選挙の投票率と国民の政治的関心度の高さが招く意外な陥穽
選挙の度に必ずと言って良いほど話題になるのが、その選挙に投票した有権者の割合を示す投票率です。
この投票率の割合は、有権者の政治への関心の度合いを示すものとされ、高ければ高いほど有権者のためになる政治家が選出されると、主にマスコミを中心にこれまで言われ続けてきました。
しかしこの論理、果たして本当に実地で正しいと言える定説であると言えるのでしょうか?
2009年8月の衆議院選挙では、小選挙区比例代表並立制が導入された1996年以降で最高となる投票率を記録していました。
しかしその結果誕生したのが、あの史上最悪の民主党政権だったのは周知の通り。
そして、史上最高の投票率を誇った選挙で誕生したはずの民主党政権は、その後日本国民を3年以上もの長きにわたって苦しめ続け、東日本大震災後でさえも居座り続け、被災地の復興を妨害すらしてきたのです。
さらに歴史を紐解けば、1934年8月にドイツで行われた、ヒトラーに事実上の独裁権を付与する「総統就任」の正当性を問う民族選挙では、何と投票率95.7%の中で89.9%もの支持をヒトラーは獲得し、民主的な手続きに基づいて彼は最高権力を掌握することとなったわけです。
ではこの選挙は、ドイツ人の政治意識の高さと賢明ぶりを示すものであり、ドイツ国民を幸福にするものだったと言えるのでしょうか?
経済に関して言えばそうでもなかったかもしれませんが、少なくとも第二次世界大戦への移行とその後の敗戦を見る限り、とてもそう判断しえるものではなかったでしょう。
今や歴史の1ページともなったこれらの事例は、投票率の高さと政治の質が正比例の関係になど全くなっていないという事実を、額縁付きで証明するものでもあるでしょう。
選挙における投票率の高さは、政治の質や国民のためになる政治家を選出するための指標などには到底なりえません。
むしろ逆に、投票率があまりに高い時はその民意を利用した権力の乱用が発生しやすく、下手すれば民主主義の体制を根底から覆す巨大な権力を作り出してしまうことにすらもなりかねないのです。
さらに「国民の政治的関心度を示す指標」としての投票率に至っては、全く無意味な概念であるとすら言えるでしょう。
同じ政治的関心であっても、今更言うまでもなくその内容は人によって千差万別です。
一口に政治と言っても、その中身は経済・社会制度・福祉・教育歴史・国防・治安……と様々な分野に枝分かれしているのですし、その中で何を最大の関心事とするのかは、それこそ人の数だけパターンが存在するのです。
それどころか、極端なことを言えば「カップラーメンの値段を間違える麻生は許せない!」「3500円のカツカレーなどを食べる安倍には庶民感覚が足りない!」などというタワゴトを冗談やネタではなく大真面目に吹聴しまくる人間や、あまつさえそれに何の疑問も抱くことなくバカ正直に鵜呑みにして「そうだ!だから自民はダメなんだ!」とこれまた真顔でがなり立てる人間も実在したりするわけで。
性質の悪いことに、こんな3流お笑いネタにもならないであろうヨタ話でさえ、実は立派な政治的関心の一種たりえてしまうのですからねぇ(T_T)。
そんな「空気」の下で行われた2009年8月における衆議院選挙や、ヒトラーを総統にしたドイツの民族選挙は、前述のように間違いなく投票率も国民の政治的関心も極めて高かったとは言えるのですが、それがマトモな政治を生み出したとは到底言えたものではないでしょう。
むしろ逆に、誰もが政治に関心を持ち「このままではダメだ」と無用なまでの焦燥感に駆られ、一刻も早い政治的閉塞?の打開をなりふり構わず模索して副作用を伴う即効薬を選んだ結果、国民の害になる政権がめでたく誕生していたわけです。
これでは投票率や国民の政治的関心度が上がることを、無条件かつ手放しに喜ぶことはできないですね。
民主主義国家の一員たる国民としては、政治への関心や選挙での投票行為そのものは確かに必須の心得と言えるものであるでしょう。
しかし、その権利を有効に生かし、国民のためになる政治を本当に現出させるためには、国民ひとりひとりに相応の政治的知識と広い視野、そして他者に踊らされることのない精神力や信念などといったものが少なからず求められるのです。
自分で何も調べもせず、ただ「投票する行為自体に意義があるから」という理由だけで何となく投票したり、偏向マスコミの報道を鵜呑みにしたバッシング的感情だけで選挙で投票したりするような輩は、全く投票権を行使することのない有権者よりもはるかに性質の悪い「無能な働き者」でしかありません。
そんな投票行為が、先の衆院選で結果的に民主党政権を誕生させたり、ドイツでヒトラーに独裁権を与えたりしてきたのです。
あまつさえ、「あいつらは信用できない」と事前に警告している人達を「空気を読め!」と言わんばかりに嘲笑した挙句、案の定な展開で裏切られた後でさえも全く自分の選択を反省することすらなく「俺達は騙されていたんだ!」「あいつが全て悪いんだ!」と開き直るに至ってはねぇ……。
選挙における投票権というのは、ただ単に行使さえすれば良いというものなどではなく、使い方を誤れば自分や周囲の人間さえも傷つけ破滅にまで追い込みかねない、一種の凶器にもなりえるものなのです。
それほどまでの「権利」を行使する際には、当然それに見合う責任意識も事前にかつ充分に備えておくべきでしょう。
権利や権力には相応の責任が伴う、というのはごくごく当たり前のことでしかないのですから。
投票権というものは、ただ投票しさえすれば良いというものではなく、また目先の情報に踊らされ流される形で行使すべきものでもないでしょう。
他人の動向によって左右されることのない確たる自分の考えを持ち、候補者や政党の言動からその手腕や思想や方向性などを正確に読み取った上で、投票結果に責任を持って選挙に臨む。
これこそが、民主主義国家の国民に求められるべき本当の投票姿勢というものではないでしょうか?