映画「アントキノイノチ」感想(DVD観賞)
映画「アントキノイノチ」をレンタルDVDで観賞しました。
2011年11月に劇場公開された邦画作品で、歌手として有名なさだまさし原作の同名小説を実写映画化した、岡田将生・榮倉奈々主演の人間ドラマ。
あの銀英伝舞台版第一章でラインハルトを演じた松坂桃李も、主人公の高校時代に重要な役として登場しています。
2012年6月9日および10日は、当初観賞を予定していた映画が既に試写会で視聴済みの「幸せへのキセキ」1作品しかなかったため、久々に映画を観賞しない週末を迎える羽目になってしまいました(T_T)。
そんなわけで、久々に手持ち無沙汰となってしまった私は、せっかくの機会だからということで、去年観賞し損なっていた映画をいくつかレンタルDVDで観賞することにしたわけです。
まあ、今年の私の映画観賞総本数は、過去最高を記録した2011年の65本をすら上回るのが既に確実な情勢となっていますし、たまにはこういう週があっても良いのでしょうけどね。
映画「アントキノイノチ」の冒頭は、裸で屋根に上っているひとりの青年の姿が映し出されるところから始まります。
高校の制服をズタズタに切り裂き、「僕は二度、親友を殺した」という意味深なモノローグが語られたかと思えば、舞台はそれから3年後にあっさり移ることになります。
その当時、この青年こと主人公の永島杏平に一体何があったのかは、その後の物語の進行と共に語られていくことになります。
3年後に舞台が移り、永島杏平は父親の勧めで遺品整理業を営む「クーパーズ」という職場を紹介され、そこで働くことになります。
遺品整理業とは、不慮の事故や突然死などで亡くなった人の部屋を片付け、貴重品や遺品などを保管する仕事のことを指します。
永島杏平が「クーパーズ」に入社して最初の仕事は、死後1ヶ月も経過して遺体が発見された孤独死の老人の部屋を片付けるというものでした。
孤独死から1ヶ月にわたって遺体が放置されていたこともあり、遺体があったと思しきベッドは遺体から流れ出た大量の体液で汚れており、また部屋の至るところに遺体を貪っていたであろう蛆虫の死骸が散乱しているような状態でした。
最初は誰もが怖気づき、最悪はその場で辞めていくと「クーパーズ」の先輩社員である佐相(さそう)は永島杏平に話しかけるのですが、しかし永島杏平は特に何も語ることなく淡々と仕事に従事していきます。
永島杏平の様子に感心した佐相は、比較的年齢の近い久保田ゆきという先輩社員から仕事を教わるよう、永島杏平に指示を出します。
初めての仕事で右も左も分からない永島杏平に、久保田ゆき淡々と、しかし丁寧に仕事のやり方を教えていくのでした。
しかし、過去の精神的外傷が原因なのか、話しかけられてもロクに返事すらも返すことが無い永島杏平。
そのことを心配した佐相は、久保田ゆきに金を渡して永島杏平と「飲みニケーション」をするよう伝えます。
そして久保田ゆきと「飲みニケーション」をすることになった永島杏平は、それがきっかけとなって久保田ゆきと気軽に話し合える仲になっていくのでした
久保田ゆきのことが気になりつつ、遺品整理業を続けていく過程で、永島杏平は自身と久保田ゆきのそれぞれの過去と向き合っていくことになるのですが……。
映画「アントキノイノチ」は、主人公・ヒロイン共に凄惨な過去を持ち、精神的な外傷を抱え込んでいるような状態にあります。
永島杏平は、高校時代にイジメに遭っていた親友・山木信夫の自殺に直面した上、イジメの元凶であった同級生の松井新太郎を二度にわたって殺そうとした過去に苦しめられ続けていました。
一方、久保田ゆきは、高校時代にレイプされた上に妊娠してしまい、レイプ犯からも親からも罵られた挙句に流産してしまったことから、重度の男性恐怖症と絶望感を抱え込むようになっていました。
