映画「ロラックスおじさんの秘密の種」感想
映画「ロラックスおじさんの秘密の種」観に行ってきました。
児童文学作家ドクター・スースが著した1971年の児童書「The Lorax」を原作とする、イルミネーション・エンターテイメント社制作の3DCGアニメ作品。
今作は3D版も同時上映されていますが、私が観賞したのは2Dの日本語吹替版になります。
今作の日本語吹替版は、ロラックスおじさんを「あの」志村けんが演じているということで話題になっていたりします。
というより、今作最大の売りは、この「志村けんが声優をやっている」という一事に尽きるのではないのかと(苦笑)。
物語の舞台は、全ての建造物はもちろんのこと、元来は自然のものであるはずの植物に至るまで全てが人工物でできている街。
その街は、オヘアという名の資産家が営む同名の大企業によって整備され、空気もきれいで環境も清潔に保たれていたものの、一歩街の外に出れば、よどんだ空気に不毛な大地がひたすら世界が広がっています。
オヘアは街を取り囲む巨大な外壁を作り、街の外に人が出ていくことのないよう、常に監視の目を光らせていました。
その街に住む今作の主人公である少年テッドは、オードリーというやや年上?の女の子が好きで、彼女の家に足しげく通う日々を送っていました。
ある日、ラジコン飛行機が家の中に落ちたという口実でオードリーの家を訪ねたテッドは、オードリーに自然の木が林立している絵を見せられます。
そしてオードリーは、「本物の木が見たい、それを見せてくれたらキスしてあげる」とまで言い切るのでした。
このオードリーの言葉に心を動かされたテッドは、テッド以上に変わり者の家族に本物の木のことについて尋ねます。
すると、テッドのおばあちゃんがそれに応え、街の外に住んでいるワンスラーという名の人物が本物の木のことについて知っていると教えてくれます。
翌日、テッドは街の外壁を越え、不毛の荒野と化している外の世界へバイク?を飛ばし、ワンスラーの元へと向かうのでした。
ワンスラーは前衛芸術のごとき建物に住んでいて、最初はテッドのことを邪険に追い払おうとします。
しかし、テッドの熱意に半ば負ける形で、やがて彼はかつて緑豊かだった昔の話を始めるのでした……。
映画「ロラックスおじさんの秘密の種」は、上映時間が86分と短い上、主人公のテッドがほとんど関わることのない、ワンスラーの昔話のエピソードが前半から中盤頃までのストーリーのほとんどを占めています。
ワンスラーの昔話から、何故今の完全人工物な街が出来上がったのかが分かるようになっているわけです。
しかしその代償は決して小さなものではなく、肝心のテッドが作中で活躍するのが物語も後半に入ってからのことになってしまっており、普通の映画と比較してもかなり薄味なストーリー感が否めないところなんですよね。
実質的なプロローグ部分が映画全体の半分近くも占めている、というのは正直どうなのかと。
また、今作のタイトルにもなっているロラックスおじさんは、ラストでワンスラーの元でちょっとだけ登場した以外は、全てワンスラーの昔話の中にしか存在しておらず、今作の主人公であるはずのテッドとは何の接触も関わりもなかったりします。
登場頻度もテッドが表に出てくるようになってからはラスト以外出番なしでしたし、もう少し主役級の活躍をするとばかり思っていたのですけどねぇ、ロラックスおじさんは。
ところで作中の物語は、街を牛耳る大企業のボスであるオヘアを諸悪の根源のごとく見立てて、それを打倒するという単純明快な勧善懲悪の形を取ってストーリーを進行させているのですが、ワンスラーの昔話を見る限り、そもそもこの構成自体に疑問を抱かざるをえないところですね。
そもそも、例の完全人工物の街ができ、かつその外の世界が不毛の大地と化してしまった最大の原因は、スニードという商品を売るために見境なく木を切り倒させまくったワンスラー自身が全ての元凶です。
彼はロラックスおじさんの警告を無視してまで森林伐採を続けていたのですし。
しかも、スニードの原料となる木が根こそぎなくなってしまったらスニードが製造できなくなってしまうことくらい、木を伐りつくす前に簡単に予測できそうなものなのですが。
ワンスラーは目先の利益にこだわるあまり、継続的に利益を上げ続けるという企業経営者としての視点が皆無と言って良く、その点では無能のそしりを免れないでしょう。
むしろ、森林が復活したら自社の空気販売ビジネスが成り立たなくなってしまうという危機感を抱いていたオヘアの方が、企業経営者としてははるかにマトモです。
せめて、スニード製造用の木がなくなる前に植林をするとか、木を切り倒さずにスニードの原料を効率良く集められる技術を開発するとか、そういったことを考えることすらできなかったのですかね、ワンスラーは。
そうすれば、ロラックスおじさんの要求とスニードの製造の双方を満たすことも可能だったというのに。
ラストのワンスラーとロラックスおじさんとの再度の(作品的には)感動的に描いているはずの邂逅も、不毛の大地を生み出し自然の動植物に多大なダメージを与えたワンスラーの責任を不問にしていますし、到底納得のいくものではなかったですね。
ロラックスおじさんはワンスラーに対して「よくやった」などと声をかけていますが、当のワンスラーはテッドに種をやっただけであり、街の真ん中に種を植えるという偉業を成し遂げたのはテッドではありませんか。
「ロラックスおじさんの秘密の種」はあくまでもテッドが主人公かつ彼の物語なのであり、間違ってもワンスラーの物語などではありえないのですが。
物語構成における主人公の配分を間違っているのではないかとすら、考えずにはいられなかったですね。
あと、ワンスラーの昔話に登場していたワンスラーの家族、特に母親はワンスラーのことをひたすらバカにしていたのですが、ワンスラーはその家族に対して終始全く頭が上がらない態度を取っているんですよね。
あの家族はワンスラーのことを寸毫たりとも愛してなどおらず、のみならずワンスラーのことを利用するだけ利用して最後は投げ捨てるかのごとく夜逃げをしていったのですが、ワンスラーもこんな家族のことなんて気にかけなければ良かったのに、とはついつい考えずにいられなかったですね。
むしろ、ある程度財を築いた時点で、財力に物を言わせて追い詰めるなり、暗殺者を雇うなりして、あの家族をこの世から社会的・物理的に抹殺すらしても良かったくらいだったのではないのかと。
人手不足だからって別に家族など呼ばなくても、スニード製造がカネになることは最初から分かり切っているのですから、現地住民をカネで雇うなり、あるいは最初はロラックスおじさんと森の動物達に手伝ってもらうところから始めるなりした方が、却って森林を保全したまま事業を拡大するというやり方も可能だったのではないのかと。
視野が狭く自分のことしか考えない利己主義な家族を切り捨てることができなかったことも、ワンスラーの致命的な誤りのひとつだったと断定しえるでしょう。
映画「ロラックスおじさんの秘密の種」は、上映時間が短いこと、特に後半の展開が単純明快な図式であることから、完全に低年齢層を対象とした映画ですね。
子供だけで行くか、あるいは親子連れで楽しむための作品と言えそうです。