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映画「ジャックと天空の巨人(3D版)」感想

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映画「ジャックと天空の巨人」観に行ってきました。
イギリスの有名な童話「ジャックと豆の木」および「Jack the Giant Killer」をベースに、天空に浮かぶ島に生息する巨人と人間の戦いを描いた冒険ファンタジー作品。
今作は2D・3Dの同時上映なのですが、観賞可能な時間帯には3D版しか公開されていなかったため、今回は泣く泣く3D日本語吹替版での観賞となりました(T_T)。
カネがかかるだけの3D版なんて、できることなら観賞したくなどないのですけどねぇ、私は。
相変わらず、3Dについては悪戯に目が疲れるだけのどうでも良い出来でしかなかったですし。

物語の冒頭は、母親を亡くして父子家庭で育っている幼いジャックが、父親にせがんで「天空の巨人の伝説」を読んでもらうところから始まります。
同じ頃、王城ではこれまた王妃にせがんで同じ伝説を呼んでもらっているジャックと同年輩のイザベラ王女の姿がありました。
父親と王妃が共に読んでいた「天空の巨人の伝説」の内容は、地上で闇の魔力?を持つ種から巨大なツタが天へ向かって伸びていき、そこから巨人がやってくるというもの。
人間達は巨人と凄惨な戦いを繰り広げたものの、図体に物を言わせた巨人達の膂力は圧倒的であり、人間側は一方的に蹂躙されていました。
しかし人間側は一計を案じ、ひとりの巨人を殺して手にした心臓を元に、ひとつの冠を作り上げます。
巨人達はその冠を持つ者の命令には絶対的な服従を余儀なくされ、結果、人間達は巨人達に「天へ帰れ」と命じて巨人達を撤退させることに成功。
そして、巨人達が昇っていったツタを切断して地上と天空を繋ぐルートを断ち切り、ようやく地上に平和が訪れたのでした。
当時の王様であるエリック王は英雄として崇められることになります。
そして後には、巨人を退避させた冠と、巨大なツタを生やす魔法の種数粒が残されたのでした。
この「天空の巨人の伝説」を聞かされたジャックとイザベラは満足し、それぞれ父親と王妃に見守られながら、眠りにつくことになるのでした。

それから10年後。
父親を亡くし、叔父に引き取られていたジャックは、馬と荷台を売り払って当座のカネを作るべく、王城がある城下町へとやってきていました。
長年親しんできた馬との別れを惜しみながら買い取り手を捜し歩く中、ジャックは幼い頃に両親に読んでもらっていた「天空の巨人の伝説」の舞台公演が行われている場所に辿り着きます。
そこでジャックは、ひそかに城を抜け出し、フードをかぶって顔を隠しながら舞台を観覧していた王女イザベラと初対面することとなるのでした。
王女を探していた騎士団と共に王女が去り、舞台観覧の間に荷台が紛失してしまったことに気付いたジャックは、とりあえず馬だけでもカネにしようと買い取り手探しを再開します。
そこへ、何やらワケありの修道僧がジャックに声をかけ、馬を譲ってもらいたいと申し出てきます。
ところがその修道僧には持ち合わせがなく、ジャックに対し数粒の豆を渡し、それを修道院に持っていけばカネに変えてくれるとジャックを諭します。
ただし、その豆は決して水に濡らしてはならない、とも。
ジャックが返答を渋って考え込んでいる間に、その修道僧はさっさと馬に飛び乗ってその場を立ち去ってしまい、ジャックはカネを手にするための手段を全て失ってしまうのでした。
ジャックはショックを受けながらも、修道僧からもらった豆を手に、叔父が待つ家に戻ることとなるのですが……。

映画「ジャックと天空の巨人」は、前半部分は童話「ジャックと豆の木」のストーリーをなぞりつつ、王国の陰謀劇なども織り交ぜ、巨人との戦いがメインとなる物語中盤以降は完全オリジナルな展開が繰り広げられます。
事前予測に反してアクションシーンも多く、特に物語後半は巨人を相手にした城塞の攻防戦をメインに扱っていることもあり、なかなかに見応えのある構成となっています
決して客受けしない映画ではなく、スタンダードに面白い作品なのではないかと思われます。
にもかかわらず今作は、アメリカで劇場公開されて以降、その製作費に比べて悲惨なまでの興行収益しか稼げていないという惨状を呈しているみたいなんですよね↓

http://www.cinematoday.jp/page/N0050847
>  [シネマトゥデイ芸能ニュース] 新作が不調だった今週末は、1,000万ドル(約9億円)以上の興収を記録した作品は、トップの映画『ジャックと天空の巨人』のみで、それも決して大ヒットとはいい難い2,720万ドル(約24億4,800万円)という結果となった。(1ドル90円計算)
>
>  世界の子どもたちから愛されている童話「ジャックと豆の木」をベースに、
製作費をおよそ2億ドル(約180億円)もかけ、映画『X-MEN』シリーズでおなじみのブライアン・シンガー監督がメガホンを取った本作は、高い興収を期待されていたのだが、主演ニコラス・ホルトの知名度の低さや、CGIの巨人たちがグロテスクなことなどが災いし、かなり不本意な結果に……。

http://www.cinematoday.jp/page/N0051062
>  代わって第2位は、映画『ジャックと天空の巨人』で984万ドル(約8億8,560万円)。去年の今ごろに公開され、散々な結果に終わった映画『ジョン・カーター』がよく引き合いに出されているが、『ジャックと天空の巨人』の2週目における下降率63.8パーセントは、『ジョン・カーター』の同時期55パーセント降下よりも大きく、このままいくとトータルの興収は『ジョン・カーター』を下回る6,000万ドル(約54億円)にも達しないのではと予想されている。

http://www.cinematoday.jp/page/N0051291
>  代わって第4位は、映画『ジャックと天空の巨人』で632万ドル(約5億6,880万円)。これまでの興収トータルは5,401万ドル(約48億6,090万円)となっている。

アメリカの映画公開から既に3週間の時間が経過してさえ、製作費のようやく4分の1強を回収した程度でしかないというのは、ほとんど壊滅的な成績であるとしか言いようがないですね。
上記記事でも引き合いに出されている映画「ジョン・カーター」も、2012年トップクラスと謳われる「悲惨なまでの赤字映画」として知られていますし。
日本を含めた世界各国ではまだまだこれからとは言え、本家アメリカでこのスタートは正直かなり厳しいものがあるでしょう。
しかし、これは「ジョン・カーター」もそうだったのですが、今作も内容的にも演出面でも決して客受けしない駄作というわけではなく、充分な集客力もありそうな作品だというのに、一体何がここまで興行収益を左右しているのでしょうかね?
仮にも2億ドルもの製作費をかけているのであれば、宣伝広報の類だってそれなりに展開はしているでしょうし、「ジャックと豆の木」という世界的にも知名度が高いであろう童話をベースにしているのであれば、無名というわけではないのですし一定の客もつきそうなものではあるのですが。
今作の公開とほぼ同時期に、映画「オズ はじまりの戦い」も劇場公開されていて、しかもこちらは大ヒットしているようなので、客足をそちらに取られでもしたのでしょうかねぇ(-_-;;)。
内容は悪くないのに興行収益的に駄作扱いされるというのは、何とももったいない話であるとしか言いようがないのですが……。

