原発再稼動問題における「お前が原発に行け」論の破綻
原発11基を抱える関西電力が、大飯原発3、4号機の再稼働が認められた場合でも、今年の夏に節電要請を行う方針であることを明らかにしました。
http://www.asahi.com/kansai/sumai/news/OSK201204100073.html
> 関西電力は10日、今夏も管内で節電を要請する方針を明らかにした。現在停止中の大飯原発の3、4号機が再稼働した場合でも、今夏の電力不足は避けられないとの考えからだ。関電は昨夏も前年比で15%の、今冬も同10%以上の節電をそれぞれ要請していた。
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> 同日、大阪府市の「エネルギー戦略会議」に出席した関電の岩根茂樹副社長は記者団に対し、「基本的にいまの段階の(電力)需給で見れば、節電要請をしないケースはほとんどない」と指摘。「仮に(大飯3、4号機が)稼働してもそういうことになる」と述べた。(溝呂木佐季)
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/environment/555680/
> 藤村修官房長官は10日の閣議後の記者会見で、関西電力大飯原発が再稼働せず、電力が不足する場合、「節電をお願いすることになるが、非常に厳しい状況ではないか」と述べ、計画的な節電を要請するとの見通しを示した。
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> 関電の岩根茂樹副社長も同日、今夏の電力需給について「今の段階で見れば節電要請をしないケースはほとんどない」と述べ、節電要請に踏み切る可能性を示唆した。大阪府市統合本部のエネルギー戦略会議に出席後、記者団に答えた。
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> 政府は9日、原発が再稼働せずに2010年並みの猛暑となった場合に関電管内で今夏、19.6%の電力不足となるとの電力需給見通しを示した。官房長官は「大変な数字」とした上で「供給が本当にもうないのか、節電でまだできるのではないかということを詰めなくてはいけない」と指摘した。
元々、かろうじて原発が稼働していた去年よりも、管内の原発が全て停止した今年の方がむしろ状況は悪化しているのですから、節電要請もある意味当然の帰結でしかないでしょう。
こんなことは、原発が次々と停止を余儀なくされてきた去年の段階から既に予測されていたことでしかないのですが、そのような事態に電力会社を追い込んだ反原発という名の宗教団体は、この期に及んでも「原発再稼働反対! 電力も足りているのだから節電にも反対!」と絶叫しまくるのでしょうね。
原発なき電力供給が電力会社にとって如何に大きな負担となるのか、それが回り回って結局国民の負担になることを、相変わらず理解する気配も全くありませんし、そればかりか、目先の原発停止にすら満足せず「全原発の廃炉に向けてひたすら邁進しなければならない」などという、戦前の一億総玉砕レベルの精神論的スローガンすら堂々と掲げる始末なのですから。
よほどの原発アレルギーなのか、それとも何もかも承知の上で「日本の経済的衰退」を待望して確信犯で述べているのか、いずれにしても傍迷惑な話でしかないのですが。
そんな反原発原理主義者が、原発再稼働を主張・容認する人達に対して、まるで何かのテンプレートであるかのごとく何度も使い回される主張があります。
それは「そんなに原発を動かしたいのであれば、言い出しっぺのお前が原発のすぐ近くに住んでみろ」というもの。
タナウツではもはやお馴染みの「お前が戦争に行け」論の原発バージョンといったところですね。
というか、当の田中芳樹御大からして、まさにそういう主張を開陳していた過去がありますし↓
創竜伝4巻 P38下段~P39上段
<一九八九年、日本の科学技術庁は、「原子力発電反対運動に対抗するための宣伝工作費用」として、10億円という巨額の予算を獲得した。これは前年度予算の五倍である。つまり、「原子力発電は安全である」ということを新聞、雑誌、TVで宣伝するわけで、協力してくれる文化人には多額の報酬が支払われる。一部の文化人にとって、原発賛成はいい商売になるのだ。
なお、電力会社によっては、女子社員を原子炉近くの管理区域まで行かせて、原子力発電の安全性をPRすることがある。こういうのを、昔からの日本語で「猿芝居」という。上役の命令にさからえない弱い立場の社員に、そんなことをさせるのは卑劣というものだ。電力会社の社員が、原子力発電所の敷地内に社宅を建てて、家族といっしょにそこに住みついたら、「原子力発電所は危険だ」などという者は、ひとりもいなくなるだろう。何億円も宣伝費をかけるよりも、よほど説得力があるというものである。できないのは不思議だ。彼らは「日本の原子力発電所は絶対に安全だ」と主張しているのだから、そのていどのことができないはずはない。もっと辛辣に、「東京の都心部に原発をたてたらどうだ、絶対安全なのなら」と主張する人もいるのだから。>
しかし、この論理の元祖たる「お前が戦争に行け」論からして破綻が明らかなのに、その改変バージョンでしかない「お前が原発に行け」論が成り立つわけもありません。
そもそも、原発再稼働を掲げる人達だって、別に「原発は100%安全だ!」と述べているわけではなく、安全対策について万全を期すよう主張する人がほとんどでしょう。
その上で「原発を再稼働しないと経済に悪影響がある」と言っているのですから、それに対して反論するのであれば、「原発がなくても【経済的に】やっていける」というものでなくては本来ならないはずです。
よって、この時点で「お前が原発に行け」論は単なる論点そらしにしかなっておらず、何ら反論になっていないのです。
そしてもうひとつ問題なのは、反原発が結局のところ国民に負担をかけることを強要するスローガンになっていることです。
原発再稼働の本質は経済問題、ひいては国民生活に直結する事案でもあるのに、それを無視して反原発を押しつける行為は、結果として「国民に不自由を強要する」ということにならざるをえないのですから。
そうなると、実は原発再稼働側の人間こそが「そんなに原発再稼働に反対するのならば、自分達から率先して電気を使った生活を捨ててくれ」「原発が停止した分の経済的損失を全額補填してくれ」という主張を、逆に反原発派に対して主張できてしまうわけです。
もちろん、そう主張されれば反原発派の人達はこう反論せざるをえないでしょう。
「主張の正しさと行動には何の相関関係もない」
「電力会社を批判する際には、電力会社の電気を使ってはいけないとでも言うのか!?」
と。
もちろん、その反論は全くもって正しいのですが、しかしそれならば、反原発派が展開している「お前が原発に行け」論もまた同じ論理で反論できるものでしかないんですよね。
戦争や原発に限らず、ちょっと視点と角度を変えてしまえば何にでも適用できてしまう「お前が○○に行け」論は、結局あまり意味がない論理でしかないということです。
しかし、この手の論理を主張する人達は、その矛盾に全く気づかないのか「自分達だけは特別」とでも考えているのでしょうかねぇ。
田中芳樹御大なんて、銀英伝の頃から既に30年近くも同じ論理を使い回し続けているのですし。
自分達自身に「お前が○○に行け」論が跳ね返されてきた時、彼らは一体どのような反応を見せることになるのでしょうか?