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2012年10月の記事は以下のとおりです。

ドイツの再生可能エネルギー固定価格買い取り制度に更なる暗雲

ドイツが再生可能エネルギーの固定価格買い取り制度について、既に価格値下げと買い取り量の制限が決定した太陽光発電に続き、風力発電とバイオマス発電にも同様の制限を課すことを検討しているようです。

http://sankei.jp.msn.com/economy/news/121012/fnc12101219250021-n1.htm
>  【ベルリン共同】ドイツのアルトマイアー環境相は11日記者会見し、再生可能エネルギーによる電力の「固定価格買い取り制度」について、風力とバイオマス発電の価格を段階的に下げ、将来的に買い取りを廃止することを提案した。
>
>  2022年末までの脱原発を決めたドイツは、再生エネルギーの普及を推進。しかし
買い取り価格は電気料金に上乗せされるため、普及が進むにつれ、消費者負担が増えると懸念されている。環境相は電気料金の高騰を抑えるには「抜本的改革が必要だ」と主張した。
>
>  太陽光発電の買い取り価格は今年4月から20~30%引き下げられ、設備容量が計5200万キロワットに達した段階で買い取りを打ち切ることが決まっている。

「固定価格買い取り制度」の本家本元たるドイツがこのありさまなのに、日本は今後も再生エネルギーの買い取り制度を続けるというのですから、何とも愚かしい話であるとしか言いようがありませんね(-_-;;)。
元々この制度自体、管直人ことカンガンスが総理辞任をゴネまくって無理矢理成立させた曰くつきのシロモノでしかなく、無批判に続けるべき理由自体がないに等しいのですが。
来るべき民主党の消滅と共に、この制度も廃止の方向へ向かわせるべきでしょう。
ヒステリックな脱原発イデオロギーに伴う化石燃料の輸入増大&価格高騰と、効率が悪すぎる再生エネルギーの高額買取によって、日本の経済とエネルギー安全保障に与える影響は小さからざるものがあります。
しかも、去年と言い今年と言い、夏冬に節電をする体制が延々と続く羽目となっているのですが、これって一体いつまで続けるつもりなのでしょうか?
戦前の統制経済や「欲しがりません勝つまでは」の世界じゃあるまいし、こんなのがいつまでも続けられると考える方がおかしいのですが。
こういうのこそが、常日頃から化石な左翼団体が絶叫する「軍靴の足音が聞こえる」的軍国主義の再来と言えるシロモノなのではないのですかね?

mixiが「足あとリアルタイム表示機能」を復活させる方針を発表

日本の大手SNSサイト「mixi」の足あと機能が復活するそうです。
足あとサービスの「リアルタイム表示機能」の試験提供を2013年1月までに開始する予定とのこと。

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1210/09/news106.html
>  ミクシィは10月9日、今後の方針についてユーザーに説明するページを笠原健治社長名で公開した。ユーザーの意見や要望を迅速に「mixi」サービスに反映させる「ユーザーファースト」を掲げ、「足あと」機能の改変後に要望が多かったというリアルタイム表示を試験的に提供するなど、mixiの利便性向上に取り組むとしている。
>
>  改善の一環として、
「訪問者(足あと)」サービスで「リアルタイム表示」機能の試験提供を来年1月までに行う。サービス開始時から実装されていた同機能は昨年6月にリニューアルし、ユーザーページを1週間に訪れた人をまとめて翌週に表示する方式に変更。だがリアルタイムに残された「足あと」を交流に活用していたユーザーからの反発も多く、その後更新頻度を短縮し、4月には前日の訪問者を翌日にまとめて表示できるようにしていた。
>
>  
リアルタイム機能の試験提供で、以前の足あと機能が事実上復活することになる。ユーザーからの要望が多かったといい、今後は以前の「足あと」機能の一部や新機能を段階的に提供するとしている。
>
> mixi主催で初のユーザー交流イベント またユーザーへのアンケートやインタビューなど、ユーザーにダイレクトに話を聞く機会を増やす。11月には東京・渋谷の本社で各サービスの責任者がユーザーからの意見を聞く「ユーザーファーストウィーク」を開催。参加者を募集している。
>
>  またユーザーからの改善提案を受け付ける「機能要望」に寄せられた声をサービスに迅速に反映させるための仕組みを早急に確立する。寄せられた意見は各ユニットで検討し、必要と判断したものから迅速に対応する。足あとのリアルタイム化も「機能要望」に多くの意見が寄せられていたという。
>
>  mixiはここ数年、さまざまな取り組みを進めてきたが、「mixiの大きな変化に対する戸惑いやお叱りの言葉」もあり、「これは現在のmixiに対する評価の1つであると重く受け止めております」。同社としても「これまでのユーザーの皆さまのご要望との“ずれ”などを振り返り、皆さまに使い続けたいと思っていただけるサービスを実現するべく全力で取り組む必要があると強く感じています」として、改めて「ユーザーファースト」を最重要に掲げて改善に取り組むとしている。

形の上でのユーザー数自体は着実に増えているとはいえ、その多くは「登録をするだけの数合わせ要員」でしかなく、積極的に活動しているアクティブユーザー数は減少の一途を辿っているmixi。
FacebookやTwitterの隆盛を前に衰退を余儀なくされ、下手すれば存在すらも忘れ去られつつあるmixiの、これが救いの一手となるのでしょうか?
今のmixiには、客を惹きつけられるだけの「売り」がないに等しいですし、下手すれば延命措置にすらもなりはしないのではないか、というのが個人的な感想ではあるのですが。
Twitterに集中していることもあり、最近のmixiは「Twitterのツイートを反映するミラーサイト」的な意味合いしかないに等しいですし。
図体だけはデカいのですから、やり方次第ではアクティブユーザーを取り戻すことも不可能ではないのでしょうが、それにしてもよほどの奇抜なアイデアなり大胆な宣伝戦略でもないと難しいものがあるのではないかと。
かといって、mixiを運営している会社にとっては「ここまで衰退しているのだから諦めよう」で終わるわけにもいかないわけで、「たとえどんなに困難であっても、進まなければ死んでしまう」という泣けてくる状況にあるのでしょうけど。
先行きが非常に暗いmixiの未来、果たしてどうなりますかねぇ。

コミック版「大奥」検証考察9 【大奥システム的にありえない江島生島事件】

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コミック版「大奥」検証考察の9回目。
前回の検証考察から既に1年以上も経過してしまいましたが、「大奥」のコミック版も7巻と8巻が刊行され、さらにはテレビドラマ版も放映され続編映画も公開されるとのことで、この度久々に再開の運びとなりました。
なお当ブログでは、2012年10月12日から始まるテレビドラマ版「大奥 有功・家光篇」、および2012年末公開の映画版「大奥 右衛門佐・綱吉篇」も追跡していく予定です。
今回のテーマは【大奥システム的にありえない江島生島事件】
過去の「大奥」に関する記事はこちらとなります↓

映画「大奥」感想&疑問
実写映画版とコミック版1巻の「大奥」比較検証&感想
コミック版「大奥」検証考察1 【史実に反する「赤面疱瘡」の人口激減】
コミック版「大奥」検証考察2 【徳川分家の存在を黙殺する春日局の専横】
コミック版「大奥」検証考察3 【国内情報が流出する「鎖国」体制の大穴】
コミック版「大奥」検証考察4 【支離滅裂な慣習が満載の男性版「大奥」】
コミック版「大奥」検証考察5 【歴史考証すら蹂躙する一夫多妻制否定論】
コミック版「大奥」検証考察6 【「生類憐みの令」をも凌駕する綱吉の暴政】
コミック版「大奥」検証考察7 【不当に抑圧されている男性の社会的地位】
コミック版「大奥」検証考察8 【国家的な破滅をもたらす婚姻制度の崩壊】