作品内容に目を向けてみると、個人的に惜しいと思われるのは、イザベラ王女の許嫁で王家簒奪の野心を胸に秘めているロデリック卿とその部下が、かなり早い段階でさっさと物語から退場してしまうことですね。
序盤から中盤にかけてアレほどまでに分かりやすい大物な黒幕ぶりを演出していながら、あんなしょうもない油断からエルモントとの一騎打ちに引きずり込まれた挙句にあっさり討ち取られてしまうというのは、正直「竜頭蛇尾」な感が否めないところですね。
私はてっきり、ロデリック卿は物語終盤近くまで生き残りつつ、ジャックやエルモントやイザベル王女と対峙しつつ、巨人や王国も交えた三つ巴な戦いを繰り広げるものとばかり考えていたので、あの早すぎる退場は期待外れもはなはだしかったです。
巨人達は、ラスボスである二対の頭を持つファロン将軍も含め、どいつもこいつも脳筋な頭しか持ち合わせていませんでしたし、頭脳派のロデリック卿がいなくなったのはその点でも手痛いダメージでした。
物語終盤の巨人達の王城攻撃は、膂力と体格に物を言わせた力任せなシロモノにしかなっていなかったですし。
王城の地理も政治も熟知しているロデリック卿が巨人達を率いていれば、終盤の王城攻防戦もあるいは巨人側の勝利に帰したかもしれなかったのですが。
映画の演出面でも、当然のごとく巨人を従える冠を持つロデリック卿を主人公達が倒すことで、巨人達との戦いにも終止符が打てるという流れに持っていけるわけですし、彼のあまりにあっさりし過ぎな退場は何とも惜しまれるところではありますね。
ただそれを除いても、ジャックが持っていた魔法の豆の使った巨人退治や、ラストの王冠のオチなど、小道具の使い方はなかなかに上手いものがあったのですけど。

どの年齢層を問わず、老若男女誰もが楽しめるスタンダードな映画に仕上がっているのではないかと思います。

最近のハリウッド映画ではセックスシーンが減っている?

ハリウッド映画からセックスシーンが激減したと、アメリカの雑誌で報じられているようです↓

http://eiga.com/news/20130320/14/
> [映画.com ニュース] ハリウッド映画からセックスシーンが激減していると、エンターテインメント・ウィークリー誌が報じた。
>
> 「氷の微笑」「ゴースト」「テルマ&ルイーズ」を例に挙げるまでもなく、
かつてハリウッド映画にセックスシーンがつきものだった。しかし現在、メジャー映画ではかなり減少しており、今年の第85回アカデミー賞作品賞にノミネートされた全9作品うち、セックスシーンが含まれているものはひとつもない。
>
> ジェニファー・ローレンスが、性に奔放なキャラクターを演じ主演女優賞を受賞した「世界にひとつのプレイブック」でも、濡れ場は皆無。ハリウッドのメジャースタジオの依頼で脚本分析をするメディア調査会社IPSOSの重役は、過去2年間で劇的にセックスシーンが減ったことを
「カットされることになると分かっているので、脚本家が最初から省くようになりました」と説明する。
>
> では、どのような理由でスタジオはセックスシーンをカットするようになったのか。それには、複数の理由が考えられる。まず、興行収入をアップさせるためには、若年層の動員が欠かせない。そのためには、
17歳以下の入場を禁止するR指定ではなく、R-13(13歳未満の子どもの鑑賞については保護者の注意が必要)に抑える必要がある。映画のレイティングを審査するMPAAは、暴力描写よりもヌードやセックス描写に厳しいことで知られていることもある。
>
> さらに、インターネットの普及によるヌードの価値低下が挙げられる。いまではオンライン上のアダルトサイトで容易にヌードを閲覧できるため、映画におけるヌードシーンが観客動員につながらなくなってしまったという。そして、VFXの躍進。VFXこそ観客動員の鍵となっているため、派手な映像に力を入れるようになったことも一因になっているようだ。もっとも、この傾向がみられるのはハリウッドのメジャー作品に限定されている。

しかし、そもそもハリウッド映画って、そこまでセックスシーンを大々的に売りにしていましたっけ?
昔からハリウッド映画に慣れ親しんでいた私でも、セックスシーンをそこまで売りにしている作品にはあまり心当たりがないのですが。
去年日本で公開され私が観賞した映画だけを見ても、セックスシーンそのものや婉曲な描写を持つ洋画作品は、ざっと思い浮かぶだけでもR-15指定の「ドラゴン・タトゥーの女」「ラム・ダイアリー」、名にも指定されていない作品でも「Black & White/ブラック&ホワイト」「スターシップ・トゥルーパーズ インベイジョン」「007 スカイフォール」とそれなりの数はあります。
ただ、これらの作品は別にセックスシーンが「売り」というわけではなく、物語の構成要素のひとつとしてたまたまセックスシーンが入っているだけという一面が強いでしょう。
そしてそれは、特にセックスや性の問題をテーマにした作品でもない限りは、ハリウッド映画のスタンダードなあり方でもあったわけで。
昔からアクションシーン等の派手な描写を売りにしてきたハリウッド映画に、セックスや性の問題を扱った作品が元からそこまで多かったわけでもないでしょうし、「激減」とまで言われるほどに数が減っているようにはあまり思えないところなのですけどね。

記事にもあるように、セックスシーンの有無はR-15&PG-12指定の問題とも絡み、ひいては興行収益にも多大な影響を及ぼすので、避ける傾向にあることは確かにそうでしょう。
ただ逆に、R-15&PG-12指定の作品だと、セックスやバイオレンスな描写が昔よりも過激になっている一面もありそうな感じなのですが。
言ってみれば、通常の作品とR-15&PG-12指定作品との「棲み分け」が進んだ結果、セックスシーンもしくはそれを匂わせる「通常の作品」が減ったのではないか、というのが実態に近いのではないかと。
実際、「テッド」のような下ネタ満載のR-15作品なども増えているわけですし。
先日観賞したPG-12指定映画「クラウド アトラス」でも、モロなセックスシーンが普通にあったりしましたからねぇ。
昨今の映画を見ても、セックスシーンを扱う作品は昔と比べてもそこまで減ってなどいないのではないか、という感触すら感じられるくらいなのですが、実際はどんなものなのでしょうか?

映画「クラウド アトラス」感想

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映画「クラウド アトラス」観に行ってきました。
アメリカ・ドイツ・シンガポール・香港の4ヵ国共同合作で、トム・ハンクス等の有名俳優が多数出演している作品。
今作では、作中に様々なバイオレンス・セックス描写に加えてゲイ描写までもがあるためPG-12指定されています。
内容的にはR-15でも違和感がなかったシロモノでしたが(苦笑)。

映画「クラウド アトラス」の舞台となる時代は、1849年・1936年・1973年・2012年・2144年・2321年の6つであり、それぞれに事情が異なる6人の主人公とそれに付随するエピソードが存在します。
1849年の奴隷貿易が華やかりし時代、南大西洋でアメリカへ帰る途上にある弁護士アダム・ユーイングの話。
1936年のイギリス・スコットランドで、映画のタイトルにもなっている幻の交響曲「クラウドアトラス6重奏」を完成させる作曲家ロバート・フロビシャーの話。
1973年のアメリカ・サンフランシスコで、かつてのロバート・フロビシャーのゲイ友達だったシックススミスが出会う、芸能ジャーナリストのルイサ・レイの話。
2012年のイギリス・ロンドンで、殺人事件を起こした作家ダーモットの著書がヒットしたことから荒稼ぎをするも、そのために生命を狙われた上に老人施設に監禁されることになってしまう、編集者ティモシー・キャベンディッシュの話。
2144年の元韓国・ソウルの上に新たに築かれているネオ・ソウルで、クローンでありながら革命家への道へ進んでいくソンミ451の話。
そして2321年、文明が崩壊し汚染された地球で、人食いを生業とするプレシエント族の脅威に怯えながら質素な暮らしを営むヴァリーズマン・ザックリーの話。
これら6つの時代の6人の主人公が織り成す6つのエピソードが、6つ全て同時に進行していくという破天荒な形で、映画の物語は繰り広げられていくことになります。
ひとつの時代のエピソードが終わったら次の時代へ……という形ではないんですね。
また、今作に出演している俳優さん達は、6つの時代のそれぞれで全く異なる役柄を担当しており、「ウォーリーをさがせ!」的なノリで彼らを探していくのも楽しみのひとつに入るかもしれません。
何しろ、彼らが演じる役柄の中にはチョイ役・端役的な人物どころか、作中に登場する写真の中に顔が写っているだけなシロモノまであるのですから(^_^;;)。
エンドロールでキャストと共にその全容が紹介されているのですが、「正解」を知った時は心の中で思わず唸ってしまったものでした。
細かいところで非常によく作り込んでいる作品だなぁ、というのがアレを見た時の感想でしたね。

