エントリー

2012年02月の記事は以下のとおりです。

映画「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」感想

ファイル 538-1.jpg

映画「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」観に行ってきました。
2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件で亡くなった父親が残した鍵の謎を追い、ニューヨーク中を駆け巡る息子オスカーと彼に関わる人々を描いた感動の物語。
原作は、2005年にアメリカ人作家ジョナサン・サフラン・フォアが出した小説「Extremely Loud and Incredibly Close(この日本語訳が今作のタイトル)」とのこと。

2001年9月11日に起こったアメリカ同時多発テロ事件。
物語は、同事件のワールド・トレード・センター(WTC)への飛行機特攻テロに巻き込まれ犠牲となった、今作の主人公オスカー・シェルの父親で宝石商だったトーマス・シェルの葬儀の場面から始まります。
WTCの倒壊により遺体の回収すらもできなかったトーマスの葬儀は、当然のことながら空の棺で行われることになったのですが、父親を尊敬し親子関係として以上に慕っていたオスカーは、そのような葬儀を行った母親リンダ・シェルに対し「そんなことをして何の意味があるんだ!」と怒りをぶつけまくります。
トーマスはオスカーの繊細で人見知りな性格を是正させることをひとつの目的に、「調査探検」と呼ばれるゲームを行わせていました。
それは、ニューヨークにかつて存在したという第6区がどこにあるのか探すというもの。
オスカーがこのゲームを遂行するためには、街の見知らぬ人達に聞き込みなどを行わなければならず、父親はそれで人見知りの性格が是正できると考えたわけです。
しかし、その「調査探検」の最中、父親は仕事の取引でたまたま居合わせていたWTCで同時多発テロ事件に巻き込まれ、帰らぬ人となってしまいます。
事件から月日が経ってもなお、父親の死を素直に受け入れられないオスカーは、ある日、テロ事件以来入ることが出来なかった父親の部屋へ入り、父親との思い出の品がないか探し始めます。
そしてクローゼットを調べていた際、クローゼットの上に置かれていた青い花瓶を落として割ってしまいます。
ところが、粉々に割れてしまった青い花瓶の中から古い封筒が出てきたのです。
封筒の中にはひとつの鍵が入っており、これは「調査探検」における父親からの何かのメッセージなのではないかとオスカーは考えます。
鍵屋で件の鍵について調べてもらったところ、鍵は貸金庫などで使われていた、20~30年近くも前のものであることが判明。
鍵の調査結果を知り、店から去ろうとするオスカーでしたが、店主はオスカーを呼び止め、封筒の左上に「black」の5文字があることを指摘します。
改めて店主に礼を述べ、今度こそ自宅へと帰ったオスカーは、「black」が人名であろうと考え、ニューヨーク市中のブラック姓の人をしらみ潰しに探し出すことを決意します。
ニューヨーク市内でブラック姓を持つ人は、総計実に472人。
オスカーはその全員と会い、父親と鍵のことについて尋ね回る計画を考え、実行に移すこととなるのですが……。

アメリカの同時多発テロ事件を扱った映画作品としては、2004年公開映画「華氏911」、2006年公開映画「ユナイテッド93」「ワールド・トレード・センター」などが挙げられます。
「華氏911」は事件における当時のブッシュ政権に対する批判的な内容で、「ユナイテッド93」はハイジャックされたユナイテッド航空93便を、「ワールド・トレード・センター」はWTCの現場における救助隊の視点で、それぞれ構成されている作品です。
この中で私が観賞した映画は「ワールド・トレード・センター」ですね。
物語序盤でWTC崩落に巻き込まれ、瓦礫の中に閉じ込められた主人公含めた救助隊員達が、一部は生命を落としつつも、終盤に助けられるまで互いに励ましあいながら苦難を乗り切るという話でしたが、ドラマ性よりもむしろそのあまりにも地味な構成で逆に印象に残った作品でした。
そして、同じ事件を扱った作品としてこれらの映画と肩を並べることになる今作「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」は、テロ事件で犠牲となった被害者の家族にスポットを当てているわけです。
過去の3作品が全て実話を元に製作されたノンフィクションであるのに対し、今作は実在の事件をベースにしつつも、物語そのものはあくまでもフィクション上のエピソードで構成されています。
実話を元にしているが故に実話に束縛されざるをえなかった過去作ではなかなか取り入れられなかった「フィクションならではの人間ドラマ性」を積極的に活用しているという点では、今作がダントツのトップではあるでしょうね。

映画「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」では、実の親として以上の尊敬の念を父親トーマスに対して抱いていた息子オスカーが、父親の残滓を追い、記憶に残すために奔走する様が描かれています。
オスカーがそのような方向へと突き進む理由としては、父親が自分に残してくれた謎なりメッセージなりを見たいという好奇心も当然あったでしょうが、それ以上に「好きだった父親のことを忘れてしまうことに対する恐怖心」があることが、オスカー自身のモノローグで語られています。
しかし物語が進んでくると、オスカー曰く「最悪の日」こと同時多発テロ勃発の日におけるオスカー自身の行動が「父親に対する原罪的な負い目」になっており、それが彼を「調査探検」にのめりこませていることが分かってきます。
あの日、オスカーの自宅には、WTCの106階にいたらしい父親から総計6回の電話がかかっており、自宅には誰もおらず5回までは自動的に留守電となってしまいます。
しかし最後の午前10時27分着信となる6回目は、テロ事件の影響で授業が全て中止となり学校から早退させられ帰宅していたオスカーが電話を取ることが充分に可能だったにもかかわらず、彼は恐怖心のためか、その電話を取ることができませんでした。
結果、父親は再び留守電に切り替わった電話に最後のメッセージを入れ、その直後にWTCが崩壊してしまったんですね。
つまり、オスカーは父親の最期の瞬間に電話越しで立ち会っていながら、父親と最期の会話を交わすチャンスを自分から永遠に捨て去ってしまったわけです。
これがただでさえ繊細な上に父親のことを誰よりも慕っていたであろう少年にとって、相当なまでの精神的ショックとなったであろうことは想像に難くありません。
オスカーが「調査探検」に必死になっていたのは、父親に対する彼なりの贖罪意識と後悔も多大にあったのではないかと。

そして一方、空の棺で父親の葬儀を行った母親リンダに対しては少なからぬ反感と隔意を抱いており、特に物語序盤では母親に当り散らしたり、母親を邪険にする態度がとにかく前面に出ていたりします。
リンダも母親として息子のことを案じてはいるのですが、オスカーはそのような母親の言動に不快感を覚え衝突するばかりで、挙句の果てには本人の目の前で「ママがあのビルの中にいれば良かったのに!」とまで言い放つ始末。
この辺りの描写は、息子がそう言いたくなった心情および言った後に後悔する心理も、そう言われた母親のショックも、どちらも目に見えて分かるようになっているだけに、どうにもやるせないものがありましたね。
しかも「間借り人」と呼ばれる謎の老人が登場して以降になると、ただでさえ無気力感に満ちている母親はますます影が薄い存在となってしまいますし。
しかし、序盤から中盤におけるこの手の母子のギスギスしたやり取りや演出は、実はラストに向けての大いなる伏線でもあったりします。
このラストにおける一種の大どんでん返しは、ただそれだけでこの作品を傑作たらしめると言っても過言ではないくらいの威力を誇っています。
現実にも充分に起こりえることで、それでいて間違いなく子供が親の愛情を感じ取ることが出来るエピソード。
これこそが、この作品が観客に声を大にして訴えたかったことなのであろう、とすらついつい考えてしまったものでした。

今作はテーマがテーマということもあり、アクション映画のような派手さや爽快感などは皆無ですが、人間ドラマとしては充分に見応えのある作品です。
主要登場人物全てに何らかの感情移入をすることが可能な構成にもなっていますし、特にラストの演出は多くの人が感動するであろう秀逸な出来に仕上がっています。
老若男女を問わず、多くの人に是非観てもらいたい映画ですね。

HTML文法的に正しいSNSボタンの設置方法 その1

2012年2月より、タナウツではSNSボタンとはてなブックマークボタンが導入されています。
2月5日のサイト更新に続いて、ブログでも先週末からサイトと同様にボタンを設置しています。
今回は、これらSNSボタンを設置する際の問題と対策について少し。

Facebookのいいね!ボタンやTwitterのツイートボタンなどに代表されるSNSボタン。
mixiやGREEなどでも、ページ情報についての記録やコメントが行えるボタンがユーザーに提供されており、これらのボタンは、大手のポータルサイトなどはもちろんのこと、個人のブログでも昨今ではよく見かけるようになりました。
この手のボタンは公式サイトで公開されているHTMLタグを貼り付けるだけで手軽に利用できますし、何よりもSNSを利用するネットユーザーが飛躍的に増えている昨今、情報拡散という観点から言っても大きな利点となります。
また最近では、ブログを設置する段階からSNSボタンの設置サービスを標準で用意してくれるところも多くなっており、HTMLについての専門的な知識が特になくても、SNSボタンがさらに手軽に設置できるようにもなってきました。
SNSの隆盛を考えれば、SNSボタンの使用用途もまた、当面の間は拡大を続けていくことになるでしょう。

ところが、実はSNSボタンを設置する際には少なからぬ問題が伴います。
公式サイトなどで公開されている設置タグは、正式なHTML文法に乗っ取って作られたものではなく、かなり特殊なタグが付加されているのです。
たとえば、Twitterの公式サイトで提供されているツイートボタンの場合、以下のようなタグで構成されています↓

