コミック版「大奥」検証考察4 【支離滅裂な慣習が満載の男性版「大奥」】
4回目となるコミック版「大奥」検証考察。
今回の検証テーマは 【支離滅裂な慣習が満載の男性版「大奥」】。
なお、過去の「大奥」に関する記事はこちら↓
映画「大奥」感想&疑問
実写映画版とコミック版1巻の「大奥」比較検証&感想
コミック版「大奥」検証考察1 【史実に反する「赤面疱瘡」の人口激減】
コミック版「大奥」検証考察2 【徳川分家の存在を黙殺する春日局の専横】
コミック版「大奥」検証考察3 【国内情報が流出する「鎖国」体制の大穴】
コミック版「大奥」における大奥に関する描写を見てみると、史実のそれと比較して「何故こんな非効率的なやり方で運用されているの?」と首を傾げたくなる慣習が多数存在していることが分かります。
「女将軍と最初に性交するものは死ななければならない」などという、史実の大奥には存在しないはずのトンデモな規則を定めた「ご内証の方」の慣習などはまさにその典型例です。
映画版を観た時からずっと疑問視していたこの慣習、コミック版「大奥」の2巻~4巻までの家光(女性)時代に如何なる理由から出来たのかについて描かれているのですが、その起源は何と、家光(女性)が男にレイプされたことに端を発するほとんど八つ当たり&逆恨み的な癇癪から生まれたシロモノでしかなかったんですよね。
私はてっきり、権力闘争で政敵を口実つけて抹殺するためにその場で適当にでっち上げた発言なり法令なりがいつの間にか慣習化したものとばかり思っていたのですが、それ以上に何とも低次元かつ非合理的な話です。
ついでに、コミック版「大奥」1巻で「ご内証の方」の慣習について水野に説明している大奥総取締の藤波は「この規則は春日局が決めたことだ」などと述べていますが、実際にこの慣習が正式に定められたのは春日局の死後、2代目の大奥総取締となったお万の方の時代です。
藤波にしてみれば、とにかく「ご内証の方」という慣習が持つ問題を何とかして処理することの方が最優先課題で、「いつ定められたのか?」という歴史考証など些細なことでしかなかったのかもしれませんが、何ともマヌケな話ではあります(笑)。
一般的に伝統や慣習の中で「悪習」とされるものは、それを作った当時は合理的で意味のある決まりだったものが、時代が進むにしたがって遅れた考え方になったり、現実と合わなくなって非合理的なものになったりするパターンがほとんどです。
ところがコミック版「大奥」における慣習は、それを作った瞬間からすでに現実と合わない非合理的な「悪習」になっているものが多く、「作った当時における合理性」というものすら全く見出すことができないのです。
たとえば、コミック版「大奥」によく出てくる慣習の中に「お褥すべり」という決まりがあります。
「お褥すべり」という言葉&慣習自体は史実の江戸時代にもあり、こちらは当然「30~35歳以上の【女性】は将軍と性交できない」という決まりです。
しかし、史実の江戸時代における「お褥すべり」は、高齢の女性と性交しても妊娠・出産について年齢的な限界がある、という意味合いが強い慣習ですし、医学が進んだ現代でさえ、40代以上の女性が妊娠&出産するのは身体的に難しく難産も多くなると言われています。
性交は男女問わず何歳になっても可能ですが、妊娠・出産には女性の身体的な問題があるわけですし、江戸時代における医学水準を鑑みれば、この慣習も江戸時代当時には一定の合理性が存在したわけです。
ところがコミック版「大奥」には、「35歳以上の【男性】は将軍と性交できない」という「【性交に関する】年齢制限」があり、その一方で、妊娠・出産を司っているはずの女性には「【性交に関する】年齢制限」が全く存在しません。
言うまでもないことですが、妊娠・出産を司っていない男性は、性交ができる限りにおいて、高齢になっても子作りを続けることが可能です。
「お褥すべり」の本来の対象はあくまでも妊娠・出産に関する年齢制限がメインなのであり、男女間の性交はその付属物に過ぎない、という観点から言えば、男性に「お褥すべり」なる慣習が存在するのは明らかにおかしな話です。
しかも、ただでさえ「大奥」世界では「赤面疱瘡」の蔓延によって男性人口が激減しており、史実の江戸時代以上に子作りが極めて重要な位置付けとなっているのです。
さらに、20歳以上の男性は、12~17歳を主な感染対象とする「赤面疱瘡」にかかりにくいという利点もあり、その点でも高齢の男性は「安全確実な子種の供給源」として大きな存在価値を有しています。
その貴重な「種馬」をわざわざスポイルするような「お褥すべり」の慣習は、非合理どころか「社会的な自殺行為」もいいところではありませんか。
何故このようなおかしな慣習が「大奥」世界で成立しえたのか、全くもって理解に苦しみます。
また、コミック版「大奥」における大奥の性交システム、および将軍(女性)と側室(男性)の性交の描写も、単に史実の江戸時代における大奥のそれを逆転させただけの「極めて非合理的」なシロモノです。
