一ヶ月半ぶりの御無沙汰です。国内国外国内と
出張で飛び回ってました。貧乏なんとかです。
実はまだ仕事が押してるんですけどね。
ところで何週間か本すら、というか日本語さえ通じない場所にいながら、私もいろいろ考えてたんですが、私なりにちょっと問題提起をしたいんですがよろしいでしょうか? また変な御願いですが、指名というわけではありませんが、石井、風ライダーの御両氏には御返事していただければ有り難いです。
私自身、田中芳樹にはそれほど「ハマッタ」という意識はなかったです。それはここで討議されている『創竜伝』はもちろん、『銀英伝』、『アルスラーン』にしてもですが。「流行っているんだから読んどこうか」って感じでしたね。だからすぐに辞められたんでしょうが(笑)。
ともかく読むのを辞めたのは、『創竜伝』で「プラスチックのレターケース」の部分がきっかけですね。「同じネタを、同じ小説で二度も使うなよ」で激怒しまして。
『創竜伝』のひどさは、ここで私なんかが指摘する必要もないでしょう。しかし私に理解できないのは、田中芳樹の創作姿勢(のひどさではなく)の「原点」なんですよ。
やはり『銀英伝』は、日本スペオペのなかでも上位に位置づけなければならないでしょう。それだけの作家が、いったいなにに対してコンプレックスを抱いているのか、私には理解できません。
ちょうど『ノルウェーの森』に関して書いた文が波紋になってますけど、私はそれを読んでかなり失望しましたよ。内容の貧弱さではなく、「田中芳樹ともあろう作家が、どうして純文学に対してこうも攻撃的なのか」って。
正直失望というか、悲しかったですね。「ワシの書いてるんは超大河ロマンじゃけん、関係ねーわ」くらい開き直ってくれると、それなりに感動したんでしょうけど。
いや、日頃読者をアジっている田中芳樹ならそのくらい書いてくれるんじゃないかと私なりに期待してたんですよ、好きじゃないなりに。悪い意味で裏切られたのが、ショックでしたね。
まぁ前振りが長くなりましたけど、田中芳樹の個々のミスを指摘するだけではなくて、ミスの原点というか、彼の創作姿勢を形成した内面であり、生い立ちとかまで踏み込んだ意見を聞きたいなぁと思いまして。そんなわけで、常々舌鋒には感心している御両氏を特に指名した次第です。もちろん批判的立場ではない、田中信者と言われているファンの考えも伺いたいですけどね。
そーゆーことで、また。
追伸 一応一二月中旬までは自宅。でも年末にまた長期出張なので、予断は許しません。今年こそは「倒れたくない」ですよ。
返事が遅くなってしまいましたが、速水さん、お久しぶりです。御元気そうで何よりです。
ところで11月に入ってから結構忙しくなってしまい、今までロクに書き込む事もできなかったため、せっかくの問題提起にもかかわらず、すっかり返事が遅れてしまった事を先にお詫びしておきますm(__)m。
では、田中芳樹の創作姿勢の原点について私なりの私見を述べてみる事にしましょう。
一応私が知っている田中芳樹の履歴は
1. 昭和27年(1952年)、熊本県本渡市生まれ(今年47歳)
2. 学習院大学卒業(早稲田大を受験して失敗したという説もあるそうですが)
の2つぐらいなんですけど(小村さんがその辺りを以前詳しく論じていたと思うのですが、ログが見当たらん(T_T))、まあこれだけでもそれなりの推測は可能です。
まず、創竜伝の社会評論はそのほとんどが1960年~70年代の思考そのものですが、これはその時代の田中芳樹の年齢がちょうど10代~20代の「思想形成期」にあたっていた事が一番大きいでしょう。1960~70年代といえば安保闘争全盛期で、しかも日本の政治・経済が急速に成長していた頃です。そして朝日新聞が盛んに行っていた中国礼賛の全盛期でもありました(笑)。そしてその当時に彼は思想的影響を最も受けやすい年齢だったのですから、その当時の社会・思想から受けた影響はかなりのものだと思いますね。おそらくこの当時に「反権力=善」と「財閥=悪」の思想が形成されたものと考えられます。
また田中芳樹は学習院大学の修士論文で、幸田露伴の「運命」をテーマにしていたそうですから、中国史や中国文学に関心を持ったのはこれよりも前の事と思われます。
中国の歴史とは要するに易姓革命による王朝興亡の歴史でもあるわけですから、そこから田中芳樹作品のほとんど全てに共通する概念である「国家は永遠ではない」という思想が生まれたのではないでしょうか。フランス革命やロシア革命の礼賛などもそこから来ているのではないかと思われます。
だからこそ、そのような「革命の歴史」をもっていない日本が憎いのでしょうね。何しろ田中芳樹の思考規準でいえば「圧政と暴政に武力で立ち向かった(笑)」中国の易姓革命が理想なのでしょうから、その基準から見れば日本の歴史はさぞかし「権力者に盲従している歴史」に見えるのでしょうな(笑)。
ただ私に理解できないのは、「国家に対する認識」における、田中芳樹の中国と日本に対する見方が全く違うという事ですね。中国礼賛をする時の田中芳樹の姿勢は、どう見ても常日頃自分が批判しているはずの「右翼の軍国主義者」そのものですから(笑)。
これは「中国に対するひいき目」というだけでは説明できないように思えるのですが。
冒険風ライダーさんは書きました
> ただ私に理解できないのは、「国家に対する認識」における、田中芳樹の中国と日本に対する見方が全く違うという事ですね。中国礼賛をする時の田中芳樹の姿勢は、どう見ても常日頃自分が批判しているはずの「右翼の軍国主義者」そのものですから(笑)。
> これは「中国に対するひいき目」というだけでは説明できないように思えるのですが。
最近古本屋で「紅塵」(文庫)を手に入れました(「買ってはいけない」と「文芸春秋」を読んだ後でヤマザキパンを買ってみたくなる心理)。例えばこんな記述、
<岳飛の名誉を、そうたやすく回復するわけにはまいりませぬ。彼の者は、一貫して、金国との和平に反対でございました。今彼の者の名誉を回復すれば、金国はどう思うでございましょうか。本朝が和平策を捨て去るのではないか、と疑念をいだき、出兵してまいるやもしれませぬぞ。そうなったらいかがなさいますか」
そういわれて、高宗は不快げに眉を寄せた。何かというと「金国がどう思うか」という論法で、高宗に反対するのが、亡き泰檜のやりくちであった。
金国をアジア、泰檜を朝日などに替えると、産経あたりが書いてそうな文書です。
この辺「中国に対するひいき目」というだけでは説明しにくいかもしれませんね。
思うのですが、それは中国が「外国」でしかも「過去」の出来事だからじゃないでしょうか。当人との距離があればあるほど「後世の歴史家」としての客観的な記述が出来る。ただ当人の趣味で中国に対しては大甘になりがちですが、これが「銀河連邦」などの架空の世界ならばまさにそうです。
逆に現代物で、しかも日本を対象にしてしまうと田中氏自身が「当事者」になってしまい、「思想形成期」にインプットされた諸々の情念が蘇り、「後世の歴史家」としての客観評価ができなくなってしまうのかもしれません。
もう一つ言えば、田中氏のなかでは中国はまだ、発展途上国の「弱者」に分類されているのかもしれません。それゆえ、中国自身が「牛種のやり口」でアジアに覇を唱えようとしている現在では、創竜伝の評論がかなり場違いなものになってしまっている、これはもう前に引用した新聞記事と同種の「悲しみ」を感じてしまいます。
