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2012年10月の記事は以下のとおりです。

既存プリウスへの100V電源オプションの後付は不可との返答

2012年10月22日より販売され始めた、家電にも対応した100V電源オプションが搭載可能なプリウスの登場。
この100V電源オプションを、これまで販売されてきた既存のプリウスにも後付で搭載できるのではないか、と考えたプリウス所有者は多いのではないでしょうか?
かくいう私自身もまさにそう考えたひとりで、このオプションの後付が可能なのであればカネを払ってでもつけてみたいと、1週間ほど前にも当ブログでネタにしていたりしたものでした。

で、この間の週末にちょうど機会があったので、既存プリウスに後付装備が可能なのかをトヨタに問い合わせてみたんですよね。
しかし、それに対する返答は私が期待していたものではなく、残念ながら現時点では100V電源搭載は最新版プリウス専用のオプションでしかないとのこと。
既存プリウスの所有者としては、何とも残念な話としか言いようがないですね(T_T)。
しかも私の場合、9月中に締め切られる予定だったエコカー補助金を当てにして急いでプリウスを購入したのが、この件に関しては結果として仇になった形になってしまったのですからなおのこと(-_-;;)。
まあ、エコカー補助金を当て込んだ購入計画自体は決して間違っていたわけではないのですが。
ただ今後、既存のプリウスにも対応した100V電源オプションが出ることはあるかもしれない、という話ではあったので、それが出てくることを期待したいものです。

プリウスの100V電源オプションは、震災時に非常用電源として活用されたのが好評だったことから,非常時の際の電源としてのみ持て囃されている感があります。
普段から使用している車が非常時にも別の用途で使用可能、というのは経済的にも効率が良いですし、「通常は放置されているために非常時に使えなくなってしまっている」という弊害とも無縁でいることができるのですから、これはこれで間違った宣伝というわけでもありません。
災害や非常時といっても、想定されるべきものは何も東日本大震災や大津波などに限定されるものでもなく、どちらかと言えば一時的な停電や避難などがメインになるのでしょうし。
しかし「平時の使用用途」という観点から見ると、100V電源オプションはむしろ娯楽用としての使い道の方が大きかったりするんですよね。
キャンプや車中泊時等における炊事その他の電源供給の他、ノートパソコンとのコンボによる長時間のネットその他の娯楽や仕事など、通常時の走行の際にも色々な使用用途が考えられるのですから。
長距離移動の際には、缶ジュースやペットボトルを1~2本程度冷凍可能な小型冷蔵庫をクルマに搭載して移動するというのも手ですし。
何より100V電源オプションは、私が理想像として描いている「寝床を搭載した普通車の疑似キャンピングカー構想」を大きく手助けしてくれるものにもなりえるのですから、私としては夢踊るものがあったりします。
それだけに、一部改良前の既存プリウスに100V電源オプションが後付装備できないというのは、何とも歯痒い限りと言わざるをえないですね。
当面は、新しいオプションの登場を待つか、数年後にまた車を買い替える際の課題とするしかなさそうです(T_T)。

震災の影響もあり、100V電源搭載車は今後ハイブリッド車の更なる普及と共に増えていきそうな気配ではあります。
需要は意外に大きいようにも思えるのですが、100V電源オプションの動向は今後一体どうなっていくのか、注意して見守っていく必要があるでしょうね。

スーパーマンことクラーク・ケントを論う朝日新聞のエンタメ以下な体質

数日前の話になるのですが、朝日新聞2012年10月26日付天声人語が、アメコミの人気キャラクターであるスーパーマンことクラーク・ケントを論ってます。
その発端は、クラーク・ケントが最新コミックの中で、初登場以来一貫して勤務し続けてきた新聞社を退社する事実が明らかになったことにあります↓

http://sankei.jp.msn.com/world/news/121023/amr12102319560005-n1.htm
>  米コミックや映画でおなじみの「スーパーマン」ことクラーク・ケントが、勤務先の新聞社「デーリー・プラネット」を辞めることになった。24日発売のコミック最新号で、同僚の前で辞職する。作者のスコット・ロブデル氏がUSAトゥデー紙に明らかにした。
>
>  スーパーマンは、1938年にコミックとして初登場。ケントは同紙記者として描かれてきた。
辞職のシーンでは「ジャーナリズムがエンターテインメントになってしまった」と批判している。
>
>  ロブデル氏らは今後、ケントが新聞記者より「現代的なジャーナリズムの仕事」に就き、「ありのままの真実」を発信するとの筋書きも検討しているという。(共同)

これに対し、件の天声人語が以下のように取り上げたわけです↓

http://digital.asahi.com/articles/TKY201210250715.html(リンク先は有料会員のみ閲覧可)
>  華が足りないのか、新聞記者が主役の活劇は少ない。ささやかな誇りはアメリカンヒーローの重鎮、スーパーマンである。仮の姿のクラーク・ケントはデイリー・プラネット紙記者。編集局からの「出動」も多い▼その人が新聞社を辞めるという悲報にうろたえた。おととい米国で発売された新作で、上役に「スクープが少ない」と叱られ、こう息巻いて職を辞したそうだ。「新聞はもはや、ジャーナリズムではなく娯楽になり下がった」▼作者によると、退社後は「現代的なジャーナリスト」として独立し、インターネットでの発信に挑むらしい。「新聞で人助け」とか言っていたのに、そりゃないぜクラーク▼1938年に登場した正義の異星人。一貫して新聞記者の設定で、作者が代わっても勤め先は同じだった。「勤続70年」の転職である。同業の目には無謀と映るし、ひがみ半分、いわば副業だけに気楽なもんだとも思う娯楽だと嘆いたのは場の勢いだろうが、新聞の暗中模索は米国に限らない。メールも携帯小説も同じ文字文化だから、課題は活字離れではなく、紙離れだろう。小紙を含め、有料の電子版が競う世だ。空さえ飛べる男が時流に乗るのは道理かもしれない▼記者としての彼の難は、スーパーマンが降臨するほどの修羅場で「突然いなくなる」ことだった。体が一つしかないのは当方も同じ、あれもこれもの器用さは持ち合わせない。ひそかな自慢が業界を去っても、新聞という地味な人助けにこだわりたい。