病弱のために極めて短期間の治世で終わった徳川7代将軍家継の時代、江戸城の大奥を舞台に「江島生島事件」というスキャンダルが発生しています。
この事件は、家継の「生母」である月光院に仕え、地位的にも御年寄という高い身分にあった江島が、主君の名代として前将軍家宣の墓参りをした帰途に、芝居小屋・山村座の芝居を観覧し、その宴会に夢中になるあまりに大奥の門限に遅れてしまい、江戸城の城門で押し問答になってしまったことに端を発したものです。
事件の背景には、純粋に大奥の規律の緩みの他、江戸城内における将軍世継ぎを巡る後継者問題や権力闘争なども絡んでいたとの説がありますが、この事件を通じて当の江島は流罪、および密通を疑われた山村座の生島が遠島処分となった他、山村座や大奥の関係者50名近くが罰せられることになりました。
またこの事件の影響で、家継の「生母」として権勢を誇っていた月光院の勢力が弱まり、前将軍家宣の正室・天英院の勢力が力を盛り返して、その後の次代将軍選定にも少なからぬ影響を与えることとなります。

コミック版「大奥」の世界でも、まるで当然の流れであるかのごとく江島生島事件が発生しており、かつ多少の脚色はあれど史実と同様の結末に至っています。
しかし、史実はまだしも、男女逆転した「大奥」世界においては、実のところ江島生島事件の発生する余地自体が全くないに等しいんですよね。
史実の江島生島事件で問題になったのは、大奥を管理する立場にあるものが密会した、とすくなくともそう解釈される事態になったことにあります。
ところが「大奥」世界においては、そもそも婚姻制度が崩壊してしまっているため、「不倫」「姦通」「重婚」「寝取り」その他ありとあらゆる不道徳な行為が大手を振ってまかり通っているのです。
カネで男を買って種付けセックスをすることが普通に認められている世界で、現代的な価値観に基づいた男女の倫理観が常識となっていることの方が、そもそもおかしなことなのではないのでしょうか?

「大奥」のシステム的な面から見てさえも、江島生島事件が成立しなければならない理由などどこにもありはしません。
そもそも、史実における「大奥」というシステムが成立しえた最大の理由は、将軍の子供を孕める女性を大量に提供することで、世継ぎを可能な限り確保しえることにあります。
そして、「大奥」における規則の大部分は、機械的な言い方をすれば、将軍以外の他の男性の精子が「大奥」の構成員たる女性の卵子に入ってくる問題を事前に防止・抑止することに、その最大の存在意義が認められるわけです。
しかし、男女が逆転した「大奥」世界においては、将軍自身が世継ぎを生むという構造上、いくら「大奥」の男性が不義を働こうが、将軍家の血筋以外の者が生まれてくる余地など最初からどこにもないのですから、男性が品行方正に振る舞わなければならない理由自体がありません。
むしろ、作中でも「金喰い虫」扱いされている大奥は、男達自ら外に出て女性相手に「性の奉仕」でもしてカネを稼いでもらった方が経済的にも恩恵がある上、日本の人口増加の一助にもなって一石二鳥というものでしょう。
しかも過去の「大奥」世界では、実際にそのような政策を行った前例も既に存在しています。
コミック版「大奥」4巻、時の徳川3代将軍家光(女版)の時代に、大奥の男性を解雇させた上で吉原へと送り込み、貧しい女性達を相手に安価で「性の奉仕」をさせた事例があるのです。
この制度がその後どうなったのかについてはコミック版「大奥」にも全く記述がありませんが、吉原への大奥男性の供給が滞ると、その瞬間から女版家光が懸念する「売春費用」が高騰する危険性がある上、そもそも赤面疱瘡が無くならない限りは男性不足の問題が解消することもないわけですから、この制度は後年も存続し続けている可能性が濃厚です。
将軍、ひいては江戸の中央行政自らがこういった政策を積極的に推進している前例が既に存在する以上、江戸時代に跳梁跋扈していた祖法至上主義的な前例踏襲の観点から言ってさえも、大奥の男性が外に出て自らの「性」を売り、カネを稼ぐことを推奨してはならない理由など、世界の果てまで探しても存在しえないのです。
「大奥」世界における大奥は、女版家光の個人的な癇癪と逆恨みの類から生まれた以外の何物でもない「ご内証の方は死ななければならない」などという愚劣な決まり事すらバカ正直に継承してきたくらいに、硬直しきった官僚機構的組織でしかないのですよ?
同じ女版家光が「大奥を活用した男性売春業」を推進している作中事実があるのに、「大奥の男性は清廉潔白でなければならない」などという「祖法を変革する」法体系を、女版家光以外の一体誰が決めたというのでしょうか?
せめて、江戸城の門限破りがメインテーマで、融通が利かないコチコチの法体系で江島達が裁かれるというのであれば、まだ「江島生島事件」が発生しえる理由としては成立しなくもなかったのですが、作中では門限破り自体が単なる難癖の類で「密会」の方こそがメインとして扱われている始末ですからねぇ。
婚姻制度が崩壊した「大奥」世界では悪行ですらない「密会」程度のことで、何故あそこまで大がかりなスキャンダルにならなければならないのか、全くもって理解に苦しむ珍現象と言わざるをえません。

それでもあえて無理にでも「江島生島事件」が発生しえる理由を「大奥」世界に求めるとすれば、それは現代におけるかつての野党時代の民主党にヒントが求められるのではないでしょうか?
野党時代の民主党は、とにかく自民党政権のアラとなれば何でも探しまくり、どんな細かいこと・どうでも良いことであっても声高に非難の声を上げ、大臣の辞任を要求し、それを受け入れなければ審議拒否、受け入れればやはり新たな難癖をつけてやはり審議拒否といった行為を繰り返してきました。
極めつけは、「カップラーメンの値段を間違えた」だの「漢字の読みを間違えた」だの「ボールペンのキャップを口にくわえた」だのといった類の、通常ならばゴシップ記事にもならなさそうな出来事に至るまで、非難の口実として自民党政権を罵り倒し続けました。
そして、そうした難癖の数々を、マスコミの偏向報道によって国民も熱狂的に支持した挙句、ついに2009年の政権交代にまで至ったわけです。
これと全く同じ構図が、「大奥」世界における江島生島事件にも当てはまるのではないでしょうか?
すなわち、誰もがそれは常識の類であると分かってはいるものの、非難の大合唱とそれに伴って発生した「空気」によって、誰も異論が差し挟めない状態となってしまい、それどころか「空気に乗り遅れまい」とむしろ熱狂的なまでに江島生島事件を大事化させていった、というわけです。
もちろん、民主党絡みの騒動自体もそうであるように、天英院や加納久通などといった事件の黒幕達は、全てを承知の上での確信犯でことを進めていったのでしょうけど。
そう考えると、あの事件で右往左往している「大奥」の登場人物達は、実に滑稽かつ哀れな様相を呈しているとしか言いようがないでしょうね。
誰もがごく普通にやっていることについて声高に非難の雄叫びを上げ、常に自分に跳ね返ってくるブーメランを投げまくっていることになるのですから(苦笑)。
まあ、「大奥」世界における日本人達の全般的な思考水準がこの程度でしかないというのであれば、あんなありえない男女逆転な「大奥」世界が生まれるのもある意味納得せざるをえないのですが(爆)。
かくのごとく、婚姻制度が崩壊している「大奥」世界においては、江島生島事件など民主党の「カップラーメン値段当てクイズ」と同レベル以下のシロモノでしかありえないわけですよ。
いくら権力闘争の一環とはいえ、よくもまあこんな事件を引き起こして政敵を蹴落とそうと、天英院や加納久通らは考えられたものですね。
あまりにもバカらしいから逆に成功する可能性が高い、という勝算でも立てていたのかもしれませんが、本当に成功してしまって彼らもさぞかしバカ笑いが止まらなかったことでしょうね。
ひょっとすると、「こんな頭の悪いバカな事件で盛大に右往左往する日本の将来は本当に大丈夫なのだろうか?」と逆に危機感を抱いたかもしれませんが(爆)。