<a href="http://twitter.com/share" class="twitter-share-button" data-url=" (ページのURL) " data-text="(ページのタイトル名やコメントなど)" data-count="horizontal">ツイートする</a>
<script>!function(d,s,id){var js,fjs=d.getElementsByTagName(s)[0];if(!d.getElementById(id)){js=d.createElement(s);js.id=id;js.src="//platform.twitter.com/widgets.js";fjs.parentNode.insertBefore(js,fjs);}}(document,"script","twitter-wjs");</script>

赤文字で表示している部分は、全てツイートボタンオリジナルの非正規タグです。
これを「Another HTML-lint」でチェックをかけると、以下のような高レベルのエラーメッセージが出力されてしまいます↓

6: <a> に不明な属性 `data-url` が指定されています。
6: <a> に不明な属性 `data-text` が指定されています。
6: <a> に不明な属性 `data-count` が指定されています。

左の数値がエラーのレベルなのですが、だいたい6以上のレベルのエラーが発生したら、もうその時点で100点どころか80点レベルすらも諦めざるをえなくなってきます。
他のSNSボタンも状況は似たり寄ったりで、エラーレベルが最低でも6以上、場合によっては8~9などの高レベルに到達する(ちなみに「Another HTML-lint」におけるエラーレベルの最高値は9)ことも珍しくありません。
このように、公式サイトで公開されているSNSボタンのタグをそのまま使えば、HTMLチェックでたちまちのうちに大減点になってしまうことが確実なのです。
この大減点がイヤという理由から、あえて自分のサイトやブログにSNSボタンを設置しないという人もいるくらいで、かくいう私自身、最初はHTML文法チェックの減点を避けるためにSNSボタンを敬遠していたものでした。
しかし、それでもSNSボタンの設置による利点は捨てがたいし、HTML文法チェックの大減点を回避する形で上手く設置できる良い方法は何かないものなのか?
これが、タナウツサイト本家の全面リニューアルの際、私が最も苦労した部分のひとつでもありました。

タナウツで新規に設置しているSNSボタンは、Facebookいいね!ボタン、Twitterツイートボタン、mixiチェックボタン、GREEいいね!ボタンの総計4つ。
このうち、Twitterツイートボタンとmixiチェックボタンについては、タグに若干手を加えることでHTML文法チェックの減点回避が達成できました。
Twitterのツイートボタンについてはこんな感じ↓

<a href="http://twitter.com/share?button=(ボタンの種類【none、button-1、button-2】)&count=(カウンタ数の表示方法【none:非表示、horizontal:水平方向にカウント数を表示、vertical:垂直方向にカウント数を表示】)&url=(エンコードされたURL)&text=(エンコードされたページタイトル名ORコメント)&via=(Twitterアカウント名)&lang=(言語を指定【日本語の場合は「ja」】)" class="twitter-share-button" title="このページについてツイートする" rel="nofollow">つぶやく</a>
<script type="text/javascript" src="http://platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>
※「script」タグはページ最下部に1つだけ設置。

最初のタグと大きく異なる点は、最初のタグが一度Twitterへ移動した後、タグ内にあるURLやタイトル名などの情報を収集し、それらの情報を含んだURLを自動生成してそこへユーザーを飛ばしているのに対し、後者のタグは「始めから生成済みのURL」を指定しているところ。
結果的にはどちらも同じページに辿り着くのですが、後者のタグはHTML文法に全く違反していないため、1点の減点すらもくらうことがありません。
この手法の問題点としては、始めからURLの中に情報を含ませなければならないため、URLやコメントを指定する際にUTF-8文字コード形式のURLエンコード変換を行わなければならないことが挙げられます。
たとえばタナウツネット雑記ブログのURLを指定する際には、以下のようなURLエンコード変換を行う必要があり↓

https://www.tanautsu.net/blog/

http%3A%2F%2Fwww.tanautsu.net%2Fblog%2F

またタイトル名やコメントなどを指定する際も同様に、

タナウツネット雑記ブログ | 田中芳樹を撃つ!

%E3%82%BF%E3%83%8A%E3%82%A6%E3%83%84%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E9%9B%91%E8%A8%98%E3%83%96%E3%83%AD%E3%82%B0%20%EF%BD%9C%20%E7%94%B0%E4%B8%AD%E8%8A%B3%E6%A8%B9%E3%82%92%E6%92%83%E3%81%A4%EF%BC%81

といった変換を行わなければなりません。
こんな変換を手作業でいちいち行おうものなら、普通だったら時間がいくらあっても足りたものではありません。
しかしタナウツの場合、ブログはCGIで、サイトはMicrosoft Accessで管理していることによる利点がここで生きてくるんですよね。
ページを生成するプログラムの中に、上記のようなURLエンコード変換処理を行うためのロジックを予め入れておけば、後はプログラムが勝手に変換処理をやってくれるわけです。
一度そういったプログラムを組み込んでしまえば、あとは作成するページが何千ページあろうと、全て同じ処理を自動でやってくれるのですから楽なものです。
ちなみにmixiチェックボタンについては以下の通り↓

<a href="http://mixi.jp/share.pl?u=(エンコードされたURL)&k=(mixi識別キー)" rel="nofollow" onclick="window.open(this.href,'share',['width=632','height=456','location=no','resizable=yes','toolbar=no','menubar=no','scrollbars=no','status=no'].join(',')); return false;" onkeypress="window.open(this.href,'share',['width=632','height=456','location=no','resizable=yes','toolbar=no','menubar=no','scrollbars=no','status=no'].join(',')); return false;"><img src="(画像ファイル指定)" alt="mixiチェック" width="70" height="20"></a>

mixiチェックボタンは、mixiサイトで予め個人パートナー登録を行い、識別キーを入手しなければ使えないのですが、それ以外は一番手間もかからず簡単に設置できるボタンでしたね。
URLの指定方法についてはツイートボタンの時と同じです。

というわけで、SNSボタンのうち、Twitterのツイートボタンとmixiチェックボタンについては、リンクタグを改造するという方法でHTML文法チェックの減点回避が可能になりました。
しかし、残りのSNSボタン、Facebookいいね!ボタンとGREEいいね!ボタンについては、小手先のタグ改造程度のことではHTML文法チェックの減点を回避することができません。
この2つのボタンには一体どのような問題があり、かつどんな手法で対策を施したのか?
それについては、また後日に語ってみたいと思います。

※記事内で紹介しているHTMLタグ内における「<」「>」「&」は、全て半角から全角に変換しています。

「らいとすたっふ」が銀英伝の電子書籍化を公式発表

「あの」銀英伝が、2012年3月1日より電子書籍として販売されることが「らいとすたっふ」公式サイドより発表されました。
電子書籍の名称は「らいとすたっふ文庫」、対応機種はiPhone/iPad、Andoroid搭載の携帯端末になるとのことだそうですが…↓

http://a-hiro.cocolog-nifty.com/diary/2012/02/post-f5a4.html
>  私の会社でマネージメントをしております作家、田中さんの著作につきましては、以前より、読者の皆さまから電子書籍化の要望が数多く寄せられていました。
>  しかし、
田中さん本人が根っからのアナログ人間で、電子書籍について否定的な考えをもっていたことから、その実現は難しいとお答えしていました。
>  それに、電子書籍を取り巻く環境は、まだまだ変化が大きく、私の会社のような零細企業としては、参入には慎重にならざるを得ませんでした。
>
>  とはいえ、電子書籍には紙の本にはない多くのメリットが存在しますし、このまま紙媒体のみの流通というのも読者の皆さまの選択肢を狭めてしまうことになります。
>  この点を繰り返し、
田中さんに説明した結果、このたびついに田中作品の電子書籍版の出版が実現することとなりました。
>
>  ただ、その際の条件として「電子書籍を商売にしている会社に丸投げするのではなく、できる限り、君たちがやりなさい」と指示がありました。そのため、既存の電子書籍問屋さんとの提携ではなく、私の会社が出版元となって電子書籍の販売を行うことになりました。

正直、私は「らいとすたっふ」が田中作品の電子書籍化を推進するとは思ってもいませんでしたね。
何しろ社長氏は、2004年と2010年に、自身のブログで電子書籍に対する懸念と問題点の指摘を行っていたのですから↓

2004年
http://a-hiro.cocolog-nifty.com/diary/2004/05/post_4.html
http://a-hiro.cocolog-nifty.com/diary/2004/05/post_11.html

2010年
http://a-hiro.cocolog-nifty.com/diary/2010/02/post-717b.html
http://a-hiro.cocolog-nifty.com/diary/2010/05/post-813e.html
http://a-hiro.cocolog-nifty.com/diary/2010/05/post-330d.html

どちらかと言えば「技術的な問題などに対する懸念表明」的なものではあったのですが、これらの記事を読んでも、社長氏自身も電子書籍導入に消極的であったことが伺えます。
それに加えて、社長氏自身も述べているように、他ならぬ田中芳樹自身がネットすらマトモにやらないレベルのアナログ人間で、かつ電子書籍導入に否定的であるという事情もありましたし。
さらには「らいとすたっふ」側が電子書籍を導入する動きをこれまで欠片も見せていなかったこともあり、田中作品の電子書籍導入は当面難しいものがあるだろう、というのが私の考えでもありました。
それだけに、今回の「らいとすたっふ」の公式発表は私も寝耳に水でした。
ブログ記事の内容を読む限りでは、今回の電子書籍導入は社長氏の方が熱心に推進していて、あまり乗り気でない田中芳樹を何度も説得して実現にこぎつけたみたいですね。
アレだけ電子書籍に懸念を表明していたはずの社長氏が、一体いつの間に自身の主張を180度変えたというというのでしょうか?
社長氏が懸念を表明していた問題点の数々も、ある程度の改善はされつつも、未だ完全な解決にまでは至っていないというのが実情だというのに。
まあ昨今の出版業界も、長く続いている不況で台所事情が苦しくなっているという話は私もよく聞きますし、稼ぎ頭であるはずの田中芳樹もさらに遅筆に磨きがかかる惨状を呈していますから、その煽りを受けて転向せざるをえなくなったのかもしれませんが。

