映画「スープ ~生まれ変わりの物語~」感想
映画「スープ ~生まれ変わりの物語~」観に行ってきました。
森田健のノンフィクション「生まれ変わりの村」をモチーフにし、転生や死生観を前面に押し出しつつ、父と娘の心温まる家族のあり方にスポットを当てた人間ドラマ作品。
今作は、熊本県では熊本市中央区大江にある熊本シネプレックス1箇所のみでの上映だったため、そこまで足を運んでの観賞となりました。
冒頭のシーンでは、ウェデイングドレスに身を包んだひとりの女性が立っている教会?の扉を、花束を抱えたひとりの学生らしき人物が開ける光景が映し出されます。
このシーンは物語終盤の流れと繋がることになるのですが、この時点ではさっさと次の舞台に移ることになります。
次の舞台では、娘のことを気にかける父親と、父親に対し無愛想かつ邪険に振る舞う娘とのすれ違いが描かれます。
何でも、父親こと今作の主人公である渋谷健一は、2年前に妻と離婚して以降、すっかり無気力になってしまい、娘こと渋谷美加との関係も悪化の一途を辿っているのだとか。
その無気力ぶりは仕事にも多大な悪影響を及ぼしており、ついに彼は唯一自分に任されていた仕事を、自分より若い女性社員の綾瀬由美に奪われるという事態に直面してしまいます。
仕事の引き継ぎ?の打ち合わせでも、綾瀬由美に頭ごなしに注意される渋谷健一は、その日ちょうど15歳の誕生日を迎えることになっていた娘のことがとにかく気がかり。
しかし、当の渋谷美加は誕生日当日、友人に唆されて店で万引きを働くという所業をやらかし、店から父親に連絡が行くという事態に直面していたのでした。
娘のために花屋で花束を購入していたところを呼び出された渋谷健一は、店の女主人に対してひたすら平謝りを繰り返し、何とか許しを貰うことに成功します。
しかし、渋谷美加はそのことに感謝するどころか、父親の態度に不満を抱き、昔の離婚話を蒸し返して父親を論難する始末。
娘の無反省よりも離婚話についカッとなってしまった渋谷健一は、無意識の行動だったのか、娘の頬をひっぱたいてしまいます。
渋谷健一は部屋に閉じこもってしまった娘と和解しようとアプローチを行うのですが、娘は全く取り合うことなく、また渋谷健一自身も明日は綾瀬由美との出張が控えていることもあり、出張から帰った後に和解するつもりでその場はあっさりと引き下がるのでした。
まさか、これが父と娘の最期の別れになるとも知らずに……。
翌日。
綾瀬由美と共に出張先の仕事場で仕事の引き継ぎを行った渋谷健一は、一段落した後で別の場所へと向かうべく、信号が青に変わるのを待っていました。
昨日娘を叩いたことのショックが尾を引いていた渋谷健一の愚痴に対し、「そりゃマズいでしょう」と娘の肩を持ちまくる綾瀬由美。
しかし、そんな2人の頭上で天候が突如急変。
そして、突如空を覆った雷雲から発せられた一閃の落雷が、信号待ちをしていた2人を直撃してしまうのでした。
それによって当然意識を失った渋谷健一は、しかし綾瀬由美の声によって目を覚まします。
そこで渋谷健一が見たものは、暗くなった無人の街中で雪が舞う光景でした。
何故かペンギンが街中を歩いていたりしますし(苦笑)。
街の様子に不審を抱いた2人は、劇場らしき建物の中に入り、自分達と同じようにわけが分からないまま集まっている集団を見つけ出します。
何が起こったのか分からない者同士で言い合いが発生するのを見計らったように現れた、赤い服を着た訳知り顔の女性。
彼女は皆を劇場へ導き、そこで説明役の男と鉢合わせます。
そこでその男は、集まっている皆が既に死んでいること、ここが実はあの世であること、そしていずれは転生(生まれ変わり)が行われることを解説するのでした。
しかし渋谷健一は、娘と再会したい一身で、あの世から脱出する方法を模索することを決意するのでした。
自分の死を素直に受け入れた綾瀬由美と半ばなりゆきで一緒に行動しつつ、彼は現世に戻るべく動き回ることになるのですが……。
映画「スープ ~生まれ変わりの物語~」における「あの世」は、一般的にイメージされる「あの世」とはかなり様相が異なっています。
今作の「あの世」はあくまでも「前世の死から来世に生まれ変わるまでの待機所」的なものとなっており、かつ地獄のような阿鼻叫喚の拷問や天国のごとき王道楽土があるわけでもなく、酒場やディスコや焼肉屋があったり、人々が娯楽に興じていたりと、現世と何も変わるところがありません。
現世と違うところがあるのは、世界のあり方ではなく人間の方で、容姿が死んだ当時の頃から不変であることと死なないことくらいなものでしょうか。
この世界から脱出し、生まれ変わるためには、決められた配給所で配給される「スープ」を飲む必要があります。
ただし、この「スープ」を飲んだ者は、現世に生まれ変わることと引き換えに前世の全ての記憶を失うことになります。
現世の人間が前世の記憶を持っていないのはこのためであるというわけです。
また、「スープ」を飲みさえすればただちに転生が行われるというわけでもないようで、「あの世」の人達の中には、「スープ」を飲んでから何年経っても転生が行われないというケースも存在していたりします。
作中の描写を見る限り、この転生の可否というのは「前世での未練」の有無が関わっているのではないかと考えられます。
後述する石田努の母親などは、息子との再会がきっかけとなって消滅していったみたいでしたし。
しかし、今作の主人公である渋谷健一は、あくまでも「父親としての記憶を持った状態で娘と再会する」ということにとにかく拘りました。