クラーク・ケントの新聞記者という職が「副業」って、そりゃないぜ朝日新聞(笑)。
スーパーマンは別に人助けや悪との戦いで報酬を得ているわけではないのですから、クラーク・ケント的には新聞記者こそが「本職」だったのでしょうに。
第一、スーパーマンことクラーク・ケントが主張している「ジャーナリズムがエンターテインメントになってしまった」というのは、朝日新聞を含めた日本のマスコミにも多大なまでに当てはまる内容ではありませんか。
現在の自民党総裁である安倍元首相を罵り倒すことを「社是」と嘯いたり、カップラーメンやカツカレーごときのネタを持ち出して面白おかしく論う光景は、まさに「悪しきエンターテイメント」以外の何物でもなかったのですけど。
いや、戦前は部数至上主義から戦争を煽り、戦後は共産圏国家の手先として常日頃から偏向報道を続け、「朝日が報じるのと逆のことをするのが正しい」とまで言わしめている朝日新聞の場合は、エンターテイメントですらも過大な褒め言葉と言わざるをえないほどの有害廃棄物でしかありえないのですが。
にもかかわらず、クラーク・ケントの主張の核心部分にして新聞批判にもなっている退職理由については「娯楽だと嘆いたのは場の勢いだろう」の一言でお終いって、本当にそういう自覚が持ちえないバカなのか、それとも他者には過酷なまでに厳しいのに己には蜜のごとく甘く事実を直視しえないダブスタの産物なのか、いささか判断に迷いますね。
紙媒体でも読むに値する情報があれば需要も出てきますし、逆に今の新聞がネットに移行したところで新規購読者の開拓なんて絵空事もいいところなのですが。
朝日を見ていると、「そんな対応だからスーパーマンことクラーク・ケントにも見捨てられるんだよ」とでも言ってやりたくなってしまいますね(爆)。

今やマスコミは「人助け」や「庶民の味方や正義」などではなく、国家をも上回る傲慢な権力機構にしかなっていません。
自分達がクラーク・ケントの評価以下の存在にまで堕落している事実を、日本のマスコミが自覚しえる日というのが果たしてやってくるものなのでしょうか?

映画「終の信託」感想

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映画「終の信託」観に行ってきました。
朔立木原作の同名小説を、草刈民代と役所広司が「Shall we ダンス?」以来16年ぶりに共演し、終末医療のあり方をテーマとした、周防正行監督の制作によるラブストーリー作品。
作中には不倫関係の男女が絡み合うシーンと、末期患者が発作を起こして激しくもがき苦しむ描写が存在することから、今作はPG-12指定されています。

物語冒頭は2004年(平成16年)11月、今作の主人公である折井綾乃が、検察から呼び出しを受けて検察庁へと出頭するところから始まります。
予定では3時から検察官との面接が始まることになっていたのですが、面接を担当するはずの検察官・塚原透は、折井綾乃が予定よりも30分早く来ても面接しようとしないどころか、3時を過ぎてさえも面接を始めようとしません。
その間、ずっと待たされ続けていた折井綾乃は、今回自分が呼び出された発端となった事件を回想するのでした。

事件の発端は1997年(平成9年)の天音中央病院。
同病院の呼吸器内科に勤務していた折井綾乃は、エリート医師として患者や仕事仲間の看護師から慕われている一方で、同僚の医師で既婚者である高井則之と不倫関係にありました。
その日の夜も、無人の部屋で密かに出会い、不倫セックスを始めて夜を明かす2人。
翌日、10日ほどの出張に出かけるという高井則之に対し、折井綾乃は空港で見送ると主張するのですが、高井則之は「俺達の関係がバレたらどうするんだ」と拒否の姿勢を見せます。
しかし折井綾乃はどうしても高井則之を見送りたかったようで、ひとり密かに空港へと向かい、高井則之と接触しようとします。
ところがそこへ、高井則之へ駆け寄るひとりの女性の姿が。
その女性は高井則之の妻ですらなく、折井綾乃は彼が複数人の愛人を囲っていて自分もそのひとりに過ぎなかったという事実を知ることになります。
高井則之が出張から帰ってくると、折井綾乃はこの件について問い質し、一体いつまで待てば今の奥さんと離婚して自分と結婚してくれるのだと主張します。
しかし、それに対する高井則之の返答は「俺、結婚するなって言ったっけ?」という何とも酷薄なシロモノ。
高井則之の態度に絶望せざるをえなかった折井綾乃は、その後、病院の宿直室で睡眠薬を飲んで自殺未遂を図ろうとします。
場所が病院だったこともあり、苦しみながらも一命を取り留めることはできた折井綾乃でしたが、このことは当然のことながら高井則之の耳にも入り、彼はベッドで横たわっている折井綾乃に対してこう言い放つことになります。
「自殺未遂で俺をこの病院から追い出したかったのか? そんなことをしなくても、俺は間もなくこの病院を離れることになっていたのに」
と。

不倫相手にも捨てられ、いよいよすべてを失い失意のどん底にまで落ちてしまった折井綾乃。
そんな彼女を救ったのは、彼女が担当医をしていた江木泰三という重度の喘息患者と、彼が貸した1枚のCDに収録されていたジャコモ・プッチーニ作曲のオペラ「ジャンニ・スキッキ」のアリアでした。
この曲に感動した折井綾乃は、医師として江木泰三と接する傍らで、「ジャンニ・スキッキ」のアリアについて語り合い、2人の間には強い信頼関係が構築されることになります。
しかし、江木泰三が患っていた喘息は日を追うにつれて改善されるどころか重くなる一方であり、彼は病院を入退院する日々を繰り返すことになります。
そんなある日、折井綾乃は退院していた江木泰三と川の土手で再会し、江木泰三から、
「これ以上、妻に治療費のことなどで迷惑をかけたくない。もし、自分がいざという時には、早く楽にしてください」
と懇願されることになるのですが……。