登場人物達の設定も時代背景も全く異なり、一見全く無関係かつバラバラに展開されているかに見える各時代のストーリーは、しかし色々なキーワードや後代の視点などを駆使することで相互に関連性を持たせていますね。
たとえば、1936年のロバート・フロビシャーは、作曲を行う際に1849年のアダム・ユーイングの手記を探しており、その内容が途中で切れているのに不満を漏らしたりしています。
そのロバート・フロビシャーが作曲した「クラウドアトラス6重奏」は、1973年の主人公であるルイサ・レイがレコード店で手に取っていたり、2144年におけるネオ・ソウルのクローン喫茶?で奏でられていたりします。
逆に後代の視点から前時代の筋書きが明かされたり、ある時代の登場人物の台詞を別の時代の登場人物がそのままなぞっていたりと、各時代のエピソードとの相互関連性を示す要素が作中にはふんだんに盛り込まれています。
また、全時代共通と特徴として、各時代のエピソードを担う主人公達には、身体のどこかに彗星の痣が刻み込まれています。
これが何を意味するのかは作中では具体的に語られることがないのですが、各時代のエピソードを比較する限りでは、「彗星の痣がある人物=共通の魂を持つ存在」というわけではなさそうな感じではありますね。
今作は「輪廻転生」や「時代が変わり、何度生まれ変わっても同じ過ちや行動を繰り返す人間」というのがテーマにあるようなのですが、「彗星の痣がある人物」は各時代毎に全く共通項のない人生を送っているみたいですし。
作中描写から見た限りの設定としては、各時代で同一俳優が演じている登場人物が「輪廻転生」の関係にある、と考えるのが妥当なのではないかと。
作中で成立している恋人関係なども、同一の俳優さん同士の組み合わせが時代を超えて成立していたりもしますし、逆に1936年における主人公のゲイ関係や自殺のエピソードなんて、他の時代のどこにも共通項が存在しないですからねぇ。
6つの時代の物語は、2つが主人公死亡というバッドエンド、4つが将来に希望を見出すトゥルーエンドという形で終わっているという違いもあるのですからなおのこと。
とはいえ、全時代の主要登場人物に刻まれている「彗星の痣」が全くの偶然で存在するということはいくら何でもないでしょうし、こちらはこちらで「輪廻転生」とは全く別の意味が何かありそうな感じではあるのですが……。

個人的に気になったのは、2144年から2321年のエピソードの間に、如何にして人類の文明が滅亡し、ソンミ451が女神として崇められるようになったのか、という点ですね。
作中における2321年は「地球崩壊後106回目の冬」なのだそうで、これから逆算すると、地球における人類の文明が滅びたのは2215年前後ということになります。
ソンミ451が活躍する時代から文明崩壊までは、まだ70年以上の歳月があることになりますし、作中の2144年当時は統一国家が成立していたようなので、国家間による全面核戦争で文明が崩壊したとは考えにくいところです。
2321年のエピソードでは、過去の歴史を知るメロニムについて「地球は毒されている」と評していることから、核戦争レベルの地球全体の汚染が伴うような大破局が発生したであろうことは確実です。
致死性ウィルスによる疫病の大量発生程度のことでは、人類の人口激減は発生しえても地球全体の汚染まではさすがに伴いようがないのですし。
となると、2144年時点でも旧ソウルが水没するほどに進んでいた「地球温暖化による海面上昇」がさらに進行し、それと共に世界的規模で原発事故のごとき地球を汚染する大破局が発生し文明が崩壊した、ということにでもなるのでしょうか?
2321年に現存している旧文明の「海を走る船」には核融合エンジンが搭載されているとのことですし、そんな環境で今更原発に頼るのか、という問題もありますが(苦笑)。
あるいは、ソンミ451やチャン・ヘチュが所属していたレジスタンス組織のような存在が他にも大量に勃興し、レジスタンス組織と政府軍による内戦状態から核の応酬のごとき戦争にでも発展したのでしょうか?
これだと、ソンミ451が「レジスタンスの象徴」として崇められる理由もできますし、それが後代に神格化されて宗教信仰にまで発展したという筋書きにもある程度は納得がいくのですが……。
しかしいずれにせよ、ザックリーに過去の歴史について問われたメロニムも、「人類の欲望が知恵が追いつかないほどに大きくなった」ことが滅亡の原因だと述べただけで、具体的な理由や真相については結局触れず終いでしたからねぇ。
人類の文明が崩壊し地球が汚染された真相とは一体何だったのか?と色々想像力を掻き立てられる話ではありますね。

作中には一応カーチェイスやアクションシーンなどもあり、その手の描写が好きな方の要求にも対応した構成になっています。
ただ、今作最大の特徴である「6つの時代の6つのエピソードの同時進行」という形態は、やはりその分かりにくさから「観客を選ぶ」という一面があるのはどうにも否めないところですね。
実際、アメリカ国内では1億ドルの映画製作費に対して、かろうじてその4分の1を超えた程度の興行収益しか稼げていないようですし。
世界総合の興行収益では何とか黒字を達成したようなのですが。
単純明快なストーリーではなく、複雑な構成の物語を楽しみたい、という方にはオススメの映画であると言えるかもしれません。

アメリカでも深刻な「女性の社会進出」の陥穽

男女平等イデオロギーの間違ったあり方に苦しめられているのは日本だけではなく、アメリカも同様みたいですね。
アメリカでは「女性はもっと出世に貪欲であれ」というメッセージを綴ったキャリアウーマンの著書が論争を巻き起こしているのだそうで↓

http://megalodon.jp/2013-0318-2250-45/jbpress.ismedia.jp/articles/-/37350
> 現在の米国で最も影響力のある女性の1人とされるSNS大手フェイスブックの幹部、シェリル・サンドバーグ(43歳)がバッシングを受けている。
>
>  今月発売された彼女の著書『Lean In』は、発売前から論争を巻き起こしていた。本のタイトルの意味は、「もっと身を乗り出して」「もっと厚かましく」「もっと割り込んで」というような訳になるだろうか。
女性に対して、遠慮せずにもっと貪欲に出世を望めというのが主要メッセージの1つだ。
>
>  
企業のトップにいまだに女性が少ないのは、女性自身が高望みをしないように自身を制したり、まだ結婚もしていないうちから将来の家族設計を考えて出世を望まない傾向があるからだ、と述べている。
>
>  彼女の言わんとしていることをよく理解せず、一部だけ要約して読んだ女性たちは激高した。「女性の社会進出が進まないのは我々のせいだというのか」「これ以上努力できないほど頑張っているのに、努力が足りないような言い方はどうか」などの感情論が全米に巻き起こった。
>
>  サンドバーグをバッシングしているのは米国の女性たちである。男性たちは怯えたような顔つきで口を一文字に結んで沈黙している。ここで何か間違えたことを言ったら、大変なことになると分かっているからだ。
>
>  米国で著名なキャリアウーマンがバッシングの嵐に見舞われるのは、この1年で3人目である。
論争の共通テーマは女性の社会進出だった。
>
>  
こと女性問題に関すると、米国は女の内戦状態に突入した感がある。一体なにが彼女たちをそこまで逆上させるのだろうか。そこには、米国人女性たちの厳しい現実が背景にある。