今回の電子書籍化でまず真っ先に浮上しそうな問題点としては、その料金設定にあるでしょうね。
銀英伝の電子書籍は、以下のような料金設定で販売されるとのことですが↓

> ■予定価格帯
>
100円〜600円。
> 『銀河英雄伝説① 黎明篇』は、
450円でのリリースを予定しております。
>
> ※当社の電子書籍は、カバー絵や挿画のないシンプルなものになります。

これに対し、現在銀英伝の最新版を刊行している創元SF文庫の一般的な販売価格は、巻毎でややバラつきがありますが、だいたい770円~840円といったところです。
これを考えると、「らいとすたっふ」側の電子書籍の販売価格は、明らかに創元SF文庫、ひいては東京創元社の利害に直結するものにもなりかねないのではないかと。
価格だけを見れば、どう考えても「らいとすたっふ」の電子書籍版の方に軍配が上がってしまうのですからね。
東京創元社側にしてみれば、せっかく自分のところで扱っている貴重な金ヅルを奪われる、と解釈しても不思議ではなく、最悪、「らいとすたっふ」に対して何らかの報復措置(著書の宣伝を一切行わない、今後一切田中作品および「らいとすたっふ」所属の作品を扱わないようにするなど)に打って出てくる可能性すらありえます。
また東京創元社だけでなく、田中作品を多く扱っている講談社や光文社などでも「自分のところでも同じことをやられたら…」と危機感と警戒心を持つことになるかもしれません。
これまで色々と世話にもなっているわけですし、それら既存の出版社とは何らかの利害調整をしておかないと、正直マズイことにもなりかねないのではないかと思えてならないのですが……。

日本で電子書籍がなかなか広まらない理由のひとつに、既存の出版社および印刷会社による既得権益死守がある、というのはよく聞く話です。
電子書籍は紙媒体に比べて利益率が低く儲けが少ない上、印刷会社などは仕事を取られてしまうことにもなりかねません。
だから大手出版社などでは、電子書籍を全く作らないか、作っても料金設定を意図的に高くしたり、購入手続きをわざと煩雑にしたりするなどして、既得権益を侵害しない範囲内で電子書籍を普及させようとするわけですね。
正直、良い傾向であるとはとても言えたものではないのですが、彼らも自分達の生活がかかっているのですから必死にならざるをえないわけで。
その意味では、「らいとすたっふ」の今回の価格設定の試みは、やり方によってはそういった電子書籍のあり方に一石を投じるひとつの社会実験にもなりえるかもしれません。
今後一体どうなるのか、予測がつかないところではあります。

しかしまあ、大手出版社の電子書籍に対する態度にも問題があるにしても、だからといって「らいとすたっふ」サイドのやり方が褒められたものであるとは到底言えたものではないのですけどね。
銀英伝の再販ってこれで通算何回目なのでしょうか?
私が知っているだけでも、最初の徳間ノベルズから徳間文庫、徳間デュアル文庫、創元SF文庫へと移転してさらに今回の電子書籍化ときているのですけど。
特に、徳間デュアル文庫で銀英伝が再販、それも各巻を2~3冊に分割して刊行するなどというアゴキな手法が取られた際には、「ファイナルバージョン」などと銘打たれてまでいたはずでしたよねぇ(苦笑)。
今でも「アレは一体何だったのか?」と思えてならないのですが(爆)。
田中芳樹と「らいとすたっふ」のこれまでの所業を鑑みると、今回の電子書籍化もまた、一連の再販戦略の延長線上で行われているようにしか見えないところがまた何とも言えないところでして(-_-;;)。
もちろん、「らいとすたっふ」はあくまでも営利企業であり、慈善事業で作家のマネージメントをやっているわけではないのですから、「企業として金儲けのことを考えて何が悪い!」とは当然主張するでしょうし、違法行為に手を染めているのでもなければ、それが悪いことだとは私も思いません。
しかし田中芳樹は、かつて己の著書でこんなことを述べていたはずなのですけどねぇ↓

イギリス病のすすめ・文庫版 P215~P216
<土屋:
 それともう一つ、日本はイギリス病を輸入しないといけないね、イギリス病にかからないといけないんじゃないか、それは
やっぱり「美しく老いる」ことなんだよね。その渦中にあったイギリスは、美しいなんて思ってられなかったと思うけどね。覚悟はあったとしてもいきなりのイギリス病だったし。……でも、今になってみると、やっぱりああいうふうに停滞をするということ、停滞をしなくちゃいけないということ……要するに、「進歩し続けることが唯一の道」みたいな考え方を、どこかで転換させなきゃいけないんじゃないか。かといって退化しろというわけじゃないけどさ。(笑)もともとそれは無理だしね。退化するわきゃないし、退化できるわけがないけど。
田中:
 永遠に全力疾走できるわけはないのに、そう思って走ってきて、一度でも転ぶともうレースに参加できない、という感じでずっとやってきたから
……やっぱりこれは「イギリス病のすすめ」ってのがいいかもしれない。少なくとも歩くとか休むとかっていう選択ができるようにしておきたいですね。
土屋:
 だからね、
貧乏になろうよ、国を挙げて貧乏になりましょうよ、って。おれは貧乏だけどね。(笑)
田中:
 
日本全体がもともと貧乏だったんだし。(笑)ちょっときれいごとすぎるけど、「清貧」って言葉もあるくらいだから。日本人自身も、そのほうが気楽かもしれない。
土屋:
 金持ちだから世界中で悪いことやるわけで、「貧乏になりゃあいいじゃないか」ってね。>

他人様に対しては「美しく老いよう」「貧乏になりましょうよ」などというタワゴトに全面同意して一緒にお説教までしておきながら、自身は金儲けに邁進するって、それはいくら何でも自分勝手が過ぎるのではないかと。
「らいとすたっふ」のなりふり構わぬ金儲け至上主義的な企業戦略を見て、「美しく老いよう」「貧乏になりましょうよ」とはほんの少しでも思ったことがないのでしょうかねぇ、田中芳樹は(爆)。
「らいとすたっふ」は銀英伝のみならず、他の田中作品についても「電子書籍化」という名の下に金儲けの道具としてとことんまで使い倒すつもりのようですし、田中芳樹の価値観的には今の「らいとすたっふ」にこそ「イギリス病のすすめ」が必要なのではないのかなぁ、と(笑)。

Twitterにおける大量フォロワー獲得のテクニック

2012年2月15日付で、田中芳樹を撃つ!Twitter商館の総フォロワー数は10万人の大台を突破しました。
タナウツのアカウントにフォローを返して頂いた10万人の皆様方には、この場を借りて改めて感謝と御礼を申し上げますm(__)m。

さて、今回はフォロワー数10万人に到達するために私が確立したフォロワー獲得方法について少し。

Twitterでフォロワー数を増やしていく過程で、少なからぬフォロワーの人達から「一体どうしたらそこまでフォロワー数を増やせるの?」というツイートがしばしば私の元に寄せられました。
私はそのひとりひとりに全て同じ返答を返してきました。
それは「とにかく自分から他のアカウントへのフォローを【毎日大量に】行う」ということ。
数百単位のアカウントに対してフォローを自分から行い、その見返りとしてフォローを返してもらう。
それをとにかく毎日繰り返すわけです。
非常に単純かつ地味な方法ではありますが、実はこれが一番「少しずつではあっても確実に」フォロワーを増やせる最良の方法なのです。
かくいう私自身、2010年4月2日のアカウント開設以来、毎日地道にこの手法を繰り返し続けてきた結果、フォロワー10万人突破の日を迎えることになったわけです。
まさに「継続は力なり」ですね。

ただし、大量フォローについては若干の注意も必要になります。
まず、1日に1000以上のフォローはTwitterのシステム上不可能となっています。
これは、過去に数千~数万単位ものフォローを、しかも自動的に行うシステムツールなどが多用され、それが結果的にサーバに多大な過負荷を与えてTwitterそのものの動作が不安定になったことへの対策として行われるようになったもので、その名残として、今でもTwitterは自動フォローツールなどの使用を著しく嫌っています。
そのため、Twitterで大量フォローを行う場合は、手作業かつ毎日地道にコツコツとフォローを続けていくしかないわけです。
また同様の対策により、Twitterにおける最大フォロー可能回数は、フォロワー数2000までは2001回まで、それ以上はフォロワー数×1.1倍までしか許されていません。
つまり、あまりフォロワー数のいないアカウントで大量フォローを続けていくと、あっという間にフォロー回数上限にまで到達してしまい、それ以上フォローをやりたくてもできなくなってしまう、という問題が発生するわけです。
そのため、フォロワーの少ないアカウントで大量フォローをかけていく際には、同時並行して「自分をフォローしていないアカウント」の片道フォローを解除していくという作業も定期的に必要となります。

大量フォロー後に「自分をフォローしていないアカウント」のフォローを解除する際には、私は以下のサイトを多用しています。

ManageFlitter
http://manageflitter.com/
JustUnfollow
http://www.justunfollow.com/login.html

