映画「逆転裁判」感想
映画「逆転裁判」観に行ってきました。
2001年に発売されて以降シリーズを重ね、累計で400万本以上の売上を記録し、以後の法廷・弁護士ドラマにも影響を与えたと言われる、カプコンから発売された同名の法廷バトルゲームの実写化作品。
ちなみに原作ゲームは全て未プレイです(^^;;)。
Wikipediaで調べたところによると、映画のストーリーは原作ゲームの「1」をベースにしているみたいですね。
物語は何故か、霊媒師と思しき女性が、おどろおどろしく祈祷をしている場面から始まります。
自身に霊?を乗り移らせ、何かをしゃべらせようとするところで、舞台は急に切り替わり、主人公の新米弁護士・成歩堂龍一(なるほどうりゅういち)が弁護をしている法廷の場へと移ります。
成歩堂龍一は、とある殺人事件で自身の幼馴染である矢張政志(やはりまさし)にかけられた殺人容疑を晴らすべく、序審裁判で検事とのバトルを繰り広げていました。
序審裁判とは、起訴された被告が「有罪なのか無罪なのか」についてのみを、検事と弁護士による最長でも3日以内の直接対決で結審する序審と、有罪の場合のみ量刑などについての審議を行う本審に裁判過程を分ける制度を指し、原作ゲームおよび今作特有のオリジナルとなるシステムです。
何でも、増加する犯罪に対して迅速に対応できることを目的とした制度なのだとか。
その序審裁判で矢張政志の弁護を続ける成歩堂龍一は、しかし検事側の反撃で返答に窮してしまい、まさにギブアップ寸前にまで至ろうとしていました。
そこへ颯爽と登場し、被告の無罪を100%証明するだけの証拠を突きつけ、裁判の流れを逆転させたのは、成歩堂龍一の上司で良き理解者でもある綾里千尋(あやさとちひろ)でした。
結果、矢張政志は裁判官から見事に無罪を獲得することに成功します。
晴れて法廷から出てきた矢張政志は、無罪判決を獲得したお礼にと、綾里千尋に自作の「考える人」を模した時計型置物をプレゼントします。
この置物は頭の部分がスイッチになっており、スイッチを押すことで時刻を教えてくれるというシロモノでした。
困惑しながらも置物を受け取った綾里千尋はその後、どこかの資料室で資料を漁っている姿が映し出され、目的のブツらしきものを見つけて走り出しながら、「近いうちに大きな裁判をやることになるから明日の夜に来て欲しい」と成歩堂龍一に連絡します。
翌日、その呼び出しに応じて綾里千尋の事務所を訪ねた成歩堂龍一は、しかしそこで頭から血を流して死んでいる綾里千尋の撲殺体を発見することになってしまうのでした。
しばらく呆然としている中、まるでタイミングを図ったかのように事務所へやってきて成歩堂龍一に拳銃を向ける警官達。
成歩堂龍一はうろたえながらも「俺は犯人じゃない」と主張しますが、拳銃を突きつけている刑事は「お前が目的じゃない」と視線を別のところへと向けます。
そこで初めて成歩堂龍一は、遺体の近くでへたり込んでいた女性の存在に気づくのでした。
撲殺された綾里千尋は、手に持っていた紙に「マヨイ」という3文字のカタカナをダイイングメッセージとして残しており、かつへたり込んでいた女性の名前は綾里真宵(あやさとまよい)。
当然、彼女は事件の第一容疑者として警察に逮捕されてしまいます。
しかし成歩堂龍一は、無実を主張する綾里真宵の言を信じ、序審裁判での彼女の弁護を引き受けるのでした。
ところが、いざ法廷へと向かう成歩堂龍一は、自分と対決することになる検事を見て驚きの声を上げます。
それは矢張政志と同じ幼馴染で、かつては弁護士になるという将来の夢を語り合っていた御剣怜侍(みつるぎれいじ)だったのです。
御剣怜侍は、被告を有罪にするためならば手段を問わない、若いながらも敏腕検事としてその名を轟かせていました。
何故彼は、弁護士とは全くの正反対の検事になったのか?
