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2012年11月の記事は以下のとおりです。

映画「悪の教典」感想

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映画「悪の教典」観に行ってきました。
「海猿」シリーズその他でヒーローや善人的な役柄を主に担ってきた伊藤英明が一転してサイコキラーな悪役を演じることで話題となった、貴志祐介の同名ベストセラー小説を実写化したサスペンス作品。
教師がありとあらゆる犯罪に手を染めた挙句、最後には生徒を大量に殺害していくなどという、非常にショッキングな内容です。
そのため当然のことながら、今作はR-15指定を受けています。

今作のプロローグは、とある両親が寝室で顔を合わせ、息子の異常行為について話し合っているところに、サバイバルナイフ?を持った当の息子で今作の主人公・蓮実聖司が部屋の中に入ってくるシーンから始まります。
後の展開でこの事件は、「蓮実聖司の両親は強盗に殺され、蓮実聖司自身も重傷を負った」と公式には処理されていることが描写されていました。
もちろん、全ては蓮実聖司自身の自作自演であったこともきっちりと強調されていましたが。

それから時が経過し、蓮実聖司は東京都町田市にある私立晨光学院町田高校で英語の教師の職に就いており、そのルックスと面倒見の良さから、生徒達から「ハスミン」の愛称で呼ばれ人気を博していました。
その年の町田高校では、携帯電話を使った生徒による集団カンニングが疑われる問題が浮上しており、学校の職員会議ではその対策について論議が交わされていました。
その席上で蓮実聖司は、携帯での連絡を不可能にする妨害電波を試験時間限定で発信することにより、携帯を使ったカンニングを完全にシャットアウトできると提言します。
ただ、この方法は電波法に抵触するという問題もあり、職員会議では提案を却下、結局は「試験時間中は各教師の権限で生徒達から携帯電話を一時的に没収する」という案に落ち着いたようです。
しかし後で蓮実聖司は、独自に妨害電波を流すことで生徒達のカンニングを抑止するという行為に及んでいたりします。
また一方、蓮実聖司および学校は、クラスで「自分の娘がイジメを受けていた」として学校に乗り込んできた父親の対応にしばしば追われる羽目になっていました。
学校側は余計な面倒事を起こしたくないという事なかれ主義もあり何とか説得しようと努めるのですが、モンスターペアレントの気がある父親は、ここぞとばかりに連日学校にやってきては居丈高にヒステリックな糾弾を続けており、学校側もいいかげんウンザリしていました。
蓮実聖司にとってもそれは同じことで、ついに彼は件の父親を排除すべく動き出すことになります。
父親の家には猫除けのためなのか、水が入ったペットボトルが家の壁に沿って設置されていたのですが、彼はこの中身を灯油にすり替えて父親を事故に見せかけて殺害してしまいます。

かくのごとく、蓮実聖司は学校および自分の周囲で発生した問題の解決には熱心だったのですが、その解決のためには手段を問わず、脅迫や自殺や事故に見せかけた殺人なども躊躇なくやってのけるサイコパスな精神の持ち主でした。
助けてもらったことがきっかけで愛の告白をしてきた女生徒と肉体関係に及んだり、盗聴器を使って生徒と同性愛の関係に及んでいた教師の弱みを握って脅したり、さらには自分の過去の履歴を調査していた人間を死に追いやったりと、これでもかと言わんばかりに犯行を重ねていく蓮実聖司。
しかし彼は、来るべき文化祭の準備で夜にも準備作業が進められている学校内で、愛人関係にあった女生徒・安原美彌を投身自殺に偽装して殺害しようとした際、その現場に居合わせていたことを他の女生徒に見られてしまうことになります。
すぐさまその女生徒を後ろから襲撃し、素手で首を捻って殺害するのですが、あまりにも偶発的な行為だった上に死ぬ理由もない彼女をそのままを捨て置いていては、普通に殺人事件として扱われてしまい、自分に嫌疑の目が向けられる事態にもなりかねません。
当然、その窮余の事態を打開すべく、彼は死にもの狂いで策を考え始めます。
そして、彼の頭にひらめいた究極の打開策、それは何と「学校内にいる生徒達全てを自分の手で殺害し、その犯行の全責任を別の人間に擦り付ける」というものだったのです。
かくして、猟銃を片手に、前代未聞の大量殺人が始まることになるのですが……。

映画「悪の教典」は、とにかく最初から最後までまるで救いのない作品ですね。
サイコパスな主人公の蓮実聖司は、殺人その他の犯罪行為を行うことに全く躊躇がありません。
過去の経緯を見る限り、中学時代には中学の担任教師と実の両親を殺害していますし、アメリカのハーバード大学へ留学した際には、猟銃?の扱い絡みで親しくなった外国人を焼き殺すといった所業をやらかしていたりします。
そして、私立晨光学院町田高校へ転任してくる前の高校では、生徒4人が謎の自殺を遂げるという事件が発生していたりします。
どう少なく見積もっても、蓮実聖司は50人近い人達をその手にかけ偽装工作紛いのことを繰り返してきたことになりますね。
さらにこれに脅迫行為なども追加すれば、その犯罪履歴はとてつもない規模のものとならざるをえないでしょう。
よくもまあこれだけの犯罪を重ねてきた人間が、少数の例外を除けば今まで疑われることもなく、一定の社会的地位を維持できたものだなぁと、つくづく感心せざるをえなかったですね。
まあだからこそ、彼も同じところに長居をすることなく、わずか数年から数ヶ月程度であちこちを転々としているのでしょうけど。
同じところにずっと留まり続け、人付き合いも長くなってくれば、彼の周辺で自殺や事故の話が著しく多く、当の本人もしばしば巻き込まれている割には何故か再起可能なケガだけで済んでいるという状況に、さすがの周囲も気づいて不審感を抱いてくるリスクが増大せざるをえないわけですし。
今回の事件も、もし自分の意図通りに事が運び、目的を達成することができたならば、彼はまた別の高校に転任して一からやり直すつもりだったのでしょうね。

作中における蓮実聖司は、殺人や脅迫を行う際も怒りや憎悪などの表情を浮かべることがありません。
彼は常に笑顔か、せいぜい無表情を浮かべた顔で、淡々と殺人や脅迫等の犯罪を犯したり犯行の後始末をしたりしています。
蓮実聖司の凄まじいところは、たとえ自分の計画が失敗し、その犯行が世間の明るみに出るかもしれない、または出てしまったという局面においてさえも、すくなくとも表情面には全く動揺や負の感情が出てこなかったことです。
ラストの顛末なんて、彼の視点的には、生き残った2人に対して後ろ暗い表情を浮かべたり、「何故お前ら生きていやがった!」的な感情を叩きつけたりしても良さそうなものだったのに、それでもなおあれだけの演技ができるというのは凄いを通り越して怖いですね。
犯行の疑いを自分に向けさせないために、自分の身体に「重傷に見える傷」をつけることにも全く躊躇がありませんし、自分の計画が露見してもなお、狂気な精神異常者を装い責任能力喪失の路線で自身の罪を免れようとするのですから。
まさに「悪の教典」と呼ぶにふさわしい、同情の欠片も救いの余地もまるで見い出せない絶対悪ぶりでしたね。
そして、「海猿」シリーズや「252 生存者あり」などで人助けに全力を挙げる善人ぶりを演じてきた伊藤英明の好演にも必見です。
蓮実聖司のキャラクター像というのは、これまで伊藤英明が演じてきた人間とは全くの対極に位置するものなのですし。
今作で伊藤英明は、これまで築き上げてきた自分の俳優としてのイメージ像をあえて壊すことに注力していたのではないでしょうか?
あまりに同じ役柄を演じ続けると、そのキャラクターのイメージ像が固定されてしまい、却って仕事が来なくなってしまったりすることもあるわけですし。
「海猿」シリーズの大ヒットで、「伊藤英明=仙崎大輔」的なイメージもすっかり定着していますからねぇ。
ただ一方では、これまでのイメージ像が壊れることで、却って人気が落ちて短期的に仕事が来なくなるというリスクもあったりするので、俳優にとっても一種の賭けではあったりするのですが。
今作における伊藤英明の演技は、果たして彼にとって吉凶いずれの結果をもたらすことになるのでしょうか?