<思うのですが、それは中国が「外国」でしかも「過去」の出来事だからじゃないでしょうか。当人との距離があればあるほど「後世の歴史家」としての客観的な記述が出来る。ただ当人の趣味で中国に対しては大甘になりがちですが、これが「銀河連邦」などの架空の世界ならばまさにそうです。>
昨今の歴史認識問題や秦檜評価論を見るたびにいつも思うのですが、「後世の歴史家」とやらはそんなに「客観的評価」ができるものなのでしょうか。むしろ時間がたてばたつほど、却って冷静な評価ができなくなっているようにも見えるのですがね。
まあ政治的な要因も絡んではいるのでしょうが。
< 逆に現代物で、しかも日本を対象にしてしまうと田中氏自身が「当事者」になってしまい、「思想形成期」にインプットされた諸々の情念が蘇り、「後世の歴史家」としての客観評価ができなくなってしまうのかもしれません。>
これはそのとおりでしょう。
田中芳樹の現代物や中国物が架空世界小説系ほどに面白くないのは、やはり田中芳樹自身が「現代日本」や「中国の歴史」を客観視できていないからでしょうね。創竜伝の社会評論をいくら読んでも、とても日本や中国を「客観的に評価している」ようには見えませんし、不必要な感情移入が入りこみすぎているように思います。
<田中氏のなかでは中国はまだ、発展途上国の「弱者」に分類されているのかもしれません。それゆえ、中国自身が「牛種のやり口」でアジアに覇を唱えようとしている現在では、創竜伝の評論がかなり場違いなものになってしまっている、これはもう前に引用した新聞記事と同種の「悲しみ」を感じてしまいます。>
中国が「発展途上国」というのは経済的に見れば全くその通りなんですけど(笑)、「弱者」というのは完全に違いますね。拒否権を発動できる国連常任理事国5ヶ国のひとつで、しかも「年間2桁の軍事予算拡張」をおこない、国内での民族弾圧を自己正当化している国が「弱者」なわけがありません。
この国がなぜ「牛種」の支配領域に入っていないのか疑問なんですけど(笑)。
>また田中芳樹は学習院大学の修士論文で、幸田露伴の「運命」をテーマにしていたそうですから、中国史や中国文学に関心を持ったのはこれよりも前の事と思われます。
元々小学校の頃に子供向けの『三国志物語』を読んで中国物にハマり(←何だかんだ言ってやっぱりきっかけは三国志だった)、
「野村愛正という人が戦前に訳したやつなんですが、天下の名訳だったらしいですね。後に山本七平さんか誰かが『あれは名訳であった』とか言ってました。」
「それから、三国志と名のつくものには何でも手を出しまして。本屋で『三国志』という字が目に入って条件反射的に手に取ったら『柔道三国志』だったりとか(笑)。」(以上、田中芳樹・談)
そういった中国文学と大陸への憧れの素地があった所へ、図書委員をつとめていたという高校生か大学生の頃にホンカツの『中国の旅』でも読んで妙な化学変化を起こしたんじゃないでしょうか(笑)。
>金国をアジア、泰檜を朝日などに替えると、産経あたりが書いてそうな文書です。
↑たしかに(笑)。
> 田中芳樹の現代物や中国物が架空世界小説系ほどに面白くないのは、やはり田中芳樹自身が「現代日本」や「中国の歴史」を客観視できていないからでしょうね。創竜伝の社会評論をいくら読んでも、とても日本や中国を「客観的に評価している」ようには見えませんし、不必要な感情移入が入りこみすぎているように思います。
>
>
> <田中氏のなかでは中国はまだ、発展途上国の「弱者」に分類されているのかもしれません。それゆえ、中国自身が「牛種のやり口」でアジアに覇を唱えようとしている現在では、創竜伝の評論がかなり場違いなものになってしまっている、これはもう前に引用した新聞記事と同種の「悲しみ」を感じてしまいます。>
>
> 中国が「発展途上国」というのは経済的に見れば全くその通りなんですけど(笑)、「弱者」というのは完全に違いますね。拒否権を発動できる国連常任理事国5ヶ国のひとつで、しかも「年間2桁の軍事予算拡張」をおこない、国内での民族弾圧を自己正当化している国が「弱者」なわけがありません。
> この国がなぜ「牛種」の支配領域に入っていないのか疑問なんですけど(笑)。
えー、参考までに『海嘯』と『中国帝王図』から宋と元に関する記述を引用してみましょう。
“兵力においても陣形においても、最初から元軍が圧倒的に優勢であった。しかも宋軍は水の手を絶たれて将兵の衰弱はいちじるしく、元軍には回回砲という強力な新兵器がある。にもかかわらず、夜明けから夕刻まで戦ってなお、凱歌をあげることができないのだ。
「時間の問題だ。わが軍が必ず勝つ」
完勝の自信は揺るがないが、張珪は疑問をいだかずにいられない。
「しかし何がああまで彼らを戦わせるのだ。武器をすてて投降すれば生命は助かる。水だっていやになるほど飲めるものを。」
張珪は文天祥を見やった。文天祥は張珪と並んで船楼上に立ち、冷霧と寒風のなか、石像のごとく微動だにせず、水上陣の炎上を見すえていた。だが張珪の視線を受けて、顔を動かし、口を開いた。
「公端どのにはおわかりになるまい。」
誇った口調ではなく、沈痛のひびきがこもっている。水上陣から火と煙が噴きあがったとき、文天祥は、宋軍の敗亡を覚悟したのであった。もはや勝機なし。
「公端どのはこれまで常に勝ってこられた。ご自身も、そして元軍全体も。ゆえに当然、戦いは勝つためにおこなうものと思っておいでだ。」
文天祥の言葉は張珪を当惑させた。資質のすぐれた若者であるが、人生の辛酸をなめてはおらず、亡国の悲哀は想像の外にある。
「文丞相、お言葉を返すようですが、戦いは勝つためにおこなうものではございませんか。勝つのが目的でなければ、何のために戦うのです。私にはわかりませぬ。」
一気に言いおえて張珪は口をつぐみ、相手の返答を待った。
「さよう・・・何のために戦うのでしょうな」
文天祥はつぶやく。彼は張世傑や陸秀夫と最後まで連帯できなかった。だが彼らの心情の、すべてとはいわぬまでも一部を共有することはできたように思う。”
“必死の捜索にもかかわらず、帝ヘイおよび陸秀夫の遺体は発見されない。張世傑に至っては、阻止しようとする張弘世をかるくあしらって戦場を離脱したことが確認されている。張弘範は厳命を下した。
「あの男は生きていれば、かならず再起する。どこまでも逃げるだろう。どこまでも追え。死が確認されるまで怠るな。」
すこし考えてから、命令を追加した。
「投降してきたタク国秀と劉俊にそれをやらせよ」
このあたりは張弘範も冷徹であった。最後の局面に至って投降してきたような者には、それにふさわしい任務を与える。必死になって、つい先刻までの味方を狩り立て、元軍の信用を得ようとするであろう。せいぜい努力するがよい、と、張弘範は思った。命を受けた降将二名は元軍の旗幟のもと、ただちに追跡を開始した。”
“・・・無限にくりかえされるかと見える対外軍事行動の数々。フビライ汗は、「しょせん自分たちは軍事力以外に誇るべきものは何もない」と思い込んでいたのであろうか。これによって失われた人的資源と財力の膨大さを思えば、元は元によって亡びたといわざるを得ない。軍事力の優越によってのみ、諸国の民を支配していた元は、その優越が失われたとき、すべての占領地から追い出されることになる。フビライ汗によって建設された大都をも防衛することができず、本来の故郷であった北方の草原へと追われ、以後、大モンゴル帝国が復活することはない。諸国の民もまた、そのようなことを望みはしない。”
“民族の誇りをかけた抵抗も、ついに力尽きるときが来た。西暦一二七九年二月、崖山(香港の西方百キロの海岸)に宋軍最後の船団は追いつめられ、周囲は数十万をかぞえる元の水軍に包囲された。二月六日、元軍の総攻撃がはじまる。