いくら側室たる男性が多数いたところで、妊娠・出産できる女将軍はただひとり、という時点ですでに一般的な後宮システムと比較して非合理もはなはだしいのですが、それに輪をかけてさらに非合理なのが「わざわざ父親が分かるような性交を行っている」点です。
コミック版「大奥」では、徳川5代将軍綱吉の父親である桂昌院や、7代将軍家継の父親・月光院が、その立場を利用して大奥内で権勢を誇っている様子が描かれています。
しかし、そもそもこのような体制を実現するためには、「父親が誰であるかが分かる」ような性交を行う必要があります。
現代の民法733条には、妊娠している子供の父親が誰であるかという問題を解消するために、離婚後6ヶ月間、女性は再婚することができないという規定があります。
この民法733条の規定を「大奥」に適用すると、「大奥」における女将軍は、ひとりの側室との最後の性交から6ヶ月間は、父親認定の観点から一切の性交ができないことになってしまいます。
「再婚」ではなく「性交」の観点から女性の身体的に最短の時間で考えるとしても、女性は性交してから妊娠するまで3週間~1ヶ月程かかるわけですし、発覚が遅れる事態があることも考えれば、それでも側室が代わる際には最後の性交から2ヶ月程度は性交禁止期間が置かれると考えるべきでしょう。
「大奥」世界において、女将軍から産まれた乳児の父親が誰であるのかを判定するためには、こういうプロセスが絶対的に必要なのです。
しかし、「暫定的な」女系中心社会である「大奥」世界において、わざわざ父親が誰であるかを判別・認定する意味などあるのでしょうか?
一般的な後宮システムにおいてさえ、君主の母親は「外戚」として強大な権勢を誇り、他の臣下との間で凄惨な権力闘争が勃発したり、国政をメチャクチャにしたりした事例が多々あります。
コミック版「大奥」においても、徳川5代将軍綱吉の父親である桂昌院が江戸城内で大きな権勢を誇り、娘である綱吉に「生類憐れみの令」をゴリ押ししたという作中事実が存在するのです。
男女逆転したところで「外戚」の問題は全く変わりようがありません。
しかも、コミック版「大奥」における女系中心社会はあくまでも「仮の措置」でしかなく、「本筋の」男系がいつでも取って代われる危険性をも有しているのですから、「外戚」の脅威は一般的な後宮システム以上ですらあるかもしれないのです。
徳川家にとっても国政にとっても脅威以外の何物でもない「外戚」を作らなければならない「合理的な」理由など、どこを探しても見つけようがないのではないでしょうか。
ではコミック版「大奥」における「大奥の正しくかつ効率的なあり方」とはどういうものなのか?
一夫多妻制の最大の利点が「ひとりの男性が複数の女性に種付けできる」ことにあるとすれば、一妻多夫制の存在意義は「ひとりの女性の卵子に複数の男性が精子を連射できる」ことにあります。
これから考えれば、一妻多夫制的なシステムになっている「大奥の正しくかつ効率的なあり方」というのは、「ひとりの女将軍に対して最低でも数人、場合によっては十数人以上の男性が群がり、18禁的な乱交ないしは輪姦同然のセックスで、妊娠が確認されるまでとにかく無制限に膣内射精を続けまくる」という形態にでもならざるをえないのではないでしょうか。
こういう形態であれば、性交相手を変える毎に少なからぬ性交禁止期間を置く必要がなくなり、その分女将軍は「子育て」に専念することができますし、また「外戚」の存在自体を完全に排除することもできます。
作中における大奥の性交システムは、世継ぎがマトモに生まれる方がむしろ僥倖とすら言えてしまうような構造的欠陥を抱え込んでいる以外の何物でもないでしょうね。
コミック版「大奥」における男女絡みの慣習は、史実の江戸時代に存在したそれを無条件に男女逆転して適用したものになっています。
しかし、慣習というのは元々「それが発生するための過程や一定の合理性・必然性」というものがあり、また男女の地位が逆転したからといって男女の身体的な特徴や違いまでもが変化するわけではありません。
それを無視してただ慣習を男女逆転に引っくり返したところで、江戸時代当時の人間ですら考えられないほどに支離滅裂で意味不明な「悪習ですらない何か」にしかなりえないのです。
「男女の違いに関する考察」という最も基本中の基本的な要素が、コミック版「大奥」には根本的に欠けているようにしか思えないのですけどね。
次回は「大奥」世界における大名統制について検証する予定です。
「検証考察」と銘打ってある記事で、非常に期待して1から読ませていただいたのですが
あまりに揚げ足取りに終始した内容ばかりでがっかりしてしまいました。
考察はふつう、作品を「理解する」ためになされるものだと思いますが、こちらの記事はただ作品を蔑み弄んでるようにしか見えません。
これらの記事で「論理的に」突っ込みをなさっているつもりなのだとしたら残念です。
確かにいくつかの指摘はもっともなものもありましたが
今回の「大奥の正しくかつ効率的なあり方」には開いた口がふさがりません。