ただこの作品、エンドロールの直前に思わせぶりな描写が映し出された挙句に「TO BE CONTINUED」の文字が出てきていたのですが、あの顛末で一体どうやって続編が製作できるというのでしょうか?
すくなくとも蓮実聖司は、作中の事件で自身の犯行である証拠と証人が揃ってしまっていますから無罪放免は難しいでしょうし、仮に万が一「責任能力喪失による無罪」になったとしても、今後の彼には「一生精神病院に収容される」という末路が待っているだけでしかないでしょう。
彼に唯一可能性があるとすれば、作中でも披露されていたスパイアクション映画の主人公並に桁外れな格闘戦闘能力を駆使して監視者達を倒して逃亡を果たし姿を暗ました後、別人になりすまして全く新しい人生を歩むシナリオが展開される、といったパターン辺りにでもならざるをえないのではないかと。
あるいは、ラストで自殺を装って学校の屋上から落とされていた安原美彌が奇跡的に意識を取り戻したことから、蓮実聖司のサイコパスぶりが彼女に伝染でもして安原美彌が新たな犯罪者になるというストーリーが展開されることになったりするのでしょうか?
それともいっそ、続編というのは題名だけで、実際には今作とはストーリーや設定面では何の関連性もない、全くの別人を題材にした全く別の物語が作られるという意味なのでしょうか?
すくなくとも、蓮実聖司がまた主人公として悪逆非道の限りを尽くす、というシナリオは成立しえないのではないかと思えてならないのですけどねぇ。

内容が内容なので、観れる人を確実に選びそうな作品ではありますね。
すくなくとも、「海猿」シリーズにおける「伊藤英明=仙崎大輔」的なイメージを当て込んで今作を観賞するのは止めた方が無難です。
そのイメージがどのように壊されるのかを観賞する、というのであれば必見かもしれませんが。

テレビドラマ「大奥 ~誕生~ 有功・家光篇」 第5話感想

全10話放送予定のTBS系列の金曜ドラマ「大奥 ~誕生~ 有功・家光篇」。
今回はちょうどテレビドラマ版の折り返し地点となる、2012年11月9日放映分の第5話の感想です。
前回第4話の視聴率は7.6%で、著しくダウンした前回のそれよりもさらに低くなってしまっています。
何かこのテレビドラマ版「大奥」って、初回放映から視聴率が右肩下がりの一途を辿っているのですが、やはり話が全体的に暗すぎるのと、現時点では大奥の外の話を除外しすぎて「男女逆転」という作品の売りの必然性に今ひとつ説得力がないことが、一般視聴者を敬遠させていたりでもするのでしょうかねぇ。
原作には忠実すぎるくらいに忠実なので原作ファンには受けそうなものなのですが、それで新規のファンを獲得するにはやや力不足ということなのかなぁ、と。
なお、過去の「大奥」に関する記事はこちらとなります↓

前作映画「大奥」について
映画「大奥」感想&疑問
実写映画版とコミック版1巻の「大奥」比較検証&感想

原作版「大奥」の問題点
コミック版「大奥」検証考察1 【史実に反する「赤面疱瘡」の人口激減】
コミック版「大奥」検証考察2 【徳川分家の存在を黙殺する春日局の専横】
コミック版「大奥」検証考察3 【国内情報が流出する「鎖国」体制の大穴】
コミック版「大奥」検証考察4 【支離滅裂な慣習が満載の男性版「大奥」】
コミック版「大奥」検証考察5 【歴史考証すら蹂躙する一夫多妻制否定論】
コミック版「大奥」検証考察6 【「生類憐みの令」をも凌駕する綱吉の暴政】
コミック版「大奥」検証考察7 【不当に抑圧されている男性の社会的地位】
コミック版「大奥」検証考察8 【国家的な破滅をもたらす婚姻制度の崩壊】
コミック版「大奥」検証考察9 【大奥システム的にありえない江島生島事件】
コミック版「大奥」検証考察10 【現代的価値観に呪縛された吉宗の思考回路】

テレビドラマ「大奥 ~誕生~ 有功・家光篇」
第1話感想  第2話感想  第3話感想  第4話感想

第5話は、コミック版「大奥」3巻のP73~P93までのストーリーが展開されています。
しかし、原作のページ範囲を見ても分かるように、第5話はこれまでの話と比較しても原作ストーリーの進行が遅く、かつオリジナルエピソードの多い回となっています。
原作の内容的に見ると、捨蔵が大奥に上がってから女版家光が出産するまでのエピソードしかないのですし。
前回の第4話もオリジナルエピソードが少なからず盛り込まれていた回ではありましたが、今回はそれ以上に原作ストーリーの補完とオリジナルエピソードに終始した話であると言えます。
今回作中で披露されたオリジナルエピソードは以下の通り↓

・捨蔵と春日局&稲葉正勝とのやり取り。
・有功に捨蔵の後見役を担わせるよう春日局が画策。
・有功による捨蔵への指導と、それに疑問を抱き怒りを抱く玉栄。
・自身が大奥に来るまでの経緯を捨蔵に話す有功と、捨蔵を穏やかに脅す玉栄。
・有功と女版家光の語らい。
・稲葉正勝の妻子が、春日局を訪ねて江戸城へ来訪し、シカトを決め込んだ春日局を待ち続ける様子を稲葉正勝が陰から伺う。
・女版家光との褥に捨蔵が臨む前の有功の激励。
・3話で殺害された若紫とよく似た白猫を稲葉正勝が拾い、さらにそれが有功の下に居つく。
・その白猫に若紫の面影を見出し、同様する玉栄と、その様子を見て玉栄の所業を見抜いた有功。

オリジナルエピソードは、原作に描写がなかったり「気づいたらこうなっていた」的な部分に状況的な説明や補完をする構成となっているので、原作ファンであれば「ああ、あの描写の裏にはこういう事情があったのか!」と納得することしきりな展開になっています。
ただ、それで新規のテレビドラマ視聴者まで引き込めるものになっているのかというと、そこには疑問符を付けざるをえない一面が否めないところなのですが。
ああいうのって、「原作を知っているからこそ納得できる」という要素が少なくなく、逆に全く知らない人間からすれば無用な説明が長々と展開されているだけのように見えることすらあるわけですからねぇ。
ただでさえテレビドラマ版「大奥」では、陰々滅々とした話が第1話から延々と続いているのですし、原作のストーリーに忠実である限り、この傾向が最終話まで緩和される見込みはまるでないときているのですから。
ひたすら原作ファン向けに製作しているとしか思えないこの構成は、視聴率獲得という観点から見れば全くの逆効果でしかないような気が……。

テレビドラマ版の完全なオリジナルエピソードである「稲葉正勝の妻子と春日局」絡みの話ですが、あれほどまでに「戦のない平和な世の中」とやらに拘泥し、そのためならば多くの犠牲を払うことも辞さない春日局ともあろう者が、たかだか稲葉正勝の妻ごときにああまで逃げ腰なスタンスになってしまうというのはどうにも解せないですね。
稲葉正勝の安否の確認などという、下手すれば大奥の最高機密にも抵触しかねない行為に及んでいる稲葉正勝の妻の雪は、春日局にとってはまさに「邪魔者」以外の何物でもないはずなのですし、何故さっさと澤村伝右衛門辺りに斬り殺させないのか疑問に思えて仕方がないのですが。
別に彼女が死んでも、稲葉家の存続自体は既に長男と長女がいるわけですから何の問題もないわけですし、そもそも春日局にとっての雪は「他家から嫁いできた余所者」でしかなく、殺しても何の支障もない存在でしかないでしょうに。
「戦のない平和な世の中」ために血も涙もない犠牲を払うことに躊躇しない春日局が、身内に対しては何と甘いことよ、と考えずにはいられなかったですね(苦笑)。
まあそれを言ってしまうと、そもそも女版家光に対しても、ああまで「自由」を許していること自体、自分の意のままに操り世継ぎを産ませるという観点から見れば非効率も甚だしい限りではあるのですが。
自分の命令が神の信託であるがごとく絶対的なものであると教育し、少しでも自分の命令に背いたら半殺しクラスの虐待を行うことで躾けを行い、自我というものを殺しつくして自分の意のままに動かせる奴隷人形のごとく女版家光を育てていれば、あんな回りくどいことをする必要も手間もなかったはずでしょうに。
過去の歴史を紐解いても、皇帝や国王を傀儡として利用する人間は、常にそういう人間を自分の意のままにできるように堕落させたり強制的に従えたりしてきたものなのですし。
春日局に対してすらワガママ放題に振る舞ったりしている女版家光の態度を黙認するなど、他ならぬ春日局の立場や信念から言えば到底考えられない愚行でしかないはずなのですけどね。

ラストシーンにおける有功と玉栄の会話は、原作2巻のP198~P200における2人のやり取りをトレースしてきたものですね。
原作ではやや唐突だった感のある「有功が玉栄の所業に気づく過程」を、テレビドラマ版では詳細に描いていて、この点に関しては原作よりも描写が上手いと言えますね。
ただ、若紫を殺して角南重郷を自害に追いやったことを「今日まで悪いこととは思っていなかった」というのは、さすがにどうなのかと思わずにいられなかったのですが。
第3話では、「計画通り!」と言わんばかりの悪人的な笑いの表情を浮かべていた玉栄だったのですから、てっきり「悪を背負う覚悟と信念で一連の所業を行っていた」とばかり考えていた私としては拍子抜けもいいところでした。
ここは下手に設定補完な説明を入れたがために、却って玉栄の考えなしな覚悟のなさと小人ぶりが浮き彫りになってしまった感があります。
まあここでは、「お前はいい子や」と玉栄に話しかける有功の方が逆に不気味に見えたくらいでしたが。
原作では憐みの感情のみ発せられていたであろうあの発言は、表情といい口調といい、何らかの悪意が明らかに感じられたものでしたからねぇ、あの有功からは。

