アメリカが原発建設計画再開の審議を開始
アメリカが1979年のスリーマイル原発事故以来途絶えていた原発建設計画が、アメリカ原子力規制委員会(NRC)の公聴会で審議されるとのことです。
http://megalodon.jp/2012-0210-1925-37/sankei.jp.msn.com/world/news/120210/amr12021000560000-n1.htm
> 【ワシントン=柿内公輔】米原子力規制委員会(NRC)は9日、南部ジョージア州での新規原発の建設計画について公聴会で審議する。米メディアによると、計画は承認される公算が大きく、米国で30年以上途絶えている原発の建設が再開される見通しだ。
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> 公聴会では5人の委員が建設の是非を投票で決めるが、反対意見は少ないという。NRCはすでに昨年12月、同州ボーグル原発で採用が決まった東芝子会社の米ウェスチングハウス・エレクトリック(WH)の新型原子炉を認可している。
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> 1979年のスリーマイル島原発事故以来凍結されている米国の原発建設について、オバマ政権は再開する方針を示していた。NRCは福島第1原発事故を受けて米国内の原発の見直しも進めたが、「同様の事故が発生する可能性は低い」とし、原発の再開も支障はないと判断した。
福島第一原発の事故後という状況を受けてなお原発を再開する辺りに、アメリカの「国としての強さ」がある、というべきなのでしょうか?
たとえ利権が絡んでいるにせよ、状況が悪く反発の声も少なくないであろうことを堂々と主張できる、というのは国としての大きな強みです。
言論弾圧や「空気」による自粛や自主規制などに左右されることなく「不愉快な正論」が口にできるということなのですからね。
それに実際問題、原発がないと火力発電の代替で環境には優しくないし燃料費は膨れ上がるしで全く良いことがありません。
2011年の日本の貿易収支が31年ぶりに赤字になったのも、その原因は原発停止に伴う火力発電の代替のために、燃料の輸入が増大したという要素が大きく響いているわけですし。
脱原発派がよく主張している「電力は足りているから原発再稼動の必要なし」という論は、経済および経済的効率という視点が見事なまでに抜け落ちているとしか評しようがないのですが。
第一、過去にも述べているように、現状で原発を停めたところで安全性は1ミリグラムたりともも保証されることがないのですからねぇ。
稼動していたにもかかわらず津波に襲われても大丈夫だった女川原発の事例もあれば、他ならぬ福島第一原発で停止中だったのに爆発した4号炉の事例もあるわけで。
この両者の事例を踏まえれば、事故対策をより充実させて安全性を高めていくことは決して不可能ではありませんし、むしろそれをこそすぐにでも実施すべきことですらあるはずでしょう。
にもかかわらず、今現在の脱&反原発運動は、代替エネルギーの商用実用化を達成した後に原発を全廃するという具体的なプランがあるわけですらなく、ただただ目先の原発停止に血道を上げているだけでしかないのです。
震災まで「死に体」と化していた脱&反原発運動を煽っている面々は、それが自身の利益になるのですからここぞとばかりに確信的に煽っているのでしょうが、それに国政や経済までもが振り回されるというのではねぇ……。
原発停止で経済が圧迫されている実態が誰の目にも明らかになっているこの期に及んでもなお原発が再稼動できないのは、何か合理的な考えがあるからではなく、そう言わないと四方八方から責めまくられるという「空気」と、「とにかく心理的な安心感(という名の錯覚)を得たい」という強迫観念に支配されているからでしかありません。
経済か脱原発かの二者択一ではなく、その両方が取れる道をどうして模索しないのでしょうか?
別に両者は対立概念でも何でもないというのに、「どちらかを捨てないとならない」と思い込んでいる人間の何と多いことか……。
震災直後に発生した無意味な「自粛」の乱発といい、原発問題といい、人を悪戯に感情的にしてしまう「空気」というのは本当に有害無益なシロモノとしか言いようがありませんね。
日本が先の大東亜戦争に突入する羽目になったのも、朝日をはじめとするマスコミが作った「空気」のなせる業だったというのに、それでも相変わらず「空気」を信奉しているとしか思えない日本の風潮って、いいかげんどうにかならないものなのでしょうか。