映画「終の信託」は、終末医療のあり方がテーマということもあり、今の医療現場の実態および尊厳死の問題、さらには尊厳死を巡る検察の認識および尋問手法などについて鋭く描いています。
特に、検察官として尊厳死を断行した女医を「殺人罪」として糾弾する、大沢たかおが扮する検察官・塚原透は、なかなかにムカつく嗜虐的な悪役ぶりを作中で披露していました。
家族および折井綾乃の証言を元に、検察の都合が良いように口述作成させた調書を作成してみせたり、調書にサインすれば帰すと言わんばかりの口約束をしておきながら、折井綾乃が不満ながらもサインするや否や再度の尋問に入ったり、相手を人格的に罵倒したり挑発したりして「尊厳死させた」という言質を取るや否や、したり顔で「殺人罪として逮捕する」と通告したりと、その悪役としての怪演ぶりには目を見張るものがあります。
作品としてではない意味で全く救いようがないのは、作中で描かれているこの検察官の尋問手法の実態が、決して架空のありえない話などではなく、現実にも実際に行われている所業であるという点です。
ちょうどリアルでも、コンピュータウィルスによるパソコンの遠隔操作問題で、警察が全く無関係の人間を誤認逮捕した挙句に「犯行」を自供させていたなどという事件があったばかりでしたし↓

遠隔操作ウイルス事件
> IPアドレスによる捜査に対してパソコンによる遠隔操作という新しい手法に対処する必要性、パソコンを遠隔操作されて逮捕されて被疑者とされた2人に対する取り調べで無実の罪を認めてしまうなど捜査機関の取調べについても問題が提起された。

極めて皮肉なことに、今作は時節柄話題となっている検察や警察の尋問手法の問題についてまで鋭く問題提起することになってしまったわけです。
また、尊厳死ではないのですが、警察が医療過誤による患者死亡を理由に、現職の医師を業務上過失致死罪や医師法21条違反の容疑で逮捕し、起訴まで行った裁判というのも実際にあったりするんですよね↓

福島県立大野病院産科医逮捕事件

ちなみにこの裁判、検察は求刑からして禁固1年・罰金10万円などという茶番じみた軽いシロモノで医師の有罪を訴えようとした挙句、その主張すらことごとく通らずに無罪判決を迎えるなどという、検察的には「史上最悪の恥」「黒歴史」以外の何物でもない無様な結末に終わってしまう惨状を呈していました。
通常の医療過誤ですらこんな愚行を平然とやらかすような警察や検察であれば、尊厳死に関する作中のような定規杓子な判断をやらかしたとしても何の不思議もないでしょうね。
検察官・塚原透のあまりにも頭がコチコチすぎる醜悪な見解の披露の数々が、しかし「現実にありえない」と断じられずに一定のリアリティを伴っているという事実それ自体が、現実における尊厳死のあり方や検察・警察の歪みを象徴しているとも言えるのですが。

ただ、作中で少々疑問に思わざるをえなかったことが3つあります。
ひとつは「塚原透は何故折井綾乃に調書へサインさせた時点で逮捕を宣言しなかったのか?」という点です。
塚原透が口述で作成させた調書の中には、折井綾乃が江木泰三への尊厳死実行に際し、「致死量に達する薬を与えた」という表現があり、実はあの調書を折井綾乃に同意させた時点で彼は折井綾乃への「殺人罪」容疑での逮捕が充分に宣言できたはずなんですよね。
塚原透にとっての勝利条件は「折井綾乃に江木泰三への【殺意】を認めさせ殺人罪で逮捕すること」であったはずであり、その勝利条件を満たした状態で更なる「殺人罪」認定のための尋問をわざわざ進めなければならない理由自体がありません。
一度調書にサインさせた以上、彼の「勝利」は既に揺るぎないものになっていたはずであり、その時点でさっさと折井綾乃を逮捕勾留させても、検察側の視点的には何の問題もなかったはずでしょう。
実際、前述の遠隔操作ウイルス事件などは、自分達に都合良くでっち上げた調書を被疑者にサインさせる、というのが警察や検察にとっての最終的なゴールでもあったわけですし。
あれ以上の尋問は折井綾乃はもちろんのこと、塚原透自身にとってさえも全く意味のないシロモノでしかありません。
尋問自体は逮捕後も20日にわたって行われていたようですが、それはあくまでも「事実確認を行うため」のものであって「殺意を認めさせるため」の内容ではないのですから、全く意味合いも違ってくるでしょう。
これを合理的に説明できる理由があるとすれば、それは「塚原透個人のサディスティックな嗜虐性を満たすために職権を乱用していた」以外にはありえないのですが。

そして疑問に感じた2つ目は、塚原透が折井綾乃を「殺人罪」で逮捕させ連行させるラストシーンと、それ以降に語られるモノローグの内容があまりにも乖離しすぎていることです。
ラストのモノローグでは、逮捕されて以降の折井綾乃の動向が語られているのですが、そのモノローグの中では、彼女は「殺人罪」で起訴されたものの、江木泰三が残していた61冊もの喘息日記が遺族によって裁判所に提示され、その中の最後のページで「折井綾乃に全てをお任せします」という文言が書かれており、それが「リビング・ウィル」として裁判所から認められたと綴られているんですよね。
「リビング・ウィル」というのは、終末医療における患者の意思を表すもので、尊厳死を行う際の患者本人の意思を確認するための文書や遺言書などのことを指します。
この「リビング・ウィル」については、作中で行われた塚原透の尋問の中でも言及されていて、彼は江木泰三の「リビング・ウィル」がないのを良いことに折井綾乃の行為を「殺人罪」呼ばわりしていたわけです。
ところが、モノローグの中で「リビング・ウィル」の文書が見つかり裁判所に認められたということは、つまるところ塚原透の主張を構成する前提条件そのものが崩壊してしまっていることをも意味するのです。
この時点で、作中における塚原透の主張は、その大部分が意味を為さなくなってしまうことになるのですが、何故作中ではこれほどまでに重要な部分をモノローグだけで簡単に済ませてしまったのでしょうか?
むしろ、この部分をこそラスト部分でメインに据え、塚原透の主張が根底から瓦解して彼がヒステリックに慌てふためくなり論点逸らしに終始するなりといった様を描写し、それによって検察の横暴ぶりと、それでも有罪判決が下される理不尽さを表現していった方が、演出的にもより良いものとなりえたのではないのかと。
そもそも、あの検察室の密室では、尊厳死の正当性・妥当性を論じる場としてはあまりにも不適格であると言わざるをえないのですからなおのこと。
あの塚原透が「最初から有罪ありき」で折井綾乃に相対していたことなんて、誰の目にも最初から分かり切っていたことなのですしね。
今作がテーマのひとつにしているらしい「検察室での尋問の実態」も、前述のように「調書にサインをした時点で問答無用に逮捕勾留」で問題なく表現できるのですし、その後の舞台を裁判の場に移していた方が、却って双方痛み分け的な結末へ持っていくことも可能だったのではないかと。
あのラストでは、「話の分からない悪意ある横暴な検察は最強にして最高!」的なイメージがどうにも拭えませんし、ストーリー的にもすっきりしない部分が多々残ってしまったものなのですけど。

