映画「遺体 明日への十日間」感想
映画「遺体 明日への十日間」観に行ってきました。
2011年3月11日の東日本大震災発生直後に臨時に設置された岩手県釜石市の遺体安置所を舞台に、遺体を管理する人達と遺族の姿を描いたヒューマン・ドラマ作品。
内容的には非常に地味かつ起伏のないストーリーなのですが、西田敏行・佐藤浩市・柳葉敏郎などの豪華キャストが多数出演しています。
今作の物語は、東日本大震災が発生する約10分前の日常風景が展開されるところから始まります。
何故10分前と分かるのかというと、西田敏行が演じる今作の主人公・相葉常夫が地元の老人?達と卓球レクリエーション?をしていた場所に時計があり、その時刻が昼間の2時35分頃を指している描写があるためです。
その他、患者を診る医者、学校から帰宅する小中高の学生、買い物をする主婦、港で働く人達など、どこにでもある日常風景が続いていきます。
そして、ひとしきりその手の日常風景が展開された後、画面が暗転し、ナレーションのみで東日本大震災の発生および津波で海沿いの街が壊滅したことが掲示されます。
そして次の場面では、冒頭で相葉常夫が卓球レクリエーションをしていた場所の「震災で被害を受けた後」の光景が映し出されます。
震災で停電し、卓球のボールなどが散乱した部屋で相葉常夫が後片付けに精を出している中、震災直後に帰宅した(らしい)はずの老人達が戻ってきていました。
海沿いにある家に帰ろうとしていた彼らは、海沿い方面への道が通行止めになってしまっていて帰れなくなってしまったこと、海沿いが津波で壊滅状態となってしまったことなどを相葉常夫に教えるのでした。
一方、釜石市の役所では、震災で犠牲となった遺体を一時的に置いておくための安置所を設置することが決定され、3人の職員がその責任者として指名されていました。
遺体安置所は、数年前に廃校となった中学校が使用されることとなり、自衛隊や役所の職員によって発見された犠牲者の遺体が続々と運ばれていました。
その遺体安置所を訪ねた相葉常夫は、あまりの被害の大きさと、遺体安置所における遺体への扱いに愕然とします。
震災当時66歳だった相葉常夫は、定年まで葬儀会社の仕事に就いていたこともあり、運ばれてきた遺体が雑に扱われていることに口を出さずにはいられなかったのでした。
そして相葉常夫は、震災で混乱している市政の指揮に当たっていた、震災当時の釜石市市長・野田武則に直談判し、遺体安置所でボランティアとして働きたいと申し出ることになります。
ボランティアでありながらも、葬儀関係の経験が相葉常夫は、役所から派遣されてきた職員達の上に立ち、遺体安置所の管理運営を任されることになります。
次々と運ばれてくる遺体と、行方不明となっている親類縁者や知人を探してやってくる遺族達を相手に、相葉常夫は対処していくことになるのですが……。
映画「遺体 明日への十日間」では、東日本大震災をメインテーマに扱いながら、「被災者や犠牲者が震災の被害を【直接】受けている様子」というのが一切描かれていないのが、大きな特徴のひとつであると言えますね。
津波に襲われる市町村の様子とか、津波に巻き込まれ流されていく人々とか、そういった直截的なシーンが一切ないわけです。
あくまでも「震災後」が舞台であり、震災で死んだ人と向き合わなければならない「生き残った人達」にスポットを当てた作品なのです。
ただそうは言っても、震災の凄惨さを演出するという意図から、震災や津波等の光景自体はそれなりに描写するのではないかと個人的には予想していたので、これは少々意外な展開ではありましたね。
まあ、予算の都合や「作品のテーマが拡散する」等の理由で削られたのかもしれませんが。
また今作は、最初から最後までとにかく起伏のない淡々としたストーリーが延々と展開されていきます。
「遺体 明日への十日間」という題名といい、「東日本大震災の真実」という題材といい、事前予測でも明るい要素が欠片も見出せない上に事実暗いストーリー構成だったりもするので、
