映画「ファイナル・ジャッジメント」感想
映画「ファイナル・ジャッジメント」観に行ってきました。
宗教団体である「幸福の科学」の大川隆法が製作総指揮を手掛ける、近未来の日本を舞台に繰り広げられる近未来予言?作品。
元々「幸福の科学」が主催しているということもあり、「宗教的な要素が色濃い映画なのだろう」とある程度構えて観賞してはいましたが、まさかこれほどのものとは……。
1996年。
どう見ても中国がモデルとしか思えないオウラン国によって併合された旧南アジア共和国(現在はオウラン国南アジア自治区)で、父親・母親・娘で構成される1組3人の家族が宗教的な挨拶と共に一家団欒の食事を始めようとしていました。
そこへ、お約束のようにドアを蹴り破って集団で押し入ってくるオウラン国の人民軍兵士達。
オウラン国では宗教活動が全面的に禁止されており、それに反した者は国家反逆罪として処刑されることになっていました。
家に押し入った人民軍の長らしき人物は、家にいた幼女に祈りの言葉をしゃべらせると、幼女を自分で連れて行き、父親と母親を部下に連行させるのでした。
時もところも変わった2009年の日本。
元商社マンとしてオウラン国に赴任した際、オウラン国の軍事力膨張と勢力伸張に危機感を覚えた今作の主人公である鷲尾正悟(わしおしょうご)は、友人の中岸憲三(なかぎしけんぞう)と共に未来維新党を結成し、当時行われた衆議院総選挙に立候補し日本の危機を訴えました。
ところが選挙では、選挙カーで演説する鷲尾正悟に耳を傾ける者はほとんどおらず、敗色濃厚な気配が漂います。
誰も聞いていない中で演説を続けることに空しさを覚えずにいられなかった鷲尾正悟がふと空を見上げた時、何故か空から金色の羽が舞い降りてきます。
しかし、その金色の羽は鷲尾正悟にしか見えないものだったらしく、呆然としていると勘違いされた中岸憲三の注意で我に返った鷲尾正悟は、再び誰も聞いていない選挙演説に戻っていくのでした。
しかし、そんな鷲尾正悟の選挙活動に感動したひとりの女性が、鷲尾正悟の選挙スタッフに協力を申し出てきました。
彼女の名はリンといい、鷲尾正悟が声を大にして脅威を主張するオウラン国の人間でした。
彼女はそのまま、鷲尾正悟の選挙スタッフの一員に加わることとなります。
しかし、そんな努力の甲斐もなく、その夜の選挙速報では鷲尾正悟の落選があっさりと確定してしまったのでした。
ちなみに選挙で勝利したのは、これまたあからさまに民主党がモデルであることが分かる民友党という名の政党です。
作中で放送されていたTVニュースのテロップにも、「政権交代」という文字がデカデカと書かれていましたし(苦笑)。
選挙後の民友党が、憲法9条を掲げて軍備撤廃・日米安保破棄を唱え聴衆から拍手喝采を受けていたり、オウラン国に沖縄の領土宣言をされて「遺憾の意」を表明しまくったりしている描写などは、もう現実に対する皮肉であるようにしか思えないところが何とも……。
一方、選挙で落選した鷲尾正悟は、選挙戦の際に出会ったリンと親しい関係となり、2人で新田神社の祭りでデートに興じたりするのでした。
それからさらに数年後。
いつもの平和な東京渋谷に、突如として大量の軍用機とヘリが現れ飛び交う光景が多くの人に目撃されます。
多くの人々が呆然とそれを見守る中、やがてTVにひとりの人物が映し出されます。
その人物はラオ・ポルトと名乗り、オウラン国が日本を占領し、オウラン国極東省としてオウラン国の支配下に入ったことを高らかに告げるのでした。
口ではオウラン国人民としての共存を主張しつつ、日本文化の完全破壊に勤しんだり、夜間外出禁止令を発動したりして圧政を布くオウラン国。
そんな中、鷲尾正悟は、オウラン国によって弾圧された各種の宗教団体の信者達を匿うレジスタンス地下組織「ROLE(Religious Organization for Liberty of the Earth、ロール)」という組織の存在を親友達から聞き、組織と合流することとなるのですが……。
映画「ファイナル・ジャッジメント」は、物語が進めば進むほどにツッコミどころがどんどん増えていく構成ですね。
特に物語後半などは、描写が切り替わる毎にいちいちツッコミを入れなければならないほどの超展開だらけでしたし。
一番大きなツッコミどころは、一般人に情け容赦なく殴る蹴るの暴行を働きまくる悪逆非道な集団として描かれているオウラン国人民軍が、作中では何故かロクに発砲する描写がないことにあるでしょうか。
オウラン国人民軍は必ずと言って良いほど銃を携帯しているのに、作中ではもっぱら殴打用の武器として使用される傾向の方が圧倒的に多く、銃を発砲すること自体がほとんどありませんでした。
映画全体で見ても、敵味方問わず銃から発射された銃弾の総数は50発にも到達していないのではないでしょうか?
