映画「リアル ~完全なる首長竜の日~」感想
映画「リアル ~完全なる首長竜の日~」観に行ってきました。
乾緑郎の小説「完全なる首長竜の日」を原作とする、実写版「るろうに剣心」の佐藤健および「ひみつのアッコちゃん」の綾瀬はるか主演のSFミステリー作品です。
今作の主人公である藤田浩市と和敦美は、小学校時代の幼馴染で、現在は恋人同士の関係にあります。
同棲生活をしていて結婚まで視野に入れた付き合いをしていたであろう2人の関係は、しかしある日突然、和敦美の自殺未遂によって突然断ち切られてしまいます。
和敦美は自殺未遂から1年もの時間が経過してもなお意識が戻らず、また自殺した理由自体も全く不明。
何とか和敦美を目覚めさせたい藤田浩市は、和敦美が入院している病院の医師から「センシング」と呼ばれる先端医療機器の使用を提言されます。
「センシング」とは、昏睡状態となった患者の脳に他者が直接アクセスし、互いの意思疎通を可能にする最先端の医療機器技術のことを指します。
「センシング」の使用に際しては、患者と患者にアクセスする人間との相性も問われるようなのですが、幸いにして藤田浩市と和敦美の相性は良好だったのだとか。
今回の「センシング」の目的は、和敦美が自殺した理由と原因を明らかにすると共にその問題を解消し、和敦美が目覚める方向へと誘導すること。
そして藤田浩市は「センシング」を使い、和敦美との第1回目のコンタクトを図ることとなるのでした。
「センシング」で患者とアクセスできる時間は最大でも数時間程度。
その記念すべき最初の「センシング」で、藤田浩市は無事に和敦美の意識の中にダイブすることに成功します。
そこで彼が見たのは、住み慣れた2人の住居で一心不乱にマンガを描き続ける和敦美の姿でした。
意識の中における彼女は、自身が連載しているマンガの執筆に行き詰っているようでした。
藤田浩市は早速、和敦美に自殺未遂を図った理由について問い質すのですが、彼女は完全に自分の世界に浸りきっていて、藤田浩市の質問に回答を与えようとしません。
そして、自分が抱え込んでいるスランプを抜け出すために、幼い頃に描いた「首長竜の絵」を見つけてきて欲しいと藤田浩市に依頼するのでした。
「首長竜の絵」を見れば、和敦美の意識が戻るかもしれない。
そう考えた藤田浩市は、現実世界と「センシング」の双方で「首長竜の絵」の探索に乗り出すことになります。
しかし、「首長竜の絵」を探す過程で、藤田浩市の周囲では次々と不可解な事象が発生し始めるのです。
謎の怪現象に翻弄されつつ、藤田浩市は事の真相に迫ろうとするのですが……。
映画「リアル ~完全なる首長竜の日~」で重要なツールとして登場する「センシング」という先端医療技術は、ある種の人々にとってはまさに夢のような存在と言えますね。
何しろ、意識不明の重体にある人間の脳に直接アクセスし、様々な情報を引き出すことができるときているのですから。
意識不明の状態にある親族を長年にわたって看病・介護し続けているような家族などにとっては、喉から手が出るほどに欲しい技術ではあるでしょう。
それだけでなく、患者が暴力・殺人未遂事件等の当事者であった場合は犯罪捜査にも役立ちますし、また本人確認が必要不可欠な遺言などにも力を発揮するであろうことは確実です。
意識不明の患者だけでなく、精神病を抱え込んでいる患者相手にも「センシング」はかなりの威力を発揮しそうです。
作中の描写を見る限り、無意識の深層意識なども投影されているようなので、患者の心理状態や過去の事象を探ったりするのにはうってつけのツールと言えますし。
一方で今後の課題としては、患者および患者とアクセスする人間との間で相性が良いことが相当程度の割合で求められることにあるでしょうか。