女性の最大の敵は女性自身、という格言を地で行くような話ですね(苦笑)。
全ての女性が企業のトップや社会的成功を望まないのは、むしろ当然のことでしょう。
外に出て働きに出る女性は、常に「妊娠・出産・子育て」の事案に如何にして対処するかという問題に直面します。
仕事と家庭の両立は極めて困難であり、大抵の場合はそのどちらか一方を犠牲にして他方を取るか、もしくは不便を承知でどちらも中途半端な状態で維持しつつ、常にギリギリのシーソーゲーム的な綱渡りを強いられるかのパターンになるのが常です。
仕事バリバリのキャリアウーマンが「私は仕事と家庭をきちんと両立させている!」などと主張する時、それは家族が文句を言わないことを自分に都合良く解釈していたり、家庭の問題を別の誰かに委ねて家族の不満を顧みることなく我が道を行っていたりするケースがほとんどなのですし。
ましてや、上記記事のケースでは「家庭を捨ててでも仕事場での立身出世を望め!」と言っているも同然なわけですから、そりゃ社会的なバッシングも厳しいものになると言わざるをえないでしょう。
アメリカでは、この手のキャリアウーマンな発言がしばしば波紋を呼んでいるのだそうで↓

http://megalodon.jp/2013-0318-2337-49/jbpress.ismedia.jp/articles/-/37350?page=2
>  2人目はプリンストン大学教授で著名な国際政治学者、さらにはヒラリー・クリントン国務長官の元で政策企画本部長を務めたアン・マリー・スローターである。彼女は、国務省の仕事を2年で辞めなければならなかったのは、難しい年頃の息子たちのためで、いまだに女性は家庭のことで仕事を犠牲にしなければならない、という記事を書いてバッシングを受けた。
>
>  3人目は、妊娠中にヤフーのCEO(最高経営責任者)に就任したマリッサ・メイヤーだ。
妊娠中に重責の仕事を引き受けたことでバッシングされ、出産後たった2週間で仕事に戻ったことで批判された。最近では女性問題とはまったく関係ないところで、社員全員に自宅で仕事をすることを禁じたことが、なぜか「子育てしながら働いている女性を罰するような処置だ」ということでバッシングされた。
>
>  最も多く聞いたのは、この超エリート女性たちが我々の代弁者のように振る舞うのが気に食わないという意見だ。
米国のほとんどの女性と何の共通点もないようなスーパーウーマンが、分かったような顔をして女性問題を語るのが許せないというのである。

家庭や家族をないがしろにして仕事に没頭する女性のあり方というのは、如何にアメリカと言えどもスタンダードというわけにはいかないみたいですね。
そりゃ、この手の手法は家庭、特に子供を大きく犠牲にすることによって初めて成り立つものであるのですから当然の話ではあるのですが。
女性には「妊娠・出産・子育て」をはじめとする家庭の問題が常に付き纏うのですし、それをないがしろにして仕事に没頭するようでは論外もいいところなのですから。
家族の中でも、特に子供は、母親の仕事熱心ぶりと育児放棄に対して不満を述べることが少ない存在ですからねぇ。
年端も行かない子供には、母親が自分を顧みることなく働きに出るという構図が異常なことであるという知識も想像力も持ちようがないのですし、そうでなくても「神」に等しいレベルの絶対的存在である母親に逆らうのは非常に難しいでしょう。
子供が不満を述べないから子育てが上手くできている、などという考え方は非常に間違ったものであると言わざるをえないですね。
子供は母親に「何も言わない」のではなく「何も言えない」状態なのかもしれないのですから。
男女問わず、親が自分のために子供を犠牲にすることを当然視するなどというあり方が、しかも大手を振ってまかり通るというのは、社会として何か間違っているとしか言いようがないのですが。
ところがアメリカでは、まさにそう考える女性が意外に多いみたいなんですよね↓

http://megalodon.jp/2013-0318-2348-36/jbpress.ismedia.jp/articles/-/37350?page=3
>  サンドバーグが言うように、確かに米国でさえ女性の社会進出は決して十分とは言えない。大企業のトップも政治の世界も、女性は依然として少数派だ。
>
>  ただ筆者から見ると、
多くのフェミニストが語る「企業のトップも政治も男女の比率が同じにならなければならない」というメッセージが米国人女性の混乱を生み出しているような気がしてならない。
>
>  男性が作った社会システムの中に割り込んでいくことが、本当に女性が望むような社会進出なのだろうか。
「男性並みに」という概念そのものが、何もかも犠牲にしてがむしゃらに働く女性を賞賛するような文化を作ってはいないか。男性が成功と見なすことを目指す行為そのものが、反フェミニズムなのではないか。
>
>  バッシングを受けた3人の女性たちは、女性が感じる社会の壁をあれもこれもと述べているため、読み手や聞き手の混乱を招いているようだ。しかし、彼女たちの言わんとすることをよく読み込んでみると、共通点が見えてくる。
>
>  先進国の女性は、かなりの自由を獲得した。すでに「社会の弱者」という立場からは脱却している。勉強も仕事も制度的な不公平はない。それでも女性の社会進出が進まないと感じるのはなぜか。それは、次のステップが見えないからである。
>
>  
そもそも女性の出世を阻んでいるものは何か。「それは子育てだ」というのが彼女たちの共通した意見である。子供ができるまでは、男性と変わらず仕事をこなすことができる。しかし、子供ができると事情は一変する。現在の女性は、子育てのために第一線から退かざるを得ないか、将来的に子供が欲しいので出世街道を自ら降りてしまう、というわけだ。
>
>  だから次のステップは、親が自分の子供を育てながら、どのようにキャリアを続けていくかというシステム作りにある。子供の面倒を見るのは、男性でも女性でも構わない。この新しい社会システムを構築することで、新たな問題がよりクリアに見えてくるだろう。女性たちの自己研鑽が足りないというわけでは決してない。彼女たちが言いたいのは、最終的にはこういうことだと感じた。
>
>  米国の女性たちが進もうとしている方向が、果たして正しいのかどうかは分からない。世界の女性の手本になるか、反面教師になるのか、この問題は続きが楽しみである。

しかし、如何に女性の社会進出に子育てが邪魔だと言っても、現実問題として、世界的規模で人間という種そのものの改造でも行わない限り、子育ての問題から解放されることなんてありえないでしょう。
家事については科学技術の発展でいくらでも簡素化・自動化できるでしょうが、子育てに関してそれを適用するのは限りなく不可能に近いのですし。
よしんば、保育園などに子育てを「外注」するにしても、子供にとっては母親こそが一番大事な存在である以上、結局子供は不安と不満を抱え込まざるをえませんし、それは結局、何らかの形で歪みとなって子供や母親に大きくのしかかることになります。
子供にとって、母親自身の手による子育てに勝るものなど、よほどの幸運にでも恵まれない限りはそうそうあるものではないのですから。

無理に「仕事と家庭の両立」を目指すよりも、昨今では時代錯誤と評価されがちな性別役割分担を、男女平等の路線にも合致した形で見直していった方が、個々人や社会はもとより、長期的な観点から見ても誰もが幸福になる選択肢なのではないかと思えてならないのですけどね。

映画「ひまわりと子犬の7日間」感想

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映画「ひまわりと子犬の7日間」観に行ってきました。
2007年に宮崎県中央保健所で実際にあった話をまとめた山下由美のノンフィクション小説「奇跡の母子犬」を基にした、保健所における殺処分がテーマとなる犬と人間の物語。
映画「ゴールデンスランバー」「日輪の遺産」、そして男女逆転「大奥」のテレビドラマ版2作目映画版で一人二役を演じた堺雅人が主演を担っています。

今作の冒頭では、物語の中で大きく取り上げられ、終盤近くで「ひまわり」と名付けられることになる一匹の雌犬の前半生が、登場人物の肉声が一言も発せられることなく語られていきます。
その雌犬は、とある老夫婦の家で3匹の子犬の中の1匹として生まれ、貰い手があった2匹と違ってそのまま家に残り、母親犬と共に幼少期を過ごしていました。
しかし、母親犬は黒い大きな犬から我が子を守るべく争いになり、体格の違いもあってそのまま他界してしまいます。
ただ一匹、老夫婦の家に残った雌犬は、老夫婦の愛情を一身に受け、健やかに成長していきます。
ところがある日、年老いた老婆が突然亡くなってしまい、一人残された老人もまた、親戚筋だか子供の家族だかによって老人ホームに入れられることになってしまいます。
残された雌犬は、飼い主恋しさに繋がれた鎖から強引に抜け出し、微かな匂いを頼りに老人ホームへと向かう飼い主の追跡を始めるのですが、おりしも降ってきた大雨によってその匂いすらもかき消され、追跡の手がかりを完全に失ってしまいます。
失意の中で数日かけてようやく家に戻ってきた雌犬が見たのは、飼い主に家を委ねられた近親者の意向?によって家の家財道具が次々と運ばれていく光景でした。
雌犬は引っ越し業者によってスコップなどを叩きつけられて追い払われてしまい、野良犬としての生活を余儀なくされてしまうのでした。