そして最後の3つ目は、「結局、折井綾乃が引き起こした尊厳死問題を警察にタレ込んだのは一体誰?」という点。
実は折井綾乃が江木泰三の尊厳死問題を引き起こしたのが2001年(平成13年)だったのに対して、それが検察の目に止まり塚原透が折井綾乃を呼び出したのが、それから3年も経過した2004年(平成16年)なんですよね。
何故3年も経過した後に問題になるのかも疑問なのですが、結局、折井綾乃を訴えた人間の存在は作中でも全く明示されることがなく、「エリート医師としてのし上がった折井綾乃に反感を抱く人間の仕業なのではないか?」という推測が登場人物の口から語られていただけでした。
遺族が61冊の喘息日記を裁判所に提出したために「リビング・ウィル」が認められたという経緯を鑑みても、遺族が賠償金欲しさに画策したというわけでもないみたいですし。
作中における遺族の様子を見る限り、意志薄弱で誰かに煽動され操られている風な印象ではあったのですが。
私はてっきり、不倫問題で折井綾乃と一悶着あった高井則之が、その後自分の不倫がバレて離婚された上に社会的地位を失った腹いせに執念深く調査を行い一連の所業を画策したのではないか、とすら考えてしまったくらいでした(^_^;;)。
ミステリー的な視点で見ると、彼以外に折井綾乃に恨みを抱くであろう人間が作中には全く登場していないのですし。
ただ、1997年頃に「間もなくこの病院を離れることになる」と明言していたはずの高井則之が、2001年にあの病院に在籍していた可能性は非常に低く、物理的にそんなことが可能なのかという問題があるので、彼への嫌疑は証拠不十分と言わざるをえないところなのですけど。
まさか、あの塚原透が、あの初対面時まで一切面識のなかった折井綾乃を最初から陥れることを目的として一連の逮捕劇シナリオの絵図面を描いていた、などという陰謀論もはなはだしい舞台裏はいくら何でもないでしょうし。
誰が、如何なる動機に基づいて、作中のごとく折井綾乃を陥れようとしていたのか、この辺もしっかり描いて欲しかったところなのですけどねぇ。
尊厳死にまつわる偏見や誤解などとも絡めていけば、この辺だけでも結構面白い人間ドラマが展開できたかもしれないのですし。

作品のテーマ自体は充分に見応えのあるものだったのですが、後半部分の折井綾乃と塚原透とのやり取りが結構重い上に鬱々な展開だったりするので、見る人によっては後半の展開にいささかウンザリすることもあるかもしれません。
一方ではそれだけリアリティがある、ということもでもあるのですが。
今作を観賞する際には、一定の心構えを持って臨むのが良いかもしれません。

映画「アルゴ」感想

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映画「アルゴ」観に行ってきました。
1979年に勃発したイランのアメリカ大使館人質事件で実際にあった話を題材とした、映画「ザ・タウン」のベン・アフレックが監督&制作&主演を担うサスペンス作品。
今作は、絞首刑になった人間がクレーンに吊るされているシーンが再現されている等のの残虐シーンが作中に存在するため、PG-12指定を受けています。

1979年11月4日。
同年1月にイランで革命を引き起こした、ルーホッラー・ホメイニ師を首班とする反米イラン政権が、イスラム法学校の学生達を煽動し、同国にあるアメリカ大使館を武力制圧させるという事件が勃発しました。
彼らの目的は、革命の際に国外へ逃亡後、「癌の手術」を名目にアメリカへ入国し受け入れられた、前政権のモハンマド・レザー・パーレビ元国王の身柄引渡にありました。
暴徒と化した学生達の大使館突入に対し、しかし当のアメリカ大使館側は「こちらが銃を撃って人を殺せば皆殺しにされる上に開戦の口実にされてしまう」などと著しく及び腰であり、目と鼻の先に暴徒が迫っても大使館内の書類を処分するための時間稼ぎのみに終始するありさま。
その上、その書類の処分すらまだ完全に終わらないうちにアメリカ大使館は完全に制圧されてしまい、大使館の職員や海兵隊員など52名のアメリカ人が暴徒達の人質とされてしまったのでした。
しかしこの時、来るべき大使館制圧の事態をいち早く察知し、暴徒突入のゴタゴタに乗じて大使館を脱出した6名の男女が存在していました。
彼らは在イランのカナダ大使の私邸へと逃げ込み、自身の身の危険も顧みずに匿ってくれた大使の取り計らいにより、とりあえず一命を取り留めることに成功します。
しかし、イラン側はアメリカ大使館でシュレッダーにかけられた大使館員の名簿を復元したり、各国の大使館に対しても容赦のないしらみ潰しな捜索を行ったりしていることから、彼らが見つかるのは時間の問題と言えました。
この事態を受けたアメリカ本国では、当然のごとく救出のための作戦が検討されることになります。

こういった史実をなぞった流れが最初の20分くらいを使って延々と続き、ようやくベン・アフレック扮する今作の主人公トニー・メンデスが登場することになります。
彼はCIA所属の人間で、人質奪還のプロとしてその実力を評価されている人物です。
ただその一方で、妻とは離婚こそしていないものの子供と共に別居しており、私生活面では少なからぬ問題を抱え込んでいた人物でもあったのですが。
さて、CIAを介してアメリカの国務省から人質救出作戦のアドバイザーとして呼ばれたトニー・メンデスは、6人の大使館員を救出するための作戦会議に参加することになります。
しかしそこで彼は、会議中に出された作戦案に対して次々にミソをつけていき、かつ「では何か良い方法はあるのか?」と尋ねられると、にべもなく「ない」と断言するありさま。
別に彼は6人を救出する気がさらさらなかったのではなく、本当に良案がなかっただけではあったのですが。
その夜、トニー・メンデスは別居中の息子の動向を確認すべく、息子の元へ電話をかけます。
息子は当時アメリカでテレビ放映されていたらしい映画「最後の猿の惑星」を見ていたといい、トニー・メンデスも同じ番組を観賞すべくテレビのチャンネルを合わせます。
しかし、その「最後の猿の惑星」の映像を見ていたトニー・メンデスは、そこから誰もが思いもよらないアイデアを考えついたのでした。
それは何と、架空の映画を作ると称してイランへ渡った後、6人の大使館員をカナダ出身の映画スタッフ要員として国外へ退去させるというもの。
再び行われた作戦会議の席上でトニー・メンデスは自身の作戦案を提示し、その下準備を進めていくことになるのですが……。