作中でも、「センシング」が成功したというだけで周囲の医師達一同がわざわざ一斉に拍手していたりするくらいですから、アクセス者は誰でも良いというわけではなく、また成功率もあまり高くないであろうことが伺えますし。
まあ患者側からすると、全く知りもしない人間がズカズカと自分の意識の中に入ってくるというのは、プライバシーその他の問題に抵触する等の様々な問題や弊害を引き起こしかねない事態ではあるのでしょうけど。
プラスマイナスいずれにせよ、色々な事態や利益・問題が生じ得る画期的な技術ではありえるでしょうね、「センシング」という存在は。
他人の意識や夢の中にダイブして情報を引き出したり植え付けたりする、というコンセプト自体は、過去の事例でも2010年公開映画「インセプション」がありましたが、技術的にはこちらの方が現実味があるのではないかと。
「インセプション」の方は、どちらかと言えば「職人芸」的な側面の方が強調されていましたし、その使用用途も「犯罪行為を遂行するためのツール」でしかなく、汎用性が高いとは正直言い難いものがありましたから。
あちらはあちらで、今作のような使い方ができないわけではないと思うのですけどね。
今作は前回観賞した映画「オブリビオン」と同じく、物語前半と後半で主人公の立場が大きく変わることになります。
物語前半の展開全てが、実は事故で入院していた藤田浩市が外界から得た情報を元に構築した妄想の世界だった、というのは何とも凄まじく強引な展開ではありましたが(苦笑)。
ただ、その妄想世界に登場する自分以外の人物達は、外面だけで中身のないフィロソフィカル・ゾンビではなく、どう見ても普通の人間のごとき外見で意思も感情もあったわけなのですが、アレを藤田浩市は一体どうやって現出させていたのでしょうか?
作中前半の描写を見る限り、意識の世界では、人間は本人以外だとフィロソフィカル・ゾンビしかいないみたいな演出だったのですが……。
もっとも、後半判明する逆転の事実から考えると、実は「フィロソフィカル・ゾンビ」という概念自体が藤田浩市の頭の中で作り出された妄想の産物だった、という可能性も否定できないのですが。
マンガ家として自身が執筆していた猟奇作品辺りに出てきても不思議ではなさそうな設定ではありますからねぇ、アレは。
他の患者の「センシング」で同様の存在が出現している、というのであればまだしも、作中では藤田浩市以外の「センシング」実施例がないわけですし、作品世界における「フィロソフィカル・ゾンビ」の実在性については作中の描写や設定だけでは判断できないですね。
あと、物語終盤で藤田浩市と和敦美は、首長竜を相手に逃走劇を披露することになるのですが、ただ逃げるだけでなく「戦う」という選択肢はなかったのですかね?
物語前半では、和敦美(の妄想体?)がどこからともなく拳銃を持ち出してフィロソフィカル・ゾンビを撃ち殺しているシーンがあったのですから、それと同じように重火器の類を作り出したり、自分達に超人的な力を付与したりして、正面から首長竜を打ち倒すことも不可能ではなかったのではないかと。
和敦美(の妄想体?)が主張していたがごとく、所詮は「何でもあり」の意識の世界でしかないのですからねぇ。
まあ、藤田浩市にとっての首長竜は「幼少時のトラウマ」が形になったものでしたし、戦うこと自体が最初から不可能だった、ということなのかもしれませんが、あの時点では和敦美も隣にいたのですし、対抗できないこともなかったように思えてならなかったのですけどねぇ。
首長竜の形をしたトラウマに対し、藤田浩市は結局最後まで反撃どころか逃げることすらもできず、ひたすら無為無力を露呈していただけでしかなかったですし。
この辺りは、自力だけでの更生が極めて難しい精神医学の限界を表現した者でもあったりするのでしょうかねぇ。
SFミステリーと言っても、SF映画にありがちな派手な演出は全くありませんし、どちらかと言えばミステリー的な面白さを追求した映画であると言えるでしょうか。