史実における江島生島事件は、現代に比べれば緩い性規範が支配的だったであろう江戸時代とはいえ、それでもまだ「不義密通は悪いこと」という常識や倫理観があったことは確実ですから、ましてや舞台が江戸城大奥ともなれば一大スキャンダルとして成立するのも当然のことでしょう。
しかし、婚姻制度が崩壊し、不義密通が当たり前になってしまっている「大奥」世界においては、江島生島事件における不義密通の疑惑など「日常生活の一部」を構成するごく普通の出来事でしかありえません。
「大奥」世界における社会的文化から考えても、江戸城大奥のシステム的な観点から見ても、江島生島事件は「事件として成立する方が奇妙奇天烈な事案」でしかないのです。
作品的には、男女逆転した大奥を描きつつ史実の江戸時代の歴史をそのままなぞるというコンセプト上、江島生島事件を避けて通ることはできなかったのでしょうが、自分の作り出した世界と江島生島事件が完全に相反するものになってしまっているという事実を、作者氏は気づくことができなかったのでしょうかねぇ。

いよいよ10回目となる次回は、コミック1巻で没日録を読み始めてからようやく現実に戻ってきた、徳川8代将軍吉宗の問題について取り上げていきたいと思います。

映画「ロラックスおじさんの秘密の種」感想

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映画「ロラックスおじさんの秘密の種」観に行ってきました。
児童文学作家ドクター・スースが著した1971年の児童書「The Lorax」を原作とする、イルミネーション・エンターテイメント社制作の3DCGアニメ作品。
今作は3D版も同時上映されていますが、私が観賞したのは2Dの日本語吹替版になります。
今作の日本語吹替版は、ロラックスおじさんを「あの」志村けんが演じているということで話題になっていたりします。
というより、今作最大の売りは、この「志村けんが声優をやっている」という一事に尽きるのではないのかと(苦笑)。

物語の舞台は、全ての建造物はもちろんのこと、元来は自然のものであるはずの植物に至るまで全てが人工物でできている街。
その街は、オヘアという名の資産家が営む同名の大企業によって整備され、空気もきれいで環境も清潔に保たれていたものの、一歩街の外に出れば、よどんだ空気に不毛な大地がひたすら世界が広がっています。
オヘアは街を取り囲む巨大な外壁を作り、街の外に人が出ていくことのないよう、常に監視の目を光らせていました。
その街に住む今作の主人公である少年テッドは、オードリーというやや年上?の女の子が好きで、彼女の家に足しげく通う日々を送っていました。
ある日、ラジコン飛行機が家の中に落ちたという口実でオードリーの家を訪ねたテッドは、オードリーに自然の木が林立している絵を見せられます。
そしてオードリーは、「本物の木が見たい、それを見せてくれたらキスしてあげる」とまで言い切るのでした。
このオードリーの言葉に心を動かされたテッドは、テッド以上に変わり者の家族に本物の木のことについて尋ねます。
すると、テッドのおばあちゃんがそれに応え、街の外に住んでいるワンスラーという名の人物が本物の木のことについて知っていると教えてくれます。
翌日、テッドは街の外壁を越え、不毛の荒野と化している外の世界へバイク?を飛ばし、ワンスラーの元へと向かうのでした。
ワンスラーは前衛芸術のごとき建物に住んでいて、最初はテッドのことを邪険に追い払おうとします。
しかし、テッドの熱意に半ば負ける形で、やがて彼はかつて緑豊かだった昔の話を始めるのでした……。

映画「ロラックスおじさんの秘密の種」は、上映時間が86分と短い上、主人公のテッドがほとんど関わることのない、ワンスラーの昔話のエピソードが前半から中盤頃までのストーリーのほとんどを占めています。
ワンスラーの昔話から、何故今の完全人工物な街が出来上がったのかが分かるようになっているわけです。
しかしその代償は決して小さなものではなく、肝心のテッドが作中で活躍するのが物語も後半に入ってからのことになってしまっており、普通の映画と比較してもかなり薄味なストーリー感が否めないところなんですよね。
実質的なプロローグ部分が映画全体の半分近くも占めている、というのは正直どうなのかと。
また、今作のタイトルにもなっているロラックスおじさんは、ラストでワンスラーの元でちょっとだけ登場した以外は、全てワンスラーの昔話の中にしか存在しておらず、今作の主人公であるはずのテッドとは何の接触も関わりもなかったりします。
登場頻度もテッドが表に出てくるようになってからはラスト以外出番なしでしたし、もう少し主役級の活躍をするとばかり思っていたのですけどねぇ、ロラックスおじさんは。

ところで作中の物語は、街を牛耳る大企業のボスであるオヘアを諸悪の根源のごとく見立てて、それを打倒するという単純明快な勧善懲悪の形を取ってストーリーを進行させているのですが、ワンスラーの昔話を見る限り、そもそもこの構成自体に疑問を抱かざるをえないところですね。
そもそも、例の完全人工物の街ができ、かつその外の世界が不毛の大地と化してしまった最大の原因は、スニードという商品を売るために見境なく木を切り倒させまくったワンスラー自身が全ての元凶です。
彼はロラックスおじさんの警告を無視してまで森林伐採を続けていたのですし。
しかも、スニードの原料となる木が根こそぎなくなってしまったらスニードが製造できなくなってしまうことくらい、木を伐りつくす前に簡単に予測できそうなものなのですが。
ワンスラーは目先の利益にこだわるあまり、継続的に利益を上げ続けるという企業経営者としての視点が皆無と言って良く、その点では無能のそしりを免れないでしょう。
むしろ、森林が復活したら自社の空気販売ビジネスが成り立たなくなってしまうという危機感を抱いていたオヘアの方が、企業経営者としてははるかにマトモです。
せめて、スニード製造用の木がなくなる前に植林をするとか、木を切り倒さずにスニードの原料を効率良く集められる技術を開発するとか、そういったことを考えることすらできなかったのですかね、ワンスラーは。
そうすれば、ロラックスおじさんの要求とスニードの製造の双方を満たすことも可能だったというのに。
ラストのワンスラーとロラックスおじさんとの再度の(作品的には)感動的に描いているはずの邂逅も、不毛の大地を生み出し自然の動植物に多大なダメージを与えたワンスラーの責任を不問にしていますし、到底納得のいくものではなかったですね。
ロラックスおじさんはワンスラーに対して「よくやった」などと声をかけていますが、当のワンスラーはテッドに種をやっただけであり、街の真ん中に種を植えるという偉業を成し遂げたのはテッドではありませんか。
「ロラックスおじさんの秘密の種」はあくまでもテッドが主人公かつ彼の物語なのであり、間違ってもワンスラーの物語などではありえないのですが。
物語構成における主人公の配分を間違っているのではないかとすら、考えずにはいられなかったですね。

あと、ワンスラーの昔話に登場していたワンスラーの家族、特に母親はワンスラーのことをひたすらバカにしていたのですが、ワンスラーはその家族に対して終始全く頭が上がらない態度を取っているんですよね。
あの家族はワンスラーのことを寸毫たりとも愛してなどおらず、のみならずワンスラーのことを利用するだけ利用して最後は投げ捨てるかのごとく夜逃げをしていったのですが、ワンスラーもこんな家族のことなんて気にかけなければ良かったのに、とはついつい考えずにいられなかったですね。
むしろ、ある程度財を築いた時点で、財力に物を言わせて追い詰めるなり、暗殺者を雇うなりして、あの家族をこの世から社会的・物理的に抹殺すらしても良かったくらいだったのではないのかと。
人手不足だからって別に家族など呼ばなくても、スニード製造がカネになることは最初から分かり切っているのですから、現地住民をカネで雇うなり、あるいは最初はロラックスおじさんと森の動物達に手伝ってもらうところから始めるなりした方が、却って森林を保全したまま事業を拡大するというやり方も可能だったのではないのかと。
視野が狭く自分のことしか考えない利己主義な家族を切り捨てることができなかったことも、ワンスラーの致命的な誤りのひとつだったと断定しえるでしょう。

映画「ロラックスおじさんの秘密の種」は、上映時間が短いこと、特に後半の展開が単純明快な図式であることから、完全に低年齢層を対象とした映画ですね。
子供だけで行くか、あるいは親子連れで楽しむための作品と言えそうです。