ここで重要なのは、「自分をフォローしていないアカウント」のフォローを解除する際には、必ず「フォローしてからある程度の時間が経過しているアカウント」から解除していくこと。
ある程度時間が経過してなお自分をフォローしていないアカウントは、もう自分をフォローしてくれる見込みのないアカウントと見做しても良いわけですが、フォローして間もないアカウントは、当然のことながらまだ自分をフォローしてくれる可能性を残しています。
また、何らかの理由で一定期間自分のアカウントにアクセスしない人だっているでしょう。
フォローアカウントが自分にフォローを返してくれる可能性を少しでも高めるためにも、フォロー解除は古いものから順番に行うのが理想なわけです。
上記の「JustUnfollow」では「(フォローを行った)古いアカウントが一覧の上部に表示される」仕様なので、この用途には向いています。
私はドラッグ&ドロップでフォローの一括解除が手軽に行える「ManageFlitter」の方をメインに使っているのですが、初心者の方には「ManageFlitter」よりも「JustUnfollow」の方が使いやすいと思います。

では大量フォローを行うとして、そのターゲットとなる大量のTwitterアカウントを一体どうやって探し出すのか?
一番簡単なのは、既に数万単位のフォロワーを持っているアカウントを複数探し出し、そのアカウントのフォロワーを片っ端からフォローしていくこと。
TVにも登場するような有名人だと、数万どころか数十万単位でフォロワーを抱えている人もいますから、まずはその辺りから探すのが良いでしょう。
ただ、ここで問題なのは、「いくら大量のフォロワーを持っていても【常にフォロワーを増やし続けているアカウント】でなければ意味がない」という点です。
Twitterの構造上、各アカウントのフォロワー一覧は、常に「一番最後にそのアカウントをフォローしたアカウント」から順番に表示するようになっています。
大量フォローをする場合は当然のことながら画面最上部に表示されているアカウントから順番にフォローしていくことになるわけですが、フォロワー数を増やしていないアカウントの場合、次回に大量フォローをかけようとすると、フォロー対象のアカウントを探すためにわざわざ古い履歴を遡らなければならなくなってしまいます。
それを毎日やるとなると大変な負担になってしまいますし、そもそもそんな古い履歴の中に存在するアカウントは、必ずしも現在も活動しているとは限りません。
現在も活動しているかどうかを確認する【だけ】のためにいちいちプロフィールページにアクセスして情報を確認するなど面倒極まりないですし、活動を停止しているアカウントにフォローを行ったところで無駄もいいところでしょう。
それに対し、定期的にフォロワーを増やし続けているアカウントの場合、フォロワー一覧は常に最新の状態に更新され、以前に自分がフォローを行ったアカウントが常に一覧下部へと下がって行きます。
つまり、古い履歴を漁る手間と時間をわざわざ費やすことなく、常に画面上部のアカウントからフォローを行うことができるわけです。
また、フォロワー一覧の最新アカウントは、一覧に掲載されている時点「ごくごく最近にそのアカウントにフォローを行っている」という活動履歴が明示されていることになるため、現在も一定の活動を行っていることがかなりの確率で保証されています。
それらのアカウントにフォローを行っていけば、フォローが返ってくる確率も必然的に高くなる、というわけです。

毎日大量フォローを行っていくのであれば、「大量のフォロワーを抱え、かつ常にフォロワーを増やし続けているアカウント」を10~20ほど確保してリスト化し、ローテーションで回していく、という形を取れば良いでしょう。
1回目はアカウントAのフォロワーにフォローを行い、2回目はアカウントBのフォロワーに、3回目はアカウントCの……というパターンを繰り返すのです。
そうすれば、順番が一巡する頃には、最初のアカウントAのフォロワー一覧には再び新しいフォロワーアカウントが軒を連ねている状態に戻り、また大量フォローを行うことが可能となるわけです。
わざわざ自分から大量アカウントを探す必要もないのですから、これが一番楽な方法ではあるでしょうね。

まあ上記のような方法を駆使しても、私が今回達成したフォロワー10万人の到達ともなると、さすがに相当な根気も時間も必要になります。
ただ、フォロワー5000人くらいであれば、やり方次第では1ヶ月も経たないうちに達成することも充分に可能なのではないかと。
かくいう私自身、過去には1ヶ月でフォロワー7000人以上増やした事例もありましたし、今でも1ヶ月に3000~4000人程度のペースは保っていたりします。
Twitterで不特定多数のフォロワーが欲しいと考える方は、ひとつ上記のやり方でフォロワーを増やしてみてはいかがでしょうか。

映画「ドラゴン・タトゥーの女」感想

ファイル 534-1.jpg

映画「ドラゴン・タトゥーの女」観に行ってきました。
スウェーデンの作家スティーグ・ラーソンによるベストセラー小説「ミレニアム」三部作のうち、同名タイトルの第一部を実写映画化したハリウッド版リメイク作品。
この映画、SM強姦やレイプにフェラチオ、アナルセックスなど、15禁どころか18禁指定すらされてもおかしくないレベルのセックス描写がしばしば登場する上、ネコの惨殺体などというグロ映像まで飛び出してくる念の入れようで、当然のことながらR-15に指定されています。
すくなくとも一般向けに公開されているはずの映画で、間接的に性行為を匂わせる濡れ場シーンならともかく、モザイクまでかけられるレベルの露骨なセックス描写なんて、私は今までお目にかかったことがなかったのですけどね。
もちろん、それらは作中のストーリーを構成する重要なパーツではあるのでしょうが、それにしても大胆な描写をしているなぁ、と(^_^;;)。
ちなみに私は、原作は全て未読で、またスウェーデンで先に実写化されたという映画も未視聴の状態で今作に臨んでいます (^^;;)。

物語は、謎の老人の元に、年1回必ず送られてくるという謎の郵送物?に対し、呪詛に満ちた呟きをこぼすところから始まります。
そこから物語は一旦中断し、今時の映画では珍しいオープニングテーマに入るのですが、予告編でも流れていたものでありながら、改めて聴いてもこの音楽はなかなか良いものでしたね。
オープニングテーマが終了した後、物語のスポットは、今作の主人公のひとりであるミカエル・ブルムクヴィストに当てられます。
彼は、月刊誌「ミレニアム」の敏腕ジャーナリスト兼発行責任者兼共同経営者で、スウェーデンの大物実業家のハンス=エリック・ヴェンネルストレムの不正を暴露する記事を書いたものの、そのことで逆に名誉毀損で訴えられた挙句、裁判で有罪判決を受けてしまい、それまでの貯蓄全てを失うレベルの賠償金の支払いまで課せられるという事態に陥っていました。
彼の敗訴と、不正を書かれたヴェンネルストレムによる報復的な圧力によって、月刊誌「
ミレニアム」は大きな危機に直面していました。
敗訴のショックもあり、また「ミレニアム」に負担をかけないようにする配慮も手伝って、雑誌の編集長であるエリカ・ベルジェに一線を引くことを告げるミカエル。
ここで2人は妙に親しげかつ肉体的な接触も含めたスキンシップ行為を行い、この2人がただならぬ関係にあることが観客に明示されます。
そんな彼の元に、冒頭に登場した老人、大財閥ヴァンゲル・グループの前会長ヘンリック・ヴァンゲルと、ヘンリックの顧問弁護士であるディルク・フルーデから、スウェーデンのヘーデスタまで来て欲しいとの連絡を受けます。
不審に思いながらもヘーデスタへとやって来たミカエルは、そこで表向きはヘンリックの評伝を書くという名分で、40年前に起こった親族のハリエット・ヴァンデルの失踪事件について調査して欲しいと依頼されることになります。
初めは嫌な顔をするミカエルですが、ヘンリックはミカエルに対し「ミレニアム」にいた当時の給与の2倍の金を毎月支給する、成功すれば4倍出すという金銭的な優遇条件を提示し、さらにミカエルを失墜させる元凶となったヴェンネルストレムの不正の証拠をも提供すると持ちかけます。
ここまで言われてはミカエルもさすがに承諾せざるを得ず、かくしてミカエルの事件捜査が始まるのでした。

一方、ヘンリックはミカエルに失踪事件の洗い直しを依頼するのに先立ち、ミカエルの身辺調査をミルトン・セキュリティーに依頼していました。
それに応じてミカエルの身辺調査を実地で行い、彼の秘密の何から何まで把握し尽した人物が、今作のもうひとりの主人公であるリスベット・サランデル。
彼女は、鼻と眉にピアスを付け、左の肩から腰にかけてドラゴンのタトゥーを彫りこんでいる非常に変わった女性で、過去の経歴が理由で責任能力が認められない精神的不適応という診断を受けた挙句に後見者をつけられていたりします。
ある日、彼女が自身につけられた後見人であるホルゲル・パルムグレンの元へ帰ってみると、彼が自宅の部屋で倒れているのを発見。
彼はすぐさま病院に収容されるのですが、脳出血で半ば廃人同然の状態となってしまい、リスベットの後見人から外されてしまいます。
そして、新しくリスベットの後見人となったニルス・エリック・ビュルマンは、リスベットを精神異常者だと決めつけ、自身の権限にものを言わせて彼女の財産を全て自分で管理すると宣言します。
これに反発するリスベットでしたが、後見人であるビュルマンに逆らうことはできません。
そしてビュルマンは、その地位とカネを餌にしてリスベットに性的な要求まで行うようになるのですが……。