次回の第6話は、次回予告を見る限りでは、捨蔵が転んで半身不随になり、さらに玉栄が女版家光の御中臈になるところまでのストーリーのようですね。
大奥の外における他の武家の様子もようやく描かれることになりそうで。
テレビドラマ版でも描かれることになるであろう「大奥」世界における社会システムの改変は、果たして原作よりも説得力のあるものになりえるのでしょうかねぇ。

「Windows Live Messenger」が2013年第1四半期に「Skype」に統合

Microsoft社が提供している「Windows Live Messenger」が、2013年第1四半期に同社が買収した「Skype」に統合・廃止されることが決定しました。
同サービスは12年も続いてきたとのことですが、その歴史に幕が下ろされることになります↓

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1211/07/news023.html
>  米Microsoftは11月6日(現地時間)、メッセージングサービス「Windows Live Messenger(以下Messenger)」を「Skype」に統合し、2013年第1四半期に提供を完全に終了すると正式に発表した。約12年以上続いたサービスが終えんを迎える。
>
>  Microsoftは2011年10月に、Skypeを約85億ドルで買収した。Skypeは現在、Microsoftの1部門「Skype Division of Microsoft」となっている。
>
>  同社は10月にSkypeのデスクトップ版のアップデートで、Microsoftアカウント(Windows Live Messenger、Hotmail、Outlook.com)あるいはFacebookのアカウントでSkypeにログインできるようにした。現在、ログインするアカウントとしてMicrosoft、Facebook、Skypeのいずれかを選べるが、いずれ(いつからになるかはまだ発表されていない)SkypeのアカウントをMicrosoftアカウントにマージする(つまりSkypeアカウントはなくなる)よう促されることになる。
>
>  Messengerのユーザーは、Skypeの最新版をダウンロードし、MicrosoftアカウントでログインすることでSkypeに移行できる。最初にログインした際に、Messengerの連絡先がSkypeに取り込まれる。
>
>  MicrosoftアカウントとSkypeの双方のアカウントを持っているユーザーは、ログイン画面でSkypeアカウントをMicrosoftアカウントにマージするよう促される。
>
>  アカウントマージ画面 アカウントマージ後のSkypeの連絡先 アカウントをマージしてログインすると、「連絡先」にMessengerの連絡先も表示され、相手も既にSkypeを使っていればMessengerの相手とSkypeの機能を使ってコミュニケーションできる。
>
>  Windows Live担当ジェネラルマネジャーのブライアン・ホール氏は、公式ブログ「Inside Windows Live」で「IMやMessengerを取り巻く環境は大きく変わった。人々は(PCでよりも)電話でメッセージングを使うことが多くなり、FacebookやTwitterを使うようになった。そして、Skypeが、音声および動画チャットとメッセージングのための最上の手段になった」と語り、Skypeに移行すればMessengerよりも多くの方法で、多くの端末、プラットフォームでユーザー同士がコミュニケートできると説明した。今後、SkypeとOutlook.comとの連係を改善していくという。
>
>  Messengerの会話履歴はOutlook.comに保存されるが、今のところSkypeの会話履歴はまだOutlook.comに保存できない。今後そうした機能が改善されるとみられる。

「Skype」を買収したMicrosoft社が「Skype」を自社サービスに活用しないわけもなかったのですが、それが従来の自社サービスを終了させることになるとは皮肉もいいところですね。
もっとも、個人的に「Windows Live Messenger」は、正直「何のために存在するの?」「パソコンに無駄な負担をかけているだけの常駐ソフト」的な認識しかなかったのですが。
チャット機能などはそもそも相手がいないために使いようがありませんでしたし、今までのパソコン環境では、映像や音声でのやり取りを行うことができませんでしたからねぇ(T_T)。
私のパソコンが映像・音声配信に対応できるようになったのは、この間パソコンを買い替えて以降のことだったのですし。
今までは特に必要とは考えていなかったのですが、「Skype」のテレビ電話機能には少々心動かされるものがありましたからねぇ(苦笑)。
まあ、今後使う機会があるのか否かは私にも全く分からないのですが(-_-;;)。
mixiやFacebookなどもそうなのですが、どうもリアルタイム系のコミュニケーションツールは私にはあまり向いていないみたいでしたね(T_T)。

テレビ電話&多人数会話ツールとしての「Skype」には色々な使用用途がありそうなものなのですが、今後は一体どうなっていくのでしょうかねぇ。

銀英伝外伝舞台「輝く星、闇を裂いて」の公演まであと1週間

最近あまりチェックしていなかったのですが、気がついたら銀英伝外伝舞台「輝く星、闇を裂いて」の公演が1週間後に迫っていますね。
キャストの詳細もすでに発表されているようで↓

銀英伝舞台版公式サイト
http://www.gineiden.jp/
「輝く星 闇を裂いて」公式ページ
http://www.gineiden.jp/kagayaku/

なお、キャスト内容は以下の通り↓

横尾 渉 =ジークフリート・キルヒアイス(前回舞台と同じ配役)
二階堂高嗣=ダーフィット・フォン・ロイス(舞台版オリキャラ、前回舞台はコールドウェル)
仲原裕也 =ヘルマン・フォン・リューネブルク
岩永洋昭 =ワルター・フォン・シェーンコップ(前回舞台と同じ配役)
三上 俊 =エーリッヒ・フォン・ハルテンベルク(前回舞台はモランビル)
間宮祥太郎=ラインハルト・フォン・ローエングラム
岸 祐二 =ウルリッヒ・ケスラー
小林且弥 =カール・フォン・デア・デッケン
桑野晃輔 =カスパー・リンツ
藤原啓児 =アレクサンドル・ビュコック
廣瀬大介 =ウィレム・ホーランド
松村泰一郎=ライナー・ブルームハルト(前回舞台と同じ配役)
志賀圭二郎=リヒャルト・フォン・グリンメルスハウゼン
山本 修 =シンクレア・セレブレッゼ
コトウロレナ = エリザベート・フォン・リューネブルク
鶴町梨紗 =ヴァレリー・リン・フィッツシモンズ
佐藤和久 =グレゴール・フォン・ミュッケンベルガー
深澤英之 =ラザール・ロボス(前回舞台と同じ配役)
倉田昭二 =オットー・フランク・フォン・ヴァーンシャッフェ
四宮勘一 =アルベルト
山本拓己 =サムウェル

前回の舞台におけるラインハルト役はニコラス・エドワーズなる人物が演じていたはずなのですが、今回またしても配役交代となったようで。
外伝の小規模舞台な話であるとは言え、よくまあコロコロと配役を変えるものですね。
いくら「大人の事情」があるとはいえ、配役は一貫して同じ人にして欲しいものではあるのですけど。
今の調子で行けば、2013年には正伝の第三章の舞台公演が行われることになるのでしょうが、その際には是非とも第一章当時の配役・松坂桃李に戻して欲しいものです。
今となっては、映画にもそれなりの役で顔を出している有名人でもあるわけですし(^_^;;)。

主演の2人は、前回の外伝舞台で惨憺たる評価を受けた挙句、銀英伝舞台版公式ブログを炎上させた元凶ですらあるのですけど、今回は果たして大丈夫なのでしょうかね?
前回の外伝舞台の出来については、まだDVDを入手していないので何とも言えないのですが。

プリウスが月間販売台数首位の座から遂に転落

2012年10月の車名別新車販売台数月間ランキングで、16カ月連続で首位を維持していたトヨタのプリウスがついに3位へ転落しました。
1位は同じトヨタのハイブリッド車アクア、2位はスズキの軽自動車ワゴンRと続いています。

http://sankei.jp.msn.com/economy/news/121106/biz12110611410006-n1.htm
>  日本自動車販売協会連合会などは6日、10月の車名別新車販売台数を発表し、トヨタ自動車の小型ハイブリッド車(HV)「アクア」が2万4192台で昨年12月の発売以来、初めて首位に立った。2位にはホンダの軽自動車「N BOX」が浮上、前月まで首位だったトヨタの「プリウス」は3位に後退、トップ3が大きく変動した。
>
>  アクアは排気量1500ccエンジンと高出力モーターを組み合わせ、JC08モードでガソリン1リットル当たり35・4キロの燃費を達成した。価格も169万円からとプリウスより約50万円安い。
>
>  プリウスは昨年6月以降、16カ月連続で首位を維持した。10月は前年同月比38・9%減の1万8116台。プリウスは3代目の現モデルが4年目に入り、販売ペースが鈍化している。
>
>  「N BOX」は1万8203台を販売、昨年12月の発売以来、初めて2位に浮上した。
>
>  スズキの軽「ワゴンR」が50・6%増の1万5946台で4位。5位と6位にダイハツ工業の軽「ミラ」(1万3837台)と「タント」(1万2101台)が続き、
エコカー補助金終了後も燃費性能の高いHVと軽の販売好調が浮き彫りとなった。