(中略)
闘将張世傑はなお屈せず、元軍の重囲を突破して脱出した。生命ある限り元軍と戦い続けるつもりであり、それを知る元軍は必死に彼を追跡した。結局張世傑は大暴風雨に巻き込まれ、乗船ごと海に沈んだ。
「舟覆世傑逐溺宋滅(舟覆えり、世傑遂に溺る。宋滅びたり)」
と史書は記す。わずか八文字のうちに無限の悲愁がこめられており、漢字の表現力におどろかされる。
捕虜となった文天祥は、獄中にあること四年、フビライ汗の臣従の誘いを拒絶しつづけ、ついに処刑された。フビライ汗は結局、三傑の一人として、手にいれることができなかった。そして崖山の名は漢民族の記憶に深くきざみこまれ、やがて元の滅亡の日を迎えるのである。”
・・・・・・。
ところで、当時の日本は平氏政権の頃から南宋贔屓で、鎌倉幕府の執権北条時宗は元寇撃退の後モンゴル人と高麗人の捕虜は処刑しましたが、南宋人の捕虜には衣食を与えて送還したそうです。で、田中氏はこの時宗の措置をえらく賞賛してるんですよ(^^;)。
無理矢理従軍させられたのは高麗の人も同じだと思うけどなー(^^;;)。
やっぱりとことん朝鮮には冷たいんだな、この人(^^;;;)。
<元々小学校の頃に子供向けの『三国志物語』を読んで中国物にハマり(←何だかんだ言ってやっぱりきっかけは三国志だった)、
「野村愛正という人が戦前に訳したやつなんですが、天下の名訳だったらしいですね。後に山本七平さんか誰かが『あれは名訳であった』とか言ってました。」
「それから、三国志と名のつくものには何でも手を出しまして。本屋で『三国志』という字が目に入って条件反射的に手に取ったら『柔道三国志』だったりとか(笑)。」(以上、田中芳樹・談)
そういった中国文学と大陸への憧れの素地があった所へ、図書委員をつとめていたという高校生か大学生の頃にホンカツの『中国の旅』でも読んで妙な化学変化を起こしたんじゃないでしょうか(笑)。>
田中芳樹が中国にかぶれたのは小学生の時でしたか。そりゃハマりますわな。
ある国を崇拝し、自分の頭の中で描いたその国の「理想郷」を絶対のものと思いこみ、その空想と比較する事によって「現実世界」の日本を弾劾するということは、かつての進歩的文化人のお歴々がよくやっていましたが、田中芳樹の社会評論もその類なのでしょうかね。
<兵力においても陣形においても、最初から元軍が圧倒的に優勢であった。しかも宋軍は水の手を絶たれて将兵の衰弱はいちじるしく、元軍には回回砲という強力な新兵器がある。にもかかわらず、夜明けから夕刻まで戦ってなお、凱歌をあげることができないのだ。
「時間の問題だ。わが軍が必ず勝つ」
完勝の自信は揺るがないが、張珪は疑問をいだかずにいられない。
「しかし何がああまで彼らを戦わせるのだ。武器をすてて投降すれば生命は助かる。水だっていやになるほど飲めるものを。」
張珪は文天祥を見やった。文天祥は張珪と並んで船楼上に立ち、冷霧と寒風のなか、石像のごとく微動だにせず、水上陣の炎上を見すえていた。だが張珪の視線を受けて、顔を動かし、口を開いた。
「公端どのにはおわかりになるまい。」
誇った口調ではなく、沈痛のひびきがこもっている。水上陣から火と煙が噴きあがったとき、文天祥は、宋軍の敗亡を覚悟したのであった。もはや勝機なし。
「公端どのはこれまで常に勝ってこられた。ご自身も、そして元軍全体も。ゆえに当然、戦いは勝つためにおこなうものと思っておいでだ。」
文天祥の言葉は張珪を当惑させた。資質のすぐれた若者であるが、人生の辛酸をなめてはおらず、亡国の悲哀は想像の外にある。
「文丞相、お言葉を返すようですが、戦いは勝つためにおこなうものではございませんか。勝つのが目的でなければ、何のために戦うのです。私にはわかりませぬ。」
一気に言いおえて張珪は口をつぐみ、相手の返答を待った。
「さよう・・・何のために戦うのでしょうな」
文天祥はつぶやく。彼は張世傑や陸秀夫と最後まで連帯できなかった。だが彼らの心情の、すべてとはいわぬまでも一部を共有することはできたように思う。>
何ゆえ宋軍は元軍に対して「無益な抵抗」を続けたのでしょうか。宋王朝がさっさと元に降伏していれば、勝算が全くなかった戦いで多くの人たちが犠牲になる事はなかったのに。「国家のため」「自民族の名誉のため」などという「権力者の美辞麗句」に陶酔して自ら進んで死んでいくとは、当時の宋軍は「だまされたいの、だましてぇ」という趣味の人の集まりだったのでしょうか。
…………と常日頃日本やアメリカの「右翼の軍国主義」を批判しているはずの田中芳樹なら言いそうなんだけどな~(笑)。
<必死の捜索にもかかわらず、帝ヘイおよび陸秀夫の遺体は発見されない。張世傑に至っては、阻止しようとする張弘世をかるくあしらって戦場を離脱したことが確認されている。張弘範は厳命を下した。
「あの男は生きていれば、かならず再起する。どこまでも逃げるだろう。どこまでも追え。死が確認されるまで怠るな。」
すこし考えてから、命令を追加した。
「投降してきたタク国秀と劉俊にそれをやらせよ」
このあたりは張弘範も冷徹であった。最後の局面に至って投降してきたような者には、それにふさわしい任務を与える。必死になって、つい先刻までの味方を狩り立て、元軍の信用を得ようとするであろう。せいぜい努力するがよい、と、張弘範は思った。命を受けた降将二名は元軍の旗幟のもと、ただちに追跡を開始した。>
「最後の局面に至って投降してきた」という事がそんなに悪い事なのですか? 大義思想に従って宋王朝と運命を共にしろとでも? だいたい兵を率いる将軍というものは、自分だけでなく兵士に対しても責任を持たなければならないのですから、敗色の濃い戦いで降伏することは兵士を助けるためのひとつの手段でしょう。まあ中国では「降伏しても皆殺し」なんて事も結構ありましたけど(笑)。
だいたい田中芳樹は、「国家に殉じる」という考え方それ自体を否定していたんじゃありませんでしたっけ? 創竜伝でも、
<「死者が出るから戦争は悪だ、という考えは幼稚で感傷的なものだ。生命より貴重な正義と国家の威信というものが、この世には存在するのだ」
そういうことを主張する人間が、最前線で戦死した例は、アメリカでもソビエトでも日本でも、けっしてなかった。>(創竜伝4 P185)
などと言っているのにね~。「アメリカでもソビエトでも日本でもなかったが、中国(宋王朝)だけは例外である」というのならば、ぜひその根拠を教えて欲しいものなのですが。
日本における「右翼の軍国主義者」を批判している自分自身が、中国物を書いている時に「右翼の軍国主義者」になってしまっているという矛盾に、田中芳樹は気がつかなかったのでしょうか。
<・・・無限にくりかえされるかと見える対外軍事行動の数々。フビライ汗は、「しょせん自分たちは軍事力以外に誇るべきものは何もない」と思い込んでいたのであろうか。これによって失われた人的資源と財力の膨大さを思えば、元は元によって亡びたといわざるを得ない。軍事力の優越によってのみ、諸国の民を支配していた元は、その優越が失われたとき、すべての占領地から追い出されることになる。フビライ汗によって建設された大都をも防衛することができず、本来の故郷であった北方の草原へと追われ、以後、大モンゴル帝国が復活することはない。諸国の民もまた、そのようなことを望みはしない。>
これを下のように文章改編してみました↓