映画「アルゴ」では、主人公がアクションシーンを披露するどころか、そもそも自身では銃を一発たりとも発砲することすらありません。
予告編でもアクションシーンらしきものは全く出てきていませんでしたし、その方面について期待すると痛い目に遭うこと必至の作品と言えます。
また、物語の前半はとにかく作戦のための下準備に主人公達が忙殺される描写ばかりが延々と続いている上、「偽映画の製作」というテーマなこともあってややコメディ調なノリも交じっていたりします。
この辺りはやや退屈な描写でもあり、見る人によってはこの時点で「期待外れ」と思わせる要素もあるかもしれません。
しかしこの映画の真骨頂は、作戦の道筋があらかた整って主人公トニー・メンデスがイラン入りする後半以降にあります。
ここから先のストーリーは「イラン側に正体が露見したら一巻の終わり」な緊迫した状態に置かれることになるため、一発の銃弾も飛び交わないながら手に汗握る展開が続くことになります。
アクションシーンやカーチェイスなどといった派手な描写なしに、頭脳戦や心理的駆け引きだけであれだけの緊張感を生み出せる構成は、なかなかに上手いものがありました。

ただ、トニー・メンデスにとっての最大の敵というのは、実はイランではなくアメリカ政府の上層部だったりするんですよね。
アメリカ政府の上層部は、既に発動しているトニー・メンデスが現地で地道に進めていた偽映画作戦を、「軍による大使館人質救出作戦が決まったから」という理由で突然中止を決定した挙句、トニー・メンデスに対して「6人を見捨てて帰国しろ」と命じてくる始末だったんですよね。
さらには、せっかく手配していた航空券の予約を破棄した上に、作戦のために作った架空の映画会社にも閉鎖を命じ、作戦遂行自体を不可能にしてしまうありさま。
アメリカ政府の上層部がこんな決定を下した背景には、間もなく始まる大統領選挙を有利に進めるためという事情が介在していたようなのですが、一度発動している作戦にそんな形で横槍を入れられるのでは、現場としてはたまったものではなかったでしょうね。
しかも、実際にアメリカ政府主導で軍を派遣して実施された人質救出のための「イーグルクロー作戦」は、使用されたヘリで故障が頻発し作戦遂行自体が不可能となってしまった上、撤収時でもヘリがC-130輸送機に激突して死者を出してしまうなど、ほとんど自滅に近い形で失敗に終わってしまい、アメリカ軍史上最悪の作戦のひとつにまで数えられてしまう始末です。
ベトナム戦争辺りから1980年の大統領選挙でレーガン大統領が出てくるまでのアメリカ軍というのは、政治の過剰な軍事作戦への介入のために、悲惨なまでの敗北を何度も強いられる状態にありましたからねぇ(T_T)。
軍事作戦の根幹どころか細部に至るまで政治が決定していたことによる過剰なまでの「文民統制」が、却って健全な軍事運用を妨げた好例と言えるシロモノだったのですが。
作中のごとく、一度決めて動き出した方針を二転三転させるというのも、必敗の法則の最たるものだったりするのですけどねぇ。

頭脳戦や駆け引きが好きという方には、今作はオススメな佳作と言えるのではないかと。

テレビドラマ「大奥 ~誕生~ 有功・家光篇」 第3話感想

最終話まで週刊連載する予定の、TBS系列の金曜ドラマ「大奥 ~誕生~ 有功・家光篇」。
今回は2012年10月26日放映分の第3話についての感想となります。
前回第2話の視聴率は、ビデオリサーチの調べによれば10.6%で、第1話の11.6%よりはやや下がった感じです。
まあ初回放送では、番組内容の確認や「御祝儀」的な意味合いでの視聴も多いので、元々視聴率が高くなる傾向にはあるのですが。
なお、過去の「大奥」に関する記事はこちらとなります↓

前作映画「大奥」について
映画「大奥」感想&疑問
実写映画版とコミック版1巻の「大奥」比較検証&感想

原作版「大奥」の問題点
コミック版「大奥」検証考察1 【史実に反する「赤面疱瘡」の人口激減】
コミック版「大奥」検証考察2 【徳川分家の存在を黙殺する春日局の専横】
コミック版「大奥」検証考察3 【国内情報が流出する「鎖国」体制の大穴】
コミック版「大奥」検証考察4 【支離滅裂な慣習が満載の男性版「大奥」】
コミック版「大奥」検証考察5 【歴史考証すら蹂躙する一夫多妻制否定論】
コミック版「大奥」検証考察6 【「生類憐みの令」をも凌駕する綱吉の暴政】
コミック版「大奥」検証考察7 【不当に抑圧されている男性の社会的地位】
コミック版「大奥」検証考察8 【国家的な破滅をもたらす婚姻制度の崩壊】
コミック版「大奥」検証考察9 【大奥システム的にありえない江島生島事件】
コミック版「大奥」検証考察10 【現代的価値観に呪縛された吉宗の思考回路】

テレビドラマ「大奥 ~誕生~ 有功・家光篇」
第1話感想  第2話感想

第3話は、江戸城の中を火の用心で歩き回っていた男が、突然木霊した赤子の泣き声に仰天し、その発生源と思しき部屋を開けた後、悲鳴を上げて逃げるという描写から始まります。
一体何のことかと思っていたら、女版家光が澤村伝右衛門に女性の髪を切らせまくっていたエピソードの一部だったわけですね。
今回のストーリーは、コミック版「大奥」2巻のP167からラストまでの話が語られており、原作2巻の話全てがこれで出揃うことになります。
今まで出番が少なかった女版家光がようやく前面に出てきて、いよいよ有功との仲を深く進展させていくことになります。