ハイブリッド車と軽自動車が好調というのは、やはりこの不況な御時勢の財政事情を反映してもいるのでしょうね。
クルマにそこまでの贅沢はできないから、できるだけ車体も燃費も安く抑えられるようにしたい、という思惑が当然のごとくあるのでしょうし。
かくいう私自身、今年のクルマ買い替えの際にはアクアとプリウスのハイブリッド車が共に候補に挙がり後者を選定していたのですし、車体はともかく燃費は安く抑えられるという思惑は当然のごとくありましたからねぇ(^^;;)。
逆に、スポーツカーのようなタイプのクルマは、昨今ではあまり流行のしようもないでしょう。
形はカッコ良く運動性や瞬発力は抜群でしょうが、如何せん燃費は食うし積載量も少なすぎるときているのですから。
そう考えると、ひたすら実用性が重視される昨今のクルマ販売の実情は、どことなく寂しいものがあると言わざるをえないですね(T_T)。
見た目のカッコ良さと装飾性がクルマに求められる時代なんて、今後来るのか否かも不明ではあるのですが。

映画「北のカナリアたち」感想

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映画「北のカナリアたち」観に行ってきました。
湊かなえの短編集「往復書簡」に収録されている短編小説のひとつ「二十年後の宿題」を原作とする、吉永小百合主演のヒューマン・サスペンス作品。

今作の冒頭では、雪が降り注ぐ離島でキャリーバッグを引き摺りながら移動している女性の姿が映し出されます。
彼女の名前は北島はるといい、離島にある小学校で教師をしていました。
しかし、島でとある事件が起こったことをきっかけに悪い噂が流れたことから、彼女は島民から避けられるようになってしまい、結果的に島を離れなくてはならなくなってしまいました。
ただひとり港へと向かう北島はるの前方に、彼女の教え子のひとりだった鈴木信人が姿を現します。
自分を見送りに来てくれたのかと思ったのであろう北島はるは、「のぶちゃん!」と鈴木信人へ歩み寄ろうとするのですが、当の鈴木信人はそばにあった石を拾い、北島はるに目がけて投げつけます。
石は狙い違わず北島はるの頭に命中。
額から血を流し、半ば呆然とする北島はるを尻目に、鈴木信人は謝罪の言葉もなくその場から足早に去っていくのでした。

それから20年後。
島を離れて以来、東京の国会図書館で勤続していた北島はるは、定年退職の時を迎えていました。
職場の人に「今までお疲れ様でした」と見送られ、自宅へと戻ってきた北島はるでしたが、そこへ警察の人間2人が彼女を訪ねてきます。
警察が彼女の元を訪ねてきた理由は、彼女のかつての教え子で、冒頭のシーンで石を投げつけてきた鈴木信人に絡むものでした。
鈴木信人は殺人事件を起こして行方を眩ましており、しかも彼の家には北島はるの現住所と連絡先が書かれていた紙が貼られていたというのです。
当然警察は「鈴木信人から何か連絡がありましたか?」と質問してくるのですが、北島はるは「20年前に島を離れて以来、連絡は取っていない」と返答。
関わりがあったのが20年も前ということもあってか、警察もそれ以上北島はるを疑うこともなく、部屋に置かれていた草津温泉のパンフレットを見て「旅行へ行くんですかぁ」などと雑談に興じたりしていました。
一応、去り際には「もし鈴木信人から連絡があったら、私の元へご連絡を」と連絡先の名刺を渡してはいましたが。
しかし、これをきっかけとして北島はるは、かつての教え子達6人の元をひとりひとり訪ねるべく、単身北海道へと向かうことになります。
まずは6人の中で唯一結婚し姓を変えている、戸田(旧姓:酒井)真奈美の元を訪ねることになるのですが……。

映画「北のカナリアたち」は、主演である吉永小百合をはじめとする豪華キャストもさることながら、3100人のオーディションから選抜されたという子役のチョイスもなかなかのものがありますね。
公式サイトのINTRODUCTIONページによると、この子役達は「天使の歌声を持っているか否か」で選定されたようなのですが、成人後の役を担う俳優さん達と比較しても、幼少時の面影や背格好などの構図がそのまま被せられるようなチョイスになっています。
おかげで物語のラストにおける旧小学校で全員が一堂に会した際も、幼少時と成人後の組み合わせが分からなくなるということは全くなかったですね。
この辺りの作りこみはなかなかに上手いのではないかと思いました。
また、ストーリーが進行するにつれて、20年前の事件の全貌や、当時における登場人物達の心情が少しずつ明らかになっていく構成になっており、その過程も丁寧に描かれているため、人間ドラマとしてのみならずミステリー的な視点でも楽しむことができます。
ラストで6人全員が一堂に会するシーンは、ややご都合主義的な展開であってもやはり感動的なものではありますし。
さらには、実はその演出自体が北島はるが最初から画策していたものだった、などというオマケまでつきますし。
物語序盤における警察とのやり取りで出てきた「鈴木信人とは連絡を取っていない」云々自体が実は全くのウソだった、という展開は、あの冒頭の石投げシーンも相まって最初の時点で気づけるものではなかったですからねぇ(苦笑)。
この辺り、本当に展開の仕方が上手く、私も見事に騙されてしまいました(T_T)。

今作における主人公である北島はるという人物は、良くも悪くも「自分よりも他人のことを優先に考える」人間ですね。
病で余命半年の夫・北島行夫のために北海道の離島へとやってきたり、自殺しようとしていた警官・阿部英輔を不倫の噂を流されてまで無理にでも引き留めようとしたり。
彼女にしてみれば、相手が自ら死の道を歩もうとしていることが我慢ならなかったのでしょうし、そんな道を選ぶことなく幸せになって欲しかったというのが本音であったのでしょう。
ただ彼女の場合、特に20年前はそれが完全に空回りしていて、結果的に周囲の人間を却って不幸にしていた感が多々ありますね。
彼女が6人の生徒達に歌を教えていた件などはまさにその典型で、アレのために6人の生徒達は内部分裂を引き起こした上、それを改善するために主催したバーベキューで北島行夫が死んでしまった上、北島はるの不倫話が村中に広がってしまったことで、生徒達の心の傷が修復不能までに悪化してしまったのですから。
自分のやることなすことがことごとく最悪の方向へと転がっていく様を見て、当時の彼女はさぞかし絶望せざるをえなかったのではないかなぁ、とつくづく思わずにはいられなかったですね。
下手すれば、それこそ彼女自身が自殺してもおかしくはなかったでしょうし。
しかし、それでも6人の生徒達にとっての北島はるは、やはりなくてはならない存在であったし、彼女と別れる羽目になった後もそれは変わらなかったのでしょう。
彼らは全員、自分達の家族に少なからぬ問題を抱え込んでおり、自分のことを真剣に見てくれる者は北島はるを除き誰もいなかったわけなのですから。
作中のごとき不幸な事件があってもなお北島はるが6人の生徒達から慕われていた理由は、彼女が初めて自分達と真剣に向き合ってくれる「本当の母親」のごとき存在だったからでしょう。
ただ、それでも北島はると出会ったことが6人の生徒達にとって本当に良かったことなのか否かは、物語の全体像を見ると結構疑問に思わざるをえない部分も多々あったりするのですが。
幼少時の心の傷を20年間も抱え込んで生きていかなくてはならなかった、という事実は、その後の人生に間違いなく多大な負の影響を与えるものとなりえるのですからねぇ。
もしあの6人の生徒達が、北島はると出会うことのない幼少期を過ごしていたら一体どのような人生を歩むことになっていたのか、というIF話は少々興味をそそられるところです。

あと、物語とは全く関係ないのですが、今作で北島行夫を演じていた柴田恭兵って、映画「エイトレンジャー」に出演していた舘ひろし共々、すっかり人間が丸くなった役柄が似合うようになってしまったのだなぁ、と往年の「あぶない刑事」ファンとしては考えずにいられなかったですね。
個人的にはあちらのキャラクター像の方が好きなのですけど、今作や「エイトレンジャー」のような描写のされ方も似合っていた辺り、2人ともすっかり年を取ってしまったのだなぁ、と。
年月の経過や人の老いというのはこういうところにも表れるものなのか、とついつい考えてしまったものでした(T_T)。