映画「ドラゴン・タトゥーの女」は、ストーリーのジャンル的には一応推理系ミステリーに属するはずなのですが、原作はともかく、すくなくとも今回の実写映画版ではその部分があまりにも描かれていない感じがありますね。
物語の中核を構成しているハリエットの失踪事件には当然容疑者がおり、重要人物であるはずの彼らは序盤で一通り紹介されてはいくのですが、しかし彼らは物語全体を通じて、真犯人を除きほとんど主人公2人と接点がないんですよね。
名前だけ紹介されたものの、初登場するのがようやく物語中盤頃、という人物までいましたし。
40年前の事件を扱っていることもあり、また既に故人となっている人物もいることから、事件当時の資料漁りがメインになっているという事情もあるにせよ、ロクに描写がないために容疑者の名前をマトモに覚えることすら困難を極めるありさまでした。
物語後半で判明した真犯人ですら、正体が分かるまでほとんど印象に残っていなかったくらいでしたし。
しかも序盤から中盤にかけては、どちらかと言えば主人公2人の軌跡を追っていくストーリーがメインで展開されていた上、2人が邂逅を果たすまでかなりの時間がかかることもあって、さらに容疑者達の存在はストーリーの流れから置き去りにされてしまっています。
真犯人が判明する後半になるとさすがに事件の全体像はおぼろげながらも見えてくるのですが、あまりにも真犯人以外の容疑者達の存在感も印象もなさ過ぎるというか……。
何と言うか、原作小説を予め読んでいるのが最初から前提の上でストーリーが展開されているようにすら見えますね、この映画って。
同じ原作未読のミステリーでも、映画「白夜行」「麒麟の翼」などは、事件関係者達の存在感も相互関係も素直に理解できたものなのですけどねぇ……(-_-;;)。

一方で、主人公2人を取り巻く人間関係については、メインと言って良いくらい濃密に描かれていることもあって、かなり分かりやすい上にインパクトも多々ありますね。
中でも凶悪なまでに印象に残ったのは、リスベットに最初にカネを請求してきた際にはフェラチオを要求し、2度目はベットに縛り付けてアナルセックスまでやってのけ、当然のごとく逆襲されて惨めな敗残者にまで落ちぶれ果てたビュルマンですね。
彼は自業自得とはいえ、リスベットに強姦現場の動画をネタに脅迫された上、「私は強姦魔の豚野郎です」という刺青まで彫られてしまいましたし。
リスベットのみならず、映倫にまで挑戦状を叩きつけるかのごとき彼の「勇猛果敢な行為」は、ただそれだけで歴史に名を残せるものがあります(苦笑)。
まあリスベットの方も、ミカエル相手に騎乗位セックスを作中2度にわたって繰り広げ、しかもその内1回はモザイク付という、なかなかどうしてビュルマンと互角以上に渡り合えるだけの「戦歴」の持ち主ではあるのですが(爆)。
というかリスベットにヤられたミカエルも、エリカという別の女性と既に関係が深いのに、強引に押し倒された1回目以降も何故リスベットと肉体関係を持ち続けているのか、正直理解に苦しむところではあるのですが。
そのミカエルとエリカの関係も、世間一般では「不倫」と呼ばれる行為に該当する(エリカは既婚者で夫が生存している)わけで、この作品の登場人物は揃いも揃って、良くも悪くも倫理観という言葉とは全く無縁ですね。
今作は三部作の第一部とのことですから、当然人気と予算が許す範囲において第二部以降の続編も製作されることになるのでしょうが、この倫理観の崩壊っぷりもより強烈に反映され続けることになるのでしょうかねぇ。

R-15指定ですら裸足で逃げ出したくなるレベルのセックス&残虐描写が延々と続くので、その手の描写が嫌いな方にはとてもオススメできる作品ではないですね。
また前述のように、原作を何も知らない状態で今作を観賞する場合、特に失踪事件絡みの容疑者達の人間関係を理解するのにかなりの困難が伴います。
その点では「原作ファンのための作品」というのが妥当な評価ということになるでしょうか。

銀英伝舞台版第二章の新キャスト発表

銀英伝舞台版公式サイトで、第二章「自由惑星同盟編」で登場人物を演じるキャストが新たに発表されました。
また、既に公開済みのキャストについても、各キャラクターに扮した画像が公開されています。

銀英伝舞台版公式サイト
http://www.gineiden.jp/
第二章 自由惑星同盟編 トップページ
http://www.gineiden.jp/doumei/
第二章 自由惑星同盟編 キャストページ(既存)
http://www.gineiden.jp/doumei/cast.html
第二章 自由惑星同盟編 キャストページ(新規)
http://www.gineiden.jp/doumei/cast2.html

さらに2月10日から、舞台版の宣伝も兼ねたキャストによるリレー動画も公開されています。
第1回目はシドニー・シトレ役の西岡徳馬とのこと↓

第二章 自由惑星同盟編 リレー動画一覧
http://www.gineiden.jp/doumei/message00.html

今回新規に発表された登場人物およびキャストは以下の通りだそうで↓

ファイル 533-1.jpgファイル 533-2.jpg
ファイル 533-3.jpgファイル 533-4.jpg
ファイル 533-5.jpgファイル 533-6.jpg
ファイル 533-7.jpgファイル 533-8.jpg
ファイル 533-9.jpgファイル 533-10.jpg
ファイル 533-11.jpgファイル 533-12.jpg
ファイル 533-13.jpg

これらのうち、「ナオミ」と「ビクトルフォン・クラフト」については、原作に名前が存在しないキャラクターですね。
「サレ・アジズ・シェイクリ」はオリビエ・ポプランとイワン・コーネフとライバル関係にあるスパルタニアンの撃墜王で、「コールドウェル」はイワン・コーネフの部下という形で原作にも名前がありましたが。
2人のオリジナルキャラクター達は、多分舞台ストーリーの一部として入ってくることになるであろう、ヤンの士官学校時代や「エル・ファシルの脱出」辺りのエピソードで活躍することにでもなるのでしょうか?

あと、グリーンヒル父親とビュコック辺りは一体誰が担うことになるのでしょうか?
グリーンヒル父親は原作2巻の主要人物ですし、ビュコックも作中の重要人物ですから、出てこないことはないのでしょうけど。
どちらも結構年配のキャラクターですから、配役もある程度年配かつ貫禄のある人と無理だと思うのですが、発表されたキャストの中で該当しそうな人がいないんですよね。
名前だけしか出ていない残りの配役の人達も皆若手っぽいですし。
こちらはまだ未公表の配役でも控えているのでしょうかね?

それと、今回の公式サイトの更新に関連して、「らいとすたっふ」社長氏のブログも更新されたようですね。
で、記事によると、どうも田中芳樹がこんな世迷言をほざいているようなのですが↓

http://a-hiro.cocolog-nifty.com/diary/2012/02/post-b5c6.html
>  アニメ化のときにも、「男性声優ばっかりで、女性の声優さんの出番が少ない」と言われていたのですが、舞台になると、その「女っ気のなさ」が際だちます(笑)。
>  
田中さんも、「こんなことだったら、もう少し女性を出しておくんだったなあ」と頭をかいているのですが、これは今さら言っても仕方のないこと。舞台の関係者の皆さまにはご苦労をおかけしますが、なにとぞよろしくお願いいたします。はい。

いや、90年代以降の田中作品、特に薬師寺シリーズにおける女性描写の惨状を見る限り、田中芳樹の力量でマトモな女性が描けるようにはとても思えないのですが。
銀英伝がアレだけの大ヒットを記録したのも、むしろ逆に女性描写を抑えて「あえてテンプレートに徹した」ことが功を奏したのでしょうに。
薬師寺涼子や田中小説版キング・コングのアン・ダロウのごとき、救いようのない自己中な権力亡者の化け物でしかないバカ女を大量に登場させたところで、却って銀英伝の価値を下げるだけでしかないことが、田中芳樹にも周囲の人間にも全く理解できないのでしょうかねぇ。
「俺はちゃんとした女性を描ける作家なんだ!」というのは田中芳樹の根拠なき思い込みでしかないのですから、そんな妄想はいいかげん捨てた方が、自身も含めた万人のためにも良いのではないかと思えてならないのですけどね。

映画「逆転裁判」感想

ファイル 532-1.jpg

映画「逆転裁判」観に行ってきました。
2001年に発売されて以降シリーズを重ね、累計で400万本以上の売上を記録し、以後の法廷・弁護士ドラマにも影響を与えたと言われる、カプコンから発売された同名の法廷バトルゲームの実写化作品。
ちなみに原作ゲームは全て未プレイです(^^;;)。
Wikipediaで調べたところによると、映画のストーリーは原作ゲームの「1」をベースにしているみたいですね。

物語は何故か、霊媒師と思しき女性が、おどろおどろしく祈祷をしている場面から始まります。
自身に霊?を乗り移らせ、何かをしゃべらせようとするところで、舞台は急に切り替わり、主人公の新米弁護士・成歩堂龍一(なるほどうりゅういち)が弁護をしている法廷の場へと移ります。
成歩堂龍一は、とある殺人事件で自身の幼馴染である矢張政志(やはりまさし)にかけられた殺人容疑を晴らすべく、序審裁判で検事とのバトルを繰り広げていました。
序審裁判とは、起訴された被告が「有罪なのか無罪なのか」についてのみを、検事と弁護士による最長でも3日以内の直接対決で結審する序審と、有罪の場合のみ量刑などについての審議を行う本審に裁判過程を分ける制度を指し、原作ゲームおよび今作特有のオリジナルとなるシステムです。
何でも、増加する犯罪に対して迅速に対応できることを目的とした制度なのだとか。
その序審裁判で矢張政志の弁護を続ける成歩堂龍一は、しかし検事側の反撃で返答に窮してしまい、まさにギブアップ寸前にまで至ろうとしていました。
そこへ颯爽と登場し、被告の無罪を100%証明するだけの証拠を突きつけ、裁判の流れを逆転させたのは、成歩堂龍一の上司で良き理解者でもある綾里千尋(あやさとちひろ)でした。
結果、矢張政志は裁判官から見事に無罪を獲得することに成功します。