1.澤村伝右衛門が女性の髪を携えている様子を、有功が自分で直接目撃(原作では「玉栄から聞いた話」)。
2.嫌がる様子の猫の若紫を抱いて「上様」と呟く角南重郷を目撃する有功と玉栄。
3.角南重郷の切腹後、有功が夜中に念仏を唱え、角南重郷の遺体が運ばれるシーン。
4.有功が女装を命じられた際、稲葉正勝に女版家光の過去の事情を尋ねる。
5.御中臈が女装で踊る中、有功が姿を見せる前に女版家光が場の解散を命じた後、有功が女装をすることなく登場(原作では有功が女装して登場後に女版家光が場の解散を命じる)。
6.有功が女版家光の髷を切り、刀を取り上げる。

若干話を変えている部分はありますが、今回も基本的に原作の流れをそのまま踏襲しています。
それにしてもやっぱり出てきましたねぇ、猫の若紫が玉栄に殺され、角南重郷が濡れ衣を着せられるシーン。
まあ、殺された若紫の描写が猫というよりは「白いタオル」のようにしか見えなかったのは、その手の自主規制でも働いていたりしたのでしょうけど。
角南重郷の死後、その遺体に手を合わせる大奥の男衆から一人離れ、ニンマリとほくそ笑む玉栄の描写は、原作以上に悪人っぽく見えてなかなかに良かったですね。
このエピソードは、原作では徳川5代将軍綱吉の時代でも大きな伏線となって生きてきますし、当然次作映画でも活用されることになるでしょうから割愛することはできなかったのでしょうけど、内容的には何らかの規制を受けて割愛されたり大幅変更されたりしてもおかしくなかったエピソードですからねぇ。
よくまあ原作以上に忠実にこのエピソードを再現することができたものだと。
まあ、この後の女版家光のレイプ回想シーン共々、描写については可能な限りソフトなものにはなっていましたけど。

ただ、有功が結局女装をすることなく、しかも場の解散を命じた後で女版家光の前に現れるというのは、さすがにちょっとどうなのかとは思わなくもなかったですね。
あの場の有功って、明らかに女版家光の勅命に背いていることになってしまいますから、癇に障った女版家光に直接手打ちにされたり、角南重郷に対するがごとく切腹を命じたりする危険性も多大にあったのではなかったかと。
有功自身にもそうなる覚悟はあったのかもしれませんが、ここは原作通りに女装をした上で女版家光に迫っていた方が、すくなくとも表面的には勅命に逆らっていない分、安全確実だったのではないのでしょうか?
そもそも、あの場で有功がわざわざ女版家光の勅命に正面から逆らわなければならない理由自体がまるでないのですし。
このエピソードの改変って、有功というよりはそれを演じている堺雅人の事情が何か関係していたのではないかと、ついつい考えてしまったものでした。
最初から女装やゲイ的な要素を売りにしているのであればともかく、一般的には「女装をする男性俳優」なんて、似合っていようがいまいがイメージダウンもいいところでしょうからねぇ(苦笑)。
ましてや、彼には今後も次作映画およびその他の作品にも出演しなければならないのですから、なおのことその手のイメージについては気にせざるをえない部分もあるでしょうし。
まあ、もっと単純に「いくら女装メイクをしても全く板につかなかった」という事情もあったのかもしれないのですが。

次回からはコミック版「大奥」3巻のエピソードが始まることになるのですが、さてこちらはいったいどうなることやら。
3巻は寛永の大飢饉や政治の裁断など、大奥の外でのエピソードも多くなってくるのですが、今までの話では大奥以外のエピソードは可能な限り割愛していたりしますからねぇ。
さすがに3巻では無視することもできなくなってくるのではないかと思うのですが……。

10月26日の原子力の日によせて

原発停止による燃料費の増加コストが3兆円以上にも達することが判明しました。
火力発電への依存度が高まり、石油や天然ガス等の輸入が増大していることが主な要因なのだそうです↓

http://www.j-cast.com/2012/10/24151233.html
>  政府の試算によると、原発停止による燃料費の増加コストが2012年度は3兆円強になることがわかった。日本経済新聞が2012年10月24日付で報じた。
>
>  
関西電力の大飯原子力発電所を除き原発が停止したままで、その分火力発電所の依存度が高まっていることが要因。11年度のコスト増は2.3兆円だった。
>
>  経費削減にも限界があり、電力各社は値上げ実施を余儀なくされる。

いくら東日本大震災や福島第一原発の問題があるからとはいえ、日本は一体いつまで「脱原発」という名のヒステリックな「空気」の維持に固執し続けるつもりなのでしょうかね。
その「空気」に一番振り回されることになるのは企業なのですし、企業の経常収支が悪化すれば、それは回り回って国民生活に多大な悪影響を及ぼすことにもなりかねないのですが。
原発問題は「電力が足りさえすればそれで良い」という単純なものではないことも、大多数の国民の生活や家計に影響を及ぼす「脱原発」な運動が長続きするわけないことも、当初から言われ続けてきた一般知識の類ことでしかなかったというのに、そこまで「現実」から目を逸らして何が楽しいのでしょうかね、この期に及んでなお「脱原発」を唱える面々は。
国民も企業も、もうこれ以上の節電をする気力も余地もなくなっているでしょうし、電力会社にだけ「脱原発」を強要し負担もコストも丸投げするなど、構造的に不可能な上に身勝手で滑稽極まりないと言わざるをえないのですが。
電力料金の値上げとして、結局は国民の負担として返ってくるだけなのですし。
今の「脱原発」の行く末に最終的な勝利などないのですから、「欲しがりません勝つまでは」の論理も通用などしないのですが。

10月26日は、1957年に日本は国連の国際原子力機関へ参加、1963年に茨城県東海村で日本初の原子力発電がこの日に行われたことを記念する原子力の日となっています。
東日本大震災以降の原発アレルギーによる「空気」のせいで完全に迷走状態となっている日本の原発がもたらした正負を含めた様々な功罪を、この機会に再評価してみても良いではないかと。

「マジカル頭脳パワー!!」の後継番組「快脳!マジかるハテナ」視聴感想

2012年10月25日19時から2時間にわたって放映された、往年の人気クイズ番組「マジカル頭脳パワー!!」の後継番組として位置付けられている「快脳!マジかるハテナ」を視聴してみました。
以前にも述べたことがあるのですが、私は往年の「マジカル頭脳パワー!!」は毎週欠かさず視聴していたくらいのファンでしたし、その後継番組と豪語するからには、まあほとんど可能性はないにせよミクロン単位でも面白い要素を盛り込んではいるのではないかと、スズメの涙程度の期待をかけてとりあえず1回目は視聴してみようかと考えたわけです。