感動的かつハッピーエンドな人間ドラマが見たいという方はオススメな作品ですね。
あと、ミステリー好きな人も意外にその面白さを感じられるところがあるかもしれません。

日本映画の振興支援策と日本の映画料金の問題について

2011年の興行収入が前年比で2割近くも落ち込んだことから衰退の危機が囁かれる日本の映画業界。
その復活のカギは「政府の支援体制の拡充」にあるのだそうです↓

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121104-00000000-fsi-bus_all
>  2011年の興行収入が前年比17.9%減の約1812億円に落ち込み、衰退の危機がささやかれる映画産業に、明るい兆しが見え始めた。複数のスクリーンを持つシネマコンプレックス(シネコン)で娯楽作品が集中的に上映されることが多かった興行にも、個性的で質の高い作品を求める機運が出始め、目の肥えたファンが戻りつつある。10月下旬に開かれた東京国際映画祭は今年で25回を数え、世界で存在感を高めつつある。映画産業「復活」の鍵は欧米に見劣りする政府の支援体制にありそうだ。
>
>  「映画は時代を映す鏡。その力を信じたい」。10月28日に閉幕した東京国際映画祭の記者会見で審査員の一人、イタリアのエマヌエーレ・クリアレーゼ監督は、こう強調した。日本の映画興行を取り巻く環境は大きく変化している。
2000年ごろから、郊外のショッピングセンターなどにシネコンが急増。人気作を集中上映し、不人気だとすぐ打ち切る手法が定着した。そのため映画製作は、人気テレビ番組の続編や漫画を原作とするなど、一定の観客が見込める作品に偏った。
>
>  並行して個性的な作品を上映するミニシアターが激減。主に1980年代、欧州などの芸術性の高い作品をロングランヒットさせた役割は影をひそめた。また複製フィルムからデジタル素材による上映に移行しつつあり、設備投資の余裕がなく、閉館する地方映画館も増えている。
>
>  さらに、シネコンの成長も頭打ち状態だ。全国でシネコンを運営するユナイテッド・シネマ(東京都港区)は3月、経営不振のため親会社の住友商事から投資会社に売却された。さまざまな映像コンテンツがインターネットで入手できるようになり、映画館に足を運ぶ人も減っている。今後は「増えすぎたスクリーン数の淘汰(とうた)が始まる」(証券アナリスト)とされる。
>
>  とはいえ大量のコンテンツが出回るようになったことで、かえって「ファンの好みが多様化し、個性的な作品が受け入れられる土壌も戻ってきた」(映画祭関係者)との指摘がある。
大手映画会社の東宝は2013年2月期連結決算の最終利益は前期比32%増の130億円と見込む。大ヒットした「テルマエ・ロマエ」が収益を押し上げたほか、社会派作品の「終の信託」も手がけ、今後も「バラエティーに富んだ作品をそろえていきたい」(担当者)という。
>
>  
映画産業にとって、運営の見直しが迫られるシネコンが今後、国内外の質の高い作品をいかに取り込んで商業ベースにのせるかが大きな課題となる。今年の東京国際映画祭は、沖縄・尖閣諸島の国有化で日中関係が冷え込む中での開催となり、中国作品の「風水」が直前に不参加を表明するトラブルに見舞われた。だが「映画と政治は別」と上映に踏み切り、政治介入を拒んで存在感を高めた。中国の関係者からも称賛の声が上がったという。
>
>  今年の最高賞と最優秀監督賞を受賞した仏作品「もうひとりの息子」は、子供の取り違え事件を通じ、イスラエルとパレスチナの対立や人々の苦しみを描いた作品だ。映画祭関係者はこの作品の今後に期待をかける。昨年の最高賞は出品国の仏や欧州だけでなく、日本でもヒット作品となった。受賞作がヒットすれば次回以降に質の高い作品が集まり、映画祭の知名度も上がる好循環が生まれていく。
>
>  一方、
映画産業に対する政府の支援体制が不十分だとする声が少なくない。10月26日、都内で開かれた東京国際映画祭の分科会「国際共同製作を考えるセミナー」では、参加した仏のプロデューサーが、日本の映画について「米国のように『産業』なのか、仏のように『文化』なのか、性格が中途半端な点が成長を妨げている」と指摘した。
>
>  欧米では複数の国による「国際共同製作」を支援する仕組みが整っており、ロケの便宜を図ったり、経費の税額を控除して製作費を支援する制度がある。日本でも11年度から政府の支援が始まった。ただ予算は年間で約2億円、1作品当たりの支援は数百万円から数千万円にとどまる。海外の大作級の映画の製作費は数十億円から100億円単位にのぼるだけに、海外勢が日本と共同製作をしたくなる動機付けにはなりにくい。
>
>  縦割り行政への批判もある。映画製作は通常、企画立案から公開まで数年かかるが、「官庁は1年単位で担当が変わり、責任の所在もあいまいで交渉しにくい」と関係者は打ち明ける。東京国際映画祭の知名度はカンヌ、ベルリンといった伝統ある国際映画祭には遠く及ばず、当面の目標は「アジアのゲートウェイ」。だが、移民の多いカナダで毎秋開かれるトロント国際映画祭が似通う目標を掲げているほか、韓国・釜山や中国・上海の新興映画祭が政府の強力な支援も得て急速に台頭するなどライバルも少なくない。
>
>  
東京国際映画祭のイベントに参加した枝野幸男経済産業相は「『クールジャパン』を推し進めてきた中で、文化や芸術の力が最も大きく現れるのが映画」と持ち上げた。その力を、政府がどこまで引き出せるのかも問われている。(藤沢志穂子)

最後の枝野の発言には大笑いもいいところですね。
内容はともかく「お前が言うのか!」と。
そもそも日本の「文化や芸術」のみならず、必要不可欠な研究開発事業などを「事業仕分け」の名の元に根絶させようとすらしてきた元凶は、一体どこの政党だったのでしょうかねぇ。
これまでのゴタゴタの数々を鑑みても、民主党に映画を振興させられるような能力どころか意思すらもないことは、既に誰の目にも明らかではありませんか。
日本映画の振興は確かに大事なことではあるでしょうが、そのためにはまず、民主党が政権から滑り落ち、この世から消滅することが何よりの必須条件とならざるをえないでしょう。
民主党では文化振興どころか、日本の国益も国力も、下手すれば国の存続自体すらも危ういものにさせかねないのですから。
民主党が日本の映画振興に寄与したいというのであれば、自分自身こそがまずは消滅すべきですね(爆)。
どんな施策よりもそれこそが、映画のみならず日本全体のためにもなるのですから(笑)。

ところで、「2011年の興行収入が前年比で2割近くも落ち込んだ」というのは、映画の内容ではなく単に震災の影響が大きかったのではないのでしょうか?
震災直後は当然のことながら東北地方では映画自体がマトモに観賞できなくなったわけですし、計画停電で大騒動になっていた関東地方でもそれは同様だったでしょう。
またその他の地方も、「震災自粛」という名の愚かしい「空気」のせいで、映画のみならず全ての経済活動に多大な損壊が発生する始末でしたし。
「震災自粛」のせいで中止されたイベントなどは数知れず、その悪影響は震災から半年くらいは何らかの効力を持ち続けていたわけですから、映画の興行収入が落ちるのもそれはむしろ当然のことではないかと。
ああいうのって、個人や企業が個別に対処できるシロモノではないのですし。

映画の支援内容について私が是非推進して欲しいのは、やはり何と言っても劇場公開映画の地域間格差の改善ですね。
以前から何度かネタにしていますが、熊本の映画館で観賞可能な映画作品というのは、東京のそれの5分の1以下の数しかなかったりします。
九州第3の、それも政令指定都市を擁する熊本ですらそうなのでは、それ以下の規模しかない遠隔の地方と東京との格差はさらに悲惨なものがあるでしょう。
となると、地方の人間の場合はそもそも「観賞したくてもできない映画」や「最初から存在すら知ることができない映画(地方で上映されない映画はテレビやラジオで宣伝されることすらない)」がたくさんあることになってしまいます。
もちろん、今はレンタルによるビデオ観賞という最終手段がありますから「絶対に観賞できない」ということはないでしょうが、映画振興という観点から見れば、レンタル依存という形態は健全なあり方であるとは言えないでしょう。
これを是正し、どんな映画でも全国津々浦々での観賞が可能になれば、それは特に「興行収入は望めないが内容的に面白かったり特殊なテーマを追ったりしている映画」には大きな後押しとなるのではないでしょうか。
具体的には、映画の製作費が1億円以下の映画限定で「この映画を各劇場1スクリーン/2週間程度の期間限定で公開すれば、公開にかかった費用+αを全額負担する」的な「映画館への支援」を行うべきではないかと。
映画振興や人材発掘などの観点から見ても、優先的に支援すべきは「売上が見込める大作映画」ではなく「売上はでないかもしれないが今後の可能性に期待できるマイナー映画」でこそあるべきでしょうし。
即効性はまずないでしょうし、この手法でも駄作が貴重なスクリーンを占有する可能性が否めなかったりもするのですが、映画の支援というのはまずこの辺りから始めるべきではないかなぁ、と。

一方で「映画料金を改定して安くする」などといった誰でも考えそうな手法は、少なくとも現時点における映画業界の現状を鑑みる限りではあまり賛同はできないですね。
確かに日本の映画料金は世界的に見ても高いことで有名なのですが、本当に問題なのは「では何故そこまで日本の映画料金は高くなったのか?」ということにあるのです。
その理由は単純明快で、「映画を観る人&1人当たりの映画観賞本数が少ないから」これに尽きます。
映画を観る人が少なく、映画があまり観られることがないからこそ、安い映画料金では利益を上げるどころか元手を回収することさえもできず、結果どうしても単価を高くしなければならなくなる、それが日本の映画料金が高くなっている元凶なのです。
売れない商品は売上単価を上げざるをえず、結果ますます売れなくなる、という市場原理の悪循環が映画にもある、というわけです。
逆にアメリカでは映画料金が日本の半分以下と、日本の映画料金との比較でよく言われるのですが、アメリカの場合は日本の倍の人口に加えて1人当たりの映画観賞数も多く、そして何と言っても世界規模で自国の映画を上映できることから、利益回収が容易であるという事情が少なくないのです。
市場が日本国内限定で、たまに海外に進出する映画があるだけでニュースになるレベルの日本映画が真似できるような相手では、すくなくとも現段階ではありえないでしょう。
今の段階で映画料金を下げると、映画製作の現場ではますます売上至上主義的に傾斜したり、製作費をさらに切り詰めたりして、結果的に却って映画の品質が低下するリスクすらありえます。
そもそも映画料金を下げたところで、ちょっとやそっとの改定では「レンタルの方が料金も安いし面倒が少ないからそちらの方がマシ」となるだけで見た目的にも逆効果ですし。
日本の映画料金を下げるのは、日本の映画市場が今よりも拡大し、海外進出も当たり前の状態になった時であるべきなのではないかと。