映画「ツナグ」感想

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映画「ツナグ」観に行ってきました。
辻村深月の同名小説を原作とする、人の死と死後の再会をテーマとするファンタジー要素を含有した人間ドラマ作品。

その街には、ひとつの都市伝説が存在しました。
生涯でたった一度かつひとりだけ、死んだ人と再会させてくれる仲介人「ツナグ」という名の存在。
多くの人が一種のヨタ話として信じない中で、「ツナグ」は実在し仲介活動を行い続けていました。
その噂話や存在の話を知る人が、その存在を信じ、さらに「ツナグ」と何らかの形で連絡が取ることができ、そして何よりも「死者が生者と会うことを承諾する」ことによって初めて実現する、ツナグを介した死者と生者との邂逅。
そこには、死者と生者、そして「ツナグ」の3者を取り巻く複数のルールが存在します。

1.死者が「生者に会いたい」と「ツナグ」に依頼をすることはできない。
2.死者・生者共に「死」の壁を越えて会えるのはひとり1回だけ(ひとりの生者が「ツナグ」に複数回依頼することができないのはもちろんのこと、複数の生者がひとりの死者相手にそれぞれ1回ずつ会うこともできない)。
3.死者と生者が会えるのは月が出る夜、日没から夜明けまでの限られた時間のみ。それが過ぎると死者は消滅する。
4.「ツナグ」自身は1回たりとも死者に会うことを望むことはできない(ただし、「ツナグ」を引退したり「ツナグ」になる前であれば別)。
5.「ツナグ」になるためにはとある鏡の所有者になることが必須条件。その鏡を使うと、特定の死者と会話をすることができる。
6.「ツナグ」以外の者が鏡の鏡面部分を直接見た場合、その鏡を見た者と「ツナグ」の双方が死ぬ。

なお、作中で「ツナグ」の仕事に従事していた渋谷一家は、「ツナグ」の仲介で依頼者からカネを取るといった行為は一切行っていませんでした。
「ツナグ」の仕事でカネを取ってはいけない、というルールは特になかったようなのですが。
作中でも言われていたように、人生に立ち会うという重い仕事を担うことになる「ツナグ」が無報酬というのは、正直割に合わない感が否めないところではあるのですけどね。

作中における「ツナグ」を担う人間は、今作の主人公・渋谷歩美(こんな名前なのに男性だったりします(^^;;))の父方の祖母である渋谷アイ子。
渋谷アイ子の生家は、先祖代々「ツナグ」の仕事を担い続けてきた秋山家という家で、現在は渋谷アイ子の兄である秋山定之がひとりで家を維持しているようです。
秋山定之もかつては「ツナグ」として死者と生者の仲介を行った過去があったものの、渋谷アイ子にその地位を譲ったのだとか。
渋谷歩美は、渋谷アイ子から「ツナグ」の話を聞かされ、半信半疑ながらもその見習いを自主的に引き受けていたのでした。
その彼が作中で直面することになる「ツナグ」見習いとしての仕事は、以下の3人の人物からの仲介依頼となります。

1.ガンで亡くなった母親がどこかにしまってそれっきりとなっている土地の権利書を聞き出すことを目的としている、個人経営の木材精製所?の社長・畠田靖彦。
2.演劇部の主役を巡り、自分を差し置いて主役に抜擢された親友・御園奈津に殺意を抱き、その直後に事故死してしまったことに罪悪感と恐怖心を抱いている嵐美沙。
3.7年前に突如失踪して行方どころか生死すら不明の恋人・日向キラリを想い続けるサラリーマンの土谷功一。

この3つの依頼に基づく「死者と生者の仲介」を通じて、渋谷歩美は「ツナグ」の仕事とその心得について実地で学んでいくことになります。
また渋谷歩美は両親が既に他界しているのですが、その両親の死には疑惑が付きまとっており、その疑惑についても彼は向き合っていくことになります。
その結末と真相は、一体どのようなものとなるのでしょうか?

映画「ツナグ」では、主人公である渋谷歩美役を松坂桃李が主演として担っています。
私が彼の存在を初めて知ったのは、2010年に銀英伝舞台版で彼がラインハルト役を担当することが公式サイドから発表された時だったのですが、その頃と比べても彼が映画界その他でメキメキと頭角を現しているのが分かりますね。
その後、私が観賞したことのある映画に限定しても「アントキノイノチ」「麒麟の翼 〜劇場版・新参者〜」などに出演暦がありますし、「ドットハック セカイの向こうに」でも登場人物のひとりの声優を担当していたりします。
Wikipediaを参照してみると、実際にはさらにそれ以外の映画やテレビドラマ、さらにその他色々な分野でも活躍しているみたいですし。
芸能・スポーツ分野には人並以上に疎く、初めて名前を知った頃に「誰だこいつは?」とすら考えていたほどの私がこれだけ名前を見かける覚えていることができるというのは、俳優としては結構成功している部類に入るのではないかなぁ、と(苦笑)。
また、今作で渋谷歩美の依頼者のひとりとなっていた嵐美沙役の橋本愛も、私が観賞している映画の中では「HOME 愛しの座敷わらし」「スープ ~生まれ変わりの物語~」「アナザー/Another」に続き今年4作目。
こちらも現在人気上昇中といったところのようですね。
ただ、今作では序盤から意味ありげに出演していたことから、ひょっとすると主人公と恋愛関係にでもなるのかと考えていたら、作中ではあくまでも依頼者のひとりという立場のみで終わっていたので、その辺は少々肩すかしを食らったところではあったのですが。

3人の依頼者による死者との対面は、そのいずれもが少なからず印象に残るものではあったのですが、個人的にも最も強烈だったのは、橋本愛が演じた2人目の依頼者である嵐美沙のものでした。
残り2者が動機や過程がどうであれ「死者に会いたい」という願いそのものは本物だったのに対して、彼女だけは親友の御園奈津に対して「自分が殺してしまった」という負い目と「そのことが他者にバレたら…」という恐怖心を抱いていて、どちらかと言えば「親友に会いたい」よりも「自分の負い目と恐怖心を払拭するため」という思惑の方が強かったわけなのですから。
御園奈津は御園奈津で、嵐美沙の思惑や自身への殺意を知っていたようでしたし、「ツナグ」見習いの渋谷歩美を介して、嵐美沙を試していたかのようなスタンスを最終的に披露したりしていました。
あそこまで嵐美沙のやっていたことを知っていたのならその心情を理解することもできたでしょうに、御園奈津も残酷なことをするよなぁ、とあの場面ではつくづく考えずにはいられなかったですね(T_T)。
あのやり取りのせいで、嵐美沙は間違いなく一生ものの後悔を背負うことになってしまったのではないかと思えてならないのですが。
御園奈津にしてみれば、長年親友関係をやっていた嵐美沙との友情を疑いたくなかった、という心情も働いてはいたのでしょうけど、どうせ今後の御園奈津と嵐美沙は、嵐美沙が死ぬまで二度と会うことはないわけですし、真相を自分の胸にしまったまま嵐美沙の負い目と罪悪感を当人の希望通りに払拭してやっても良かったのではなかったかと。
ただ、嵐美沙が懸念していたであろう「御園奈津を殺そうとしていたことが御園奈津の口から他者にバレたら……」という問題については、「ツナグ」を介して自分が御園奈津と出会った時点で雲散霧消してしまってはいたのですけどね。
「ツナグ」のルール上、今後の御園奈津が「ツナグ」を介して他者と出会うことはできなくなったわけですし、その点ではひとつの目的は達成していると言えるのではないでしょうか。