疑問が尽きないまま、成歩堂龍一は綾里真宵の無罪を勝ち取るため、かつての幼馴染との直接対決の舞台に立つこととなるのですが……。
映画「逆転裁判」では、どう見てもギャグコメディを意図して製作されているとしか思えない演出が多々ありますね。
そもそも髪型と各主要登場人物の名前からしてギャグそのものですし(笑)。
主人公格である成歩堂(なるほどう)と矢張(やはり)以外にも、糸鋸(いとのこぎり)、大沢木(おおさわぎ)、狩魔(かるま)、生倉(なまくら)など、当て字以外の何物でもない苗字が続々と登場しますし。
髪型も静電気でも浴びているかのように横に突っ張っていたり、結い上げ過ぎて頭が伸びていたり、銀髪だったりと、とにかくあらゆる意味で特徴的なシロモノだったりします。
他にも、主人公が素っ頓狂な言動をカマしたり、それを受けて被告・検事・傍聴席の人間が一斉にズッこけるシーンがあったりと、コメディっぽい描写が満載です。
ただ、これらの描写は原作からの延長でもあるでしょうし、かつ原作では大いにウケたのでしょうけど、実写化されたものを観た限りでは、笑いよりもむしろ「寒い」と感じずにはいられなかったところですね。
笑いという点では、この間観賞した映画「ジョニー・イングリッシュ 気休めの報酬」の方がはるかに上手かったですし。
原作キャラクターの造形や描写を忠実に再現すること自体は悪いものではないでしょうが、映画「逆転裁判」の場合、それが実写化に合致したものだったのかはかなり微妙なところですね。
また、主人公が被告の無罪を立証するのに際し、検事から反論されると言葉に詰まったり返答に窮したりする描写が結構あるんですよね。
主人公は「新人の弁護士」という設定ですから、まだ弁護慣れしていないという事情もあるのでしょうけど、あまりにも頼りないイメージが前面に出ていました。
逆に決定的な証拠を突きつけて無罪を立証する場面では、ほとんどノリノリで弁術を繰り広げており、素晴らしく頼りになる弁護士であるかのように見えるんですよね。
この2つのギャップがなかなかに面白かったです。
しかし物語後半、検事側の反撃に窮するあまり、オウムのサユリさんを証人?として証言台に立たせた(設置した?)シーンなどは、さすがに「正気か?」と疑わざるをえないところでした。
証人どころか、そもそも「人」ですらないですし(爆)。
検事側も「証人としての適性を欠いている、というか適当すぎるだろ!」と吠えていましたが、思わず頷いてしまったものでした (^^;;)。
というか、よくオウムを証人(証鳥?)にすることを裁判官が認めましたね。
結果的には、そのオウムの囀りから事件のカギとなる意外かつ重要な事実が出てきたのですが、「結果良ければ全て良し」で片付く問題じゃないだろう、と。
ストーリー構成的に気になったところでは、作中で弁護側が被告の無罪を立証する際、「現状では被告が有罪なのか無罪なのか分からない」「被告には無罪の余地がある」という段階になってもなお、必死になって無罪を立証しようとしていたことですね。
実は実際の刑事裁判では、そういった段階にまで到達できれば、それは100%の「被告&弁護士の勝利」となります。
何故なら、裁判というのは本来「被告が有罪か無罪かを判断する場」でなければ「被告を有罪にしたり量刑を考えたりする場」でもなく「被告の有罪を立証しようとしている検察を裁く場」だからです。
検察が挙げている証拠が合法的に採取されたものなのか、検察が被告を有罪とする論拠は確かなものなのか、検察が出してきた証人は果たして本当のことを述べているのか……。
裁判とは、検察側が掲げる様々な証拠や証人の数々について上記のように審議する場なのであり、検察が被告の有罪を立証するためには、自分達の主張が100%全て正しいものであることを証明しなければならないのです。
裁判では「疑わしきは被告人の利益に」という言葉もあり、すくなくとも理念上では「被告が無罪になる余地は全くない」という状況にならないと被告は有罪になりません。
たとえ、検察側の主張が99.999…%と「限りなく100%に近い確率で正しい」ものであったとしても、それは「100%そのもの」ではないので、検察の主張には0.000…1%の穴があるということになり、それでは「検察は被告が100%有罪であることを立証できない」ことになってしまうのです。
当然、被告は裁判では無罪になります。
裁判がそのようなシステムになっているのは、検事が行政に属しており、裁判官は司法の一員としてのチェックを担うことでその暴走を防ぐという三権分立の理念に基づいているためで、そのため裁判官は公正ではあるべきだが中立であってはならず、あくまでも「被告の味方」でなければならないとされています。
よって、「現状では被告が有罪なのか無罪なのか分からない」という状況では、検察の主張には(無罪の余地があるだけでもダメなのに)50%もの大穴があることになり、弁護側はこの時点で被告の無罪を獲得することが可能となるのです。
この状況では、必死にならなければならないのはむしろ検事側でなければならないはずなのですが、作中ではむしろ検事側の方が余裕な態度を見せ、弁護側が追い詰められているような表情を見せているんですよね。
それは話が逆だろ、とは思わずにいられなかったのですが。
裁判で扱っている事件そのものはシリアスなもので、事件の真相もミステリー的な手法で解明されていくのですが、原作に似せようとする努力が一種のコメディっぽくなっているため、シリアス要素とコメディ要素の一体どちらを重視して映画を製作したのか、いささか判断に迷うところですね。
原作ゲームは2012年2月時点で4作目+αまで製作されているようですし、映画の興行次第では続編もありそうなのですが、果たしてどうなることやら。