日本映画の振興にはまだまだ多くの課題があるでしょうが、洋画と対等に肩を並べられるだけの勢力にまで台頭しえた今の状況は喜ばしい限りですね。
これからも、更なる発展と良作の提供を願いたいものです。

映画「黄金を抱いて翔べ」感想

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映画「黄金を抱いて翔べ」観に行ってきました。
大阪のメガバンクにある240億円相当の金塊の強奪を画策する男達の物語を、妻夫木聡を主演に、浅野忠信・西田敏行などの豪華キャストで彩る、高村薫の同名サスペンス小説を原作とするクライム・アクション作品。
今作は、内容的に見る限りではR-15指定されてもおかしくないレベルのバイオレンス&セックス絡みの描写がてんこ盛りなのですが、何故かR-15どころかPG-12指定すらも全く為されていませんね。
前回の「のぼうの城」といい今作といい、この手の規制って一体何を基準に決められているのか、何度考えても疑問が尽きないのですけど…。

物語は、 今作の主人公である幸田弘之の「俺は人のいない土地を探して……」云々のモノローグとビルの間を移動する風景が短時間披露された後、ハングルと思しき外国語を話す2人の男が出会い、喫茶店で会話をしているシーンから始まります。
2人は兄弟の関係にあったらしいのですが、喫茶店から場面が変わった後、弟が兄を銃で撃ち殺すという顛末に至っています。
これらの描写は当然のごとく後々のストーリーと絡んでくることになるのですが、ここで観客の視点はようやくストーリー本筋へと入ることになります。
諸事情あって離れていた生まれ故郷である大阪の街へ20数年ぶりに戻ってきた幸田弘之に、彼の大学時代からの親友で運送会社のトラック運転手をしている北川浩二が接触してきます。
北川浩二は幸田弘之に対し、仮の仕事場と住居を提供すると同時に、とある遠大な計画に参加するよう促します。
その計画とは、大阪にある巨大メガバンクの地下にあるとされる、総額240億円にも上ると言われる金塊を強奪するというもの。
北川浩二は幸田弘之との再会の前に、外車ショーで知り合ったらしい野田という人物を既に仲間に引き入れていました。
彼は件の銀行を担当するシステムエンジニアで、数千万単位の借金を抱え込んでいました。
3人は計画について活発にやり取りを続けていましたが、計画を練るに従い、計画に必要な専門家がまだ必要であるとの結論に達します。
具体的には、銀行内部の地図や内部事情に精通した人間と、陽動作戦や金庫の爆破等に使用する爆弾を製造するエキスパートが。
前者は野田がツテを当たり、かつて銀行のエレベーターの保守管理を担っており、現在は公園清掃員の仕事に従事している斉藤順三なる老人を担ぎ出します。
そして後者は、北川浩二に斡旋された住居の近くに住んでいた朝鮮人のチョウ・リョファンを、幸田弘之が見出すことで確保することになります。
さらに、北川浩二の弟でギャンブル依存症の北川春樹が金塊強奪計画を察知し、北川浩二と幸田弘之は、成り行き上しかたなく彼も仲間に組み入れることに。
かくして、6人の男による大胆不敵な犯行計画が準備されることなったわけなのですが……。

映画「黄金を抱いて翔べ」は、その名だたる顔ぶれが揃った豪華キャストの割には、宣伝も知名度も今ひとつな感のある映画ですね。
浅野忠信・西田敏行なんて、私でさえ名前を知っていて多くの映画やテレビで少なからず顔を見かけるクラスの俳優なのですが。
バイオレンス要素満載な作品であることが、映画の前評に陰を落としていたりでもするのでしょうか?
物語後半では、浅野忠信が演じる北川浩二が、奥さんの北川圭子とおもむろに着衣セックスをする描写までありましたし。
映画「終の信託」でも浅野忠信はそんな役どころを演じていましたが、「マイティ・ソー」「バトルシップ」などで好漢なキャラクターぶりを披露していた経緯を見てからそれらの描写を見ると、何とも多大な違和感が拭えないところで(^^;;)。
ただその割には、前述のように今作がR-15にもPG-12にも指定されていないのは何とも奇妙な話ではあるのですが……。

今作の大きな特徴は、金塊強奪計画の準備だけでストーリーの7割以上を占めており、かつその準備過程の中で計画とは全く関係のない組織が主人公達にちょっかいを出してきたり、その過程で計画の構成員達が死を余儀なくされたりしているところですね。
面白いのは、それらの組織は別に主人公達の金塊強奪計画を察知した上で計画の妨害を図っているのではなく、あくまでも自分達の利害から主人公達に関与したり襲撃したりしている、という点です。
特にチョウ・リョファン関連では、彼を抹殺すべく北朝鮮系の組織までもが動いており、彼を巡って斉藤順三が情報を売ったり、複数の組織が金目当てに襲撃を画策したりと、彼を味方に引き入れたことによるリスクの発生が半端なものではありませんでした。
北川浩二らにしてみれば、彼が持つ爆弾製造の知識は計画遂行に当たって何としても必要なものではあったのでしょうが、それで多大なリスクを抱え込んだ辺り、果たして彼を引き込んだのは正しいことだったのかと、観客から見てさえも疑問を抱かずにはいられなかったですね。
特に幸田弘之の場合は、そのために自ら重傷を負い、計画遂行に多大な支障をきたすことにまでなってしまったわけですし。
また、北川浩二の弟である北川春樹もまた、ギャンブル絡みで別の組織とトラブルを引き起こしており、そのトバッチリを食らう形で北川浩二の妻と子供が犠牲となっています。
結果、計画の準備が完了するまでに2人が死ぬ形で脱落、さらには幸田弘之が重傷を負うという、コンディションとしては最悪もいいところ、しかも日程の都合で計画の延期も不可能な状態で、彼らは計画の遂行を余儀なくされてしまうことになるわけです。
大規模な犯罪行為を行おうとしているのですから当然リスクはつきものではあるのでしょうが、金塊強奪計画とは元来全く関係ないはずの別件な抗争に巻き込まれる形で計画遂行に支障をきたす羽目になるというのでは、トラブルを持ち込んだ当人はともかく、トバッチリを受けた当事者達は正直たまったものではなかったでしょうね。
作品的に見ても、本筋とは全く関係のない話にあちこち飛び火しまくっていて、話が拡散しすぎている感がどうにも否めなかったところでしたし。
本件であるはずの金塊強奪計画の方が、その準備よりもはるかに「楽」な作業であったようにすら見えてしまったのは、果たして私の気のせいなのでしょうか(^^;;)。
そちらにしても、少なからぬ失敗や行き当たりばったり的なアクシデントが多々あったりしたのですが……。

R-15系的なバイオレンス要素が前面に出ている映画ではありますが、全体的には人間ドラマを重視した作品、ということになるでしょうか。

映画「のぼうの城」感想

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映画「のぼうの城」観に行ってきました。
戦国時代末期、豊臣秀吉の配下だった石田光成率いる2万の軍勢に攻められながら、たった500の兵力、避難してきた民百姓を含めても3000に達しない数で、本城たる小田原城が落城するまで抗戦を続けた、後北条氏の実在の武将・成田長親および忍城の戦いを描いた時代劇&戦争映画です。
しかしこの映画、戦場で首がもげるシーンとか水死体とか、残虐描写がそれなりにある作品だというのに、R-15どころかPG-12指定にすらなっていないというのは何とも不思議な話ではあります。
相変わらず、この手の規制は一体何を基準にしているのかよく分からないですね。

今作は、作中冒頭および後半部分に水攻めのシーンがあることから、東日本大震災後に蔓延した「震災自粛」の悪影響をモロに被った挙句、2011年9月から2012年11月への公開延期を余儀なくされた経緯があります。
これは、同じく「震災自粛」で公開延期を余儀なくされた映画の中でもトップクラスに入る規模の延期期間となります。
何しろ、10秒あるかどうかの「宇宙人の飛翔体落下に伴い発生した津波に飲まれる描写」だけのために自粛させられた映画「世界侵略:ロサンゼルス決戦」や、水死絡みの描写が満載の映画「サンクタム」などは、「のぼうの城」が当初劇場公開を予定していた2011年9月に日本で公開されているのですから。
他の映画が普通に劇場公開されている2011年9月に、何故「のぼうの城」だけは公開が自主規制されなければいけなかったのか、つくづく理解に苦しむと言わざるをえないですね。
そもそも、あの当時蔓延していた「震災自粛」自体、その実態は「被災者に同情している俺カッコイイ」的な自己満足の類でなければ、単なる営業上の都合やクレーマー対策などから発生していたシロモノでしかなかったのですし。
あの「震災自粛」は、そんな目先かつ愚劣なシロモノと引き換えに、長期的には日本経済を滞らせ更なる不景気を招きよせたことで、却って被災地の経済的な復興をも阻む要素にまでなっていたのですけどね。
その意味では、今回「のぼうの城」が無事劇場公開にこぎつけられたことで、映画業界における「震災自粛」の被害がとりあえずは終息したことになるわけで、とりあえずはめでたい限りと言えるでしょう。
もっとも、「震災自粛」と同じく震災後に日本に蔓延した「脱原発」という名の「空気」は、未だ収束の気配すらもなく日本中で猛威を振るい続けている状態なのですし、震災の爪痕は未だに色濃く残っているのが現状ではあるのですが。