あと、映画「ツナグ」における「仲介者としてのツナグの存在とその小道具」は、もし実在するならば政府機関やマフィア、および彼らに派遣されるであろう暗殺者や刺客などに付け狙われる要素となりえるでしょうね。
何しろ「ツナグ」がいる限り、「口封じで暗殺」という手法は一切通用しなくなってしまうのですから。
「ツナグ」がいれば、口封じで殺されたしまった被害者から、事件の真相や加害者の正体などを聞き出すことも可能となるのです。
加害者側にしてみれば、「ツナグ」から口封じの被害者が生者と対面し真相を暴露するような事態は何としてでも防がなくてはなりませんし、逆に被害者側にとっての「ツナグ」の存在は、加害者に一矢報いるための必勝必殺の武器となりえます。
「ツナグ」を巡っての政争や争いが起こっても何ら不思議なことではありませんし、これがアメリカであれば、CIAやFBIに大統領直属のシークレットサービスなども絡んだ一大スパイアクション映画的な作品にでも変貌していたのではないかと(笑)。
そこまでスケールのデカい話でなくても、たとえば迷宮入りした殺人事件などで、死者に直接犯人を尋ねたり真相を語らせたりすることもできるでしょうし、個人的な用途以外にも使い道はかなりのものがありそうなのですけどねぇ。
実際、作中でも「母親から土地の権利書について聞きだす」だの「殺意の真相が他者にバレたらどうしよう」などといった、「ツナグ」依頼者達の事情が描写されていたりしているのですから。
「死者から直接情報を引き出せる」というのは、そこまで大きな価値が伴うことなのですが。

他にも、「ツナグ」になるために必須となる鏡の存在も、本来の用途とは全く異なるものでありながら極めて有効な使い方がありますね。
「ツナグ」のルールにもあるように、あの鏡は「ツナグ」以外の者が鏡面部分を見ると当人および「ツナグ」が死ぬようになっています。
ということは、あの鏡の鏡面部分を他者に見せることで、その他者を死に至らしめることも可能、ということになります。
つまりあの鏡は、メドゥーサの首のごとく「人を殺すための武器」としても活用することができる、ということになるわけですね。
渋谷歩美の両親の死の原因がまさにそれだった(当時「ツナグ」だった父親の鏡を母親が見てしまった)わけですが、当時の警察での調べでは「母親が父親に殺され、直後に父親も自殺した」とされていました。
これから分かるのは、鏡を使った殺害では、その凶器ばかりか死因の真相すらも満足に暴くことができない、という事実です。
あの鏡は、やり方次第では「完全犯罪」をも可能にする凶器となりえるわけですよ。
歴代の「ツナグ」がそんな鏡の使い方をしなかったのは、何と言っても「ツナグ」自身の生命に関わる事項である以上当然と言えば当然なのですが、逆に言えば自分が「ツナグ」にさえならなければ、他者「だけ」を殺すことも可能となるわけでしょう。
「ツナグ」の件を抜きにして考えても、あの鏡を欲しがる人は欲しがるのではないかと思えてならなかったですねぇ(^^;;)。
……「ツナグ」とは全くの対極をなすであろう、どこか「デスノート」を髣髴とさせる「ルールを逆用したゲーム」のごとき使用方法ではあるのですが(苦笑)。

ストーリー的には「死者と生者との対面」を巡る死者と生者それぞれの葛藤や本音のぶつかり合いが面白く、充分に楽しめる仕上がりになっています。
「映画はアクションシーンや迫力ある映像が全てだ!」という嗜好の人でなければ、多くの方にオススメの作品ではないかと思います。

映画「最強のふたり」感想

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映画「最強のふたり」観に行ってきました。
頸髄損傷による首から下の全身麻痺のために不自由な生活を余儀なくされている大富豪が、スラム街の黒人青年を介護士として雇ったことから始まる、フランスのヒューマンコメディドラマ作品。
今作は本来、日本では2012年9月1日から全国公開されているのですが、熊本ではどういうわけか10月6日が解禁日となっており、実に1ヶ月以上遅れての映画観賞となりました。
2012年9月は、他ならぬ私自身が1ヶ月フリーパスポートを使ったほどに映画館での上映開始作品が特に集中していたので、上映のためのスクリーンが埋め尽くされていたことによる皺寄せでもきていたのでしょうが、こんなところにも地域間格差というものはあるのかと、改めて思い知らされた気分です(T_T)。
しかも、この映画はPG-12指定されているのですが、作中の最初から最後まで見ても、直截的なバイオレンス&セックス描写といったものがこれといって特に見られなかったんですよね。
おそらくは、「障害者の性生活の実態」という生々しい下ネタ話が作中に出ていたことから規制に引っ掛かった、といったところなのでしょうが、映画「Black & White/ブラック&ホワイト」などのように、作中に下ネタ話がいくら出てもPG-12指定されなかった作品も過去にはあったりしたのですけどねぇ。
この手の規制って、一体何を基準にしているのだろうなぁと。

物語は、黒い高級車を乗り回す2人の男が、スピード違反をやらかし警察に追われるところから始まります。
高級車は警察から逃げ続けますが、1台のパトカーに前方へ回り込まれ、前後から挟み撃ちの形であえなく御用に。
しかし、運転手に乗っていた黒人男性がとっさに機転をきかし、助手席に乗っていた男性が警官達に対し「障害者で一刻を争うから病院に向かっていた」と証言します。
高級車の後部に車椅子が乗っていること、そして何よりも助手席の男が発作を起こしている様相を見せることで、警官達もさすがに緊急を要すると判断せざるをえなくなります。
そして2人に対し、自分達が病院まで先導するとまで申し出てきたのでした。
実は助手席の男の発作は演技もいいところで、警察の車に先導されていた間、2人は音楽を車内で音楽をならして歌っていたりするのですが(笑)。
そして、警察の先導で病院に到着し、警察車両が去っていくのを見計らった上で、2人は病院のスタッフが駆け寄るのを尻目にさっさと車をどこかへ発進させてしまうのでした。

ここで場面は切り替わり、いよいよ2人の関係について描かれることになります。
物語冒頭で高級車を運転していた黒人男性の名はドリス。
彼は、同じ高級車の助手席に乗っていた、頸髄損傷で首から下の感覚が完全に麻痺してしまっている大富豪のフィリップの介護士となるための面接に臨んでいました。
給与も期待できるであろう大富豪の介護士ということもあり、フィリップの元にはドリスを含め多くの介護士志望者が面接に訪れていました。
彼らは口々に自分の介護の資格や実績・経験などを語り、表面的には文句のつけようもない美辞麗句の数々で自分をアピールしていました。
ところがドリスはというと、彼は別に介護士になるつもりなど最初からさらさらなく、不採用の証明書にサインをもらうことで失業手当をゲットすることが目的という、何とも下心丸出しの動機から面接を申し込んでいたのでした。
そして、面接の場で当のフィリップと面接官と相対した際も、そのことを隠しもせずに自分の目的を最初から堂々と開陳して「不採用証明書へのサイン」を迫るドリス。
かくのごとくふてぶてしい態度を披露するドリスに対し、面接官は当然のごとく呆れ顔でしたが、介護される立場のフィリップはしかし、ドリスに興味を持ったかのように自ら話しかけ始めます。
他の志望者達に対しては自ら発言することなく、終始面接官に対応を任せ切っていたフィリップが、です。
そして一方、ドリスが要求している「不採用証明書へのサイン」については「すぐには決められないので、明日の9時にもう一度来てくれ」と返答を返します。
言質を取ったことで、ドリスはさっさとフィリップの元を辞してしまいます。
しかしその夜、久しぶりに実家へ戻ったドリスを、家の主である(これは後で判明するのですが)伯母が勘当を言い渡し、彼は実家から追い出されてしまうのでした。
翌日、早朝から出てきたドリスに対し、フィリップは2週間の試用期間を設けて雇うことをドリスに告げるのでした。
実家を勘当されてしまったこともあり、ドリスはフィリップの屋敷で住み込みで働くことを承諾するのですが……。