晴れて法廷から出てきた矢張政志は、無罪判決を獲得したお礼にと、綾里千尋に自作の「考える人」を模した時計型置物をプレゼントします。
この置物は頭の部分がスイッチになっており、スイッチを押すことで時刻を教えてくれるというシロモノでした。
困惑しながらも置物を受け取った綾里千尋はその後、どこかの資料室で資料を漁っている姿が映し出され、目的のブツらしきものを見つけて走り出しながら、「近いうちに大きな裁判をやることになるから明日の夜に来て欲しい」と成歩堂龍一に連絡します。
翌日、その呼び出しに応じて綾里千尋の事務所を訪ねた成歩堂龍一は、しかしそこで頭から血を流して死んでいる綾里千尋の撲殺体を発見することになってしまうのでした。
しばらく呆然としている中、まるでタイミングを図ったかのように事務所へやってきて成歩堂龍一に拳銃を向ける警官達。
成歩堂龍一はうろたえながらも「俺は犯人じゃない」と主張しますが、拳銃を突きつけている刑事は「お前が目的じゃない」と視線を別のところへと向けます。
そこで初めて成歩堂龍一は、遺体の近くでへたり込んでいた女性の存在に気づくのでした。
撲殺された綾里千尋は、手に持っていた紙に「マヨイ」という3文字のカタカナをダイイングメッセージとして残しており、かつへたり込んでいた女性の名前は綾里真宵(あやさとまよい)。
当然、彼女は事件の第一容疑者として警察に逮捕されてしまいます。
しかし成歩堂龍一は、無実を主張する綾里真宵の言を信じ、序審裁判での彼女の弁護を引き受けるのでした。
ところが、いざ法廷へと向かう成歩堂龍一は、自分と対決することになる検事を見て驚きの声を上げます。
それは矢張政志と同じ幼馴染で、かつては弁護士になるという将来の夢を語り合っていた御剣怜侍(みつるぎれいじ)だったのです。
御剣怜侍は、被告を有罪にするためならば手段を問わない、若いながらも敏腕検事としてその名を轟かせていました。
何故彼は、弁護士とは全くの正反対の検事になったのか?
疑問が尽きないまま、成歩堂龍一は綾里真宵の無罪を勝ち取るため、かつての幼馴染との直接対決の舞台に立つこととなるのですが……。

映画「逆転裁判」では、どう見てもギャグコメディを意図して製作されているとしか思えない演出が多々ありますね。
そもそも髪型と各主要登場人物の名前からしてギャグそのものですし(笑)。
主人公格である成歩堂(なるほどう)と矢張(やはり)以外にも、糸鋸(いとのこぎり)、大沢木(おおさわぎ)、狩魔(かるま)、生倉(なまくら)など、当て字以外の何物でもない苗字が続々と登場しますし。
髪型も静電気でも浴びているかのように横に突っ張っていたり、結い上げ過ぎて頭が伸びていたり、銀髪だったりと、とにかくあらゆる意味で特徴的なシロモノだったりします。
他にも、主人公が素っ頓狂な言動をカマしたり、それを受けて被告・検事・傍聴席の人間が一斉にズッこけるシーンがあったりと、コメディっぽい描写が満載です。
ただ、これらの描写は原作からの延長でもあるでしょうし、かつ原作では大いにウケたのでしょうけど、実写化されたものを観た限りでは、笑いよりもむしろ「寒い」と感じずにはいられなかったところですね。
笑いという点では、この間観賞した映画「ジョニー・イングリッシュ 気休めの報酬」の方がはるかに上手かったですし。
原作キャラクターの造形や描写を忠実に再現すること自体は悪いものではないでしょうが、映画「逆転裁判」の場合、それが実写化に合致したものだったのかはかなり微妙なところですね。

また、主人公が被告の無罪を立証するのに際し、検事から反論されると言葉に詰まったり返答に窮したりする描写が結構あるんですよね。
主人公は「新人の弁護士」という設定ですから、まだ弁護慣れしていないという事情もあるのでしょうけど、あまりにも頼りないイメージが前面に出ていました。
逆に決定的な証拠を突きつけて無罪を立証する場面では、ほとんどノリノリで弁術を繰り広げており、素晴らしく頼りになる弁護士であるかのように見えるんですよね。
この2つのギャップがなかなかに面白かったです。
しかし物語後半、検事側の反撃に窮するあまり、オウムのサユリさんを証人?として証言台に立たせた(設置した?)シーンなどは、さすがに「正気か?」と疑わざるをえないところでした。
証人どころか、そもそも「人」ですらないですし(爆)。
検事側も「証人としての適性を欠いている、というか適当すぎるだろ!」と吠えていましたが、思わず頷いてしまったものでした (^^;;)。
というか、よくオウムを証人(証鳥?)にすることを裁判官が認めましたね。
結果的には、そのオウムの囀りから事件のカギとなる意外かつ重要な事実が出てきたのですが、「結果良ければ全て良し」で片付く問題じゃないだろう、と。

ストーリー構成的に気になったところでは、作中で弁護側が被告の無罪を立証する際、「現状では被告が有罪なのか無罪なのか分からない」「被告には無罪の余地がある」という段階になってもなお、必死になって無罪を立証しようとしていたことですね。
実は実際の刑事裁判では、そういった段階にまで到達できれば、それは100%の「被告&弁護士の勝利」となります。
何故なら、裁判というのは本来「被告が有罪か無罪かを判断する場」でなければ「被告を有罪にしたり量刑を考えたりする場」でもなく「被告の有罪を立証しようとしている検察を裁く場」だからです。
検察が挙げている証拠が合法的に採取されたものなのか、検察が被告を有罪とする論拠は確かなものなのか、検察が出してきた証人は果たして本当のことを述べているのか……。
裁判とは、検察側が掲げる様々な証拠や証人の数々について上記のように審議する場なのであり、検察が被告の有罪を立証するためには、自分達の主張が100%全て正しいものであることを証明しなければならないのです。
裁判では「疑わしきは被告人の利益に」という言葉もあり、すくなくとも理念上では「被告が無罪になる余地は全くない」という状況にならないと被告は有罪になりません。
たとえ、検察側の主張が99.999…%と「限りなく100%に近い確率で正しい」ものであったとしても、それは「100%そのもの」ではないので、検察の主張には0.000…1%の穴があるということになり、それでは「検察は被告が100%有罪であることを立証できない」ことになってしまうのです。
当然、被告は裁判では無罪になります。
裁判がそのようなシステムになっているのは、検事が行政に属しており、裁判官は司法の一員としてのチェックを担うことでその暴走を防ぐという三権分立の理念に基づいているためで、そのため裁判官は公正ではあるべきだが中立であってはならず、あくまでも「被告の味方」でなければならないとされています。
よって、「現状では被告が有罪なのか無罪なのか分からない」という状況では、検察の主張には(無罪の余地があるだけでもダメなのに)50%もの大穴があることになり、弁護側はこの時点で被告の無罪を獲得することが可能となるのです。
この状況では、必死にならなければならないのはむしろ検事側でなければならないはずなのですが、作中ではむしろ検事側の方が余裕な態度を見せ、弁護側が追い詰められているような表情を見せているんですよね。
それは話が逆だろ、とは思わずにいられなかったのですが。

裁判で扱っている事件そのものはシリアスなもので、事件の真相もミステリー的な手法で解明されていくのですが、原作に似せようとする努力が一種のコメディっぽくなっているため、シリアス要素とコメディ要素の一体どちらを重視して映画を製作したのか、いささか判断に迷うところですね。
原作ゲームは2012年2月時点で4作目+αまで製作されているようですし、映画の興行次第では続編もありそうなのですが、果たしてどうなることやら。

映画「はやぶさ 遥かなる帰還」感想

ファイル 531-1.jpg

映画「はやぶさ 遥かなる帰還(以下「遥かなる帰還」)」観に行ってきました。
2003年5月9日に打ち上げられ、2010年6月13日にサンプルを地球に投下して消滅した、小惑星探査機「はやぶさ」とその開発・運用に関わった人々の実話を元に製作されたドラマ作品。

小惑星探査機「はやぶさ」に関する行程やトラブル発生などは、同じ「はやぶさ」をテーマに製作され、去年劇場公開された映画「はやぶさ/HAYABUSA(以下「HAYABUSA」)」とほぼ同じです。
ただ登場人物については、モデルとなった実在の人物はいるものの、「HAYABUSA」も「遥かなる帰還」も全く異なる架空の名前が使われているため、名前で登場人物の役割を照合しようとすると混乱を来たすかもしれません(^^;;)。
私も最初、「HAYABUSA」の人物設定をそのまま「遥かなる帰還」にも当てはめようとしてしまい、「アレ? こんな名前の人いたっけ?」と一瞬戸惑う羽目に(-_-;;)。
幸い、役職名の方はどちらもほぼそのままだったので、「ああ、この人物はあの役職を務めているのか」という形で、登場人物達が担っている立場や役割はすぐに頭の中に入ってきましたが。
ちなみに「HAYABUSA」および「遥かなる帰還」に共通で登場する、モデル元とおぼしき実在の人物および配役を演じたキャストは、私が調べた限りではだいたい以下のようになっているようですね↓

実在のモデル:川口淳一郎(「はやぶさ」のプロジェクトマネージャー)
HAYABUSA:川渕幸一(キャスト:佐野史郎)
遥かなる帰還:山口駿一郎(キャスト:渡辺謙)物語の主人公

実在のモデル:西山和孝(「はやぶさ」のイオンエンジン担当&運用スーパーバイザー)
HAYABUSA:平山孝行(キャスト:甲本雅裕)
遥かなる帰還:藤中仁志(キャスト:江口洋介)

実在のモデル:國中均(「はやぶさ」のイオンエンジン担当)
HAYABUSA:喜多修(キャスト:鶴見辰吾)
遥かなる帰還:藤中仁志(キャスト:江口洋介)