ここで舞台は変わり、今作の主人公である神崎彰司にスポットが当てられることになります。
彼は元々動物園の飼育員で、経営不振でそこが閉鎖された後は宮崎県東部保健所に勤務している中年男性。
同じ動物園の飼育員仲間という関係で知り合い結ばれた妻・神崎千夏を、5年前の交通事故で失った2児の父親でもあります。
宮崎県東部保健所では、3ヶ月毎に数人の職員の持ち回りで犬猫が「保護管理」されている保健所へ出向く決まりがあり、2007年2月は神崎彰司と彼の後輩である佐々木一也の持ち回り月となっていました。
しかし、保健所へ出向くに際し、神崎彰司は自分の上司である桜井から注意を受けます。
神崎彰司が保健所の保護管理を行っている間だけ、犬猫へのエサ代が急増していると。
これは、神崎彰司が独断で犬や猫の保護期間を延ばし、里親を探すべく尽力しているための副産物だったのですが、保健所の官僚的なルール上では立派な違反行為となるのです。
それだけでなく、保健所のエサ代も国民の税金から支出されているので、下手に犬猫を生かし続けると「税金の無駄」と保健所が世間から叩かれるという問題もあるわけなのでした。
結果、神崎彰司は犬猫の余計な延命はしないと約束させられることになります。
そんな中で保健所に出向する日々を続けていた最中の2月7日、神崎彰司と佐々木一也は、野良犬が畑を荒らしているという農家からの依頼で、同じ職員である安岡と3人で野良犬捕獲に乗り出すことになります。
そこで彼らは、生まれて1~2ヶ月程度とおぼしき3匹の子犬と、子犬を必死になって守ろうとする母親犬に出会うこととなるのですが……。

映画「ひまわりと子犬の7日間」は、タイトルに「7日間」と謳っているのに反して、実際には物語冒頭の雌犬&子犬と神崎彰司が出会った日時から換算しても3倍の21日間、物語全体で見ると2007年2月をほぼ丸々使用した期間が費やされています。
ではタイトルにもなっている「7日間」が何を意味するのかというと、これは作中の保健所がルールとして規定している「犬を預かってから殺処分するまでの保護期間」のことを指しているのです。
この7日間の間に保健所は里親を募集し、里親が見つかれば晴れてその犬は引き取られることになるのですが、もし見つからない場合は殺処分ということになるわけです。
ところが今作の主人公である神崎彰司は、保健所の真実を否応なく突きつけられることになった娘の神崎里美とのやり取りを経て、本来ならば捕獲から7日後の2月14日には殺処分をしなければならないところを、自分が保健所を管理できる1ヶ月間の期限一杯(2月28日)まで無断で延長し、何とか雌犬と子犬「全て」を助けようとするんですよね。
ちなみに、この一見短いように思われる「7日間」という期間は、しかし全国的に見るとまだ長い部類に入るのだそうで、地域によっては3~5日程度で殺処分が行われるところもあるのだとか。
かといって、それが可哀想だからと悪戯に保護期間を延ばしても、作中でも言われているようにエサ代をはじめとする費用がバカにならなくなりますし、世間からも「税金の無駄」と叩かれる問題があったりするわけです。
保健所における動物への殺処分がひとつの「必要悪」として存在する、という厳然たる事実を、今作の特に前半部では否応なく登場人物と観客に突きつける構図になっています。
単純に「可哀想だから」で終わる話でもなければ、それに代わる代替案も簡単には構築出来ないし、仮にたまたま代替案があったとしても、そのリスクと責任が当然のごとく問われる。
だからこそ、動物の殺処分問題は難しいのですし、作中の登場人物達も大いに頭を悩ませることになるわけです。

今作で大きな問題となっているのは、単に「犬を助けたい」ということではなく、「人間不信に陥り威嚇してばかりいる心を閉ざした母親犬」をも「子犬と一緒に」助けようとする点にあったりします。
生まれて間もない子犬だけならば引き取り手もたくさんいたでしょうが、神崎父子は「子犬だけでなく母親犬も一緒でなければならない」と考えるわけですね。
これはどちらかと言えば、母親犬よりも神崎父子側の家庭事情によるところが大きいでしょう。
神崎家は交通事故で母親が他界しているわけですし、特に娘の神崎里美は母親犬に自分の母親を重ねていたのでしょう。
作中における神崎里美の言動からも、その傾向は明らかに伺えましたし。
一方で、犬に限らず動物の母性本能というのは人間と異なり、自分の子供について結構割り切っているところがあったりしますからねぇ。
生まれた直後から一定期間は確かに子供を育て守るべく尽力するものの、中途で死んでしまったり自分の管理から離れた子供のことをいつまでも気にすることはないですし、ある程度子供が育ってくれば子育てを止めるばかりか、場合によっては自分から強引に引き離すべく邪険に扱ったりするようになることも珍しくなかったりします。
この辺りはむしろ、理性と記憶力というものを持ち、かつ長期間にわたる保護・育成のための時間を必要とする人間の方が、一般的な動物のグローバルスタンダード(苦笑)からすれば「不自然」かつ「異常」なのでしょうね。
そう考えると、神崎家の面々が子犬と一緒に母親犬をも助けようとする行動は、神崎家の面々が思い描く理想を母親犬に押し付けている、という一面も多分にあったのではないかと。
でなければ、一連の問題は「子犬だけ引き取って母親を殺処分する」という方向に安易な決着で落ち着いた可能性が高かったわけですし。
もちろん、彼らが母親犬を助けようとした行為自体は、それで他者に危害が加わるのでなければ何ら責められる筋合いのものではないのですけどね。
神崎彰司が結果的に保健所のルールを破ることになってしまった問題については、また別の評価もあるかもしれませんが。

今作の物語は特に奇抜なものではなく、むしろ日本全国の保健所その他でいくらでも起こっていそうな「ごくありふれた話」です。
今作で「奇跡」と呼ばれる要素があるとすれば、それは「心を閉ざした母親犬が全くの他人に心を開いた」という事実のみにあるのであって、それ以上でも以外でもないのですから。
保健所で毎年10万単位で動物が殺処分されている事実も、それを回避すべく犬や猫を引き取る里親の存在も「ごくありふれた話」ですし、保健所の人間が犬猫を可哀想と引き取る光景も稀有とは言い難いものがあるでしょう。
ただまあ、こういった保健所の殺処分を巡る問題が「ごくありふれた話」でしかないという事実自体が、現実の構造的な歪みを象徴していると言えるのかもしれないのですが。
かく言う私の実家や親戚の家でも、複数匹の犬や猫を飼っていますし、ペットのことを最優先に考える傾向にあるのは作中の神崎家と同じだったりしますから、物語前半で披露された殺処分の現実と光景は、たとえ「必要悪」と分かっていても積極的には認め難い悲しい話ですね。
ましてや、自分の娘相手に「動物と心の交流がしたいから飼育員になった」とまで語るほどに動物好きな主人公が、職務として殺処分をしなければならないというのは、心身を切り刻まれるレベルの苦しみが伴ったであろうことは想像に難くありません。
私も見ていて「たまらんな、これは(T_T)」と考えざるをえなかったくらいでしたし。
「必要悪」であっても、いやむしろそうだからこそ、その「必要悪」たる殺処分が限りなく根絶されることを願わずにはいられないですね。