主人公が乗車するクルマとの間で繰り広げられたカーチェイスの場面でも、別にオウラン国の要人が乗っているわけでもないクルマに対してすら、オウラン国人民軍はせいぜい2~3発発砲した程度でしかありませんでしたし。
さらには、物語のラストで主人公が選挙カーの上に立ってほとんど無防備の状態で演説を始めた際にも、オウラン国人民軍はただの1発も銃弾を発射することすらなく、バカ正直に主人公の演説に聞き入っているありさまでした。
銃の発砲自体が法的な制約からほとんど行えない状態にある日本の警察や自衛隊などではあるまいし、オウラン国人民軍が発砲を躊躇しなければならない理由などどこにもないはずなのですけどね。
占領国の住民が集まっている衆人環視の中で、無抵抗な人間に対しこれ見よがしに集団リンチを繰り広げて平然としているような軍隊が、一般人どころかレジスタンスの類に対してすら発砲を自重しているというのは大きな矛盾なのではないかと思うのですが。
ラストの演説シーンなんて、人民軍兵士の1人が、主人公にただ1発銃を発砲しただけで、反乱分子の要を完全に潰すことができたはずなのですけどねぇ。
また、物語中盤で主人公が瞑想し、悪魔との戦いを経て悟りを開く部分でも、多少どころではない違和感を覚えずにはいられませんでした。
瞑想の最中、悪魔は主人公の父親で故人となっている鷲尾哲山(わしおてつざん)に化け、主人公に宗教の無意味さと「争いを続ける人間のサガ」を説くのですが、主人公は「本当の父親ならば絶対に言わないであろう言動」から悪魔の正体を見破り反撃に転じています。
それは良いのですが、実はこの場面で主人公は、悪魔の主張について何ら反論を提示することすらなく、ただオカルティックな攻撃で悪魔を撃退しているだけでしかないのです。
悪魔の主張はこれこれこういう形で間違っている、宗教にはこれだけの偉大な可能性があるんだといった反論を展開して悪魔を追い詰める、という形では全くないんですよね。
作中のような展開では、悪魔の正論に正面切って反論できなかった主人公が、論点を逸らして悪魔を力づくかつ物理的に撃退しただけのようにしか見えません。
あの場面で本当に撃退すべきだったのは、「悪魔の存在」それ自体ではなく「悪魔の主張」の方だったはずなのに。
あんなやり方で「悟りを開いた」「神と一体化して奇跡が行使できるようになった」などと言われても、それって軍事力にものを言わせて周辺諸国への侵略を繰り広げるオウラン国のやり方と何も変わらないのでは、としか評しようがないところなのですけどね。
まあ作中では、その悪魔に対する反論部分に相当するものが全くないというわけではなく、作品的には物語のラストで繰り広げられる主人公の街頭演説こそがそれに当たると言いたいところなのでしょう。
しかしあの演説って、「人を憎むのは止め、自分の行いを反省しましょう」などという、あまりにも素朴過ぎるが故に政治的には現実離れした理想論を唱えているだけでしかなく、悪魔の現実に裏打ちされた主義主張には到底対抗しえるものなどではないんですよね。
あんな程度の理想論で世界が変わるのであれば、とっくの昔に世界から争いなど無くなっているでしょうに。
日本国内限定で通用するのか否かすらも怪しいレベルの個人的道徳観程度の演説を披露するだけで「世界が変わる」「オウラン国の独裁体制が崩壊する」などという世界的な変革が起こしえるなど、それこそ3流カルト宗教の妄言レベルなシロモノでしかないのですが。
オウラン国のあまりにも手緩い対応と併せ、露骨過ぎるまでの超御都合主義以外の何物にも見えはしませんでしたね、この部分は。
この映画、特にラスト30分はトンデモ描写のオンパレードで、いちいちツッコミを入れたり笑いを堪えたりしながら観る羽目になりましたよ、私は。
宗教映画であることを差し引いて考えてさえ、あまりにも御都合主義に満ち溢れ過ぎていて、普通に観賞して素直に楽しむなど不可能でしたし。
同じ宗教観を前面に出した映画でも、「ザ・ウォーカー」や「ヒアアフター」などは普通に楽しめましたし、共感できる部分もあったのですけどねぇ。
まあ「ツリー・オブ・ライフ」などのように、前衛芸術ばかり前面に出しまくって何を主張したいのかすらも分からないような宗教映画よりはまだマシではあるのですが、最下級クラスの作品と比較しても不毛なだけですからねぇ(爆)。
よほどに宗教が大好きという人以外は、作中で展開されるトンデモ描写の数々を「笑いのネタ」として割り切って楽しめるという人くらいにしかオススメのしようがないですね、今作は。
ヒロ
わたしも、観てみるつもりですが、とても参考になりました。
日本の国防力への警告、みたいに思ってました。