<・・・無限にくりかえされるかと見える対外軍事威嚇行動と民族弾圧の数々。毛沢東は、「しょせん自分たちは軍事力以外に誇るべきものは何もない」と思い込んでいたのであろうか。文化大革命によって失われた人的資源と財力の膨大さを思えば、中国は中国によって亡びるであろうといわざるを得ない。軍事力の優越によってのみ、国内55民族の民を支配している漢民族は、その優越が失われたとき、すべての占領地から追い出されることになるに違いない。人民解放軍の侵略によって得られた領土をも維持することができず、国内の様々な矛盾によって国家自体が四分五裂の状態となり、以後、大中華帝国が復活することはないだろう。華僑を除く世界中の諸国の民もまた、中国が絶対的な影響力を持つことなど望みはしない。>
<民族の誇りをかけた抵抗も、ついに力尽きるときが来た。西暦一二七九年二月、崖山(香港の西方百キロの海岸)に宋軍最後の船団は追いつめられ、周囲は数十万をかぞえる元の水軍に包囲された。二月六日、元軍の総攻撃がはじまる。
(中略)
闘将張世傑はなお屈せず、元軍の重囲を突破して脱出した。生命ある限り元軍と戦い続けるつもりであり、それを知る元軍は必死に彼を追跡した。結局張世傑は大暴風雨に巻き込まれ、乗船ごと海に沈んだ。
「舟覆世傑逐溺宋滅(舟覆えり、世傑遂に溺る。宋滅びたり)」
と史書は記す。わずか八文字のうちに無限の悲愁がこめられており、漢字の表現力におどろかされる。
捕虜となった文天祥は、獄中にあること四年、フビライ汗の臣従の誘いを拒絶しつづけ、ついに処刑された。フビライ汗は結局、三傑の一人として、手にいれることができなかった。そして崖山の名は漢民族の記憶に深くきざみこまれ、やがて元の滅亡の日を迎えるのである。>
「舟覆世傑逐溺宋滅(舟覆えり、世傑遂に溺る。宋滅びたり)」
田中芳樹ほどに中国に対する愛着がない私は、この「わずか八文字」の漢字からは、残念ながら「無限の悲愁」を感じる事などできませんね。ただ単に歴史的事実を伝えているだけでしょう。それに漢文が分からない一般人に対して「漢字の表現力におどろかされる」と言われてもねえ……。
だいたい銀英伝などの田中芳樹作品の論調は「国家の興亡など大した事はない」だの「善政を行わない国家は滅んで当然である」というのが主流だったではありませんか。たかが宋王朝ひとつが滅んだくらいでそこまで悲しむ事もあるまいに。田中芳樹風に言えば「宋王朝自体、中国歴代王朝の灰燼のなかにきずきあげられたもので、灰から生まれたものが灰に環る」だけの事ではないですか。自分がかつて主張した「名言」はどこに行ったのでしょうか(笑)。
それに宋王朝が滅亡したのが1279年、元が滅ぼされ明が建国されたのが1363年ですから、「やがて」というのはずいぶん長い年月ですな~(笑)。漢民族の民族主義と愛国主義の前には84年の年月も一瞬でしかない、というところでしょうか。
<ところで、当時の日本は平氏政権の頃から南宋贔屓で、鎌倉幕府の執権北条時宗は元寇撃退の後モンゴル人と高麗人の捕虜は処刑しましたが、南宋人の捕虜には衣食を与えて送還したそうです。で、田中氏はこの時宗の措置をえらく賞賛してるんですよ(^^;)。
無理矢理従軍させられたのは高麗の人も同じだと思うけどなー(^^;;)。
やっぱりとことん朝鮮には冷たいんだな、この人(^^;;;)。>
中華思想に基づいて朝鮮を「中国の属国」としか見ていないんじゃないですか?(笑) 何しろ「朝鮮」という名前自体、高麗を滅ぼした李成桂が明王朝に頼んでつけてもらった名前なんですから。何でも「朝鮮」か「和寧」という名前のどちらかにするかを選択してもらったのだとか。
それにしても本来の田中芳樹ならば「南宋人だけを差別してけしからん」とでも言いそうなんだけどな~。
常日頃日本に対してあれほどまでに舌鋒鋭く「右翼の軍国主義」とやらを批判しておきながら、中国に対しては「右翼の軍国主義」そのものの価値観で物事を見るようでは、やはりダブルスタンダードのそしりは免れないでしょうな。田中芳樹は自分の評論が自分自身に返ってくるかもしれないと、少しでも考えた事があるのでしょうか。
>>このあたりは張弘範も冷徹であった。最後の局面に至って投降してきたような者には、それにふさわしい任務を与える。必死になって、つい先刻までの味方を狩り立て、元軍の信用を得ようとするであろう。せいぜい努力するがよい、と、張弘範は思った。命を受けた降将二名は元軍の旗幟のもと、ただちに追跡を開始した。>
(中略)
> 「最後の局面に至って投降してきた」という事がそんなに悪い事なのですか?
>日本における「右翼の軍国主義者」を批判している自分自身が、中国物を書いている時に「右翼の軍国主義者」になってしまっているという矛盾に、田中芳樹は気がつかなかったのでしょうか。
ここは、あくまでも張弘範の考えであって、田中芳樹の思想とリンクさせるのはあまりに無茶でしょう。田中芳樹の小説の中の社会評論部分は評論として批判されてしかるべきですが、だからこそ小説部分は小説として読まなければならないと思います。
>それに漢文が分からない一般人に対して「漢字の表現力におどろかされる」と言われてもねえ……。
>それに宋王朝が滅亡したのが1279年、元が滅ぼされ明が建国されたのが1363年ですから、「やがて」というのはずいぶん長い年月ですな~(笑)。
このあたりも同上の理由で、許容されるべきだと思います。「漢字の表現力におどろかされる」は、私も小説の表現として拙劣だと思いますが、しかし、それはその程度のことでしかないでしょう。
誤解を招かないように言っておきますが、私は小説の思想性を読みとって、それを田中芳樹が散々評論部分で開陳している思想性との齟齬を叩く、という手法自体は良いと思うのです。しかし、その場合は小説は小説として思想性を読みとられるべきであり、評論に対する態度で小説を判断しては、単なるイチャモンにしかならないのではないでしょうか。
言うなれば、小説の中に評論を入れる田中芳樹が外れているのと同様に、小説を評論として批判するのは外れていると思います。
> この国がなぜ「牛種」の支配領域に入っていないのか疑問なんですけど(笑)。
「牛種」の世界制覇はとっくに完成している(笑)
いや笑い事じゃなくて、残虐な侵略行為は西洋人の専売特許じゃないってことですね。日本人も中国人も例外じゃなく。
> 『海嘯』と『中国帝王図』から宋と元に関する記述
思った以上に壮絶ですね(笑)
> 「文丞相、お言葉を返すようですが、戦いは勝つためにおこなうものではございませんか。勝つのが目的でなければ、何のために戦うのです。私にはわかりませぬ。」
一気に言いおえて張珪は口をつぐみ、相手の返答を待った。
「さよう・・・何のために戦うのでしょうな」
文天祥はつぶやく。彼は張世傑や陸秀夫と最後まで連帯できなかった。だが彼らの心情の、すべてとはいわぬまでも一部を共有することはできたように思う。
> 民族の誇りをかけた抵抗も、ついに力尽きるときが来た。
この辺を読んで、こんな言葉を思い出しました(^^;
「学鷲は一応インテリです。そう簡単に勝てるなどと思っていません。」
「しかし、負けたとしても、そのあとはどうなるのです…」
「おわかりでしょう。われわれの生命は講和の条件にも、その後の日本人の運命にもつながっていますよ」
「そう、民族の誇りに…」
なにから引用したかは、あえて書きません(笑)
> 「舟覆世傑逐溺宋滅(舟覆えり、世傑遂に溺る。宋滅びたり)」
なんというか、「連合艦隊」ですか。感じますよ「無限の悲愁」を(^^;;
これは…大好きな中国ものなら「男の子の感覚」で書けると言うことでしょうか(笑)
> 田中芳樹が散々評論部分で開陳している思想性との齟齬を叩く