しかし、実際に「快脳!マジかるハテナ」を視聴してみると、やはり往年のあのパワーには遠く及ばず、昨今よく見られるバラエティ番組の域をまるで出てなかったですね。
明確な答えが存在する「マジカルツッコミ」や、視点を変えての「エラー探し」は比較的楽しめたものの、「マジカル褒めて」や悪名高い「マジカルバナナ」などのリズム系は、バラエティー特有の「芸人内輪」的な要素が強すぎてシラケるばかりでした。
リズム系のクイズは答えがないこともあって、視聴者を置いてけぼりにしてその場の人間にしか楽しめないという面が多々ありますし、あのリズム感も却って軽薄さを醸し出している感が否めないところで(-_-;;)。
個人的には「マジカルスキャナ」系のクイズの再登場に期待していたのですが、そちらはまるで出てこず、肩すかしもいいところでしたし。
また、こちらは案の定という感がありましたが、やはり所ジョージレベルの鬼才は最初から期待のしようもなかったみたいですね。
あの圧倒的な強さとユーモアセンスこそが、「マジカル頭脳パワー!!」を伝説の番組に仕立て上げた本当の原動力だったというのに。
というか、板東英二を出すのならば所ジョージも一緒に出演させて、所ジョージと板東英二の往年の掛け合い漫才や、所ジョージ対その他大勢などといった構図でも作り出した方が、却って視聴者を引き込めるだけの要素を持たせることができたのではないのかと。

あと、これは演出的な問題でもあるのでしょうが、番組の進行中に各パネラーの点数が全く表示されず、途中経過で司会者側から発表される形式になっているのも個人的には大きなマイナスですね。
途中経過が非常に分かりにくい上に、点数の発表タイムを作ることで番組の時間稼ぎでもやっているようにしか見えませんでしたし。
リアルタイムで点数を見ながら競争を楽しむがあの手のクイズ番組の面白さのひとつでもあるのに、これではますます「芸人同士の内輪な楽しみ」的な要素が付加されてしまうばかりです。
「マジカル頭脳パワー!!」の後継どころか、そもそもクイズ番組としての基本のキすらも踏まえていないと言わざるをえないところなのですが。

総合的に見れば、昨今ではごく普通にありふれ過ぎていて飽和状態と化しているバラエティ番組枠がまたひとつ増えただけ、という以上の感想なんて持ちようがないですね。
番組の質を確実に下げた元凶であるリズム系クイズもやっぱり健在でしたし。
リズム系クイズを全廃させて「正解のあるクイズ」ばかりで番組を進行させ、司会者およびパネラー達による駆け引きや頭脳戦を全面に打ち出していければ、あるいは今後大化けする可能性もなくはないかもしれませんが、今のままではとても「視聴し続けるに値する番組」とは言い難いですね。
芸人達の内輪話以外に視聴者を引き込めるものがないのですかねぇ、昨今のバラエティ番組は。

Webアンケート調査で明確になったテレビ番組の品質劣化

アンケートサイト・リサーチパネルのWebアンケート調査で、「昔にくらべて、テレビ番組は全般的にどうなったと感じますか?」という問いに対し、実に7割以上を「つまらなくなった」という回答が占めているという調査結果が出ています。

http://megalodon.jp/2012-1024-2106-27/news.livedoor.com/article/detail/7056162/
> ニュースサイト「瞬刊!リサーチNEWS」で、17日に掲載された記事[テレビ番組「つまらなくなった」が71.2% 「昔は良かった」の声]が、ネット掲示板で大きな反響を呼んだ。
>
> 同記事では、アンケートサイト・リサーチパネルが調査した「昔にくらべて、テレビ番組は全般的にどうなったと感じますか?」という質問に対する回答を紹介している。その結果は下記の通りだ。
>
> ・面白くなった:6.7%
> ・変わらない:15.8%
>
・つまらなくなった:71.2%
> ・わからない:6.3%
> (リサーチパネル調査)
>
> この調査では、じつに7割の人が「テレビは昔とくらべつまらなくなった」と回答している。
>
> ネット掲示板では、この結果に対し
「本当にテレビを見なくなったなぁ」「何故容姿も芸も素人並のものをわざわざテレビでみなきゃいけないの?」「今や伝説になってる番組だらけ。 そりゃ今の番組じゃあ逆立ちしたって敵わないだろう」と、この結果を当然とする声が大半を占めた。
>
> また、その一方で「昔もつまらなかったけど他の娯楽が少なかったから見ていただけだよ」「むかしTVが面白かったのは『他の人と楽しさを共有できる』ってのも大きかったな。 家族とか友達と」など、テレビのつまらなさは相変わらずとし、これを周辺環境の変化と分析するコメントも見られた。

リサーチパネルのアンケート調査ページ
http://research-panel.jp/rpdr/view.php?eid=221962

個々人で「テレビが昔と比べてつまらなくなった」と感じる理由は様々あるようですが、テレビの衰退と凋落ぶりを明示する調査結果ではありますね。
昨今のテレビ番組の問題については、私も何度か当ブログで記事にしたことがあるのですが、件のアンケート調査結果を見ると、「やはり個人差はあれ皆考えることは同じなのだなぁ」と思わずにはいられなかったですね(苦笑)。
バラエティ番組の多さと出演者達限定の内輪過ぎる雰囲気や傾向なんて、私がテレビを敬遠するようになった大きな理由のひとつでもありますし。
テレビ局側も、いくら安く番組が作れ視聴率が稼げるからと言って、手軽で安価なバラエティ番組に走り過ぎなんですよね。
全てのテレビ局が一斉にそれをやれば、飽きられるのも早くなるなんて最初から分かりきっているというのに。
その挙句が、週間最高視聴率でさえも20%を切ってしまうなどという悲惨な惨状を現出する始末なのですし。
この最悪の状況をテレビ局が打開したいのであれば、手間暇と費用をかけて「視聴してもらえる番組」を作るという原点に立ち返るべきなのではないのかと。
まあ今のテレビ局はすっかり選民思想に凝り固まっていて、外部からの声に耳を塞いで十年一昔のごとき番組制作や偏向報道に邁進するありさまですから、自浄作用など最初から期待のしようもないのですが。