ストーリーの結末自体はそこまで暗い内容ではないものの、物語序盤では殺処分の描写や子犬が寒波で死んでしまうシーンなどがあったりするので、動物好きな方には涙なくして観賞できない作品ですね。
保健所の現実を否応なく突きつけられもしますし。
ただ今作は、むしろ本当にペットのことについて真剣に考えられる人こそが観賞すべきなのではないか、と私はそう考えますね。

映画「プラチナデータ」感想

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映画「プラチナデータ」観に行ってきました。
東野圭吾の同名小説を原作とし、男女逆転「大奥」1作目および「GANTZ」二部作で主演を担った二宮和也、および豊川悦司の2人を中心とするサスペンス・ストーリーが展開されます。

映画の冒頭は、児童連続殺人事件の現場に、警視庁捜査一課の浅間玲司が駆けつけるところから始まります。
一連の児童連続殺人事件は捜査が難航しており、警察は未だ容疑者を検挙することもできずにいました。
しかし、被害者の遺体に付着していた髪の毛を元に、警視庁特殊解析研究所(SARI)の主任解析官・神楽龍平が、自身で開発したDNA捜査システムを元に犯人像を割り出します。
そのDNA捜査システムは、登録されたDNAの持ち主を割り出し、DNAを元に真犯人個人の血液型・年齢等はもちろんのこと、詳細な容姿・体型に至るまで再現するという優れ物。
結果、あっという間に真犯人は割り出され、周到な準備と包囲によって、真犯人はいともたやすく逮捕されてしまったのでした。
これが端緒となり、1年後には全国民にDNAの提供が義務付けられるDNA法案が通過する運びとなったのでした。

児童連続殺人事件から3ヶ月後。
全国民のDNA登録が進んでいく中、警察はDNA登録を行わない犯罪者による連続殺人事件に手を焼いていました。
犯行現場等から検出されたDNAは、登録されているDNAに類似するものがなく、同一手口の殺人事件が13件発生していることから、この事件は「Not Found13」という通称で呼ばれていました。
そんな中、神楽龍平と共にDNA捜査システムの開発の創設者である蓼科耕作と、妹の蓼科早樹が何者かによって殺害されるという事件が発生します。
事件の手口が「Not Found13」と同一であったことから、この事件も「Not Found13」関連のものではないかと推察されたのですが、浅間玲司は被害者のパターンがこれまでの事件と異なることから犯人は別にいると考えます。
事件の現場となった新世紀大学病院には多数の防犯カメラが設置されていたことから、浅間玲司は防犯カメラの解析を元に容疑者の割り出しを進めていきます。
一方、同僚を殺された形となった神楽龍平もまた、DNA捜査システムを使って真犯人を割り出すべくシステムを起動させます。
ところが、その捜査の双方で、全く思いもよらぬ人物が重要参考人として浮上することになります。
それは何と、DNA捜査システムを開発した神楽龍平その人だったのでした……。

映画「プラチナデータ」では、「もしこんなシステムがあったらこういう捜査が可能になるのと同時にこういった問題が発生する」というテーマが描かれています。
DNAや指紋等を使用した犯罪捜査自体は、警察も20年以上も前から行っており、精度についても年々向上の一途を辿っています。
ただ、その精度については疑問符が上がることもしばしばで、DNA捜査が決めてとなって有罪判決が下された被疑者が後に逆転無罪を勝ち取るなどといった事例も過去には発生していたりします。
精度の問題だけでなく、DNAサンプルを採取する際に全く別人のDNAが付着したことに気付かないまま捜査が進められたり、サンプルの取り違えでこれまた全く別人が被疑者として挙げられたりといったヒューマンエラーの問題もあったりしますし、DNA「だけ」で犯罪捜査の全てが決まる、などという未来はまだまだ少なからぬ時間が必要ではあるでしょう。
しかし、作中のようなDNA捜査システム自体は、現時点ではともかく将来的には充分に出現が想定されるものではありますし、これを基にしたシステムというのも現実味のある話とは言えるのではないかと。
個人的に興味深かったのは、作中のDNA捜査システムと街中の防犯・防災カメラのシステムを融合する形で構築されている社会的な監視システムの存在ですね。
このシステムは、人が溢れ返っている街中においてもピンポイントで特定の人物を発見できるという優れ物で、物語前半における神楽龍平の逃亡劇においてその威力を存分に発揮しています。
人混みに紛れる形で逃走を始めたはずの神楽龍平をいともあっさりと発見してしまったこのシステムは、犯罪捜査や犯人追跡などにはかなり使い勝手が良いでしょうね。
監視システムの脅威というテーマを扱った映画自体は昔からそれなりの数はあって、私が知っている範囲でも、1999年公開映画「エネミー・オブ・アメリカ」や2008年公開映画「イーグル・アイ」などが印象に残っていますし、邦画でも「踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!」や映画版「ワイルド7」などの事例があります。
今作ではその脅威的な監視システムに、さらにDNA照合システムを組み合わせることでさらに特定の人物をピンポイントで割り出せるようにしているわけですね。
ただ一方では、防犯・防災カメラがロクに設置されていない街外れや無人地帯などではその実力を十全に発揮することができず、結果として追跡ができなくなってしまうなどの脆弱性をも抱え込んでしまっていたりもするのですが(-_-;;)。
携帯電話のGPS機能を利用した追跡システムとか、人工衛星を駆使した空からの監視システムとかいったものもあのシステムに組み合わせれば、作中で披露されたシステムの欠点を補って余りある強力無比なものができそうな感じではあるのですけどね。
DNA捜査システム以上に実現性の高い技術なのですし、これらの組み合わせはむしろない方が不思議な気はするのですが。

作中におけるDNA捜査システムの問題は、システム自体の技術的な欠陥ではなく、それを扱う人間の不完全さに焦点が当てられている感が多々ありましたね。
物語後半で大々的にクローズアップされた「真のプラチナデータ」問題などは、まさにその典型と言えるシロモノでしたし。
技術的には完璧であるはずのシステムが、それを運用する人間側の都合によって歪められる、というのは皮肉もいいところではあるのですが、同時に「確かにそういうことを考える人間は確実に出てくるだろうなぁ」という説得力は大いにありました。
ただ、「真のプラチナデータ」の対象者が本当に犯罪捜査から逃れたいと考えるのであれば、そもそも最初からDNA登録をしないか、それが無理というのであれば偽造のDNAを登録すればそれで済む問題でしかないのではないか、という疑問がないことはないですね。
彼らは世間的にもVIPや権力者なのですし、権力と財力と暴力を駆使して事実を歪めたり偽造したりすることも容易に行える立場にあるはずなのですから。
彼らの立場的には、バカ正直かつ素直にDNA登録などをやっていることの方がおかしな話なのではないかと思えてならなかったのですけどね、私は。

あと、ミステリー的な観点から見ると、真犯人が作中で展開していた殺人事件の動機が今ひとつ弱いのではないか、というのが少々気になりました。
真犯人の犯行動機というのが全て「自身の(殺人とは関係のない)犯行の隠蔽ないし口封じ」ばかりで、怨みとか金目当てとかいった「積極的な動機」がないんですよね。
告白の字面だけを追っていくと、その残虐性はかなりのものがあるはずなのに、どこか意志薄弱な雰囲気が漂いまくっていたことも、動機の弱さを強調する要素が多分に含まれていましたし。
ラストで披露された犯行告白の際も、自己主張が弱かった上にほとんど自滅の体で返り討ちに遭ったようなものがありましたからねぇ(苦笑)。
連続殺人事件の黒幕?にしては、どうにも「締まらない」印象が拭えないところなのですが。

物語前半および中盤の逃走劇は演出的にもそれなりに見応えがありますし、事件の真相や神楽龍平の正体など、上手い落としどころに落としている作品ではあります。
ミステリーや人間ドラマが好きな方は、観ても損はない映画と言えるのではないでしょうか。

「Google Reader」が2013年7月1日で終了

アメリカのgoogleが、RSSリーダーの代表格とされる「Google Reader」を、2013年7月1日付で廃止すると発表しました↓

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1303/14/news035.html
>  米Googleは3月13日、RSSリーダー「Google Reader」(日本語表記はGoogleリーダー)を7月1日に廃止すると発表した。利用が減ったことと、より絞り込んだ商品に集中していくことを理由にあげている。
>
>  データは、エクスポート用ページからダウンロード可能だ。フォローしているユーザーのリストやスターを付けたアイテムなどをまとめてダウンロードできる。
>
>  Google Readerは2005年に公開されたRSSリーダー。同社は「春の大掃除」としてGoogle Readerのほか、Windows PCからOfficeファイルをGoogleドライブに自動的に保存する「Google Building Maker」など7サービスの終了を発表している。

「Google Reader」は、RSSリーダーの中でもトップクラスの知名度を誇り、使い勝手もそれなりに良かったであろうツールです。
それが終了するということは、RSSリーダー自体の使用頻度が低下の一途を辿っている、ということになるのでしょうか?