実在のモデル:堀内康夫(「はやぶさ」のイオンエンジン担当NEC)
遥かなる帰還:森内安夫(キャスト:吉岡秀隆)

実在のモデル:山田哲哉(「はやぶさ」のカプセル担当)
HAYABUSA:福本哲也(キャスト:マギー)
遥かなる帰還:鎌田悦也(キャスト:小澤征悦)

実在のモデル:的川秦宣(「はやぶさ」の広報担当)
HAYABUSA:的場秦弘(キャスト:西田敏行)
遥かなる帰還:丸川靖信(キャスト:藤竜也)

※取消線と青字部分は間違いとの指摘を受けましたので修正しております。

そして人間ドラマに関しては、当然のことながら「HAYABUSA」と「遥かなる帰還」でその見せ方も大きく異なっていますね。
女性平スタッフの視点および「はやぶさ君の冒険日誌」を用いることで、「子供にも理解させること」に重点を置いたストーリー進行だった「HAYABUSA」。
それに対して「遥かなる帰還」は、どちらかと言えば「大人が楽しむこと」を目的としたストーリー構成となっています。
小さな町工場を運営し、「はやぶさ」の試作品を製作した実績を持ちつつも、不況による経営悪化のために従業員が自主的に辞めていった東出機械の社長絡みのエピソードなんて、どう見ても子供向けではありませんし。
一方、人間ドラマ絡みでどちらにも共通して存在したエピソードとしては、「はやぶさ」のプロジェクトマネージャーが神社で「はやぶさの帰還」を祈願し、「はやぶさ」の管制室にお守りだかお札だかを祭るシーンですね。
このエピソードにある神社のモデルは岡山県の中和神社なのだそうで、「はやぶさ」のプロジェクトマネージャーだった川口淳一郎が2009年11月にこの神社を参拝していたことが、地元の地方紙である山陽新聞で報じられていたのだとか。
2012年3月に公開予定の、これまた「はやぶさ」をテーマとして扱っている映画「おかえり、はやぶさ」にも、このエピソードは普通に入っていそうですね(苦笑)。

今作のハイライトとしては、やはり主人公である山口駿一郎を演じた渡辺謙の演技が挙げられますね。
登場する場面の数々でやたらと貫禄がある演技を披露していましたし、「はやぶさ」が行方不明であることを理由に協力を打ち切ろうとしたアメリカのNASAに対して、流暢な英語で「貴国がそのような態度に出るならば、我が国も(はやぶさが持ち帰るであろう)サンプルの提供を拒否する」と堂々と反撃していた様は見事の一言に尽きました。
この辺りはやはり、ハリウッドでも活躍してきた渡辺謙ならではの演技だったでしょうね。
渡辺謙のファンであれば、今作を観に行く価値はあるのではないかと。

ただ個人的には、既に観賞済みだった「HAYABUSA」と「はやぶさ」絡みの描写で重複している部分が多々あったこともあり、楽しめる部分が半減していたのは惜しい部分ではありました。
「遥かなる帰還」自体が問題なのではなく、あまり期間を置かないうちに同じ主旨の映画を立て続けに観に行った私個人の事情ではあるのでしょうけど。
来月にはさらに3本目の「おかえり、はやぶさ」が出てきますし、全く同じ主旨の作品を複数、しかも立て続けに制作・公開するのは興行的にもどうかとは思わずにいられないですね。
最初からネタとして楽しむか、あえて3つ全て観賞してその違いを楽しむといった類の嗜好でも持っているのでなければ、映画を観るのは3本のうちの1本だけで充分なのではないかと。

2次創作「銀河英雄伝説~新たなる潮流」の主人公人物評

銀英伝の2次創作小説「銀河英雄伝説~新たなる潮流(エーリッヒ・ヴァレンシュタイン伝)」。
銀英伝の大ファンだったという日本人の佐伯隆二(25歳)が、何故か銀英伝世界に転生し、銀英伝の原作知識を持ったエーリッヒ・ヴァレンシュタインとして活躍するという、いわゆる「紺碧の艦隊」系架空戦記的な歴史改変を売りにした作品です。
小説一覧はこちら↓

銀河英雄伝説~新たなる潮流(エーリッヒ・ヴァレンシュタイン伝)
http://ncode.syosetu.com/n4887n/

本編は2012年2月11日現在、未だ未完結ながら総計239話にも及ぶ大長編で構成されており、またその内容や銀英伝原作に関する考察は、賛否いずれにせよ、銀英伝を詳細に読み込んだ上で練られていることがよく分かります。
銀英伝ファンか、あるいはタナウツの主旨に賛同できる人間であれば、まず読んでみて損はない2次創作作品であろうと思います。

ただ、人物評も人それぞれで千差万別であることを承知の上で言わせてもらうと、個人的にはこの作品の主人公であるエーリッヒ・ヴァレンシュタインという人物にはまるで共感も好感も抱けない、というのが正直なところだったりします。
そう思うようになった最初のきっかけは、作中におけるヴァレンシュタインの対人コミュニケーション能力がとにかく悪すぎることにあります。
作中のヴァレンシュタインは、その原作知識に基づいた事件や戦争の処理能力から、上司となる人物から何かと頼られることが多いのですが、それに対してヴァレンシュタインは表面的な礼儀作法すらもマトモにこなしている形跡がなく、不平満々な態度を相手の前で堂々と曝け出したりしています。
それどころか、平然と貴族に対して銃口を向けたり、後半になると門閥貴族の面前で堂々とゴールデンバウム体制批判まで展開したりしていますし。
銀英伝の原作設定から考えたら、不敬罪だの大逆罪だのといった罪を着せられて何度処刑台に直行してもおかしくないほどの言動を披露しているにもかかわらず、上司側はそれに対して特に問題視することもなくヴァレンシュタインを重用し続けるんですよね。
好き勝手に振る舞うヴァレンシュタインを受け入れられるほどに上司(リヒテンラーデ候や帝国軍3長官の面々)の人間性ができているのは、原作から乖離し過ぎているのみならず、ヴァレンシュタインの歴史改変とも全く無関係に発生しており、何故彼らの性格設定がこれほどまでに変わっているのかについての理由説明すらもありません。
まず、この構図自体が全く納得できませんでした。

次に引っかかったのは、ヴァレンシュタインがやたらと「奇麗事」にこだわる信念を披露する一方で、自身は謀略に邁進していたこと。
ヴァレンシュタインは、同盟軍に大打撃を与えることに成功した銀英伝原作1巻の同盟軍帝国領侵攻作戦における焦土戦略を「政治的なマイナス面の影響が大きすぎる」と採用せず(第99話)、またその後のリンチを使った原作の救国軍事会議クーデター絡みの謀略を「捕虜交換は紳士協定」だの「人道」だのといった言葉で否定しています(第136話)。
しかし、その前のイゼルローン要塞攻防戦でヤンに自分を消すための謀略を仕掛けられたことに激怒した挙句に同盟相手に謀略戦を展開し、原作同様の帝国領侵攻作戦を行わせたのは他ならぬヴァレンシュタイン自身ではなかったのでしょうか?
しかも第89話の最後では、「お前が俺を殺すために三百万の人間を殺すのなら俺がお前を殺すために三百万の人間を殺してもお前は文句を言えまい。お前が一番嫌がることをやってやる」などとヤンに対する個人的な怒りから大量の人間を殺す宣言までやらかす始末だったんですよね。
自分はこういうことを平気で明言した上に実行までしておきながら、同盟にクーデターを起こさせようとラインハルトが提言したら「紳士協定」だの「人道」だのを並べて拒否するって、それは自分だけを特別扱いしているタチの悪いダブルスタンダード以外の何物でもないでしょう。
謀略を否定するにせよ肯定するにせよ、自分と他人で一貫して同じ論理を適用するのであれば、まだヴァレンシュタインの言動は筋が通っていたのですが、これでは単に自己利益に基づいたその場その場の御都合主義でしかありません。
個人的な復讐心から千万単位の人間を殺すのは「紳士協定」だったり「人道」だったりするのでしょうかね、ヴァレンシュタインの論理では。

で、作中におけるヴァレンシュタインは、原作知識に基づいてラインハルトが抱える諸問題の数々をモノローグで指摘していたりします。
それ自体はタナウツでも過去に指摘されていたものもあって、それなりの説得力はあるのですが、上記2つの問題を鑑みると、さすがに「お前が言うな!」とは言いたくもなってくるんですよね。
ヴァレンシュタインはどう見てもラインハルトと同等、下手すればそれをも上回る人格破綻者ですし、それが周囲に受け入れられているのは、それが周囲にとっても利益をもたらしたことと、何よりも原作から著しく乖離している上にヴァレンシュタインの言動と歴史改変とは何の関係もない原作キャラクターの性格改変の産物によるものでしかないのです。
それに加えてヴァレンシュタインには、絶対的な預言書とすら言える原作知識という必勝の武器まで備わっています。
ここまでヴァレンシュタイン個人の才覚とは全く無縁なところで確立されている御都合主義的な絶対優位を前提に、それを持たない他者に、あたかも絶対に到達しえない高みから見下ろし神の鉄槌でも打ち下すかのような論評を繰り広げるヴァレンシュタインの態度は、どうにも受け入れ難いものがあります。
せめてあの上司達の設定が原作のままで、それをヴァレンシュタインが己の力と謀略と社交辞令の限りを尽くして心酔させていった、とでもいうのならばまだ共感もできたのですけどね。
自分の立場がどれほどまでに恵まれ、他者からは羨望されるものであるのか、ヴァレンシュタインはほんの少しでも考えたことがあるのでしょうか?
作中の言動を見ても、ひたすら被害妄想一歩手前レベルの被害者意識ばかりが前面に出ている始末ですし、自省という言葉ともかなり縁遠い性格をしていますからねぇ(-_-;;)。