この部分は「叩く」と言うよりは、大好きな中国ものなら「民族の誇りのために、負けるとわかっていても戦って死ぬ」という物語を書いてしまうのに、政治社会を語る場面では、反射的に否定してしまうという田中氏のありようについて興味を抱くところです。
楽しめる歴史、英雄物語と、現代民主主義、平和主義との相克。この辺、田中氏ばかりを責めるのも酷かも。
田中氏に限って、お気楽に分析するならば、政治社会ではホンカツでも、中国ものならこれまた好きなアニメの化学作用ってことでしょうか。いやアニメってアンチ戦後民主・平和主義なとこがあるので。
<ここは、あくまでも張弘範の考えであって、田中芳樹の思想とリンクさせるのはあまりに無茶でしょう。田中芳樹の小説の中の社会評論部分は評論として批判されてしかるべきですが、だからこそ小説部分は小説として読まなければならないと思います。>
別に私は「張弘範の考え」と「田中芳樹の思想」が同じであると言っているわけではないんですけどね。今までの作品であれだけ「愛国心」というものを否定しておきながら、なぜ中国物に関してはここまで肯定的かつ礼賛的な記述をするのか、と書いたつもりだったのですが。小説上必要だ、という事は分かるのですが、他の作品でああまで「愛国心否定論」を展開している以上、もうすこし今までのファンを配慮した記述をしても良いのではないでしょうか。
あの描写は、今までのファンを「俺の中国物が分からない奴はどうでもいい」と言って切り捨てているようにしか見えません。それでは今までのファンはついてこれないでしょう。作風を変えるなら変えるで、今までのファンに対してそれなりの説明をすべきであると思うのですがね。
<このあたりも同上の理由で、許容されるべきだと思います。「漢字の表現力におどろかされる」は、私も小説の表現として拙劣だと思いますが、しかし、それはその程度のことでしかないでしょう。>
私は評論として論外なだけでなく、小説の表現としても拙劣だからこそ、余計に問題であると思うのですけどね。田中芳樹の中国物を読んでみると、どうも小説中のキャラクター以上にナレーションの方が異常に興奮しているようにしか見えないのですが。
この手の小説を書くとき、話の進行役であるナレーションこそが一番冷静でなければならないのではないでしょうか。たとえばヤン・ウェンリーが死んだ時、キャラクターや読者は大いに悲しんだ事でしょうが、ナレーションは冷静にヤンの死を描写し、さらにはヤンを「後世の歴史家」というものを用いて冷静に評価していました。だからこそ、却ってヤンの死がうまく悲劇的に描かれているのではないでしょうか。
はっきり言って、「漢字の表現力におどろかされる」のように、読者が反応するより先にナレーションがああまで感情的になってしまっているのでは、却って読者が冷静になってしまい、小説の悲劇性が削がれてしまうように思うのですが。新規のファンを獲得するにしても、これではダメですね。
<誤解を招かないように言っておきますが、私は小説の思想性を読みとって、それを田中芳樹が散々評論部分で開陳している思想性との齟齬を叩く、という手法自体は良いと思うのです。しかし、その場合は小説は小説として思想性を読みとられるべきであり、評論に対する態度で小説を判断しては、単なるイチャモンにしかならないのではないでしょうか。
言うなれば、小説の中に評論を入れる田中芳樹が外れているのと同様に、小説を評論として批判するのは外れていると思います。>
私は、歴史小説は現実世界にあった歴史上の出来事を描いたものであり、しかも田中芳樹の中国物の場合「キャラクターではなくナレーションが明らかに『後世の歴史家』という視点から現実の歴史を評論している」というところがある以上、「フィクションだから」という言い訳は通用しないだろうと考えた上で「田中芳樹のダブルスタンダードの象徴として」中国小説を見ているのですけどね。特に秦檜評価論など、どう考えてもキャラクターではなく田中芳樹自身が秦檜を評価しているとしか思えないところがありましたし↓
紅塵 P199~P200
<平和ほど庶民にとってありがたいものはない。だが庶民にとっても、岳飛の死は傷ましかった。岳飛は不敗の名将であり、軍律は厳しく、たとえば張俊や劉光世の軍のように自国民から掠奪することを厳禁した。それだけでも岳飛は賞賛されるべきであった。庶民は声をひそめて、岳飛の武勲をほめたたえ、一方で権勢をほしいままにする秦檜をののしった。
「両国の和解は私が成立させた。この平和と繁栄は私の功績だ」
秦檜はそう自負していたが、彼に対して感謝する庶民は、おそらくひとりもいなかったであろう。庶民が感謝した相手は岳飛だった。岳飛が侵略者に対して善戦し、ついには無実の罪を負って死んだからこそ、和平がなったのだ。
(中略)
一方で、秦檜を弁護して、つぎのような主張をすることも可能である。
「秦檜の政策によって、南宋は平和と繁栄を手にいれることができた。その功績に比べれば、無実の人間に汚名を着せて殺すぐらい、ささいなことではないか。無知な民衆に憎まれる秦檜こそ被害者というべきだ」
ただし、この論法は、秦檜自身でさえ公言したことがない。詭弁にも限界があるということであろう。>
特に最後の部分はどう考えても小説ではなく評論ですし、自分の一方的な価値観の押しつけであるとしか思えないのですが。キャラクターが悪役を悪し様に言っている「だけ」であるならば、私も小説として割り切れるのですがね~(--;;)。
それにこれらの中国に対する態度が、創竜伝の社会評論に大きな影響を与えている事は創竜伝6・7の社会評論を見ても明白でしょう。中国に対する田中芳樹のダブルスタンダードぶりが中国物の小説からよく分かる、というのが私の一番言いたかった事なのですが。
<「牛種」の世界制覇はとっくに完成している(笑)
いや笑い事じゃなくて、残虐な侵略行為は西洋人の専売特許じゃないってことですね。日本人も中国人も例外じゃなく。>
創竜伝でも、相変わらず中国だけは「欧米列強の侵略に勇敢に抵抗した」といった記述があちこちにあるんですよね。中国共産党の大虐殺や侵略戦争・民族弾圧をどう説明するのでしょうか。
しかし同じ東洋人でも、なぜか日本人だけは残虐なんですね(笑)。日本はいつから牛種に支配されていたのでしょうか。確か日露戦争で牛種の支配する西欧勢力(ロシア)を撃退したはずなんですけど(笑)。
<この部分は「叩く」と言うよりは、大好きな中国ものなら「民族の誇りのために、負けるとわかっていても戦って死ぬ」という物語を書いてしまうのに、政治社会を語る場面では、反射的に否定してしまうという田中氏のありようについて興味を抱くところです。>
<田中氏に限って、お気楽に分析するならば、政治社会ではホンカツでも、中国ものならこれまた好きなアニメの化学作用ってことでしょうか。いやアニメってアンチ戦後民主・平和主義なとこがあるので。>
田中芳樹の中国物を読んでいて思うのですが、あれらは舞台設定自体が暗すぎるんですよ。
「風よ、万里を翔けよ」―→隋の滅亡期を隋側の視点から見たもの
「紅塵」――――――――→南宋の和平を岳飛寄りの視点から見たもの
「海嘯」――――――――→南宋滅亡を南宋側の視点から見たもの
というように、「常に悲劇の側から礼賛的・同情的に見たもの」が中心であって、アルスラーン戦記や創竜伝のように「敵を次々となぎ倒す」という「痛快さ」が全くないのです。最初から「負ける」と分かっている側を描いても、田中芳樹作品の中心的な読者層である中高生にとってはあまり楽しくありませんわな(^^;;)。ましてやナレーション自身がああまで自己陶酔的な感情移入をしているというのではね~。