個人的には、RSSリーダー自体はあまり使っている方ではないですね。
私の場合、どちらかと言えばサイトのアクセス対策の一環としてRSSを学習し、他者にタナウツにアクセスしてもらうことを目的にRSSを導入したという経緯があって、自分自身ではRSSを使おうとは考えていなかったクチだったりします。
ひと頃「サイトが衰退しブログが隆盛した理由は何なのか?」というテーマについて調べていた時、有力な理由のひとつとして挙げられたのがRSSの有無でしたし、それに関連してRSSリーダーについても色々と知ることになりましたからねぇ(^^;;)。
そのRSSリーダーの最大手が終了するというのも、サイトが衰退しブログが隆盛し、そのブログもSNSに圧倒されていったのと同じく、時代の流れというものなのでしょうね。
そのSNSもまた、いつかはより便利なシステム形態に取って代わられることにはなるのでしょうけど。

万年ブービー賞から脱した熊本駅の躍進と利用状況

九州新幹線全線開業から早2年。
かつては70万都市のターミナル駅とは思えないほどに悲惨な惨状を呈していた熊本駅も、九州新幹線全線開業およびそれに伴う駅周辺の再開発によって、利用客数を大幅に伸ばしています。
九州新幹線が初めて導入された2011年度は、長崎・佐賀を抜いて「九州県内の万年ブービー賞」などという不名誉な汚名を返上することに成功していますし。

JR九州管内の駅別乗車人員上位30位(平成23年度)
http://www.jrkyushu.co.jp/profile/outline/data.jsp
熊本駅 2010年度12位(10307人) → 2011年度7位(12434人)

……というか、ここまでお膳立てされていてなおブービー賞のままだったら、いよいよもって熊本駅の立地を抜本的に見直さければならないのではないかと思えてならないところなのですが(苦笑)。
現行の環境でさえ、未だ新幹線が走っていない大分にもまだ遠く及ばない状況なのですし。
熊本駅周辺も再開発が進み、交通の利便性もかなり改善されてきてはいるのですが、熊本駅周辺はまだまだ発展の途上にある、といったところになるのでしょうか?

九州新幹線では、意外にも熊本-博多間の利用状況が良好らしいですね。
利便性が良さそうな熊本-鹿児島中央間が前年比で3%減少してしまった中、こちらは逆に1%の上昇だったのだそうで↓

http://megalodon.jp/2013-0313-2211-56/kumanichi.com/news/local/main/20130313002.shtml
>  九州新幹線鹿児島ルート(博多-鹿児島中央)は12日、全線開業から丸2年を迎えた。JR九州(福岡市)がまとめた2年目の利用実績(2012年4月~13年2月中旬)によると、博多-熊本の利用者は1日平均2万4800人と前年同期を1%上回り、開業前に設定した目標の2万5千人に迫った。
>
>  同社は「開業ブームによる観光利用は一段落したが、近距離の利用など、新幹線が生活の足として定着してきた」と分析している。
>
>  開業前の在来線特急時に比べると、博多-熊本は約40%の伸び。北部九州豪雨の影響を受けた昨年7~8月は落ち込んだが、前半の4~6月が好調だったほか、12月以降も回復基調にある。
>
>  特に12年度は、博多駅の専門店街「アミュプラザ博多」の買い物券をセットにした博多-熊本の割引切符や、博多から近距離の割引回数券の導入が利用を後押ししたという。
>
>  一方、
熊本-鹿児島中央の利用者は1日平均1万3600人と3%下回った。開業初年度が当初目標(40%増)を大きく上回る65%増だったことから、その反動もあって伸び悩んだ。
>
>  博多-熊本の乗車率は、新大阪直通列車が増えたことで平均40%(前年42%)だった。列車別では、新大阪直通で最速の「みずほ」が49%(同56%)、新大阪直通「さくら」が53%(同61%)、各駅停車の「つばめ」は29%(同28%)だった。
>
>  通勤・通学定期の利用者(1月末時点)は全体で約8%増えた。熊本-博多は約20%増の約600人、新水俣-熊本は約30%増の約130人に伸びた。新玉名-博多は約100人、新八代-熊本は約60人で、ほぼ同じだった。(九重陽平)

熊本市の人口が集中している東部や北部の住民達にとっては、熊本駅自体までの距離の問題が如何ともし難いことから、近い距離に高速道路の出入口が複数個所存在する高速バスの方が利便性が高いと考えていたので、これは意外な結果ではありますね。
むしろ、熊本-鹿児島中央間の方が、バスでは所要時間が長すぎることもあって客足は多かろうとさえ考えていたくらいでしたし。
まあ、熊本駅の地理的条件の悪さについてはJR九州も充分承知していたでしょうから、並々ならぬ営業努力をつぎ込んだ結果が今回の成績だったのでしょうけど。
ただ、客の比率としては、やはり「熊本から福岡へ向かう客」よりも「福岡その他の市町村から熊本へやってくる客」の方が多かったであろうことは想像に難くないのですが。
熊本駅の使い勝手が一番悪いのは地元熊本、特に熊本市在住の人間である、という構図は、熊本駅が移転でもしない限り変わりようのない「宿命」だったりしますからねぇ(-_-;;)。

九州新幹線を得て、ようやく発展への道を歩み始めた熊本駅。
せっかく掴んだチャンスをフイにすることのないよう、今後とも発展を続けてもらいたいものです。

映画「オズ はじまりの戦い」感想

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映画「オズ はじまりの戦い」観に行ってきました。
ライマン・フランク・ボーム著の児童文学小説「オズの魔法使い」の前日譚で、オズ誕生の起源となる物語で構成されるディズニー作品です。
今作は3D版も公開されていますが、私が観賞したのは2D版となります。
今作の基本ベースとなっている「オズの魔法使い」については、これまで名前しか知る機会がなく、全くの前知識なしで今作に臨むこととなったのですが、前日譚ということもあり、それでも何の問題もなく観賞は可能です。

1905年のアメリカ。
各地を回る移動サーカスでしがない奇術師を営み、周囲から「オズ」の愛称で呼ばれている今作の主人公オスカー・ディグス(以下「オズ」に統一)は、カンザス州へとやってきていました。
オズは女性を口説くのが上手い人間のようで、その日も奇術師としてのショーで奇術を演出するための女性を、持ち前の口説き文句と祖母譲りのオルゴールの贈呈でもって確保していたのでした。
しかし、ショーそのものは成功したものの、足が不自由らしい少女から「自由に歩けるようになりたい」という素朴なお願いをされてしまい、しどろもどりに回答を回避せざるをえなかったオズは、観客から物を投げられまくってショーの会場からそそくさと立ち去ることを余儀なくされてしまいます。
惨憺たる結果で終わったショーの後、オズは自分にあてがわれた小屋で、元恋人の来訪を受けることになります。
再会を喜ぶ2人でしたが、しかしその元恋人は「(2人の知人らしい)ジョンという男から求婚された」と宣言し、オズは衝撃を受けながらも元恋人の求婚を歓迎するのでした。
しかし、傷心にあるオズには、その傷心にひたる時間すらも与えられはしませんでした。
オルゴールを贈呈した女性の関係者で大柄な男2人が、オズを半殺しにすべく動き出したことが確認され、オズは逃走を開始しなければならなかったのです。
逃走の最中、自分が所持している熱気球に乗って追手から逃れることを考えつくオズ。
目論見は成功し、何とか追手の手の届かないところに逃れて一息ついたオズでしたが、熱気球が向かう先には、何と巨大なトルネードが荒れ狂っているではありませんか。
オズは為す術もなく、乗っていた熱気球ごとトルネードに巻き込まれてしまうのでした。