序盤の2人は、遺品整理業に何かの意義を見出していたというよりも、とにかく何でも良いから作業に没頭することで、過去のトラウマから逃避したかっただけなのではないかと思える一面を覗かせていました。
ただ何となく生きていただけ、そんな感じが漂いまくっていたんですよね。
しかし、遺品整理業の仕事を進めていく中、故人の遺族に遺品を渡したことで感謝されたことから、まずは永島杏平に転機が訪れます。
これ以降、彼は明らかに遺品整理の仕事に積極的になっていきましたし、そればかりか遺族にわざわざお節介をかけるほどに精神的な回復が見られたのですから。
あの時初めて彼は、自身の生きる意義を見出すことができたのではないでしょうか。
むしろ物語中盤以降は、序盤はまだ普通に見えていた久保田ゆきの落ち込みぶりが半端ではなかったですね。
男性恐怖症を克服するために永島杏平とセックスに及ぼうとして果たせなかったり、死んだ子供の部屋の遺品整理をしている最中に過去のトラウマが蘇り「クーパーズ」を辞めてしまったり。
作中の描写を見る限り、久保田ゆきは自身がレイプされたことよりも、胎児が流産してしまったことの方を気にしていたようで、また、そのことでトラウマを抱え込んでいるにもかかわらず、そのことが忘れられずに苦しんでいる感じでした。
これに対し、永島杏平は「それでも君は生きている」「その胎児の生命が君の負担を背負って亡くなったからこそ、今の君がここにいる」という主張で励ますのです。
これが、映画のテーマにもなっている「あの時の命」の意味であり、それを早口で何度も言った際のなまりが、そのまま映画のタイトルにもなっているわけですね。
ただ、その際に何故か「アントニオ猪木」のネタが出てきたのは、ご愛嬌なのかギャグなのか判断に苦しむところがあるのですが(苦笑)。
しかし、これで主人公とヒロインが意気投合して結ばれる明るい未来が待っているのかと思いきや、物語は全く意外な方向へと向かいます。
「クーパーズ」を辞めた後に介護施設で働いていた久保田ゆきが、介護老人を見舞いに来たらしい子供を庇い、猛スピードで突っ込んできたトラックに跳ねられそのまま死んでしまうのです。
何の伏線もなく唐突だった上、久保田ゆきが永島杏平の説得で立ち直っていく過程が描かれていただけに、あまりにも意外過ぎる展開に驚かずにはいられませんでしたね。
庇われた子供は全くの無傷だったので、てっきり久保田ゆきも重症ながら生きているのでないかと最初は考えていたのですが、永島杏平と佐相の2人が「クーパーズ」の仕事として久保田ゆきの遺品整理を始めたことで、否応なく死の事実が明示されていましたし。
作者ないし映画製作者側の意図としては、生命のリレーによって人は生きている、という「アントキノイノチ」の摂理を、不条理な現実と共に観客に突きつける意図があったのでしょう。
ただ、「アントキノイノチ」の論理は既に久保田ゆきの過去話によって示されていたのですから、その上さらに追加でヒロインを死なせてしまう必要はすくなくともストーリー的な必然性の面ではなかったのではないか、とは思えてならなかったですね。
お腹の中の子が死んだことで久保田ゆきがここにいる、という「アントキノイノチ」の論理をまた再現したいのであれば、むしろ永島杏平と久保田ゆきを結婚させ、2人の間に子供を生ませるという結末に持っていくという形にしても「その子供は2人の親の存在があったからこの世に誕生しえた」という論法で充分に達成可能なわけですし。
全くの意外性と不条理な現実を突きつける、という点では効果のある演出だったと思うのですが、作品的には「ハッピーエンドになり損ねた」という点でややマイナスな部分が否めない、といったところでしょうか。
生命の絆的なテーマを盛り込んだ人間ドラマ作品を観たい、という方にオススメの作品となるでしょうか。
sakurai
あまりな唐突に展開と、配役の微妙さと、いろんなところに齟齬を感じた、へたくそな話と言う印象でした。
あの最後は、フタ昔前くらいのメロドラマの展開だなあって。