田中芳樹の中国物が一般受けしない理由って、こういう所にもあるのではないでしょうか。
>この手の小説を書くとき、話の進行役であるナレーションこそが一番冷静でなければならないのではないでしょうか。たとえばヤン・ウェンリーが死んだ時、キャラクターや読者は大いに悲しんだ事でしょうが、ナレーションは冷静にヤンの死を描写し、さらにはヤンを「後世の歴史家」というものを用いて冷静に評価していました。だからこそ、却ってヤンの死がうまく悲劇的に描かれているのではないでしょうか。
どうも、私のパソコンは過去ログを開けないようなので、過去ログ全部は読んでないので、過去にこの記事に触れられていたら余計な事ですが、ちょっと思い出したので。
「アサヒ芸能」の1988年2月4日号の
「著者インタビュー 田中芳樹」から抜粋です。
ラストシーンの構想が出来あがらないと筆をスタートできない性格もあり、書き始めの時点ですでに10巻分の構成が決定していたという。
「ですから、何を書くかというより、何を書かないかのほうが苦労しましたね。登場人物が死ぬシーンでも、ついつい感情移入がすぎて何枚も書いてしまったり。ヤン・ウェンリー(同盟軍元帥)の場合は特にそうで、撃たれてから死ぬまでを3枚に短縮して、それを6回書きなおしました」
> > 「文丞相、お言葉を返すようですが、戦いは勝つためにおこなうものではございませんか。勝つのが目的でなければ、何のために戦うのです。私にはわかりませぬ。」
> 一気に言いおえて張珪は口をつぐみ、相手の返答を待った。
> 「さよう・・・何のために戦うのでしょうな」
> 文天祥はつぶやく。彼は張世傑や陸秀夫と最後まで連帯できなかった。だが彼らの心情の、すべてとはいわぬまでも一部を共有することはできたように思う。
> > 民族の誇りをかけた抵抗も、ついに力尽きるときが来た。
>
> この辺を読んで、こんな言葉を思い出しました(^^;
>
> 「学鷲は一応インテリです。そう簡単に勝てるなどと思っていません。」
> 「しかし、負けたとしても、そのあとはどうなるのです…」
> 「おわかりでしょう。われわれの生命は講和の条件にも、その後の日本人の運命にもつながっていますよ」
> 「そう、民族の誇りに…」
>
> なにから引用したかは、あえて書きません(笑)
ここに書くのは久しぶりですね。
まあ、「学鷲云々」が小林よしのりの「戦争論」から引用したことは一目瞭然ですが、この比較に何の意味があるんでしょか。田中芳樹についてあれこれ言われているのは、「国の為に死ぬのは馬鹿馬鹿しい」と創竜伝で主張しているのに、中国歴史モノだと「国のために死ぬのは美しい」になってしまう「ダブルスタンダード」がおかしいのでは?という点でしょう。小林よしのりは「国のために死ぬのは馬鹿馬鹿しい」とは主張していないんですから、ダブスタでも何でもありません。「国のために死ぬのは美しい」、「国のために死ぬのは馬鹿馬鹿しい」。どっちの思想を支持しようとそれは個人の好き勝手ですけど、田中芳樹のダブスタを論じている時に、小林よしのりを引き合いに出す必要はないと思いますけど。
> まあ、「学鷲云々」が小林よしのりの「戦争論」から引用したことは一目瞭然ですが、この比較に何の意味があるんでしょか。田中芳樹についてあれこれ言われているのは、「国の為に死ぬのは馬鹿馬鹿しい」と創竜伝で主張しているのに、中国歴史モノだと「国のために死ぬのは美しい」になってしまう「ダブルスタンダード」がおかしいのでは?という点でしょう。小林よしのりは「国のために死ぬのは馬鹿馬鹿しい」とは主張していないんですから、ダブスタでも何でもありません。「国のために死ぬのは美しい」、「国のために死ぬのは馬鹿馬鹿しい」。どっちの思想を支持しようとそれは個人の好き勝手ですけど、田中芳樹のダブスタを論じている時に、小林よしのりを引き合いに出す必要はないと思いますけど。
なんだか誤解されてしまったようですが(^^;
ここで「戦争論」を持ちだしたのは、もちろん田中芳樹のダブルスタンダードを強調したかったのですよ。このサイトでもたびたび比較された小林よしのりと、真っ向から対立する「創竜伝」の作者が、なぜだか中国ものにかぎってはおんなじ「物語」を肯定しているということに。
ですから、ここで比較に出すことは大いに意味がありますよね。
ところで最近、小林氏は自分の作品を「フィクション」と言われて怒ってますね。一方で「これはフィクションです」といって評論かます田中氏と、どっちを支持するかは言わずもがな、です。
>別に私は「張弘範の考え」と「田中芳樹の思想」が同じであると言っているわけではないんですけどね。
であるならば、
<必死の捜索にもかかわらず、帝ヘイおよび陸秀夫の遺体は発見されない。張世傑に至っては、阻止しようとする張弘世をかるくあしらって戦場を離脱したことが確認されている。張弘範は厳命を下した。
「あの男は生きていれば、かならず再起する。どこまでも逃げるだろう。どこまでも追え。死が確認されるまで怠るな。」
すこし考えてから、命令を追加した。
「投降してきたタク国秀と劉俊にそれをやらせよ」
このあたりは張弘範も冷徹であった。最後の局面に至って投降してきたような者には、それにふさわしい任務を与える。必死になって、つい先刻までの味方を狩り立て、元軍の信用を得ようとするであろう。せいぜい努力するがよい、と、張弘範は思った。命を受けた降将二名は元軍の旗幟のもと、ただちに追跡を開始した。>
から、
<「最後の局面に至って投降してきた」という事がそんなに悪い事なのですか? 大義思想に従って宋王朝と運命を共にしろとでも?>
という批判を導き出すのは筋違いでしょう。
>今までの作品であれだけ「愛国心」というものを否定しておきながら、なぜ中国物に関してはここまで肯定的かつ礼賛的な記述をするのか、
という意図は分かります。私も、前に述べた通り、大枠で小説の思想性を問うことには賛成なのです。しかし、このような個々の方法が強引すぎて、目的を果たしていないと思います。
>この手の小説を書くとき、話の進行役であるナレーションこそが一番冷静でなければならないのではないでしょうか
はじめに言っておくと、論じる価値あると思います。しかしながら、このような技術論は、あくまで小説論の枠内に収まる程度のものであり、小説の枠を超えてしまっている現代物の批評と区別するべきだと私は思います。
拙劣と反則は分けて論じられなければならないでしょう。
>私は、歴史小説は現実世界にあった歴史上の出来事を描いたものであり、しかも田中芳樹の中国物の場合「キャラクターではなくナレーションが明らかに『後世の歴史家』という視点から現実の歴史を評論している」というところがある以上、「フィクションだから」という言い訳は通用しないだろうと考えた上
これは歴史小説というジャンル全体の解釈の問題になってしまうのですが、私は許容される範囲であると思います。私が現代小説との違いとするのは一点、「フィクションかフィクションでないか」に尽きます。つまり、歴史小説はフィクションとして無責任の逃げを打つことが出来ない。田中作品に限らず司馬作品であろうが吉川作品であろうが、すべての歴史小説は、ドキュメンタリーではなく「小説」であるという属性の必然からある程度フィクションの要素を帯びます。しかし、それでも世界観の解釈や人物の評価には文責が付いて回るのです。