また、これはずっと疑問に思っていたことなのですが、どうしてヴァレンシュタインは、自身の知識や戦略の出所、すなわち「自分が転生者であるという事実」を誰にも明かそうとしないのでしょうか?
全宇宙に向けてその事実を大々的に公表するわけはさすがにないにせよ、「これは信頼できる」と判断した1人~極少数の人間にその事実を伝えることで自分の利用価値をアピールしたり適切な助言をしたりする、という選択肢は、むしろない方が却って不自然なのではないかと思うのですが。
ヴァレンシュタインを取り巻く周囲の人間達は、ヴァレンシュタインの才覚に感嘆し頼りにする一方、その神がかり的な予見力に一種の恐怖心すら抱いていました。
ラインハルトやキルヒアイスなども、ヴァレンシュタインのその才覚に恐れを抱いたひとりでしたし、それを恐れるが故に彼らはヴァレンシュタインと反目する羽目になったわけです。
しかし、もしヴァレンシュタインが最初からラインハルトとキルヒアイスに「転生者である自分の事実」を教えていたら、すくなくとも2人はヴァレンシュタインに対して「得体の知れない恐怖」を抱く必要はなくなったはずですし、未来を知りえるヴァレンシュタインの力を利用することで利害関係が成立し、そこから相互信頼を得ることだってできた可能性もあります。
もちろん、最初は当然の反応として「こいつ気は確かか?」「正気か?」的な奇異な目で見られるでしょうが、本来誰も知りえない原作の事実などを当ててみせたり、原作知識に基づいた未来予測を披露したりすれば、相手だって最終的には納得せざるをえないでしょう。
現にヴァレンシュタインはそういう「神がかり的な予測」を作中で何度も披露しているのですから、なおのことその信憑性は高くなるはずです。
しかも未来を知るヴァレンシュタインは元々ラインハルトに仕えるつもりだったわけですからなおのこと、信頼の証として自身の秘密を打ち明けても良かったのではないかと思えてならないのですが。
ところがヴァレンシュタインは、作中の極々親しい人間に対してさえ、自身の転生の秘密を全く明かそうとしないどころか、そもそもほんの一瞬でも考えた形跡すらもないんですよね。
実はヴァレンシュタインって、一見外面の良い友好的な雰囲気に反して、自分以外の人間を一切信頼も信用もしてなどいないのではないか、とすら考えてしまったくらい、頑ななまでに秘密主義に徹し過ぎているのですが。
この辺りも、ヴァレンシュタインの対人コミュニケーション能力に致命的な問題があると私が考える理由のひとつだったりします。

ヴァレンシュタインを見ていると、どうも私は創竜伝の竜堂兄弟を想起せずにはいられないんですよね。
むやみやたらに自己防衛本能が強すぎる、他人を全く信用せず傍若無人に振る舞う、謀略を全否定して夢想的な3流ヒューマニズムを信奉する、全く同じことを自分がやるのはOKだが他人がするのはNGというダブルスタンダード。
全て竜堂兄弟が持っている人格的・思想的な欠陥ですからねぇ(苦笑)。
性格自体もあの兄弟4人のそれを全て合体させたかのようなシロモノですし。
まあ唯一、竜堂兄弟が持つ何よりも最悪の致命的欠陥である「反対しながら代案がない」とだけは無縁なのがせめてもの救いではあるのですが。

あと、エーリッヒ・ヴァレンシュタインの転生元である佐伯隆二という人物は、作中で披露している「原作知識」を見る限りでは、原作小説版ではなくアニメ版のファンだったみたいですね。
カストロプ星系の「アルテミスの首飾り」のエピソードやクラインゲルト子爵領の話なんて、当然のごとく原作小説版には全くありませんし。
そして、だからこそヴァレンシュタインは、作者である田中芳樹という存在に束縛されることなく、アレだけの原作考察ができるのではないかと。
ひょっとすると佐伯隆二は、銀英伝の原作者が田中芳樹であるという、ある意味最も基本中の基本である「原作知識」を知らなかった可能性すらありえます。
創竜伝やアルスラーン戦記などの他の田中作品は一切引き合いに出されていませんし、それどころか田中芳樹の「た」の字すらも全く出てこないのですから。
「絶対作者はそんな細かいことまで考えてねぇよ」と言いたくなるほどの内容ですからねぇ、ヴァレンシュタインの原作考察は。

かくのごとく、主人公には全く共感も好意も持ちようがないのですが、それも含めた総体としての「ひとつの物語」としては読み応えのある面白い作品ではあるので、今後とも注視していきたい2次創作シリーズではありますね。

アメリカが原発建設計画再開の審議を開始

アメリカが1979年のスリーマイル原発事故以来途絶えていた原発建設計画が、アメリカ原子力規制委員会(NRC)の公聴会で審議されるとのことです。

http://megalodon.jp/2012-0210-1925-37/sankei.jp.msn.com/world/news/120210/amr12021000560000-n1.htm
>  【ワシントン=柿内公輔】米原子力規制委員会(NRC)は9日、南部ジョージア州での新規原発の建設計画について公聴会で審議する。米メディアによると、計画は承認される公算が大きく、米国で30年以上途絶えている原発の建設が再開される見通しだ。
>
>  公聴会では5人の委員が建設の是非を投票で決めるが、反対意見は少ないという。NRCはすでに昨年12月、同州ボーグル原発で採用が決まった東芝子会社の米ウェスチングハウス・エレクトリック(WH)の新型原子炉を認可している。
>
>  1979年のスリーマイル島原発事故以来凍結されている米国の原発建設について、オバマ政権は再開する方針を示していた。NRCは福島第1原発事故を受けて米国内の原発の見直しも進めたが、「同様の事故が発生する可能性は低い」とし、原発の再開も支障はないと判断した。

福島第一原発の事故後という状況を受けてなお原発を再開する辺りに、アメリカの「国としての強さ」がある、というべきなのでしょうか?
たとえ利権が絡んでいるにせよ、状況が悪く反発の声も少なくないであろうことを堂々と主張できる、というのは国としての大きな強みです。
言論弾圧や「空気」による自粛や自主規制などに左右されることなく「不愉快な正論」が口にできるということなのですからね。
それに実際問題、原発がないと火力発電の代替で環境には優しくないし燃料費は膨れ上がるしで全く良いことがありません。
2011年の日本の貿易収支が31年ぶりに赤字になったのも、その原因は原発停止に伴う火力発電の代替のために、燃料の輸入が増大したという要素が大きく響いているわけですし。
脱原発派がよく主張している「電力は足りているから原発再稼動の必要なし」という論は、経済および経済的効率という視点が見事なまでに抜け落ちているとしか評しようがないのですが。

第一、過去にも述べているように、現状で原発を停めたところで安全性は1ミリグラムたりともも保証されることがないのですからねぇ。
稼動していたにもかかわらず津波に襲われても大丈夫だった女川原発の事例もあれば、他ならぬ福島第一原発で停止中だったのに爆発した4号炉の事例もあるわけで。
この両者の事例を踏まえれば、事故対策をより充実させて安全性を高めていくことは決して不可能ではありませんし、むしろそれをこそすぐにでも実施すべきことですらあるはずでしょう。
にもかかわらず、今現在の脱&反原発運動は、代替エネルギーの商用実用化を達成した後に原発を全廃するという具体的なプランがあるわけですらなく、ただただ目先の原発停止に血道を上げているだけでしかないのです。
震災まで「死に体」と化していた脱&反原発運動を煽っている面々は、それが自身の利益になるのですからここぞとばかりに確信的に煽っているのでしょうが、それに国政や経済までもが振り回されるというのではねぇ……。
原発停止で経済が圧迫されている実態が誰の目にも明らかになっているこの期に及んでもなお原発が再稼動できないのは、何か合理的な考えがあるからではなく、そう言わないと四方八方から責めまくられるという「空気」と、「とにかく心理的な安心感(という名の錯覚)を得たい」という強迫観念に支配されているからでしかありません。
経済か脱原発かの二者択一ではなく、その両方が取れる道をどうして模索しないのでしょうか?
別に両者は対立概念でも何でもないというのに、「どちらかを捨てないとならない」と思い込んでいる人間の何と多いことか……。

震災直後に発生した無意味な「自粛」の乱発といい、原発問題といい、人を悪戯に感情的にしてしまう「空気」というのは本当に有害無益なシロモノとしか言いようがありませんね。
日本が先の大東亜戦争に突入する羽目になったのも、朝日をはじめとするマスコミが作った「空気」のなせる業だったというのに、それでも相変わらず「空気」を信奉しているとしか思えない日本の風潮って、いいかげんどうにかならないものなのでしょうか。

ページ移動

  • ページ
  • 1
  • 2
  • 3

ユーティリティ

2012年02月

- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 - - -

検索

エントリー検索フォーム
キーワード

ページ

  • ページが登録されていません。

新着画像

新着トラックバック

Re:デスクトップパソコンの買い換え戦略 ハードウェア編
2024/11/19 from ヘッドレスト モニター 取り付け
Re:映画「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」感想
2014/11/27 from 黄昏のシネマハウス
Re:映画「プリンセストヨトミ」感想
2014/10/22 from とつぜんブログ
Re:映画「ひみつのアッコちゃん」感想
2014/10/19 from cinema-days 映画な日々
Re:映画「崖っぷちの男」感想
2014/10/13 from ピロEK脱オタ宣言!…ただし長期計画

Feed