さて、曰くつきな公開延期を余儀なくされた今作で問題になった水攻めシーンの最初のものは、物語冒頭にいきなり登場します。
1582年(天正10年)に、当時の羽柴秀吉が中国地方の毛利氏を攻める際に行われた、備中高松城の戦いにおける水攻めがそれに当たります。
作中では、当時は羽柴秀吉の小姓だった石田三成と大谷吉継が、羽柴秀吉と共にこの水攻めの光景を目の当たりにしており、特に石田三成がこの光景に「天下人の戦だ」と感動する様が描かれています。
そしてもうひとつが、8年後の1590年(天正18年)に羽柴改め豊臣秀吉による小田原征伐が行われた際に、石田三成が周囲の反対を押し切って断行した忍城水攻めとなるわけです。
この忍城水攻めにおける描写はさらに、忍城が水攻めで被害を被るシーンと、石田三成が急造させた水攻めのための堤が決壊して石田三成側に水が襲い掛かるシーンという2種類の異なる水の脅威が描かれることになります。
その水攻めの描写は確かに迫力かつリアリティのあるものであり、その秀逸な出来故に却って「震災自粛」の巻き添えを食う羽目になったというのは皮肉もいいところですね。
実は「のぼうの城」にはさらに、人間が水攻めに巻き込まれるシーンなども多く盛り込まれていたらしいのですが、そちらはさすがにカットされてしまっているのか、その手の描写はほとんどありませんでした。
この辺についても、「震災自粛」などのために余計なことを、と思わずにはいられませんでしたが。

作中における忍城の戦いは、豊臣秀吉が配下の武将達に軽んじられている石田三成に箔をつけようと、当時後北条氏が領有していた関東地方に攻め入る小田原征伐を行う軍議の場で、石田三成に2万の兵を預け、進軍途上にある後北条氏の支城、館林城と忍城を陥落させるよう命じたことに端を発します。
ところが館林城は守兵2000、忍城に至ってはわずか1000と、どちらも兵力的には「勝って当然」と言わんばかりの弱小な関門でしかありません。
しかも、豊臣秀吉の小田原征伐に伴い、主である後北条氏からは各支城に対して「城主自ら兵を率い、小田原城の籠城戦に参加せよ」との通達が来ており、忍城は城主である成田氏長(なりたうじなが)自らが、城内半数の兵力500を率いて小田原城へ進発していました。
さらに成田氏長は、後北条氏に従うように見せかけて裏では豊臣方に内通と恭順の意を示しており、忍城は本来戦わずして開城する手筈となっていました。
豊臣方から見れば、石田三成は「ただ進軍するだけで勝利が転がり込んでくる」状態でした。
しかし、忍城の無血開城は豊臣秀吉だけが知る秘密であり、石田三成の軍の中でそれを知るのは、豊臣秀吉本人から秘密を知らされた大谷吉継のみ。
この戦いはあくまでも石田三成に武勲を立てさせるためのものであり、「抗戦の意思を示している城を【石田三成の実力】で開城させた」という構図を形だけでも演出しなければならなかったからです。
最初から無血開城では「石田三成の武威で城を降伏させた」にも「八百長かつ出来レース的な戦い」にもならず、石田三成の功績にはならないのですから。
しかし、誰にとっても不幸だったのは、ここまでお膳立てをされた当の石田三成自身が、本格的な攻城戦を自ら積極的に望んでいたこと。
彼は、忍城の前の進軍経路にあった館林城が戦わずしてあっさり降伏してしまった(彼我の戦力差と自分達が置かれた絶望的な状況から考えればこれはこれで当然の選択なのですが)ことに不満を抱いており、また前述の備中高松城の戦いで見た水攻めを自分で演出したいという思惑もあり、忍城と交戦に持ち込むべく策を練ることになります。
それが結果的に、忍城の獅子奮迅な戦いぶりと石田三成の稚拙な軍事手腕を後世の歴史に伝え残すこととなったわけなのですから、何とも笑える話ではありますね。
石田三成が余計なことを画策しなければ、忍城の戦いも発生せずに無為無用な犠牲が発生することもなく、他ならぬ石田三成自身も武功を挙げることができたはずなのですから。
戦が全然分かっていないどころの話ではないのですが、「戦わずして勝つ」よりも誇りや矜持のために戦うことに価値を見出しているのが、作中で描かれている石田三成という男の性といったところなのでしょうか。

そして一方、豊臣側に内通の意を伝えた忍城側も、これまた形の上だけでも「戦いの意思はあったが、やむなく降伏した」という体裁を取り繕う必要がありました。
戦うことはないのだからと戦の準備もせずに構えていたら、現時点では未だ主格である後北条氏に内通を疑われ、場合によっては豊臣方に内通する前に後ろから攻め込まれてしまう危険性があります。
また、世間体や武士の矜持的な観点から言っても「最初から降伏を決めていた」という事実があからさまに示されるのでは悪評を被ること必至ですし、その後自分達が冷遇されたりすることにもなりかねません。
だからこそ、内通を決断した城主の成田氏長は危険を承知で小田原城へ向かったわけですし、忍城も形の上での籠城戦の準備を進めていたわけです。
成田氏長が小田原城へ発った後の忍城は、成田氏長の叔父である成田泰季(なりたやすすえ)が代理の城代となるのですが、彼は成田氏長の小田原城進発直前に病に倒れてしまい、自分の息子である成田長親(なりたながちか)を新たな城代に任じることになります。
しかし成田長親は、武芸はてんでダメで馬にすらも乗れず、常日頃から百姓達と交わり農作業を手伝おうとして却って足手纏いになることから、「でくのぼう」を略して「のぼう様」という仇名で呼ばれているような人物。
家臣達も「のぼう様」の奇行ぶりには手を焼いており、幼馴染である正木丹波守利英(まさきたんばのかみとしひで)などは、常に百姓の村へ出かけていく成田長親を探し出しては説教をする毎日を送っている始末。
ただ、性格が気さくで常に下の身分の者達と和やかに笑いながら接していることから、百姓達からは大いに慕われていました。
成田長親とその家臣達は、事前の決定通りに豊臣方へ降伏する方針だったのですが、石田三成が降伏勧告の軍使として派遣した長束正家は、人を舐めきった高圧的な態度で忍城側の人間と相対し、さらに「降伏後の財産の安堵」が全く保証されない内容の降伏条件を提示してしまいます。
これこそが、忍城との開戦を望む石田三成による策略だったわけです。
長束正家のその態度を見た成田長親は、降伏方針から一転、独断で城を挙げて戦うことを全く唐突に宣言し、周囲を驚かせることになります。
すぐさま正木丹波守利英をはじめとする家臣達が成田長親を諌めようとするのですが、そもそも家臣達自身も本当は武士の名誉のために戦いたくてならなかった面々ばかり。
家臣達は成田長親の主張を聞くにおよび、説得どころかむしろ逆に「やろうぜ!」「戦おう!}などと成田長親に同意していくばかり。
最後まで慎重論を唱えていた正木丹波守利英も、やはり心情は同じだったこともあって最終的には彼らに唱和することとなり、かくして忍城は全会一致で長束正家に改めて抗戦の意を伝えることになるのでした。
かくして、普通ならば決して戦うことはなかったはずの両者が、圧倒的な戦力差で忍城を舞台に合戦の火花を散らすこととなったのです。