エンターテイメント的な爽快感などとはおよそ無縁な映画であると言えます。
ただその分、出演している俳優さん達の真に迫った名演技が光っていますね。
個人的に考えさせられたその手の描写は2つ。
ひとつは、自分と全く面識のない遺体に懇切丁寧に話しかけるという、傍から見たら奇異な対応をする主人公・相葉常夫の言動。
彼がそうする理由については、老人の孤独死を見続けてきたことから、死んだ老人が哀れになって話しかけてみたところ、遺体が変わったように見えたという過去の経緯が作中でも語られています。
そして相葉常夫は、次々と際限なく運ばれ続ける遺体管理の仕事に嫌気がさして不満を述べる職員に対し、「ここにあるのは死体ではない、御遺体なんです」と主張するのです。
相葉常夫的には、そうやって「遺体」と接することで故人を労わると共に、哀しみに押しつぶされそうな遺族の心情に若干ながらの安息を与えるという意図があるのでしょう。
ただ実際には、この手の遺体管理の仕事場では、相葉常夫とは逆に「遺体について感情移入するな、ただのモノとして考えろ」などという考え方も普通にあったりするんですよね。
故人の遺品整理を行う仕事を扱っている映画「アントキノイノチ」などでは、作中の人物が主人公に対してまさにそういう主旨のセリフを述べているシーンがあったりします。
下手に故人に感情移入してドツボに填ってしまったり、余計なお節介をやってしまって遺族からウザがられ、場合によっては無用な揉め事の種にまで発展するリスクもあったりするわけで、これはこれで間違った考え方というわけではないわけです。
特に、震災の現場で何百体もの死体を捜し出し遺体安置所へ運び続けなければならない職員や自衛隊の人間などは、そうでもしないと自分の心が押し潰されることにもなりかねないケースもあったりするのではないかと。
相葉常夫のような考え方は、自身のメンタル面が相当なまでに強くかつ柔軟性がないと、その実行は難しいものがあるでしょうね。
もうひとつ印象に残ったのは、津波の犠牲となった小学生の遺体が運ばれてきた際に、釜石市の女性職員・照井優子が壁を叩きながら「幼い生命が死んでいるのに私なんかが生きているのが申し訳なくて……」と泣き叫ぶシーンです。
その小学生が津波で犠牲になった件について、別に照井優子が直接手を下した等の責任があるわけでもないのに、何故照井優子が自分を卑下しなければならないのでしょうか?
照井優子が生きていることと、震災で小学生が死んだ件とは何の相関関係もないのですし、そもそもその小学生と照井優子とは一面識すらもなかったわけでしょう。
「自分より幼い人間が死んだこと」について嘆くのであれば、それは別に東日本大震災に限らず、毎日世界中のどこかで日常茶飯事に起こっていることであるはずなのですが。
第一、本当に故人に対して自分が生きていることに申し訳ないと考えているのであれば、自分がその場で自殺でもしてしまえば一瞬で解決する話ではないのかと。
こういう発想が、「英霊に申し訳が立たない」からと戦場での犠牲を悪戯に増やした戦前の一億総玉砕論や、「被災者に申し訳ない」という理由から始まったあの愚かしい自己満足の産物でしかない震災自粛の温床でもあることを考えると、とても賛同なんてできるようなシロモノではなかったですね。
自分の責任の範疇外で発生した「他人の死」に自責の念など抱いていては身が持ちませんし、そんなものでは死者も生者も、何よりも自分自身も救われることなどないのです。
自分を責めるよりも行動した方が、はるかに生者どころか死者さえも含めた他人のためになるのではないのでしょうか?
全体的には、豪華キャストな出演者の顔ぶれを見てさえも、やはり万人受けはしなさそうな構成の作品だよなぁ、というのが正直な感想ですね。
人間ドラマとしてはそれなりのものがありはするのですけど、映画は「派手な演出」こそが大きな売りのひとつでもあるわけですし。
原作が「遺体 震災、津波の果てに」というルポルタージュ本とのことなので、その手の要素は最初から望みようがなかったのでしょうけどね。