そのため、「スープを飲むことなく、かつ現世に記憶を残したまま転生する方法」を、渋谷健一は模索することになるわけです。
また今作では、主人公の取引先の社長として登場する石田努がかなりイイ味を出していますね。
演じる俳優が「遠山の金さん」の松方弘樹ならば、性格設定も言動も遊び人バージョンの「遠山の金さん」そのものでしたし(笑)。
やたらとあの世の遊び場に精通していて、女を連れてディスコで踊り明かしたり、プールで泳ぎ回ったりと、どう見ても「あの世の人生」を謳歌しているようにしか思えないところが何とも言えないところで(苦笑)。
しかし、そんな彼にも「あの世」に留まっている一応の目的はあって、それは8歳の幼い頃に死に別れた母親を探しているというものでした。
そして、渋谷健一と綾瀬由美を連れて立ち寄った焼肉屋で、石田努は死んだ母親と偶然にも再会することになります。
石田努は半年前に65歳で糖尿病によって「あの世」にやってきたとのことだったため、若い母親に年老いた息子が抱きついて「おかあちゃん」と泣き縋るという、何ともシュールな光景が現出することになるわけですが(^_^;;)。
そして再会後に「前世の未練」がなくなったからなのか消滅していった母親を見送った後、彼は(原因不明の現象でスープを飲まず記憶を残したまま)現世に転生することになるのですが、転生後の彼は何と「美崎瞳」という【女】として生を受けることになるんですよね。
同じく「三上直行」として転生した主人公との会話で、「女の身体って大変なことがよく分かった」とか「(初体験は済ませたのかという質問に対して)女の身体の方が気持ち良いからな」とかいった生々しい発言まで披露していましたし。
主人公が転生した後も「共通の事情を知るが故の良き相談役」的な役割を担っていましたし、彼は今作の物語における重要な潤滑油的存在となっていますね。
実際、石田努がいない場面では、見ているだけで暗くなりそうなエピソードが延々と続いていたりしますし。
松方弘樹のファンであれば必見の映画と言えますね。
作中の話で少し疑問に思ったのは、「スープ」を飲んで転生後に記憶を無くした人間の性格がそのままである、という設定ですね。
渋谷健一は転生後に「スープ」を飲んで綾瀬由美の転生した存在「西村千秋」と出会うことになるのですが、彼は「綾瀬由美と性格や言動がよく似ている」という理由から、西村千秋が綾瀬由美の転生であると喝破しています。
しかし、性格と記憶というのは実は極めて密接した関係にあり、「記憶を元に性格が作られる」という要素が多分に含まれているので、記憶を無くした人間の性格が記憶を無くす前の人間と同じであることはまずありえません。
実際、記憶喪失前と後の人間の性格を比べるだけでも、かなり違うところが多々あったりするのですし。
「記憶が無くなる」というのは何も「知識や記録が無くなる」という表層的な事象だけを指すのではなく、それまでの人格・性格・思想、さらにはちょっとしたクセの類に至るまでの一切合財全てを無くすことをも意味しており、すなわちそれは「自分の存在そのものが消える」ことにも繋がるのです。
現実世界の記憶喪失などは、心因性な要因で発症していることが多く、まだ脳内にデータが残っている状態であることも少なくないので、何らかのきっかけで記憶が戻るケースも起こりえるわけですが、作中のような「スープを飲んでの転生」では当然そんなことが発生しえるわけもないのですし。
「スープ」を飲む前の綾瀬由美の言動を見ても、「記憶を無くす=知識や記録が無くなる」程度の認識しか垣間見られず、「自分の存在そのものが消える」とまでは全く考えてもいないところが少々気になるところではあるんですよね。
西村千秋の性格が綾瀬由美のそれと同じだというのであれば、それは西村千秋がこれまで歩んできた人生が綾瀬由美のそれと大同小異なものであったか、もしくは単なる偶然の産物によるものとしか解釈しようがないところなのですが。
一方、作中で「記憶を失う=自分の存在そのものが消える」という認識を正確に抱いているのは、「あの世」で渋谷健一に「記憶を持ったまま転生する裏技」を教えた近藤一ですね。
近藤一は「裏技」を駆使して3回も記憶を保ったまま転生しているのですが、彼は「親しい人間がいない世界に転生して一体何の意味があるんだ」と渋谷健一を止めようとするんですよね。
確かに、前世の記憶を持ったまま生まれ変わった場合、生まれ変わった際の両親を「世話になる&なった人」としてはともかく「実の親」として認めるのは非常に難しいものがありますし、それまでの親友に再会しても全くの赤の他人状態なわけですから、そんな辛酸を舐めてきた彼が転生を否定する心情も分からなくはありません。
いくら苦労して新しい人間関係を作っても、死および転生と同時に全てがリセットされ、しかもその記憶を持ったまま転生し続けるというのは、ある種の人間にとっては地獄よりも辛い人生なのかもしれません。
だからこそ彼は、次は「スープ」を飲んで記憶を消すことで自分の存在をも抹消し、全く新しい人生を生きることを決意したのでしょう。
前世の記憶や知識を保ったまま生まれ変わることができれば何でもできるじゃないか、とは誰もが考えるところですし、作中でもそういう考え方が披露されていたりもするのですが、この「転生の短所または問題点」をも上手く表現しているのが今作の特徴でもありますね。
如何にも地味な映画タイトルと予告編&映画紹介に反して、意外に面白く色々と考えさせられた作品でしたね。
若年層はともかく、中高年層以上には結構イチオシな映画であると言えそうです。