ところがトルネードは、オズが乗っていた熱気球を潰すことはなく、代わりに熱気球を魔法の世界「オズ」へと誘います。
そこでオズが見たのは、直前まで自分がいたカンザスとは全く異なる、見たこともない地形と不思議な生物が住まう光景でした。
気球に乗ったまま川を流されるなどのアクシデントはあったものの、オズは5体満足で無事に気球から降りることができました。
そこでオズは、西の魔女を名乗るセオドラという名の女性と出会い、自分がこの世界を救う予言の人間であることを知らされることとなるのですが……。

映画「オズ はじまりの戦い」は、原作者であるライマン・フランク・ボームが著した全14作に上る「オズ・シリーズ」の1作目「オズの魔法使い」のさらに前の時系列を扱う前日譚となっています。
今作に登場するオズは、原作1作目の題名である「オズの魔法使い」の名に反して、実は最初から最後まで一切魔法を使用することができません。
まあ、元々がアメリカのカンザス州から飛ばされてきた現実世界の人間なのですから、ある意味当然の話ではあるのかもしれませんが。
魔法が使えないオズが代わりに駆使できるのは、奇術師として培ってきた手品の類と、トーマス・エジソンに憧れて身に着けていたらしい1905年当時の科学知識。
現代人である我々の視点から見れば、とても「魔法」と呼称できるようなシロモノであるとは到底言えたものではありません。
しかし、科学を知らない「オズ」の世界の人間や亜人間達にとって、「オズ」の科学知識や手品の類は「魔法」と区別がつくものではないわけです。
実際、オズが最初に出会った西の魔女・セオドラも、オズの手品を魔法と勘違いし、オズという名前の偶然の一致も相まって、彼こそが予言にあった魔法使いだと盛大に誤解していくことになるわけで。
物語前半でただひたすら戸惑いつつ、とりあえずはエメラルド・シティの財宝を目当てにその場凌ぎの言動に終始していた主人公は、物語後半においては詐欺師としてのトリックと科学知識を駆使した頭脳戦で邪悪な魔女達と戦っていくことになります。
その点で今作におけるオズは、どちらかと言えば軍師的な存在ないしは煽動政治家に近い位置付けであると言えるかもしれませんね。
作中でもオズは、魔法が使えないばかりか肉弾戦向きですらなく、直接自分で戦っている描写というものがまるでありませんでしたし。

一方で、作中序盤でヒロインの座を獲得しようとしていたかに思われた西の魔女・セオドラは、結果的に見ればあまりにもピエロ過ぎる扱いで、正直泣けてくるものがありましたねぇ(T_T)。
オズの名前と手品を見て「オズこそが予言の人物だ!」と早合点し、オズと恋仲らしき関係になったかと思えば、オズの元恋人と瓜二つの容貌を持つ南の魔女・グリンダにあっさりとその座を奪われ、嫉妬に狂った挙句、東の魔女にして自身の姉でもあるエヴァノラにそそのかされて緑色の魔女に変貌する始末だったのですから。
作中でも姉から「世間知らず」と評価されていたことを差し引いても、セオドラについてはオズこそが邪悪に引きずり込んだ元凶であるとすら言えるのではないでしょうかね、あの展開では(苦笑)。
あまりにもピエロな悪役過ぎて、緑色の魔女として残虐性を見せつけるシーンでも滑稽さしか感じようがなかったのですが。
そのセオドラを陥れ、父親殺しの黒幕であったエヴァノラの方が、はるかにラスボスとしての風格もありましたからねぇ。
ちなみにこの2人は、観賞後にネットで調べたところによれば、「オズ・シリーズ」の1作目である「オズの魔法使い」で倒されることになるのだそうで、今作のラストでは堂々と逃げ切ってしまっています。
空飛ぶ箒に乗って悠々と逃亡した緑色の魔女セオドラはともかく、魔法の根源を失って老婆になってしまったエヴァノラの描写を見た時は、てっきりエヴァノラはここで死ぬものとばかり考えていたのですけどね。

映画「オズ はじまりの戦い」は、元々が前日譚という事情もあるのでしょうが、明らかに続編ありきな構成で物語が終わっていますね。
実際、製作元であるディズニーは既に続編製作に取り掛かっているという情報もありますし。
引き続きオズにスポットが当てられた今作の続きになるのか、それとも原作1作目「オズの魔法使い」のリメイク実写化(「オズの魔法使い」自体は過去にも実写化されている)になるのかは、未だ不明ではあるようなのですが↓

http://megalodon.jp/2013-0310-2051-34/www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2013/03/09/kiji/K20130309005355730.html
>  米映画製作会社ウォルト・ディズニー・ピクチャーズが新作映画「オズ はじまりの戦い」の続編を早くも計画していることが分かった。
>
>  1939年に公開されたオリジナル映画「オズの魔法使」のプロローグが描かれた「オズ はじまりの戦い」は、日本では8日に公開されたばかりのサム・ライミ監督(53)作品。
>
>  バラエティ誌はディズニーが早くも続編製作に取り掛かっていると報じた。
続編に関しての詳細は明らかにされていない。

今作の総合的な評価としては、「子供向けの作品だと思っていたら、意外に大人も入り込める万人向けの構成になっていて充分に楽しめた」といったものになるでしょうか。
今作の出来を見る限りでは、製作が進められているらしい続編についても、それなりに「魅せる」ものは充分に期待できそうですね。

日本公開から1ヶ月遅れて上映される地方の映画格差

第85回アカデミー賞で脚本賞と助演男優賞の栄冠を手中にしながら、2013年3月1日の日本公開時点では僅か20都道府県でしか上映されていなかった映画「ジャンゴ 繋がれざる者」
しかしどうやら、2013年4月6日に新たに24都道府県で追加公開されることが決定した模様です。

「ジャンゴ 繋がれざる者」上映映画館
http://www.django-movie.jp/theaters/
3月6日現在
http://megalodon.jp/2013-0308-2320-42/www.django-movie.jp/theaters/

24都道府県の中には熊本県も含まれており、一度は涙を飲んで映画観賞を断念せざるをえなかった私としては朗報ではあります。
ただ一方で、3月1日時点で既に公開されていた20都道府県と、4月6日に追加公開となる24都道府県との間には、明確な映画格差が存在することがはっきりと浮き彫りになってしまっていますね。
さらに言えば、追加公開されてもなお対象外とされてしまっている3都道府県に至っては、もはや「ハブられている」レベルで論外な惨状を呈していると言っても過言ではないのですし。
映画製作者達も全く意図しない形で、映画の地域格差を象徴する作品となってしまっていますね、映画「ジャンゴ 繋がれざる者」は。
まあ、この手の地域格差が発生している映画自体は、別に「ジャンゴ 繋がれざる者」に限った話ではないのですが。
去年日本で公開されたフランス映画「最強のふたり」なども、熊本では1ヶ月以上遅れて公開されていたわけですし。
映画の地域間格差は「機会の不平等」をもたらすものでもあるわけですし、いいかげんどうにかしてもらいたいところではあるのですが……。

映画「ジャンゴ 繋がれざる者」については、2013年4月6日以降に観賞する予定です。

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