映画「最強のふたり」では、大富豪のフィリップとスラム街出身のドリスが、互いに良きコンビとなっていく様子が描かれています。
ドリスは「雇い主かつ障害者」という、ある意味非常に逆らい難い無敵の組み合わせであるはずのフィリップに対して全く遠慮というものがなく、ズケズケと本音を語り情け容赦もない言動に終始しています。
しかし、それが他者から同情されることにウンザリしていたフィリップにとっては最高の対応でもあったわけなのですから、その点では何とも皮肉な話ではありますね。
物語後半でドリスは一度クビになり、後任の介護士が新たに雇い入れられるのですが、その人物は明らかにフィリップに遠慮があり、腫物でも触るかのような対応ばかりするありさまでしたし。
フィリップに雇われた介護士達は、ドリスが来るまでは1週間持たずに辞めているケースがほとんどだったそうですが、なるほど、アレではさもありなんと納得せざるをえないところです。
一方で、秘書のマガリや家政婦?のイヴォンヌなどといったフィリップの周囲の女性達がフィリップとそれなりに上手くやっていたらしいことを考えると、フィリップの介護にはドリス以外だと男性ではなく女性でも雇った方が却って良かったのではないか、これまたついつい考えずにはいられなかったですね。
自分に遠慮する介護士達に厳しく当たっていたフィリップも、女性が相手の場合だとさすがにそういう態度に出るのも難しくなるでしょうし。
まあ、着替えやシモの世話などに至るまで介護しなければならないという条件下では、素直に雇われてくれる女性は少ないかもしれませんが、病院の女性看護師とかであればそういう仕事も日常茶飯事でしょうし、高給で釣ればその点も何とかなったのではないかと思えてならなかったのですが。
フィリップも別に、ドリスが来るまでは「介護士と友人になりたい」という動機から男性介護士を雇っていたわけではなかったのでしょうから、男性にこだわらなければならない理由なんて特になかったのではないのかと。

この作品で意外に興味深かったのは、「障害者の性処理問題」についても言及されていたことですね。
フィリップは首から下の感覚が完全に麻痺してしまっていることから、健康体の男性が通常行っている性処理を行うことができません。
では彼は何を以て性処理を行っていたかというと、耳を性感帯にして「感じる」ことで代替手段としていたというんですよね。
ドリスの質問に対して、フィリップ本人がそのように回答していて、実際、2人でその手の施設に行ってフィリップが耳たぶを女性のマッサージ師?に触られている描写が作中で描かれていたりします。
「障害者の性処理問題」というのは意外に重要なテーマでありながら、巷ではほとんど言及されることがない事項だったりするので、それについて正面から向かい合っているこの作品は新鮮ではありましたね。
ドリスの性格もそうですが、この手の「全く飾り立てることのない本音の吐露」が今作最大の魅力である、と言えるでしょうか。

熊本のような上映開始が遅れている地方以外だと、もうとっくに上映終了しているであろう今作ではありますが、人間ドラマとして見る分には、さすが2011年度のフランスで最大の観客動員数を記録しただけの出来ではあります。
その手のドラマ好きな方にはオススメの映画と評価できるのではないかと。

新車プリウスの購入と乗車の感想

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2012年9月に、実に6年半ぶりとなる新車の買い替えを行いました。
新しい車は、トヨタ製ハイブリット車のプリウス。
ハイブリット車の導入は今回が初めてとなるのですが、さすが色々と話題になるだけあって、これまでのクルマとは一味違った機能と乗り心地を堪能しています。
今回はそんなクルマの話を少し。

私は地方在住ということもあり、クルマは元々生活必需品のひとつでもあります。
東京のような充実した鉄道網など地方には期待のしようもないのですし、ましてや私が住んでいる熊本県は、人口の割に鉄道網の整備が著しく遅れている地域なのですから、そうなるのも当然のことではあるのですが。
そんなわけで「日常生活の足」として必要不可欠なクルマなのですが、私の場合は「せっかくの足なのだから可能な限りよいクルマを」ということで、だいたい平均4~5年のスパンでクルマを買い替えるよう努めていたりします。
過去に私が購入したクルマは以下の通り(横の年代は所有していた時期)↓

スズキ カルタス(1995年~1999年)
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トヨタ カローラワゴン(1999年~2001年)
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トヨタ オーパ(2001年~2006年)
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トヨタ アイシス(2006年~2012年)
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クルマに慣れるための練習用として最初から割り切って買った最初のカルタス以外は、何故か全てトヨタ製のクルマだったりします(苦笑)。
今回も含めてその時々の買い替えの際には、一応ホンダや日産のクルマなども候補には入っていたのですが、結果的には「当て馬」にしかなっていなかった感じですね。
ちなみに今回の場合、「今度買う車は燃費の良いハイブリット車にしよう」ということが最初から決まっていたのですが、当初はプリウスではなく、トヨタのハイブリット車アクアとホンダのハイブリット車フィットシャトルが、買い替え候補として挙がっていました。

トヨタ アクア
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ホンダ フィットシャトル
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しかし、アクアは車体の全長があまりにも短すぎる(4mに満たず、アイシスと比較すると70㎝以上も短くなる)上、カーナビなどのオプションを色々とつけていたらプリウスに迫る購入価格にまでなってしまい(見積価格を比較したら20万弱程度しか差がなかった)、「それならば最初からプリウスにした方が良い」ということになって、あっさりとプリウスに取って代わられてしまいました(苦笑)。
そしてフィットシャトルの方は、車体や装備的にはまずまずのものがあったのですが、いざ試乗してみたら、どうにもその「パワーのなさ」が妙に引っかかってならなかったんですよね。
フィットシャトルは排気量1300ccで、元々アクアよりも排気量が少ないクルマではあったのですが、車体が大きいのに排気量や馬力が少ないという弊害がここにきて違和感として現れた感じでしたね。
結局、この違和感が決定打となってしまい、フィットシャトルも買い替え候補車から脱落することに。
そんな流れで、今回めでたくプリウスが買い替え対象車として選定されることになったわけです。

ちなみにプリウスの購入が決定した際、「どうせプリウスを買うのならプリウスαの方が良いのではないか?」という考えも当然ありました。
以前にも述べたことがあるのですが、私は元々ステーションワゴンやミニバン系のクルマが好きで、かつプリウスαの車体はその用途を充分に満たしているように見えたのですから。

トヨタ プリウスα
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しかし、実際にネッツトヨタの店で実物の確認を行ったところ、プリウスαは後部座席と荷物置き場が完全フラットにならないことが分かったんですよね。
後部座席を倒して後ろを広くすること自体はできたのですが、後部座席と荷物置き場との間で段差が生じてしまうのです。
それに対し、プリウスの方は車体の全長がプリウスαよりも短いものの、後部座席を倒すことで「段差のないフラット空間」を作ることが可能でした。
私がステーションワゴンやミニバンを好む最大の理由は、後ろを段差のない完全フラット状態にできることにあったわけですから、その点ではプリウスαよりもプリウスの方が要望に叶っていたわけです。
プリウスαの車体自体はプリウスよりも好みであっただけに、この決定的な格差だけは実に惜しいものがありましたねぇ(T_T)。

さて、そんな紆余曲折あって購入した新車プリウスですが、確かに燃費については巷で高く評価されるだけのことはありますね。
公式サイトや宣伝などに書かれている「30~35㎞/L」という燃費はあくまでも「カタログスペック」でしかなく、実際にはそこまで行かないということではあったのですが、それでも近場を走っているだけで平均17~18㎞/L、遠出をすれば22~26㎞/Lまで伸ばすことが可能です。
これまでのクルマでは、近場をうろつくだけだと7~8㎞/L、遠出をしても10~12㎞/Lの燃費しかなかったのですから、それを鑑みれば実に倍以上燃費が向上していることになります。
さらにプリウスには、電気だけをエネルギーとして動く「EVモード」と呼ばれる機能が搭載されています。
これは、あらかじめバッテリーに電気が充電されている時に、エンジンを起動することなくバッテリーからクルマを動かすことができるという優れもので、特に駐車場などでの短距離・低速走行を行う際には非常に便利なシロモノです。
クルマが最も燃料を食うのはクルマの発進時であるため、これを上手く活用すれば更なる燃費の節約も可能となるわけです。
また、「EVモード」で動いている際のプリウスはエンジン音がないため、「本当に稼働しているのか?」という疑問すら浮かんでしまうほどの静粛性を誇っています。
プリウスの静粛性は燃費と並んで結構話題になってはいましたが、実際に見るとまさに想像以上の静粛性ですね。
往年のアメリカTVドラマ「ナイトライダー」シリーズに登場するドリームカー・ナイト2000こと「KITT」の基本性能の中に、エンジン音を消してクルマを静かに走行させる「サイレントモード」と呼ばれるものがあったのですが、プリウスはそれをリアルで実装しているわけです。
カーナビ・TV電話に続き、またひとつ「ナイトライダー」の世界が近づいたわけで、技術の進歩は凄いなぁと改めて感動してしまったものでした。