たとえば、創竜伝のヴラド計画は、明白な日本人論(しかも歪みまくっている)であるにも関わらず、「アレは物語中の悪の組織の論理だから」と逃げを打てます。一方、紅塵の秦檜論にはそのような無責任は不可能です。また、創竜伝の評論のように全く物語に関係なく挿入されているのではなく、物語の補強に使われてもいます。
責任の所在があり、物語の必然とリンクしている以上、私は問うに値しないと思います(繰り返しますが、小説の評価とは別です。念為)。
heinkelさんは書きました
> > 「舟覆世傑逐溺宋滅(舟覆えり、世傑遂に溺る。宋滅びたり)」
>
> なんというか、「連合艦隊」ですか。感じますよ「無限の悲愁」を(^^;;
> これは…大好きな中国ものなら「男の子の感覚」で書けると言うことでしょうか(笑)
>
えー、個人的には『連合艦隊』とか、TV版『新選組血風録』とか、デラーズフリートとか(笑)、この種の「滅びの美学」モノってやつは結構好きなので、張世傑の奮戦・文天祥の節義、いずれも手放しで礼賛したいんですが(^^;)。
事実、昔は日本でも彼等は岳飛と並んで賞賛の対象だった訳ですしね。
あ、私もあの八文字には“無限の悲愁”を感じますよ。
ただ、田中氏は銀英伝その他の著作に於いては明らかにこの種の価値観を否定・嘲笑していたはずであり、彼自身の過去の主張に即するならばこんな風にならないとおかしいハズ。
↓
“朝廷だの国家だの民族の誇りだのという空疎な概念に無限の価値を置き、歴史の歯車を逆戻りさせようとした彼らの自己満足の為にどれだけの血が流されたことか。
彼ら自身が自分達の美学と陶酔の為に死んでいくのは勝手だが、そんな大人の意地と都合の為に、八歳の少年を既に滅びた国の皇帝などという無意味な地位に祭り上げ、挙げ句の果てに海に沈める権利が誰にあるというのだろうか。
始(ヤンでも可)は疑問を感じざるを得ない。”
・・・。
チャンチャン。
既に1276年に時の皇帝恭宗が杭州臨安府を降伏開城し、公式にはこの時点で南宋は滅亡しました。
しかし、張世傑・陸秀夫らはそれを潔しとせず、南方に奔って恭宗の異母兄の少年を皇帝に擁立して抵抗を続けたのです。
要するにこの「海上朝廷」は「大宋帝国正統政府」な訳なんですね(爆)。
慣れない船上生活と南方の気候の為少年皇帝の端宗は間もなく病死し、その後擁立されたのが弟の衛王で、崖山の敗戦に際し、陸秀夫に背負われて入水しました。
日本でいえば安徳天皇みたいな人ですね。
なお、再来年の大河ドラマ『北条時宗』では海外ロケも行うそうなので、この崖山の戦いが映像化される可能性も・・・無いか、やっぱり(^^;)。
<>別に私は「張弘範の考え」と「田中芳樹の思想」が同じであると言っているわけではないんですけどね。
であるならば、
≪必死の捜索にもかかわらず、帝ヘイおよび陸秀夫の遺体は発見されない。張世傑に至っては、阻止しようとする張弘世をかるくあしらって戦場を離脱したことが確認されている。張弘範は厳命を下した。
「あの男は生きていれば、かならず再起する。どこまでも逃げるだろう。どこまでも追え。死が確認されるまで怠るな。」
すこし考えてから、命令を追加した。
「投降してきたタク国秀と劉俊にそれをやらせよ」
このあたりは張弘範も冷徹であった。最後の局面に至って投降してきたような者には、それにふさわしい任務を与える。必死になって、つい先刻までの味方を狩り立て、元軍の信用を得ようとするであろう。せいぜい努力するがよい、と、張弘範は思った。命を受けた降将二名は元軍の旗幟のもと、ただちに追跡を開始した。≫
から、
≪「最後の局面に至って投降してきた」という事がそんなに悪い事なのですか? 大義思想に従って宋王朝と運命を共にしろとでも?≫
という批判を導き出すのは筋違いでしょう。>
これもどちらかと言えば「小説の表現力」の問題なのですけどね。田中芳樹の過去の執筆方法からすれば、もうすこし過去の自分の言動と整合性のとれる描写ができるはずなのに、それを全くしないというのは明らかにおかしいのではないでしょうか。例えば紅塵にはこんな記述があります↓
紅塵 P121~122
<靖康元年(西暦一一二六年)の三月、金軍の元帥宋翰は人質となっていた徽宗上皇と欽宗皇帝を呼び出し、袞龍の袍をぬぐよう命じた。袞龍の袍とは天子の服である。もはや宋王朝はここに滅んだ、汝らの帝位も奪われることとなった、別の服に着がえよ、というのである。上皇と皇帝は蒼白になって立ちすくんだ。
このとき工部侍郎の官にあった李若水が上皇たちに随従していたが、欽宗にとりすがって声をはげました。
「なりませぬ、陛下、金賊の無道に屈してはなりませぬぞ」
李若水は金兵たちをにらんで叫んだ。
「醜虜、何ぞ天理を恐れざるや!」
中華帝国の天子は至尊の御身である。お前たちのような野蛮人が手にかけてよいものか。拝跪して罪を謝せ、天罰がこわくないのか。
「殺せ!」
宋翰の怒号とともに、金兵数十人が利若水にむけて殺到した。前後左右から乱刃をあび、鮮血にまみれて倒れながら、なお李若水は金兵たちの無道をののしり、徽宗と欽宗の名を呼びながら息たえた。
自分が殺害を命じたのだが、利若水の忠烈は宋翰を感動させた。
「北朝が滅びたとき、国難に殉じた忠臣は何百人もおった。だが南朝のときには、李侍郎ただひとりか!」
この場合、北朝とは遼、南朝とは宋のことである。後世から見れば利若水の行為は無益なものにしか見えないであろうが、中華帝国において官僚は同時に儒教の徒なのであり、李若水は「臣下は主君の名誉を守る」という儒教的正義のために命を捨てたのである。>
これの場合、「後世から見れば利若水の行為は無益なものにしか見えないであろうが」ときちんとフォローが入っていますし、さらに「中華帝国において官僚は同時に儒教の徒なのであり、李若水は「臣下は主君の名誉を守る」という儒教的正義のために命を捨てたのである」と、儒教思想における考え方が説明されています。このような描写なら無制限の礼賛でないと納得しますが、立ち読みで調べてみた限り「海嘯」にこんな記述は全くありません。これでは「キャラクターの悪意に満ちた行為を無制限に肯定している」と解釈されても仕方がないのではないでしょうか。
<これは歴史小説というジャンル全体の解釈の問題になってしまうのですが、私は許容される範囲であると思います。私が現代小説との違いとするのは一点、「フィクションかフィクションでないか」に尽きます。つまり、歴史小説はフィクションとして無責任の逃げを打つことが出来ない。田中作品に限らず司馬作品であろうが吉川作品であろうが、すべての歴史小説は、ドキュメンタリーではなく「小説」であるという属性の必然からある程度フィクションの要素を帯びます。しかし、それでも世界観の解釈や人物の評価には文責が付いて回るのです。
たとえば、創竜伝のヴラド計画は、明白な日本人論(しかも歪みまくっている)であるにも関わらず、「アレは物語中の悪の組織の論理だから」と逃げを打てます。一方、紅塵の秦檜論にはそのような無責任は不可能です。また、創竜伝の評論のように全く物語に関係なく挿入されているのではなく、物語の補強に使われてもいます。
責任の所在があり、物語の必然とリンクしている以上、私は問うに値しないと思います(繰り返しますが、小説の評価とは別です。念為)。>
私の場合、「フィクションだから」と言って逃げをうつ田中芳樹の姿勢もさることながら、評論を論じる際の「検証を怠る姿勢」「自分の一方的価値観を絶対のものであるとひけらかす姿勢」もまた、同程度に非難に値すると思うのですけどね。だからこそ、「フィクションだから」と逃げをうてない「歴史小説の評論部分」を「評論として」論じる事にはそれなりの意味があると考えています。特に秦檜評価論と創竜伝の社会評論には「一方的価値観の押しつけ」という共通点もありますのでね。
