した近未来。
「ボディ・クロック」は全ての人間の左腕に設置されており、自分の余命となる体内時間を常に確認することができると共に、それを通貨として他人に支払ったり、分け与えたり、奪ったりすることも可能となっています。
しかし、体内時計を通貨として運用するようになった結果、時間を持つ者と持たざる者とで経済的(?)な格差が増大することになりました。
裕福な者は数百年単位もの時間を所持し、事実上の永遠の若さと不死の状態を維持し続けられるのに対し、貧しい者の余命は平均23時間程度しか保証されず、たった数時間~1日程度の時間を得るために毎日働き続けなければなりません。
そして、時間の所持による格差は一種の身分制度的なものまで生み出し、時間を大量に所持する富裕層は「ニュー・グリニッジ(富裕ゾーン)」と呼ばれる居住区域で、貧しい者は「スラムゾーン」と言われる地区で生活するようになり、両者の間には複数の「タイムゾーン」という境界線が構築されるにまで至りました。
「タイムゾーン」を跨いだ「ニュー・グリニッジ」と「スラムゾーン」間の移動自体は禁じられていないのですが、タイムゾーンのいわゆる「通行税」は片道だけで実に1年以上という高額なものであり、その日暮らしだけで手一杯な「スラムゾーン」の人間が「ニュー・グリニッジ」へと移動するのは事実上不可能となっています。
そして今作の主人公であるウィル・サラスは、母親のレイチェル・サラスと共にその日暮らしの生活を細々と営む「スラムゾーン」の人間でした。
物語は、主人公ウィル・サラスと母親レイチェル・サラスの日常的な朝の風景から始まります。
ウィルとレイチェルは親子関係にあるのですから当然年の差は歴然たるものがあるはずなのですが、この世界の人類は全て25歳で老化が止まることから、レイチェルは実年齢に反して息子ウィルと同年齢かと見紛うかのごとき若々しさを保っています。
彼女は「ボディ・クロック」に刻一刻と刻まれ続けているウィルの体内時間を確認し、息子にランチを取らせるために自分の体内時間から30分をウィルに与えるのでした。
その後、日雇い作業員的な仕事をやっているらしいウィルが、1日の仕事を終えて日給を「通貨となる時間で」貰う場面が出てきます。
ここ最近、ウィルが在住している「スラムゾーン」では、コーヒー1杯の価格が3分から4分に値上がりするなどといった物価の上昇が発生していました。
それに伴い、ウィルが勤めていた会社も、1日当たりの作業ノルマレベルを引き上げてしまいます。
結果、それまでの1日のノルマをきちんとこなしていたにもかかわらず、満足のいかない時間しか貰うことができず不満タラタラなウィル。
それでも仕事の終わりに一杯と、ウィルは友人であるボレルと共に酒場へ立ち寄るのですが、そこで「スラムゾーン」に全く似つかわしくないひとりの男が、周囲の女性を口説いている姿を目撃することになります。
その男の「ボディ・クロック」には、何と116年以上もの時間が刻まれており、彼が「スラムゾーン」の人間でないことは誰の目にも明らかでした。
「スラムゾーン」では、たった数日~1週間程度の時間をめぐって強盗や殺し合いが発生したりすることも珍しくありません。
「ニュー・グリニッジ」からやって来たと思しきその富裕の男の身を案じたウィルは、彼に対して一刻も早く酒場から出て行くよう忠告します。
しかしその忠告の最中、富豪の噂を聞きつけた「スラムゾーン」のギャング一団を束ねるフォーティスが、富裕の男を確保するため、仲間を引き連れて酒場へと乗り込んできたのでした。
ウィルは「関わるな」というボレルの制止も振り切って富裕の男を助けにかかり、ギャング達の油断を突いて彼を逃がそうとします。
そのことに気づいたギャング達の追跡を何とか振り切り、とある廃工場の中に隠れたウィルと富裕の男。
一息ついたところで、富裕の男は自分のことについて話し始めます。
彼はヘンリー・ハミルトンという実年齢106歳の人間で、長寿を得たはずの自分の人生に絶望してしまい、半ば自殺願望的に「スラムゾーン」へやって来たということでした。
そしてウィルに対し、「100年の寿命があったら何をする?」と尋ねてきます。
それに対しウィルは「自分は決して時間を無駄にしない」と返答。
その後2人はそのまま眠ってしまうのですが、その後ウィルよりも一足早く起きたハミルトンは、ウィルに対して何か感じるものがあったのか、自分の「ボディ・クロック」に刻まれていた時間を5分だけ残し、残り全てをウィルに分け与えてしまいます。
しばらくして起きたウィルは、自身の「ボディ・クロック」に突然116年以上もの時間があることに気づいて当然のごとく驚愕。
そして窓には、まるで遺言であるかのように「俺の時間を無駄にするな」という文字が。