テレビの平均視聴時間も、高齢者になるほど長くなる一方、若年層では著しい減少傾向にあります。
目先の視聴率に固執するテレビ局側も、新しい視聴者層を開拓するよりも目先の視聴者に迎合する傾向が多々あるため、今やすっかり「高齢者のためのレガシーメディア」と化してしまった感が否めないところですね。
かといって、高齢者に迎合した番組ばかり作っても、趣味や嗜好が全く異なる若年層が取り込めるわけでもないのですけど。
今のまま行けば、テレビ局はそう遠くない時期にジリ貧に陥ること間違いなしなのですが、当のテレビ局は一体いつになったらその事実に気づくのやら。

非常用蓄電池としてのハイブリット車の使用用途と今後の需要

トヨタ自動車がプリウスの一部仕様を改良した新モデルの販売を開始しました。
車体から100ボルト電源を1500ワットまで給電することが可能となり、非常時の際の電源としても使用できるのだとか。

http://sankei.jp.msn.com/economy/news/121022/biz12102215360006-n1.htm
>  トヨタ自動車は22日、ハイブリッド車「プリウス」を一部改良して発売した。オプション設定のコンセントを使うと、車両から100ボルト電源を1500ワットまで給電でき、停電などの非常時に使用すれば、テレビやパソコン、携帯電話の充電など生活に必要な電力が使える。
>
>  また用途によっては、電子レンジなどの調理家電でも使えるとのことで、非常時に限らず、プリウスの活躍の場面がぐっと広がりそうだ。
>
>  車体価格は217万円からで、アクセサリーコンセントは6万3000円。
>
>  またプラグインハイブリッド車(PHV)「プリウスPHV」では、従来の最安モデルからさらに15万円安い305万円の「L」グレードを設定し、11月1日に発売する。非常時給電のオプション設定(コンセントとコネクターのセットで9万4500円)もある。

こういう装備というのは、記事にもあるように非常時以外にも使用用途がそれなりにありそうですね。
周囲に電源設備のないキャンプや野宿などでも大活躍しそうですし、何と言っても「長時間にわたって電気を使い続けることができる」という利点は決して小さなものではありません。
現時点でも、シガーライターを活用して携帯やスマートフォンなどの充電が行える機器が一応ありはしますが、これは供給電力も12~24ボルトまでと微々たるものでしかなく、家電まで扱えるようなシロモノでは全くないですし。
携帯だけでなくパソコンや家電にまで電力供給ができるとなれば、いざという時に何かと便利ではあるでしょう。
しかし、この装備って既存のプリウスにも搭載可能なのでしょうかね?
私もついこの間クルマをプリウスに買い替えたものですから、このオプション機能が後付けでも搭載できるのであれば、是非とも検討してみたいところではあるのですが。
一応トヨタのプリウス公式サイトも確認してはみたのですが、このオプション機能が既存のプリウスにも搭載可能なのかについては全く書かれていないんですよね。
新モデルも外形上は既存のプリウスと何も変わっていませんし、新オプションの後付けもできそうな気もしなくはないのですが。
あくまでも「新モデル限定のオプション設定」なのであれば諦めるしかないのですが、この辺りのことについては近所のトヨタ販売店にでも聞いてみるしかなさそうですね。

しかし、こういうシステムって、実はキャンピングカーにこそ最適なのではないかと、キャンピングカー好きな人間としてはついつい考えてしまいますね。
キャンピングカーって、大容量のバッテリーや発電機の搭載が必須なのですし、これとプリウスのごときハイブリッドシステムを合体させれば、より効率が良く場所もあまり取らない発電&蓄電システムの出現も可能なのではないのかと。
しかし実際には、ハイブリッドシステムを搭載したキャンピングカーというのは、普通車を改造した仕様のクルマであればともかく、「純正」のものとしては2012年10月時点では未だに登場していないみたいなんですよね。
まあ、同じハイブリッド車でも、プリウスがダントツで燃費が良い以外はあまりパッとしない感が否めないところですから、プリウスに比べればマイナーなクルマもいいところな上に車体自体も大きなキャンピングカーでハイブリッドシステムを搭載するというのは、現時点ではコストパフォーマンス的に良くないものがあるのでしょうけど。
同じハイブリッド仕様のトヨタのアルファードやエスティマ、日産のエルグランドなどは、そこらにある普通のクルマとほとんど変わることのない燃費(7~11㎞/L)しか達成できていないわけですし。
当然、キャンピングカーだとこの燃費がさらに低下することは想像に難くなく、現時点では燃費向上の観点から言えばあまり使えたものではないでしょう。
しかし、今回のような蓄電池兼発電機としてのハイブリッドシステムが既に出てきている以上、そちらの用途に特化する形でのハイブリッドシステムというのは今後出てくる可能性が少なくないですね。
キャンピングカー的には、むしろそういう使用用途の方が使い勝手も良いでしょうし。

非常用蓄電池としてのハイブリッド車や電気自動車は、今後ますます存在感を増していくことになるのではないかと思うのですが、どんなものなのでしょうか。

10月22日は田中芳樹の誕生日(満60歳)

今年も当然のごとくやってきた、10月22日の田中芳樹の誕生日。
2012年で田中芳樹は60歳の還暦を迎えます。
田中芳樹的にはいつものごとく忌々しい厄日でしかないのでしょうが、とりあえず世間一般の慣習的には「おめでとうございます」と言っておきませんとねぇ(爆)。

現在の田中芳樹はタイタニア4巻を執筆しているはずなのですが、執筆状況は全くと言って良いほどに伝わってこないですね。
Twitterなどの「らいとすたっふ」や社長氏の公式アカウントでも、最近は執筆状況の広報をあまりやらなくなってしまっていますし。
年を取るのに比例する形で、田中芳樹の遅筆ぶりも年々悪化の一途をたどっていますし、今度は一体どこまで遅筆ぶりを披露するのか不安なところです。
ストレス解消目的で適当に書き殴れるはずの薬師寺シリーズですら、9巻は10ヶ月以上もかかっていたりするのですから。
年内の執筆完了なんて最初から全く期待をかけてなどいませんが、来年が終わるまでには果たして脱稿してくれるのでしょうか?

一般企業であれば定年退職する年齢ではありますが、田中芳樹は作家という名の自由業なわけですし、すくなくともシリーズ作品が全て完結か中断宣言が為されるまでは現役でいてもらわないといけませんね。
まあ今の状況では、その前に田中芳樹が寿命で死ぬ可能性の方がはるかに高そうなのが何とも言えないところではあるのですけど(T_T)。

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