燃費や性能的には文句のつけようのないプリウスですが、その長所を生かしきれるか否かは私の今後の運用次第といったところですね。
あまり長距離を走ることがなければ、せっかくの長所も宝の持ち腐れとなってしまうのですが、果たしてどうなることやら。

相変わらず「自分に甘く他人に厳しい」民主党

法務大臣の田中慶秋が外国人経営の企業から献金を受け取っていた問題で、民主党の政調会長である細野豪志が法相の辞任に否定的な見解をのたまったそうです。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121005/stt12100509170004-n1.htm
>  民主党の細野豪志政調会長は5日午前、TBSの番組で、田中慶秋法相が外国人経営の企業から献金を受け取っていた問題について、「外国人から献金をもらった一事をもって、すぐ政治家が入れ替わるのはよくない。説明を尽くした場合には次のチャンスもしっかり与える、という見方をしていただきたい」と述べ、田中氏の辞任には否定的な考えを示した。

かつての自民党政権時代には、法的に何の問題もなかった事務所費問題や「額に絆創膏を貼っていた」程度のことで、声高に大臣の辞任を要求していた民主党がそれではねぇ…。
そもそも民主党政権に限定しても、かつて同じような外国人献金問題で大臣を辞任した前原某の事例が立派に存在するでしょうに。
もはや命脈も尽き、いつ瓦解するのかのみに国民からの注目が向けられているのが実情だというのに、この及んでも相変わらず「自分に甘く他人に厳しい」を繰り返すのですね、民主党は。
せめて自分にも厳しければ、賛否は別にしても言っていることにそれなりに一貫性はあるとして評価可能な要素も出てくるかもしれないのに。
まさに野党自民党の言うがごとく、民主党政権が1日でも長く続くことそれ自体が日本の国益および国民生活を損なうと言っても過言ではないですね↓

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121004/stt12100415250009-n1.htm
>  自民党の麻生太郎元首相は4日の派閥の例会で、衆院解散・総選挙の時期について「近いうち、というのから遠いうちにだいぶ変わってきたような気がする。(野田佳彦首相は解散を)逃げよう逃げようという感じだが、この内閣が一日続けば一日続くほど国益を損なうと確信する」と述べた。
>
>  野田首相が谷垣禎一前総裁との党首会談で「近いうちに信を問う」と表明したにもかかわらず早期解散を先送りを図ろうとしていることを批判、自民党は攻勢を強めるべきだとの考えを示唆したものだ。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121005/stt12100507300003-n1.htm
>  自民党の安倍晋三総裁と公明党の山口那津男代表は5日午前、国会内で会談する。野田佳彦首相が呼び掛けている民主、自民、公明3党首会談で、8月の首相と谷垣禎一前総裁、山口氏の会談で「近いうちに信を問う」とした合意履行を連携して求め、解散時期の明示を迫る考えで一致。首相が解散時期への言及を避けた場合は厳しく対峙する方針も確認する。両党は、他党に呼び掛けて来週にも野党党首会談を開き、臨時国会召集などで首相への圧力を一層強める構えだ。
>
>  自公党首会談には石破茂、井上義久両幹事長らも同席。次期臨時国会で焦点となる2012年度予算執行に不可欠な公債発行特例法案や定数削減を含めた衆院の「1票の格差」是正のための選挙制度改革関連法案など重要法案への対応も協議する。

安倍新総裁による新しい自民党の体制が出来上がった今となっては、再度の政権交代に慎重でなければならない理由など、世界中どこを探してもありはしません。
民主党はとっとと衆議院を解散させ、党もろともこの世から消滅すべきなのです。

Facebookユーザー数10億人突破と今後のSNSの動向

世界大手のSNSサイト「Facebook」のユーザー数が10億人を突破したと、FacebookのCEOマーク・ザッカーバーグより発表されました。

http://megalodon.jp/2012-1004-2134-27/sankei.jp.msn.com/world/news/121004/amr12100421090008-n1.htm
>  交流サイト最大手の米フェイスブックの利用者が10億人を超えたと、同社のマーク・ザッカーバーグ最高経営責任者(CEO)が4日、明らかにした。欧米メディアが報じた。
>
>  フェイスブックは2004年、米ハーバード大に在学中のザッカーバーグ氏らが設立。今年5月に鳴り物入りで米市場に上場したが、収益への懸念が広がり最近の株価は低迷している。3月末に利用者が9億人を超えていた。(共同)

昨今のFacebookは「アメリカ本国のFacebook離れ」や株価の低迷など、あまり良い話題がなかったのですが、それでもユーザー数自体は全世界を相手に相変わらず増え続けていたようで。
最近よく見る傾向としては、個人よりも組織や企業や有名人などが、広告媒体や情報発信のためのツールとして利用するケースが多くなっているようで、その点ではTwitterよりも活用の度合いが多くなっているみたいですね。
最近でも、自民党の安倍新総裁のFacebook公式ページで、マスコミの偏向報道について反論していることが話題になったりしていますし。

安倍晋三氏のFacebook公式ページ
http://www.facebook.com/abeshinzo
総裁選の際の3500円カツカレー報道の件で反論
http://www.facebook.com/photo.php?fbid=248648245258626&set=a.132334373556681.21871.100003403570846&type=1

手軽に短文がアップできるがために失言や暴言の類が後を絶たないことをから「バカ発見器」などと揶揄されているTwitterよりも、最初から実名公開が明言されているFacebookの方が「失言防止」的な観点からは有用、ということになるのでしょうか。
企業や有名人であれば、Facebookの実名公開主義もさしたる問題にはならないですし。
そう考えると、今後のSNSでは、個人・匿名利用のTwitterと法人・有名人御用達のFacebookという形で、一種の「棲み分け」が進んでいくかもしれませんね。

版権の出版社移転事情に見る田中芳樹の欺瞞な実態

久々に「らいとすたっふ」社長氏のツイートから。

http://twitter.com/adachi_hiro/status/251804630747582465
<(1/5)ずいぶん前のことになるけど、田中さんがとある出版社から自作をすべて引き上げたことがある。理由は、その出版社のトップが「今後は新人発掘、育成よりも、現在活躍している作家に作品を書いてもらい、それを大々的に売ることで収益を上げていきたい」と言ったから。>

http://twitter.com/adachi_hiro/status/251804744203501568
<(2/5)田中さんいわく、「自分はデビュー当時、まったく売れなかった。でも、そのとき売れていたほかの作家さんの収益があったおかげで、出版社も自分の作品を出し続けてくれた。幸い、いま自分の作品は売れている。ならば、なぜ自分の作品であがった収益で、新人の作品を出してくれないのだ」と。>

http://twitter.com/adachi_hiro/status/251804781478281217
<(3/5)ふだんは超のんびりの田中さんだけど、このときの行動は早かった。秘書の私に版権引き上げの通達文を作らせ、自ら作品の移籍先を探してきた。出版社を変えるのは作家側のわがままだけど、そのせいで入手困難な作品を出してしまっては読者に申し訳ない、ということだった。>

http://twitter.com/adachi_hiro/status/251804821915566080
<(4/5)なにが言いたいかというと、出版社は「売れていない作品を切る」だけが能じゃないでしょ。と思うのだ。雑誌、編集部、事業部、全社。どこまで範囲を広げるかは、さまざまなケースがあると思うけど、トータルで黒字ならいいじゃない。というくらいの懐の広さが欲しい、ということ。

http://twitter.com/adachi_hiro/status/251805140368117760
<(5/5)ちなみに、うちの会社は作家のマネージメントをやっているけど、管理料率は破格に安い(はず)。それも田中さんの「新人さんのために使う金は、田中作品の運用で得られた金で賄って良い」という考えによる。遅筆だし、外見ださいし、偏屈親父だけど、うちの親分は本当にかっこいいと思う。>