ハミルトンが橋に座っているのを発見したウィルはただちにハミルトンの元へと向かうのですが、時既に遅く、ハミルトンはタイムアウトで死に、そのまま橋から川へと落下してしまいます。
あとには、寿命116年以上という時間を手にしたウィルだけが残されたのでした。
思いがけず破格な時間を得たウィルは、その時間を利用して、母親レイチェルを連れて「ニュー・グリニッジ」へと向かうことを決意。
116年以上もの時間があればタイムゾーンを越えることも容易ですし、何よりこのまま「スラムゾーン」にいれば、死んだハミルトンのごとく自身の時間どころか生命まで狙われるのは必至です。
その決意を友人のボレルにのみ告げ、彼に10年の時間を分け与えた後、彼は母親がいつも仕事のために乗降しているバスの停留所で母親を待つことになります。
ところがその母親は、家のローンを支払っていざバスに乗ろうとしたところ、それまで1時間だったバスの乗車料金が2時間に跳ね上がったという事実に直面することになります。
彼女の「ボディ・クロック」に残された時間はわずか1時間30分程度しかなく、しかも仕事場から家までは歩いて2時間以上もかかる距離にあるのです。
全く思いもよらぬ形で突然死の危機に直面する羽目になった母親は、必死になって家へと向かって走り始めます。
そして一方、バス停で母親を待っていたウィルも、母親が乗車しているはずのバスに母親が乗っていないことに気づき、母親の仕事場へと一目散に走り始めます。
そして2人は互いの姿を確認することになり、互いの元へと更に全力で走り寄るのですが、僅か1秒の差で母親はタイムアウトを迎えてしまい、そのまま帰らぬ人となってしまうのでした。
母親の理不尽な死に怒りを覚えずにいられなかったウィルは、母親を殺した時間システムそのものを作った富裕層に復讐すべく、単身で「ニュー・グリニッジ」へと向かうのですが……。
映画「TIME/タイム」は、全人類の不老が常態化し、かつ時間を通貨とする斬新な設定を導入しているのですが、他ならぬ映画の製作者達自身がこの斬新な設定に不慣れなためなのか、作品設定および作中描写の各所でツッコミどころが頻発していますね。
たとえば作中では、コーヒー1杯が3分から4分に、バスの運賃が1時間から2時間に、それぞれ上昇しているという描写があります。
実はこういった作中で明示されている物価から、日本円に換算した作中世界の物価基準というのものが推測可能だったりするんですよね。
コーヒー1杯の値段を基準にして考えると、現代日本のドトールコーヒーやスターバックスで売られている一番安いコーヒーがだいたい200~300円で、マクドナルドのコーヒーになると100円で購入できたりもしますよね。
これから考えると、作中世界における時間1分は、日本円に換算するとだいたい25円~100円の間、といったところになります。
これをバスの運賃に適用すると、料金1時間の場合は1500~6000円、2時間の場合は3000~1万2000円の間となるのです。
コーヒー1杯とバスの運賃でこれほどまでの価格差が発生する、などということが果たしてありえるのでしょうか?
しかも、作中で提示されたバスの運賃はあくまでも「片道」だけのものでしかない上、母親がいつも乗降しているバス停の区間は人間の足で2時間程度の距離であることが明示されていることから、せいぜい8~10km程度しか離れていないことが分かります。
高速バスでもない普通一般のバス利用でこの料金設定って、あまりにもボッタクリ過ぎなのではないかと。
ちなみに、他に作中や公式サイトなどで明らかになっている「スラムゾーン」における料金設定としては、1ヶ月の家賃が36時間(5万4000~21万6000円)、1ヶ月の電気代が8時間(1万2000~4万8000円)、公衆電話の利用料が1分(25~100円)となっています。
作中では「物価が上がり続けている」という設定が幅を利かせていますから、その影響で全体的に費用や物価が割高になっている部分もあるのでしょうが、それを考慮してさえもバスの運賃はあまりにも突出し過ぎています。
第一、こんなにバスの利用料金が高いと、そもそも「バスを利用して移動時間を短縮する」という意味自体がなくなってしまいますし、「時間が通貨の代わりになる」という作品世界のルールを考えれば、それはなおのこと大きな問題とならざるをえないでしょう。
市内の移動レベル程度であれば、バスよりも自転車を使った方が却って時間(兼カネ)もかからない、ということにもなりかねないのですから。
母親を殺すだけのために作り出したバランスを欠いた料金設定、としか評しようがないですね、これは。