映画「のぼうの城」では、戦国時代の合戦を描いていることもあり、水攻めのシーンもさることながら、その手の戦争描写や当時の情勢などもなかなかに上手く描写されていましすね。
正木丹波守利英を筆頭とする成田長親配下の武将達にもそれぞれ見せ場があり、水攻め前の攻城戦で彼らは獅子奮迅の活躍を演じることになります。
城攻めの際の兵の動きなども、当時の戦国時代の合戦事情をそのまま再現しているかのごとくでした。
石田軍の鉄砲歩兵が火縄銃を一発斉射した後、再度の弾込めに手間取っている間に正木丹波守利英率いる鉄砲騎兵の一斉掃射で大ダメージを被ってしまう光景とかは、まさにその典型でしたし。
また、忍城側の兵達の士気が総じて高いのに対して、石田軍の兵達はそもそも戦意自体があまりないような感が多々ありました。
まあ、元々「勝ち戦に便乗して戦っている」的な側面が大きい軍でしたし、何よりも総大将が石田三成ということであまり信用がない、という事情もあったのでしょうけど。
館林城が無血開城した前事情もあって、石田軍の兵達にとっては忍城の戦い発生自体が意外もいいところだったかもしれないのですし。
ただでさえ戦意が低いところに、攻め辛い上に多大な犠牲を強いられることが判明した城に自身の身を剣と槍と弓矢の危険に晒さなければならないとなれば、兵の士気がさらに低くなるのも当然と言えば当然といったところでしょうか。
水攻め失敗後、再度忍城を攻略せんと石田軍が攻め込んだ際などは、水攻めでぬかるんだ足場を土塁で固めながら少しずつ前進していくという慎重&鈍重ぶりを披露していましたが、これも実際にそうする必要があったこともさることながら「そうしなければ前線の兵達が納得しない」という事情が少なからず働いてもいたでしょう。
また芸のない正面攻撃をやって撃退されるのでは、兵達にとってもたまったものではないのですし、最悪、反乱や逃亡までもが発生しかねないのですから。
他にも、「水攻めをすると他の武将達が武勲を立てる機会がなくなるから反対する」という大谷吉継の発言なども結構新鮮なものがあったりしましたし、戦国時代を扱った戦争映画としてはまずまずの出来であると言えるでしょうか。

ただ個人的に少々残念なのは、史実では忍城の戦いで城の守りを支援し敵を多数討ち取る活躍をしたとされるはずの甲斐姫が、活躍どころか全くと言って良いほど戦場に登場してすらもいなかったことですね。
作中における甲斐姫は、男勝りかつ武芸達者的な評価と実力を持っているように描かれていたのですから、彼女も男の武将達と同じく戦場に出て、ハリウッド映画のアクション女優のごとき獅子奮迅の活躍を演じるのだろうとばかり考えていたのですが。
甲斐姫最大の見せ場と言えば、忍城水攻め後に成田長親が城外で田楽踊りを演じて銃撃された後、一命を取り留めて寝込んでいた成田長親の体を起こして羽交い絞めにし、慌てて止めようとした忍城の名だたる武将達を片っ端から投げ飛ばしていたシーンくらいです。
無抵抗の人間を羽交い絞めにしたり、本気が出せない武将達をいくら相手取っていたりしても、それでは彼女が本当の意味で武芸達者であることの証明などにはならないでしょうに。
そして一方で、名だたる武将達を一方的にあしらえるだけの実力の持ち主であることが作品的に明示されているのであれば、甲斐姫も戦場に出て一緒に活躍させていた方が、ストーリー的にも映画の演出的にもより映えるものになっていたのではないかと思えてならないのですけどね。
結局、作中における甲斐姫は、忍城の戦いでは「ただ戦争の決着を待っていただけ」の立場に終始していて、いてもいなくても大した違いはない程度の役柄でしかなかったのですし。
わざわざあんなポジションを用意するのであれば、甲斐姫にも是非戦場で活躍してもらいたかったところなのですが、それがなかったのは正直肩すかしもいいところでした。
今作の中で唯一「惜しい」と思われる部分ですね、これは。

戦国時代の合戦ものや時代劇・戦争映画などが好きという方にはイチオシの作品です。

テレビドラマ「大奥 ~誕生~ 有功・家光篇」 第4話感想

ドラマの話数に合わせて全10回を予定している、TBS系列の金曜ドラマ「大奥 ~誕生~ 有功・家光篇」の視聴感想。
今回は2012年11月2日放映分の第4話です。
前回第3話の視聴率は7.9%とのことで、これまで一番低い記録を叩き出してしまっています。
これはやはり、前々回第2話の次回予告時点で猫殺しに切腹・回想におけるレイプシーンなどといった暗い話が提示されていたことが大きかったのではないかと。
第3話の内容自体は、玉栄の悪人的な振る舞いやラストシーンなど、見どころも決して少なくはなかったのですが……。
なお、過去の「大奥」に関する記事はこちらとなります↓

前作映画「大奥」について
映画「大奥」感想&疑問
実写映画版とコミック版1巻の「大奥」比較検証&感想

原作版「大奥」の問題点
コミック版「大奥」検証考察1 【史実に反する「赤面疱瘡」の人口激減】
コミック版「大奥」検証考察2 【徳川分家の存在を黙殺する春日局の専横】
コミック版「大奥」検証考察3 【国内情報が流出する「鎖国」体制の大穴】
コミック版「大奥」検証考察4 【支離滅裂な慣習が満載の男性版「大奥」】
コミック版「大奥」検証考察5 【歴史考証すら蹂躙する一夫多妻制否定論】
コミック版「大奥」検証考察6 【「生類憐みの令」をも凌駕する綱吉の暴政】
コミック版「大奥」検証考察7 【不当に抑圧されている男性の社会的地位】
コミック版「大奥」検証考察8 【国家的な破滅をもたらす婚姻制度の崩壊】
コミック版「大奥」検証考察9 【大奥システム的にありえない江島生島事件】
コミック版「大奥」検証考察10 【現代的価値観に呪縛された吉宗の思考回路】

テレビドラマ「大奥 ~誕生~ 有功・家光篇」
第1話感想  第2話感想  第3話感想

第4話は、原作3巻の始めからP72までのストーリーを担っています。
女版家光と有功が邂逅してから1年が経過し、2人の間に子供が生まれないからと業を煮やした春日局が、有功に女版家光から自主的に離れるよう強要して有功がそれを実行するまでの話となります。
第4話は全体的にオリジナルなエピソードが多く、前半部分の多くがオリジナルストーリーに割かれている感がありますね。

・夜に女版家光と有功が海について雑談後、世継ぎが生まれた後のことについて夢を語っている。
・この先の暗い未来を暗示する有功の伊勢物語の講義と稲葉正勝の訪問。
・稲葉正勝の7回忌における、稲葉正勝の妻・雪と春日局の会話。
・稲葉正勝の7回忌のことを当の本人に報告する春日局と、妻&子供のことを案じる稲葉正勝。

女版家光と有功が語っている海の話は、原作を知る人間からすれば何とも切ない話ではありました。
女版家光は27歳で死去するのですし、2人が徳川家の「呪縛」から解放されることなんて死ぬまでないわけで。
悲恋になるのが分かりきっている展開が何とも泣ける話ではあります(T_T)。
一方で、稲葉正勝の妻が生きていたというのは正直驚きではありました。
私はてっきり、稲葉正勝の妻は夫の生存を疑っていることから、真相に辿り着かれることを危惧した春日局によって既に殺されていて、回想シーンの中だけで生きる過去の人になっているとばかり考えていましたし。
まあひょっとすると、これからの展開でまさにそういう末路を辿ることになるのかもしれないのですけど。
稲葉正勝には2人の兄妹がいたのですが、どう見ても兄の方は赤面疱瘡で確実に死にそうな感がありありですね(苦笑)。

ところで、これは原作からずっと疑問に思っていたことのひとつだったのですが、春日局が女版家光を懐妊させるという目的を達成するために、わざわざ有功を女版家光から引き離さなければならない理由って、具体的にどんなものがあるというのでしょうか?
そもそも春日局は、女版家光が懐妊さえするのであれば相方の男は誰でも良いという考えの持ち主であるようなのですから、女版家光に毎日複数の男性と無差別に乱交することを強要させても良かったのではないのかと。
有功と一緒に寝るのはかまわないが、他の男とも褥を共にしろと命じて乱交させたとしても、それで女版家光が懐妊さえすれば目的は達成できるのですし、その方が「男の側に種がない」などという懸念も払拭できて一石二鳥だったはずなのですが。
女版家光をレイプした男の子供でさえ、春日局が涙を流して喜んでいたことを考えれば、「乱交」という選択肢を春日局が考えてはならない理由などどこにもないでしょう。
有功を引き離してまで新たに女版家光にあてがった男がまたしても「種なし」だった、という【春日局の視点から見れば】惨憺たる結果に終わる可能性だって充分に存在しえるのですし。
女版家光も有功も、春日局に連れられてきた経緯を鑑みれば、そのあたりの事情は最初から重々承知だったはずでしょうに。
「戦のない平和な世の中をつくる」などと豪語し、女版家光や有功態度を披露するのであれば、女版家光も、有功も含めた他の男性も、文字通り「子を作るための道具」として扱い、片っ端から男をとっかえひっかえ女版家光に叩きつけてレイプ&乱交三昧やらせまくって無理矢理にでも懐妊させる、という手段に打って出る方が【春日局の考え的には】はるかに理に適っていると言えるではありませんか。
何故作中のような迂遠でまだるっこしい方法などを春日局が採用しているのか、はなはだ理解に苦しむと言わざるをえないですね。
「戦のない平和な世の中をつくる」のであれば手段は問わないのではなかったのですかねぇ、春日局的には。

しかし、今回のテレビドラマ版「大奥」って、「大奥」の外にある社会情勢や社会システムの現状などについては可能な限り避けて通る方針のようですね。
今回出てきた捨蔵の話で、ようやく大奥の外における社会情勢が断片的ながら出てきたくらいですし。
通常の大奥話と異なり、今回の「大奥」は大奥外部の社会システムの説明なしには成立しえない面が少なくないのですが、この辺り、今後の話で一体どのように収束させていくつもりなのでしょうかね?

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