それに私が引用した紅塵の秦檜評価論のどこが「歴史小説の枠内における評論」なのですか? あの最後の部分はどう考えても「現実世界の秦檜擁護派」に対する罵倒ですし、明らかに「歴史小説としての評論」の枠を超えていると思うのですが。他人の歴史評価を「詭弁」とまで決めつけるのならば相当な根拠を提示すべきでしょうし、だからこそ私は「田中芳樹の秦檜評価論は不当評価である」ということを「田中芳樹が故意に隠蔽しているであろう当事の実状」を挙げて証明してみせたのですけどね。
秦檜評価論と同じようなものに、「風よ、万里を翔けよ」における煬帝に関する評価があります。秦檜評価論と比較してみましょうか。
風よ、万里を翔けよ P237上段~P238上段
<煬帝は浪費の生涯を終えた。彼は亡父である文帝の遺産を浪費した。国庫に蓄えられた巨億の富を浪費したにとどまらず、政治的遺産である隋の国家それ自体をも浪費してしまい、さらにあいつぐ巨大な土木事業によって人民の労力を浪費した。かさなる外征によって将兵の生命を浪費した。凡人より遥かに巨大であったはずの才能を浪費し、ついには彼自身の生命をも浪費するに至った。彼は高貴なる玉座に巨体を据えたまま天下を覆えした。彼は怒りと憎悪にまかせて裁判なしで数万人を刑殺し、悲哀と感傷にまかせて宇文述の息子たちを刑から救った。感情までも浪費して律令を破ったのである。
(中略)
煬帝の父である文帝の治世に、中華帝国の人口は四千六百万人であった。唐が天下を再統一し、太宗李世民が即位したときに、それは千五百万人となっていた。戸籍調査が不完全であったという事情もあろうが、短期間に人口が激減したことは確かだ。隋末当初の大乱がいかに中華帝国の安定を害したかよくわかる。
「すべてが煬帝ひとりの責任か」
という論法で煬帝を弁護することも可能であろうが、この時代に生きた人で煬帝が最大の責任者であることは疑いない。>
まあ上記のような「評論」であるならば、まだ「歴史小説における評論」として割り切ることができますよ。すくなくとも反論相手の主張を「詭弁である」と決めつけてはいませんし、主張自体にもそれなりの説得力がありますから。これと秦檜評価論とでは「歴史を語る姿勢」と「内容の説得力」に雲泥の差があります。
「歴史小説で歴史を語る」というのならば、もうすこし「謙虚な姿勢」と「万人を納得させる説得力」が必要なのではないでしょうか。田中芳樹が本当に中国の文物を広めようと思うのならば、これは絶対条件だと思うのですけどね~。
>それに私が引用した紅塵の秦檜評価論のどこが「歴史小説の枠内における評論」なのですか? あの最後の部分はどう考えても「現実世界の秦檜擁護派」に対する罵倒です
『「フィクションだから」という言い訳は通用しない』と冒険風ライダーさんが書いているのに、私が「フィクションかフィクションでないか」と話を振ってしまったために、論点が浮いてしまったようです。この点については申し訳なく思います。
しかし、歴史小説なのですから、この場合の「現実世界の秦檜擁護派」は、同時に「(世評という見えない)作品世界の秦檜擁護派」でもあるでしょう。私が指摘したかった部分はここで、歴史小説への評論の導入を、創竜伝のそれと同一に測るべきではない、というのが私の本旨です(それが拙劣と反則の違いです)。そのうえで、
>評論を論じる際の「検証を怠る姿勢」「自分の一方的価値観を絶対のものであるとひけらかす姿勢」もまた、同程度に非難に値すると思うのですけどね。
には異論ありません。ただ、No.289に対する反論として秦檜擁護論の件の部分を持ってくるのは議論が浮いた原因の一つであるような気もするのですが(^^;)。
>「歴史小説で歴史を語る」というのならば、もうすこし「謙虚な姿勢」と「万人を納得させる説得力」が必要なのではないでしょうか。田中芳樹が本当に中国の文物を広めようと思うのならば、これは絶対条件だと思うのですけどね~。
はその通りだと思います。あまりに拙劣に過ぎますね。
初めて書き込ませて頂きます。
自分は田中芳樹氏の作品はアニメの銀英伝で初めて知り、それ以来多くの氏の著書を読んでいるのでファンといえばファンですが、この掲示板の過去ログを丸一日半かけて全て読んで、うなずく所が多々ありました。というのも、田中作品には確かに首を傾げたくなる個所が結構あったと自分でも記憶していたからです。例えば『紅塵』ですが、
ノン・ノベル版P174より
「『秦檜の政策によって、南宋は平和と繁栄を手にいれることができた。その功績に比べれば、無実の人間に汚名を着せて殺すぐらい、ささいなことではないか(中略)。』
ただし、この論法は、秦檜自身でさえ公言したことがない。詭弁にも限界があるということであろう。」
という所ですが、そんな事公言したら秦檜は破滅してしまうのではないでしょうか。秦檜が「国のためだった」と主張しても、南宋の朝廷は法治国家として秦檜を処断せざるを得ず、良くて官を剥奪されて流刑、下手をすれば処刑されてしまったのでは? 秦檜が上の様な事を公言しなかったのは、詭弁として限界だったからではなく、単に公言したら自分の立場が危うくなるからでしょう。加えて、『マヴァール年代記1』(角川文庫)のP175には、暴君であった父親ボグダーン二世を暗殺したカルマーンの心理描写があります。
「『おれは国と民とのために、実の父親を手にかけたのだ。国と民とのためだ』
そう大声で叫んでやりたい。
だが、ひとたび口外したとき、父親殺しの罪は絶対悪となって、彼自身を喰い殺すであろう。わざわざ敵の陣営を、ルセト皇子を擁する一党を、有利にしてやるようなものだ。」
はて、ここではそう書いているのに、なぜ『紅塵』では「詭弁にも限界」なんて書いているのしょうか?
また、紅塵P159では、
「(前略)岳飛は和平に対して徹底的に反対をつづけていた。彼は原則論者であったから和平に反対したのだが、鋭敏な感覚で、秦檜が推進する和平案にいかがわしさを感じてもいたのだ(後略)。」
と書いています。ですが、『銀河英雄伝説外伝2』(トクマノベルズ)P101では、
「(前略)で、ヤン提督はさらに言う。
『戦略には、勘なんかの働く余地はない。思考と計算と、それを現実化させる作業とがあるだけだ(後略)。』」
と書いてあります。すると、「鋭敏な感覚」(=勘と自分では解釈している)を根拠のとして和平という戦略に反対した岳飛は、ヤンにしてみれば愚劣な軍人という事になってしまうのでは?
いろいろと書いてしまいましたが、現在でも田中氏は好きな作家の一人である事には変わりありません。なればこそ、これからもこのHP上での皆さんの議論を期待させていただきます。
私たけじゃなかったんですね。「紅塵」を読んだ時に先に「逆説の日本史6」をよんでたせいか作者の岳飛観にいまいち共鳴できなくて。井沢さんの指摘のほうがただしいと思います。同書の中では僅かなものですが。もとより井沢氏はそのつもりで書いたんじゃないけど。紅塵への雄弁な反論になるとおもいます。
前回言い足りなかった事の少し補足。困るのは田中さんの作品を読んで最大の疑問は「南宋に金を叩き潰すだけの力があったか」ということです。いくら岳飛が強いといってもそれは戦術の勝ちであって金の屋台骨を揺るがすという勝利でない限りいくら勝っても不毛なだけです。それだったらさっさと和平に応じたほうが損失が少なくて済むのではないでしょうか。紅塵ではこの疑問に答えてくれる個所は一つもありませんでした。