文章だけを読めば、いかにも立派なことをのたまっているようなエピソードであるかのごとく見えます。
しかし、その「新人さんのために使う金は、田中作品の運用で得られた金で賄って良い」の実態が、己の作品の再販乱発を繰り返したり、パチンコに己の作品を売り渡したりといった惨状を呈しているのは正直どうなのかと。
他の新人作家達のために【自ら積極的に新刊を執筆し売上を獲得していく】、というのであれば完全無欠の美談でしたし、せめて政治家や企業の金儲け至上主義的な考え方をあれほどまでにボロクソに論うことなく「カネ儲けに手段を選ぶ必要はない、何事かを成し遂げるためにはまずはカネだ!」的な主張でも開陳するのであれば、すくなくとも主義主張の一貫性くらいは認めることができたはずなのですが……。
田中芳樹が散々なまでに罵倒しまくっている企業や政治家や官僚にしたところで、自分以外の他者のために、なりふり構わぬ金儲けや老後の天下り確保などに走っているという側面は、多かれ少なかれ確実にあるのですけどね。
「自分の家族を養うため」から「社員や同僚の生活を守るため」といったものまで、その手の目的は色々とあるでしょうし。
新人作家を1人前にするためならば、片手間の再販乱発で読者からカネを巻き上げたり、自身で批判していたはずのパチンコに己の作品を売りとばしたりしても良いというのでしょうかね。
それでは結局、すくなくとも合法的な範囲内で金儲けや天下りに精を出している政治家や官僚・企業などを批判することはできないのではないかと思うのですが。

それに田中芳樹にソデにされた出版社は出版社で、自社の経営を維持したり社員を食べさせたりしていかなくてはならない、という事情もあるでしょう。
そりゃ出版社だって、できることならば新人をベストセラー作家レベルまで育成して、長期的な利益が確保したいでしょう。
しかし、バブル崩壊後の長きにわたる不況に出版業界特有の問題から来る「本が売れない」問題は、そういった「経済的・心理的な余裕」を出版社から根こそぎ奪ってしまっています。
出版社に限らず、昨今の企業にとっては「明日の不確実な利益」よりも「目先の確実な利益」の方が、自分達の生き残り戦略から見ても重要なのです。
もちろん、そのような目先の利益に固執したやり方は、短期的には何とかなっても長期的には確実に行き詰る手法でしかないのですが、彼らとて背に腹は代えられないのです。
会社が潰れてしまえば、新人作家の育成どころか、下手すれば自分達自身が路頭に迷うことにすらもなりかねないのですから。
だからこそ、企業は熟練社員の給与カットやクビ切り、さらには新人社員の雇用抑制などといったリストラ策を延々と実行していかざるをえない問題もあったりするわけで。
田中芳樹は、「自分の信念」という名のワガママによって出版社の減収をもたらし、さらには出版社の社員や、今後新人作家を育成していくべき立場にあったであろう編集者達を窮地に追い込んでいたかもしれないのですが、その辺りのことは考えたことはないのでしょうかね?
前述の再販乱発&パチンコの件と併せ、どうにも中途半端かつ青臭い動機と結果になっている感が否めないところなのですが……。

ただ一方で、田中芳樹や社長氏らの言うがごとく、「売れないからと言って無条件に切るべきではない」という考えも分からなくはありません。
新人作家にも生活があるのですし、また経済的な余裕をもって作品を執筆することでベストセラーを生み出す可能性も否定はできないのですから。
一種の「教育費」となるであろう新人作家の育成にかかる手間と費用をケチり、既存の「完成品」のみを使って売上至上主義的な商売をする出版社に対し、「何て奴らだ」「文化を育成するという視点はないのか」と憤るのは、まああの面々の思想的傾向から考えても当然と言えば当然なわけで。
しかし、田中芳樹はかつて薬師寺シリーズでこんなことを述べていたりしていたはずなんですよね↓

薬師寺シリーズ2巻「東京ナイトメア」 講談社ノベルズ版P60上段~P61下段
<「西太平洋」ということばで、私は思わず涼子の顔を見た。涼子がみじかく説明する。
「石油開発公団から融資を受けてる会社よ」
「石油開発公団から資金を借りるのは、いくつかの石油探査会社なんだけど、この会社そのものが、公団からの出資でつくられたものなの。社長以下、役員すべてが天下リ」
 そうつけくわえたのはジャッキーさんだ。女ことばそのままだが、きびきびした説明ぶりが、何とも奇妙な感じだった。
「しかも、石油が出なかったら、公団から借りた資金は一円も返さなくていいのよ」
「……まさか」
「あら、ほんとよ。
何千億円借りていようと、石油が出なかったら一円も返さなくていいの。法律でもちゃんとそうなってるの」
 ジャッキーさんは、むずかしい表情になり、トルコ石らしい指輪をはめた太い指で書類をめくった。
「この西太平洋石油開発とかいう会社は、公団から四〇〇〇億円ほど借りてるのね。でもって、石油は一滴も出てないから、もちろん一円も返さなくていい。まじめに働いて石油が出たら借金を返さなくちゃならないんだから、何もしないで遊んでいるほうが得なわけよね。よくもつごうのいいこと考えたもんね」
「何にいくら費ったと思う?」
「さあね、でも、仮に半分しか本来の目的――油田を発見するために費っていないとすれば、二〇〇〇億円がどこかヤミに消えたってことだわね」
 これが先進国のできごとだろうか。私は頭痛がしてきた。
国民が支払う税を、役人が好きかってに浪費して、罰せられることがない。そういう国を後進国というのではないだろうか。

石油の採掘だって、新人作家の育成と共通する部分は結構あったりするのですけどね。
新人作家を養い得るだけのベストセラー作家が出てくる確率が1%あるかどうかの新人作家の育成と、莫大なカネと手間を費やす中で商業ベース運用しえるものがこれまた1%あるかどうかの石油採掘は、どちらも「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」の論理にならざるをえないのですし、「投資」するカネと手間の多くが【無駄】になることを前提としているものなのですから。
新人作家の育成にしても、愚劣な編集者が経費を私的に流用したり着服したりするケースもゼロではありえないでしょうし、また真面目にやっていても教え方が下手だったりモノにならなかったりで徒労だけで終わるケースだっていくらでもあるものでしょう。
教育や投資というのは、どちらも「少なからぬ無駄金と手間」が発生し、かつその多くがモノにならないことが少なくなく、しかしたったひとつの成功が全ての赤字をひっくり返すだけの価値を持つものなのです。
しかも石油採掘の場合は、単なる利益だけでなくエネルギー安全保障や国民生活にも関わってくるものなのですから、究極的には「国民にエネルギーが供給され社会活動と国民生活が潤うのであれば、石油採掘自体が赤字でも【トータルで黒字】になる」というところまで行くのです。
だからこそ、「石油採掘に失敗しても国にカネを返さなくても良い」というルールだって出てくるのですけどね。
桁外れの費用と99%の失敗を前提とする石油採掘は、元々「利潤」を重視しなければならない民間企業では不向きなのですし。
ところが田中芳樹は、新人作家の育成については「新人という【無駄】があってもいいじゃないか、その育成もせず利益に走るとは何と狭量な」と出版社と決別しておきながら、それと似た性質を持つ石油採掘に関しては、「そんなものは無駄だからやめろ」とまさに自分が批判してやまない出版社と全く同じことを主張しているわけです(苦笑)。
それとも、田中芳樹がこだわる「新人作家の育成」という行為は、件の石油採掘と同じく「後進国」の所業だったりするのでしょうかねぇ(爆)。
まあ、再販乱発とパチンコ売り飛ばしが「後進国」の所業でしかないのは確実なのですが(笑)。

如何にも「美談」風に語られている件のエピソードは、しかしその意図に反して田中芳樹の狭量とダブスタぶりを露呈してしまっただけなのではないですかね?
自身の作品を自分で愚弄する行為の数々を披露したり、作品内における政治・社会批判をくっちゃべったりさえしていなければ、そういう惨状を呈することもなかったのに、とはつくづく思わざるをえないですね(T_T)。

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