また、ハミルトンから116年以上の時間を貰ったウィルは、そのことで時間監視局(タイムキーパー)にハミルトン殺害容疑をかけられ逮捕されてしまいます。
これに対しウィルは、時間監視局員であるレオンに対し「これはハミルトンから貰ったもので、彼は自殺したがっていた」と事実に基づいた釈明をしているのですが、レオンは「そんなことあるわけないだろ」と全く信じることなく、彼から時間を奪い部下に連行するよう命じていました。
これから分かるのは、「ボディ・クロック」のタイムアウトで死んだ人間の「本当の死因」を調べる術が作中の世界では全く確立されていない、という事実です。
つまり、タイムアウトで死んだ人間は、自身の持ち時間がなくなり自然に死んだケースと、他人から時間を奪われ殺されたケースの2種類が考えられるのに、そのどちらであるのかを第三者が正確に判断するための方法がない、ということです。
これは非常に恐ろしいことで、たとえば「スラムゾーン」では、タイムアウトになって路上で死んでいる人間の描写がしばしば映し出されているのですが、作中における「スラムゾーン」の人達のそういった死は全て「自然死」扱いされていました。
しかしひょっとすると、実は彼らは自然に亡くなったのではなく「誰かに時間を奪われて殺されその辺に転がされていた」可能性だってありえるわけです。
作中でも、ギャングがひとりの人間の時間を全て奪って殺してしまった描写が展開されていましたし。
他人の時間を奪って人を殺したとしても、それが殺人事件として扱われることがない。
これでは「時間強盗&殺人やり放題」の世界が現出することにもなりかねません。
凶器を全く使うことなく殺人が可能、というだけでも一般人にとっては脅威そのものなのですし、犯罪捜査も難航を極めるのは必至というものです。
特に「スラムゾーン」なんて【平均余命23時間】が当たり前の世界な上、ギャングが大手を振ってのさばっているところや時間監視局員に対する住民の態度を見ても、一般的な警察機構すら満足に機能していないことが一目瞭然なのですから。
そして一方、116年以上もの時間を所持していたハミルトンは、真相は自殺だったにもかかわらず「殺害された」と一方的に決め付けられ、ウィルは不当逮捕される羽目になったわけです。
治安維持という観点から言えば、「ボディ・クロック」のシステムには【完全犯罪を誰でも可能にしてしまう】という致命的な欠陥があり、またタイムアウト問題に対する調査能力が皆無に等しく勝手な判断で捜査を行っている時間監視局は、役立たずどころか有害な存在ですらあると言っても過言ではありません。
この辺りの問題を改善しないと、いつタイムアウトを利用されて完全犯罪的に殺されるやら知れたものではない「ボディ・クロック」なんて、権力者や富裕層ですらも危なっかしくてとても使用できたものではないと思うのですが。
あと、「スラムゾーン」の人間と似たり寄ったりな水準の時間割り当てを、時間監視局の構成員にまで同じように適用するのは正直どうかと思わずにはいられませんでした。
一応作中では「時間を奪おうとする人間を失望させるため」と説明されていましたが、時間に余裕がない構成員達は、当然のごとく常に時間に追い立てられるような現場捜査や犯人追跡などといった苛酷な仕事を強要されることにもなりかねないのですが。
ただでさえ有害無益な上に「スラムゾーン」の住民から反感を買われている時間監視局の構成員達を、さらに崖っぷちに追いやるような待遇にして一体どうしようというのでしょうか?
いつどこでどんな事件やアクシデントに遭遇するかも分からない彼らには、むしろ常に余分に時間を持たせるようにしておかないと、作中のレオンのように「犯人を追い詰めている最中にタイムアウトで死亡」などという自爆的な結末を迎えてしまうことにもなりかねないでしょうに。
まあ同じことは主人公ウィルにも言えることで、銀行を何度も襲って時間を奪い義賊的に時間を民衆にバラ撒くのは良いとして、何故自分(とヒロインのシルビア)の残り時間にもう少し余裕を持たせないのか、とツッコミを入れずにいられなかったところです。
どんな不測の事態が起こるのか分からないのですし、「自分は1日しか時間を残しておかないんだ」などという変なプライドを固持していないで3日~1週間程度の時間を常に自分達の手元に残しておくだけでも、あれだけ切羽詰まった局面は回避できたというのに。
作品的にはアクションやSF的な描写を売りにしているのでしょうし、純粋にアクション映画として観るのであれば観客的にはそれなりに楽しめるのではないかと。
ただ、公式サイトを見た限りでは「斬新な設定」を売りにし「時間の価値」を観客に問いかけたいなどと語っているらしい映画制作者達としては、上記のような設定問題についてどう考えているのかなぁ、と。